SGI提言…人権問題について

    今まで何度も提言してきた人権問題。特に、難民の子どもたちの状況ですが、原則的な提言に終始しています。また高齢者に対する人権問題も、91年の「高齢化世界会議」の議論の成果、「高齢者のための国連原則」の、独立、参加、ケア、自己実現、尊厳の5項目を紹介し、高齢者の生きがいについて語っています。高齢化は世界的問題として、これからますます注目されますが、介護されながら尊厳を感じる生き方を、福祉社会として実現することの難しさがあります。難民の子どもたちの教育機会の提供と同様に、経済的裏づけが必要です。ほとんど半分は経済的な計画性に行き着くものと思いますが、提言での言及はありません。
    先生、少し預金を下ろしたら、子どもたちが喜びますよ。SGIもできることをしなければなりませんが、経済的な支援もその一つではないでしょうか。チャリティー精神は、仏法の喜捨に通じますよ。
    経済協力開発機構(OECD)の調査によると、日本はひとり親世帯の半数以上が貧困状態にあり、加盟34ヶ国で最悪レベルにあります。しかし就業率は8割を越えて世界トップレベルの労働環境。つまりワーキングプアであることが大きな問題なのです。少子化が加速する日本では、子供の貧困の解消は社会全体の課題です。13年に施行された子ども貧困対策法のさらなる充実が期待されます。

    女性のエンパワーメントの推進について
    『女性のエンパワーメントは"可能であれば考慮する"といったオプション的なものであってはならず、課題に直面する人々が切実に必要としているものに他なりません』
    SGIも「万人の尊厳」を掲げる仏法の思想を反映し、活動を続けてきたことを、さりげなくプロパガンダしたのち、男女平等のためのノンフォーマル教育のカリキュラム、あるいは積極的なシラバス作りなどへの参画をアピールしています。
    『昨年3月の「女性の地位委員会」では、ジェンダー平等と宗教に関する世界的なプラットフォームが立ち上げられました。
    その目的は、それぞれの信仰に基づく言説を展開する中で、女性の人権や貢献に対する社会の認識を改善する流れをつくり出し、地域をはじめ、国や国際レベルのジェンダー平等に関する政策や法律の整備などの規範づくりに影響を与えていくことにあります』


    「世界経済フォーラム」は、男女格差の度合いを示す「ジェンダーギャップ指数」の報告書(2017年版)を発表しました。日本は世界144ヶ国中114位となり、過去最低だった前年の111位からさらに後退しました。
    世界のことはいざ知らず、日本人女性は、自らの日常でジェンダーギャップを感じているのでしょうか。日本社会のなかで、常識的と思われる男女格差に理不尽な差別を感じたことはありませんか?
    問題は深刻で、女性自身がそのギャップを切実なものとして意識していないという、格差以前の格差不感症みたいなところがあるのではないでしょうか。また女性のための権利優先ルール作りも男性に依存するという問題意識の低さ。控え目で堅実な生活スタイルと品行、家庭的な暖かさを求め、子育て上手な聡明な賢婦人という美徳、一歩退いた道徳的なつつましやかさ。女性に求められる理想はとても古臭いものですが、創価のなかでも、SGIで全世界に提言するほどの平等を実現しているとはとても思えません。このような男女格差の問題提起でも、核兵器禁止条約と同じように、整合性がまったくとれていません。
    創価自身のこのような問題意識の低さは、婦人部の模範として常に輝いている香峯子奥さまの立ち振舞にあるのではないのかと、最近わたしは考えるようになりました。奥さま自身の言葉で、実際のところ、何かを提案し、具体的に変化した創価内のルールが見当たりません。その姿勢は女性として創価を代表していながら、とても古典的で、男女格差の解消についての有効なスピーチ、あるいは聖教記事は記憶にありません。わたしが単に知らないだけなのかもしれませんが、もしも知っている方がいらっしゃるなら紹介して下さい。

    ◇◇◇

    東洋哲学研究所から『「女性の世紀」を創るために』という本が発売されています。
    一般啓蒙書、入門編という位置づけなのでしょうが、仏教の重要思想への掘り下げがきわめて浅く、手を抜いているとしか思えません。このような示唆を与えない論文は、一般見解の内容であり、オリジナリティーも乏しく、読者に何を与えようとしているのか疑問です。
    ジェンダー理論は大聖人の深い叡智に完結しています。それをどう解釈し、発展させなければならないか、創価の知識人としての力量が問われています。創価が戦後、急速に拡大したのは、新しい解釈を提示したからであって、理想とされる人物像も、先頭に立つリーダーが体現し、人々の眼前に現れたからです。時代に付与する解釈の斬新さが閉塞する社会の現実を切り開いていくのだと思います。知識人と言われるスペシャリストが、その役割を担っています。コスモポリタンと言う前に、言語が持つ本来の力を復活させる……言い方を変えれば、浅薄な意義づけに終止している市民社会の指導原理を、主体者である人間に取り戻すべく価値転換をはからなければならない。価値あるものへの願望が歴史を動かしてきたのです。それは本質的にして普遍的な善への衝動でしょう。
    オルテガは「大衆の反逆」のなかで次のように述べています。

    『われわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかわからないのである。つまり、あらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人になれず、自分自身の豊かさのなかで自己を見失っているのだ。われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術を持ちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間に漂っているのである』

    自己が自分の主とはブッダの言葉。ギリシャ哲学も、疑いのなかから、疑えない自己を発見した。無知という深い海中で自己像という宝物を発見したのです。大海と同じ海水が心の海にも満たされています。無限に広く無限に深い心の海で、自分そっくりの自己像を発見する方法と場所をブッダは示しました。実現能力とは殻を脱ぎ捨て新たな自己像を描く能力のことです。
    現在ほど、覚醒し鮮明に言葉を操り、意義を見出す作業が必要なときはありません。その役割は誰が担うのだろうか。

    なぜ自分が立つ土台を、安全なものにしないのだろうか。自分が拠り所とする賢明と自称する大衆に懐疑を抱かないのだろうか。現実的な男女の性差を問題にしながら、リアリティーに欠けると感じるのは、自らのアイデンティティーでもある所属組織に対し主体的視点を欠いているからだと考えるのです。固有の自覚した自己の集まりが創価ではないでしょうか。目覚めた集団が創価ではないでしょうか。人間の尊厳と高貴さに最大の敬意をはらうのが妙法の使徒。精神的沼地から自他の悟りという実践的知識の深い花を咲かせるのが、創立者が訴えるそれぞれの使命なのではないでしょうか。
    なぜ副会長クラスに女性がいないのでしょう。末端でも支部長や地区部長に女性が登用されないのか。青年部長に一人でも女性がいるのでしょうか。また宗教法人として役員のなかに女性がいるのかどうか。人事は組織の要であり、一般から最初に認識されるフロントです。足もとの問題を見つめないで、どうして創価の先駆的メッセンジャーたりうるのでしょうか。創価が男女平等・同権を主張するなら、それは制度、機構、人事に反映されるはず。先進的世界組織というのであれば、総務や理事の半数は女性にまかすべきなのです。気分や精神、理念の時代は過ぎました。基礎となるフレームワークを考え実現しなければならないのです。先生はなにも実現しようとしません。また現在の執行部も見解がありません。時代遅れであることは誰が考えても明らかです。宗門から独立した宗教的リベラリズムは、もう錆びついたのですか?
    さらに結婚を機に本部職員の退職を余儀なくされるのは、どう考えて時代錯誤です。経済力がある男性と結婚しなさいという暗黙の了解があるのですが、もちろんそんなことは表だって言いません。それを疑問なく受け入れる女性たちも愚かなる大衆ということでしょうか。ジェンダーは権利を貫き、義務をはたし、現実においてそれを達成することです。男性原理だけではもう何も解決しないのです。


