男性原理と女性原理 2

    女性が、土俵に立ち入ることができない理由の一つに、女性は穢れているとされていることです。この「穢れ」とはいったい何なのでしょうか。死穢(死の穢れ)、産穢(出産の穢れ)、血穢(経血の穢れ)。このような穢れは病原菌のように伝染し、周囲を汚染すると考えられていました。女性特有の出血をともなう出産や月経が、やがて拡大解釈され、女性そのものが穢れているとされ、このような概念は仏教思想と合致し、女人禁制という女性排除へと発展したようです。男の勝手な言い分、都合の良い理由付けであることはあきらかです。
    日蓮は、出産についても言及しています。
    『法浄世界とは我等が母の胎内なり』(御義口伝)
    母の胎内は生命の出生するところ。生命というこれ以上の優れた宝はないのですから、宝浄世界と日蓮は讃えられました。女性への尊敬が感じられる言葉ですが、同時に法華経の男女平等思想を受け継ぎ、身分制度で成り立っている封建社会で、普遍的ルールと平等思想の遂行者の姿勢を貫いています。法華経の行者の実践と視座は、経典弘通だけでなく、人間関係や生活の細部にまでおよびます。菩薩は、人間的な悩みを決して疎かにしませんでした。
    現在まで残っている女人禁制という伝統は、偏見という差別のジェンダーバイアスに絡め取られ、呪われています。男性世界を侵す女性の力に畏怖を感じているのかもしれません。

    「釈尊と日蓮の女性観」では、さらに、本因妙・本果妙に展開して次のように述べています。
    『日蓮は、その著「百六箇抄」におきまして、
    「男は本・女は迹・知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可きなり」
    という言葉を残しております。……(中略)……
    この「百六箇抄」の「男は本・女は迹」という一節と同趣旨の表現として、本因妙は男性原理であるが、本果妙は女性原理である、という言い方ができると思います。本因妙とは、平たく言えば、常にスタートに立って「さあ、これからだ」と、未来へ向かっていく姿勢のことです。それに対して、本果妙は、過去の因行と現在の果徳に甘んじて、未来への指向性が弱いと言えます。
    この本因妙の姿勢が男性原理であり、成仏につながるものでありますが、本果妙の姿勢は女性原理であって、成仏からはほど遠いものです。そういう観点から「男は本・女は迹」と言われているのであります。このように考えますと、身体的性別という意味での「変成男子」はヒンドゥー社会を意識した妥協的産物としての便宜的な表現でありましたが、男性原理と女性原理の観点からとらえ直すと、「変成男子」も新たな意味を持ってくると思います。すなわち、「変成男子」の意味するところは、本果妙から本因妙への転換によって成仏が可能となるということになります。
    生命の傾向性において、本因妙(男性原理)に立てば成仏につながり、本果妙(女性原理)に陥れば成仏から遠ざかる。この論じ方は、もはや男性、女性という身体的差異というよりも、生命論的次元での男女論に飛躍しています。これは、外見としての表面的な差異にとらわれていません』

    本果妙的考えは性別に関係なく、常に生活のなかで賛美されています。功徳の価値を見積もり、感情的な宗教批判に推移して敬虔さが失われることです。果徳に甘んじる癖がつくと、組織に活力がなくなり堕落します。現状肯定はやがて現状不満に発展していきます。女性が愚痴を言うのはそのためです。自然に口から言葉が出る瞬間を女性は経験していますが、特に愚痴は出やすい特質があります。女性に怨嫉が多いのもそのためです。

    日常性のなかでの果報(果徳)について、さらに深い展開があります。本因妙・本果妙というメカニズムの違いを明確にします。
    『日蓮は、「御義口伝」において「法華経」観世音菩薩普門品第二十五の「求男」「求女」という言葉に即して述べています。
    それは、
    「第四 二求両願の事
    御義口伝に云く二求とは求男求女なり、求女とは世間の果報・求男とは出世の果報・仍って現世安穏は求女の徳なり後生善処は求男の徳なり」
    という一節です。(中略)
    だから「二求」とは、もともとの経典では、生まれてくる赤ちゃんについて、「男であればよいな」とか、「女の子がいいな」といった「親の求める二つの願望」のことでありました。この点、「法華経」という著しく普遍性を追求した経典にしてから、やはり民間信仰のようなものを取り入れざるを得なかったのか、と思うと興味深いものがあります』
    『日蓮が「御義口伝」において、この「求男」「求女」という言葉を使う場合は、「男性的在り方を求めること」「女性的在り方を求めること」という意味に読み換えています。その両者を求める主体は、男の子、あるいは女の子を産む「父」であり、「母」でありますが、これもまた男性原理、女性原理としての「父母」であることを忘れてはなりません。「父母」といっても、二人の人がいるのではなく、一人の人格における男性原理、女性原理として位置付けられています。
    (中略)
    これによって、「求男」は男性的価値観(男性原理)を求めることであり、「求女」は女性的価値観(女性原理)をもとめることという意味に言い換えられ、また、その「父母」として、その両者を追求する主体としての男性原理、女性原理という関係に位置付けされています』

    中国仏教で用いられた「体」と「用」が「本体」と「その働き」「属性」に相当するとして、男性原理、女性原理の体と用が「父母」と「求男・求女」として示されているとしながら、「求男」は「福徳智慧の男」であり、「求女」は「端正有相の女」「衆人に愛敬せらるる」と、御義口伝には解説されていることを述べてから、次のように男女の特質に沿った説明を加えます。日蓮の深い人間観は、眼を見張るものがあります。本因妙は男性的なもの、本果妙は女性的なもの。本因本果とは「父母」であり、「二求」のこと。
    『こうしたことを踏まえて、「求女とは世間の果報」「求男とは出世の果報」とされるのであります。すなわち、女性的価値観(求女=女性原理)は、「世間」、すなわち日常性の中での果報を求めるところにあるということです。
    これに対して、「求男とは出世の果報」となります。この場合の「出世」とは、会社で出世するというような意味ではなく、「出世間」(世間を出離すること)の略で、日常性を超えたところのことであります。そこにおいて果報を求めるのが、男性的価値観(求男=男性原理)であるというのです』


    このような性の傾向性は、生命の根本的特徴とも言えますが、決して別々にあるのではなく、一人の人間のなかに同居し、使命感、意志やモチベーションなどの内的動機になっていることです。信仰においても性差による傾向性がありますが、功徳や生活改善の欲求は女性が強く望むようです。
    婦人部の活動は、役職が上であればあるほど統一的一体感を重視し、団結というよりは、息を合わせるという姉妹的親しさのなかで緊密感を増していきます。婦人部が打ち合わせにかける時間の長さは壮年部にはきっと理解できないでしょう。通常の活動ですらそうなのですから、選挙や特別のイベントがあると大変です。このような準備がないと、つまり全員が背負う前提がないと、婦人部の活動は崩壊します。女性はリアリストであり結果に感情的に偏重します。非力な自分を常に感じており、その穴埋めを集団に参加することで埋めようとします。問題を一人で背負うことはありません。集団責任のような価値の同調は、上意下達の一方的な情報誘導のなかで承認欲求のすえに起こります。婦人部は権威的情報操作にとても貧弱な対応力より持っていません。池田先生や本部という権威は婦人部活動家の急所であり、その権威の範囲から、独自性を持ち逸脱することはありません。
    男性原理の特徴は出世間ですが、それは指摘されているように日常性を越えたところにあります。現在の果報を求めるより、未来の果報が保証されることに喜びを見出します。世俗的規範から離れ、執着を乗り越え、主体性の確立を求めますが、普遍性という評価基準を何より大切にします。妙法と名付けられるように、法の永続性と普遍性を強調するのは、男性原理の一部とも言えます。新たな解釈を含めて、一直線に本質へより迫ろうとするスタンスは、男性的で創造的。また闘争心が旺盛です。釈尊や天台、伝教や日蓮が男性なのは、生命のなかの性の傾向性に大いに関係があるでしょう。もちろん、女性が劣っているというわけではありません。男性のなかの男性原理が現状を肯定することなく、三世を貫く法を求め抜く強さがあるということ。また批難に耐える出世間の理想を堅持し、決して諦めないこと。

    『このように、男性原理と女性原理の特質を押さえたうえで、「法華経」薬草喩品第五の
    「現世安穏・後生善処」(現世は安穏にして、後に善処に生ぜん)
    の文を、これにからめて展開されています。
    この八文字を、「現世安穏」と「後生善処」の前後二つに分け、まず、その前半について「現世安穏は求女の徳なり」とされます。「現世安穏」だから、今現在と、身の回りのことに重点があるということです。その反面、未来への展望と広い視野に立つことが、この段階では欠けています。この「現世安穏」を求めることが女性的在り方を求めることであり、それが「求女」でもあり、女性原理でもあります。
    それに対して、後半部分については、「後生善処は求男の徳なり」とされます。現在という目の前のことよりも、むしろ「後生」、すなわち未来の理想に目が向いているということでありましょう。この「後生善処」を求めることが、男性的在り方を求めることであり、それが「求男」であり、男性原理となります。
    こうした両者の在り方が、本因妙、本果妙という姿勢となってくるのであります。すなわち、「現世安穏」として現在の結果に満足する本果妙と、「後生善処」として現在の因から未来を志向する本因妙としてであります。こうした違いを踏まえて、あえて男性原理と女性原理を本迹に分ければ、「百六箇抄」の「男は本・女は迹」となるというわけです』


    論旨の経過をまとめると
    男性原理 本因妙 求男 出世の果報 後生善処
    女性原理 本果妙 求女 世間の果報 現世安穏

    仏法は真理が連環していることが理解できます。一つのことに疑問を持つと、次々と疑問の連鎖が起きるということ。日蓮も、問いと答えの論文を多く著していますが、教育的指導と探究心、確信的で強い断定は、男性原理に由来するものかもしれません。

    なお本迹について、『根本と枝葉末節を明確にする「本迹」』ということで、わかりやすい説明がありますので引用しておきます。
    『男女の本迹を論じた「百六箇抄」には、
    「立つ浪・吹く風に・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」
    という言葉もあります。
    「吹く風」があるから「立つ浪」があるのであって、決してその逆ではありません。本末転倒した物事のとらえ方をいましめるために、「本迹」を論ずる必要性を強調されています。価値判断として、「迹」を無用のものとして切り捨て、「本」のみを選び取るべきであると言っているのではありません。本論の視点から言えば、男性原理、女性原理の両者がそろってはじめて完結することを前提としています。
    「百六箇抄」は、このようにあらゆることを本迹という観点から位置づけ、本末転倒した物事の捉え方を正し、何を根本とすべきかを明らかにし、その上で「本」と「迹」の両者の在り方を正そうとしていると言ってもよいと思います。この「本」と「迹」は、「本末転倒」の「本」と「末」の関係と似ています。
    「本」とは「本地」の略で「本来のあり方」ということです。「迹」とは「跡」と同義で、「あと」を意味します。両者は、「足」に対する「足跡」の関係になります。…太陽に手の平をかざせば、地面にその影ができます。この場合、手の平が「本」であり、地面に映った影が「迹」となります。<影があるから手の平がある>のではないことは、だれにだって分かることです。
    (中略)
    このように、先の「百六箇抄」の一節は、「本末」を明確にして、何が根本で、何が枝葉末節であるのかを見定めることの大切さを言っています。
    …自然科学や、社会科学における因果関係、あるいは「只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり」と形容される心のさまざまな働きにおいては、しばしば本末転倒した認識がなされているように見受けられます。こうした認識の誤りに付け込んで、さまざまな迷信、インチキ宗教がはびこりやすいから、「本迹」を立て分けて弁ずることが重要になってくるわけです。
    こうした議論は、天台大師が「法華玄義」巻七上に、
    「不識天月・但観池月」(天月を識らずして、但池の月を観る)
    という言葉を残しているように、「天月」と「池月」という例でも盛んに議論されています。それほどに私たちの認識が本末転倒したものになりやすいということでしょう』


    このような考え方は、妙法の根幹的な考え方の一つですが、この本迹は創価の御本尊問題にも当てはまります。当然のこと、大御本尊は本、その他の御本尊は迹です。迹の御本尊にも真実は内在していますが、それは本の大御本尊を投影し、その力用があらわれた時のみです。大御本尊が宗門の偏屈な石頭の坊主の息がかかるところにあることに、わたしは腹が立って仕方ありません。まるで、腐った泥のなかに咲いている白蓮華です。
    信濃町の大聖堂に安置されている創価学会の常住御本尊は、第2代戸田会長が発願し、当時の日蓮正宗日昇法主によって書写、授与された紙幅の本尊を、板に彫刻したものです。
    日昇上人は自分勝手に、その構造を決め、御本尊をしたためられたのでしょうか?
    日寛上人を含む歴代上人がしてきたように、必ず手本があったのです。つまり、御書にあるように、日蓮の魂魄を留めて生命を移すようにしたためられたことは自明です。御本尊には由緒が大切です。どのような深い信心の者によってしたためられたかどうかです。いい加減な信仰者が、どのように立派に書道の腕を発揮したところで価値はありません。
    人間には誰しも、生物学的な唯一の父母から、必ず両親の遺伝子を受け継ぎます。法と信仰の血脈とは、この遺伝子に象徴される親の生得の尊厳を受け継ぐことなのです。創価の本部常住の御本尊は、一閻浮提総与の大御本尊の遺伝子を受け継いでいます。戸田先生は、そのような御本尊を望んで、広布のために願主となられたのです。したがって、何度も繰り返し、頑固に、大御本尊から離れてはいけないとご指導されているのではないですか。会員を第一に思う替えがたい慈悲があるからです。この御本尊の普遍性は、池田先生もかつてご指導されていたように、永遠に変化するものではありません。環境や時代に関係なく法則は普遍的なのです。そのことを信じられるかどうかが、妙法の信仰なのです。
    しかし、池の月はただの影なのに天月だと言い張り、創価の在家僧は否定しました。迹を本と偽り、根本の問題を避け本質から目をそらしている。創価も、多くの会員も、今まで何を信じてきたのか、とても疑問に思います。創価流の教条主義に犯されている。五老僧の追随者に成り果て、正しい法の分別に迷っている。戸田先生が、75万世帯の広宣流布の願業を達成されたのも、会員の大御本尊への篤い信仰があればこそです。今はその恩を忘れている。
    広布のための御本尊と、まるで悲鳴のように叫び散らしますが、広布のための御本尊といったら大御本尊よりないでしょう。真実が失われる末法の時代相を鮮やかに写して、本末転倒に気づかないとは、戸田先生も嘆き悲しむことでしょうね。
    都合の悪いことは忠実な弟子にやらせ、池田先生自らは、知らん振りを決め込んでいる。また会員を欺き続けている。創価の師弟は、一貫性が失われ、教義の整合性を、自ら捨てている。名誉や勲章で着飾り、永遠の指導者などと祭り上げられて、羞恥心とか、人間が感じる普通の情感や理性がないのでしょうか。釈尊も日蓮も、悟った者がどれだけ質素で謙虚であったか。余計なもので飾らないシンプルさのなかに、人間の偉大さが表れます。

