太陽の仏法 4

    人間って、ときには悪的要素が必要なのではないかと考えたりしますが、善良でばかりいることはあまり面白い人生ではないのじゃないかと、法律うんぬんとかの問題ではなくて、ワルのポテンシャルがときには現状打破のエネルギーになるかもしれないと、このうえなく純情なわたしは、時々考えるときもあるんですよ。もちろん悪を容認しているわけではありません。世のなか複雑すぎて、擦り切れるように気持ちも萎えていきます。持続性に課題ありですね。毎日は容赦なく続いていくわけですから、自己エンジンのメンテナンスも欠かさずに、向上への意欲をフォローアップしていきたい。
    決まったエクササイズはしていませんが、柔軟体操とベッドでヨガ的集中姿勢の堅持で、気持ちを整理するのがデイリー・ルーティン。つまり、心身ともにリフレッシュして、次の戦いに備えようとの善き心掛け。ハッピーラインはまだまだ遠い!

    異常な暑さが続き、日本列島全体が大きなフライパンのうえで熱せられているようです。死者も増えているこの殺人的暑さは、総罰のせいで、魔神が神社で暴れている結果なのでしょうか。この異常気象は世界的で、各地で被害をもたらしているようです。地球が灼熱地獄と化していますが、気象庁も警告を発するぐらいなら、創価に頼んで、神仏の加護を祈ってください。
    また、総罰を主張することで、オカルトまがいの超自然の力を畏怖するイメージが思い起こされます。このようなスピリチュアルで霊的な神秘性は、理性的な論理を大切にする宗教が、もっとも嫌悪する現象です。創価の一部の人間の主張は、宗教の非科学性を強調しており残念でなりません。いつまでたっても宗教の害毒から抜け切れず、組織の醜い低俗性に反映されます。
    会員の師である池田先生は、ずっと科学的であり、理性的ですが、弟子は不勉強のうえオカルト好きに加え、非人間的な断定を下して平気。仮面を被っているような冷酷さです。その冷酷さに追い打ちをかけるように、台風まで上陸してきました。もしかしたら、大御本尊に唾をかけた創価が、不吉な魔になっているのではないでしょうね。

    産業革命以来、科学技術の発達と経済のグローバル化は、人類にその恩恵をもたらしました。その反面、温暖化という人類に壊滅的な結果が想定される気候変動の脅威も増加しました。
    第43回(2018年1月26日)SGI提言で
    『SDGsでは、貧困や飢餓や教育をはじめ17分野にわたる目標が掲げられていますが、この中で近年、国際協力の枠組みづくりが進んできたのは、気候変動の分野です。
    昨年11月、地球温暖化を防止するためのパリ協定に、唯一の未参加国だったシリアが批准しました。脱退の意向を示しているアメリカの今後の動向が課題として残るものの、世界のすべての国が温室効果ガスの削減に共同して取り組む体制が整ったのです。近年、異常気象が各地で相次いでいますが、その脅威と無縁であり続けることができる場所は、地球上のどこにもありません。
    干ばつと洪水による被害や海面上昇の影響などで住み慣れた場所を追われる「気候変動難民」の数も増加しています。温暖化に歯止めがかからなければ、最悪の場合、2050年までに10億人が移住を強いられるとの予測もあります。  
    パリ協定は、そうした深刻な脅威から多くの人々の生活と尊厳を守る命綱となるだけでなく、将来の世代のために持続可能な社会を築く土台となるものです。  
    発効から4年以内(2020年11月まで)は、どの国も脱退できない仕組みとなっており、アメリカがこのままパリ協定の枠組みにとどまって、各国と共に目標の達成に向けて行動することが強く望まれます』

    解決に向けて努力する、世界の科学技術者や政治家や人道的活動家などをあざ笑うかのような、魔神のせいだの、日天のせいだと考える会員が未だにいることが驚きです。師は各国の誠実な協調と問題意識の共有を訴えていますが、弟子は諸天が怒っているせいだと、まるで狂信者のようです。末法の因習深い終末思想は命深く染みついています。
    いったい創価の宗教教育はいかなるものなのでしょうか。
    賢明な会員を育てるために役立っているのでしょうか。
    魔神のせいにして何かが解決するのでしょうか。


    ◇◇◇


    太陽の仏法」という比喩は、池田先生がスピーチや文章によく用いる表現です。万人に平等に恩恵を贈る優れた妙法を顕し、日蓮の御名前にも通じてイメージしやすい言葉です。悩める人に希望を与え、信じることの崇高さで、社会全体の変革をも可能にする妙法は、公平でフェアな中道思想です。人間は平等であることで、本来具わっている生きる強さを発揮できるようです。ポジティヴな自分自身を発見し、また自分以外の不安や苦痛に対して、同苦する思いやりや慈悲心を、積極的に涵養する人間的大きさにも通じます。あらゆるものが「太陽」という万人が認める喜びに凝縮することでしょう。太陽の光は、万物を育むと同時に、自分の胸のなかにも輝いている命のきらめきです。また太陽は御本尊そのものであり、信仰の根本です。


    平成3年12月15日
    川崎文化音楽祭/広宣の舞台で戦う人は皆美しい
    『血脈の本義について、少々述べておきたい。
    日有上人は、「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動せざれば其ノ筋目違ふべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず、(中略)高祖已来の信心を違へざる時は我レ等が色心妙法蓮花経の色心なり、此ノ信心が違ふ時は我レ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず、一人一日中八億四千の念あり、念々中の所作皆是レ三途の業因と」(「化儀抄」富要一巻)
    (信といい、血脈といい、法水ということは、同じことなのである。信心が動かなければ、その筋目は違うことはないのである。筋目が違わなければ、血脈・法水は違わない(正しい)のである。(中略)大聖人以来の信心を違えない時は、われらの色心は妙法蓮華経の色心である。この信心が違う時は、われらの色心は凡夫の色心なのであり、凡夫であるゆえに、即身成仏の血脈ではないのである。一人が一日に八億四千の念々を起こす。その念々の所作が皆、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の原因となるのである)とお示しになっている。
    つまり、「信心」と「血脈」と「法水」とは"同じこと"であると――。むずかしいことは何もない。信心が動揺することなく、「正しい信心」を貫くところに、血脈が誤りなく流れるのである。
    大聖人以来の信心を少しも違えずに実践する時に、われわれの色心は、仏の血脈が流れる妙法の当体となって、その身そのままで成仏できる、と。反対に、大聖人の仰せに背き、信心が狂った場合には、すべての行為が三悪道に堕する悪業になるのである』
    『さらに、この御文について、日亨上人の註解を参照しておきたい。
    「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・撹乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし」(「有師化儀抄註解」富要一巻)
    要するに「正しき信心」をつらぬきゆく時、御本仏日蓮大聖人から信徒の生命へと法水が流れ通う。それを信心の「血脈相承」というのである、と。(中略)
    ご指南は明快である。大聖人、日興上人以来の信心・実践を少しも踏みあやまたない時に、われら凡夫の色心が妙法の当体となるのである。
    反対に、仏意に背いて邪信、迷信となった場合には、血脈の流れる通路がふさがってしまうため、血脈を継ぐ「資格」が「消滅」して、堕地獄の道をたどることになる。破仏法の人間は、だれであれ、事実のうえで、即身成仏の血脈を受ける資格を喪失しているのである。
    仏法の根本は、どこまでも「信」である。地位でも、権威でもない。「信心」の二字にこそ、御本仏からの血脈は通い、生き生きと脈打つのである。
    もしも信心を失い、信心が狂った場合には、立場が高いほど、むしろ厳しく「法」によって裁かれることは間違いない。「信心の血脈が切れる」などと脅しているほうが、じつは血脈が切れているのである。絶対にだまされてはならない。
    創価学会の「信心」は何ひとつ変わっていない。動いていない。変わったのは宗門のほうである。大聖人以来の成仏の血脈は、私どもに脈々と流れていることをいよいよ確信し、悪僧たちを見おろしながら、朗らかに、堂々と、前進してまいりたい』


