信仰継承

    お盆に久しぶりに友達と会い、時間を忘れて思い切りお話しました。5年前、思いがけなく折伏できた人で、とても性格が素敵な人です。
    3年前のことですが、創価の会則変更が行われたときを境に、問題児か不良娘のように、わたしは組織に楯突くようになりました。彼女にはとても申し訳ないことをしてしまったと後悔もし、正直に気持ちをお話しましたが、きっと不信も生まれるだろうなと覚悟しながら、自分の好きなようにしてくださいと言いました。でもそのとき、彼女はとてもうれしいことを言ってくれたのです。
    「わたしが入会したのは、創価や池田先生を信じて入会したわけではない。あなたを信じて、あなたが信頼できる人だから、入会したのよ。幸せになれると約束したんだから、最後まで責任持ってよね。わたしの幸せはあなたしだいなんだから。だからあなたについていくわ」
    そんな趣旨の話をしてくれました。これが男女だったら結婚していたかもしれません。そういうわけで、わたしには、自分だけでなく彼女の分も責任があるんです。でも幸福製造機があるから、大丈夫ですね。
    時々、女子部のときの部員さんにもお会いすることがありますが、皆さん遠くからでも声をかけてくれます。たまたま二人とか三人集まると近況報告に忙しく、賑やかな座談会のようになってしまいます。そんなとき女子部時代に戻ったような感覚になるのは嬉しいことです。

    わたしは三世です。わたしの両親は、基本的に子どもには不干渉です。幼いときは口やかましい一般的な親であったけれど、大学を卒業してから、自分の人生は自分で切り開いていきなさいと宣告されるように言われました。全部自己責任で、そういう基本スタンスは、子どもとしては大変ありがたいと思います。もちろん信仰もそのなかに入ります。創価をやめる気など毛頭ありませんが、自分の使命を確信し、先生がおっしゃられるように、人間も組織も改革こそ妙法の本質であると強く自覚し、自分に課していく姿勢に、わたしは少しも疑いを抱いておりません。

    真理は完全無欠でも、証明者はその実践過程でたえず間違いを犯します。また惰弱で意志薄弱で怠慢です。すぐ他者のせいにします。自分の正義を最上のものとして訴えて憚りません。釈尊が成道後、法を説くことを躊躇したのは、ひとえに救いがたいと思われる他者が存在していたからです。このような人々を救済していくためには、勤勉でなにものにも動じない意思強固な人格でなければなりませんが、熱心さのせいで反社会的な烙印をおされる可能性もあり、今や不軽の実践は難しい環境にあります。
    今までの創価史のなかで普遍的正義の発揚を見たことがありますか? 
    常識的といえばほとんど常識的な正義ですが、ときには非常識な正義を主張するたびに、さらに大きな正義を葬ってきました。これは熱心さというよりは信仰と知性の問題です。
    大御本尊も木だ。木はいつかは腐る、なんてよく言えますね。人間だって例外なく腐りますよ。でも腐ってもこれほど尊く唯一のものはありません。大御本尊が腐るというのなら、自分の命が腐ると言っているのと同じです。要は尊ぶ心が不在なのです。尊ぶ心・意志が信仰です。信仰者を尊ぶ行為が慈悲です。こんな簡単なことを理解できない人が、なぜ多いのか、わたしにしてみれば謎です。

