太陽の仏法 3

    創価学会には昔々、「折伏教典」というカルト的テキストがありました。今はもちろん絶版になっておりますが、グリーンの布を被せた表装の希少な書物は、草創期の会員の方々は必ずお世話になっており、使いやすさを主眼にしたハンドブックです。入会したら購入しなければならない必読書。
    このテキストは何度も版を重ね出版されました。創価の歴史的教科書というべきものですが、おそらく初級の宗教哲学の内容を含むものとしては希有とまではいかなくても、大衆受けする低俗雑誌級の人気があったと思う。例えば、各論の対話を重視した問答想定は、独善的な強引さを感じさせるものの、一応の理屈で統一されており、十分に活用可能な内容です。宗教的知識に乏しい会員には新鮮だったかもしれません。このような内容で人生を突然に変えていったのですから、信仰とは基本的に、無条件心酔なのですね。またこのような盲信をただ見ていただけの宗門も、はじめから問題意識もなく、低レベルな信仰指導だったと解釈してもよいのかもしれません。教典は任用試験の範囲だったとお聞きしましたが、わたしが見た昭和40年出版の第4版は、池田先生監修で、価値論はすでに本論の最後に置かれ、価値論で強調された反価値としての罰論も、肩身の狭い扱い。わたしの感覚からすると、罰とは信仰者をいじめて人格を冒涜するもの。同じ大衆を相手でも、面白半分のエンターテインメントじゃあるまいし、誰が罰ゲームに加わりたいと思うのでしょうか。

    最近、西日本豪雨を時代錯誤もかまわずに、総罰と表現したブログがありました。以前も読んだことがあるブログでしたが、平均的会員像を知っても参考になるようなものはほとんどありません。総罰という名の妖怪が、鎌倉時代の、災害に対する無防備な社会から非科学的な認識として蘇ったのかと思いました。科学技術の発達で、自然災害に対する見識が変わっていくのは当然のこと。日蓮遺文も、その解釈指標や判断尺度が変化するのも当たり前のことです。
    宗教的行為の最良の認識、ポジティヴな現状肯定こそ宗教の命と考えるのですが、ネガティヴに、しかもパッシヴに、独立的な自我の確立からはるかに遠い災害に対する信仰者の認識は、不幸の予備的温床です。罰論は議論の対象外にしなければならないでしょう。原始的、根本的な人間的行為・信じることによって被る不利益は、信じないことによって被る不利益よりも大きいというのでしょうか。信仰は教義の正邪の証明問題ですが、亡くなられた多くの方々の伴侶や親や子どもに、罰の結果と納得できる証明ができるのでしょうか。750年以上経って、数えきれない災害がありましたが、その一つでも証明できたのでしょうか。
    罰論は日蓮仏法の悪しき側面ですが、牧口先生の価値論では、反価値としてさらに強調されるようになりました。わたしはそれが特に悪いと言っているわけではありません。戦争前の暗い時代を考えると、牧口先生が置かれた立場は、とても限られた不自由なものだったでしょう。負荷で息づまるような時代に、罰論で宗教心が刺激されるなら、切羽詰まった社会のなかで有効だったかもしれません。
    逆に、罰論の反対価値としての現世利益が大きな比重を占めていたことがわかります。その現世利益が池田先生の「仏法は勝負」論に必然的に進化しました。損得勘定は商売人でなくても敏感ですが、アドレナリンが沸騰するような、聖的な感情を含む宗教まで昇華する創価の教義は、会員を夢中にさせる魅力がありました。
    そもそも日蓮の教義が現世的です。現証を何より尊び、過去や未来でなく、現在に妙法の実証を求めました。煩悩即菩提、即身成仏はその典型です。因果は時間的に離れているのが普通ですが、即論は現世的利益を早急に求める信者の願望を理論的に叶えております。一念三千の当然の帰結です。

