「いくさやならんどー」 1

    『内戦の中、ある母に――
    「おまえはどの党を支持しているんだ?」
    「知りません」
    「おまえは共和党か、王党か? どっちについているんだ?」
    「わたしは子どもたちについています」』

    (ヴィクトル・ユゴー作「九十三年」から)

    「君が世界を変えていく」(池田大作・朝日出版社)にまとめられたエッセーは、聖教に掲載されたものです。ユゴーの貧しい者への慈しみを紹介した一節は、革命とヒューマニズムという小説の主題を感じさせます。ユゴー自身、過酷な環境におかれても、不屈の魂で自らの人生を総括しました。
    「もう殺戮はたくさんだ!」と題されたエッセーのなかで、悲惨なエルサルバドルの内戦を語りながら、次のような戸田先生の言葉を引用しております。

    『私は「感傷的な話」をしているのではない。母と子を救えと叫ぶのは、感傷ではない。「国際政治の現実を知らない、きれいごと」でもない。反対に、これほど現実的な話はないと信じている。この現実を救うために、あらゆる知恵をしぼるのが、真の政治だと信じている。
    創価学会の戸田第二代会長は、私の師匠である。師の会長就任は、五十年前の一九五一年。朝鮮戦争(韓国動乱)のさなかであった。就任に先立つ臨時総会で、先生は言われた。
    「朝鮮戦争の勝敗、政策、思想を、今ここで私は論ずるものではありませんが、この戦争によって、夫を失い、妻を亡くし、子を求め、親をさがす民衆が、どれほど多くなっているか、それを嘆くものであります」と。
    「昨日までの財産を失って、路頭に迷い、悲しみ苦しんで死んでいった人もいるでありましょう。なんのために死ななければならないのかと憤りつつ、死んでいった若者もいるにちがいありません。私はなにも悪いことはしなかったと叫んで殺されていく老婆もいるでありましょう。また、親とか兄弟とかが、この世にいることを不思議がる子どもの群れも、あるいはできているかもしれません……」
    「彼らのほとんどは、共産思想とはなにか、国連軍がなぜやってきたのか、何も知らないにちがいない。お前はどっちの味方だと聞かれて、びっくりしながら、ごはんが味方で、家のあるほうへつきますと、平気な顔で答える情景もあるにちがいないと思うのであります……」と。
    恩師の心は、常に、最も弱き立場の人の上にあった。
    この一点から発想しなければ、大地から足が、ふわふわと離れた机上の議論だと思っておられた。
    そういう、民衆を忘れた議論は、冷たい観念の刃で、民衆を切り捨て、切り裂いていくことを見抜いておられた』
    (「もう殺戮はたくさんだ!」)

    「小説・人間革命」の連載が終了しましたが、特に感慨はありません。基本的にフィクションであり、また先生の決意小説であり、菩薩像の一つの姿であり、励ましの小説でもあります。また、良い意味でも悪い意味でも、宗教教団の歴史の捏造という、決してやってはならないことをやりながら、真実をアピールするやり方は、会員のみに受け入れられる書き方でしょう。9月の本幹で「真実」と「事実」は違うと語っておられました。アーカイブからランダムに選ぶわけではないでしょうから、この放送はきっと、事実と違うという言い訳の理由付けが目的なのでしょう。池田先生のご指示があったのでしょうか。事実を意識的に歪めている時点で真実は失われると思う。「小説・人間革命」を象徴的に言い表しているようです。それに比べれば、上記のエッセーは、中、高校生から幅広い青年層を対象にしたものと思いますが、良質の出版であることは疑いありません。
    ものの見方について、次のような優れた表現もありました。
    『だれもが自分に問うてみる必要がある。
    自分は、与えられたイメージを「うのみ」にしているのではないか?
    不確実な情報を吟味もしないで、そのまま受け入れているのではないか?
    しらずしらずのうちに、偏見に染まっているのではないか?
    そもそも自分は、どれだけ事実を知っているのか?
    自分で確認したか?
    現場に行ったか?
    本人に会ったか?
    その言い分を聞いてみたか?
    悪意の「うわさ」に踊らされているのではないか?
    こんな「自分との対話」が大事ではないだろうか。
    「自分は、自分で気づかない偏見を、いっぱい持っているにちがいない」と自覚している人のほうが、「自分には偏見など少しもない」と思いこんでいる人よりも、異文化との対話もスムーズに進むだろう。
    自分を見つめず、自分と対話しなくなった人は、独善的になる。一方通行の道路のようになる。話を聞かない。対話もできない。
    平和のための「対話」。その出発点は、謙虚な、「自分との対話」なのである』


    偏見や先入観を持たないこと。仏教の優れた「内面を観ずる」方法は、行動を公平に評価するために有効ですが、実際に活用するトレーニングを行わなければならないと思います。信仰は最良の自己再生の心理過程をたどりますが、言いかえれば内面への深いアプローチが信仰ということ。「自己との対話」は真摯でなければできません。少なくとも、言い訳して自分さえ欺き、他に目をそらさせようとする信仰者は、妙法の正直捨方便の姿ではありません。偏見や先入観は方便に含まれるでしょう。
    仏教の平和思想のバックグラウンドに、「一切衆生悉有仏性」という言葉があります。生命の尊厳を説く仏性論と、仏国土論の理想社会の実現は、創価の平和思想の根本です。現実への果敢なアプローチは、やや疲労気味に意識が混迷していますが、それは中心をなす御本尊や三大秘法の教義に普遍性が感じられなくなったからでしょうか。柱がなくなれば家も傾きます。
    日蓮の「立正安国」は正法に帰依することを前提にしているのか、していないのか、議論の余地がありますが、現在の平和運動の基本は、悲惨の二字をなくすと宣言した、戸田先生の理念にあることは言うまでもないことです。「小説・人間革命」が沖縄で執筆開始されたことはよく知られておりますが、たぶん、池田先生は沖縄の風土にそうしなければならない理由を感じられたからでしょう。
    沖縄は、第二次世界大戦の唯一の地上戦が行われた舞台です。その国土の宿業ともいえる貧困や戦火の繰り返しは、地政学上の要所としての重要性もあり、悲惨な歴史から逃れることができない必然的な悲しみがありました。大海にある島は、紛争や戦争の舞台になりやすいことは、少し考えればわかります。戦略上の拠点を築きやすいこともありますが、島であるがゆえに征服されやすいという欠点もあります。東シナ海と太平洋を分ける線上に位置し、尖閣諸島問題をはじめ多くの領土問題を抱えていることは周知の事実です。このような複雑さは地理的な利点が国家利益に直結するからです。
    沖縄はその複雑さのなかで、いつも揺れ動いてきました。そしてそのたびに争いが起き、島民に犠牲が強いられたのです。平和を願うなら、まず沖縄からと考えるのも、その歴史を知れば、沖縄の民の人の良さとおおらかさに日本人の原風景を見ると同時に、平和を強く望むのも当然のことなのです。

    創価では、反戦平和の具体的活動を粘り強く推進してきましたが、その多くは池田先生の平和提言や著名な平和活動家などとの対話から、その範囲を広げてきたものです。核兵器廃絶への国連をはじめ国際的なロビー活動は民間組織として顕著ですが、一朝一夕に信頼が高まったものではありません。
    その反戦平和の中心となって活動している主体は青年部ですが、現在では小じんまりとした縮小傾向にあり、その原因として、なにより人材不足が響いています。婦人部は、創価の草創から弘教の主力を努めてきました。平和運動も草の根の地道な活動を土台にしながら、活動の幅を広げてきました。女性の視点から平和運動を論じ行動する必要性は、女性の社会参加の観点からも大切なことですが、創価婦人部は着実にその困難な足跡を積み上げてきました。わたしが各年代の婦人部に接してきた感覚では、20~30年前に最前線に立っていた婦人部が、ずっと問題意識があったように思う。現在の婦人部の主力はまるで、意志不在の選挙要員に成り下がっているように思えて、どうしてそのようなレベル低下を招いたのか、信仰そのものに問題があるように思えて仕方ありません。
    そのなかで特筆すべき活動に、反戦出版を通して、戦争体験を歴史の証言としてまとめたことです。第三文明社からの出版は、絶版になっているようですので、非常に残念です。貴重な証言集は二度と編むことができない無二のものと認識しておりますが、多くの市民に読まれ、その価値を認められてこそ、創価の平和運動も社会の底辺に定着するものと思います。
    創価も教義上の問題を抱えておりますが、明快さが不足したその曖昧さは致命的な欠陥になる可能性があります。世界宗教と広言し、その賛同者を求めていく創価の平和運動は、他宗教の共存と共有、仏教がキリスト教やイスラム教と共存できるのかという難しい問題があります。そのためには対話が欠かせませんが、対話力に秀でたリーダーがいるのだろうか、悲観的な情勢だけが頭をよぎります。

    「小説・人間革命」の終了で、一つの区切りがつきました。現代の御書とか、教科書というわりには、会員の原動力になっていない気もしますが、学習意欲にも末法的な減衰感に似たものがあるのかもしれません。感じ方はいろいろなのですから、読んで生命力が弱くなる悪循環もないとはいえません。唱題して疲れる場合もあるし、深く集中しなければ血液も浄化されません。わたしの場合はスピリチュアルな感度が磨かれません。題目の数を自慢する人がおりますが、自慢しただけ、生命は負の方向に傾いていくでしょう。自己顕示欲と「慢」という意味をよく知らなければなりません。
    現代の御書などという形容を聞くと愚かさより感じませんが、先生の側近からそのような発言があることに、信仰では冷静さは実現しにくいものという感慨を抱いてしまいます。自己啓発は、客観的な自己診断が必要です。過剰な形容は間違いの元。
    「人間革命・13巻」に返還前の沖縄が描かれております。
    『沖縄の問題は、山本伸一が最も胸を痛めてきたことの一つであった。
    彼は、佐藤・ジョンソン会談の三ヵ月前にあたる、六七年(昭和42年)八月の第十回学生部総会で、沖縄問題について、次のように言及していった。
    「日本の一部である沖縄が、戦後二十二年間もアメリカの統治下に置かれてきたことは、沖縄の百万島民はもちろんのこと、日本人全体にとっても、忍びえないことでありました。
    したがって、名実ともに、沖縄のすべてを日本に復帰させることは、現地住民の悲願であるだけでなく、日本国民全体の願いであります。
    現在、沖縄は、米軍の施政下にあり、現地の人びとは、日本人として平等の人権が尊重されず、普遍的な国民福祉の享有が、できない現状であります。のみならず、沖縄に軍事基地が置かれている事実は、日本の運命、世界の平和にとって、大きな脅威であり、核兵器の持ち込みは、日米間の友好関係を促進するうえに、大きな障害となっております。
    私は、この沖縄の現状を改善していくために、次のように主張したいのであります」
    そして、「施政権の即時全面返還」「核基地の撤去」「通常基地の段階的全面撤去」を訴えたのである。また、産業振興対策を強力に推し進めていくために、「沖縄経済総合開発調査会」「沖縄総合開発銀行」の設立等も提案していった。
    彼の提案は、これまで沖縄に何度も足を運び、その現状を見て、さまざまな人びとと対話を重ねるなかで、練り上げてきたものであった。
    核も、基地もない、平和で豊かな沖縄になつてこそ本土復帰である――それが、沖縄の人びとの思いであり、また、伸一の信念であった。
    「本土復帰」という住民の悲願の実現を盾に、核兵器や基地を沖縄に背負わせるとするならば、かつて沖縄を本土決戦の"捨て石"にしたことと同様の裏切りを、政府は重ねることになる』


    聖教に連載されたのは2002年のことですので、16年前の「人間革命」ですが、山本伸一がいかに沖縄を考えているかというパフォーマンスに満ちております。「核も基地もない平和で豊かな沖縄」どこかで耳にしそうなフレーズが、どれだけ沖縄の人々を裏切ってきたのか。政治家と違い公約でありませんので好き勝手なことを言えるわけです。あたかも、沖縄の救世主のような振る舞いですが、どこまでも自分で自分を誉める自己評価のレベルを出ていません。
    裁判まで発展した普天間基地移設問題は、2016年12月、最高裁で判決があり県の上告を棄却しました。国の勝訴が確定はしたものの、この裁判を提訴した国交大臣が、皮肉にも公明党・石井啓一大臣です。そして、与党としての公明党を強力に支援しているのが創価なのです。その創価の理念の体現者が先生であり、「核も、基地もない」と適当なことをいって沖縄の人々を喜ばせ、新たな基地を造ることに賛成しているのが公明党の支持者なのです。
    民主党政権のとき、後先を考えず「最低でも県外」と無責任な発言をした鳩山元首相と、立場は異なりますが、責任を取らないことでは同じです。また、中国のたびたびの領海侵犯を危惧し、防衛上の必要悪として基地容認する本土の会員をよく見かけますが、沖縄の人々に言わせれば、本土都合の上から目線というところかしら。日米地位協定はもちろん日米安保条約そのものの見直しが必要です。池田先生も「人間革命」で提案しておりますが、「基地の段階的全面撤去」という具体的な進展はあったのでしょうか。そもそもその具体的な案を持っているのでしょうか。言うだけ言って後は政治の仕事だと、いつものように逃げるのでしょうか。沖縄の人々を悩ませている日米地位協定について、公明党の発言や提案は何かありましたか?
    創価と公明党、現在はほとんどダブルスタンダードで動いています。創立の理念は失われておりますが、どういうわけか、会員の公明支援の縛りは強くなっているように感じられます。その矛盾をなんとも思わない会員は、政策については何も考えていません。基地があることによって、今までの数々の悲劇に苦しむ沖縄の人々に寄り添い、平和な島にしていくという具体的な解決の進展もなく、却って政治的対立の真正面に立って争う公明党を、一体会員はどのように考えているのだろうか。沖縄の宿命転換は成就されるのでしょうか。
    大御本尊の不受持を決定し会則変更したときも、執行部は、池田先生の考えを忠実に実行したと思われます。一方で肯定し、他方で否定する。そのような行為は半狂人であると牧口先生が言われておりましたが、とどのつまり、その矛盾を放置するいい加減さは、魔の所為にあたるのではないでしょうか。あるいは、沖縄の解答不能な問題を都合よく活用し、会員の正義心を煽って選挙運動に動員し、政権内に勢力を拡大しようとする意図も、今となっては分別があるのかどうかさえもわからない先生を、巧妙に利用しているということなのでしょうか。それも、それらも妙法の正しいメソッドなのですか?