    原理は不変でも、そのあらわれ方のバリエーションは多彩で、個人個人において無限の可能性があるでしょう。集団よりも個人の強調は、近年の創価の指導にもよくあらわれていますが、人材を各界に送り出し、創価の仏教運動への賛同を幅広く得ていく方針転換がありました。またグローバルな思想と人材確保こそ広宣流布への条件ですが、はたして外交オブジェクティブのコンプライアンスを確立しているのかどうか。今まで先生に全部頼ってきた重要なネゴシエーションも曲がり角にさしかかっています。
    人間革命思想は同時に社会革命思想ですが、世代を越えた、あるいは世代間に継承されなければならない戦略でもあります。その戦略は確実に成果を生み出し、社会に対し一定の影響力を及ぼす段階に入りつつあります。社会に対する有為な人材の育成は、創価の大きな使命でもありますので、池田先生のご指導は、多くの人々に希望と勇気を与えたということではないでしょうか。
    しかしその一方で、不満を持つ会員が増大しているのは、どうしてなのでしょう?
    統計的な調査では、創価に不満を持つ一世会員が比較的多いことがわかっております。
    その理由を列挙しますと、
    1.幹部の人間性に問題がある
    2.学活に費やす時間的負担が大きい
    3.組織中心主義的傾向に違和感を覚える
    4.聖教啓蒙に問題がある
    5.選挙支援活動に問題がある
    6.先生が特別視され過ぎる
    わたしから言わせれば、その他に、説明責任を果たさないという冷淡な対応もありますが、まっとうな常識ある人間が感じることは、誰もが感じるのですね。そしてこのような不満不信は将来、顕著なクレームとして顕在化すると考えられ、必然的に改革を余儀なくされるでしょう。また現場に問題がありながら、放置している幹部が多過ぎますが、あるいは問題を感じない鈍感さが幹部には必要なのかもしれません。

    未来部員への指導は、創価学園、創価大学への進学の奨励とリンクしています。未来部担当者は進学ブローカーみたいな役割を担っており、わたしが大学進学する以前から、「池田先生のもとへ」というスローガンが、未来部指導のメインでした。かつて池田博正副会長が未来部の責任者だったことは、将来を見据えた布石だったのでしょう。先生にとって、心から信頼がおける人間が、身内よりいないということでしょうか。師弟不二という立派な言葉が虚しく響いてきます。
    最近は、家族単位の勤行、座談会参加、本幹参加が特に強調されており、さらに未来部、未就学児童の未入会家族へ焦点を移し、重点的に取組む姿勢が打ち出されています。後継者の信仰継承が危機的状況にあることを物語っております。親子間はデリケートな問題ですので、深く立ち入ることはできません。正しいからといって受け入れられるとはかぎりませんし、執行部には相当の焦りがあるものと理解しています。

    わたしは、信仰継承がスムーズにいかなかった親の不幸な実例を、何度か経験してきました。どういうわけか、幹部であればあるほど、子女への継承率が低いのです。そしてそういう家庭は決まって、親子のコミュニケーションに問題があるのです。親の方に、生き方あるいは人生観に、自信がないのではないかと推測しました。父子・母子一体の成仏が、そもそも妙法の基本法理ですよね。
    現在の女子部の実状をみれば、どうして楽観的に考えることができるでしょうか。
    令法久住への熱い情熱とも言える「一人立つ」精神は、女子部にこそ求められています。

    わたしは結局、未入会の方と結婚しました。残念なことに、わたしのまわりの男子部のなかに、適当な相手が見当たらなかったからです。男子部は、言うことは勇ましいのですが、いつも群れていて「一人立つ」プランを、公私にわたって持っていません。または持っている人は稀です。また、「一人立つ」は、なにも信仰世界だけの話ではありません。社会的にもオリジナリティーがなければ「一人立つ」ことはできません。

    どうか、誰かを励ますよりも真っ先に、健気に奮闘する女子部員を精一杯励ましてください。わたしも経験しましたが、完璧にやろうと思えば思うほど、真面目にやろうと思えば思うほど、役職兼務の厳しさに涙を流しました。ほとんど無限に、次から次と問題が起きてくるのです。なんという苦渋に満ちた組織でしょうか。
    女子部の姿が、創価の未来を暗示しています。
    どうかひたむきな女子部を、やさしく労ってあげてください☆彡

