太陽の仏法 3

    創価学会には昔々、「折伏教典」というカルト的テキストがありました。今はもちろん絶版になっておりますが、グリーンの布を被せた表装の希少な書物は、草創期の会員の方々は必ずお世話になっており、使いやすさを主眼にしたハンドブックです。入会したら購入しなければならない必読書。
    このテキストは何度も版を重ね出版されました。創価の歴史的教科書というべきものですが、おそらく初級の宗教哲学の内容を含むものとしては希有とまではいかなくても、大衆受けする低俗雑誌級の人気があったと思う。例えば、各論の対話を重視した問答想定は、独善的な強引さを感じさせるものの、一応の理屈で統一されており、十分に活用可能な内容です。宗教的知識に乏しい会員には新鮮だったかもしれません。このような内容で人生を突然に変えていったのですから、信仰とは基本的に、無条件心酔なのですね。またこのような盲信をただ見ていただけの宗門も、はじめから問題意識もなく、低レベルな信仰指導だったと解釈してもよいのかもしれません。教典は任用試験の範囲だったとお聞きしましたが、わたしが見た昭和40年出版の第4版は、池田先生監修で、価値論はすでに本論の最後に置かれ、価値論で強調された反価値としての罰論も、肩身の狭い扱い。わたしの感覚からすると、罰とは信仰者をいじめて人格を冒涜するもの。同じ大衆を相手でも、面白半分のエンターテインメントじゃあるまいし、誰が罰ゲームに加わりたいと思うのでしょうか。

    最近、西日本豪雨を時代錯誤もかまわずに、総罰と表現したブログがありました。以前も読んだことがあるブログでしたが、平均的会員像を知っても参考になるようなものはほとんどありません。総罰という名の妖怪が、鎌倉時代の、災害に対する無防備な社会から非科学的な認識として蘇ったのかと思いました。科学技術の発達で、自然災害に対する見識が変わっていくのは当然のこと。日蓮遺文も、その解釈指標や判断尺度が変化するのも当たり前のことです。
    宗教的行為の最良の認識、ポジティヴな現状肯定こそ宗教の命と考えるのですが、ネガティヴに、しかもパッシヴに、独立的な自我の確立からはるかに遠い災害に対する信仰者の認識は、不幸の予備的温床です。罰論は議論の対象外にしなければならないでしょう。原始的、根本的な人間的行為・信じることによって被る不利益は、信じないことによって被る不利益よりも大きいというのでしょうか。信仰は教義の正邪の証明問題ですが、亡くなられた多くの方々の伴侶や親や子どもに、罰の結果と納得できる証明ができるのでしょうか。750年以上経って、数えきれない災害がありましたが、その一つでも証明できたのでしょうか。
    罰論は日蓮仏法の悪しき側面ですが、牧口先生の価値論では、反価値としてさらに強調されるようになりました。わたしはそれが特に悪いと言っているわけではありません。戦争前の暗い時代を考えると、牧口先生が置かれた立場は、とても限られた不自由なものだったでしょう。負荷で息づまるような時代に、罰論で宗教心が刺激されるなら、切羽詰まった社会のなかで有効だったかもしれません。
    逆に、罰論の反対価値としての現世利益が大きな比重を占めていたことがわかります。その現世利益が池田先生の「仏法は勝負」論に必然的に進化しました。損得勘定は商売人でなくても敏感ですが、アドレナリンが沸騰するような、聖的な感情を含む宗教まで昇華する創価の教義は、会員を夢中にさせる魅力がありました。
    そもそも日蓮の教義が現世的です。現証を何より尊び、過去や未来でなく、現在に妙法の実証を求めました。煩悩即菩提、即身成仏はその典型です。因果は時間的に離れているのが普通ですが、即論は現世的利益を早急に求める信者の願望を理論的に叶えております。一念三千の当然の帰結です。

    折伏教典では、キリスト教を破折する章で、また各論でも、長崎へ原爆が投下されたことをキリスト教を根拠にする説を展開しております。キリスト教繁栄地が犠牲になったという客観的資料があるのでしょうか。地獄のような戦闘が行われ、多くの人が犠牲になった沖縄は、どのような宗教的理由があるのでしょうか。無差別爆撃により一面焦土と化して、10万人の死者という大量虐殺が行われた東京大空襲は、いったいどのような宗教が原因なのでしょうか。
    アメリカは、敬虔なキリスト教のピューリタンが建国し、信教の自由を求めた国民。キリスト教信仰者がキリスト教信者を犠牲に選ぶというのは、特別な理由があったのでしょうか。
    またドイツはプロテスタントの発祥地、イタリアはバチカンがあるカトリックの中心地。キリスト教を代表する国が、欧米のキリスト教国と戦争をして、多くの戦死者とともに国土が焼け野原になったのも、キリスト教が原因なのでしょうか。創価がまだ誕生していなかった明治時代、日露戦争で勝利したのは、天照大神が神社の神札にまだ生き残っていたからですか。
    第二次世界大戦は、国教と化し統制手段として利用された日本神道以外、宗教は関係ありません。既存宗教の平和への無力さは、そこで生活している僧の無責任と無能さを表していますが、日蓮正宗も例外ではありません。僧の卑しさは法の高潔さとは正反対のものです。戦争の結末も、宗教の教義や因果関係になんら関係ありません。キリスト教を外道と蔑む日本仏教の習慣が反映しています。他者の尊厳を訴える普遍的な妙法にふさわしくないですね。他者が信奉する信仰も尊厳の対象なのです。わたしは、独善的な教条主義をカルトと定義しますが、創価の狂信は会員に浸透しているようです。

    また折伏教典では、日本が太平洋戦争に敗北したのは、法華経を用いなかったことを理由にしております。法華経を用いれば勝利したと言わんばかりですが、その論旨は戸田先生の考えを元にしたものと思います。戸田先生の戦争に対しての思想は、妙法的絶対平和主義とはほど遠いものと思いますが、その考えの一端が折伏教典にも垣間見れます。初版ならどんな表現だったのか興味があります。
    「原水爆禁止宣言」も核実験に危機感を持った、時勢の影響のもとでの宣言です。永久的な宣言であるなら、広島・長崎の惨状を知ったときに、たとえ弱小教団であったとしても、宗門の700年の歴史のうえに設立された創価ですので、日蓮の非暴力主義を訴えるべきでしょう。長崎への原爆投下がキリスト教が原因であるという前に、原爆そのものを否定すべきです。このような科学的確定もできない、宗教的な原因を指摘するところに、純粋な戦争反対の思想の欠如があります。

    折伏教典の日本神道の記述で
    『日本の神は氏神が中心である。氏神は氏(部族)の上(長)であって、一族を守るものであり、天照大神は民族全体の長であり、日本全土を守るものである。そのことは、天照大神のみことのりたる神勅に明らかに示されている。
    ところが、今度の戦争で、日本は全国民あげて天照大神を奉じ、西欧哲学を奉ずるアメリカと戦った。その結果は、無残な敗戦だった。天照大神は、日本の氏神の大将なのに、どうして日本を守らなかったのであろうか。
    ひと口に結論を言うと、天照大神は日本にいなかったのである』

    天照大神がいれば戦争に勝利できたと解釈できるニュアンスを含んでいる。
    『すなわち、天照大神は法華の守護神であり、謗法の国には住まないのである。いま、天照大神はじめ諸天善神は、みな法味を味わわないので日本を去りたもうたのである。したがって、神社や神札には神はおいでにならないで、かえって人を不幸にする悪鬼魔神が住むのである。だからこそ、日本は未曽有の大敗戦を経験しなければならなかったのである』
    天照大神も諸天善神も、かつて見た人がいないのに、立派に擬人化されている。神社に住む先住民のような趣きを呈し、本来であれば働きとしての作用と機能であるはずなのに、神社の住民のような人格性を感じさせる。この神は、日本を覆い尽くすほどの巨人かと思えば、神札におさまるほどの文字付き紙の一片でしかない。どっちが本当の姿なのか、どっちも人間が作り上げた虚像です。そして、750年前も、50年前も、現在も、謗法への見解が変化していないこと、とても驚異的です。日本が謗法の国なら、日本以外の、外道の国と弾劾する諸外国は、さらに謗法の国になるのでしょうか。こういう考えが、会則変更の際の「謗法の地」という表現……純粋を求めながら不寛容という大乗思想とは正反対の結論に至るわけですね。極論にはついていけません。
    戦争勝利の第一の要件は、国力と戦備です。さらにリーダーの資質です。そんなこと、平和的女子であるわたしにだって分かるというのに、神や魔神のせいにするなんて、なんて無器量無才気なのでしょうか。宗教家は決して将軍にはなれません。
    折伏教典は、創価にとって消し去りたい過去の一つかもしれません。人権意識が乏しかった時代とはいえ、人権団体を標榜する創価が、尊厳を感じさせない教典を持つことに恥ずかしさがあるでしょう。しかも三代の会長が執筆したと思われるテキストを用いているのですから、否定したくても否定できません。はたして、創価大学図書館に所蔵されているのかしら。どこかには必ず所蔵されているでしょうから、手離さないことをアドバイスしたいですね。時間が経つに従い、資料としての価値が飛躍的に増していくでしょうから。

    コメント欄も閉じ、対話を拒否していると思われるブログの総罰の主張は、政治や特に安倍首相を悪の元凶のように述べておりますが、それにしては論証が雑過ぎて稚拙。龍王だなんて、コミック世界のキャラクターでしょうか。標準的な創価の会員のお粗末なイメージが浮かびます。その与党の一角が、自分が強く支持している公明党であることを忘れているかのようです。総罰というのなら、その責任は自分にもあるということです。そこまで原因を洞察する予知能力のようなものがあるのなら、災害を事前に防御できなかったのでしょうか。妙法に関係すると、不幸の原因にもなるというのでしょうか。不吉な結果を招く反妙法ですね。民主主義国家にあって国の主権者は国民全体です。まるで封建時代に遡ったかのような安易な断定は、創価の宗教教育の貧しさを表わしています。

    ドイツ軍も神に祈り、イタリア軍も神に祈り、イギリスやフランスも同じ神に戦勝と守護を祈りました。同じキリスト教同士で、なぜ憎み合い殺し合うのか。不思議な思いもしますが、「社会と宗教」のなかで池田先生が同じ質問をしております。創価も平和を祈り、会員は誰も信じませんが……このような否定的、抗戦的な宗教教育はとても行き届いている……宗門も平和を祈っているのです。平和を祈っているもの同士が平和的になれないというのは、おかしな話ですね。
    ssty-01.jpg『宗教界の分裂には激しさが付き物であるといわれますが、同じ宗派からの分裂時や、セクトの誕生時には、その相手を打倒するために特に激しい抗争が行われます。セクトが分かれるときは、異常なまでの憎悪を生じ、その対立の激しさは、異教徒の場合以上であることが多いようです。これはなぜなのか――よく近親憎悪という言葉が使われますが、なぜそうした激しい憎悪が生じるのでしょうか』
    (第四部 歴史からの展望「セクト間の分裂と憎悪」)
    ウイルソン教授は、体験したように詳細に語りますが、創価と宗門、会員とアンチの間の互いの憎しみ合い、罵りあいにも通じます。
    『宗教上の分裂は、実際、通例として激しい敵意がその特徴をなしています。ご指摘のように、同一宗派の分裂によって生じた憎しみは、たがいになんら共通姓をもたない二つのまったく異なる宗教同士が感ずるよりも、強烈なものがあります。しかもこれは、対立反目する分派同士が、一、二の特定の項目を除いて、ほとんどすべての点で表面上は合意できたという場合でも、いえることです。そうした特定の相違点は、往々にして極端に些細な事柄に関するものなのです。(中略)
    そうした憎悪が明らかに激しいものとなるのは、分裂が生じたときの当事者たちが、たがいに相手方を自分たちが判断を下す際の重要なレファレンス・グループ(準拠集団)とみなしているためです。(中略)
    これに付け加えなければならないのは、人間の強い前向きの感情は、後ろ向きの感情に変質しやすいという、より一般的な事実です。愛情・温情・友情といった感情は、たんに中立的な感情に変質するよりも、むしろ敵意・憎悪・嫌悪感情へと変質しやすいものです。ある人々に対する自分の感情が中立の域を出ないという場合には、愛や憎悪は、さほど容易には掻き立てられないものです。ところが、愛情の対象であった人々に対しては、突然に背かれると、ただちに正反対の強い感情が生じます。
    一つのセクト内の緊張が、当事者すべての強い関心を集めるようになると、その最終的な帰結として、必ず強度の感情が掻き立てられます。分裂が全面的に回避された場合には、蘇った強い感情が、そして、分裂が生じた場合には、強烈な敵愾心が生じるのです』

    近親憎悪は愛情が深いがゆえに激しい。キリスト教やイスラム教は、仏教からすれば別世界のこと。分裂しようと争いを繰り返そうと、むしろ中立的立場で評価できるという冷静さがありますが、同じ宗派の分裂となると何から何まで憎しみがつのります。創価新報では、未だに、宗門の週刊誌なみのゴシップ記事が掲載されています。会員が検証したくてもできない記事ですが、近親憎悪の怨念がやがて会員に乗り移り、創価自身を滅ぼす呪いになるでしょう。
    戦争の大義と同じ、正義というの名のもとで行われる日顕宗学は、もう分離したらどうなのでしょうか。かつて、反逆者を拝み殺すとして仏壇にご祈念を掲げた見苦しい執念は、憎悪の心に妙法が同調している証拠です。これこそ自分で自分に強制する、自傷のような罰です。自他ともに、生命を傷つける菩薩は、似て非なる菩薩です。


    ◇◇◇


    平成3年12月8日
    第四十九回本部幹部会/創価の栄光城は妙法と共に永遠
    『(正本堂完工式の席上)私は大御本尊に御報告申し上げる心で、内外に向けて、次のように宣言した。
    「まず、この正本堂は八百余万人の人達が心からこれをつくりたい、という念願に燃えて出来上がったものであり、端的にいって、宗教的権威を象徴する殿堂ではなく、民衆のための施設であるという点でございます」
    "宗教的権威"の殿堂にしてはならない――今日を見すえて明言したつもりである。
    (中略)
    「古今東西を問わず、ふつう参拝者は聖職者から祈願を受けて帰るのでありますが、ここ正本堂は、民衆が猊下とともに祈願して帰るのであります。真に民衆のための施設であることは、この一点をもっても、ご理解いただけるのではないかと存じます。
    この点において、正本堂は開放された未来の世界宗教にふさわしい殿堂である、と私は信じるのであります。聖職者から祈念を受けて帰るべきであるとするならば、それより私は、無教会主義のほうがより進歩的であり、かつ正しいと考えるものであります。また宗教そのものは建物や形相的荘厳とは違うものであり、したがって、民衆が仏と一体関係下において、能動者として祈願するものでなければ、殿堂は不要である。無殿堂主義のほうが、私はさらに進歩、そしてまた、より正しいと考えるのであります」と。
    "聖職者中心"なら"無教会""聖職者なし"のほうがましであると――学会の正義の主張は、まったく変わっていない。予言的だとさえ言う人もいる』


