創価の一灯

    『諸君は又こういう事を考えてみないか。混乱していない現代というものが、嘗てあったであろうか、又将来もあるであろうか、と。・・・中略・・・
    未だ来ない日が美しい様に、過ぎ去った日も美しく見える。こうあって欲しいという未来を理解する事も易しいし、歴史家が整理してくれた過去を理解する事も易しいが、現在というものを理解する事は、誰にもいつの時代にも大変難かしいのである。歴史が、どんなに秩序整然たる時代のあった事を語ってくれようとも、そのままを信じて、これを現代と比べるのはよくない事だ。その時代の人々は又その時代の難かしい現在を持っていたのである。少くとも歴史に残っている様な明敏な人々は、それぞれ、その時代の理解し難い現代性を見ていたのである。あらゆる現代は過渡期であると言っても過言ではない』
    :小林秀雄

    乱世には革命家が出現するのだろうか?
    歴史を学べば、新時代の精神を体現し、民衆のために行動した偉人は数多く存在します。現在は、乱世なのかどうか分かりませんが、医療、年金、教育、経済、社会的格差、いじめに虐待、核拡散、テロ、食糧問題、資源枯渇、気象変動、なにひとつ安全なものはなく、安心を約束できるものはありません。我々の背中にはいつも、破綻や破壊、混乱や脅威が迫り、そして死神さえ肩をたたきかねません。こんな時代に生まれたのが不幸なのでしょうか。混乱を一掃する強力な価値観をひっさげた指導者が現れることを期待する気持ちは、誰もが持っているものと思います。
    学会員から言えば、池田先生がそういう存在であることは、会員の信仰レベルによって認識の違いはあるにせよ、気持ちのなかに確かにあるでしょう。会員の支えとなり、静かに確実に、革命のレールが敷かれてきたことを知っているからです。仏法ヒューマニズムの真の姿は、世代を貫いた弛まない改革の持続にあると考えます。人間性復興の哲学の浸透は、最も困難な作業ですが、人間革命と社会革命の包括的運動と思想は、継続して会員に受け継がれていくものと期待したいのですが、そのためには深く勉強する以外にありません。

    約87年前、一人の革命家が、波乱の人生の端緒となる教育の書を世に問いました。その後、学問のあり方を含めて、実際的な現場の制度と考え方を激しく改革する、ユニバーサルかつ平易な実践法の確立に至りました。彼が最終的に行き着いたのは、その源を訪ねれば、二千五百年という歴史のなかに眠っていた妙法という自己変革と社会変革の実践法でありました。
    創価の仏教ルネッサンスというべき清流は、困難な時代背景を考えなければ、理解もまた難しい。牧口常三郎(1871~1944)が創価の一灯たる資格を有したのは、その厳格さとともに高潔な人格であられたこと、民衆性、自己に正直な求道者としての姿勢、盲信を許さない科学的実証精神のおかげです。

    日蓮大聖人が佐渡流罪のとき、食物も衣服も粗末ななかで、よく生き延びられたと考えるのは、宗祖によくある神格化された誇張ではありません。雪国において、雪は美しくも何ともなく、命を奪う自然の危険な猛威なのです。
    「時に適い法を説き、国によって法を説く」佐渡という国土は、地獄だったと理解します。日蓮教団の壊滅的打撃と迫害、果てしない極限の精神的苦痛を伴う嵐のような境遇から、人間勝利の哲学を完成したのは、自己練磨の頂点に、仏という至高の人格が輝いていたからと考えます。どこまでも生命の尊厳を守るための戦いであり、一念三千の当体であることの証明に他なりません。
    牧口先生は獄中からの書簡を残されています。真冬、暖房器具もない極寒のなかで、検閲されて塗りつぶされている文字に、獄中生活を「地獄」と書かれたという。身体は拘束されても、葛藤を越えた心は自由であられました。
    創価教育学会はほぼ壊滅。700年前の、佐渡で大聖人が置かれた状況とよく似ていると、先生は一人獄中で感じられたのではないでしょうか。

    池田先生は「妙密上人御消息」講義のなかで
    『徹して大聖人は、既存の宗教的な枠組みや権威から自由なお立場に立たれ、末法悪世に生きる一人の人間として、法華経と釈尊に正面から向き合い、法華経に示された末法における民衆仏法の確立のために戦われたのです。御自身の凡夫性を強調されているのも、一人の人間が、仏の意を受けて全民衆救済の行動に徹した時に、どれだけ偉大な精神の輝きを残すことができるかを証明されるためであったと拝されます。そこにのみ、民衆仏法の確立が可能だからです』

    さらに、次のように指導されています。
    『日蓮大聖人は本抄で自らの立場を明かされるにあたって、まず、「然るに日蓮は何の宗の元祖にあらず・又末葉にもあらず」と仰せです。これは、大聖人のお立場が、二千年間の正像時代の仏教の延長線上に存在しているのではない、ということです。既存の宗教権威に依らず、権力の後ろ盾も何もなく、末法に生きる一人のありのままの人間として、真っ直ぐに法華経を読まれ、上行の戦いを開始されたお立場が率直に表現されている御文と拝せます。 更に持戒でも破戒でもなく、一度も戒を受けない無戒の者であり、また、有智無智という枠組みからも外れているとも仰せです』

    無戒とは、あらゆるものから束縛を受けない、心身の自由を意味するものと考えます。牧口先生もまた、権威や伝統、形式や倫理、差別や屈辱、恐怖や非難から限りなく自由でありました。法華経の命の赴くままに、自己の魂を解放したのです。火宅のなかで、清涼な夢の実現に生涯を懸けられたのです。
    池田先生は、講義のなかで次のように言われております。
    『日蓮仏法を、近世に形成された檀家制度の寺院信仰に閉じこめてはならない。世界に開かれた民衆仏法を確立するのだ、と大聖人の御在世に返られたのが、牧口先生です。そして、民衆一人一人が人生に価値を創造しゆく生活法として仏法を蘇生させ、現実の実証を重視しながら、広宣流布への信心を蘇らせたのです』

    創価精神の源流へ遡及することは、信仰の志を再確認することでもあります。
    牧口先生は、民衆を愛した革命家であられました。また学会が平和組織として認知されるための、不戦のシンボルです。その生涯は、普遍的な仏法民主主義の基盤でもあります。エンパワーメントの根幹です。


    ♡学会創立者・牧口初代会長の教育者としての功績は、はなはだ大きく、その構想は、戸田先生、池田先生に受け継がれ、学会教育部や教育関係者の尽力など、多くの人々の協力により実現してきました。わたしは、ライフワークである「創価教育学体系」を細部にわたり、精読したわけではありません。正直なところ、わたしには難しく、理解が困難なところも多々ありますが、牧口思想の中心的主張は、価値論にあることは、誰もが認めるところではないかと考えます。
    軍国主義が支配した時代背景、また当時の哲学界の状況などを知らなければなりませんが、「美・利・善」と端的に表される思考プロセスの概略をたどってみると、牧口自身、恵まれたエリートでなかったが故に、アカデミズムに犯されなかった教育現場からの提言が、痛切に響いてきます。