    わたしの非政治的頭脳で考えて提案すると、
    一つには米軍基地の整理統合、縮小。
    二つ目には防衛問題全体を議論し、憲法改正を含んだ自衛隊の整備、米軍撤廃を実現し、自衛隊に段階的に肩代わりさせる。
    自分の国は自分で守るという大前提に立ち、その上でアメリカとの安保条約を見直し、安全保障を考えていく。アメリカに全面的に頼り、またはその核の傘に入り、抑止力を拡大する現在の考え方は、遅かれ早かれ放棄しなければならないでしょう。

    知事選が13日に公示されました。「オール沖縄」が支持する候補は、ある意味、複雑な沖縄の歴史を背負った人かもしれませんが、自由党出身であり、金権政治の洗礼を受けた小沢一郎代表の影響が心配です。わたしの杞憂であればよいのですが、政治家の原点、清潔で質素なプライベートであっていただきたいと考えます。沖縄にこそ、そのような政治家が必要です。
    また、一部の革新系の勢力は、身体に染みついた反日イデオロギーは簡単に払拭できません。沖縄の独立中立の選択は、どこまでも理想論であり、現実的でありません。却って貪欲なナショナリズムの餌食になり、再び紛争に巻き込まれる事態になるでしょう。そのような脅威が決して幻想でないことは、沖縄のそもそもの不幸であり、宿命とも言えるものです。

    前知事・翁長氏は知事になる前は、沖縄の自民党の中心にあり、とても保守的な政治姿勢の持ち主だったと思います。わたしの個人的感想を言えば、知事選に出馬するとき、それまでの人生を180度転換させる決断があったのではないかと思います。真の保守は歴史から学び、歴史の修正をはかっていくところですが、これはときには、イデオロギーの堕落と批判を受けることがあります。主要な論点である基地問題を、今まで通り国政の言うがままに受け入れることができないという結論は、歴史修正主義の一つの教訓から導きだされたものと理解します。沖縄を思う心情に溢れていますが、本土の人々には理解されなかったという寂しさがありました。安倍首相には、敵と味方を峻別する独特の勘があります。この政治家の性格が悪く働く方向に、森友問題や加計問題があります。辺野古に新基地は造らせないという翁長知事の強硬な態度は、沖縄関係予算の減額という報復で応えました。
    人生には、他人の理解が得られなかったとしても、潔く方向転換する瞬間があるのではないでしょうか。変節したのではありません。理想のために、来た道とまるで風景が違う、これから行こうとする道を選択したのです。苦渋の選択と表現したければそれでもよいでしょう。沖縄のために勇気を持って踏み出そうとしたのだと、わたしは考えます。
    沖縄の経済は、主要な産業が観光に偏っているために公的支援が欠かせません。離婚率の高さの原因に経済的問題があると考えるのですが、児童の貧困率も高く、子育て・教育インフラの整備、社会全体の活性化が早急のテーマです。
    選挙を左右するのは浮動票の動向であることは、どの地域でも変わりありません。その浮動票のなかに、多くの女性票があると思います。防衛問題や基地問題は、女性にこそ考えていただきたいというのが、率直なわたしの意見です。現実的に基地が存在し、今すぐ撤去できないなら、その他の生活に直結する諸問題に目を向け、そのサービスを堂々と政治家に要求していただきたい。政治は、あなたやあなたの隣人やあなたが所属するグループや会社のためにあるのですから。主義や思想も大事ですが、それ以上に、毎日の生活が安心であり、安全であることを、誰しも望むのではないでしょうか。

    Okinawa war 1945 4 沖縄戦カラー映像(注意:残虐な場面があります)


    沖縄戦のフィルムが多く公開されておりますが、わたしには正視に耐えません。
    アメリカ軍が上陸した沖縄本島西南部・嘉手納湾一帯は米軍艦船で海が見えなかったとも言われています。1600余隻の艦艇とともに、制空権、制海権も奪われ、日本軍にすれば絶望的な戦況だったということです。また攻めるアメリカ軍も、第二次大戦のなかで、最も激しく過酷な戦場だったとも言われ、精神的な異常に陥る兵士も多くいたということです。そしてなにより、無力な沖縄県民を巻き込んだ戦闘が繰り広げられたこと。
    沖縄返還後も、占領状態は実質的に続いていると認識してもよいでしょう。アメリカ軍基地の70%が沖縄に集中している現実は、快く肯定するような正常範囲であるはずがありません。
    沖縄の人々の悲しみは、とても深く、つらいものであることを、戦争を体験していないわたしたちのような世代は、機会があるごとに考えなければならないでしょう。さらに戦争被害者であると同時に、加害者でもあることを忘れてはならないでしょう。暴力否定の十分な認識と学習と行動が、創価の新たな世代に必要です。安易な政治支援をしている場合ではありません。


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    法華経弘通の偉大さ

    『創価学会と日蓮仏法と活動』というブログに、「嘱累品」についての記事が掲載され興味がわきました。コメントしようと考えて、書き始めたところ、長くなり過ぎ、投稿するためには不適切と思われましたので、自分のブログに掲載することにしました。できれば、事前に当該記事を読んでいただければよく理解できると思います。

    ◇◇◇


    管理人さま、法華経に関して、誰もが思う疑問を記事にしていただきありがとうございます。

    植木訳の「法華経」は、大学時代に学生の身分にしては高価だったのですが、出版されてすぐ買い求めました。その後普及版も出版されたようですので、機会があったら注文したいと思っております。
    それ以来わたしは、法華経はもっぱら植木訳を基準としております。このような優れた研究が、創価内でも採用されることを願うばかりです。偏向なく公平に、優秀なものは採用し向上の糧にしていただきたいというのが、賢明な会員が考えることではないでしょうか。
    管理人さまの思考過程は当然のものと思います。よく熟読されており、疑問をおろそかにしない姿勢に学ばせていただきました。日蓮の御言葉を引用するまでもなく、「学」こそ信仰者の実践の芯になり動機になるものと常日頃感じておりますが、会員の間では、その意欲も減退しているように感じられ、会則変更や教義の深化に対する問題意識や情熱も劣っているように思います。
    普及版が出版されたとき、ほとんど同時に、対談「ほんとうの法華経」(ちくま新書)も出版されました。読まれましたでしょうか?
    この本は、法華経訳本とセットになっていると考えたほうがよいと思います。この対談の相手である橋爪大三郎氏は知られているように著名な社会学者であり、宗教にも強い関心を持ち、対談相手として申し分がないように思います。法華経に関して、新しい知見を展開している植木氏に、質問したいことを質問しているというふうな初心者的趣きもあって、植木氏から納得する回答を引き出しているところにおもしろさがあります。いくら訳本でも原典を理解するのは難しく、卓越した熟達者の解説が必要です。また、法華経は最良の信仰者のためのラーニング経典とも言えるでしょう。
    嘱累品第二十二」で本来は終わっているはずの法華経も、その後の六品を加えることによって法華経全体の主題と論点に曖昧さが逆に追加されたようにも思います。管理人さまが指摘されるような疑問が起きるのは当然ですが、法華経の内容の重要な意味も明らかになるような気もします。法華経に一切の無駄はないということと、考えれば考えるほど深い意味があるということです。
    法華経は、弘教する法と弘教する人間が揃わなければ、結局は弘教できません。弘教する人間がどのような人間なのか、法を付属する意味はそこにあると思いますが、別付属と総付属の二通りの違いがなぜ必要だったのか、その相違を知ることによって、釈尊滅後の法華経弘通の偉大さと困難さが明らかになります。

    わたしが説明するよりも、「ほんとうの法華経」から引用します。
    植木:神力品では、お釈迦さまが久遠以来教化してきた地涌の菩薩に限って付属されました。しかし、地涌の菩薩以外の菩薩たちが取り残されています。そこで、彼らに嘱累品の冒頭で付属がなされます。中国では、前者が本門の教えによって化導され、後者が迹門の教えによって化導されてきた菩薩という意味で、それぞれ本化の菩薩と迹化の菩薩と言われます。また、前者が特定の菩薩に限定して付属され、後者が総体的に付属されていることから、それぞれ別付属と総付属と呼ばれました。
    橋爪:でも、その解釈の根拠は、経典のどこにも書いてないじゃないですか。
    植木:そういう言葉はありませんが、話の内容から分類したということでしょう。
    橋爪:具体的には、釈尊が右手を取っていますよね。《それらのすべての菩薩たちを一まとまりに集合させ、神通の顕現によって完成された右の掌で、それらの菩薩たちの右手をとって、その時、次のようにおっしゃられた》とあります。「それらのすべての菩薩たち」というのは誰ですか。ここには地涌の菩薩は入らないんですか。
    植木:地涌の菩薩の付属はすでに終わっていますから、入る必要はないと思います。
    橋爪:では、地涌の菩薩以外のすべての菩薩、ということですか』


    何を付属したのか。
    橋爪嘱累品って短いですよね。四頁しかない。ここでは、何を付属したんですか。(中略)ここは、法華経を弘めることを付属していませんよ。釈尊はここで、阿耨多羅三藐三菩提を弘めることを付属していますが、法華経以外の経典にも、阿耨多羅三藐三菩提は出てきます。ここでは、何を付属したのかわからない。上行菩薩に付属した内容と、善男子に付属した内容は違うんですか。
    植木:法華経の弘通ということでは同じだと思います。その内容は、別付属では、(中略)すべてのブッダが獲得した究極を要約した法門、すなわちエッセンスを弘通することを付属しています。それに対して、この総付属では、「この上ない正しく完全な覚り(阿耨多羅三藐三菩提)」の弘通を付属している。抽象的な表現で、その具体的内容がわかりにくいのですが、次に《この如来の知見と卓越した巧みなる方便に達して、この如来の知見と卓越した巧みなる方便を求めてやってきた》人びとにこの法門聞かせるべきだとあることからすると、巧みなる方便によって弘通することを付属しているように思える。
    橋爪:ということは、別付属と総付属では、内容に違いがあるということですね』


    菩薩が弘める法華経の違いはどのようなものか。
    橋爪:同じ法華経でも不惜身命で頑張って弘めなさいというのと、相手の能力を考慮して巧みなる方便を用いて弘めなさいというのでは、違うじゃないですか。地涌の菩薩のほうが、ハードルの高いことを付属されているんですか。
    植木:そうなりますね。地涌の菩薩の場合は、一番困難なことを付属されています。これまで、滅後の弘教を名のり出た人たちを整理すると、①自ら「サハー世界(娑婆世界)以外で」と条件を付けた人たち、②国土を指定せずに弘教を誓った人たち、③サハー世界で弘めると言ったけども、釈尊に退けられた人たち、④菩薩たちを退けた後で呼び出された地涌の菩薩たち――といった四段階にまとめられます。後になるほど、困難な条件を担うことになります。
    橋爪:地涌の菩薩が法華経を弘めるのは、娑婆世界ですか。
    植木:はい。①の菩薩は、「ただサハー世界以外で」と自分で条件を付けていたから、サハー世界以外ででしょうね。③は他の世界からやってきた菩薩ですが、サハー世界で弘めると言って退けられました。もとの自分たちの世界に戻るしかないでしょう。
    橋爪:じゃあ、地涌の菩薩と、その他の菩薩では弘める場所が違う。後者のほうが、軽めの任務なんですね。
    植木:そうなりますね。中国では、地涌の菩薩と、他の菩薩を区別するのに、弘教を担当する時代にも違いをつけました。それは、正しい教えが存続している正法時代、正しい教えが形骸化した像法時代、正しい教えが失われてしまった末法時代の三つです。後のなるほど悪条件になります。時代と世界の違いを合わせると、サハー世界の末法時代がもっと厳しく、次にサハー世界の正法・像法時代、次はサハー世界以外という順になるかと思います。従って、地涌の菩薩は、末法におけるサハー世界を担当するということになります。
    橋爪:でも、ちょっと苦しまぎれな感じがしますね。法華経の本文を読む限り、そう考えなきゃいけないというわけでもない』


