ポジティブに自己超克 2

    民主社会では、自由が尊重される反面、コミュニティー(共同体)が育ちにくい、あるいは、セクト化しやすいという欠陥があるのではないでしょうか。学会にはかつて、民衆仏法という形容がふさわしい勢いがあったように思う。しかし、気づかないうちに社会のなかで憎悪を浴び、誤解さえ容認し、自己のカラに閉じ籠り、閉鎖的なセクトへ変貌しつつあるのでないかという危惧が感じられるのです。このような状態を放置しておくことは、決して良い結果をもたらしません。理解されない、理解は難しい、それが当たり前という教義は、学会80年の歴史で、もう解消されなければならないものだと考えます。社会との接点で、摩擦や軋轢は当然と考え指導する、またそれが宿命の一端であるような解説は、もう終りにしてください。
    村落共同体が、外部の人間をよそ者扱いをして、危険な存在と認識した古い意識がまだ残っていて、宗教集団と社会の境界で、敏感に反応する相克があることを遺憾に思うのです。意図的な悪意と戦うことは容易ではありませんが、よく考えてみれば、強い敵愾心を持つ脱会者や批判者は、強い愛情の裏返しではないかと思うときもあります。彼らを何とかの強敵、あるいは障りや魔などと敵視することを、今一度考えてみなければならないのではと思います。わたしは、提婆の野望を克服するために、自らの命のなかの提婆に祈りを捧げます。皮肉なことに、善があるかぎり悪があるのです。
    時代を見抜く英知は常に、リターン・クエスチョンの成果のなかにあり、設問の精緻さ、厳格さが仏教的英知と呼ばれるものです。社会も人間の意識も変化し、その変化の渦中に真理を発見するのが賢人・英知の人です。

    『とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし』<法華初心成仏抄>
    このような強い言葉は特殊例と考えます。さらに毎日のように聖教に掲載される「勝利」へのこだわりの芯になる一節かもしれません。相手に対し、決して折れないこと、引かない強さを獲得することは、信仰のひとつの証明かもしれません。しかし、これからは一般常識あるいは対人関係の範囲内で、反感を持たれない良識ある行動で、共感が寄せられるように配慮しなければならないと思う。信仰者であればなおのことです。目的と方法に正しい見解を持つこと、創価が社会のなかで信頼され、生き延びる道です。
    現実には、このような強い言葉と行動をとる会員はいないと思います。悩み苦しむのも、不幸を選択するのも基本的に自由と考えているからです。極端な言い方をすれば、幸福より自由を選ぶという人もいるということです。こんな言い方をすれば、アンナは無慈悲な冷たい人間だと思われるでしょうか。それは信仰者の姿勢ではないと非難するのも自由ですが、わたしたちは今まで、多くの不幸を、見て見ぬ振りをしてきたことも事実なのです。不正と分かっていても、自分には関係がないと避けてきたではありませんか。

    師弟不二は根本の教義において、師の無謬性という前提に成立していると思います。少なくとも気持ちの上で、そのような願望があることは否定できません。これは、無疑曰信と説く信仰論と同じく、疑うことを疑いなく拒否した信頼性に依っているのです。そして人間の理想像も同時に投影されているのです。これは善悪とは別の問題です。人間の微妙な感情の問題です。
    わたしは師を信じる、ゆえにわたしがある。
    師はわたしを信じる、ゆえにわたしがある。
    池田先生と会員は相互に信じることで結ばれる。帰属心の現われなどと、まことしやかに論ずる人は、封建的主従関係をイメージしているのでしょう。わたしは師を尊敬し、師はわたしの心のなかで、門番のように仁王立ちして、わたしを守ってくれる。わたしは師に尽くし、師はわたしに諸法の宝珠を授ける。それでもなお、一方通行的な帰属心の主張を譲らないのなら、宗教性に深く縁した平等な関係と定義しておきましょう。
    『法とは諸法なり師とは諸法が直ちに師と成るなり森羅三千の諸法が直ちに師となり弟子となるべきなり・法師品十六箇の大事』
    師弟は、わたしにとっては、わたしのアイデンティティーに関わる存在論の問題です。
    師弟の間で契約があるとすれば、師は決してその契約を破棄することはしない。それぞれの事情を理由に、いつも一方的に破棄するのは弟子の側です。残念なことに、師が語る「師弟は厳粛である」との不変の真理への違背であることに気づかない。師の衰えに対し、慈悲を持って接することも、弟子の責任なのかもしれない。

