発迹顕本の一般化と血脈の問題点

    こんにちは(^-^)/

    発迹顕本やその他関係することについて、過去の文章を頼りに考えるところを書きます。

    『「発迹顕本」とは、凡夫の身に久遠の仏界を顕すことである。仏法は「人間」が主役だ。戸田先生は「久遠の凡夫」とも言われた。ありのままの人間の生命に、いかなる大難をも乗り越える無限の力が具わっている。
    一日一日、題目を朗々と唱え、わが胸中に「勇気の炎」を燃やし、何ものも恐れずに進む。ここに、我らの発迹顕本の道がある』
    (「御書とともに」)

    限られた文字数という制約がある文章ですが、肝心の凡夫に総別の違いがあることの説明はなく、言わば「凡夫」という仏法用語の一般化をはかっています。「発迹顕本」も同じで、大聖人に関わる重要語句が、我々一般凡夫の行動に置き換えられています。一般化は普遍的原理の一般化、正しく見える論理の道をたどりながら、得られる結論は間違っているという、パラドックスの一種かもしれません。しかし、宗教においては、論理の飛躍も間違った結論も、信じることによって許容される。 冷静な自己こそ、信仰には必要です。
    諸法実相抄の有名な御文。
    『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり。其の故は如来と云ふは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり。此の釈に本仏と云ふは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり』
    この一節の「凡夫」はもちろん大聖人のことです。末法では凡夫と表現したがゆえに、仏がなんと身近な存在になったことでしょうか。だからと言って、我々が仏を仏たらしめていると考えるのは誤りです。「凡夫」をただの「凡夫」にしてはならないのですね。

    「主師親の三徳」という重要語句も一般化の運命を免れません。大白蓮華に掲載された御書講義「開目抄」でこのように講じています。
    『主の徳は、「民衆を守る」責任感です。
    師の徳は、「民衆を導く」智慧です。
    親の徳は、「民衆を育む」慈悲です』

    目新しくはありませんが、このように規定する前に、これがリーダーシップの要件と言っていることです。そして法華経の行者は「人間主義の実践者」であるとし、さらに具体的に講じます。
    『わが同志は、誰が見ていようがいまいが、自分の智慧と力を尽くして人々を励まし、社会を守り支える「柱」となるのです。
    希望の道を照らし、正義の道を示す「眼目」となるのです。
    人々を温かく包容し、伸び伸びと育む「大船」となるのです』

    これを読むと、「わが同志」という主語は、主師親の三徳を兼ね備えた仏だと言っても無理はないでしょう。際限なく一般化される例ではないでしょうか。


    池田先生は海外の識者と対談するなかで、新しい概念を導入しています。現在、一つの指標となっているトインビー対談から引用するのが適切でしょう。
    72~3年にかけて、宗門との間のきな臭い関係を背負いながら、充実した対話が繰り広げられております。
    世界的な歴史学者と、対等の知識と情熱を感じさせる先生の言葉には、勢いがあります。初期の論文にも同じものが感じられますが、自信に満ちた求道者の姿勢は、単なる学術的な知識探求ではなく、世界の再構築の道筋に希望を抱いているからでしょう。指導者とは、新しい価値観を持つ世界の再構築者のことです。

    先生はよく若き日々を振り返りながら、「戸田大学で学んだ」と言われます。詳しくはあまり語りませんが、よほど勉強されたのだと思います。たぶん寸暇を惜しんで、睡眠を削って、努力されたのだと考えます。先生が創価大学にかける思いは、若き日の苦労があればこそですが、創造も主体性も利他も、弛まない勉強の積み重ねのなかにあるということを知らしめてくれます。
    人の何倍も努力し勉強された先生に師事するのなら、弟子もまた同じように努力しなければならない。師弟を貫くには簡単な決意ではすまないのですね。

    トインビー対談の「事象と本質」の章で、十界論の仏界を説明するなかで、こう述べております。
    『小乗仏教は、自身の”小我”(個人的自我)を否定し、消滅することによって、”大我”(宇宙的・普遍的自我)の中に融け込むことをめざしたものです。それは、たしかに”小我”の範囲内においては、到達しうる最高のものでした。ところが、それは他を利するものではまったくなく、あらゆる人々を救おうとする仏の願望とは、本質的に反するものだったわけです。
    これに対して、”小我”を否定するのではなく、利他による自己拡大と”大我”の本質である”法”を一体化することによって、欲望や怒り、自己保存の本能を超克する道を教えたのが大乗仏教です。したがって、大乗仏教においては、”小我”を肯定しつつ、それを”大我”へと拡大するわけです』


    トインビー博士の仏界に対する質問に答えて、
    『仏の悟り、”仏界”の境涯とは―――博士の考えておられる”宇宙の背後にある究極の精神的実在”ということとも共通しますが―――宇宙の背後に、また宇宙全体を含んで実在する”法”と一体化して”大我”を得た人格のことをいいます。
    (略)
    いいかえると、仏の境涯とは、その生命の覚知による内面的状態であって、おもてにあらわれてくる具象の次元では、あるいは”菩薩界”であり、”天界”であり、”人界”等々といった九界となります。小乗仏教においては”小我”の消滅のみに終わりますが、大乗仏教においては”大我”の樹立によって、ひるがえって”小我”を生かすことになるわけです』


    ここに登場する「大我」「小我」について、疑問に思ったので、さっそく、めったに開かない仏教哲学大辞典を引っ張り出しましたが、二つとも項目すらありません。つまりこれは仏教の教義ではありません。
    「大我」はトインビー博士が言うところの「宇宙の究極の精神的実在」、つまり南無妙法蓮華経であり、「小我」は己心の法、己心の仏、己心の南無妙法蓮華経です。「大我」は「根本的な本体をとらえた法」であり、「私達の生命の様々な動きを発現させていく」原理であると述べております。宇宙の根本である「大我」は、言い変えれば仏種であり、その根本に反応して己心の仏界・小我が開くとの解釈が先生が言われる論旨だと理解します。
    新しい概念の導入について、はっきり定義を決定しなければなりませんが、少なからず時間が必要でしょう。注釈、論といった解釈の歴史が仏教史ですので、わたしはこのような概念の導入に反対しません。むしろ賛成です。わたしが受け入れられないのは、重要語句の拡大解釈。一つの違反解釈を認めると次から次と違反の拡大が進むことです。根本義の解釈は伝統的に定着しており、安易な使用方法は誤解を招くだけです。

