公明支援は社会悪

    近頃、季節の変わり目を迎えたせいか、メンタリズムの反高揚期に入り、聖教で毎日掲載されていた「勝利、勝利」の連呼に舌打ちしていました。
    これは単なる体調の問題で、社会の毒素を集めやすいスピリチュアルな心の窓口を持つわたしに、時々あらわれる表情です。精神的負担です。以前はそういうおかしい自分に、幻滅感さえ抱き焦りもあったのですが、これはわたしの長所なのだと考えるようになりました。
    わたしには、対面する人間の善性が強く感じられます。だから、悪性の感情も強く感じるのです。信仰とは無関係です。単に、感受性が強いというだけです。ですから、感情的にならないように、メンタルマネージメントを怠らないように気をつけています。
    がんばるだけでなく、時には紅葉した木の下で、遠望のゆとりを持ち、静かな時間に委ねることも必要でしょう。聖教の鼓舞メッセージを、時には遠ざけることも有効なときもあるでしょう。いつも沸騰していればヤケドしかねませんね。張りつめた弦ほど切れやすいものはないのです。人生という音楽を華麗に奏でる精神とは、まさに弦そのものです。


    ♡創価ほど師弟を強調する教団はないでしょう。男女青年部は、世代が変わるたびに、仰々しく師に誓いの言葉を語ってきました。真剣に読めば読むほど、心に響かない使い古された言葉で語ってきたのですが、創価流アピールとは、起承転結が決まっているモデルテキストが準備されていて、ただ言葉をチョイスして、当てはめて完成させるだけなのです。バカバカしいほど創造的でないのですね。
    こういう行為にこだわるのは、法華経のなかの菩薩たちが、誓願の菩薩であることとおおいに関係があるでしょう。法華経のなかで最も価値あるところは、法を書写し読誦し自他の区別なく語ることを説いた部分です。法華経はまさに本因妙なのです。誓い語ることが仏道の究極なのです。しかし、誰に、何を誓うのでしょうか?
    会員にとって、師は絶対であり、あらゆる困難の防波堤であり、ときには迷える者の灯火となり、限りない慈悲で励まし、導いてきたと考えられています。

    今回の支援活動でも、半世紀前の大阪の戦いが引用されております。選挙になると必ず聖教の紙面を飾ります。師は模範であり、その戦いの反復が、正しいとする意見を否定しませんが、わたしが疑問を感じるのは、手段が目的化していることです。社会、あるいは時代的な政治環境、社会システム、構造、民意の要請など、社会情勢も変化しているのに、先生の方法論の再現から決して逸脱しないことです。そしてそれが師弟不二だと言う。師弟とは師を越えることではなかったでしょうか。いつまでたっても変わらない師弟関係。弟子の依存する姿。また師は弟子の成長を望まない。自分より偉大になることを望まないようにも見受けられます。
    あげくのはてに、わたしのような支援を躊躇する人間を、同志を惑わす者として、遠避けて、歪な信仰者を見るように退転扱いする。議論しても勝目はないと恐れて近づこうとしない。わたしの回りには、そんな情けない幹部ばかり。師弟こそ仏道の始まりであり、終点であると考えていても、わたしは盲目的に賛美する人間ではありません。
    面倒くさい書き方をしましたが、つまり、強力な師弟の原理が創価の命脈です。これって、宗祖と法主を同格とする日顕宗の論理と同じではないでしょうか。自己矛盾であるがゆえに、気づきにくい自己撞着。
    一体であるという安心感が、信仰を深めることは否定しませんが、師が偉大であるがゆえに、師に異議を唱える罪悪心から無意識のうちに矛盾を封印しているのではないでしょうか。
    現実は陽炎のように揺らぎ、夢のように儚い。そのなかで信じられるのは、妙法への自分自身の強い確信よりありません。

    会員が共有するひとつの思想、師弟不二に支えられた信仰論、行動論は、師弟一体の間にしか法は流れない、伝わらないとするものです。本当でしょうか。
    わたしの直感から申し上げれば、創価の実質的運営者である会長をはじめ中心者が、その力不足と求心力を補うために、師弟のあり方を強調し利用している……仏道と師弟は、不可分な領域であること、功徳は信仰者万人に与えられるのではなく、師の功績を宣揚し、忠実にその戦いをたどり、苦難を克服する方法を知る人間の間にしか、妙法の真の理解はないとする……門から入り玄関へ到達するまで、なんと長いアプローチでありましょうか。もったいぶった信仰論でありましょうか。直達正観は師を介して行われるのでしょうか。
    先生のご真意は、わたしにはわかりません。また実像もわかりません。しかし、偶像崇拝の拒絶は「紋切り型」反応を抑制する唯一の方法なのではないでしょうか。偶像と言ったのは、実際の創価の歴史が、都合の良いように書き変えられてきた可能性があるからです。なにより信頼と純粋さを優先する人間関係では、致命的行為です。
    わたしは、著作のなかの先生をご尊敬申し上げているのであり、その思想にかぎりない希望を見出す一仏教徒会員ですが、その著作もこれから検証が必要なことは言うまでもありません。
    現在の日本では、殉教という命をかけた布教はありませんが、そのかわり、創価のような使命感に立った宗教団体では、精神的、経済的、物質的生活のすべてが、信仰を中心とした生活規範で成り立っています。何をするにしても、まず創価という題目があり、その中心に向かってすべてを関連づけます。殉教にかわるものとして生活のすべてを捧げる献身的考え方が支配しているわけです。

    他者からの批判を嫌うのは、教義の真実性に強い確信を抱いている宗教に特徴的なものです。寛容を説きながら排他的なのです。内部から言えば独自性ということであり、外部から言えば独善性というものです。
    独善的であるがゆえに迷惑集団としての創価への評価の定着は、もちろん創価自身の責任ですが、創価ではほとんど反省はありません。法が正しいゆえに、反対され罵られるのが当然と考えており、広布の道程も幅広く賛同を得ていく時代に入ったのに、現場は旧態依然としています。他者への関心、関与が、創価の利益になるための関心であり関与なのです。
    これからは一層の社会貢献に真に価値ある人間関係を求めていかなければならないでしょう。それが弘教にも連動することなのですが、そのような社会に開かれた創価の姿を想像することは難しいと思います。悲しいことですが、内部からは変わらないでしょう。外部からの強い圧力がないかぎり変化はないものと考えます。自律とは個人に求められるだけでなく、組織にも求められるのですが、自浄作用は言うは易く実行は難しい。その意味で、今回の選挙を公明党の惨敗を望んだのですが、野党のだらしなさに助けられ、小選挙区制を導入してから最低の得票にも関わらず、自民党の健闘で、与党としては勝利しました。
    さすがに6議席減では、いつもの戦争広報のような大勝利、完全勝利などの勇ましい言葉は出てきませんが、個人では大勝利しました、功徳をうけましたと広報しています。負けたときは、単位を小さくしてコメントすると誤魔化すことができます。創価の慣例、常套手段ですね。全体では負けたけれど、一人ひとりは勝ったと言わなければ大変なことになりますから。勝つことが師の第一の指導です。永遠に負けてはいけない宿業を背負わされています。見方を変えれば、いつまでも宿命転換できない信仰者です。

    宗教だから理想論が許されるとしても、平和や人権に対する宗教者としての責任倫理とは一体何だろうか。孤立しても、世界に対し善を説き実行する者が、差別や暴力や虚栄や不条理な現実から、真に自由な者として称賛されるのではないでしょうか。創価はその役目を果たしているのでしょうか。権力悪に抵抗しているのでしょうか。個々において精一杯の小さなチャレンジがあっても、異体同心の創価は、総体として、厳しい現実と戦っているのでしょうか。わたしには疑問に思えて仕方ないのです。
    与党のぬるま湯に浸かり、権力への野望を隠して、国民を苦しめているのが、本当の公明党創価の実像ではないか。消費税増税、安保法案、年金改革法案、全部公明党が中心にいて、成案を得たのではないでしょうか。国民を苦しめているのは公明党です。

