公明支援は社会悪

    近頃、季節の変わり目を迎えたせいか、メンタリズムの反高揚期に入り、聖教で毎日掲載されていた「勝利、勝利」の連呼に舌打ちしていました。
    これは単なる体調の問題で、社会の毒素を集めやすいスピリチュアルな心の窓口を持つわたしに、時々あらわれる表情です。精神的負担です。以前はそういうおかしい自分に、幻滅感さえ抱き焦りもあったのですが、これはわたしの長所なのだと考えるようになりました。
    わたしには、対面する人間の善性が強く感じられます。だから、悪性の感情も強く感じるのです。信仰とは無関係です。単に、感受性が強いというだけです。ですから、感情的にならないように、メンタルマネージメントを怠らないように気をつけています。
    がんばるだけでなく、時には紅葉した木の下で、遠望のゆとりを持ち、静かな時間に委ねることも必要でしょう。聖教の鼓舞メッセージを、時には遠ざけることも有効なときもあるでしょう。いつも沸騰していればヤケドしかねませんね。張りつめた弦ほど切れやすいものはないのです。人生という音楽を華麗に奏でる精神とは、まさに弦そのものです。


    ♡創価ほど師弟を強調する教団はないでしょう。男女青年部は、世代が変わるたびに、仰々しく師に誓いの言葉を語ってきました。真剣に読めば読むほど、心に響かない使い古された言葉で語ってきたのですが、創価流アピールとは、起承転結が決まっているモデルテキストが準備されていて、ただ言葉をチョイスして、当てはめて完成させるだけなのです。バカバカしいほど創造的でないのですね。
    こういう行為にこだわるのは、法華経のなかの菩薩たちが、誓願の菩薩であることとおおいに関係があるでしょう。法華経のなかで最も価値あるところは、法を書写し読誦し自他の区別なく語ることを説いた部分です。法華経はまさに本因妙なのです。誓い語ることが仏道の究極なのです。しかし、誰に、何を誓うのでしょうか?
    会員にとって、師は絶対であり、あらゆる困難の防波堤であり、ときには迷える者の灯火となり、限りない慈悲で励まし、導いてきたと考えられています。

    今回の支援活動でも、半世紀前の大阪の戦いが引用されております。選挙になると必ず聖教の紙面を飾ります。師は模範であり、その戦いの反復が、正しいとする意見を否定しませんが、わたしが疑問を感じるのは、手段が目的化していることです。社会、あるいは時代的な政治環境、社会システム、構造、民意の要請など、社会情勢も変化しているのに、先生の方法論の再現から決して逸脱しないことです。そしてそれが師弟不二だと言う。師弟とは師を越えることではなかったでしょうか。いつまでたっても変わらない師弟関係。弟子の依存する姿。また師は弟子の成長を望まない。自分より偉大になることを望まないようにも見受けられます。
    あげくのはてに、わたしのような支援を躊躇する人間を、同志を惑わす者として、遠避けて、歪な信仰者を見るように退転扱いする。議論しても勝目はないと恐れて近づこうとしない。わたしの回りには、そんな情けない幹部ばかり。師弟こそ仏道の始まりであり、終点であると考えていても、わたしは盲目的に賛美する人間ではありません。
    面倒くさい書き方をしましたが、つまり、強力な師弟の原理が創価の命脈です。これって、宗祖と法主を同格とする日顕宗の論理と同じではないでしょうか。自己矛盾であるがゆえに、気づきにくい自己撞着。
    一体であるという安心感が、信仰を深めることは否定しませんが、師が偉大であるがゆえに、師に異議を唱える罪悪心から無意識のうちに矛盾を封印しているのではないでしょうか。
    現実は陽炎のように揺らぎ、夢のように儚い。そのなかで信じられるのは、妙法への自分自身の強い確信よりありません。

    会員が共有するひとつの思想、師弟不二に支えられた信仰論、行動論は、師弟一体の間にしか法は流れない、伝わらないとするものです。本当でしょうか。
    わたしの直感から申し上げれば、創価の実質的運営者である会長をはじめ中心者が、その力不足と求心力を補うために、師弟のあり方を強調し利用している……仏道と師弟は、不可分な領域であること、功徳は信仰者万人に与えられるのではなく、師の功績を宣揚し、忠実にその戦いをたどり、苦難を克服する方法を知る人間の間にしか、妙法の真の理解はないとする……門から入り玄関へ到達するまで、なんと長いアプローチでありましょうか。もったいぶった信仰論でありましょうか。直達正観は師を介して行われるのでしょうか。
    先生のご真意は、わたしにはわかりません。また実像もわかりません。しかし、偶像崇拝の拒絶は「紋切り型」反応を抑制する唯一の方法なのではないでしょうか。偶像と言ったのは、実際の創価の歴史が、都合の良いように書き変えられてきた可能性があるからです。なにより信頼と純粋さを優先する人間関係では、致命的行為です。
    わたしは、著作のなかの先生をご尊敬申し上げているのであり、その思想にかぎりない希望を見出す一仏教徒会員ですが、その著作もこれから検証が必要なことは言うまでもありません。
    現在の日本では、殉教という命をかけた布教はありませんが、そのかわり、創価のような使命感に立った宗教団体では、精神的、経済的、物質的生活のすべてが、信仰を中心とした生活規範で成り立っています。何をするにしても、まず創価という題目があり、その中心に向かってすべてを関連づけます。殉教にかわるものとして生活のすべてを捧げる献身的考え方が支配しているわけです。

    他者からの批判を嫌うのは、教義の真実性に強い確信を抱いている宗教に特徴的なものです。寛容を説きながら排他的なのです。内部から言えば独自性ということであり、外部から言えば独善性というものです。
    独善的であるがゆえに迷惑集団としての創価への評価の定着は、もちろん創価自身の責任ですが、創価ではほとんど反省はありません。法が正しいゆえに、反対され罵られるのが当然と考えており、広布の道程も幅広く賛同を得ていく時代に入ったのに、現場は旧態依然としています。他者への関心、関与が、創価の利益になるための関心であり関与なのです。
    これからは一層の社会貢献に真に価値ある人間関係を求めていかなければならないでしょう。それが弘教にも連動することなのですが、そのような社会に開かれた創価の姿を想像することは難しいと思います。悲しいことですが、内部からは変わらないでしょう。外部からの強い圧力がないかぎり変化はないものと考えます。自律とは個人に求められるだけでなく、組織にも求められるのですが、自浄作用は言うは易く実行は難しい。その意味で、今回の選挙を公明党の惨敗を望んだのですが、野党のだらしなさに助けられ、小選挙区制を導入してから最低の得票にも関わらず、自民党の健闘で、与党としては勝利しました。
    さすがに6議席減では、いつもの戦争広報のような大勝利、完全勝利などの勇ましい言葉は出てきませんが、個人では大勝利しました、功徳をうけましたと広報しています。負けたときは、単位を小さくしてコメントすると誤魔化すことができます。創価の慣例、常套手段ですね。全体では負けたけれど、一人ひとりは勝ったと言わなければ大変なことになりますから。勝つことが師の第一の指導です。永遠に負けてはいけない宿業を背負わされています。見方を変えれば、いつまでも宿命転換できない信仰者です。