    この問題は、伝統と新興が対立する火種になると予想できただろうと思いますが、それを指摘する冷静な信仰者が一人としていなかったということでしょう。そのための努力がはたして十分だったのかどうか、今となっては虚しい思いですが、相手を理解できないというようなことは宗教に限らず社会一般、あるいは家庭のなかでさえ、頻繁にあることです。人間って無知であると同時に、感情に支配される偏狭な生き物なのですね。
    池田先生が欧米の著名人と対話するようになってから特に、難解な仏法用語や経典、道徳的・倫理的規範、歴史など、西洋とは異なる考え方を理解してもらうために、大変な創意があったと思われます。仏法を西洋の哲学的言語で語る難しさに直面し、正しく伝える困難さを味わったに相違ないのです(*注記参照
    一般化とは、日常語で語る言葉の創意工夫ですが、哲学に対しては特に厳格さが必要です。宗門では、そのような努力を、まったく認めようとしませんでした。単なる語句の解釈ひとつにしても、伝統が持つ頑固さで許容範囲が限られていたということかもしれません。伝統は時として、新しい種からの新鮮な芽を摘んでしまう側面があることは仕方がないことですが、それが対立ではなく、十分な寛容心のなかで検討されなかったことが残念でなりません。御書に見られる大聖人の優しい慈悲心がなかったのですね。妙法への信仰は、寛容心を涵養し、人格を純粋に洗練することにあるのではないかとわたしは考えるのですが、悪は滅ぼすなどと口汚く罵る信仰に対しては、距離をおきたいと考えてしまいます。品のない言葉は品のない人格が使うことを、忘れてはなりません。

    正確には分からないのですが、52~3年頃、「教学上の基本問題」ということで聖教に掲載されたらしいのです。ネットで検索して一読すると、言葉じりをとらえて、わざわざ問題を作っているという印象を受けたのですが、宗門の頑ななこだわりは、一般信者の考えからは並はずれて遠いようです。
    一般化はやがて世俗化を免れません。そして世俗化は一歩間違うと低俗化という泥沼にはまります。妙法の品位を落とす行為は避けなければなりません。民衆仏法といっても安易に妥協してはならないと思います。低俗化は品位のない大衆化でもあります。



    (御本尊の一般化と血脈の問題点)

    このような語句の使用方法は牧口先生以来の創価の伝統です。ここに見られる思考法は御本尊問題でも同様で、血脈次第で大御本尊も大御本尊でなくなると同時に、大御本尊を蔑んで複製となんら変わりないという一般化を行っているわけです。大御本尊という高貴な言葉も意味を失って、正反対に反転して、ただのモノになってしまうのです。よく言いますよね。信徒には神社の神札も価値があるというのに、創価(日蓮信徒)では大御本尊に価値がないとは。今まで唯一のものと信じてきたのが、突然価値がなくなり唯一のものでなくなるとは、どのような思考回路を経ればいいのか思いもつきません。
    「あれは木だ、木はいつか腐る」なんて平気な語調で言うんですよ。
    人間だっていつか腐りますよ。だからと言って人間を蔑みますか? 有機物ならなんでも腐ります。無機物だって時間がたてば風化し崩壊しますが、だからと言って価値がないなどと誰も考えません。人間を蔑む者は自分を蔑む者です。御本尊を蔑む者は他者の命を蔑む者です。このような人はもう正常ではありません。正常でないことを認識できない狂人です。

    絵画の真贋は厳しく問われます。贋作が本物と見分けがつかないほどそっくりでも、贋作は贋作です。つまりコピー品は価値がないのです。贋作を展示した美術館は、その審美眼を疑われ笑われることは必至です。
    御本尊のコピー(複製)は絵画とは異なります。信仰特有の血脈という見えないものが付属しているからです。善人がコピーすると血脈があり、悪人がコピーすると血脈は流れないというわかりにくさです。たぶん、コピーする手には「正義」というような見えない文字が書いてあるのでしょう。
    大御本尊を受持の対象にしないと言って、大御本尊に不信を投げつけた信仰者がコピーする御本尊は、はたして血脈が流れているのでしょうか。法体の血脈はもうとっくに流れていません。始めから問題にしていませんので気にしてませんが、信心の血脈も流れていないとしたら、創価とはいったい何者?

    原田会長の会則変更の乱脈な説明(2014年11月8日・聖教新聞「世界広布新時代へ 更なる飛翔 日蓮仏法の本義に基づいた会則変更」)を読んで、わたしはその知性を疑いました。
    電源と端子という例を引いて、御本尊はそのような関係にはないと断言いたしました。したがって一閻浮提総与の大御本尊を受持しないと否定しても、創価が授与する御本尊には、なんら影響しないと言われました。複製は元本があればこそ複製が可能なのであり、元本がなければ複製も不可能であることは、誰が考えても筋道が通った論理です。贋作もほんものがあるから贋作が可能なのです。こういうわかり切った道理が通用しないのです。
    「大我」と「小我」の関係性は、まさに電源と端子です。宇宙的広がりの大我と同等の真理を、祈ることによって己心に顕現できるのですよね。祈りが、電源と端子を結ぶ電線です。仏法にはこのような例はたくさんあります。総別の二義は電源端子を象徴的に表しています。総別は比較相対論ですが、別してから見れば、総じてはすべて端子です。御本尊を電源と端子の例で説明するのは、教学的にもたいして意味がありません。意味のないことを最高責任者がおっしゃるので、会員から知性への疑いを持たれるのです。電源と端子の関係が、特殊であるかのような印象操作を、意識的行っているのです。
    「仏界即九界」について。仏界が説かれたからこそ、一念三千は完成し、人間完成への道は開かれました。仏界は光源となり、他の九界を照らします。こういう関係は、電源と端子の相似形です。仏界はまさに世界平和への電源であり、幸福成就のエンジンであり、人間一人ひとりという端子に、希望という活気を与える源なのです。
    会員の皆さまは、ほんとうに師弟の関係を理解していますか?
    師と弟子の人間関係は、電源と端子の関係ですよ。電源がなければ端子も不要同然であるように、師の存在が会員一人ひとりにとってかけがえがないものであるのです。師は一人、弟子は多数。弟子の行動に力を与えてくれる電源は、師の言葉であり、行動なのではないでしょうか。師が投げた言葉を弟子は受け取り、師があればこそ弟子も光り輝くのです。師弟は一体であり、師を否定すれば弟子を否定することです。電源と端子は一体であり、ムリヤリ引き離すと端子は端子の役目のすべてを喪失することになる。 大御本尊から引き離された御本尊は、根本尊敬の重要な効用を失う。
    電源端子の例えは、もともと戸田先生が用いたものです。そもそも八万法蔵と言われる仏教全体の構造が、南無妙法蓮華経から見れば、端子に当たりますし、文化、芸術、科学技術などの社会全体が、八万法蔵を根に例え、南無妙法蓮華経を幹とすれば、枝葉や花に当たります。樹木の幹と枝葉は、電源と端子の関係以外何ものでもありません。
    『大御本尊様は向こうにあると思って拝んでおりますが、じつはあの三大秘法の御本尊様を、即南無妙法蓮華経と唱え、信じたてまつるところのわれらの命のなかにお住みになっていらっしやるのです。これはありがたい仰せです。
    この信心をしない者は、仏性がかすかにあるようにみえてひとつも働かない、理即の凡夫です。われわれは御本尊を拝んだのですから、名字即の位です。名字即の位になりますと、もうこのなかに赫々として御本尊様が光っているのです。
    ただし光り方は信心の厚薄による。電球と同じです。大きい電球は光るし、小さい電球はうすい。さらにこの電球の例でいえば、信心しない者は電球が線につながっていないようなもので、われわれは信心したから大御本尊という電灯がついている。ですから、われわれの命はこうこうと輝いている』
    (「日女御前御返事」講義『戸田城聖全集』第6巻)
    原田会長は、戸田先生の御指導とは真逆のことを、平気で言っている。

