個別を通して普遍を見る

    こんにちは。

    現在連載されている「新・人間革命」の「雄飛」の章のはじめのほうには何が書かれていたか、ご存じですか?
    多くの会員はすっかり忘れていらっしゃると思いますが、会長辞任後の1980年(昭和五十五年)・第五次訪中団の様子が描かれております。

    鄧穎超が語ったエピソードが印象的ですね。周恩来の遺灰が飛行機で大地に撒かれたこと、それが中国の風俗、習慣ではとうてい受け入れがたい革命的行動であったということですが、天安門広場の記念堂に葬られている毛沢東と比較すれば、どちらが賢明であるか火を見るより明らかです。周の後継者・鄧小平も遺灰は東シナ海に投じられました。もちろん鄧の意志にしたがっただけです。
    毛沢東は、自分があれほど嫌っていた宗教の御本尊に祭り上げられたのですから、考えようによっては神になったということかもしれません。なにしろ共産主義は、キリスト教の一派生であることはよく知られた事実ですので、神になったとしても不思議でありません。現在の中国の指導者も、神になろうとひたすら努力し、支配する領土を拡大することに取り憑かれていますが、神と悪魔は兄弟のように瓜二つであることをよくよく注意しなければなりませんね。
    周も鄧も、民衆を第一に考えた立派な唯物主義者でした。みずから神になろうとする人間に、ろくな人物はいません。「永遠の指導者」もほとんど神の領域ですね。それを容認する人間の罪深い性に涙が出てきます。理性でなく感情で容認しているのです。

    83年、ブカレスト大学での講演「文明の十字路に立って」では、「新しいヒューマニズム」について講じています。ルーマニアの矛盾に満ちた独裁社会主義を、新しいヒューマニズムと賛嘆しています。最後にこのように述べています。
    『最後に、この席をお借りしてルーマニア建国の指導者、世界平和のため尽力され、ご努力してくださっているチャウシェスク大統領に心より感謝の意を表し、私の講演を終わりたいと思います。ありがとうございました』(池田大作全集「第1巻」)
    その後に、大統領と会見した様子は、聖教で報道されています。
    『大統領は愛国主義者であり、平和主義者であり、民族主義者であることが、よく理解できました』
    チャウシェスクは独裁者として、6万人以上の自国民殺害に関与したとして、1989年12月、銃殺刑に処されました。このような危うい政治家に接近する理由はどこにあるのだろうか。相手が悪人であっても、仏教者であれば会う必要も生まれることもあるでしょう。しかし、それは相手の正体を知ってからのことではないかと考えるのです。会談の特徴的内容は、独裁者であるという認識が希薄のうえ、称賛言葉に溢れていることです。「称賛」‥‥先生の会談に共通するキーワードです。
    銃殺刑の翌月に行われた、ルーマニアのブラッド駐日大使との会談も、称賛言葉のオンパレードです。
    『民衆の総意による新生ルーマニアの誕生を私は、両手をあげて祝福いたします』
    『民衆が勝った』『人間の叫びが勝った』
    『私どもはもちろん、権力悪と戦う世界の民衆勢力に、強い勇気を与えてくれました』


    手のひらを返す、という品のない行為。悪人にも悪人なりのポリシーがありますが、きのうは敵を誉め、きょうは敵の敵を誉めるという道化役者のような器用さはありません。そして敵の敵はわたしの味方だ、というスパイ紛いの変わり身の早さは、この指導者の際立った特徴です。

    エジプトのムバラク大統領も同じです。ムバラクのイスラエルとの対話路線は、イスラム原理主義の台頭をおさえる防波堤のような役目を果たしており、複雑な力関係に左右される中東問題に一定の抑止的効果をもたらしておりました。
    悪には悪をもって制す。何が善で、何が正義なのかわからない複雑さのなかで翻弄され、敵をだしぬけば命が助かり、命がある者が勝利者なのです。少なくとも敗北者ではない。善悪の基準など役に立たないという倫理の荒廃は、戦時と同じ。中東の安全保障は、腹黒い策略家でなければ収まらないという側面があったと考えます。イラクのフセインとよく似ています。そういう政治的な人間像と、不正な財産を蓄積して、民衆を弾圧する独裁者という人間像の評価は大きく異なっており、純粋さを愛し、永遠に民衆の側に立つと宣言した仏教者であるなら、もっと慎重な行動をとったはずと考えるのです。
    エジプトは中東の大国であり、文明の発祥地という長い歴史と文化の伝統国です。この国から表彰されれば長年の夢が叶うと考えても不思議ではありません。実際若き日に中東に思いをはせる姿を語っています。称賛すれば表彰される、誉めれば勲章をくれる。そんな卑しい命が生まれたのは、いつごろからのことなのでしょうか?
    称賛されたいために、相手を称賛する。相手が泥棒であろうと、詐欺師であろうと、人殺しであろうと、テロリストであろうと、エゴイストであろうと、悪質なコミュニストであろうと関係ない。自分を称賛してくれる人が善人なのです。ついでに勲章をくれる人が、なお善人なのです。