    宗教だから理想論が許されるとしても、平和や人権に対する宗教者としての責任倫理とは一体何だろうか。孤立しても、世界に対し善を説き実行する者が、差別や暴力や虚栄や不条理な現実から、真に自由な者として称賛されるのではないでしょうか。創価はその役目を果たしているのでしょうか。権力悪に抵抗しているのでしょうか。個々において精一杯の小さなチャレンジがあっても、異体同心の創価は、総体として、厳しい現実と戦っているのでしょうか。わたしには疑問に思えて仕方ないのです。
    与党のぬるま湯に浸かり、権力への野望を隠して、国民を苦しめているのが、本当の公明党創価の実像ではないか。消費税増税、安保法案、年金改革法案、全部公明党が中心にいて、成案を得たのではないでしょうか。国民を苦しめているのは公明党です。

    ♡話題は変わりますが、B・ウィルソンとの対談「社会と宗教」において、宗教の神秘性について論じられた部分があります。
    ウィルソン博士は次のように言われています。
    『高度に発達した宗教は、すべて合理的な論述の体系を備えています。ちなみに、ここでいう高度に発達した宗教とは、その聖職者たちが、学究的な性向を身につけ、教義の解明と体系化への知的な構造を発達させ、自己批判の受容力を形成している宗教を指します。そうした合理的な論述の体系は、ときにはますます整頓された、合理的に行われる討論や探究の過程によって発展します。そうした過程で、教義の中心的な争点が矛盾を免れ、洗練され、整合されて、合理的な正当化への基礎的構造がもたらされるのです。
    しかし、このような傾向にもかかわらず、説明できない神秘的な要素は残ります。それを把握するためには、信者は”信仰の飛躍”を行い、精神を傾倒し、知性や経験の制約を棄て去り、中心的原理・存在・遂行に自己を一体化させる、主観的精神を獲得することが求められます。そうした宗教的体系の核心にこそ、救済が見出されるとされるのです』


    ここでいう主観的精神とは、一般的に「悟り」あるいは悟りに近似したものを言うのではないかと思います。しかしこの主観的精神は、主観的であるがゆえになかなか説明できないというジレンマに陥ります。当人でも説明できないものが他人が説明できるはずがありません。たとえば戸田先生の悟りを、同じ境涯でない者がわかったように説明する。言葉で説明できない神秘体験を合理的に解釈し、結果として神秘的な信仰の飛躍を否定することになる、ということに気づかない。
    言葉で説明できないところに仏はいるのですから、抽象的概念にならざるえないのですが、何事も早急に結論を出そうとする現代人には、修行と言われる宗教的錬磨は大変忍耐力がいることに相違ありません。そもそも、自己否定と自己肯定が糸のように錯綜する現実世界で、諦めないで希望を見出すことの困難さを、わたしたちはいつも体験しています。自己をアクティブに肯定することは全く宗教的精神を源泉としています。信念が堅固であればあるほど、たゆまない修行者であり、宗教でいう求道者そのものです。

    畏怖であるから逆に、崇敬される事象は、信仰にかぎらずよくあることです。人間の力ではどうすることもできない、自然に対しての素朴な崇拝もそうでしょうし、社会の統治者に対する、つまりは権力と統治能力への畏敬の念は、宗教的感情を源泉としていると考えることもできるでしょう。過去に宗教儀式と政治が一体のものであったことを考えればうなずけます。
    トインビー対談でも、汎神教への回帰が話題になりましたが、世俗的であるがゆえに神聖であるというパラドックスは、在家仏教としての大乗にみられる思考です。人間であれば誰にも仏性があるとするのもそうでしょう。人間を含めたすべてに、神聖を認めるのは多様な価値観の受容と寛容性ということですが、その最も深い哲理を説いた法華経の精神を、実際に社会に実現する段階には至っていません。
    選挙活動に我を忘れてる暇はないのですが、このようなエネルギーは、熱心であるがゆえに、宗教ナショナリズムと見られるでしょうし、排他的狂信ナショナリズムと世間の目には映るかもしれません。もちろん会員はいっこうに気にする気配はありません。自分の生活を犠牲にしても、使命感が人生の最上位に位置しているのであり、必ず精神的充足とともに世法が仏法に転換すると考えているからです。つまり神聖な戦いと信じて、妙法の守護者たらんと誓願している姿です。
    領土問題にみられるようにナショナリズムは感染度が高く、特に創価のような頻繁な内部啓発が行われている団体では、広布に関わる戦いのすべてが信仰活動になります。そしてその一つでも疎かにすると功徳が得られないという印象を与えて鼓舞します。選挙を法戦と命名した巧妙さは、実に創造的です。法戦に参加することは、守護者になることなのです。
    団結は全員が心を合わせるというだけでなく、互いを励まし、互いを監視することです。監視という言葉はあまり適切ではありませんが、わたしのような批判者をすぐアンチなどとレッテルを貼り、除外しようと試みるではありませんか。アウトローを排除しようとするのは宗教組織の宿命です。選挙活動に功徳はないと主張するわたしを、師弟不二を持ちだして蔑むわけです。師弟を深く考えない者が師弟を強調するのですから、わたしは平気な顔をしていますが、落胆ぶりを言葉にしないだけ。

    政治という社会変革を期待する選挙は、国家のためだけでなく国民のために行われるものですが、創価ではかつて、その動機に純粋な仏教的信念を堅持していました。しかし支援の動員方法には、よく注意しなければなりません。組織ナショナリズムが行き過ぎると個人の権利や生活、人間性や倫理道徳まで抑圧することを容認するハメになることを思い知らされます。自由であることが限定された自由に変貌しても、違和感を覚えないのですから、狂信、妄信とは、理性を欠くことであることを、あらためて思います。
    自己批判の受容……ウィルソン博士が言われる高度な宗教の条件です。
    わたしは、組織加入者の一人として自己批判を繰り返しているのですが、創価には、自己批判などという高度な言葉は存在せず、教義の整合性も洗練さも失われ、矛盾を拡大しています。公明支援の根拠も動機も失われ、社会悪へと転換しています。社会に大きな問題を残す政策や法案を、検討もしないで積極的に支援する公明支持者。社会を混乱させる行動で、命が潤うと信じる会員の無垢さには、驚くばかりです。名目は法戦でも、中身は魔軍の働き同然。功徳があっても、恐怖の魔性の功徳でしょう。