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    個別を通して普遍を見る

    こんにちは。

    現在連載されている「新・人間革命」の「雄飛」の章のはじめのほうには何が書かれていたか、ご存じですか?
    多くの会員はすっかり忘れていらっしゃると思いますが、会長辞任後の1980年(昭和五十五年)・第五次訪中団の様子が描かれております。

    鄧穎超が語ったエピソードが印象的ですね。周恩来の遺灰が飛行機で大地に撒かれたこと、それが中国の風俗、習慣ではとうてい受け入れがたい革命的行動であったということですが、天安門広場の記念堂に葬られている毛沢東と比較すれば、どちらが賢明であるか火を見るより明らかです。周の後継者・鄧小平も遺灰は東シナ海に投じられました。もちろん鄧の意志にしたがっただけです。
    毛沢東は、自分があれほど嫌っていた宗教の御本尊に祭り上げられたのですから、考えようによっては神になったということかもしれません。なにしろ共産主義は、キリスト教の一派生であることはよく知られた事実ですので、神になったとしても不思議でありません。現在の中国の指導者も、神になろうとひたすら努力し、支配する領土を拡大することに取り憑かれていますが、神と悪魔は兄弟のように瓜二つであることをよくよく注意しなければなりませんね。
    周も鄧も、民衆を第一に考えた立派な唯物主義者でした。みずから神になろうとする人間に、ろくな人物はいません。「永遠の指導者」もほとんど神の領域ですね。それを容認する人間の罪深い性に涙が出てきます。理性でなく感情で容認しているのです。

    83年、ブカレスト大学での講演「文明の十字路に立って」では、「新しいヒューマニズム」について講じています。ルーマニアの矛盾に満ちた独裁社会主義を、新しいヒューマニズムと賛嘆しています。最後にこのように述べています。
    『最後に、この席をお借りしてルーマニア建国の指導者、世界平和のため尽力され、ご努力してくださっているチャウシェスク大統領に心より感謝の意を表し、私の講演を終わりたいと思います。ありがとうございました』(池田大作全集「第1巻」)
    その後に、大統領と会見した様子は、聖教で報道されています。
    『大統領は愛国主義者であり、平和主義者であり、民族主義者であることが、よく理解できました』
    チャウシェスクは独裁者として、6万人以上の自国民殺害に関与したとして、1989年12月、銃殺刑に処されました。このような危うい政治家に接近する理由はどこにあるのだろうか。相手が悪人であっても、仏教者であれば会う必要も生まれることもあるでしょう。しかし、それは相手の正体を知ってからのことではないかと考えるのです。会談の特徴的内容は、独裁者であるという認識が希薄のうえ、称賛言葉に溢れていることです。「称賛」‥‥先生の会談に共通するキーワードです。
    銃殺刑の翌月に行われた、ルーマニアのブラッド駐日大使との会談も、称賛言葉のオンパレードです。
    『民衆の総意による新生ルーマニアの誕生を私は、両手をあげて祝福いたします』
    『民衆が勝った』『人間の叫びが勝った』
    『私どもはもちろん、権力悪と戦う世界の民衆勢力に、強い勇気を与えてくれました』


    手のひらを返す、という品のない行為。悪人にも悪人なりのポリシーがありますが、きのうは敵を誉め、きょうは敵の敵を誉めるという道化役者のような器用さはありません。そして敵の敵はわたしの味方だ、というスパイ紛いの変わり身の早さは、この指導者の際立った特徴です。

