心の英雄

    完璧な人生がないのと同じように、全く完璧でない人生も、そうざらにあるものでないと考えるのですが、途中、悩み苦しみへこたれても、だいたいのところ、収まるところに収まるのが人生というものです。くだらない人生なんて、今まで一つもなかったし、それぞれ意味を持ち、唯一のものとして主人公に委ねられているのだから。

    これといって他人に披露できる才能もないので、せめて自分の考えていることをまとめ、文章にするという作業を続けているのですが、近頃は書いて伝える難しさを痛感しています。生活上の平衡感覚は、経験と知性の鍛練から生まれるものと思いますが、文章表現もバランス感覚が大切で、納得してもらわなくても、理解してもらう程度まで表現するのは、一方に偏らず、できるだけ平易な表現が重要かと考えています。
    一年は長いようで短く、振り返ってみれば、何も成長していないように思われて、何かを成就することの至難さを考えずにいられません。果たしてこんな頼りなさで、新しく時代を開き、リーダーになることができるのかと考えると、心もとない気分に見舞われます。

    芯になる哲学は一つでも、多様な展開と深い洞察をみせる池田思想は、よほど脳を明晰にしておかないと理解は難しいように思われますし、また他の人に分かりやすく説明するためには、どうすればいいのかと、悩むのがわたしのセルフ・ミッションと言えばいいのでしょうか。理解したうえで、自分の言葉で語ることが大切です。今は情報過多のせいなのか、自分を失い、自分で考え、自分の言葉で語る人が少なくなりました。妙法の信仰者であっても創造力をなくし、他者を思いやる本物の言葉を語れなくなったのです。
    新鮮な話題を求めている会員に、聖教の記事を引用するのは良いとして、ただの紹介と解説だけに終わるのはどうかと思います。感動を語ることは簡単ではありませんが、かっこよく話をまとめようなどと考えるのは問題外です。ノーコンテンツ・ノーコンフィデンスな話は、ムダの最たるもので会合に集った意味がありません。青年の息吹きが感じられない信仰者の姿勢は、善のなかの悪、使い古された年老いた正義です。
    先生のご真意は深いと考えますが、教学上の理解をベースに、対談集や講演、論文等を精読し、目的観に立った人間の生き方を求めて行動を起こしていくことは、青年の使命です。個々の信仰向上と英知の結集、連帯が望まれます。青春を懸けて、幸せと苦難の道を選びたい。


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    できるだけの善を行なうこと
    何にもまして自由を愛すること
    そして、たとえ王座のためであろうと
    決して真理を裏切らないこと
    Ludwig van Beethoven
    (1770~1827)

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    『思想あるいは力によって勝った人々を、私は英雄とは呼ばない。心によって偉大であった人々だけを、私は英雄と呼ぶのである。彼らの中の最も偉大な一人、今ここに私がその生涯を語る人が言ったように、《私は善良さ以外には優越さの証拠を認めない》。性格が偉大でないところには、偉人はない。偉大な芸術家も、偉大な行動家もない。そこにあるものは、卑しい大衆のための空虚な偶像だけである。時はそんな偶像はひとまとめにして壊してしまう。成功はわれわれにとっていっこうに重大なことではない。問題は偉大であることであって、偉大らしく見えることではない。
    ここに私が物語ろうと試みる人たちの生涯は、ほとんど常に長い受難の生活だった。悲劇的な運命が彼らの魂を、肉体的ならびに精神的苦痛や、悲惨や、病気などの鉄床(かなとこ)の上で鍛えたにせよ、あるいは、彼らの兄弟たちを苦しめている言いようもない苦痛や屈辱を見て、彼らの生活が荒らされ、彼らの心が引き裂かれたにせよ、彼らは試煉を日々のパンとしてたべたのである。そして彼らが精力によって偉大であったとすれば、それはまた彼らが不幸によって偉大だったからである。不幸な人々よ、あまり嘆くことはない。人類の最良の人々は彼らとともにいるのだ。彼らの勇気をわれわれの糧としようではないか。<中略> 人生は苦痛の中においてこそ最も偉大であり、実り豊かであり・・・また最も幸福であるということである。
    この英雄的な軍隊の先頭に、私はまず強くて純粋なベートーヴェンを置くことにする。彼自身、自分の苦しみの中にあって願ったことは、自分の実例が他の不幸な人々の支えになることであり、また《不幸な人間は、自分と同じように不幸な人間が、自然のあらゆる障害にもめげず、人間という名に値する一個の人間になるために全力をつくしたことを知って、自分を慰めねばならぬ》ことであった。幾年もの超人的な闘いと努力とののちに、ついに自分の苦悩にうちかち、自分の義務を果たした時・・・この義務は、彼が言ったように、不幸な人類に勇気を吹きこむことであった・・・この勝利者プロメテ(プロメテウス:ギリシャ神:人類に文字を始め数々の知恵を与えた。ここではベートーヴェンのこと)は、神に加護を祈っている一人の友人に、《おお、人間よ、自分自身で自分を救いたまえ!》と答えた。
    彼のこの誇らかな言葉から、われわれは霊感を汲みとろう。彼の実例によって、人生と人間とに対する人間の信仰をよみがえらせよう!』

    ロマン・ロラン「ベートーヴェンの生涯」新庄嘉章:訳(角川文庫) 

    ロマン派音楽は、形式よりも個人の感情や創作意図を重視して、自由な個性や内面を尊重した音楽と言えますが、詩や小説にインスピレーションを受けて、言葉によってメッセージを伝えようとする傾向が強い。
    第9交響曲は「苦悩から歓喜へ」というテーマの第4楽章のシラーの詩に託されていると考えますが、重厚で悲劇的なニ短調から始まる曲想は、強い人間意思と神への敬虔な祈りを経て、歓喜に至る。フランス革命という市民意識の目覚めと教会権力からの独立は、貴族の庇護から音楽を解放しました。古典派とロマン派の狭間に生まれたこの偉大な作曲家は、人類愛という理想主義思想を、強い共感と類稀れな純粋さを持って構想したのでした。

    第9の初演は1824年5月7日、ベートーヴェン自身の指揮で帝室宮廷劇場において行なわれました。聴覚を失っていた作曲者を補佐するため、イグナーツ・ウルラウフという指揮者が隣りに立ち演奏されたという。現在の水準と比較すれば、演奏レベルもさほどでもなかったと言われておりますが、作品の素晴らしさはそれらの欠陥を忘れさせ、崇高な感動に輝きました。アルト独唱を務めたカルリーネ・ウンガーは、その模様を書き遺しています。
    『演奏が終わった瞬間、すべての人々の目には涙が光っていました。ベートーヴェンはその拍手にとり囲まれていたにもかかわらず、おそらく何も聴こえなかったのでしょう、聴衆に背を向けたまま、まだ指揮棒を振り続けていました。たまりかねて私がベートーヴェンを熱狂する聴衆のほうに向けると、聴衆はこの大作曲家が実はひとつの音すら聴くことができなかったことに気づいたのです。やがて会場は同情と賞賛の嵐につつまれ、中には大声で泣き出す者も現れました。そしてその歓喜の声は、永遠に消え去ることがないように思われました』