    時代を経過すると宗教哲学も細分化をまぬがれず体系化していきます。滅後の時代区分はその典型ですが、地涌の菩薩の使命を強調するために、困難さのレベルを最高度に設定します。不幸なことは、そのような時代区分の根拠が宗教特有のものであっても、不思議と時代相を反映していることです。たとえば、武器や暴力といった生命否定の道具や手段が、精緻を極めて高度に発達。最終殺人兵器・核兵器の恐怖に喘いでいる現実は、仏教の時代区分とリンクしているでしょう。他者への慈しみと、他者との平和的関係が失われる時代なのです。
    また、本化と迹化の菩薩も、娑婆世界に共存共生していると考えることも可能です。妙法を中心軸にして、より近いところに地涌の菩薩のポジション、その外周をその他の菩薩のとりまく世界を想像できます。他宗教や無信仰の人々でも、菩薩的生き方をしていらっしゃる方は多くいると思われます。「自解仏乗」と説かれるように、高度な知性と献身的な行動にあふれた尊敬できる人々は、案外身近に存在するかもしれません。全体と部分という見方を敷衍すれば、たとえ部分観であっても妙法を活かす方法であるなら、社会変革の十分な動機になりえる力になるということです。迹化から本化へ、本化から迹化へ自由に行き来し、方便が秘妙方便と開かれるように、本と迹の共同行動が、真の平和を創造できるパラダイム転換になるかもしれません。他宗教の者であっても偏見や固定概念で判断しては、可能性の芽を摘むことになります。
    引用した文章の最後に、橋爪氏が述べているように、法華経には柔軟性があると思います。読む人によって、感じ方に相違が出てきて、答えが決してひとつではないというところに、人間とその行動を信じた肯定的な信頼感が醸成されます。万人性と謳われる所以です。そして、一時的に拒否しても、やがて法華経の万人を受け入れる包括性に、次第に魅かれていくことでしょう。日蓮仏法も法華経があればこそですが、解釈の多様性は、日蓮に固定的に依拠するものではないように感じております。また、学術的アプローチだけでなく、信仰者としての実践的チャレンジによって個人の生活上、あるいは社会への貢献を通じて、法華経の深いアダプタビリティ(適応性)と受容力がクローズアップされる時代が来るかもしれません。

    右手を取るのは、インドの習慣も影響しているかもしれませんが、詳しいことは推測する以外にありません。でも、誰かを励ますとき、手を取り、瞳を見つめ、相手を揺さぶるように、励ますのではないでしょうか。仏が全菩薩に法を付属し、「頑張るんだよ」と励ましている様子を思い浮かべることができます。手を取り合うことは、とても人間的行為であり、連帯を感じることでもあり、相手を気遣うことでもあり、決意を伝えることでもあるのです。うれしいことがあれば、手を取り合って祝意を伝えるのではないでしょうか。また承諾の握手でもあります。少なくとも、前向きの親愛の情感を伝える行為ではないでしょうか。
    頭に手を乗せる行為も、親が子どもを養育するような優しさがあります。菩薩の優秀さは釈尊の自慢なのです。親が子どもを自慢するような慈愛があります。法華経はとても人間的な経典なのですね。
    また、法華経には直接的な表現を避けている場合もあり、なぜそのような表現になったのかを推測する必要もあると思います。社会的背景や法華経を説くことの制限もあり、抽象的、あるいは思わせ振りな表現も必要だった背景を考えなければならないと、植木氏は述べております。このような言葉の制限は、第二次大戦時の牧口先生が、個人的な手紙をはじめ講演や指導、行動の意味をストレートに伝えることができない制約があったことを思い出させます。
    混乱と統制の時代に、法を弘める困難さを考えなければなりません。平和な時代にあって、命も危ぶまれる社会の脅威を想像することは知識としてはあっても、痛みをともなう実体験としての感覚を想像することは難しいように思います。法華経の流布は、傑出し忍耐強い菩薩でなければ、社会に広く安定して説くことはできないということを示しているように思えます。創価は強い使命感が薄らいでいるように感じておりますが、リーダーの不在はやがて、法を説く喜びと感動の不活性化、イベントの慣習化へと転落し、儀式化することでしょう。


    以前、大乗非仏説の記事も読みました。大乗非仏説か、非大乗非仏説かという二者択一のような問題設定の仕方は、ほぼ一般的な問題設定でもありますが、わたしは、法華経は釈尊と菩薩の師弟の共作のように思えて仕方ありません。その根幹となる思想は、万人に仏性を認める仏のものですが、しかし実際に経典の一字一句を書き表していったのは、実践に裏付けられた弟子たちの努力があったのではないでしょうか。事理の観点から見れば事の法華経は弟子が担うということ。植木氏も、法華経を説く一団は、非主流派であり、迫害を受けたと書いております。不軽菩薩は誰でもない、実際に法華経を説き苦難に襲われた弟子たちのことなのだと考えるようになりました。そしてきっと、乗り越えたのでしょうが、そのような苦労があっても、長い間に腐敗し衰退をまぬがれませんでした。純粋さに不純が混ざり、許容できないところまで変容していくプロセスは、時代や地域に関係なく方程式のようなものです。法が普遍的でも、安定し永続的に続いていく集団や組織は皆無なのです。


    長文になっても書く意味が十分にあると勝手に思いました。
    信仰の真実と喜びを開拓できれば、人間としても成長できるのではないかと、求道者の姿勢をいつも考えます。煩悩の大地を割って登場する地涌の菩薩は既成概念を打ち破る力強さがあり、罵倒と誹謗と暴力が嵐のように襲いかかろうとも不退転の不軽菩薩には、人間への肯定的な、どこまでも無限の信認があります。苦難であろうとも、新しい世界を創造するそのような挑戦の姿こそ、法華経が伝えたかったことなのかもしれません。
    創価のなかでも友好的で有意義な対話ができることを、お祈りしております。



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    創価の教育的善導

    わたしはいずれ、会員としての履歴を抹消削除されるかもしれません。信仰は一人ではできないと考えている人は多いと思いますが、十分に可能です。強い意志とそれなりの知性があれば、無教会主義のように自分の信念を貫くことができます。一人で生きていくことはできませんが、一人で決断はできます。そして一人で行動もできます。少しも恐れはありませんし、葛藤もありません。自由を感じて、なにか重い束縛から解放される気分になるでしょう。
    心ある会員の方にお願いです。大御本尊を受持の対象にしないという、池田先生のご指導があるのでしょうか。わたしが不勉強で知らないだけなのかもしれませんので、知っている方は、わたしに教えてください。大御本尊の本質は少しも変わりありません。ただ大御本尊を取り巻く状況が変化しているだけなのです。本質を求め抜くのが求道信仰者ではないでしょうか。
    御本尊は信仰の根幹ですが、その根幹に、永遠の指導者などと仏法者らしからぬ名称で尊称され、すべての会員の指針になっている師のコメントやメッセージがないことに疑念を抱いています。真面目な会員に対し不誠実です。毎日、多量の原稿を執筆されているにもかかわらず、なぜ肝心なことには無言なのでしょうか。御本尊への懐疑と誤謬は信仰そのものの崩壊です。不実で虚偽の人生の始まりです。とても重要なことです。

    近くのスーパーでお買い物していたら、偶然にばったりと、婦人部幹部と顔を合わせてしまったのですが、知らん振りに通り過ぎていったのには驚きました。わたし一人を納得させることができない幹部なのに、自然な、あるいは、幹部必携ハンドブック的な愛想もかけないなんて人間失格ですよ。こういう偏見に凝り固まった、マナーもない余裕もない人間とおつきあいすること自体お断りですが、わたしも「依法不依人」という言葉を噛みしめなければなりませんね。法は素晴らしくても、それを説くのは人間。人間の完成度が法のレベルを高下させる。ないものをあると言ったり、あるものをないと言ったり、受持仏法において、受持はしないけれど否定はしないといった自分都合の新解釈は、師匠譲りなのでしょうか。「受持即観心」の意味もわかっていない。「観心本尊抄」に
    『此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し』
    その本尊は創価の本尊だと主張して、厳粛に大御本尊を範として書写した事実を忘れている。本尊の形ばかりでなく、模範として、あるいは理想としての信仰も書写されたことを安易に否定している。そして本尊は認定するものだなんて、御本仏が聞かれたら驚愕して腰を抜かすでしょうよ。増上慢の極みです。そのおかしさを自覚できないところに信仰進路の誤りがあります。
    人法が一体ということの難しさをいつも思います。拒絶しない人格を菩薩というのではないかと思いますが、きっと意見の相違から排除することに重きを置いているのでしょう。自他不二の信仰だなんて、真面目な顔で解説するあほらしさ。自己と他者は対立するものではありません。
    正しいことをすれば反発がある、それも生き方と信仰の一つの定義ですが、まさか反面教師的に創価に当てはまるとは思いませんでした。人の振る舞いが出世の本懐のはずなのに、偽りの空証文を発効しても平気なのよ、創価のバリ活菩薩さまは...
    異質の他者を受け入れることは苦しいことであり、デリケートな心の問題ですが、グローバル時代の信仰基準は、生き方の根本を問うことであり、価値観が違う他者の、共生か排除かという判断を迫られる喫緊性があると思う。同じ民族で、同じ言語を使用していても理解し難い問題が多くあるのに、これが生活習慣や国土、環境が違えば、わかりあえないのも当然。世界宗教というイノベーション、信仰基準の世界化は、簡単にはいかないでしょう。

    信仰教育について、「社会と宗教」から、池田先生の質問。
    『宗教教団は、新しく入ってきた人々に教義や精神を教え、その人々が信仰の喜びを感じ、自ら布教しゆくよう育てなければなりません。そこには、教える人と学ぶ人との関係が生じ、組織が形成されていきます。
    そこで、教団内に布教という使命感が生き生きとしており、教える人と同等、あるいはそれ以上に力ある人に育てようという目的観がある間は、組織はその宗教の発展に貢献できるでしょう。ところが、組織の維持だけが目的となり、外に向かっていく使命感が失われると、教える側は自らの権威を守ることにのみ汲々とし、学ぶ人々との間に常に落差を保っていこうとします。(中略)
    そこで大切なことは、組織を自らの権力欲や権威保持の手段にしないことであり、組織上の立場を目的としないことです。しかし、そうした欲望は人間の本性的なものとしてあり、組織は、その存在自体が、そういった欲望を掻き立てる働きをするといえましょう。
    したがって、もちろん、人間をこれらの醜い欲望に囚われないよう導くことが宗教本来の役目ですから、そうした教育や精神の徹底がなされなければなりませんが、同時に、常に、布教運動の展開という、外へ向けての活動目標を設定していかなければならないでしょう。この問題は、私自身、苦慮してきたことでもありますが、教授のご意見をうかがえれば幸いです』


    池田先生は、改革者としての宿命を背負いながら、長年にわたり、運動としての弘教と信仰者教育のバランスをずっと苦慮してきたこと、組織把握と目標設定等に関して常に新鮮さを感じられるように会員に提示してきたこと、能動的で自律的な能力を引き出し、インセンティヴな励ましなどの指導者の苦しみに思い当りますが、どうして最後に大きな間違いを犯すのでしょうか。まるで、生涯をかけて築き上げてきた財産をムダに投げ出しているようです。それまで持続してきた強い意志が感じられません。そして自らの責任ある言葉で語ろうとしません。老いも死も眼前にあるのですから、その永遠の未解決の宗教的問題を一番に語るべきです。

    教授の応答は明快です。信仰は教育的側面が菩薩の慈悲と重なります。
    『宗教的献身をどう維持するかということは、あらゆる信仰に常につきまとう問題です。これは特に、ある種の人々、そういってよければ信心慣れしている人々の間に生じる、独善的な態度にはっきりと見られます。私は何年か前、あるインタビューで、自力で成功したある実業家の話を聞いたのを思い出します。
    その実業家は「あなたは信仰心が篤いですか」と尋ねられて「ええ、もちろんですとも」と、答えました。「では、よく教会に行くのですね」とラジオのインタビュアーが尋ねました。すると「いや、とんでもない。私にはその必要がないんです。だって、私はもう信仰心が篤いんですから」と答えていました』


    わたしは信仰心が篤いと漠然と無自覚に考えている会員が、なんと多いことでしょうか。信仰に技術なんて必要ないのに、まるで熟練の技術者のように信仰マニュアルを語る愚かさ。そんなわけ知りの事情通の婦人部のもっともな顔つきは、わたしは盲信の鑑ですと告白しているようなものですよ。いくらお化粧でシワをかくすことができても、心はメイクでデコレーションできないんですよ。
    ウィルソン教授のリプライは、よく考えてみなければなりません。教える側と教えられる側の関係がサンガと言われる伝統的な組織ですが、教育が反復性の連続であることを考えると信仰目的への強い思いが必要です。組織が抱える常住的問題であることに間違いありません。惰性に陥りやすいのは信仰も同じであり、誰でも生活のなかで生気を失うことが必ずあるように、分別を見失うときが必ずあるのも人間の特性です。つまり揺るがない哲学や堅固な動機を持っていても、常に危機にさらされているのが信仰者でもあり、信仰の深さを試されているのです。不軽菩薩は堅牢な意志を堅持していましたが、迫害のなかで常にモチベーションの維持の危機にさらされていました。そういうふうに考えることがずっと人間的ですし、身近に考えることができる魅力もあるでしょう。悩むからこそ価値が生まれるのです。悩むからこそかけがえがない人生を歩むことができるのです。信仰者とはポジティブな実践者であると同時に、悩みや苦しみが尽きない人々でもあるのです。「苦即楽」とは、菩薩のためにある言葉なのです。




