保守主義について

    ews (1)-1(2018.1.21)評論家・西部邁さん死去 多摩川で自殺か
     保守派の論客として知られる評論家の西部邁(すすむ)さん(78)が21日、死去した。
     警視庁田園調布署によると、同日午前6時40分ごろ、東京都大田区田園調布の多摩川河川敷から「川に飛び込んだ人がいる」と110番があった。飛び込んだのは西部さんで、署員らが現場に駆け付け病院に搬送されたが、死亡が確認された。
     同署によると、目立った外傷はなく、付近で遺書のような文書が見つかった。自殺を図り、溺死したとみられる。
     西部さんは21日未明から行方不明になっていた。同居する家族が探していたところ、多摩川で流されている西部さんを発見し、通報したという。

     西部さんは北海道出身。東大経済学部に在学中、全学連中央執行委員として安保闘争に参加し、学生運動の指揮を執った。大学院では経済学を専攻し、横浜国立大や東大などで教鞭(きょうべん)をとる傍ら大衆社会論を軸とした評論活動を開始。「経済倫理学序説」で吉野作造賞、「生まじめな戯れ」でサントリー学芸賞を受賞した。
     東大教授時代の昭和63年、助教授の推薦をめぐって教授会で否決されたことに抗議して辞任。以降、テレビの討論番組などに定期的に出演し、晩年は自ら発刊した雑誌を舞台に言論活動を展開した。
     正論執筆メンバーで、平成4年には戦後日本でタブー視された改憲論を正面から取り上げるなどの精力的な評論活動により、第8回正論大賞を受賞した。

    ews (1)-1(2018.2.1)西部邁さん 欺瞞と偽善に挑み続けた生涯
     アメリカ従属という現状に安住し、屹立(きつりつ)しようとしない戦後の日本と日本人の在りよう、そして近代と近代人に、誰よりも深い懐疑と悲しみを抱き、根源的な批判を続けてきた真の知識人だった。

     戦後まもなく、アメリカに押しつけられた甘い理想をたっぷりと含む民主主義の言葉に、欺瞞(ぎまん)と偽善を感じ取った鋭敏な少年は、東京大学に入学すると教養学部自治会委員長、全学連中央執行委員となって60年安保闘争を指導した。それは欺瞞と偽善を撃つための闘いであった。しかし後年、革命は伝統との相対によって、自由は秩序との相対によって初めてその意味が明らかになるはずなのに、自分たち過激派は、伝統と秩序の何たるかを知ることなく、革命と自由を求めていたことに気付く。
     横浜国大助教授を経て東大助教授になった西部さんは、30代後半にアメリカとイギリスに留学する。イギリスでは、フォックストンという小村に居を定める。ここで、18世紀のエドマンド・バークから20世紀のマイケル・オークショットに至る保守思想家たちに触れ、政治も個人も綱渡りのように緊張感をもち「平衡感覚」を頼りに歩む以外になく、「平衡感覚」は歴史と伝統に学ぶ以外にないことを学んだ。

    《一個の保守主義者として、それまでの乱脈に流れてきた自分の人生と学問における経験を、その一片も無駄にすることなく、互いに関連づける境地を得たように思った》と回想している。かくして保守主義者となった西部さんは、少年時代に感じ、なおも日本を覆う欺瞞と偽善に敢然と闘いを挑んでゆく。今度はゲバ棒ではなく、伝統に学びながら構築された深く鋭い言論によって。
     西部さんに「保身」という言葉はなかった。どんな状況であろうと、自身が信ずる「義」のために逃げることなく闘いを挑んだ。60年安保闘争しかり、助教授人事をめぐって東大教養学部にけんかを売り、東大教授を辞職することとなった駒場騒動しかり。こう記している。《そんなことをやって自分が傷つかぬはずはないとわかっていたが、関係者が傷つけられているのを見過ごしにするほうの傷がもっと大きいと私は判断した》。2003年にアメリカがイラクを攻撃したときには、保守系知識人の多くが賛成・黙認するなかで、「こういう侵略を許すわけにはいかない」と声を上げた。
     理と義と侠(きょう)を兼ね備えた西部さんは、相当なロマンチストでもあった。西部さんは長らく多摩湖に近い東京都東大和市に暮らしていた。その理由は「湖の見える場所で暮らしたい」という奥様の願いをかなえるためだったという。数年前に奥様を亡くした西部さんはまもなく世田谷区へ移った。