    日亨上人は別の文章で、「薄信」「臆病」の信心で法難を招かないような門下は、「非日蓮的」であり、大聖人の御本意から遠い卑怯者であり、門下でもない、と厳しく断言されている。正本堂、大客殿をはじめ信徒の真心をことごとく裏切った宗門は、日蓮の正統を名のっていても、大聖人の門下ではありません。
    上記の長い引用は、血脈について、あるいは法水について、当然と考えていることを当然のように、スピーチされたものです。信仰であるかぎり、僧であれ在家であれ、信に重きを置き、信が中心にあるのは、誰が考えても当たり前のこと。その信の流れに堰を作り、石をならべて障害を作り、素直で直情的、ありのままの信を遮断するように、人為的にせき止めているのは、僧がもったいぶった儀式中心の形式主義者であるからです。いかにも苦労しているポーズを装い、何も言わない御本尊すら騙そうとしている。
    日蓮が信徒に寄せるかぎりない優しさと、激しい革命精神を持った僧は、宗門のシステムのなかでは育たないでしょう。師が秀れていれば弟子も秀れているとはかぎらない。師が凡庸であれば弟子は凡庸であること、ほとんど不可避です。絶えざる向上の源泉として御本尊と信仰を保つこと、少しでも日蓮の御心境を考え、そこから学ぼうするなら、教義に対しいい加減な姿勢では、正しい信仰者とは言えないでしょう。
    池田先生は、「創価の信心は何ひとつ変わっていない」とスピーチされています。大御本尊に対し、御本仏に対し、動揺することなく、変化することなく、信仰に対する態度は、今までどおりにこれからも、変わらないと言っているのですよ。このようなメッセージを、過去のものとする会員の便利な言い訳は、教義について、ほとんど何も考えていない証拠でもありますが、池田先生も自分の言動に責任を持たないいい加減さの証拠でもあります。真面目な会員を偽っている。
    「動いていない、変わったのは宗門のほうである」池田先生のご指導を無にする弟子が、動揺したあとで、師弟不二を主張するのですから、もはや何をか言わんやです。自分の矛盾する過去の言動を恥ずかしく思わない厚かましさに、創価の根本的な問題があります。はたして血脈が流れているのか、大いに疑問ですが、大御本尊への信受を否定したところから、創価の迷走は始まりました。道理に適わない信仰は、瞬く間に不幸とともに邪宗に転落します。そのように三代の永遠の指導者が、永遠に変わらないと確信を込めながら、ご指導されてきたのではありませんか。
    血脈について、これ以上のことは言うべきことを知りません。血脈とは、正しい御本尊への強情な信仰ということなのです。それ以外に血脈はありませんが、御本尊とは、一閻浮提総与の大御本尊より他にありません。


    平成3年12月23日
    荒川・立川文化音楽祭/広宣の聖火を偉大な庶民の都から
    寺院での御授戒の経緯について詳細を述べたあと
    『戸田先生は昭和二十九年(1954年)七月の本部幹部会で、その実態の一端を述べておられる。
    「地方に、一軒の正宗の寺があった。学会の地方折伏の趣旨を話したが、『勝手にやりなさい』となんら助けてくれない。しかたがないので、(聖教)新聞とチラシをもって、一軒一軒まわった」と。
    ほとんどの僧侶は、学会の折伏・弘教の活動に対して無理解であり、むしろ批判的でさえあった。その後、学会による折伏・弘教の進展とともに、全国の寺院でも御授戒が行われるようになっていった。
    同じ牧口門下生の柏原参議会副議長は「なかには、やり方をよく知らない僧侶もいて、学会の幹部が教えてあげたこともある」と述べている。
    また、"謗法払い"も、学会が厳格に実践し、定着させた。総本山内の謗法払いまで、学会の力でやったのである。
    「宗門がどんなに威張っても、全部、学会が教えてやったんじゃないか」と、牧口門下生は皆、語っていた。
    これが、正宗で「御授戒」が行われるようになった経緯である。信仰の"けじめ"の意義で御授戒の儀式は行われていたのである。本来、その形式自体が絶対に必要というものではなかった。
    大聖人の仏法の「受持即持戒」という本義からいうならば、御本尊を受持した時、または、最初に御本尊への信を起こした発心の時が、末法の戒を受けた時といえるのではないだろうか。
    さらにいえば、本来、戒とは"授けられる"ものというよりも、自身の決意で主体的に"持(たも)つ"ことに眼目がある。発心を持続することが、戒を持つことになるのである』

    宗門のだらしなさは、僧の傲慢に起因しています。信への傲慢さであり、行の傲慢さであり、学への傲慢さです。修行者としての必要な堅実さを放棄し、始めから終わりまでのトータル的な過程での傲慢さです。信徒の健気さをバカにし、あってはならない信仰の慣れから安易に結果を予想して、妙法の功徳を矮小化し卑下するものです。キャラクターに不釣り合いな権威や権力を手にすると、なにを勘違いするのか、尊大さだけが身に付くようです。僧は不必要であるけれど、出家としての純粋さを維持できるなら、求道者として尊敬を集めるなら、広布のリーダーとして認められるでしょう。
    まず、在家の供養を当てにしないで自給自足を心掛けるべきです。シンプルで、ストイックな生活にこそ、求道者の真実があります。信仰態度は生活態度に反映されます。出家者の真剣さに、在家は心打たれることでしょう。
    御授戒の由来を語っておりますが、化儀として定まったものがなかったのかもしれません。あったとしても一般的でなかったために、僧自身も知らなかったということでしょうか。
    宗門は勤行ひとつとっても、五座三座を主張しますが、時代にそぐわないことは明白です。そもそも勤行は儀式形式の最たるものです。個人的な意見ですが、勤行は個人の裁量に任すべきです。主要な勤めは唱題です。より簡易な修行方法にこそ妙法の醍醐味があり、大乗の精神があるでしょう。
    化儀は妙法の本質ですが、十分な理由のもとで変化することもあるでしょう。日有上人は、化儀抄で御指南されておりますが、偏狭に解釈すべきではありません。
    『貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか』
    差別なく同等であるとご指南されておりますが、「上下の節」「其の位」「礼儀」とも言われております。僧俗の組織上における互いの役割としての「上下」であり、その理解と尊敬は、御本尊崇敬への気持ちから発揮されます。一般的、社会的「上下」であり、宗門にのみ通用するような「上下」ではありません。人間としての礼節としての「上下」です。法は常識外にあるのではありません。法が尊貴であるがゆえに、その法の実行者への賛美と尊重であり、「人の振る舞い」の表れです。広布はそれぞれがその役割を果たすことが必要であり、労苦への菩薩としての礼節です。御本仏が願い望んだ理想の組織は、平等な理念と尊敬が溢れている組織です。
    「礼」は仏法の真髄にも通じています。他者の存在に礼を持って敬意を払うこと。異なる他者、文化を尊重することは、平和的共存の基本です。日蓮は、立正安国とともに、社会の安寧を求めました。その社会の基本原則は他者への懐疑ではなく、他者を尊重する行為への信頼です。
    妙法が世界宗教へと飛躍するためには不平等思想は禁忌のなかの禁忌です。そのような社会習慣と差別意識を克服するための妙法ですが、宗門の古臭さは、伝統を重んじるあまり、法の柔軟性を放棄、順応性もありません。宗門の僧が、イスラム圏やキリスト教地域で、弘教する姿を想像できません。日蓮は日本から世界へと流布する世界宗教を望んだのであり、各分野で活躍する在家の実行力が問われる時代であることを、宗門の石頭も知るべきです。僧の無力さは自覚なき無力さです。無惨としか言いようがありません。早い話、大御本尊と三大秘法が不変ならば、他は臨機応変に変化しても一向にかまいません。円教(法華経)の大いなる肯定主義は、妙法的ヒューマニズムということ。他者の理念と信条への尊厳と肯定こそ、世界平和へのキーワードです。

    大御本尊は「一閻浮提総与」であられる。全民衆の幸福のための御本尊であられる。その大御本尊が書写された、会館や皆さまのご家庭の御本尊も、御本尊としての御力に、何の違いもない。
    また、仮に御本尊を拝せない場合も、強盛な信心の唱題は、大御本尊に必ず通じていく。妙法は全宇宙に遍き大法なのである』

    妙法の信仰者としてこれ以上の何を付け加えることがありましょうか。このために受持したのであり、無二の信心を貫くことを誓ったのです。わたしはその信念を変えることはありません。創価の、池田先生の身勝手さに左右されることはありません。やがて、大御本尊への反逆者としての不名誉を勝ち得ることができるでしょう。