    学会の発展は、信仰のスムーズな継承にかかっているといってもよいでしょう。学会にも、少子化という社会現象と問題が反映されています。会員の人口構成を見れば、学会も重大な岐路に立たされていると言えば大袈裟かもしれませんが、創立100周年の予測される学会を取り巻く環境と組織内部の問題は、深刻と言わなければなりません。信仰の継承は簡単ではないし、例えばわたしが両親から受け継ぐことができたこと自体、極めて幸せなことだったかもしれないと、最近、特に考えるようになりました。学会に対する風評や批判を知らないわけではなかったのに、なぜ疑うこともなく素直に唱題し、その結果として、体験と内面的な充実、そしてそれに対する論理的説明に納得を感じることができたのか。わたしは、賢明な親の存在が最も大切だと思うと同時に、抽象的な教義談義に陥りやすい宗教哲学の生活上での実際の具体例と、歴史を俯瞰した立場からの視点で、生き生きと人間の生死が語られたことに大変興味を惹かれました。
    子どもを感動させるのは、ロマン溢れる詩心なのですね。詩のなかには、遊びもあり、学びもあり、宗教的エッセンスも含まれている。絵画や音楽の深い詩心と物語性に、誰でも胸を高鳴らせたこともあると思います。生きることは、大変ドラマティックなのだという驚きです。
    しかし、このような家庭教育の場で、過剰な熱心さから、教団の唯一性、指導者のカリスマ性などの、判断が容易ではない宗教原理を強調するのは良くないことです。
    子どもにとって、最初のカリスマ的強さや意志力を感じ、尊敬のまなざしで見るのは父親であり、無限の優しさを体現した存在として、憧れを抱くのは母親です。正常な親子関係に信仰の継承は流れるのであり、奇跡的なカリスマ性は、宗教に対する根本的な偏向と、合理的精神の欠如を植え付けかねません。宗教で説く社会常識とは人間としての振る舞いのことです。理性に適い、人間の豊かな情感を育て、理想と揶揄されようと、人間としての普遍的道徳と倫理を説くのが宗教教育の要諦です。
    家族は社会の核であり、創価という組織の核も家族です。信仰を元に、理想の家族像に近づける適切なアドバイザーであることが信頼を得る組織と考えるのです。
    現代人は、人生を自由に使う代償に、他の人々と物事を共有する喜びとチャンスを失いました。周りを見れば、孤独のなかで生活している人に、自分自身の影も見え隠れする。家族の崩壊は社会の崩壊であり、盤石な師弟のつながりが創価の組織の命綱であっても、家族の崩壊は組織の崩壊につながる。組織における家族像の理解は、価値が変遷する社会にあって重要な命題を孕んでいると、わたしには思えるのです。
    子どもの感受性は大人が想像するより鋭く繊細で、さらに親の心を見抜く力を持っています。
    純粋な子どもたちに、未来が託されることは喜ばしいことであるし、婦人部の一員であるわたしも、その一つの花を育てる使命を担っている。慈しみのなかに人間としての義務をはたし、愛のなかに理想の親になれるように、自らを啓発していきたいと思うのです。

    自己超克こそ、挫折を回避する唯一の方法です。
    『月々・日々につより給へ。すこしもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし』<聖人御難事>
    大聖人は750年も前に、日々超克の貴重な御文を書き残されています。わたしたちが進むべき方向を示しているではありませんか。苦難こそ、純粋な信仰を保つための合理的かつ必然的試練かもしれませんが、苦難とは可能性を信じた積極的努力とも言い換えることができます。 ポジティブな意識の養成は、信仰の一つの収穫とも言えます。
    『思うに、自己超克こそ宗教の真髄です。この伝統的な宗教的教戒である自己超克を説く宗教こそ、未来において人類の帰属心をかちとる宗教であろうと思います。なぜなら、自己超克という教戒こそ、人間としてこの世に生を享けていることの挑戦に対する、唯一の効果的な応戦になるもの、と信じるからです』
    「こそ」を重ね、トインビー博士は強調しています。
    自己超克が人間革命と同義であることは、会員の皆さまならよくおわかりですね。


    妙法という宝珠は、時代の変遷に耐えて未来に伝わり、人間幸福の揺るぎない確信に成長しなければなりません。信頼の輪は身近な人々から継承され、社会へと展開する。
    しかし信仰が正しく継承されることは簡単ではありません。
    キリスト教世界においても、今まで多く論じられてきました。それは時代背景もありますが、スムーズな信仰継承に問題があったからと考えます。創価におけるこの問題は緒についたばかりといっても過言ではありません。親が純真な信仰を貫いても、必ず子どもに継承されるとは限らないのです。組織にあっては大変大きな問題です。特に少子化が反映されている社会にあってはなおさらです。
    わたしは、広布の考え方を根本的に問い直す必要性を感じています。わかりきったことかもしれませんが、数だけが重要なのではないという価値転換です。

    『知性によって秩序づけられていない衝動や願望は、偶発的な環境の統制下にある。即時的な気まぐれやむら気によって命令された行動を見つけるためにのみ他者の統制から逃れても、得るものよりも失われたものの方がはるかに大きいのである。つまり、衝動のまにまに左右されて、その行動に知的判断が入ってこないのである。このようなやり方で行動を統制されている人は、せいぜいのところ、ただ自由の幻想をもっているにすぎなく、実際のところ、そのような人は、自分ではどうすることもできない勢力に支配され導かれていることになるのである』(ジョン・デューイ「経験と教育」講談社学術文庫)
    将来、創価がどのようなかたちになるにせよ、自ら考え、知的練磨を重ねないかぎり、社会の最悪な群衆になりかねません。

    でも今は、わたしは友人に恵まれています。そのなかには女子部時代の部員さんだった方もおられますが、集まっても信仰の難しい話はなし。生活のディテールに、程よい充足感とポジティブ・インセンティブがあり楽しく新鮮。
    わたしのまわりの女性は、みんなひたむき。そして知性的。美しく輝いている。サクセスストーリーとキャリアアップを求める姿は、とてもインテリジェント&ポジティブ。不満があっても、前向きに努力する上昇志向の彼女たちは、きっとその夢を叶えるでしょう。ぜひそうあって欲しい。聡明な女性こそ、創価の希望です。
    人生の浮き沈みに一喜一憂することなく、幸いと平和のコースを歩むことができますように。
    人生というゲームの美しい覇者となりますように。
    そして、いつまでも変わらない友情でありますように。
    遠い心の旅は、まだまだ先が長いのだから。


    Happy Xmas (War Is Over)
    Sarah McLachlan





    653-09n.jpg



    ポジティブに自己超克 1

    世界を一度リセットし、神のみが行なえるような奇跡ができたら、悪を一掃したユートピアを作りたい。夢想好きな女子が考えることは、実現不可能なことばかり。
    毎朝、正直に映しだしてくれる鏡のなかの自画像に向かってつぶやく。
    「あなたは一体何をやりたいのかしら?」
    自分に問いかけられても答えられない。
    それに、いざというとき決まって連絡とれない彼は、何を考えているのか分からないし、真面目だけれど、時々、わけわかんないおバカさんになったりするから目が離せないのよね。忙しいみたいだし… まあ~いいことだけど…
    おおまかに言って、意思疎通をはかることや、生きるって大変なんだと、しみじみ思うこの頃。励ましは自他ともに通じ、自らの言葉は自らを励ましてくれる。だからなにより、自分を大切にし自分をいたわることが、仏教の「自己は自分の主」というマキシムに当てはまることにもなるのではないでしょうか。