    ライナス・ポーリング博士をはじめとするノーベル賞受賞者とともに「反核運動」に献身し、アメリカでの人権活動家としての先駆的役割を担ったパール・バック。その苦悩と、障害者であった娘への深い愛情、母として絶望の淵に立たされ葛藤を繰り返しながら、再び立ち上がった貴重な魂の記録、「母よ嘆くなかれ」。
    絶望と悲しみが深く洞察されています。わたしは、震災に遭われた方々も同じではないかと思いました。この本のなかで、「悲しみ」について、自身の体験から述べた箇所がありました。
    『耐え忍ぶのは、ただのはじまりではありません。悲しみを受けいれなければならないし、悲しみを十分に受けいれると、そこから自然に新しい道が開けることを知ってほしいのです。というのは悲しみには錬金術に似たところがあるからなのです。つまり、悲しみが知恵に変えられることさえあるのです。悲しみが喜びをもたらすことはありませんが、その知恵は幸福をもたらすことができるのです』
    『とにもかくにも、悲しみとの融和の道程がはじまったのです。その第一段階は、あるがままをそのままに受けいれることでした。そのことは意識のうえでは一日で起こったようにも思えます。「このことは決して変わらない、決してわたしから離れるものではない、まただれもわたしを助けてくれることはできない以上、わたしはこのことを受けいれるほかないぞ」と、はっきり、自分にいい聞かせた瞬間があったのです。でも、じっさいは、いっきにそこへたどりついたわけではないのです。わたしは何度も何度も泥沼にすべり落ちたのです。自然にすくすくと育ってゆく近所の子どもたちが、わたしの娘には決して話せないことを話したり、娘には決してできないことをしているのを見るだけで、わたしは打ちのめされたようになったものでした。
    でも、わたしはその絶望のどん底から這い出ることを学びました。そして這い出て来たのです。そして「これがわたしの人生なのだ。わたしはそれを生きぬかなくてはならないのだ」と悟ったのです』
    (法政大学出版局)
    辛い宿業の積極的な甘受です。願兼於業へといたる心理的葛藤のことです。迷いから決意が生じる瞬間のことです。大切なのは結果を心配することではなく、迷うこと決意すること。法の範疇において、自分流の解釈をカントは「思惟」と名づけた。デカルトは「良識」、ヘーゲルは「思弁」と表現した。
    東北の方々、被災者のためのメッセージのようです。どん底から這い出ることを学び、あきらめないで生き抜く……菩薩の苦悩の本質を体現していますが、それが簡単に得られたものでないことは、彼女の苦闘を知ればわかるでしょう。被災者へのホスピタリティーは、一人一人を見捨てないことです。

    同じように組織の充実と伸張は結局、どこまで一人一人に焦点をあてることができるか、ということではないでしょうか。先生が、多くの会員の人生の転換点で、朽ちない忘れがたき金の思い出を築かれてきたこと、それが人間蘇生のよりどころとなり、希望となってきました。
    現在、人間関係の希薄さが創価のなかにも忍び寄っていると思います。聡明な会員は、癒しがたい劣悪さに覆われた社会をまえにして、ヒューマニティーな指標の喪失を感じていることでしょう。簡単には論じられませんが、種々の深刻な社会問題と健全な市民生活の崩壊、欲望の解放という大衆意識がリアリスティックに迫ってきます。創価内において、宗教的聖性を失った生き方、経済的生活水準の下落、文化と価値の多様化など、一様にいかない複雑さが顕在化してきているのではないかと思います。つまり、それらは日常生活にすみやかに反映することを防ぐことはできず、苦楽を共有できない信仰活動へと堕落するのです。精神浄化という聖的なものが駆逐されるのです。苦楽をともにするという団結心がうわべだけ、掛け声だけの飾りものに変化するのです。
    適時適所で、地区や各部で議論が必要であり、世界と現実に対する新解釈を提示し、まとめなければならない。
    わたしは、これらの問題点を指摘し続けてきましたが、婦人部幹部はヒステリックに反応し、ジェンダーギャップを含め、まるで女の敵は女だと言わんばかり。また何を勘違いしているのか、敵は内部にありと犯罪者のように見下し、盲信者のように原理主義に立ち返る姿は勇ましいかぎりです。本質を凝視しないで近いものしか見ない女性の特質が表れています。

    集団はタテマエを尊び帰属心をあおり、個人はホンネを隠して従う。集団に過度に依存する体質は日本人の伝統的な気質ですが、当然ながら、集団意識が優先され、他者の内面に対して不感症になる傾向があるものと思います。信仰と緊密に関係していた過去の生活形態が変化し、教義研鑽過程、会合の意義など宗教組織も変わらざるをえない現況があると思います。現在は維持できても、10年後は今のままでは維持できないでしょう。だからこそ前向きな検討と変化への勇気が必要なのですが、その前に、判断のもとになる真実の歴史の隠蔽体質があることは大変残念です。
    会員一人一人が創価のあり方の決定権を持っているのであり、その行使のためにも、賢明にならなければなりませんね。
    人間革命の連動性は先生がよく論じているところです。組織改革も一人から始まると思いますが、誰も実行しないのです。実行する十分強い根拠と自覚を持たないからと思いますが、やがて止められない流れになることでしょう。そうならなければ、いくら信仰は正しくても創価に未来はありません。

    『人が何らかの意味で瀆神の言葉を口にすることができるためには、その人が瀆(けが)している対象である神を深く信じていなければならない』(トーマス・エリオット)
    逆説的な言い方ですね。知らなければ批判できないように、信じていなければ、信じる対象も瀆すほどの意味がないということ。
    『神は死んだ』とニーチェは言いました。神のように崇められる者を否定したのですね。
    それは「終末の人間」と定義された、伝統を破壊し、民主主義という宗教を信奉する大衆のことです。それとも、冒涜し、瀆しているのはわたしでしょうか。