    6月17日の「雄飛」の章を引用します。

    『伸一は、謝意(しゃい)を表したあと、この日を記念し、「新たな民衆像を求めて――中国に関する私の一考察」と題する講演を行った。
     中国は、「神のいない文明」(中国文学者・吉川幸次郎)と評され、おそらく世界で最も早く神話と決別した国であるといえよう。
     講演では、司馬遷(しばせん)が、匈奴(きょうど)の捕虜(ほりょ)になった武将・李陵(りりょう)を弁護(べんご)して武帝(ぶてい)の怒(いか)りを買い、宮刑に処(しょ)せられた時、「天道(てんどう)」は是(ぜ)か非(ひ)かとの問いを発していることから話を起こした。わが身の悲劇という個別性のうえに立って、「天道」の是非をただす司馬遷の生き方は、「個別を通して普遍(ふへん)を見る」ことであり、それは中国文明の底流をなすものであるとし、こう論じていった。
     ――それに対して、西洋文明の場合、19世紀末まで、この世を支配している絶対普遍(ぜったいてきふへん)の神の摂理(せつり)の是非(ぜひ)を、人間の側から問うというよりも、神という「普遍を通して個別を見る」ことが多かった。つまり、神というプリズムを通して、人間や自然をとらえてきた。そのプリズムを、歴史と伝統を異にする民族に、そのまま当てはめようとすれば、押しつけとなり、結局は、侵略的(しんりょくてき)、排外的(はいがいてき)な植民地主義が、神のベールを被(かぶ)って横行してしまうと指摘したのである。

     さらに伸一は、現実そのものに目を向け、普遍的(ふへんてき)な法則性(ほうそくせい)を探(さぐ)り出そうとする姿勢の大切さを強調。その伝統が中国にはあり、トインビー博士も、中国の人びとの歴史に世界精神を見ていたことを語った。そして、「新しい普遍主義」の主役となる、新たな民衆、庶民群像(しょみんぐんぞう)の誕生を期待したのである』


    神と決別したと考えられている国が、また新たな神を作ろうとしている。それは美しい神ではなく、正視もできないほどの醜い神です。
    今では、中国の歴代の指導者にも最大の賛辞を贈り、その見返りに、中国の有名大学からの名誉称号が後をたちません。
    北京大学での講演は、司馬遷の「史記」から引用し、『個別を通して普遍を見る』という言葉で要約しています。「史記」に登場する「天道」を「普遍性」と訳して、ヨーロッパ文明と中国の「天道」に代表される世界観を対比しています。神という普遍性から個別の人間を見るのではなく、人間から神の普遍性を問うという人間観、世界観に言及し、トインビー博士の言葉を引用しながら、『中国史に蓄積されてきた精神的遺産のなかに、新たな世界精神の萌芽を見る』とまで称賛しているのです。歴史家の誤った評価は日常茶飯事ですが、この世界精神とは、大袈裟すぎる誇大評価でしょう。正しく言えば、普遍性から程遠い個別精神というところです。
    今まで明らかになった事実は、中国共産党の普遍性を有するイデオロギーは、覇権主義という世界征服の自己正当化理論でしょう。そのために、個別の思想は弾圧の対象です。共産主義という神から、個別の人間は虫けら同然の扱いを受け、搾取され、踏みつぶされるのです。最近もその例がありましたね。劉暁波氏は、徒手空拳の見事な人間の姿で、共産党の極悪と戦い散った。武器を持ったらもう人間ではないということです。
    「個別を通して普遍を見る」とは、言い換えれば、民主主義ということです。中国では実現不可能な思想でもあります。普遍性を有する問題は、平和問題であり、人権問題であり、政治的な制度の問題ですが、民衆という個別の人間をベースにした人間観として表現されます。世界精神という、だいそれた言葉を使ったトインビー博士も、健在であれば、修正すること間違いありません。