    ♡イエスが死後復活したかどうかなんて、わたしは信者でないからわからないけれど、確実に言えることは、イエスの教えが、弟子たちの心のなかに復活したということです。それは貧しい人こそ救われ、辛い運命にある人こそ神の愛の対象であること、幸福に最も遠い人が、最も神の側に近づけるということです。こういう根本的な価値転換は、仏教においても説かれます。病気で苦しむ人ほど健康になることができるし、貧乏な人ほど経済的裕福さを享受できる。「煩悩即菩提」という場合の「即」は、最低の状態から最高の状態へと転換する宗教的理論ですが、別な言い方をすれば、宿命転換とも蘇生とも説かれるものです。宗教にほぼ共通して見られる思考方法、実践方法でしょう。蘇生はニュアンスは異なりますが、復活の意味と解してもそんなに違いはないでしょう。キリスト教における「復活」は、まさに価値転換の意味だったのですね。わたしの忙殺された時間は、「即」久遠に通じ、「生死即涅槃」という意味にもなるから、妙とは不思議の一法です。

    再び狐狸庵先生の「キリストの誕生」から引用しよう。
    『原始キリスト教団のみじかい歴史をふりかえるたびに、私(遠藤周作)にはいつも色々な疑問が起きてくる。
    疑問の第一は、おのが釈放と引きかえに師イエスを見はなし、その処刑までの二日間、息をひそめ、かくれていた弱い弟子たちがなぜ、それ以後、信仰に生き続けられたかという問題である。もともと彼等は決して最初から強い信念や信仰の人間ではなかった。彼等の大半はガリラヤ湖(注:新訳聖書の舞台、イスラエル北部のガリラヤ地方の湖)の漁師や人々に軽蔑される職業についていた。彼等は私たちと同じように拷問にたいする恐怖、処刑の恐れのため変節するような弱い人間たちだったのである。
    彼等は我々である。我々と同じように弱く、卑怯な人間である。我々と同じだから彼等は生涯のうちで最も大事な人を見棄てたのだ。見棄てただけでなく、裏切りもしたのである。その弱虫たちがなぜ、その後半生では強い信念の人、強い信仰の持主に変ったのか。カヤパ(注:ユダヤ教の大祭司、イエスを死に追いやった)の官邸でイエスを知らぬと否認したあのペトロはやがて、師と同じようにローマで十字架刑を受ける。しかしその時、彼は自分の信仰を貫き通す強い人に変っていたのだ。ペトロだけでなく、他の弟子たちも、記録こそないが、語り伝えられた伝承に従うならば、そのほとんどが殉教している』


    神の沈黙の解釈をめぐり、弟子たちにその答えを委ねたのは、宗派を問わず信仰における普遍的な核心部分です。イエスは死という究極の姿で、自由と信仰が一体のものであることを弟子たちに悟らせました。信仰は根源的な自由意思から発露するものと理解すべきなのではないでしょうか。真の自由の実現は信仰のみ可能であり、信仰の功徳と言えば、束縛のない自分自身の生命状態、境涯の実現を言うのだと思います。
    (仏教は、主体的自律、能動性の見地から、人間の全体性の復権をはかるものであり、中道はこの主体性の理想と自由を説くものです)
    最後の晩餐で金の袋を握った姿を描かれたユダは、師を裏切り、苦しみと後悔に苛まれながら自殺しました。葛藤と信仰への訣別は個人の自由であるけれど、自己の弱さから棄てると決めた信仰の悪口を、自己防衛と正当化のために費やすほど虚しいものはありません。
    イエスは生れ故郷の人々から罵られました。なぜなのだろうか。聖者は、決して近しい人々からは正しい評価を受けることがありません。罪深きユダヤの民は、そのとき以来、呪われたように、いつまでも争いの神を信じてやまない。今は、イエスの悲しみがアラブの民の悲しみに変っただけではないでしょうか。
    「沈黙」のなかで、主人公の師が背教したことが物語の大きなプロットです。拷問に耐えかねてと言えば簡単ですが、ここでも神のしるしに対して、深い疑問を発し、悩む信仰者の姿があります。これにはモデルがあって、師、クリストヴァン・フェレイラは実在し、日本名に名前を変え、日本におけるキリシタンの棄教に力を発揮しました。また主人公・ロドリゴは、決死的な日本潜入を行なったジュセッぺ・キアラと言われていますが、もちろん作者の創作が加えられています。ロドリゴも棄教します。日本におけるキリスト教は、武士階級にも広まりましたが、高潔さと死を恐れない信念の強さを持つ武士道と関係があるのかもしれません。

    ともかく背信者が口汚く罵るのは、古今東西を問わず、これまた普遍的真理です。学会に対する中傷は、個人的動機がきっかけになることが多いと思いますが、いつしか群れを作り、団結し、アピールし、公共的正義心を発揮して、社会的運動と化す。アンチも組織化するのは、個人より集団の方が主張しやすいということでしょう。でもこれは、停滞者あるいは後退者が、前進者に向って石を投げつけているのに似ています。その差はますます離れていくばかり。
    信は目で見ることができませんので、いくら合理的科学的根拠を求めて解決を図ろうとしてもダメなのです。それに憎しみが支配する感情に左右されて、ダメなものはダメよ。
    また、組織は社会改革に必須の形態にもかかわらず、宗教が組織力を駆使して社会参加することに異議をとなえる。おかしなことですね。組織となれば、必然的にリーダーが存在するのであり、会員はその関係を師弟不二という。御義口伝の成立には、大聖人と日興上人の一体不二の姿があり、その実践のなかに、わたしたちは広布に捧げる師弟共戦の理想を見るのですが、あくまでもどこまでも理想であって、現在の創価は、師弟の再考を迫られています。師が矛盾に鈍感になったことが原因です。