    会員の御本尊には血脈は流れていません。無理やり断ち切ってしまったのですね。わたしがそう断定しても誰も反論できません。そのようにしてしまったのは先生ですが、会員にも責任があります。会員は神のように、先生の無謬性の性格を信仰しているせいで、疑いを持つこと自体を自分に禁じているからでしょう。血脈は大御本尊と教義に支えられていることを考えるべきです。
    人間なら誰でも、生物学上の父母が存在します。子供の意志や感情と関係なく、親からは必ず遺伝子を継ぎます。それはまさに生命を継ぐことであり、人格形成や人生への希望、幸福創造のアイデンティティーと深い関係があることは今更言うまでもありません。
    御本尊もその由来を無視できません。御本尊のアイデンティティーは、血脈と訳してもなんら誤訳にはあたりませんが、御本尊は歴史的な経過を積んだ所産でもあるのです。一人の偉人と哲学と歴史のなかから生まれたのです。そして普遍的価値が認められましたが、その由来を否定すると、根本から狂います。一度狂うと、際限なく狂います。

    謗法の地にある御本尊の受持は謗法であるという断定は、おそらく仏教史に刻まれる愚論でしょう。
    真理がすでに定まり、その永遠性が約束された作品が、ある日、悪漢に渡った途端、その価値がなくなる。芸術作品ですら、そのようなことはありえないのに、宗教の神秘的な世界では、不変的なものも、リーダーの見解で、一日にして谷底に投げ捨てられるという価値転換があるのですね。
    テロ集団ISISが文化財の破壊を繰り返し、人類遺産を否定し尽くした行為を、我々は厳しく非難しますが、大御本尊否定行為も宗教テロのレベルにあることを認識できないのでしょうか。
    大御本尊は闇の世界にあっても光源です。悪人と不正が支配する世界を正常な世界に戻し、正常な戒壇に奉る。それは正常な信仰者にのみ可能な、正しく正常な行為です。健康的な精神は正しいものをそのまま正しく見る。ぜひ「観心本尊抄」を精読し熟考していただきたいと考えます。

    何事も気づくのが遅いわたしは、遅ればせながら不審を感じましたが、勤行の御祈念文で初代と二代会長への報恩感謝は当然としても、まだ存命中の三代会長が自らを拝ませるというのは、増上慢も甚しいのではないでしょうか。これも自賛の一つですが、いつの間にか、創価の既定事実になり定着するという悪どいやり方。自賛の欲望は果てしがないようです。「リーダーは謙虚でなければならない」とは、先生の口癖のような言葉ですが、自分は例外なのでしょうか。
    創価のサンクチュアリは師弟。池田先生が作った神聖な庭で子どものように遊んでいる会員は、創価というだけで疑問を感じないのかもしれない。無謬性師弟観が純粋培養されて、深く浸透しているようです。盲信とはこのような姿勢をいうのでしょう。

    無謬性は神の領域であることを、自分自身に鋭く問いかけてみなければならないのですが、このような哲学的には明らかに不純な命題も、信じることによって解決してしまいます。会員のなかには、先生は日蓮大聖人の生まれ変わりだなどと言い出す人も現われる。新興宗教というジャンルの、教祖と言われる人のなかには、自らの過去世の姿を申告公表する人もいますが、どのような方法で確定するのでしょうか。冷静な批判は他人に向けられるだけでなく、自分自身にこそ向けられるべきですが、理性的成熟度の未熟な人は、その批判方法やルールすらわかりません。

    <世界はすべて自分の行為の>と叫ぶわたしは、自分でもよくわからないけれど、孤独な異端者のようなイメージでいつも満たされています。真性の正義を口走るならば、孤独を覚悟しなければならない。わたしは徒党を組む気は毛頭ありません。傷ついても信念を堅持すること。社会に対し、批判的挑戦者であること。徒党という言葉が気にいらなければ、創価にはせめて「大聖人への不正不忠の」徒党という形容詞を付けて差し上げましょう。

    人生って逆説的で、アイロニーに満ちています。
    正しいことを言えば非難され、幸福を求めれば苦難が待っている。
    孤独であっても嘆くまい。
    異端であることを祝福しよう。
    悲しみが込み上げてきても、前を真直ぐ向いて、微笑を忘れない。
    喜びが零れるように溢れても、悲しみに泣いた日のことを決して忘れない。
    屈辱的な朝のことも、
    そのような非難を浴びせてくれた不解・軽善の信仰者のことも、
    わたしはしっかり覚えている☆彡