    平成3年12月26日
    沼津文化会館を初訪問/学会の「宗教革命」の正しさ確信
    『正本堂が完成する前、本門戒壇の大御本尊が御安置されていたのは奉安殿である。これは、学会によって建立寄進された最初の建造物であった。
    昭和三十年(1955年)十一月二十三日、奉安殿落慶の折、戸田先生は、挨拶のなかで、こう語られている。
    「学会は、日蓮大聖人の時代に還れ、大聖人の弟子檀那に還れというのが、私の主張であり、信念であります」(「戸田城聖全集」第四巻)と。
    学会は「日蓮大聖人の弟子」である――これが大御本尊の御前での、戸田先生の宣言である。
    奉安殿ができる以前、大御本尊の御開扉は御宝蔵で行われ、お目通りできる人数も限られていた。奉安殿への大御本尊のお出まし――それは、学会の前進とともに大聖人の仏法が、いよいよ広宣流布へと向かう一大転機であったといえよう。
    日昇上人は、奉安殿の落慶にさいして、次のようにお述べである。
    「今亦ここに戒旦本尊奉安殿を建立寄進し以て本宗究竟の帰趨たる本門戒旦本尊をして永久に安穏ならしむ其の功大なる」(戸田先生への賞状)と。
    すなわち日昇上人は、学会によって、本門戒壇の大御本尊が、永久に安穏となられゆくことを心から喜ばれた。そして、仏法上「その功は大きい」と、心からたたえられたのである。
    また、日淳上人(当時、重役)も、奉安殿を御覧になり、「戒壇の大御本尊が御宝蔵から宝輦(宝で飾られた輿)にお乗りになってお出ましになった」と喜ばれた。
    さらに、日達上人(当時、庶務部長)は、落慶式の閉会の辞の中で、奉安殿建設に協力した寄付者名簿(百数十冊に及ぶ)を指されながら、「これ(名簿)は(大御本尊御安置の)須彌台に向って正面の右側が庫になってをりますから、この中に秘蔵致し、この奉安殿と共に永久に保管されます」と、学会員一人一人の真心に応えて述べられた。
    私どもの真心の「真実」は消えない。広布の歴史に永遠である。その福徳も永遠にちがいない』

    貧しかった多くの会員の真心……自分の家より大御本尊のお住まいを……が、結局どうなったのか。永久に保管されると約束しても、僧の憎しみの対象になり、破壊されたのではないでしょうか。創価も一貫性に問題がありますが、宗門はそれ以上に本末究竟等していない。日蓮の継承者とはとても思えません。仏教という井戸のなかで生息してきた蛙の一種で、仏法即世法と説きながら世間知らずという奇怪な有様です。

    『大御本尊は「一閻浮提総与」の御本尊であられる。全世界の民衆のために与えられた御本尊であられる。
    ゆえに「全世界への道」を開きに開いていくことが、大御本尊を真に奉じゆく実践となる。現実に「道」が開かれてこそ、大御本尊と世界の民衆が結ばれる。日蓮大聖人の「一閻浮提総与」との御心を実現しゆくことになる。
    この「世界への道」を開いたのは創価学会である。
    「道を開く」と、ひと口に言っても、なみたいていの苦労ではない。歴史的に仏教と無縁の国もあれば、敵視している地域もある。文字通り、命がけで開いてきたのである』

    情けないほど臆病な僧が、敵視している国々に、これから弘教していくのでしょうか。700年の間、日本から出ることがなかった御本尊も、創価の名もなき人々の篤実な行動と使命によって、少しでも開かれてきましたが、宗門は、創価を破門してから27年、敵視している地域に、その一歩となる牙城を築くことができたのでしょうか。御本仏もなぜ、後世をこのような憐れな人々に託さなければならないのか、その御真意が計りしれません。
    上記のスピーチは、ブーメランのように、全部自分に返ってきます。信徒を大御本尊から引き離した宗門も、その罪から逃れることはできません。正しくても栄えることはありません。民衆仏法であることを忘れています。池田先生も、創価の皆さまも、日蓮大聖人の時代に還れと叫ばれた、戸田先生の御精神を思い出すべきです。大御本尊を離れて信仰の本道はないでしょう。


    Shostakovich Symphony No. 5 fragment

    ショスタコーヴィチ : 交響曲第5番「革命」第4楽章




    (Wikipedia)から引用 .......................................................................
    1936年、スターリンの意向を受けたソビエト共産党の機関紙「プラウダ」が、ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を「音楽のかわりに荒唐無稽」、バレエ音楽『明るい小川』を「バレエの嘘」と激しく批判する。当時のソ連の社会状況を考えれば、これは単なる芸術作品の批評にとどまることなく、最終的に作曲者のショスタコーヴィチ自身を「体制への反逆者」として貶めることへまでつながっていった。
    かつて「モーツァルトの再来」とたたえられたショスタコーヴィチも、この批判によってソ連における基盤は微妙なものとなった。これにより、当時精力的に作曲をしていた交響曲第4番も、作曲者自身の意志で初演を直前に取りやめざるをえない状況になった。またこの時期、スターリンの大粛清によってショスタコーヴィチの友人・親類たちが次々に逮捕・処刑されていった。このような厳しい状況に晒される中、ショスタコーヴィチにとっては次の作品での名誉回復が重要であったことは明らかだったと見られている。その作品の一つが、この交響曲第5番であるとされる。なお、近年の研究では、名誉回復のためというよりも、当時のソ連の不安な社会情勢がこの新しい交響曲を書こうという刺激を与えていたのではないかとの説もある。
    交響曲第5番は、第4番などに見られるような先進的で前衛的な複雑な音楽とは一線を画し、古典的な単純明瞭な構成が特徴となっている。この交響曲第5番は革命20周年という「記念すべき」年に初演され、これは熱烈な歓迎を受けた。
    ソ連作家同盟議長アレクセイ・トルストイによって「社会主義リアリズム」のもっとも高尚な理想を示す好例として絶賛され、やがて国内外で同様に評価されていったため、交響曲第5番の発表以後徐々に、ショスタコーヴィチは名誉を回復していくこととなる。
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    太陽の仏法 2

    7月10日の朝、御本尊に悲しみと哀悼の祈りを捧げました。
    犠牲者や被災者のなかに、真面目に信仰に励む会員もおられたことでしょう。
    その人のために祈ります。その人の家族や親族、友人のために祈ります。

    西日本を中心にした7月豪雨は、近年にない未曾有の災害になりました。
    近畿、中国、四国、九州の広範な地域に特別警報が発せられ、重大災害警告の危険な状況のなかで、8日、福岡で本部幹部会が開かれたことが、10日の聖教に報道されておりました。勤行を終えてから、聖教を見て、その鈍感さにビックリしましたが、これはいつものことと思い直しました。
    「妙とは蘇生の義」と冒頭に掲げていますが、グロテスクなジョークでしょうか。「先駆のスクラム」って、泥にまみれた無残な街で、どうやって走るのだろうか。そういう街は対象にしていないのでしょうか。師弟ともに非常識ですね。

    自然災害と死について
    会員は、その純真な信仰のおかげで善き生を全うすることを約束された人々ですが、その会員の死を考えると、死の瞬間の悲しみと苦しみ、断末魔を思うと、妙法は本当に宿命転換の力がある法なのかと疑ってしまいます。そもそも宿命がいかなるものなのか、その実体はほとんど理解不能です。科学的に言えば遺伝子ということになるかもしれませんが、そこに災害遭遇の運命遺伝子も含まれているのか、考えれば考えるほどわからなくなります。
    遺伝子の進化は固定的でなく、とても柔軟性に富んでおり、創造的です。善も悪もはっきりとした概念で遺伝子を構成するわけではないように思う。十界互具はとても科学的。日蓮が自ら正法誹謗の罪を認めたのは優れているし、革新的なことだと考えられます。しかし其罪畢已という終局の設定は、進化の歴史を考慮すると科学的ではないように思う。心の戝とはまさに遺伝子のこと。宿業論は遺伝子の科学的研究と証明との間で矛盾してはならない。
    宿業は人間の身体全体に付加されている生命情報の設計図のようなもの。人間の身体から離れたどこかにあるわけではない。肉眼で確認は難しいけれど、心を込め強い意思で反復する祈りは、生命浄化の確実な方法であることは間違いないでしょう。蘇生は祈りであるとも言えますが、その祈りの対象を正しく認識することが先決です。会員の皆さまは、何を目指し、どこへいこうとしているのか、自分が何を拝んでいるのか、知っているというのでしょうか?
    突然変異や再編成、修正しながらつなぎあわせ、新しいピースを生み、切り刻んで結合し、変化し再生産していくダイナミックさ。遺伝子は、全生物の過去の記憶と情報のDNAという物質の集合体。この組み合わせ無限大の進化の歴史を、宿命と名づけることを発明したのが、そもそもの宗教のはじまりなのかもしれません。
    また対立しやすい自己と環境の関係を、依正不二と画期的理論で説きながら、いつまでも悪性の依報を克服できないでいるのも人間です。浄土といっても、穢土といっても、自分の胸のなかにあるのですから、災害がもたらす不幸を必ず克服できる妙法ですが、未だに自然災害も戦争といった社会的災いも解決できていません。完成した人格として経典に説かれるほど、人間はいつの時代でも完璧ではなく、善と悪の区別もつかない。
    死から逃げた人がいましたが、どこに逃げても自分の影のようにつきまといますので、死からは逃げられません。一歩を踏み出すごとに、いつも善悪の判断を迫られる人間が、善悪がない世界に逃亡できないのと同じです。わたしは信仰を通して、いつも死の意味を考えるようになりました。冷静に自分の内面を見つめると、死は未知のものであり恐怖があります。そして他者の理不尽な死に出会ったとき、それが自然がもたらした予測不可能な災害が原因であっても、法の無力さを感じて失望してしまいます。完璧な仏、完璧な法であっても、苦しみの死を回避できず、苦の宿命も転換できない。妙法の救済とはなんなのでしょう。仏の慈悲とはどのようなものなのでしょう。多くの犠牲者は善き死を望んでも実現できません。仏界の地獄界は情け容赦がない。妙とは蘇生の義というのなら、死者を蘇生させてください。最近の予測不能な自然災害は、その悲惨さとともに人間の命の無常さが、わたしを打ちのめすほど強く迫ってきます。いくら涙を流して悲しんでも足りません。死者のことを深く考えずにいられません。
    妙法的生き方であるより善き生を、仏は信仰者に求めます。信仰者は、より善き死を仏に求めます。しかし仏はいずれも、ただ模範を示すだけでその答えを与えてくれません。自分で問い自分で解答する、自分の胸に存在する仏に問い続ける行為……それが妙法と日蓮は説くのですから、絶えず自分を疑い、自分を信じて、生きるしかありませんね。悲しみに負けないように強くなるしかありません。