    正本堂は宗門が宗教的権威で破壊した。
    在家・信徒の真心もいっしょに破棄した。
    広布への深い献身も見棄てた。
    広布の兆しが見えたとき、最悪の僧が法主の地位に着いたことは、不幸としか表現できないでしょう。法主の地位は個人的なものでなく、歴史的蓄積のインフルエンスの象徴。法主に権威があるなんて、なんという錯覚でしょうか。御本仏の御一生は、権力に抵抗し、権威否定のための人生だったのに、凡庸さだけの法主は、無能力であるがゆえに自らを飾って権威と化し、権威と戦うことなど思いもよらない。権威は真の宗教から最も縁遠いものです。

    『もとより、大聖人の仏法に、聖職者と信徒の差別などない。あらゆる人々が、皆、大御本尊のもとに平等である。もしも、現在の宗門のように民衆の殿堂を私物化し、"差別の殿堂"にしてしまうのならば、それは大聖人の御心に背くことになる。ゆえに私は、この時、正本堂の意義を明快に語っておいた。
    どこまでも「人間のための宗教」である。そして「民衆のための殿堂」である』
    『「一閻浮提広宣流布」に進んでいるのは学会である。ゆえに、学会の「信心」こそが「一閻浮提総与の大御本尊」に深く通じ、大功徳を頂戴してきた。その「信心」あるかぎり、だれ人も大御本尊と私どもの間を"切る"ことなど、できるはずがない。
    電波は宇宙を駆ける。月とも交信できる現代である。いわんや信心の「一念」は「法界に遍し」で全宇宙に通じていく。正本堂は、すぐそこにある。
    ともあれ、ある人が言っていた。大御本尊の光が世界に広がることを妨げる者は、大聖人を破門する者ではないか、と。その報いは必然であろう』
    『わが創価学会、SGIの同志の皆さまこそ、永遠に大御本尊をお守りしゆく「使命の仏使」であられる。その皆さまに、大御本尊の加護は絶対と確信していただきたい。信心とは、道理のうえに立った「確信」であり、その確信が一生成仏の因となる』


    信濃町の大病院の前の創価村に宗教を商売にする職員の方々は、聖職者とは言わないのでしょうか。創価の会則を決定する人々は、聖職者と呼ばないのでしょうか。勤行のご祈念で、全活動家から永遠の仏のように祈られる池田先生は、聖職者ではないのでしょうか。聖職者であれば、人間性が豊かな模範となる人格者でなければならないでしょう。
    リクルートの際、どのように分類されるのか分かりませんが、僧とはつまり専門職。僧も在家も平等なのだから、宗教専門職はすべて聖職者と考えても無理はありません。宗門のように「聖職者なし、殿堂なし」と言われないように、気をつけましょうね。

    創価の信心が大御本尊に深く通じていき、大御本尊と会員の間を誰人も切ることはできないと御指導されています。また、大御本尊への一念は電波のように通じていくとも言われております。全世界を照らす大御本尊の光を妨げる者は、大聖人を破門する者であると、先生は宣言されていますが、大聖人から破門された者は、創価の方だったのではないでしょうか。宗門の聖職者から信濃町の聖職者に交代して、根本の御本尊まで変化し更新されるとは、言ってることとやってることが違い過ぎませんか。一貫性も整合性もなく、肯定したことを否定し、饒舌なスピーチが突然無口になり、正しいことだとあれほど言い切ってきたことを都合が悪いからと言って知らん振りしている。謗法の地も一閻浮提のなかの一角であり、法界のなかの一隅です。
    道理のうえに立った確信が信心であると御指導されておりますが、「道理のうえに立った確信」とは大御本尊のことではないでしょうか。一生成仏の因はどこかに行ってしまったのでしょうか。

    なお、宗教組織の発展(衰退?)過程を、分かりやすく解説したウイルソン教授の「社会と宗教」での回答がありますが、長くなりますので【+ Read More(追記)】に引用しておきます。読みたい方は読んでください。飛ばし読みしたい方は飛ばし読みをしてください。


    平成3年12月14日
    第二十回婦人部幹部会/ついに来た! 創価の友の「自由」は満開
    江戸川・葛飾・足立文化音楽祭を開催した。そのスピーチのなかでブラジルの人権活動家・アタイデ氏を紹介している。
    『アタイデ氏は、"宗教の権威"を、人間の敵として、厳しく弾劾しておられる。
    「聖職者という宗教的権力者は、宗教のドグマ性(たとえ事実に反しても教義を押し通すこと)によって、人間を精神的に逮捕したい、また奴隷にしたいと考えている。そしてドグマの道から離れようとすると"異端"だと決めつける」
    今でいえば、誤りを指摘する人に対し、"謗法だ"とか、"地獄に落ちるぞ""破門だぞ"などと脅迫することであろうか。
    「ドグマに従うことは人生の視野を狭くするだけである。独善や権威は、無限であるはずの、人間の知性に、有限の黒い壁をつくってしまう。要するに、人間の創造的知性を全部、打ち砕いてしまうのである。
    それはなぜか。「宗教的権威の盲従」は、人間の堕落であり、惰性であり、怠け根性である。狂信的に従うことは、自分の意見を失い、ついには人間でなくなってしまうことだからだ」(中略)
    またアタイデ氏は、「破門」について、次のように語っておられる。
    「宗教のドグマに反対したために追放されたとしても、なんら恐れることはない。
    私は「破門」という言葉ほど嫌いなものはない。破門と聞くと、怒りが込み上げてくる。破門は一つの価値も生むことはない。
    もし、神の名を利用して"地獄に堕ちる"と言うなら、その宗教は、もはや正しい宗教ではない。神に人を救う力があるなら、神は人を助けるはずだ。決して地獄に堕としたりはしない。仏に慈悲があるなら、人を救うはずではないか。
    仏の名を借り、私物化するものがいるとすれば、それはもはや正しい宗教ではなくなってしまった証拠ではないか」と』

    人権を抑圧する権威と、生涯戦ってきたのがアタイデ氏です。「世界人権宣言」は普遍的な権利の宣言でもありますが、このような無辜の人々の強い意志によって、人間の尊厳が守られていくことを、あらためて思います。聖職者は謙虚でなければならない。同時に奉仕者でなければならない。人権の擁護者でなければならない。最近、創価の周辺でも、除名や査問といった言葉が聞かれるようになりました。それは「破門」と同じ過程を踏んでいるのではないでしょうか。宗門に代わって、創価が弾圧組織にならないことを祈るばかりですが、なにより会員の皆さまが賢明になる必要があるでしょう。組織はいつまでもどこまでも清浄と考えないことです。組織は人間が運営するものであるかぎり、必ず腐敗する。
    翌日の12月15日、川崎文化音楽祭でも、アタイデ氏の言葉を紹介しておりますが、切りがないので省略します。過去のスピーチを読み返してください。いろいろな発見があるでしょう。わたしは全集から引用しておりますが、収録されているスピーチ自体、多くの推敲と編集が行われているものと思います。会合の内容は、テープやビデオで録音録画されたものから一言一句書き起こしたと思われますが、そのまま文章に書き下ろすと都合の悪い場面が必ずあるはずで、書き直しされているところもあるでしょう。
    この池田大作全集は、牧口、戸田先生の全集と同じく将来、絶版になる可能性が大きい。再版されたとしても大幅に書き直しされるでしょう。「小説・人間革命」と同じ運命です。書き換えは、初期の広布の歩みを書き換えることでもありますので、自らの出自を隠蔽することでもありますから、歴史改竄と同じです。特に問題なのは、「大御本尊」に関係する記述であり、大御本尊を連想させる文章の必要最小限を残し、削除ならびに書き換えが行われることは明白です。つまり、「大御本尊」から「大」を取ればいいわけで、隠蔽や秘匿、修正の修正、改正の正当化は消極的抑圧と同じです。会員の皆さまはそんなことはどうでもよいでしょう。功徳さえいただければ、御本尊の相貌や血脈も大して問題でないのですから、現世利益を求める実証偏重の害毒は、命に深く浸透しているのではないでしょうか。収益性が高くなるように、利益率の改善に常に心掛けることが、組織から推奨される会員のスタンスです。スポーツのメダル報奨金のように、対価としての手当が、コスパのバランスがとれているのかどうか。こういうふうに表現すると、宗教は営業次第ということになりますが、信仰者の現世利益は営業利益のように見えてくるから不思議。アタイデ氏が独善や権威を非難し、創価を支持するほど、組織も会員も、明瞭な宗教心を受持し、思想性を持続しているわけではありません。


    Remember Me
    Ivan Torrent
    feat. Roger Berruezo






    ew8934.png


    + Read More

    太陽の仏法 2

    7月10日の朝、御本尊に悲しみと哀悼の祈りを捧げました。
    犠牲者や被災者のなかに、真面目に信仰に励む会員もおられたことでしょう。
    その人のために祈ります。その人の家族や親族、友人のために祈ります。

    西日本を中心にした7月豪雨は、近年にない未曾有の災害になりました。
    近畿、中国、四国、九州の広範な地域に特別警報が発せられ、重大災害警告の危険な状況のなかで、8日、福岡で本部幹部会が開かれたことが、10日の聖教に報道されておりました。勤行を終えてから、聖教を見て、その鈍感さにビックリしましたが、これはいつものことと思い直しました。
    「妙とは蘇生の義」と冒頭に掲げていますが、グロテスクなジョークでしょうか。「先駆のスクラム」って、泥にまみれた無残な街で、どうやって走るのだろうか。そういう街は対象にしていないのでしょうか。師弟ともに非常識ですね。

    自然災害と死について
    会員は、その純真な信仰のおかげで善き生を全うすることを約束された人々ですが、その会員の死を考えると、死の瞬間の悲しみと苦しみ、断末魔を思うと、妙法は本当に宿命転換の力がある法なのかと疑ってしまいます。そもそも宿命がいかなるものなのか、その実体はほとんど理解不能です。科学的に言えば遺伝子ということになるかもしれませんが、そこに災害遭遇の運命遺伝子も含まれているのか、考えれば考えるほどわからなくなります。
    遺伝子の進化は固定的でなく、とても柔軟性に富んでおり、創造的です。善も悪もはっきりとした概念で遺伝子を構成するわけではないように思う。十界互具はとても科学的。日蓮が自ら正法誹謗の罪を認めたのは優れているし、革新的なことだと考えられます。しかし其罪畢已という終局の設定は、進化の歴史を考慮すると科学的ではないように思う。心の戝とはまさに遺伝子のこと。宿業論は遺伝子の科学的研究と証明との間で矛盾してはならない。
    宿業は人間の身体全体に付加されている生命情報の設計図のようなもの。人間の身体から離れたどこかにあるわけではない。肉眼で確認は難しいけれど、心を込め強い意思で反復する祈りは、生命浄化の確実な方法であることは間違いないでしょう。蘇生は祈りであるとも言えますが、その祈りの対象を正しく認識することが先決です。会員の皆さまは、何を目指し、どこへいこうとしているのか、自分が何を拝んでいるのか、知っているというのでしょうか?
    突然変異や再編成、修正しながらつなぎあわせ、新しいピースを生み、切り刻んで結合し、変化し再生産していくダイナミックさ。遺伝子は、全生物の過去の記憶と情報のDNAという物質の集合体。この組み合わせ無限大の進化の歴史を、宿命と名づけることを発明したのが、そもそもの宗教のはじまりなのかもしれません。
    また対立しやすい自己と環境の関係を、依正不二と画期的理論で説きながら、いつまでも悪性の依報を克服できないでいるのも人間です。浄土といっても、穢土といっても、自分の胸のなかにあるのですから、災害がもたらす不幸を必ず克服できる妙法ですが、未だに自然災害も戦争といった社会的災いも解決できていません。完成した人格として経典に説かれるほど、人間はいつの時代でも完璧ではなく、善と悪の区別もつかない。
    死から逃げた人がいましたが、どこに逃げても自分の影のようにつきまといますので、死からは逃げられません。一歩を踏み出すごとに、いつも善悪の判断を迫られる人間が、善悪がない世界に逃亡できないのと同じです。わたしは信仰を通して、いつも死の意味を考えるようになりました。冷静に自分の内面を見つめると、死は未知のものであり恐怖があります。そして他者の理不尽な死に出会ったとき、それが自然がもたらした予測不可能な災害が原因であっても、法の無力さを感じて失望してしまいます。完璧な仏、完璧な法であっても、苦しみの死を回避できず、苦の宿命も転換できない。妙法の救済とはなんなのでしょう。仏の慈悲とはどのようなものなのでしょう。多くの犠牲者は善き死を望んでも実現できません。仏界の地獄界は情け容赦がない。妙とは蘇生の義というのなら、死者を蘇生させてください。最近の予測不能な自然災害は、その悲惨さとともに人間の命の無常さが、わたしを打ちのめすほど強く迫ってきます。いくら涙を流して悲しんでも足りません。死者のことを深く考えずにいられません。
    妙法的生き方であるより善き生を、仏は信仰者に求めます。信仰者は、より善き死を仏に求めます。しかし仏はいずれも、ただ模範を示すだけでその答えを与えてくれません。自分で問い自分で解答する、自分の胸に存在する仏に問い続ける行為……それが妙法と日蓮は説くのですから、絶えず自分を疑い、自分を信じて、生きるしかありませんね。悲しみに負けないように強くなるしかありません。

