公明支援は社会悪

    近頃、季節の変わり目を迎えたせいか、メンタリズムの反高揚期に入り、聖教で毎日掲載されていた「勝利、勝利」の連呼に舌打ちしていました。
    これは単なる体調の問題で、社会の毒素を集めやすいスピリチュアルな心の窓口を持つわたしに、時々あらわれる表情です。精神的負担です。以前はそういうおかしい自分に、幻滅感さえ抱き焦りもあったのですが、これはわたしの長所なのだと考えるようになりました。
    わたしには、対面する人間の善性が強く感じられます。だから、悪性の感情も強く感じるのです。信仰とは無関係です。単に、感受性が強いというだけです。ですから、感情的にならないように、メンタルマネージメントを怠らないように気をつけています。
    がんばるだけでなく、時には紅葉した木の下で、遠望のゆとりを持ち、静かな時間に委ねることも必要でしょう。聖教の鼓舞メッセージを、時には遠ざけることも有効なときもあるでしょう。いつも沸騰していればヤケドしかねませんね。張りつめた弦ほど切れやすいものはないのです。人生という音楽を華麗に奏でる精神とは、まさに弦そのものです。


    ♡創価ほど師弟を強調する教団はないでしょう。男女青年部は、世代が変わるたびに、仰々しく師に誓いの言葉を語ってきました。真剣に読めば読むほど、心に響かない使い古された言葉で語ってきたのですが、創価流アピールとは、起承転結が決まっているモデルテキストが準備されていて、ただ言葉をチョイスして、当てはめて完成させるだけなのです。バカバカしいほど創造的でないのですね。
    こういう行為にこだわるのは、法華経のなかの菩薩たちが、誓願の菩薩であることとおおいに関係があるでしょう。法華経のなかで最も価値あるところは、法を書写し読誦し自他の区別なく語ることを説いた部分です。法華経はまさに本因妙なのです。誓い語ることが仏道の究極なのです。しかし、誰に、何を誓うのでしょうか?
    会員にとって、師は絶対であり、あらゆる困難の防波堤であり、ときには迷える者の灯火となり、限りない慈悲で励まし、導いてきたと考えられています。

    今回の支援活動でも、半世紀前の大阪の戦いが引用されております。選挙になると必ず聖教の紙面を飾ります。師は模範であり、その戦いの反復が、正しいとする意見を否定しませんが、わたしが疑問を感じるのは、手段が目的化していることです。社会、あるいは時代的な政治環境、社会システム、構造、民意の要請など、社会情勢も変化しているのに、先生の方法論の再現から決して逸脱しないことです。そしてそれが師弟不二だと言う。師弟とは師を越えることではなかったでしょうか。いつまでたっても変わらない師弟関係。弟子の依存する姿。また師は弟子の成長を望まない。自分より偉大になることを望まないようにも見受けられます。
    あげくのはてに、わたしのような支援を躊躇する人間を、同志を惑わす者として、遠避けて、歪な信仰者を見るように退転扱いする。議論しても勝目はないと恐れて近づこうとしない。わたしの回りには、そんな情けない幹部ばかり。師弟こそ仏道の始まりであり、終点であると考えていても、わたしは盲目的に賛美する人間ではありません。
    面倒くさい書き方をしましたが、つまり、強力な師弟の原理が創価の命脈です。これって、宗祖と法主を同格とする日顕宗の論理と同じではないでしょうか。自己矛盾であるがゆえに、気づきにくい自己撞着。
    一体であるという安心感が、信仰を深めることは否定しませんが、師が偉大であるがゆえに、師に異議を唱える罪悪心から無意識のうちに矛盾を封印しているのではないでしょうか。
    現実は陽炎のように揺らぎ、夢のように儚い。そのなかで信じられるのは、妙法への自分自身の強い確信よりありません。