    折伏教典では、キリスト教を破折する章で、また各論でも、長崎へ原爆が投下されたことをキリスト教を根拠にする説を展開しております。キリスト教繁栄地が犠牲になったという客観的資料があるのでしょうか。地獄のような戦闘が行われ、多くの人が犠牲になった沖縄は、どのような宗教的理由があるのでしょうか。無差別爆撃により一面焦土と化して、10万人の死者という大量虐殺が行われた東京大空襲は、いったいどのような宗教が原因なのでしょうか。
    アメリカは、敬虔なキリスト教のピューリタンが建国し、信教の自由を求めた国民。キリスト教信仰者がキリスト教信者を犠牲に選ぶというのは、特別な理由があったのでしょうか。
    またドイツはプロテスタントの発祥地、イタリアはバチカンがあるカトリックの中心地。キリスト教を代表する国が、欧米のキリスト教国と戦争をして、多くの戦死者とともに国土が焼け野原になったのも、キリスト教が原因なのでしょうか。創価がまだ誕生していなかった明治時代、日露戦争で勝利したのは、天照大神が神社の神札にまだ生き残っていたからですか。
    第二次世界大戦は、国教と化し統制手段として利用された日本神道以外、宗教は関係ありません。既存宗教の平和への無力さは、そこで生活している僧の無責任と無能さを表していますが、日蓮正宗も例外ではありません。僧の卑しさは法の高潔さとは正反対のものです。戦争の結末も、宗教の教義や因果関係になんら関係ありません。キリスト教を外道と蔑む日本仏教の習慣が反映しています。他者の尊厳を訴える普遍的な妙法にふさわしくないですね。他者が信奉する信仰も尊厳の対象なのです。わたしは、独善的な教条主義をカルトと定義しますが、創価の狂信は会員に浸透しているようです。

    また折伏教典では、日本が太平洋戦争に敗北したのは、法華経を用いなかったことを理由にしております。法華経を用いれば勝利したと言わんばかりですが、その論旨は戸田先生の考えを元にしたものと思います。戸田先生の戦争に対しての思想は、妙法的絶対平和主義とはほど遠いものと思いますが、その考えの一端が折伏教典にも垣間見れます。初版ならどんな表現だったのか興味があります。
    「原水爆禁止宣言」も核実験に危機感を持った、時勢の影響のもとでの宣言です。永久的な宣言であるなら、広島・長崎の惨状を知ったときに、たとえ弱小教団であったとしても、宗門の700年の歴史のうえに設立された創価ですので、日蓮の非暴力主義を訴えるべきでしょう。長崎への原爆投下がキリスト教が原因であるという前に、原爆そのものを否定すべきです。このような科学的確定もできない、宗教的な原因を指摘するところに、純粋な戦争反対の思想の欠如があります。

    折伏教典の日本神道の記述で
    『日本の神は氏神が中心である。氏神は氏(部族)の上(長)であって、一族を守るものであり、天照大神は民族全体の長であり、日本全土を守るものである。そのことは、天照大神のみことのりたる神勅に明らかに示されている。
    ところが、今度の戦争で、日本は全国民あげて天照大神を奉じ、西欧哲学を奉ずるアメリカと戦った。その結果は、無残な敗戦だった。天照大神は、日本の氏神の大将なのに、どうして日本を守らなかったのであろうか。
    ひと口に結論を言うと、天照大神は日本にいなかったのである』