    最近、大きな事件やニュースがありすぎて、感覚が麻痺するようです。大坂地震の被災者にお見舞いを申し上げ、犠牲になられた方々にお悔やみ申し上げます。日本は地震大国であることを、あらためて思いました。深く同情いたしますが、いつ自分が被災者になってもおかしくないほどの頻度で災害があり、他人事とは思えません。サバイバルに生き残るスキルも、また他者への優しさとホスピタリティーも、人間的な暖かさを感じられるように、人格を磨かなければなりません。こういうことは、よく考え意識しなければ難しいものです。
    東北大震災でも多くの会員がお亡くなりになりましたが、自然災害の前では妙法も非力です。かけがえのない人を失い、どうして別れなければならないのか、その理由を明確に説明できません。宗教は人間が考えだした法則であり、普遍妥当性を問われながら十分にその証明に至っておりません。正しい人生を祈り、正しい行いを積み重ねても、結果はいつも途中経過であり、過程のなかでの不確定な自分と対峙し、その原因と結果を想像しなければなりません。わたしは人智を超えた不可解なことをすぐ宿業論で片付けてしまうことに反対です。悲しみは心のなかの奥深いところにあり、その悲しみは、冷たく言い放つ宿業論で解決できないことを知るべきです。即身成仏、其罪畢已の文証を虚言にする影響力を自然災害は持っています。仏性がなぜ、思いがけなく訪れる悲惨な死と苦痛を要求するのか、わたしには理解できません。しかも、慈悲深い真面目な会員に。
    いつの時代も過渡期であり、荒涼として荒れ果てており、人間性否定のトラブルも絶えません。立派に見える指導者も心のなかはわかりません。わたしは、わたしだけでも自分に正直に、自分を誤魔化すことなく、正しいと思う道を思いめぐらし省みて、つつましく歩んでいきたいと考えるだけ。

    中国の宗教事情に注目しておりますが、最近も、ニューズウイークに掲載された新疆ウイグルの記事(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/06/post-10388.php)が伝える弾圧の悲惨さは目を覆うばかりです。中国の古い友人・池田先生は、この新疆ウイグル自治区から数えただけで4つの名誉称号を受けている。新疆大学からも名誉博士を受賞していますが、ウイグル族と漢民族の経済格差は広がるばかりで、大学を卒業してもホテルのドアボーイより就業機会がないという不平等な扱いがあり、社会に対する不満と憤りがふくらむばかりです。よくそんな大学から名誉を受けたものですね。名誉の返還も普通なら視野に入るでしょうが、名誉の数が大事ですので間違ってもそんなことはありません。いつものことながら、会員の皆さまも深く考えることなく子供のように喜んで、人間主義を標榜していながら人道に対する常識的な感覚を持ち合わせているのか、大いに疑問です。SGI提言で人権問題を提案しているわりには、このように静かに進行している人権弾圧には無関心で、なにか行動を起こすなど論外。個々の問題に関心を寄せ、解決してこそ、全体の人権状況が改善していくのではないでしょうか。人権団体を主張する創価の永遠の指導者も、地域限定し、日本だけに通用する永遠らしい。口先だけの人道主義は、師弟不二という現世的な誓願で、強固な虚偽でカモフラージュされています。師弟原理主義ともいうべき創価のドグマは、中国一党独裁と同じく寛容心に欠ける。
    中国指導部にお世辞をつかい、ご機嫌取りをする、周辺をとりまく政治指導者も同じ。問題を見て見ぬふりをして、最悪の弾圧を容認している。善良で敬虔なイスラム教徒をISのせいにしてテロリストときめつけ、取り締まりと言いながら弾圧している。残酷な刑罰と拷問で民族浄化という恐ろしい人間否定のシナリオを実行している。

    先生は、94年の深圳大学記念講演では、中国的人間主義を論じて、逆に欧米を批判しております。
    『この世紀末を覆う暗雲のよってきたる根源は、どこにあるのか、というマクロ(巨視)的視点も、おろそかにしてはならないでありましょう。(中略)
    世界とりわけ欧米先進諸国に顕著な、未来展望への海図も羅針盤もなく右往左往する人々の、まことの荒涼たる心象風景ではないでしょうか』

    20年以上前の講演ですので、何かを指摘してもムダなことですが、マックス・ウェーバーを引用してのその続きの文章は、とても正確な未来展望とは思えません。中国に媚びているだけです。
    『かつて、マックス・ウェーバーは、資本主義の興隆をもたらした宗教的原因を分析した有名な書物の末尾で、ほかならぬその資本主義の爛熟した社会に、驕り高ぶった「精神のない専門人」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」梶山力・大塚久雄訳、岩波文庫)や「心情のない享楽人」の登場を予感しつつ、事実そうなるかどうかは「誰にもわからない」と慎重に留保しました。しかし、不幸にも、彼の心配は、杞憂に終わらなかったようであります』
    確かに杞憂に終わらなかったようですが、それは欧米に対してではなく、腐敗国家・中国の正体が、やっと明るみに出てきたというということです。宗教性という人間尊厳の精神性がなく、はてしない欲望に囚われた世紀末の人間を代表しているような享楽人は、世界の資源を食いつくす勢いです。さらに、社会主義市場経済を賛嘆し、人間のための経済、人間主義的発想の経済と褒めあげ、「倫理的モデル」とまで論じる性急さは、どこから導き出される結論なのでしょうか。トインビー博士もきっと悔やんでいるでしょうね。
    『トインビー博士が「中国こそ、世界の半分はおろか世界全体に、政治統合と平和をもたらす運命を担っている」と言うとき、貴国の歴史が蓄えてきた人間主義的モラルの力を、はっきりと予想していたのであります。
    今、中国の経済発展の最先端をいく深圳の地で、「自ら立ち」「自ら律し」「自ら強め」ながら、二十一世紀へと鳳のごとく飛翔しゆく皆さま方の目指すものは、必ずやニーダム博士(中国学の権威、香港大学名誉博士)やトインビー博士の思い描いていたそれとピタリと符合する、「人間主義」の限りなき地平であろうことを私は信じてやみません』

    91年に行われたマカオ大学記念講演も同じ論調ですが、「民族意識の混沌から人類意識の新秩序」と題されているように中国賛嘆は冷静さを欠いています。自己と他者のかかわりあいのなかで、極端な個人主義は排除され、人間と社会に対しての、中国伝統の優れた感覚と同定する人格主義に論及。中国文明から生まれた道徳の現代的意味を論じています。現在、このような時代性が希薄な論文を読む人が、はたしているのでしょうか。
    このような中国依存の問題の根本に、あるいは、犯罪者を時代の改革者であるかのように媚び、正しい歴史認識に至らずに賞賛を繰り返すのは、創価自身の歴史に問題があるからだと思う。平和団体と自慢しながら、純粋に戦争反対を主張するとき、何とも言えない後ろめたさがあるのはそのせいです。実際、安保法制が国会議論の対象になったとき、創価内ではほとんど議論らしい議論がありませんでした。公明党に丸投げしているとよく批判されますが、そのとおりなのです。
    牧口初代会長の殉教を、反戦のためと単純な評価を持つのも自由ですが、もう少し問題意識があるなら、その時代の複雑さとともに、牧口先生やその他の会員の行動を、できるだけ詳細に学習しなければならないでしょう。
    以前、佐藤優氏と松岡幹夫氏の対談を読んでいて違和感を感じたのは、言論問題を自分勝手に見直し、一般的評価である加害者という認識が被害者に転じていることでした。(言論出版妨害事件)
    詭弁とはこういう事例をいうのでしょうか。被害者であるかのように同情を誘い、読者を説得することを主眼にした論理展開ですが、折伏も自己正当化しながら激しい言論の暴力を振るってきた過去を忘れているようです。人権意識が希薄な時代とはいえ、モラルハラスメントと見なされてもおかしくない強引さがありました。意識はしなくても正義の名のもとでの立派な加害者であり、他者への配慮を欠いた姿勢の延長線上に、言論問題の原因と本質があるのではないでしょうか。妙法の教義から影響される独一的な万能感、全能感による傲慢さも無視できません。つまりイデオロギー組織ではよくある、手段の正当化ですが、忘れたころに、思い出したように強引に訂正する汚さがあります。歴史改変の常套手口です。もちろん否定していますが、事件を指図したのは池田先生と思われます。人間はどんなに立派になっても、知らず知らずのうちに表裏のようなダブルスタンダードで、自らを肯定せずにはいられないのですね。
    また池田先生が、昭和32年選挙違反で逮捕されたときも、少なくない会員が実際、選挙違反を行っていたのであり、その責任者として、疑いが持たれることもありえることでした。会員の選挙支援の意識は低俗で、会員指導に問題があったことが伺えますが、創価内では事件を正確に伝えることをしないで、冤罪であることを主張し宗教的な受難に例えて、その意義を強調することです。
    選挙を法戦、選挙受難を法難、言葉にかぎって言えば、仏法も週刊誌なみに低俗化した模様ですが、そういう選挙違反事件と同じように、言論的抑圧は解釈の仕方で大きく変わりますが、プレッシャーをかける際の常套手段であることも理解しなければなりません。言論の自由を守ることは、細心の注意が必要ということです。
    なお、牧口先生の反戦活動を会員のための教育的善導、教育的反戦活動と論じて、矛盾している牧口先生の言動を一挙に解決を図ろうとする論文を、松岡氏は東洋哲学研究所で書いておりますが、黒を白と言い含める手法は、対談でも生きているようです。創価的解釈と言えばよいのか、創価内だけに通用するような言論には賛同は得られないでしょう。キーワードである「教育的」は、仏教の伝統的価値観のなかで常に用いられてきた言葉ですが、漸進的である体制内改革を目指すために、反戦、あるいは戦争抑止の力強い手段になれませんでした。結果として戦争容認の道に進まなければならなくなったのです。仏教の優しい改革主義も体制を拒否したとき、当然激しいものにならざるえないでしょう。牧口先生は獄中に捕われたとき、はじめて戦争の悲惨さを実感したのではないか。教育的反戦も急激に変化し、反戦への断固とした態度へと発展していったのではないか。苦しみのなかで御本仏の慈悲を感じられたのではないでしょうか。暴力や武力を競うような反平和主義、侵略主義は、仏教の基本・不殺生戒に重きを置くなら、毅然と拒否すべきなのです。そして、過度に、不正確に、牧口先生の反戦を理想化すべきではありません。いつもそのような手法で神格化が図られるのですから。
    創価的解釈は、気弱なわたしには、中国指導部が善良なウイグル族までテロリストと決めつけるテクニックに似ていて、ビビってしまうのですけど...わたしもかわいい女子部のとき、執拗なアンチから創価の紅衛兵と揶揄されたこともあるので、創価内テロリストと決めつけられないように、慎重に行動しなければならないですね☆彡


    Emblem
    (feat. Felicia Farerre & Uyanga Bold)
    Two Steps From Hell


      



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    普遍的知のゆくえ

    疾走する精神
    以前、量子論に知的興味を持ち、初歩の初歩なる本を読んだのですが、よく理解できませんでした。茂木健一郎氏が「疾走する精神」のなかで量子論を解説しておりますので読みました。量子論の多世界解釈から、多様性についての論及があり、複雑な現象と多種多様なシステムから、普遍的な原理に行き着くことの難しさを説いています。
    この本で茂木氏は、煩雑で目的が失われているように見える基本的な思考のプロセスを分かりやすく、秩序だった順序で整理。持続可能な「多様性」と生物をはじめ世界に通底する「普遍性」、さらには驚きと学習機会を提供するランダムに発生する「偶有性」など、知への道筋を明らかにして、グローバリズムのなかでの人間精神の可能性を説き、システムとしての脳、音楽をはじめ芸術文化の論理的考察から、インターネットによって急速に進む標準化への懸念を示す。その一方で学びからの「知」の復活を予言している。
    また「多様性を生み出す普遍性の力強い作用」を解説しながら、普遍的原理に至る人間の叡智に希望を見い出だそうとする姿は、真摯で科学者らしく、理知的な論調で好感が持てる。茂木氏は「知」によって、混乱と画一化の概念を打破し、美しい多様性をあるがままに認めながら、現代が抱える諸問題は、生命哲学の根幹と深く関係していると厳しく洞察する。一般書でありながら、茂木氏にとっても、一つのエポックと言える本ではないかと考えます。

    『イデオロギーがその力を失って、久しいと言われる。どれほど魅力的な考え方でも、もしそれが、この世の中が複雑で多彩なものたちから成り立っているというありのままの姿を無視するものであるならば、必ず反生命的になり、自然の摂理に背くことになる。
    この宇宙の中で、そして私たちの住む地球の上で、何億年、何十億年にわたって起こってきたことをありのまま見つめれば、そこに現出しているのは広い意味での「生命原理」であることに疑いを挟む余地はない。どれほど力強く、永続するかのように見えるものでも、それが「多様なるものに潜在する豊穣」という生命原理に背くものであれば、必ず滅びる。むしろ滅亡し、消滅することこそが時間軸における多様性を保証する宇宙の法則ではないかと思えるほど、不滅と思われたものはやがて消えゆき、思わぬ伏兵が舞台の中心に躍り出る』

    『この世のありさまを理解し、私たち人間の由来するところをよりその深層においてとらえ、深く隠された新たな真実を明らかにしようとする人間の営為。そのような知的志向性のことを、ここでは「アカデミズム」と呼ぼう。
    「アカデミズム」という言葉は、古代ギリシャにおいてプラトンがアテネ郊外に設立した学問の殿堂、「アカデミア」に由来する。爾来、西洋における学問はその雛形から大きな影響を受けつつ発展してきた。
    アカデミズムは、今後どのように展開していくのだろうか? 知がインターネット上に拡散し、次第に万人が無料で(自由に)共有するものになってきている今日、「大学」とか、「学会」といった組織においてアカデミズムを定義するのは不適切になってきている。
    私自身は、アカデミズムを、「圧倒的な知の卓越」への志向としてとらえる。そのようにしてはじめて、より包括的な、高い知を求める人類の凄まじいまでの情熱、その無限運動の本質を指し示すことがでぎるのではないかと考える。
    美貌、富、名誉。およそこの世において、人々の欲望をかきたて、憧れを喚起するものは多くある。人は、正しいことよりも、自らが望むことをなそうとする。人の道にかなったことがなされる時でさえ、それは、「正しいことを行う」ということ自体か欲望の対象になった結果であることがしばしばである。
    人がアカデミズムに憧れるのは、必ずしも立身出世を図ろうとしてのことではないだろう。知を自らのものにする喜び、人類がこれまで蓄積してきた叡智の上に、さらに自分なりのささやかな貢献をなしたいという願いの切なさは、万物の霊長たる人間という存在の根底にかかわる心理的機微である。
    すぐれた知性を持つことほど、魅力的で、セクシーなことがあるだろうか? 「美は皮膚だけの深さしかない」(Beauty is only skin-deep)と英語のことわざにいう。何事も見かけだけが優先されがちな現代ではあるが、知の卓越は、目に見えないからこそ、もしそれが本物であるならば人々を魅惑し、心を動かす力を未だ持っていると信じたい』