    ♡過去20年の国政選挙の結果を見てみましょう。
     <衆議院> 全国(比例代表)
     第41回(平成 8年)
     第42回(平成12年) 776万(12.97%)
     第43回(平成15年) 873万(14.78%)
     第44回(平成17年) 899万(13.25%)
     第45回(平成21年) 805万(11.45%)
     第46回(平成24年) 712万(11,90%)
     第47回(平成26年) 731万(13.71%)
     第48回(平成29年) 697.7万(12.51%)
     <参議院>
     第18回(平成10年) 775万(13.80%)
     第19回(平成13年) 819万(14.96%)
     第20回(平成16年) 862万(15.41%)
     第21回(平成19年) 777万(18.18%)
     第22回(平成22年) 764万(13.10%)
     第23回(平成25年) 756.8万(14.22%)
     第24回(平成28年) 757.2万(13.52%)


    平成8年の衆院選は、新進党と合流しての選挙でした。公明党としてのデータはありません。平成15年の第43回の衆院選、16年の第20回の参院選、17年の第44回の衆院選が、得票数のピークですが、一度も900万票は越えていません。1000万票はとても不可能な数値であることがわかりますが、真の国民政党に脱皮していない政党と政治家の未熟さを見ることができます。使命や理想だけでは、変革に無理があるということです。

    長いスパンで見れば、今回の得票の要因は、多少の増減・変動はあるにしても、長期的傾向の始まりに過ぎません。候補者の低質化、支持者、支援者の減、選挙運動のパターン化、習慣化、様式化、やがて新鮮さが失われ形骸化していくのは、運動の常。
    人と人の交流が惰性になれば、どうして自分の心のなかをさらけ出すことができるでしょうか。また相手の気持ちを察し、想像することができるでしょうか? 
    運動の形骸化とは、人間関係の形骸化ということです。10年単位ではっきりとその傾向は表れてくるでしょう。平成20年代から減票傾向に転じていますが、これは創価運動の衰退を予想させるものです。先生の高齢化によるご指導の衰えに起因しています。敏感な会員であれば肌で感じていることでしょう。妙法は、個人と社会の教育的プログラムですが、向上している喜びがありますか。選挙にかぎらず、信仰活動すべてに、漸進的プログレス・深化を感じていますか。青年部の人材の枯渇を感じませんか?

    池田先生の公明党に対するご指導を引用しますが、今ではまったく意味はありません。なぜ創価から公明党が独立できなかったのか。それはひとえに指導者のヴィジョンの欠落によるものです。自信がなく、明快さを欠いています。言葉が本心を表していないからでしょう。
    ここで池田先生は完全に会員を欺いています。御本尊問題でも欺きましたが、権力の魔性は、その魔力に侵されていることすら知られないように偽装するようです。創価が公明党から離れられないのは、結局権力の魔性によるもの。僭称増上慢と同質の根源から生まれるものです。
    公明党の独立を明言しておきながら、いつごろかはわかりませんが、先生の内面で重大な方向転換が行われました。そのことに誰も気づくことはありませんでしたが、決断するまえに葛藤とためらいがあったことが伺い知れます。政治権力に魅了されたのでしょう(昭和45年の前後には、言論出版妨害事件があり、創価の驕りと慢心が顕著に現れた時期でもあります。また田中角栄という政治家に近づいた事件ですが、権力のすさまじさと凄みを目の当たりにしたときでもあります。男の闘争心、野望は、敬虔な宗教家であっても魅了されるのでしょう。このごろまで創価は、折伏の大闘争を繰り広げており、まるで宗教組織に不釣合いの戦闘心に満たされておりました。広布とは一面、闘う心の塊みたいなものです)
    信仰の純粋性にもとずくファシズムは、牧口先生も検討した課題ですが、統治者の完成された人格によって、権力も民衆のために、安定して存在できるという夢想に陥ってしまうのです。万人成仏の可能性を広げる法華経の精神が、人間の心と品性を、肯定的に善性と認識するからでしょうか。

    『その後「公明党のビジョン」を発表した時も「学会員一人一人の政党支持は自由である」と明言しておきました。むしろ創価学会は宗教団体として、信仰・布教に専念し、公明党は公党として、立派に社会に貢献し、大衆福祉のために戦ってほしいということが、私の一貫した願いであったのであります。
    もとより公明党誕生の母体は創価学会であることは間違いない。しかし、いくら母体といっても、いつまでも、それに依存するようであっては、党の健全な発展はない。たとえていえば、賢明な母は、子がひとり立ちできることを願うものであります。いつまでも自己の支配化におこうとして、かえって成長を妨げてしまうのは、愚かな母親であります。子は、いつまでも幼児ではない。体の成長にともなって、精神的にも、一人前の社会人として、活躍できるようにならなくてはなりません。
    今までは、創価学会と公明党は、この母と子の関係にあると見られてもやむをえなかった。それにしても、我々は、愚かな母親であってはならない。この愚かさは、結局、重荷となって自らにおおいかぶさってくるでありましょうし、子供も社会に貢献できない大きい赤ん坊として社会の笑い者になってしまうでありましょう。
    我々は、これまで、公明党のために一生懸命応援し、守り育ててまいりました。だが第三党にもなれば、すでに立派なおとなであります。それでもなおかつ、これまでのように面倒をみなければならないとしたら、それは不合理というものであり、社会の批判をうけるのも当然の理でありましょう』
    (昭和45年5月3日、第33回本部総会での池田先生のご指導)

    『「学会は公明党の支持団体」
    また、学会は、公明党の支持団体ということになります。当然、学会員の個人個人の政党支持は、従来通り自由であります。学会は、日蓮大聖人の仏法、三大秘法の御本尊を信奉する宗教団体であって、政党支持については、会員の自由意思にまかせ、全く干渉するものではありません。
    逆に言えば、いかなる政党支持の人であろうと、いかなるイデオロギーをもつ人であろうと、この妙法の旗のもとには、全く、なんの差別もなく、平等に包容されるべきであることを明解にしておきます』
    (池田会長講演集 第三巻)

    『一貫した願いであった』、師弟不二なのに、そんな願いがあったなんて知りませんでした。
    『なんの差別もなく、平等に包容されるべき』、きれいな言葉で飾るのが得意ですね。
    先生は今まで公明党の独立を何度も言われてきましたが、結局公明党を手放したくないのは、先生ご自身なのではないかと思います。これからも真の国民政党への脱皮は難しいものと考えます。