    宗教社会学の権威、ブライアン・ウィルソン博士と池田先生の対談「社会と宗教」(聖教文庫)にそって、学ぶことが多い博士の宗教的知見を見てみましょう。

    『ピューリタニズムの後期発展段階において、ユニテリアン派が三位一体(父と子と聖霊)の神秘的教義を拒否し、十八世紀末のヨーロッパにおける合理主義的な時代精神と合致する"合理的な宗教"を求めたことがありました。
    ところが、彼らは、自分たちの宗教を、ある程度まで合理化することには成功しましたが、結局は、信者に対してことさら信仰心を起こさせるものを、ほとんど残さなかったという結果に終わっています。彼らは、最終的には、強い倫理的関心をもった高潔な人道主義者となることで、満足しなければならなかったのです。
    プロテスタンティズムの歴史全体を見ると、神秘的な信仰から離れて合理的に向かう過程では、人々は、自らの経験を完全に合理化しようとし、ついには信仰を失うにいたるまで、満足して留まるということがないことが分かります』


    さらに、科学的探究を含めて合理性の追求は、目標の体系から矛盾する要素を取り除く過程、さらに従来より効率のよい方法への置換過程をいうのであり、合理性の規範が適用されるのは物事をいかになすべきかという点であって、何をなすべきかという点ではない、と述べた後、次のように指摘しています。

    『宗教は、人間に対して、常に(真理として述べられた)命題を提供し、(われわれが儀礼と呼ぶ)行動を要求します。人々の生活は、そうした命題や行動の光に照らされて営まれるのです。こうした教義や要求は、その具体的内容がいかなるものであれ、心の平和、精神の均衡、安心感、人間関係の調和、人生や仕事への積極的態度等々を求める、人間の要求に応えるものなのです』
    『それとは(宗教の社会的機能の衰退)対照的に、宗教の心理的機能の多くは存続しています。宗教は、いまもなお、多くの人々にとって力の源泉であり、献身度を強めています。あなたのおっしゃっる通り、病人はたしかに回復し、死別の悲しみは慰められます。その他、さまざまな不幸を克服する力を宗教から得たという人もいます。そのような体験を、偶然の一致だとか偶発的な出来事だとかの説明で、簡単に片づけることはできません。得られた利益の原因について、信奉者たちが自分をあざむいているという場合も、ときにはあるでしょう。しかし、宗教的献身が力強い結果をもたらす有効な源泉であることを、私は疑いません』


    信ずることは難しい。意識しようとしまいと、自由意思が基本の個人主義を、衣のように着ている現代人は、その行動の道徳律に、自身の良心と責任を課して、宗教的習慣を嫌う傾向にあると思います。統一された集団に嫌悪を感じ、それが誤解と無知からのものであっても、自己の判断の独善性に気づこうとしません。正義という厄介な代物をひっばりだして、得意気になっている姿ほど滑稽なものはありません。主義主張と同じ数だけ正義の数もあり、言ってみれば無数にあって、根拠のない正義を主張する人間を、簡単に信じないほうが災いを避ける方法でもありましょう。また社会のすみずみまで合理性がゆきわたっているわけではなく、ましてや、人生全般や生命活動の欲求の表れともいえる信仰が、計算し、答えを出すような合理性の上に成立していると考えるのもおかしなことです。計画通りに結果が得られないのが人生というものですから。
    合理的方法とは、理に適った宗教的アプローチを言うのであり、実践者からすれば、信行学の3点セット、客観的にみれば教行証の三つ揃いと言えばよいのでしょうか。仏説を理解するのも、実践し証明するのも軽薄な姿勢では適いません。この場合の軽薄とは、経典をひっくり返し裏から見るような、己心の三毒強情な不信心を言う。素直であることが信仰者が誇りとすべきものです。信仰における合理性は、普遍妥当性の数式を用いた証明問題を、現実に適用することです。わたしもあなたも仏ですという証明問題なのです。それを理解できない人は、宗教は心の問題だともっもらしいことを言いながら過小評価し、合理性の何ものも解っていないのですから、大変やっかいなことこの上ない。信じていると言いながら信じる意味が解らない。また信じていないと言いながら、自己を律する最善の道徳を求めようとしない。もう、放っておくしかないですね。
    合理的思考が神のようでもあり、何でもキチンと棚に収めたくなるドイツ人らしい真面目さと精密気質、秀でた額の内側で考え続けたプロイセンのカントは、理性宗教の結論を、妙法が説く一念三千の仏に、その実像を見ることも不可能ではなかったでしょう。純粋実践理性の意志力を、わたしたちは毎日飽くほど眺め、試みているのですから。悩める自己を、悩める自己が救うという、どこまでも自己責任の宗教ほど、合理的宗教はないと考えます。
    祈りは自発的な行為であるばかりでなく、信仰の飛躍を願う儀式です。祈りは対象と同化しようとする試み。同時に対象から智慧の開示のヒントを得ること。この往と復の回路のセットアップが祈りです。整理してみると、対象に自他ともの幸福を祈り、対象から行動のエネルギーをいただく。祈りは善の宿業を積み重ねる指鳴らし(合図)みたいなものです。生命の預金口座(トインビー博士の比喩)にパチンと振り込まれるわけですね。プラスもマイナスもですから、これほど厳しい自己責任はないでしょう。
    ウィルソン博士と同じように、わたしも疑いません。宗教によって、わずかな人生という時間が、永遠に価値あるものに転化することを疑いません。