    『しかし、長い人類の歴史から見れば、近年の日本の傾向など、ごく短い時期の徒花に過ぎない。人間の脳が本来快楽主義的にできていることを考慮すれば、また、プラトンが「饗宴」の中で活写したように「真実を知ること」が人間の最も根強い願望であり快楽であることを考えれば、本格的な知への志向が日本においてこのままずっとやせ衰えたままでいるとは考えにくい。
    実際、インターネットが無限の学びの可能性を開くに従って、知の卓越への志向が、再び復活しつつあるように思われる。少なくとも、私自身と、私の周辺においてはそうである。新しい情報環境が開いた無限の世界の中で、知が、再びその強靭さを取り戻すべき時が来たようである。近未来におけるアカデミズムの本質について一度考察しておくことは大切なことに違いない』
    『アカデミズムの本質は何か? それが専門領域に分かれた蛸壺的な世界認識であってよいはずがない。自分の専門のことはよく知っているが、他のことには疎い。それでは、「圧倒的な知の卓越」とは言えないし、何よりも人々の心を惹きつけない』
    『ある学問の枠組みにとらわれてしまうことが、本当の「知」からは外れることにつながる。……「圧倒的な知の卓越」を目指すことと、ある特定の学問体系に固執することとの間には、根本的な相容れない点がある。そもそも、才能とは過剰なものである。たった一つの専門性で満足してしまえるような知性など、もともと大したものではないだろう』
    『この世に驚嘆すべき新しい知が現れる時には、必ず、多様性の高度な凝縮がある。創造性は一般的な生命原理の一部分である。生物が交配を通して進化するように、人間が生み出す知もまた、異なる要素が凝集することによって先へと進む』


    レオナルド・ダ・ヴィンチのような、「知の巨人」「圧倒的な知の卓越」を理想とする茂木氏は、科学者であることに止まらず、あらゆる分野に興味を寄せ、世界を形作る真理と知の真髄に迫ろうとしています。茂木氏の良識は、謙虚であること、先入観を持たないこと、公平であること、「知る」ことへひたむきな努力を傾注していること。そしてそれらのことに、科学者として培われた透徹した目と判断基準を明確に堅持していること。
    「中央公論」誌上(2010年4月号)で、池田先生と茂木氏が往復書簡を交わされたことがありますが、長続きしなかったのは双方に問題があったからでしょう。宗教という豊穣の森のなかから、「知」の山頂の憩いの場での、生命の強靭さの発見には至らなかったようです。「知」へのあこがれだけでは限界があるようです。その後、茂木氏はその深い教養と科学的見識から、いろいろなシーンに進出。エンターテインメント化していったことはしかたがないことですが、科学的素養ではなかなか割り切れない訝しさを、宗教に感じたのかもしれません。

    この本のなかで、茂木氏は結論づけて言う。
    『ミルトン・フリードマン(1976年、ノーベル経済学賞)が言うように、「選択の自由」を感じるということは、私たちが人間らしく生きる上で必要不可欠なことである。しかし、それは、背後に原理原則があることを排除するわけではない。公正さ、機会の均等、地球環境の保護、生命原理、他者への思いやり、愛。私たち人間が、人間らしい社会を築き上げるために大切にしている原理は、「選択の自由」と両立する。それどころか、「選択の自由」のど真ん中を串刺しにしている。
    多様性を生かすのは自由意志である。その自由意志の背後にある人間原理とは何かを見きわめることが、現代における緊急の課題となる』


    自由と人間原理は、不可分の方程式のように相寄り添っている。経済、倫理、政治、科学など、社会の複雑な因果的プロセスを整理し、混迷から生命哲学の根幹を解き明かし、正常な世界観を認知することこそ、長い人類の進化においての最終的な作業になるでしょう。それぞれの人生を始め、困難な疑問に対する回答を提示するヒントがあるに相違ありません。
    わたしたちは、パソコンで検索し、誰もが同じものを見ているし、読んでいる。感じ方や捉え方は自由であるけれど、検索エンジンによって一律に整理された情報を、体験学習のツールと勘違いしながら、ときには疑問に感じつつも必要なものと認識しているのです。便利であることは知の退化をうながす側面もあり、また人間らしいコミュニケーション、感情や意志を伝達する言葉の喪失を意味すると考えるのですが、劇的な進化を遂げている情報環境に埋没する個性であってはならないでしょう。
    SNSから離れられない人をよく見かけます。わたしの狭い人間関係の範囲でも、その分布の標準偏差は平均的と考えますが、SNSのために生きていると思わせるような人を確実に見かけます。その不幸の程度を認知できないほど理性が失われているようです。もちろん、コメントやTB機能があるブログもその一部分ですが、わたし自身オタクっぽいところがあるので、つまり良く言うと熱中しやすい性格なので、宗教オタクにならないように気をつけています。特に冷静さが失われる創価フリークは嫌われますので要注意。知的怠惰のドグマティックという創価バカのこと。

    「知」とは内面を見つめることから始まると考えます。身近なことであれば、幸福とは何なのか? 家族の在り方や友情についての考え、社会との関わり方も含めて、常に答えを出さなければならないキー・クエスチョンとして、目の前に横たわっています。信仰とは、人間の生に対する根本的なプロブレム・メソッドであり、また主体的な自己研鑽と行動のとり方だと定義すれば、いつまでも他者に依存する弱き生命には、幸福の扉は開かないと言えましょう。
    わたしから言わせれば、批判するだけのジャーナリストの言葉は「(単純ではない)多様性」のなかからもいずれ忘れ去られるであろうし、「悪は悪のネットワークを作る」ことが普遍的原理の一つであれば、「正義が勝ち、悪は滅びる」ことも永遠に変わらない普遍的原理です。
    創価に対しての非難中傷も、よく考えてみれば一様に同じレベルです。根拠もなければ、納得させる論理的説明もない。感情的、あるいは悪意的に、あるいは創造力の欠如から、下から上に向って虚しく叫んでいるに過ぎない。自ら発した声は、雨が落ちて身体を濡らすように、やがて自らの豊かな命の海を黒く汚す雨となって降り注ぐだろう。「白法隠没」と説かれた仏法のパラダイム的法則は、いよいよ真実を写し出して余りあるものと考えます。「白法隠没」とはつまり、人心が病み蝕まれ、腐敗することなのです。創価内も例外ではありませんよ。永遠に続く「正常状態」など、どこにもありません。
    「知」への渇望、詩心と言われた自己実現と完成への創造性に対する問題、さらには音楽への憧れを、希望の方程式「妙法」の力で精一杯のトライを試みていきたいと考えるのです。
    なお、量子論に興味のある方は、新潮社から出版されているノンフィクション「量子革命」(マンジット・クマール・青木薫訳)を、最初にどうぞ!

    エキサイティングな茂木氏のこの本を読了して、なぜか少し快い興奮とおかしさを感じていました。わたしの脳はアバウトに80%は音楽に支配されているので、多様な音楽を聴き、そのなかから普遍的な真理に到達することは簡単なことではないと、頭の良い茂木氏は言っているように思えたからです。道は険しいのだ。そして険しいからこそ、行く先にはいっぱい楽しみが転がっているのだと嬉しくなったからです。
    ロックの神に唾をつけられてから、わたしの迷いの人生は始まったわけだから、この際原点に帰り、ロックなバリエーションのなかから、わたし自身を見直そうと考えました。早い話、あらためていろんな音楽を聴いていこうということです。
    小林秀雄が「表現について」のなかで書いています。
    『音楽を聞くとは、その暗示力に酔うことではありますまい。誰でも酔うことから始めるものだ。……音楽はただ聞こえてくるものではない、聞こうと努めるものだ。と言うのは、作者の表現せんとする意志に近づいてゆく喜びなのです』
    『音楽の美しさに驚嘆するとは、自分の耳の能力に驚嘆することだ。そしてそれは自分の精神の力にいまさらのように驚くことだ。空想的な、不安な、偶然な日常の自我が捨てられ、音楽の必然性に応ずるもう一つの自我を信ずるように、私たちは誘われるのです』



    ビートルズという「知」
    名盤についての評価や楽しみ方、機能や目的はそれぞれ個人的なものと考えます。聴き方、感じ方は制約されるものではなく、自由な感性と嗜好の範疇ですが、アーティストが果敢に挑戦していくように、リスナーもまた敬意を払いながら、宝石を見つけ出すように、本質を理解する努力をしなければなりません。美しいものに近づくことは喜びであると同時に、知的興奮、アカデミックな探究心も満足させるものです。
    小林秀雄流に言えば、音楽を聴くということは、普段の自分自身を離れて、新たな自我(自分)を発見することでもあります。それは創造性の端緒になるチャンスを含んでいるわけですから、年齢に関係なく、また置かれた環境に関係なく、自分の可能性を信じることに他なりません。クラシックであれ、ポピュラー・ミュージックであれ、渇望してやまない充足感に浸りたいと誰でも格闘していると信じています。


    BMGL-ps.jpgビートルズに代表される60年代のブリテッシュ・ビートのモダンさは、新鮮なインパクトを与えてくれると考えます。わたしも始めてビートルズを聴いたとき、生き生きとしたロックンロールに音楽の楽しさを知り、そしてこれがロックンロールなのかと強いエモーションを感じたことを覚えています。今では一口にロックと言っても、混乱を招くばかりに細別されて、サブカテゴリーが増え、本来の意味を見失ってしまいそうですね。
    60年代、ロックと言えばマージー・ビート。ジェネレーション・ギャップを象徴するサウンドは、シンプルなバンドスタイルながら、激しくシャウトするボーカル・ハーモニーで若者の支持を獲得し、新しいミュージックシーンが熱狂的に歓迎されました。さらにモッズの洗練されたエレガント、R&Bルーツの反抗的なスタイルと、ロックンロールって大体そんなもんだったんではないでしょうか?
    (映画「さらば青春の光」を見ました。映画はあまり面白くありませんでしたが、ファッションや風俗は勉強になりました)
    現在、10代から20代のビートルズを聴く人が注意しなければならないことは、ベスト盤を聴いてわかったと早合点しないことです。ベスト盤は入門編として便利ですが、本当のビートルズ像に触れるためには各アルバムを聴くことを強くお勧めします。
    詳しくは読みきれないほどの評論や解説本があり、それらを参考にしていただくこととして、ここではデヴュー・アルバムからの1曲、「P.S. I Love You」をチョイス。

    P.S. I Love You - The Beatles (With Lyrics and HD)



    同名のラブストーリーが、ハリウッドで映画化されて世界的ヒットとなりましたが、原作者のセシリア・アハーンが若く可愛いらしい女性だったのには、少なからずショックを受けました。若くして世界的ベストセラーを書く才能とは、一体、どんな星の下に生まれた女性なのかと考えずにいられませんでした。題名からインスピレーションを受けることはよくあることです。作者がビートルズからインスピレーションを受けたのだと感じたのは、わたしだけなのでしょうか。
    リード・ヴォーカルはポール。まだ少年のようなあどけなさが見えます。ジョージはもっと若く、ジョンがバンドをリードしています。前奏なしでいきなりサビから入りますが、なんとも斬新。バンドのコーラス・レベルはすでに相当なもの。当時のリヴァプールのライヴ感と私生活の断片が伝わってくるビデオです。


    サイケデリック・テンプテーション
    わたしって変なのでしょうか、風に飛ばされないように帽子を手で押さえ、白いコットンのフレアスカートを着た自分が、岬に立って遠くを眺めているイメージが脳裏にいつもあります。 視線の先には何があるのだろうと自分のことなのに疑問に思い、気にかかって仕方がありません。穏やかな波が次第に荒くなり、わたしを呑み込むように打ち寄せて、また静かな余韻とともに引いていく。恍惚とした気分のなかで、天に昇るような忘我の波に漂うわたしがいる。今まで味わったことがないエクスタシーの不思議な誘惑が、わたしを捉えて離さない。忙しく、自分を省みる暇もない日常のなかで、タイムレスな空想の世界は未体験のアイディアルな癒しの時間を提供してくれるのですが、ファンタスティック・ストーリーに憧れる夢見る乙女は、もう卒業しなくてはいけませんね。