    ブラームス派とワーグナー派が対立するのは、ベートーヴェンの死後30年後のことです。しかし、どちらの派閥に属する音楽家も、ベートーヴェンを敬愛しました。
    自信が鎧を被ったような大言で他を辱め、壮語で有頂天に昇ったワーグナーも、この天才の前では、何も言わず静かに、こうべを垂れた。災いの元になる大きな口をふさいだ。眉間にシワを寄せ目をギョロつかせた天才の肖像画を、官能的なまなざしで飽くことなく見つめ、可憐なイゾルデに、燃える愛を告白するトリスタンのように、素直に胸をときめかした。
    ブラームスは20年の歳月をかけて交響曲第1番を完成させ、伝統的、古典的な交響曲の形式に則り、緻密な構成のなかに内省的な激しさを加えて、青春の息吹きと勝利への闘いを描いた。そのメッセージの普遍性は、絶対的ともいえるベートーヴェンというイグザンプルがあったからと考えます。

    ベートーヴェンも影響を受け、人間の可能性を信じ理想主義的側面を過分に持つ、カント哲学の美しさは、理性宗教として大乗的人間像と重なる部分があるように考えます。
    ベートーヴェンの胸の内には、一神教としてのキリスト教とは異なる内なる神と信仰が、育まれていたのではないか。天才の中心を貫いていた自由精神の対象は、宗教的寛容の光彩に彩られた偏見のない多様な神々だったのではないか。天才がインド思想にまで近づいたのは、十分に理由があったのではないかと考えるのです。
    仏は、わたし達に理性的な祈りを求めています。それは宗教批判の原理に顕著です。それはまた肯定的な生命の喚起を促すものであり、しかも最も深い寛容のニュアンスを含む道徳的行為でもありましょう。人としての振る舞いが信仰というのであれば、不朽の音楽の前で魂の歓喜を掴んだベートーヴェンの創造力は、悲劇が終わることを祈り、人間としてできる最大限の情熱を傾けて、神に代わって真理を提示する闘いを実行したと言えます。教会に行くことだけが信仰ではない。神におとなしく帰依するだけが信仰ではない。どこまでも内面の問題なのだと、宗教的霊感を与えてくれる<第9>は、熱く訴えているように、わたしには感じられるのです。
    神聖なる場所があるとしたら、それは誰の心のなかにも平等にあり、善を行なうことを自分に課したドイツ生まれの自由人が証明したように、自分に打ち勝つ力が存在する場所のように思われます。温かく優しく抱擁する愛情が溢れた場所。衰えも病も迷いも死に絶えた場所。夢が叶えられる素敵な場所。内なる平和と外なる平和が実現できる場所。詩心が響き合う場所。
    『すべての作品は共に深い詩情にひたされ、その一つ一つが、あるいは叙事的、あるいは叙情的、あるいは劇的な一個の詩、精密かつ緊密に作られている点では、言語によって書かれたもっとも美しい詩に匹敵し、しかもそれ以上に深く意識下の世界にまで入り込む一個の詩になっている』:ロマン・ロラン

    何かを実現するためのモティーフは無数にあるけれど、でもしかし、足踏みしているだけの弱き心の情けないわたし。学ぶことも行ないも、指揮台に立ってオーケストラを奏でるようにはいかないもどかしさと憂鬱感。失礼しました、わたしの愚痴ですね。

    音楽に対し、さまざまなアプローチの仕方はあるでしょう。どれが正しくどれが間違っているなどとは言えません。固有の表現は、表現者の個性であり形式といってもよいでしょう。
    ロマンティックな人生は、感情が豊かであり、深い内面で苦しみに耐えながら熟成されるもの。ベートーヴェンが到達した高みは、彼の精神が堅固でありながら柔軟であることを示しているように感じられます。
    崇高さと祈りは表裏一体のもの。その崇高なものが存在しなくなった現代に、ベートーヴェンがたどった魅力的な遍歴のなかに、人間であることの奇跡と喜びをアダージョのうねりのように感じていきたい。

    おお! 人生は実に美しい!
    だがぼくの人生には、どんな場合でも、苦い毒がまぜられている


    年末になれば、ベートーヴェンの「第9交響曲」の演奏会が頻繁に開催されます。日本だけの習慣のようです。年末よりも新年のほうがふさわしいように思えるのですが、海外においては、演奏時間が長いため(約70分)に、部分的に演奏される機会もあるようです。海外での生活経験のないわたしにはよく分かりません。


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    おお友よ、このような音ではない!
    我々はもっと心地よい
    もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか
    Beethoven

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    小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラ小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラの<第9>を女子部のとき買いました。02年9月5・7・9日、長野県松本文化会館でのライヴ録音です。<第9>としては3枚目のアルバムです。
    サイトウ・キネン・オーケストラは、海外でも良く知られています。国際的な評価の高まりは、小澤の世界制覇の歩みと共にしています。02年ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを指揮し、さらにボストンを離れてウィーン国立歌劇場音楽監督に就任。衰えない情熱に支えられて、名実ともに名指揮者の風格と円熟の足跡を重ねてきました。小澤とサイトウ・キネンの約10年にわたるベートーヴェン・シリーズの完成と結論が、この<第9>なのです。
    個人的な感想を言わせてもらえば、弦の美しさとスピード感はとても魅力的であり、余裕さえ感じる密度の濃さと精神的な力強さは、一つのスタンダードとしての気品があります。決して重厚にならず、軽快なアンサンブルの方向性は、クラシックに触れるチャンスをより楽しいものにしてくれるでしょう。東京オペラシンガーズのコーラスは極めてすがすがしく響き、この演奏を成功に導いた大きな要因になったと考えます。

    Leonard Bernsteinカラヤンと人気を二分したスター・コンダクター、レナード・バーンスタイン。わたしが最初に買い求めたこのCDは、79年のウィーンでのライヴ録音。61才という円熟期の名演と言われていますが、王道を行く安定感、エネルギッシュな情感、いかにもアメリカ的な明快さとスぺクタクルというところでしょうか。バーンスタインの知性と激しさが両立、第4楽章は、至高の美しさで、ダイナミックな高揚感に心を奪われます。張りつめた緊張感が素晴らしい。<よろこびに勇み、勝利の大道を歩む英雄のように>怒涛のフィナーレは圧倒的です。

    ロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ08年に、イギリスの音楽誌「グラモフォン」にオーケストラ・ランキングが掲載されましたが、見事1位にランクされたのは、アムステルダムに本拠を置く「ロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ」です。クラシック関連の雑誌のオーケストラ・ランキングでは、常に上位にランクインしています。
    コンセルトヘボウと言えばハイティンク。61年から88年まで首席指揮者を務め、コンセルトヘボウへの貢献ははかり知れません。映画「Copying Beethoven(敬愛なるベートーヴェン)」で<第9>演奏シーンを聴いたとき、即座に分かりました。映画製作者もこの素晴らしい<第9>を愛しているのだと。そして同じ眼差しでベートーヴェンを見つめ、聴いていると共感したのです。
    わたしはビデオで見たこの映画が大変お気に入りになって、アンナというハンネは、この映画のヒロイン・写譜師アンナ・ホルツから、ちゃっかりいただいたものです。
    葛藤と苦しみのなかで内省を繰り返すことから、偉大なものが生まれる。<第9>のテーマは重く、しかし、とても重要なメッセージが込められているものと考えます。また第4楽章のように祝典的な派手さもあるのですが、わたしはこのハイティンクとコンセルトヘボウのコンビが一番しっくりと心に響きます。なんとも言えない高揚感に満たされます。中庸をいく知性と感性は、そう簡単にお目にかかれるものではありません。流麗な音の重なりと清澄な響きは、ハイティンクの緻密な構成力と解釈の妥当性によるものでしょう。日本での評価は低過ぎるように感じますが、普遍的な美しさとはこのような演奏をいうのだと確信します。

    「哲学するということは、どういうことなのだろうか?」
    学生時代、創価教育学を学ぶにあたり、最初に疑問に思った基本的な命題は、実は最も根本的な問題であることに、その後気づきました。
    わたしが哲学することの面白さと充実感を感じたのは、創価教育学へ足を踏み入れたことから始まります。教員免許は取りましたが、教職への道は進まなかったわたしは、大学で学んだ諸々のことを、毎日の忙しさのなかで、しばらくの間すっかり忘れていました。父から、創価教育学についてたずねられ、十分に答えることができなかった錆び付いた自分の脳ミソに気づくと同時に、学ぶことをおろそかにしていた迂闊さにショックを受けました。

    創大生であれば誰でも知っている、創価教育学の3つのテーゼは次のようなものです。
    『経験より出発せよ。価値を目標とせよ。経済を原理とせよ』
    「創価教育学体系」での3つの基本テーゼの詳細は省略させていただきますが、この教育学に対する普遍的とも言える問題提起とアサーションは、複雑難解な解答への旅路も、ありがたいことに準備しておりました。

    観念的、理性中心のカント哲学と、経験的、功利主義的な牧口創価思想とは相容れないものです。とはいっても、カント派哲学から多大な影響を受けたのは事実。再解釈し変質させ、教育現場から学んだ実際的な経験から深く洞察した見識を加味し、教育指導体系を構築しました。創価教育学に通底する幸福主義は、アリストテレスの幸福論との共通性も指摘されていますが、リアルに人生と教育と卓越した人間の行動を追い求めた牧口先生の最良に有用なパラダイムは、強固でありながら、本質的な人生哲学ということもできるでしょう。
    カント先生は、「純粋理性批判」のなかで、哲学は歴史的な認識の学びでない場合には、学習することができないと言い、理性に関して言えば、哲学的に思索することを学べるだけであるとご教示されております。また、書物に書かれてあることは、伝統に依拠した確固とした土台に乗り、信仰もまた教義と解釈の歴史を積み重ねており、このような長い歴史と伝統、そこから導きだされた真理は疑いがないように思えて、不動の重しのように動かない。しかし、ただありがたく尊重することだけで終わったら、考えるという人間の仕事は失われてしまうと言いました。感化されやすいわたしには、なるほどと思えてきます。同時に、現代に最も必要な見識なのではと思えてきます。

    自律した思考の原則として重要な3つのポイントを提示しております。
    1.自分自身で考える(先入観を持たない)
    2.他者の思考を柔軟に受けとめる(自分を他者の立場に置いてみる)
    3.思考の一貫性と整合性を点検する(自分の思考が他者を無視していないか、また他者の思考を吟味もせずにそのまま受容していないか、を点検する)
    カント先生はまた、何より重要なことは、公衆を啓蒙すること、自らの力で考えさせることだとおっしゃいました。古い体制を革命によって転覆できても、人びとの思考方法が古いままであれば、革命で新しくできた体制も同じものになってしまうということです。「自分で考える」ことを強制するのは自己矛盾です。大衆に自由を与えること、受動的ではなく能動的に、他律ではなく自律に思考することを学ばせることだと、偉大なるカント先生は呼びかけたのです。仏法で説く民衆覚醒運動、また依存ではなく開目抄で説かれたたくましく切り開いていく自存の精神ということですね。信仰への深い自覚と、自我への信頼こそ、幸福への原点です。

    『もの思う人間は苦悩を感じる。これはものを思わぬ人は知らない悩みであり、あるいはこの苦悩から道徳的な堕落が発生するかもしれない。この苦悩は、世界のすべてを支配している神の摂理に満足できないために生まれるからだ。それに諸悪が襲いかかり、人類を悩ませていて、いかなる改善も期待できない(ようにみえる)からだ。しかしわれわれがこの摂理に満足することは、きわめて大切なのである。この摂理がたとえ人間のために地上で辛苦の多い道程を定めていたとしてもである。それはこうした艱難のうちでもつねに勇気を失わないでいるためであり、またこれらの悪を運命の責任に転嫁しないためでもある。これらのすべての悪の責任は人間だけにあり、人間がその唯一の原因なのである。われわれはみずからを改善すべく努め、諸悪に対抗するための工夫を怠ってはならないのである』
    「人類の歴史の憶測的な起源」1786年・カント(Immanuel Kant)