    マックス・ウェーバーは、「世界の魔術からの解放」をプロテスタンティズムにみました。
    『教会や秘蹟による救いの可能性を完全に否定したところにカルヴィニズムとカトリックとの相違がある。リター主義はここまでは徹底していなかった。かくて世界の魔術からの解放という偉大な宗教史的過程、古代ユダヤの預言者とともに始まり、ギリシアの科学的思考と結合して、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信で冒涜的なものとして退けるあの過程がここに完結を見たのだ』(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」大塚久雄訳・岩波文庫)

    神の偉大さとともに、その懐深く付属する呪術や迷信は、理性的に排除されなければならない。キリスト教神概念はつまり、非合理的存在を肯定するものです。
    宗教においては、神秘性と呪術性は密接に関係していますが、その反面、盲信を強いる根拠となり、信仰者の人間性の維持を阻害します。仏教はその教義において合理的な思考と検討を重視し、歴史的に整理され洗練されていく間に、論理的体系を強固に築いてきました。しかし、知性や経験の限界を知り、思議できない宗教性に謙虚に従う判断も必要とされることもあるのです。これは神秘性を排除した直観的スタイルという精神的飛躍の問題です。「以信得入」ということですが、思考を拒否した信をいうわけではありません。自らの内面に法を直観するということです。 むしろ、思考を重ねなければ、「以信得入」はありません。
    「以信得入」は「難解難入」と対をなす言葉です。ここにも「即」と同じ、行為と価値の転換がはかられます。
    宇宙構造や複雑な心的構成要因の解明は、科学的分野の努力と献身にかかっていることは誰もが承知していますが、一念三千、宿業論、人間の五感を基本とした認識論の深い仏教的叡智と、実践による心の成熟プロセス、また善と悪のとらえ方に究極の哲学をみるのは決して無理なことではないでしょう。
    真の正義は仏説にあり、その柔軟な解釈を可能にした池田先生の人間主義は、今まで果てしなく経験してきた人間の堕落と、正義の名のもとに犠牲を必要とした争いと欲望の断絶を叶えるものと信じてやみません。救済という言葉を使うなら、それは他から与えられるものではなく、宝塔に象徴される万人を照らし導かれる生命尊厳の光が指し示す方向です。
    『魔法は未解明の科学』(アーサー・C・クラーク)といったら、魔法使いのおばちゃんだって存在しそうだし、将来、科学的解明がなされるかもなんて、変なことを考えるわたし。

    ただ学会もこれから心しなければならないのは、かつて共同体意識が強かった時代の、宗教が果たした融和の魅力を引きずってはならないということです。伝統的習慣や規律、しきたりといった美徳は、暖かい人間関係を維持するために、共同体を形作る環境に寄与してきました。宗教も社会秩序の基礎をなし道徳的な行動を律する役目を担ってきたことは否定できません。生活空間が広がり、一方で個の孤立という危機が孕んでいる現代において、密な人間関係に支えられていた過去の共同体意識を、疑問もなしにそのまま重ね敷衍できるはずもありません。
    信頼に支えられた共同体意識は、学会においての信仰者間の連帯意識と酷似しています。救済集団としての学会は、なにより団結することに意義を見い出しています。共に進み、共に苦しむ菩薩の心情に触れようとしている姿は、毎日の自己との格闘の姿であり、皆共至宝処です(御義口伝)。生活規律、また種々の悩みの克服法は、宗教上の教理の一部でしょう。悩みと喜びの共有は、共同体の基本的在り方です。信仰組織においても同じです。しかし、村文化と言われる偏狭な共同体意識は、創価ルネサンスと正反対のものであること、信仰者の姿勢とはかけ離れたものであることを、よくよく考えなければなりません。普遍的とは見知らぬ他者に尊厳を認めることなのです。異論にも寛容になることなのです。


    People Help The People
    Birdy






    8876187.jpg


    沈黙する神

    以前ビデオで見た「キングダム・オブ・ヘブン:Kingdom Of Heaven」〈2005年公開〉は十分に楽しめたのですが、ストーリー的にものたりないところがあったので、最近、未公開シーン50分を含む3時間14分の究極バージョン、ディレクターズカットの廉価版のブルーレイを買いました。主人公を演じたオーランド・ブルームがSGIメンバーであるという親近感も動機ですが、中世の歴史物が大好きなわたしは、十字軍と聞いただけでレスポンデントし、目がキラキラと輝きます。リドリー・スコット監督の傑作の一つに数えられる作品だと思います。豊かな色彩、手抜きなしのフル・スペクタクルな映像美とともに、印象に残ったシーンが色々ありました。

    主人公・バリアンの妻が葬られるオープニングシーン。寒々とした雪混じりの風が吹く荒野で、子どもを亡くし、悲しみのために自殺した主人公の妻を、首を切らなければ天国へは行けないと呟く神父。そして大きな斧を持った墓掘り人。キリスト教と土俗的風習が混じり合い、変貌したと思われる教義。時間が経てば何事も変化して元の形が失われる。宗祖の本心も例外ではありません。
    歴史の荒々しさと猥雑さを垣間見るようなメッシーナ港の活気。交易で栄えた、見果てぬ夢の入口の街。ギリシア・ローマ時代の理性信仰は完全に失われ、一神教が支配する時代の方が、より世俗的とは驚き。僧兵は日本だけではなかったのですね。道行く人に「異教徒を殺すのは罪ではない。天国への道だ」と説く狂信者。でも、わたしたちはこの狂信者を笑うことはできない。今まで、傍観者のように見知らぬ顔をして、その片棒を担いできたのだから。
    サラセン剣士との砂漠での決闘も絵に描いたように美しい。戦闘に多く登場するアラブ馬まで美しい。ハンセン病のために顔を隠し、仮面を被ったエルサレム王の悲劇的な威厳そして死。戦闘シーンでの統制がとれたサラセン軍の気品と力強さ。アラブを統一するサラディンの指導者としてのカリスマ性と賢明さ。短い言葉にこめられた深い意味について考えさせられ、その一方で、世界の中心ともいうべき大地の、争奪の歴史の重さにため息をついた。12世紀からイスラム教徒が住み続けていたエルサレムに、20世紀になり、ユダヤ人国家が建設された。歴史から学ぶ教訓は、信仰と密接に結ばれた民族間闘争の明快な解答が不可能な複雑さです。聖地でありながら、最も多くの血が流されてきました。
    イスラムとは自己放棄という意味だそうですが、小我を放棄し大我に奉仕することに通じるものです。自己中心的な欲望をコントロールし、利他的欲望に転換すること。「我」というテーマのパラダイムチェンジですね。「神」は天上にいるのではなく、心のなかにいるという心理的転換と同じです。