    苦労しながら訪ね歩く活動が、会合ではよく話題になります。そういう話をする幹部のなかに疑問に思う人が一人もいないということが、創価の特徴と言えば言えます。十人十色、百人百様と昔から言われているように、共感性、思考性に違いがあって当然ということだと考えますが、行動と考え方に一律な統一性を感じさせるのは、自分の行動を深く考えていない証拠。
    大聖人仏法は個性尊重主義の、生物の生存と自由を保障する思想です。また個性と信仰の自由とは密接な関係があります。集団での一律な行動に参加するのも自由と言えば言えないこともありませんが、一般的に奇異に思われる活動は、マイナスになってもプラスにはなりません。
    熱心さに十分な動機があったとしても、それに見合う結果がないかぎり疲労が蓄積するだけ。日頃の信心の蓄えを一気に発散するときと気合を入れられて、終わってみれば、抜け殻同然ということにもなりかねない。賢明な会員は、信仰の奴隷になるまえに、自らの命に自律する楔を、強く深く打ちこむべきです。

    会員は自主的な個としての活動に喜びを見い出してはいますが、組織総体としての達成感を味わう時代は、遠くに過ぎ去ったように思えてなりません。特に、法戦という政治的決着と応酬の力関係に左右されて、一喜一憂する信仰者は、信仰の本道を見失う可能性が高い。


    Thomas Bergersen - Rada
    嵐のなかの漁船「Rada」はクロアチア語で操業という意味のようです
    創価にはこれから、社会の厳しい波濤が襲ってきます




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    ♡アンナの日記から 「デモは世界をかけめぐる」

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    ポピュリズムの毒虫

    毎朝の変わらないセレモニーのような自分を省みる時間。
    当然のこと、部屋を見渡すと、きのうと何ら変わらない佇まいがあります。
    母が弾いていた古いタイプのエレクトリックピアノ。どこか1音、キーが狂っています。カウチと小さなガラステーブル。これも古びたチェスト。骨董品屋さんから値切って買いました。カーペットの上にファッション雑誌が投げ出され、夜に聴いたCDケースが開いたままになっています。
    いつもと同じ!
    祖母から母へ、母からわたしに贈られたネックレスは、ダイヤが散りばめられた精巧な細工のもの。弱い不思議な光を放ち、何か特別なエネルギーに満たされていると感じるのは、スピリチュアルな心の所為なのでしょうか?
    祖母から伝わる女の想いが染みているようです。わたしは、滑りが悪く、力を入れないと開かないチェストの引き出しに投げ入れています。
    忙しい毎日のなかで、自分が失われている。
    失いそうな自分が、失いそうな自分を哀れみの瞳で見つめている。
    最近、時計が止まったように、創造力がうんともすんとも音がしないのは、わたしの泉が枯れたのか、何も感じない自分がいたりする。

    ♡お昼には、大騒ぎでパンケーキを作り(実は甘いものが大好き)ネギをきざんで、卵と一緒にフライパンで適当にかき混ぜて焼き(最近はネギが欠かせない素材なんですの)あとは、冷蔵庫のなかにあった塩鮭を焼いて、総じてお子様ランチ風のメニューになりましたが、美味しくいただきました。わたしは母親に似て、チョット食べ物に神経質なところがあるのです。
    彼は、お料理の腕がわたしより上。だから餓死することはないだろう。

    <約束の地は砂漠のなかにあってこそ奇跡です>
    ルシール・マリア・カートのミステリアスな日記断片から。

    <約束の食物は食卓の上にあってこそ奇跡です>
    アンナのインスピレーショナルな日記断片から。

    当たり前のことが当たり前でない時代。美味しいお料理を美味しくいただき、楽しい会話の食卓に、幸せの奇跡があると考えるのです。 腕を上げて約束の食物を食卓に並べよう。 努力しよう。

    ♡わたしは、性格的に大雑把なところがあります。もちろん自分でもよく自覚しています。ですから、実際的な数値や事例をあげて、緻密に検証する理科的能力に劣っています。言ってみれば、一般的にいわれる女性脳が不得意とする論理的分析を苦手とし、感情論に陥りかねない表現になってしまいます。大雑把で感情的って、友だちになりたくないレベルかしら。
    でも自分で言うのも気が引けるのですが、直観的感覚に優れているように思えるのです。また細部より全体、それなりにコーディネートされて、雰囲気がでていればOKというこだわりのなさ。ですから、家事その他、家庭的なことは、できるだけ手を抜かないようにしていますし、自分ができる範囲の自分らしさが大切と考えています。料理教室にも根気よく通っていますし…
    どうでもいいことですね。

    ♡そんなわたしも、わたしなりに論理を尽くしお話しても、まず支援ありきという姿勢には変化がありません。そんな頑固な壁の前で、いつも挫けそうになってしまいます。粘り強い改革意識を継続しなければならないと、自ら戒めています。
    はっきり申し上げれば、組織疲労というものがあれば、現在、創価はその過程に落ち込みつつあると感じられますが、いずれ誰の目にもあきらかになるような形で、問題は顕在化すると考えています。すでに公明党は与党疲れで新鮮さがなくなり、刺激が欲しくなって、不倫が流行しているようです。

    公明議員さんは、他党の議員さんに比較すれば、どの方も献身的に行動し、支援に値する方ばかりと思っていましたが、最近は、そうでもないようですね。予想以上に深刻な事態かもしれませんが、一般会員には注目外ということなのでしょうか。議員の低質化は続いていきますが、創価・公明党といえども人材不足はどうしようもありません。辞退した議員候補の代理として、鰐淵洋子さんを引っ張りだしてきましたが、平成22年の参院選挙の候補になったときもそうでした。現議員であるにもかかわらず、重点候補から外し地域割りを与えられませんでした。年寄り議員の犠牲になったと理解しています。困ったときの便利屋なんですね。若い優秀な女性の才能を殺してしまう組織には、ろくな組織はありません。電通しかり、NHKしかり。党職員とはいえ、女性に対する扱いが垣間見えるような気がします。創価でも、セクシュアルハラスメントが堂々と古い価値観とともに内在していますが、誰もが見て見ぬふりをしています。
    また議員プロフィールと政策の善し悪しは別問題です。年金や子育てを含めた社会保障、消費税問題で裏切られてきました。庶民の代表とはとても言えないと考えています。