    ♡話題は変わりますが、B・ウィルソンとの対談「社会と宗教」において、宗教の神秘性について論じられた部分があります。
    ウィルソン博士は次のように言われています。
    『高度に発達した宗教は、すべて合理的な論述の体系を備えています。ちなみに、ここでいう高度に発達した宗教とは、その聖職者たちが、学究的な性向を身につけ、教義の解明と体系化への知的な構造を発達させ、自己批判の受容力を形成している宗教を指します。そうした合理的な論述の体系は、ときにはますます整頓された、合理的に行われる討論や探究の過程によって発展します。そうした過程で、教義の中心的な争点が矛盾を免れ、洗練され、整合されて、合理的な正当化への基礎的構造がもたらされるのです。
    しかし、このような傾向にもかかわらず、説明できない神秘的な要素は残ります。それを把握するためには、信者は”信仰の飛躍”を行い、精神を傾倒し、知性や経験の制約を棄て去り、中心的原理・存在・遂行に自己を一体化させる、主観的精神を獲得することが求められます。そうした宗教的体系の核心にこそ、救済が見出されるとされるのです』


    ここでいう主観的精神とは、一般的に「悟り」あるいは悟りに近似したものを言うのではないかと思います。しかしこの主観的精神は、主観的であるがゆえになかなか説明できないというジレンマに陥ります。当人でも説明できないものが他人が説明できるはずがありません。たとえば戸田先生の悟りを、同じ境涯でない者がわかったように説明する。言葉で説明できない神秘体験を合理的に解釈し、結果として神秘的な信仰の飛躍を否定することになる、ということに気づかない。
    言葉で説明できないところに仏はいるのですから、抽象的概念にならざるえないのですが、何事も早急に結論を出そうとする現代人には、修行と言われる宗教的錬磨は大変忍耐力がいることに相違ありません。そもそも、自己否定と自己肯定が糸のように錯綜する現実世界で、諦めないで希望を見出すことの困難さを、わたしたちはいつも体験しています。自己をアクティブに肯定することは全く宗教的精神を源泉としています。信念が堅固であればあるほど、たゆまない修行者であり、宗教でいう求道者そのものです。

    畏怖であるから逆に、崇敬される事象は、信仰にかぎらずよくあることです。人間の力ではどうすることもできない、自然に対しての素朴な崇拝もそうでしょうし、社会の統治者に対する、つまりは権力と統治能力への畏敬の念は、宗教的感情を源泉としていると考えることもできるでしょう。過去に宗教儀式と政治が一体のものであったことを考えればうなずけます。
    トインビー対談でも、汎神教への回帰が話題になりましたが、世俗的であるがゆえに神聖であるというパラドックスは、在家仏教としての大乗にみられる思考です。人間であれば誰にも仏性があるとするのもそうでしょう。人間を含めたすべてに、神聖を認めるのは多様な価値観の受容と寛容性ということですが、その最も深い哲理を説いた法華経の精神を、実際に社会に実現する段階には至っていません。
    選挙活動に我を忘れてる暇はないのですが、このようなエネルギーは、熱心であるがゆえに、宗教ナショナリズムと見られるでしょうし、排他的狂信ナショナリズムと世間の目には映るかもしれません。もちろん会員はいっこうに気にする気配はありません。自分の生活を犠牲にしても、使命感が人生の最上位に位置しているのであり、必ず精神的充足とともに世法が仏法に転換すると考えているからです。つまり神聖な戦いと信じて、妙法の守護者たらんと誓願している姿です。
    領土問題にみられるようにナショナリズムは感染度が高く、特に創価のような頻繁な内部啓発が行われている団体では、広布に関わる戦いのすべてが信仰活動になります。そしてその一つでも疎かにすると功徳が得られないという印象を与えて鼓舞します。選挙を法戦と命名した巧妙さは、実に創造的です。法戦に参加することは、守護者になることなのです。
    団結は全員が心を合わせるというだけでなく、互いを励まし、互いを監視することです。監視という言葉はあまり適切ではありませんが、わたしのような批判者をすぐアンチなどとレッテルを貼り、除外しようと試みるではありませんか。アウトローを排除しようとするのは宗教組織の宿命です。選挙活動に功徳はないと主張するわたしを、師弟不二を持ちだして蔑むわけです。師弟を深く考えない者が師弟を強調するのですから、わたしは平気な顔をしていますが、落胆ぶりを言葉にしないだけ。

    政治という社会変革を期待する選挙は、国家のためだけでなく国民のために行われるものですが、創価ではかつて、その動機に純粋な仏教的信念を堅持していました。しかし支援の動員方法には、よく注意しなければなりません。組織ナショナリズムが行き過ぎると個人の権利や生活、人間性や倫理道徳まで抑圧することを容認するハメになることを思い知らされます。自由であることが限定された自由に変貌しても、違和感を覚えないのですから、狂信、妄信とは、理性を欠くことであることを、あらためて思います。
    自己批判の受容……ウィルソン博士が言われる高度な宗教の条件です。
    わたしは、組織加入者の一人として自己批判を繰り返しているのですが、創価には、自己批判などという高度な言葉は存在せず、教義の整合性も洗練さも失われ、矛盾を拡大しています。公明支援の根拠も動機も失われ、社会悪へと転換しています。社会に大きな問題を残す政策や法案を、検討もしないで積極的に支援する公明支持者。社会を混乱させる行動で、命が潤うと信じる会員の無垢さには、驚くばかりです。名目は法戦でも、中身は魔軍の働き同然。功徳があっても、恐怖の魔性の功徳でしょう。


    ♡過去20年の国政選挙の結果を見てみましょう。
     <衆議院> 全国(比例代表)
     第41回(平成 8年)
     第42回(平成12年) 776万(12.97%)
     第43回(平成15年) 873万(14.78%)
     第44回(平成17年) 899万(13.25%)
     第45回(平成21年) 805万(11.45%)
     第46回(平成24年) 712万(11,90%)
     第47回(平成26年) 731万(13.71%)
     第48回(平成29年) 697.7万(12.51%)
     <参議院>
     第18回(平成10年) 775万(13.80%)
     第19回(平成13年) 819万(14.96%)
     第20回(平成16年) 862万(15.41%)
     第21回(平成19年) 777万(18.18%)
     第22回(平成22年) 764万(13.10%)
     第23回(平成25年) 756.8万(14.22%)
     第24回(平成28年) 757.2万(13.52%)


    平成8年の衆院選は、新進党と合流しての選挙でした。公明党としてのデータはありません。平成15年の第43回の衆院選、16年の第20回の参院選、17年の第44回の衆院選が、得票数のピークですが、一度も900万票は越えていません。1000万票はとても不可能な数値であることがわかりますが、真の国民政党に脱皮していない政党と政治家の未熟さを見ることができます。使命や理想だけでは、変革に無理があるということです。

    長いスパンで見れば、今回の得票の要因は、多少の増減・変動はあるにしても、長期的傾向の始まりに過ぎません。候補者の低質化、支持者、支援者の減、選挙運動のパターン化、習慣化、様式化、やがて新鮮さが失われ形骸化していくのは、運動の常。
    人と人の交流が惰性になれば、どうして自分の心のなかをさらけ出すことができるでしょうか。また相手の気持ちを察し、想像することができるでしょうか? 
    運動の形骸化とは、人間関係の形骸化ということです。10年単位ではっきりとその傾向は表れてくるでしょう。平成20年代から減票傾向に転じていますが、これは創価運動の衰退を予想させるものです。先生の高齢化によるご指導の衰えに起因しています。敏感な会員であれば肌で感じていることでしょう。妙法は、個人と社会の教育的プログラムですが、向上している喜びがありますか。選挙にかぎらず、信仰活動すべてに、漸進的プログレス・深化を感じていますか。青年部の人材の枯渇を感じませんか?