    「創価教育学体系梗概」は、創価教育学会が同会所属の青年教師に配布したパンフです。「体系」の要旨がコンパクトにまとめられ、創価教育学入門といったところですが、牧口先生の当時の御心境を知るうえで、貴重な文献です。
    緒言には、日本の教育学の停滞と非能率、不進歩を指摘し、教育技術の向上と創価教育学の必要性を直言しています。

    『遺憾なことには、そのたよりとする教育学なるものが、実際的生活にほとんど没交渉なる哲学的なるために、不経済と知りつつも、諸々の迂遠なる修養法を探らねばならぬことであろう。これが、教育事業の不進歩、不合理をきたした、最重大な原因である。このことは、数百年前以来、コメニウス、ペスタロッチ、ヘルバルト等の大先輩が、つとに要望し、企図したところであったけれども、今なお、医学その他の技術科学のごとき、科学的体系が出現するに至らなかったのは、畢竟、研究法が至らなかったのに基因するものと信ずる。けだし、実際経験の成功・失敗の事実から、その原因にさかのぼって教育上の因果の法則を帰納するという、自然科学的研究法を採ることをせず、いたずらに、人間の性質のみを見つめて、それから哲学的に教育の方法を導き出そうとしたからである。これは、医学は哲学者の思索を待たずして、医師の治療の経験記録の綜合から発達しているのに鑑みれば、明瞭のことであろう。したがって、余は、欧米の学問の輸入の哲学的思索の方法を離れて、医学その他、大昔の技術学の成立した経路をたどり、実際経験の事実から帰納して、一つの知識体系を構造したのが、「創価教育学」である』

    昭和3年に妙法に帰依し、いよいよ確信を強固にした、昭和10年頃の文章ですが、結語には、自身の生い立ちからの信仰との関係を回顧しながら、法華経信仰と創価教育への情熱と信念を披歴されております。

    『ところが、法華経に逢い奉るに至っては、われわれの日常生活の基礎をなす科学、哲学の原理にして何らの矛盾がないこと、今まで教わった宗教道徳とはまったく異なるに驚き、心が動きはじめた矢先、生活上に不思議なる現象数種現れ、それがことごとく法華経の文証に合致しているのには、驚嘆のほかなかった。そこで、一大決心をもっていよいよ信仰に入ってみると、「天晴れぬれば地明かなり、法華を知るものは世法を得べき乎」との日蓮大聖大の仰せが、私の生活中になるほどとうなずかれることとなり、言語に絶する歓喜をもって、ほとんど六十年の生活法を一新するに至った。暗中模索の不安が一掃され、生来の引っ込み思案がなくなり、生活目的がいよいよ遠大となり、畏れることが少なくなり、国家教育の改造も一日も早くおこなわせなければならぬというような大胆なる念願を禁ずる能わざるに至った、などがそれである』

    「人生地理学」から「価値論」に至るまで、牧口先生は、人間と世界との関係性を探求してきたといってもいいのではないでしょうか。出発は教育者としてですが、やがて、人生そのものの意味を問う哲学者の姿に変貌していきますが、「言語に絶する歓喜をもって」と言われているように、妙法に出会うべくして出会った先覚者は、自らが求めていたものを知ることとなりました。「開く」「具足・円満」「蘇生」という妙法の人間変革の法則を、獲得することになったのです。

    信仰は、早い話が幸福になれば良いということなのですが、自覚しようとしまいと、信仰者としての成長は、大乗仏教に説かれる内面的な成熟度、段階があるとすれば、一歩一歩完成に向かって、境涯の成熟があるのではないかと考えます。もちろん、どこまでも内面的なことに限ってのことで、幸福の大きな決定要因でもある国家体制や経済、社会制度は、時代によって変化していくものであり、当然ながら信仰者といえども、その影響外に身をおくことはできません。牧口先生は、その国家から栄誉ある死を賜り、殉教の勝利を獲得されました。

    この世に絶対的なものを認めることは難しい。それは生きるための絶対規範といってもよいものですが、価値観の変容が著しい現代社会で、遵守すべき原則あるいはルールといったものがあるとすれば、牧口先生がたどった「創価原理」というものかもしれません。
    日常生活のなかで、価値を意識させ、価値を生み出す方法を合理的に創造応用していくことに主眼をおいて、「創価価値論」の有効性を、結果の上で証明しようと試みました。そのアイディアは大変新鮮な着想に満ち、未来に示唆を与え、プラグマティックな思想の体系化に成功したものと考えます。価値論の柱である幸福主義の実現、現実重視の生活体験としての実証精神、論理的にも機能的にも、従来の合理主義さえ越える普遍妥当性を特徴づけると説かれるモダンな体系は、やがて信仰の核心へと進むにしたがい、究極的な大善の理念に至ります。法華経が牧口価値論の限界を突破したということではないでしょうか。「価値をいかにして創造するか」ということは、それぞれの個人の最大の問題です。また、組織の発展にかかせない問題です。

    牧口先生は、獄中にあって大聖人が言われる通り、難に遭い、妙法の正しさを身をもって知りました。「地獄」と言われた獄中で、法悦のうれしさを書簡にしたためております。愛する家族を失い、失望の苦しみを乗り越えて、自らの人生を賭けた闘争が、人間覚醒運動が、必ずや受け継がれていくと確信していたと考えます。
    革命家は多くの教訓と学ぶべき書物を残されました。わたしたち会員は、牧口思想を行動原理として、生命改革と社会改革に挑戦していかなければならないでしょう。時代は過渡期であり、新しい生き方のパラダイムが望まれているのではないか、と考えます。


    ♡「汝自身を知れ」とは古代ギリシアの有名な、デルフォイのアポロ神殿に刻まれた言葉です。ソクラテスはこの神託に忠実に、しかも強く「無知の知」と、純度の高い言葉で締めくくり、命を賭けた対話を実行しました。ギリシャ以来、人間は、あらゆる思想哲学の出発点であるこの命題と格闘してきましたが、東洋においては、二千五百年前の釈尊から源流を発して、大聖人が完成された妙法に、自己再生の哲学を見ることができるでしょう。永遠の法に貫かれた蘇生のプログラムです。「心の師とはなるとも心を師とせざれ」と説かれ、生命内奥の「智慧」が、自立した人格形成のためのダイナミックなエネルギーです。
    誓願の法である法華経は、宗教の真髄である自由意思の堅持を強調しているのであり、弱者から強者への変革を志向し保障する。慈悲心の共鳴運動、善の集団、他者共存共栄の発露として、またヒューマニスティックな目的を共有した異体同心の団結は、独立した個性の連帯であることもよく理解できます。

    牧口先生が夢に見た「立正安国」は、死闘の決意をうながす。宗門という伝統の教団は、何のためにあるのだろうか。俗より俗の穢れた僧侶は必要ありませんが、残念なことに自己保身の原理主義者は決して死に絶えることはありません。信者を守ることに憶病な僧侶は、日興上人の慈悲心と意志を放棄しています。牧口先生の死は、宗門の正義がウソ偽りであることの証明です。どう言い繕うとも、開祖の承認は得られないでしょう。