    創価では、革命という言葉は、死語になりつつあります。勇ましい言葉の実体が、選挙のなかだけとは悲しいことです。例えば、きのう(10月7日)の聖教では、「四国が猛攻撃。共戦の志は胸に赤々と」寸鉄。四国では戦争をしているらしい。きょうの寸鉄では、「埼玉・茨城・群馬・栃木が破竹の快進撃。大関東に正義の勝鬨を轟かせよ!」。余りにもあからさま過ぎて、恥ずかしくなります。これは創価の特徴であるアーミー風の、単なる表現上の、F取りを鼓舞するため言葉の使い方に過ぎません。また依然として、宗教組織は軍隊式という、古い体質を維持している証拠です。80才に近い執行部では仕方ないことです。
    革命とは総体的なものですが、民衆の生活に直結した具体的な各論に、仏教的視座を考えないで物事が解決するだろうか、と思う。わたしたちが望む改革が成し遂げられるだろうか、と考える。
    精神論ではない。仏教の教義論でもない。具体的な社会設計と制度設計、秩序の再構築の問題です。自分の生活維持の喫緊の問題です。そして、このような問題解決に創価的使命感を強調するのであれば、なおのこと、民衆のためという大義名分を大切にしていただきたいと思います。
    また、政治的支援を個人の信仰と功徳にからめる指導はもうやめていただきたい。民衆のためにならない政治啓蒙、支援行動が、どうして功徳の源泉と言えるのでしょうか。善の行為でないものが、どうして命を潤すといえるのでしょうか。

    ♡ワイマール・ゲーテ協会顧問、マンフレッド・オステン博士と先生の対談で、次のような対話がありました。
    『オステン:そうですね。ゲーテは自分が生きている時代を支配している原理が、「性急さ」であると洞察していました。
    とくに「フランス革命」については、その思想自体には賛同していたと思うのですが、革命の性急さ、急進性という問題などが、生涯、ゲーテの頭から離れませんでした。
    つまり、人間の「平等」を速く実現させるために、結局ギロチンで多くの命を犠牲にして、暴力的に打ち立てようとしたからです。
    それにより、人間は理性を動物的に乱用して「動物よりもケダモノになる」という危険性が生じたという考えです。
    それから、「産業革命」の始まりにも悩みました。「今はすべてが悪魔的速度で、思考においても行動においても一瞬たりとも休むことなく走り過ぎていく。誰も自分のことを判っていない」と述べています。
    すなわち、加速した生産、伝達、輸送により「自己疎外」の状況に陥りかねないという危険が生じたのです。
    さらにゲーテは、「豊かさと速さこそ世間が称賛し、誰もが求めてやまないものとなった」「激しい競争の末、むしろ均質化してしまう」と述べます。とりわけ、あらゆる生活領域における拝金主義と経済化の危険を見ていたのです。
    こうした、あらゆる点で加速化が進む時代のなかで、「性急さ」がもたらす思考と行動は誤謬と暴力を生み、人間の「自己破壊」を引き起こすと、ゲーテは洞察していたのです。

    池田:それは、今日的課題でもあります。
    かつて「フランス革命・人権宣言200周年記念委員会」のバロワン会長が来訪され、記念行事への招聘をいただいたことがあります(1987年1月)
    その際、私が申し上げたことがあります。
    それは、近代の扉を開き、人間の自由や尊厳を勝ち取るために、フランス革命をはじめ産業革命や社会主義革命も大きな役割を果たした。
    しかし、真の人間の尊厳から見ればまだ限界があった。人間から出発し、人間に帰着する、さらに透徹した人間観・生命観を基盤にしてこそ、社会も健全に発展できるという点でした。
    だからこそ、博士が注目された人間の「自己破壊」という危険な兆候のなかで、ゲーテが人間の「自己形成」の模範を示し残した意義は、極めて大きいものがあると考えます。
    そして、このゲーテ自身の「自己形成」が、民衆との深い絆のなかで成し遂げられていったことにも、私は注目したい。
    ワイマールの若き大臣時代、ある鉱山町の庶民と交流した時の感激について、「この階級の人々こそ、神にとってたしかに最高の階級なのです。この人たちのところには、すべての美徳が集まっているのですから。切り詰めること、知足、まっすぐな心、誠実、ほんのささいな幸福を喜ぶ心、無邪気、忍耐ーー忍耐ーー不如意のなかでのふんばり」と綴っています。
    ゲーテは時に貴族的な点を指摘されることもあります。しかし、市民階級の出身のゲーテは、市井に生きる人々を愛し、庶民のために心を砕き、働きました』

    17世紀において、近代西欧人が脱キリスト教的科学信仰を選んだ歴史経過については、トインビー対談で詳細に論じられていますので省きますが、「若きウェルテルの悩み」「格言集」より読んだことがないわたしには、ゲーテがフランス革命、産業革命に懐疑的視点を持っていたことに少し驚かされます。
    対談では、ゲーテの人生の足跡をたどるという概説的趣旨から、深くは論じられてはいませんが、科学技術への信仰、ナショナリズム、共産主義の三つの宗教が西欧キリスト教に致命的打撃を与えたこと、それはカトリックとプロテスタントの分裂よりも重要な歴史的事件であったことなどは、現在の日本の知識人に、最も欠けている認識ではないでしょうか。
    ワイマール時代のエピソードに見られる人間的なゲーテの姿に共感しますが、庶民の美徳と、健全で忍耐強い生活者としてのたくましさが、今わたしたちが思案しなければならない資質です。

    理想的な目指すべき高度な福祉国家について、すでにトインビー対談でテーマとなっています。
    長くなりますが、引用させていただきます。
    『トインビー:現代社会は、成功とか幸福とかを、あくなき増大を続ける経済的豊かさに視点をおいて判断します。しかし、そうしたところにおかれる目標というものは、経済によっては達成されないばかりか、精神的にも充足を与えるものではありません。ただし、それが人間の努力への刺激となり、勤労の意欲をかきたてることは確かです。これは逆にいえば、自由競争経済の社会では、貧困化への恐れが人々に拍車をかけているということです。
    ご指摘のように、福祉国家においては、経済的保障が与えられるため、そのかぎりではたしかに勤労意欲が減退します。児童教育、老齢年金、国民医療といった、生活上必要なものが国家によって保障されると、成人者でさえ、賃金に対して、子どもが小遣いに対してもつような考えをいだくようになるでしょう。つまり、賃金というものは、目先だけの子どもっぽい欲望を満たすのに使えるちょっとした授かり物だ、と考えるようになります。そのため、人々は、賃金とはまず第一に教育や医療の費用として必要なものであるとか、あるいは収入が無くなったときに備えて貯蓄すべきものであるとかいう考え方をしなくなります。たしかに福祉国家は、国民が怠惰で非能率的な仕事しかしなくとも、または質量ともにお粗末な仕事に高賃金を要求したあげく失業のハメに陥ったとしても、なお自分たちの最低生活線は保障されているのだ、と考えることを奨励するわけです。
    この種の経済的保障は、生産性の低下だけでなく、人間に不幸をもたらします。人間は何もせずに何かが得られるとなると、それをうまく利用したがるものです。これは初めのうちは愉快でも、やがては気が滅入ってしまうものです。刺激がなくなって力がそがれると、人生は退屈で無意味なものになるからです。