    ☆★☆なお、来年は統一地方選と参議院選挙がありますが、その準備がすでに始まっています。わたしの数少ないエージェントの情報によれば、岡山や広島の攻略を、今回の豪雨にたじろぐことなく、むしろ災害をチャンスととらえ、語り口を工夫して対話を進めるよう、上のほうからアドバイスがあったということです。なんでもF獲得の材料にする非情さを持ち合わせていないと、選挙には勝てないと考えるところに、信仰者とは思えない世俗的で低級な常識が垣間見れます。他人の不幸も、Fにコネクトできる手段と考えるその浅ましさに、軽蔑の目が向けられていることにも気づかないのでしょうか。助け合い、慰めや励まし、友情、労わりあいといった人間的感情も、創価と公明党の利益に還元する情熱は、言い換えれば、功徳ほしさのエゴのたまものです★☆★


    ◇◇◇


    平成3年10月27日
    全国青年部幹部会/「自由なる精神」の人間復興運動
    『最後に、ハーバード大学で行った私の講演(1991年9月26日、テーマ「ソフト・パワーの時代と哲学――新たな日米関係を築くために」)に出席された同大学の教授の声を、聖教新聞のロサンゼルス特派員が伝えてきてくれたので、紹介しておきます。
    アメリカ宗教学会の第一人者、ハービー・コックス教授は、次のように語っておられる。
    「今から百五十年前、エマーソンは、このハーバード大学で有名な講演を行っている。それは、伝統と権威を重んずる学問に対する警鐘を趣旨としたものであった。
    真の学問、知識とは、人間一人一人の内面から、そして実生活の体験から、ほとばしるものでなくてはならない。権威によってあたえられたり、また権威によって支配されるべきものではない。
    池田SGI会長の講演は"内なる精神"の意義を現代に蘇生させようとされたものであり、エマーソンの講演の真義をほうふつさせるものであった」と。
    エマーソンは、ご存じのように、ハーバード大学出身の、十九世紀アメリカを代表する詩人、思想家である。
    またコックス教授は、仏教をはじめ高等宗教の本来のあり方に言及されている。
    「精神について、"伝統性"と個人の"内面性"を対比すれば、一般に、宗教の指導者は権威をもって教えをたれ、その権威に民衆を隷属させようとする傾向がある。しかし釈尊をはじめ高等宗教の始祖たちは、決して精神性の押しつけなどしてこなかったはずである。釈尊は"みずからの体験をとおして学べ、体験を深く内面化させよ"と弟子たちに説いたのではなかったか。そこには、精神の権威の行使など毛頭なかったはずである」と。
    「その後の宗教の権威者たちが、精神の権威をもって民衆を支配しようとするのは、まさに【ハード・パワー】の行使であり、始祖の精神とまったく逆行するものといえよう」と』



    平成3年11月4日
    第二東京記念文化音楽祭・総会/民衆の声に応えるのが真の宗教
    『今回の宗門の問題について、幾人かの著名な学者の声を紹介したい。さすがに見識ある方々は、ことの本質を冷静に公平にとらえておられる。皆さまにも参考になる話であると思うので、本日は、それらの要点を紹介させていただく。
    ある教授は、社会学者の立場から、こう述べておられる。
    「宗門と学会の諸問題が、両者の対立という形で報道されているようだが、これは正しい見方とはいえない。世界的な民主化の潮流が押し寄せる九十年代にあって、むしろ、避けては通れない"関門"ととらえるべきであろう。いわば、九十年代という歴史的転換点において、宗教の本来あるべき姿が問われているのである。
    そこでは、教団運営の民主化、国際化時代での布教のあり方、ボーダーレス(=国境なき)時代での宗教の普遍性等々がクローズアップされる。これは健全なことである。
    学会は、日蓮(大聖人)の古典的価値体系を、現代に普遍化するという重要な歴史的役割を果たしてきた。一方、宗門は、伝統的価値にしがみつくことによって、何とか存続してきた。その差は歴然である」
    「ソ連、東欧をはじめとする劇的な変化の底流には、民主化への、大衆の飽くなき欲求があった。結果として、その精神的パワーが、ベルリンの壁の崩壊へ、ソ連のクーデターに対する民衆の勝利へという流れを形成していった。つまり、そうした力が、地球的規模での『情報化』と相まって、社会主義圏にも『自由化』の芽をはぐくみ、急速に『民主化』の流れをつくったといえる」
    「ここで見落としてはならないのは、一連の民主化への流れが、じつは『聖』と『俗』との関係性の根本的な見直しという哲学的課題を背負っているということである」』


    ある中国哲学の著名な学者が語られたとして引用している。
    『葬式が大切というなら、「生まれること」も大切である。なぜ「生きること」について、宗門はかかわろうとしないのか』
    『これからの仏教は、本来のあり方、その本質を問い直さねばならない。たとえば"僧のあり方"。僧を僧として尊敬できるのは、信徒を越える「行い」をしていることによる』
    『信徒の信心の模範となるべきなのが僧であって、そういう僧であれば、敬意は"自然に"出てくる』
    『僧のほうから「私を敬いなさい」では、まったくだめである』
    『日本の寺院は、江戸時代、一種の"役所"として、お上の権力をバックに信徒に君臨していた。みずからの宗教的な努力によって権威を保っていたのではない。日蓮正宗は、学会が出てきた以前の"村の檀那寺"という意識のままである。それが今回の問題の本質であると私は思う。昔の"村の役人"根性である』
    『学会の組織は、信仰で結ばれた組織であり、"精神の絆"をもった「近代的組織」である。それを宗門のほうは、地縁、血縁による非近代的共同体のようにしか思っていない。とんでもない錯覚である。昔からの意識を変革できない、正宗僧侶の"悲劇"である。
    「近代」とは何か、「民主主義」とは何かという、教義以前のことが分からない人が、「近代的組織」の上に君臨しようとするのだから"悲劇"になる』


    一人で君臨できるわけはなく、組織が君臨を認めるのであるから、偉いと思うその心は、十分に僭聖増上慢の素質があります。僧は法を独占し、僧でなければ正しく解釈できないという理由をつけて、僧の優位性を強調し特殊化します。反対に、在家は必ず特殊な法を分かりやすいように一般化します。「聖」と「俗」の哲学的課題は特殊化と一般化の問題です。現在まで培われてきた哲学の、伝統と歴史のなかで定着した言葉で、宗教的な特殊な真理を表現しなおすことが大事ですが、誰にも受け入れられる分かりやすさで語ることは、菩薩の使命といっても言い過ぎではないでしょう。創価が、その役目を果たしてきたことは、今更言うまでもないことです。
    信じる行為は、年齢や性別、社会的環境に関係なく人間性を証明する平等な特性です。僧であろうと在家であろうと、人間であるかぎり信じる強さと深さは同じです。僧は差別を作ってはならないし、本尊を身勝手に独占してはならない。宗門の閉鎖性と硬直化は破滅的です。


    宗教と権威主義について
    B・ウィルソン教授との対談「社会と宗教」のなかで、宗教と権威主義について、先生が問題提起されています。
    会員の方々はあまり認識されておりませんが、教義の真実性を不動のものと信じているがゆえに、超越的権威が潜在的に包含されるという問題を解決しなければなりません。これは宗教史から学ぶ教訓なのですが、あらゆる宗教の根本的問題として、民主的組織運営を誓っていても避けることができない問題です。

    先生は次のように言われております。
    『宗教はその教義に関して権威を主張することから、その組織のあり方も、権威主義に陥りやすい傾向をもっています。そして、そのため、多くの宗教において、個人の救済を目的としながら、実際は、権威主義的組織の中に個人は埋没し、圧殺される場合が数多くあったように思われます。この宗教組織のもつ権威主義的傾向というものを解決する方法としては、どのようなことが考えられるのか、それについてお聞きしたいと思います』
    と、教授の意見を求め、また次のように言われています。

    『権威主義を生み出し、支えているのは、大多数の人々の中にある秩序正しさへの欲求や、服従への欲求等であるといえます。そうした人々にとっては、権威は好ましいものであって、否定される必要はないでしょう。しかし、権威を保持した人間は、たんに、そのような支持者に対してばかりでなく、権威を嫌う人に対しても、権威への服従を求め、その力を行使しようとします。そこに非人間的な圧迫がしばしば生じます。
    そればかりでなく、自己の権威を守るために、自由な論議や、創造的な思想や行動に対しても、これを抑圧しようとします。その結果は、その教義の硬直化を招き、自由な、自発的な信仰心が生み出す、宗教の活力ある生命を奪い去ってしまうことになります。
    その意味から、私は「人々が権威を求め、それに服従することに喜びを感じているなら、そのことを非難したり、改めようとしたりする必要はないではないか」という考え方は、誤りであると思います。権威主義的傾向に陥りやすい宗教団体にあっては、それに陥らないよう、絶え間ない自戒と、人々の意識の啓発、また組織機構の改善が行われるべきであり、それが、生きた宗教としての躍動力を保っていく鍵であると、私は考えるのです。
    その点で、私自身、組織を率いてきた経験からも、いま教授が挙げられた、責任を分散し、人々に参画と相互作用を促すこと、それによって、個人の経験や個性的能力を、全会員のために役立たせるようにすることは、きわめて、大事であると思っています。
    また、それ以外に、会員のもつ力を有効に組織化していく道はないというのが、経験上の結論でもあります』


    先生が「結論」と述べられていることに注目しなければならないでしょう。
    詳しくは実際に本にあたってください。
    これに対するウィルソン教授のコメントは、大変示唆に富むものです。

    『宗教運動にあっては、権威主義的な傾向を取り除くことは、他の場合よりも困難です。批判的精神を培うことは、たとえば純粋に知的な状況の中では、明らかに奨励されうるものですが、しかし、それは宗教運動においては、調和を妨げかねません。宗教運動では、一心同体であること、同一の目的に献身することがそれ自体、貴重なこととされているのです。
    宗教において、権威主義を防止するためには、たぶん運動内の各レベルの指導者が、自分に直属する輩下の人々に参画を求め、即応的な相互作用を促すべきことに、気付かなければならないでしょう。責任の分散は、それ自体、権威主義的な傾向の助長を阻む、一つの方法です。命令された仕事の中でだけでなく、より積極的な率先行動が要求される場面においても、各個人が果たすべき独自の貢献の道があるという考え方は、活動の分化を促進しますが、これは、すでにそれだけで、権威主義の特徴的パターン――統一的な支配と人々の紋切り型の反応――が形成されるのを防ぐものです』


    25年以上前の対談ですが、問題の重要性はますますクローズアップされていくことでしょう。
    わたしは、遠い将来のことを心配しているわけではありません。先生が高齢であることを思うと、直近の未来に両者が指摘した権威主義への対処が必要になってくるということです。きっと原理主義者がはびこるでしょう。釈尊滅後もそうでした。大聖人滅後も、天台宗という母胎に帰ろうとした原理主義者たちがいました。法を体現し、実践面で信仰者の手本となる、一人の稀有な指導者がいなくなると、権威をかさにきた原理主義が横行し、それに対抗する勢力もまた生まれるということです。
    このような対立を防ぐために、ウィルソン教授が指摘しているように、各個人の独自の貢献をまず認めなければなりません。現在の選挙支援活動にも見られるように、「紋切り型の反応」に価値を置かないこと、信仰活動は多様であることを認めること、貢献の仕方は個人の考え方、裁量の範囲で適切に判断し、対応しなければならないこと、それが権威主義への対抗措置であることに気づかなければならないのです。創価ルネサンスと喜びながら再出発しましたが、まだその始まりを駈け出したにすぎないのです。
    過去をさかのぼり、歴史のなかから良き手本を探すことも必要でしょう。しかしそれだけではいきづまり、現在進行の人間の行動から、信仰者の正しいあり方を示す指導者が不可欠。人間革命集団と定義される創価にあって、一人一人の英知と実戦力が試されるのです。
    先生が数十年前からたいへん危惧されている問題を、無垢で素直な会員の皆さまは、どのようにお考えなのか。わたしは師弟不二ってなんだろうと思うのです。不二という強い人間関係でありながら、弟子は何も考えていないのです。楽観主義を勘違いされているのではないでしょうか。

    創価系ブログはいっぱいありますが、読んでみると「紋切り型の反応」記事が多いことに気づきます。それでも必要性が認められるからなのでしょうが、自分の言葉で語らない悲しさが、わたしには憐れに映ります。つまり信仰は創造的行為。信仰の奴隷は、自力信仰を目指しながら、他力になっている自己なのですよ。
    当然のことですが、信仰は自己責任であること。自由意思から選択した行動は、すべての責任を自分が負わなければならないことはあらためて言うまでもありません。したがって、一様な型を作り、流し込むことではありません。行為の責任を負いながら、自分の力で、悩める自己を救済していくという自力性、言い方を変えれば、自己変革は、自立した自己完成でなければならないということです。

    創価に対して、よく批判的に、あるいは過大に問題を指摘する人がいます。わたしもその一人と見られているかもしれません。信仰は強制でできるものではありませんから、わたしの批判的行為は純粋さにより近づこうとする、わたしなりの努力であることをご理解ください。先生が言われる自戒なのです。わたしは創価を否定しているわけではありませんし、ただ、一般会員の方々のような反応はしないというだけです。
    「権威をかさにきた原理主義」……会則変更に見られる幹部の独断が、まさにピッタリあてはまります。何かと言えば先生を引っ張りだして、先生という権威を振りまわすのです。「先生」という原理主義です。


    宗教のシミとコミニュケーション
    宗教の虚偽と戦う人間は、いつも権威から破門される。
    創価は虚偽で満たされようとしているけれど、それは尊敬に浮かぶシミのようなもの。純粋さが失われていく一つの過程です。宗教は全部、同じ過程をたどり腐敗する。
    なんども訴えますが、はじめから宗教に権威などないのですから、権能などという言葉で誤魔化す宗教は、真の民衆仏法ではありません。もちろん、法主の権威をふりかざす宗門も、伝統の埃が積もりに積もり、その礎の色までわからなくなりました。どんなにやわらかい言葉で繕おうと、権威にはいつも嘘が混じっているのです。わたしは権能という言葉を見た瞬間、その虚偽を見抜いた。低レベルの権教であればあるほど権威を主張するものです。模倣品を高価そうに飾るのと同じ。
    創価も低レベルの人間に相応しい宗教に宗旨を替えました。
    宗教は一人一人の人間のためにあることを、しっかり考えるのも信仰者の責務です。その人間を大事にしない組織は、やがて滅亡する。正しい法であっても、民衆に受け入れられなくなれば滅亡する。宗教の五綱を、深く知る必要がありますね。五綱のなかで注意していただきたいのは、【国】です。グローバル・レリジョン、地域限定から開放された世界宗教の【国】は全世界です。かの地が謗法の地だからという理由が、世界を志向する妙法にいかに相応しくないか分かります。民族や習慣、言語や国家に限定された地域宗教の偏狭な言い分とは、もう縁を切ったと思ったのですが、創価の石頭は外見ばかり気にして、内実は世界宗教という意味も理解できない。だから、根拠もなく権威を強調する。口では実教を唱えながら、心は権教の迷妄。