    人間完成のプロセスは、妙法のパラダイム的法則に言い尽くされています。牧口先生の生涯を勉強し、威厳に満ち、暖かみを感じさせる行動を知ると、このファンダメンタルな実践法に感動を覚えます。先生はすでに80年前に、会員が生きるべき道程を示されていました。
    過去の哲学を取り込み、シンフォニックに展開する「創価教育学」の底辺にあるのは、経験主義と現場主義です。さらに合理的民主的理念が思考を支える原理です。牧口先生が生きた時代、大正デモクラシーの自由な気運は、国家主義の台頭で消滅。当たり前のことですが、デモクラシーとは大衆に受け入れられ、実践されるからデモクラシーと呼ぶ。教育勅語の教科書至上主義は、多くの優秀な教育者を弾圧し追放しました。ファシズムが台頭する過酷な時代に、精神的独立と自由の尊重、合理的な近代主義をベースにした創価精神に目覚めた人々の運動は、人生を肯定するアクティヴな実践法として蘇り、後世に託されました。
    宗教改革者・牧口先生は、我々が帰納する創造価値の原点です。しかし、そのような賢者に対し、国家が示した待遇は、牢に閉じ込め、その言論を封じ込めることでした。

    『十九年十一月十八日、係の検事から電話がかかり「牧口さんが死んだのを知っているか。明日お葬式だ」と知らせてきました。私は驚きとともに、今行けば同志と連絡をもっていると思われるのではないかと様々に考をめぐらし迷いましたが、娘とも話し合い、もし私がお葬式に参列して検事がなにか言ったら、道徳の上からいっても行かないことは間違いであるとやり込めてやりましょう—-と腹を決め、翌日、一年半ぶりで目白のお宅に伺いました。
    丁度、堀米尊師(当時)が自我掲を読経されている時でした。私は玄関の畳の所に同志の方が三人おられましたので、一緒にお経を上げました。先生のご遺骨を、庭の生け垣の側に立ってお見送り致しました。
    秋晴れの日でしたが参加者も少なく、淋しいお葬式でした。先生ご在世の時は先生をお慕いしていた方も数多くおられましたのに、最後のお葬式がこんなに淋しくてよいものかと思うと、涙が出て仕方がありませんでした。”先生さようなら”と涙でかすむ目でお見送り致しました。私に勇気がなかったばかりに、最後のご尊顔を拝する事ができなかったのが今なお侮いを残しています。戸田先生が、牧口先生を知っている事を誇りに思う時が来ると仰せになったのを、深く思い起こします』
    (弾圧の時、最初に逮捕されたJ氏の妻)


    ♡知行合一の儒家のインテリジェンスは、日本の土着思想として、体に染み付いています。明治維新の革命家の精神的支柱となった陽明学は、良知と行動の一体化を生み出し、歴史を転換する原動力になりました。混乱から秩序へ、西洋を志向しながら、根底となったのは儒教の「共生のエートス」だったのは、広く日本人の思考に根づいていたからと考えます。欧米の行き過ぎた個人主義を薄める清澄な水のように、今後は見直されるべきではないでしょうか。社会と有益で豊かな関係を持つことは、他者の心に労りを施し、痛みの辛さを共有することに他なりません。牧口創価教育学メソッドも、儒家からの影響が指摘されております。

    池田先生は、92年に行われた中国社会科学院での講演「21世紀と東アジア文明」で、東アジアの精神的美質である「共生のエートス」を体現した人格の代表に、周恩来元総理を上げております。
    『大局を見据えて細部を忘れず、内に秋霜の信念を秘め、外に春風の笑みをたたえ、自分中心でなく、あくまでも相手の心を中心に、よき中国人にしてコスモポリタン(世界市民)、常に民衆という大地に温かく公平な眼差しを注ぎ続けたその卓越した人格は「革命とは、人を殺すものではなくて、人を生かすもの」との魯迅の叫びを体現しております』

    深く病んだ社会に、生の輝きと躍動を与える理想的人間像。仏教で説く菩薩像と共通していますが、その根底にあるのは、対立よりも調和、分裂よりも結合、我よりも我々、といった、歴史のなかで鋭く磨かれてきたキーワードでしょう。東洋の「共生のエートス」は、仏教のエッセンス、中心的思想の、生命への限りない尊厳をさらに強固に補完し、どちらかというと分析を主とする西洋の考え方を総合・包括するモデルになるのではないか。基礎的な理論になるのではないか。小乗も大乗も法華経の一仏乗に統合されるように、あらゆる民族、国家が地球は一つという平和観の設計図を描く普遍的概念になるのではないかとの希望を持つのです。

    「東洋の智慧を語る」(2002年)での対談では、奥深い東洋思想を語り合っておられます。仏典結集と法華経流布、翻訳の歴史の研究成果のなかで、牧口先生についても話題になっております。
    『季羨林:「法華経」の中に包含されている内容と道理は、「奥」が深く「幅」の広いものです。ですから私のような「門外漢」は、むやみにくわしく論じることはいたしません。
    ただ、創価学会の初代牧口常三郎会長、第二代戸田城聖会長による「法華経理解」について言えば、それはインド、中国などの「東洋思想の真髄」と完全に一致します。
    牧口初代会長は教育者出身でしたね。

    池田:そうです。初代も二代も、教育者でした。創価学会は、もともと「創価教育学会」として出発したのです。

    季:牧口初代会長は、こう述べています。
    「価値と呼ぶことのできる唯一の価値とは生命である。その他の価値は、何らかの生命と交渉する限りにおいて成立する」と。

    池田:おっしゃるとおりです。牧口会長は、生きとし生けるものの生命、生存の関連性において、「価値」を考察したのです。
    牧口会長にとって「価値論」は、終生のテーマでした。創価学会の「創価」という意味も「価値創造」ということです。
    この点に関して、日本の仏教学の最高峰であった故・中村元(はじめ)博士が講演されたことがあります。

    季:中村博士は、よく存じあげています。

    池田:中村博士は、哲学・思想をあつかう日本の学問が「注釈、注釈」になりがちなことを憂えておられました。東洋思想にせよ、西洋哲学にせよ、すでに権威が定まっている思想家・哲学者が言ったことを祖述しているだけでは、「奴隷の学問」ではないか、と。
    しかし、牧口会長は、そうではなかった。「自分で考える態度」を貫き「自主的で、己が主人」であったと言われたのです。
    具体的には、牧口会長が、それまでの「真善美」とか「真善美聖」という価値体系から、「真」と「聖」の価値を除いて、「利」を入れたことに注目されました。
    こう述べております。
    「『利』というと利益を連想されますけれども、しかし、これはですね、案外、東洋哲学の核心に迫るものだと。仏教で一番大事にするものは何だというと、結局、『人のためを図る』『人のためになる』ということですね。
    その『ために』というのをサンスクリット語で『アルタ(artha)』と申します。これを『利』と訳すこともあれば、『義』と訳すこともある。『利』と『義』じゃ違うといわれるかもしれませんけど、両方の意味に関わる。人のためにもなり、それがまた自分のためにもなる、というところに一つの中心を置いているわけです」
    と。(1988年6月4日、「比較思想学会」の第15回記念大会での講演)
    このように、中村博士は、仏教の伝統に照らして、牧口会長の「価値創造」の思想を評価しておられます』