    池田:そうした弊害を克服するにはどうしたらよいか――。私は、やはり精神的分野の開拓以外にないと思います。つまり、従来の概念による福祉国家において主目的とされるのは、社会保障制度と完全雇用、租税政策による衣食住の確保であり、あくまでも物質的福祉の拡充です。そこに欠けているものは、精神的福祉に対する十分な認識であるといえましょう。もちろん「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるように、ある程度の物質生活が、精神生活の向上のための前提であることも事実です。
    私は、現代人の物質と精神の関係に対する考え方は、根底的に転換されなければならないと考えます。これからの福祉社会においては、まず精神的福祉水準の向上を第一の目標とし、物質的生活水準の向上はそれを支える二義的なものとされなければなりません。つまり、芸術、学問、教育、宗教など、文化的水準の向上による精神的福祉の充実が優位におかれ、そうした高度な精神文化社会建設のための完全雇用であり、社会保障であるという基本的な思考法が要請されます。この前提に立つならば、労働意欲の減退や生きがいの喪失といった問題も解決され、人間の創造性も発揮されるものと考えるのです』


    高度な福祉社会実現への道程は困難なものですが、特に日本のように国家破綻を目の前にした危機のなかで、十分な経済的援助、物質的福祉の充実を追い求めるあり方は限界を越えつつあるものと思います。
    わたしは福祉の充実に反対しているのではありません。財源確保がすでに国家実力を上回っているのに、なおもまた、それ以上の福祉を提供しなければならないのか、という常識的意見を述べているのです。
    平等性は大衆が要求する飽くなき欲望の表れですが、権利を主張する前に義務を果たしてくださいと言いたいのです。義務とは納税するだけではありません。貧しさを認め、格差があることを認め、限られた自分の生活範囲内で、生をまっとうすること。精神的充足が生活をバラエティー豊かな夢のあるものにしてくれることを、それぞれが知ること。ゲーテが語った、不如意ななかでのふんばりを持つ努力を怠ってはならないのではないでしょうか。
    また援助や福祉は、当然お金の問題でもありますが、無い袖は振れません。サイコロも、なければ振れませんが、凶とでようとでまいと、誰の責任でもありません。全部、国民一人一人の責任です。こんな単純明快な賭け事が政治なのですが、イナゴの大群のように貪欲に食べ尽くす大衆は、利己的にさらに権利の主張を繰り返すでしょう。高邁な理論も振り手しだいですが、指導者とは欲望抑制を粘り強く、国民に語りかける者をいうのだと思います。そういう政治家は、一体どこにいるのでしょうか。ポピュリズムの毒虫が、社会の柱を食い尽くそうとしています。
    また、憲法改正に消極的な姿勢は、真の保守からは程遠いと言わざれを得ません。いつまで、アメリカの核の傘のしたで、中国や北朝鮮の脅威を論じているのでしょうか。国民は独立心が希薄なようです。絶対平和を主張し、平和主義者であることを自認し宣言している創価の会員も、足元の憲法にはほとんど無関心です。女子部のとき、憲法議論を聞いたこともなければ、政治学習で積極的に取り上げたこともありません。ミサイルが飛んできても、Fにだけ関心があり、福祉を議論している平和な政党なのでしょう。面倒なことは先送りして、とても滑稽に見えてきます。

    逆境に耐え、克服していくことが、創価精神の一つのテーマですが、わざわざ作らなくてもよい逆境を作り、挑戦して行こうと考えるのもおかしなことですし、またその逆境を克服していくことが幸福につながると主張するのも矛盾した論理です。
    政治が国民のためにならないのなら反対するのは当然で、公明党がどのような政策を掲げようと、とにかく支援ありきとは、目的喪失の危険な兆候と見なしても間違いありません。組織の中心者は、単に扇動者と揶揄されてもおかしくないのです。逆境にいること自体に、意義を見出だしているような詭弁がまかり通っては、人間主義の名が廃れます。
    幹部のなかには、苦しまぎれに、困難だから支援も功徳があると強調する人もいますが、わざわざ困難を作るなと言いたいのです。行動は目的地があって始めて行動たる意味があるのであり、目的を持たない行動などありえません。

    いちかばちかの戦いを力の限り続ける以外にはありませんでした。そのようにして私は今日までどうにかきりぬけてきました<ゲーテ>


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    菩薩の本質

    ネット世界ではアンナと可愛く名乗ってますが、証明できないことを言うのもどうかしてますね。リアルな実像は反抗的との評価もありますが、細部にこだわらないわたしとしては、おおむね良い評価と満足しています。善良な集団での最低評価ほど、聞きごたえがあり、読みごたえがあるドラマティック・ストーリーはありませんね。
    冒険はいつも最悪条件から始まるものです。極悪や無責任な評論家、他に追随するだけの能力しか持ち合わせていないその他大勢の大衆と無害なオーディエンスは、どこの世界にもおります。そしてヒーローやヒロインの顔をして、紅潮しはにかんでいます。このような人々のジャッジや鑑定は、参考にすらなりません。

    実生活での仕事や学業などにおける評価は大切ですが、信仰上における評価はさほど気にかける必要ないと考えるようになりました。信仰でなくても最良の結果を望むのが行動の帰結というものですが、成果という言葉に言い表わされる結果など、組織の都合以外なにものでもありません。マイ聖教に多くの会員が疑問を持ち始めているのに、十分な根拠を示さないままです。啓蒙のおしつけは偽善の影絵のような厚かましさ。美しいけれど、光に照らされれば、はかなく消える、サプレッション(抑圧)の詐術です。

    指導性は簡単に言えば哲学です。それは自由選択を前提にしたものでなければならないと思います。わたしがこういう指摘をすると、今まで自由だったし、これからも自由だというオウム返しのような答が返ってきます。創価に限らず、組織に加入すれば、誰でもそれなりの自分の居場所と自由な発言権を得たいと考えます。その権利の前提となるのは、活動家であるかどうかということです。
    マイ聖教は、活動家と認知される名札のようなものですが、そのように活動家の定義を誘導してきたのが、今までの指導であったこと、悪しき習慣の正体は単に部数減への恐怖以外にないこと、それにともなう宗教団体としての経営的経済的理由があるからと思います。自由は、自由を誇称しながら無言のうちに、心や気持ちを束縛し、負担をかけることではありません。
    大事なのは個々の意思であり、信仰への情熱であり、確信であり、不完全人間が不完全評価をしても意味がありません。創価の中心者である年長者は、必然的に生活知恵があり、経験から複雑な正邪や善悪の区別を知っていますが、一方で、保守的になるがゆえに、賢明でない打算的な評価法も選択します。地位ある者は特にそうです。面倒なことは避けたいと考えるし、波風を立てなくても組織は十分機能していると思うのです。