    『指導者は、多くの場合、思想家ではなくて実行家であり、あまり明晰な頭脳を具えていないし、またそれを具えることもできないだろう。なぜなら、明晰な頭脳は概して人を懐疑と非行動に導くからである。指導者は、とくに狂気とすれすれのところにいる興奮した人々や反狂人のなかから輩出する。なぜなら彼らの擁護する思想家やその追求する目的がどんなに不条理であろうとも、その確信の前ではどんな議論の鋭鋒もくじけてしまう。軽蔑も迫害もかえって指導者を奮起させるだけである。……強烈な信仰が彼らの言葉に大きな暗示力を与える。大衆は常に強固な意志を具えた人間の言葉を傾聴するものである。群衆のなかの個人は、まったく意志を失って、それを具えているもののほうへ本能的に向かうのである。(「群集心理」ギュスターヴ・ル・ボン:1895年)
    指導者は「断言」を「反復」し、そうすることによって自己の確信を群衆のなかに「感染」させようとする。それに成功しているかぎりにおいて指導者は、「威厳」を保ちうる。そして群衆の上に聳えるのが威厳であるからには、「議論の的にされるような威厳はもはや威厳とはいえない。……群衆から称賛されるには(指導者は)常に群衆をそばに近づけてはならない」のである』
    (「思想の英雄たち」西部邁・ハルキ文庫)
    ここで言うところの「群衆」は、オルテガの「大衆」とほとんど同じ意味とわたしは理解しています。大戦前の独裁者の姿を彷彿とさせ、喜々として従った群衆の時代を喝破していますが、日本で話題になることはありません。あるいは群衆蔑視の裏づけ資料として引用されるだけですが、このような大衆への視点を置く知識人はこの日本では見かけることはありません。
    池田先生は、旺盛な表現意欲を印象づけるようなスタイルを維持していますが、実際のところ、会員を近づけようとしません。閉じこもり、音声としての人間の言葉を聞くことがなくなり、印刷された文章のみの存在です。会員のなかには、多量の原稿を本当にご自身が執筆されているのか、不信に感じている人もいます。そんなことは初めから承知のうえなのでしょう。それよりもカリスマ性という威厳を維持することが大事なのかもしれませんが、虚像のような作為を感じてしまいます。SGI提言をするほどのリアリストに似つかわしくないですね。
    絶対的宗教とその教義、絶対的哲学とその思想がこの世にあると仮定しても、絶対的人間は毛沢東ぐらいしか見当たりません。天安門という霊廟に葬られ見世物になり、聖遺物への信仰を国家の中心に据えられ、国家泰平のための祈願対象になっています。これを宗教と言わずして宗教は存在しません。永遠という絶対的玉座に奉られ、平凡な一般人が近づけない境地にいらっしゃる永遠の指導者は、古今東西等しく大袈裟に葬られることがほとんど定説になっております。現実の価値判断は相対的判断で成り立っていますが、どういうわけか宗教だけこの範疇に入りません。絶対的現実が存在すると主張する矛盾を盲目の信仰者は理解できません。盲目と言いましたが、学んでいることは開目と言います。
    凡夫僧、凡夫仏は「平凡な非凡」ですが、池田先生もかつて「完成の未完成」とスピーチしました。「一切の先入観を排して現実の動きを凝視し続ける」「現実の固定化、実体化に陥りがちな言語の虚構性」(レオナルドの眼と人類の議会)などと語り、「流動する現実の普遍性」を強調しました。人間は現実から離れて存在しえないのです。現実は、時間の流れを止めることができないように決して固定化することはありません。一つの時間、一つの時代を切り取って永遠化し、固定的に定義する思想など、学ぶに値しないものと思います。またその姿は虚構です。創価は永遠という絶対性を、ご祈念文にまで取り入れておりますが、釈尊の最後の言葉『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』(「ブッダ最後の旅」中村元訳・岩波書店)という現実認識の振る舞いからはほど遠いものです。現在が瞬間に過去になるように、滅びゆくもの栄えるものの諸現象は固定的ではありません。仏法的概念では時は悠久です。その一つの瞬間を切り取って、永遠という究極の冠言葉をつけられる人間を認めてはならないのです。


    アンナの日記から引用。
    『わたしは、より良い人生について、誰かの講義を受けようとは思いませんし、倫理家や道徳家にレクチャーを受けるつもりもありません。わたしは、自分の内面から必然的に湧きでてきた「自由」の概念や「勇気」について、十分自覚しているし、自分の理性と切り離せない当然のものとして所有しています。
    わたしの精神の領域は、完璧な法に守られて、価値ある行動を生む源泉になっています。わたしは躊躇しないし、迷わない。人々に尽くし、人々とともに分かち合う喜びが充満することを熱望しています。少なくとも精神世界が投影される行動基準のなかでは自由であること、それがわたしの喜びです。
    真の善を求めているかぎり、あきらめることなどありえない。それが、わたしの信仰です。それはまた、自由と自律の意志が仏からの贈り物であると認めているから。
    慰めだけの宗教なら、慈悲の宗教とはいえません。慈悲は自由を実現する行動のこと。
    同時に心のなかを果てしなく歩む巡礼者の自己探求の行為です。

    「思い通りにならなくても何とかなるものよ」
    創価へのわたしの苦い思いも選択も、何もかも知っている母からの電話。
    優しいはげましの声』


    社会的抑圧と信仰の官僚主義に反対して。
    独断と未熟と権威の幻想と派閥主義と、自己への幻滅心理を嫌悪して。
    今は、独断と未熟の官僚主義が横行し、過剰な忖度が政治の混乱を巻き起こしています。
    忖度しない人間はいない。ビジネスで仕事がスムーズにいくのは忖度があるからです。
    上司への、部下への、同僚への心遣いがあればこそ、愛せる職場に成熟していくのではないでしょうか。あなたをいつも想っているというメッセージは、家族のなかでも、信仰集団の信頼できるフレンドシップにも必要です☆彡


    SAVIOR - Peter Roe




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    SGI提言…核問題について 1

    毎月11日になると、新聞に東日本大震災関連のニュースが載ります。まだ2500人を越える行方不明者がいることを気遣う人がどれだけいるのか分かりませんが、そのなかには、一言で語れない経緯を持つ多くの会員も含まれていることでしょう。聖教にも「みらいへの記」と題して掲載されますが、悲しいエピソードを記事にすることは、ほとんどありません。血の通わない冷たい宿命論で片づける信心指導に、どれだけの会員が失望したことでしょう。
    2月11日の読売には、長男を津波で失った御夫婦の姿が、記事とともに写真が何枚か掲載されておりました。地震から半年後、遺体が発見された女川湾の防波堤から、海に向かって花束を投げ入れる母の横顔には、懸命に涙をこらえる悲嘆と後悔の色をうかがうことができます。このような人々にどのような言葉をかけたらよいのでしょうか。安易に考えてさらに悲しみを深くする愚かしい行為を繰り返してはならない。心に開いた空洞は簡単には埋まらない。一生の間続いていく。どのように寄り添い、どんな言葉をかければよいのでしょうか。躊躇しながら励ましの、それでもつらい言葉をかけずにはいられない。深い悲哀と慟哭よりありません。失意は簡単に癒されるものではありません。
    悲しみの深さを理解することが同苦の姿勢ですが、厳しい命の試練であることに変わりはありません。同苦が菩薩の代名詞なら、わたしには限界を越えた精神的苦痛をともなう難事です。信仰はそのような困難を越えられるのでしょうか。越えられない困難はないなどと悟ったように仏法者は言いますが、越えられない困難があるからこそ、人間はいつまでも争い、冷血動物のように殺し合い、多くの涙を流しながら、それでもなお平和な世界も築くことができないのではないでしょうか。菩薩の慈悲の実現は、経典が説くように本当に可能なのでしょうか。
    このような解決不可能と思える悲しみや苦しみに応えることが宗教の役割と考えても、あまりにも果てしがなく、あまりにも止めどがなく、無力なエンドレスの世界に非力な自分を対比させて、ただ無為に悲観しているだけなのです。無力感に押しつぶされそうになります。

