御本尊って「未来」の代名詞

    ほぼ専業主婦というところですので、時間的自由さは独身時代に比べれば遥かに多い。だからといって、時間の無駄遣いをしているわけではありませんので、一応言い訳しておきます。

    社会は敵ではなく、また称賛してくれるほどの味方でもありません。権力の魔性という仮象の想定は、被害妄想的に生みだされる想像の産物(言い過ぎかしら?)・・・創価では、権力の魔性という言葉を好んで使いますが、賢明な会員は、その言葉に表裏があることを、注意深く監視していかなければならないでしょう。創価の中心者が、権力の魔性の仮面を被っているかもしれないからです。
    社会の根底に流れる妬みという暴力は、創価の組織運営と無関係ではありません。敵対者の撲滅が活動の源泉であり、悪の存在は善を実行する上で欠かせない障害だからです。
    悪(権力)の本質は、妬みという情念につき動かされる強いエネルギーです。そして巧妙に擬装する手段を持ち合わせています。仏種を断ずる行為は、いつも聖者の形をした者の手で行われることを、わたしたちは経験しましたね。そういう経験は不幸なことですが、滅多に起きることではないと考えていたなら、間違いでしょう。過去のことではなく、いつも現在のことなのです。
    教理と無関係な儀式化と様式化という、想像性の形骸に価値を与える世界は、つねに組織のなかに存在します。継続して本幹で繰り返す過去のスピーチは、すでに、形骸化し儀式化していることに、誰も気づかない。考えないので気づくことができない。繰り返し流されるスピーチ映像は、創価を動かしていると考えている増上慢によれば、創価の遺産として30年は使えると踏んでいることでしょう。アホらしい。
    創価は、過去に生きる宗教に成り下がってしまいました。創価は未来を捨てた宗教。だから、御本尊を侮辱しても後悔することはありません。御本尊って「未来」の代名詞です☆彡

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    大御本尊はほんものなのか?

    婦人部にハブられ無視されているわたしに、年上婦人部から相談がありました。ヒエラルキーの最下位にいるわたしにです。
    「大御本尊はほんものなのか、偽ものなのか」という単刀直入の素朴な質問です。なんと答えたらよいものか、考えているとは思えない人が思いつきで聞いてきたような感じですので、少し厳しい回答をしてしまいました。

    ♡せっかく質問していただいたのですが、大御本尊がほんものか、偽ものか、といった議論に参加するつもりはありません。結論が出ない問題を議論しても不毛です。それより、御本尊はなんでも同じと、創価の公式見解があるのですから、そんなことをいちいち、気にかけることはありませんよ。創価流に言えば、血脈が流れていると思えば流れているのですから、なにも問題ありません。
    もしも偽ものだとしたら、今まで積み上げ、深めてきた信仰歴と経験は無駄になります。創価の発展に、大御本尊は全く寄与しなかったと躊躇なく断言できます。

    戸田先生は、戦後の再出発に際し、大御本尊に謗法を懺悔し広宣流布を誓いました。広宣流布とは法を護ることを意味します。その護法の功徳力によって、創価は発展したのです。護法の功徳力は言い換えれば、広宣流布への誓願力です。
    生活革命、人間革命、折伏の原動力となった信仰の喜びに、大御本尊の影響は全くなかったと言い切る人は、会員ではありません。幸せになる、問題を解決する、病を克服する、あの人に必ず弘教すると、大御本尊に誓ったのです。悩み深き会員も、その功徳力と誓願力によって人生が開かれたのではないでしょうか。涙なくして語れない草創の労苦は、大御本尊とともにあったのです。
    自分の影を踏みつけて荒らすような、自分の過去を否定する人、つまり、自己否定の人は、心が濁り、頭も狂っています。正常な精神の持ち主は、自分の過去を否定することに、耐えられない苦痛が伴います。信仰の根本への疑いは、それまでの人生を否定することでもあり、自己否定と同じことです。

    一閻浮提総与への懐疑を議論する人も同様です。誰がなんと否定しようと御本尊は無作三身です。
    『久遠とははたらかさずつくろわずもとの侭と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云』
    「はたらかさずつくろわず」という根本の仏を、どうして否定できるのでしょうか?
    受持しないと働くことも、否定して繕うことも不可能なのです。
    無作の三身は久遠の仏と御教授されています。久遠の仏を受持の対象にしない弟子を、師敵対の悪と定義しても間違いだとは思いません。