    天照大神がいれば戦争に勝利できたと解釈できるニュアンスを含んでいる。
    『すなわち、天照大神は法華の守護神であり、謗法の国には住まないのである。いま、天照大神はじめ諸天善神は、みな法味を味わわないので日本を去りたもうたのである。したがって、神社や神札には神はおいでにならないで、かえって人を不幸にする悪鬼魔神が住むのである。だからこそ、日本は未曽有の大敗戦を経験しなければならなかったのである』
    天照大神も諸天善神も、かつて見た人がいないのに、立派に擬人化されている。神社に住む先住民のような趣きを呈し、本来であれば働きとしての作用と機能であるはずなのに、神社の住民のような人格性を感じさせる。この神は、日本を覆い尽くすほどの巨人かと思えば、神札におさまるほどの文字付き紙の一片でしかない。どっちが本当の姿なのか、どっちも人間が作り上げた虚像です。そして、750年前も、50年前も、現在も、謗法への見解が変化していないこと、とても驚異的です。日本が謗法の国なら、日本以外の、外道の国と弾劾する諸外国は、さらに謗法の国になるのでしょうか。こういう考えが、会則変更の際の「謗法の地」という表現……純粋を求めながら不寛容という大乗思想とは正反対の結論に至るわけですね。極論にはついていけません。
    戦争勝利の第一の要件は、国力と戦備です。さらにリーダーの資質です。そんなこと、平和的女子であるわたしにだって分かるというのに、神や魔神のせいにするなんて、なんて無器量無才気なのでしょうか。宗教家は決して将軍にはなれません。
    折伏教典は、創価にとって消し去りたい過去の一つかもしれません。人権意識が乏しかった時代とはいえ、人権団体を標榜する創価が、尊厳を感じさせない教典を持つことに恥ずかしさがあるでしょう。しかも三代の会長が執筆したと思われるテキストを用いているのですから、否定したくても否定できません。はたして、創価大学図書館に所蔵されているのかしら。どこかには必ず所蔵されているでしょうから、手離さないことをアドバイスしたいですね。時間が経つに従い、資料としての価値が飛躍的に増していくでしょうから。

    コメント欄も閉じ、対話を拒否していると思われるブログの総罰の主張は、政治や特に安倍首相を悪の元凶のように述べておりますが、それにしては論証が雑過ぎて稚拙。龍王だなんて、コミック世界のキャラクターでしょうか。標準的な創価の会員のお粗末なイメージが浮かびます。その与党の一角が、自分が強く支持している公明党であることを忘れているかのようです。総罰というのなら、その責任は自分にもあるということです。そこまで原因を洞察する予知能力のようなものがあるのなら、災害を事前に防御できなかったのでしょうか。妙法に関係すると、不幸の原因にもなるというのでしょうか。不吉な結果を招く反妙法ですね。民主主義国家にあって国の主権者は国民全体です。まるで封建時代に遡ったかのような安易な断定は、創価の宗教教育の貧しさを表わしています。

    ドイツ軍も神に祈り、イタリア軍も神に祈り、イギリスやフランスも同じ神に戦勝と守護を祈りました。同じキリスト教同士で、なぜ憎み合い殺し合うのか。不思議な思いもしますが、「社会と宗教」のなかで池田先生が同じ質問をしております。創価も平和を祈り、会員は誰も信じませんが……このような否定的、抗戦的な宗教教育はとても行き届いている……宗門も平和を祈っているのです。平和を祈っているもの同士が平和的になれないというのは、おかしな話ですね。
    ssty-01.jpg『宗教界の分裂には激しさが付き物であるといわれますが、同じ宗派からの分裂時や、セクトの誕生時には、その相手を打倒するために特に激しい抗争が行われます。セクトが分かれるときは、異常なまでの憎悪を生じ、その対立の激しさは、異教徒の場合以上であることが多いようです。これはなぜなのか――よく近親憎悪という言葉が使われますが、なぜそうした激しい憎悪が生じるのでしょうか』
    (第四部 歴史からの展望「セクト間の分裂と憎悪」)
    ウイルソン教授は、体験したように詳細に語りますが、創価と宗門、会員とアンチの間の互いの憎しみ合い、罵りあいにも通じます。
    『宗教上の分裂は、実際、通例として激しい敵意がその特徴をなしています。ご指摘のように、同一宗派の分裂によって生じた憎しみは、たがいになんら共通姓をもたない二つのまったく異なる宗教同士が感ずるよりも、強烈なものがあります。しかもこれは、対立反目する分派同士が、一、二の特定の項目を除いて、ほとんどすべての点で表面上は合意できたという場合でも、いえることです。そうした特定の相違点は、往々にして極端に些細な事柄に関するものなのです。(中略)
    そうした憎悪が明らかに激しいものとなるのは、分裂が生じたときの当事者たちが、たがいに相手方を自分たちが判断を下す際の重要なレファレンス・グループ(準拠集団)とみなしているためです。(中略)
    これに付け加えなければならないのは、人間の強い前向きの感情は、後ろ向きの感情に変質しやすいという、より一般的な事実です。愛情・温情・友情といった感情は、たんに中立的な感情に変質するよりも、むしろ敵意・憎悪・嫌悪感情へと変質しやすいものです。ある人々に対する自分の感情が中立の域を出ないという場合には、愛や憎悪は、さほど容易には掻き立てられないものです。ところが、愛情の対象であった人々に対しては、突然に背かれると、ただちに正反対の強い感情が生じます。
    一つのセクト内の緊張が、当事者すべての強い関心を集めるようになると、その最終的な帰結として、必ず強度の感情が掻き立てられます。分裂が全面的に回避された場合には、蘇った強い感情が、そして、分裂が生じた場合には、強烈な敵愾心が生じるのです』