    信と解は信仰者の両足のようなもの、信解があるから立つことができる。信が深まれば解も深まり、解が深まれば信もダイナミックに躍動する。成仏の成就は信解の協調によるものです。しかし、大御本尊への信仰と受持を否定した創価では、信解の調和の後退を引き起こし、人格完成の成就の道をふさぐ。

    Impossible
    Two Steps From Hell
    (feat. Merethe Soltvedt)





    ◇◇◇

    P.S.
    植木氏の「法華経・現代語訳」を読むと、いろいろなことに気づく。詳細は実際に読んでいただくとして、最後の解説に次のようにあります。
    『原始仏典を読む限り、仏教の目指したことは、次の三つにまとめられる。
    ①一貫して平等主義を貫いた。
    ②徹底して迷信・占い・呪術・ドグマを否定した。
    ③真の自己に目覚めることを最重視した。』

    このような仏教への基本的な理解は、大変重要です。植木氏は、仏教の歴史を簡潔にたどりながら、男性・出家者中心主義、権威主義的傾向、歴劫修行、釈尊の神格化、などを説明しながら、優れた思想でもあった仏教の形骸化が免れなかった史実を語ります。
    法華経をはじめ大乗の主張は、釈尊の原点に還れをスローガンとするルネサンス運動であったことを、平等思想と一仏乗を説く法華経信奉者の人間像を通して描きます。畏れることなく、権威主義や非難と暴力に立ち向かった菩薩が、実際に存在したのです。権威主義といえば宗門の僧侶の姿が思い浮かびますが、最近は、創価もこの部類に入りそうです。聖職者と詐欺師は紙一重。いくら偉大な妙法でも、その動機と根拠がいかがわしければ、搾取し隷属させることはできても成仏は叶わない。

    「終わりに」という最終章で次のようにまとめております。
    『教団運営だけでなく、思想の理解の仕方において形骸化を免れない。例えば、大乗仏教は、あらゆるものを実体視して執着することを戒めた「空」の思想を説いたが、後に「空」ということ自体もまた実体視され、執着するようになってしまった。「空亦復空」(空もまた空)を言わなければならなかったゆえんである。それでも、さらに「空亦復空」自体も実体視され、「『空亦復空』亦復空」(「空亦復空」もまた空)を説かねばならなくなり、その無限連鎖が繰り返されるのではないかと心配したくなるほどである。
    権威主義を排し、一仏乗という卓越した平等思想を唱えた「法華経」も、形骸化され、権威の象徴に祀り上げられることもあるかもしれない。それは、ほかならぬ「法華経」自身が「正しい教え(正法)に似[て非な]る教え」(sad=dharma-pratirupaka,像法)という言葉を用いて懸念していたことである。歴史の教訓として、常に原点(原典)に還ることが重要である』


    永遠の指導者という権威の象徴から、牧口、戸田先生の原点に還ることです。正しい教えに似て非なる教えとは大変示唆に富む言葉です。形骸化という、真実を求めようとしない姿勢は、像法時代という過去にあるのではありません。常に、現在の求道者の心理のひだに在り、膜が張られるように感性と理性を麻痺させ、錆びついていく命の衰えを表しています。それでいて自らを顧みず、わたしは正しいと主張するところに、不幸への連鎖は始まると言ってもよいでしょう。創価の御本尊は、日蓮のアイデンティティーを喪失しています。可能すら不可能にする、実現性への疑問が次第に強くなっていくでしょう。会員の減少が、その事実を何より物語っています。自然増や自然減といった認識を越えています。公にできないほど著しく減少している現実に、目を閉ざしている。人を引き付ける宗教性や、哲学的要素の具現性が、創価では薄らいでしまったということでしょうか。

    『現代語訳』の方便品を読んでいたら、気になるところがありました。それは、有名な十如是の一節です。サンスクリット(梵語)の原典と鳩摩羅什の漢訳と現代語訳を対照させ、綿密な分析と注釈を付けて、著者が言明しているように、曖昧さを残さない翻訳に挑戦しています。真面目な会員なら、毎日読誦している方便品の最も重要な箇所でもある十如是は、丸暗記していると思いますが、サンスクリットからの現代語訳は、次のようなものです。
    『それらのものごとは(諸法)は、何であるのか、また、それらのものごとは、どのようにあるのか、また、それらのものごとは、どのようなものであるのか、また、それらのものごとは、どのような特徴を持つのか、また、それらのものごとは、どのような固有の性質(自性)を持つのか――[すなわち、]それらのものごとは、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのかということを。それらのものごと(諸法)に対して、如来だけが[上記の五つの点において]明瞭であり、明らかに見ておられるのである』

    この部分の注釈に
    『この五項目に相当する箇所を鳩摩羅什は、「如是」(是くの如き)を冠した十項目、すなわち相(外面に現れた姿)、性(内面的な性質)、体(本質・本体)、力(内在的な能力)、作(顕在化した作用)、因(内在的な直接原因)、縁(補助的な間接原因)、果(因と縁の和合による内在的結果)、報(内在的果が具体化した顕在的結果)、本末究竟等(本と末、すなわち相から報までのすべてが融合していること)――の十如是として訳している』

    鳩摩羅什によって、五項目が十項目に拡大解釈されましたが、漠然とした法理が、きっちりとした言葉によって定義され表現されました。
    「ほんとうの法華経」(ちくま新書)でも、対談者である橋爪大三郎氏(社会学者)が質問しています(「第二章」 p113)
    『橋爪 さもなければ鳩摩羅什が勝手に創作して、五つだったものを十にしたことになる。
    植木 その可能性が高いと思います。
    橋爪 植木先生は、なぜ鳩摩羅什がそこを拡充したとお考えになるんですか。(中略)
    植木 サンスクリット原典で「諸々の法は、何であるのか、どのようにあるのか、どのようなものであるのか、どのような特徴を持つのか、どのような固有の性質(自性)を持つのか」という疑問節(間接疑問文)で表現したことを、鳩摩羅什は「諸法の実相」(あらゆるものごとの真実の在り方)と漢訳したと思います。その際、「諸法」を「諸々の教え」だけでなく、さらに一般化して「あらゆるものごと」にまで拡大して、その存在の在り方、因果の連鎖の在り方として、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等という十如是になったのかな――と推測するしかないですね。(中略)
    橋爪 これはもう、鳩摩羅什の創作ですね。
    植木 そうですね。鳩摩羅什は、先ほど言ったように会座の参列者数の1200を、12000にして数字の桁数を繰り上げたり、同様の文章が繰り返される時、そのうちの一ヵ所に、わかりやすくするためだと思いますが、ひとこと書き加えたりするようなこともしております』


    十如是は天台の一念三千法門、日蓮の十界曼荼羅の基礎です。学術的には、一般的認識である鳩摩羅什の創作について、わたしは不勉強で知りませんでした。
    以前、仏教は再解釈の歴史であると書きましたが、このような英知の結実の連続なのですね。仏教という大きなカテゴリーは、とても寛容です。釈尊が説かなかったことも、仏弟子たちの論証と思惟を取り入れ、消化する真理の深さを実感しますが、創価が創作した創価学会仏には感心しません。選挙運動する仏や菩薩は想像できません。根本を変えて漂泊する放浪者のような信仰者に、果たして未来はあるのでしょうか。

       
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    男性原理と女性原理 1

    相撲協会のアホらしい事件が、また起きました。土俵の上で急病のために倒れても、女であれば救命もできないという認識らしい。相撲協会の驚くべき女性蔑視。国技といっても、歴史のなかで培われてきたスポーツではないでしょうか。まるで男と女は別の生物のように扱われている。土俵が穢れるらしい。人間より土俵の伝統が大切という考え方が、暴力問題と同じ病根のように思われる。多分、貴ノ花親方が感じていただろう問題意識と同じ。協会は重病と考えたほうがよい。その体質と伝統という慣例主義につける薬ありません。
    神事は儀式と形式の一フォルム。女神の神話の由縁は、男性本位の自己正当化に他ならない。女神が女性を差別するストーリーにどんな説得力があるというのでしょう。伝統に敬意を表すのは必要なことですが、その理由が女性は穢れているという偏見には同意できません。女性が穢れているなら、男性も穢れている。
    貴乃花親方は、不甲斐ない弟子のために重い責任をとりました。断腸の思いだったでしょう。でも改革精神がほんものならば、十年や二十年の雌伏のときがあっても、きっとやり遂げるだろう。名横綱の静かな勝負を見守りたいと思う。
    異端と言われるマイノリティーは、常に批判にさらされて、社会的不適合者というレッテルさえ貼られる。あるいはスキルや運動論、意見の相違の次元なのに、人格の正常性まで飛躍し、人間性を否定される。感情的議論にはため息が出るほど疲れます。
    その後、春日野巡業部長のウソの会見が発覚しましたが、はっきり言って、珍しいほど愚鈍だと思う。厳しい勝負の世界を経験してきたとは思えない無責任ぶりですね。恥ずかしくないのでしょうか。協会幹部という指導者ではありません。

    テレビで一般市民にインタビューしていましたが、そのなかで伝統は守るべきだ、女人禁制は当然、土俵にあがるべきではないという中年女性の言葉には唖然。一般的に女性のジェンダー意識は大変低く、女性が女性の権利を狭め、辱めている。正当な権利主張を放棄しています。

    レスリング協会のパワハラ問題も、第三者委員会によって調査報告され、栄本部長のパワハラが認定されました。一連の問題経過のなかで強烈な印象を残したのは、谷岡郁子副会長(至学館大学学長)の記者会見でしょう。
    伊調選手に対して「そもそも伊調馨さんは選手なんですか?」と発言。オリンピック4連覇の偉業を成し遂げた選手へのリスペクトがまったく感じられませんでした。しかも協会の副会長という立場にありながら、選手の一番身近な存在でありながら、レスリングへの深い紐帯も感じられなかったのはどうしてでしょう。失礼な言い方ですが、口の端が歪み、筋肉が痙攣している醜い顔の表情が印象に残っています。それなりの年齢を重ねて人生経験も豊富でいらっしゃるのでしょうが、なんといっても攻撃的で威圧的なオーラに包まれていたこと。女性的な品位がなかったこと。それが顔の表情に表れていたのでしょうか。競争心が強く、悲しいほどに男性化しています。なんらかの傷を負う覚悟がなければ近づきたくない人間のタイプですね。

    レスリング協会も相撲協会も、根底に乱暴な体練の歴史があるのかもしれません。レスリング道、相撲道と表現されるように、悟りを求めるような厳しさとともに精神論への過剰な傾斜があるように思います。スポーツは限界の挑戦ですが、期待通りにいかないと感情的になり冷静さを失うのでしょうか。実績と比例して謙虚さが必要です。
    どちらも女性に関連した事件なのが残念ですが、社会の底辺にはジェンダーギャップを抱え、惨めな思いをしている女性が多くいることを認めてほしい。そしてサポートやアシストの手を差しのべてほしい。倫理的に理想像を説き、男女不平等の解決への模範となる宗教への期待を、あきらめずに継続していきたいと思う。


    ☆☆☆


    創価は、佐藤優氏を多用し大好きですが、仏法の専門家でもない者に、仏法を語らせる記事を濫用している。読者は好んで読んでいるのですから、わたしがとやかく言うこともありませんが、創価では哲学的深さが失われたために、キリスト教の庇(ひさし)を借りようとしているのでしょう。潮に連載された「池田・トインビー対談を読み解く」は、期待はずれの感があったので、なぜ創価で歓迎されるのか不思議に思いました。会員はトインビー対談など読まないということでしょうか。
    最近、Eテレの番組で話題になっている、優れた法華経学者でもある植木雅俊氏を、意識的に忌避するのはどうしてだろうか。今こそ必要な学術的叡智を披瀝する教養を持ち、以前からずっと注目していましたが、創価では大学教授といった地位の有無で判断しているように感じていました。あるいは、先生の嫉妬があるのではないかと勘ぐったりしました。創価の排他性、閉鎖性を垣間見る思いです。悲しいことに、会員は自分独自の評価を放棄しています。信仰の功徳であり、桜梅桃李の本質である自律性がありません。
    偏狭なアカデミズムを嫌っていたのは師である中村元博士であり、敷衍してわたしから言わせれば、営利目的の偏狭な宗教界には近づかないほうが、研究者として純粋でいられるようにも思います。植木氏は、しかも創価の会員でもあるらしい。

