男性原理と女性原理 2

    女性が、土俵に立ち入ることができない理由の一つに、女性は穢れているとされていることです。この「穢れ」とはいったい何なのでしょうか。死穢(死の穢れ)、産穢(出産の穢れ)、血穢(経血の穢れ)。このような穢れは病原菌のように伝染し、周囲を汚染すると考えられていました。女性特有の出血をともなう出産や月経が、やがて拡大解釈され、女性そのものが穢れているとされ、このような概念は仏教思想と合致し、女人禁制という女性排除へと発展したようです。男の勝手な言い分、都合の良い理由付けであることはあきらかです。
    日蓮は、出産についても言及しています。
    『法浄世界とは我等が母の胎内なり』(御義口伝)
    母の胎内は生命の出生するところ。生命というこれ以上の優れた宝はないのですから、宝浄世界と日蓮は讃えられました。女性への尊敬が感じられる言葉ですが、同時に法華経の男女平等思想を受け継ぎ、身分制度で成り立っている封建社会で、普遍的ルールと平等思想の遂行者の姿勢を貫いています。法華経の行者の実践と視座は、経典弘通だけでなく、人間関係や生活の細部にまでおよびます。菩薩は、人間的な悩みを決して疎かにしませんでした。
    現在まで残っている女人禁制という伝統は、偏見という差別のジェンダーバイアスに絡め取られ、呪われています。男性世界を侵す女性の力に畏怖を感じているのかもしれません。

    「釈尊と日蓮の女性観」では、さらに、本因妙・本果妙に展開して次のように述べています。
    『日蓮は、その著「百六箇抄」におきまして、
    「男は本・女は迹・知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可きなり」
    という言葉を残しております。……(中略)……
    この「百六箇抄」の「男は本・女は迹」という一節と同趣旨の表現として、本因妙は男性原理であるが、本果妙は女性原理である、という言い方ができると思います。本因妙とは、平たく言えば、常にスタートに立って「さあ、これからだ」と、未来へ向かっていく姿勢のことです。それに対して、本果妙は、過去の因行と現在の果徳に甘んじて、未来への指向性が弱いと言えます。
    この本因妙の姿勢が男性原理であり、成仏につながるものでありますが、本果妙の姿勢は女性原理であって、成仏からはほど遠いものです。そういう観点から「男は本・女は迹」と言われているのであります。このように考えますと、身体的性別という意味での「変成男子」はヒンドゥー社会を意識した妥協的産物としての便宜的な表現でありましたが、男性原理と女性原理の観点からとらえ直すと、「変成男子」も新たな意味を持ってくると思います。すなわち、「変成男子」の意味するところは、本果妙から本因妙への転換によって成仏が可能となるということになります。
    生命の傾向性において、本因妙(男性原理)に立てば成仏につながり、本果妙(女性原理)に陥れば成仏から遠ざかる。この論じ方は、もはや男性、女性という身体的差異というよりも、生命論的次元での男女論に飛躍しています。これは、外見としての表面的な差異にとらわれていません』

    本果妙的考えは性別に関係なく、常に生活のなかで賛美されています。功徳の価値を見積もり、感情的な宗教批判に推移して敬虔さが失われることです。果徳に甘んじる癖がつくと、組織に活力がなくなり堕落します。現状肯定はやがて現状不満に発展していきます。女性が愚痴を言うのはそのためです。自然に口から言葉が出る瞬間を女性は経験していますが、特に愚痴は出やすい特質があります。女性に怨嫉が多いのもそのためです。

    日常性のなかでの果報(果徳)について、さらに深い展開があります。本因妙・本果妙というメカニズムの違いを明確にします。
    『日蓮は、「御義口伝」において「法華経」観世音菩薩普門品第二十五の「求男」「求女」という言葉に即して述べています。
    それは、
    「第四 二求両願の事
    御義口伝に云く二求とは求男求女なり、求女とは世間の果報・求男とは出世の果報・仍って現世安穏は求女の徳なり後生善処は求男の徳なり」
    という一節です。(中略)
    だから「二求」とは、もともとの経典では、生まれてくる赤ちゃんについて、「男であればよいな」とか、「女の子がいいな」といった「親の求める二つの願望」のことでありました。この点、「法華経」という著しく普遍性を追求した経典にしてから、やはり民間信仰のようなものを取り入れざるを得なかったのか、と思うと興味深いものがあります』
    『日蓮が「御義口伝」において、この「求男」「求女」という言葉を使う場合は、「男性的在り方を求めること」「女性的在り方を求めること」という意味に読み換えています。その両者を求める主体は、男の子、あるいは女の子を産む「父」であり、「母」でありますが、これもまた男性原理、女性原理としての「父母」であることを忘れてはなりません。「父母」といっても、二人の人がいるのではなく、一人の人格における男性原理、女性原理として位置付けられています。
    (中略)
    これによって、「求男」は男性的価値観(男性原理)を求めることであり、「求女」は女性的価値観(女性原理)をもとめることという意味に言い換えられ、また、その「父母」として、その両者を追求する主体としての男性原理、女性原理という関係に位置付けされています』