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    大御本尊の冒涜

    会則変更が聖教に掲載されたとき、懐疑的なわたしは、婦人部から「時代遅れね」と言われました。御本尊の意義の変更に、不審を抱いていることを揶揄されたのです。
    悲しいかな、この婦人部はなにもわかっていないのです。大切なことがいつも抜けている。面倒なことは他人任せで、肝心なところは無知。知らないことが信じることだと勘違いしている。そんなことより、聖教啓蒙や選挙支援が大事なのでしょう。手段の目的化、過程が根本より大切という倒錯した思考に、自身の信仰の目的が失われていることがわからない。人間関係に、女性特有の鋭い観察眼をお持ちの婦人部幹部なのですから、軽率な言動は誤解を招くことを、そろそろ学んだらどうなのでしょう。「創価の評判は、あなたの言動で決まるんですよ」そんな教訓を垂れたところで、なんの役にも立ちません。凝り固まっていて柔軟性がありません。凝り固まることがそもそも悪なのに、自分は善だから凝り固まっていても大丈夫という偏屈さは、世間的にノーマルなものではありません。
    今どき、高等宗教が優位を争うこと自体が時代遅れ。歴史は宗教間の争いの歴史だったことを、今更指摘するまでもありません。グローバルな布教が当たり前になった現在、人種や生活習慣に深く根差している宗教の相対的優位を争うことが、どれほどの障害を発生させるか、顕著に現れるテロリズムの問題を知らないはずがない。今必要とされる宗教の徳目は、寛容であり、融和です。そして、多様性への理解です。
    法華経の「三車火宅の譬え」から何を学んだのでしょうか。羊や鹿や牛はキリスト教であり、イスラム教であり、共産主義であり、仏教であり、また大石寺であり、創価なのです。大白牛車に乗った人は争いません。誰かを貶めるようなことはしません。ムリヤリ正義を主張しません。正義のための正義を主張した途端、大白牛車から転げ落ちてしまうのです。不寛容な正義ほど手に負えない厄介なものはありません。今も盛んに、不寛容な正義がテロの嵐を引き起こしているではありませんか。テロで命を奪われた人々は、あなたの子どもであり、恋人や夫でもあるのですよ。その苦しみは、わたしやあなたの苦しみなのですよ。絶望を垣間見る思いです。

    創価と宗門も、言論テロの応酬で、互いの人格を傷つけあう。
    命に容赦なく、見えないナイフを何度も突き立てる。何度も切り裂く。
    正義の名を借りたその争いは、先生と法主の代理戦争。代理戦争も時代の必然なのかもしれません。権力と権威が集中しているからです。
    永遠の指導者と、仏法僧という三位一体の永遠の僧。
    永遠の象徴に優るものはありません。
    その代理戦争の根底に流れる感情は、ただの憎悪。
    テロリズムの根源も、同じ憎悪。
    正義という名の憎悪。憎悪という名の正義。
    あなたはその醜さに気づかないのですか?
    先生も法主も魔です。菩薩の衣を着た魔です。仏意仏勅の唯一の団体と言いながら、その根拠となる大御本尊を否定する魔です。
    青年部は物心ついたときからずっと、宗門憎しのヘイトスピーチを聞かされ続けてきたのです。今では、「日顕宗批判」という創価教学の一分野です。なんという憎悪に満ちたヘイト教義でしょう。
    敵意に満ちた言動は、慈悲とは正反対の憎悪に基づく表現であり、扇動してきた張本人は、先生と日顕法主です。先鋭化しやすい体質は、折伏の戦闘的大義と無縁ではないでしょう。根こそぎたたく、まるで掃討作戦です。憎しみがそれほどまでに心を支配しているのに、なぜ、平常でいられるのでしょうか。
    『謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし』
    この一節を十分に味わい、熟慮しなければなりません。
    謗法を犯しているのは誰なのか?
    大御本尊を否定する者が謗法者でないと、誰が断言できるでしょうか。
    誰もが仏性を持つと言いながら、その仏性を罵る者の正体は、大聖人が戒められた「己心外の法」を求める者なのではないでしょうか。
    御本尊に迷い、創価全体が、元品の無明の大きな手に捕われています。


    伝統と新興は、いつもなんらかの争いを起します。ほとんど教義上のことですが、なかには化儀や形式上のことだったりします。
    冷静になって自問自答すれば、
    どうして、宗門と創価はおだやかな和解ができなかったのでしょうか?
    反逆者がいたからですか?
    反逆者の正体がわかっても、なぜ和解できなかったのですか?
    反逆者とは仏法の本質から見れば、どういう存在なのですか?
    宗教ヒステリーに負けて理性を失い、本質論がいつも抜け落ちています。
    提婆達多のような悪人が、なぜ仏の記別を受けるのですか?
    法華経に従えば、今ごろ反逆者は、成仏の予約を受けていることでしょう。
    反逆者も悪僧も、すべて自分の影です。
    自分の命の一部です。池田先生の命の一部です。
    提婆の命を克服する信心、わたしたちはそれを目指しているのではないでしょうか?
    殺の心を殺す、争いの心を争わない。そのことを釈尊も大聖人も教えているのではないでしょうか?
    寛容の徳目は慈悲の一側面ですが、それを形に現せば、仏の姿になることを知らないのですか?
    反逆者に罵声をあびせ、罵り、憎むことを、知らず知らずに強要したのは、それなりの意図があったのではないですか?
    先生が、名声、名誉を傷つけられることを恐れたためではないですか?
    もしかしたら、創価は自讃と自己愛の独りよがりの教団なのではないですか?
    宗教と自己愛の組合せほど、最悪の欺瞞に彩られたドグマチック(dogmatic)な善はないでしょう。歴史上にはその例が、不幸の数と同等に存在します。寛容をページ毎に説いても、そのページを読む人間は、どれほど立派に見えても、さほど寛容ではないのです。
    『法に依って人に依らざれ』
    そうすれば争いもなくなるのです。
    この御文は、妙法の革新性をよく表していますが、その真意を理解し、忠実に実行するのは至難なことです。
    人間はほとんど、人に依ることを無意識に当然と考えているからです。社会の主な秩序が、人に依ることで成り立っているからです。
    創価も宗門も人に依っているのです。だから対立が生まれ、さらに譲歩不可能な対立に発展する。対立のための対立に追い込み、後ずさりできないように仕組まれているのです。これが巧妙な魔の働きなのです。魔が、善の姿で自らをカムフラージュしている。経典のなかだけのおとぎ話と考えたら大間違いです。