    ベートーヴェンは、カント哲学研究会に参加し、自分で考えて行動することの普遍的な意味について重要な示唆を得ました。そして途中の過程を大幅に省略して言えば、善を実現し、人びとを幸福にするために、人類的愛の価値の尊さを理解しました。自己の苦しみから出発し、万人の幸福を願うヒューマニズムに至ったものと思います。ヒューマニズムとは救済の道ということです。
    ベートーヴェンの苦悩とは、最初、避けることができない身体的苦痛から始まりました。よく知られていることですが、28才という青年期から、難聴に苦しめられたのです。しかし、この頃から、それと引き換えるように、失望と正反対の爆発的な創造の嵐が、彼の内部で吹き荒れます。古典的形式を土台としながらも、革新的な手法で次々と傑作を生み出していきます。古い伝統を門の表札のように掲げた者たちは、ベートーヴェンの音楽を忌み嫌います。まるで祭壇を汚す異端者であるかのように、冷たく突き放し、無視し、紙屑のように楽譜を床に叩きつけたのです。新しい扉を開く芸術と理の調和は、野蛮な無知と無理解によって、いつも阻害されます。
    音楽に心身を捧げようとする者が…音楽で世界に貢献し善良なる心の表現手段として、その権利の行使を喜び勇んでいる者が…音楽が神から与えられた神聖なる天職として、自らの生きる力としている者が…聴覚を失うという悲運は、一体どういうものなのだろうか?
    視覚を失った者が、絵筆を取るようなものなのでしょうか。手足の筋肉を失った老人が、若者のように俊敏にダンスをするようなことなのでしょうか。声を失った者が、どうしてコミュニケーションをとればよいというのだろうか。声の響きに優しさと愛を込めて伝えようとしても、波動は体外から出ず、脳のなかで反響するだけという悲しみを、どのようにして伝えればよいのだろうか。甘い果実は、舌と味覚がある者だけが味わうことができる。音楽という果実に含まれる神秘的な豊かさも幸福感も、聴覚という舌があればこそというものです。
    ベートーヴェンは、音楽家にとって致命的ともいえる運命に直面し、絶望のなかで死を望みました。彼は遺書をしたため、ハイリゲンシュタットに住む弟たちに送りました。32才のときです。
    『私のそばにだれかがいて、彼には遠くの笛の音が聞こえるのに、私には何も聞こえず、彼には羊飼いの歌声が聞こえるのに、私には相変わらず何も聞こえない時には、私はなんという屈辱を感じたことだろう! こうしたことをたびたび経験したので、私はほとんど絶望した。もう少しで、自分で自分の生命を絶つところだった・・・私を引き止めたのは、芸術である。ただこれだけである。ああ! 自分に課せられたような気のする仕事を完成しないでこの世を去ることは、私には不可能に思えた。そこで私は、この惨めな・・・ほんとうに惨めな・・・生を引きのばし、ちょっとした変化で私を最善の状態から最悪の状態におとし入れるような敏感な肉体を引きずってきたのだ!・・・忍耐だ! と人は言う。私が今案内者として選ばねばならぬのはそれである。で私は忍耐した・・・堪えたいと思う決心が長く持続してくれればいいが。冷酷な運命の女神たちが、私の生命の糸を断ち切りたくなるその日まで。私の状態がよくなるにせよ、あるいは悪くなるにせよ、私に覚悟はできている・・・二十八歳にして早くも諦めきった人間にならねばならぬというのは、容易なことではない。それは芸術家にとっては、他の人々にとってよりもずっと辛いことだ』

    アンナ・ホルツのような聡明で忍耐強い女性がいたら、どんなにか幸せな瞬間があったことだろう。わたしたちは、アンナのような優秀な写譜師にはなれません。わたしの場合、そもそも、音楽自体を理解しているとは言えないからです。ただ聴いて、感覚的にその美しさを把握し、拙い言葉で感想を述べるだけ。素直に聴くこと、素直に見ること、素直に手を差し出し、あなたの手を握るだけ、あなたの心に触れるだけ。

    ヨーロッパ大陸を縦断するアルペン山脈の、ひときわ高い峰であるベートーヴェンの思想性は、音楽全体を覆う雲のようであり、音楽世界を照らす太陽のようであり、恒久的な過去の光であり、輝く未来でもあります。
    山の頂は天に近く、覚悟のない人びとを近づけようとはしません。
    また、ベートヴェンは、道徳的大地に立つ、大樹のような、屹立した人格の象徴です。
    大樹の限りない豊かな茂りは、心の歓喜を表し、一本一本の枝先には、未来の平和と繁栄、それぞれが信ずるものへの寛容が芽を吹こうとしています。

    もしもわたしに貢献できることがあるとすれば、ベートーヴェンの思想、音楽、人生を懸けて訴えようとした愛の卓越性と、弛まない善意を信じた自由の在りようを、文字にして伝える写譜師になることだと思うのです。
    創価のアンナは、創価思想のビジョンと平和へのスタンスを、師の言葉を借りて、また学習し咀嚼し、新しい生命の音楽として、語り尽くすことだと考えております。理想とする仏の存在は、自由精神を実現した最も高貴な当体と考えるからです。


    ピアノソナタ第8番ハ短調作品13<悲愴>
    Klaviersonate Nr. 8 c-Moll "Grande Sonate pathétique"
    ウラディミール・ホロヴィッツ苦難に追いつめられ、乗り越えようとした自己の内面の表現は、ロマン的な斬新な技法を可能にしました。新しい言葉で新しい表現を試みるという画期的作品。ピアノソナタの傑作。男性的な意志の強さ、情熱的な説得力のなかに、美しく気高い女性的な美音の追求があります。前へ進むことに恐れを抱き、孤独に耐える切ない命の喘ぎが聞こえる。重荷に服従しない精神の戦い。炎のような啓示をうけるピアノの霊感。このなかには、その後の多くの楽曲の着想が見受けられます。溢れ出る奔流は、誰人も止めることができない。悲嘆のなかに優美さと才気がほとばしる。

    清き悲しみよ! うるわしき大胆さよ! (1798年、28才のときの作品)

    名ピアニスト・ウラディミール・ホロヴィッツは、研究熱心なことでも知られました。彼のレパートリーのなかでのベートヴェン解釈は、ロマン的色彩が濃いように思えます。スケールの大きさ、際立ったテクニックの粒立った音の濁りのなさは、流れるように優美で心地よく、個性的でありながら魅力的な美しさです。わたしの好きなピアニストの一人です。


    われらの衷(うち)なる道徳律と
    われらの上なる、星辰の輝く空! カント !!

    Beethoven♥



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    活の法門と変革のダイアローグ

    聖教には、「大」を付けて強調する文字が頻繁に出てきます。
    「大勝利」「大前進」『大法戦」「大折伏」「大慈悲」「大運動」「大躍進」「大仏法」 wallhaven-581095oo
    このような文字は、もちろん教義を表したものではなく、運動体としての学会の正統性、勇猛さ、団結などを強調しているのですが、このような言葉を何度も繰り返されると、強調が強調とならなくなり、新鮮味も刺激もなくなります。聖教という格好の情報伝達、あるいは研鑚発表の場と手段を持っていながら、ボキャブラリーの貧困さは、編集者があまり頭がよくないからでしょうか。
    キリスト教研究には万巻の書が用意されており、その巨大な信仰の情熱に圧倒されます。結局は、キリスト教的愛の偉大さを説く精緻な「信仰論」に対抗して、創価の「信仰論」を書き上げる人間は、海外SGI、いつも大人びていて慎重なイギリス人や、自分たちが一番優秀とひそかに自負している議論好きなフランス人、なんでも体系的にまとめることが人生と考えているドイツ人の仏教哲学者になるかもしれませんね。
    仏法用語に「大」を使用するのは慎重でなければならないと思うのです。例えば慈悲に「大」や「小」があるのだろうか、という疑問が起きてきます。慈悲の概念で十分言い尽くされていると考えるのですが、「大慈悲」と「慈悲」の違いは何なのだろうか。「上行菩薩」と言えば過不足なく明確に伝わるのに「上行大菩薩」と言うようなものです。仏の慈悲と人間の慈悲には違いがあるというのだろうか。微妙な神格化が、こういう用語の使い方にも表れています。
    創価には創価風、創価的文字の使い方があり、ひとえに先生の文章やスピーチの影響ですね。弟子が師に似るのは仕方がありませんが、高度な法は、必ずしも、高度な人間を作るわけではないのです。本物らしく見えても偽物というのが世間には多くありますもん。コピーのような主張、コピーのような行動、偽物のコピー人間にだけはなりたくないですね。