    『仏法と申すは道理なり』(四条金吾殿御返事)
    おそらく日蓮の思考形跡をたどることになる末法の仏弟子たちは、(最初の命題)仏法は道理であるという当たり前のことを、もう一度確認しなければならないでしょう。現在の創価では、論理的に道理を尽くすことが忘れられている。
    池田先生は一度も、大御本尊を否定されていないのに、会員は師の言葉を無視している。そのことに何も罪悪感がないのか、不受持の妥当性を根拠もなしに主張してはばからない。
    騙す、偽るという魔性の人格は、先生に宿っているのではないだろうかと、わたしは、何度も繰り返し疑問に思い再考しました。信仰の根本に無関心の愚者にだけはなりたくないとの願望があるからです。わたしの信仰は、たとえ他者への働きかけを行ったとしても、わたしだけのものであり、わたしの人生の顛末を物語るものです。他者への依存ではなく、どこまでも自己責任で、というスタンスを持ち続けたいのです。
    仏教学者・中村元博士の元での研鑽を経て、植木氏の転機となった著作、「男性原理と女性原理・仏教は性差別の宗教か?」(中外日報社・1996年)は、自身の博士論文を基調に、「中外日報」に連載、また仏教の女性観について「第三文明」に掲載されたものをまとめたものです。その最後の章で
    「三惑を乗り越える智慧」と題して、次のように書かれています。
    『天台は、この貪愛・無明をさらに詳しく論じ、見思・塵沙・無明の三惑として論じました。
    第一の「見思惑」は、見惑(道理や理屈における迷い)と、思惑(感情、感覚、本能的な迷い)の二つからなります。このそれぞれは、既に論じてきた男性原理と女性原理のマイナス面に当たります。
    二乗は、この二つを乗り越えて阿羅漢果にいたるとするのでありますが、次の「塵沙惑」で、それはもろくも崩れてしまいます。塵沙惑、文字通り塵と沙(砂)ほどに無数にある現実ということです。具体的に言えば、人間関係に代表されます。その人間関係は、だましたり、利用したり、足を引きずろうとしたりすることが多い世界であって、かかわるのも嫌になるものであります。だからこそ特に二乗(声聞、縁覚)は、人間関係を否定し、切り捨てて自分自身の内面世界に理想像を研ぎすますという生き方に陥ってしまいがちです。ところが、人間関係をいくら否定しようとしても、人間として生きているからには、人間関係を否定できるものではありません。その厳しい現実に立ち返ったとき、結局、見思惑という男性原理、女性原理の差別面、マイナス面にとらわれてしまうのであります。
    これを打ち破ることができるのが、菩薩の生き方でありました。だから、先に触れた「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」の一節で、「弘めん者」という条件が付けられていたわけです。自行化他の実践という、他者との大乗菩薩的かかわりが前提となっているのであります』


    化他行のするほうもされるほうも性別に関係ありません。化他行に差別があると弘教ができません。広布もありません。また十界論は生命次元の差別ですが、性別の差別ではありません。当然のことですが十界論は、性別以前の人間共通の真理。性にこだわる不平等は、特に男性の心に突き刺さった毒矢です。社会が男性原理で機能してきたからですが、体制に迎合する女性の媚もありました。媚は、現状維持のための女性に付属する属性なのかもしれません。すべての出発点となる絶対基準は、仏法で説く深い叡智よりありえないと思う。
    上記の書は推敲に問題がありますが、著者の初期作品として平易な仏教平等論の金字塔です。
    その後上梓された「釈尊と日蓮の女性観」(論創社・2005年)は、ほとんど同じ内容に加筆されて、深い洞察が冴え、ジェンダーバイアスの悪夢から解放されるための必読書。日蓮の女性観の合理的思考を、明晰に、クリアに文章にしています。
    そのなかで、「月水御書」に見る女性観と題した段落が鮮明な印象です。
    『この手紙は、大学三郎夫人が「月水(月経)の時は経を読まないでいるべきなのでしょうか」と質問してきたことに対して答えられたものです。当時、「月水」を忌み嫌うというような発想があったのでありましょう。
    その手紙の中で日蓮は、
    (中略)現代語訳しますと、
    「日蓮は、ほぼすべての聖教に目を通しました。しかし、月日を明確に決めて、酒や肉、[葱などの]五種類の辛味のある野菜、そして淫事などの不浄を禁じているように、月水を忌み嫌っている経や論は、これまで見たことがありません。釈尊在世の時に多くの女盛りの女性が出家して尼になって仏法を修行しましたけれども、月水の時だからといって嫌われるようなことはありませんでした。このことから考えましても、月水というものは外からやってくる不浄(穢れ)ではありません。女性の体にもともと具わった単なる周期的現象であり、生命の種を継承する原理に基づいたものであり、またその時に体調が崩れるのも長病のようなものにすぎません。それは、ちょうど屎尿が人体から排泄されますけれども、それによって体内が浄らかになるのと同じことで、何の特別の意味もありません。この程度のことではないでしょうか」
    となります。
    ここには、迷信じみた発想はかけらもありません。合理的思考が貫かれています。死や人間の排泄物などとともに、血を不浄なもの、穢れたものとしてしていたヒンドゥー社会の観念と全く対照的です』


    また、 提婆達多品で説かれる竜女の「変成男子」について、ヒンドゥー社会に配慮した妥協的表現として詳細に解説しています。万人成仏、万人平等の大乗仏教運動は、インド社会において対立的で異状な抵抗があったと推測されます。性の相違の差別よりも、もっと根本的なカーストがありました。この階級差別は世襲であり…世襲も差別…頑丈な社会構造の基礎をなすものであり、支配者の強固な論理で組み立てられています。古代インドに侵入したアーリア人の征服から始まったといわれています。
    植木氏は、中村元博士の見解を引用しています。
    『婦人蔑視の観念に真正面から反対していることもあるが、ある場合には一応それに妥協して実質的に婦人にも同様に救いが授けられるということを明らかにしている場合がある。そのために成立したのが「男子に生まれかわる」(転成男子)という思想である』
    『この思想はすでに原始仏教時代からあらわれている』
    とも指摘している。

    ジェンダーギャップの根源は有史以来の人間が作り上げた文化とともにあるのです。差別意識は、生命に具わるそもそもの傾向性なのかもしれません。不軽菩薩が実践した尊厳に対する修業は、とても画期的な生命浄化運動、社会改革運動であったことがうかがえますが、不軽のように不屈の魂で実践した人々がいたものと思います。
    法華経を理解し説くことの難しさを改めて思います。ジェンダーにもとづく偏見や不平等は、ヒューマンギャップの変性とも言えます。生命尊厳に準拠した思想の展開は、現時点で人間主義運動が的確に時代の要請を受けているでしょう。しかし、残念ですが、創価には決定的に、指導者の不在という欠陥があることを指摘しなければならない。永遠の指導者に続く独創的なアビリティーを持つ才能は見当たらない。50年経てば、創価は壊滅的な弱小教団に縮小し、信濃町の創価村も荒れ果てた廃村になっているかもしれません。


    Illusions - Thomas Bergersen




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    SGI提言…人権問題について

    今まで何度も提言してきた人権問題。特に、難民の子どもたちの状況ですが、原則的な提言に終始しています。また高齢者に対する人権問題も、91年の「高齢化世界会議」の議論の成果、「高齢者のための国連原則」の、独立、参加、ケア、自己実現、尊厳の5項目を紹介し、高齢者の生きがいについて語っています。高齢化は世界的問題として、これからますます注目されますが、介護されながら尊厳を感じる生き方を、福祉社会として実現することの難しさがあります。難民の子どもたちの教育機会の提供と同様に、経済的裏づけが必要です。ほとんど半分は経済的な計画性に行き着くものと思いますが、提言での言及はありません。
    先生、少し預金を下ろしたら、子どもたちが喜びますよ。SGIもできることをしなければなりませんが、経済的な支援もその一つではないでしょうか。チャリティー精神は、仏法の喜捨に通じますよ。
    経済協力開発機構(OECD)の調査によると、日本はひとり親世帯の半数以上が貧困状態にあり、加盟34ヶ国で最悪レベルにあります。しかし就業率は8割を越えて世界トップレベルの労働環境。つまりワーキングプアであることが大きな問題なのです。少子化が加速する日本では、子供の貧困の解消は社会全体の課題です。13年に施行された子ども貧困対策法のさらなる充実が期待されます。

    女性のエンパワーメントの推進について
    『女性のエンパワーメントは"可能であれば考慮する"といったオプション的なものであってはならず、課題に直面する人々が切実に必要としているものに他なりません』
    SGIも「万人の尊厳」を掲げる仏法の思想を反映し、活動を続けてきたことを、さりげなくプロパガンダしたのち、男女平等のためのノンフォーマル教育のカリキュラム、あるいは積極的なシラバス作りなどへの参画をアピールしています。
    『昨年3月の「女性の地位委員会」では、ジェンダー平等と宗教に関する世界的なプラットフォームが立ち上げられました。
    その目的は、それぞれの信仰に基づく言説を展開する中で、女性の人権や貢献に対する社会の認識を改善する流れをつくり出し、地域をはじめ、国や国際レベルのジェンダー平等に関する政策や法律の整備などの規範づくりに影響を与えていくことにあります』


    「世界経済フォーラム」は、男女格差の度合いを示す「ジェンダーギャップ指数」の報告書(2017年版)を発表しました。日本は世界144ヶ国中114位となり、過去最低だった前年の111位からさらに後退しました。
    世界のことはいざ知らず、日本人女性は、自らの日常でジェンダーギャップを感じているのでしょうか。日本社会のなかで、常識的と思われる男女格差に理不尽な差別を感じたことはありませんか?
    問題は深刻で、女性自身がそのギャップを切実なものとして意識していないという、格差以前の格差不感症みたいなところがあるのではないでしょうか。また女性のための権利優先ルール作りも男性に依存するという問題意識の低さ。控え目で堅実な生活スタイルと品行、家庭的な暖かさを求め、子育て上手な聡明な賢婦人という美徳、一歩退いた道徳的なつつましやかさ。女性に求められる理想はとても古臭いものですが、創価のなかでも、SGIで全世界に提言するほどの平等を実現しているとはとても思えません。このような男女格差の問題提起でも、核兵器禁止条約と同じように、整合性がまったくとれていません。
    創価自身のこのような問題意識の低さは、婦人部の模範として常に輝いている香峯子奥さまの立ち振舞にあるのではないのかと、最近わたしは考えるようになりました。奥さま自身の言葉で、実際のところ、何かを提案し、具体的に変化した創価内のルールが見当たりません。その姿勢は女性として創価を代表していながら、とても古典的で、男女格差の解消についての有効なスピーチ、あるいは聖教記事は記憶にありません。わたしが単に知らないだけなのかもしれませんが、もしも知っている方がいらっしゃるなら紹介して下さい。

    ◇◇◇

    東洋哲学研究所から『「女性の世紀」を創るために』という本が発売されています。
    一般啓蒙書、入門編という位置づけなのでしょうが、仏教の重要思想への掘り下げがきわめて浅く、手を抜いているとしか思えません。このような示唆を与えない論文は、一般見解の内容であり、オリジナリティーも乏しく、読者に何を与えようとしているのか疑問です。
    ジェンダー理論は大聖人の深い叡智に完結しています。それをどう解釈し、発展させなければならないか、創価の知識人としての力量が問われています。創価が戦後、急速に拡大したのは、新しい解釈を提示したからであって、理想とされる人物像も、先頭に立つリーダーが体現し、人々の眼前に現れたからです。時代に付与する解釈の斬新さが閉塞する社会の現実を切り開いていくのだと思います。知識人と言われるスペシャリストが、その役割を担っています。コスモポリタンと言う前に、言語が持つ本来の力を復活させる……言い方を変えれば、浅薄な意義づけに終止している市民社会の指導原理を、主体者である人間に取り戻すべく価値転換をはからなければならない。価値あるものへの願望が歴史を動かしてきたのです。それは本質的にして普遍的な善への衝動でしょう。
    オルテガは「大衆の反逆」のなかで次のように述べています。

    『われわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかわからないのである。つまり、あらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人になれず、自分自身の豊かさのなかで自己を見失っているのだ。われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術を持ちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間に漂っているのである』

    自己が自分の主とはブッダの言葉。ギリシャ哲学も、疑いのなかから、疑えない自己を発見した。無知という深い海中で自己像という宝物を発見したのです。大海と同じ海水が心の海にも満たされています。無限に広く無限に深い心の海で、自分そっくりの自己像を発見する方法と場所をブッダは示しました。実現能力とは殻を脱ぎ捨て新たな自己像を描く能力のことです。
    現在ほど、覚醒し鮮明に言葉を操り、意義を見出す作業が必要なときはありません。その役割は誰が担うのだろうか。

    なぜ自分が立つ土台を、安全なものにしないのだろうか。自分が拠り所とする賢明と自称する大衆に懐疑を抱かないのだろうか。現実的な男女の性差を問題にしながら、リアリティーに欠けると感じるのは、自らのアイデンティティーでもある所属組織に対し主体的視点を欠いているからだと考えるのです。固有の自覚した自己の集まりが創価ではないでしょうか。目覚めた集団が創価ではないでしょうか。人間の尊厳と高貴さに最大の敬意をはらうのが妙法の使徒。精神的沼地から自他の悟りという実践的知識の深い花を咲かせるのが、創立者が訴えるそれぞれの使命なのではないでしょうか。
    なぜ副会長クラスに女性がいないのでしょう。末端でも支部長や地区部長に女性が登用されないのか。青年部長に一人でも女性がいるのでしょうか。また宗教法人として役員のなかに女性がいるのかどうか。人事は組織の要であり、一般から最初に認識されるフロントです。足もとの問題を見つめないで、どうして創価の先駆的メッセンジャーたりうるのでしょうか。創価が男女平等・同権を主張するなら、それは制度、機構、人事に反映されるはず。先進的世界組織というのであれば、総務や理事の半数は女性にまかすべきなのです。気分や精神、理念の時代は過ぎました。基礎となるフレームワークを考え実現しなければならないのです。先生はなにも実現しようとしません。また現在の執行部も見解がありません。時代遅れであることは誰が考えても明らかです。宗門から独立した宗教的リベラリズムは、もう錆びついたのですか?
    さらに結婚を機に本部職員の退職を余儀なくされるのは、どう考えて時代錯誤です。経済力がある男性と結婚しなさいという暗黙の了解があるのですが、もちろんそんなことは表だって言いません。それを疑問なく受け入れる女性たちも愚かなる大衆ということでしょうか。ジェンダーは権利を貫き、義務をはたし、現実においてそれを達成することです。男性原理だけではもう何も解決しないのです。