    池田先生の公明党に対するご指導を引用しますが、今ではまったく意味はありません。なぜ創価から公明党が独立できなかったのか。それはひとえに指導者のヴィジョンの欠落によるものです。自信がなく、明快さを欠いています。言葉が本心を表していないからでしょう。
    ここで池田先生は完全に会員を欺いています。御本尊問題でも欺きましたが、権力の魔性は、その魔力に侵されていることすら知られないように偽装するようです。創価が公明党から離れられないのは、結局権力の魔性によるもの。僭称増上慢と同質の根源から生まれるものです。
    公明党の独立を明言しておきながら、いつごろかはわかりませんが、先生の内面で重大な方向転換が行われました。そのことに誰も気づくことはありませんでしたが、決断するまえに葛藤とためらいがあったことが伺い知れます。政治権力に魅了されたのでしょう(昭和45年の前後には、言論出版妨害事件があり、創価の驕りと慢心が顕著に現れた時期でもあります。また田中角栄という政治家に近づいた事件ですが、権力のすさまじさと凄みを目の当たりにしたときでもあります。男の闘争心、野望は、敬虔な宗教家であっても魅了されるのでしょう。このごろまで創価は、折伏の大闘争を繰り広げており、まるで宗教組織に不釣合いの戦闘心に満たされておりました。広布とは一面、闘う心の塊みたいなものです)
    信仰の純粋性にもとずくファシズムは、牧口先生も検討した課題ですが、統治者の完成された人格によって、権力も民衆のために、安定して存在できるという夢想に陥ってしまうのです。万人成仏の可能性を広げる法華経の精神が、人間の心と品性を、肯定的に善性と認識するからでしょうか。

    『その後「公明党のビジョン」を発表した時も「学会員一人一人の政党支持は自由である」と明言しておきました。むしろ創価学会は宗教団体として、信仰・布教に専念し、公明党は公党として、立派に社会に貢献し、大衆福祉のために戦ってほしいということが、私の一貫した願いであったのであります。
    もとより公明党誕生の母体は創価学会であることは間違いない。しかし、いくら母体といっても、いつまでも、それに依存するようであっては、党の健全な発展はない。たとえていえば、賢明な母は、子がひとり立ちできることを願うものであります。いつまでも自己の支配化におこうとして、かえって成長を妨げてしまうのは、愚かな母親であります。子は、いつまでも幼児ではない。体の成長にともなって、精神的にも、一人前の社会人として、活躍できるようにならなくてはなりません。
    今までは、創価学会と公明党は、この母と子の関係にあると見られてもやむをえなかった。それにしても、我々は、愚かな母親であってはならない。この愚かさは、結局、重荷となって自らにおおいかぶさってくるでありましょうし、子供も社会に貢献できない大きい赤ん坊として社会の笑い者になってしまうでありましょう。
    我々は、これまで、公明党のために一生懸命応援し、守り育ててまいりました。だが第三党にもなれば、すでに立派なおとなであります。それでもなおかつ、これまでのように面倒をみなければならないとしたら、それは不合理というものであり、社会の批判をうけるのも当然の理でありましょう』
    (昭和45年5月3日、第33回本部総会での池田先生のご指導)

    『「学会は公明党の支持団体」
    また、学会は、公明党の支持団体ということになります。当然、学会員の個人個人の政党支持は、従来通り自由であります。学会は、日蓮大聖人の仏法、三大秘法の御本尊を信奉する宗教団体であって、政党支持については、会員の自由意思にまかせ、全く干渉するものではありません。
    逆に言えば、いかなる政党支持の人であろうと、いかなるイデオロギーをもつ人であろうと、この妙法の旗のもとには、全く、なんの差別もなく、平等に包容されるべきであることを明解にしておきます』
    (池田会長講演集 第三巻)

    『一貫した願いであった』、師弟不二なのに、そんな願いがあったなんて知りませんでした。
    『なんの差別もなく、平等に包容されるべき』、きれいな言葉で飾るのが得意ですね。
    先生は今まで公明党の独立を何度も言われてきましたが、結局公明党を手放したくないのは、先生ご自身なのではないかと思います。これからも真の国民政党への脱皮は難しいものと考えます。


    苦労しながら訪ね歩く活動が、会合ではよく話題になります。そういう話をする幹部のなかに疑問に思う人が一人もいないということが、創価の特徴と言えば言えます。十人十色、百人百様と昔から言われているように、共感性、思考性に違いがあって当然ということだと考えますが、行動と考え方に一律な統一性を感じさせるのは、自分の行動を深く考えていない証拠。
    大聖人仏法は個性尊重主義の、生物の生存と自由を保障する思想です。また個性と信仰の自由とは密接な関係があります。集団での一律な行動に参加するのも自由と言えば言えないこともありませんが、一般的に奇異に思われる活動は、マイナスになってもプラスにはなりません。
    熱心さに十分な動機があったとしても、それに見合う結果がないかぎり疲労が蓄積するだけ。日頃の信心の蓄えを一気に発散するときと気合を入れられて、終わってみれば、抜け殻同然ということにもなりかねない。賢明な会員は、信仰の奴隷になるまえに、自らの命に自律する楔を、強く深く打ちこむべきです。

    会員は自主的な個としての活動に喜びを見い出してはいますが、組織総体としての達成感を味わう時代は、遠くに過ぎ去ったように思えてなりません。特に、法戦という政治的決着と応酬の力関係に左右されて、一喜一憂する信仰者は、信仰の本道を見失う可能性が高い。


    Thomas Bergersen - Rada
    嵐のなかの漁船「Rada」はクロアチア語で操業という意味のようです
    創価にはこれから、社会の厳しい波濤が襲ってきます




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    ♡アンナの日記から 「デモは世界をかけめぐる」

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    パンレシピ&ロックレシピ

    パンが大好きなアンナの♡ホームベカリー用基本レシピ
     強力粉        220 塩     3
     米粉    20 砂糖(大さじ1)    15
     タピオカ粉    10 ごま油    20
     ふすま粉    20 水(ml)   180
     スキムミルク    10 ドライイースト     3
     粉 計(g)   280

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    わたしは、週に1~2回作ります。飽きっぽい性格でいらっしゃるので、パナソニックの高級ベーカリーは、はじめからパスしてシー・シー・ピーというメーカーのベーカリーを買ったのですが、もう1年以上使ってみて、わたしには十分満足なマシーンであることが理解できました。1万円もしないのですから、スペックにこだわらず、価格にこだわったのは正解。
    作り方は簡単で、材料を正確に計量し、後はスイッチを入れるだけ。面倒くさがりのわたしにも迷わずできるという親切なベーカリー。それでも、20種類ものメニューがあるんですよ。おもち作りも可能。
    材料にこだわって、強力粉、米粉は国産、ふすま粉も国産、砂糖は安心なてんさい含蜜糖、ごま油はごま油特有の香りがしない太白胡麻油。バターは好きですが、少し動物性オイルに抵抗があったので、ごま油に替えました。タピオカは米粉で代替可能。というより最初から入れなくてもよいと思います。ふすま粉は全粒粉でも可能。イーストは白神こだま天然酵母が一番ですが、高価なので安いドライイーストと併用しています。仕上がりまで約4時間かかりますので、急ぐときはBP(ベーキングパウダー)を使いオーブンで焼きます。当然レシピも違ってきますが、やや重いパンの仕上がりになります。でもおいしい。
    写真は、上が基本的な仕上がりですが、ナッツ適量とチアシードを大さじ1を入れており、香ばしくおいしい。下の写真は、さらに乾燥ヨモギを水で戻して入れてみたのですが、商品にしてもよいくらいの出来でした。できるだけ砂糖は少なくしているのですが、砂糖の減量を図るために、あま酒の添加が大変よいみたいですね。もちろん、あま酒は砂糖無添加、糀から作ったものを使用しています。国産小麦は一般的に膨らみが悪いので、加減しながらスーパーキングといった高タンパクものをミックスすれば、ふんわりおいしくできます。
    いろいろとアレンジしながら、自分のお気に入りのレシピに出逢えれば幸せですね。