    ☆★☆なお、来年は統一地方選と参議院選挙がありますが、その準備がすでに始まっています。わたしの数少ないエージェントの情報によれば、岡山や広島の攻略を、今回の豪雨にたじろぐことなく、むしろ災害をチャンスととらえ、語り口を工夫して対話を進めるよう、上のほうからアドバイスがあったということです。なんでもF獲得の材料にする非情さを持ち合わせていないと、選挙には勝てないと考えるところに、信仰者とは思えない世俗的で低級な常識が垣間見れます。他人の不幸も、Fにコネクトできる手段と考えるその浅ましさに、軽蔑の目が向けられていることにも気づかないのでしょうか。助け合い、慰めや励まし、友情、労わりあいといった人間的感情も、創価と公明党の利益に還元する情熱は、言い換えれば、功徳ほしさのエゴのたまものです★☆★


    ◇◇◇


    平成3年10月27日
    全国青年部幹部会/「自由なる精神」の人間復興運動
    『最後に、ハーバード大学で行った私の講演(1991年9月26日、テーマ「ソフト・パワーの時代と哲学――新たな日米関係を築くために」)に出席された同大学の教授の声を、聖教新聞のロサンゼルス特派員が伝えてきてくれたので、紹介しておきます。
    アメリカ宗教学会の第一人者、ハービー・コックス教授は、次のように語っておられる。
    「今から百五十年前、エマーソンは、このハーバード大学で有名な講演を行っている。それは、伝統と権威を重んずる学問に対する警鐘を趣旨としたものであった。
    真の学問、知識とは、人間一人一人の内面から、そして実生活の体験から、ほとばしるものでなくてはならない。権威によってあたえられたり、また権威によって支配されるべきものではない。
    池田SGI会長の講演は"内なる精神"の意義を現代に蘇生させようとされたものであり、エマーソンの講演の真義をほうふつさせるものであった」と。
    エマーソンは、ご存じのように、ハーバード大学出身の、十九世紀アメリカを代表する詩人、思想家である。
    またコックス教授は、仏教をはじめ高等宗教の本来のあり方に言及されている。
    「精神について、"伝統性"と個人の"内面性"を対比すれば、一般に、宗教の指導者は権威をもって教えをたれ、その権威に民衆を隷属させようとする傾向がある。しかし釈尊をはじめ高等宗教の始祖たちは、決して精神性の押しつけなどしてこなかったはずである。釈尊は"みずからの体験をとおして学べ、体験を深く内面化させよ"と弟子たちに説いたのではなかったか。そこには、精神の権威の行使など毛頭なかったはずである」と。
    「その後の宗教の権威者たちが、精神の権威をもって民衆を支配しようとするのは、まさに【ハード・パワー】の行使であり、始祖の精神とまったく逆行するものといえよう」と』



    平成3年11月4日
    第二東京記念文化音楽祭・総会/民衆の声に応えるのが真の宗教
    『今回の宗門の問題について、幾人かの著名な学者の声を紹介したい。さすがに見識ある方々は、ことの本質を冷静に公平にとらえておられる。皆さまにも参考になる話であると思うので、本日は、それらの要点を紹介させていただく。
    ある教授は、社会学者の立場から、こう述べておられる。
    「宗門と学会の諸問題が、両者の対立という形で報道されているようだが、これは正しい見方とはいえない。世界的な民主化の潮流が押し寄せる九十年代にあって、むしろ、避けては通れない"関門"ととらえるべきであろう。いわば、九十年代という歴史的転換点において、宗教の本来あるべき姿が問われているのである。
    そこでは、教団運営の民主化、国際化時代での布教のあり方、ボーダーレス(=国境なき)時代での宗教の普遍性等々がクローズアップされる。これは健全なことである。
    学会は、日蓮(大聖人)の古典的価値体系を、現代に普遍化するという重要な歴史的役割を果たしてきた。一方、宗門は、伝統的価値にしがみつくことによって、何とか存続してきた。その差は歴然である」
    「ソ連、東欧をはじめとする劇的な変化の底流には、民主化への、大衆の飽くなき欲求があった。結果として、その精神的パワーが、ベルリンの壁の崩壊へ、ソ連のクーデターに対する民衆の勝利へという流れを形成していった。つまり、そうした力が、地球的規模での『情報化』と相まって、社会主義圏にも『自由化』の芽をはぐくみ、急速に『民主化』の流れをつくったといえる」
    「ここで見落としてはならないのは、一連の民主化への流れが、じつは『聖』と『俗』との関係性の根本的な見直しという哲学的課題を背負っているということである」』


    ある中国哲学の著名な学者が語られたとして引用している。
    『葬式が大切というなら、「生まれること」も大切である。なぜ「生きること」について、宗門はかかわろうとしないのか』
    『これからの仏教は、本来のあり方、その本質を問い直さねばならない。たとえば"僧のあり方"。僧を僧として尊敬できるのは、信徒を越える「行い」をしていることによる』
    『信徒の信心の模範となるべきなのが僧であって、そういう僧であれば、敬意は"自然に"出てくる』
    『僧のほうから「私を敬いなさい」では、まったくだめである』
    『日本の寺院は、江戸時代、一種の"役所"として、お上の権力をバックに信徒に君臨していた。みずからの宗教的な努力によって権威を保っていたのではない。日蓮正宗は、学会が出てきた以前の"村の檀那寺"という意識のままである。それが今回の問題の本質であると私は思う。昔の"村の役人"根性である』
    『学会の組織は、信仰で結ばれた組織であり、"精神の絆"をもった「近代的組織」である。それを宗門のほうは、地縁、血縁による非近代的共同体のようにしか思っていない。とんでもない錯覚である。昔からの意識を変革できない、正宗僧侶の"悲劇"である。
    「近代」とは何か、「民主主義」とは何かという、教義以前のことが分からない人が、「近代的組織」の上に君臨しようとするのだから"悲劇"になる』


    一人で君臨できるわけはなく、組織が君臨を認めるのであるから、偉いと思うその心は、十分に僭聖増上慢の素質があります。僧は法を独占し、僧でなければ正しく解釈できないという理由をつけて、僧の優位性を強調し特殊化します。反対に、在家は必ず特殊な法を分かりやすいように一般化します。「聖」と「俗」の哲学的課題は特殊化と一般化の問題です。現在まで培われてきた哲学の、伝統と歴史のなかで定着した言葉で、宗教的な特殊な真理を表現しなおすことが大事ですが、誰にも受け入れられる分かりやすさで語ることは、菩薩の使命といっても言い過ぎではないでしょう。創価が、その役目を果たしてきたことは、今更言うまでもないことです。
    信じる行為は、年齢や性別、社会的環境に関係なく人間性を証明する平等な特性です。僧であろうと在家であろうと、人間であるかぎり信じる強さと深さは同じです。僧は差別を作ってはならないし、本尊を身勝手に独占してはならない。宗門の閉鎖性と硬直化は破滅的です。