    もしも偽ものなら、会員に嘘を教えた歴代の会長の莫大な罪は、どのように償われるのでしょうか?
    仏は方便は説いても、真正の嘘は説きません。真実のみを説く人を仏と言います。このようなルールは仏弟子にも適用されます。嘘を教えた仏弟子は、地獄三昧の旅を味わうことになります。厳密に言えば、偽ものと主張する会員は師敵対です。師敵対が正しいというのなら、師弟不二は存在しません。
    大御本尊への深い信仰によって絶望の淵に沈んでいた人々が蘇生しました。宗教の使命は、人々に蘇生への確信を与え、実現への道筋を示すことです。
    『妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり』
    この金言は、宗教全般に広く認められているマキシムです。復活とは蘇生と同義であり、心のなかに新しい生き方と目的を植え付けることです。

    立派な大人は立派な仕事、社会貢献をしてこそ、社会に認められます。同じように、筋道の通った主張、自分の考えを自分の言葉で語る人が信頼を得て、ひいては信仰の実証を示すことができるのではないでしょうか。何事も熟慮し、相手への配慮やアドバイスを考えてこそ、大聖人が言われる菩薩の一分の姿勢なのではないでしょうか。
    妙法は、言い換えれば、実践哲学。仏壇に飾っておくものではありません。そのことを理解されていない会員の方が、残念なことに、多くいらっしゃいます。
    妙法とは、実利的でありながら、人生の恒久的な真理を表わすものです。一瞬に総体を包含し、実践のなかに苦難の喜びを見るのが仏道修行です。何も考えない会員、行動に移さない会員が結局、創価を私利私欲の名聞名利の方向へ導く会員なのではないですか?

    船の操舵手は会員一人ひとりなのです。民衆の支持がなくなれば、どんな優れた人物でも、法でも、経典でも忘れ去られてしまう。
    自律しない会員が多すぎます。そういう人にとって、信仰はどんな役目を果たしているのか、わたしはときどき、疑問に思うことがあります。功徳をもらうためなのでしょうか。自分で選択し、自分の足で歩む。自分で考え、自分で動き、自分で結果を作る、それが信仰です。単純明快です。信仰は自由を実現するための意志表示であることをよく考えてみるべきです。

    功徳なんて、道路の片隅に祀られているお地蔵さまを拝んでもあります。お地蔵さまを、よくご覧なさい。石でできたお地蔵さまでも、優しく手を合わせ、あなたを拝んでいるではありませんか。あなたの仏性を拝んでいるんですよ。深い信仰心を賛嘆している姿なのですよ。
    キリスト教にも、イスラム教にも功徳があります。功徳は宗教の本質ではないために、どこにでもあるのです。現世利益は、宗教の本質ではないということです。会員のなかには、御書に説かれる現世安穏を、現世利益と勘違いし理解していらっしゃる方がおられます。考え方によっては、現世利益の反対の意味でもある現世安穏を、理解しない会員の安易さが、創価の大切なものを失わせる軽佻さにも繋がっていることを、深く考える必要があるのではないでしょうか。
    その他大勢の、世間の流れに任すだけの烏合の衆であってはなりませんよ。宝塔品の儀式から退座した一闡提の不信者は、特別な人たちではないのですから。まわりに同化して個性を持たず、創造的でない人。智慧の鍛錬を怠り、怠惰な日常をおくる人。自律心に欠け、欲望の制御を自覚しない人。そんな人は、創価のなかにも塵の数ほどいます。会員であっても、そんな輩と友だちになってはいけません。自分の人生が狂ってしまいます。
    ヒステリー婦人部にならないようにお互い注意しましょうね☆彡

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    御本尊についての討論

    御本尊についての討論は、わたしの経験上、終わりがありません。正直なところ疲れるだけです。違う見解に出会っても、以前のように決着をつけようなどと決闘者の気持ちにはなりません。好きなように考え、好きなように行動すればいいんじゃないのと太っ腹の寛容心に満たされます。わたしも少しは成長したんですね。

    ゴミ虫・毒虫・便所コオロギ・詐欺師・ペテン師・道化師・危険分子・痴呆・白痴・ごきぶり・女郎・べんじょ虫・毒殺魔王……。
    これらの汚い言葉は、どこに掲載された言葉でしょうか。聖なる教えと題した新聞の活字となった言葉です。聖なる教えとはジョーク的反語? 青年部は、このような言葉を信仰の対話語として、宗門や反逆者を恨み、憎み、蔑んできました。
    創価が仕組んだヘイト教育は、人権問題を扱い提言するような、人間や組織がすることではありません。このようなプロパガンダを、平気で利用する創価の体質を、わたしは決して許すことができません。
    世界平和を言う前に、足許の宗門との戦争を解決したらどうなのでしょう。先生と法主の代理戦争の犠牲になりたい人は、池田神話の信奉者であることに誇りを持っているのでしょうか。神話的にエピソードを作りあげる――カリスマ性とはまわりの人間が作りあげる虚構です。