    ♡下はオーブンを使うレシピです
    [A][B]
      強力粉       120  卵黄(ケ)           2
      米粉       100  ごま油(大さじ1)         15
      タピオカ粉          25  牛乳(ml)      200
      ふすま粉          25
      スキムミルク          10[C]メレンゲ
      砂糖(大さじ1)          15  卵白(ケ)           2
      BP(小さじ2)          10  塩(小さじ1)           3
    (粉) 計(g)       305  砂糖(大さじ1)         15

    (手順)
    ① メレンゲ用の卵白(2ケ)を冷凍庫に入れて冷やす(20分)
    ② 金型を準備する。クッキングシートを敷く
    ③ キッチン用ポリ袋に[A]を計量し、よく混ぜあわせる
    ④ 塩・小さじ1を入れ、ハンドミキサーでメレンゲを作る
    ⑤ [A]と[B]を手早く混ぜる
    ⑥ オーブンを190℃に予熱セット
    ⑦ ⑤にメレンゲを2回に分けて、泡をつぶさないように、さくっと手早く混ぜる
    ⑧ 混ぜ終えたら、型に流し入れ、オーブンにセットする
    ⑨ オーブンでは190℃で20分、その後温度を下げて150℃で20分
      (オーブンの仕様によって調整する)
    * BPは水分を入れると反応をはじめるので、⑤から⑧までは作業を手早く
    * 焼き型はいろいろなサイズとバリエーションがありますので、自分好みでどうぞ
      (わたしは20センチの丸型を使用しています)
    * 市販のホットケーキミックスより水分は少なめに
    * ホットケーキミックスとしてフライパンで焼いてもOK
    * 概ね、出来上がりまで 1時間30分
    * 作業にはやや慣れが必要ですが、4~5回やればコツはつかめます

    メレンゲの作り方
    ① 20~30分、冷凍庫で凍らせたものに小さじ1の塩を入れる
    ② ハンドミキサーでゆっくり(の)の字を書くように撹拌する
    ③ ほぼツノが立つぐらいの泡ができたら、砂糖大さじ1入れ、再び撹拌
    ④ 30秒ほど高速で撹拌したのち、ゆっくりとした回転にしてキメを整える
    ⑤ ツノが立ったら終了、冷蔵庫に入れて冷やしておく
    * 卵を割るとき、黄身が入らないように
    * ハンドミキサーは、始めと終わり以外、高速回転
    * 最初、容器のまま冷凍庫で冷やすと作りやすい

    これらのパン作りに慣れてくると、手捏ねのパンに挑戦したくなってきます。
    わたしは、生野菜やチーズをはさんだりすることが多いのですが、いろいろなアレンジは自分次第。参考にしているのはクックパットの飽くなき挑戦の女性たち。
    学会活動ばっかりの忙しく騒がしくむなしい毎日にさようなら~。パン作りを通して自己を取り戻し、おいしくて健康的な生活を楽しんでください。お料理ってとても創造的
    幸せは、楽しい食卓のうえに、楽しい会話のなかにあります。



    次は♡ロックレシピ。つまり、パン作りのBGM。
    パン作りは高度な仕様は必要としませんが、音楽には,ある程度の素養が必要ですね。つまり音楽の聴き方の技術、スキルとノウハウのことです。時々、あっと驚くような表現に出会うと、それがより高度なテクニカルなエクリチュールを含むものがあったりすると、大げさな言い方かもしれませんが、自分の内部でインスピレーションが刺激される音がします。
    わたしたちは幼いときから、聴くという行為の積み重ねのなかから、音楽の基礎を、アキュムレートし、神聖な心のなかにある創造の耕地を豊かにしていると考えますが、いくら学校で理論や技術を学んでも、それだけではクリエーターにはなれません。
    アグレッシブなエクスプレッションとエクスペリメント。積極的な表現方法の確立と実験精神が、アートを進化させてくれる。人間の創造性は、宇宙のように果てしがなければ、新しい体験をしたいと渇望するデザイアも果てしがない。そして幸せへと導く動機もチャンスも、無数に転がっていると思うのですが、ボ~としているわたしには、なかなか見えてこないのです。たぶん…見えてないのですね。

    高校生のとき、 Foo Fighters に夢中になりました。
    ヘヴィーでいながらカラフルで、ノスタルジックでありながらパワーに溢れ、荒々しいダイナミズムがギター・ロックの王道をいくという印象でした。
    その頃は何か、鬱積したものを抱え込んでいたように思えるのです。大人になろうとしてなれない、思春期特有のものかもしれません。そんな不安定な心理にストレートに響いてきました。純粋で清いロックスピリットと、わたしのパンクへの憧れがショート。火花が散ったのだと思っています。早熟だったのかしら。あの頃のファイターズを思い出すと、なにか熱病に取り憑かれたように、今でも体が火照ってきます。
    まだニルヴァーナもカート・コベインも知りませんでした。当たり前ですよね。
    わたしの音楽体験は、高校に入学してから怒涛のように押し寄せてきました。無垢な少女を襲う魔手のように、ロックの毒を盛られたのです。あれからずっ~と、今でも痺れっぱなしなんだから。
    ロックという蛇行する川の流れを、一気に変えたグランジの稀有な才能を、間近かに見てきたデイヴ・グロール(Dave Grohl) は、そのあまりにも激しい生き方の結末から、解放されるために、自らのロックを、表現方法を確立することを迫られたと言ってよいと思うのです。アーティストとしてロッカーとして生きていくのなら、いえその前に、悩み多き人間として、カート・コベインという亡霊を、自らの体のなかから葬り去らなければならなかったと考えます。
    デイヴは優れたソングライターです。カートの死から1年後、ほとんど一人で1st アルバムを作り上げます。その性急さは、彼が単純に、自分のアルバムを早く出したかったからというものなのでしょうか?
    青春の挫折と脆さは、頂点を極めようと思えば思うほど、細過ぎるタイトロープを渡って行く危うさに似ています。まじり気のない純粋な生き方は、より大きなエネルギーと、鉄のような意志が必要でしょう。
    カートは何に追いつめられたのでしょうか? わたしにはよく分からない。グランジの意味もよく分かっていないのかもしれない。
    カートは破滅的な、自らの生きた証を灰燼に帰すような「死」を選び、デイヴはカートを愛していたがゆえに「生」に執着しているように思えます。激しいギター・サウンドのなかに、強固な意志を感じるのは、デイヴが幾度も、葛藤を経てきたからだと思えるのです。
    高校時代、わたしは落ち込んだときに、よくこのアルバムを聴きました。そして何度涙して聴いたことでしょう。まるでわたしを励ましているように聴こえてくるからです。
    わたしが幸せだったのは、ニルヴァーナを知る前に、ファイターズに出会ったことです。どんなことがあろうとブレークダウンしてはいけない、というメッセージを受け取ったからに他なりません。

    カートはきっと、悲壮な決意と哲学を持った、悩める者だったのかもしれません。ニルヴァーナという仏教の核心的用語を、十分に理解していたとは思えないし、それでも深い関心と憧れがあったのかもしれません。若者の死はいつも衝撃的です。そして不安を掻き立てます。
    カルチャーの世界では、異端が正統に、マイナーがメジャーに、やがて変化するのは至って普通のことです。オルタナもグランジも反抗心の表現ですが、現在、その影響を受けていないアーティストはいません。街を歩けばグランジファッションで笑顔の女性に必ず出会うし、当たり前のように溶け込んで違和感はありません。グランジファッションは個人的に好きではありませんが、トップブランドに堂々と取り入れられています。
    これからもしもロックに希望があるのなら、第2のオルタナティブも出てくる可能性はあるけれど、カートのように走り過ぎる若者は出てきてほしくない。


    コミカル演技ができるようになったんですね、うれしい。
    人生ってシリアスで、コメディチックなドラマですね。
    Foo Fighters. Walk.