    ライナス・ポーリング博士をはじめとするノーベル賞受賞者とともに「反核運動」に献身し、アメリカでの人権活動家としての先駆的役割を担ったパール・バック。その苦悩と、障害者であった娘への深い愛情、母として絶望の淵に立たされ葛藤を繰り返しながら、再び立ち上がった貴重な魂の記録、「母よ嘆くなかれ」。
    絶望と悲しみが深く洞察されています。わたしは、震災に遭われた方々も同じではないかと思いました。この本のなかで、「悲しみ」について、自身の体験から述べた箇所がありました。
    『耐え忍ぶのは、ただのはじまりではありません。悲しみを受けいれなければならないし、悲しみを十分に受けいれると、そこから自然に新しい道が開けることを知ってほしいのです。というのは悲しみには錬金術に似たところがあるからなのです。つまり、悲しみが知恵に変えられることさえあるのです。悲しみが喜びをもたらすことはありませんが、その知恵は幸福をもたらすことができるのです』
    『とにもかくにも、悲しみとの融和の道程がはじまったのです。その第一段階は、あるがままをそのままに受けいれることでした。そのことは意識のうえでは一日で起こったようにも思えます。「このことは決して変わらない、決してわたしから離れるものではない、まただれもわたしを助けてくれることはできない以上、わたしはこのことを受けいれるほかないぞ」と、はっきり、自分にいい聞かせた瞬間があったのです。でも、じっさいは、いっきにそこへたどりついたわけではないのです。わたしは何度も何度も泥沼にすべり落ちたのです。自然にすくすくと育ってゆく近所の子どもたちが、わたしの娘には決して話せないことを話したり、娘には決してできないことをしているのを見るだけで、わたしは打ちのめされたようになったものでした。
    でも、わたしはその絶望のどん底から這い出ることを学びました。そして這い出て来たのです。そして「これがわたしの人生なのだ。わたしはそれを生きぬかなくてはならないのだ」と悟ったのです』
    (法政大学出版局)
    辛い宿業の積極的な甘受です。願兼於業へといたる心理的葛藤のことです。迷いから決意が生じる瞬間のことです。大切なのは結果を心配することではなく、迷うこと決意すること。法の範疇において、自分流の解釈をカントは「思惟」と名づけた。デカルトは「良識」、ヘーゲルは「思弁」と表現した。
    東北の方々、被災者のためのメッセージのようです。どん底から這い出ることを学び、あきらめないで生き抜く……菩薩の苦悩の本質を体現していますが、それが簡単に得られたものでないことは、彼女の苦闘を知ればわかるでしょう。被災者へのホスピタリティーは、一人一人を見捨てないことです。

    同じように組織の充実と伸張は結局、どこまで一人一人に焦点をあてることができるか、ということではないでしょうか。先生が、多くの会員の人生の転換点で、朽ちない忘れがたき金の思い出を築かれてきたこと、それが人間蘇生のよりどころとなり、希望となってきました。
    現在、人間関係の希薄さが創価のなかにも忍び寄っていると思います。聡明な会員は、癒しがたい劣悪さに覆われた社会をまえにして、ヒューマニティーな指標の喪失を感じていることでしょう。簡単には論じられませんが、種々の深刻な社会問題と健全な市民生活の崩壊、欲望の解放という大衆意識がリアリスティックに迫ってきます。創価内において、宗教的聖性を失った生き方、経済的生活水準の下落、文化と価値の多様化など、一様にいかない複雑さが顕在化してきているのではないかと思います。つまり、それらは日常生活にすみやかに反映することを防ぐことはできず、苦楽を共有できない信仰活動へと堕落するのです。精神浄化という聖的なものが駆逐されるのです。苦楽をともにするという団結心がうわべだけ、掛け声だけの飾りものに変化するのです。
    適時適所で、地区や各部で議論が必要であり、世界と現実に対する新解釈を提示し、まとめなければならない。
    わたしは、これらの問題点を指摘し続けてきましたが、婦人部幹部はヒステリックに反応し、ジェンダーギャップを含め、まるで女の敵は女だと言わんばかり。また何を勘違いしているのか、敵は内部にありと犯罪者のように見下し、盲信者のように原理主義に立ち返る姿は勇ましいかぎりです。本質を凝視しないで近いものしか見ない女性の特質が表れています。

    集団はタテマエを尊び帰属心をあおり、個人はホンネを隠して従う。集団に過度に依存する体質は日本人の伝統的な気質ですが、当然ながら、集団意識が優先され、他者の内面に対して不感症になる傾向があるものと思います。信仰と緊密に関係していた過去の生活形態が変化し、教義研鑽過程、会合の意義など宗教組織も変わらざるをえない現況があると思います。現在は維持できても、10年後は今のままでは維持できないでしょう。だからこそ前向きな検討と変化への勇気が必要なのですが、その前に、判断のもとになる真実の歴史の隠蔽体質があることは大変残念です。
    会員一人一人が創価のあり方の決定権を持っているのであり、その行使のためにも、賢明にならなければなりませんね。
    人間革命の連動性は先生がよく論じているところです。組織改革も一人から始まると思いますが、誰も実行しないのです。実行する十分強い根拠と自覚を持たないからと思いますが、やがて止められない流れになることでしょう。そうならなければ、いくら信仰は正しくても創価に未来はありません。

    『人が何らかの意味で瀆神の言葉を口にすることができるためには、その人が瀆(けが)している対象である神を深く信じていなければならない』(トーマス・エリオット)
    逆説的な言い方ですね。知らなければ批判できないように、信じていなければ、信じる対象も瀆すほどの意味がないということ。
    『神は死んだ』とニーチェは言いました。神のように崇められる者を否定したのですね。
    それは「終末の人間」と定義された、伝統を破壊し、民主主義という宗教を信奉する大衆のことです。それとも、冒涜し、瀆しているのはわたしでしょうか。

    『指導者は、多くの場合、思想家ではなくて実行家であり、あまり明晰な頭脳を具えていないし、またそれを具えることもできないだろう。なぜなら、明晰な頭脳は概して人を懐疑と非行動に導くからである。指導者は、とくに狂気とすれすれのところにいる興奮した人々や反狂人のなかから輩出する。なぜなら彼らの擁護する思想家やその追求する目的がどんなに不条理であろうとも、その確信の前ではどんな議論の鋭鋒もくじけてしまう。軽蔑も迫害もかえって指導者を奮起させるだけである。……強烈な信仰が彼らの言葉に大きな暗示力を与える。大衆は常に強固な意志を具えた人間の言葉を傾聴するものである。群衆のなかの個人は、まったく意志を失って、それを具えているもののほうへ本能的に向かうのである。(「群集心理」ギュスターヴ・ル・ボン:1895年)
    指導者は「断言」を「反復」し、そうすることによって自己の確信を群衆のなかに「感染」させようとする。それに成功しているかぎりにおいて指導者は、「威厳」を保ちうる。そして群衆の上に聳えるのが威厳であるからには、「議論の的にされるような威厳はもはや威厳とはいえない。……群衆から称賛されるには(指導者は)常に群衆をそばに近づけてはならない」のである』
    (「思想の英雄たち」西部邁・ハルキ文庫)
    ここで言うところの「群衆」は、オルテガの「大衆」とほとんど同じ意味とわたしは理解しています。大戦前の独裁者の姿を彷彿とさせ、喜々として従った群衆の時代を喝破していますが、日本で話題になることはありません。あるいは群衆蔑視の裏づけ資料として引用されるだけですが、このような大衆への視点を置く知識人はこの日本では見かけることはありません。
    池田先生は、旺盛な表現意欲を印象づけるようなスタイルを維持していますが、実際のところ、会員を近づけようとしません。閉じこもり、音声としての人間の言葉を聞くことがなくなり、印刷された文章のみの存在です。会員のなかには、多量の原稿を本当にご自身が執筆されているのか、不信に感じている人もいます。そんなことは初めから承知のうえなのでしょう。それよりもカリスマ性という威厳を維持することが大事なのかもしれませんが、虚像のような作為を感じてしまいます。SGI提言をするほどのリアリストに似つかわしくないですね。
    絶対的宗教とその教義、絶対的哲学とその思想がこの世にあると仮定しても、絶対的人間は毛沢東ぐらいしか見当たりません。天安門という霊廟に葬られ見世物になり、聖遺物への信仰を国家の中心に据えられ、国家泰平のための祈願対象になっています。これを宗教と言わずして宗教は存在しません。永遠という絶対的玉座に奉られ、平凡な一般人が近づけない境地にいらっしゃる永遠の指導者は、古今東西等しく大袈裟に葬られることがほとんど定説になっております。現実の価値判断は相対的判断で成り立っていますが、どういうわけか宗教だけこの範疇に入りません。絶対的現実が存在すると主張する矛盾を盲目の信仰者は理解できません。盲目と言いましたが、学んでいることは開目と言います。
    凡夫僧、凡夫仏は「平凡な非凡」ですが、池田先生もかつて「完成の未完成」とスピーチしました。「一切の先入観を排して現実の動きを凝視し続ける」「現実の固定化、実体化に陥りがちな言語の虚構性」(レオナルドの眼と人類の議会)などと語り、「流動する現実の普遍性」を強調しました。人間は現実から離れて存在しえないのです。現実は、時間の流れを止めることができないように決して固定化することはありません。一つの時間、一つの時代を切り取って永遠化し、固定的に定義する思想など、学ぶに値しないものと思います。またその姿は虚構です。創価は永遠という絶対性を、ご祈念文にまで取り入れておりますが、釈尊の最後の言葉『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』(「ブッダ最後の旅」中村元訳・岩波書店)という現実認識の振る舞いからはほど遠いものです。現在が瞬間に過去になるように、滅びゆくもの栄えるものの諸現象は固定的ではありません。仏法的概念では時は悠久です。その一つの瞬間を切り取って、永遠という究極の冠言葉をつけられる人間を認めてはならないのです。


    アンナの日記から引用。
    『わたしは、より良い人生について、誰かの講義を受けようとは思いませんし、倫理家や道徳家にレクチャーを受けるつもりもありません。わたしは、自分の内面から必然的に湧きでてきた「自由」の概念や「勇気」について、十分自覚しているし、自分の理性と切り離せない当然のものとして所有しています。
    わたしの精神の領域は、完璧な法に守られて、価値ある行動を生む源泉になっています。わたしは躊躇しないし、迷わない。人々に尽くし、人々とともに分かち合う喜びが充満することを熱望しています。少なくとも精神世界が投影される行動基準のなかでは自由であること、それがわたしの喜びです。
    真の善を求めているかぎり、あきらめることなどありえない。それが、わたしの信仰です。それはまた、自由と自律の意志が仏からの贈り物であると認めているから。
    慰めだけの宗教なら、慈悲の宗教とはいえません。慈悲は自由を実現する行動のこと。
    同時に心のなかを果てしなく歩む巡礼者の自己探求の行為です。

    「思い通りにならなくても何とかなるものよ」
    創価へのわたしの苦い思いも選択も、何もかも知っている母からの電話。
    優しいはげましの声』


    社会的抑圧と信仰の官僚主義に反対して。
    独断と未熟と権威の幻想と派閥主義と、自己への幻滅心理を嫌悪して。
    今は、独断と未熟の官僚主義が横行し、過剰な忖度が政治の混乱を巻き起こしています。
    忖度しない人間はいない。ビジネスで仕事がスムーズにいくのは忖度があるからです。
    上司への、部下への、同僚への心遣いがあればこそ、愛せる職場に成熟していくのではないでしょうか。あなたをいつも想っているというメッセージは、家族のなかでも、信仰集団の信頼できるフレンドシップにも必要です☆彡


    SAVIOR - Peter Roe




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    SGI提言…核問題について 2

    SGI提言の後半部分。
    三項目の地球的課題の解決のための提案のなかで、第1の提案は核兵器の問題についてです。
    南アフリカ共和国の例を紹介しながら、非核兵器地帯条約の先駆けとなった中南米のトラテロルコ条約は、人権の理念と分かちがたく結びついて誕生したこと。
    『南アフリカ共和国はデクラーク大統領が議会演説でアパルトヘイト(人種隔離)の廃止を約束した翌年(1990年)から、核兵器の解体に着手しました』
    第33回SGI提言、また英文エッセイ「明日をみつめて」(「北極の非核地帯化」の実現を)で南極条約についてふれておりますが、これは世界の非核兵器地帯の条約の一つです。

    ラテン・アメリカおよびカリブ地域における核兵器禁止条約(トラテロルコ条約)
      発 効:1969年
      加盟国:33ヶ国
    南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)
      発 効:1986年
      加盟国:13ヶ国
    東南アジア非核兵器地帯条約(バンコク条約)
      発 効:1997年
      加盟国:10ヶ国
    アフリカ非核兵器地帯条約(ペリンダバ条約)
      発 効:2009年
      加盟国:54ヶ国署名、40ヶ国批准
    中央アジア非核兵器地帯条約(セメイ条約)
      発 効:2009年
      加盟国:5ヶ国
    モンゴル非核兵器地位
      1998年 国連総会で一国の非核兵器地位を全会一致決議
    南極条約
      発 効:1961年
      加盟国:5核保有国をふくむ53ヶ国 

    非核兵器地帯条約に批准加盟している国は100ヶ国以上であり、長期的視点に立てばその流れを止めることはできないでしょう。
    現在、北朝鮮の核の脅威について、どういうわけか、北の独裁者の心変わりなのか、進展の可能性を示しております。今まで何度も裏切られ、裏切りの系譜を脈々と受け継いでいる国家ですので、簡単に信じることはできませんが、恒久的な核廃棄へのプロセスを確認できるほど対話が進められることを切に望みます。
    また9日の報道によれば、米朝の首脳会談が実現しそうです。驚くべきスピードで情勢が進んでいますが、もしも順調に非核化への道筋を決めることができればトランプ大統領にノーベル賞という話も出てくるかもしれません。劇的に世界を変える力を持つのは、やはり政治家ということなのでしょうか。
    池田先生が公明党を手放せない理由が分かるような気がしますが、信仰の目的は、人間内面の変革を重視し、無限の智慧の可能性に目覚めるものですので、世俗的な栄誉を望むのは宗教家らしくないとも言えますが、政治的影響力を保持したい欲求があるのでしょう。私的な宗教的動機を公的な政治的目標に置換して、権力と宗教の一体化を、無意識のうちに合理化しているのかもしれない。「政治と宗教」という著作もありましたね。政治への興味は強くあったようです。しかし、自分のための報奨を求めるのではなく、常に利他を重んじる心がなければ信仰ではありません。