    主人公がゴルゴダの丘を訪ねるシーンは特に興味を持って見ました。実際、その地で撮影したものではないだろうと思っても、12世紀のゴルゴダは、キリストが処刑された風景を残していたかもしれない。聖遺物への信仰は、どの宗教でも同じように、強い衝動となって心を動かします。法という絶対妙があっても、聖なるものに触れたいとする心は、純朴な信仰の素直な心情でもありましょう。直に接したいという欲望は、誰も否定できないほど強いものです。
    本山信仰は、創価でも共通しています。信濃町参詣ですね。歴史が浅いので薄っぺらな印象はぬぐえません。

    主人公・バリアンが、父である人から誓わされた言葉。
    1.恐れず、敵に立ち向かえ
    2.勇気を示せ
    3.死を恐れず、真実を語れ
    4.弱者を守り、正義に生きよ
    生きる者の普遍的な真理が語られています。


    ♡法華経はバランス感覚が優れた経ですが、基調としては急進的な変革を嫌う経だと思います。しかし、どの宗教にも見られる帰命性の証明として、殉教精神の強調があります。非難と迫害の時代にこそ、その信仰と自覚の深さが顕著に試されるでしょう。他者尊重が宗教の使命であれば、個としての愛は隣人やコミュニティーにおよびます。それはときには、自己犠牲をともない、法と一体になることを念願します。キリスト的愛の概念は、慈悲と非常に似かよっています。
    ユダヤの憎まれっ子・シャイロック(ヴェニスの商人)は、気まぐれで、借金の代わりに肉1ポンドを要求したのが命取りになりました。キリスト教的言い方を許していただければ、貸し方(神)は、いつも代償を求めているのであり、借り方(人間)は肉を切る試練にさらされている。無償の愛とよく言いますが、見返りを求めないがゆえに、そう言われるのでしょう。でも、本当に無償という至高の愛はあるのだろうか?
    至高であるがゆえに人知を越えていて、その意味するところがわたしには理解できない。

    遠藤周作は、神の「沈黙」に根源的な問いを発し、極限状態での背教の苦悶を描いた名作「沈黙」を上梓したのち、「イエスの生涯」「キリストの誕生」を書きました。わたしはキリストに関する書物のなかで、これほど感動した書物はありません。
    「キリストの誕生」の冒頭にテーマが明確に述べられています。
    『イエスは同時代のすべての人間の誤解にとりかこまれて生きねばならなかった。みじかい生涯の間、民衆も敵対者も、弟子たちさえも彼をまったく理解していなかった。<中略>
    だが聖書のふかい問題は逆にそこから始まる。無力だったこのイエスがなぜその死後、神の子とみなされたのか。彼が十字架にかけられた時、見棄てて逃亡したあの弟子たちがその後なぜ、命をかけてイエスの教えを広めようとしたのか。イエスはなぜ無力なるイエスから栄光あるキリストに変ったのか。弱虫だった弟子は何故、強い信念の持主になったのか。
    聖書が我々に突きつける深い問題は、ここにある。もし最初からイエスがこの地上で人々に理解され、愛され、力ある存在だったなら、このような謎と課題と疑問は我々に起きなかったであろう。イエスがその生涯で人々の眼に無力な人間に見えたからこそ、この課題は重要な意味を持ってくるのだ』


    沈黙最近、マーティン・スコセッシ監督で映画化されました。重いテーマの作品であることから、大ヒットすることなどないと思われますが、アメリカ映画の良心を、つくづく感じました。主演のアンドリュー・ガーフィールドは、「ハクソー・リッジ」が公開されて、すでにビデオで見れますが、決して武器を取らないヒューマンな衛生兵が主人公です。彼が戦場で命がけで兵士を助ける姿は、ただの反戦というだけではなく、神の救済のサポートの勇気と本質を見る思いです。傷ついても救っていくという菩薩の境涯と同じです。
    以前、マーティン・スコセッシ監督のダライ・ラマ14世の少年時代を描いた「クンドウン」を見て、深く感動しました。歴史上の出来事に関心があり、時間をかけて調査し映画化しているようです。「人間革命」の映画も見ましたが、自画自賛の創価コマーシャル程度の低級さとは、格段に内容が違うようです。