    いろいろな考え方があって健全ですが、否定的意見には否定的に対応するのが、普通の人間が選ぶ対応だと思います。宗教組織にとって共感共有の感情は欠くことができません。創価は、教義とその目的の純粋性から、会員に感動を与え、日々の生活から宗教活動にいたるまで、善になるための努力をしてまいりました。また、信仰の喜びを社会に還元し、社会に有為な人材になるための自覚をつねに保持しながら、中傷も恐れずに対話を続けてまいりました。会員はコミュニケーション能力に優れていると考えますが、昨今のストレス社会を反映しているのか、会員同士でも不寛容の場面がときどき見られるようになりました。

    特に、会則変更という大切な教義上の問題について、先生の過去の指導を判断基準として引用しても、会員には全く通用しないという恐ろしい現象が起きているのです。正しいことを理路整然と訴えても、それもまた一つの見解、個人的意見として軽視される傾向があることに、わたしはビックリし深く失望しました。わたしは何度も、わたしが正しいと思うことを会合でお話しました。その結果はどうだったでしょう?
    都合が悪いものは見ない聞かない、会員に知らせないという創価の体質であることも承知しております。もともと宗教とはそのようなものですが、C作戦のように大御本尊をカットして、権能という言葉で当然の権利を行使するだけだと主張しながら、つまりは権威を強調するあたりは、腐れた宗門にそっくりと言わなければなりません。宗教にははじめから権能や権威といったものは存在しないのです。人を縛るのが権威。信仰は自由を実現するための意志表示であることをよく考えてみるべきです。法主が会長に変わっただけです。その会長も先生からご指導されて大御本尊をカットしたのでしょう。うそつきもいいところ。

    教義の根幹を変更しても十分な説明もない創価の姿勢は、はなはだ傲慢といってもかまわないでしょう。創価のコミュニケーション能力の衰えも、先生の老衰と関係があるでしょう。
    競争や対立を前提としたコミュニケーションではなく、助けあう人間関係の必要性を考えると、脳の神経回路は協調するための潜在能力を秘めているのではないでしょうか。
    最近の社会情勢、事件の数々を考えると、排他的エゴイズムの虚無が、蔓延しているように思えるのですが、殺伐とした人間関係からは、平和や幸福といった人間本来の普遍的な価値の享受は程遠いように感じられます。遺伝子に具わる共感性は、自分らしい個性を輝かせ、人間関係の希薄化に対し、心が通う信頼を築くベースになることを示唆しているようですね。
    創造的言語は、コミュニケーションで培われてきた人間関係を円滑にする知恵、あるいは礼儀、秩序としての社会での道徳、心根を美しく表現する言葉というものかもしれません。聞くに堪えない汚い言葉が溢れている現在、人間としての徳目のなかに相手を思いやる行為・思いやる言葉を大切にしていくことが必要と心掛けていますが、言うは易し行いは難しですね。

    人間と人間を隔てている壁を取り払う言葉は、歴史のなかで人間とともに磨かれてきた美しい財産です。やわらかな音感、響きとともに、優しいネットワークを築くキーワード、(励ましと調和)を大切にしていきたい。
    妙法の正しい言葉こそ、自他を律する創造的言語ですが、創価も会員も失本心故。本来の意義を失った御本尊をいくら拝んでも、過去世に約束された本当の自分自身を取り戻すことはできません。
    「大聖人直結」「魂の独立」などと、恥かしくなくよく言えますね。同じ言葉でも、裏付けがない、中身がない風船のように、ただふくらんだだけの言葉です。


    Cavalleria Rusticana - Mascagni
    RAYMOND LEFEVRE




    + Read More

    太陽の仏法 1

    6月30日の聖教に、李克強首相の返礼の書が贈られたことが紹介されていました。来日の際に贈られた池田先生の漢詩が優れているのかどうか、わたしにはさっぱりわかりませんが、普通、中国の慣例から言えば、詩に対しては詩で応えるという教養に尊敬を集めるのではないでしょうか。特別達筆とは思えない書と、オーソドックスと言えば良いのか、ベタな文章を見ると、李首相は何を言いたいのか、一国の首相ともなれば、なんでもありがたがるとでも考えているのだろうか。
    毛沢東は晩年、大躍進政策や文化大革命で、多くの国民を犠牲にし死に追いやりましたが、それでも尊敬を集めているのは詩人だからです。また古典に通じ、中国伝統の教養人でもあったからです。
    それとも別の見方もできます。権力志向が強い習近平体制のなかで、生き残る術を心得ており、書の凡庸さが示すようにかえって平凡な処世術と性格が、これから訪れるかもしれない亡国の危機に力を発揮するかもしれない。仮定の問題だから好き勝手なことが言えますが、国が滅ぶときは乱世の英雄が現れるときでもあります。使命は基本的に自覚するものですが、ときには天から降ってくるように必然的に与えられるときもあります。克強とは波乱を予想させるお名前ですね。
    中国の社会問題は多岐にわたり、いずれも緊急性があります。その根本をたどれば共産党の独裁体制に行きつく。政治家と官僚の汚職と腐敗、賄賂、環境破壊、都市部と農村部の経済格差、人権抑圧、少数民族に対する弾圧、宗教と信仰の否定など、あげればきりがない。社会問題を網羅している中国の矛盾した体制は、民主主義国家へ転換しないかぎり改革は不可能ですが、共産党が権力を手放すはずもない。共産党の選択肢は限られています。権力を維持するために力で反抗勢力を抑圧し弾圧するという道より残っていませんが、わずかに「中国化」という範囲内で、社会主義と国家に貢献するためなら許される。自由という価値の蹂躙は多くの悲劇を作りました。災難と隣り合わせの不安定な政権に近づき、繰り返し賞賛を望む仏教指導者。創価は危険地帯に足を踏み入れている。
    「風格は永久に不滅」と人類の師のように尊敬を集めているのですから、中国で行った多くの講演で、ひとつでも民主主義について講義してもらいたかったと思いますが、表彰というボーナスがなくなる恐れもあるので、そんな勇気もないのかもしれません。お世辞は、相手を一時的に心地よくさせる点で偽りの化城であることから方便に似ていますが、仏法ではありません。

    無教会主義の反戦
    無教会主義者では、南原繁、矢内原忠雄といった知識人が著名ですが、戦中戦後の学術・思想界をリードしました。また、反戦活動も、日本の良心として評価され、かろうじて宗教界のステータスを保ったと言っても良いでしょう。内村鑑三が果たした役割は大きいと思います。
    仏教は優れた教えですが、傑出した指導者が不在なため、非戦を高唱しながら、物陰に隠れるような見苦しい人間ばかりで、脅されると信念も教義も放棄するという不誠実さ。揺るぎがないなどと自慢しながら、常に揺れているのが僧侶の姿です。そもそも信仰の初歩的段階で無垢な信者の善意とお金を天秤にかけるような不届き者。言い過ぎかしら?
    やはり、内村の弟子で、山形県に基督教独立学園高等学校(ウィキペディア)を作った鈴木弼美は、軍人でありながら治安維持法で逮捕されました。純粋な反戦活動は知られていませんが、戦争が次第に悲惨さを増していくにつれ、良心的な兵役拒否にいたったと考えております。無教会主義と言ってもそれぞれ独立的な志向が強く、絶対的反戦、あるいは苦しみながら戦時へと参加していった反戦主義者もおり、個人の意志の範囲内で判断していったのではないかと思います。無教会主義はその意味で、キリスト教を基礎としながら、広範な思想を内包していたと考えております。特に、リベラルな思想と結びつくとき、政治的勢力として一定の役割を担う。
    わたしはどうしても牧口先生と対比してしまうのですが、仏教における寛容性の問題は、悪の改心を信じて容認するという善性を重んじる心の大きさを感じますが、その一方で取り返しがつかない事態になりかねないという緊急性に劣るところがあるのではないかと思います。銃を構える人がいたら、強く制止しなければ犠牲者がでて、善良な人々に危害が及ぶという、やり直しがきかない事態になることが想像できます。仏教的アプローチは時間と手間がかかり、漸進的改革も世代的な継承を続けながら、その志を継続していかなければなりません。もう2000年以上も非戦への意義づけを繰り返してきたのですが、戦争は激しくなるばかりです。
    創価は主要な理論展開のフレームを三代で基礎づけましたが、これで完成したわけではありません。現実の難問題は、何一つ解決していないと認識してもよいでしょう。縁起の思想で、他者への関与を基本とする仏教は、釈尊の時代から平和や人類的課題に挑戦してきましたが、科学技術の進歩により、応酬とレスポンスを越えそうな問題解決のプロセスは、複雑になるばかりです。人間という生物は、もともと争うことに喜びを見出しているのかもしれません。
    会員皆さまは、人間主義を万能の思想のように勘違いしておりますが、強情な宗教原理主義者を改心させるほどの力がはたしてあるのか。それ以前に、日蓮の独一法門も改宗不可能な原理主義の様相を帯びております。対立を軸とする思想の小競り合いはあとをたちませんが、必ず暴力的な争いに発展し、根深い確執と悪意が生まれることです。政治的にも絶対平和主義へシフトすべきです。
    公明党の政治的思想の独立を願わずにいられませんが、リーダーには必ず必要な先見性に劣るように思います。与党であることをあまりにも優先するために、自民党に折好いタイミングで取り込まれ、かえって国民を苦しめるという現実は、もう黙認できないほどのせっぱつまった状態です。先生と執行部の政治好きは、会員に取り返しのつかない後悔をもたらすかもしれません。
    中国、近畿地方を中心に、大水害が発生しました。多くの犠牲者や被災者にお悔やみ申し上げ、一日も早い復興をお祈りいたします。国土保全は政治の原点と言っても過言ではありません。その主だった政策を管轄する国交省の大臣が公明党出身であること。現在の石井大臣は太田大臣から引き継ぎましたが、2012年から公明党が独占しており、国土計画、社会資本の整備や調整等に具体的なビジョンを持っているのか。また膨大な予算とともに利権も集中しやすいことから、公平で清潔な政治家の人柄が求められますが、災害が多発する昨今、その手腕の卓越性に注目が集まります。国民政党とは言い難い、創価に偏重する公明党の意思決定を持ちこまないようにしていただきたいと思います。

    「新・人間革命」の終章
    「新・人間革命」の連載も終わりに近づき、宗門と創価の間の熾烈な争いを総括しております。同じ御本尊を信じていても、なぜ罵りあい、虚しい不毛な対立があるのか。中立的立場に立ってジャッジしても意味はありませんが、僧の世界の異常さは、在家には理解不可能な気がします。僧への尊敬は失われておりますので、日蓮の魂からほど遠い宗門が、腐敗し滅びても、もう創価に関係はありません。信者から絶縁された聖職者とはどういう存在なのか。宗派が違っても、これほど値打ちがなく、社会にとって無価値な存在はないでしょう。
    むしろ新しい家を建てるときは更地にすることを考えると、宗門も滅びて一から出直せば少しは救いがあるかもしれません。したがって法主を頂点とするヒエラルキーを解体し、民主的な組織を再生しなければ生き残れないでしょう。未来には大御本尊を残し、大石寺ももぬけの殻になる可能性もなきにしもあらず。広布を忘れると使命も見失い、つまるところ住所も寂れ、次第に荒地獄になります。
    破門通告というギャグに等しいバカバカしいことを、まともなことと考える僧の幼稚さは、日蓮の宗教改革と広布という遺言をないがしろにしてきた結果です。一部の聖職者が、特権的に支配する教団は、大乗仏法ではありません。大御本尊を守っているように見せながら、実はその真理に背反し、御本仏に屈辱の言葉を投げつけているのと同じです。自己流で自分に都合よく自己弁護する僧ほど醜い姿はありません。日蓮の法に殉じる純粋な自己犠牲、あるいは弱者という末法の悩める凡夫のための憐れみと同情を持つことが、御本仏が期待する僧の姿です。御書からうかがえる同苦する人間的な姿が、僧が理想とする姿にほかなりません。

    「新・人間革命」も第2版が出版になり、都合の悪い部分は書き換えられるようです。先生が直接書き直し作業をしているわけではないでしょうから、将来、さらに第3版が出て改変されるころには、誰が書いたか分からないような不統一性が顕著になるでしょう。現在、実際に書き直し作業に関わっている職員は、会員を欺いている可能性がそれなりにありますが、そんなことを考えたら職員をやってられませんよね。ペテン的性格も師弟で相続しているようです。
    はじめからフィクションと思えばよいのかもしれません。フィクションも時間が経つと真実性を帯びたように会員の信仰にインプットされます。虚構が信仰心を啓発するときがくるかもしれない。創価が拠り所とする歴史と教義の客観性に問題ありと指摘されれば、創価もアイデンティティーを失うことになるでしょう。歴史を甘く見下すと、却って歴史から反逆されます。

    宗門から破門された平成3年前後の、池田先生のスピーチをまとめておくのも、問題意識がある人にはそれなりの意味があるでしょう。「大御本尊」とそれに関係した事項をキーワードに、スピーチを引用しますが、すべて先生御自身に還ってくる内容です。「普遍的」あるいは「永遠」といった仏法的に重要な語句が、死語にならないように、会員の皆さまは賢明な判断をしなければならないでしょう。「永遠」はどこまでいっても「永遠」です。だから「永遠」と定義づけるのではないですか。
    たとえ宗門から破門されようと、創価が離脱の拍手をしようと、言葉の意味は変わらない。「生命が永遠」であるなら、時代の変化にかかわらず、「生命は永遠」なのです。千年前も千年後も「永遠」です。「永遠」は証明できないからこそ信じる対象に収まっているのですよ。
    三代会長が何度もご指導されたように、大御本尊は永遠に変わりません。大御本尊のおかげで、創価は、本来の大乗仏法の姿を実現し、在家の広布の組織として発展しました。会員の皆さまも、不可解で謎に満ちた人生を、アグレッシヴに挑戦できたのではないでしょうか。その究極的な良心を否定し、なぜ捨ててしまうのでしょうか?