    会員が共有するひとつの思想、師弟不二に支えられた信仰論、行動論は、師弟一体の間にしか法は流れない、伝わらないとするものです。本当でしょうか。
    わたしの直感から申し上げれば、創価の実質的運営者である会長をはじめ中心者が、その力不足と求心力を補うために、師弟のあり方を強調し利用している……仏道と師弟は、不可分な領域であること、功徳は信仰者万人に与えられるのではなく、師の功績を宣揚し、忠実にその戦いをたどり、苦難を克服する方法を知る人間の間にしか、妙法の真の理解はないとする……門から入り玄関へ到達するまで、なんと長いアプローチでありましょうか。もったいぶった信仰論でありましょうか。直達正観は師を介して行われるのでしょうか。
    先生のご真意は、わたしにはわかりません。また実像もわかりません。しかし、偶像崇拝の拒絶は「紋切り型」反応を抑制する唯一の方法なのではないでしょうか。偶像と言ったのは、実際の創価の歴史が、都合の良いように書き変えられてきた可能性があるからです。なにより信頼と純粋さを優先する人間関係では、致命的行為です。
    わたしは、著作のなかの先生をご尊敬申し上げているのであり、その思想にかぎりない希望を見出す一仏教徒会員ですが、その著作もこれから検証が必要なことは言うまでもありません。
    現在の日本では、殉教という命をかけた布教はありませんが、そのかわり、創価のような使命感に立った宗教団体では、精神的、経済的、物質的生活のすべてが、信仰を中心とした生活規範で成り立っています。何をするにしても、まず創価という題目があり、その中心に向かってすべてを関連づけます。殉教にかわるものとして生活のすべてを捧げる献身的考え方が支配しているわけです。

    他者からの批判を嫌うのは、教義の真実性に強い確信を抱いている宗教に特徴的なものです。寛容を説きながら排他的なのです。内部から言えば独自性ということであり、外部から言えば独善性というものです。
    独善的であるがゆえに迷惑集団としての創価への評価の定着は、もちろん創価自身の責任ですが、創価ではほとんど反省はありません。法が正しいゆえに、反対され罵られるのが当然と考えており、広布の道程も幅広く賛同を得ていく時代に入ったのに、現場は旧態依然としています。他者への関心、関与が、創価の利益になるための関心であり関与なのです。
    これからは一層の社会貢献に真に価値ある人間関係を求めていかなければならないでしょう。それが弘教にも連動することなのですが、そのような社会に開かれた創価の姿を想像することは難しいと思います。悲しいことですが、内部からは変わらないでしょう。外部からの強い圧力がないかぎり変化はないものと考えます。自律とは個人に求められるだけでなく、組織にも求められるのですが、自浄作用は言うは易く実行は難しい。その意味で、今回の選挙を公明党の惨敗を望んだのですが、野党のだらしなさに助けられ、小選挙区制を導入してから最低の得票にも関わらず、自民党の健闘で、与党としては勝利しました。
    さすがに6議席減では、いつもの戦争広報のような大勝利、完全勝利などの勇ましい言葉は出てきませんが、個人では大勝利しました、功徳をうけましたと広報しています。負けたときは、単位を小さくしてコメントすると誤魔化すことができます。創価の慣例、常套手段ですね。全体では負けたけれど、一人ひとりは勝ったと言わなければ大変なことになりますから。勝つことが師の第一の指導です。永遠に負けてはいけない宿業を背負わされています。見方を変えれば、いつまでも宿命転換できない信仰者です。

    宗教だから理想論が許されるとしても、平和や人権に対する宗教者としての責任倫理とは一体何だろうか。孤立しても、世界に対し善を説き実行する者が、差別や暴力や虚栄や不条理な現実から、真に自由な者として称賛されるのではないでしょうか。創価はその役目を果たしているのでしょうか。権力悪に抵抗しているのでしょうか。個々において精一杯の小さなチャレンジがあっても、異体同心の創価は、総体として、厳しい現実と戦っているのでしょうか。わたしには疑問に思えて仕方ないのです。
    与党のぬるま湯に浸かり、権力への野望を隠して、国民を苦しめているのが、本当の公明党創価の実像ではないか。消費税増税、安保法案、年金改革法案、全部公明党が中心にいて、成案を得たのではないでしょうか。国民を苦しめているのは公明党です。

    ♡話題は変わりますが、B・ウィルソンとの対談「社会と宗教」において、宗教の神秘性について論じられた部分があります。
    ウィルソン博士は次のように言われています。
    『高度に発達した宗教は、すべて合理的な論述の体系を備えています。ちなみに、ここでいう高度に発達した宗教とは、その聖職者たちが、学究的な性向を身につけ、教義の解明と体系化への知的な構造を発達させ、自己批判の受容力を形成している宗教を指します。そうした合理的な論述の体系は、ときにはますます整頓された、合理的に行われる討論や探究の過程によって発展します。そうした過程で、教義の中心的な争点が矛盾を免れ、洗練され、整合されて、合理的な正当化への基礎的構造がもたらされるのです。
    しかし、このような傾向にもかかわらず、説明できない神秘的な要素は残ります。それを把握するためには、信者は”信仰の飛躍”を行い、精神を傾倒し、知性や経験の制約を棄て去り、中心的原理・存在・遂行に自己を一体化させる、主観的精神を獲得することが求められます。そうした宗教的体系の核心にこそ、救済が見出されるとされるのです』