    * [ロックレシピ] Rock Renaissance <80年代以降の名盤>


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    桜梅桃李と師弟

    創価では選挙が始まると、あらゆる会合、予定が変更になります。選挙戦が最優先になる体制に誰も異議を訴えません。法戦というキーワードで、選挙との関係を調査してくれる人がいてくれればよいのですが、データをもとに客観的考察をくわえれば、とてもおもしろい結果が得られると思います。いかに権力に取り込まれていったか、法戦という言葉で美化された会員の集団行動の実像が明らかになると思います。
    信仰で蓄えられたエネルギーを利用することをはじめに気づいたのは、きっと池田先生です。一時、総体革命という言葉が頻繁に見られましたが、政界進出にともなう政治権力への野望も、そのなかに含まれていたと思います。
    ともかく、法戦の意味、その実体はたいへん不明瞭なものです。広い解釈で、なんでも法戦になるという漠然とした意味しかありません。朝起きたときから夜寝るまで法戦です。一瞬一瞬が法戦です。戦うことが好きなんですね。だからでしょうか、平和主義の核禁止条約に反対しても後悔しません。もちろん戦うことだけを強調する仏教はありませんので、これは創価流F取り合戦の人海戦法というところかしら。
    婦人部長は大将になって、阿修羅のように指揮しています。女阿修羅を戦いの女神に必殺認定しましょう。法戦には集団行動の怖さがあります。同時に、オルテガの「大衆の反逆」という恐ろしさも潜んでいます。
    (阿修羅によって)本来の信仰活動がキャンセルされるという本末転倒に、仏法者は最も警戒が必要です。「末」によって「本」が見失われるからです。手段が目的を駆逐するのと同じですね。
    疑問を持ちながら、苦痛に感じながら、活動に参加している人は多いと思いますが、自分の意思を明確に表明できないのは、それを言うと会員として、また信仰者としてバッテンを押されるからです。役職があればなおのことです。誠実であろうとすればするほど、責任感との狭間で揺れ動くことになります。誰もがアンビバレントな感情と思考のなかで苦悩します。

    わたしたちはいつも負の動機を背負っております。これをわたしたちは「魔」と呼びます。強信であれば、それに比例して「魔」も強情になります。自分のなかに生息する「魔」は、自分に悟られないように巧妙に擬装します。ときには正義や善の衣を着ているときもあります。生き生きとした「生」から遠ざけるマイナスの動機は、仏道から言えばすべて「魔」なのです。
    「魔が入って信仰の邪魔をする」などの言い方をして、妙に納得してしまいますが、宗教につきものの神秘的スピリチュアルな側面を、元々受け入れやすい体質があるからでしょう。元を正せば、「魔」は脳のなかの物質、「正」に対してネガティブな働きをする物質のことではないかしら。科学者でないのでよくわかりませんが。

    「頑張ろう」と思っても、「そんなに頑張らなくていいんじゃないの」というような感情が必ず、わき出てきます。なにかをやろうとしても、苦労して自分がやらなくても、誰かがやってくれると考えてしまいます。
    わたしの毎日は、そのような感情の葛藤のなかにあります。アクティブであろうとすると、否定的な感情が一方でもたげてきます。何も考えず、疑問も持たず、言われたことを素直にやれば、どれほど楽なことでしょうか。
    でも素直さが信仰と考えるのは間違いです。信仰は疑うことから始まるのです。おかしな言い方ですが、無疑曰信は、疑うことを疑わないことから生じる結果なのです。逡巡と決意、失意と再起の繰り返しのなかから、自然と生まれる確信なのです。
    自分の生き方に疑問を持たない人はいませんが、深く考える人は稀です。いつも既定の事実と既定の行動理論を支えに、自分を肯定する習慣が身にしみついています。まず、何が正しいのか、その根本から問い直す作業が必要です。

    仏教史は、新たな解釈を試みた歴史の連続です。その意味からすると、大乗仏教は小乗に対するアンチテーゼとも言えますが、大乗のなかでも、権、実、種脱と命題の深化を繰り返してきました。創価のなかでも、価値論から生命論、そして人間主義へと中心思想の変遷があります。情報化とグローバルな時代を迎え、時代に即応した思想と哲学は、世界経済や政治という現実に直面する問題を切り離して深化はありえないと思いますが、より多面的な、より多様性を尊重する思想的背景がなければ、世界との対話は難しいと思います。
    はたしてそれに応える思想はあるのかと考えると、わたしは必然的に人間主義思想に求めざるをえません。このことは今まで何度も書いたとおりです。わたしたちは、池田思想の深化と実践という難題を課せられているのですが、そのためにはまず仏教史の理解と、そのなかの創価のあるべき姿を模索しなければならないと思います。

    わたしは大学時代、トインビー対談を何度も読み返しました。多くの示唆と考えるヒントを与えてくれるトインビー対談は、わたしの原点ですが、学ぶ意欲が旺盛な会員なら、すでに古典とも言える必読書ですね。
    また御書への精通は、会員であれば当然のことでしょう。なにごとも御書根本であることは、信仰者の生活に欠かせないことですが、最近は、座談会や会合等での御書解説や講義でも新鮮さが失われ、創価の出版物からの引用に終わるみじめなものが多いと感じられます。
    本当に思索しているのか、整然とした論理展開と情感溢れる大聖人の御心に感動しているのか疑問に思い、わたしは講義者の顔をマジマジと見つめて、その軽薄な心のなかを想像する癖がついてしまいました。言葉は真理を伝えるツールでもありますが、先生がよくおっしゃられるように、自分の体験から得られる確信の言葉こそ、最強のものです。そして苦労して学んだ知識は、人生に豊かさを約束してくれるでしょう。

    わたしも女子部時代、部員さんを前に御書講義をしました。自分で自分のことを言うのはわたしは好みませんが、わたしの御書講義は、大白や聖教の創価のオフィシャル講義から逸脱しています。自分が学び自分が経験し思索したことを、自分の言葉で語ると自然とそうなります。想像力の乏しい言葉ほど虚しいものはありません。祈りにも信仰活動にも個性が表れますが、御書講義にも個性が表れるんですね。

    宗教にかぎらず、学術や芸術の世界でも、師弟関係は存在します。師弟の絆は、師の人生も、弟子の人生も、左右するほど強い関係です。
    一般的に師は弟子より年上ですので、普通、師は弟子より早く亡くなります。また師は学びと経験を惜しみなく弟子に伝えます。また弟子は、いつも師の期待を裏切ります。それでも師はどこまでも寛容ですが、ときには弟子は反旗を翻すことも厭いません。世界は広く深い問題を絶えず抱えているために、師はその構想と理想を半ばに、必ず去ってしまいます。その構想は弟子に託されますが、弟子の必死の闘争にもかかわらず、実現できることは限られています。
    人類の師・釈尊は不戦の理想を弟子たちに託しました。しかし弟子たちがしたことは正統をめぐっての争いと、それによる差別化でありました。正統を主張すればするほど民衆は離れていったのです。このジレンマの繰り返しが仏教史です。民衆のためという目的を喪失しているのです。
    歴史はいつも、解決不可能な問題に頭を悩ませ、仏教もその解決手段になることを、ほとんど放棄してきました。積極的に関与するためには、強い決意が必要だからです。聖人と尊敬される人は数多くいますが、この聖人の決意の度合いが、聖人を聖人たらしめている根拠です。真理を得た者の決意は、その深い喜びとともにゆるぎなく不動です。
    決意が実行に移されるとき、世界は一時的に混乱に陥ります。根本から変える新しい価値観が台頭すると誰もが戸惑い、受け入れを拒み、その混乱を招いた者を罵ります。師はそのような過酷な戦いの人生を自ら選択し、弟子にも促しますが、臆病な弟子は決して受け入れることはありません。巧妙に体面を飾るだけです。それでも世間的に立派な人物として認められるのですから、世間の評価など当てになりません。