    平成3年10月16日
    第13回関西総会太陽の仏法は全人類に「平等」
    『日蓮大聖人の仏法は、「太陽の仏法」であられる。
    太陽は全世界を照らす。その光は、一部の人々、一部の地域だけのものではない。まして、一部の悪人たちだけを照らす太陽などあるはずがない。
    太陽には、「差別」がない。「太陽の仏法」もまた、どこまでも「平等」である。
    この仏法を信仰しているように見せかけながら、自分勝手な「差別」を持ちこむのは、「太陽の仏法」を殺す魔の働きであると断ぜざるをえない。
    いわんや悪人と陰で手を組み、正法破壊の陰湿な策謀をめぐらせるのは、「太陽の仏法」の信仰者とはいえないと私どもは思う』

    善も悪も区別せず、万人性の象徴として「太陽の仏法」とご指導されていますが、差別を持ち込んでいるのは、宗門であり、あるいは創価自身なのではないでしょうか。太陽の仏法というほど、創価の太陽は全世界を平等に照らしているわけではない。


    平成3年10月17日
    関西最高協議会・三烈士の精神は学会の中に
    『きょうは十月十七日。弘安二年(1279年)十月十五日に「熱原の三烈士」が殉教し、その報が大聖人にもたらされたのが十七日である。大聖人の出世の本懐であられる「一閻浮提総与の大御本尊」を建立される機縁となった、この法難について、少々、語っておきたい。
    熱原法難は、無名の民衆が、強大な権威・権力による弾圧に対して、身命を惜しまずに戦った、誉れの"先駆の歴史"である。また、今、法難の経過をふり返った時、そこから数々の教訓を汲み取ることができる。
    なお、熱原法難の史実を初めて詳らかにされたのは、日亨上人である。上人の「熱原法難史」、私が願主となって発刊された「富士日興上人詳伝」など、そのご研究の成果を基本としてお話ししたい』
    『僧侶は、本来、民衆を救うために、正法に導き、成仏への道を教え、信仰を励ますなど、信徒の幸福に尽くすのがその使命のはずである。僧侶の権威をかざして信徒を抑圧し、従属を強いて、信徒に奉仕させるというのは、本末転倒である。そのような者は、もはや仏弟子ではなく、僧侶ともいえないであろう。
    (中略)
    いつの時代であれ、仏教の「平等」の精神に反して、僧侶が権威をふりかざし、信徒に従順と尊敬を強要するようになった時に、教団は腐敗し、僧侶は堕落している。信徒の側は、僧侶の権威にひれ伏した時に、本来の信仰心は失われ、僧に仕え、依存するのみの形式的な信仰となり、真の功徳はなくなる。
    御本仏日蓮大聖人、すなわち大御本尊に信伏随従し、仕えることは正しいが、その根本から外れて、僧侶に仕えることは、仏法の本義に背く誤りであることを知らなければならない』
    『表面の姿だけを見れば、三烈士は処刑され、敗北したように見えるかもしれない。しかし彼らは、"信仰者としての誉れ"を、"人間としての勝利"を勝ち取ったのである。そして、民衆の間に、確固たる信心が、深く根ざしたことを身をもって実証した。
    この法難を契機に、大聖人は、出世の本懐であられる「一閻浮提総与の大御本尊」を建立される。ここに、三烈士の名は永久に残され、永遠に輝き続けているのである。
    (中略)
    熱原の三烈士が示した不惜身命の精神、いかなる権威、権力にも屈しない正義の行動は、初代・二代会長以来、創価学会の中に、厳然と生き続けている。脈動している』

    出世の本懐であられる「一閻浮提総与の大御本尊」を建立とご指導されていますが、現在の創価は、三大秘法を出世の本懐と変更しました。三大秘法は一大秘法に収まりますが、その一大秘法は否定しています。つまり、根源を否定し、派生した真理を根源と変更しました。植物に例えるなら、根を拒んで、そこから生じる茎や葉だけを植物だと言い張っている。根がなければ茎も葉も育たないというのに、宗教の普遍妥当性は常識外にあるというのでしょうか。
    さらに機縁となった熱原法難を、結果的に、機縁ではなかったと無理やり繋がりを否定し、三烈士が果たした殉教まで否定している。先生はスピーチでこのあと、熱原法難を詳細にたどりますが、今となっては御本仏の思いまで否定している。熱原の三烈士の殉教は、日蓮にとっても宗門にとっても、最大の歴史的出来事ですが、能動的に、自律的に、他随ではなく随自意の大御本尊を認めることになった機縁(動機)を否定している。最も旺盛な生命状態、御本仏が出世の本懐をあらわされたそのときこそ、仏の境涯であられたことを否定している。
    創価の大御本尊否定は多くの問題を孕んでいることを、会員の皆さまは信仰の根本として熟慮しなければならないでしょう。創価のオフィシャルな見解は、将来再変更される可能性は大いにありますが、そのときまだ先生はお元気でいらっしゃるのでしょうか。永遠の生命を実行し、100歳でも、200歳でも生き続けて、大御本尊を否定した創価の行く末を見届けてください。


    平成3年10月21日
    第14回SGI総会/第47回本部幹部会・「民衆主体の宗教」が興隆
    『(敦煌の興亡の歴史にふれながら)しかし、繁栄は永遠に続くことはなかった。人々は万代の繁栄を願い、望んだであろう。だが、歴史の審判は厳しかった。敦煌に花開いた仏教も、八世紀ごろ(唐の時代)、滅亡の兆しが始まる。もちろん、そこには、さまざまな要因が重なっていることも事実である。(中略)
    たとえば、①航海技術の発達により、交易ルートとして、南海路(海のシルクロード)の重要性が高まり、相対的に陸路(オアシス・ロード)の必要性が低下した(経済的繁栄のかげり)②民族意識の高まりにより、諸民族融合の象徴であったシルクロードが分断された(社会の変化)③イスラム教徒の侵入があった(外敵の侵略)などが考えられる。
    それはそれとして、敦煌の仏教滅亡の最大の要因は何であったか――。前述の教授(北海道教育大学教授)は、仏教内部の「腐敗」と「堕落」であったと指摘しておられる。
    "内部から崩れた"と。内側が腐敗してしまった。堕落してしまった。万有流転といおうか、"興亡"の歴史の方程式は、昔も、そして今も同じである。
    当時の僧侶も、民衆を抑圧し、蔑視した。限りなく搾取した。僧は"悪の代名詞"にさえ堕してしまっていた。
    彼らは、貪欲に、名利の追求に狂奔した。頭の中は"仏道"ではなく、"金儲け"のことばかりになってしまった。「法の正邪」に対する厳しさは薄れ、都合のいいように書き換えられた偽の経典が流行した。その経典にかこつけて、民衆をおどかし、だまして、金品を巻き上げた。「法」の純粋性を守り、後世に伝えゆく使命など、いつしか完全に放棄してしまった。それが、僧侶の嘆かわしい実態であった。許されざる「仏法利用」「信仰利用」である。
    さらに、寺院への隷属を強いるため、「寺戸(じこ)」と呼ばれる特殊な制度をも作る。「寺戸」は寺の周囲に住まわされ、移転の自由も、地域住民との結婚の自由もない。寺のために一生、強制労働に従事させられたといわれる。
    しかも、年をとり、使いものにならなくなる(働けなくなる)と、他のオアシスに追い払われた。役に立つうちは利用しつくし、用がすめば、とたんに切り捨てる――この無慈悲、残酷、非道。これが聖職者のすることであろうか。
    「歴史」は、ありありと、"現在"の本質を映し、私どもが進むべき"未来"を照らしてくれている』

    偽の経典は、過去のことではありません。偽の創価の歴史、偽の人間革命。「小説・人間革命」は、現代の御書と、かつてF副会長が発言して宗門との間で問題になりましたが、現在の会員は改めることもなく、現代の御書と発言して平気です。はっきり言えば、F副会長と同じレベルの問題意識で、反省などさらさらない。同様の発言をしながら、F会長は散々に批判されたうえに除名され、現在の会員は誉められるというのはどうしてなのだろう。もう宗門とは関係なくなったので、何を言ってもかまわないという節操のなさ。つまりモラルが欠如している信仰者とは創価の会員のことです。
    「現在では、主師親の三徳を具備しているのは池田先生」という発言もありましたが、現在も会員はそう思っているのですから、あのF副会長の言うことは、会員の気持ちを適切に代弁していたということですね。こうなるとなにが正しくて、なにが時期に合った発言なのか、分からなくなってきます。信仰心が理性を失い、過剰な表現に行き着いてしまうと、ドグマの蜘蛛の巣に捕われた昆虫同然に身動きできなくなる危険性があります。過剰な表現と信仰心の深さは関係ありませんが、知性のない人ほど過剰になるようです。騒々しく怒鳴るのは、恫喝し威圧する力自慢と同じで、宗教の健全さや清廉さとは無縁です。狂信者には十分警戒する必要があるでしょう。
    寺戸(じこ)制度は寺請制度と同じですね。日本ではやがて檀家制度に発展しましたが、移転手続きには寺請証文が必要でした。寺を中心に自由が拘束されていたと考えることもできます。釈尊や大乗の精神がまったく失われ、自由を制限する道具に使われたこと。権力に迎合し、権力者を背景にして、自ら代理権力者のような地位を築き、底辺にある農民を支配し苦しめたこと。そこには餓鬼道のような僧の姿がありますが、その堕落の根底の精神を引き継いでいるのが、太平洋戦争時の怖気づいた宗門の姿に顕著に見ることができるでしょう。「立正安国」なんて、夢の夢の絵空事の物語です。


    Dreammaker
    Thomas Bergersen






    bb-901111.jpg

    万人にすべてを説く

    日常のなかで、喜びを見出すことは簡単なようで難しいものです。わたしの場合、後悔にさいなまれる日が圧倒的に多いし(over?)、情けないと泣きたくなる日も多いから、自分にカツを入れて毎日決意の連続です。今まで安定と保守こそ敵だ、と勇ましい言葉を吐いてきた手前、簡単にあきらめるわけにはいかないのですね。そうそう敵がまた増えました。変身した創価も宗門も敵だ! わたしに何枚もアンチのレッテルを貼りつけて、憎々しげな眼差しでにらみつけてくるからです。不軽の悲しみも少しは理解できるというものですね。逆に、ありがとうと言わなければならないでしょうか。

    創価は大御本尊を受持の対象にしないと宣言しました。教義上の厳格さにこだわるのなら、決して起きない問題だったように思うのですが、教義なんて時代とともに変化すると、まるで賢者のような顔で息巻くものだから、なにも考えない無知な会員、活動はするけれど学ばない会員は、そんなものかと思ってしまうのですね。
    宗門も宗門で、時代錯誤も甚だしく、在家蔑視の伝統的気性に囚われ、自らの可能性を束縛しているようです。出家の原点に立ち返らなければ、日蓮の真の志を、いつまでも理解できないでしょう。
    大御本尊不受持に関して、創価でも先生のご指導は一言も紹介されていませんが、わたしのような平会員では、先生がなにを考えていらっしゃるのか、皆目見当がつきません。このような重要事項に、はっきりしない指導者も珍しいことです。
    御本尊は人法一箇、日蓮大聖人の御命が妙法そのものです。信仰者は法を擬人化しやすいものですが、日蓮は信仰主体者である人間を代表しています。上行菩薩は地湧の菩薩の上首ですが、単にリーダーというだけでなく、妙法のシンボルであり、全菩薩の人格も代表しているのです。その一体の姿を大御本尊として表現されています。つまり、大御本尊は日蓮大聖人そのままの御姿なのです。信仰者全員が仏性を覚知できるのも、大御本尊の慈悲の反映です。御本仏自体であるという大御本尊は、たとえどの地にあろうと大聖人そのものです。わたしやあなたが、どの地にあろうと、わたしやあなた自身であるという事実となんら変わりありません。仏性は特別であるけれど特別ではないのです。同じように御本尊も特別であるけれど特別ではありません。主体的信仰者であれば、わたしやあなたと同じアイデンティティーを持つことを確信してください。どの地にあるかというようなことには、まったく関係がなく、だからこそ、普遍的真理と断言できるのです。
    5月19日の聖教に、「創価学会常住御本尊記念日」という記事がありました。5月12日に請願し、19日に書写されたと記事にはありますが、戸田先生が誰に請願し、誰が書写されたのか、主語が抜け落ちています。また護法の功徳力によって75万世帯の弘教を成就されたのではないですか。日蓮が「報恩抄」まで著されて強調した御本尊への恩の大切さをすっかり忘れている。根本尊敬の御本尊を物扱いする、あってはならない過失が創価にはあります。尊敬心は絶対的尊敬心であって、自分の都合により、また置かれた状況等によって変化するものではないのです。普遍的ということを、戸田先生をはじめ池田先生も繰り返しご指導されてきたのではありませんか。なぜ、根本的信仰対象を卑しめるのですか。御本尊はファッションではないのですよ。

    ウィルソン教授との対談「社会と宗教」を残してくれたことを、とても感謝ですが、創価内ではあまり重要視されていないようです。
    池田先生は次のような質問をします。
    『宗教の教義は、厳格であるとともに、普遍性をもっているということが必要であり、これは、世界宗教であるための、また時代の変遷を超えて長命であるための、必要な条件ともいえます。厳格なものでなければならないということは、時代によって、また社会によって容易に変えられるようでは、宗教の持つ尊厳性が失われてしまうからです。
    しかし、この厳しさが、ときには衝突を引き起こしたり、柔軟さを欠く結果となって、人々に受け入れられなくなってくることも事実です。教授は、宗教の教義は厳格かつ不変であるべきであって、時代とともに様相を変えていくなどということは、宗教の堕落だとお考えになりますか』

    (第一部 人間と宗教「普遍性と特殊性」)

    人格神と法の関係を論じたあと、宗教の中心をなす普遍性に話題を移しています。ウィルソン教授の答えは大変有益かつ必然的なものですが、法華経がなぜ万人向けかということのヒントもまた、答えのなかに含まれています。教授の知識はとても広く深い。御本尊に迷っている今こそ、じっくり読むべきですが、わたしは、婦人部のあいだで面倒な哲学の軽視傾向があることを悲しむものです。妙法から哲学をとったら何が残るというのでしょう。人間主義から不要なものとして思想を削除したら、何が残るというのでしょうか。宗教は祈りをともなう哲学であり、実践のための思想です。