    遠藤周作は狐狸庵先生などと呼ばれてユーモラスな一面もありましたが、そのインターナルはとても奥が深いように感じます。
    彼は、この小説を書く間、キリストとその弟子たちの心と信仰に分け入って、深い宗教体験を味わったに相違ありません。その一方で、神との葛藤と対立、客観的な観察者としての自分自身が弟子たちと一体となり、苦しみも味わったと思います。神のしるし(愛)は決して現れることがない。救済は神がその力で行なうのではないという、法を規範とし拠所とする仏法者にしてみれば当たり前のことが、神が人の形をした人神であるがゆえに、迷うのだと思う。神のしるしについて印象的だった本がありますが、この記述とは関係ないので題名だけとどめておきます。パール・バックの「母」です。
    また、神は無欲であるがゆえに強欲である、神は無力であるがゆえに受難に会い、地上の救世主たりえたというアンチテーゼも成り立つ。イエスが十字架に架けられたとき、希望を託していた民衆も彼を見棄てた。身近にいた弟子たちさえも、師の非力さを目の当りにして動揺し見棄てた。キリスト教にとって、「復活」はとても意味あることだと考えます。
    人間は神が作ったものであり、(ある尊大な人間に言わせると)神は人間が作ったものであり、神と人間の接点でのバランスシートは対等であるべきだと考えたりする。わたしにはよく分からない。イエスは十字架の上で殉教したのだから、信徒に対しても殉教することを求め、強信な信徒は柔順に従う。「沈黙」では、殉教を恐れない人々も描かれていますが、理不尽さと冷遇、過酷さと甚だしい残酷さのときにこそ、その信仰が試されます。
    『たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか』<マタイ伝>
    御書にも同じような御文があるような気がするのですが、命より価値あるものはないわけだから、神が命を代償に求めて、信仰を貫くことを至上とするのは、何も矛盾はないのかもしれない。でも結局、神に結果を委ね、生きることへの思考を放棄することなのではないか?
    至高とは自分を捧げること。それを愛と言うのだとミステリアスに推理する。
    「人間に自己犠牲をなさしめる衝動は、愛です」:トインビー

    日蓮大聖人御在世当時、殉教者と言えば、熱原の三烈士をすぐ思い浮かべます。信徒になって日も浅く、また当時の貧しい農民は文盲と考えるのが妥当であれば、深い教学も身につけていなかったと思う。もちろん大聖人からお手紙をいただいてはいない。彼らの気持ちを、現代のわたしたちが理解しようとするのは困難なことです。少なくとも、自らの行動の正しさを信じて覚悟したのであり、教団のために命を捨てたのではないことはあきらかです。
    大聖人はどのような思いで事件の経過を聞かれたことでしょう。法が正しくても、また令法久住のためとはいえ、信仰のために犠牲がでることの苦渋と、普遍的な法の流布の困難さを感じられたに相違ありません。だからこそ、ご本尊さまを身命を懸けてあらわされた。不屈の信仰は決して安易に実現できることではないと思う。たとえ自分が傷つけられても、人間の善性(仏性)を信じぬくことができるかという難しさを、自分の頼りなく揺れ動く心を省みて深く考えずにはいられません。
    善性を信じた不軽菩薩は、経典のなかの物語です。現実にそのような人物が知られていない以上、信じぬく困難さを想像する以外にありません。キリスト教の布教でも避けて通れなかった問題です。信仰を肯定すれば殺されるという極限の選択です。人間は宗教が相違すれば理解しがたく、根本から人間否定さえしてしまいます。献身的であればあるほど、越えがたい深い溝があるかのように、善性は信仰者を裏切り続けます。争いは決してなくならないのです。
    現実に、信じ抜く強靭な強さを持った不軽のような人物が存在するのか、わたしは疑問に思うこともしばしばです。不軽が殺されなかったのは、単に運が良かったということかもしれません。そういう苛酷さを、経典では描いておりません。

    日本にもゴルゴダの丘があります。キリスト教信者ならよく知っていることです。安土桃山時代、禁教令が関白より出されたとき、それまで身を潜めるように信仰していたキリシタンは、権力者が予想もつかない行動に出ました。彼らはまるで誇り高く宣言するかのように、積極的に自ら名乗り出たからです。その数があまりにも多かったために、名前を筆記することさえできず、結局ほとんどを捕縛することなく終りましたが、司祭、信者の中心者26人が長崎ではりつけになりました。彼らがバチカンから、聖人に列せられたのは250年以上も経ってからのことです。当時は「殉教のすすめ」なる本が読まれ、信徒にも説かれていました。殉教すれば天国にいける、神のもとにいけるとする説教の構成は、阿弥陀経にそっくり。
    一般信徒に対しては比較的自由が許されていたようですが、秀吉に決断させた大きな理由は、ポルトガル人による日本人の人身売買の疑いがあったことと、体制転覆の先兵としてのキリスト教の役割が、当時難破したスペイン船長の取り調べのなかから分かり、危機感を持ったためとも言われています。秀吉は、キリスト教は悪魔、すべての善を破壊するものだと怒った。禁教令は、家康、秀忠、家光にも基本的に受け継がれ、多くのキリシタンが死罪になりましたが、背教したキリシタンも多くいました。拷問は過酷であり、その残酷さは、人間の獣性をいくら強調しても足りないくらいです。「沈黙」のなかでもその一部が描かれています。
    宗教が人々に精神の自由を与えるものとすれば、政治と宗教が明確に区別されない時代、国土にあっては、今まで経験したことがない未知の法と戒律に縛られた西洋的宗教は、為政者にとって障壁となり、憎悪と残虐さが増幅されるようです。多神教文化のなかで寛容な宗教観を持っていた日本人には、異教徒の一神教は受け入れがたいものでしたが、政治的不安定さにつながる要因であることも見逃すことはできなかったでしょう。交易からの利益と信仰の自由度が天秤にかけられ、独裁、封建制という時代的制限を割り引いても、双方に根本的な文化的隔たりがあったことがうなずけます。争いの最先端が、宗教がらみというのは悲しいことですが、思想哲学あるいは宗教といった精神文化の拡散浸透は、常にこういうものかもしれません。