    宗教と権威主義について
    B・ウィルソン教授との対談「社会と宗教」のなかで、宗教と権威主義について、先生が問題提起されています。
    会員の方々はあまり認識されておりませんが、教義の真実性を不動のものと信じているがゆえに、超越的権威が潜在的に包含されるという問題を解決しなければなりません。これは宗教史から学ぶ教訓なのですが、あらゆる宗教の根本的問題として、民主的組織運営を誓っていても避けることができない問題です。

    先生は次のように言われております。
    『宗教はその教義に関して権威を主張することから、その組織のあり方も、権威主義に陥りやすい傾向をもっています。そして、そのため、多くの宗教において、個人の救済を目的としながら、実際は、権威主義的組織の中に個人は埋没し、圧殺される場合が数多くあったように思われます。この宗教組織のもつ権威主義的傾向というものを解決する方法としては、どのようなことが考えられるのか、それについてお聞きしたいと思います』
    と、教授の意見を求め、また次のように言われています。

    『権威主義を生み出し、支えているのは、大多数の人々の中にある秩序正しさへの欲求や、服従への欲求等であるといえます。そうした人々にとっては、権威は好ましいものであって、否定される必要はないでしょう。しかし、権威を保持した人間は、たんに、そのような支持者に対してばかりでなく、権威を嫌う人に対しても、権威への服従を求め、その力を行使しようとします。そこに非人間的な圧迫がしばしば生じます。
    そればかりでなく、自己の権威を守るために、自由な論議や、創造的な思想や行動に対しても、これを抑圧しようとします。その結果は、その教義の硬直化を招き、自由な、自発的な信仰心が生み出す、宗教の活力ある生命を奪い去ってしまうことになります。
    その意味から、私は「人々が権威を求め、それに服従することに喜びを感じているなら、そのことを非難したり、改めようとしたりする必要はないではないか」という考え方は、誤りであると思います。権威主義的傾向に陥りやすい宗教団体にあっては、それに陥らないよう、絶え間ない自戒と、人々の意識の啓発、また組織機構の改善が行われるべきであり、それが、生きた宗教としての躍動力を保っていく鍵であると、私は考えるのです。
    その点で、私自身、組織を率いてきた経験からも、いま教授が挙げられた、責任を分散し、人々に参画と相互作用を促すこと、それによって、個人の経験や個性的能力を、全会員のために役立たせるようにすることは、きわめて、大事であると思っています。
    また、それ以外に、会員のもつ力を有効に組織化していく道はないというのが、経験上の結論でもあります』


    先生が「結論」と述べられていることに注目しなければならないでしょう。
    詳しくは実際に本にあたってください。
    これに対するウィルソン教授のコメントは、大変示唆に富むものです。

    『宗教運動にあっては、権威主義的な傾向を取り除くことは、他の場合よりも困難です。批判的精神を培うことは、たとえば純粋に知的な状況の中では、明らかに奨励されうるものですが、しかし、それは宗教運動においては、調和を妨げかねません。宗教運動では、一心同体であること、同一の目的に献身することがそれ自体、貴重なこととされているのです。
    宗教において、権威主義を防止するためには、たぶん運動内の各レベルの指導者が、自分に直属する輩下の人々に参画を求め、即応的な相互作用を促すべきことに、気付かなければならないでしょう。責任の分散は、それ自体、権威主義的な傾向の助長を阻む、一つの方法です。命令された仕事の中でだけでなく、より積極的な率先行動が要求される場面においても、各個人が果たすべき独自の貢献の道があるという考え方は、活動の分化を促進しますが、これは、すでにそれだけで、権威主義の特徴的パターン――統一的な支配と人々の紋切り型の反応――が形成されるのを防ぐものです』


    25年以上前の対談ですが、問題の重要性はますますクローズアップされていくことでしょう。
    わたしは、遠い将来のことを心配しているわけではありません。先生が高齢であることを思うと、直近の未来に両者が指摘した権威主義への対処が必要になってくるということです。きっと原理主義者がはびこるでしょう。釈尊滅後もそうでした。大聖人滅後も、天台宗という母胎に帰ろうとした原理主義者たちがいました。法を体現し、実践面で信仰者の手本となる、一人の稀有な指導者がいなくなると、権威をかさにきた原理主義が横行し、それに対抗する勢力もまた生まれるということです。
    このような対立を防ぐために、ウィルソン教授が指摘しているように、各個人の独自の貢献をまず認めなければなりません。現在の選挙支援活動にも見られるように、「紋切り型の反応」に価値を置かないこと、信仰活動は多様であることを認めること、貢献の仕方は個人の考え方、裁量の範囲で適切に判断し、対応しなければならないこと、それが権威主義への対抗措置であることに気づかなければならないのです。創価ルネサンスと喜びながら再出発しましたが、まだその始まりを駈け出したにすぎないのです。
    過去をさかのぼり、歴史のなかから良き手本を探すことも必要でしょう。しかしそれだけではいきづまり、現在進行の人間の行動から、信仰者の正しいあり方を示す指導者が不可欠。人間革命集団と定義される創価にあって、一人一人の英知と実戦力が試されるのです。
    先生が数十年前からたいへん危惧されている問題を、無垢で素直な会員の皆さまは、どのようにお考えなのか。わたしは師弟不二ってなんだろうと思うのです。不二という強い人間関係でありながら、弟子は何も考えていないのです。楽観主義を勘違いされているのではないでしょうか。

    創価系ブログはいっぱいありますが、読んでみると「紋切り型の反応」記事が多いことに気づきます。それでも必要性が認められるからなのでしょうが、自分の言葉で語らない悲しさが、わたしには憐れに映ります。つまり信仰は創造的行為。信仰の奴隷は、自力信仰を目指しながら、他力になっている自己なのですよ。
    当然のことですが、信仰は自己責任であること。自由意思から選択した行動は、すべての責任を自分が負わなければならないことはあらためて言うまでもありません。したがって、一様な型を作り、流し込むことではありません。行為の責任を負いながら、自分の力で、悩める自己を救済していくという自力性、言い方を変えれば、自己変革は、自立した自己完成でなければならないということです。

    創価に対して、よく批判的に、あるいは過大に問題を指摘する人がいます。わたしもその一人と見られているかもしれません。信仰は強制でできるものではありませんから、わたしの批判的行為は純粋さにより近づこうとする、わたしなりの努力であることをご理解ください。先生が言われる自戒なのです。わたしは創価を否定しているわけではありませんし、ただ、一般会員の方々のような反応はしないというだけです。
    「権威をかさにきた原理主義」……会則変更に見られる幹部の独断が、まさにピッタリあてはまります。何かと言えば先生を引っ張りだして、先生という権威を振りまわすのです。「先生」という原理主義です。


    宗教のシミとコミニュケーション
    宗教の虚偽と戦う人間は、いつも権威から破門される。
    創価は虚偽で満たされようとしているけれど、それは尊敬に浮かぶシミのようなもの。純粋さが失われていく一つの過程です。宗教は全部、同じ過程をたどり腐敗する。
    なんども訴えますが、はじめから宗教に権威などないのですから、権能などという言葉で誤魔化す宗教は、真の民衆仏法ではありません。もちろん、法主の権威をふりかざす宗門も、伝統の埃が積もりに積もり、その礎の色までわからなくなりました。どんなにやわらかい言葉で繕おうと、権威にはいつも嘘が混じっているのです。わたしは権能という言葉を見た瞬間、その虚偽を見抜いた。低レベルの権教であればあるほど権威を主張するものです。模倣品を高価そうに飾るのと同じ。
    創価も低レベルの人間に相応しい宗教に宗旨を替えました。
    宗教は一人一人の人間のためにあることを、しっかり考えるのも信仰者の責務です。その人間を大事にしない組織は、やがて滅亡する。正しい法であっても、民衆に受け入れられなくなれば滅亡する。宗教の五綱を、深く知る必要がありますね。五綱のなかで注意していただきたいのは、【国】です。グローバル・レリジョン、地域限定から開放された世界宗教の【国】は全世界です。かの地が謗法の地だからという理由が、世界を志向する妙法にいかに相応しくないか分かります。民族や習慣、言語や国家に限定された地域宗教の偏狭な言い分とは、もう縁を切ったと思ったのですが、創価の石頭は外見ばかり気にして、内実は世界宗教という意味も理解できない。だから、根拠もなく権威を強調する。口では実教を唱えながら、心は権教の迷妄。