    わたしたちが住む娑婆は、物事が相対し、並列し、差別を受ける世界です。悪は罰せられ憎まれ、善は称賛されます。人間倫理は慈悲に依っているとはいえ、善悪は厳しく峻別されてこそ社会秩序が保たれます。仏教は慈悲を根本にした思想体系。慈悲が行為として現れたとき、自己を制御する法が深い喜びとなって実感できるでしょう。
    善悪一体と説くのは法華経のみです。仏は悪を罰しない。慈悲をもってあわれむ。善と悪が、矛盾なく混じりあう心の泉。過去の峰から、伏流水のように湧き続ける自律の法が、善悪を越えた行為的努力を促し、自他を蘇生させる。すべてを受け入れる法華経は、母性の法です。
    『自己を制し、他人を益し、慈しみにみちた心が法であり、それはこの世及び死後における果報の種子である』(中論:龍樹)

    「以信代慧」は、釈尊とその後の聖者の実践的慈悲から導きだされた美しい言葉です。わたしの下手な毛筆で書いた紙を仏壇の脇に張ってあります。名画を見るようなまなざしで、いつもまぶしく眺めている者は、竜女の意志を受け継ぐ無数のなかの一人・悩める子どもに変容したわたし。残念ですが、母のように、須臾として、他国を教化する神通力はございません。


    ♡池田先生ほど、肯定と否定の、称賛と批判の両極端の評価にさらされてきた指導者はいない。わたしはいつも、なぜなのだろうと考えます。
    学会ならびに池田先生に対する批判は、大きく二つに分けられます。
    1.先生のリーダーシップや政治参加のあり方に対する批判。また折伏の排他性の指摘、師弟不二に対する間違った解釈など、学会の思想性を検討せず、教団の社会的あり方を問うもの。
    2.宗門からの批判。貫主絶対の思想にともなう「唯授一人の血脈」観を問うもの。平成3年の宗門からの『破門通告書』には、「本宗の命脈である唯授一人の血脈の尊厳を、甚しく冒涜している」とあります。法主から法主へ、大御本尊の法体や本仏の法魂が継承されてきたとする、血脈の権威を高調して貫主の絶対化という信者を見下す立場からの批判。
    この血脈に対する正統化をベースにして、学会に対するすべての批判が、派生的に存在するといっても過言ではありません。日蓮大聖人から日興上人に伝えられた仏法正義とは、一体何だったのでしょう。批判することで正義が保たれていると考えるなら、なんて貧相な哲学でしょうか。良医の慈悲を忘れている。失本心故とはこのことです。
    日蓮大聖人や日興上人の行動を模範とするのであれば、僧は広布のリーダーになるべきです。命懸けで御遺命を果たすべきです。そのような覚悟に立った人を僧というのではないでしょうか。姿形は僧であっても妻帯し、未練がましく世間の楽しみに執着し、品格も劣り、欲望の虜になって正しい信仰指導もできない。どの宗教においても致命的な汚点を残す階級主義、選民意識が作った特権階級の高慢な姿は、聖なるもの・人間の尊形としての理想には遥かに及ばない。清廉と質素が僧のベストメントのはずなのに、いかがわしく嫌らしい悪徳の姿に包まれている。「世界に悲惨がなくなりますように」と真珠のように無垢に輝く、創価の母の祈りにもかないません。

    しかし、信仰への無疑の確信に立つことができないで、文句ばかり多いわたしには、これらの批判に的確に答えることができません。というより、読書欲と信仰者としての使命感に立った限りない求道心は持っていても、今まで体験し、学んできた知識の系統だった整理ができない自分がいたりします。そういうところがわたしの限界かなと、チョット悔しい思いもあります。手当たり次第に読みたい本を読むというのが、わたしの読書の方針なのですが、ジャンルを問わないで音楽を聴くというのにどこか似ています。さめやすくて熱くなりやすい性格は、火の信心になりやすいように思いますが、悪く言えば短気、良く言えば何にでも興味を持って感受性を磨き、生活のバラエティー化に務めるという心掛け。やっぱり人生は楽しく、美しくありたいと思います。美活アップ、恋力もアップ。祈りも熱くなろう!

    「中論」(中村元:訳)読みました。龍樹の弁証法的思惟には難解でついていけません。ただ極めて優れた弁論術と思考回路を持つ天才であることだけは理解できました。
    「中論」は論争の書です。「自ら主張は存在せず、したがって理論的欠陥がない」<中村元>との言葉がありますが、世俗の損得が行動基準の態勢を占め、その上ツギハギだらけの知識では到底理解が難しいように思えてきます。さらに「中論」では、主張命題も理由命題も実例命題も用いてはならない、と主張しています。弁証法的論理の進行でありながら、一方で弁証法の否定は「中論」の性格を表すものといってもよいでしょう。
    日寛上人が言われた、すべてを活かす「活の法門」は、中道思想に依っています。先生が説く「人間主義」も、牧口先生が言われた「人道的競争」も、中道思想が根本にあると思います。同時に、変転する現実を動的にとらえようとする思考方法は、弁証法そのものと考えます。さらに先生の対話と行動のなかに、新しい弁証法の確立を見るのは、わたしだけでしょうか?
    たとえ仏教者としての立場から程遠い他者の主義主張にしても、深く尊重し、最大に生かそうと努める。多様な人々が喜んで参加できる場を作り続けてきたのが先生です。そこに見られる仏教のエッセンスを体現した言動は、イデオロギーや宗教で、和解を望みながら分断されてきた人間同士をつなぐ智慧そのものなのではないかと思います。さらに、リベラルな宗教者間で粘り強く対話が進められている、排他主義、包括主義、ジョン・ヒック等が提唱する多元主義についての考察も必要です。西洋的思想の流れのなかで、西洋哲学の言葉と文献を引用し仏教の根源的真理を証明するのは、困難なことに相違ありません。
    「人生地理学」で示されたヴィジョン・軍事的競争→政治的競争→経済的競争→人道的競争の完結を強く望み、先生の弟子として、日蓮仏法に帰依する有難さを実感し、行動に移していかなければなりません。
    ICANのノーベル賞授賞にあたり、国内政治的には、核兵器禁止条約を承認しない政党を、強く支援していることに深い矛盾を覚えます。政治的には反対、宗教的には中道、人道的には賛成などと、一人の人間の行動を細かく分けられるものでしょうか。分けられたら多重人格です。聖教で広く喧伝しても、一貫した主張とは言い難い。平和団体としての世界的認知を渇求し、会員から集めた豊富な資金を惜しみなく投入している。名誉を求める姿は一貫しているようですが、年老いた宗教家の見果てぬ夢に終わりそうです。