    日月灯明仏は六十劫という長い間をかけて法華経を説き、威音王仏は二十千万憶の偈を説き、大通智勝仏とその王子は三千塵点劫の昔、ガンジス河の砂の数ほどの偈を八千劫以上もかけて説きました。知性の限界を超え、宇宙の果てを見るようです。難信難解と言われた理由がよく分かります。
    大通智勝仏などの法華経流布は、法界の物語であり、仏の生命次元での驚異的なファンタスティック物語です。時空の観念を遥かに超えています。伝えられている歴史上の法華経は、二千五百年前に、釈尊の生誕から、インド、中国、韓国へと伝わり、日本の日蓮大聖人によって、その真髄が大成されました。立宗宣言から750年余り、牧口先生が創価教育学会を設立されてから妙法復興の87年。悠久の法華経流布の歴史のなかでは、二千五百年前に遡っても、わたしたちはまだ、その始まりの位置に立っているに過ぎないのかもしれません。

    牧口先生が証明を試みたものは、次の御書に端的に表れています。
    『此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ』(兄弟抄)

    牧口先生と宗門の姿勢を対比すれば、上記の御書から、大聖人の末法の衆生に対する期待の内容は明らかです。『未来の資糧とせよ』とご指南されています。
    宗門の保身は、臆病な伝統のなかで培われたものです。宗門という閉じられた世界で、序列と秩序を頑なに守り、かつてない国難と迫害に耐え切れなかったのです。大聖人以来の大難に遭遇しながら、立正安国の精神を訴える僧侶はおりませんでした。広宣流布への献身と殉教、革命は身命を賭けてという大聖人の深い確信を、誰一人実践することはありませんでした。

    現在の創価は、保守という政治姿勢にみられるように、数々の非難を経験したなかから必然的に洗練されたものです。しかし、そこからは、かつての牧口先生の抵抗姿勢は生まれることはありません。また、平和を口にしながら、無害な理想と理念の領域からはみ出すことはありません。
    牧口先生が生きておられたら、現在の創価の変わり果てた姿をどのように思われるでしょうか☆彡

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    菩薩の本質

    ネット世界ではアンナと可愛く名乗ってますが、証明できないことを言うのもどうかしてますね。リアルな実像は反抗的との評価もありますが、細部にこだわらないわたしとしては、おおむね良い評価と満足しています。善良な集団での最低評価ほど、聞きごたえがあり、読みごたえがあるドラマティック・ストーリーはありませんね。
    冒険はいつも最悪条件から始まるものです。極悪や無責任な評論家、他に追随するだけの能力しか持ち合わせていないその他大勢の大衆と無害なオーディエンスは、どこの世界にもおります。そしてヒーローやヒロインの顔をして、紅潮しはにかんでいます。このような人々のジャッジや鑑定は、参考にすらなりません。

    実生活での仕事や学業などにおける評価は大切ですが、信仰上における評価はさほど気にかける必要ないと考えるようになりました。信仰でなくても最良の結果を望むのが行動の帰結というものですが、成果という言葉に言い表わされる結果など、組織の都合以外なにものでもありません。マイ聖教に多くの会員が疑問を持ち始めているのに、十分な根拠を示さないままです。啓蒙のおしつけは偽善の影絵のような厚かましさ。美しいけれど、光に照らされれば、はかなく消える、サプレッション(抑圧)の詐術です。

    指導性は簡単に言えば哲学です。それは自由選択を前提にしたものでなければならないと思います。わたしがこういう指摘をすると、今まで自由だったし、これからも自由だというオウム返しのような答が返ってきます。創価に限らず、組織に加入すれば、誰でもそれなりの自分の居場所と自由な発言権を得たいと考えます。その権利の前提となるのは、活動家であるかどうかということです。
    マイ聖教は、活動家と認知される名札のようなものですが、そのように活動家の定義を誘導してきたのが、今までの指導であったこと、悪しき習慣の正体は単に部数減への恐怖以外にないこと、それにともなう宗教団体としての経営的経済的理由があるからと思います。自由は、自由を誇称しながら無言のうちに、心や気持ちを束縛し、負担をかけることではありません。
    大事なのは個々の意思であり、信仰への情熱であり、確信であり、不完全人間が不完全評価をしても意味がありません。創価の中心者である年長者は、必然的に生活知恵があり、経験から複雑な正邪や善悪の区別を知っていますが、一方で、保守的になるがゆえに、賢明でない打算的な評価法も選択します。地位ある者は特にそうです。面倒なことは避けたいと考えるし、波風を立てなくても組織は十分機能していると思うのです。

    創価のなかにも幸せでない人はたくさんおります。その原因となる苦の実体と、自分を縛る旧価値観からの解放、善悪の弁別、問題解決への心的アプローチの論理的、具体的説明をすることなく、ただ一様に宿業論でかたづけてしまう愚かな指導が見受けられます。それは、自分の言葉で語らない聖教コピーの凡庸な幹部の指導力と、社会一般に経済的困窮が深まるなかで、世俗的な価値判断の影響をうけて、信仰上の確信が薄らいでいるからだと思います。信仰に必要なのは、新しい自分を発見することであり、オリジナルな想像力を発揮することです。

    宗教の絶対性への帰順は、会員の熱心さと純真さに支えられた活動が、組織への当然の献身と考えることから始まります。
    それが実は、自由を奪う贖罪というものだと知れば、理性をマヒさせる宗教性は、ただ従うこととする悪の側面がおのずと見えてきます。布教も会員の経済的支援も、善意と正義が合体した強固な釈尊以来の伝統的使命に支えられていることに、つつしみ深い感謝が忘れられている。
    厳格な修行を求めた原理主義者・提婆達多は、師の化導の本心を知らず敵対しましたが、戒律もまた方便であることに気づかないまま、手段の目的化というスパイラルに陥りました。同じように宗教団体においては、成果という言葉はこの手段の目的化と同義語でしょう。また、サンガ内の階級化が仏道を曇らせる原因になることも、釈尊はよく知り抜いていました。階級化とはつまり教義の独占化であることを、宗門問題ではからずも経験しました。以前、創価でも主師親の三徳具備の池田先生という指導がありましたが、師弟関係を腐らす無盲目な礼賛は神格化と同じということ、法に依らず、人に依る行き過ぎた解釈が、教義の独占化ということです。
    宗教であれ政治であれ、唯一者の独裁は競争と破壊という精神の退廃をすすめるだけ。「価値判断能力の衰弱」(ニーチェ)は過剰な賛美のうえにベールを被って鎮座します。時代趨勢に対しての鈍感さ、ある程度の信者を獲得すると保守的なサンガ維持に転じることなど、昔も今も変わらないのです。