    いろいろな考え方があって健全ですが、否定的意見には否定的に対応するのが、普通の人間が選ぶ対応だと思います。宗教組織にとって共感共有の感情は欠くことができません。創価は、教義とその目的の純粋性から、会員に感動を与え、日々の生活から宗教活動にいたるまで、善になるための努力をしてまいりました。また、信仰の喜びを社会に還元し、社会に有為な人材になるための自覚をつねに保持しながら、中傷も恐れずに対話を続けてまいりました。会員はコミュニケーション能力に優れていると考えますが、昨今のストレス社会を反映しているのか、会員同士でも不寛容の場面がときどき見られるようになりました。

    特に、会則変更という大切な教義上の問題について、先生の過去の指導を判断基準として引用しても、会員には全く通用しないという恐ろしい現象が起きているのです。正しいことを理路整然と訴えても、それもまた一つの見解、個人的意見として軽視される傾向があることに、わたしはビックリし深く失望しました。わたしは何度も、わたしが正しいと思うことを会合でお話しました。その結果はどうだったでしょう?
    都合が悪いものは見ない聞かない、会員に知らせないという創価の体質であることも承知しております。もともと宗教とはそのようなものですが、C作戦のように大御本尊をカットして、権能という言葉で当然の権利を行使するだけだと主張しながら、つまりは権威を強調するあたりは、腐れた宗門にそっくりと言わなければなりません。宗教にははじめから権能や権威といったものは存在しないのです。人を縛るのが権威。信仰は自由を実現するための意志表示であることをよく考えてみるべきです。法主が会長に変わっただけです。その会長も先生からご指導されて大御本尊をカットしたのでしょう。うそつきもいいところ。

    教義の根幹を変更しても十分な説明もない創価の姿勢は、はなはだ傲慢といってもかまわないでしょう。創価のコミュニケーション能力の衰えも、先生の老衰と関係があるでしょう。
    競争や対立を前提としたコミュニケーションではなく、助けあう人間関係の必要性を考えると、脳の神経回路は協調するための潜在能力を秘めているのではないでしょうか。
    最近の社会情勢、事件の数々を考えると、排他的エゴイズムの虚無が、蔓延しているように思えるのですが、殺伐とした人間関係からは、平和や幸福といった人間本来の普遍的な価値の享受は程遠いように感じられます。遺伝子に具わる共感性は、自分らしい個性を輝かせ、人間関係の希薄化に対し、心が通う信頼を築くベースになることを示唆しているようですね。
    創造的言語は、コミュニケーションで培われてきた人間関係を円滑にする知恵、あるいは礼儀、秩序としての社会での道徳、心根を美しく表現する言葉というものかもしれません。聞くに堪えない汚い言葉が溢れている現在、人間としての徳目のなかに相手を思いやる行為・思いやる言葉を大切にしていくことが必要と心掛けていますが、言うは易し行いは難しですね。

    人間と人間を隔てている壁を取り払う言葉は、歴史のなかで人間とともに磨かれてきた美しい財産です。やわらかな音感、響きとともに、優しいネットワークを築くキーワード、(励ましと調和)を大切にしていきたい。
    妙法の正しい言葉こそ、自他を律する創造的言語ですが、創価も会員も失本心故。本来の意義を失った御本尊をいくら拝んでも、過去世に約束された本当の自分自身を取り戻すことはできません。
    「大聖人直結」「魂の独立」などと、恥かしくなくよく言えますね。同じ言葉でも、裏付けがない、中身がない風船のように、ただふくらんだだけの言葉です。


    Cavalleria Rusticana - Mascagni
    RAYMOND LEFEVRE




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    男性原理と女性原理 2

    女性が、土俵に立ち入ることができない理由の一つに、女性は穢れているとされていることです。この「穢れ」とはいったい何なのでしょうか。死穢(死の穢れ)、産穢(出産の穢れ)、血穢(経血の穢れ)。このような穢れは病原菌のように伝染し、周囲を汚染すると考えられていました。女性特有の出血をともなう出産や月経が、やがて拡大解釈され、女性そのものが穢れているとされ、このような概念は仏教思想と合致し、女人禁制という女性排除へと発展したようです。男の勝手な言い分、都合の良い理由付けであることはあきらかです。
    日蓮は、出産についても言及しています。
    『法浄世界とは我等が母の胎内なり』(御義口伝)
    母の胎内は生命の出生するところ。生命というこれ以上の優れた宝はないのですから、宝浄世界と日蓮は讃えられました。女性への尊敬が感じられる言葉ですが、同時に法華経の男女平等思想を受け継ぎ、身分制度で成り立っている封建社会で、普遍的ルールと平等思想の遂行者の姿勢を貫いています。法華経の行者の実践と視座は、経典弘通だけでなく、人間関係や生活の細部にまでおよびます。菩薩は、人間的な悩みを決して疎かにしませんでした。
    現在まで残っている女人禁制という伝統は、偏見という差別のジェンダーバイアスに絡め取られ、呪われています。男性世界を侵す女性の力に畏怖を感じているのかもしれません。

    「釈尊と日蓮の女性観」では、さらに、本因妙・本果妙に展開して次のように述べています。
    『日蓮は、その著「百六箇抄」におきまして、
    「男は本・女は迹・知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可きなり」
    という言葉を残しております。……(中略)……
    この「百六箇抄」の「男は本・女は迹」という一節と同趣旨の表現として、本因妙は男性原理であるが、本果妙は女性原理である、という言い方ができると思います。本因妙とは、平たく言えば、常にスタートに立って「さあ、これからだ」と、未来へ向かっていく姿勢のことです。それに対して、本果妙は、過去の因行と現在の果徳に甘んじて、未来への指向性が弱いと言えます。
    この本因妙の姿勢が男性原理であり、成仏につながるものでありますが、本果妙の姿勢は女性原理であって、成仏からはほど遠いものです。そういう観点から「男は本・女は迹」と言われているのであります。このように考えますと、身体的性別という意味での「変成男子」はヒンドゥー社会を意識した妥協的産物としての便宜的な表現でありましたが、男性原理と女性原理の観点からとらえ直すと、「変成男子」も新たな意味を持ってくると思います。すなわち、「変成男子」の意味するところは、本果妙から本因妙への転換によって成仏が可能となるということになります。
    生命の傾向性において、本因妙(男性原理)に立てば成仏につながり、本果妙(女性原理)に陥れば成仏から遠ざかる。この論じ方は、もはや男性、女性という身体的差異というよりも、生命論的次元での男女論に飛躍しています。これは、外見としての表面的な差異にとらわれていません』

    本果妙的考えは性別に関係なく、常に生活のなかで賛美されています。功徳の価値を見積もり、感情的な宗教批判に推移して敬虔さが失われることです。果徳に甘んじる癖がつくと、組織に活力がなくなり堕落します。現状肯定はやがて現状不満に発展していきます。女性が愚痴を言うのはそのためです。自然に口から言葉が出る瞬間を女性は経験していますが、特に愚痴は出やすい特質があります。女性に怨嫉が多いのもそのためです。

    日常性のなかでの果報(果徳)について、さらに深い展開があります。本因妙・本果妙というメカニズムの違いを明確にします。
    『日蓮は、「御義口伝」において「法華経」観世音菩薩普門品第二十五の「求男」「求女」という言葉に即して述べています。
    それは、
    「第四 二求両願の事
    御義口伝に云く二求とは求男求女なり、求女とは世間の果報・求男とは出世の果報・仍って現世安穏は求女の徳なり後生善処は求男の徳なり」
    という一節です。(中略)
    だから「二求」とは、もともとの経典では、生まれてくる赤ちゃんについて、「男であればよいな」とか、「女の子がいいな」といった「親の求める二つの願望」のことでありました。この点、「法華経」という著しく普遍性を追求した経典にしてから、やはり民間信仰のようなものを取り入れざるを得なかったのか、と思うと興味深いものがあります』
    『日蓮が「御義口伝」において、この「求男」「求女」という言葉を使う場合は、「男性的在り方を求めること」「女性的在り方を求めること」という意味に読み換えています。その両者を求める主体は、男の子、あるいは女の子を産む「父」であり、「母」でありますが、これもまた男性原理、女性原理としての「父母」であることを忘れてはなりません。「父母」といっても、二人の人がいるのではなく、一人の人格における男性原理、女性原理として位置付けられています。
    (中略)
    これによって、「求男」は男性的価値観(男性原理)を求めることであり、「求女」は女性的価値観(女性原理)をもとめることという意味に言い換えられ、また、その「父母」として、その両者を追求する主体としての男性原理、女性原理という関係に位置付けされています』