    創価のなかにも幸せでない人はたくさんおります。その原因となる苦の実体と、自分を縛る旧価値観からの解放、善悪の弁別、問題解決への心的アプローチの論理的、具体的説明をすることなく、ただ一様に宿業論でかたづけてしまう愚かな指導が見受けられます。それは、自分の言葉で語らない聖教コピーの凡庸な幹部の指導力と、社会一般に経済的困窮が深まるなかで、世俗的な価値判断の影響をうけて、信仰上の確信が薄らいでいるからだと思います。信仰に必要なのは、新しい自分を発見することであり、オリジナルな想像力を発揮することです。

    宗教の絶対性への帰順は、会員の熱心さと純真さに支えられた活動が、組織への当然の献身と考えることから始まります。
    それが実は、自由を奪う贖罪というものだと知れば、理性をマヒさせる宗教性は、ただ従うこととする悪の側面がおのずと見えてきます。布教も会員の経済的支援も、善意と正義が合体した強固な釈尊以来の伝統的使命に支えられていることに、つつしみ深い感謝が忘れられている。
    厳格な修行を求めた原理主義者・提婆達多は、師の化導の本心を知らず敵対しましたが、戒律もまた方便であることに気づかないまま、手段の目的化というスパイラルに陥りました。同じように宗教団体においては、成果という言葉はこの手段の目的化と同義語でしょう。また、サンガ内の階級化が仏道を曇らせる原因になることも、釈尊はよく知り抜いていました。階級化とはつまり教義の独占化であることを、宗門問題ではからずも経験しました。以前、創価でも主師親の三徳具備の池田先生という指導がありましたが、師弟関係を腐らす無盲目な礼賛は神格化と同じということ、法に依らず、人に依る行き過ぎた解釈が、教義の独占化ということです。
    宗教であれ政治であれ、唯一者の独裁は競争と破壊という精神の退廃をすすめるだけ。「価値判断能力の衰弱」(ニーチェ)は過剰な賛美のうえにベールを被って鎮座します。時代趨勢に対しての鈍感さ、ある程度の信者を獲得すると保守的なサンガ維持に転じることなど、昔も今も変わらないのです。

    人間の無謬性などありえません。正しい法を生活規定にしていても、誰でも間違いを犯すのです。正しい容器(善)を所持しながら、濁った水(悪)をそそいで疑問に感じないのです。大聖人ですら、長く激しい闘争のあとで、「其罪畢已」と自らの宿業を認められました。消し難い正法誹謗の罪を背負った者が、どうして無謬であるなどと言えるでしょうか。
    釈尊が洞察した通り、人間だけでなく、組織も渇愛の欲望で苦しむなんて、妙法においても戒律が必要なのではないでしょうか。妙法が最高智であれば、自己規律も最高規律でなければならない。さらに末法が貪欲と五濁の悪世なら、利己的現世利益主義と少欲知足は正反対の姿勢ではないでしょうか。宗門に対し少欲知足でないと批判するなら、学会僧(職員)も組織もまた、少欲知足でなければならないでしょう。
    『法師とは五種法師なり功徳とは六根清浄の果報なり』(御義口伝)
    見えない心を見抜き、心の声を聞き、正しい判断ができる功徳は、誰もが望む信仰のエッセンスです。
    会員の心を知らないということは、一体、どこから変化し、道を間違い、どこから堕落したのでしょうか。創価はいつから、正しい判断を躊躇するようになったのでしょうか。
    仏教の民衆化は、二千年前も今も、在家信者の願いです。その在家が帰依した大乗思想は、方便の無限拡大を招きながら複雑な理論へと発展し、発祥地において滅びるという歴史に出会いました。平易な祈りと生活知恵を求めた民衆のための教育的救済法でありながら、結果として民衆遊離というジレンマに陥った歴史の教訓は、同じ過失をおかす危険を絶えず内包していることを教えています。釈尊が説いた仏教思想は、「苦を滅す」というシンプルなものだったのではないでしょうか。その目的である自己救済は、釈尊の時代も現代も変わりなく難しい。


    ♡思慮に富みながら偽善的な、論理の撞着にも目もくれずに、言いたいことを遠慮なく言えるのがネットの熱狂世界です。したがって適度な冷静という自己コントロール力も必要と考えております。
    そんなネットでも、根気よさと情熱があれば適時な話題とテーマを提供することができます。種々の混乱が錯綜している時代に、問題意識の共有はとても大切なことと認識していますが、同志というのは、問題への関心と洞察を補うあう相手と思います。キーワードは、ソフトパワーと対話です。このような言葉のチョイスは適切ですし、仏教の理念にも適うもの。
    このブログがやわらかな議論と品のある喜びに満たされますように。
    主張しながら譲り合う謙譲の人々が、正常な信仰者のイスに座ることができますように。
    悪の支配を防ぐために、信仰と理性の勝利のために、改革が苦難にあふれていても、恐れるものではありません。

    組織悪は、組織が必ず持つ属性と思いますが、一方で組織がなければ広布も進展しません。有能な管理者が必要ですし、その指導者は創造力豊かな人格者でもなければなりません。世界を再構築する原理を知った者の宿命ですね。先生は多くの模範を残されてきました。そのなかでも、対話者としての姿勢に学ぶことが最大のものかと思います。慈悲の心が蘇るような啓発と示唆に富む貴重な対話の財産を、心して学ばなければならないでしょう。
    先を見通す力は賢人のみに与えられた徳性。智慧の守護者でもあり、未来を予言した釈尊は、末法の人間主義者にもあわれみと称賛を惜しまないでしょう。変革は受け継がれてこそ成し遂げられるもの。困難な現代にあって、聖者の思いが叶えられますように祈りを捧げるだけです。そして尽くすだけです。