    エジプトのムバラク大統領も同じです。ムバラクのイスラエルとの対話路線は、イスラム原理主義の台頭をおさえる防波堤のような役目を果たしており、複雑な力関係に左右される中東問題に一定の抑止的効果をもたらしておりました。
    悪には悪をもって制す。何が善で、何が正義なのかわからない複雑さのなかで翻弄され、敵をだしぬけば命が助かり、命がある者が勝利者なのです。少なくとも敗北者ではない。善悪の基準など役に立たないという倫理の荒廃は、戦時と同じ。中東の安全保障は、腹黒い策略家でなければ収まらないという側面があったと考えます。イラクのフセインとよく似ています。そういう政治的な人間像と、不正な財産を蓄積して、民衆を弾圧する独裁者という人間像の評価は大きく異なっており、純粋さを愛し、永遠に民衆の側に立つと宣言した仏教者であるなら、もっと慎重な行動をとったはずと考えるのです。
    エジプトは中東の大国であり、文明の発祥地という長い歴史と文化の伝統国です。この国から表彰されれば長年の夢が叶うと考えても不思議ではありません。実際若き日に中東に思いをはせる姿を語っています。称賛すれば表彰される、誉めれば勲章をくれる。そんな卑しい命が生まれたのは、いつごろからのことなのでしょうか?
    称賛されたいために、相手を称賛する。相手が泥棒であろうと、詐欺師であろうと、人殺しであろうと、テロリストであろうと、エゴイストであろうと、悪質なコミュニストであろうと関係ない。自分を称賛してくれる人が善人なのです。ついでに勲章をくれる人が、なお善人なのです。

    6月17日の「雄飛」の章を引用します。

    『伸一は、謝意(しゃい)を表したあと、この日を記念し、「新たな民衆像を求めて――中国に関する私の一考察」と題する講演を行った。
     中国は、「神のいない文明」(中国文学者・吉川幸次郎)と評され、おそらく世界で最も早く神話と決別した国であるといえよう。
     講演では、司馬遷(しばせん)が、匈奴(きょうど)の捕虜(ほりょ)になった武将・李陵(りりょう)を弁護(べんご)して武帝(ぶてい)の怒(いか)りを買い、宮刑に処(しょ)せられた時、「天道(てんどう)」は是(ぜ)か非(ひ)かとの問いを発していることから話を起こした。わが身の悲劇という個別性のうえに立って、「天道」の是非をただす司馬遷の生き方は、「個別を通して普遍(ふへん)を見る」ことであり、それは中国文明の底流をなすものであるとし、こう論じていった。
     ――それに対して、西洋文明の場合、19世紀末まで、この世を支配している絶対普遍(ぜったいてきふへん)の神の摂理(せつり)の是非(ぜひ)を、人間の側から問うというよりも、神という「普遍を通して個別を見る」ことが多かった。つまり、神というプリズムを通して、人間や自然をとらえてきた。そのプリズムを、歴史と伝統を異にする民族に、そのまま当てはめようとすれば、押しつけとなり、結局は、侵略的(しんりょくてき)、排外的(はいがいてき)な植民地主義が、神のベールを被(かぶ)って横行してしまうと指摘したのである。

     さらに伸一は、現実そのものに目を向け、普遍的(ふへんてき)な法則性(ほうそくせい)を探(さぐ)り出そうとする姿勢の大切さを強調。その伝統が中国にはあり、トインビー博士も、中国の人びとの歴史に世界精神を見ていたことを語った。そして、「新しい普遍主義」の主役となる、新たな民衆、庶民群像(しょみんぐんぞう)の誕生を期待したのである』


