大御本尊の冒涜

    会則変更が聖教に掲載されたとき、懐疑的なわたしは、婦人部から「時代遅れね」と言われました。御本尊の意義の変更に、不審を抱いていることを揶揄されたのです。
    悲しいかな、この婦人部はなにもわかっていないのです。大切なことがいつも抜けている。面倒なことは他人任せで、肝心なところは無知。知らないことが信じることだと勘違いしている。そんなことより、聖教啓蒙や選挙支援が大事なのでしょう。手段の目的化、過程が根本より大切という倒錯した思考に、自身の信仰の目的が失われていることがわからない。人間関係に、女性特有の鋭い観察眼をお持ちの婦人部幹部なのですから、軽率な言動は誤解を招くことを、そろそろ学んだらどうなのでしょう。「創価の評判は、あなたの言動で決まるんですよ」そんな教訓を垂れたところで、なんの役にも立ちません。凝り固まっていて柔軟性がありません。凝り固まることがそもそも悪なのに、自分は善だから凝り固まっていても大丈夫という偏屈さは、世間的にノーマルなものではありません。
    今どき、高等宗教が優位を争うこと自体が時代遅れ。歴史は宗教間の争いの歴史だったことを、今更指摘するまでもありません。グローバルな布教が当たり前になった現在、人種や生活習慣に深く根差している宗教の相対的優位を争うことが、どれほどの障害を発生させるか、顕著に現れるテロリズムの問題を知らないはずがない。今必要とされる宗教の徳目は、寛容であり、融和です。そして、多様性への理解です。
    法華経の「三車火宅の譬え」から何を学んだのでしょうか。羊や鹿や牛はキリスト教であり、イスラム教であり、共産主義であり、仏教であり、また大石寺であり、創価なのです。大白牛車に乗った人は争いません。誰かを貶めるようなことはしません。ムリヤリ正義を主張しません。正義のための正義を主張した途端、大白牛車から転げ落ちてしまうのです。不寛容な正義ほど手に負えない厄介なものはありません。今も盛んに、不寛容な正義がテロの嵐を引き起こしているではありませんか。テロで命を奪われた人々は、あなたの子どもであり、恋人や夫でもあるのですよ。その苦しみは、わたしやあなたの苦しみなのですよ。絶望を垣間見る思いです。

    創価と宗門も、言論テロの応酬で、互いの人格を傷つけあう。
    命に容赦なく、見えないナイフを何度も突き立てる。何度も切り裂く。
    正義の名を借りたその争いは、先生と法主の代理戦争。代理戦争も時代の必然なのかもしれません。権力と権威が集中しているからです。
    永遠の指導者と、仏法僧という三位一体の永遠の僧。
    永遠の象徴に優るものはありません。
    その代理戦争の根底に流れる感情は、ただの憎悪。
    テロリズムの根源も、同じ憎悪。
    正義という名の憎悪。憎悪という名の正義。
    あなたはその醜さに気づかないのですか?
    先生も法主も魔です。菩薩の衣を着た魔です。仏意仏勅の唯一の団体と言いながら、その根拠となる大御本尊を否定する魔です。
    青年部は物心ついたときからずっと、宗門憎しのヘイトスピーチを聞かされ続けてきたのです。今では、「日顕宗批判」という創価教学の一分野です。なんという憎悪に満ちたヘイト教義でしょう。
    敵意に満ちた言動は、慈悲とは正反対の憎悪に基づく表現であり、扇動してきた張本人は、先生と日顕法主です。先鋭化しやすい体質は、折伏の戦闘的大義と無縁ではないでしょう。根こそぎたたく、まるで掃討作戦です。憎しみがそれほどまでに心を支配しているのに、なぜ、平常でいられるのでしょうか。
    『謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし』
    この一節を十分に味わい、熟慮しなければなりません。
    謗法を犯しているのは誰なのか?
    大御本尊を否定する者が謗法者でないと、誰が断言できるでしょうか。
    誰もが仏性を持つと言いながら、その仏性を罵る者の正体は、大聖人が戒められた「己心外の法」を求める者なのではないでしょうか。
    御本尊に迷い、創価全体が、元品の無明の大きな手に捕われています。


    伝統と新興は、いつもなんらかの争いを起します。ほとんど教義上のことですが、なかには化儀や形式上のことだったりします。
    冷静になって自問自答すれば、
    どうして、宗門と創価はおだやかな和解ができなかったのでしょうか?
    反逆者がいたからですか?
    反逆者の正体がわかっても、なぜ和解できなかったのですか?
    反逆者とは仏法の本質から見れば、どういう存在なのですか?
    宗教ヒステリーに負けて理性を失い、本質論がいつも抜け落ちています。
    提婆達多のような悪人が、なぜ仏の記別を受けるのですか?
    法華経に従えば、今ごろ反逆者は、成仏の予約を受けていることでしょう。
    反逆者も悪僧も、すべて自分の影です。
    自分の命の一部です。池田先生の命の一部です。
    提婆の命を克服する信心、わたしたちはそれを目指しているのではないでしょうか?
    殺の心を殺す、争いの心を争わない。そのことを釈尊も大聖人も教えているのではないでしょうか?
    寛容の徳目は慈悲の一側面ですが、それを形に現せば、仏の姿になることを知らないのですか?
    反逆者に罵声をあびせ、罵り、憎むことを、知らず知らずに強要したのは、それなりの意図があったのではないですか?
    先生が、名声、名誉を傷つけられることを恐れたためではないですか?
    もしかしたら、創価は自讃と自己愛の独りよがりの教団なのではないですか?
    宗教と自己愛の組合せほど、最悪の欺瞞に彩られたドグマチック(dogmatic)な善はないでしょう。歴史上にはその例が、不幸の数と同等に存在します。寛容をページ毎に説いても、そのページを読む人間は、どれほど立派に見えても、さほど寛容ではないのです。
    『法に依って人に依らざれ』
    そうすれば争いもなくなるのです。
    この御文は、妙法の革新性をよく表していますが、その真意を理解し、忠実に実行するのは至難なことです。
    人間はほとんど、人に依ることを無意識に当然と考えているからです。社会の主な秩序が、人に依ることで成り立っているからです。
    創価も宗門も人に依っているのです。だから対立が生まれ、さらに譲歩不可能な対立に発展する。対立のための対立に追い込み、後ずさりできないように仕組まれているのです。これが巧妙な魔の働きなのです。魔が、善の姿で自らをカムフラージュしている。経典のなかだけのおとぎ話と考えたら大間違いです。