    中国仏教で用いられた「体」と「用」が「本体」と「その働き」「属性」に相当するとして、男性原理、女性原理の体と用が「父母」と「求男・求女」として示されているとしながら、「求男」は「福徳智慧の男」であり、「求女」は「端正有相の女」「衆人に愛敬せらるる」と、御義口伝には解説されていることを述べてから、次のように男女の特質に沿った説明を加えます。日蓮の深い人間観は、眼を見張るものがあります。本因妙は男性的なもの、本果妙は女性的なもの。本因本果とは「父母」であり、「二求」のこと。
    『こうしたことを踏まえて、「求女とは世間の果報」「求男とは出世の果報」とされるのであります。すなわち、女性的価値観(求女=女性原理)は、「世間」、すなわち日常性の中での果報を求めるところにあるということです。
    これに対して、「求男とは出世の果報」となります。この場合の「出世」とは、会社で出世するというような意味ではなく、「出世間」(世間を出離すること)の略で、日常性を超えたところのことであります。そこにおいて果報を求めるのが、男性的価値観(求男=男性原理)であるというのです』


    このような性の傾向性は、生命の根本的特徴とも言えますが、決して別々にあるのではなく、一人の人間のなかに同居し、使命感、意志やモチベーションなどの内的動機になっていることです。信仰においても性差による傾向性がありますが、功徳や生活改善の欲求は女性が強く望むようです。
    婦人部の活動は、役職が上であればあるほど統一的一体感を重視し、団結というよりは、息を合わせるという姉妹的親しさのなかで緊密感を増していきます。婦人部が打ち合わせにかける時間の長さは壮年部にはきっと理解できないでしょう。通常の活動ですらそうなのですから、選挙や特別のイベントがあると大変です。このような準備がないと、つまり全員が背負う前提がないと、婦人部の活動は崩壊します。女性はリアリストであり結果に感情的に偏重します。非力な自分を常に感じており、その穴埋めを集団に参加することで埋めようとします。問題を一人で背負うことはありません。集団責任のような価値の同調は、上意下達の一方的な情報誘導のなかで承認欲求のすえに起こります。婦人部は権威的情報操作にとても貧弱な対応力より持っていません。池田先生や本部という権威は婦人部活動家の急所であり、その権威の範囲から、独自性を持ち逸脱することはありません。
    男性原理の特徴は出世間ですが、それは指摘されているように日常性を越えたところにあります。現在の果報を求めるより、未来の果報が保証されることに喜びを見出します。世俗的規範から離れ、執着を乗り越え、主体性の確立を求めますが、普遍性という評価基準を何より大切にします。妙法と名付けられるように、法の永続性と普遍性を強調するのは、男性原理の一部とも言えます。新たな解釈を含めて、一直線に本質へより迫ろうとするスタンスは、男性的で創造的。また闘争心が旺盛です。釈尊や天台、伝教や日蓮が男性なのは、生命のなかの性の傾向性に大いに関係があるでしょう。もちろん、女性が劣っているというわけではありません。男性のなかの男性原理が現状を肯定することなく、三世を貫く法を求め抜く強さがあるということ。また批難に耐える出世間の理想を堅持し、決して諦めないこと。

    『このように、男性原理と女性原理の特質を押さえたうえで、「法華経」薬草喩品第五の
    「現世安穏・後生善処」(現世は安穏にして、後に善処に生ぜん)
    の文を、これにからめて展開されています。
    この八文字を、「現世安穏」と「後生善処」の前後二つに分け、まず、その前半について「現世安穏は求女の徳なり」とされます。「現世安穏」だから、今現在と、身の回りのことに重点があるということです。その反面、未来への展望と広い視野に立つことが、この段階では欠けています。この「現世安穏」を求めることが女性的在り方を求めることであり、それが「求女」でもあり、女性原理でもあります。
    それに対して、後半部分については、「後生善処は求男の徳なり」とされます。現在という目の前のことよりも、むしろ「後生」、すなわち未来の理想に目が向いているということでありましょう。この「後生善処」を求めることが、男性的在り方を求めることであり、それが「求男」であり、男性原理となります。
    こうした両者の在り方が、本因妙、本果妙という姿勢となってくるのであります。すなわち、「現世安穏」として現在の結果に満足する本果妙と、「後生善処」として現在の因から未来を志向する本因妙としてであります。こうした違いを踏まえて、あえて男性原理と女性原理を本迹に分ければ、「百六箇抄」の「男は本・女は迹」となるというわけです』


    論旨の経過をまとめると
    男性原理 本因妙 求男 出世の果報 後生善処
    女性原理 本果妙 求女 世間の果報 現世安穏

    仏法は真理が連環していることが理解できます。一つのことに疑問を持つと、次々と疑問の連鎖が起きるということ。日蓮も、問いと答えの論文を多く著していますが、教育的指導と探究心、確信的で強い断定は、男性原理に由来するものかもしれません。

    なお本迹について、『根本と枝葉末節を明確にする「本迹」』ということで、わかりやすい説明がありますので引用しておきます。
    『男女の本迹を論じた「百六箇抄」には、
    「立つ浪・吹く風に・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」
    という言葉もあります。
    「吹く風」があるから「立つ浪」があるのであって、決してその逆ではありません。本末転倒した物事のとらえ方をいましめるために、「本迹」を論ずる必要性を強調されています。価値判断として、「迹」を無用のものとして切り捨て、「本」のみを選び取るべきであると言っているのではありません。本論の視点から言えば、男性原理、女性原理の両者がそろってはじめて完結することを前提としています。
    「百六箇抄」は、このようにあらゆることを本迹という観点から位置づけ、本末転倒した物事の捉え方を正し、何を根本とすべきかを明らかにし、その上で「本」と「迹」の両者の在り方を正そうとしていると言ってもよいと思います。この「本」と「迹」は、「本末転倒」の「本」と「末」の関係と似ています。
    「本」とは「本地」の略で「本来のあり方」ということです。「迹」とは「跡」と同義で、「あと」を意味します。両者は、「足」に対する「足跡」の関係になります。…太陽に手の平をかざせば、地面にその影ができます。この場合、手の平が「本」であり、地面に映った影が「迹」となります。<影があるから手の平がある>のではないことは、だれにだって分かることです。
    (中略)
    このように、先の「百六箇抄」の一節は、「本末」を明確にして、何が根本で、何が枝葉末節であるのかを見定めることの大切さを言っています。
    …自然科学や、社会科学における因果関係、あるいは「只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり」と形容される心のさまざまな働きにおいては、しばしば本末転倒した認識がなされているように見受けられます。こうした認識の誤りに付け込んで、さまざまな迷信、インチキ宗教がはびこりやすいから、「本迹」を立て分けて弁ずることが重要になってくるわけです。
    こうした議論は、天台大師が「法華玄義」巻七上に、
    「不識天月・但観池月」(天月を識らずして、但池の月を観る)
    という言葉を残しているように、「天月」と「池月」という例でも盛んに議論されています。それほどに私たちの認識が本末転倒したものになりやすいということでしょう』


    このような考え方は、妙法の根幹的な考え方の一つですが、この本迹は創価の御本尊問題にも当てはまります。当然のこと、大御本尊は本、その他の御本尊は迹です。迹の御本尊にも真実は内在していますが、それは本の大御本尊を投影し、その力用があらわれた時のみです。大御本尊が宗門の偏屈な石頭の坊主の息がかかるところにあることに、わたしは腹が立って仕方ありません。まるで、腐った泥のなかに咲いている白蓮華です。
    信濃町の大聖堂に安置されている創価学会の常住御本尊は、第2代戸田会長が発願し、当時の日蓮正宗日昇法主によって書写、授与された紙幅の本尊を、板に彫刻したものです。
    日昇上人は自分勝手に、その構造を決め、御本尊をしたためられたのでしょうか?
    日寛上人を含む歴代上人がしてきたように、必ず手本があったのです。つまり、御書にあるように、日蓮の魂魄を留めて生命を移すようにしたためられたことは自明です。御本尊には由緒が大切です。どのような深い信心の者によってしたためられたかどうかです。いい加減な信仰者が、どのように立派に書道の腕を発揮したところで価値はありません。
    人間には誰しも、生物学的な唯一の父母から、必ず両親の遺伝子を受け継ぎます。法と信仰の血脈とは、この遺伝子に象徴される親の生得の尊厳を受け継ぐことなのです。創価の本部常住の御本尊は、一閻浮提総与の大御本尊の遺伝子を受け継いでいます。戸田先生は、そのような御本尊を望んで、広布のために願主となられたのです。したがって、何度も繰り返し、頑固に、大御本尊から離れてはいけないとご指導されているのではないですか。会員を第一に思う替えがたい慈悲があるからです。この御本尊の普遍性は、池田先生もかつてご指導されていたように、永遠に変化するものではありません。環境や時代に関係なく法則は普遍的なのです。そのことを信じられるかどうかが、妙法の信仰なのです。
    しかし、池の月はただの影なのに天月だと言い張り、創価の在家僧は否定しました。迹を本と偽り、根本の問題を避け本質から目をそらしている。創価も、多くの会員も、今まで何を信じてきたのか、とても疑問に思います。創価流の教条主義に犯されている。五老僧の追随者に成り果て、正しい法の分別に迷っている。戸田先生が、75万世帯の広宣流布の願業を達成されたのも、会員の大御本尊への篤い信仰があればこそです。今はその恩を忘れている。
    広布のための御本尊と、まるで悲鳴のように叫び散らしますが、広布のための御本尊といったら大御本尊よりないでしょう。真実が失われる末法の時代相を鮮やかに写して、本末転倒に気づかないとは、戸田先生も嘆き悲しむことでしょうね。
    都合の悪いことは忠実な弟子にやらせ、池田先生自らは、知らん振りを決め込んでいる。また会員を欺き続けている。創価の師弟は、一貫性が失われ、教義の整合性を、自ら捨てている。名誉や勲章で着飾り、永遠の指導者などと祭り上げられて、羞恥心とか、人間が感じる普通の情感や理性がないのでしょうか。釈尊も日蓮も、悟った者がどれだけ質素で謙虚であったか。余計なもので飾らないシンプルさのなかに、人間の偉大さが表れます。