    西部さんが自殺したという一報を後輩記者から知らされた私は、思わず「拳銃か?」と尋ねてしまった。というのも、58歳の時に「自死が必要になったとき」に備えて、友人から拳銃を入手しようと考えていた、と13年前に刊行した自伝的長編評論「友情」に書いていたからだ。では“その時”とはいつのことなのか。
     《自分という存在は、言語のあまたある可能性のうちのほんの一つを、わずか八十年ほど過去から未来へと運ぶ単なるヴィークルつまり運搬具にすぎないと思ったとき、死は私にとって大きな問題ではなくなった》と悟った西部さんにとって、言葉の能力が衰えたと感じられたときが、“その時”なのだ。そしてこう記す。
     《安楽死とか尊厳死とかいったような形容は私の最も嫌うところだ。それらは人間礼賛の成れの果ての表現にすぎない。あえていえば、単純死としての自殺、それが理想の死に方だとすべきではないのか》

     近代を懐疑し、知行合一を生きた西部さんは、理想の死を死んだのだ。(桑原聡)


    ◇◇◇


    西部邁氏の死去を知ったのは、21日のTVニュース。信じられなくてフリーズしたように、しばらく画面を見つめていました。ショッキングだったことから、なぜ? という強い思いがこみ上げてきました。そして、「絶望」という言葉が頭をかすめました。あたりまえの冷静さを持つ人間なら、狂気に陥るか、生きることに絶望しなければ、自らの意志による自らの死という終局は選択しないだろう。西部氏は、自裁死と表現していました。自らを裁く勇気ほど、誠意に溢れた誠実さはないでしょう。
    文章の難解さから、正しく理解されない部分があったことは仕方がないのかもしれません。思想の難解さは、それを表現する言葉の難解さと平行しますが、西部氏の著作には警句に満ちた言葉や示唆に富む思考の足跡に、はっとする新鮮さがありました。仏教哲学を学んだ者なら、難解さの究極は言葉では表現できないレベルにあることを理解できるかもしれませんが、正確な現状分析、現実へのアプローチといった身近な問題にこそ、思想の生き生きとした特徴が表れます。西部氏の思想体系には、伝統と漸進的改革を目指す保守主義が中核にあると思う。
    4年前に夫人が亡くなり、生への渇望としての生きる目標を失ってしまったのでしょうか。
    『妻の死は重い。妻は僕にとって故郷、祖国である。妻が唯一の読者で観客』
    『妻の死は故郷の喪失、祖国の滅亡。言語能力の基盤が陥没すること』

    (「妻と僕 寓話と化す我らの死」飛鳥新社)
    死が身近なものとしてクローズアップされ、死に方の選択にも自ら説く思想の完成を求めたように思えます。思想に殉じたと言えば正確でしょうか。意志を貫くことは、思想の永続性を保証するものです。
    人間は、自分が大切に思う誰かのために生きているのでしょう。特に夫婦の絆は、他人が推し量れるものではありません。夫人は同志であり、きっと自らの言葉を語る最初の相手だったのでしょう。愛情の純粋さを失わないために、夫人の死を自らの思想のなかで自らの言葉で語りましたが、ある人にとってはそういう行為は、我慢がならないほど非人間的な姿として写るかもしれません。そういうふうに見られるのも思想家の宿命でしょうか。肯定する者がいれば、必ず否定する者が現れるのは健全な証拠ですが、西部氏は愛しているがゆえに、妻の死さえも、悲しみも、自らの唯一の言葉で語らずにはいられなかったのでしょう。
    創価にも勘違いが甚だしい本末転倒している会員がいますが、人間としての情愛を疎かにして、信仰活動さえしていれば幸せになれると考えるなど組織都合に毒された無批判の教条主義には、正直なところ、つきあいきれない虚しさを感じてしまいます。以前にも指摘させていただきましたが、深化への賢明な努力がない自己欺瞞の創価ナルシスト、正しい信仰に酔う自我肥大のナルシストにつける薬はありません。