    あまりにも近すぎて、わたしたちは気づきませんが、大善の隣りに大悪があるのですよ。悪の根源は、密接に善の住処と関連しているのに、また反逆者の命は、自分の命の一部でもあるのに、表層だけを見て、その本質を考えようとしない。
    仏教のなかでは悪の存在はとても重要です。善と対立するだけでなく、ときには善の導き手になるからです。仏教では神の存在をとっくに解決していますが、善悪という倫理規範は、神の存在以上に厄介で、その洞察は信仰の究極にリンクしています。「仏教がキリスト教より百倍も現実的」と、優れていることを認めたニーチェの言葉は、まさにこのことを語っています。キリスト教が、神の存在をいつまでも解決できずにいるのに、仏教では、人間自身が神の存在権を手にしているからです。
    神が善を代表しているとすれば、悪の代表は第六天の魔王です。無明の闇から生まれた魔王の特徴は、寄生主によって、その強さも大きさも変化することです。まるでウイルスのようですが、ウイルスも耐性を作るように、魔王もまた巧妙にカムフラージュして、耐性の姿を強大に変化させるのです。恐いですね。魔王を侮ってはならないのですよ。信心強情になれば、それに釣り合いをとるように、魔王もまた、強情に闇を黒く塗り変えるわけです。
    先生と言われて尊敬されている人と、大聖人と同等の人本尊と言われて有頂天になっている法主。その心は醜悪で、魔王の姿です。
    創価と宗門の間には、二人の分断の魔王が横たわっていることに、気づかないのですか?
    その魔王は、師弟不二と毎日呪文のように唱えながら、信者を金縛りにして、「わたしについて来れば幸せになれる」と言って騙し続けているのです。
    憎悪のなかで苦しみ悶えるように、憎しみの魔王が、あなたの心を占領していることに気づかないのですか?
    魔王だって、いつも祈っているんですよ、「仏よ、わたしに悪という善を実現させてください」と。善も悪も立場によって逆転し、善が悪になり悪が善になるんですね。絶対善は等価物を持たない大御本尊よりありません。
    善悪を越えた普遍的法だからです。

    わたしは、宗門との暴力的諍いを、再考、再評価していただきたいと考えます。
    大聖人のご遺命は広宣流布であり、折伏の闘士こそ最も偉大な、称賛されるべき信仰者です。
    それに比べて僧は何をした?
    僧は弘教をしない。会員を蔑んで金を巻き上げるだけ。
    少欲知足の高潔な僧とは、とても思えない。
    創価の誠実な会員の涙の出るような苦悩を、わたしは心深く感じ、共有したいと考えています。
    自分勝手な悪僧に、どれだけ苦しめられたか。
    それでも、その悪僧たちを許し、互いに許し、ともどもに広布のために、力を合わせていける日を夢見るのです。

    『凡そ仏法と云ふは、善悪の人をゑらばず、皆仏になすを以て最第一に定むべし。是程の理をば何なる人なりとも知るべきなり』(星名五郎太郎殿御返事)

    『法華経は草木を仏となし給ふ。いわうや心あらん人をや。法華経はの焼種二乗を仏となし給ふ。いわうや生種の人をや。法華経は一闡提を仏となし給ふ。いわうや信ずるものをや』(上野殿御返事)

    『設い八万聖教を読み大地微塵の塔婆を立て大小乗の戒行を尽し十方世界の衆生を一子の如くに為すとも法華経謗法の罪はきゆべからず。我等過去・現在・未来の三世の間に仏に成らずして六道の苦を受くるは、偏に法華経誹謗の罪なるべし』
    (善無畏抄)

    『若善比丘見壊法者置不呵嘖の置の字ををそれずんば今は吉し後を御らんぜよ無間地獄疑無し、故に南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有りて悪人を将護して治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば此の人は実に菩薩に非ず、外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」云云』(南部六郎殿御書)

    もしかしたら妙法を行じていると思い込んでいながら、実は法華経誹謗の罪を犯しているかもしれない。
    大聖人の、命をしぼりだすような叫びが聞こえないのですか?


    魅力的でエレガントな大宇宙統一理論も「法」ですが、信仰の対象にはなりません。相対性理論も万有引力の法則も信仰とは関係ありません。「法」は、それ自体では信仰の対象にはならないのです。実体がないからです。
    例えて言えば、わたしは、アンナという可愛いらしい名前ですが、わたしという本体が、実際に存在していればこそ、アンナという名前も有効です。わたしという本体が存在しないのに、アンナという名前だけがあっても、それは幽霊? ネットの幽霊? 怨霊? ゴースト? 妖怪? 言っときますが、わたしは亡霊ではありませんyooo。実在しますからne。