    でもいつか、偉大な師を越える弟子が出てくるでしょう。今までの歴史はそうやって発展してきたのですから、未来もまた変わりありません。仏教は生命変革の法なのですから、誰にもその可能性があり、誰にも改革の原動力になる資格があります。
    従藍而青という言葉がよく引用されますが、師弟は互いに、その生命の尊厳性を認めあった者をいうのだと思います。崇高な使命の継承は、この尊厳性のうえにあることに疑う余地はありません。また尊敬のなかにあることも疑いありません。太陽が万物を育むように、師は万人を対象に、その尊厳性を説きます。不軽の実践を見ればよくわかります。万人が対象であることが普遍的な真理の証です。
    この万人性を獲得した経緯もまた興味がつきませんが、多様性の究極と思われるこのような尊厳も、ときには欠点をさらします。悪人への尊厳を認め、容認してしまうことです。
    師が説く万人性は得難いものですが、そのなかでも特に求道者に心を寄せるのは、自然の道理です。迷える者を励ます深い情感は、他者共存の世界観に立脚しています。迷える者も自分自身の一部だからです。迷いは自分の生命の一部でもあるからです。

    わたしは開目抄が好きです。開目とは、大聖人ご自身の開目でもありました。悩みや迷いを克服した人間的な勝利宣言でありました。わたしはそのことを知ることができたとき、深い感動に襲われました。あらゆる思想の原点がこの書のなかにあります。釈尊が言いたかったことも、この書に凝縮されていることを知りました。
    でも、大聖人が喜悦はかりなしと言われたそのご心境に、少しでも近づいているのだろうか、とわたしはいつも憂慮してしまいます。

    その深い真理を、わたしに教えてくれたのは、池田先生です。わたしは結局、先生の手のひらで踊っている不肖の弟子にすぎないのです。わたしはあまりの自分の非力に愕然とすると同時に、なんのわだかまりもなく、なんの疑問もなく、弟子宣言をしている人を恨みました。でも師はどこまでも寛容であることを、わたしは知っています。しかし、師であっても、決して無謬でないことも受け入れなければなりません。完璧な人間はいないのですから、弟子もまた寛容でなければならないのです。
    わたしの師に対する不満は、同時に創価全体に対する不満でもあります。先生は創価の指導者であり管理者だからです。特に執行部に対する不満が強いのです。その一つ理由は、将来への展望がないからです。創造的なアプローチがないからです。師を越えられないとする原因はここにあります。

    妙法を学び体験を通して掴んだ確信は、その人の財産であり、かけがえがない宝物です。信仰対象は同じでも、桜梅桃李の喩えがあるように、信仰経験から得られる教訓や人生観は、同じものではありません。師弟の定義は、個人の固有の人生経験から得られた、貴重で、代理がきかない唯一のものです。個人の人格と密接に関係しているからこそ、人生の強い支えにもなるでしょう。
    信仰は、このように自分固有の確固な基盤を築くことに他なりません。いくら立派な他人の体験を聞いても、それが自分のなかで消化されないかぎり意味がありません。
    一人ひとりが大切にする、師弟への考え方と確信は、辛いときでもきっと希望の力になってくれるにちがいありません。
    学び実践することが師弟の道であり、やがて師をも越えるような幸福境涯で、生きる喜びの実現も不可能ではないでしょう。なにものにも負けない人生の勝者になることが、師が望むことであり、師の恩に報いることです。

    「わたしは師を越えた」などと言えば増上慢の謗りを免れません。またいつまでも師を越えられないとしたら、師にとってこんな情けない弟子はいないでしょう。また多くの諸悪と問題の解決は遠ざかるばかり。指導者の非力は、ある意味、罪悪です。
    師の心は、それぞれの弟子の心のなかにあり、その継承は、他から強制されることでもありませんし、ただただ自分自身の深い自覚のなかにしか存在しないのです☆彡


    Men of Honor
    Two Steps From Hell






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    リスク管理と矢野裁判

    会社においては、リスク管理に多大の労力を傾注しています。東芝や神戸製鋼は、そのリスクマネジメントの失敗例です。一つの事故やクレーム発生が、会社存続に関わる重大なダメージになる可能性もあり、必要以上に、神経質になるのも仕方ないかもしれません。
    いつ頃からかは断定しかねますが、創価も組織維持という目的で、リスク管理を徹底してきたものと思われます。それだけ安定期に入ったとも言えますが、冒険はしなくなった、または必要がなくなったということかもしれません。かつての強引な折伏も、何万人も集めるような大会合もなくなりました。多くの人間を一箇所に集めると、危険なリスクが比例して増大するからです。今は、一つのクレームが、社会問題化する傾向もあります。また反逆者を整理し執拗に葬り去りました。リスクを排除したのです。
    最近は一般会員のクレームが頻繁にあるようです。これらは社会常識の範囲内ですが、将来の一律な打ち出しの困難さを予想させるものです。しかし、細部にわたっての対処の仕方は定まっていません。およそ宗教団体において対応マニュアルを作ること自体、おかしなものですが、現場を知らない職業宗教人(在家僧)はその実情に精通していないことから、会員の悩みに的確に応えることができません。クレームや苦情、相談事は無視できない切実さを含んでおり、十分なフォローとサービスが必要なのですが、鈍感な幹部は、やがて創価の名誉が傷つけられる事態に至るまで気づかない。

    昭和32年、夕張炭労事件がありました。労働者地域共同体とも言うべき労組と、生命次元での救済を使命と信じている宗教団体との対決は、その行動動機の深さにおいて、はじめから勝敗は決っていたようなものです。「小説・人間革命」や関連する随筆などの行間を想像して読めばわかりますが、池田先生は自らの責任を自覚し、深い決意で困難に臨まれました。菩薩の誓願は、信仰による自己責任の再自覚と言い換えることも可能ですが、これは仕事上でも言えることですね。
    労働運動の衰退とともに、労働貴族という言葉は死語になりましたが、反対に、宗教貴族という言葉が、その勢力拡張のなかで息をふきかえしました。宗教貴族は、再自覚が苦手なリスク名簿の筆頭格です。
    改革を使命とする者が、安泰を望むわけですから、次第にリスクが増大していきます。変化を必要とするところに、変化を望まなければ、やがてその組織は腐り、死にます。宗門は七百年もの間、一時の興隆はあったかもしれませんが、ほとんどレームダック状態同然です。広布という変革を忘れたためです。
    弘教という変革がなかったがゆえに、宗門は形ばかり残り、本質が失われました。化儀とはよく言ったものです。本質が失われているから、社会への展開と儀式で補ない安泰を図ろうとする根性には、宗教人特有のいやらしさがあります。信仰は生命次元での変革を目指すこと。信仰集団が変革集団になることは当然の道理ですが、早急な変革を望まないのが仏教の伝統的あり方です。

    強く主張することを控えて、組織に埋没する性向をその遺伝子に持つ日本人は、宗教貴族の格好の餌食です。現実を正視できずに矛盾を放置して、善のなかに悪があり悪のなかに善がある、その人間の二面性を認識できない幼児性に原因があると思う。悪は正体を隠して、善の衣装を着こなしているのですから惑わされます。さらに、唯一の正義が唯一の悪に転化します。
    善をなそうとすると苦悩が生まれ、その苦悩に負けて傍観者に甘んじ、賢い大人を演じて責任を放棄する。責任感の強さが人間性の大きさなのに、確信の強さが現実変革の手段なのに、弱さのなかで自己嫌悪に陥り、後悔しても反省はありません。現在は、自己責任という輝かしい言葉ほど、虚しい響きはないでしょう。実に魔は心理の襞に巧妙に働きかけていく悪智慧があるのですね。