    近親憎悪は愛情が深いがゆえに激しい。キリスト教やイスラム教は、仏教からすれば別世界のこと。分裂しようと争いを繰り返そうと、むしろ中立的立場で評価できるという冷静さがありますが、同じ宗派の分裂となると何から何まで憎しみがつのります。創価新報では、未だに、宗門の週刊誌なみのゴシップ記事が掲載されています。会員が検証したくてもできない記事ですが、近親憎悪の怨念がやがて会員に乗り移り、創価自身を滅ぼす呪いになるでしょう。
    戦争の大義と同じ、正義というの名のもとで行われる日顕宗学は、もう分離したらどうなのでしょうか。かつて、反逆者を拝み殺すとして仏壇にご祈念を掲げた見苦しい執念は、憎悪の心に妙法が同調している証拠です。これこそ自分で自分に強制する、自傷のような罰です。自他ともに、生命を傷つける菩薩は、似て非なる菩薩です。


    ◇◇◇


    平成3年12月8日
    第四十九回本部幹部会/創価の栄光城は妙法と共に永遠
    『(正本堂完工式の席上)私は大御本尊に御報告申し上げる心で、内外に向けて、次のように宣言した。
    「まず、この正本堂は八百余万人の人達が心からこれをつくりたい、という念願に燃えて出来上がったものであり、端的にいって、宗教的権威を象徴する殿堂ではなく、民衆のための施設であるという点でございます」
    "宗教的権威"の殿堂にしてはならない――今日を見すえて明言したつもりである。
    (中略)
    「古今東西を問わず、ふつう参拝者は聖職者から祈願を受けて帰るのでありますが、ここ正本堂は、民衆が猊下とともに祈願して帰るのであります。真に民衆のための施設であることは、この一点をもっても、ご理解いただけるのではないかと存じます。
    この点において、正本堂は開放された未来の世界宗教にふさわしい殿堂である、と私は信じるのであります。聖職者から祈念を受けて帰るべきであるとするならば、それより私は、無教会主義のほうがより進歩的であり、かつ正しいと考えるものであります。また宗教そのものは建物や形相的荘厳とは違うものであり、したがって、民衆が仏と一体関係下において、能動者として祈願するものでなければ、殿堂は不要である。無殿堂主義のほうが、私はさらに進歩、そしてまた、より正しいと考えるのであります」と。
    "聖職者中心"なら"無教会""聖職者なし"のほうがましであると――学会の正義の主張は、まったく変わっていない。予言的だとさえ言う人もいる』


    正本堂は宗門が宗教的権威で破壊した。
    在家・信徒の真心もいっしょに破棄した。
    広布への深い献身も見棄てた。
    広布の兆しが見えたとき、最悪の僧が法主の地位に着いたことは、不幸としか表現できないでしょう。法主の地位は個人的なものでなく、歴史的蓄積のインフルエンスの象徴。法主に権威があるなんて、なんという錯覚でしょうか。御本仏の御一生は、権力に抵抗し、権威否定のための人生だったのに、凡庸さだけの法主は、無能力であるがゆえに自らを飾って権威と化し、権威と戦うことなど思いもよらない。権威は真の宗教から最も縁遠いものです。