    「南無妙法蓮華経」は、仏を説明した法であると同時に、仏の御名前です。大御本尊が存在し、その御名前を呼ぶことに価値があります。仏に語りかける行為、つまり名前を呼ぶ行為を祈りというのですね。まさに仏性を信じ、仏性に語りかける行為は、御本尊という明鏡があればこそなのです。
    「法」を特別視する偏向的思考は、先生の初期の論文から顕著です。戸田先生には見られなかった思考です。宗門にいろいろ問題があっても、決して大御本尊から離れてはならないと、一貫してご指導されたのが戸田先生です。
    池田先生が、最も精力的に対話運動を展開していた70年から90年代にかけて、いたるところで、普遍的な法を説明するために対話が費やされています。全部引用するのも面倒なので典型的な一つを引用します。
    ヨーゼフ・デルボラフ博士との対談「二十一世紀への人間と哲学」より、

    『本来 "仏陀" とは「真理を悟った人」を意味し、真理は時間・空間を超えた普遍的なものですから、時空のあらゆる広がりのなかに、それを悟った仏陀は無数に存在しうるのです。のみならず、いまは悟りを得ていない人々も、修行し、思索を深めることによって、仏陀になる可能性をもっています。
    「真理を悟った人」が仏陀であるということは、「真理」こそ、あらゆる仏陀を生ぜしめる根源であるということでもあります。ゆえに、仏教では、この「真理」すなわち "法" こそ、あらゆる仏陀の親であり、師であり、主君であると説くのです。
    そして、現実に生きている人々の幸・不幸を決定していくのは、人々がこの "法" に合致した行動をとるか、そこから外れ、背いた生き方をするかであるとされます』


    海外での最初の講演、UCLAでの「二十一世紀への提言」(74年)では、仏教未体験の人には理解しやすいと思われる「大我」「小我」の単語を用いており、内容はトインビー対談を踏襲したものです。「常住不変の法と大我」と題して、仏教ではない言葉を使って、仏教の真髄を謳っています。

    このような引用個所には何か違和感がありますが、宗門と争った問題でもあります。法の擬人化は、キリスト教に馴染んだ欧米人には、理解しやすいかもしれません。法を優先する姿勢は当然、僧の反感を買います。僧集団は、法主を頂点に、広宣流布よりも法水写瓶に命を賭けてきたのですから、融通が利きません。法水写瓶は人を介して行われるのです。外に向かった啓蒙より、内向き伝統保持の精神、儀式はあっても、社会に展開する真の化儀はありません。
    池田先生はなぜ晩年の老いと病の戦いのなかで、ほとんど新しい宗派を作るという、とんでもない行為にでたのだろうか。先生は名誉に対する思いがとても強いと思う。「この名誉は会員の皆さまとともにいただいたもの」という意味のことを、先生はよく言われますが、もちろんこれは表面的な言いわけ、会員に一応気を使うセレモニーのようなものです。無冠は素晴らしいと言いながら、自らは名誉を独り占めにする。配達員を最低賃金で雇用し、使命感だけで人を動かそうとする支配の定石は巧みです。使命感はとても安価なものでありながら、思いがけないハイリターンを生む投資商品でもあるのです。使命感さえあれば、すべての生活を捧げ、人生をリセットし、死さえ厭いません。
    あまりに法を強調すると、法勝人劣の邪義になります。南無妙法蓮華経は仏身であり、大御本尊は、その仏身を曼陀羅としてあらわされたものであり、すべて妙法はこの大御本尊に収斂します。大御本尊と法は一体であり、大御本尊を離れて正しい信仰もありません。先生が言われるところの「仏陀を生ぜしめる根源の真理」は大聖人の御内証のことであり、大御本尊から離れて、その具現もありません。宗門においても、人法一箇には、いろいろと歴史上の経緯がありますので、一概に肯定できませんが、こういう教義上のことよりも、さらに重要な、避けて通れない問題がありますので、新リーダーには真の宗教改革をめざし英知を結集していただきたいと考えます。
    池田先生も宗教改革をめざしましたが、その道半ばで放棄しました。挙句の果てに、大御本尊への冒涜とは、信仰者として恥ずかしくないのでしょうか。戸田先生に顔向けができるのでしょうか。 「魂の独立」「創価ルネサンス」といった華やかな言葉に惑わされてはならない。宗教改革とは、仏教界全体に波及することなのです。歴史の常識を変えることなのです。清廉な信仰者としての使命を自覚し、仏法の守護者として社会における正義の実現を願うならば、池田思想に安住し、止どまってはいられませんが、現執行部に、それらしい人が見あたらないのは、創価の命運も尽きたということ。池田先生の最大の失敗は、自らの名声名誉ばかり気がかりで、創造的で行動的な、どこまでも信頼できるたった一人の後継者を見い出せなかったということです。

    不軽菩薩の行動精神は堅忍不抜という太い神経ですが、そこには他者への尊敬があることは今まで幾度も学んだ通りです。尊敬があるから耐え忍ぶことができるというのは、大変ドラマティックな設定ですね。尊敬と簡単に口にしますが、尊敬への信頼度が試されているわけです。不軽は、心の底から人間を信頼していたということが良くわかりますが、このような人物造型は、法華経を作った人が、不軽のような人だったということを表しています。不軽の本地は釈尊ですが、この釈尊は歴史上のブッダでないことは明白です。ブッダは仏教創始者という栄誉に浴するだけです。
    折伏精神は、単に破折といった側面を強調するだけでは不十分です。人間への尊敬と信頼が、その行為のなかに凝縮されています。同時にその尊敬も信頼も、自分に向けられた他者の思いであることも、自覚しなければなりません。折伏を行ずるとき、他者から自分が試されているのです。人間行為は、決して一方的な通行では終わらないということ。投げたボールは、必ず返ってくるということです。エゴイスティックな行為、組織的義務や成果のために投げたボールは、美しい軌跡では返ってこない。