    信と解は信仰者の両足のようなもの、信解があるから立つことができる。信が深まれば解も深まり、解が深まれば信もダイナミックに躍動する。成仏の成就は信解の協調によるものです。しかし、大御本尊への信仰と受持を否定した創価では、信解の調和の後退を引き起こし、人格完成の成就の道をふさぐ。

    Impossible
    Two Steps From Hell
    (feat. Merethe Soltvedt)





    ◇◇◇

    P.S.
    植木氏の「法華経・現代語訳」を読むと、いろいろなことに気づく。詳細は実際に読んでいただくとして、最後の解説に次のようにあります。
    『原始仏典を読む限り、仏教の目指したことは、次の三つにまとめられる。
    ①一貫して平等主義を貫いた。
    ②徹底して迷信・占い・呪術・ドグマを否定した。
    ③真の自己に目覚めることを最重視した。』

    このような仏教への基本的な理解は、大変重要です。植木氏は、仏教の歴史を簡潔にたどりながら、男性・出家者中心主義、権威主義的傾向、歴劫修行、釈尊の神格化、などを説明しながら、優れた思想でもあった仏教の形骸化が免れなかった史実を語ります。
    法華経をはじめ大乗の主張は、釈尊の原点に還れをスローガンとするルネサンス運動であったことを、平等思想と一仏乗を説く法華経信奉者の人間像を通して描きます。畏れることなく、権威主義や非難と暴力に立ち向かった菩薩が、実際に存在したのです。権威主義といえば宗門の僧侶の姿が思い浮かびますが、最近は、創価もこの部類に入りそうです。聖職者と詐欺師は紙一重。いくら偉大な妙法でも、その動機と根拠がいかがわしければ、搾取し隷属させることはできても成仏は叶わない。

    「終わりに」という最終章で次のようにまとめております。
    『教団運営だけでなく、思想の理解の仕方において形骸化を免れない。例えば、大乗仏教は、あらゆるものを実体視して執着することを戒めた「空」の思想を説いたが、後に「空」ということ自体もまた実体視され、執着するようになってしまった。「空亦復空」(空もまた空)を言わなければならなかったゆえんである。それでも、さらに「空亦復空」自体も実体視され、「『空亦復空』亦復空」(「空亦復空」もまた空)を説かねばならなくなり、その無限連鎖が繰り返されるのではないかと心配したくなるほどである。
    権威主義を排し、一仏乗という卓越した平等思想を唱えた「法華経」も、形骸化され、権威の象徴に祀り上げられることもあるかもしれない。それは、ほかならぬ「法華経」自身が「正しい教え(正法)に似[て非な]る教え」(sad=dharma-pratirupaka,像法)という言葉を用いて懸念していたことである。歴史の教訓として、常に原点(原典)に還ることが重要である』


    永遠の指導者という権威の象徴から、牧口、戸田先生の原点に還ることです。正しい教えに似て非なる教えとは大変示唆に富む言葉です。形骸化という、真実を求めようとしない姿勢は、像法時代という過去にあるのではありません。常に、現在の求道者の心理のひだに在り、膜が張られるように感性と理性を麻痺させ、錆びついていく命の衰えを表しています。それでいて自らを顧みず、わたしは正しいと主張するところに、不幸への連鎖は始まると言ってもよいでしょう。創価の御本尊は、日蓮のアイデンティティーを喪失しています。可能すら不可能にする、実現性への疑問が次第に強くなっていくでしょう。会員の減少が、その事実を何より物語っています。自然増や自然減といった認識を越えています。公にできないほど著しく減少している現実に、目を閉ざしている。人を引き付ける宗教性や、哲学的要素の具現性が、創価では薄らいでしまったということでしょうか。

    『現代語訳』の方便品を読んでいたら、気になるところがありました。それは、有名な十如是の一節です。サンスクリット(梵語)の原典と鳩摩羅什の漢訳と現代語訳を対照させ、綿密な分析と注釈を付けて、著者が言明しているように、曖昧さを残さない翻訳に挑戦しています。真面目な会員なら、毎日読誦している方便品の最も重要な箇所でもある十如是は、丸暗記していると思いますが、サンスクリットからの現代語訳は、次のようなものです。
    『それらのものごとは(諸法)は、何であるのか、また、それらのものごとは、どのようにあるのか、また、それらのものごとは、どのようなものであるのか、また、それらのものごとは、どのような特徴を持つのか、また、それらのものごとは、どのような固有の性質(自性)を持つのか――[すなわち、]それらのものごとは、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのかということを。それらのものごと(諸法)に対して、如来だけが[上記の五つの点において]明瞭であり、明らかに見ておられるのである』

    この部分の注釈に
    『この五項目に相当する箇所を鳩摩羅什は、「如是」(是くの如き)を冠した十項目、すなわち相(外面に現れた姿)、性(内面的な性質)、体(本質・本体)、力(内在的な能力)、作(顕在化した作用)、因(内在的な直接原因)、縁(補助的な間接原因)、果(因と縁の和合による内在的結果)、報(内在的果が具体化した顕在的結果)、本末究竟等(本と末、すなわち相から報までのすべてが融合していること)――の十如是として訳している』

    鳩摩羅什によって、五項目が十項目に拡大解釈されましたが、漠然とした法理が、きっちりとした言葉によって定義され表現されました。
    「ほんとうの法華経」(ちくま新書)でも、対談者である橋爪大三郎氏(社会学者)が質問しています(「第二章」 p113)
    『橋爪 さもなければ鳩摩羅什が勝手に創作して、五つだったものを十にしたことになる。
    植木 その可能性が高いと思います。
    橋爪 植木先生は、なぜ鳩摩羅什がそこを拡充したとお考えになるんですか。(中略)
    植木 サンスクリット原典で「諸々の法は、何であるのか、どのようにあるのか、どのようなものであるのか、どのような特徴を持つのか、どのような固有の性質(自性)を持つのか」という疑問節(間接疑問文)で表現したことを、鳩摩羅什は「諸法の実相」(あらゆるものごとの真実の在り方)と漢訳したと思います。その際、「諸法」を「諸々の教え」だけでなく、さらに一般化して「あらゆるものごと」にまで拡大して、その存在の在り方、因果の連鎖の在り方として、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等という十如是になったのかな――と推測するしかないですね。(中略)
    橋爪 これはもう、鳩摩羅什の創作ですね。
    植木 そうですね。鳩摩羅什は、先ほど言ったように会座の参列者数の1200を、12000にして数字の桁数を繰り上げたり、同様の文章が繰り返される時、そのうちの一ヵ所に、わかりやすくするためだと思いますが、ひとこと書き加えたりするようなこともしております』


    十如是は天台の一念三千法門、日蓮の十界曼荼羅の基礎です。学術的には、一般的認識である鳩摩羅什の創作について、わたしは不勉強で知りませんでした。
    以前、仏教は再解釈の歴史であると書きましたが、このような英知の結実の連続なのですね。仏教という大きなカテゴリーは、とても寛容です。釈尊が説かなかったことも、仏弟子たちの論証と思惟を取り入れ、消化する真理の深さを実感しますが、創価が創作した創価学会仏には感心しません。選挙運動する仏や菩薩は想像できません。根本を変えて漂泊する放浪者のような信仰者に、果たして未来はあるのでしょうか。

       
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