    雑誌「AERA」のWEB上で、中島岳志氏との師弟対談を読むことができます。そのなかで、西部氏の優しさを象徴するエピソードが紹介されている。07年、安倍首相が病気で総理を辞めたときのこと。https://dot.asahi.com/aera/2018013100013.html?page=3
    『私が安倍内閣はいかにおかしかったかを雑誌に書いたら、先生にこう叱られました。「中島君が書いていることは全部正しい。けれどもドブに落ちた人間をたたくな。知識人なら励まそうという態度を取らないといけない」。その後、先生は安倍さんを励ます会を開き、保守の勉強会をしばらく続けていました。すごいのは、安倍さんが政権に返り咲くと今度は遠ざけていたことです。権力と距離を取る姿勢はさすがだと思いました』
    創価の幹部に聞かせたい言葉ですね。権力から遠いところにいることが、つまり冷静な判断の確保という意味において、はっきりとした視力と視野で全体を俯瞰するように、正しい批判と共感が可能だということ。選挙ばかり熱心で、政治的問題に無頓着でいる会員は、自分が一体何をしているのか、全く理解していないだけでなく、自分で自分の首を絞めていることに気づかない愚かさです。

    中島岳志氏は、宗教学者・島薗進氏との対談(『愛国と信仰の構造』集英社新書)で、次のように述べています。
    宗教とナショナリズムのつながりを検討しながら、「創価学会が果たすべき役割」として、創価の歴史を遡りつつ、過去と向き合うことを強調しています。
    島薗同じ日蓮宗とはいえ、国柱会と違って、創価学会は創価教育学会という教育者の集まりから始まり、小集団活動に基盤を持っていたために、政治的なユートピア主義には結びつかず、戦前は反体制的な特殊な日蓮系宗派の立場を守り通そうとしました。このため、初代会長の牧口常三郎は治安維持法違反で捕まり、獄中死しています。
    ところが、今の公明党はまったく体制派で、自民党と一体化しているようにすら見えます。どうしてこうなってしまったのか考えると、創価学会が、組織の発展を宗教そのものの成功と同一視する傾向を持っていることが、大きいのではないかと思います。
    それから、他宗教や他派を批判する排他性も強く内部の結束を重視する。党と教団が完全な一枚岩ではないとはいえ、そういった性格のもとで、選挙による党の成功と教団の勢力維持とが結びついてしまっているんですね。
    私自身は、現在の創価学会と公明党は、宗教のあり方をめぐる非常に重い問題に直面していると考えています。本来の理念である仏法に基づく平和主義・人間主義をそっちのけで組織維持のためにタカ派政策に乗っかっています。どの宗教でも同様の傾向はあるにせよ、信者の獲得、組織の拡大・維持を最大の目標にするという姿勢そのものを考え直すべき時に来ているのではないでしょうか。

    中島島薗先生がおっしゃったように、創価学会にはもう一度自分たちの過去と向き合ってほしいと私は考えています。
    設立後、十数年しか立っていない一九四三年に、初代会長の牧口常三郎が伊勢神宮の大麻(神札)を受け取らなかったことで治安維持法違反とされて、翌年に獄中死する。同じく理事の戸田城聖も捕まる。それが彼らの戦前の痛烈なまでの経験です。池田大作氏が書いた「人間革命」の始まりのほうはその話が中心になっている。つまり、権力から弾圧を受けた経験を背負っているから、信仰の自由というものが彼らにとっての非常に大きなテーゼになっている。
    思想的にパターナルな安倍首相に対して、信仰の自由など本来、リベラルの方向に立とうとする公明党というのは、その理念では反対向きのはずです。政策的にも、自己責任を強調するようになった自民党に対して、セーフティーネットを整えろという公明党は、方向性は逆です。
    しかし、公明党の目標が与党であり続けるということにすり替わってしまった今、理念や政策の違いを超えて自民党に追随してしまう。その結果何が起きるかというと、自分たちがまさに弾圧されたような、例えば秘密保護法のようなものを自分たちで推進してしまう。あるいは集団的自衛権の問題についても、自民党のほうに引っ張られてしまう。