    仏法の卓越性は、合理的な比較相対にあります。仏教はもともと、科学的批判精神が横溢しているからです。批判精神がない信仰者は、理性を欠いた盲信者と言わなければなりません。実証を重要視するのは道理的によく分かりますが、はっきり言えば、宗教上の実証体験は主観的要素が強く、つまり心の問題であるために、死ぬまで客観的な決裁がつかないということです。未来世で判定するというわけにもいきませんものね。
    信仰者は、人生の障害となる問題や深刻な悩みを解決したとき、喜びのために我を忘れて、理性を無視した結論を下します。この宗教は唯一無二、絶対に正しいと考えてしまうわけです。そしてこんな素晴らしい真理を、わかりやすく教えてくれる指導者は、完成された人格として偶像化されます。これはなにも創価に限ったことではありません。自分の努力が自分が望むような形で現われたという結果なのに、単純な理性的思考が、なぜか欠落してしまうのです。ついには法が擬人化され、法を説く指導者像が擬人化された法に重なります。指導者は神格化され、主師親の三徳を兼ね備えていると崇められるのです。無謬性という神に近い人格を与えられるのは、純粋な信仰を求める宗教にありがちなことです。法が純粋ならば人も純粋でなければならない。
    法主絶対論は形を変えた師弟論です。宗門でも、神に近い絶対性を保持しており、創価の師弟不二とは対等の勝負ですね。創価の師弟不二論も絶対に近いものですので、法主絶対論を批判できません。創価と宗門の無謬性対決は、大石寺教学に原因があります。
    なぜこのような師弟観が生まれるのか。たぶん、血脈と人法一箇論に起源があると思う。その弊害を克服しながら、将来予想される蹉跌と混乱を回避しながら、僧俗和合の青年を結集することも不可能ではありません☆彡


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    如意宝珠は一珠なれども万宝をふらす

    わたしも毎日生活に追われ、弱い自分に直面し、くじけそうになりながら奮闘しています。未入会だった夫は、結婚してからすぐに入会しました。今ではいっしょに勤行するようになりました。わたしはそれだけでうれしく思い、感謝しております。
    ヤングミセスからの誘いがないことを残念に思いますが、まだどこかに女子部気分が残っていたりするので、自分の主張を自制するように心がけております。おとなしくしていなさいと言い聞かせています。わたしの差し当たっての関心事は、健康な食べ物とお料理ですね。女子部時代、勢いに任せて、なんて不健康な生活に平気でいたんだろうと反省しています。

    わたしはパンが大好きなのですが、今まで気にしていなかった原材料をチェックするたび、わけわからない材料が使われており、危機感を持つようになりました。それで最近、手作りパンにハマッており、国産小麦粉や米粉や全粒粉などで、シンプルレシピでおいしく作っております。結婚前には考えてもみなかった変わりようです。主婦がとても楽しいのです。掃除もお洗濯もお買い物も、とても楽しいのです。こういう生活を幸せというのかもしれませんが、どこかに冷静に自己観察している自分がいることもわかっています。

    フランスの哲学者・アランの「幸福論」に、 示唆に富む言葉があります。
    『悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである』
    以前、『幸福論』を読んでおり、上記の名句も目にしているはずなのに、まったく思いだすことができませんでした。
    ノーマン・カズンズ氏と先生の対談「世界市民の対話」のなかの、楽観主義と悲観主義という項目で引用されておりましたが、その言葉に続いて先生は次のように語っています。
    『およそ人間の自由と幸福は、アランの言うような主体的な強い意志によって勝ち取られていくものだと思います。ところが現代ほど、主体性、おおらかさ、未来への希望をもちにくい社会はないかもしれません』
    『人間の精神性を高める生きた哲学、宗教運動が必要であり、人生と社会の大きい次元での価値観の変革が大切である』

    現代は基本的に、悲観主義の時代と言われております。戦争やテロに象徴的に現れているように暴力による人間への攻撃は、生活や環境だけでなく、精神の荒廃を生み続けています。他者、しいては世界と自分の関係ほど重要なものはありませんが、同時に他者は、倫理も、冷静なコミュニケーションも通じない頑強な不信者でもあり、とても攻撃的です。また自分以外の他者が被っている苦悩や悲しみに鈍感です。思いやる繊細な心が失われております。
    不可解な他者を受け入れることは簡単ではありませんが、わたしたちは毎日、御本尊に向かいながら、仏を受け入れております。仏を受け入れることはその普遍性も受け入れることであり、会員の皆さまが意識しようとしまいと、日常のなかで実践されていることです。つまり、不軽のように、他者の仏性に執拗に語りかける行為は、信仰者であるが故です。またこれは、妙法の最も基本的な知識であり認識でしょう。そこから得られる結果は、「無上宝聚・不求自得」とも「以信代慧」とも言います。「宝聚」とは普遍的智慧のことですから、未来に大きな希望を与えるものです。「宝聚」は、楽観主義から生まれる未来肯定なのですね。
    『人生と社会の大きい次元での価値観の変革』
    信仰問題も創価と宗門の問題も、価値観の変革が必要なのだと、強く思います。

    如意宝珠は一珠なれども万宝をふらす』
    そんな自分になりたいと深くご祈念しております☆彡



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    信仰継承

    お盆に久しぶりに友達と会い、時間を忘れて思い切りお話しました。5年前、思いがけなく折伏できた人で、とても性格が素敵な人です。
    3年前のことですが、創価の会則変更が行われたときを境に、問題児か不良娘のように、わたしは組織に楯突くようになりました。彼女にはとても申し訳ないことをしてしまったと後悔もし、正直に気持ちをお話しましたが、きっと不信も生まれるだろうなと覚悟しながら、自分の好きなようにしてくださいと言いました。でもそのとき、彼女はとてもうれしいことを言ってくれたのです。
    「わたしが入会したのは、創価や池田先生を信じて入会したわけではない。あなたを信じて、あなたが信頼できる人だから、入会したのよ。幸せになれると約束したんだから、最後まで責任持ってよね。わたしの幸せはあなたしだいなんだから。だからあなたについていくわ」
    そんな趣旨の話をしてくれました。これが男女だったら結婚していたかもしれません。そういうわけで、わたしには、自分だけでなく彼女の分も責任があるんです。でも幸福製造機があるから、大丈夫ですね。
    時々、女子部のときの部員さんにもお会いすることがありますが、皆さん遠くからでも声をかけてくれます。たまたま二人とか三人集まると近況報告に忙しく、賑やかな座談会のようになってしまいます。そんなとき女子部時代に戻ったような感覚になるのは嬉しいことです。