    あまりにも近すぎて、わたしたちは気づきませんが、大善の隣りに大悪があるのですよ。悪の根源は、密接に善の住処と関連しているのに、また反逆者の命は、自分の命の一部でもあるのに、表層だけを見て、その本質を考えようとしない。
    仏教のなかでは悪の存在はとても重要です。善と対立するだけでなく、ときには善の導き手になるからです。仏教では神の存在をとっくに解決していますが、善悪という倫理規範は、神の存在以上に厄介で、その洞察は信仰の究極にリンクしています。「仏教がキリスト教より百倍も現実的」と、優れていることを認めたニーチェの言葉は、まさにこのことを語っています。キリスト教が、神の存在をいつまでも解決できずにいるのに、仏教では、人間自身が神の存在権を手にしているからです。
    神が善を代表しているとすれば、悪の代表は第六天の魔王です。無明の闇から生まれた魔王の特徴は、寄生主によって、その強さも大きさも変化することです。まるでウイルスのようですが、ウイルスも耐性を作るように、魔王もまた巧妙にカムフラージュして、耐性の姿を強大に変化させるのです。恐いですね。魔王を侮ってはならないのですよ。信心強情になれば、それに釣り合いをとるように、魔王もまた、強情に闇を黒く塗り変えるわけです。
    先生と言われて尊敬されている人と、大聖人と同等の人本尊と言われて有頂天になっている法主。その心は醜悪で、魔王の姿です。
    創価と宗門の間には、二人の分断の魔王が横たわっていることに、気づかないのですか?
    その魔王は、師弟不二と毎日呪文のように唱えながら、信者を金縛りにして、「わたしについて来れば幸せになれる」と言って騙し続けているのです。
    憎悪のなかで苦しみ悶えるように、憎しみの魔王が、あなたの心を占領していることに気づかないのですか?
    魔王だって、いつも祈っているんですよ、「仏よ、わたしに悪という善を実現させてください」と。善も悪も立場によって逆転し、善が悪になり悪が善になるんですね。絶対善は等価物を持たない大御本尊よりありません。
    善悪を越えた普遍的法だからです。

    わたしは、宗門との暴力的諍いを、再考、再評価していただきたいと考えます。
    大聖人のご遺命は広宣流布であり、折伏の闘士こそ最も偉大な、称賛されるべき信仰者です。
    それに比べて僧は何をした?
    僧は弘教をしない。会員を蔑んで金を巻き上げるだけ。
    少欲知足の高潔な僧とは、とても思えない。
    創価の誠実な会員の涙の出るような苦悩を、わたしは心深く感じ、共有したいと考えています。
    自分勝手な悪僧に、どれだけ苦しめられたか。
    それでも、その悪僧たちを許し、互いに許し、ともどもに広布のために、力を合わせていける日を夢見るのです。

    『凡そ仏法と云ふは、善悪の人をゑらばず、皆仏になすを以て最第一に定むべし。是程の理をば何なる人なりとも知るべきなり』(星名五郎太郎殿御返事)

    『法華経は草木を仏となし給ふ。いわうや心あらん人をや。法華経はの焼種二乗を仏となし給ふ。いわうや生種の人をや。法華経は一闡提を仏となし給ふ。いわうや信ずるものをや』(上野殿御返事)

    『設い八万聖教を読み大地微塵の塔婆を立て大小乗の戒行を尽し十方世界の衆生を一子の如くに為すとも法華経謗法の罪はきゆべからず。我等過去・現在・未来の三世の間に仏に成らずして六道の苦を受くるは、偏に法華経誹謗の罪なるべし』
    (善無畏抄)

    『若善比丘見壊法者置不呵嘖の置の字ををそれずんば今は吉し後を御らんぜよ無間地獄疑無し、故に南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有りて悪人を将護して治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば此の人は実に菩薩に非ず、外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」云云』(南部六郎殿御書)

    もしかしたら妙法を行じていると思い込んでいながら、実は法華経誹謗の罪を犯しているかもしれない。
    大聖人の、命をしぼりだすような叫びが聞こえないのですか?


    魅力的でエレガントな大宇宙統一理論も「法」ですが、信仰の対象にはなりません。相対性理論も万有引力の法則も信仰とは関係ありません。「法」は、それ自体では信仰の対象にはならないのです。実体がないからです。
    例えて言えば、わたしは、アンナという可愛いらしい名前ですが、わたしという本体が、実際に存在していればこそ、アンナという名前も有効です。わたしという本体が存在しないのに、アンナという名前だけがあっても、それは幽霊? ネットの幽霊? 怨霊? ゴースト? 妖怪? 言っときますが、わたしは亡霊ではありませんyooo。実在しますからne。

    「南無妙法蓮華経」は、仏を説明した法であると同時に、仏の御名前です。大御本尊が存在し、その御名前を呼ぶことに価値があります。仏に語りかける行為、つまり名前を呼ぶ行為を祈りというのですね。まさに仏性を信じ、仏性に語りかける行為は、御本尊という明鏡があればこそなのです。
    「法」を特別視する偏向的思考は、先生の初期の論文から顕著です。戸田先生には見られなかった思考です。宗門にいろいろ問題があっても、決して大御本尊から離れてはならないと、一貫してご指導されたのが戸田先生です。
    池田先生が、最も精力的に対話運動を展開していた70年から90年代にかけて、いたるところで、普遍的な法を説明するために対話が費やされています。全部引用するのも面倒なので典型的な一つを引用します。
    ヨーゼフ・デルボラフ博士との対談「二十一世紀への人間と哲学」より、

    『本来 "仏陀" とは「真理を悟った人」を意味し、真理は時間・空間を超えた普遍的なものですから、時空のあらゆる広がりのなかに、それを悟った仏陀は無数に存在しうるのです。のみならず、いまは悟りを得ていない人々も、修行し、思索を深めることによって、仏陀になる可能性をもっています。
    「真理を悟った人」が仏陀であるということは、「真理」こそ、あらゆる仏陀を生ぜしめる根源であるということでもあります。ゆえに、仏教では、この「真理」すなわち "法" こそ、あらゆる仏陀の親であり、師であり、主君であると説くのです。
    そして、現実に生きている人々の幸・不幸を決定していくのは、人々がこの "法" に合致した行動をとるか、そこから外れ、背いた生き方をするかであるとされます』


    海外での最初の講演、UCLAでの「二十一世紀への提言」(74年)では、仏教未体験の人には理解しやすいと思われる「大我」「小我」の単語を用いており、内容はトインビー対談を踏襲したものです。「常住不変の法と大我」と題して、仏教ではない言葉を使って、仏教の真髄を謳っています。