    神と決別したと考えられている国が、また新たな神を作ろうとしている。それは美しい神ではなく、正視もできないほどの醜い神です。
    今では、中国の歴代の指導者にも最大の賛辞を贈り、その見返りに、中国の有名大学からの名誉称号が後をたちません。
    北京大学での講演は、司馬遷の「史記」から引用し、『個別を通して普遍を見る』という言葉で要約しています。「史記」に登場する「天道」を「普遍性」と訳して、ヨーロッパ文明と中国の「天道」に代表される世界観を対比しています。神という普遍性から個別の人間を見るのではなく、人間から神の普遍性を問うという人間観、世界観に言及し、トインビー博士の言葉を引用しながら、『中国史に蓄積されてきた精神的遺産のなかに、新たな世界精神の萌芽を見る』とまで称賛しているのです。歴史家の誤った評価は日常茶飯事ですが、この世界精神とは、大袈裟すぎる誇大評価でしょう。正しく言えば、普遍性から程遠い個別精神というところです。
    今まで明らかになった事実は、中国共産党の普遍性を有するイデオロギーは、覇権主義という世界征服の自己正当化理論でしょう。そのために、個別の思想は弾圧の対象です。共産主義という神から、個別の人間は虫けら同然の扱いを受け、搾取され、踏みつぶされるのです。最近もその例がありましたね。劉暁波氏は、徒手空拳の見事な人間の姿で、共産党の極悪と戦い散った。武器を持ったらもう人間ではないということです。
    「個別を通して普遍を見る」とは、言い換えれば、民主主義ということです。中国では実現不可能な思想でもあります。普遍性を有する問題は、平和問題であり、人権問題であり、政治的な制度の問題ですが、民衆という個別の人間をベースにした人間観として表現されます。世界精神という、だいそれた言葉を使ったトインビー博士も、健在であれば、修正すること間違いありません。

    中国のアキレス腱は、人権問題であること、自由を許さないこと、思想哲学に不寛容であること。チベットやウイグルで残酷な人権弾圧を繰り返していること。この個別の問題から、普遍性を見るならば、中国人の残虐性を世界に知らしめ、共産党独裁政権を終結させることです。
    中国はいずれ将来、民主国家になるでしょう。そのとき中国の最大の友人である池田先生は、どのような評価を受けることになるのでしょうか。会員の皆さまも、その弾圧に賛成し、チベット人やウイグル人を間接的に苦しめているのに、無関係な顔して正義を実行していると思っているのです。純真さという悪です。知らない、知りたくないという無関心の悪です。牧口先生が戒めた「傍観者」という悪です。

    先生も会見された、ドイツのヴァイツゼッカー大統領。
    戦後四十年の節目に当たる1985年5月8日、当時の西ドイツ連邦議会での演説。

    『人間は何をしかねないのか、われわれはみずからの歴史から学ぶ。だからわれわれはこれまでとは異なる、よりよい人間になったなどとうぬぼれてはならない。
    究極的な道徳の完成などあり得ない。われわれは人間が危険にさらされていることを学んだ。しかしその危険を繰り返し克服する力も備えている。
    ヒトラーは常に偏見と敵意、憎悪をかき立てるように努めていた。
    若い人たちにお願いしたい。他人への敵意や憎悪に駆り立てられてはならない。対立ではなく、互いに手を取り合って生きていくことを学んでほしい。自由を重んじよう。平和のために力を尽くそう。正義を自らの支えとしよう』


    残酷な差別と人権抑圧を経験した、ドイツの最も偉大な政治家とも言われる大統領の言葉を、真摯に受け止めていただきたいと思う。「ヒトラー」を「池田先生」に置き換えれば、この演説は創価のためのものであることが理解できます。創価に反省がないのは、われわれこそ、仏意仏勅の団体という驕りがあるからです。仏意仏勅という言葉に客観的裏づけがないにもかかわらず、その不確かさを補うように、さらに大聖人直結とまで言い出す。大聖人直結という言葉も、どのように検証するのでしょうか。情に訴えて納得すれば、それが以前からあった言葉のように通用し受け入れられていくのです。冷静に考えれば全く意味がない言葉なのに、まるで、信仰の正統性を証明するかのような意味を付与されるのです。

    『大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人にまで思いうかべることができるように継続的に行わなければならない』 (「わが闘争」アドルフ・ヒットラー:角川文庫)

    ヒットラーは大衆心理を知り尽くし、大衆の愚昧さを利用しながら扇動し、権力を手中に収めた。同時代のなかで際立った天才を示した政治家であるけれど、国家と国民を破滅に導いた指導者でもありました。
    創価正義の実現を、聖教をはじめいろいろな場面で一日も休むことなく継続的に叫ばれていることに、上記の文章が該当すると思うのは、わたしだけでしょうか。「信仰とは勝つか負けるかの闘争なり」創価の日ごろの表題からして似かよっています。わが闘争も、勝つか負けるかであるwww