    わたしは三世です。わたしの両親は、基本的に子どもには不干渉です。幼いときは口やかましい一般的な親であったけれど、大学を卒業してから、自分の人生は自分で切り開いていきなさいと宣告されるように言われました。全部自己責任で、そういう基本スタンスは、子どもとしては大変ありがたいと思います。もちろん信仰もそのなかに入ります。創価をやめる気など毛頭ありませんが、自分の使命を確信し、先生がおっしゃられるように、人間も組織も改革こそ妙法の本質であると強く自覚し、自分に課していく姿勢に、わたしは少しも疑いを抱いておりません。

    真理は完全無欠でも、証明者はその実践過程でたえず間違いを犯します。また惰弱で意志薄弱で怠慢です。すぐ他者のせいにします。自分の正義を最上のものとして訴えて憚りません。釈尊が成道後、法を説くことを躊躇したのは、ひとえに救いがたいと思われる他者が存在していたからです。このような人々を救済していくためには、勤勉でなにものにも動じない意思強固な人格でなければなりませんが、熱心さのせいで反社会的な烙印をおされる可能性もあり、今や不軽の実践は難しい環境にあります。
    今までの創価史のなかで普遍的正義の発揚を見たことがありますか? 
    常識的といえばほとんど常識的な正義ですが、ときには非常識な正義を主張するたびに、さらに大きな正義を葬ってきました。これは熱心さというよりは信仰と知性の問題です。
    大御本尊も木だ。木はいつかは腐る、なんてよく言えますね。人間だって例外なく腐りますよ。でも腐ってもこれほど尊く唯一のものはありません。大御本尊が腐るというのなら、自分の命が腐ると言っているのと同じです。要は尊ぶ心が不在なのです。尊ぶ心・意志が信仰です。信仰者を尊ぶ行為が慈悲です。こんな簡単なことを理解できない人が、なぜ多いのか、わたしにしてみれば謎です。

    原理は不変でも、そのあらわれ方のバリエーションは多彩で、個人個人において無限の可能性があるでしょう。集団よりも個人の強調は、近年の創価の指導にもよくあらわれていますが、人材を各界に送り出し、創価の仏教運動への賛同を幅広く得ていく方針転換がありました。またグローバルな思想と人材確保こそ広宣流布への条件ですが、はたして外交オブジェクティブのコンプライアンスを確立しているのかどうか。今まで先生に全部頼ってきた重要なネゴシエーションも曲がり角にさしかかっています。
    人間革命思想は同時に社会革命思想ですが、世代を越えた、あるいは世代間に継承されなければならない戦略でもあります。その戦略は確実に成果を生み出し、社会に対し一定の影響力を及ぼす段階に入りつつあります。社会に対する有為な人材の育成は、創価の大きな使命でもありますので、池田先生のご指導は、多くの人々に希望と勇気を与えたということではないでしょうか。
    しかしその一方で、不満を持つ会員が増大しているのは、どうしてなのでしょう?
    統計的な調査では、創価に不満を持つ一世会員が比較的多いことがわかっております。
    その理由を列挙しますと、
    1.幹部の人間性に問題がある
    2.学活に費やす時間的負担が大きい
    3.組織中心主義的傾向に違和感を覚える
    4.聖教啓蒙に問題がある
    5.選挙支援活動に問題がある
    6.先生が特別視され過ぎる
    わたしから言わせれば、その他に、説明責任を果たさないという冷淡な対応もありますが、まっとうな常識ある人間が感じることは、誰もが感じるのですね。そしてこのような不満不信は将来、顕著なクレームとして顕在化すると考えられ、必然的に改革を余儀なくされるでしょう。また現場に問題がありながら、放置している幹部が多過ぎますが、あるいは問題を感じない鈍感さが幹部には必要なのかもしれません。

    未来部員への指導は、創価学園、創価大学への進学の奨励とリンクしています。未来部担当者は進学ブローカーみたいな役割を担っており、わたしが大学進学する以前から、「池田先生のもとへ」というスローガンが、未来部指導のメインでした。かつて池田博正副会長が未来部の責任者だったことは、将来を見据えた布石だったのでしょう。先生にとって、心から信頼がおける人間が、身内よりいないということでしょうか。師弟不二という立派な言葉が虚しく響いてきます。
    最近は、家族単位の勤行、座談会参加、本幹参加が特に強調されており、さらに未来部、未就学児童の未入会家族へ焦点を移し、重点的に取組む姿勢が打ち出されています。後継者の信仰継承が危機的状況にあることを物語っております。親子間はデリケートな問題ですので、深く立ち入ることはできません。正しいからといって受け入れられるとはかぎりませんし、執行部には相当の焦りがあるものと理解しています。

    わたしは、信仰継承がスムーズにいかなかった親の不幸な実例を、何度か経験してきました。どういうわけか、幹部であればあるほど、子女への継承率が低いのです。そしてそういう家庭は決まって、親子のコミュニケーションに問題があるのです。親の方に、生き方あるいは人生観に、自信がないのではないかと推測しました。父子・母子一体の成仏が、そもそも妙法の基本法理ですよね。
    現在の女子部の実状をみれば、どうして楽観的に考えることができるでしょうか。
    令法久住への熱い情熱とも言える「一人立つ」精神は、女子部にこそ求められています。