    以前からサイケデリック・ロックについて関心がありましたが、聴けば聴くほど、考えれば考えるほど、実体の知れない霧のなかの怪物を見ているように分からなくなりました。それはエクスタシーの体験が個人的なものであり、説明しにくいのと同じように、サイケデリアな世界の表現は困難なことなのかもしれないと考えるようになりました。それでもわたしなりに異次元世界をイメージすることができました。
    サイケデリック・ロックはどんな言葉が適当なのだろうか?
    わたしの考え方の基本は、アーティストにしろアルバムにしろ、キーワードになる言葉を思いつかない限り、真に理解が難しいというか、前に進めないのです。
    サイケ・ロックを表わす言葉として抽象的であるけれども多幸感と浮遊感、さらに原始的、幾何学的な極彩世界を思い浮かべてしまいます。
    小さなカエルがもっと自由に広い川を泳ぎたいと海に飛び込む。
    海を泳ぐカエルなんて考えただけでもシュールですね。
    時々、人間はこんなカエルになる夢を見ます。
    カエルのような人間は日常から逸脱した、普通は経験できないことに興味を持ち空想します。その空想の異次元は、宇宙のように広々としているかと思えば、ペン先のような極小のドットのなかに人間の顔が見えたりします。それが痛みや安らぎや怒りや興奮に満ち、現実に体験するように真実味を帯びて、五感に感じることができたら・・・まるでマトリックスですね。
    こんな経験を1度はしてもいいかなと深く考えもしないで、わたしは思ってしまうのですが、LSD(1970年に麻薬に指定)などの幻覚剤は、心理的トランス状態を作り出し、別のパーソナリティーに支配される幻覚を味わうのでしょうか。アーティストがハシッシュな世界に憧れたのも理解できないわけではありません。
    インド音楽に深く接近したのも哲学的な裏付けが必要とされたのでしょう。またカウンター・カルチャーとしてのヒッピー文化、ベトナム戦争(1965年)などの社会的な背景も考慮しなければなりません。
    社会の接点なくしてムーブメントの高まりはないのですから、60年代後半のラブ&ピースフラワー・ムーブメントと言われた反戦あるいは社会不安に起因する逃避的な行動は、幻覚剤という格好の材料を得て浸透することになります。
    当時の前衛的なバンドや次へのステップを模索していたミュージシャンは、新たな知覚体験に想像の活路を見出して、このムーブメントに参加し形作ることになりますが、このムーブメントは、エクストリームな言い方を許してもらえるならば、BGM的なポピュラー音楽の楽しみ方からアートとしての音楽へと表現方法の可能性を広げました。また同時にマネージメントとしても、音楽に親しむオーディエンスの裾野を広げて、新たなファンを獲得したと言えます。
    60年代後半のサイケデリック・ムーブメントは70年代に入り終息することになりますが、多くのミュージシャンが一時的にしろ、この洗礼を免れませんでした。サイケデリックの大波はロックの大衆化を促し、さらにハイクラスで複雑なアート・ロックへの道を開いたのです。
    オーディオから響くビートやメロディーに耳を傾けながら、ロックとは一体何なのか、という問いを、わたしはいつも小さな胸に収まりきれないほど考えて、ほとばしるほどの喜びと感動に涙し、失望に苛まれています。
    歴史を俯瞰すれば、67年ほど重要な年はないように考えます。
    若者文化のプロパティーとしてのロック、言うなれば既存の体制への反抗メッセージとしてのロックが、大人が関心を示し、無視できないメッセージとして社会に提示された年と、わたしは意義づけるのです。
    それまでのロックも確かに若者のサポートを受け、若者の声の代弁として、また日常の不満を解消するパートを担ってきたけれど、67年以後のロックのプログレスは、それまでと明確に異なるのではないかというクエスチョンです。
    67年はサイケデリック・ムーブメントが最も活況を呈した年でもありました。ロックの多様性を実現することになるこのムーブメントは、変貌するロックへの引き金になったのではないか。別な言い方をすれば、サイケデリック世界で獲得したアートは、ロックをまったく別の次元へと運ぼうとしていたということです。

    10年後の77年、セックス・ピストルズの登場によって、ロック史はパンク前と後にわけられるインパクトを受けることになります。67年を第1のインパルス(歴史を動かす衝動)、77年を第2のインパルスとわたしは提案したいと考えます。


    Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band60年代後半のロックが最も実験的精神にあふれ、輝いていた時代の中心にサイケデリック・ムーブメントはありました。時代の要請とは言え、それを消化するためには柔軟なスピリットとコンセプション、バイタリティーが必要です。後のロックのプランニングは、この時代に精力的に活動していたミュージシャンによるものです。
    ビートルズは63年のファースト・アルバムをリリースしてからたった4年で、コンセプト・アルバム「サージェント・ペパーズ」(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)まで進化しました。常に最先端を走りながら常識を打破ってきたことを考えても、これは驚異的と言わねばなりません。4人の選ばれしビートルはたぶん1人でも欠けても、これほどの仕事は成し遂げられなかったと考えます。グループとは不思議ですね。
    白い粉を振りかけられたビートルズは、何が新しかったのでしょうか?
    ロックの概念を変えたと思われる新しさとは、一体何だったのでしょうか?
    彼らは自分の楽曲は、ほとんどオリジナルとして、自分たちで準備しました。ビートルズに限ったことではありませんが、親しみやすくポップなセンスは、同時代のアーティストと比べてもずば抜けています。
    このソングライターとしての才能は内面への深い洞察を経ながら、社会に対してのメッセージとしてのロックのあり方を変えていきます。単純なポップス、ロックンロールからアートとしてのロックへ深化させていきます。普遍的な、完成した楽曲に結実していきます。
    さらにヒッピーの祭典と言われたモントレー・ポップ・フェスティバルにおいて、一つの頂点に達しました。時代は、ベトナム戦争の泥沼のなかにあって、カウンターカルチャーとしてのヒッピー文化、サイケデリック・ミュージックが、ここではソウルもブルースもロックも一体となって融合し、平和と共存、未来に向けた実験精神と革新が、それを体現したアーティストによってプロデュースされたのです。

    革命のマニュアル・テキスト
    目標を掲げ、導こうとするバイブル
    イマジネーションの勝利
    サイケデリアのファースト・ネーム
    ロック・ジェネレーション・レファレンス
    「サージェント・ペパーズ」に捧げる、わたしの賛辞です。

    A Day In The Life



    なんという濃密な5分間でしょうか。意味もなく饒舌に音が引き伸ばされていない。
    ムダなものは削ぎ落とされている。イントロのギターがとてもよい。
    ドラムが安定している。過剰にならないように強さを抑制している。自由自在だ。
    美しいピアノの余韻。クラシックな響きを感じさせて儚い。エコーもとても長く自然だ。


    オリジナルという「知」
    アカデミア(アカデメイア)が「知」の歴史的発展に大きく貢献したように、ロック史のなかで、ビートルズ・ミュージックはロックの雛形として、あらゆるパターンの原型モデルとなりました。同じローカルエリアに4人が集い、スタートから全く新しい発想とオリジナリティーで表現を試みたのは、奇跡という安易な言葉で語るのは憚れます。歴史のなかでは突然変異のように進化をうながす重要な転換点が存在します。ビートルズはそれぞれの個性とグループとしてのアライバルにおいて非凡な統一性を示し、そしてミュージシャンとしての運命もまた、多様性が凝縮した普遍性と原理を帯びた稀有なハーモニーだったと考えます。
    歴史に強いインパクトを与えても、ジョンとジョージは天国に召され、名前だけが残り栄華は常に滅びていく。時の流れを感じてしまいます☆彡


       abc-0112.jpg

    中国宗教白書 3

    中国における、池田先生の講演の主要な論旨をなす中心に、人間主義思想があることは、今更説明する必要もない自明の事柄です。この漠然とした人間主義の根拠は、仏教の伝統を受け継ぐ法華経至上主義にあることは、会員ならよく知っています。アルティメットな賛嘆は、どの宗教にも見られる平均的な表白ですが、無信仰であることを誇るコミュニズム社会にあって、どうして宗教者の言動が受け入れられるでしょうか。階級的差別がなく個人所有もない建前社会(不道徳社会とも言います)において、個人的動機から始まる信仰が、なぜ認容され、社会科学の問題提起になるのか、そしてその結果として、連続して名誉称号を受けるのか、よく考えてみれば不可解なことです。
    宗教の尊厳に象徴される内的動機、内的革新性は、しいては、社会の変革をうながします。緩やかな漸進性が特色ということは、社会主義のような急進主義を否定するものであり、第一に他者に対する抑圧的品性は、仏教者にとって我慢ならないものです。
    講演では、およそ一般論の展開と、無害な仏教教義の普遍性を強調しながら、社会矛盾に拡大している個別の人権問題を巧妙に避けています。中華思想と社会主義で、強引に世界のルールを書き換えようとしている無法者国家に、妙法の正義も譲り渡している。人間主義者は理念とスローガンを語るだけなのでしょうか。名誉の代償は高価ですね。

    中華民族という概念は、今では国父と言われる煽動家・孫文の説とも言われていますが、漢民族を中心とした多民族国家をまるで一民族であるかのように表記するのは無理があるというものです。中国は世界の中心、最も優れた民族と本当に考えているのでしょうか?
    他を顧みず、自分に都合がよいように主張し行動するのが漢民族の特徴でしょう。

    07年に日本に帰化した石平氏は、色々な事例や事件を引用しながら、次のように結論しています。
    中国人にとって、「神の定めたルール」に気を使う西洋人や良心や美徳を大切にする日本人の行動などは、単なるバカに映っている。
    「そんなものに従って行動していても一文にもならないのに、なぜこだわるのか」
    中国人は、ただただ嘲笑っているだけなのである。
    これは個人レベルの話ではなく、彼らの作り上げた政治も同じである。今の中国共産党政権は、自分たちの「利得」である「権力」を維持していくために、利用できるものはすべて利用している。そして邪魔なものはすべて排除するという原則を徹底している。
    実際、軍隊や秘密警察、宣伝機関をはじめ、共産主義や愛国主義、市場経済さえも中国共産党の権力維持の道具にすぎない。そして、権力維持に邪魔な言論の自由、人権活動、民主化運動などはことごとく抑圧されている。
    国際社会における中国の国家としての行動原理も同じである。中国は国益のために、今まで日本をはじめとした「他国の善意」を利用して莫大な利益を手に入れてきた。しかし、その反面、自分たちの利益に反すると判断すると、国際社会のルールを簡単に破り、他国の善意も平気で裏切ってきたのである。そして、国力が増大すると、ますます横柄になり、国際社会の迷惑や他国の利益を無視して、なりふり構わず自国の国益を最大化するために邁進し続けている。
    結局、個人レベルにしても国家レベルにしても、中国人のやることはまったく同じなのである。
    このような中国人や中国国家に対して、日本の美意識や倫理観、国際社会の共通認識から批判していても、何の意味もないことがわかる。そもそも道徳を不要と考える中国人に「道徳心の欠如」を説いても、仕方がないのだ。むしろ、このような中国人や中国国家を理解した上で、どう付き合っていくべきかが肝心なのである。
    筆者の持論としては、中国人と付き合っていく最善の方策は、できるだけ彼らと付き合わないことである。付き合えば、いずれ損をするのがオチである。たとえそうならなくとも、中国人と付き合っているだけで、多くの日本人は神経をすり減らしてストレスを感じているはずだ。もし中国人や中国企業、中国国家と付き合わなくても何とかやっていけるのであれば、彼らと付き合わないにこしたことはない。
    だが、経済のグローバル化が進んでいる今、中国人とまったく付き合わないのは不可能だ。となれば、やはり一定の距離を置き、あまり深入りしないほうがいいだろう。そして、中国人と付き合う際は、日本人も善意や良心といったものを捨て、中国人に対抗するしかない。「毒を以て毒を制する」という中国の言葉があるように、彼らの「毒」である行動原理で接するのが一番得策ではないだろうか。
    これは、日本の対中外交でも言えることだ。中国と渡り合うには、恫喝も懐柔も含めたあらゆる外交戦略を駆使していくしかなく、「日中友好」などという甘い言葉に騙されず、ときには毅然とした態度で、彼らの圧力をはねのけていくしかないのである。そうすることで、初めて安定した日中関係が築き上げられるだろう』
    (「中国人の正体」宝島社)


    中国社会科学院での講演
    六四天安門事件(1989年6月4日)は、文化大革命の反動ともとらえられます。
    日本史でも、長く続いた江戸時代の鎖国政策から一転して開国し、西洋文明をとりいれたように、またファシスト政権から戦後民主主義へと昭和の混乱期を経験したように、体制が変わる瞬間は、前時代の反動として成し遂げられ、その多くは武力が関係しています。

    鄧小平ら保守派グループと対立していた胡耀邦は失脚。後を受け継いだ民主化に理解を示していた穏健派・趙紫陽も李鵬らと対立するなか、5月15日にペレストロイカ路線を歩むゴルバチョフが訪中。5月17日、最高権力者・鄧小平の判断で厳戒令が敷かれる。
    天安門事件では、文化大革命による行き過ぎた文化破壊の反省から一党独裁への懐疑が生れ、若者が中心となり民主化への運動が高まりました。
    民主化運動に理解を示していた胡耀邦前総書記の死去に伴い、天安門広場に続々と若者が集まり始めたのが発端です。人民解放軍による無差別な発砲による死亡者は数千人とも言われますが、詳細は不明。共産党独裁の建国以来最大の危機であったことは、徹底した弾圧を行ったことでもわかります。
    鄧は、周恩来と同じように日中関係を重視し協調路線であったように思えます。自身の危機を何度か救ってくれた周との間には、同志的信頼感が濃厚に存在していたものと思われますが、特に文革期の周を補佐して経済の立て直しをはかった困難な時期に、無私の宰相の姿から、その天命とするところを間近に学んだことが大きかったのではないでしょうか。鄧は、多文化を柔軟に取り入れる中国的気風を最も感じさせる人物ですが、3回の失脚を経験し、自身の政治的地位を不安定にするようなクーデターには、特に敏感だったと考えられます。
    鄧の後継者・江沢民は、92年に主席に就任するころから、強力な愛国主義教育を掲げて反日運動を徹底しました。これには矛盾する自虐的歴史認識があり、鄧小平の歴史観とは相違し、共産党が抱える諸問題と国内問題から目を逸らすための巧妙な政治的策略と言えます。現在のあからさまな覇権主義も、その根源を訪ねれば、愛国主義が生んだ過剰な自己肥大でしょう。偏狭なナショナリズムが長続きした例はありません。必ず反動的に世界から拒否され、混乱に陥るでしょう。しかし、民主化や国家に対する批判的意見は認められない体制にあって、基本的に現在の習近平政権にも愛国教育は引き継がれています。反日教育は天安門事件で健在化した民主化運動を封じ込めるために、共産党指導部のきわめて差し迫った検討と結論があったと思います。