    不当な権力への抵抗者とのイメージは、正義とカリスマ性確立の絶対条件であり、古今の偉人の共通性格です。先生は十分偉大な指導者なのに、必要がない誇大宣伝が行われている。そう考えるわたしが間違っているのでしょうか。それを尊敬する先輩に話したら、あなたは弟子ではないと叱られました。
    弟子でなかったら信仰者としても不適格なのかしら。弟子とか師弟不二などと、人間性の可能性を限定するレッテルを、自分で剥がすのはとても大変!
    レッテルは、執着と訳したり☆彡

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    創価学会常住御本尊記念日

    学会常住御本尊記念日 広宣流布大誓堂で勤行会 原田会長が各部代表と
    「創価学会常住御本尊記念日」である19日、東京・信濃町の広宣流布大誓堂で、記念日の意義をとどめた勤行会が行われた。
    これには原田会長、長谷川理事長、永石婦人部長が各部の代表と出席し、大誓堂に御安置の創価学会常住御本尊に、厳粛に勤行・唱題。師弟不二の翼、異体同心の翼を広げて、創価の凱歌へ威風堂々と雄飛しゆくことを深く誓い合った。

    創価学会常住御本尊は1951年(昭和26年)5月、戸田城聖先生が第2代会長に就任直後、広布前進の「金剛不壊の大車軸」として発願。同月19日にあらわされた。御本尊には、向かって右に「大法弘通慈折広宣流布大願成就」、左に「創価学会常住」と認められ、唯一の仏意仏勅の教団である学会の使命が、厳然と刻印されている』
    <5・20聖教>

    この文章を読むと、無知な会員は無知であるがゆえに軽率に、戸田先生が御本尊をあらわされたと考えるでしょう。そのような誤解が生まれることを承知で文章を掲載していると推測します。その半面、このような文章を真面目に読み、考える会員がどれだけいるのか、甚だ疑わしいという宗教団体にあるまじき側面もあります。何故かといえば、毎年同じ文章が掲載されるからです。単語を変え文章の順序を入れ替え、さすがに写真は違いますが、会員の皆さまは、どうせ去年のことはきれいにすっかり忘れているから、同じ文章を載せても気づかないという、ふてぶてしく傲慢な自信が新聞社にはあるからです。これは声聞縁覚に見られる生命の傾向性ですが、同時に本部の中心で起きている信仰の形骸化という致命的腐敗の証拠でもあります。

    すでに血脈不通の御本尊ですので、知らないうちに血管が詰まり魂が腐っていくでしょう。正義だとか、勇気だとか、連続勝利だとか大声で叫ぶまえに、謙虚であることが信仰には確実に必要な要素です。謙虚でなければ他者への尊敬も生まれません。
    真の賢者は、歴史を誤魔化したり、嘘をついたりしません。本質が歪められることを知っているからです。
    末法では、あらゆるものが形骸化する宿命を背負っております。人心も老化し形骸化します。したがって組織もすぐ古びて腐り、唯一の師弟の関係も形ばかりの心がこもらないセレモニーへと変化します。誓願も深い自覚がなければただの虚しい言葉の響きだけになります。

    近々、3Dプリンターによる精緻な本尊模刻も可能になります。立体的でずっとありがたみが増すでしょう。またカラー本尊も可能です。現在の金色に近い表具を好きなカラーに変えるだけですが、以外と人気が出るかもしれません。さらに限定品にこだわる人なら、署名入り本尊もありですね。
    このように形骸化の一種でもある本尊雑乱の時代に移行する気配です。でもこういう時代には優れたリーダーが現れるときでもありますが、残念ですが現在そのような資格がある人間は見かけません。むしろ、そのような末法のなかの像法時代とも言えそうな時代を作っている人間や組織が創価に代表されると言えば言い過ぎでしょうか。

    人法一箇の大御本尊を否定したときから、創価では混乱が始まりました。モニターで絵画を見て感動しても、信仰の正しさとは別の次元の問題です。また全く同じに描いた絵画であっても贋作は贋作です。本物以上の価値あるコピー品はありません。作ることができません。贋作でも感動するから、感応するから、本物と同じ価値があると考えるのは正しくありません。

    『大御本尊様は向こうにあると思って拝んでおりますが、じつはあの三大秘法の御本尊様を、即南無妙法蓮華経と唱え、信じたてまつるところのわれらの命のなかにお住みになっていらっしゃるのです。これはありがたい仰せです。この信心をしない者は、仏性がかすかにあるようにみえてひとつも働かない、理即の凡夫です。われわれは御本尊を拝んだのですから、名字即の位です。名字即の位になりますと、もうこのなかに赫々として御本尊様が光っているのです。ただし光り方は信心の厚薄による。電球と同じです。大きい電球は光るし、小さい電球はうすい。さらにこの電球の例でいえば、信心しない者は電球が線につながっていないようなもので、われわれは信心したから大御本尊という電灯がついている。ですから、われわれの命はこうこうと輝いている』(『戸田城聖全集』第6巻)