    1月26日に発表されたSGI提言は、全体的に人間の善性を信じた楽観に貫かれていると思います。楽観主義は創価のシンボル、紋章みたいなものですから、ワッペンでも作ったらどうでしょうか。楽観主義であろうが悲観主義であろうが、難問への挑戦は、一人一人の信仰者の英知にかかっていることは言うまでもありません。仏の智慧で合理的に社会を設計できると考えても、その成就は不可能に近いと言えば、きっと非難されること間違いありません。創価の発展が革命的進歩をもたらすと信じるのが、首までぬるま湯につかった活動家の常識です。
    提言の冒頭はICANの話題です。条約不支持の政党の創立者であり、しかも以前として政党の理念や政策決議に大きな影響を与えている存在でありながら、核禁止条約承認の決定的役割を放棄している。そのような矛盾に目をふさいでいるのは創立者だけではなく、その支持者である会員も同様の矛盾を抱えて平気なのですから、気の弱いわたしなどはついていけないのは当然のこと。鏡に向かい歪んでいれば気持ち悪いと感じるのは正常な感覚の持ち主。自己の実像と自己のイメージが歪んでいれば、誰もがその異変に気づくはずなのに、創価という特異なコミュニティーの会員は自己確認の方法を知らない。自己確認の仕方を学ぶのが信仰のはずなのに、鏡に写る自分の姿を見ることができない。鏡がそもそも歪んだ鏡なのでしょうか。

    本部を訪ねたベアトリス・フィン事務局長といっしょに聖教に写っていた川崎哲氏(ICAN国際運営委員)は、岩波ブックレット「核兵器を禁止する」のなかで、核不拡散条約(NPT)からの経過をたどりつつ、核兵器の現状を詳細に記しております。
    わたしが最も関心をおぼえるのは、福島の原発事故と核テロの無限の恐怖の連鎖です。
    2月15日の聖教にも、日本の原子力政策について問題提起の適任者ともいえる、元原子力委員会委員長代理を務めた鈴木達治郎氏(長崎大学核兵器廃絶研究センター長)のインタビューが掲載されております。このような記事は聖教啓蒙にまったくインパクトがなく、しかも会員は通常、真面目な、お固い記事は読まないことになっているので、ほとんど紙面を埋めるだけのムダ記事です。SGI提言のあとに、このような記事を載せて関連付けようとしているのでしょう。少なくとも関心を持つ聖教記者がいるということですね。
    そのムダ記事によれば、原子力政策が核兵器廃絶という課題の大きな障害になっていることが、絶望的に理解できます。日本が唯一の被爆国などというなにかにつけて持ち出されるフレーズは、感情もこもらないただの冠詞に過ぎないということがよく分かるでしょう。短い記事のなかでコンパクトに紹介していますが、問題はどこにあるのか?
    『原子力政策が核兵器廃絶という課題の実現を阻害していると私が述べる時の原子力政策とは、日本が原子力政策の中心に据える核燃料サイクルを指しています』

    核燃料サイクルと核拡散リスクはどのように関係していくのだろうか?
    『核燃料サイクルとは、使用済み核燃料を再処理し、ウラン、プルトニウムを回収し再利用するもので、高速増殖炉サイクルの実用化が前提となります。しかし、高速増殖原型炉「もんじゅ」の廃炉により、高速増殖炉の実用化が遠のいた日本で、このまま核燃料サイクルを推進し続けると、行き場を失ったプルトニウムを抱え込み、潜在的に核兵器の材料を増やすことにつながります。
    さらに核燃料サイクルには、濃縮、再処理技術が使われますが、これは核兵器を製造する技術とつながるものです』


    資源に乏しい日本にとって、核燃料サイクルは大きな期待があったのですが、今や経済的にも合理性を欠き、破綻同然。核燃料サイクルと核抑止力はどう関係するのか?
    『増え続けるプルトニウム。経済的にも合理性を欠いた核燃料サイクル。そうした矛盾を抱えた原子力政策ですが、そこには、核燃料サイクルを継続することで、潜在的な核抑止力を保持したいという側面もあったのではないでしょうか。核武装は求めるべきではないが、核兵器製造の技術的ポテンシャルは保持する――そうした潜在的な核抑止力への依存が、核燃料サイクル政策の推進と密接に絡んでいたとも考えられます』

    核抑止力、核の傘への依存という問題点。
    『核抑止力によつて国家の安全が100パーセント守られるという保障はありません。核抑止力の帰結は、むしろ核軍拡、核拡散にあり、最悪の場合は核戦争をもたらすことになります。従って、核抑止からの脱却が必要です。その点からも、プルトニウムという「負債」を増やし、核抑止力や核拡散につながる核燃料サイクルは見直すことが日本の原子力政策にとって重要なことだと考えます』

    現在の核燃料サイクルを止めることができるのか?
    『現在の高レベル廃棄物処分法には使用済み核燃料が含まれないため、法改正も必要です。また、処分といっても、処分場ができるまでは時間がかかりますので、安全な保管場所を確保しなければなりません。
    最終処分場に関しては昨年、経済産業省が地層処分(安定した地中深い場所での保管)に適した「科学的特性マップ」を公表しました。(中略)
    さらに、再処理を進めてきた結果、現在、国内外に保有することになった47トンのプルトニウムの処分が必要になります。これについてはウラン燃料と混合したMOX燃料として使用する、他の放射性廃棄物等と混合・安定化させて地層処分するといった選択肢が考えられます。(中略)プルトニウムという「負債」は現在も重くのしかかっています』


    大学教授から行政のエリートに転身した鈴木氏は最近、「核兵器と原発」という本(講談社現代新書)を研究者らしい専門的知識を駆使して出版しました。その本の紹介インタビューという前触れ記事のようなものですが、短い記事の結論として次のように語っています。
    『私自身、福島原発事故の前後で、原発が抱えるリスクの見方が大きく変化しました。福島県を中心に広範囲の地域が汚染され、現在も避難を余儀なくされる多くの人々がおられます。「原発のリスク」は一言でいえば、核兵器のリスクにも通じる「非人道的側面」を備えているということです』