    肯定的な見方をすれば、今までの創価の指導は社会への適合性を含み、順応性に富み、柔軟な思考があり、個人の変革は決して社会に脅威を与えないということ。信仰とともにたゆまない努力を強調すること。また平和行動や社会参加も漸進的であり、早急な社会変化を望みません。仏教は本来、保守的な思想なのですね。「革命児」という創価が好む言葉を、最近見かけましたか? 
    激しい言葉は消えゆく運命にありますが、軍歌調や行進曲風の学会歌、気持ちの鼓舞に焦点を当てた言葉の数々や、大真面目に大げさな表現を好む伝統的闘争心は、男性標準の男性社会だからです。
    もう時代にそぐわないことは明らかですが、会員の意識もグローバル時代に適合できていません。
    宗門と決別したとき、創価では聖的な信仰のシンボルを池田先生という「師」に求めました。「学会精神」「信仰の継承」というキーワードで学会史を振り返ってみれば、「師」がその間に介在しています。学会精神も信仰の継承も、すべて先生という中心から必ず生まれるのです。
    さらに学会史を貫いてきた「勝利」という成果主義も、ことさら強調されるようになりました。わたしたちは幸せを求め信仰に励んでいますが、幸せと勝利はほとんど同じ意味です。また人生の成功者でありたいという願望、サクセスストーリーを歩むイメージは、現世的、世俗的、現証的な創価の指導と合致しています。現証的であるがゆえに結果を重視し、それにともない、主観的な認識に左右される功徳と諸天の加護の強調もあります。その勝利への原動力としての先生のご指導は、政治的な支援活動での数量的結果主義に代表されるように、常にノルマとして会員の肩にのしかかってくるのです。功徳や唱題行為が、すでにノルマ化している会員をよく見かけます。それをMCというのであれば、MCなのでしょう。

    創価の理念から言えば、「会員のため」という論理ほど、ご都合主義があらわになる自分勝手な言い訳はないでしょう。正義とはいったい何だろうか? 正義はもともと自分用の、都合の良い解釈の側面を持っています。正義は極めて自己流なのです。
    スキャンダラスな裏面史を知りたくないと考えるのは、真に信仰者の姿勢なのでしょうか。臭いものにフタをする行為は、日常でもよくあることです。師弟の大切さを訴えながら、本当に師を求めているのか、わたしは懐疑的です。真実を恐れなく観ることが、ブッダ以来の仏道修行だからです。
    わたしが許すことができない裁判の和解が「矢野裁判」です。真実に目を塞いだ裁判でしょう。先生の弱音と恐怖心を想像しますが、和解はリスク管理の一つの選択肢でもあります。しかし本当の問題は別のところにあります。なにものにも代替できない宗教信念にも本音と建前があることです。表と裏があることです。創価には立派な言葉と理念が網羅されていますが、読んでいるうちに虚しくなってきます。世のなかきれいごとばかりではありません。

    あるサスペンスドラマのなかで、主人公が叫んでいました。
    『組織は大きくなればなるほど歪みが生じるものです・・・だから間違っていることを、間違っているとハッキリ言える人が必要なのではないでしょうか』

    Resolution
    Iliya Zaki





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    核兵器廃絶国際キャンペーン

    logo_header_news-s.png 【ニューヨーク=上塚真由】ノーベル平和賞受賞が決まった国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のメンバーが9日、ニューヨークの国連本部で記者会見を開き、核兵器を非合法化する「核兵器禁止条約」に参加しない米国や日本などの対応を批判し、改めて参加を呼びかけた。

     ICANのアジア太平洋地区を統括するティム・ライト氏は、日本政府が条約に署名・批准しない場合、「70年以上にわたって休むことなく核廃絶に取り組んできた被爆者への裏切りになる」と批判した。

     また、ベアトリス・フィン事務局長は、トランプ米政権が禁止条約に参加しない方針を改めて明らかにしたことに、「予想できていた」と指摘。ノーベル賞受賞について「トランプ氏に核を放棄させることにはならないが、核兵器は容認できないという国民の声を受けて、政府は動かざるを得なくなる。ノーベル賞はより大きな機運となる」と意義を語った。


    ♡核拡散防止条約(NPT)への失望から生まれたICAN。その力強い国際NGOの活動を俯瞰しても、諦めない人間の平和への英知が感じられます。核廃絶への希望であるICANから批判されても、日本政府は何も感じないのでしょうか。
    ソ連崩壊後、欧州などで高濃縮ウランやプルトニウムなどの密輸事件、闇取引が発覚、問題となりました。今は、北朝鮮の不正な核取引が疑われます。
    核不拡散、テロリストへ核物質が渡ることを防止するため安全管理体制の徹底、核テロへの脅威を各国が共有し、協力していくことは当然のことと考えますが、その交渉はスムーズにいかないという歯がゆい現実があります。
    危機感がない日本では、選挙で忙しく、「被爆者への裏切り」となっても、自分のことで精一杯です。創価も、表では握手して、裏ではつばを吐いても、平気なのでしょう。正しい信仰者とは、常に苦悩する人・同苦する人、つまり菩薩と定義しますが、自己撞着の妙法理論を弄んで楽しいのでしょうか。少しも悩まないことに、信仰へのいい加減さを感じます。


    ♡対談「地球平和への探求」のなかで、ジョセフ・ロートブラット博士は、次のように述べている。
    『長年にわたり、核兵器の問題に携わってきた者として、私は、NPTの重要性を深く認識しています。
    現在の危機は、35年のNPTの歴史で、最悪のものです。何よりもまず、核保有国が誠意をもって核軍縮に取り組まないかぎり、核拡散の危機は解決しないでしょう。
    私は、今回の会議(2005)にメッセージを送りました。
    そのなかで、具体的提言として、「核の抑止力」に依存する旧来の安全保障システムではなく、人類共通の「生存」という共通意識のもと、「協力」に基づく新たな安全保障システムへ前進しなければならない、と訴えました』


    核兵器廃絶運動に一貫して尽力し、信念を堅持してきたロートブラット博士に対し、池田先生は次のように訴えています。
    『まったく同感です。このままでは、人類の安全な未来はありえません。核時代においては、「安全保障」に対する発想そのものを変えていく以外にないのです。指導者たちは、その現実を厳しく見つめ、行動すべきです。
    その意味でも日本は、初めて悲惨な原爆を体験した国として、平和の叫びをさらに強めていかねばならない。世界へ訴え続けていくべきであると、私は思っています』


    さらに、対談「希望の選択」で、デイビッド・クリーガー核時代平和財団所長と先生は、次のように述べています。
    池田『その被爆者の意識をないがしろにした典型的な例が、「核兵器による威嚇・使用は一般的に国際法に違反する」という画期的判断を示した国際司法裁判所における、日本政府代表の陳述でした。「核兵器の国際法違反」を明言し、核兵器の非人道性を切々と訴えた広島と長崎の市長の陳述は、法廷に大きな感動を与えました。ところが、両市長の前に発言した政府の代表は、ついに核兵器の「違法性」を明言せず、わざわざ「両市長の発言は政府の見解を表明するものではない」と付け加えたのです。
    そもそも日本は、国連総会で1994年に、国際司法裁判所の勧告的意見を求める決議案が採決された時も、「棄権」しています』