    島薗私が創価学会の問題を重く見るのは、前章(政治と宗教ナショナリズムについて)で述べた「正法」とも関係しています。
    正法をもう少し平たい言葉で言えば、仏教の社会倫理理念であり、仏教の社会性の自覚ということになりますが、創価学会はこの正法の理念を自覚し、現代的に実践しようという姿勢を持つ宗教団体の一つです。社会参加・政治参加を謳っている宗教団体であればこそ、国家とは距離を保って活動してほしいわけです


    長い引用になりましたが、公明党あるいは創価へのスタンダードな評価と言ってもよいでしょう。特に共謀罪、秘密保護法や集団的自衛権の問題について、創価内でも多くの議論があってしかるべきでしたが、そのような気配すら見せなかったのは、ひとえに会員の問題意識の欠如によるものです。同時に、選挙の語り口のためだけの政治学習、都合の悪いことは決して表に出さず、福祉や健康問題という身近な政治課題に目を向けようとする婦人部向きの設定に終始していることです。
    消費税増税のときもそうでしたが、これから予想される憲法問題にしても、考えて結論を出すという当たり前のことをしない可能性があります。思考放棄とも言えるこの状態は、桜梅桃李と説く妙法とは似ても似つかない集団信仰の害毒によるものです。個人にあっては無害でも、集団になるとその弊害を表しますが、矛盾に目を閉ざし団結を誇る集団であれば尚更です。このような集団は、カリスマの意志により、いつでもどこでも無自覚に転がり社会を変えていく力となり、民主主義を危機に貶めます。選挙運動に功徳欲しさに群がる姿って、獲物を囲み追いつめる蟻のようなイメージが浮かびます。浅ましい自己の利益優先主義は、功徳偏重の過度な実証主義。言い換えれば権利を主張して憚らないオルテガの大衆の反逆そのものです。それが信仰だというのですから、バカバカしくって話になりません。
    治安維持法で初代、二代会長が検挙されましたが、そもそも治安維持法の制定は、自由主義が活発に叫ばれた大正デモクラシーと言われる国民が政治の主体であるとする民主化運動のさなかの、大正14年に誕生したものです。国家の強制や統制から自由であるべきという、個人の自己決定権を強調し、社会全般に及ぶ思想的運動のなかで、それとは正反対の自由の抑圧という法律が制定されても、国民のなかで疑問を持った者はわずかにしかおりませんでした。
    我慢強く、大人びた対応の強気の政治姿勢を貫き、安定した長期政権となった安倍首相に寄り添い、成果や実績、少し遺産を分けてもらえないかと立ち回っている姿が公明党でしょうか。大臣の椅子欲しさに、自己主張も遠慮がちになり、しいては国民を犠牲にしている党員や支持者は、過去の歴史を学習し、外交問題と併せて国家のクライシスに強い関心を持ってもらいたいと思います。過去から学ぶ姿勢こそ保守主義者の取るべき道です。
    自由であることに最も強い関心を持っているリベラリストである会員が、宗教・信仰の自由より興味がないということはありえず、勝つか負けるかというような勝負師みたいな信仰に慣れてしまって、中身や過程に関心が向かない、結果オーライの実証第一主義に毒されています。その根底には乞食信心のような卑しい利益主義があるのでしょう。草創期から急成長の発展期には、罰論による脅迫的折伏が社会現象になりました。私的利益論の反転が、プライベートな人格や宿命を逆手に取った罰論。ネガティヴ方向の価値創造です。