    中国仏教で用いられた「体」と「用」が「本体」と「その働き」「属性」に相当するとして、男性原理、女性原理の体と用が「父母」と「求男・求女」として示されているとしながら、「求男」は「福徳智慧の男」であり、「求女」は「端正有相の女」「衆人に愛敬せらるる」と、御義口伝には解説されていることを述べてから、次のように男女の特質に沿った説明を加えます。日蓮の深い人間観は、眼を見張るものがあります。本因妙は男性的なもの、本果妙は女性的なもの。本因本果とは「父母」であり、「二求」のこと。
    『こうしたことを踏まえて、「求女とは世間の果報」「求男とは出世の果報」とされるのであります。すなわち、女性的価値観(求女=女性原理)は、「世間」、すなわち日常性の中での果報を求めるところにあるということです。
    これに対して、「求男とは出世の果報」となります。この場合の「出世」とは、会社で出世するというような意味ではなく、「出世間」(世間を出離すること)の略で、日常性を超えたところのことであります。そこにおいて果報を求めるのが、男性的価値観(求男=男性原理)であるというのです』


    このような性の傾向性は、生命の根本的特徴とも言えますが、決して別々にあるのではなく、一人の人間のなかに同居し、使命感、意志やモチベーションなどの内的動機になっていることです。信仰においても性差による傾向性がありますが、功徳や生活改善の欲求は女性が強く望むようです。
    婦人部の活動は、役職が上であればあるほど統一的一体感を重視し、団結というよりは、息を合わせるという姉妹的親しさのなかで緊密感を増していきます。婦人部が打ち合わせにかける時間の長さは壮年部にはきっと理解できないでしょう。通常の活動ですらそうなのですから、選挙や特別のイベントがあると大変です。このような準備がないと、つまり全員が背負う前提がないと、婦人部の活動は崩壊します。女性はリアリストであり結果に感情的に偏重します。非力な自分を常に感じており、その穴埋めを集団に参加することで埋めようとします。問題を一人で背負うことはありません。集団責任のような価値の同調は、上意下達の一方的な情報誘導のなかで承認欲求のすえに起こります。婦人部は権威的情報操作にとても貧弱な対応力より持っていません。池田先生や本部という権威は婦人部活動家の急所であり、その権威の範囲から、独自性を持ち逸脱することはありません。
    男性原理の特徴は出世間ですが、それは指摘されているように日常性を越えたところにあります。現在の果報を求めるより、未来の果報が保証されることに喜びを見出します。世俗的規範から離れ、執着を乗り越え、主体性の確立を求めますが、普遍性という評価基準を何より大切にします。妙法と名付けられるように、法の永続性と普遍性を強調するのは、男性原理の一部とも言えます。新たな解釈を含めて、一直線に本質へより迫ろうとするスタンスは、男性的で創造的。また闘争心が旺盛です。釈尊や天台、伝教や日蓮が男性なのは、生命のなかの性の傾向性に大いに関係があるでしょう。もちろん、女性が劣っているというわけではありません。男性のなかの男性原理が現状を肯定することなく、三世を貫く法を求め抜く強さがあるということ。また批難に耐える出世間の理想を堅持し、決して諦めないこと。

    『このように、男性原理と女性原理の特質を押さえたうえで、「法華経」薬草喩品第五の
    「現世安穏・後生善処」(現世は安穏にして、後に善処に生ぜん)
    の文を、これにからめて展開されています。
    この八文字を、「現世安穏」と「後生善処」の前後二つに分け、まず、その前半について「現世安穏は求女の徳なり」とされます。「現世安穏」だから、今現在と、身の回りのことに重点があるということです。その反面、未来への展望と広い視野に立つことが、この段階では欠けています。この「現世安穏」を求めることが女性的在り方を求めることであり、それが「求女」でもあり、女性原理でもあります。
    それに対して、後半部分については、「後生善処は求男の徳なり」とされます。現在という目の前のことよりも、むしろ「後生」、すなわち未来の理想に目が向いているということでありましょう。この「後生善処」を求めることが、男性的在り方を求めることであり、それが「求男」であり、男性原理となります。
    こうした両者の在り方が、本因妙、本果妙という姿勢となってくるのであります。すなわち、「現世安穏」として現在の結果に満足する本果妙と、「後生善処」として現在の因から未来を志向する本因妙としてであります。こうした違いを踏まえて、あえて男性原理と女性原理を本迹に分ければ、「百六箇抄」の「男は本・女は迹」となるというわけです』