    クリーガー『広島市と長崎市の市長が行った証言は、すべての人の心を打つものでした。それなのに、会長がおっしゃったように、両市長は、日本政府代表による声明に支援されることはありませんでした。核兵器廃絶の問題に関しては、日本の政府は、日本国民と米国政府の両方に対して、同時に忠実な態度をとることはできません。
    これまでのところ、日本の歴代政府は米国政府との関係を優先し、自国民に対する義務を二の次にしてきました。日本の安全保障はアメリカの「核の傘」によって強められると、日本政府は信じているようです。しかしながら、このいわゆる「核の傘」なるものは、他の諸都市を広島、長崎と同じような破滅の脅威にさらすのですから、日本国民を「共犯者」に仕立てるものです。
    広島と長崎の歴代市長は、地球から核兵器を無くさねばならないと、説得力あふれる嘆願をされてきました。その嘆願に耳をふさぎ、日本の政府はアメリカに対して「弟分」のように振る舞ってきました。私は、この問題に関する日本の政府の立場を容認できません。日本の国民は、政府の政策を国民の意思に合致させるよう要求すべきです。この要求を日本の国民が貫徹し、政府の核への態度を変えることができれば、この動きが、アメリカの政策に大きな影響を及ぼせるはずです。
    この点で、私は、日本国民がこの要求運動におけるリーダーになってもらいたいのです。そのことで、アメリカ国民は、政府に変化を要求する気持ちを起こすかもしれません』


    池田『こうした点について、私たちの共通の知己である「平和学の父」ガルトゥング博士も、「唯一の被爆国」という経験を生かせない日本に歯がゆさを抱いておられました。
    「何よりも日本は、アメリカとの関係において現在の隷属的立場を脱却し、もって対決的でない真の自主性の模範となるべきです。そうすれば日本は、中立国スイスと肩を並べるばかりか、はるかに凌駕すらする世界第一級の調停国たりうるでしょう」と。
    冷戦の終焉は、日本にとって平和へのリーダーシップを発揮するチャンスであるはずです』


    そして、クリーガー所長は、広島と長崎を訪問した感想を述べて、次のように言います。
    『広島と長崎に滞在した折に、私は、謝罪することができました。もちろん、それは公式的なことではなく、個人的なことでしたが、あの原爆投下が両都市の人々にもたらした言語に絶する苦しみに対して「アメリカ人」としてお詫びを言えたことで、私は正しいことをしたと感じました。過去に他者にもたらした苦しみに対し、きちんと謝罪する勇気のある政治指導者たちが、いつの日か、アメリカに現れるようにと、私は祈っています。
    アメリカに勇気ある指導者が現れることは、アメリカが行使できる軍事力よりも、配備できるどんな武器よりも、蓄積できるどんな富よりも、私たちが偉大な国民になった重要な証となるでしょう』

    安保法制反対署名に際し、創価大学にメッセージを贈ったクリーガー所長に対し、創価では公式に反応していません。きっと無視するか、避けているのでしょう。それでいて公明党を支援する姿勢を少しも修正できないのは、憶病者の行動で、勇気を強調する妙法の期待からは程遠いものです。まるでダブルスタンダード以上の、二重人格組織という病的なレベルにあるようです。それとも池田先生が病的なのでしょうか? 
    戸田先生の「原水爆禁止宣言」も裏切っています。決して離れてはならないと何度も教訓された大御本尊も捨て、それでもなお、師弟不二を人生最上の道と指導する意図は、自分勝手な、自分に都合がよい師の利用ではないでしょうか。清純であるべき信仰者を願ってきたわたしには、理解の範疇を越えています。

    2015年、NPT再検討会議に向けた、被爆者のメッセージ(注) が編集され、残っています。自由に閲覧できます。被爆当時、4歳だった女性は、次のように書いています。
    注:http://www.ne.jp/asahi/hidankyo/nihon/img/150304_message.pdf
    『ワシントンD.C.で証言した。「よく敵国に来て証言されましたね。憎らしくないですか」と聞かれ、「憎いことはなにもありません。憎しみからではこの証言はやっていけません。核廃絶は言っておれません」といったら、通訳をしている人が泣いて伝えられないという状況になった。
    怒りはない。たぶん幼かったせいだろうと思う。私が思うには、怒りとか苦しみとか悲しみとかそういった感情は母が業(ごう)として全部背負ったと思う。だから私は「世界中のお母さんを泣かせないで」というのを私のスローガンにしている』

    「業を背負う」って、まるで聖人が語る言葉のようです。一人の人間の業を背負っているだけでなく、日本人全体の業も背負っているような悲しみです。自分の命の極限を見つめた言葉には、どれだけ深い葛藤と逡巡があったことでしょう。短い言葉のなかに、どれだけの涙を流したのか。どれだけの苦しみの人生があったのか。苦労も経験もしていないわたしには、想像がつかない。
    被爆者たちの願いを叶えようと考えるのが、菩薩の同苦の心情です。自分の行動の意味も知らず、その結果の展望もなく、選挙ばかりに目の色を変える会員は、似非菩薩です。わたしは不完全でも非力でも、同苦し、いっしょに涙を流す菩薩でありたい。そのために信仰を継承したのですから。


    政治家の誰もが、世界平和を口にする。だが最初から自分がその調停の当事者になるなどとは思ってはいない。冠詞を付けるように、ただ言ってみるだけです。人類のためと言いながら、一方では国益を最優先し、国のエゴを主張して憚らない。真に平和を望むなら、断固とした理念と実行力で国民をリードし、一時のパフォーマンスではなく、平和への執念を見せるべきではないでしょうか。そのような勇気あるリーダーが現れないかぎり、平和への道筋は遠い。国民もまた賢明な選択と社会への貢献、強い意志が必要なのではないでしょうか。
    核ミサイル教の熱心な信奉者が、すぐ身近にいるのに、ミサイルなんか飛んでくるはずがないと考える気楽な国民は、亡国の平安を貪っているだけ。自分を省みることなど無縁の行為。自戒などの高度な人間的内面にも無縁。
    わたしは、自分の無力を知っている。しかし平和を望みながら平和を破壊する人間の罪深い命に、諦めることなく、自分ができる範囲で、立場で、根気強く訴えていきたいと考えるです。揺ぎない信条こそ、揺るぎない宗教の礎です。創価の人々も人間主義を標榜しながら、結局、エゴの鎖で繋がれ、自我という鎧を着て、救済という玩具で遊んでいるだけなのですね。

    希望は恐怖に、情熱は自己嫌悪に、驚きは苦悩に、勇気は失望に、微笑みは涙に、夢は皮肉に、感動は冷笑に、若き肌は年老いた皺に、貴重な時間はドブのなかの石ころに、青春は傷つき、野良猫のように迷い、青空は虚しい闇に変わる。
    海は荒れ、川は濁り、風は嘆き、心は渇き、オアシスの最後の一滴に命をつないだ青年は、神を恨んでこの世に生まれてきたことを後悔するだろう。
    平和は、人間の内面の豊かさの反映です。矛盾を矛盾と捉えない人々がいるかぎり、平和は永遠に訪れません。

    Schubert
    Serenade
    London Symphony Orchestra





    天才は凡人には理解できない。天才は奇跡を行う。
    シューベルトは古典派からロマン派の狭間のなかで生を受けた天才です。
    時代は貴族支配から市民社会への過渡期。封建的な考えから民主主義の萌芽があり、市民主体の時代へ移行する混乱の時代とも言えます。芸術家といえども時代の影響はまぬがれません。シューベルトはモーツァルトより短い31年の生涯で千点にも及ぶ作品を残しました。
    比類ない純粋さとロマンティシズム。青春の息吹きと悲しみ。美しい旋律と豊かな抒情性。清純な恋を語るような甘さとリリシズム。シューベルトから受ける印象は、崇高な神の息を吸うような透明な詩的イメージです。
    彼には、失意と孤独な日々が待ち受けていました。彼の音楽が理解され、受け入れられるまでには、まだ歴史の経過が必要だったのでしょう。
    「さすらい人」というモチーフは時代を象徴する言葉に他ならない。わたしたちはみんなさすらい人なのです。葛藤を越えて、調和と天上の憩いを求めるさまよえる羊飼いなのです。
    "白鳥の歌" からの4曲目、二短調・セレナーデは、挫折の連続から到達した美しい感動☆彡


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