    16年(平成28年)8月23日、24日の公明新聞に、
    『国民は「保守・中道政治」に何を望むか』というテーマでインタビュー記事が掲載されていました。7月に参議院選挙があり、5議席も増やして、自公政権が安定政権として国民の支持を得ているという自信がうかがえます。アメリカ追従主義がどうして保守中道なのか理解できませんが、戦後の歴史を総括する現代史観を、ぜひ政治家と公明メディアこそアピールしてほしい。
    このときのマニフェストは、ほとんど福祉ばかりで、いかに婦人部・女性向きの内容かわかります。憲法については何もなく、修正主義こそ保守中道であることを強く訴えてもらいたいと考えますが、創価本部の理解が得られることはないでしょう。
    でも、絶対平和の創価の伝統を、今は裏切っていますので、創価の中心幹部は自己保身しかないのかもしれません。偉大な指導者・池田先生も現実直視の勇気ある行動が、色褪せ古ぼけ、埃にまみれたように新鮮味がありません。老いを隠して理念を語り、創価の再生を願うだけなんて、寂しすぎる悲しみです。弟子のために、なぜ堂々と自らの生き様を披露しないのでしょうか。生老病死の苦しみの克服こそ、仏法者の使命というものです。釈尊でさえ、病み、老いの衰えのなかで死を迎えました。リーダーこそ、その死の迎え方を社会に広く公表しなければならないのですよ。それがリーダーの最後の公の務めなのです。生があれば死があるというのがヒューマニズムであり、生の完結を考えない人も思想も、たんなる個人的ヒューマニズムの領域から出ることはない。

    インタビューは公明新聞の3面の全部を埋めて比較的大きな記事ですが、このような記事を定期的に、あるいはシリーズ的に掲載していただきたいと思いますが、無理でしょうか。16年6月に読みやすい一般啓蒙書「保守主義とは何か」(中公新書)を出版した宇野重規東大教授に伺っております。
    「保守・中道政治」は国民に定着したのか、との質問には、まだ定着は難しいと答えた後、真の保守主義は不在であるとして、「公明党への期待」を語ります。
    『公明党は憲法の基本的精神である基本的人権の尊重、国民主権、平和主義という3大原則に忠実であり、軍事拡大よりは国民生活の充実を通じて平和を実現するという方向性を維持してきた。今の憲法を基本的に否定せず、改正する余地はあるとしても、憲法の精神を守りながらそれに必要な修正をどう加えていくかという立場だ。あえて言うと、公明党が真の保守主義を守っているのかもしれない(中略)』
    こういう評価にはやや納得できないものがありますが、はたして開かれた国民政党として国民のあらゆる階層から支持を得ているかという疑問。宗教政党は国民政党になりえないという懐疑が常にあり、わたしにはその疑念を払拭できないままです。国民政党でない保守主義なんてありえないでしょう。

    次に「保守すべき価値は何か」ということで議論を促しています。
    『今の与党は国際関係には周到に手を打っていると思うが、保守勢力はナショナリズム(愛国主義)に足下をすくわれることが多い。日本においても、いつ排外主義的な雰囲気が高まるか分からない中、今後、ヘイトスピーチのような活動が拡大する時に、一定の歯止めをかけるのも非常に重要なポイントだ。保守主義は、ナショナリズムや一国孤立主義とは区別してしかるべきであり、国際的なある種のバランスをどう維持するかを考えるのが保守の良識だ』
    戦後民主主義の伝統として地域に根づく住民活動、市民運動の継承の例を上げて、公明党の地域の声を政治の場に届ける意識は戦後精神を継承しているという。市民の声は民主主義の声ですが、選挙時の一票としての大衆の飽くなき欲望の声に応えることでもあります。賢明な政治意識が必要ですが、政治家は常に権力の虜になる危険と同居しています。かつての民主党政権を思い出すべきでしょう。リベラルな市民の声に応えたポピュリズムの狂乱は、日本の国家の屋台骨と伝統をことごとく破壊するところでした。中身がない人間が権力を握るとお化けのようにモンスター化する好例です。
    保守すべき価値は、結局、草の根の市民運動ということでしょうか。むしろそのようなものより見当たらない貧困さといえば良いのでしょうか。教育者らしい、公明党への優しいリップサービスというところでしょうか。公明党が真の保守だなんて誰も思っていない。憲法問題にも外交問題にも積極的発言を控えて、火中の栗を拾おうとしない狡賢さは、創価に驚くほど似ている。創価は人権団体と主張すればするほど、その一貫性の無さに疑いを抱かない会員の精神状態を、わたしは一貫して疑いたくなってきます。