    第38回・SGI提言(2013.1.26)では、戸田先生の「原水爆禁止宣言」に言及した後、北東アジア非核兵器地帯について論じています。この北東アジア非核兵器地帯のアイデアは、オリンピックを契機に対話の方向に進展した北朝鮮と韓国の非核へ向けた行動に表れています。国連という国際的な交渉の場で信頼を得ることができるのか、今後、北の独裁者の本当の知性が試されることでしょう。誠実でなければ瞬く間に最悪の関係に逆戻りする。
    『核兵器についても、広島や長崎の人々が自らの被爆体験を踏まえ、「どの国も核攻撃の対象にしてはならない」「どの国も核攻撃に踏み切らせてはならない」との二重の誓いをメッセージとして発信してきたように、核兵器による惨劇をなくす挑戦の最前線に日本が立つことを望みたい。
    具体的には、日本が「核兵器に依存しない安全保障」に舵を切る意思を明確にし、「地域の緊張緩和」と「核兵器の役割縮小」の流れを自ら先んじてつくり出していく。そして、北東アジアに「非核兵器地帯」を設置するための信頼醸成に努める中で、グローバルな核廃絶の実現に向けての環境づくりに貢献すべきであると思うのです』

    この北東アジア非核兵器地帯条約について、「核兵器と原発」から詳しく引用すれば、次のような重要な視点と提案を知ることができます。以前からその構想は認識されており、核兵器が悪の烙印を押されたことから、核兵器所持の罪悪感をさらに高めていきたいものですが、市民意識の向上と連携が大きな鍵をにぎることになるでしょう。SGIが国連の現場で行っている啓発のための展示や諸行事は地道な足どりですが、重要な意味を持っています。
    特に若者への啓発と啓蒙は運動の継続のためにも重要です。でも創価の青年部員の問題意識は高いのでしょうか? 宗門批判ばかりしてないで世界に目を向けたら、生き方も、信仰の取り組み方も、公明党支援や政治への意識も変わっていくことでしょう。
    『「核の傘」に依存する日本は、核兵器禁止条約の交渉に参加しないままに終わった。その理由に挙げられたのが、現在の北東アジアの緊張関係、特に北朝鮮の核の脅威である。(中略)
    このままでは、北朝鮮の核・ミサイル開発は止まりそうにない。北朝鮮の核開発は、基本的には米国の脅威に対抗しているので、米国の脅威がなくならない限り、核開発は止まらないだろう。したがって、北朝鮮問題を解決するには、核問題だけでなく、地域の安全保障全体を考えなければいけない』
    その一つの提案として「北東アジア非核兵器地帯設立への包括的アプローチ」です。
    その実現プロセスは
    『まず非核保有国として、日本と韓国、そして核を放棄した北朝鮮(必ずしも今すぐ核廃棄する必要はなく、核兵器解体のプロセスを検証するしくみを作る)の3ヶ国に対し、米国、ロシア、中国の3核保有国が「消極的安全保証」を約束する。
    また、米国は北朝鮮に対して、「朝鮮戦争の終結」と「軍事的脅威を与えない」約束をする。さらに、核問題以外の地域の安全保障問題を議論する「北東アジア安全保障協議会」のような機関を常設する。このほかに、エネルギーや宇宙技術へのアクセスも保証することで、参加への動機づけを増やす。これが「包括的アプローチ」と呼ばれるものである』

    実現への課題は多く、具体的成果を得ることは不可能な状況に悲観的になりますが、南半球をほとんどカバーする現在締結されている非核兵器地帯条約は、不可能な交渉から始まったことを忘れてはならないでしょう。
    もし北東アジア非核兵器地帯条約が成立すれば、アメリカの核の傘への依存は必要がなくなり、日本も日本独自の核廃絶に向けた外交を展開することもできるでしょう。

    また日本は、核兵器の脅威と同時に拉致被害の解決なくして、北朝鮮との和解は難しいと思います。人道的見地、人権の回復は平和問題と大きくリンクしています。拉致被害者への国民の同情は、とても切実なものですが、それは家族が理不尽に引き裂かれる苦しみを他人事と思えないからです。拉致当時、まだ中学生だった横田めぐみさんの可愛らしい写真などが報道され、幼い少女はどんな恐怖をおぼえたのか。わたしは泣き叫ぶイメージが浮かび、身震いするほど辛くなり、憤りが収まることはありません。そんな北朝鮮の非道を簡単に許すことができないというのが国民感情と思いますが、問題を解決し、少しでも拉致被害者を癒すことができるなら、核問題も解決の兆しが見えてくるかもしれません。このような悲惨な問題は過去にも多くありましたが、不幸は当事者にとって唯一ものであるということを忘れてはならないでしょう。苦しみは最終的に個人的なものであり、その解決と支援には同苦の精神が必要です。 

    ハンナ・アーレントの「他者を圧倒する自由意志」について、理解しにくい言い回しがありますが、そもそも、生命それ自体に具わる自由自在な境涯としての輝きと、思想としての自由の違いを考察しなければなりませんが、圧倒的自由意志という意味のなかに、人間の悪の側面、負の断片が具わるという人間不信が影を落としているような気がしないでもない。核は圧倒的軍備であり、その残酷な軍備拡張は国民の自由意志によって支えられていることは言うまでもありません。戦争をすれば人間の命が失われるだけでなく、国家経済の破綻の危機も受け入れなければなりません。非生産的な兵器の拡大は、経済を圧迫することはいちいち説明しなくても分かるでしょうから、安全保障という観点から、広域の非核兵器地帯の設定は、経済的にも有効ということになります。
    北朝鮮との対話の機運が高まるなかで、読売新聞の解説ページには『朝鮮半島情勢「最悪のシナリオ」は』と題して専門家の意見が載っておりました。
    『米国や日本は、北朝鮮に対し、「完全かつ検証可能で不可逆的な」非核化を求める方針を堅持している。経済制裁の国際包囲網を強め、非核化実現へ最大限の圧力を維持していく構えだ。韓国や中国などとの連携も引き続き重要だ。
    ただ、圧力には限界がある。このままいけば、近い将来、核ミサイルで周辺国を威嚇する北朝鮮とこの地域で同居する現実に、日本は直面せざるを得ない。
    日本はどうすべきか。岡本氏(岡本行夫氏)は、「米国と組み、圧倒的な報復能力を備えるしかない。北朝鮮に核ミサイルを使わせない能力が必要だ」と述べ、敵基地攻撃能力の保有も検討すべきだと指摘する』


    「圧倒的報復能力」とはまさに、戦争を前提とした選択の余地がない軍事力。「他者を圧倒する自由意志」の登場に、旧来の核の傘への依存神話の呪縛はなかなかとけないように思います。過去にあった北朝鮮の、ギャグコントのような騙しのテクニックに、子犬のように引っかかるトラウマを思い出すのでしょう。今度騙されたら、トランプはジョーカー札を切るに違いありません。でもそうなれば、ただ事ではすまないでしょう。
    世界の危機は常にあります。今月に入り大統領選をまえにして、ロシアのプーチン大統領もアメリカに対し敵意をむき出しにしました。
    欧州や韓国で進むミサイル防衛(MD)配備に対抗して、MDでの迎撃が困難な大陸間弾道ミサイル(ICBM)など、新型の戦略兵器開発に成功したことを強調しました。アメリカもすぐに反応し、国務省は記者会見で不快感を示しました。
    ロシア国民も独裁者に慣れているのか、プーチンの支持率は高いようです。しばらくプーチン時代は続くものと思われます。プーチンは謀略的体質を意識的に引きずり、政治的な敵対者を暗殺する闇のネットワークを握っている可能性があります。ロシアという凍てついた大地の権力者は、動物的狂暴さと腹黒さがなければおさまらないのかもしれない。北方領土返還もほとんど無理なように感じる。日本の政治家は四島一括返還にこだわりますが、何でもきれい好きな清潔さを信条とする国民性は、このような交渉事にも駆け引きの明瞭さを求めるようです。相手は恫喝や脅迫、威嚇を常套手段にして百戦錬磨の外交を得意としているのに、日本の政治家は自分の非力を自覚していない。
    このロシアと同じような新型ミサイル兵器について、防衛省の防衛研究所は中国の安全保障レポートを発表しており、多弾頭型のICBMの配備が始まれば、中国側の先制攻撃でアメリカのICBMを破壊できる体制が整うと分析しています。
    ロシアも中国も北朝鮮も、独裁者の支配国といってもよいでしょう。国家主席の任期撤廃を受けて習近平の神格化が始まろうとしています。共産主義者はなぜ神を否定しながら、自ら神化することに邁進するのか、わたしには理解不能です。米中露による三つどもえの新たな冷戦構造ができあがりつつあります。
    世界の混乱は激しくなることはあっても治まることはありません。創価の地道な戦いは、当然なこと先生の構想実現のために行動を起こすものです。SGIは核兵器禁止条約の早期発効と普遍化の促進を目指し、「核兵器廃絶への民衆行動の10年」キャンペーンの推進を表明していますが、早期発効と普遍化というテーマは広く認められているものです。
    多くの市民努力に立脚した永続的な運動として継続していかなければなりませんが、日本においては、青年部の取り組みが創価内の狭い範囲に限定されやすいことなど、課題が多くあります。傑出したリーダーの不足、人材欠乏の淋しい現状があり、世界宗教と自慢する根拠も失いつつあります。まず、年寄り会長から交代すべきでしょう。

    なぜ先生は自分の業績をアピールすることを、何度も繰り返すのでしょう。冷戦時代のソ連と中国の間に立って、国家的危機を回避した功績とパフォーマンスを強調したいのでしょうか。何度も聞きましたよね。もう少し謙譲であっていただきたいと思うのですが、勝ち負けばかり気にする創価では、慎み深さは必要ないのかもしれません。創価の記念日も、そのレジェンドぶりが神聖な物語のように繰り返されますが、飽きませんか? 人間の一生の華やかな面ばかり強調して、誰にもある負の結末をすっかり消し去っています。勝ち負けの基準では自然とそうなるのです。

    また日本政府に対して、核兵器禁止条約への参加の先頭に立つべきと提言しています。本年4月からNPT再検討会議の準備委員会が行われ、核軍縮に関するハイレベル会合が5月に開催されることをふまえて
    『その意味で、唯一の戦争被爆国である日本が、次回のNPT再検討会議に向けて核軍縮の機運を高める旗振り役になるとともに、ハイレベル会合を機に核依存国の先頭に立つ形で、核兵器禁止条約への参加を検討する意思表明を行うことを強く望むものです』
    公明党の議員さん、大事なところですので、無視しないでくださいね。創立者が懇願しているのですから本気を出すときではないでしょうか。公明党が与党になってから、貧富の格差が広がりました。特に、年金100年安心プランと消費税増税を主導しましたが、政治家の見通しの甘さによって、じわじわと社会保険を含む公的税負担が増加の傾向を示しています。支持者や党員の方々は、ほとんど何も考えないので無頓着ですが、それもやがて生活が困窮逼迫すれば、会員からの支持も失うことでしょう。衆院選で票を減らしたこと、必ず理由があるのですよ。憲法改正の前に、核兵器禁止条約参加のルートを確保してください。北朝鮮の対話路線も見えてきました。今が最大のチャンスですが、国会は森友問題で明け暮れていますね。政権の末期症状に引き込まれないことを祈ります。
    会員の皆さまは口を開けば師弟不二と興奮しながら絶叫しますが、残念なことにSGI提言は読んでいません。読んでいても考えません。幹部になればなるほど忙しくて読めませんので、先生がいくら訴えても、薄情な弟子は知らん振り。それとも、核禁止条約への強いアピールも適当なポーズなのかしら。整合性が問われていますもんね。師弟がいかに形ばかりのものか、そのいい加減さに、わたしはうんざりです。


    息をすることは生きているということ。生存の権利を認めることが平和の基本。


    Breathe (Extended RMX)
    Two Steps From Hell & GRV Music





    ◇◇◇


    最近、聖教の体験記事に末期ガン患者の独白のような記事が掲載されておりました。そのなかで、仮にガンで逝ったら、負けなのか、という言葉がありました。死因のトップがガンの時代に、また病気で死ぬことがなぜ負けなのか。簡単に勝ち負けの基準を持ち出す癖がついているのです。この方は、わたしなどよりずっと信心の先輩でいらっしゃいますが、宿命転換について、長い信仰生活の間にどのように考えられたのか疑問に思います。トインビー博士はバランスシートと表現しましたが、その対照表は人体という生命のどこにあるのでしょうか。そして貸借を宿命というのなら、どのようにして生命に刻まれるのでしょうか。万人が納得する科学的検証が必要なのです。それが普遍妥当性ということです。
    考えないで漠然と生きるのも自由ですし、自暴自棄になるのも自由ですし、願兼於業と考えて自らを鼓舞するのも強制されるものではありません。いくら親しくても他者であるかぎり深く内面に立ち入ることはできません。それでも、会員であれば自らの慈悲心を強く掲揚しつつ、心からの励ましと行動で事態の変革に努力し、とても重要な責任を果たしてきたのではないでしょうか。末期ガンであっても誇れる自分がいます。他者を大切に考え行動してきた自分がいます。死は苦痛があっても苦しみではありません。
    目覚めてから寝るまで、勝ち負けの評価基準が頭をよぎるのが、会員に染みついた生活習慣。生きるということは結末よりもその過程が大切なのであり、結果に捉われるのは本果妙の生き方。信仰に生き抜いてきたその確信こそ誇れるものです。
    人間は永遠に生きることはできません。いつか必ず死の瞬間を迎えるからこそ、人間主義は貴く、気高く、価値があるのです。でもいつも勝ち負けのご指導をする池田先生も、今は闘病されていると思いますが、ときどき聖教に掲載される写真では生気が感じられません。ただの老いの姿とは思えませんが、会員の前に明快にすることを避けているようです。昔のことは微に入り細に入り語り尽くされておりますが、年をとると隠したい衝動にかられるようです。老いを嫌悪しているのでしょうか。かつてのご指導は全部自分に返ってきます。本末究竟等ということは、平たく言い換えれば一貫性ということです。