    『もとより、大聖人の仏法に、聖職者と信徒の差別などない。あらゆる人々が、皆、大御本尊のもとに平等である。もしも、現在の宗門のように民衆の殿堂を私物化し、"差別の殿堂"にしてしまうのならば、それは大聖人の御心に背くことになる。ゆえに私は、この時、正本堂の意義を明快に語っておいた。
    どこまでも「人間のための宗教」である。そして「民衆のための殿堂」である』
    『「一閻浮提広宣流布」に進んでいるのは学会である。ゆえに、学会の「信心」こそが「一閻浮提総与の大御本尊」に深く通じ、大功徳を頂戴してきた。その「信心」あるかぎり、だれ人も大御本尊と私どもの間を"切る"ことなど、できるはずがない。
    電波は宇宙を駆ける。月とも交信できる現代である。いわんや信心の「一念」は「法界に遍し」で全宇宙に通じていく。正本堂は、すぐそこにある。
    ともあれ、ある人が言っていた。大御本尊の光が世界に広がることを妨げる者は、大聖人を破門する者ではないか、と。その報いは必然であろう』
    『わが創価学会、SGIの同志の皆さまこそ、永遠に大御本尊をお守りしゆく「使命の仏使」であられる。その皆さまに、大御本尊の加護は絶対と確信していただきたい。信心とは、道理のうえに立った「確信」であり、その確信が一生成仏の因となる』


    信濃町の大病院の前の創価村に宗教を商売にする職員の方々は、聖職者とは言わないのでしょうか。創価の会則を決定する人々は、聖職者と呼ばないのでしょうか。勤行のご祈念で、全活動家から永遠の仏のように祈られる池田先生は、聖職者ではないのでしょうか。聖職者であれば、人間性が豊かな模範となる人格者でなければならないでしょう。
    リクルートの際、どのように分類されるのか分かりませんが、僧とはつまり専門職。僧も在家も平等なのだから、宗教専門職はすべて聖職者と考えても無理はありません。宗門のように「聖職者なし、殿堂なし」と言われないように、気をつけましょうね。

    創価の信心が大御本尊に深く通じていき、大御本尊と会員の間を誰人も切ることはできないと御指導されています。また、大御本尊への一念は電波のように通じていくとも言われております。全世界を照らす大御本尊の光を妨げる者は、大聖人を破門する者であると、先生は宣言されていますが、大聖人から破門された者は、創価の方だったのではないでしょうか。宗門の聖職者から信濃町の聖職者に交代して、根本の御本尊まで変化し更新されるとは、言ってることとやってることが違い過ぎませんか。一貫性も整合性もなく、肯定したことを否定し、饒舌なスピーチが突然無口になり、正しいことだとあれほど言い切ってきたことを都合が悪いからと言って知らん振りしている。謗法の地も一閻浮提のなかの一角であり、法界のなかの一隅です。
    道理のうえに立った確信が信心であると御指導されておりますが、「道理のうえに立った確信」とは大御本尊のことではないでしょうか。一生成仏の因はどこかに行ってしまったのでしょうか。

    なお、宗教組織の発展(衰退?)過程を、分かりやすく解説したウイルソン教授の「社会と宗教」での回答がありますが、長くなりますので【+ Read More(追記)】に引用しておきます。読みたい方は読んでください。飛ばし読みしたい方は飛ばし読みをしてください。