    ウィルソン教授の対話は常に明快でくもりがありません。学究者でありながら信仰者の気持ちもよく理解しているようです。
    『純粋な形の仏教の教義は、その発生の当初から、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の教義よりも、普遍性がありました。それは、ユダヤ教などの三宗教の場合は、仏教よりもはるかに文化的・歴史的に特殊な状況の中に、その起源をもっているからです。仏陀の思想が抽象的・形而上的な性格のものだったこと、神についての神人同形的な概念がそこになかったことは、仏教の教義が普遍的な性格をもつのに寄与しました』

    すでに多くが論じられていることですが、こういう基本的事項はよく承知しておかなければならないでしょう。しかし、キリスト教・イスラム教はすでに世界宗教ですが、流布過程において多くの困難があったことに思いを寄せなければなりません。
    以前ビデオで、ブルース・ウィルス主演のアメリカ海軍特殊部隊(シールズ)の戦闘を描いた「ティアーズ・オブ・ザ・サン(Tears of the Sun)」を見ました。絶望的な戦地で、献身的に難民に尽くすキリスト教宣教師の姿がありましたが、このような命がけの布教で、世界宗教に発展したものと思います。映画では戦闘に巻き込まれ冷酷に虐殺されますが、キリスト教のその純粋な自己犠牲は、特に聖職者に求められました。どちらかというと、内面に閉じこもりがちになり、功利的判断を優先する仏教徒には考えられない崇高な姿です。暴力の前で無力でありながら、無抵抗の命をかけた使命ほど尊いものはありません。絶対的平和主義とは、命を害する力の脅威である攻撃性の全否定なのです。世界を威圧的に動かそうとする力への信仰が、どれほどの不幸を作り続けてきたのでしょうか。十分過ぎるほどに経験してきたのではありませんか。

    『もし仏教の教義が十分柔軟性に富んでいて、対象となる心的態度が黙想的・神秘的なものであれ、合理主義的なものであれ、また、現実主義的であれ、それらをすべて受容できるというのであれば、この三つの異なる態度のいずれに対しても、仏教自体は、常に不変であるということなのでしょうか。
    それとも、仏教も、種々に異なった文化や気質に合わせるために、教義を変えないまでも、強調点を変えるといった内的な変化を、ある程度経ているのでしょうか。
    仏教も、その歴史と布教の長い過程において、かなりの内的な多様化を経てきたことは明白です。
    そうした順応は、仏教がすべてを受けいれる受容力を示すものと受け取ることもできましょう。しかし、反面、普遍的に有効な倫理という概念を脅かす状況への妥協であったと見ることも、同じくらい可能なことでしょう。普遍的な効力をもつ思想や教えを有効に説くためには、宗教は、内的な統一性・一貫性を示さなければならないのでしょうか。(中略)
    (仏教は)土着の宗教的伝統と寛大に妥協を行う中で、その中心的な関心事をさまざまな形で放棄し、その結果"万人にすべてを説く"ようになったといえるでしょう』


    日蓮があらわした曼荼羅には、仏教の歴史が凝縮していると考えてもよいでしょう。いわば、万人性の象徴ですが、問題がないわけではありません。流布してきた国々や地域の、土着の宗教や民間信仰と融合を繰り返してきたのが仏教史ですが、大乗仏教が日本に伝わったとき、天照大神や八幡神も仏教の守護神として取り入れられました。神仏習合、本地垂迹など仏教と神道の習合は、万人性を獲得するための折衷案でもありましたが、これには仏教の中道思想がうってつけだったのかもしれません。天照大神や八幡神は皇祖神でもありますので、創価の初代会長が獄中死したことも考え合わせると、天皇制への複雑な思いもあります。
    万人性をあらわすもう一つの事例は、あらゆる国々や地域の神々や習俗だけでなく、多くの経典とともに、三世十方の諸仏と言われる数えられないほどの仏や菩薩を創作してきたことです。原点である人間的な釈尊は、その過程において神格化をまぬがれませんでした。見方を変えれば、もともと普遍的性格を内蔵していた倫理的教理が、時代や地域の特殊性に左右されない普遍的宗教という世界性のクォリティーを獲得したということもできます。
    もしも、インドから中東地域に拡大していれば、キリスト教も現在と違った形の宗教である可能性も否定できませんが、仏教においても多くの聖人や伝道者が過酷な迫害を受けたことを考えると、流布過程はどういうわけか類似する性質があるようです。穏やかな対話も暴力によって強引に否定される傾向性は、流布する宗教の真理形態やスタイルには関係がないのかもしれません。

    カトリックと創価で、以前、有意義な対話が行われ、その成果が出版されています(「カトリックと創価学会」:信仰・制度・社会的実践/南山宗教文化研究所編・第三文明社)。日本有数の南山宗教文化研究所と東洋哲学研究所の間で、努めて冷静なシンポジュームが開かれ、自由なデスカッションがありました。問題は多岐にわたりますので一口に総括できませんが、宗門問題も大きく取り上げられております。95年のことであり、創価はすでに宗門から破門を言いわたされ、晴れて自由の身になった喜びがあります。冒頭のオリエンテーションでも認めておりますが、宗門という鎖から開放されたことが、対話の一つのきっかけになりました。自分の意見に執着する宗門の閉鎖性は、純粋培養された聖職主義によるものですが、古色蒼然の暗然たる陰鬱さは、これが日蓮の系統の宗教とは思えない凋落ぶりです。信者拒否は人間性拒否につながり、倫理的にもその報いを当然受けます。因果の理法は厳しいですね。
    記念すべき討論のなかで、世界宗教の条件と課題として、「寛容と宗教的真理」のバランスについて考えさせられる個所がありました。これは創価だけでなく、その先駆者として、キリスト教が絶えず直面してきた問題です。言い換えるならば、世界宗教として必要な万人性とは仏の寛容性の問題でもあるのです。キリスト教の仏教的解釈、仏教のキリスト教的解釈という、今まであるようでなかった諸宗教間の親和的友好と対話を、わたしは強く望むものです。
    この論考を提出しているのは、J・ヴァン・ブラスト博士(南山大学名誉教授・カトリック司祭)。創価や宗門問題について知識も豊富であり、議論の焦点にズレが生じることはありません。
    『創価学会とSGIは比較的新しい運動でありながら、古い伝統をもつ日蓮宗、そして仏教全般の中で発展してきた運動である。(中略)
    今まで日蓮宗は世界宗教に発展してこなかったかもしれないが、仏教そのものは昔から世界宗教として認められてきた。SGI―日蓮宗―仏教という三角形のさまざまな側面の間の関係は、どのように考えられるだろうか。あるいは、もっと直接的に問うとすれば、皆さまはSGIの世界宗教への発展を日蓮宗や仏教の枠内で考えるか、それともそれから独立して考えるかということである。後者の場合は、キリスト教が「母胎」であったユダヤ教から分離して世界宗教になったことと類似したパターンになるのである。
    仏教内部での発展をめざす場合には、次のようなことが考えられるだろう。仏教が世界宗教であることは間違いないが、長い間世界宗教としてあまり機能してこなかったことも事実である。なぜかというと、必要とされる教義と組織の統一を失ってきたからである。その代わり、いろいろな国別の仏教、宗派別の仏教になった。それは、ある部分は、さまざまな民族にかなり徹底的に土着化したということによるのである。そうした点から見ると、SGIの革命は仏教の再統一を主要な目的の一つとすべきように思われる。すべての仏教者を法華経のもとに集わせることが、日蓮聖人の夢ではなかっただろうか。オリジナルな普遍的な理念へ回帰することによって、仏教を縛っているさまざまな民族宗教から、仏教を解き放つことができるのではないだろうか。
    他方、もしSGIが現在の仏教の状況はあまりにも複雑で改革し難いものと考えて、始めから再出発した方が簡単であると判断したら、よく理解できることだろう。しかし、この場合には次の二点が重要になってくると思う。一つは、これは多くの既成の世界宗教の他にもう一つの宗教が発展することを意味する。もちろんそれでよいだろうが、それは、すでに存在する宗教間の緊張を悪化させない限りにおいてである。世界平和が達成されるために、このグローバルな地球の村では、宗教間のある統一と相互協力が最大の重要性をもつことはたしかだろう』


    未来の世界宗教のあるべき姿を検討しています。とても重要なので詳述すると、
    『あるいは、この問題を異なった形で表現するならば、未来の世界宗教は今日の既成宗教とどのように相違すべきかということである。もちろん、これは非常に大きな問題だけれども、いくらか希望的に考えて、次の諸点を指摘することが出来ると思う。
    第一に、私は、今日の創価学会でよく強調されるところの、「未来の宗教は在家の宗教であるべきだ」という点を否定するものではない。(中略)
    第二に、宗教は従来、もっぱらといってもいいぐらい個人の救済(ほとんどは死後の)を目指すものと考えられてきた。未来においては、宗教の社会的責任がさらに中心的なものにならなければならないと思われる。キリスト教の中には、初めから「神の国」という形で社会的な側面が入っていたといえる。(中略)
    同じく仏教にも、少し似た考え方として「仏国土」の思想があったが、私が知る限りでは、それは来世のものとして考えられてきたのではないかと思う。仏教においては、宗教の社会的責任がもっとも強調されたのは、日蓮聖人の「立正安国論」の中であったかもしれない。
    未来の世界宗教が示すべき第三の特徴は、他の宗教を宗教的に認めることができることだと思う。「宗教的に」という言葉が意味するのは、本質的に市民的寛容といったもの以上のものである。すなわち、自らの宗教性から出る、自らの宗教教義に基づく他の宗教の評価ということである。これは難しい要求であり、私たちにある種の「改心」を要求し、私たちの個々の伝統の徹底的な再検討を要求するものである。キリスト教においては、こうした作業のうちの知的な部分は、現在「諸宗教の神学」として知られる学問において行われつつある。おそらくこうした作業は、日蓮仏教にとって、したがって創価学会にとって、キリスト教に比べてよりたやすいというわけではないだろう』


    その他の問題点を三つあげている。
    第一に、従来の世界宗教は非常に家父長的なもので、「男性ショービニスト(排外主義)」だったこと。将来の宗教においてはいっそうの男女平等の原理が求められること。
    第二に、科学技術の進歩はめざましいことから、科学に適応するための妥当性が必要であること。
    第三に、未来の宗教は人間主義的であること。しかし他方、人間中心的になってはいけない。
    さらに、寛容の問題について
    『現在、非常に異なるそれぞれの真理を代表する多くの宗教が、「宇宙船地球号」に同乗しているのである。こうした共存の性質によって、諸宗教が世界平和を脅かすか、あるいはそれに貢献するかということは決定されるであろう。したがって、次のような実存的な問いが中心的なものになると思う。自分自身の宗教を広布したいという熱望は、自らの「真理」のために他の諸宗教の「真理」を打ち負かしたいという願望を含むのかどうかと』
    『キリスト教の伝統的な考え方はむしろ日蓮仏教のそれに似ているのではないかと、わたしには見えるのである。間違っていたら教えいただきたいと思うが、それは大まかに次のようなものである。つまり、「私たちのもっている真理は絶対的である。他のどの真理も、人々を救ったり真の幸福に導いたりすることはできない。我々の真理に反する者をすべて廃するということが、人類の真の善に導くものとして必要である」というような考え方である。一見したところでは、これはまったく動かし難い立場に見えるので、それをどの方向で「再検討」できるのだろうか』


    キリスト教も最近まで、異教の他者を廃し、布教の対象にしてきましたが、対話の重要性を強調するように変化しました。宗教戦争や文化の破壊に見られる排他的態度は、イエスの愛に背くものとして反省され、他者をありのままに認める愛の再認識に至ったのです。そして、この鋭敏なキリスト教徒は、「日蓮聖人のメッセージを正しく理解してきたのだろうか」と、SGIと創価に迫っているのです。一神教と一仏教は東西のような開きがありますが、どちらもともに、人間を超えた普遍的実在への過程を説いたものです。その過程に至るために愛があり慈悲があるのではないでしょうか。わたしたち人間は、この崇高な行為の一部分でも実現できているのでしょうか。釈尊生誕から2500年。その仏教の歴史は、内も外も争いの歴史でした。釈尊が第一に説いた共存共栄を可能にする菩薩の心は、歴史の狭間にまだ埋もれたままなのではないでしょうか。
    宗教的真理と寛容の境目で、賢明な検討と実践を行わなければならないだろう。寛容とはつまり慈悲ということでしょう。今までいつも宗教的真理を優先し、他者の信仰を排除してきたこと、そのために常に争いが絶えなかったことを、寛容という徳目の真の力用とともに学ぶべきです。さまざまな宗教観と価値観を持つ人々が共生する社会に、自由な精神を実現すること、それが宗教の最終的使命と思います。絶対的仏が、なぜ正義の名のもとに排他的なのか、よく考えてみなければなりません。
    このような未来の宗教世界について、問題提起もなく、議論への持続的バイタリティーもなく、危機感もない現在の宗門が対応できないのは当然と言えば当然です。生命尊重の思想を体現した日蓮の、本当の心を理解できないほど硬直化し、醜悪なまでに俗世に浸り、信者の苦しみに同苦できないほど悲しいまでに形骸化している。俗に解脱とは、いくら凡僧でも取るべき道ではありません。