    第38回・SGI提言(2013.1.26)に紹介された釈尊の逸話を引用します。
    『他の人々の老いや病気を忌み嫌う心
    時代状況は異なりますが、仏法の成立にあたって、その出発点に横たわっていたのも、“さまざまな苦しみに直面する人々に、どう向き合えばよいのか”とのテーマでした。
    何不自由のない生活が約束された王族に生まれた釈尊が、若き日に出家を決意するまでの心境の変化は、四門出遊の伝承に凝縮した形で描かれています。しかし釈尊の本意は、生老病死を人生に伴う根本苦として、無常をはかなむことにはなかった。
    釈尊は後に当時の心境について、「愚かな凡夫は、自分が老いゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している――自分のことを看過して」との思いがよぎり、病や死に対しても人々が同じ受け止め方をしていることを感じざるを得なかったと回想しています(中村元『ゴータマ・ブッダI』、『中村元選集[決定版]第11巻』所収、春秋社)。
    あくまで釈尊の眼差しは、老いや病に直面した人々を――それがやがて自分にも訪れることを看過して――忌むべきものと差別してしまう“心の驕り”に向けられていたのです。
    であればこそ釈尊は、周囲から見放された高齢の人や、独りで病気に苦しんでいる人を見ると、放っておくことができなかった。
    それを物語る逸話が残っています。
     ――一人の修行僧が病を患い、伏せっていた。
    その姿を目にした釈尊が「汝はどうして苦しんでいるのか。汝はどうして一人で居るのか」と尋ねると、彼は答えた。「私は生まれつき怠けもので、[他人を]看病するに耐えられませんでした。それで今、病気にかかっても看病してくれる人がありません」
    それで釈尊は「善男子よ。私が今、汝を看よう」と述べ、汚れていた敷物を取り換えただけでなく、彼の体を自ら洗い、新しい衣にも着替えさせた。
    その上で釈尊は、「自ら勤め励みなさい」との言葉をかけ、修行僧は心も身も喜びにあふれた、と(玄奘『大唐西域記』水谷真成訳、『中国古典文学大系22』所収、平凡社)。
    思いもよらない献身的な介護もさることながら、釈尊が他の健康な弟子たちにかけるのと何ら変わらない言葉を自分にもかけてくれたことが、尽きかけようとしていた彼の生命に“尊厳の灯火”を再び燃え立たせたに違いないと、私には思えてなりません。
    その上で、この逸話を、他の経典における伝承と照らし合わせると、もう一つの釈尊の思いが浮かび上がってきます。
     ――釈尊は、修行僧の介護をした後、弟子たちを集めて、次々と尋ね聞いた。その結果、修行僧が重病に苦しんできたことも、どんな病気を患っていたかも、弟子たちが以前から承知していたことを知った。
    にもかかわらず、誰一人として手を差し伸べようとしなかったのはなぜか。
    弟子たちから返ってきた答えは、修行僧が病床で語っていた言葉の鏡写しともいうべき、「彼が他の修行僧のために何もしてこなかったので、自分たちも看護しなかった」との言葉だった(「律蔵大品」から趣意)。
    この答えは、現代的に表現すれば、「日頃の行いが悪いから」「本人の努力が足りないから」といった自己責任論に通じる論理といえましょう。それが、修行僧にとっては運命論を甘受する“あきらめ”となって心を萎えさせ、他の弟子たちにとっては傍観視を正当化する“驕り”となって心を曇らせていた。
    そこで釈尊が、弟子たちの心の曇りを晴らすべく、気づきを促すように説いたのが、「われに仕えようと思う者は、病者を看護せよ」(前掲『ゴータマ・ブッダI』)との言葉でした。
    つまり、仏道を行じるとはほかでもない。目の前で苦しんでいる人、困っている人たちに寄り添い、わが事のように心を震わせ、苦楽を共にしようとする生き方にこそある、と。
    ここで留意すべきは、そうした過程で尊厳の輝きを取り戻すのは、苦しみに直面してきた人だけでなく、その苦しみを共にしようとする人も同時に含まれているという点です。
    生命は尊厳であるといっても、ひとりでに輝くものではない。こうした関わり合いの中で、他者の生命は真に“かけがえのないもの”として立ち現れ、それをどこまでも守り支えたいと願う心が自分自身の生命をも荘厳するのです。
    また釈尊が、先の言葉で「われ(仏)」と「病者」を等値関係に置くことで諭そうとしたのは、病気の身であろうと、老いた身であろうと、人間の生命の尊さという点において全く変わりはなく、差別はないという点でした。
    その意味から言えば、他人が病気や老いに苦しむ姿を見て、人生における敗北であるかのようにみなすことは誤りであるばかりか、互いの尊厳を貶めることにつながってしまう。
    釈尊の思想の中で「法華経」を最重視した日蓮大聖人は、「法華経」において生命尊厳の象徴として登場する宝塔の姿を通し、「四面とは生老病死なり四相を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」(御書740ページ)と説きました。
    つまり、宝塔を形づくる四つの面は、生老病死に伴う苦しみを乗り越えていく姿(四つの相)をもって輝きを増すのであり、一見、マイナスでしかないように思われる老いや病、そして死さえも、人生を荘厳する糧に昇華できる、と。
    生命の尊厳といっても、現実のさまざまな苦悩を離れて本来の輝きを放つことはできず、苦悩を分かち合い、どこまでも心を尽くす中で、「自他共の幸福」への道を開く生き方を、仏法は促しているのです』


    仏教の精神、ホスピタリティーな信仰の原点を感じます。この区切りの表題に「自己責任論の驕りを打ち破った釈尊」とありますが、自己責任論を振りかざすと弱者をいじめる驕りになります。特に福祉などを扱う政治の世界では禁物ですが、自由な意志で開始する信仰は、他者への働き掛けやサポート、エンカレッジメントにいたるまで自己責任で行うものです。そのうえで、自己犠牲に等しい他者の苦痛を和らげる努力、不幸に対する同情心を持ちながら、普遍的な慈悲心を涵養していく誠実さに、信仰目的があるのではないでしょうか。苦即楽の妙法こそ尊厳の真髄です。


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    SGI提言…核問題について 1

    毎月11日になると、新聞に東日本大震災関連のニュースが載ります。まだ2500人を越える行方不明者がいることを気遣う人がどれだけいるのか分かりませんが、そのなかには、一言で語れない経緯を持つ多くの会員も含まれていることでしょう。聖教にも「みらいへの記」と題して掲載されますが、悲しいエピソードを記事にすることは、ほとんどありません。血の通わない冷たい宿命論で片づける信心指導に、どれだけの会員が失望したことでしょう。
    2月11日の読売には、長男を津波で失った御夫婦の姿が、記事とともに写真が何枚か掲載されておりました。地震から半年後、遺体が発見された女川湾の防波堤から、海に向かって花束を投げ入れる母の横顔には、懸命に涙をこらえる悲嘆と後悔の色をうかがうことができます。このような人々にどのような言葉をかけたらよいのでしょうか。安易に考えてさらに悲しみを深くする愚かしい行為を繰り返してはならない。心に開いた空洞は簡単には埋まらない。一生の間続いていく。どのように寄り添い、どんな言葉をかければよいのでしょうか。躊躇しながら励ましの、それでもつらい言葉をかけずにはいられない。深い悲哀と慟哭よりありません。失意は簡単に癒されるものではありません。
    悲しみの深さを理解することが同苦の姿勢ですが、厳しい命の試練であることに変わりはありません。同苦が菩薩の代名詞なら、わたしには限界を越えた精神的苦痛をともなう難事です。信仰はそのような困難を越えられるのでしょうか。越えられない困難はないなどと悟ったように仏法者は言いますが、越えられない困難があるからこそ、人間はいつまでも争い、冷血動物のように殺し合い、多くの涙を流しながら、それでもなお平和な世界も築くことができないのではないでしょうか。菩薩の慈悲の実現は、経典が説くように本当に可能なのでしょうか。
    このような解決不可能と思える悲しみや苦しみに応えることが宗教の役割と考えても、あまりにも果てしがなく、あまりにも止めどがなく、無力なエンドレスの世界に非力な自分を対比させて、ただ無為に悲観しているだけなのです。無力感に押しつぶされそうになります。

    1月26日に発表されたSGI提言は、全体的に人間の善性を信じた楽観に貫かれていると思います。楽観主義は創価のシンボル、紋章みたいなものですから、ワッペンでも作ったらどうでしょうか。楽観主義であろうが悲観主義であろうが、難問への挑戦は、一人一人の信仰者の英知にかかっていることは言うまでもありません。仏の智慧で合理的に社会を設計できると考えても、その成就は不可能に近いと言えば、きっと非難されること間違いありません。創価の発展が革命的進歩をもたらすと信じるのが、首までぬるま湯につかった活動家の常識です。
    提言の冒頭はICANの話題です。条約不支持の政党の創立者であり、しかも以前として政党の理念や政策決議に大きな影響を与えている存在でありながら、核禁止条約承認の決定的役割を放棄している。そのような矛盾に目をふさいでいるのは創立者だけではなく、その支持者である会員も同様の矛盾を抱えて平気なのですから、気の弱いわたしなどはついていけないのは当然のこと。鏡に向かい歪んでいれば気持ち悪いと感じるのは正常な感覚の持ち主。自己の実像と自己のイメージが歪んでいれば、誰もがその異変に気づくはずなのに、創価という特異なコミュニティーの会員は自己確認の方法を知らない。自己確認の仕方を学ぶのが信仰のはずなのに、鏡に写る自分の姿を見ることができない。鏡がそもそも歪んだ鏡なのでしょうか。

    本部を訪ねたベアトリス・フィン事務局長といっしょに聖教に写っていた川崎哲氏(ICAN国際運営委員)は、岩波ブックレット「核兵器を禁止する」のなかで、核不拡散条約(NPT)からの経過をたどりつつ、核兵器の現状を詳細に記しております。
    わたしが最も関心をおぼえるのは、福島の原発事故と核テロの無限の恐怖の連鎖です。
    2月15日の聖教にも、日本の原子力政策について問題提起の適任者ともいえる、元原子力委員会委員長代理を務めた鈴木達治郎氏(長崎大学核兵器廃絶研究センター長)のインタビューが掲載されております。このような記事は聖教啓蒙にまったくインパクトがなく、しかも会員は通常、真面目な、お固い記事は読まないことになっているので、ほとんど紙面を埋めるだけのムダ記事です。SGI提言のあとに、このような記事を載せて関連付けようとしているのでしょう。少なくとも関心を持つ聖教記者がいるということですね。
    そのムダ記事によれば、原子力政策が核兵器廃絶という課題の大きな障害になっていることが、絶望的に理解できます。日本が唯一の被爆国などというなにかにつけて持ち出されるフレーズは、感情もこもらないただの冠詞に過ぎないということがよく分かるでしょう。短い記事のなかでコンパクトに紹介していますが、問題はどこにあるのか?
    『原子力政策が核兵器廃絶という課題の実現を阻害していると私が述べる時の原子力政策とは、日本が原子力政策の中心に据える核燃料サイクルを指しています』

    核燃料サイクルと核拡散リスクはどのように関係していくのだろうか?
    『核燃料サイクルとは、使用済み核燃料を再処理し、ウラン、プルトニウムを回収し再利用するもので、高速増殖炉サイクルの実用化が前提となります。しかし、高速増殖原型炉「もんじゅ」の廃炉により、高速増殖炉の実用化が遠のいた日本で、このまま核燃料サイクルを推進し続けると、行き場を失ったプルトニウムを抱え込み、潜在的に核兵器の材料を増やすことにつながります。
    さらに核燃料サイクルには、濃縮、再処理技術が使われますが、これは核兵器を製造する技術とつながるものです』


    資源に乏しい日本にとって、核燃料サイクルは大きな期待があったのですが、今や経済的にも合理性を欠き、破綻同然。核燃料サイクルと核抑止力はどう関係するのか?
    『増え続けるプルトニウム。経済的にも合理性を欠いた核燃料サイクル。そうした矛盾を抱えた原子力政策ですが、そこには、核燃料サイクルを継続することで、潜在的な核抑止力を保持したいという側面もあったのではないでしょうか。核武装は求めるべきではないが、核兵器製造の技術的ポテンシャルは保持する――そうした潜在的な核抑止力への依存が、核燃料サイクル政策の推進と密接に絡んでいたとも考えられます』

    核抑止力、核の傘への依存という問題点。
    『核抑止力によつて国家の安全が100パーセント守られるという保障はありません。核抑止力の帰結は、むしろ核軍拡、核拡散にあり、最悪の場合は核戦争をもたらすことになります。従って、核抑止からの脱却が必要です。その点からも、プルトニウムという「負債」を増やし、核抑止力や核拡散につながる核燃料サイクルは見直すことが日本の原子力政策にとって重要なことだと考えます』

    現在の核燃料サイクルを止めることができるのか?
    『現在の高レベル廃棄物処分法には使用済み核燃料が含まれないため、法改正も必要です。また、処分といっても、処分場ができるまでは時間がかかりますので、安全な保管場所を確保しなければなりません。
    最終処分場に関しては昨年、経済産業省が地層処分(安定した地中深い場所での保管)に適した「科学的特性マップ」を公表しました。(中略)
    さらに、再処理を進めてきた結果、現在、国内外に保有することになった47トンのプルトニウムの処分が必要になります。これについてはウラン燃料と混合したMOX燃料として使用する、他の放射性廃棄物等と混合・安定化させて地層処分するといった選択肢が考えられます。(中略)プルトニウムという「負債」は現在も重くのしかかっています』