    次の日は、中島岳志氏へのインタビューでした。
    保守政治の本来の姿に言及し、
    『政治学上の保守主義は何かというと、近代のフランス革命を中心とする欧州の啓蒙主義的な革命に対して、「ちょっとやり過ぎ」というところから生まれたもので、英国の政治思想家であるエドマンド・バークがフランス革命に反対したのが始まりだ。バークが何に反対して何を考えたかは保守を考える上で重要となる。彼はまず理性万能主義を疑った。理性に合致したことを徹底的に行っていけば良い社会をつくれるという進歩主義や設計主義は、人間観としておかしいと指摘した。
    その上で、不十分な人間が社会でやっていくためにはどうすればいいか。バークがよりどころとしたのが、長年築かれた良識・常識・伝統のような慣習だ。この中には庶民が長い時間をかけた暗黙知がある。人間の不完全性を認識しつつ、常識に従いながら世の中は変わっていくものである。それも一気にではなく、時代に応じて徐々に対話しながら変えていくという穏健的な漸進主義が保守の本来持つ重要な役割だ』

    保守主義の初歩的・常識的見解ですが、日本の知識人や政治家のなかにはこのような初歩すら理解していない人が多い。

    仏法と政治思潮は異なります。仏法の中道主義は、偏らない見識・行動を表し、一側面にとらわれることなく、真理を見通す全体融和の世界観を持つ人間の生き方です。政治での中道はどうでしょうか。
    『中道は基本的に足して二で割るという話ではなく、英国の作家・チェスタトンが「荒れ馬に乗りこなす技術」という言い方をしているが、世の中のさまざまな意見をどううまく調整してバランスを取っていくかが問われる。(中略)
    Aの人もBの人も言っているからと全ての意見を取り入れるのではなく、歴史に後押しされながら将来を見通して歩いていくバランス感覚。その背景には、人間の理性に対する行き過ぎた過信をいさめるという仏教的な考え方がある。「私は何でもできる」という人間観に対する懐疑的な態度、謙虚な態度が重要だ。公明党は本来そういうところに立っているのではないか』


    そして、「ビジョンを示しつつ具体策の微調整続ける現実主義で」と題して、次のように提言しています。
    『リアリズム(現実主義)を打ち立てるためには理念が必要となる。基本的にどういう方向に世界を持っていくべきなのかという大きなビジョンを持ち、そのビジョンから具体的な政策を一つ一つ進めていく手順を踏んでいくべきだ。
    ドイツの哲学者・カントの考えに「統制的理念」と「構成的理念」がある。統制的理念は人間の存在を超えたような絶対的理念だ。「絶対平和」は無理だが、この理念があるからこそ、少しでも実現に向かおうとする構成的理念は成立するとカントは考えた。(中略)
    リアリズムは構成的理念であり、これを大切にするには統制的理念が必要だ。これを取り違えると全体主義や共産主義になる。だから二つを見据えながら一つ一つ解決することが政治のあり方で、本来のリアリズムとは「永遠の微調整」を続けていくものだ。戦争のない世界、豊かな社会のため、一つ一つの政策を見極めながら対応していくしかない』
    『公明党は本来考えている中道的な方向性を貫くことが重要だ。自民党べったりではなく、もっと強く出ていってもいいのではないか』


