信心のいさぎよきはすめるがごとし

    こんにちは。暑い日が続きますね。
    お体をいたわり、無理をされませんように。

    僧俗和合を願う人は少数派。創価にも宗門にも一定数はいると思いますが、今は強く主張できない雰囲気があります。しかし、僧俗和合が大聖人のご遺命であることに疑いはありません。大聖人は御書のなかで『弟子檀那等』とよく言われるではありませんか。わたしは、大聖人の慈悲心は、誰に対しても平等だと理解し、信じております。
    創価の会員の立場から考えると、大石寺は旧来の古典的僧侶像の考えから抜け出せないでいます。宗教は創造的に変化するものだという認識が抜け落ちています。たぶん、大聖人の革新性を理解できない愚かしい人々が、自分たちの地位について保守的になり、宗門を支配しているからだと思います。成仏さえも商売道具にする堕落ぶりは、もはや清新な仏教を望むべくもありません。
    僧侶は言い換えれば先導者です。先導者は普通、過酷な環境に置かれます。時代の改革者であり社会の開拓者でもあるからです。少なくとも、そのような志を持ち殉教精神が横溢する僧侶であることが、大聖人が望む宗門の姿ではないかと考えます。何事も根源である大聖人の立教精神に純粋であることが、一人の人間としても、さらに求道者としても必要なことです。

    『水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく
    みなの御心は水のごとし
    信のよはきはにごるがごとし、
    信心のいさぎよきはすめるがごとし』

    こういったご金言は他人のためにあるのではありません。また地位や名誉、経済的環境、生活境遇など関係ありません。大聖人と自分という純粋な信心のつながりと喜びのなかに潔さがあるのです。潔さがなければ成仏も叶いません。またそのような真摯な姿は、自然と尊敬も集めます。勤行や唱題、教学や演説が素晴らしいからといって尊敬を集められると思ったら大間違い。概して宗門は、言葉が貧しく表現が固定的です。良く言えば厳格です。悪く言えば創造的でありません。 またボキャブラリーが非常に乏しく、日蓮用語をわかりやすく多言語に翻訳する力量もなく、したがって世界宗教のアビリティーはほとんどありません。
    広宣流布が大聖人の願いですが、僧侶はその志を裏切っているにもかかわらず、自分の生き方に懐疑を抱かないという二重の裏切りを働いています。

    宗門の手垢にまみれた古びた感覚は、今に始まったわけではありません。なんとか生き延びてきた歴史と、時代の流れに安易に順応しようとする悪弊が、大石寺の草木の一本一本、建物や無造作に転がっている石ころまで染みついています。
    古いものを否定しているわけではありません。また培われてきた伝統や習慣のなかに、難しい人間関係を整理し和らげる作用があること、つまり潤滑油のような役目があることも認めます。でもそういうものは必要悪のようなものです。伝統や習慣が人を幸せするわけではありません。
    教義に関連して最も問題があるのは、「師弟不ニ」という人間関係を呪縛する強固な言葉です。宗門においても、師である法主に絶対的に権威権力が集中します。そして必ず無謬性が付加されます。創価においても同じですよね。理性では、師も人間であり間違いもあると認識していながら、いつも無謬性を意識します。つまり師は絶対に間違いがないと感情的に思っているのです。わたしはこのことをいつも悩んできました。

    感情が理性に勝ることは説明する必要はありません。人間は基本的に感情の動物です。だから血なまぐさい野蛮なことも平気でします。過去も現在の世界も、野蛮な行為が溢れています。人間は他の動物よりもずっと野蛮なのです。
    自分は絶対的に正しいと考えるのは理性ではありません。感情です。人間は誰でも間違いを犯すと考える人がクールでスマートな賢者です。謙虚さとは理性であり知性の発露なのです。

    大聖人は開目抄のなかで、謙虚に、自己懐疑を繰り返しました。「自分は一体何者なのだろう?」という、仏教上の命題と対峙されました。疑っても疑いきれない仏性への信頼と、法華経の行者としての深い自覚を伝えることが、開目抄のテーマです。大聖人が自問自答の問答を繰り返す場合は、決まって重要な哲学上または宗教上の命題がある場合です。なぜかと言えば、深く重大な質問をする人が当時は稀にしかいなかったからです。まさに仏教は混乱し廃れていました。釈尊の、自己否定(灰身滅智)から自己肯定(即身成仏)へと至る思惟が失われていたのです。
    原始仏教に伝わる釈尊の言葉に「自己こそ自分の主」とあります。また「自灯明法灯明」とあります。このような教説はとても重要です。わたしはどちらかと言えば大乗非仏説を支持していますが、右と左を分けるように、ここまでは仏説・ここからは非仏説と厳格に分けられるものではないと考えております。
    仏滅後の仏弟子たちは、とても偉大であり優秀だったのではないでしょうか。その研鑽の成果の真髄が法華経なのではないかと思います。これらの学術的歴史的検証は、これからも進められると思いますが、わたしは個人的に「自己こそ自分の主」という思想が、万人成仏を可能にした法華経の元になったのではないかと考えております。

    冷静に考えてみれば、宗門も創価も万人成仏を願っているのですから、互いを罵り傷つけあうという行為は道理にあっていません。悪を指摘し、改心させるために実行しているとすれば、その悪と同じものが自分自身のなかにあることをまず認識しなければならないでしょう。他者の悪は自分の悪と同質なのです。同質ということは発生の原因、生長の過程が同じということ。他者を謗ることは自分を謗ることと同じなのです。自身に向かって悪口を叫び、ツバを吐きかけ、怒って謗っている醜い姿は、想像するだけで恐ろしい。

    僧俗和合はわたしの願いでもあります。しかし、現在の異常さは、簡単に解消できるとは思えません。世代交代があり、100年後か200年後、寛容心に富む聡明なリーダーが現れれば、可能かもしれません。創価と宗門の離反は、仏教における根底的な問題と、聖職者と一般信徒の信仰への考え方の相違があるように思います。
    現在連載されている「新・人間革命」のなかで、宗門と創価の争いを詳細に語るのは当事者として当然のことだと思いますが、僧俗不和合という難題を克服できる方途はあるのかどうかを検討していただきたいと切に願うのです。また大御本尊への正直な心情を吐露していただきたいと考えております。それがリーダーの努めであり義務なのではないでしょうか。師弟を語るのであれば、同時に問題の克服方法も、弟子のために提示すべきです。
    こういう書き方をすると、自分は増上慢なのではないかととても悩みます。
    佐渡御書の最後の一節が目の前にちらつくのです。
    『螢火が日月をわらひ 蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし』
    婦人部からは退転者のように見られています。それでもわたしは自戒し、反省し、言わなければならないことは勇気を持って言おうと決意しております☆彡

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