    論旨の経過をまとめると
    男性原理 本因妙 求男 出世の果報 後生善処
    女性原理 本果妙 求女 世間の果報 現世安穏

    仏法は真理が連環していることが理解できます。一つのことに疑問を持つと、次々と疑問の連鎖が起きるということ。日蓮も、問いと答えの論文を多く著していますが、教育的指導と探究心、確信的で強い断定は、男性原理に由来するものかもしれません。

    なお本迹について、『根本と枝葉末節を明確にする「本迹」』ということで、わかりやすい説明がありますので引用しておきます。
    『男女の本迹を論じた「百六箇抄」には、
    「立つ浪・吹く風に・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」
    という言葉もあります。
    「吹く風」があるから「立つ浪」があるのであって、決してその逆ではありません。本末転倒した物事のとらえ方をいましめるために、「本迹」を論ずる必要性を強調されています。価値判断として、「迹」を無用のものとして切り捨て、「本」のみを選び取るべきであると言っているのではありません。本論の視点から言えば、男性原理、女性原理の両者がそろってはじめて完結することを前提としています。
    「百六箇抄」は、このようにあらゆることを本迹という観点から位置づけ、本末転倒した物事の捉え方を正し、何を根本とすべきかを明らかにし、その上で「本」と「迹」の両者の在り方を正そうとしていると言ってもよいと思います。この「本」と「迹」は、「本末転倒」の「本」と「末」の関係と似ています。
    「本」とは「本地」の略で「本来のあり方」ということです。「迹」とは「跡」と同義で、「あと」を意味します。両者は、「足」に対する「足跡」の関係になります。…太陽に手の平をかざせば、地面にその影ができます。この場合、手の平が「本」であり、地面に映った影が「迹」となります。<影があるから手の平がある>のではないことは、だれにだって分かることです。
    (中略)
    このように、先の「百六箇抄」の一節は、「本末」を明確にして、何が根本で、何が枝葉末節であるのかを見定めることの大切さを言っています。
    …自然科学や、社会科学における因果関係、あるいは「只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり」と形容される心のさまざまな働きにおいては、しばしば本末転倒した認識がなされているように見受けられます。こうした認識の誤りに付け込んで、さまざまな迷信、インチキ宗教がはびこりやすいから、「本迹」を立て分けて弁ずることが重要になってくるわけです。
    こうした議論は、天台大師が「法華玄義」巻七上に、
    「不識天月・但観池月」(天月を識らずして、但池の月を観る)
    という言葉を残しているように、「天月」と「池月」という例でも盛んに議論されています。それほどに私たちの認識が本末転倒したものになりやすいということでしょう』