    このような引用個所には何か違和感がありますが、宗門と争った問題でもあります。法の擬人化は、キリスト教に馴染んだ欧米人には、理解しやすいかもしれません。法を優先する姿勢は当然、僧の反感を買います。僧集団は、法主を頂点に、広宣流布よりも法水写瓶に命を賭けてきたのですから、融通が利きません。法水写瓶は人を介して行われるのです。外に向かった啓蒙より、内向き伝統保持の精神、儀式はあっても、社会に展開する真の化儀はありません。
    池田先生はなぜ晩年の老いと病の戦いのなかで、ほとんど新しい宗派を作るという、とんでもない行為にでたのだろうか。先生は名誉に対する思いがとても強いと思う。「この名誉は会員の皆さまとともにいただいたもの」という意味のことを、先生はよく言われますが、もちろんこれは表面的な言いわけ、会員に一応気を使うセレモニーのようなものです。無冠は素晴らしいと言いながら、自らは名誉を独り占めにする。配達員を最低賃金で雇用し、使命感だけで人を動かそうとする支配の定石は巧みです。使命感はとても安価なものでありながら、思いがけないハイリターンを生む投資商品でもあるのです。使命感さえあれば、すべての生活を捧げ、人生をリセットし、死さえ厭いません。
    あまりに法を強調すると、法勝人劣の邪義になります。南無妙法蓮華経は仏身であり、大御本尊は、その仏身を曼陀羅としてあらわされたものであり、すべて妙法はこの大御本尊に収斂します。大御本尊と法は一体であり、大御本尊を離れて正しい信仰もありません。先生が言われるところの「仏陀を生ぜしめる根源の真理」は大聖人の御内証のことであり、大御本尊から離れて、その具現もありません。宗門においても、人法一箇には、いろいろと歴史上の経緯がありますので、一概に肯定できませんが、こういう教義上のことよりも、さらに重要な、避けて通れない問題がありますので、新リーダーには真の宗教改革をめざし英知を結集していただきたいと考えます。
    池田先生も宗教改革をめざしましたが、その道半ばで放棄しました。挙句の果てに、大御本尊への冒涜とは、信仰者として恥ずかしくないのでしょうか。戸田先生に顔向けができるのでしょうか。 「魂の独立」「創価ルネサンス」といった華やかな言葉に惑わされてはならない。宗教改革とは、仏教界全体に波及することなのです。歴史の常識を変えることなのです。清廉な信仰者としての使命を自覚し、仏法の守護者として社会における正義の実現を願うならば、池田思想に安住し、止どまってはいられませんが、現執行部に、それらしい人が見あたらないのは、創価の命運も尽きたということ。池田先生の最大の失敗は、自らの名声名誉ばかり気がかりで、創造的で行動的な、どこまでも信頼できるたった一人の後継者を見い出せなかったということです。

    不軽菩薩の行動精神は堅忍不抜という太い神経ですが、そこには他者への尊敬があることは今まで幾度も学んだ通りです。尊敬があるから耐え忍ぶことができるというのは、大変ドラマティックな設定ですね。尊敬と簡単に口にしますが、尊敬への信頼度が試されているわけです。不軽は、心の底から人間を信頼していたということが良くわかりますが、このような人物造型は、法華経を作った人が、不軽のような人だったということを表しています。不軽の本地は釈尊ですが、この釈尊は歴史上のブッダでないことは明白です。ブッダは仏教創始者という栄誉に浴するだけです。
    折伏精神は、単に破折といった側面を強調するだけでは不十分です。人間への尊敬と信頼が、その行為のなかに凝縮されています。同時にその尊敬も信頼も、自分に向けられた他者の思いであることも、自覚しなければなりません。折伏を行ずるとき、他者から自分が試されているのです。人間行為は、決して一方的な通行では終わらないということ。投げたボールは、必ず返ってくるということです。エゴイスティックな行為、組織的義務や成果のために投げたボールは、美しい軌跡では返ってこない。

    仏法の卓越性は、合理的な比較相対にあります。仏教はもともと、科学的批判精神が横溢しているからです。批判精神がない信仰者は、理性を欠いた盲信者と言わなければなりません。実証を重要視するのは道理的によく分かりますが、はっきり言えば、宗教上の実証体験は主観的要素が強く、つまり心の問題であるために、死ぬまで客観的な決裁がつかないということです。未来世で判定するというわけにもいきませんものね。
    信仰者は、人生の障害となる問題や深刻な悩みを解決したとき、喜びのために我を忘れて、理性を無視した結論を下します。この宗教は唯一無二、絶対に正しいと考えてしまうわけです。そしてこんな素晴らしい真理を、わかりやすく教えてくれる指導者は、完成された人格として偶像化されます。これはなにも創価に限ったことではありません。自分の努力が自分が望むような形で現われたという結果なのに、単純な理性的思考が、なぜか欠落してしまうのです。ついには法が擬人化され、法を説く指導者像が擬人化された法に重なります。指導者は神格化され、主師親の三徳を兼ね備えていると崇められるのです。無謬性という神に近い人格を与えられるのは、純粋な信仰を求める宗教にありがちなことです。法が純粋ならば人も純粋でなければならない。
    法主絶対論は形を変えた師弟論です。宗門でも、神に近い絶対性を保持しており、創価の師弟不二とは対等の勝負ですね。創価の師弟不二論も絶対に近いものですので、法主絶対論を批判できません。創価と宗門の無謬性対決は、大石寺教学に原因があります。
    なぜこのような師弟観が生まれるのか。たぶん、血脈と人法一箇論に起源があると思う。その弊害を克服しながら、将来予想される蹉跌と混乱を回避しながら、僧俗和合の青年を結集することも不可能ではありません☆彡

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    人間革命という概念

    小説・人間革命も新しい章が始まりました。
    はじめに、マルチン・ルターにふれているのは、創価の宗教改革をイメージしているのかもしれません。神と人間の間に介在物があり、免罪符や聖職者の取次が必要という教会権威を強調していますが、正宗宗門や法主と二重に重なってきます。腐敗した教義、権力に取り憑かれた哀れな姿、一方で権力を恐れる臆病な相貌、世俗化した儀式と僧侶は、宗教と信仰者の堕落を象徴しています。無知とエゴイストの成れの果ての醜い形相です。法が立派でも、腐った人間がそのまわりを取り巻いていては、信者が苦しむだけ。腐った果実からは腐った種しか産まれません。腐った人間からは、腐った法しか生まれません。
    宗教に権威など必要ないという、至極当然のことが改めて思い起こされます。特に権威に従順であるという日本人の特質は、思想や哲学より根底的な文化的社会的資質として形作っているように思います。会員の、社会の改革者としての先生への尊敬度合いがとても強いのも、その反動のようにも思われます。先生への賛同と支持を通して、社会批判を実現しているのかもしれません。
    政治や学術には必要かもしれませんが、仏や神は権威を欲しません。必要だというのなら、その宗教は偽宗教であり、詐欺的宗教であることを心にとめておくとよいでしょう。この世のなかには、詐欺のように善人をだます宗教は数えきれないほどありますが、真実の宗教はたったひとつです。