    Decimator (Extended)
    Two Steps From Hell





    宗門問題(小説・人間革命の結末)について
    宗門問題をあらためて考えると、日本仏教界全般に認められる歴史的な背景があるように考えます。江戸時代の寺請制度から始まった檀家制度は、信者の自律的、積極的な信仰心からの檀家ではなく、代々の世襲として受け継がれてきた家の宗教という伝統です。明治になり、廃仏毀釈により教団存続の危機を迎えましたが、宗教本来の独立と刷新のチャンスを逃し、保身と教団経営に腐心する体質を一層強化するだけでした。日蓮正宗にも改革者は現れず、世俗化し、妻帯し、布教への情熱を失い続けました。表面的には厳格な宗旨の護持を強調しますが、檀家の信仰心はまったく謗法にまみれていたのです。僧には信徒を教育する力も意識もありませんでした。法主を頂点とするヒエラルキーは、権威と権力の象徴となり、在家信徒はただ従属するという上下関係が頑なに維持されたのです。
    この保身と保守の俗化した宗門組織は、創価学会という改革意識が旺盛な在家組織が現れると、その宗教本来の布教精神に圧倒されます。保身と改革、保守と革新が対立するのは当然のこと。ゾンビのように死んでいる組織が、生き生きと活動し僧にプレッシャーをかける在家に、敵意と悪意に満ちた確執が生まれるのも自然の流れ。冷静さを欠いた聖職者ほど始末の悪い品性はありません。宗門問題は起こるべくして起きた歴史的問題でもあるのです。
    「新・人間革命」(「誓願」五十七・6月1日聖教)では、1991(平成3年)年の宗門の「お尋ね」文書に関連して、宗門の僧俗観の一端が紹介されています。
    『本質的に皆平等であるとし、対等意識をもって僧俗和合を進めるなどというのは、大きな慢心の表われであると同時に、和合僧団を破壊する五逆罪に相当するもの』
    それまでの形骸化した既存仏教に対し、日蓮がどのような革新的教義と行動で臨んだか、750年前の清新の息吹は影も形も失われている。僧俗和合の破壊の原因は、行動をともなわず知識とプライドばかり高い、宗門のその古びた感覚にあるのです。究極的な平等論を展開する法華経の精神は、日蓮時代から著しく退化し劣化している。
    末法は、在家中心に布教運動を前進させ、それぞれの信仰者の人生の節目において必要不可欠な葬儀法要といったセレモニーを、僧は補佐する役目があるのです。また信仰者の模範として人格的にも少欲知足でなければならず、強い護法への決意も必要です。僧が偉いわけでなく、また在家が偉いわけでもない。単なる役割分担に過ぎないのです。十界論も僧俗に区別があるわけではない。御本尊の前では、僧であれ在家であれ、成仏を願う一人の信仰者なのです。
    創価内でも同じです。会長もブロック長も白ゆり長も一つの役割として機能し、一人に焦点を当てるために、一人の成仏と人生改革が最も大切であり、基本であることを認識しなければならないでしょう。万人のための成仏の法は、一人のための成仏法に収斂します。会長の貢献度もB長の貢献度も、基本的に個別の一人に対する関係であり、その働きかけの平等と公平さのなかに妙法の正しさがあるのです。地位や身分、職業、経済的富や資産に左右されないのです。妙法に対する心の財は、信仰者の当然の心構えとして、今更強調する必要もないですね。
    妙法流布は在家が主体です。創価は拡大と献身に自信があるのでしょうか。宗教の根本を変更することに躊躇がありません。創価は信仰心が篤いと自己評価に等しいのですが、こういう信仰者を教育してきたのは宗門ではないのでしょうか。僧俗平等思想を実現してきた創価に、僧俗不平等を伝統にしてきた宗門が、我慢ならずに首を切ったということです。
    誤解を承知で極言すれば、僧のために在家があるのではなく、在家のために僧があるのです。仏教は一切衆生のために説かれたものであり、その流布の系譜に立って日蓮も三大秘法をあらわしました。一部の特権僧に血脈が付属し、同時に帰依の対象になるなど言語道断。神秘的血脈が受容されている法主絶対論(法主本仏論)は日蓮仏法ではありません。法主は正統の後継者であり、日蓮と本質的に同じであるとする僧宝論は、現在では賢くなった在家に対し通用しない。
    僧の位置づけは、布教の可能性を考えるうえでも、とても重要課題です。創価内ではほとんど、僧の必要性が感じられないからです。宗教に付随する儀式的なことは、在家にとって重要な事柄ではありません。儀式はあくまでも儀式であり、形式であり、宗教を荘厳するために必要悪のようなものです。プラグマティックな進化を遂げている世界にあって、実質の宗教本体に帰依する価値があるかどうかという根本的な問題こそ重要です。中身が明瞭でない聖職者という役割の、時代に相応した再解釈が必要と思う。聖職者や僧といわれる特別な権威を持った人たちは、絶対的真理への媒介者ではないのです。
    仏教の伝統的な三宝論は、どのようにして確立されたのでしょうか。その歴史的経過を十分に検証しなければなりませんが、わたしはこのようなことを僧自身によって研究チェックしていただきたいということ。日蓮は三宝論の弊害を克服するために、三大秘法をあらわし、御本尊を書き認められたのではないでしょうか。三宝は御本尊という曼荼羅に包括的に内包されていること、三宝という伝統を打ち破る革新性を妙法に求めたのではないでしょうか。三宝論の伝統を克服すること、それが妙法の革新性を際立たせることになると考えます。
    信徒の実践の基本は唱題です。他者教化という行としての折伏です。また、無知の国では摂受です。そのような個人の修行のなかに僧が立ち入る余地はありません。つまり御本尊と信仰者という、その間より仏法はないのです。御本尊は権威や権力で拝むものではありません。血脈などという厄介なものは、わたしに言わせれば、正統の権威づけの一部に過ぎません。御本尊と信仰者、そのシンプルさのなかにすべてが収まるのです。

    わたしは僧俗和合を願っております。そのためには宗門のなかで聡明なリーダーの出現が待ち望まれますが、簡単ではありません。また創価もドグマの嵐に襲われ、対立のもとになる寛容心の涵養を忘れたようです。唯一絶対正しいなどと誇大妄想に等しい異常な自我肥大は、エゴのかたまりであり、常に争いの元凶です。ある程度の規模に発展した宗教組織は、絶えず集団エゴイズムという危険にさらされているのです。創価には、自分で自分を客観的に評価できないナルシストがなんと多いことだろう。創価オタクを遠慮なく言い換えれば、自分の行為の意味も理解できず、フレキシビリティーに乏しい不毛な創価バカのこと。自律的に自己を再生することが重要な信仰コンテンツなのに、与えられたものだけで満足し疑問に思わないなんて、一体どんな目的で御本尊を見つめているのでしょう。菩薩にも盲信の罠が待ち構えていることを、心して備えておかなければなりませんよ。
    老齢の池田先生に、その指導性を求めるのは、もう無理なことなのでしょうか。老い衰えても、正常な判断が可能な状態にあるのでしょうか。問題を置き去りにする、一貫性がない無責任な師です。
    問題意識を怜悧に持ち、聡明なインテリジェントを結集しない限り、無秩序と混迷が渦巻く世界に、創価の旗を立ち上げることはできないでしょう☆彡


       
      8876187.jpg

    男性原理と女性原理 2

    女性が、土俵に立ち入ることができない理由の一つに、女性は穢れているとされていることです。この「穢れ」とはいったい何なのでしょうか。死穢(死の穢れ)、産穢(出産の穢れ)、血穢(経血の穢れ)。このような穢れは病原菌のように伝染し、周囲を汚染すると考えられていました。女性特有の出血をともなう出産や月経が、やがて拡大解釈され、女性そのものが穢れているとされ、このような概念は仏教思想と合致し、女人禁制という女性排除へと発展したようです。男の勝手な言い分、都合の良い理由付けであることはあきらかです。
    日蓮は、出産についても言及しています。
    『法浄世界とは我等が母の胎内なり』(御義口伝)
    母の胎内は生命の出生するところ。生命というこれ以上の優れた宝はないのですから、宝浄世界と日蓮は讃えられました。女性への尊敬が感じられる言葉ですが、同時に法華経の男女平等思想を受け継ぎ、身分制度で成り立っている封建社会で、普遍的ルールと平等思想の遂行者の姿勢を貫いています。法華経の行者の実践と視座は、経典弘通だけでなく、人間関係や生活の細部にまでおよびます。菩薩は、人間的な悩みを決して疎かにしませんでした。
    現在まで残っている女人禁制という伝統は、偏見という差別のジェンダーバイアスに絡め取られ、呪われています。男性世界を侵す女性の力に畏怖を感じているのかもしれません。

    「釈尊と日蓮の女性観」では、さらに、本因妙・本果妙に展開して次のように述べています。
    『日蓮は、その著「百六箇抄」におきまして、
    「男は本・女は迹・知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可きなり」
    という言葉を残しております。……(中略)……
    この「百六箇抄」の「男は本・女は迹」という一節と同趣旨の表現として、本因妙は男性原理であるが、本果妙は女性原理である、という言い方ができると思います。本因妙とは、平たく言えば、常にスタートに立って「さあ、これからだ」と、未来へ向かっていく姿勢のことです。それに対して、本果妙は、過去の因行と現在の果徳に甘んじて、未来への指向性が弱いと言えます。
    この本因妙の姿勢が男性原理であり、成仏につながるものでありますが、本果妙の姿勢は女性原理であって、成仏からはほど遠いものです。そういう観点から「男は本・女は迹」と言われているのであります。このように考えますと、身体的性別という意味での「変成男子」はヒンドゥー社会を意識した妥協的産物としての便宜的な表現でありましたが、男性原理と女性原理の観点からとらえ直すと、「変成男子」も新たな意味を持ってくると思います。すなわち、「変成男子」の意味するところは、本果妙から本因妙への転換によって成仏が可能となるということになります。
    生命の傾向性において、本因妙(男性原理)に立てば成仏につながり、本果妙(女性原理)に陥れば成仏から遠ざかる。この論じ方は、もはや男性、女性という身体的差異というよりも、生命論的次元での男女論に飛躍しています。これは、外見としての表面的な差異にとらわれていません』

    本果妙的考えは性別に関係なく、常に生活のなかで賛美されています。功徳の価値を見積もり、感情的な宗教批判に推移して敬虔さが失われることです。果徳に甘んじる癖がつくと、組織に活力がなくなり堕落します。現状肯定はやがて現状不満に発展していきます。女性が愚痴を言うのはそのためです。自然に口から言葉が出る瞬間を女性は経験していますが、特に愚痴は出やすい特質があります。女性に怨嫉が多いのもそのためです。

    日常性のなかでの果報(果徳)について、さらに深い展開があります。本因妙・本果妙というメカニズムの違いを明確にします。
    『日蓮は、「御義口伝」において「法華経」観世音菩薩普門品第二十五の「求男」「求女」という言葉に即して述べています。
    それは、
    「第四 二求両願の事
    御義口伝に云く二求とは求男求女なり、求女とは世間の果報・求男とは出世の果報・仍って現世安穏は求女の徳なり後生善処は求男の徳なり」
    という一節です。(中略)
    だから「二求」とは、もともとの経典では、生まれてくる赤ちゃんについて、「男であればよいな」とか、「女の子がいいな」といった「親の求める二つの願望」のことでありました。この点、「法華経」という著しく普遍性を追求した経典にしてから、やはり民間信仰のようなものを取り入れざるを得なかったのか、と思うと興味深いものがあります』
    『日蓮が「御義口伝」において、この「求男」「求女」という言葉を使う場合は、「男性的在り方を求めること」「女性的在り方を求めること」という意味に読み換えています。その両者を求める主体は、男の子、あるいは女の子を産む「父」であり、「母」でありますが、これもまた男性原理、女性原理としての「父母」であることを忘れてはなりません。「父母」といっても、二人の人がいるのではなく、一人の人格における男性原理、女性原理として位置付けられています。
    (中略)
    これによって、「求男」は男性的価値観(男性原理)を求めることであり、「求女」は女性的価値観(女性原理)をもとめることという意味に言い換えられ、また、その「父母」として、その両者を追求する主体としての男性原理、女性原理という関係に位置付けされています』

    中国仏教で用いられた「体」と「用」が「本体」と「その働き」「属性」に相当するとして、男性原理、女性原理の体と用が「父母」と「求男・求女」として示されているとしながら、「求男」は「福徳智慧の男」であり、「求女」は「端正有相の女」「衆人に愛敬せらるる」と、御義口伝には解説されていることを述べてから、次のように男女の特質に沿った説明を加えます。日蓮の深い人間観は、眼を見張るものがあります。本因妙は男性的なもの、本果妙は女性的なもの。本因本果とは「父母」であり、「二求」のこと。
    『こうしたことを踏まえて、「求女とは世間の果報」「求男とは出世の果報」とされるのであります。すなわち、女性的価値観(求女=女性原理)は、「世間」、すなわち日常性の中での果報を求めるところにあるということです。
    これに対して、「求男とは出世の果報」となります。この場合の「出世」とは、会社で出世するというような意味ではなく、「出世間」(世間を出離すること)の略で、日常性を超えたところのことであります。そこにおいて果報を求めるのが、男性的価値観(求男=男性原理)であるというのです』


    このような性の傾向性は、生命の根本的特徴とも言えますが、決して別々にあるのではなく、一人の人間のなかに同居し、使命感、意志やモチベーションなどの内的動機になっていることです。信仰においても性差による傾向性がありますが、功徳や生活改善の欲求は女性が強く望むようです。
    婦人部の活動は、役職が上であればあるほど統一的一体感を重視し、団結というよりは、息を合わせるという姉妹的親しさのなかで緊密感を増していきます。婦人部が打ち合わせにかける時間の長さは壮年部にはきっと理解できないでしょう。通常の活動ですらそうなのですから、選挙や特別のイベントがあると大変です。このような準備がないと、つまり全員が背負う前提がないと、婦人部の活動は崩壊します。女性はリアリストであり結果に感情的に偏重します。非力な自分を常に感じており、その穴埋めを集団に参加することで埋めようとします。問題を一人で背負うことはありません。集団責任のような価値の同調は、上意下達の一方的な情報誘導のなかで承認欲求のすえに起こります。婦人部は権威的情報操作にとても貧弱な対応力より持っていません。池田先生や本部という権威は婦人部活動家の急所であり、その権威の範囲から、独自性を持ち逸脱することはありません。
    男性原理の特徴は出世間ですが、それは指摘されているように日常性を越えたところにあります。現在の果報を求めるより、未来の果報が保証されることに喜びを見出します。世俗的規範から離れ、執着を乗り越え、主体性の確立を求めますが、普遍性という評価基準を何より大切にします。妙法と名付けられるように、法の永続性と普遍性を強調するのは、男性原理の一部とも言えます。新たな解釈を含めて、一直線に本質へより迫ろうとするスタンスは、男性的で創造的。また闘争心が旺盛です。釈尊や天台、伝教や日蓮が男性なのは、生命のなかの性の傾向性に大いに関係があるでしょう。もちろん、女性が劣っているというわけではありません。男性のなかの男性原理が現状を肯定することなく、三世を貫く法を求め抜く強さがあるということ。また批難に耐える出世間の理想を堅持し、決して諦めないこと。