    勝て勝て勝て!
    勝利しろ!勝利しろ!
    耳のそばで毎日連呼されて、わたしの耳は悲鳴をあげながら耳鳴りし、心臓は強迫観念の薬を打たれたように痛いように脈打っている。勝つのは1回で良い。不軽もそうだったのではないでしょうか。行くところ必ず避忌され悪口を浴びせられ憎まれ暴力を受けそうになりながら逃げ、それでも最後に成仏したのではないでしょうか。忍辱の鎧とは深い慈悲のことであると同時に、菩薩の人格であることがよく理解できます。

    信仰とは悪意を善意に解し、悪意の人に仏性を見て、悪意の人の善意の再生を信じて、悪の行動に可能性を認めることなのではないでしょうか。否定的でなく、肯定的な未来解釈に、どこまでも、相手を平和的に認識する。戦争もヘイト教育も、ただ人を疑い、憎む訓練を強要する醜い行為に他なりません。
    悪を攻める――自分の命のなかにある最初の悪を攻めなさい。その行為を「平和的」と再定義して、自分の命を見つめて確信しなさい。創価のやり方は間違っている。唾棄すべきものも、尊敬に値するものも、美しいものも、みんな自分の心のなかにあるのですから。自分の心を観ることが人間革命の第一歩なのです。戦う対象は自分のなかにあるのです☆彡

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    憎悪の克服

    低級なブログは読む気さえ起きてきません。読むと心が汚れたように感じ、虚しい気持ちになるのはどうしてでしょう。得るものが何もないという疲れと徒労感に襲われます。

    2015年、第40回SGI提言「人道の世紀へ 誓いの連帯」から引用します。
    有名な「維摩経」の舎利弗と天女のエピソードです。「排除思想からの脱却」と題した難題ですが、言うことが全部自身に返ってくるというお粗末さ。他人から見れば、舎利弗の執着は、先生の執着に等しく見えます。また、自己へのこだわりを他者へのこだわりへと転換するための想像力が必要と指摘することはたやすいことですが、わたしが気になったのは、そのエピソードの前の文章です。

    『昨今、多くの国々で社会問題になっているヘイトスピーチ(差別扇動)は、ヘイトクライム(憎悪犯罪)のような直接的な暴力を伴わないものの、明確な憎悪に基づいて他者を意図的に傷つけるという点で、根は同じであり、どの集団に対するものであろうと、決して放置してはならない人権侵害です。
    そもそも、差別に基づく暴力や人権抑圧が、自分や家族に向けられることは、誰もが到底受け入れられないもののはずです。
    しかしそれが、異なる民族や集団に向けられた時、バイアス(偏向)がかかり、”彼らが悪いのだからやむを得ない”といった判断に傾く場合が少なくない。事態のエスカレートを問題の端緒で食い止めるには、何よりまず、集団心理に押し流されずに、他者と向き合う回路を開くことが欠かせません』


    自分のことは棚に上げて、と言えばいいのでしょうか、会員にバイアスをかけている本人が、事態のエスカレートを食い止めるために、他者と向き合っているのか、反抗的なわたしでなくても、誰でも疑問に思うでしょう。宗門を日顕宗と揶揄することは、ヘイトではないのでしょうか。大御本尊へのヘイトスピーチも、過去の指導との整合性もあって、堂々というわけにはいかず、弟子に言わせてほおかむりしています。卑怯な人間の常套手段です。