    ここでいう主観的精神とは、一般的に「悟り」あるいは悟りに近似したものを言うのではないかと思います。しかしこの主観的精神は、主観的であるがゆえになかなか説明できないというジレンマに陥ります。当人でも説明できないものが他人が説明できるはずがありません。たとえば戸田先生の悟りを、同じ境涯でない者がわかったように説明する。言葉で説明できない神秘体験を合理的に解釈し、結果として神秘的な信仰の飛躍を否定することになる、ということに気づかない。
    言葉で説明できないところに仏はいるのですから、抽象的概念にならざるえないのですが、何事も早急に結論を出そうとする現代人には、修行と言われる宗教的錬磨は大変忍耐力がいることに相違ありません。そもそも、自己否定と自己肯定が糸のように錯綜する現実世界で、諦めないで希望を見出すことの困難さを、わたしたちはいつも体験しています。自己をアクティブに肯定することは全く宗教的精神を源泉としています。信念が堅固であればあるほど、たゆまない修行者であり、宗教でいう求道者そのものです。

    畏怖であるから逆に、崇敬される事象は、信仰にかぎらずよくあることです。人間の力ではどうすることもできない、自然に対しての素朴な崇拝もそうでしょうし、社会の統治者に対する、つまりは権力と統治能力への畏敬の念は、宗教的感情を源泉としていると考えることもできるでしょう。過去に宗教儀式と政治が一体のものであったことを考えればうなずけます。
    トインビー対談でも、汎神教への回帰が話題になりましたが、世俗的であるがゆえに神聖であるというパラドックスは、在家仏教としての大乗にみられる思考です。人間であれば誰にも仏性があるとするのもそうでしょう。人間を含めたすべてに、神聖を認めるのは多様な価値観の受容と寛容性ということですが、その最も深い哲理を説いた法華経の精神を、実際に社会に実現する段階には至っていません。
    選挙活動に我を忘れてる暇はないのですが、このようなエネルギーは、熱心であるがゆえに、宗教ナショナリズムと見られるでしょうし、排他的狂信ナショナリズムと世間の目には映るかもしれません。もちろん会員はいっこうに気にする気配はありません。自分の生活を犠牲にしても、使命感が人生の最上位に位置しているのであり、必ず精神的充足とともに世法が仏法に転換すると考えているからです。つまり神聖な戦いと信じて、妙法の守護者たらんと誓願している姿です。
    領土問題にみられるようにナショナリズムは感染度が高く、特に創価のような頻繁な内部啓発が行われている団体では、広布に関わる戦いのすべてが信仰活動になります。そしてその一つでも疎かにすると功徳が得られないという印象を与えて鼓舞します。選挙を法戦と命名した巧妙さは、実に創造的です。法戦に参加することは、守護者になることなのです。
    団結は全員が心を合わせるというだけでなく、互いを励まし、互いを監視することです。監視という言葉はあまり適切ではありませんが、わたしのような批判者をすぐアンチなどとレッテルを貼り、除外しようと試みるではありませんか。アウトローを排除しようとするのは宗教組織の宿命です。選挙活動に功徳はないと主張するわたしを、師弟不二を持ちだして蔑むわけです。師弟を深く考えない者が師弟を強調するのですから、わたしは平気な顔をしていますが、落胆ぶりを言葉にしないだけ。