    『このように、男性原理と女性原理の特質を押さえたうえで、「法華経」薬草喩品第五の
    「現世安穏・後生善処」(現世は安穏にして、後に善処に生ぜん)
    の文を、これにからめて展開されています。
    この八文字を、「現世安穏」と「後生善処」の前後二つに分け、まず、その前半について「現世安穏は求女の徳なり」とされます。「現世安穏」だから、今現在と、身の回りのことに重点があるということです。その反面、未来への展望と広い視野に立つことが、この段階では欠けています。この「現世安穏」を求めることが女性的在り方を求めることであり、それが「求女」でもあり、女性原理でもあります。
    それに対して、後半部分については、「後生善処は求男の徳なり」とされます。現在という目の前のことよりも、むしろ「後生」、すなわち未来の理想に目が向いているということでありましょう。この「後生善処」を求めることが、男性的在り方を求めることであり、それが「求男」であり、男性原理となります。
    こうした両者の在り方が、本因妙、本果妙という姿勢となってくるのであります。すなわち、「現世安穏」として現在の結果に満足する本果妙と、「後生善処」として現在の因から未来を志向する本因妙としてであります。こうした違いを踏まえて、あえて男性原理と女性原理を本迹に分ければ、「百六箇抄」の「男は本・女は迹」となるというわけです』


    論旨の経過をまとめると
    男性原理 本因妙 求男 出世の果報 後生善処
    女性原理 本果妙 求女 世間の果報 現世安穏

    仏法は真理が連環していることが理解できます。一つのことに疑問を持つと、次々と疑問の連鎖が起きるということ。日蓮も、問いと答えの論文を多く著していますが、教育的指導と探究心、確信的で強い断定は、男性原理に由来するものかもしれません。

    なお本迹について、『根本と枝葉末節を明確にする「本迹」』ということで、わかりやすい説明がありますので引用しておきます。
    『男女の本迹を論じた「百六箇抄」には、
    「立つ浪・吹く風に・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」
    という言葉もあります。
    「吹く風」があるから「立つ浪」があるのであって、決してその逆ではありません。本末転倒した物事のとらえ方をいましめるために、「本迹」を論ずる必要性を強調されています。価値判断として、「迹」を無用のものとして切り捨て、「本」のみを選び取るべきであると言っているのではありません。本論の視点から言えば、男性原理、女性原理の両者がそろってはじめて完結することを前提としています。
    「百六箇抄」は、このようにあらゆることを本迹という観点から位置づけ、本末転倒した物事の捉え方を正し、何を根本とすべきかを明らかにし、その上で「本」と「迹」の両者の在り方を正そうとしていると言ってもよいと思います。この「本」と「迹」は、「本末転倒」の「本」と「末」の関係と似ています。
    「本」とは「本地」の略で「本来のあり方」ということです。「迹」とは「跡」と同義で、「あと」を意味します。両者は、「足」に対する「足跡」の関係になります。…太陽に手の平をかざせば、地面にその影ができます。この場合、手の平が「本」であり、地面に映った影が「迹」となります。<影があるから手の平がある>のではないことは、だれにだって分かることです。
    (中略)
    このように、先の「百六箇抄」の一節は、「本末」を明確にして、何が根本で、何が枝葉末節であるのかを見定めることの大切さを言っています。
    …自然科学や、社会科学における因果関係、あるいは「只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり」と形容される心のさまざまな働きにおいては、しばしば本末転倒した認識がなされているように見受けられます。こうした認識の誤りに付け込んで、さまざまな迷信、インチキ宗教がはびこりやすいから、「本迹」を立て分けて弁ずることが重要になってくるわけです。
    こうした議論は、天台大師が「法華玄義」巻七上に、
    「不識天月・但観池月」(天月を識らずして、但池の月を観る)
    という言葉を残しているように、「天月」と「池月」という例でも盛んに議論されています。それほどに私たちの認識が本末転倒したものになりやすいということでしょう』


    このような考え方は、妙法の根幹的な考え方の一つですが、この本迹は創価の御本尊問題にも当てはまります。当然のこと、大御本尊は本、その他の御本尊は迹です。迹の御本尊にも真実は内在していますが、それは本の大御本尊を投影し、その力用があらわれた時のみです。大御本尊が宗門の偏屈な石頭の坊主の息がかかるところにあることに、わたしは腹が立って仕方ありません。まるで、腐った泥のなかに咲いている白蓮華です。
    信濃町の大聖堂に安置されている創価学会の常住御本尊は、第2代戸田会長が発願し、当時の日蓮正宗日昇法主によって書写、授与された紙幅の本尊を、板に彫刻したものです。
    日昇上人は自分勝手に、その構造を決め、御本尊をしたためられたのでしょうか?
    日寛上人を含む歴代上人がしてきたように、必ず手本があったのです。つまり、御書にあるように、日蓮の魂魄を留めて生命を移すようにしたためられたことは自明です。御本尊には由緒が大切です。どのような深い信心の者によってしたためられたかどうかです。いい加減な信仰者が、どのように立派に書道の腕を発揮したところで価値はありません。
    人間には誰しも、生物学的な唯一の父母から、必ず両親の遺伝子を受け継ぎます。法と信仰の血脈とは、この遺伝子に象徴される親の生得の尊厳を受け継ぐことなのです。創価の本部常住の御本尊は、一閻浮提総与の大御本尊の遺伝子を受け継いでいます。戸田先生は、そのような御本尊を望んで、広布のために願主となられたのです。したがって、何度も繰り返し、頑固に、大御本尊から離れてはいけないとご指導されているのではないですか。会員を第一に思う替えがたい慈悲があるからです。この御本尊の普遍性は、池田先生もかつてご指導されていたように、永遠に変化するものではありません。環境や時代に関係なく法則は普遍的なのです。そのことを信じられるかどうかが、妙法の信仰なのです。
    しかし、池の月はただの影なのに天月だと言い張り、創価の在家僧は否定しました。迹を本と偽り、根本の問題を避け本質から目をそらしている。創価も、多くの会員も、今まで何を信じてきたのか、とても疑問に思います。創価流の教条主義に犯されている。五老僧の追随者に成り果て、正しい法の分別に迷っている。戸田先生が、75万世帯の広宣流布の願業を達成されたのも、会員の大御本尊への篤い信仰があればこそです。今はその恩を忘れている。
    広布のための御本尊と、まるで悲鳴のように叫び散らしますが、広布のための御本尊といったら大御本尊よりないでしょう。真実が失われる末法の時代相を鮮やかに写して、本末転倒に気づかないとは、戸田先生も嘆き悲しむことでしょうね。
    都合の悪いことは忠実な弟子にやらせ、池田先生自らは、知らん振りを決め込んでいる。また会員を欺き続けている。創価の師弟は、一貫性が失われ、教義の整合性を、自ら捨てている。名誉や勲章で着飾り、永遠の指導者などと祭り上げられて、羞恥心とか、人間が感じる普通の情感や理性がないのでしょうか。釈尊も日蓮も、悟った者がどれだけ質素で謙虚であったか。余計なもので飾らないシンプルさのなかに、人間の偉大さが表れます。

    信と解は信仰者の両足のようなもの、信解があるから立つことができる。信が深まれば解も深まり、解が深まれば信もダイナミックに躍動する。成仏の成就は信解の協調によるものです。しかし、大御本尊への信仰と受持を否定した創価では、信解の調和の後退を引き起こし、人格完成の成就の道をふさぐ。

    Impossible
    Two Steps From Hell
    (feat. Merethe Soltvedt)





    ◇◇◇

    P.S.
    植木氏の「法華経・現代語訳」を読むと、いろいろなことに気づく。詳細は実際に読んでいただくとして、最後の解説に次のようにあります。
    『原始仏典を読む限り、仏教の目指したことは、次の三つにまとめられる。
    ①一貫して平等主義を貫いた。
    ②徹底して迷信・占い・呪術・ドグマを否定した。
    ③真の自己に目覚めることを最重視した。』

    このような仏教への基本的な理解は、大変重要です。植木氏は、仏教の歴史を簡潔にたどりながら、男性・出家者中心主義、権威主義的傾向、歴劫修行、釈尊の神格化、などを説明しながら、優れた思想でもあった仏教の形骸化が免れなかった史実を語ります。
    法華経をはじめ大乗の主張は、釈尊の原点に還れをスローガンとするルネサンス運動であったことを、平等思想と一仏乗を説く法華経信奉者の人間像を通して描きます。畏れることなく、権威主義や非難と暴力に立ち向かった菩薩が、実際に存在したのです。権威主義といえば宗門の僧侶の姿が思い浮かびますが、最近は、創価もこの部類に入りそうです。聖職者と詐欺師は紙一重。いくら偉大な妙法でも、その動機と根拠がいかがわしければ、搾取し隷属させることはできても成仏は叶わない。

    「終わりに」という最終章で次のようにまとめております。
    『教団運営だけでなく、思想の理解の仕方において形骸化を免れない。例えば、大乗仏教は、あらゆるものを実体視して執着することを戒めた「空」の思想を説いたが、後に「空」ということ自体もまた実体視され、執着するようになってしまった。「空亦復空」(空もまた空)を言わなければならなかったゆえんである。それでも、さらに「空亦復空」自体も実体視され、「『空亦復空』亦復空」(「空亦復空」もまた空)を説かねばならなくなり、その無限連鎖が繰り返されるのではないかと心配したくなるほどである。
    権威主義を排し、一仏乗という卓越した平等思想を唱えた「法華経」も、形骸化され、権威の象徴に祀り上げられることもあるかもしれない。それは、ほかならぬ「法華経」自身が「正しい教え(正法)に似[て非な]る教え」(sad=dharma-pratirupaka,像法)という言葉を用いて懸念していたことである。歴史の教訓として、常に原点(原典)に還ることが重要である』


    永遠の指導者という権威の象徴から、牧口、戸田先生の原点に還ることです。正しい教えに似て非なる教えとは大変示唆に富む言葉です。形骸化という、真実を求めようとしない姿勢は、像法時代という過去にあるのではありません。常に、現在の求道者の心理のひだに在り、膜が張られるように感性と理性を麻痺させ、錆びついていく命の衰えを表しています。それでいて自らを顧みず、わたしは正しいと主張するところに、不幸への連鎖は始まると言ってもよいでしょう。創価の御本尊は、日蓮のアイデンティティーを喪失しています。可能すら不可能にする、実現性への疑問が次第に強くなっていくでしょう。会員の減少が、その事実を何より物語っています。自然増や自然減といった認識を越えています。公にできないほど著しく減少している現実に、目を閉ざしている。人を引き付ける宗教性や、哲学的要素の具現性が、創価では薄らいでしまったということでしょうか。

    『現代語訳』の方便品を読んでいたら、気になるところがありました。それは、有名な十如是の一節です。サンスクリット(梵語)の原典と鳩摩羅什の漢訳と現代語訳を対照させ、綿密な分析と注釈を付けて、著者が言明しているように、曖昧さを残さない翻訳に挑戦しています。真面目な会員なら、毎日読誦している方便品の最も重要な箇所でもある十如是は、丸暗記していると思いますが、サンスクリットからの現代語訳は、次のようなものです。
    『それらのものごとは(諸法)は、何であるのか、また、それらのものごとは、どのようにあるのか、また、それらのものごとは、どのようなものであるのか、また、それらのものごとは、どのような特徴を持つのか、また、それらのものごとは、どのような固有の性質(自性)を持つのか――[すなわち、]それらのものごとは、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのかということを。それらのものごと(諸法)に対して、如来だけが[上記の五つの点において]明瞭であり、明らかに見ておられるのである』

    この部分の注釈に
    『この五項目に相当する箇所を鳩摩羅什は、「如是」(是くの如き)を冠した十項目、すなわち相(外面に現れた姿)、性(内面的な性質)、体(本質・本体)、力(内在的な能力)、作(顕在化した作用)、因(内在的な直接原因)、縁(補助的な間接原因)、果(因と縁の和合による内在的結果)、報(内在的果が具体化した顕在的結果)、本末究竟等(本と末、すなわち相から報までのすべてが融合していること)――の十如是として訳している』

    鳩摩羅什によって、五項目が十項目に拡大解釈されましたが、漠然とした法理が、きっちりとした言葉によって定義され表現されました。
    「ほんとうの法華経」(ちくま新書)でも、対談者である橋爪大三郎氏(社会学者)が質問しています(「第二章」 p113)
    『橋爪 さもなければ鳩摩羅什が勝手に創作して、五つだったものを十にしたことになる。
    植木 その可能性が高いと思います。
    橋爪 植木先生は、なぜ鳩摩羅什がそこを拡充したとお考えになるんですか。(中略)
    植木 サンスクリット原典で「諸々の法は、何であるのか、どのようにあるのか、どのようなものであるのか、どのような特徴を持つのか、どのような固有の性質(自性)を持つのか」という疑問節(間接疑問文)で表現したことを、鳩摩羅什は「諸法の実相」(あらゆるものごとの真実の在り方)と漢訳したと思います。その際、「諸法」を「諸々の教え」だけでなく、さらに一般化して「あらゆるものごと」にまで拡大して、その存在の在り方、因果の連鎖の在り方として、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等という十如是になったのかな――と推測するしかないですね。(中略)
    橋爪 これはもう、鳩摩羅什の創作ですね。
    植木 そうですね。鳩摩羅什は、先ほど言ったように会座の参列者数の1200を、12000にして数字の桁数を繰り上げたり、同様の文章が繰り返される時、そのうちの一ヵ所に、わかりやすくするためだと思いますが、ひとこと書き加えたりするようなこともしております』


    十如是は天台の一念三千法門、日蓮の十界曼荼羅の基礎です。学術的には、一般的認識である鳩摩羅什の創作について、わたしは不勉強で知りませんでした。
    以前、仏教は再解釈の歴史であると書きましたが、このような英知の結実の連続なのですね。仏教という大きなカテゴリーは、とても寛容です。釈尊が説かなかったことも、仏弟子たちの論証と思惟を取り入れ、消化する真理の深さを実感しますが、創価が創作した創価学会仏には感心しません。選挙運動する仏や菩薩は想像できません。根本を変えて漂泊する放浪者のような信仰者に、果たして未来はあるのでしょうか。

       
      bb-901111.jpg
    【 ALL ENTRIES 】
    khh-01.jpg
    【 NEW ENTRY 】
    【 COMMENTS 】
    <>+-
    【 ARCHIVE 】
    【 CATEGORY 】
    【 BlogMURA 】
    saku-001.jpg