男性原理と女性原理 1

    相撲協会のアホらしい事件が、また起きました。土俵の上で急病のために倒れても、女であれば救命もできないという認識らしい。相撲協会の驚くべき女性蔑視。国技といっても、歴史のなかで培われてきたスポーツではないでしょうか。まるで男と女は別の生物のように扱われている。土俵が穢れるらしい。人間より土俵の伝統が大切という考え方が、暴力問題と同じ病根のように思われる。多分、貴ノ花親方が感じていただろう問題意識と同じ。協会は重病と考えたほうがよい。その体質と伝統という慣例主義につける薬ありません。
    神事は儀式と形式の一フォルム。女神の神話の由縁は、男性本位の自己正当化に他ならない。女神が女性を差別するストーリーにどんな説得力があるというのでしょう。伝統に敬意を表すのは必要なことですが、その理由が女性は穢れているという偏見には同意できません。女性が穢れているなら、男性も穢れている。
    貴乃花親方は、不甲斐ない弟子のために重い責任をとりました。断腸の思いだったでしょう。でも改革精神がほんものならば、十年や二十年の雌伏のときがあっても、きっとやり遂げるだろう。名横綱の静かな勝負を見守りたいと思う。
    異端と言われるマイノリティーは、常に批判にさらされて、社会的不適合者というレッテルさえ貼られる。あるいはスキルや運動論、意見の相違の次元なのに、人格の正常性まで飛躍し、人間性を否定される。感情的議論にはため息が出るほど疲れます。
    その後、春日野巡業部長のウソの会見が発覚しましたが、はっきり言って、珍しいほど愚鈍だと思う。厳しい勝負の世界を経験してきたとは思えない無責任ぶりですね。恥ずかしくないのでしょうか。協会幹部という指導者ではありません。

    テレビで一般市民にインタビューしていましたが、そのなかで伝統は守るべきだ、女人禁制は当然、土俵にあがるべきではないという中年女性の言葉には唖然。一般的に女性のジェンダー意識は大変低く、女性が女性の権利を狭め、辱めている。正当な権利主張を放棄しています。

    レスリング協会のパワハラ問題も、第三者委員会によって調査報告され、栄本部長のパワハラが認定されました。一連の問題経過のなかで強烈な印象を残したのは、谷岡郁子副会長(至学館大学学長)の記者会見でしょう。
    伊調選手に対して「そもそも伊調馨さんは選手なんですか?」と発言。オリンピック4連覇の偉業を成し遂げた選手へのリスペクトがまったく感じられませんでした。しかも協会の副会長という立場にありながら、選手の一番身近な存在でありながら、レスリングへの深い紐帯も感じられなかったのはどうしてでしょう。失礼な言い方ですが、口の端が歪み、筋肉が痙攣している醜い顔の表情が印象に残っています。それなりの年齢を重ねて人生経験も豊富でいらっしゃるのでしょうが、なんといっても攻撃的で威圧的なオーラに包まれていたこと。女性的な品位がなかったこと。それが顔の表情に表れていたのでしょうか。競争心が強く、悲しいほどに男性化しています。なんらかの傷を負う覚悟がなければ近づきたくない人間のタイプですね。

    レスリング協会も相撲協会も、根底に乱暴な体練の歴史があるのかもしれません。レスリング道、相撲道と表現されるように、悟りを求めるような厳しさとともに精神論への過剰な傾斜があるように思います。スポーツは限界の挑戦ですが、期待通りにいかないと感情的になり冷静さを失うのでしょうか。実績と比例して謙虚さが必要です。
    どちらも女性に関連した事件なのが残念ですが、社会の底辺にはジェンダーギャップを抱え、惨めな思いをしている女性が多くいることを認めてほしい。そしてサポートやアシストの手を差しのべてほしい。倫理的に理想像を説き、男女不平等の解決への模範となる宗教への期待を、あきらめずに継続していきたいと思う。