    わたしは結局、未入会の方と結婚しました。残念なことに、わたしのまわりの男子部のなかに、適当な相手が見当たらなかったからです。男子部は、言うことは勇ましいのですが、いつも群れていて「一人立つ」プランを、公私にわたって持っていません。または持っている人は稀です。また、「一人立つ」は、なにも信仰世界だけの話ではありません。社会的にもオリジナリティーがなければ「一人立つ」ことはできません。

    どうか、誰かを励ますよりも真っ先に、健気に奮闘する女子部員を精一杯励ましてください。わたしも経験しましたが、完璧にやろうと思えば思うほど、真面目にやろうと思えば思うほど、役職兼務の厳しさに涙を流しました。ほとんど無限に、次から次と問題が起きてくるのです。なんという苦渋に満ちた組織でしょうか。
    女子部の姿が、創価の未来を暗示しています。
    どうかひたむきな女子部を、やさしく労ってあげてください☆彡

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    個別を通して普遍を見る

    こんにちは。

    現在連載されている「新・人間革命」の「雄飛」の章のはじめのほうには何が書かれていたか、ご存じですか?
    多くの会員はすっかり忘れていらっしゃると思いますが、会長辞任後の1980年(昭和五十五年)・第五次訪中団の様子が描かれております。

    鄧穎超が語ったエピソードが印象的ですね。周恩来の遺灰が飛行機で大地に撒かれたこと、それが中国の風俗、習慣ではとうてい受け入れがたい革命的行動であったということですが、天安門広場の記念堂に葬られている毛沢東と比較すれば、どちらが賢明であるか火を見るより明らかです。周の後継者・鄧小平も遺灰は東シナ海に投じられました。もちろん鄧の意志にしたがっただけです。
    毛沢東は、自分があれほど嫌っていた宗教の御本尊に祭り上げられたのですから、考えようによっては神になったということかもしれません。なにしろ共産主義は、キリスト教の一派生であることはよく知られた事実ですので、神になったとしても不思議でありません。現在の中国の指導者も、神になろうとひたすら努力し、支配する領土を拡大することに取り憑かれていますが、神と悪魔は兄弟のように瓜二つであることをよくよく注意しなければなりませんね。
    周も鄧も、民衆を第一に考えた立派な唯物主義者でした。みずから神になろうとする人間に、ろくな人物はいません。「永遠の指導者」もほとんど神の領域ですね。それを容認する人間の罪深い性に涙が出てきます。理性でなく感情で容認しているのです。

    83年、ブカレスト大学での講演「文明の十字路に立って」では、「新しいヒューマニズム」について講じています。ルーマニアの矛盾に満ちた独裁社会主義を、新しいヒューマニズムと賛嘆しています。最後にこのように述べています。
    『最後に、この席をお借りしてルーマニア建国の指導者、世界平和のため尽力され、ご努力してくださっているチャウシェスク大統領に心より感謝の意を表し、私の講演を終わりたいと思います。ありがとうございました』(池田大作全集「第1巻」)
    その後に、大統領と会見した様子は、聖教で報道されています。
    『大統領は愛国主義者であり、平和主義者であり、民族主義者であることが、よく理解できました』
    チャウシェスクは独裁者として、6万人以上の自国民殺害に関与したとして、1989年12月、銃殺刑に処されました。このような危うい政治家に接近する理由はどこにあるのだろうか。相手が悪人であっても、仏教者であれば会う必要も生まれることもあるでしょう。しかし、それは相手の正体を知ってからのことではないかと考えるのです。会談の特徴的内容は、独裁者であるという認識が希薄のうえ、称賛言葉に溢れていることです。「称賛」‥‥先生の会談に共通するキーワードです。
    銃殺刑の翌月に行われた、ルーマニアのブラッド駐日大使との会談も、称賛言葉のオンパレードです。
    『民衆の総意による新生ルーマニアの誕生を私は、両手をあげて祝福いたします』
    『民衆が勝った』『人間の叫びが勝った』
    『私どもはもちろん、権力悪と戦う世界の民衆勢力に、強い勇気を与えてくれました』


    手のひらを返す、という品のない行為。悪人にも悪人なりのポリシーがありますが、きのうは敵を誉め、きょうは敵の敵を誉めるという道化役者のような器用さはありません。そして敵の敵はわたしの味方だ、というスパイ紛いの変わり身の早さは、この指導者の際立った特徴です。

    エジプトのムバラク大統領も同じです。ムバラクのイスラエルとの対話路線は、イスラム原理主義の台頭をおさえる防波堤のような役目を果たしており、複雑な力関係に左右される中東問題に一定の抑止的効果をもたらしておりました。
    悪には悪をもって制す。何が善で、何が正義なのかわからない複雑さのなかで翻弄され、敵をだしぬけば命が助かり、命がある者が勝利者なのです。少なくとも敗北者ではない。善悪の基準など役に立たないという倫理の荒廃は、戦時と同じ。中東の安全保障は、腹黒い策略家でなければ収まらないという側面があったと考えます。イラクのフセインとよく似ています。そういう政治的な人間像と、不正な財産を蓄積して、民衆を弾圧する独裁者という人間像の評価は大きく異なっており、純粋さを愛し、永遠に民衆の側に立つと宣言した仏教者であるなら、もっと慎重な行動をとったはずと考えるのです。
    エジプトは中東の大国であり、文明の発祥地という長い歴史と文化の伝統国です。この国から表彰されれば長年の夢が叶うと考えても不思議ではありません。実際若き日に中東に思いをはせる姿を語っています。称賛すれば表彰される、誉めれば勲章をくれる。そんな卑しい命が生まれたのは、いつごろからのことなのでしょうか?
    称賛されたいために、相手を称賛する。相手が泥棒であろうと、詐欺師であろうと、人殺しであろうと、テロリストであろうと、エゴイストであろうと、悪質なコミュニストであろうと関係ない。自分を称賛してくれる人が善人なのです。ついでに勲章をくれる人が、なお善人なのです。