    確信が他者を動かすことは、わたしたちはよく経験しています。また信仰への確信が得られるかどうかが、信仰者の立場から言えば、きわめて重要であることも知っています。そのために日々苦労しているといってもよいかもしれません。
    確信への道程は個人的差異があり、それぞれ理性的、経験的、直観的なものとして得られます。しかし大小の強さの違いがあり、揺るぎない確信は簡単に得られるものではありません。
    わたしたちは成功より失敗から多くを学びます。慈悲深きご本尊さまは、試行錯誤するための失敗を必ず与えてくれます。それは試練とか困難とか受難とかを通した失意と言われるものです。立ち直れないほどに打ちのめされることです。このときの自己の弱さの自覚が、確信のつぼみとなります。確信は弱さを経た花なのです。自己存在をありのままに肯定した土壌から恵まれる花なのです。
    失敗を経験しなかった人は信用できません。また失敗を他者のせいにする人も信用できません。懸命な人ほど失敗を経験するのは、道理が道理を証明するようなものです。目的を持ち、自己解釈に楽観主義の知的な教養を身につけた信仰者は、内省的なまなざしで自己を励まし、限界状態を越えていきます。
    わたしたちの信仰への真の確信は、成功や功徳の成就からではなく、失敗や迷いを通した反省や克服のなかから得られるものです。辛い経験に負けないという精神の持続性が、確信を不動のものにする聡明なる信仰者の唯一の基礎的資質です。それが菩薩の本質へ直結している回路だと思います。菩薩はときには失敗者であり、その失敗の本質を見抜き克服していく成功の成就者でもあります。

    わたしたちはいつも誰かに励まされ、また誰かを励まそうと努めています。心からの励ましの言葉が、自分と他者の境界を取り除くことを多く人は知らない。意識しない。失敗や迷いの渦中にあっても、身を投げ出すような励ましは、自らの心も励まし、他者とともに自らの運命を切り開く原動力にもなるのです。だから失敗を恐れてはならない。困難をともなった迷いを避けてはならないことを、わたしはかつての部員さんだった人や、志が高い女性の皆さまに深い情感をこめて訴えてきました。
    困難は、ただの困難でしかない。困難を苦しみと捉えるのは、根源的煩悩である三毒の一つ・癡(ち)に翻弄される姿です。癡は渇愛とも無知・無明とも言われ、釈尊出家の中心動機をなすものと思われます。

    不信と疑いで孤立化し分断される世界のなかで、人間関係も水のように薄められる殺伐とした時代に、テクノロジーと非人間的な功利性を信奉した管理者さえも管理される社会で、希望を失わず生きていこうとする健気さは、まるで苦行者を連想させる姿です。仏教の基本である因果応報が自己責任倫理であっても、現代ほど、人間が人間の心を信じる信頼関係が危うくもろいものはありません。釈尊の対機説法は方便であったかもしれませんが、適切な言葉を選び励ますことでもありました。不信の世界にこそ励ましの言葉は必要であり、またそれは、人間関係を効果的に蘇生させる確信の言葉と言えるのではないでしょうか。
    か弱き自分が、自らに課した運命に決して負けないためにも、自他ともに輝く確信の励ましが、わたしには必要不可欠なのです。


    ♡19日から早速、選挙シフトになりましたね。会員の皆さまには、支援活動に入る前に、自分に問いかけていただきたいと思います。なんのために支援するのかと。また生活に直結する政策の中身の検討も必要です。
    他人に任せてはダメです。また無関心もダメです。何も考えずに言いなりになり、賛同するのは最悪です。
    北朝鮮の核脅威が強まるなかで、きょう(9月20日)の聖教に掲載された先生の寄稿(国際メディアIDN)では、目の前の恐怖についてまったくふれられていません。北朝鮮の豚のように太ったロケットマン(国連総会での金正恩に対するトランプ大統領の揶揄)が、銃を構え、トリガーに指を掛けているかもしれないのに、その危うい現実を無視しています。自分が創立した与党である公明党が、核禁止条約加入に反対しているのに、その現実と理想の乖離を少しも認めようとしません。会員もこのことをまったく話題にしないのはどうしてでしょう?

    別の視点で言えば、先生と会長等の執行部の間には、意思疎通が欠けているかもしれないと想像できます。永遠の指導者などと馬鹿らしいほどに祭り上げられ、神格化されて、こういったメッセージより、自分の意見を表明できないのかもしれない。カリスマであるがゆえの悲劇でしょうか。公明党を完全に切り離してしまえばいいのに、今となってはそれも自分の力ではできない状態です。自分が作り上げた組織に首を絞められるとは、なんとも悲しいですね。
    公明党の創立の理念は、すでに失われております。それでも疑問に思わず、盲目的に支援するのは、会員の盲目的信仰と盲目的師弟礼賛が、深く心を占領しているからです。恐ろしいですね。

    わたしはメッセージを読みながら、デジャヴ感に襲われました。
    2015年1月、SGI提言が発表されたとき、「イスラム国(ISIS)」の日本人人質事件は、悲劇的な結末が予想される絶体絶命の危機に見舞われていました。その理不尽な暴力に怒りを覚え、なんとしても助かってほしいと祈るような気持ちで報道に接していたのが、多くの国民の偽らざる心境だったでしょう。
    提言のタイトルは「地球上から悲惨の二字なくす」とありますが、悲惨が緊急事態同様に目の前にあるのに気づかないのです。今そこにある危機を一顧だにしない姿勢、他者に寄り添う感受性をなくした鈍感な指導者の姿があるばかりです。鈍感さも度が過ぎると大きな犠牲に見舞われます。今回の寄稿も同様です。何度も頭上をミサイルが飛んでいるのに、危機感を覚えないのですね。
    釈尊は、高邁な理論や理想を語るよりも、眼前の今ある苦しみに集中しなさいと説きました。大聖人も難の渦中にあっても、信者の苦しみに即座に答えました。悲しみに涙を流し、苦しみに同苦し、取り除き、励ますことが菩薩の使命であり本質であることを、誰よりも理解し、実践していたからです。

    このたびの急展開の衆議院選挙。戦争への備えと戦争回避の道を模索しながら、公明党議員に厳しく問い直してください。
    政治家はいつも、口先だけの立派なことを、保証もないのに臆面もなく言いますが、多くの憲法学者が憲法違反だと認識している自衛隊と憲法の関係について、ぜひ次世代に先送りしないように矛盾を解決していただきたいと思います。公明党の覚悟のなさが、国民に大きなつけを残し、取り返しのつかない不幸へつながる可能性も否定できません☆彡


    冷たい風が吹いても顔をそむけない
    傷ついても倒れない
    なにがあっても倒れない
    希望を捨てない
    長い人生、誰かにすがりつきたくなるような辛いときもあるでしょう
    倒れないファイターを歌っているエンカレッジ・ソング
    何度もくりかえし聴いていると涙がでてくる
    自分のために戦う
    愛する人のために戦い続ける


    The Boxer : Simon & Garfunkel





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