    原子力政策は核兵器をふくむ安全保障問題と深く関係していること。福島原発事故からなにを学んだのか、むしろ原子力政策は大きく転換すべきとの当然の結論が、なにも変わっていない現実。日本が核兵器禁止条約に参加しない理由は、条約が核抑止力を否定しているからです。さらに目の前の喫緊の問題として、北朝鮮の核兵器・核ミサイルの開発にどのように対処していけばよいのか。大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発成功に対して国連安保理は危機感を深め、その挑発行動に国際社会が圧力を強めて深刻な緊張が続く。その軍事的脅威を前に核抑止力が有効なのか、疑問に思わない人はいないでしょう。
    「核兵器と原発」のなかで、著者はとても重要な提言を紹介しています。
    『2017年8月、核兵器の廃絶を願う科学者が集まって始めたパグウォッシュ会議の第62回世界大会で注目された議論の一つが、北朝鮮の核問題を含む「北東アジアの安全保障問題」であった。少人数(20~30人程度)に分かれて議論を行う作業部会でも、危機感を持ちながらも冷静な分析と提言が作られた』

    その提言は次のような重要な内容を盛り込んでいます。
    『より長期的な北東アジアの平和と安全保障の確立に向けた「枠組み」の議論を始めるべきだ。北朝鮮と米国の「平和協定」締結を最終目的に、北東アジア非核兵器地帯の可能性、常設の北東アジア安全保障会議の設置など、北朝鮮を含めた地域全体の安全保障問題について、検討を始めるべきだ。
    具体的には日米韓だけでなく、ロシア、中国、さらに東南アジア(ASEAN)、EU、など、幅広い関係国・地域を巻き込んで行くのが望ましい』

    難しい課題ですが、北東アジアという広範な地域を対象にした安全保障問題として、非核地帯を実現し、核抑止という従来の考え方から脱しようとする試みなのです。その信頼醸成を図るために政府間だけでなく民間や非政府機関を活用していくことも提案しています。

    核兵器の非人道性めぐる議論も国連を中心に行われております。
    2010年、核不拡散条約(NPT)再検討会議において、「核兵器の非人道性」を国際人道法との関係で明確に位置付けたうえで、核兵器を法的に禁止する枠組みが必要であるとの最終文書が採択されました。
    2012年、NPT再検討会議第1回準備委員会において、「核兵器の人道的結末」について共同声明が出され、16ヶ国が署名。日本は核抑止力政策を肯定する立場から不参加。
    2012年、国連総会第1委員会における共同声明では35ヶ国にまで増える。
    2013年3月、有志国による「核兵器がもたらす影響に関する専門家会議」を開催。
    同月オスロ(ノルウェー政府主催)、2014年2月にはナジャリット(メキシコ政府主催)、同年12月にウィーン(オーストリア政府主催)と、3回の会議が開催されました。
    非人道性に関する共同声明の署名国は回を追うごとに増え、
    2013年5月のNPT再検討会議第2回準備委員会では80ヶ国、
    10月の国連総会第1委員会では125ヶ国、
    2014年10月には155ヶ国まで増加しました。
    2015年10月29日、国連総会第1委員会で、多国間核軍縮交渉を前進させる決議が135ヶ国の賛成で採択。
    反対は12ヶ国(核保有国のアメリカ・ロシア・フランス・イギリス・中国等)、日本・韓国・NATO(北大西洋条約機構)諸国・インド・パキスタンは棄権。
    これにより、核兵器禁止のための法的措置に関する「公開作業部会」の設置が決定され、2016年に3回開催されました。8月には、その成果として、2017年に核兵器を法的に禁止する措置のための交渉会議を開催することを決定。
    非人道性のアプローチに対して、核保有国や日本など「核の傘」の下にある同盟国は、現実の安全保障問題を考慮すれば現時点で核兵器禁止に賛成できないとの論旨を展開した。いわゆる「国家安全保障の観点」からの議論。
    一方この間、非核保有国は一貫して、核兵器の使用は非人道的結末をもたらす。国家安全保障ではなく、人間の安全保障の観点から核兵器を禁止すべきだと主張した。世界の過半数の国が、「人間の安全保障」を重視する考え方にシフトするようになったことが、核兵器禁止条約交渉への流れを作ったということができるでしょう。
    2017年7月7日、長年核兵器廃絶を目指してきた人々にとって、忘れることができない歴史的な一日となりました。国連において、核兵器を全面的に禁止する「核兵器禁止条約」が採択されました。核兵器の非人道性を理念に掲げ、この条約の採択に大きく貢献した「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」に、2017年12月、ノーベル平和賞の授賞が決定。
    2017年3月、カナダ在住の被爆者、サーロー節子さんが演説しました。交渉に参加しない日本政府に対して強烈なコメントで非難しています。
    『自分の国に裏切られ、見捨てられ続けているという思いを強くした……被爆者はこの条約が世界を変えることができると確信している』(3月28日)
    そして、条約が採択された後、再び感動的な演説を行いました。
    『私はこの日を70年待ち続けていました……世界各国の指導者たちに懇願します。もしあなたがこの惑星を愛しているのなら、この条約に署名してください……核兵器はこれまでずっと道徳に反するものでした。そして今では、法律にも反するものになったのです』(7月7日)
    唯一の被爆国として核廃絶を目指してリーダーシップをとると公言している日本政府。一方で、核の傘に依存する日本は、条約交渉にも参加せず、今後も署名しないと断言する。平和利用に限定すると表明しながら、47トン(長崎型原爆約8000発分)ものプルトニウムをため込み、核燃料サイクルを堅持する日本政府。
    フクシマの悲惨な原発事故からなにも学ぼうとしないのは、政府や政党、議員や官僚だけではありません。それを支持する国民、あるいは傍観する市民も、変化を強力に推進し、原子力政策の転換の意思表明をしないがぎり同じなのです。

    「核兵器と原発」のなかで、核兵器禁止条約の意義として3点にわたり要約しています。
    『「人道的アプローチ」を全面的に採用したという点がまず挙げられます。国家の安全保障の観点からではなく、「国際人道法との合致」と「人間の安全保障」という観点から作られたこの条約は、クラスター爆弾や対人地雷禁止条約の前例に見られるように、人道的観点から兵器を禁止する、という論理構造でできている。
    第2に、「市民社会との連携」である。従来、核兵器に関する国際条約や制度は、ほとんどが核兵器を所有する国の主導のもと、これ以上核兵器を拡散させないことを大きな目的として作られてきた。ところが、核兵器を確実に削減し、廃絶まで導くこの「核兵器禁止条約」は、核保有国ではなく、非核保有国がその牽引力となった。その際、被爆者・被爆地からの長年のわたるメッセージ、それを受けた市民団体や核軍縮専門家が、非核保有国政府と協力して、この条約を作り上げてきた。
    第3に、この条約のもっとも重要な点でもあるのだが、「核兵器に悪の烙印を押した」ことである。禁止項目のなかに「核兵器の使用の威嚇」(第1条)を挙げ、核保有国や「核の傘」依存国が国家安全保障政策の柱と位置付ける「核抑止」を明確に禁止しているのだ。これは核保有国、「核の傘」国にとっては、受け入れがたい条件となるだろう。このため、核保有国や「核の傘」国が当面、この条約に参加する可能性はきわめて低い。
    しかし、「悪の烙印」を押された核兵器に、安全保障の柱として依存することは、条約に示された国際的規範に反する行為として、国際社会からの批判や圧力がますます強くなることを覚悟しなければならない。とくに、被爆国日本への圧力や注目度が増すことは間違いない』