    6月17日の「雄飛」の章を引用します。

    『伸一は、謝意(しゃい)を表したあと、この日を記念し、「新たな民衆像を求めて――中国に関する私の一考察」と題する講演を行った。
     中国は、「神のいない文明」(中国文学者・吉川幸次郎)と評され、おそらく世界で最も早く神話と決別した国であるといえよう。
     講演では、司馬遷(しばせん)が、匈奴(きょうど)の捕虜(ほりょ)になった武将・李陵(りりょう)を弁護(べんご)して武帝(ぶてい)の怒(いか)りを買い、宮刑に処(しょ)せられた時、「天道(てんどう)」は是(ぜ)か非(ひ)かとの問いを発していることから話を起こした。わが身の悲劇という個別性のうえに立って、「天道」の是非をただす司馬遷の生き方は、「個別を通して普遍(ふへん)を見る」ことであり、それは中国文明の底流をなすものであるとし、こう論じていった。
     ――それに対して、西洋文明の場合、19世紀末まで、この世を支配している絶対普遍(ぜったいてきふへん)の神の摂理(せつり)の是非(ぜひ)を、人間の側から問うというよりも、神という「普遍を通して個別を見る」ことが多かった。つまり、神というプリズムを通して、人間や自然をとらえてきた。そのプリズムを、歴史と伝統を異にする民族に、そのまま当てはめようとすれば、押しつけとなり、結局は、侵略的(しんりょくてき)、排外的(はいがいてき)な植民地主義が、神のベールを被(かぶ)って横行してしまうと指摘したのである。

     さらに伸一は、現実そのものに目を向け、普遍的(ふへんてき)な法則性(ほうそくせい)を探(さぐ)り出そうとする姿勢の大切さを強調。その伝統が中国にはあり、トインビー博士も、中国の人びとの歴史に世界精神を見ていたことを語った。そして、「新しい普遍主義」の主役となる、新たな民衆、庶民群像(しょみんぐんぞう)の誕生を期待したのである』


    神と決別したと考えられている国が、また新たな神を作ろうとしている。それは美しい神ではなく、正視もできないほどの醜い神です。
    今では、中国の歴代の指導者にも最大の賛辞を贈り、その見返りに、中国の有名大学からの名誉称号が後をたちません。
    北京大学での講演は、司馬遷の「史記」から引用し、『個別を通して普遍を見る』という言葉で要約しています。「史記」に登場する「天道」を「普遍性」と訳して、ヨーロッパ文明と中国の「天道」に代表される世界観を対比しています。神という普遍性から個別の人間を見るのではなく、人間から神の普遍性を問うという人間観、世界観に言及し、トインビー博士の言葉を引用しながら、『中国史に蓄積されてきた精神的遺産のなかに、新たな世界精神の萌芽を見る』とまで称賛しているのです。歴史家の誤った評価は日常茶飯事ですが、この世界精神とは、大袈裟すぎる誇大評価でしょう。正しく言えば、普遍性から程遠い個別精神というところです。
    今まで明らかになった事実は、中国共産党の普遍性を有するイデオロギーは、覇権主義という世界征服の自己正当化理論でしょう。そのために、個別の思想は弾圧の対象です。共産主義という神から、個別の人間は虫けら同然の扱いを受け、搾取され、踏みつぶされるのです。最近もその例がありましたね。劉暁波氏は、徒手空拳の見事な人間の姿で、共産党の極悪と戦い散った。武器を持ったらもう人間ではないということです。
    「個別を通して普遍を見る」とは、言い換えれば、民主主義ということです。中国では実現不可能な思想でもあります。普遍性を有する問題は、平和問題であり、人権問題であり、政治的な制度の問題ですが、民衆という個別の人間をベースにした人間観として表現されます。世界精神という、だいそれた言葉を使ったトインビー博士も、健在であれば、修正すること間違いありません。

    中国のアキレス腱は、人権問題であること、自由を許さないこと、思想哲学に不寛容であること。チベットやウイグルで残酷な人権弾圧を繰り返していること。この個別の問題から、普遍性を見るならば、中国人の残虐性を世界に知らしめ、共産党独裁政権を終結させることです。
    中国はいずれ将来、民主国家になるでしょう。そのとき中国の最大の友人である池田先生は、どのような評価を受けることになるのでしょうか。会員の皆さまも、その弾圧に賛成し、チベット人やウイグル人を間接的に苦しめているのに、無関係な顔して正義を実行していると思っているのです。純真さという悪です。知らない、知りたくないという無関心の悪です。牧口先生が戒めた「傍観者」という悪です。

    先生も会見された、ドイツのヴァイツゼッカー大統領。
    戦後四十年の節目に当たる1985年5月8日、当時の西ドイツ連邦議会での演説。

    『人間は何をしかねないのか、われわれはみずからの歴史から学ぶ。だからわれわれはこれまでとは異なる、よりよい人間になったなどとうぬぼれてはならない。
    究極的な道徳の完成などあり得ない。われわれは人間が危険にさらされていることを学んだ。しかしその危険を繰り返し克服する力も備えている。
    ヒトラーは常に偏見と敵意、憎悪をかき立てるように努めていた。
    若い人たちにお願いしたい。他人への敵意や憎悪に駆り立てられてはならない。対立ではなく、互いに手を取り合って生きていくことを学んでほしい。自由を重んじよう。平和のために力を尽くそう。正義を自らの支えとしよう』