    ハーバード大学神学部・ハービー・コックス博士のインタビューのなかで、
    『創価学会が宗教権威から破門を受けた後も、衰退するどころか、仏教ヒューマニズムともいうべき豊かな精神性を堅持しながら成長し、繁栄を続けていることに、私は深く注目しております』
    『今、人々は教条的な教義から脱却し、宗教の、より普遍的な価値を求めております。これが「精神の時代」を特徴づける最大の気風といってよいでしょう。
    さらに、こうした気風の中で、次のような特筆すべき傾向も生まれています。
    ①聖職者が信徒の上に立つ、階級主義的なものでなく、平等主義に立脚した宗教への期待
    ②他の宗教との開かれた対話の模索
    ③女性の宗教指導者の台頭、などです。
    では、こうした時代への変革をうながした要因は何か―これは大変に興味深い質問といえます』


    SGIも将来、女性会長が出てもおかしくありません。学会内では婦人部&女子部の筋力が勝っているのですから、むしろそうあるべきと思う。学会にも、女性は控え目にといった古くからの道徳倫理があるのは事実。女は女らしく、男は男らしく、感性に訴えるような言葉で何となく納得している部分があります。ヒエラルキー秩序は男性的です。男性原理で創価も動いています。 そして行き詰まっています。
    『こうした時代への変革をうながした要因は何か』
    1.妙法の普遍性
    2.リーダーの菩薩性と献身
    3.対話運動の永続性と喜び
    4.社会変革と幸福の実感
    概略をまとめれば、上記のようになりますが、こんなレポートは会員であれば誰でも即答できるでしょう。そのように先生から学んだのですから。でも感動はありません。当たり前のことを言っているだけです。

    先日、会館である婦人部幹部とすれちがいました。わたしを非難し、会合への参加をひかえるよう高慢な指導をした方です。自分が何を言ったのか、分かっているのでしょうか。目線が合って火花が散りました。先生が何度も戒められて、教条的なドグマの犠牲者になってはいけないとご指導されているのに、自由に自分の意見を言うことと、信仰に対する姿勢の是非を問うことの違いを認識できていない。自由に意見を言うことが、都合が悪いことなのでしょうか?
    わたしは悪口を言っているのではありません。時代が変わりつつあるのに、それを認識できない愚かさを指摘しているだけです。学会は、教育的な信仰模範を示し、そして導き、どこまでも寛容に、人間成長の使命を負った仏法民主主義組織ではないでしょうか。信仰を基調にした個性の発露と多様性こそ、仏教ヒューマニズムの新思考です。
    わたしだって、泣かない自分にバージョンアップしたのですから、自分のなかの弱い自分に、お別れのキスをおくるわ。今まで大変お世話になりましたね、自分くん!


    Beautiful Battle - Dwayne Ford





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    不変のものと変容するもの

    Coldplay<Christmas Lights>
    クリス(ヴォーカル)のクリスマス。
    クリスのためのクリスマス。
    すべてのクリスという迷える者への光。




    ルーツをたどれば、ロックンロールはアメリカを中心とした音楽文化。世界中の音楽が相対化されていくワールド・ミュージックの時代に、ロックンロールはポップ・ミュージックの一形態に過ぎないのかもしれませんが、閉じた世界ではなく、異種交配を重ね、ミックスを経ながら進化してきました。価値観を書き換える音楽こそ、ロックンロールを形容するにふさわしい捉え方でしょう。リズムは深く民族の伝統音楽に根付いている。多様性としての折衷は、ルーツを遡りながら、複雑な混血主義を反映し、多様な感情表現として拡大と変容を続けていくと考えるのです。ロックの躍動は、文化衝突のエネルギーを増大しつつ、ワールド・ミュージックの融合に向かって、そのスピードを加速し、未来になだれ込んでいくに違いありません。
    新しいサウンド、バンドの形態、テクノロジー、ヴィジョン、すべてが深化のなかで、アートの主権を獲得していくことを念願します。ロックを補完していくものは、ロックよりありません。わたしを補完するものはわたしよりなく、あなたを補完し、元気づけるものは、あなたの強い心よりありません。


    近ごろの寒暖の差の激しさのせいなのか、体調がおもわしくなく、咳が出たり熱っぽかったりするので、きょうはゆっくり身体を休めようと思っていたのに、こんな記事を書いたりして。日ごろの急進的な行いを反省しつつ、うつらうつらに考えごとなどをしております。
    ごめんね、いつも優しくしてくれているのに。
    熟慮と行動、ときにはハッタリとカモフラージュ、戦闘心、誠実さ、信念など、普通一般に言われているリーダーとしての素質を磨くために、後には引かないなどと勇ましいことを、口にはしませんが、健気に常日頃の心得としておりますが、体調が悪かったりすると意気込みも萎えてしまうのは、仕方ないことなのでしょうか?
    何事も継続することに意義があり、それは簡単なようで難しいことですが、わたしにとって、持続する執念が少ないような気がします。それでも、自分のことをある程度分かっていれば、自己弁護ではなく、潔く反省し、人間的成長と強い意志を磨くために、懼れずチャレンジしていきたいと、気持ちもあらたに考えます。
    関係ありませんが、日曜日にチョット片付けものなどをして、重いものを持ったせいか、少し筋肉がついたような気がするのですが、たくましい女子も素敵ですよね。

    Viva La Vidaフランスの象徴、ドラクロワの「民衆を導く自由」に激しい筆致で、≪Viva La Vida≫と、ペインティングされたアートワークを、しばらく眺めていました。「自由」「戦い」「革命」、そんな言葉が思いうかんで、聴く前から、興奮したのを覚えています。耳が痛くなるような喧騒な音が充満する現在のロック・シーンにあって、コールドプレイは時代性を超越し、トレンドやカテゴリーの外に、自分たちの世界を築き上げてきました。夜空にひときわ輝く星のように、そのサイレントな宇宙は、普遍的な色彩を帯びて、いつの時代にも受け入れられるエッセンスを持っていると思います。エモーショナルなサウンド構成は、わたしたちのハートにひたひたと、音楽的体験のカタルシスを味わせてくれるのです。日常のストレスや苛立ちから解放してくれるのです。
    コールドプレイの世界的なブレイクは、人間の心理のエニグマ的要素に、優しく語りかける癒しの効果があったのかもしれませんね。
    思慮深い?わたしは、この歴史的名盤をあらためて考えました。
    ドラクロワのマリアンヌは、何を象徴しているのでしょう?
    フランス革命を描いた最も有名な絵画に、何か意味があるのだろうか?
    そして、ガヴローシュの運命は、のちのち有名な作家によって、フランス一の著名な少年になるのですが、革命の戦場にシルクハットの紳士とは、やはりフランスの国民性と言うべきなのでしょうか。それにただ単純に、ふくよかな胸も露わな女神に、男たちが惹きつけられたのかもしれないなどと、考えたら妄想が広がり、際限なく横道に逸れていくので止めにします。
    ライナー・ノーツが指摘しているように、タイトルがすべてを言い表しているでしょう。