    核燃料サイクル(原子力政策)と核抑止への依存(安全保障)の問題は密接に関連しており、核兵器のない世界を望みながら、さらに核依存しなければならない矛盾を正視しなければならない。核兵器禁止条約の採択は人間の英知の結実。その重要性を認識しなければならないと思いますが、日本政府の原子力政策・核兵器廃絶への取り込みはむしろ後退していると考えたほうが正解でしょう。 
    毎年、日本が国連総会に提出している「核兵器廃絶決議」は、2017年には、核兵器禁止条約に言及しないで提出され、さらに「あらゆる核兵器使用がもたらす非人道的結末」という表現から「あらゆる」が抜け消える衝撃的できごとがありました。その結果、採決では賛成国が前年の167ヶ国から144ヶ国に減少。日本の外交への信頼が崩れ始めています。

    1月26日、SGI提言が発表されました。核問題は創価のライフワーク、平和・人道団体としての信頼性と認証を求める仏法的アプローチです。宗教団体は信仰で獲得した英知を磨き、平和勢力の貴重なインフルエンスとなる資格を有するでしょう。なにより自己制御の方法を普遍的な法に依っていることを自覚しなければならない。信仰とは紛れもない深い自覚であり、仏典が説く非暴力への信頼を実現する処方箋です。仏は病を治す良医です。
    師をときには批判するわたしは、まったく弟子の資格を有していませんが、逆に創価のオフィシャルな見解にとらわれずに自由に意見を言うことができます。読む側も創意が必要な提言を、わたしなりに検討してみることも無駄ではありません。すでに老朽化している柱でも権威という金具がしっかり止められています。実は、会員の一人一人が、社会と創価の綻びと瑕疵を修繕し、改善するカーペンターなのです。破壊から建設への転換を強く促しているのが妙法ではないでしょうか。
    『私は、40年前、国連の第1回軍縮特別総会に寄せて、核廃絶と核軍縮のための10項目提案を行い、第2回の軍縮特別総会が開催された1982年にも提言をしました』
    それから毎年SGI提言を行ってきたことにふれつつ
    『なぜ私が、これほどまでに核問題の解決に力点を置いてきたのか』
    このような言い方をするのは、今回の提言が包括的な集約を示すものだからでしょうか。年齢的なことを考慮すれば、人生の終幕と提言のエピローグを考えずにはいられないでしょう。
    核廃絶と核軍縮のための10項目の提案は、次に掲げる内容です。もう顧みられることはありませんが、創価の原点を確認する貴重な論文です。「池田大作全集」第1巻の最初の文書として掲載されていますので、創価にとっていかに重要かが想像できます。
    古代ギリシャの故事「プロクラテスのベッド」を引用し、核抑止についてまとめています。
    『国連軍縮会議の開催される今日ほど、こうした転倒(技術面での発展が、絶えず交渉の歩調を上回っている)を陰から使嗾(しそう)している核抑止力信仰という魔物に、スポットを当てることの必要とされる時代はないでありましょう。言うまでもなく抑止力とは、相手による報復の恐ろしさを考えて、自らの戦争への衝動を抑えるという、いわば恐怖心の産物であります。この恐怖の均衡こそ、際限なき軍拡競争の悪循環を生み、いまだに使嗾し続ける人間の魔性であります。恐怖という、本来的に計測不可能な人間心理は、それが核兵器という有形な形をとって立ち現われたとき、ゆうに全人類を抹消し、地球を破壊しかねない怪物へと肥大化してしまったのであります』
    さらに核軍縮が一向に進展しない4つの要因を挙げています。このような指摘は核問題の基本的理解として重要です。
    1.国家間、特に核大国間の根強い相互不信感。核拡散防止条約の矛盾。
    2.核大国のエゴイズム。核抑止という悪。エゴイズムは悪であり、悪を悪で制御しようとすれば、必然的に悪循環に陥る。
    3.核に対する不感症。核アレルギーこそ正常。核の脅威に対する無関心は平和への最大の敵。日本の核アレルギー心理は、広島・長崎の深い体験から発しているということ。被爆国という核廃絶の原点を忘れてはならない。
    4.原子力産業の巨大化。発電炉、再処理施設、濃縮工場つきのプラント輸出。原子力施設の先進国からの売り込みが核拡散につながる。

    これらの諸因を確認しつつ、歴史創出の主役はあくまでも人間との視点から、軍縮総会に提案した10項目。
    (1)現在、核兵器を所有する国、所有しない国を問わず、全世界の各国の最高責任者が一堂に会して、首脳会議を早急に開催すべき
    (2)国連がイニシアチブをとって、核エネルギーの安全な管理が可能となる道を模索
    核の管理を国連の監視下におき、その安全な管理を委ねるよう働きかける
    (3)国連のイニシアチブで、核保有国と非保有国を問わず、すべての国に核兵器不使用の宣言を義務づける協定の制定
    (4)非核平和ゾーンの設置と、その領域の拡大
    (5)国連に核大国の計画的な核削減計画の提出
    (6)中性子爆弾や巡航ミサイル等の新型兵器開発を停止させ、さらに禁止する国際協定を国連のイニシアチブのもとに成立させる
    (7)軍縮特別総会が開かれる1978年から毎年、国連に対して各国が兵器、兵力及び軍事施設等の軍備状況を報告する義務を負わせる(「国連軍縮機関」を設置し、専門の委員によって常時パトロールする)
    (8)全面的かつ完全軍縮に向けての研究、討議、広報、出版等を、国連の呼びかけによって民間レベルでの協力
    国連大学に「軍縮研究情報センター」の設置
    (9)戦争の残虐性、核兵器の恐ろしさを啓蒙するため、国連に「平和のための資料館」の開設
    国連の長期的プログラムのもと「反戦・反核展」開催し、国際世論を盛り上げる
    (10)前記の提案を実効あらしめるため、軍縮のための経済的側面の裏付け(軍備増強の膨大な軍事費を今後は平和と繁栄ために振り向ける)
    国連内に「軍縮のための経済転換計画委員会」を組織化する方向で検討