    憎悪は修羅の命です。そして、悪と戦っていると思わせる巧妙な偽装心に、自分自身さえ支配されています。集団心理に流され取り込まれた集団ヒステリーの典型例とも言えます。修羅の命の報復は、自他共の壊滅です。
    聖教で毎日、創価は正しいと主張せずにはいられない理由があります。ほとんどヘイトと変わりない悪の設定と善の主張が、辛うじて会員の注目を惹きつけ創価を生き延びさせています。会員をバカにするから、その報いを受けるのです。また御本尊の意義を変更すれば、信仰の意味も変わってくる。同苦の心など始めから持ち合わせていないのに、眉間にしわを寄せた同苦の顔色を作って嘲笑っているのです。
    憎悪はなにも生み出さない。わたしは憎悪することを憎悪する。不軽が自分自身に課した心得は、どのような誹謗中傷、迫害を受けようと憎悪は持たないという不文律でした。憎悪の克服こそ、永遠の過去に仏に誓った、たった一つの条件であり、暗黙のプロミスでもあるのです。
    賢明な会員のみなさま! 
    人間にとって、最も難しい徳を備えるための、不軽の修行だったのですよ☆彡

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    信心のいさぎよきはすめるがごとし

    こんにちは。暑い日が続きますね。
    お体をいたわり、無理をされませんように。

    僧俗和合を願う人は少数派。創価にも宗門にも一定数はいると思いますが、今は強く主張できない雰囲気があります。しかし、僧俗和合が大聖人のご遺命であることに疑いはありません。大聖人は御書のなかで『弟子檀那等』とよく言われるではありませんか。わたしは、大聖人の慈悲心は、誰に対しても平等だと理解し、信じております。
    創価の会員の立場から考えると、大石寺は旧来の古典的僧侶像の考えから抜け出せないでいます。宗教は創造的に変化するものだという認識が抜け落ちています。たぶん、大聖人の革新性を理解できない愚かしい人々が、自分たちの地位について保守的になり、宗門を支配しているからだと思います。成仏さえも商売道具にする堕落ぶりは、もはや清新な仏教を望むべくもありません。
    僧侶は言い換えれば先導者です。先導者は普通、過酷な環境に置かれます。時代の改革者であり社会の開拓者でもあるからです。少なくとも、そのような志を持ち殉教精神が横溢する僧侶であることが、大聖人が望む宗門の姿ではないかと考えます。何事も根源である大聖人の立教精神に純粋であることが、一人の人間としても、さらに求道者としても必要なことです。

    『水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく
    みなの御心は水のごとし
    信のよはきはにごるがごとし、
    信心のいさぎよきはすめるがごとし』

    こういったご金言は他人のためにあるのではありません。また地位や名誉、経済的環境、生活境遇など関係ありません。大聖人と自分という純粋な信心のつながりと喜びのなかに潔さがあるのです。潔さがなければ成仏も叶いません。またそのような真摯な姿は、自然と尊敬も集めます。勤行や唱題、教学や演説が素晴らしいからといって尊敬を集められると思ったら大間違い。概して宗門は、言葉が貧しく表現が固定的です。良く言えば厳格です。悪く言えば創造的でありません。 またボキャブラリーが非常に乏しく、日蓮用語をわかりやすく多言語に翻訳する力量もなく、したがって世界宗教のアビリティーはほとんどありません。
    広宣流布が大聖人の願いですが、僧侶はその志を裏切っているにもかかわらず、自分の生き方に懐疑を抱かないという二重の裏切りを働いています。

    宗門の手垢にまみれた古びた感覚は、今に始まったわけではありません。なんとか生き延びてきた歴史と、時代の流れに安易に順応しようとする悪弊が、大石寺の草木の一本一本、建物や無造作に転がっている石ころまで染みついています。
    古いものを否定しているわけではありません。また培われてきた伝統や習慣のなかに、難しい人間関係を整理し和らげる作用があること、つまり潤滑油のような役目があることも認めます。でもそういうものは必要悪のようなものです。伝統や習慣が人を幸せするわけではありません。
    教義に関連して最も問題があるのは、「師弟不ニ」という人間関係を呪縛する強固な言葉です。宗門においても、師である法主に絶対的に権威権力が集中します。そして必ず無謬性が付加されます。創価においても同じですよね。理性では、師も人間であり間違いもあると認識していながら、いつも無謬性を意識します。つまり師は絶対に間違いがないと感情的に思っているのです。わたしはこのことをいつも悩んできました。