    新・人間革命から引用します(第19巻:陽光)
    『たとえば戸田は、あの獄中にあって、「仏」とは「生命」であると悟達し、やがて仏法を生命論として展開していった。これによって、仏法は現代を照らす、生きた人間哲学としてよみがえったのだ。
    また彼は、信仰の目的である「仏の境涯」に至ることを、「人間革命」と表現した。
    この「人間革命」という、新しい概念を導入したことによって、仏教界で死後の世界の問題であるかのように言われてきた「成仏」が、今世の人間完成の目標として明確化され、深化されたのである』

    新しい概念の導入で真理の枠が広がることに、わたしはとても賛成ですが、土台となる法を誇大解釈したり、否定したりという、教義が根本から改変されるような変更には、とても抵抗を覚えます。そのような例は多いのですが、これは伝統的宗教から独立するときの一つの過程なのかもしれません。特殊からの一般化、別してが総じてに変化して一般化の道をたどるという妙法のプロテスタント化。凡夫は仏であるという妙法の飛躍を応用しているんですね。

    大白蓮華1月号の御書講義<p34>で、「人間革命」という言葉が、南原繁博士の講話からの借用であることを認めています。南原博士は内村鑑三の弟子の一人で、45年から51年まで東京大学総長を勤め、戦後の混乱期において民主的大学の建設と運営を受け持ちました。前任者の矢内原忠雄博士も無教会主義者であり、キリスト教会が国家の承認監督する統一団体に統合されるなかで抵抗し続けました。一時公職を追われながらも、国家主義と戦い平和主義を貫いた。キリスト教のなかで平和主義を貫いたのは、無教会主義と少数のキリスト主義者だけでした。内村鑑三の預言者的性格が、大きく影響しているように思われます。なおこのテーマは、わたしには魅力的に映りますので、創価の反戦の歴史と対比して少し勉強したいと思う。牧口先生には、日蓮主義を基本としたナショナリズムへの賛同の疑わしさがあります。無教会主義も似かよっていて、内村鑑三が生涯の目標とした「ふたつのJ」の影響があるように思います。

    人間主義を理解するキーワードは、「非暴力」と「調和」だと思います。
    広宣流布を破壊する仏敵には決して妥協してはならないと、先生は機会あるごとにご指導されております。日蓮の排他主義がときどき問題になりますが、法華経では悪人への厳しい指弾とともに成仏の可能性を随所で説いています。
    安楽行品ではじょじょに誘引する摂受が説かれ、常不軽菩薩品では妥協しない折伏が説かれ、方便品で生命の尊厳性を説いたにもかかわらず、陀羅尼品では法華経無理解者に対して排他的な言説が見られます。提婆達多には未来成仏を約束し、不軽菩薩に迫害を加えた男女にも更生の可能性を示しました。
    大聖人は『願わくは我を損する国主等をば、最初にこれを導かん』(顕仏未来記)と言われています。法の流布を懐疑的に攻撃してくる敵対者を、最初に救済すると断言されています。
    大聖人は戦う寛容主義者でした。大聖人が戦ったのは、法華経誹謗の非寛容な思想に対してです。念仏の他力主義は人間の主体性を失わせ、真言の神秘主義は人間とかけ離れた超人的仏が中心であり、禅宗は日常性を軽視する傾向があり、律宗の戒律主義は他律主義であり、法華経から見れば、それぞれが人間性の可能性を否定する思想でした。このような思想は形を変えて現在でも生きているのであり、それが根源的な悪であることは、わたしたちが十分学んだところです。生命の自在さを本源的に否定する反人間主義といってもよい思想への戦いは、創価のリーダーに継承されています。
    人間主義は自由自在にすべてを生かす智慧であり、変化と多様性を硬直的にとらえる思想ではありません。現実に即し、自他ともに幸福を実現していく実践的方法です。
    自分を捨てて他人に献身するのではなく、また自分の幸福を優先する独善やエゴイズムでもなく、他者共存と生命の全体性を信じる中道思想。人間の主体性の理想を説く中道こそ人間主義の要です。先生のすべてを生かす哲学と実践は、実は社会のあらゆる分野において、パラダイム転換を迫っているのです。
    先生が多くの称賛とともに無理解の非難にさらされるのは、すべてを生かす全体性という思想の巨大さを理解できないためと思われます。悪も善も、否定も肯定も、差別も平等も、排他でもなく包括主義でもなく、妙も不妙も調和していく、それが法華経の真髄であり、人間主義の姿です。
    組織批判をして、それを最後まで貫き、組織を新しく作りあげた人は皆無です。でも無駄ではありません。法華経においてどのような意見でも無駄ということないのです☆彡

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    会憲について

    9月2日に、創価では会憲が公表されました。反省しない人間やセクト(定義はいろいろありますが)は規則が好きなんだな、ということを認識しました。会則があれば十分と考えるのですが、建物と同じように執行者の名前が残るので、原田会長も自尊心を満足できて良かったのではないでしょうか。
    純粋さを最上のものとする宗教は、律法主義に走りやすく、規則を定めておかないと安心できないというジレンマに陥ります。戒律を重視した提婆達多は、視点をかえれば、戒律に忠実で修行に対して純粋だったのですね。律法からの解放が宗教の深化と発展と考えれば、行動を制約する規則が多ければ多いほど、宗教本来のおおらかさからは逆行するものです。おおらかさとは多様性のありかたを熟慮し、人間性に信頼をおくことです。
    会憲をほとんど読まない会員が多いなかで、まじめにチェックするわたしみたいな面倒くさいアンチがいるわけで、大人しくしていてくれればいいのですが、人一倍議論好きで主張好きときているから厄介ですね。いずれ反対意見には寛容でない創価の一面がはっきりと現れるかもしれません。先生は信教の自由と言論の自由を保証すると何度もご指導されましたが、その自由さは100%ではなく、制限があるということなのでしょうか。特に、文句がある奴は許さんという権威主義が垣間見れます。このような閉鎖性がセクトのひとつの構成要件です。