    このような保守思想のアナリストにインタビューした理由を考えると、公明党は保守の王道を目指しているのかもしれない。穏健な体質が保守に合っていると言えば、きっと反対意見が続出するだろう。穏健さの印象は、ある意味保守の印象に被る。
    西部邁氏は「思想の英雄たち」(ハルキ文庫)の、最初のエドマンド・バークの章で、
    『保守思想はエンシュージアズムつまり熱狂を嫌う。なぜならそうした心性はラディカリズム(つまり急進主義)に特有のものだからである』とあります。
    「熱狂」と言えば、創価の底流を流れる感情で、他人都合など眼中になく自己都合のみ、ほとんど反省もなしという強気の似非革命精神で彩られています。かつては折伏大行進などと怒涛の進撃が推奨されました。人権意識が乏しかった時代のことですから、後ほど社会的制裁を受けるにしても、熱狂的に誓願し、師弟の枠を仏法の枠と勘違いし、その熱狂さゆえに尊大さも増し、日蓮仏法を曲解し、宗教界の王者であるなどと豪語する。衰退の一途をたどっているのに、未だにその幻想から抜け出すことができない。
    沖縄・名護市長選挙では全国に向けて激が飛ばされました。市長選挙に全国支援を呼びかけるのは異例のことです。なぜ、選挙にこれほど熱狂するのか。これらの選挙闘争は、勝つことが師の至上命令だからです。勝つことにこれほど執着する宗教団体も珍しいことでしょう。忠実さは熱狂の形を変えた一つの形態です。はたして冷静さが伴っているのか、常識人なら疑問に感ずることでしょう。11月には知事選があります。基地を挟んで、自公と革新の熱狂的戦いが繰り広げられること必然の必至。基地容認に転じたと思われる品位に欠ける低俗な政策は、偉大な師の公認でしょうか。選挙には熱心でも政治には不熱心というアンバランスは保守のものではありません。結果に責任を持たないという点で、無責任な他者任せですが、自己は自分の主であるという自己完結の自己責任でもある信仰論は、どう論理立てて理解すればよいのでしょうか。菩薩の徳とパフォーマンスは、他者の幸福に責任を持つことなのではないでしょうか。一貫性の無さは創価の主張の特徴なのかもしれない。熱狂する精神的土壌は、真の宗教的精神を喪失させることでしょう。豊饒と思っていたものが実は貧困であり、美徳と考えていたことが悪徳だったりする。懺悔が傲慢な感謝だったりするかもしれないし、菩薩の相を表わすペルソナの下は、阿修羅のイマージュかもしれない。

    勲章を飾り、名誉の数を誇るのも熱狂の一部かもしれません。一人占めという飽くなき所有欲は貪りの熱狂です。ガンジーは急進主義を嫌いました。熱狂さの裏側にある進歩主義や設計主義のうそを見破り、共産主義に熱狂する知識人の軽薄さを笑いました。ガンジーが遺した私物は、使いこまれた時計や眼鏡、質素な食器など、生活に必要な最低限のものしかありません。本質的なことよりも数を誇る。つまり図体の大きさを自慢して、常に多数者の支配を完了させようとする。マッチョな力自慢は宗教ではありません。完成へと近づいていると思わせる宗教特有のドグマは、選挙運動や無理な聖教啓蒙、盲目的な財務の奉仕にあるのではなく、宗教の不在を確認する叡智にこそ、信仰の復興と再生があることを思慮すべきです。
    法華経は見方を変えれば、宗教と信仰を見失った者たちに、新たな宗教の復興を告げる物語です。とても複雑深淵で池の底をさらうようなわけにはいきませんが、現代では単純化されて、人間主義という格別な言葉で統一・説明されています。法華経は人間主義思想を根底にしていると言えば、任用試験に合格する初歩的会員の回答。創価においては学活や家庭訪問のコミュニケーションも人間主義の大切な発露であり、大袈裟な誓願も人間主義のステートメント。
    それほどまでに人間主義は多用されていますが、このような単純化・大衆化とも言える真理の退化こそ、永遠の指導者の使命だったのではないでしょうか。つまり妙法の平準化、世俗化は、伝統をなにより重んじる歴史ある宗門との訣別を勝ち取りました。単純化とはわかりやすさのこと。マス社会が最も好む大衆理論です。仏法流布と言っても、その底流には衆生の不信の機根が畑のように横たわっています。その畝から芽が出るように思想の再生と再生産があると信じて、移り変わる時代性への洞察ほど、リーダーの英知が試される機会はないでしょう。
    思想は世代を越えて、深化させていかなければならない。妙法は人間救済法の基礎を築く思想体系。あるいは菩薩の定義と行動ストラテジーを集約したもの。献身的な表現と言語で記述されています。その最初の根本命題を提示したのはもちろん釈尊。カントが気づいた「統制的理念」の持ち主です。