    大学教授から行政のエリートに転身した鈴木氏は最近、「核兵器と原発」という本(講談社現代新書)を研究者らしい専門的知識を駆使して出版しました。その本の紹介インタビューという前触れ記事のようなものですが、短い記事の結論として次のように語っています。
    『私自身、福島原発事故の前後で、原発が抱えるリスクの見方が大きく変化しました。福島県を中心に広範囲の地域が汚染され、現在も避難を余儀なくされる多くの人々がおられます。「原発のリスク」は一言でいえば、核兵器のリスクにも通じる「非人道的側面」を備えているということです』

    原子力政策は核兵器をふくむ安全保障問題と深く関係していること。福島原発事故からなにを学んだのか、むしろ原子力政策は大きく転換すべきとの当然の結論が、なにも変わっていない現実。日本が核兵器禁止条約に参加しない理由は、条約が核抑止力を否定しているからです。さらに目の前の喫緊の問題として、北朝鮮の核兵器・核ミサイルの開発にどのように対処していけばよいのか。大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発成功に対して国連安保理は危機感を深め、その挑発行動に国際社会が圧力を強めて深刻な緊張が続く。その軍事的脅威を前に核抑止力が有効なのか、疑問に思わない人はいないでしょう。
    「核兵器と原発」のなかで、著者はとても重要な提言を紹介しています。
    『2017年8月、核兵器の廃絶を願う科学者が集まって始めたパグウォッシュ会議の第62回世界大会で注目された議論の一つが、北朝鮮の核問題を含む「北東アジアの安全保障問題」であった。少人数(20~30人程度)に分かれて議論を行う作業部会でも、危機感を持ちながらも冷静な分析と提言が作られた』

    その提言は次のような重要な内容を盛り込んでいます。
    『より長期的な北東アジアの平和と安全保障の確立に向けた「枠組み」の議論を始めるべきだ。北朝鮮と米国の「平和協定」締結を最終目的に、北東アジア非核兵器地帯の可能性、常設の北東アジア安全保障会議の設置など、北朝鮮を含めた地域全体の安全保障問題について、検討を始めるべきだ。
    具体的には日米韓だけでなく、ロシア、中国、さらに東南アジア(ASEAN)、EU、など、幅広い関係国・地域を巻き込んで行くのが望ましい』

    難しい課題ですが、北東アジアという広範な地域を対象にした安全保障問題として、非核地帯を実現し、核抑止という従来の考え方から脱しようとする試みなのです。その信頼醸成を図るために政府間だけでなく民間や非政府機関を活用していくことも提案しています。

    核兵器の非人道性めぐる議論も国連を中心に行われております。
    2010年、核不拡散条約(NPT)再検討会議において、「核兵器の非人道性」を国際人道法との関係で明確に位置付けたうえで、核兵器を法的に禁止する枠組みが必要であるとの最終文書が採択されました。
    2012年、NPT再検討会議第1回準備委員会において、「核兵器の人道的結末」について共同声明が出され、16ヶ国が署名。日本は核抑止力政策を肯定する立場から不参加。
    2012年、国連総会第1委員会における共同声明では35ヶ国にまで増える。
    2013年3月、有志国による「核兵器がもたらす影響に関する専門家会議」を開催。
    同月オスロ(ノルウェー政府主催)、2014年2月にはナジャリット(メキシコ政府主催)、同年12月にウィーン(オーストリア政府主催)と、3回の会議が開催されました。
    非人道性に関する共同声明の署名国は回を追うごとに増え、
    2013年5月のNPT再検討会議第2回準備委員会では80ヶ国、
    10月の国連総会第1委員会では125ヶ国、
    2014年10月には155ヶ国まで増加しました。
    2015年10月29日、国連総会第1委員会で、多国間核軍縮交渉を前進させる決議が135ヶ国の賛成で採択。
    反対は12ヶ国(核保有国のアメリカ・ロシア・フランス・イギリス・中国等)、日本・韓国・NATO(北大西洋条約機構)諸国・インド・パキスタンは棄権。
    これにより、核兵器禁止のための法的措置に関する「公開作業部会」の設置が決定され、2016年に3回開催されました。8月には、その成果として、2017年に核兵器を法的に禁止する措置のための交渉会議を開催することを決定。
    非人道性のアプローチに対して、核保有国や日本など「核の傘」の下にある同盟国は、現実の安全保障問題を考慮すれば現時点で核兵器禁止に賛成できないとの論旨を展開した。いわゆる「国家安全保障の観点」からの議論。
    一方この間、非核保有国は一貫して、核兵器の使用は非人道的結末をもたらす。国家安全保障ではなく、人間の安全保障の観点から核兵器を禁止すべきだと主張した。世界の過半数の国が、「人間の安全保障」を重視する考え方にシフトするようになったことが、核兵器禁止条約交渉への流れを作ったということができるでしょう。
    2017年7月7日、長年核兵器廃絶を目指してきた人々にとって、忘れることができない歴史的な一日となりました。国連において、核兵器を全面的に禁止する「核兵器禁止条約」が採択されました。核兵器の非人道性を理念に掲げ、この条約の採択に大きく貢献した「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」に、2017年12月、ノーベル平和賞の授賞が決定。
    2017年3月、カナダ在住の被爆者、サーロー節子さんが演説しました。交渉に参加しない日本政府に対して強烈なコメントで非難しています。
    『自分の国に裏切られ、見捨てられ続けているという思いを強くした……被爆者はこの条約が世界を変えることができると確信している』(3月28日)
    そして、条約が採択された後、再び感動的な演説を行いました。
    『私はこの日を70年待ち続けていました……世界各国の指導者たちに懇願します。もしあなたがこの惑星を愛しているのなら、この条約に署名してください……核兵器はこれまでずっと道徳に反するものでした。そして今では、法律にも反するものになったのです』(7月7日)
    唯一の被爆国として核廃絶を目指してリーダーシップをとると公言している日本政府。一方で、核の傘に依存する日本は、条約交渉にも参加せず、今後も署名しないと断言する。平和利用に限定すると表明しながら、47トン(長崎型原爆約8000発分)ものプルトニウムをため込み、核燃料サイクルを堅持する日本政府。
    フクシマの悲惨な原発事故からなにも学ぼうとしないのは、政府や政党、議員や官僚だけではありません。それを支持する国民、あるいは傍観する市民も、変化を強力に推進し、原子力政策の転換の意思表明をしないがぎり同じなのです。

    「核兵器と原発」のなかで、核兵器禁止条約の意義として3点にわたり要約しています。
    『「人道的アプローチ」を全面的に採用したという点がまず挙げられます。国家の安全保障の観点からではなく、「国際人道法との合致」と「人間の安全保障」という観点から作られたこの条約は、クラスター爆弾や対人地雷禁止条約の前例に見られるように、人道的観点から兵器を禁止する、という論理構造でできている。
    第2に、「市民社会との連携」である。従来、核兵器に関する国際条約や制度は、ほとんどが核兵器を所有する国の主導のもと、これ以上核兵器を拡散させないことを大きな目的として作られてきた。ところが、核兵器を確実に削減し、廃絶まで導くこの「核兵器禁止条約」は、核保有国ではなく、非核保有国がその牽引力となった。その際、被爆者・被爆地からの長年のわたるメッセージ、それを受けた市民団体や核軍縮専門家が、非核保有国政府と協力して、この条約を作り上げてきた。
    第3に、この条約のもっとも重要な点でもあるのだが、「核兵器に悪の烙印を押した」ことである。禁止項目のなかに「核兵器の使用の威嚇」(第1条)を挙げ、核保有国や「核の傘」依存国が国家安全保障政策の柱と位置付ける「核抑止」を明確に禁止しているのだ。これは核保有国、「核の傘」国にとっては、受け入れがたい条件となるだろう。このため、核保有国や「核の傘」国が当面、この条約に参加する可能性はきわめて低い。
    しかし、「悪の烙印」を押された核兵器に、安全保障の柱として依存することは、条約に示された国際的規範に反する行為として、国際社会からの批判や圧力がますます強くなることを覚悟しなければならない。とくに、被爆国日本への圧力や注目度が増すことは間違いない』


    核燃料サイクル(原子力政策)と核抑止への依存(安全保障)の問題は密接に関連しており、核兵器のない世界を望みながら、さらに核依存しなければならない矛盾を正視しなければならない。核兵器禁止条約の採択は人間の英知の結実。その重要性を認識しなければならないと思いますが、日本政府の原子力政策・核兵器廃絶への取り込みはむしろ後退していると考えたほうが正解でしょう。 
    毎年、日本が国連総会に提出している「核兵器廃絶決議」は、2017年には、核兵器禁止条約に言及しないで提出され、さらに「あらゆる核兵器使用がもたらす非人道的結末」という表現から「あらゆる」が抜け消える衝撃的できごとがありました。その結果、採決では賛成国が前年の167ヶ国から144ヶ国に減少。日本の外交への信頼が崩れ始めています。

    1月26日、SGI提言が発表されました。核問題は創価のライフワーク、平和・人道団体としての信頼性と認証を求める仏法的アプローチです。宗教団体は信仰で獲得した英知を磨き、平和勢力の貴重なインフルエンスとなる資格を有するでしょう。なにより自己制御の方法を普遍的な法に依っていることを自覚しなければならない。信仰とは紛れもない深い自覚であり、仏典が説く非暴力への信頼を実現する処方箋です。仏は病を治す良医です。
    師をときには批判するわたしは、まったく弟子の資格を有していませんが、逆に創価のオフィシャルな見解にとらわれずに自由に意見を言うことができます。読む側も創意が必要な提言を、わたしなりに検討してみることも無駄ではありません。すでに老朽化している柱でも権威という金具がしっかり止められています。実は、会員の一人一人が、社会と創価の綻びと瑕疵を修繕し、改善するカーペンターなのです。破壊から建設への転換を強く促しているのが妙法ではないでしょうか。
    『私は、40年前、国連の第1回軍縮特別総会に寄せて、核廃絶と核軍縮のための10項目提案を行い、第2回の軍縮特別総会が開催された1982年にも提言をしました』
    それから毎年SGI提言を行ってきたことにふれつつ
    『なぜ私が、これほどまでに核問題の解決に力点を置いてきたのか』
    このような言い方をするのは、今回の提言が包括的な集約を示すものだからでしょうか。年齢的なことを考慮すれば、人生の終幕と提言のエピローグを考えずにはいられないでしょう。
    核廃絶と核軍縮のための10項目の提案は、次に掲げる内容です。もう顧みられることはありませんが、創価の原点を確認する貴重な論文です。「池田大作全集」第1巻の最初の文書として掲載されていますので、創価にとっていかに重要かが想像できます。
    古代ギリシャの故事「プロクラテスのベッド」を引用し、核抑止についてまとめています。
    『国連軍縮会議の開催される今日ほど、こうした転倒(技術面での発展が、絶えず交渉の歩調を上回っている)を陰から使嗾(しそう)している核抑止力信仰という魔物に、スポットを当てることの必要とされる時代はないでありましょう。言うまでもなく抑止力とは、相手による報復の恐ろしさを考えて、自らの戦争への衝動を抑えるという、いわば恐怖心の産物であります。この恐怖の均衡こそ、際限なき軍拡競争の悪循環を生み、いまだに使嗾し続ける人間の魔性であります。恐怖という、本来的に計測不可能な人間心理は、それが核兵器という有形な形をとって立ち現われたとき、ゆうに全人類を抹消し、地球を破壊しかねない怪物へと肥大化してしまったのであります』
    さらに核軍縮が一向に進展しない4つの要因を挙げています。このような指摘は核問題の基本的理解として重要です。
    1.国家間、特に核大国間の根強い相互不信感。核拡散防止条約の矛盾。
    2.核大国のエゴイズム。核抑止という悪。エゴイズムは悪であり、悪を悪で制御しようとすれば、必然的に悪循環に陥る。
    3.核に対する不感症。核アレルギーこそ正常。核の脅威に対する無関心は平和への最大の敵。日本の核アレルギー心理は、広島・長崎の深い体験から発しているということ。被爆国という核廃絶の原点を忘れてはならない。
    4.原子力産業の巨大化。発電炉、再処理施設、濃縮工場つきのプラント輸出。原子力施設の先進国からの売り込みが核拡散につながる。

    これらの諸因を確認しつつ、歴史創出の主役はあくまでも人間との視点から、軍縮総会に提案した10項目。
    (1)現在、核兵器を所有する国、所有しない国を問わず、全世界の各国の最高責任者が一堂に会して、首脳会議を早急に開催すべき
    (2)国連がイニシアチブをとって、核エネルギーの安全な管理が可能となる道を模索
    核の管理を国連の監視下におき、その安全な管理を委ねるよう働きかける
    (3)国連のイニシアチブで、核保有国と非保有国を問わず、すべての国に核兵器不使用の宣言を義務づける協定の制定
    (4)非核平和ゾーンの設置と、その領域の拡大
    (5)国連に核大国の計画的な核削減計画の提出
    (6)中性子爆弾や巡航ミサイル等の新型兵器開発を停止させ、さらに禁止する国際協定を国連のイニシアチブのもとに成立させる
    (7)軍縮特別総会が開かれる1978年から毎年、国連に対して各国が兵器、兵力及び軍事施設等の軍備状況を報告する義務を負わせる(「国連軍縮機関」を設置し、専門の委員によって常時パトロールする)
    (8)全面的かつ完全軍縮に向けての研究、討議、広報、出版等を、国連の呼びかけによって民間レベルでの協力
    国連大学に「軍縮研究情報センター」の設置
    (9)戦争の残虐性、核兵器の恐ろしさを啓蒙するため、国連に「平和のための資料館」の開設
    国連の長期的プログラムのもと「反戦・反核展」開催し、国際世論を盛り上げる
    (10)前記の提案を実効あらしめるため、軍縮のための経済的側面の裏付け(軍備増強の膨大な軍事費を今後は平和と繁栄ために振り向ける)
    国連内に「軍縮のための経済転換計画委員会」を組織化する方向で検討