    人間の無謬性などありえません。正しい法を生活規定にしていても、誰でも間違いを犯すのです。正しい容器(善)を所持しながら、濁った水(悪)をそそいで疑問に感じないのです。大聖人ですら、長く激しい闘争のあとで、「其罪畢已」と自らの宿業を認められました。消し難い正法誹謗の罪を背負った者が、どうして無謬であるなどと言えるでしょうか。
    釈尊が洞察した通り、人間だけでなく、組織も渇愛の欲望で苦しむなんて、妙法においても戒律が必要なのではないでしょうか。妙法が最高智であれば、自己規律も最高規律でなければならない。さらに末法が貪欲と五濁の悪世なら、利己的現世利益主義と少欲知足は正反対の姿勢ではないでしょうか。宗門に対し少欲知足でないと批判するなら、学会僧(職員)も組織もまた、少欲知足でなければならないでしょう。
    『法師とは五種法師なり功徳とは六根清浄の果報なり』(御義口伝)
    見えない心を見抜き、心の声を聞き、正しい判断ができる功徳は、誰もが望む信仰のエッセンスです。
    会員の心を知らないということは、一体、どこから変化し、道を間違い、どこから堕落したのでしょうか。創価はいつから、正しい判断を躊躇するようになったのでしょうか。
    仏教の民衆化は、二千年前も今も、在家信者の願いです。その在家が帰依した大乗思想は、方便の無限拡大を招きながら複雑な理論へと発展し、発祥地において滅びるという歴史に出会いました。平易な祈りと生活知恵を求めた民衆のための教育的救済法でありながら、結果として民衆遊離というジレンマに陥った歴史の教訓は、同じ過失をおかす危険を絶えず内包していることを教えています。釈尊が説いた仏教思想は、「苦を滅す」というシンプルなものだったのではないでしょうか。その目的である自己救済は、釈尊の時代も現代も変わりなく難しい。


    ♡思慮に富みながら偽善的な、論理の撞着にも目もくれずに、言いたいことを遠慮なく言えるのがネットの熱狂世界です。したがって適度な冷静という自己コントロール力も必要と考えております。
    そんなネットでも、根気よさと情熱があれば適時な話題とテーマを提供することができます。種々の混乱が錯綜している時代に、問題意識の共有はとても大切なことと認識していますが、同志というのは、問題への関心と洞察を補うあう相手と思います。キーワードは、ソフトパワーと対話です。このような言葉のチョイスは適切ですし、仏教の理念にも適うもの。
    このブログがやわらかな議論と品のある喜びに満たされますように。
    主張しながら譲り合う謙譲の人々が、正常な信仰者のイスに座ることができますように。
    悪の支配を防ぐために、信仰と理性の勝利のために、改革が苦難にあふれていても、恐れるものではありません。

    組織悪は、組織が必ず持つ属性と思いますが、一方で組織がなければ広布も進展しません。有能な管理者が必要ですし、その指導者は創造力豊かな人格者でもなければなりません。世界を再構築する原理を知った者の宿命ですね。先生は多くの模範を残されてきました。そのなかでも、対話者としての姿勢に学ぶことが最大のものかと思います。慈悲の心が蘇るような啓発と示唆に富む貴重な対話の財産を、心して学ばなければならないでしょう。
    先を見通す力は賢人のみに与えられた徳性。智慧の守護者でもあり、未来を予言した釈尊は、末法の人間主義者にもあわれみと称賛を惜しまないでしょう。変革は受け継がれてこそ成し遂げられるもの。困難な現代にあって、聖者の思いが叶えられますように祈りを捧げるだけです。そして尽くすだけです。

    確信が他者を動かすことは、わたしたちはよく経験しています。また信仰への確信が得られるかどうかが、信仰者の立場から言えば、きわめて重要であることも知っています。そのために日々苦労しているといってもよいかもしれません。
    確信への道程は個人的差異があり、それぞれ理性的、経験的、直観的なものとして得られます。しかし大小の強さの違いがあり、揺るぎない確信は簡単に得られるものではありません。
    わたしたちは成功より失敗から多くを学びます。慈悲深きご本尊さまは、試行錯誤するための失敗を必ず与えてくれます。それは試練とか困難とか受難とかを通した失意と言われるものです。立ち直れないほどに打ちのめされることです。このときの自己の弱さの自覚が、確信のつぼみとなります。確信は弱さを経た花なのです。自己存在をありのままに肯定した土壌から恵まれる花なのです。
    失敗を経験しなかった人は信用できません。また失敗を他者のせいにする人も信用できません。懸命な人ほど失敗を経験するのは、道理が道理を証明するようなものです。目的を持ち、自己解釈に楽観主義の知的な教養を身につけた信仰者は、内省的なまなざしで自己を励まし、限界状態を越えていきます。
    わたしたちの信仰への真の確信は、成功や功徳の成就からではなく、失敗や迷いを通した反省や克服のなかから得られるものです。辛い経験に負けないという精神の持続性が、確信を不動のものにする聡明なる信仰者の唯一の基礎的資質です。それが菩薩の本質へ直結している回路だと思います。菩薩はときには失敗者であり、その失敗の本質を見抜き克服していく成功の成就者でもあります。

    わたしたちはいつも誰かに励まされ、また誰かを励まそうと努めています。心からの励ましの言葉が、自分と他者の境界を取り除くことを多く人は知らない。意識しない。失敗や迷いの渦中にあっても、身を投げ出すような励ましは、自らの心も励まし、他者とともに自らの運命を切り開く原動力にもなるのです。だから失敗を恐れてはならない。困難をともなった迷いを避けてはならないことを、わたしはかつての部員さんだった人や、志が高い女性の皆さまに深い情感をこめて訴えてきました。
    困難は、ただの困難でしかない。困難を苦しみと捉えるのは、根源的煩悩である三毒の一つ・癡(ち)に翻弄される姿です。癡は渇愛とも無知・無明とも言われ、釈尊出家の中心動機をなすものと思われます。

    不信と疑いで孤立化し分断される世界のなかで、人間関係も水のように薄められる殺伐とした時代に、テクノロジーと非人間的な功利性を信奉した管理者さえも管理される社会で、希望を失わず生きていこうとする健気さは、まるで苦行者を連想させる姿です。仏教の基本である因果応報が自己責任倫理であっても、現代ほど、人間が人間の心を信じる信頼関係が危うくもろいものはありません。釈尊の対機説法は方便であったかもしれませんが、適切な言葉を選び励ますことでもありました。不信の世界にこそ励ましの言葉は必要であり、またそれは、人間関係を効果的に蘇生させる確信の言葉と言えるのではないでしょうか。
    か弱き自分が、自らに課した運命に決して負けないためにも、自他ともに輝く確信の励ましが、わたしには必要不可欠なのです。


    ♡19日から早速、選挙シフトになりましたね。会員の皆さまには、支援活動に入る前に、自分に問いかけていただきたいと思います。なんのために支援するのかと。また生活に直結する政策の中身の検討も必要です。
    他人に任せてはダメです。また無関心もダメです。何も考えずに言いなりになり、賛同するのは最悪です。
    北朝鮮の核脅威が強まるなかで、きょう(9月20日)の聖教に掲載された先生の寄稿(国際メディアIDN)では、目の前の恐怖についてまったくふれられていません。北朝鮮の豚のように太ったロケットマン(国連総会での金正恩に対するトランプ大統領の揶揄)が、銃を構え、トリガーに指を掛けているかもしれないのに、その危うい現実を無視しています。自分が創立した与党である公明党が、核禁止条約加入に反対しているのに、その現実と理想の乖離を少しも認めようとしません。会員もこのことをまったく話題にしないのはどうしてでしょう?