    政治という社会変革を期待する選挙は、国家のためだけでなく国民のために行われるものですが、創価ではかつて、その動機に純粋な仏教的信念を堅持していました。しかし支援の動員方法には、よく注意しなければなりません。組織ナショナリズムが行き過ぎると個人の権利や生活、人間性や倫理道徳まで抑圧することを容認するハメになることを思い知らされます。自由であることが限定された自由に変貌しても、違和感を覚えないのですから、狂信、妄信とは、理性を欠くことであることを、あらためて思います。
    自己批判の受容……ウィルソン博士が言われる高度な宗教の条件です。
    わたしは、組織加入者の一人として自己批判を繰り返しているのですが、創価には、自己批判などという高度な言葉は存在せず、教義の整合性も洗練さも失われ、矛盾を拡大しています。公明支援の根拠も動機も失われ、社会悪へと転換しています。社会に大きな問題を残す政策や法案を、検討もしないで積極的に支援する公明支持者。社会を混乱させる行動で、命が潤うと信じる会員の無垢さには、驚くばかりです。名目は法戦でも、中身は魔軍の働き同然。功徳があっても、恐怖の魔性の功徳でしょう。


    ♡過去20年の国政選挙の結果を見てみましょう。
     <衆議院> 全国(比例代表)
     第41回(平成 8年)
     第42回(平成12年) 776万(12.97%)
     第43回(平成15年) 873万(14.78%)
     第44回(平成17年) 899万(13.25%)
     第45回(平成21年) 805万(11.45%)
     第46回(平成24年) 712万(11,90%)
     第47回(平成26年) 731万(13.71%)
     第48回(平成29年) 697.7万(12.51%)
     <参議院>
     第18回(平成10年) 775万(13.80%)
     第19回(平成13年) 819万(14.96%)
     第20回(平成16年) 862万(15.41%)
     第21回(平成19年) 777万(18.18%)
     第22回(平成22年) 764万(13.10%)
     第23回(平成25年) 756.8万(14.22%)
     第24回(平成28年) 757.2万(13.52%)


    平成8年の衆院選は、新進党と合流しての選挙でした。公明党としてのデータはありません。平成15年の第43回の衆院選、16年の第20回の参院選、17年の第44回の衆院選が、得票数のピークですが、一度も900万票は越えていません。1000万票はとても不可能な数値であることがわかりますが、真の国民政党に脱皮していない政党と政治家の未熟さを見ることができます。使命や理想だけでは、変革に無理があるということです。

    長いスパンで見れば、今回の得票の要因は、多少の増減・変動はあるにしても、長期的傾向の始まりに過ぎません。候補者の低質化、支持者、支援者の減、選挙運動のパターン化、習慣化、様式化、やがて新鮮さが失われ形骸化していくのは、運動の常。
    人と人の交流が惰性になれば、どうして自分の心のなかをさらけ出すことができるでしょうか。また相手の気持ちを察し、想像することができるでしょうか? 
    運動の形骸化とは、人間関係の形骸化ということです。10年単位ではっきりとその傾向は表れてくるでしょう。平成20年代から減票傾向に転じていますが、これは創価運動の衰退を予想させるものです。先生の高齢化によるご指導の衰えに起因しています。敏感な会員であれば肌で感じていることでしょう。妙法は、個人と社会の教育的プログラムですが、向上している喜びがありますか。選挙にかぎらず、信仰活動すべてに、漸進的プログレス・深化を感じていますか。青年部の人材の枯渇を感じませんか?

    池田先生の公明党に対するご指導を引用しますが、今ではまったく意味はありません。なぜ創価から公明党が独立できなかったのか。それはひとえに指導者のヴィジョンの欠落によるものです。自信がなく、明快さを欠いています。言葉が本心を表していないからでしょう。
    ここで池田先生は完全に会員を欺いています。御本尊問題でも欺きましたが、権力の魔性は、その魔力に侵されていることすら知られないように偽装するようです。創価が公明党から離れられないのは、結局権力の魔性によるもの。僭称増上慢と同質の根源から生まれるものです。
    公明党の独立を明言しておきながら、いつごろかはわかりませんが、先生の内面で重大な方向転換が行われました。そのことに誰も気づくことはありませんでしたが、決断するまえに葛藤とためらいがあったことが伺い知れます。政治権力に魅了されたのでしょう(昭和45年の前後には、言論出版妨害事件があり、創価の驕りと慢心が顕著に現れた時期でもあります。また田中角栄という政治家に近づいた事件ですが、権力のすさまじさと凄みを目の当たりにしたときでもあります。男の闘争心、野望は、敬虔な宗教家であっても魅了されるのでしょう。このごろまで創価は、折伏の大闘争を繰り広げており、まるで宗教組織に不釣合いの戦闘心に満たされておりました。広布とは一面、闘う心の塊みたいなものです)
    信仰の純粋性にもとずくファシズムは、牧口先生も検討した課題ですが、統治者の完成された人格によって、権力も民衆のために、安定して存在できるという夢想に陥ってしまうのです。万人成仏の可能性を広げる法華経の精神が、人間の心と品性を、肯定的に善性と認識するからでしょうか。