    大御本尊という電源に繋がれていれば「事」です。またわたしたちの命に南無妙法蓮華経という光が輝きわたります。電源の喩えを否定したのは原田会長ですね。きっと池田先生のご了解を得ているのでしょう。創価がいつのまにか、戸田先生のご指導の半分を否定されたこと、とても残念に思います☆彡

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    聖教と劉暁波氏の死亡記事

    女子部時代は純粋に弘教への喜びがありました。緊張する場面も多々ありましたが、妙法を語るうれしさ、感動が勝っておりました。
    聖教啓蒙も毎月コンスタントにやっておりました。毎月締め切り近くになれば崖っぷちに立たされている心境になることもありましたが、継続できたのはひとえに先生のご指導があったからです。職場はほとんど啓蒙し尽くしました。中傷や悪口を浴びるときもありましたが、悩みながらも負けなかったのはただ使命感に支えられていたからです。

    聖教は、会員にとって活動のひとつの源泉になるものです。聖教を読んでどれだけ励まされるかわかりませんし、顔も知らない会員との連帯感も感じられます。また社会的関心が薄い人でも、見開きページに一般記事がコンパクトに網羅できる編集は、今後の課題はあるにしてもスマートな新聞のひとつの見本を示していると思います。紙の新聞は将来なくなる可能性は大きいですが、そもそも部数激減によって、会員への伝達手段としての聖教が果たしている役割は、大きく変わらざるをえないでしょう。

    最近、人権を重視する創価に注目してもらいたいニュースがありました。
    ホスピタリティーに優れた会員が、人間と人間の関係性のなかで生まれる人権問題に無関心であるわけがありません。

    中国の人権活動家・劉暁波氏が7月13日に死去し、翌日世界中で報道されました。5月末に末期の肝臓がんと診断され、一ヶ月もあとに仮出所しました。その間の中国政府の人権を無視した非人間的なやり方は、この国がいかに人権擁護に程遠いかを示したものです。人間の勇気と気高さを象徴していた人物は、共産党の最大の敵だったに相違ありません。

    この間、聖教では7月本幹の報道が行われておりましたが、一般紙の一面を飾った記事を一行も報道しませんでした。2010年、民主党政権でしたが、尖閣諸島中国漁船衝突事件も聖教では報道しませんでした。あれほどの大事件に全く無関心を貫いたのです。偏向報道も甚だしい。なぜなのでしょう?

    聖教に載せると何か都合が悪いことがあるのでしょうか?

    米議会下院外交委員会の小委員会は7月14日、公聴会を開催し、『沈黙は共謀』と警告し、口を閉ざし見て見ぬふりをする国や人間は、中国当局の共犯者だと断言しました。

    中国の人権問題は極めて危機的状況にあることを、中国の古き友人などと常日頃自慢している創価は、訴えるべきではないでしょうか。わたしは会合で会員に訴えていきます。

    7月17日の聖教では、インド・ガンジー研究評議会議長 N・ラダクリシュナン博士の寄稿記事が掲載されておりました。
    『創価の三代会長の長い歴史の中で、本年の「7・3」は特に意義深いものであります。
    60年前のこの日、池田先生は、不当な国家権力によって無実の罪で投獄されました。基本的人権を守ろうと立ち上がったさなかのことでした。
    さかのぼって、1945年の7月3日もまた、池田先生の恩師・戸田先生が獄中闘争の末、出獄された日という点で、平和運動と人権の歴史の日であるといえます。
    このように、「7・3」は、日蓮大聖人の仏法を根本とし、新しき地球的運動の確立を目指した創価の三代会長の万感の決意が込められた日、と意義付けることができるでしょう。 (中略) 人権と正義の世界的運動の歴史において、「5・3」(創価学会の日)のように、「7・3」とは、個人の変革のための奉仕、内省、祈り、そして決然たる行動の一日です。正義と平等な機会の否定に対しては、断固として戦わねばなりません』


    ラダクリシュナン博士は創価の実像を知らないのかもしれません。

    国家によって基本的人権が踏みにじられている人物が、生命をかけて戦い世界的に注目されているのに、全く反応しない人権団体や指導者が、果たして時代をリードする正当なリーダーなのか疑いがあります。仏法で最も大切なのは生命尊厳の思想ではないでしょうか。それは人権無視と真逆の思想です。
    また、記事を選択し意図的に会員に知らせないようにする聖教の姿勢は、創価の真実の過去を隠そうとする体質と同根の病理でしょう。「魂の独立」からは程遠いし、世界宗教の資格も喪失しているでしょう。池田先生のカリスマに頼るのはもうやめにしたい☆彡

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