    このような状勢のなかでの池田先生の中国社会科学院での講演(92年10月)は、中国共産党からの信頼であり、漢民族からの信頼でありましたが、一歩間違えば講演自体、不可能だったかもしれません。豊かな歴史と奥深い文明、アジアの源流と形容してもよい思想哲学、あるいは人間像の風格と深淵さに着目し、その現代的展開の影響の大きさと役割を論じようとしたのではないでしょうか。でも、今となってはその成果があったかどうか、大変疑わしい。結果として変化へのヒントになりえなかったように思えます。
    講演は釈尊の対機的説法に通じるものです。問題提起による自己の覚醒、善性とその反対にある悪性との格闘への勇気、そして、自己への限りない信頼のうえに立った苦しみからの解放。誰もが平等に仏性を秘めているという菩薩観、しいては人間主義への信頼でしょうか。
    10月の講演に先立つこと8ヵ月前、先生は「不戦世界を目指して」とのテーマで、ガンジー記念館記念講演を行っています。時間はさかのぼりますが、わたしには社会科学院で行った講演の続きのように感じられます。
    「ガンジー主義と現代」と副題がありますように、ガンジーの非暴力について論じられたものですが、このなかでは、わたしたちが受け継ぐべきガンジー主義を
    「楽観主義」
    「実践」
    「民衆」
    「総体性」
    というキーワードで要約しています。
    「実践」というなかで、わたしが考えていることを的確に表現した一文がありましたので引用します。

    『「実践」とは、善なるものの内発的な促しによって意志し、成すべきことを成し、かつ自ら成就したことの過不足を謙虚に愛情をもって検討する能力とはいえないでしょうか。
    積極果敢な行動の人である彼(ガンジー)は、同時に現実への畏敬と謙虚な姿勢を忘れない。自らを唯一の正統と思い込む居丈高な心からは、最も遠かったはずであります』


    平和への志向という観点から考えれば、大同思想もガンジーの非暴力も、まったく同じものと結論しても無理はないでしょう。大同思想を、毛沢東が自分好みに取捨し分解したのが気に入らないのですけど。孔子のユートピアも共産化されて、毛沢東というセクシュアルな魔人も本物の孔子にはなれませんでした。しかし、「自らを唯一の正統と思い込む居丈高な心」、創価を皮肉る創価って、どういう風刺でしょうか。謙虚に愛情?
    そして、ガンジーがロマン・ロランと対談したおりに語った言葉は、共産主義への警鐘です。平和は漸進的に進むとの固い信念に支えられていたガンジーからすれば、あらゆる急進的イデオロギーは否定の対象に他なりません。

    『ロシアで起こっていることは謎です。私はこれまでロシアについてはほとんど語りませんでしたが、ロシアの経験が究極的に成功するとは思えません。あれは非暴力主義に対する挑戦のように思われます。それは成功しそうに見えますが、その背後に力(暴力)があります。社会をその狭い通路のうちに保つのに、その力がどのくらいのあいだ有効なのか私には分かりません。インド人がロシアの影響をうけた場合には、極端な不寛容へとみちびかれることになります』<ロマン・ロラン全集>

    31年のロランとの対談は、60年後のロシアの未来を予言しています。人類的社会実験などときれいごとを言っても、マルクス・レーニン主義が必要とした犠牲はあまりにも大きかったということです。また中国も一貫して「極端な不寛容」の政策を維持してきたことは、あらゆる場面で弾圧と統制を謀り、暴力と犠牲の歴史でありました。そのなかで、最も悲惨な犠牲を強いられたのは、政治的には弱者であった少数民族です。同化、解放と言いながら実質は、排他的民族主義の身勝手な理論による人間性否定の暴力です。この醜い素性の延長上に、現在の宗教弾圧があります。不寛容とは自由を制限し憎悪することですが、宗教の寛容性はその制限からの解放運動です。
    社会科学院での講演に先立つインドでの講演を、中国知識人は知っていたと思いますが、彼らにとって耳の痛い講演だったはずです。
    しかし、先生がそのような決意と深意で臨まれた講演にどれほどの人が反応したか、自分のことと感じたかは疑わしい。当時の胡縄院長は共産党幹部であり、保身の鑑に比するコミュニストです。声聞の傾向性は、逆説的な言い方をすれば、他の優れた声を聞くことに抵抗を覚える命。釈尊が二乗を厳しく指弾したのは、まさにそのような不純な耳を指摘することだったとも言えます。

    社会科学院での講演で先生は、「名」と「実」の整合性を求める孔子の言葉を紹介し、仏法へと敷衍しています。20年近く前の批林批孔運動で、反革命の象徴、復古主義者であると批判された孔子を持ち出し、仏教と対照する新鮮さがありますが、和諧社会という民族色が色濃い社会主義のキャッチフレーズも、つまりは儒教の中国化ですから、伝統への敬意は依然として希薄です。真の和諧社会を目指すなら、なぜ宗教弾圧するのか疑問です。
    『ここで私は、孔子の言葉に、天台智顗が「法華玄義」で述べている「劫初に万物名無し聖人理を観じて準則して名を作る」との言葉を対置してみたいと思います。
    儒教と仏教との違い、そして孔子の場合は「正名」による秩序への模索であり、智顗にあっては「作名」による秩序の創出であるというニュアンスの相違こそあれ、「名」というものを重視し、万象が織り成す秩序の”画竜点睛”としている点では共通しております。
    これは、極めて中国的現象であります。同じ大乗仏教でも、インドを代表する龍樹は、「中論」に見られるように、「名」によって構成される「分別」と「差別」の現象世界を突き抜けた、「無分別」「無差別」の世界への志向性が強い。いうなれば「世間」を出づる「出世間」への傾斜であります。ところが智顗にあっては、そうした「出世間」の「解脱」の境地を踏まえつつも、そこから更に「世間」へと還ってくる。つまり「出・出世間」というベクトル(力の方向性)の転換がなされているのであります。ともに仏法者らしく、世界宗教としての普遍性を求めつつも、龍樹と違って智顗は、その普遍性を具体的な現象世界に即して展開していったということであります。私はそこに、東アジアの精神性の反映が、はっきりとうかがえると思います』


    さらに、継承的発展と論を進めて
    『ちなみに、大乗仏教の真髄では、智顗の「法華玄義」の文を釈して、こう述べております。
    「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」<当体義抄>
    前半部分は「法華玄義」を受けて「作名」の次第を述べており、それに続く「妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し」が智顗の「一念三千論」を踏まえた存在論の要約であることは、先生方に申し上げるまでもありません。
    また「修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」とは、人間いかに生くべきかの機軸となる修行論、価値論であります。社会的実践を強く促している点で、エートスというにはいささか実践性を欠いた天台仏法の弱点を補完しているといってよいかもしれません。その意味からも、存在論と価値論とを併せ具えた宗教的世界観の、雄勁にして断固たる表白を成しているのであります』


    事理を明確にしても、中国知識人には、鎌倉時代の宗教家に抵抗があるでしょう。日本から何かを学ぶなど言語道断。社会主義イデオロギーが個の実践と成果、仏法的に言えば、個人における因行と果徳の二法を極端に嫌い、可視できない宿業論を認めたくないからです。弁証法的唯物論こそ邪悪の思想です。
    「中国的現象」である出・出世間は、くだけた言い方をすれば人の道、つまり倫理ということ。孔孟思想から発展させ、普遍的仁愛を説いた墨子の伝統こそ、現代に最も必要とされる倫理ではないのでしょうか。中国が生んだ偉大な人類遺産のエッセンスは、今では古物商の店先に値札をつけて売られている。古いものであれば何でもプラクティカルに換金するのが漢民族の正体です。鄧小平は改革開放で、良い意味でも悪い意味でも中国人の欲望も開放しました。
    「名」を付けることによって秩序が生まれ、「名」を「作る」ことによって諸法の根元が明らかになる。また「作る」ことは仏因であり、下種とは「名」を「作る」ことだったのですね。
    あらゆるものの意味を求める人間は「名」をつけることによって意味を確定し、混沌から秩序を構築する。「解脱」などという言葉はとても非合理です。経典で説きながら現実的に解脱した人間を見かけることが難しいからです。キリスト教の「救済」と意味が重なる。なぜ祈れば幸せになるのか、その根拠は簡単に説明ができない。出・出世間は非合理と合理的世界を行き来して、なぜ幸せになるのか、なぜ苦難に遭わなければならないのかを、論理的に説明してくれるかもしれない。また出・出世間は、宗教の目的である超越性と、内面からの変革性と言いかえることができるでしょう。


    中国化…「悪霊」が地上に舞い降りたとき
    改革開放という中国式ペレストロイカが、経済のみの限定改革であったのは、マルキシズムの中国化ということだろうか。共産主義が、伝統的なキリスト教のユニバーサリズムを源泉とすると述べたのはトインビー博士です。中国化は13億以上の人民を飢えから救うユニバーサリズムの適用なのかもしれません。中華思想はなんでも自分たちのために、中国化というイデオロギーの上書きを忘れないのです。
    鄧小平は結果として最も信頼する胡耀邦、趙紫陽という部下を失うことになる。天安門事件のとき、そのまま民主化を進めていれば、中国はソビエトと同じように崩壊していたでしょう。鄧が恐れたのは何よりも、国家の混乱と、内戦で再び国家が失われることだったように思えます。矛盾はあっても、安定した国家維持が民衆の願うところであり、それが周恩来が鄧に託したことだったのではないでしょうか。
    マルキシズムそのものを体現していたと思われるレーニンは、私利私欲のない人だったと言われています。しかし崇高な目的達成のために、倫理上の大きな過ちを犯し、暴力行使の手段の正当化を行ないました。「悪霊」が地上に舞い降りたとき、権力悪という紅い天使が人権をことごとく奪いました。共産主義には元々、手段に対する理念性が希薄であり、生存すら脅やかしかねない欠陥が顕著に内包されていると思います。革命思想の根底には、人間の善性を信じる力と自己超克の宗教が必要ですが、どのような宗教であれ、弾圧しようと身構えているコミュニストには、今でもきっと悪霊が取り付いているのです。そして寄生虫のように、国民一人一人の運命にも喰らいついているのです。

    社会科学院での講演を、会場にいた学者や研究者がどれだけ理解できたか疑問です。彼らは、チベットやウィグル自治区における人権蹂躙を十分承知しているのであり、先生が「出・出世間」という重要なテーマを提案し、イデオロギーに左右されない人間の良心に呼びかけても行動を起さなかったことを考えれば、体制に迎合した不健全な個人主義的二乗の卑しい根性がわかるというものです。釈尊が生きた昔から、二乗は徹底的に、その腐った命を糾弾され続けているのです。将来、中国共産党が滅びるとき、彼らは一斉に、わたしに責任はないと自己弁護を繰り返すのでしょう。今やるべきことに口を閉ざし未来にツケをまわす者を卑怯者という。
    知識人クラスとして社会から一定の尊敬を受け、民衆と国家の間にあって果たすべき役割は、共産主義の絶対化に奉仕することではなく、またその奴隷となり不正と腐敗が横行する党中央と特権階級への関心を他に逸らすことでもない。社会科学とは、人間のための普遍的価値と、正しい行動基準を追求する学問分野ではないでしょうか。国家に忠誠を誓うための学問なのでしょうか。
    どのような学問であれ、研究成果は自由な社会建設に役立たなければならない。差異を越えて、幸福と正義を擁護し、倫理と善なる理想を実現する教育的財産にならなければならない。
    先生への顕彰は、もちろん国家的意図があります。それは覇権を至上命令とする利己的支配の目的の一部であり、基本的人権を護る立憲主義、民主主義否定を招来するような危険思想が根底です。同時に平和主義者、人権擁護者の期待を裏切り講演を汚しているものだと思いますが、彼らの流儀に従えば名誉などいくらでも生産できます。紙と筆があればいいのですから。

    先生が望まれていたことは、名誉などではなく講演で示された中国古来の徳目である大同精神と共生のエートスの体現であるということ。しかし、その体現者はどこにもいません。
    民間外交だからこそ、キレイごとばかりではなく、主張すべきは主張し強いメッセージのなかに、安全保障と平和を担保する仏教徒としての姿勢が必要と思います。とるべき方法と覚悟はいくらでもあります。勇気とは積極的な覚悟のこと。
    仏教の伝統的な寛容精神、中道に支えられた理念が、第二次世界大戦を容認したことを反省し、絶対的平和主義への志向を再検討しなければならないでしょう。少なくとも、そのことを真剣に考える会員がどれだけいるのか、創価の未来はその姿勢で決まります。宗門の落ちぶれた姿を、二度とない宗教堕落のモデルと考え参考にすべきです。真理を貫くためには勇猛さが必要なのです。