    平成3年12月14日
    第二十回婦人部幹部会/ついに来た! 創価の友の「自由」は満開
    江戸川・葛飾・足立文化音楽祭を開催した。そのスピーチのなかでブラジルの人権活動家・アタイデ氏を紹介している。
    『アタイデ氏は、"宗教の権威"を、人間の敵として、厳しく弾劾しておられる。
    「聖職者という宗教的権力者は、宗教のドグマ性(たとえ事実に反しても教義を押し通すこと)によって、人間を精神的に逮捕したい、また奴隷にしたいと考えている。そしてドグマの道から離れようとすると"異端"だと決めつける」
    今でいえば、誤りを指摘する人に対し、"謗法だ"とか、"地獄に落ちるぞ""破門だぞ"などと脅迫することであろうか。
    「ドグマに従うことは人生の視野を狭くするだけである。独善や権威は、無限であるはずの、人間の知性に、有限の黒い壁をつくってしまう。要するに、人間の創造的知性を全部、打ち砕いてしまうのである。
    それはなぜか。「宗教的権威の盲従」は、人間の堕落であり、惰性であり、怠け根性である。狂信的に従うことは、自分の意見を失い、ついには人間でなくなってしまうことだからだ」(中略)
    またアタイデ氏は、「破門」について、次のように語っておられる。
    「宗教のドグマに反対したために追放されたとしても、なんら恐れることはない。
    私は「破門」という言葉ほど嫌いなものはない。破門と聞くと、怒りが込み上げてくる。破門は一つの価値も生むことはない。
    もし、神の名を利用して"地獄に堕ちる"と言うなら、その宗教は、もはや正しい宗教ではない。神に人を救う力があるなら、神は人を助けるはずだ。決して地獄に堕としたりはしない。仏に慈悲があるなら、人を救うはずではないか。
    仏の名を借り、私物化するものがいるとすれば、それはもはや正しい宗教ではなくなってしまった証拠ではないか」と』

    人権を抑圧する権威と、生涯戦ってきたのがアタイデ氏です。「世界人権宣言」は普遍的な権利の宣言でもありますが、このような無辜の人々の強い意志によって、人間の尊厳が守られていくことを、あらためて思います。聖職者は謙虚でなければならない。同時に奉仕者でなければならない。人権の擁護者でなければならない。最近、創価の周辺でも、除名や査問といった言葉が聞かれるようになりました。それは「破門」と同じ過程を踏んでいるのではないでしょうか。宗門に代わって、創価が弾圧組織にならないことを祈るばかりですが、なにより会員の皆さまが賢明になる必要があるでしょう。組織はいつまでもどこまでも清浄と考えないことです。組織は人間が運営するものであるかぎり、必ず腐敗する。
    翌日の12月15日、川崎文化音楽祭でも、アタイデ氏の言葉を紹介しておりますが、切りがないので省略します。過去のスピーチを読み返してください。いろいろな発見があるでしょう。わたしは全集から引用しておりますが、収録されているスピーチ自体、多くの推敲と編集が行われているものと思います。会合の内容は、テープやビデオで録音録画されたものから一言一句書き起こしたと思われますが、そのまま文章に書き下ろすと都合の悪い場面が必ずあるはずで、書き直しされているところもあるでしょう。
    この池田大作全集は、牧口、戸田先生の全集と同じく将来、絶版になる可能性が大きい。再版されたとしても大幅に書き直しされるでしょう。「小説・人間革命」と同じ運命です。書き換えは、初期の広布の歩みを書き換えることでもありますので、自らの出自を隠蔽することでもありますから、歴史改竄と同じです。特に問題なのは、「大御本尊」に関係する記述であり、大御本尊を連想させる文章の必要最小限を残し、削除ならびに書き換えが行われることは明白です。つまり、「大御本尊」から「大」を取ればいいわけで、隠蔽や秘匿、修正の修正、改正の正当化は消極的抑圧と同じです。会員の皆さまはそんなことはどうでもよいでしょう。功徳さえいただければ、御本尊の相貌や血脈も大して問題でないのですから、現世利益を求める実証偏重の害毒は、命に深く浸透しているのではないでしょうか。収益性が高くなるように、利益率の改善に常に心掛けることが、組織から推奨される会員のスタンスです。スポーツのメダル報奨金のように、対価としての手当が、コスパのバランスがとれているのかどうか。こういうふうに表現すると、宗教は営業次第ということになりますが、信仰者の現世利益は営業利益のように見えてくるから不思議。アタイデ氏が独善や権威を非難し、創価を支持するほど、組織も会員も、明瞭な宗教心を受持し、思想性を持続しているわけではありません。


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