    以上のような提案ですが、とても稚拙な提案もあり、提言が掲載された昭和53年(1978年)当時の時代状況も反映していて興味がつきませんが、国連に自国の軍備規模や内容の申告を義務化するという発想は、信じられないほど楽観的です。国家機密をあからさまにするぐらいなら、始めから軍備に投資しないでしょうし、そもそも国民の賛同は得られないでしょう。
    創価でも宗教団体の資産や財務内容、会員規模をまったく公表しませんが、他に対しては平気に財布の中身の公開を提案しても恥ずかしいとは考えないのですね。楽観主義は無責任なご都合主義のことをいうのでしょうか。
    論文の最後に、国連のもっとも困難な改革、安保理の構成についてふれています。
    論文のプロローグに当時のワルトハイム事務総長と会談したことを紹介しています。
    「世界平和へのガンは何ですか」
    「それは、不信感です」
    総長は、間髪をいれずに一言のもとに答えられたという。
    交渉の最前線に在る人の、こういうエピソードからは、国家も人間も不信の塊でできていることを実感できますが、国連の構造的な問題が国際的な交渉事を疲弊させ破綻させていることは常識です。そのことを強く指摘しないで、核問題の難しい議論が進展するのでしょうか。
    「国連のガン」は安保理の常任理事国であり、常任理事国が核大国であることを考えると、核廃絶の障害になっているのは、紛れもなく超大国のエゴイズムの支配なのです。一人ひとりの人権に差別がないように、国家は等しく対等であり平等であるという理念のもとでなければ、真の交渉も平和も、核兵器の廃絶もできないでしょう。第二次世界大戦の戦勝国の傲慢な意識が、平和実現を阻害していることを、反省し改革すべきなのです。

    今回のSGI提言でも、マンデラ大統領、ローザ・パークス、ハンフリー博士、キング牧師、ハーディング博士、ハンナ・アーレント、コスイギン首相、ゴルバチョフ書記長などの言葉やエピソードが散りばめられておりますが、以前のように有り難みがないのは、何かにつけて同じようなテキストやフレーズを引用するからでしょうか。あるいは対談相手と同じくらい対談者も立派だという自尊と見栄があるように感じます。却って独創性が失われていると見られても仕方ないでしょう。
    著名人を利用するのも頻度を考えなければならないでしょう。いつもご馳走を盛られると食傷になりそうですし、提言の組み立てかたも相変わらずという思いがします。
    そして、言うべきことは言ったし、そろそろ理想論と理念づくし、自慢話は終焉なのかなと、自由奔放の遠慮ないわたしの妄想は未来予想するわけです。

    宗教は倫理的、道徳的教訓に満ちていますので、生命尊厳を掲げる人道団体としての性格を有していますが、核問題についても人権上の問題として提起しています。不軽菩薩の行動を紹介しながら、人権の守護者としての標準モデル、規範としてのスタンダードな法の実践者の姿を強調します。平和実現には、法と実践者が一体となる理想的調和が必要であることは、妙法が説くもっとも核心的部分ですが、最近の創価は法の卓越性を優先し、人を見下しているようです。会員への御本尊配布の背景に根拠喪失の疑いがあると考えるわたしは、創価の偽善を追求していく姿勢を堅持したい。
    この記事も長くなり、読む人の迷惑そうな顔色も思い浮かんできますので、そろそろ一旦終了しますが、提言の人権に関する3項目にわたる主張をまとめておきます。また提言の後半、核兵器や人権、SDGs(持続可能な開発目標)のテーマについては次回に譲ります。SDGsについては、昨年の提言で詳細に論じていますので、知りたい方はもう一度読み返したらどうでしょうか。テーマは数年は継続していきますので、1年ぐらい読み飛ばしても大丈夫。

    第1の論点は、人権の礎が「同じ苦しみを味わわせない」という誓いにあると主張。
    国連の移民・難民問題を担当する特別代表、ルイーズ・アルブール氏の言葉を紹介。
    『他のあらゆる人と同様、移民もその地位に関係なく、基本的人権の尊重と保護を受ける必要があるということは、はっきりさせておかねばなりません』
    そして国連の初代人権部長ジョン・ハンフリー博士の生い立ちなどを世界人権宣言とともに紹介。次にマンデラ大統領を不軽菩薩に重ねてその偉大さを強調しています。
    会員の皆さまはきれいサッパリ忘れていると思いますが、一昨年の提言でも、難民問題について詳しく論じていました。読み進むうちに、マネーリッチな創価長者が、難民のために多額の寄付でもするのかしらと期待したのですが、ただ単に言ってみただけの提言だったので、わたしはがっかりしたのを覚えております。
    『わたしはこれまで、国連の新目標に「誰も置き去りにしない」との骨格を据えることを訴えるとともに、項目の一つに「すべての難民と国際移住者の尊厳と基本的人権を守ること」を盛り込むよう提唱してきました。
    かつてない規模で難民が増加する中、その状況と真正面から向き合わずして、21世紀の人類の未来は開けないと考えたからです』

    人類の壮大な目標を提唱し救世主に立候補しようとしています。ただ孫に語りかけたガンジーの言葉に救われます。このガンジーの信条は、SGIの社会的活動の精神と深く響きあうものだそうです。また釈尊の同苦の心に通じるものだそうです。
    この提言では、カール・ヤスパースの言葉を引用しておりますが、よほど実存哲学が好きなようですね。仏法哲学は実存哲学を網羅していると考えることもできますが、よく分からないというのが、わたしの本心です。ヤスパースが批判したのは大衆社会の凡庸な言説でしたが、どういうわけか、最高の哲学を学んでいるはずの妙法の信徒が、平均性や多数性といった平凡なヒューマニズムばかり求めて、ヤスパースが指摘した「生の不安」を解明することを怠っているようです。釈尊は「生の不安」から十界を説き、仏界という特別な境涯、それでいて万人を対象とした生命境涯を説いたのであって、根源的な生の目的を問い続けた結果でありました。ヤスパースは精神病理学から出発したことを忘れてはならないでしょう。大衆は病んでいるのです。また多数派を形成している宗教組織もレジリエンスを失い、停滞していることを自覚すべきです。人々の心に届かなくなった凡庸な言葉が原因です。創価も朽ち始めているのです。
    ヤスパースとのつながりなのか分かりませんが、ハンナ・アーレントもよく引用して旬なようです。ハンナの名言『悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る』 
    まぁ~無思考の方々にはお似合いのマキシムですこと。

    第2の論点は、人権教育の重要性について。
    国境線と国境を越えるインフラの構築についての見解が新鮮です。地理への認識が牧口先生の「人生地理学」の「人道的競争」と被さり、機能的な地理の姿に言及しています。関係性が深まれば、差異を越えて排他主義を克服できる可能性が高まることはよく理解できます。
    『昨年の国連人権理事会でも、排他主義に関する二つの決議が採択されました。
    宗教などの違いに基づく不寛容と戦うことを求めた決議と、外国人嫌悪の行為などを防止するために人種差別撤廃条約の追加議定書の草案づくりを開始する決議です』


    この主張の最後を次の文章で結んでいます。
    『人権教育に関する国連宣言が呼びかける「多元的で誰も排除されない社会」は、その"人間性の光"を豊かに受け合うつながりを幾重にも織りなす中で、力強く支えられていくのではないでしょうか』
    ノーベル平和賞授賞の中国の劉暁波氏が亡くなったのは昨年のことですが、中国政府の厳しく惨たらしい弾圧があったことを知らないわけではないでしょうに、中国の人権教育についての提言は全くなされていません。中国ほど世界人権宣言を軽視している国はないと思いますが、名誉や勲章のほうが大事ということなのでしょうか。共産主義とは多元性を認めない社会のことであり、例外なく誰をも排除する社会のことです。また独裁が必ず存在し、それは人間とはかぎりません。党であったり、主義という思想だったりです。多元性を最大に認めるのが宗教でありながら、創価も主張の違いを認めない創価コミュニズムを作ろうとしているのでしょうか。わたしはいつも、排他的な幹部から目の敵にされているのですけど。

    第3の論点は、人権文化の紐帯は、喜びの共有にあるということ。
    聖教でも報道された、昨年11月にバチカン市国で行われた、核兵器のない世界への展望を巡る国際会議に参加したことにふれつつ(遠い他人は仲良くできても、近くの身内は中傷罵倒の言いたい放題という典型例ですが…)
    『核兵器禁止条約の交渉会議で多くの国々が核兵器の非人道性を踏まえて示したような「健全なリアリズム」の重要性を強調しましたが、私も深く同意するものです』
    理想論者が思い出したようにリアリズムを語り始めました。しかも健全でなければなりませんが、創価の選挙運動での号令も健全な活動なのでしょうか。平昌オリンピックでは北朝鮮の美女応援団が話題になりましたが、わたしの目には自分で自由にならない可哀想な集団に写りました。オリンピックとは人種も言葉も関係なく、スポーツを通して純粋に技と成績を競うものです。なぜそこに独裁者の思惑が入り込むのでしょうか。そして、それを許すのでしょうか。
    公平性を重視しなければならない政治に、創価の利益主義を持ち込もうとしている。何十年も前、あれほど公明党の独立を訴え、大衆政党への脱皮を促しながら、今では忘れたような顔をして会員を欺き続けている。政治の質を問うのではなく、会員を動員して多数者として政治を左右しようとしている。健全な精神には程遠く、人間を操ろうとする仏法者とは思えない醜い意図が垣間見れます。すべて先生が仕組んだものと理解しています。政治という玩具は複雑で挑戦的、アナログなほうがあきないようですね。
    健全なリアリズムとは自由意志による正しい現実認識です。
    会館で選挙の打ち合わせをするな!
    宗教活動と混同するな!
    【宗教と政治(選挙)のボーダーラインを不明確にして、むしろ意図的に重ね合わせている。得票数を勢力拡大の一つの指標にしているのは、かつての折伏が社会的に監視を受け、無理すると批判も免れない恐れもあることから、折伏のエネルギーを選挙運動、聖教啓蒙に積極的に転化させようとしたのではないでしょうか。中枢にある聖職者は会員の忠誠心を利用していると考えることもできます。最近は少し方針を変えたのか、折伏弘教という本来の宗教目的に立ち返り力を入れているけれど、一度失った勢いは取り戻せそうにない。池田先生を教祖化し伝説を作り、求心力を復活させようと焦っていますが、もう時代の波を越えるのは難しいのかもしれない。永遠の指導者の「永遠」という形容は、永遠に続かないことを学ぶのが、歴史からのメッセージ。経典からの警句です。また、自らを「永遠」と名乗る人間は、ほとんど勘違いしています。希有で高貴な思想の持ち主は自らを決して永遠などととは言いません。そういうふうに規定したとき、高慢な腐臭が漂い始めるからです】
    キング博士の講演を引用していますが、その言葉を聞けば正しい現実認識が、現実変革の転換点になることを表わしています。健全なリアリズムは眼前の暗闇を認め、美しい星空を見上げることなのです。民主主義のあり方、政治の選択を歪めていると思われる創価公明の選挙支援を、わたしは二度とすることはありません。それが、わたしにとっての健全なリアリズム☆彡


    Enchantress - Two Steps From Hell




    ◇◇◇


    羽生王子さまの美しい姿に胸が高鳴り、感動し、ドドッと涙が溢れてしまいました。
    どうしてあんなに礼儀正しく、力強いのでしょうか。
    日本の誇りです。プリンスにふさわしい。
    小平奈緒選手、金メダル! おめでとうございます。
    韓国、イ・サンファ選手との友情も美しい。まるで恋人同士のようになかよし。
    ガンジーの言葉を引用した、小平選手の座右の銘を知りました。
    スピードスケート500m、ライブで放送中に小平選手が涙を浮かべながら語りました。

    『明日死ぬかのように生きよ
    永遠に生きるかのように学べ』


    彼女はその言葉を実際に実践し、苦しい練習に耐えてメダルをとったんですね。すばらしい!
    智慧即福運の実証例ですが、仏法実践者と同じようなストイックな響きがあることに感銘を受け、簡単には成し得ない他者の共感力を呼び覚ます高度な働きかけは、スポーツを通した最も輝かしい収穫かもしれません。求道者という言葉もセレクトしていましたね。肉体を鍛えることは内面を鍛えることという色心不二の真理が顕著に表れ、それは一人の人間にとどまることなく、波動のように伝わっていくという、人生の幸福を実現する原理に気づかせてくれるようです。信仰者がたどる成熟へのプロセスと同じです。あらためて信仰は修行であるという事実を思い出させてくれます。
    学ぶことは楽しいだけでなく、苦しいときもあるでしょう。文字を目で追い、理解し思考することは必ず楽しいとは限らない。学ぶことの、あのなんとも言えない高揚感は経験した者しか分からないでしょう。高揚感は知力が解き放され向上する喜びなのですね。大脳のやわらかな襞に知が刻まれる気分になり、そのイメージまで浮かぶのは、きっと冷静に制御する能動的な自己観察のプロセスとインフルエンスがあるからでしょうか。自慢しているわけではありません。知的活動は誰でも同じような経過をたどるものと思います。

    創価の会員のなかには学ばない人が多いという、先入観かもしれない小賢しい感触を、わたしは持っているのですが、もちろん学ぶ学ばないは、個人の自由であって、何ら批判されるようなことではありません。苦しみのなかでのたうちまわろうと、貧しさのなかで泣き叫ぶような悲しみがあろうと、基本的に自己責任であって個人の自由は保証されております。喜びよりも悲しみ、楽しみよりは苦しみを望む人もいないとはいえません。苦しいけれど自由であることを選択する人は多いでしょうから、自己への信頼と成功への成就を欲求するハングリーな精神は、なにものにも代えがたい人生の基礎をなす心性でしょう。
    学ぶことは他者への共感のスケールを拡大する手段です。確かな定義は難しいのですが、人間力とはこのことです。そしてその人間力のベースとなる知性あるいは知恵の多くは、学ぶことから得られるものと思います。わたしは学ぶことを疎かにする人々に近づきたいとは思いません。大袈裟に言えば不幸の亡霊に近づくようなもの。亡霊だから目には見えませんが、諸天(善神)や諸悪(魔)のように心の目には見えるのです。心を鎮めて熟慮すれば心眼を養えるなどと、スピリチュアルなお伽噺の類ではありません。信心の眼は鍛えるもの。成仏への過程とは、現実的には六根清浄のこと。それをスポーツを通して実現する優れた人もいることに驚きます。純粋であることがなによりの条件です。 


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