    別の視点で言えば、先生と会長等の執行部の間には、意思疎通が欠けているかもしれないと想像できます。永遠の指導者などと馬鹿らしいほどに祭り上げられ、神格化されて、こういったメッセージより、自分の意見を表明できないのかもしれない。カリスマであるがゆえの悲劇でしょうか。公明党を完全に切り離してしまえばいいのに、今となってはそれも自分の力ではできない状態です。自分が作り上げた組織に首を絞められるとは、なんとも悲しいですね。
    公明党の創立の理念は、すでに失われております。それでも疑問に思わず、盲目的に支援するのは、会員の盲目的信仰と盲目的師弟礼賛が、深く心を占領しているからです。恐ろしいですね。

    わたしはメッセージを読みながら、デジャヴ感に襲われました。
    2015年1月、SGI提言が発表されたとき、「イスラム国(ISIS)」の日本人人質事件は、悲劇的な結末が予想される絶体絶命の危機に見舞われていました。その理不尽な暴力に怒りを覚え、なんとしても助かってほしいと祈るような気持ちで報道に接していたのが、多くの国民の偽らざる心境だったでしょう。
    提言のタイトルは「地球上から悲惨の二字なくす」とありますが、悲惨が緊急事態同様に目の前にあるのに気づかないのです。今そこにある危機を一顧だにしない姿勢、他者に寄り添う感受性をなくした鈍感な指導者の姿があるばかりです。鈍感さも度が過ぎると大きな犠牲に見舞われます。今回の寄稿も同様です。何度も頭上をミサイルが飛んでいるのに、危機感を覚えないのですね。
    釈尊は、高邁な理論や理想を語るよりも、眼前の今ある苦しみに集中しなさいと説きました。大聖人も難の渦中にあっても、信者の苦しみに即座に答えました。悲しみに涙を流し、苦しみに同苦し、取り除き、励ますことが菩薩の使命であり本質であることを、誰よりも理解し、実践していたからです。

    このたびの急展開の衆議院選挙。戦争への備えと戦争回避の道を模索しながら、公明党議員に厳しく問い直してください。
    政治家はいつも、口先だけの立派なことを、保証もないのに臆面もなく言いますが、多くの憲法学者が憲法違反だと認識している自衛隊と憲法の関係について、ぜひ次世代に先送りしないように矛盾を解決していただきたいと思います。公明党の覚悟のなさが、国民に大きなつけを残し、取り返しのつかない不幸へつながる可能性も否定できません☆彡


    冷たい風が吹いても顔をそむけない
    傷ついても倒れない
    なにがあっても倒れない
    希望を捨てない
    長い人生、誰かにすがりつきたくなるような辛いときもあるでしょう
    倒れないファイターを歌っているエンカレッジ・ソング
    何度もくりかえし聴いていると涙がでてくる
    自分のために戦う
    愛する人のために戦い続ける


    The Boxer : Simon & Garfunkel





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    あなたは道標 あなたは光


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     by Anna


    もしものように高く飛ぶことができたら
    世界をありのままに俯瞰できるのに

    丸い地平から昇る太陽
    虹色の光線が走り闇を追い出す
    青い薄い層を重ねた大気も
    綿のような雲の流れも
    ヒマラヤの白い峰々も
    遠くに見える冷たい月も
    ガラス玉を散りばめた金や銀や赤い星々も
    群青の海も
    白い波も
    飛行船の糸のような白い尾も
    緑のジャングルも
    砂漠に吹き荒れる嵐も
    豊かな大陸も

    は目の奥の小さな頭脳で考えている

    街のビルの谷間の人々が行き交う姿も
    どこまでも続く道と車の流れも
    家族の楽しい会話も
    恋人達の愛のささやきも
    は静かに聞いている

    同じ命あるものとしてはいつも思っている
    人間に生まれたかったと


    涙を流している
    あの地でもあの地でもあの地でも
    戦うことを止めない人間の愚かな姿を見て
    命をチリのように扱う傲慢な姿と
    銃から立ちのぼる硝煙の匂いに


    人間の肉体から離脱した透明な魂を
    悲しみに打ちひしがれた姿を
    平和のために祈り捧げる母たちの姿も
    その遠くを見渡せる目で見ているに違いない

    鳥は
    目の奥の小さな頭脳で考えていた
    人間に生まれたかったといつも考えていた
    父鳥も母鳥も
    人間に生まれれば平和に暮らせると
    毎日毎日鳴いていた



    Thomas Bergersen
    Compass





    人生は未踏の山を登るのに似ています。聳える峰を見上げて、果たして自分に登ることができるかとため息が出てきます。尾根にたどりついても、そこは幸せと不幸が渦をまいて、突風が吹き荒れ、雲が湧き上がり、顔を上げていられないほど厳しい環境かもしれません。憂いの山には、不毛の嵐が吹き荒れ、苦渋の谷間が待っているのです。誰にも等しく与えられた試練なのです。
    でも、絆で結ばれた愛する二人なら、それを耐え忍んで、やがて頂上に行き着くことができるでしょう。金の布に包まれた朽ちることのない思い出とともに、千のナイフでも切れない強靭な鋼のように、絆とはかくも強いものであることを知って、誰よりも自分自身が驚くでしょう。
    そして歩くことをやめないことが「幸せ」そのものであることに、愚かなわたしとあなたは気づくはず。


    「時」は祈りに満ちている
    「時」は安らぎに満たされている
    生まれ変わっても
    私はあなたを探し求める
    私の道標
    私の光
    闇のなかで泣いていても
    命のともし火が輝いているかぎり
    私はあなたを探し求める
    光のなかであなたに会いたいから
    あなたが道標
    あなたが光
    「時」は祈りに満ちている
    「時」は安らぎに満たされている
    夢が遠のいても
    私はあなたを探し求める
    私の始まり
    私のすべて
    光のなかで泣いていても
    命のともし火が消えかかっても
    私はあなたを探し求める
    光のなかであなたに抱かれたいから
    あなたは道標
    あなたは光
    「時」は祈りに満ちている
    「時」は光に満たされている



    強気の裏側に縮こまって動かない弱気の自分がいる。表のわたしは明るく活発に、活き活きとしているのに、裏のわたしは陰鬱に怯えている。仮面を被って、自身さえ欺いているわたし。深刻に考えてはいないけれど、誰もみんな同じなのだろうか?

    清らかな泉のように
    強い鋼のように
    なめらかな陶器のように
    透明な水晶のように
    美しい魂を持った自分を発見したい

    <アンナの日記から>



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    運命の罠

    わたしは、幹部の判を押したような会合指導を聞くたびに、脳のなかには空洞ができてバカになりそうな気がしてきます。魂の共鳴がありません。心と心の高等なレゾナンスこそ信仰であり、団結、連帯というものです。使命の共有というものです。
    創価に未来がないことは、女子部の姿が証明しています。わたしもかつて、その一員でしたが、冷静に考えて見れば、空恐ろしいことです。有能な人材は躊躇なく離れていき、人材欠乏が顕著です。
    自分の信念を持った信仰者に出会いたい。他者に依存しない強固な意志で人生を切り開く女性に出会いたいと考えても、尊敬に値するそんな方はどこにいるのだろう。人間主義といっても、人間を作り、人間を見い出すことから始まるのではないですか?
    組織に不幸を感じてしまうのは、なんと不運なことだろうか。