    『その後「公明党のビジョン」を発表した時も「学会員一人一人の政党支持は自由である」と明言しておきました。むしろ創価学会は宗教団体として、信仰・布教に専念し、公明党は公党として、立派に社会に貢献し、大衆福祉のために戦ってほしいということが、私の一貫した願いであったのであります。
    もとより公明党誕生の母体は創価学会であることは間違いない。しかし、いくら母体といっても、いつまでも、それに依存するようであっては、党の健全な発展はない。たとえていえば、賢明な母は、子がひとり立ちできることを願うものであります。いつまでも自己の支配化におこうとして、かえって成長を妨げてしまうのは、愚かな母親であります。子は、いつまでも幼児ではない。体の成長にともなって、精神的にも、一人前の社会人として、活躍できるようにならなくてはなりません。
    今までは、創価学会と公明党は、この母と子の関係にあると見られてもやむをえなかった。それにしても、我々は、愚かな母親であってはならない。この愚かさは、結局、重荷となって自らにおおいかぶさってくるでありましょうし、子供も社会に貢献できない大きい赤ん坊として社会の笑い者になってしまうでありましょう。
    我々は、これまで、公明党のために一生懸命応援し、守り育ててまいりました。だが第三党にもなれば、すでに立派なおとなであります。それでもなおかつ、これまでのように面倒をみなければならないとしたら、それは不合理というものであり、社会の批判をうけるのも当然の理でありましょう』
    (昭和45年5月3日、第33回本部総会での池田先生のご指導)

    『「学会は公明党の支持団体」
    また、学会は、公明党の支持団体ということになります。当然、学会員の個人個人の政党支持は、従来通り自由であります。学会は、日蓮大聖人の仏法、三大秘法の御本尊を信奉する宗教団体であって、政党支持については、会員の自由意思にまかせ、全く干渉するものではありません。
    逆に言えば、いかなる政党支持の人であろうと、いかなるイデオロギーをもつ人であろうと、この妙法の旗のもとには、全く、なんの差別もなく、平等に包容されるべきであることを明解にしておきます』
    (池田会長講演集 第三巻)

    『一貫した願いであった』、師弟不二なのに、そんな願いがあったなんて知りませんでした。
    『なんの差別もなく、平等に包容されるべき』、きれいな言葉で飾るのが得意ですね。
    先生は今まで公明党の独立を何度も言われてきましたが、結局公明党を手放したくないのは、先生ご自身なのではないかと思います。これからも真の国民政党への脱皮は難しいものと考えます。


    苦労しながら訪ね歩く活動が、会合ではよく話題になります。そういう話をする幹部のなかに疑問に思う人が一人もいないということが、創価の特徴と言えば言えます。十人十色、百人百様と昔から言われているように、共感性、思考性に違いがあって当然ということだと考えますが、行動と考え方に一律な統一性を感じさせるのは、自分の行動を深く考えていない証拠。
    大聖人仏法は個性尊重主義の、生物の生存と自由を保障する思想です。また個性と信仰の自由とは密接な関係があります。集団での一律な行動に参加するのも自由と言えば言えないこともありませんが、一般的に奇異に思われる活動は、マイナスになってもプラスにはなりません。
    熱心さに十分な動機があったとしても、それに見合う結果がないかぎり疲労が蓄積するだけ。日頃の信心の蓄えを一気に発散するときと気合を入れられて、終わってみれば、抜け殻同然ということにもなりかねない。賢明な会員は、信仰の奴隷になるまえに、自らの命に自律する楔を、強く深く打ちこむべきです。

    会員は自主的な個としての活動に喜びを見い出してはいますが、組織総体としての達成感を味わう時代は、遠くに過ぎ去ったように思えてなりません。特に、法戦という政治的決着と応酬の力関係に左右されて、一喜一憂する信仰者は、信仰の本道を見失う可能性が高い。


    Thomas Bergersen - Rada
    嵐のなかの漁船「Rada」はクロアチア語で操業という意味のようです
    創価にはこれから、社会の厳しい波濤が襲ってきます




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    ♡アンナの日記から 「デモは世界をかけめぐる」

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