    このような考え方は、妙法の根幹的な考え方の一つですが、この本迹は創価の御本尊問題にも当てはまります。当然のこと、大御本尊は本、その他の御本尊は迹です。迹の御本尊にも真実は内在していますが、それは本の大御本尊を投影し、その力用があらわれた時のみです。大御本尊が宗門の偏屈な石頭の坊主の息がかかるところにあることに、わたしは腹が立って仕方ありません。まるで、腐った泥のなかに咲いている白蓮華です。
    信濃町の大聖堂に安置されている創価学会の常住御本尊は、第2代戸田会長が発願し、当時の日蓮正宗日昇法主によって書写、授与された紙幅の本尊を、板に彫刻したものです。
    日昇上人は自分勝手に、その構造を決め、御本尊をしたためられたのでしょうか?
    日寛上人を含む歴代上人がしてきたように、必ず手本があったのです。つまり、御書にあるように、日蓮の魂魄を留めて生命を移すようにしたためられたことは自明です。御本尊には由緒が大切です。どのような深い信心の者によってしたためられたかどうかです。いい加減な信仰者が、どのように立派に書道の腕を発揮したところで価値はありません。
    人間には誰しも、生物学的な唯一の父母から、必ず両親の遺伝子を受け継ぎます。法と信仰の血脈とは、この遺伝子に象徴される親の生得の尊厳を受け継ぐことなのです。創価の本部常住の御本尊は、一閻浮提総与の大御本尊の遺伝子を受け継いでいます。戸田先生は、そのような御本尊を望んで、広布のために願主となられたのです。したがって、何度も繰り返し、頑固に、大御本尊から離れてはいけないとご指導されているのではないですか。会員を第一に思う替えがたい慈悲があるからです。この御本尊の普遍性は、池田先生もかつてご指導されていたように、永遠に変化するものではありません。環境や時代に関係なく法則は普遍的なのです。そのことを信じられるかどうかが、妙法の信仰なのです。
    しかし、池の月はただの影なのに天月だと言い張り、創価の在家僧は否定しました。迹を本と偽り、根本の問題を避け本質から目をそらしている。創価も、多くの会員も、今まで何を信じてきたのか、とても疑問に思います。創価流の教条主義に犯されている。五老僧の追随者に成り果て、正しい法の分別に迷っている。戸田先生が、75万世帯の広宣流布の願業を達成されたのも、会員の大御本尊への篤い信仰があればこそです。今はその恩を忘れている。
    広布のための御本尊と、まるで悲鳴のように叫び散らしますが、広布のための御本尊といったら大御本尊よりないでしょう。真実が失われる末法の時代相を鮮やかに写して、本末転倒に気づかないとは、戸田先生も嘆き悲しむことでしょうね。
    都合の悪いことは忠実な弟子にやらせ、池田先生自らは、知らん振りを決め込んでいる。また会員を欺き続けている。創価の師弟は、一貫性が失われ、教義の整合性を、自ら捨てている。名誉や勲章で着飾り、永遠の指導者などと祭り上げられて、羞恥心とか、人間が感じる普通の情感や理性がないのでしょうか。釈尊も日蓮も、悟った者がどれだけ質素で謙虚であったか。余計なもので飾らないシンプルさのなかに、人間の偉大さが表れます。

    信と解は信仰者の両足のようなもの、信解があるから立つことができる。信が深まれば解も深まり、解が深まれば信もダイナミックに躍動する。成仏の成就は信解の協調によるものです。しかし、大御本尊への信仰と受持を否定した創価では、信解の調和の後退を引き起こし、人格完成の成就の道をふさぐ。

    Impossible
    Two Steps From Hell
    (feat. Merethe Soltvedt)





    ◇◇◇

    P.S.
    植木氏の「法華経・現代語訳」を読むと、いろいろなことに気づく。詳細は実際に読んでいただくとして、最後の解説に次のようにあります。
    『原始仏典を読む限り、仏教の目指したことは、次の三つにまとめられる。
    ①一貫して平等主義を貫いた。
    ②徹底して迷信・占い・呪術・ドグマを否定した。
    ③真の自己に目覚めることを最重視した。』

    このような仏教への基本的な理解は、大変重要です。植木氏は、仏教の歴史を簡潔にたどりながら、男性・出家者中心主義、権威主義的傾向、歴劫修行、釈尊の神格化、などを説明しながら、優れた思想でもあった仏教の形骸化が免れなかった史実を語ります。
    法華経をはじめ大乗の主張は、釈尊の原点に還れをスローガンとするルネサンス運動であったことを、平等思想と一仏乗を説く法華経信奉者の人間像を通して描きます。畏れることなく、権威主義や非難と暴力に立ち向かった菩薩が、実際に存在したのです。権威主義といえば宗門の僧侶の姿が思い浮かびますが、最近は、創価もこの部類に入りそうです。聖職者と詐欺師は紙一重。いくら偉大な妙法でも、その動機と根拠がいかがわしければ、搾取し隷属させることはできても成仏は叶わない。

    「終わりに」という最終章で次のようにまとめております。
    『教団運営だけでなく、思想の理解の仕方において形骸化を免れない。例えば、大乗仏教は、あらゆるものを実体視して執着することを戒めた「空」の思想を説いたが、後に「空」ということ自体もまた実体視され、執着するようになってしまった。「空亦復空」(空もまた空)を言わなければならなかったゆえんである。それでも、さらに「空亦復空」自体も実体視され、「『空亦復空』亦復空」(「空亦復空」もまた空)を説かねばならなくなり、その無限連鎖が繰り返されるのではないかと心配したくなるほどである。
    権威主義を排し、一仏乗という卓越した平等思想を唱えた「法華経」も、形骸化され、権威の象徴に祀り上げられることもあるかもしれない。それは、ほかならぬ「法華経」自身が「正しい教え(正法)に似[て非な]る教え」(sad=dharma-pratirupaka,像法)という言葉を用いて懸念していたことである。歴史の教訓として、常に原点(原典)に還ることが重要である』