    <Viva La Vida or Death And All His Friends すばらしき人生と死>
    いきなりロックンロールの本質を突いてきたわね、とわたしは身構えたのでした。革命は詩心だ。いや、詩心が革命の原動力と言うべきか。
    冒頭から一聴しただけでコールドプレイと分かる。
    エスニックな雰囲気は、インターナショナルな世界観の提示と解釈しました。これ以上の成功は望めないというほどの勝ちを収めたバンドが、更なる冒険に旅立つために、世界をもう一度見直してみるという行為は自然なものです。特徴的なのは原初的なリズムへの接近でしょう。ロックにとって最も大切なものはリズムです。リズムが土台のように楽曲を支えているといってもよいでしょう。
    音波のうなり、ストリングス、複雑なリズムが一体となって押し寄せてくる。さらに転調の鮮やかさ、自由な曲想、想像力を刺激するメタファーな詞、精神的なガッツさをみせて持続する緊張感、変わらないブリリアントな展開と構成。コールドプレイはリスナーにロックの素晴らしさを、まだ無限に広がる可能性を見せてくれたのでした。

    テーマは “Life”と“Death”。
    西洋と東洋、またアフリカの死生観は根本的に異なっています。単純に、ワールド・ミュージック的なアプローチで表現するには重過ぎるテーマです。わたしは彼らの興奮と意気込みには、惜しみない拍手を送りたいと思います。しかしテーマを十分に消化しているとは思えないのです。テーマの設定と迫り方にやや不足を感じました。
    前作に比べればよりシャープさを増し、コントラストが鮮明なクリア・サウンドに変身したとも言える。また世界観を広げ、さらに一歩踏み込んだワールド・ワイドな視点が新鮮。数々の傑作をものにしてきたアーティストであり、名プロデューサーであるブライアン・イーノの力なのかもしれません。

    このアルバムで大事なことは、誰も指摘はしておりませんが、“Life”と“Death”という両極に位置する言葉の選択です。これはロックンロールのあり方と深く関わっています。

    不変のものと変容するもの。
    巌のように不動のものと陽炎のように揺らぐもの
    生の活力と死の静粛さ。生死即涅槃。
    動と静。成長するものと退化するもの。

    いかようにも解釈の幅は広がり、またそれぞれの立場で、原理と応用を適用するように、おもしろいように命題が見つかるのです。
    ノーマルとアブノーマル。
    伝統性と現代性。
    古典とロマン。
    オリジナリティとインプロビゼーション。
    長調と短調。
    普遍性と大衆性。
    正義と悪。
    平和と戦争。
    美と醜。
    明と暗。
    上昇と下降。
    塊と広がり、などなど。
    実と虚。
    マクロとミクロ。物質と虚空。
    この二面性を振幅するダイナミズムが、ロックンロールの醍醐味とも言えます。

    世俗的でありながら聖なるもの。
    刹那的でありながら永遠なるもの。
    神聖なるものとわたし。

    そして、わたしのなかの純潔な愛と裏切り。
    理性と感情。
    善意と悪意。
    賢明さと愚かさ。
    優しさと冷たさ。
    喜びと苦しみ。
    献身と失意。
    祈りと憎しみ。
    強さと弱さ。
    柔のなかに剛がある。
    わたしの血脈にも真っ赤なロックンロールが流れている。
    「美しき生命」と名づけられたこのアルバムは、希望を持ちアクティブな姿勢で生きるためのメッセージを、美しき旋律に書き下ろしたものです。コールドプレイの歴史に、新たなチャプターが用意されたのです。
    <Life In Technicolor> そんな色彩豊かな人生。そして、どこまでも変わりなく普遍的な光を求めて歩みたい。

    この動揺する時代に
    自分までぐらつくのは
    ただわざわいを増すばかり。
    おのれの志を守ってゆずらぬ者だけが
    世の中をつくりあげて行くのだ。

    ☆ゲーテ『ヘルマンとドロテア』

    仏法では不変的な志を説く。世俗の皮相さの奥に本質があり、諸悪のなかに一善がある。
    多数のなかの一人として、わたしも、志、堅固でありたい。


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    荒野を目の前に

    ある人は、荒野を目の前にすると、とても自分では踏破できないと尻込みする。しかし、ある人は、未知への挑戦にファイトを燃やす。チャンスは誰人にも平等に与えられているものと考えますが、道端の石ころのように、いくつもころがっているわけではないと思います。

    人間には、無限の可能性があるということを信じていきたい。同じことをやるにしても、考え方一つで結果も変ってくる。始めは努力のわりには得るものが少ないかもしれませんが、継続してやりきっていけば、あとで十分過ぎるほどに望むものが与えられる。結局、助けてくれる人はなく、自分のことは自分で責任を取らなければならない。
    会社のなかの一社員であっても、会社発展がすなわち、自分のお給料や自分の人生に直接響いてくるわけですので、人任せにはできません。世間はそんなに甘くはないし、頑張ったけれどダメでしたと言っても、誰も同情してくれません。もっと頑張ればよかったのにと言われるだけです。信仰も同じではないでしょうか。どこまで頑張れるかは全く個人の意思に左右されるものだと思います。

    諦めはすべてを無に帰す悪です。ガッツな意気込みが苦難の門を開く。自分で考え行動して、最良の自分の方法を見つけだしていく。要するに、依存するなということ。主体的に行動する自分自身ほど頼もしいものはありません。自我の再生こそ信仰の醍醐味です。

    …と、立派なことを書きながら、わたしったら、泣きたい気分でいっぱいです。がけっぷちに立ってる気分。今まで何度も経験してきたのに、最近、失望し、どうしてなのだろうか、立ち直れない自分がいます。記事エントリーへの気持ちも高揚しません。
    組織に失望するのは、わたしの信心が弱いからなのでしょうか。理解してくれなければ理解してくれなくてもよいと割り切り、強い自分であろうと、いつも自分に言い聞かせてきたのに。戦闘的アドレナリンの分泌がありません。わたしは、守りが弱いんですね。


    これからは活動家の定義を変えていかなければなりません。
    活動家というのは組織の定義です。それは組織拡大とともに理想とされてきた人物像ですが、現在の活動家と言われる人たちがどれほど無自覚、不勉強な人々か、わたしははっきり申し上げます。そんな活動家にならない方が賢明です。上辺だけの評価など、評価する人間の軽率さを表しているだけです。

    12、3年前の「御書の世界」で、先生は、円満なる人間生命の力の開花という人間主義の立場から、「四箇の格言」を、四つの類型としてとらえ直し、新たな意義を見出しています。
    興味ある人は本を読んで確認するとして、この「御書の世界」発表当時、宗門から批判が続出しました。破門しておいて批判という、まるで子供の理屈ですが、そういうことが社会に通用すると考える幼稚さは、大聖人や教義に問題があるわけではありません。宗門の主が幼い所化時代から受けた教育のせいです。

    人間主義が多くの誤解を与えるのは、先生が仏教全般、法華経や妙法に新しい視点と解釈を与え、また現代語で、今まで経験したことがない新しい定義を語るからだと思います。
    法華経や御書が現代語訳にとどまらず、他言語に翻訳され、世界に受け入れられているのに、その思想について、現代的意義を付与することには抵抗するという矛盾。普遍性を有するということは、現代性を有するということです。現在に通用しないものが、どうして普遍性を有するといえましょう。法華経のなかで、提婆達多は未来記別を与えられましたが、その未来とはいつの時代でも現在のことです。竜女も鬼子母神も舎利佛も、現在生きる人々を代表しているのです。古くさい伝統は、法華経の物語性にとらわれて、そのような解釈を許さない。