    『進歩主義とは、新しき変化は晩(おそ)かれ早かれ良き結果をもたらすと思い込む独断(ドグマ)のことである。――ドグマとは、その原義によれば「良きことのようにみえる」という意味だ――。なぜそんな見え方になるかというと、ほかでもない、人間・社会が変化の流れをつうじて完成へと近づいているというペルフェクティビリテ(完成可能性)の独断にはまったからである』
    (思想の英雄たち)
    池田先生の最も優れた洞察に溢れたボローニャ大学での講演は、レオナルド・ダ・ヴィンチの完成と未完成のダイナミックな相乗作用を通し「性急は愚かさの母である」という言葉を引用し、進歩主義を批判しております。24年前のことです。
    四半世紀を経過の現在、完成の未完成を目指し創価は正しい方向に歩んでいるのでしょうか?
    至高の完成に近づいていると錯覚しているのではないでしょうか?


    I'll see my Rainbow - Dwayne Ford






    P.S.
    きょう(10日)の午後、夫と一緒に本幹に行ってきました。夫の手を握っていればイジワル婦人部がいても安心です。こういう会合に出席する場合は、いつでも臨戦態勢。正しいことや信条を言い切るとき、切なく悩ましい思いをするときもあるのはどうしてだろう。
    信仰動機を強くチャージする会合でありたいと思う。本幹は、エンターテイメント化していて華やかです。未来部まで動員している。幼い者のまえでは、誰でも無垢な愛と無償の献身を感じて、素直になれるからです。そのことを知っていて巧妙に利用している。先生と奥様に対する感謝の言葉は、誰が教えるのでしょうか。全員が心からそう思っているのか疑問です。
    年少への刷り込みは、非可逆的な経験として、人生に影響を及ぼすことが科学的に証明されています。悲観的で不幸な信仰解釈のトラウマに陥る可能性が大きい。後継者が育たない一つの理由でもあるのですが、親世代の狂信はいつでも支配的、暴力的です。
    組織の健全さは、創造的人間の創造的運営から生まれる。会員拡大の報告を常に行いますが、創価の会員総数はいったいどれぐらいなのでしょうか?
    財務基盤や組織人数も分からないなんて、得体の知れない組織ですね。内外に対しての適切な分別ある情報公開、透明性によって、信頼に値する賢明な組織を望みたいと考えますが、無理なのでしょうか。時代遅れにならないようにしてください。ジェンダーバイアスではすでに、化石のような時代錯誤を決して矯正しようとしない不道徳さですから。

    関西婦人部長の声のかすれが気になりました。痛々しい印象を与えたように思いますが、本幹のためにきっと題目を上げ過ぎたのでしょう。全国婦人部をまえに、余裕の無さが垣間見れたように思います。
    H会長の相変わらずの抑揚とアクセントをつけた話し方は、演技指導をお受けになっているのでしょうか。少しでも立派に見せようとしているんでしょう。キモい粗悪老人www
    劇場型創価に変身しようとしていますね。もともと「小説・人間革命」も真実に嘘を混ぜ込んだフィクション。会員の皆さまは喜んでいらっしゃいますが、今はもう、カオスのように混沌として何が真実の歴史なのか、ほとんど分かりません。嘘でカモフラージュする詐欺師同然。ノンフィクションというテーマを扱う奇妙なフィクションの新ジャンルです。

      
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