    仏教の教義の根底を貫くものは、因果の理法。その妥当性について確信を持つことは、とても難しいことですが、わたしはあるとき、カントが導入した「理性信仰」に触れたとき、深く魂が揺さぶられる思いがした経験があります。わたしたちがまるで日常語のように、因果や業について、また生命の永遠性について、疑問を挟む余地もなく当然のごとく語っていることに、ふと疑念が湧きました。因果の理法と言っても証明できず、ただ信仰実験を繰り返すしかありません。
    こういうとき模範会員は三証があるではないかと必ず諭すように言うのですが、わたしが言いたいのは自己吟味の必要性ということであり、反省なき人生には価値がないということです。冷静な自己観察と自戒です。つまり理性信仰ということです。会員が邪宗と蔑んでいる他宗でも、功徳と自己完成への道程に喜びがあるのですから、他宗の信者にも立派な三証があり、因果の妥当性が証明されているのです。これは客観的事実であり、『社会と宗教』でもディスカッションされた話題です。
    仏法ヒューマニズムと誇らしく言っても、その特性から独善的で暴力的に成りうることを、自己反省の要点として押さえておかなければなりません。第二次世界大戦の経過をみればよくわかります。仏教の基本である尊厳を、誰が強く訴え、命を賭して実践したでしょうか? 
    尊厳は他者に対して用いる言葉であって、自己の尊厳のみに適用するだけであったら、それは平和と救済、人間性完成という智慧を奴隷にした奇怪なる非仏教の仏教もどきです。釈尊を汚す似非信仰者です。
    大聖人は自己完成への道を歩まれました。豊かな可能性をその内面に、その心に、その命に見い出しました。それは最高の倫理であり、善悪を超えた普遍性を保証する菩薩の道でもあります。独善性を排した他者尊敬の共存の道なのです。
    困難や苦難と呼ばれるものがもしも与えられるなら、菩薩でありたいと願うのは信仰者の当然の願いですが、その模範とする大聖人の命・・・大御本尊(最高善)をいつかは腐るであろう板であると言ったのは誰なのでしょうか。恥知らずな言葉は、信仰者の口から出たものとはとても思えません。
    御本尊は行為を映すであり、また運命の扉を開く女神の役目も兼ねており、の奥から翻って見つめているのは、腐るのは創価自身という運命なのです。人間はどこまで行っても不完全であり、その偏狭さから、独善性の罠に、必ずはまると言っても過言ではありません。
    その罠をわたしは、運命の罠と呼んでおりますのよ☆彡


    人は、運命を避けようとしてとった道で、
    しばしば運命にであう<フォンテーヌ>

    運命は我々を導き、
    かつまた我々を翻弄する<ヴォルテール>

    運命を大御本尊に入れ替えると、
    創価の運命を暗示していておもしろい<アンナ>


    。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*


    『仍て法界が法界を礼拝するなり自他不二の礼拝なり、其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり』
    (不軽菩薩が皆を拝むのは、不軽のなかの真理が皆のなかの真理を拝むということです。これを自他不二の礼拝という。なぜなら、不軽菩薩が皆を拝めば、たとえ思い上がった人たちでも、彼らの仏性が不軽菩薩を拝み返すからです。に向かって礼拝するとき、そこに映った自分の影もまた自分を礼拝するのと同じ原理です)「御義口伝」

    に向かって口汚く罵れば、あなたの影はあなたを同じように罵る。に向かい、わたしは大御本尊を信受しないと言えば(心からそう願うならば)大聖人は、あなたを信じて自らの命を与えることはしない。仏性ある者として受け入れることは決してない。「事の一念三千」とはそういうことです。腐るだろうと鏡に向かって言えば、腐るのはあなたの命です。
    民衆仏法から離反した民衆(僧と在家・宗門と創価)ほど不幸なものはない。創価は今まで以上に、綻びが明らかにならないように、仮面が剥がれないように、本当の歴史が露わにならないように、ミスがないように自らの姿をチェックするのに忙しいだろう。だから今まで以上に、自らの姿を鏡に映し出し、確認するように大きな声で叫ぶだろう。不安で確認せずにはいられないのです。
    「わたしが正義だ」、「わたしが正しい」、「わたしが民衆を救ったのだ」、「世界が認めている」、「名誉称号は世界一だ」、「創価は世界宗教だ」、「平和を作ったのは創価だ」、「永遠の指導者は絶対だ」、「未来は創価のためにある」と、毎日の聖教で、不安を打ち消すように叫び続けられています。
    そして、無辜の善意の人々の善良さに迫り、慰撫し、欺き、脅迫し、お金をむしり取っていくだろう。
    正義の実行には多額のお金が必要なのよ。そういえば、金庫を藪に投げ捨てたこともありましたね。あきらかに嘘とわかる言い訳をして、見苦しいことこの上ない。ちょっとしたコヅカイなんだから、大騒ぎするほどのこともないんですよ。1億や2億は、ゴミ同然!
    最高の教団は最高の集金団体でなければならない。そんな脅迫めいた偽善に誑かされたのは、いつ頃からのことなのだろうか。供養と献身とは、つまりはお金への執着のこと。成仏へのプロセスをお金で買おうとするあさましい精神。仏さまを買収しようとしている。正義も広布も金次第?
    強欲の皮がつっぱり、なんでも数量的多数に執着して、顔の筋肉を歪めて笑っている自称・菩薩、菩薩っぽい非菩薩。
    潔癖、清純でなければ、人間も教義も倫理も、なにからなにまで朽ちてゴミになるのは永遠に変わらない宗教の黄金律。小さな嘘、何気ない虚栄と誤魔化しから崩壊は始まります。会員に対し、厳格過ぎるほどの誠実さが求められているのです。厳格な厳格さという二重の誠実さが、宗教団体には必要なのです。金満宗教には必ず問題が起きます。断言しておきます


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    『社会と宗教』でもディスカッションされた話題
       聖教文庫「社会と宗教」(上) 信仰と功徳(P138)参照

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    自己を統御する意志

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            10981.jpg   by Anna


    死は辛きものなり
    生はさらに辛きものなり
    真の祈りはまたさらに辛きものなり

    この夜
    星星に祈りを捧げる者のなかに
    辛い生活に絶え切れず
    死を望む女がいた
    草むらに横たわる自身の姿を夢見て
    神に死をたまわることを願い
    一心に祈りを捧げた

    死の恐怖よりも
    生の激しさが道を迷わせ
    闇のなかの鳥のように
    生きることへの指針を得ることができなかった

    女は訴えた
    たったひとにぎりの幸せを望んだだけなのに
    なぜわたしの願いは叶えられなかったのでしょう?
    たったひとつの愛を望んだだけなのに
    なぜわたしに恵みを与えてくれる人は現れなかったのでしょう?
    たった一本の花を部屋に飾り
    時を潤す安寧を望んだだけなのに
    なぜわたしの庭には一本の草も一本の花も咲かなかったのでしょう?