    永遠の指導者という権威の象徴から、牧口、戸田先生の原点に還ることです。正しい教えに似て非なる教えとは大変示唆に富む言葉です。形骸化という、真実を求めようとしない姿勢は、像法時代という過去にあるのではありません。常に、現在の求道者の心理のひだに在り、膜が張られるように感性と理性を麻痺させ、錆びついていく命の衰えを表しています。それでいて自らを顧みず、わたしは正しいと主張するところに、不幸への連鎖は始まると言ってもよいでしょう。創価の御本尊は、日蓮のアイデンティティーを喪失しています。可能すら不可能にする、実現性への疑問が次第に強くなっていくでしょう。会員の減少が、その事実を何より物語っています。自然増や自然減といった認識を越えています。公にできないほど著しく減少している現実に、目を閉ざしている。人を引き付ける宗教性や、哲学的要素の具現性が、創価では薄らいでしまったということでしょうか。

    『現代語訳』の方便品を読んでいたら、気になるところがありました。それは、有名な十如是の一節です。サンスクリット(梵語)の原典と鳩摩羅什の漢訳と現代語訳を対照させ、綿密な分析と注釈を付けて、著者が言明しているように、曖昧さを残さない翻訳に挑戦しています。真面目な会員なら、毎日読誦している方便品の最も重要な箇所でもある十如是は、丸暗記していると思いますが、サンスクリットからの現代語訳は、次のようなものです。
    『それらのものごとは(諸法)は、何であるのか、また、それらのものごとは、どのようにあるのか、また、それらのものごとは、どのようなものであるのか、また、それらのものごとは、どのような特徴を持つのか、また、それらのものごとは、どのような固有の性質(自性)を持つのか――[すなわち、]それらのものごとは、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのかということを。それらのものごと(諸法)に対して、如来だけが[上記の五つの点において]明瞭であり、明らかに見ておられるのである』

    この部分の注釈に
    『この五項目に相当する箇所を鳩摩羅什は、「如是」(是くの如き)を冠した十項目、すなわち相(外面に現れた姿)、性(内面的な性質)、体(本質・本体)、力(内在的な能力)、作(顕在化した作用)、因(内在的な直接原因)、縁(補助的な間接原因)、果(因と縁の和合による内在的結果)、報(内在的果が具体化した顕在的結果)、本末究竟等(本と末、すなわち相から報までのすべてが融合していること)――の十如是として訳している』

    鳩摩羅什によって、五項目が十項目に拡大解釈されましたが、漠然とした法理が、きっちりとした言葉によって定義され表現されました。
    「ほんとうの法華経」(ちくま新書)でも、対談者である橋爪大三郎氏(社会学者)が質問しています(「第二章」 p113)
    『橋爪 さもなければ鳩摩羅什が勝手に創作して、五つだったものを十にしたことになる。
    植木 その可能性が高いと思います。
    橋爪 植木先生は、なぜ鳩摩羅什がそこを拡充したとお考えになるんですか。(中略)
    植木 サンスクリット原典で「諸々の法は、何であるのか、どのようにあるのか、どのようなものであるのか、どのような特徴を持つのか、どのような固有の性質(自性)を持つのか」という疑問節(間接疑問文)で表現したことを、鳩摩羅什は「諸法の実相」(あらゆるものごとの真実の在り方)と漢訳したと思います。その際、「諸法」を「諸々の教え」だけでなく、さらに一般化して「あらゆるものごと」にまで拡大して、その存在の在り方、因果の連鎖の在り方として、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等という十如是になったのかな――と推測するしかないですね。(中略)
    橋爪 これはもう、鳩摩羅什の創作ですね。
    植木 そうですね。鳩摩羅什は、先ほど言ったように会座の参列者数の1200を、12000にして数字の桁数を繰り上げたり、同様の文章が繰り返される時、そのうちの一ヵ所に、わかりやすくするためだと思いますが、ひとこと書き加えたりするようなこともしております』


    十如是は天台の一念三千法門、日蓮の十界曼荼羅の基礎です。学術的には、一般的認識である鳩摩羅什の創作について、わたしは不勉強で知りませんでした。
    以前、仏教は再解釈の歴史であると書きましたが、このような英知の結実の連続なのですね。仏教という大きなカテゴリーは、とても寛容です。釈尊が説かなかったことも、仏弟子たちの論証と思惟を取り入れ、消化する真理の深さを実感しますが、創価が創作した創価学会仏には感心しません。選挙運動する仏や菩薩は想像できません。根本を変えて漂泊する放浪者のような信仰者に、果たして未来はあるのでしょうか。

       
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