    現在の進んだ情報化時代にあっても、真意と善意を理解することは難しい。人間を心底信じる善意などありえないと考え、まず疑うことから始めようとするからです。
    日本発仏教が欧米に輸出されて、潮流が混じり合うような文明文化のクラッシュが起き、カルトなどとレッテルを張られて警戒心を助長させるのは、400年前の日本を考えると当然なのかもしれない。今は全く逆の立場で布教をはかろうとしている。信教の自由が認められた平和な時代であることに感謝しなければなりませんが、激流が固い岩石を削るように偏見も削り、思想は新たな川の流れを作り橋をかける。しかし、有効なカウンターオファーとして、社会のなかで違和感なく混じり合うためには、長い年月が必要と思います。
    ネガティヴアプローチは世界全般にみられる傾向です。政治不信、覇権主義、経済では信用不安、金融不安、人間関係では絶縁、無縁、孤独、殺人と虐待といった言葉に象徴されます。いちいちその事例を取り上げることもありませんね。メディアに毎日報道されています。
    背景には、価値観の多様性、人間不信による奉仕精神の喪失、他者の脅威となる暴力の容認、貪欲さが美徳と讃美されて、富の配分にヒューマニスティックな謙虚さが失われたこと、その結果として格差社会の拡大、リスクマネジメントを怠った商品データの改竄、低成長時代の利益率の低下傾向、不安社会における個人生活の喪失。
    ISISに見られるテロと暴力の日常化は、不寛容な宗教原理主義と民族主義の不幸な同調レスポンス。世界宗教といっても結局、民族宗教の枠から脱しきれない。倫理観念が衰退した不毛の未来を予見させ、ニヒリズムに支配された自己破綻と社会の破綻。それはまた、経験を越えた存在への畏敬喪失となって現れ、醜い現実主義者と堕しかねない。目の前には尊厳が失墜した暗闇が横たわる。
    『精神なき専門人、心情なき享楽人、この無に等しい者たちは、自分たちこそ人類がいまだかって到達したことのない段階に到達したのだと自惚れることになるだろう』
    ツァラトゥストラが語った世紀末の不幸な人々よ。あなたの瞳が漆黒なのは美しいからではないのです。きっと絶望を見ているからです。篤信者が集まる社会が神なき秩序なき社会とは、性悪ゾンビの復讐譚ムービーを見ているようです。歴史的現在はすべて、前時代という過去の復讐劇です。組織にも体制にも社会にもカルマが存在します。清算は、より良き未来を生みだすためにも必要であり、その現実直視の深さは、ただただ勇気があるかないかで決まる。過去から未来まで、歴史を縦断した一本の太い価値観・人間主義の発揚が急務です。
    問題が多い時代にあって、公平な歴史観と、変革への忍耐強い情熱に溢れたリーダーの出現が不可欠です。反理性的な感情をかきたて服従させるカリスマ性よりも、仏教的覚者と言い表される理知的なパーソナリティーが望まれます。高度な公共的精神と倫理的長所を備えた高潔な人物。少なくとも、精神の純粋さを失わず、普遍的愛に満ちた人。創価にはそのような次世代のリーダーが出現するのでしょうか。優れたリーダーは、教義の真実性と弛まない努力の反映です。法が優れていたとしても、勇気と深い使命感がなければリーダーは現れない。

    禁教令の目的は、キリシタンの布教禁止ですが、同時に寺請制度の始まりであり、戸籍管理を担い行政機構に組み入れられることによって、寺院の国家による統制が明治まで続きました。護国のための宗教として、体制に保護を求める宗派がほとんどのなかで、日蓮宗不受不施派は、権力からの布施をかたくなに拒絶しました。禁教令で弾圧された唯一の日蓮系宗派です。多くの僧侶が死罪流罪になりました。日蓮教義の激しい性格を現わしていますが、教義は本迹一致です。歴史から学習し理解できることは、多くの宗教が国家の厚い庇護のもとで堕落し、宗教本来の民衆救済の精神を忘れていったことです。
    権力に一度取り込まれた宗教は、真の宗教的使命を実現できない。こういう教訓は、固い信念のように教団に保持されなければならないでしょう。権力のなかに安住する創価には、譲歩も妥協もできない宗教的使命という価値観が揺らぎ始めている。

    『構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・あやぶむ事無かれ但偏に思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり』<弥三郎殿御返事>
    家族は一度捨てなければならない。絆は断ち切らなければならない。それはエゴイズムの克服という意味での俗から聖へ、自己と他者の尊厳性に、なんら相違がないことを気づくためのプロセスかもしれない。僧侶が妻帯しないことにも通じる。家族を捨てることができない者は、自分の命も捨てることができないでしょう。釈尊は家族を捨てました。大聖人も妻子を思い切れと言う。しかし、家族は自らのアイデンティティーなのではないでしょうか。屈辱に耐え忍び、戦うことに躊躇はしない。でも愛する者の否定には、とても耐えられそうにありません。軟弱なわたし!です。

    Silence (沈黙, Chinmoku) is a 1966 novel of historical fiction by Japanese author Shusaku Endo. It is the story of a Jesuit missionary sent to seventeenth century Japan, who endured persecution in the time of Kakure Kirishitan (“Hidden Christians”) that followed the defeat of the Shimabara Rebellion. The recipient of the 1966 Tanizaki Prize, it has been called “Endo’s supreme achievement” and “one of the twentieth century’s finest novels”. Written partly in the form of a letter by its central character, the theme of a silent God who accompanies a believer in adversity was greatly influenced by the Catholic Endo’s experience of religious discrimination in Japan, racism in France and debilitating tuberculosis.(Wikipedia)


    "Glorious"



    素晴らしいコーラス。一人一人の個性が埋もれることがない。
    そして調和している。豊かな響きと表情。とても美しく、心が洗われる。



    653-09n.jpg


    【 ALL ENTRIES 】
    khh-01.jpg
    【 NEW ENTRY 】
    【 COMMENTS 】
    <>+-
    【 ARCHIVE 】
    【 CATEGORY 】
    【 BlogMURA 】
    saku-001.jpg