    ☆☆☆


    創価は、佐藤優氏を多用し大好きですが、仏法の専門家でもない者に、仏法を語らせる記事を濫用している。読者は好んで読んでいるのですから、わたしがとやかく言うこともありませんが、創価では哲学的深さが失われたために、キリスト教の庇(ひさし)を借りようとしているのでしょう。潮に連載された「池田・トインビー対談を読み解く」は、期待はずれの感があったので、なぜ創価で歓迎されるのか不思議に思いました。会員はトインビー対談など読まないということでしょうか。
    最近、Eテレの番組で話題になっている、優れた法華経学者でもある植木雅俊氏を、意識的に忌避するのはどうしてだろうか。今こそ必要な学術的叡智を披瀝する教養を持ち、以前からずっと注目していましたが、創価では大学教授といった地位の有無で判断しているように感じていました。あるいは、先生の嫉妬があるのではないかと勘ぐったりしました。創価の排他性、閉鎖性を垣間見る思いです。悲しいことに、会員は自分独自の評価を放棄しています。信仰の功徳であり、桜梅桃李の本質である自律性がありません。
    偏狭なアカデミズムを嫌っていたのは師である中村元博士であり、敷衍してわたしから言わせれば、営利目的の偏狭な宗教界には近づかないほうが、研究者として純粋でいられるようにも思います。植木氏は、しかも創価の会員でもあるらしい。

    『仏法と申すは道理なり』(四条金吾殿御返事)
    おそらく日蓮の思考形跡をたどることになる末法の仏弟子たちは、(最初の命題)仏法は道理であるという当たり前のことを、もう一度確認しなければならないでしょう。現在の創価では、論理的に道理を尽くすことが忘れられている。
    池田先生は一度も、大御本尊を否定されていないのに、会員は師の言葉を無視している。そのことに何も罪悪感がないのか、不受持の妥当性を根拠もなしに主張してはばからない。
    騙す、偽るという魔性の人格は、先生に宿っているのではないだろうかと、わたしは、何度も繰り返し疑問に思い再考しました。信仰の根本に無関心の愚者にだけはなりたくないとの願望があるからです。わたしの信仰は、たとえ他者への働きかけを行ったとしても、わたしだけのものであり、わたしの人生の顛末を物語るものです。他者への依存ではなく、どこまでも自己責任で、というスタンスを持ち続けたいのです。
    仏教学者・中村元博士の元での研鑽を経て、植木氏の転機となった著作、「男性原理と女性原理・仏教は性差別の宗教か?」(中外日報社・1996年)は、自身の博士論文を基調に、「中外日報」に連載、また仏教の女性観について「第三文明」に掲載されたものをまとめたものです。その最後の章で
    「三惑を乗り越える智慧」と題して、次のように書かれています。
    『天台は、この貪愛・無明をさらに詳しく論じ、見思・塵沙・無明の三惑として論じました。
    第一の「見思惑」は、見惑(道理や理屈における迷い)と、思惑(感情、感覚、本能的な迷い)の二つからなります。このそれぞれは、既に論じてきた男性原理と女性原理のマイナス面に当たります。
    二乗は、この二つを乗り越えて阿羅漢果にいたるとするのでありますが、次の「塵沙惑」で、それはもろくも崩れてしまいます。塵沙惑、文字通り塵と沙(砂)ほどに無数にある現実ということです。具体的に言えば、人間関係に代表されます。その人間関係は、だましたり、利用したり、足を引きずろうとしたりすることが多い世界であって、かかわるのも嫌になるものであります。だからこそ特に二乗(声聞、縁覚)は、人間関係を否定し、切り捨てて自分自身の内面世界に理想像を研ぎすますという生き方に陥ってしまいがちです。ところが、人間関係をいくら否定しようとしても、人間として生きているからには、人間関係を否定できるものではありません。その厳しい現実に立ち返ったとき、結局、見思惑という男性原理、女性原理の差別面、マイナス面にとらわれてしまうのであります。
    これを打ち破ることができるのが、菩薩の生き方でありました。だから、先に触れた「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」の一節で、「弘めん者」という条件が付けられていたわけです。自行化他の実践という、他者との大乗菩薩的かかわりが前提となっているのであります』