    以上のような提案ですが、とても稚拙な提案もあり、提言が掲載された昭和53年(1978年)当時の時代状況も反映していて興味がつきませんが、国連に自国の軍備規模や内容の申告を義務化するという発想は、信じられないほど楽観的です。国家機密をあからさまにするぐらいなら、始めから軍備に投資しないでしょうし、そもそも国民の賛同は得られないでしょう。
    創価でも宗教団体の資産や財務内容、会員規模をまったく公表しませんが、他に対しては平気に財布の中身の公開を提案しても恥ずかしいとは考えないのですね。楽観主義は無責任なご都合主義のことをいうのでしょうか。
    論文の最後に、国連のもっとも困難な改革、安保理の構成についてふれています。
    論文のプロローグに当時のワルトハイム事務総長と会談したことを紹介しています。
    「世界平和へのガンは何ですか」
    「それは、不信感です」
    総長は、間髪をいれずに一言のもとに答えられたという。
    交渉の最前線に在る人の、こういうエピソードからは、国家も人間も不信の塊でできていることを実感できますが、国連の構造的な問題が国際的な交渉事を疲弊させ破綻させていることは常識です。そのことを強く指摘しないで、核問題の難しい議論が進展するのでしょうか。
    「国連のガン」は安保理の常任理事国であり、常任理事国が核大国であることを考えると、核廃絶の障害になっているのは、紛れもなく超大国のエゴイズムの支配なのです。一人ひとりの人権に差別がないように、国家は等しく対等であり平等であるという理念のもとでなければ、真の交渉も平和も、核兵器の廃絶もできないでしょう。第二次世界大戦の戦勝国の傲慢な意識が、平和実現を阻害していることを、反省し改革すべきなのです。

    今回のSGI提言でも、マンデラ大統領、ローザ・パークス、ハンフリー博士、キング牧師、ハーディング博士、ハンナ・アーレント、コスイギン首相、ゴルバチョフ書記長などの言葉やエピソードが散りばめられておりますが、以前のように有り難みがないのは、何かにつけて同じようなテキストやフレーズを引用するからでしょうか。あるいは対談相手と同じくらい対談者も立派だという自尊と見栄があるように感じます。却って独創性が失われていると見られても仕方ないでしょう。
    著名人を利用するのも頻度を考えなければならないでしょう。いつもご馳走を盛られると食傷になりそうですし、提言の組み立てかたも相変わらずという思いがします。
    そして、言うべきことは言ったし、そろそろ理想論と理念づくし、自慢話は終焉なのかなと、自由奔放の遠慮ないわたしの妄想は未来予想するわけです。

    宗教は倫理的、道徳的教訓に満ちていますので、生命尊厳を掲げる人道団体としての性格を有していますが、核問題についても人権上の問題として提起しています。不軽菩薩の行動を紹介しながら、人権の守護者としての標準モデル、規範としてのスタンダードな法の実践者の姿を強調します。平和実現には、法と実践者が一体となる理想的調和が必要であることは、妙法が説くもっとも核心的部分ですが、最近の創価は法の卓越性を優先し、人を見下しているようです。会員への御本尊配布の背景に根拠喪失の疑いがあると考えるわたしは、創価の偽善を追求していく姿勢を堅持したい。
    この記事も長くなり、読む人の迷惑そうな顔色も思い浮かんできますので、そろそろ一旦終了しますが、提言の人権に関する3項目にわたる主張をまとめておきます。また提言の後半、核兵器や人権、SDGs(持続可能な開発目標)のテーマについては次回に譲ります。SDGsについては、昨年の提言で詳細に論じていますので、知りたい方はもう一度読み返したらどうでしょうか。テーマは数年は継続していきますので、1年ぐらい読み飛ばしても大丈夫。

    第1の論点は、人権の礎が「同じ苦しみを味わわせない」という誓いにあると主張。
    国連の移民・難民問題を担当する特別代表、ルイーズ・アルブール氏の言葉を紹介。
    『他のあらゆる人と同様、移民もその地位に関係なく、基本的人権の尊重と保護を受ける必要があるということは、はっきりさせておかねばなりません』
    そして国連の初代人権部長ジョン・ハンフリー博士の生い立ちなどを世界人権宣言とともに紹介。次にマンデラ大統領を不軽菩薩に重ねてその偉大さを強調しています。
    会員の皆さまはきれいサッパリ忘れていると思いますが、一昨年の提言でも、難民問題について詳しく論じていました。読み進むうちに、マネーリッチな創価長者が、難民のために多額の寄付でもするのかしらと期待したのですが、ただ単に言ってみただけの提言だったので、わたしはがっかりしたのを覚えております。
    『わたしはこれまで、国連の新目標に「誰も置き去りにしない」との骨格を据えることを訴えるとともに、項目の一つに「すべての難民と国際移住者の尊厳と基本的人権を守ること」を盛り込むよう提唱してきました。
    かつてない規模で難民が増加する中、その状況と真正面から向き合わずして、21世紀の人類の未来は開けないと考えたからです』

    人類の壮大な目標を提唱し救世主に立候補しようとしています。ただ孫に語りかけたガンジーの言葉に救われます。このガンジーの信条は、SGIの社会的活動の精神と深く響きあうものだそうです。また釈尊の同苦の心に通じるものだそうです。
    この提言では、カール・ヤスパースの言葉を引用しておりますが、よほど実存哲学が好きなようですね。仏法哲学は実存哲学を網羅していると考えることもできますが、よく分からないというのが、わたしの本心です。ヤスパースが批判したのは大衆社会の凡庸な言説でしたが、どういうわけか、最高の哲学を学んでいるはずの妙法の信徒が、平均性や多数性といった平凡なヒューマニズムばかり求めて、ヤスパースが指摘した「生の不安」を解明することを怠っているようです。釈尊は「生の不安」から十界を説き、仏界という特別な境涯、それでいて万人を対象とした生命境涯を説いたのであって、根源的な生の目的を問い続けた結果でありました。ヤスパースは精神病理学から出発したことを忘れてはならないでしょう。大衆は病んでいるのです。また多数派を形成している宗教組織もレジリエンスを失い、停滞していることを自覚すべきです。人々の心に届かなくなった凡庸な言葉が原因です。創価も朽ち始めているのです。
    ヤスパースとのつながりなのか分かりませんが、ハンナ・アーレントもよく引用して旬なようです。ハンナの名言『悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る』 
    まぁ~無思考の方々にはお似合いのマキシムですこと。

    第2の論点は、人権教育の重要性について。
    国境線と国境を越えるインフラの構築についての見解が新鮮です。地理への認識が牧口先生の「人生地理学」の「人道的競争」と被さり、機能的な地理の姿に言及しています。関係性が深まれば、差異を越えて排他主義を克服できる可能性が高まることはよく理解できます。
    『昨年の国連人権理事会でも、排他主義に関する二つの決議が採択されました。
    宗教などの違いに基づく不寛容と戦うことを求めた決議と、外国人嫌悪の行為などを防止するために人種差別撤廃条約の追加議定書の草案づくりを開始する決議です』


    この主張の最後を次の文章で結んでいます。
    『人権教育に関する国連宣言が呼びかける「多元的で誰も排除されない社会」は、その"人間性の光"を豊かに受け合うつながりを幾重にも織りなす中で、力強く支えられていくのではないでしょうか』
    ノーベル平和賞授賞の中国の劉暁波氏が亡くなったのは昨年のことですが、中国政府の厳しく惨たらしい弾圧があったことを知らないわけではないでしょうに、中国の人権教育についての提言は全くなされていません。中国ほど世界人権宣言を軽視している国はないと思いますが、名誉や勲章のほうが大事ということなのでしょうか。共産主義とは多元性を認めない社会のことであり、例外なく誰をも排除する社会のことです。また独裁が必ず存在し、それは人間とはかぎりません。党であったり、主義という思想だったりです。多元性を最大に認めるのが宗教でありながら、創価も主張の違いを認めない創価コミュニズムを作ろうとしているのでしょうか。わたしはいつも、排他的な幹部から目の敵にされているのですけど。