    感情が理性に勝ることは説明する必要はありません。人間は基本的に感情の動物です。だから血なまぐさい野蛮なことも平気でします。過去も現在の世界も、野蛮な行為が溢れています。人間は他の動物よりもずっと野蛮なのです。
    自分は絶対的に正しいと考えるのは理性ではありません。感情です。人間は誰でも間違いを犯すと考える人がクールでスマートな賢者です。謙虚さとは理性であり知性の発露なのです。

    大聖人は開目抄のなかで、謙虚に、自己懐疑を繰り返しました。「自分は一体何者なのだろう?」という、仏教上の命題と対峙されました。疑っても疑いきれない仏性への信頼と、法華経の行者としての深い自覚を伝えることが、開目抄のテーマです。大聖人が自問自答の問答を繰り返す場合は、決まって重要な哲学上または宗教上の命題がある場合です。なぜかと言えば、深く重大な質問をする人が当時は稀にしかいなかったからです。まさに仏教は混乱し廃れていました。釈尊の、自己否定(灰身滅智)から自己肯定(即身成仏)へと至る思惟が失われていたのです。
    原始仏教に伝わる釈尊の言葉に「自己こそ自分の主」とあります。また「自灯明法灯明」とあります。このような教説はとても重要です。わたしはどちらかと言えば大乗非仏説を支持していますが、右と左を分けるように、ここまでは仏説・ここからは非仏説と厳格に分けられるものではないと考えております。
    仏滅後の仏弟子たちは、とても偉大であり優秀だったのではないでしょうか。その研鑽の成果の真髄が法華経なのではないかと思います。これらの学術的歴史的検証は、これからも進められると思いますが、わたしは個人的に「自己こそ自分の主」という思想が、万人成仏を可能にした法華経の元になったのではないかと考えております。

    冷静に考えてみれば、宗門も創価も万人成仏を願っているのですから、互いを罵り傷つけあうという行為は道理にあっていません。悪を指摘し、改心させるために実行しているとすれば、その悪と同じものが自分自身のなかにあることをまず認識しなければならないでしょう。他者の悪は自分の悪と同質なのです。同質ということは発生の原因、生長の過程が同じということ。他者を謗ることは自分を謗ることと同じなのです。自身に向かって悪口を叫び、ツバを吐きかけ、怒って謗っている醜い姿は、想像するだけで恐ろしい。

    僧俗和合はわたしの願いでもあります。しかし、現在の異常さは、簡単に解消できるとは思えません。世代交代があり、100年後か200年後、寛容心に富む聡明なリーダーが現れれば、可能かもしれません。創価と宗門の離反は、仏教における根底的な問題と、聖職者と一般信徒の信仰への考え方の相違があるように思います。
    現在連載されている「新・人間革命」のなかで、宗門と創価の争いを詳細に語るのは当事者として当然のことだと思いますが、僧俗不和合という難題を克服できる方途はあるのかどうかを検討していただきたいと切に願うのです。また大御本尊への正直な心情を吐露していただきたいと考えております。それがリーダーの努めであり義務なのではないでしょうか。師弟を語るのであれば、同時に問題の克服方法も、弟子のために提示すべきです。
    こういう書き方をすると、自分は増上慢なのではないかととても悩みます。
    佐渡御書の最後の一節が目の前にちらつくのです。
    『螢火が日月をわらひ 蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし』
    婦人部からは退転者のように見られています。それでもわたしは自戒し、反省し、言わなければならないことは勇気を持って言おうと決意しております☆彡

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