    絶望の淵から飛び込んで
    死の滝壺に身を投げることを厭いません
    死がわたしの隣人であり
    安らかな眠りの介添人です

    女の祈りはむなしく星星の光のなかに消えて
    誰も願いを聞き届ける者はいなかった

    生も死も
    時の背に乗った命の理
    祈りは時の穂がたわわに実ること

    貧しい女は祭壇に一つのものを捧げた
    わたしの全財産です
    一本のろうそくを
    燭台にさして火を点した
    ろうそくの火は明明と辺りを照らした

    女は揺らぐ火のなかから不思議な神慮の言葉を聞いた
    体を覆うぼろ布はそのままだったが
    冷たい手足に温かさが蘇り
    目には光が宿り
    吐く息も香しく
    唇にも赤く血が通い
    寒寒とした心に火が点った

    女ははっと思って振り返ると
    亡霊さえおののくこの夜の暗闇のなかに
    白いしかしはっきりとした自身の魂が浮かび上がっているのを見た
    震えていた自身の像は
    やがてまぶしいほどに光に包まれて
    女を指差すように腕を上げながら
    笑みを浮かべてなにかを語ったように思われた
    風がそよぐと陽炎のように消えた

    女は今までと違う口調で星星に言った

    わたしは気づきました
    わたしには美しいものを見る目があり
    音楽を聞く耳があり
    高貴な香りを嗅ぐ鼻があり
    言葉を語る口と喉があり
    風を知る肌があり
    農具を振り下ろす手があり
    大地を踏み固める足があり
    さらに
    真理と善悪を見わける心があることを知りました
    これ以上の幸せがありましょうか
    貧しき者は幸せです
    富める者より心が豊かだからです

    さらに女は告げた
    わたしは愛されることばかりを求めていました
    愛されることより愛することのほうが大切だと気づきました
    わたしの愛を待っている人が
    わたしのまわりになんと多いことかと気づきました

    さらに女は続けた

    愛は一本道のように
    迷うことのない誠の道です

    愛することにためらいを感じ背を向けてはなりません
    舵手のいない船のように
    悩みの風に流されてはなりません
    愛は光です
    愛は水です
    愛は土です
    愛は実のなる木です
    大地に降る悔恨と懺悔の雨を養分に繁茂する麦の穂です
    愛は種です

    わたしは幸せです
    貧しきゆえに悪徳に汚れていないからです
    一片のパンの滋味を知っているからです
    山から湧く清水のなかに
    清らかな精霊の涙が混じっていることを知っているからです
    貧しきゆえに
    このぼろ布を縫った針と糸が
    わたしの宝であることを知っているからです

    さらに女はもどかしそうに告げた

    わたしは感謝を忘れ
    祈りを忘れ
    願いが叶わなかったことを恨んで呪詛し
    怒りの鎖に縛られて
    不幸の岩を砕くために叩き続けて手を血だらけにし
    自分の命を傷つけて
    他の人の命を傷つけて
    穴のあいた桶で水を汲むように
    ひたすら愚かな行為を繰り返してきました
    瓦石の山から金銀を探すような
    愚かな人生を繰り返してきました
    獣のように見境もなく
    欲望の肉を食らって森を彷徨う
    人間の皮を着た畜生のようでした

    天を仰ぎ再び膝を屈して
    三度礼拝の儀式を終えた女は
    白白とした夜明けまえの冷たい空気のなかを歩いた
    朝露が葉のうえを転がり
    葉の先端で草の涙のようにぶら下がった
    草露を自分の涙と感じた女は
    手を伸ばし湿らすと髪を撫で顔をさすり
    葉を唇に当てて命の雫を飲んだ

    靄がかかりぼう洋とした景色に
    どこからか鈴の音が響いて
    懐しき生まれ育った故郷を思いださせて女を慰めた

    シャンシャンシャンと鈴音が大きくなって紫紺の牛車が近づいた
    牛車に乗る白い花の冠を被った君は
    聡明な目で道を見て
    しなやかな腕は優雅に舞うように牛車をあやつる
    首には清浄の白玉の飾り
    耳に翡翠の輝きをしつらえて
    唇は乙女のようにふくよかな初々しさ

    君は貧しき女をみとめて言った
    かの女
    髪は金色に波打ち
    目には星が宿って光を帯び
    頬は陽のように赤く熱を持ち
    口は今しも詩を歌うかのごとく
    鼻筋は峰のように真直ぐに伸びて
    高貴な顔立ち
    しかしその浅ましきぼろ布を纏い
    裸足の姿はいかにも不釣り合い
    女よ
    尋ねたきことあり
    そなたは何者

    女は手を合わせ礼をしながら答えた

    高貴な人よ
    天地のなかの麗しき景色を眺めたる君の目を汚し、
    また慈悲の御言葉をかけたる君に贈る物なにも無きに
    せめてつたなき詩を贈り
    卑しいわたしの答えといたします

    女は歌った

    人の世は無常と言いし古(いにしえ)の
    月の光も川面にうつる暗闇に
    風の姿も見えず音も無く
    死に人現れわれを誘う

    この夜が別れと今生の
    祈りし懺悔し星星に
    あわれと思いし神の袖
    覆い包んでよみがえり

    神の証は知らねども
    露の雫に命の法が
    幾年月を迷いしわれの
    鉄鎖の縛りを解きほぐす

    女は妙なる美空に染み入るような
    美しい声で歌った

    君はその妙音に感嘆し女の後を受けて歌った

    神が住まいし山頂の
    福の風が吹きそよぎ
    川面に流れる調べの笛と
    女の妙なる声は調和せり
    われを忘れて聞き入れり.....

              

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    "謎の微笑"を浮かべる優美な女性像「モナ・リザ」の作者は、同時に、鬼神もひしぐ猛々しい戦士たちがせめぎ合う「アンギアリの戦い」の作者でもありました。流水の模様に目を凝らし、植物の生態を見つめ、鳥の飛翔を分析するレオナルドは、同時に死刑囚の顔を食い入るように凝視し、解剖のメスを振るうレオナルドでもあったのであります。ともかく、世間の常識や規則では、推し量ることのできぬ巨大なスケールの持ち主でありました。そして、世俗的規範を超出しゆくその自在さは、まさに自由人にして世界市民の精髄をのぞかせており、イタリア・ルネサンスならではの伸びやかで活気に満ちた時代精神を、独自の風格に体現しております。その超出を可能ならしめたものこそ、類まれな「自己を統御する意志」であったのではないかと、私は思うのであります。「自分自身を支配する力より大きな支配力も小さな支配力ももちえない」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』)と述べているように、彼にとっては、どう自己を統御するかが万事に先立つ第一義的課題であり、その力が十全に働いていさえすれば、いかなる現実にも自在な対応が可能であり、現実次元の向背、善悪、美醜などは、二義的、三義的な価値しかもたない。彼は、かつての主君イル・モーロを滅ぼしたフランス王の招きにも平然と応じていますが、傍目には、それが志操一貫に欠けるように見えても、この巨人に関しては、無節操とは似て非なる、寛大な度量の大きさを物語っているようであります。
    こうしたレオナルドの"超俗"のかたちは、仏法で説く「出世間」の意義に親近しております。「世間」とは差別(違い)を意味する。「出世間」とは、すなわち利害や愛憎、美醜や善悪などの差別を超出して、それらへの執着から離れる意義であります。仏教の最高峰といわれる法華経では「令離諸著(諸の執着から離れさせる)」等と記されております。とはいっても、仏典の極理に、「離の字をば明とよむなり」とあるように、単に煩悩への執着を離れるのではなく、超出したより高い次元から諸の煩悩を明らかに見て、使いこなしていく、強い主体の確立こそが、「出世間」の真義であります。

                   池田大作<レオナルドの眼と人類の議会>
                   ボローニャ大学での講演/1994年6月1日



    強い信仰への意志こそ、最良の自己統御の方法。自己管理が幸福への直道です。

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