    グローバル・カルチャー(世界宗教)としての創価には、反対者にも開放的な価値観の転換と、宗教が持つ自己中心的な排他的独善性を強く警戒していただきたいと考えます。
    アンチのわたしが言うことではないですね。でも、メタ(普遍的)な部分の変更は慎重であっていただきたいと考えるのは、信者として当たり前ですよね。また、上から指示の命令口調では問題は解決しません。具体的発想は思い浮かびませんが、道徳的責任をともなう制度の構築をめざしていただきたい。共感する幹部の姿勢がすべてですね。そのためには会員の思いには敏感でなければなりません。
    先生だけでなく創価の神格化は着々と進みつつありますが、妙法と神格化は最も不釣り合いな組み合わせです。人や組織を広めるのではありません。法を広めるのです。わたしは、信仰の正しさは、すなわち人間の行為の正しさとイコールではないということに気づきました。残念なことですが、大聖人が人の振る舞いの大切さを説いたのは、法の実践者としての強い自覚をうながすためでもあったと思うのです。人即法とは、まさにそういう意味なのだと思います。

    組織のなかで自分の居場所がないと感じ、また方向性の違いから、共感を得られないと考える会員は次第に増えていくものと思います。一口でいえば形骸化という、組織がたどる道を創価も歩むのです。規則が必要と考えるのは、形骸化の一つかもしれません。先生が一番危惧していることですが、問題は置き去り同然にされています。これにはいろいろな理由が考えられるでしょうが、煩雑になるので今ここでは言いません。
    そのための組織改革の提案を要約すれば、
    1)組織のなかでの緊張感や危機感に対する自覚をあらゆるレベルにおいて啓発し共有すること。
    2)指導的立場にある人は、会員の悩みに敏感であること。
    3)権威主義的傾向に陥りやすい宗教団体にあって、絶え間ない自戒と意識の啓発、組織機構の改善が行われなければならないこと。
    4)個人の経験や能力を全会員のために活用すること。そして人々の参画と相互作用を促すこと。
    5)権威を守るために、教義的にも人間関係のうえでも服従の強要をしないこと。非難の抑えこみをしないこと。改善の努力を否定しないこと。そういう人を抑圧しないこと。
    信仰は深い自覚なのです。わたしはこれからも、種々の抱える問題に意識的に、自分なりにその回答を求めていきたいと考えています☆彡

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    核兵器禁止条約と北朝鮮

    池田先生は、第32回「SGIの日」記念提言 「生命の変革 地球平和への道標」で、戸田先生の「原水爆禁止宣言」の50周年記念日にあたり、次のように述べています。

    『仏法者である戸田会長が、なぜ原水爆禁止なのか、それがなぜ、将来を背負う青年たちへの "第一の遺訓" なのか、正直いって、弘教ひとすじに走り続けていた当時の若い人たちにとって、新鮮な驚きと同時に、唐突な感もあったと思います。
    "宗教的使命" といっても、単独で存立するものではなく、広く "社会的・人間的使命" により補完されて初めて完結する、「立正安国」という日蓮仏法の深義までは、なかなか思い及ばなかったようであります。
    逆にいえば、そこにこの「宣言」の意義、先見性があるのであり、核兵器が今なお人類の生存を脅かし続けている現状からみれば、なぜ恩師があの時期、あのような布石を打たれたのかということの重みが、ひしひしと実感できるのであります』


    先日も、聖教に掲載されておりました(8月31日『学生部「御義口伝」講義に寄せて』)
    『日蓮大聖人の深遠な哲学を現代に展開して、不信と憎悪が渦巻く核兵器の時代を信頼と調和の人間主義の時代へと転換させたいと深く念じたからである』

    9月4日には、神奈川「青年不戦サミット」に寄せて、次のようにメッセージを贈っています。
    『条約(核兵器禁止条約)のリーダーシップを担ってこられた、市民社会のネットワーク組織である「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」のベアトリス・フィン事務局長は深い理解の声を寄せてくださっております。
    すなわち、「たとえ希望が見いだせず、人々が諦めそうになった困難な時代にあっても、SGIが立ち上がるエネルギーと勇気を発揮し続けてきたことに多大な啓発を受けるのです」と。
    核兵器の廃絶を目指して、尊き青春の大情熱を注いでこられたフィン事務局長は、「人々が一緒になれば、本当に多くのことが可能となり、本当に素晴らしいことができるのです」とも語られていました。
    まさしく、民衆が連帯し、青年の力で行動の波を起こしていけば、必ず "不可能を可能にする力" が生み出されるのです。
    いよいよ今月20日から、核兵器禁止条約への署名が始まります。条約の早期発効を導き、核兵器廃絶の流れを大きく前進させるためにも、民衆の連帯をさらに広げていくことを、私は念願してやみません』

    それにしても、絶対平和主義である妙法の信徒が、なぜ安保法案に積極的に賛成するのか、思想と現実の乖離をなぜ悩まないのか、不思議な気がします。また、核兵器禁止条約に署名しない選択肢がありえたことに驚きを禁じえません。先生が早期発効を願っても、公明党がブレーキになっているのですから、この自己矛盾ともいうべき事態は、かつてのイラク問題と同じですね。核抑止論への依存を、まず仏法者から放棄すべきです。核の傘などもうたくさん。口をつぐんで何も言わない仏法者・自称の平和主義者とはいったい何者なのでしょうか。「ガンジー・キング・イケダ」という非暴力の系譜を自慢しているのに、どうしてなのでしょう?

    釈尊以来営々と、暴力に抗してきましたが、未だ不戦と調和の時代は実現しておりません。釈尊の悲しい涙を見る思いですが、平和への使命を託された仏弟子たちがとった行動は、正統をめぐって争うことでした。仏教史は連綿とした争いの歴史です。
    それは現在においても変わりありません。平和の実現、戦争の抑止になんら力を発揮できない仏教者は、自宗の利益を守るために汲々としております。仏教者とは思えない形を変えた利己主義者であることは疑いありません。
    また与党として大きな影響力を持つ先生が創立された公明党は、すでに創立の理念は失われております。大衆政党というより創価政党としての殻を打ち破ることができていません。平和問題にしろ経済問題にしろ、庶民感覚と公明党には著しい隔たりがあることを、会員の皆さまはそろそろ気づかれたらよいのではないでしょうか。
    国民の格差がひろがり、弱者は貧困のなかに置き去りにされ、生活は苦しくなるばかり。そして戦争へと発展しかねないクライシスが目の前にあります。北も南も朝鮮人への関与は程々にしていただきたいと考えるのは、仏法者として失格でしょうか?☆彡

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