    化他行のするほうもされるほうも性別に関係ありません。化他行に差別があると弘教ができません。広布もありません。また十界論は生命次元の差別ですが、性別の差別ではありません。当然のことですが十界論は、性別以前の人間共通の真理。性にこだわる不平等は、特に男性の心に突き刺さった毒矢です。社会が男性原理で機能してきたからですが、体制に迎合する女性の媚もありました。媚は、現状維持のための女性に付属する属性なのかもしれません。すべての出発点となる絶対基準は、仏法で説く深い叡智よりありえないと思う。
    上記の書は推敲に問題がありますが、著者の初期作品として平易な仏教平等論の金字塔です。
    その後上梓された「釈尊と日蓮の女性観」(論創社・2005年)は、ほとんど同じ内容に加筆されて、深い洞察が冴え、ジェンダーバイアスの悪夢から解放されるための必読書。日蓮の女性観の合理的思考を、明晰に、クリアに文章にしています。
    そのなかで、「月水御書」に見る女性観と題した段落が鮮明な印象です。
    『この手紙は、大学三郎夫人が「月水(月経)の時は経を読まないでいるべきなのでしょうか」と質問してきたことに対して答えられたものです。当時、「月水」を忌み嫌うというような発想があったのでありましょう。
    その手紙の中で日蓮は、
    (中略)現代語訳しますと、
    「日蓮は、ほぼすべての聖教に目を通しました。しかし、月日を明確に決めて、酒や肉、[葱などの]五種類の辛味のある野菜、そして淫事などの不浄を禁じているように、月水を忌み嫌っている経や論は、これまで見たことがありません。釈尊在世の時に多くの女盛りの女性が出家して尼になって仏法を修行しましたけれども、月水の時だからといって嫌われるようなことはありませんでした。このことから考えましても、月水というものは外からやってくる不浄(穢れ)ではありません。女性の体にもともと具わった単なる周期的現象であり、生命の種を継承する原理に基づいたものであり、またその時に体調が崩れるのも長病のようなものにすぎません。それは、ちょうど屎尿が人体から排泄されますけれども、それによって体内が浄らかになるのと同じことで、何の特別の意味もありません。この程度のことではないでしょうか」
    となります。
    ここには、迷信じみた発想はかけらもありません。合理的思考が貫かれています。死や人間の排泄物などとともに、血を不浄なもの、穢れたものとしてしていたヒンドゥー社会の観念と全く対照的です』


    また、 提婆達多品で説かれる竜女の「変成男子」について、ヒンドゥー社会に配慮した妥協的表現として詳細に解説しています。万人成仏、万人平等の大乗仏教運動は、インド社会において対立的で異状な抵抗があったと推測されます。性の相違の差別よりも、もっと根本的なカーストがありました。この階級差別は世襲であり…世襲も差別…頑丈な社会構造の基礎をなすものであり、支配者の強固な論理で組み立てられています。古代インドに侵入したアーリア人の征服から始まったといわれています。
    植木氏は、中村元博士の見解を引用しています。
    『婦人蔑視の観念に真正面から反対していることもあるが、ある場合には一応それに妥協して実質的に婦人にも同様に救いが授けられるということを明らかにしている場合がある。そのために成立したのが「男子に生まれかわる」(転成男子)という思想である』
    『この思想はすでに原始仏教時代からあらわれている』
    とも指摘している。

    ジェンダーギャップの根源は有史以来の人間が作り上げた文化とともにあるのです。差別意識は、生命に具わるそもそもの傾向性なのかもしれません。不軽菩薩が実践した尊厳に対する修業は、とても画期的な生命浄化運動、社会改革運動であったことがうかがえますが、不軽のように不屈の魂で実践した人々がいたものと思います。
    法華経を理解し説くことの難しさを改めて思います。ジェンダーにもとづく偏見や不平等は、ヒューマンギャップの変性とも言えます。生命尊厳に準拠した思想の展開は、現時点で人間主義運動が的確に時代の要請を受けているでしょう。しかし、残念ですが、創価には決定的に、指導者の不在という欠陥があることを指摘しなければならない。永遠の指導者に続く独創的なアビリティーを持つ才能は見当たらない。50年経てば、創価は壊滅的な弱小教団に縮小し、信濃町の創価村も荒れ果てた廃村になっているかもしれません。


    Illusions - Thomas Bergersen




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