    中国の信仰者はとても過酷な状況にあります。宗派の正邪や教義の高低を問うべき問題ではありません。わたしは、池田先生の指導力に疑問を持っております。思想家であれば、社会主義への肯定的な論説を繰り返すべきではありません。こんなことを書けば、単純な池田先生唯一主義者は血相を変えるでしょうか。勝ち負け基準に毒された頭の悪い会員の正義ぶった顔が思い浮かびます。わたしにとって悪夢同然です。
    5月16日の聖教に、「新時代の日中交流始まる」と題して、創価の貢献を強調しています。漸進的な仏教の性格が、ときには信仰者を苦しめることを検討しなければならないでしょう。背信国家に誠実行為は似合わない。永遠の指導者という礼賛も、巧妙に中国化されることでしょう。なんでも政治的プログラムに組み入れてしまいます。中国の覇権主義は、もしかしたら創価の勝負師性格とよく似ているのかもしれない。万人向けの法華経も、万事向けの法華経と言い換えることもできます。万事に勝利しないと法華経(正義)でないとの強迫観念にとらわれるのは、とても不幸なことです。


    絶対的平和主義について
    仏教における平和主義は、正当防衛による武力・暴力も許さない絶対的平和主義です。しかし、軍人を含めたあらゆる階層に信者がいるSGIにおいて、その理想の理念の実現は極めて難しいものと考えます。ガンジーの非暴力を、先生は人類史上最大の政治的天才と称賛しましたが、大乗仏教では、仏法守護のためにのみ暴力使用の正当性を容認する。また大聖人はいくつかの御書で殉教精神の尊さを説いていますが、これは一歩間違えば、イスラム原理主義のように聖戦テロにまで拡大解釈されかねない危険性をはらんでいます。
    現代社会、一定のルールの遵守で安全が成り立っている民主国家においては、限定つきの暴力が法律で認められていますが、国際政治の場では通用しないでしょう。小さな暴力で保障される社会正義と、多数の犠牲が予想される独裁などの大きな暴力に、国家的武力で応戦することに違いがあるのだろうか?
    イラク戦争のとき、先生はSGI提言で戦争容認へ一定の条件を述べています。現在の国際情勢では不可能であるその条件、つまりはイラクに対する攻撃に強い警戒感を示した条件を満たすことなく、安易に国内、国際世論に同調した公明党がイラク戦争容認の態度を表明したとき、学会が非暴力を称賛していながら一言も発することなく黙認したことを、わたしは厳しく問いたいと思う。
    会員の皆さまも支援者として強力に、その政策の撤回に努力を怠っていたと指摘されれば反論の余地はありません。以前会合で、イラク戦争が話題になったとき、担当幹部が「人道支援だから問題ありません」と発言したのには驚きました。物資輸送が主体の自衛隊でしたが、他国による武力行使と一体化した行動と評価が定着しているのに、認識が甘い平和主義者は、日々の活動ごっこより関心がないのですね。

    テロの日常化は、人道的、倫理的動物である人間の宗教的行為の心的豊穣さを根こそぎ奪います。その先にあるのは、断絶し殺伐とした闇社会と、チベット国にも見られる生命そのものへの否定、虐待行為。わたしたちの回りに身近かに存在する恐ろしい世界を、見て見ぬふりをしてはならないでしょう。テロリズムへの挑戦は、自己の奥深い神聖なヒダに突き刺さった「殺」の矢を、慈悲の手で取り除くことです。不殺生戒は仏の第一宣言です。
    公明党にとって「平和」は特別の意味があると思います。厳しい現実的選択を迫られても、信念を曲げない勇気が欲しいと思う。トインビー博士が指摘する、「倫理的行動基準」「品行の水準」と力(ハード・パワー)のギャップを埋めていただきたかったのです。勝者であるはずのアメリカやイギリスが、多大な犠牲と代償を払い、得たものとは何だったのでしょう?
    他者への配慮を欠いた行為は結局、道義心の衰退と幸福感覚のリアリティーの欠如というクライシスに陥る。暴力は自制心の麻痺と、精神の歪みを拡大するだけです。政治の世界にあっても、他者への慈しみ、痛みへの共感が基本になるのではないでしょうか。公平な民主主義社会にも、正義に似た野蛮な病理が、心の奥深くに巣くっています。


    日々あらたに
    日々更新の新しい出発にはそれまでの清算と総括が必須であり、過去の検証は厳しいものでなければならないと思います。組織には現在、多くの手づまり感があり、それは選挙支援の際限なきF拡大による疲労と、指導性の低下に原因があると考えます。アンチのように敵視されているわたしが、いまさら言うことでもありませんが、幹部の指導に新鮮な喜びと驚きを感じなくなったのは残念なことです。マニュアル的、型にはまった優等生的理論の強調は、もう十分に会員も承知しているのに、毎回同じような話を繰り返す。先生のご指導の範疇を越えようとしない。聖教に紹介される語り口から逸脱することなく、自分の言葉で語らない。
    『宗教の本質的なものは、人間の生き方に関する思想的側面であるはず』と先生が指摘されたように、少なくとも幹部一人一人は、実践法と結果を語る者でなければならないのに、研鑚と体験が疎かになっている。つまり思想を語ろうとしない。思想を語らないことに何の疑問も感じていない。信仰を口にしながら恐ろしく宗教的でないのです。「本質的なもの」にチャレンジしていないのです。思想が人生のなかで熟成されていない。与えられたものだけで満足し、吟味もせずに、主体的な深みもありません。
    質も量もという伝統の手法が転換期を迎えていることと、もっとスッキリした組織の再構築が必要と考えます。さらに組織における透明性の確保は、グローバルな情報化時代を迎えて最も必要とされることです。
    何かと意見を言う人間を内部アンチと切り捨てるのは簡単です。しかし色々な意見があるから健全なのであり、そのような意見をまとめる力量と度量、弾力性がリーダーの基本素質です。これは聡明な活動家を育てるうえで絶対不可欠なこと。学会の不都合な部分は、会員に知らせないとする考え方は、信仰者として無責任であり、恥ずべき行為でしょう。


    (アンナの日記から)
    現在の本部には、職員の二世三世が多くいます。父親が本部職員で子どもも職員、青年部幹部というパターンは、今に始まったことではありませんが、いずれ、その青年部幹部が創価の中心になることを考えると、世襲化という悪しき習慣が残っていくものと考えます。民衆仏法に最もふさわしくない貴族化が進みつつあることを懸念します。この世襲化を容認した池田先生は、信念に反する痛恨のミスを許容したとも言えますが、身内には寛容なのでしょうか。創価のルネサンス運動も、組織の私物化でエンディングを迎えます。

    かつてプロレタリアートの独裁制が生んだ集団的狂気は、政治や経済、宗教などの特定の支配層への反発が引き金になったものと思います。個人の尊厳は個人の軽蔑と同義であり、自由が弾圧されたことはいまさら言うまでもないことです。プロレタリア革命の崩壊の原因の一つに革命戦士の貴族化、すなわち特権階級を育て官僚化した支配層を生み出したことではないかと考えます。

    思想は違っても、同じことが創価でも起こりうると思います。つまり貴族化は、家柄や血族への信仰であり、また思想が個人ではなく、親から子に、信奉する人格模範が増幅して引き継がれ、家風とも言える家族の共有思想を決定すると考えられます。優秀な種は優秀な種を作り続けるという信仰は、最も原始的な欲求かもしれません。生存競争で優秀な種が生き残ってきたのは、生物の基本的法則と思います。官僚化に警鐘をならす先生のご指導は多くありますが、それは組織の崩壊を意味するからに他なりません。忌むべき人心腐敗は、一部の人間が自分に都合がよいように作り上げる制度や機構のなかで、管理形態を徹底するために起るのであり、空想的理想好きな会員は、それでも自分さえ分別をわきまえていれば、大丈夫などとモラルの限界を認識しないのです。
    貴族化したプロの革命ブルジョワは、そんな会員の弱点を百も承知しているのに。
    善良さは戦う善良さでなければならない。

    わたしたちは幹部に指導を受ける。では、幹部は誰の指導を受けるのだろう。最終的に最後の一人になる最高幹部は、過去の指導者の引用のみなら、必ずといってもよいほど形骸化の道を歩むものと考えます。それに輪をかけて矛盾の歯車を組み立てるのが、貴族化した側近であることは言うまでもないことです。保身は宗教に弊害をもたらすだけでなく、信者を不幸にします。たとえ、日蓮仏法の純真な実践者であっても、縄のようにつながり次第に大きくなっていく結び目(矛盾)は、ほどくことができないのです。

    妙法は万人が平等であることを説きますが、創価の指導の図式をたどっていくと、指導階級制が必然的に生れることがわかります。当然のことですが、上下関係で言えば指導する側が下位にあるわけはなく、言葉は優しく同意を求めるものでも、組織の方向性、なにかの立案、まとめられた文書が上から下へ流れます。わたしたちはすでにこの時点でやわらかな服従を求められているのです。
    貴族化の巧妙さは、大衆心理をよく理解し、決してボロを出さないことです。指導原理に忠実である必要はありません。ただ人心掌握術にたけていればよいのです。二世三世の会員が、親世代より巧みなのは一般的なことです。親の失敗を見て学んでいるからです。

    人間解放というシンボリックな言葉を使えば、宗教では解放され、組織や集団では真意を隠されコントロールされるということになります。
    創価は本当に大丈夫なのでしょうか?


    わたしたちの平和運動はどうあるべきなのだろうか?
    チベット人にとって、化身は特別の意味があります。ダライ・ラマは観音菩薩の生まれ変わりとして、今まで13回も生死を繰り返してきました。化身はすでに解脱が約束されているのに、苦しんでいる人間を救済するため、自ら望んで輪廻転生を繰り返す。そして利他行に励む。チベットの人々がダライ・ラマを尊敬するのは、ひとえに凡夫を導くその利他的なあり方に理由があるのです。
    生れ変わりを信じるかどうかというようなことは、まったく信仰上のことであり、信心の無い者には理解できないかもしれませんが、会員もまた似たような表現をします。地涌の菩薩とは、法華経に説かれる末法に出現する菩薩であり、わたしたちがその菩薩の生まれ変わりであると表現しても、何の差し障りがありましょうか?
    また日蓮大聖人は上行菩薩の再誕です。このようなことは、論理的な説明を超えており、宇宙空間と時間を貫く普遍的エネルギー、あるいは理性を超えた真理の当体として存在するのであり、宗教が信を土台としてその真理を獲得するものであることを示しています。
    凡夫である自己から出発して、信仰のなかで鍛えられ、世界を見渡すような真理を体現し、菩薩となり、菩薩からまた凡夫に還り、法を説く。出・出世間とも表現される、このようなプロセスの生命変革を、言葉は違っても、先生は絶えず投げ掛けていると思います。自己の信仰を厳しく見つめること、池田思想と言われるものは、結局、そういうところに収斂していくのではないか。自己から始まり自己で終わる。その積み重ねに信仰の醍醐味があるのではないか。ソフトパワーは内発啓蒙ということ。堅固な自己を築くと同時に、柔軟で寛容の内面充実。
    病み苦しむのは心、喜び楽しむのも心、地獄に縛られるのも心、解放され、苦しみを苦しみのまま自由に楽しむのも心。心の問題が仏教の出発点だと思います。そういう当たり前のことを知り実践することは、実は自分の弱い心と対峙し、見つめ、克服することなのだと思います。感情に支配されず、理性的、論理的な自己観察を通しての新しい自己の発見こそ宗教です。
    仏教が説く「縁起」の因果論、関係論は、今後もひときわ重要な示唆を与え、心的自由のプロセスに親密なイマジネーションと根拠を提供してくれるのではないでしょうか。
    混乱世界のなかで生き、変革と利他を実践する主体者として、自分自身を覚知する祈り。
    信じる対象に自身の生命相を映しだす祈りの深さは、誰にも測ることができません。ご本尊と自分の関係という繋りのなかでしか分からない。<信ずる者は救われる>という言葉を、宗教に違いはあっても、わたしは確かに受容するのです。そして信じることは、他者との関係性において基本的な法則というべきものであり、平和観も幸福観も、その関係のなかに熟成されると考えます。
    祈りは全く自由なパーソナルな行為であり、そこには形式もマニュアルも存在しない。
    人間革命思想は個人から個人へと受け継がれる連鎖運動であり、途方もない時間がかかる漸進運動であることを知らなければならないでしょう。

    わたしたちの平和運動はどうあるべきなのだろうか?
    平和への情熱と確固とした理論を持っていても、十分な行動として、社会に展開されているのだろうか?
    妙法の無比の論理で圧倒しても、各論においては、その実効性が問われているのではないでしょうか?
    チベット問題を考えるとき、仏教徒としての行動のあり方を疑問視されているのではないだろうかと、わたしは考えてしまいます。これは創価全体の問題であると同時に、個々の平和への意識と決意にかかっているのだと思います。中国国内で、苦しんでいる信仰者がいることに無関心であることが、真の仏教者の姿勢だとはとても思えません。日蓮が伝えたかったことは、信仰者を敵視する悪と妥協することではなく、たとえ信じるものが相違しても、苦しんでいる信仰者を誠意を持って擁護することだったのではないでしょうか。他信仰に無関心ということは、他者のトータルとしての生き方全体にも無関心ということです。釈尊も日蓮も、そんな菩薩を説いた覚えはないときっと言うでしょう。創価内だけに通ずる内的倫理基準は、もうさっぱりと捨ててしまいませんか?
    わたしは一人の女性として、また未来を憂いながら戸惑いと躊躇の鎖に縛られる一人の信仰者として、その使命と責任を重く受け止めています。そして、暗闇で光をつかむような思いで、生き生きとした希望の哲学が有り、さらに充実していくことを語り、行動の重要性を訴えていきたい。あきらめない女性こそ変革者だと確信します。


    New World Order (Extended)
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