    中国のアキレス腱は、人権問題であること、自由を許さないこと、思想哲学に不寛容であること。チベットやウイグルで残酷な人権弾圧を繰り返していること。この個別の問題から、普遍性を見るならば、中国人の残虐性を世界に知らしめ、共産党独裁政権を終結させることです。
    中国はいずれ将来、民主国家になるでしょう。そのとき中国の最大の友人である池田先生は、どのような評価を受けることになるのでしょうか。会員の皆さまも、その弾圧に賛成し、チベット人やウイグル人を間接的に苦しめているのに、無関係な顔して正義を実行していると思っているのです。純真さという悪です。知らない、知りたくないという無関心の悪です。牧口先生が戒めた「傍観者」という悪です。

    先生も会見された、ドイツのヴァイツゼッカー大統領。
    戦後四十年の節目に当たる1985年5月8日、当時の西ドイツ連邦議会での演説。

    『人間は何をしかねないのか、われわれはみずからの歴史から学ぶ。だからわれわれはこれまでとは異なる、よりよい人間になったなどとうぬぼれてはならない。
    究極的な道徳の完成などあり得ない。われわれは人間が危険にさらされていることを学んだ。しかしその危険を繰り返し克服する力も備えている。
    ヒトラーは常に偏見と敵意、憎悪をかき立てるように努めていた。
    若い人たちにお願いしたい。他人への敵意や憎悪に駆り立てられてはならない。対立ではなく、互いに手を取り合って生きていくことを学んでほしい。自由を重んじよう。平和のために力を尽くそう。正義を自らの支えとしよう』


    残酷な差別と人権抑圧を経験した、ドイツの最も偉大な政治家とも言われる大統領の言葉を、真摯に受け止めていただきたいと思う。「ヒトラー」を「池田先生」に置き換えれば、この演説は創価のためのものであることが理解できます。創価に反省がないのは、われわれこそ、仏意仏勅の団体という驕りがあるからです。仏意仏勅という言葉に客観的裏づけがないにもかかわらず、その不確かさを補うように、さらに大聖人直結とまで言い出す。大聖人直結という言葉も、どのように検証するのでしょうか。情に訴えて納得すれば、それが以前からあった言葉のように通用し受け入れられていくのです。冷静に考えれば全く意味がない言葉なのに、まるで、信仰の正統性を証明するかのような意味を付与されるのです。

    『大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人にまで思いうかべることができるように継続的に行わなければならない』 (「わが闘争」アドルフ・ヒットラー:角川文庫)

    ヒットラーは大衆心理を知り尽くし、大衆の愚昧さを利用しながら扇動し、権力を手中に収めた。同時代のなかで際立った天才を示した政治家であるけれど、国家と国民を破滅に導いた指導者でもありました。
    創価正義の実現を、聖教をはじめいろいろな場面で一日も休むことなく継続的に叫ばれていることに、上記の文章が該当すると思うのは、わたしだけでしょうか。「信仰とは勝つか負けるかの闘争なり」創価の日ごろの表題からして似かよっています。わが闘争も、勝つか負けるかであるwww

    勝て勝て勝て!
    勝利しろ!勝利しろ!
    耳のそばで毎日連呼されて、わたしの耳は悲鳴をあげながら耳鳴りし、心臓は強迫観念の薬を打たれたように痛いように脈打っている。勝つのは1回で良い。不軽もそうだったのではないでしょうか。行くところ必ず避忌され悪口を浴びせられ憎まれ暴力を受けそうになりながら逃げ、それでも最後に成仏したのではないでしょうか。忍辱の鎧とは深い慈悲のことであると同時に、菩薩の人格であることがよく理解できます。

    信仰とは悪意を善意に解し、悪意の人に仏性を見て、悪意の人の善意の再生を信じて、悪の行動に可能性を認めることなのではないでしょうか。否定的でなく、肯定的な未来解釈に、どこまでも、相手を平和的に認識する。戦争もヘイト教育も、ただ人を疑い、憎む訓練を強要する醜い行為に他なりません。
    悪を攻める――自分の命のなかにある最初の悪を攻めなさい。その行為を「平和的」と再定義して、自分の命を見つめて確信しなさい。創価のやり方は間違っている。唾棄すべきものも、尊敬に値するものも、美しいものも、みんな自分の心のなかにあるのですから。自分の心を観ることが人間革命の第一歩なのです。戦う対象は自分のなかにあるのです☆彡

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