    残酷な差別と人権抑圧を経験した、ドイツの最も偉大な政治家とも言われる大統領の言葉を、真摯に受け止めていただきたいと思う。「ヒトラー」を「池田先生」に置き換えれば、この演説は創価のためのものであることが理解できます。創価に反省がないのは、われわれこそ、仏意仏勅の団体という驕りがあるからです。仏意仏勅という言葉に客観的裏づけがないにもかかわらず、その不確かさを補うように、さらに大聖人直結とまで言い出す。大聖人直結という言葉も、どのように検証するのでしょうか。情に訴えて納得すれば、それが以前からあった言葉のように通用し受け入れられていくのです。冷静に考えれば全く意味がない言葉なのに、まるで、信仰の正統性を証明するかのような意味を付与されるのです。

    『大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人にまで思いうかべることができるように継続的に行わなければならない』 (「わが闘争」アドルフ・ヒットラー:角川文庫)

    ヒットラーは大衆心理を知り尽くし、大衆の愚昧さを利用しながら扇動し、権力を手中に収めた。同時代のなかで際立った天才を示した政治家であるけれど、国家と国民を破滅に導いた指導者でもありました。
    創価正義の実現を、聖教をはじめいろいろな場面で一日も休むことなく継続的に叫ばれていることに、上記の文章が該当すると思うのは、わたしだけでしょうか。「信仰とは勝つか負けるかの闘争なり」創価の日ごろの表題からして似かよっています。わが闘争も、勝つか負けるかであるwww

    勝て勝て勝て!
    勝利しろ!勝利しろ!
    耳のそばで毎日連呼されて、わたしの耳は悲鳴をあげながら耳鳴りし、心臓は強迫観念の薬を打たれたように痛いように脈打っている。勝つのは1回で良い。不軽もそうだったのではないでしょうか。行くところ必ず避忌され悪口を浴びせられ憎まれ暴力を受けそうになりながら逃げ、それでも最後に成仏したのではないでしょうか。忍辱の鎧とは深い慈悲のことであると同時に、菩薩の人格であることがよく理解できます。

    信仰とは悪意を善意に解し、悪意の人に仏性を見て、悪意の人の善意の再生を信じて、悪の行動に可能性を認めることなのではないでしょうか。否定的でなく、肯定的な未来解釈に、どこまでも、相手を平和的に認識する。戦争もヘイト教育も、ただ人を疑い、憎む訓練を強要する醜い行為に他なりません。
    悪を攻める――自分の命のなかにある最初の悪を攻めなさい。その行為を「平和的」と再定義して、自分の命を見つめて確信しなさい。創価のやり方は間違っている。唾棄すべきものも、尊敬に値するものも、美しいものも、みんな自分の心のなかにあるのですから。自分の心を観ることが人間革命の第一歩なのです。戦う対象は自分のなかにあるのです☆彡

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    憎悪の克服

    低級なブログは読む気さえ起きてきません。読むと心が汚れたように感じ、虚しい気持ちになるのはどうしてでしょう。得るものが何もないという疲れと徒労感に襲われます。

    2015年、第40回SGI提言「人道の世紀へ 誓いの連帯」から引用します。
    有名な「維摩経」の舎利弗と天女のエピソードです。「排除思想からの脱却」と題した難題ですが、言うことが全部自身に返ってくるというお粗末さ。他人から見れば、舎利弗の執着は、先生の執着に等しく見えます。また、自己へのこだわりを他者へのこだわりへと転換するための想像力が必要と指摘することはたやすいことですが、わたしが気になったのは、そのエピソードの前の文章です。

    『昨今、多くの国々で社会問題になっているヘイトスピーチ(差別扇動)は、ヘイトクライム(憎悪犯罪)のような直接的な暴力を伴わないものの、明確な憎悪に基づいて他者を意図的に傷つけるという点で、根は同じであり、どの集団に対するものであろうと、決して放置してはならない人権侵害です。
    そもそも、差別に基づく暴力や人権抑圧が、自分や家族に向けられることは、誰もが到底受け入れられないもののはずです。
    しかしそれが、異なる民族や集団に向けられた時、バイアス(偏向)がかかり、”彼らが悪いのだからやむを得ない”といった判断に傾く場合が少なくない。事態のエスカレートを問題の端緒で食い止めるには、何よりまず、集団心理に押し流されずに、他者と向き合う回路を開くことが欠かせません』


    自分のことは棚に上げて、と言えばいいのでしょうか、会員にバイアスをかけている本人が、事態のエスカレートを食い止めるために、他者と向き合っているのか、反抗的なわたしでなくても、誰でも疑問に思うでしょう。宗門を日顕宗と揶揄することは、ヘイトではないのでしょうか。大御本尊へのヘイトスピーチも、過去の指導との整合性もあって、堂々というわけにはいかず、弟子に言わせてほおかむりしています。卑怯な人間の常套手段です。

    憎悪は修羅の命です。そして、悪と戦っていると思わせる巧妙な偽装心に、自分自身さえ支配されています。集団心理に流され取り込まれた集団ヒステリーの典型例とも言えます。修羅の命の報復は、自他共の壊滅です。
    聖教で毎日、創価は正しいと主張せずにはいられない理由があります。ほとんどヘイトと変わりない悪の設定と善の主張が、辛うじて会員の注目を惹きつけ創価を生き延びさせています。会員をバカにするから、その報いを受けるのです。また御本尊の意義を変更すれば、信仰の意味も変わってくる。同苦の心など始めから持ち合わせていないのに、眉間にしわを寄せた同苦の顔色を作って嘲笑っているのです。
    憎悪はなにも生み出さない。わたしは憎悪することを憎悪する。不軽が自分自身に課した心得は、どのような誹謗中傷、迫害を受けようと憎悪は持たないという不文律でした。憎悪の克服こそ、永遠の過去に仏に誓った、たった一つの条件であり、暗黙のプロミスでもあるのです。
    賢明な会員のみなさま! 
    人間にとって、最も難しい徳を備えるための、不軽の修行だったのですよ☆彡

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