    第3の論点は、人権文化の紐帯は、喜びの共有にあるということ。
    聖教でも報道された、昨年11月にバチカン市国で行われた、核兵器のない世界への展望を巡る国際会議に参加したことにふれつつ(遠い他人は仲良くできても、近くの身内は中傷罵倒の言いたい放題という典型例ですが…)
    『核兵器禁止条約の交渉会議で多くの国々が核兵器の非人道性を踏まえて示したような「健全なリアリズム」の重要性を強調しましたが、私も深く同意するものです』
    理想論者が思い出したようにリアリズムを語り始めました。しかも健全でなければなりませんが、創価の選挙運動での号令も健全な活動なのでしょうか。平昌オリンピックでは北朝鮮の美女応援団が話題になりましたが、わたしの目には自分で自由にならない可哀想な集団に写りました。オリンピックとは人種も言葉も関係なく、スポーツを通して純粋に技と成績を競うものです。なぜそこに独裁者の思惑が入り込むのでしょうか。そして、それを許すのでしょうか。
    公平性を重視しなければならない政治に、創価の利益主義を持ち込もうとしている。何十年も前、あれほど公明党の独立を訴え、大衆政党への脱皮を促しながら、今では忘れたような顔をして会員を欺き続けている。政治の質を問うのではなく、会員を動員して多数者として政治を左右しようとしている。健全な精神には程遠く、人間を操ろうとする仏法者とは思えない醜い意図が垣間見れます。すべて先生が仕組んだものと理解しています。政治という玩具は複雑で挑戦的、アナログなほうがあきないようですね。
    健全なリアリズムとは自由意志による正しい現実認識です。
    会館で選挙の打ち合わせをするな!
    宗教活動と混同するな!
    【宗教と政治(選挙)のボーダーラインを不明確にして、むしろ意図的に重ね合わせている。得票数を勢力拡大の一つの指標にしているのは、かつての折伏が社会的に監視を受け、無理すると批判も免れない恐れもあることから、折伏のエネルギーを選挙運動、聖教啓蒙に積極的に転化させようとしたのではないでしょうか。中枢にある聖職者は会員の忠誠心を利用していると考えることもできます。最近は少し方針を変えたのか、折伏弘教という本来の宗教目的に立ち返り力を入れているけれど、一度失った勢いは取り戻せそうにない。池田先生を教祖化し伝説を作り、求心力を復活させようと焦っていますが、もう時代の波を越えるのは難しいのかもしれない。永遠の指導者の「永遠」という形容は、永遠に続かないことを学ぶのが、歴史からのメッセージ。経典からの警句です。また、自らを「永遠」と名乗る人間は、ほとんど勘違いしています。希有で高貴な思想の持ち主は自らを決して永遠などととは言いません。そういうふうに規定したとき、高慢な腐臭が漂い始めるからです】
    キング博士の講演を引用していますが、その言葉を聞けば正しい現実認識が、現実変革の転換点になることを表わしています。健全なリアリズムは眼前の暗闇を認め、美しい星空を見上げることなのです。民主主義のあり方、政治の選択を歪めていると思われる創価公明の選挙支援を、わたしは二度とすることはありません。それが、わたしにとっての健全なリアリズム☆彡


    Enchantress - Two Steps From Hell




    ◇◇◇


    羽生王子さまの美しい姿に胸が高鳴り、感動し、ドドッと涙が溢れてしまいました。
    どうしてあんなに礼儀正しく、力強いのでしょうか。
    日本の誇りです。プリンスにふさわしい。
    小平奈緒選手、金メダル! おめでとうございます。
    韓国、イ・サンファ選手との友情も美しい。まるで恋人同士のようになかよし。
    ガンジーの言葉を引用した、小平選手の座右の銘を知りました。
    スピードスケート500m、ライブで放送中に小平選手が涙を浮かべながら語りました。

    『明日死ぬかのように生きよ
    永遠に生きるかのように学べ』


    彼女はその言葉を実際に実践し、苦しい練習に耐えてメダルをとったんですね。すばらしい!
    智慧即福運の実証例ですが、仏法実践者と同じようなストイックな響きがあることに感銘を受け、簡単には成し得ない他者の共感力を呼び覚ます高度な働きかけは、スポーツを通した最も輝かしい収穫かもしれません。求道者という言葉もセレクトしていましたね。肉体を鍛えることは内面を鍛えることという色心不二の真理が顕著に表れ、それは一人の人間にとどまることなく、波動のように伝わっていくという、人生の幸福を実現する原理に気づかせてくれるようです。信仰者がたどる成熟へのプロセスと同じです。あらためて信仰は修行であるという事実を思い出させてくれます。
    学ぶことは楽しいだけでなく、苦しいときもあるでしょう。文字を目で追い、理解し思考することは必ず楽しいとは限らない。学ぶことの、あのなんとも言えない高揚感は経験した者しか分からないでしょう。高揚感は知力が解き放され向上する喜びなのですね。大脳のやわらかな襞に知が刻まれる気分になり、そのイメージまで浮かぶのは、きっと冷静に制御する能動的な自己観察のプロセスとインフルエンスがあるからでしょうか。自慢しているわけではありません。知的活動は誰でも同じような経過をたどるものと思います。

    創価の会員のなかには学ばない人が多いという、先入観かもしれない小賢しい感触を、わたしは持っているのですが、もちろん学ぶ学ばないは、個人の自由であって、何ら批判されるようなことではありません。苦しみのなかでのたうちまわろうと、貧しさのなかで泣き叫ぶような悲しみがあろうと、基本的に自己責任であって個人の自由は保証されております。喜びよりも悲しみ、楽しみよりは苦しみを望む人もいないとはいえません。苦しいけれど自由であることを選択する人は多いでしょうから、自己への信頼と成功への成就を欲求するハングリーな精神は、なにものにも代えがたい人生の基礎をなす心性でしょう。
    学ぶことは他者への共感のスケールを拡大する手段です。確かな定義は難しいのですが、人間力とはこのことです。そしてその人間力のベースとなる知性あるいは知恵の多くは、学ぶことから得られるものと思います。わたしは学ぶことを疎かにする人々に近づきたいとは思いません。大袈裟に言えば不幸の亡霊に近づくようなもの。亡霊だから目には見えませんが、諸天(善神)や諸悪(魔)のように心の目には見えるのです。心を鎮めて熟慮すれば心眼を養えるなどと、スピリチュアルなお伽噺の類ではありません。信心の眼は鍛えるもの。成仏への過程とは、現実的には六根清浄のこと。それをスポーツを通して実現する優れた人もいることに驚きます。純粋であることがなによりの条件です。 


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