    人生を生誕から死までのひとつのストーリーに見立てるとき、学ぶことに目覚め、学ぶことから転換をはかろうとする生き方は、大きな意味があると思います。自己欺瞞や現実逃避の誘惑が多いなかで、学ぶことは自らの生き方を知的転換するもの。「パンを願い求めるならば石を与えられることはない」(マタイ伝)とキリスト教でも説いています。
    しかし、本人からすれば建設的姿勢、前向きな試行錯誤であっても、回りから見れば、ネガティブな転向と誤解される場合が往々にあり、今まで温和な人間関係を築いてきたにもかかわらず、否定的に破壊的に意思疎通がはかれないという事態に陥ります。なぜでしょう? 以前の村社会の道徳が復活し支配するためです。異端というレッテルをはり、排除する村落共同体の仲間意識は、自由な行動基準より既存の様式・儀式を尊ぶものです。
    絶対平等性を重んじる仏教では、仏の前では誰人も一様に尊貴な存在でありながら、この崇高な理論を実行する段階で平等性を失います。いうなれば、仏の教説を実行する組織は、間違いなくタテ社会であるからです。仏の前では、役職や身分、財力など何の役にも立たないことを、わたしたちはよく知っているのではありませんか。
    拙い頭を絞って、組織改革を唱えても、タテ社会の上に位置する人間は決して受け入れようとしません。彼らの関心は組織を平穏に保つことであり、それが組織に所属する大部分の会員の意見だと信じているからです。
    村の掟は創価のなかでもしぶとく生きています。変化しながら保守であれ、改革しながら妙法の正義を守れと、先生はずっとご指導されてきたのではないでしょうか。批判しながらありのままに享受し、妙法が説く教義と倫理基準に照らし合わせる行為が必要なのではないでしょうか。盲目と無批判の帰属主義からの脱却こそ、真に人間解放につながるものだと思います。師や組織への帰属という他力信仰こそ戒めなければならない。根本尊敬の宝塔は、自分の命のなかにあるのですから。

    わたしが言うところの保守とは、政治的立場の保守ではなく、思想的保守のことです。人間が守り育むべき普遍的価値への回帰運動を保守と名づけるのです。その意味でピューリタニズムも、信仰における自由と秩序、神と人間の関係のなかで復活した保守的回帰と言えます。創価の人間主義も同様です。堅固な哲学体系を裏づけとして、人間主義は秩序ある自由を保証しているのであり、観念ではない経験から得られた自由を保証するということです。
    功徳体験に生命活動の自在さを、会員は喜びとともに知っています。宗教体験はベルグソンの生命の躍動という本質的なものと直結しています…(人生は価値的なものへの願望と挑戦であるというようなことは、年若いわたしが生意気に言うことではないかもしれません。多くの人々が人生改革に挑み、勝利しまた敗退してきたのですから。わたしの人生は退屈なほど保守です。表面的には悲しいぐらい変化が分かりません。でも十分満足しています)…つまり改革とは保守に回帰するための改革なのです。ファナティックな勢いを嫌う理性的な漸進主義は、急進主義よりも当然のことながら忍耐を必要とし、明確な歴史判断という知性が必要です。
    でも「反省のない伝統と習慣」に沿った浅はかな判断は、嫌われるべきです。物事は単純ではなく、複雑極まりないと認識することが仏法者の姿勢でしょう。

    村社会では、個人の意見や意向が埋没し、個人においても強く主張することを控えて、和を維持しようと努めます。創価村社会のシステムをつなぐものは、日本的な和の精神です。
    師は村の長で弟子は村民。師は父で弟子は子ども。タテ社会の家父長制度が反映しています。父は家を守るために粉骨砕身しているのに、子どもはいつまでも自立できずに甘えている。
    わたしを越えろと、先生はご指導されていましたね。大事なことは、都合よく忘れる自称弟子たち。越えられるはずがないと考えるのは、ご本尊さまの力を信じていないからでしょうか。先生は特別の才能を持ち、特別の修行をされた存在と考えているからでしょうか。

    また過去にキリスト教では、信仰の純潔さを守るために、修道院で共同労働が行われていたことを思い起こすべきです。創価の閉鎖性が批判されるのは、創価内部の空間が特別のものと、知らず知らずに会員が意識しているからだと思います。創価でも、世間から隔絶している共同労働が行われていると見ることも可能です。聖教の多部数購読、選挙支援などがその例です。宗教ルネサンスとは、社会に積極的に受け入れられる開放性、平易性の実現という一般人からの共感を得るものでなければなりません。会員が堅固に抱いている、先生に対する師弟不二という絶対思想は、最初に拒絶されるでしょう。
    したがって、師は神格化されることを望んではいません。弟子が師の言葉を神聖視することも避けなければならない。運動が成熟し、一方で改革を志向するエネルギーが先鋭化した折衷主義とも言える人間主義は、自らが自らの生命の尊貴さを証明しながら、他者のために良く考え行動する方法論を教えているものと思います。
    共同体が大切なのではなく、共同体からはみ出ても、自分の意見を貫くことが大切なのです。共同体が成仏の成就を保証してくれるわけではありません。どんな素晴らしい団体に所属していても、自分の心に財を積むものでなければ、どんな意味があるというのでしょうか。人間主義は自立主義なのです。そして今こそ、創価は大きく変わるときを迎えていると確信します。

    改革を信条として自分に正直であろうとする者は、抑圧されたと勘違いし、やがて反逆に至る。一般的見解に従えば、抑圧は、権力者の専権事項のあらわれですからね。しかし、上に立つ人間もまた責任上、個人的欲求を押し殺していることに思いを寄せると(改革案を検討したいけれど、組織のために聞いてはならないという押し殺した欲求)、「包括は脱個性化を導く」という社会学的命題も含まれていることに気づきます。宗教ブルジョワも構造的に疎外されているというマルクスの資本論のようです。組織の公式見解を没個性的になぞっている人間は、ステロタイプ的にしか集団イメージを想像できないでしょう。
    創価では、勧善懲悪の物語が多く語られます。虐げられている者が正義とする救済の論理は、すでにロシアで滅びました。しかし目的を共有し、ともに進もうとする宗教組織は、社会主義的運動形態なのでないでしょうか。また絶対精神を認めた最良の個人主義的アナキズム集団かもしれません。平等と自由、集団と個人という問題は永遠の課題です。

    今まで反逆の汚名を冠せられ批判される人間は数多くいましたが、そのほとんどは、個人的な利害のなかで純粋な信仰を失った者たちです。どんなに自己正当化をはかろうと、命に刻まれた宿業は取り消すことができない。このような愚者は、もっともらしい賢者の顔をした似非賢者ですが、特徴的なのは、創価学会は宗教ではないと考えていることです。宗教は必要と賢そうに主張しながら、一方で創価は必要ないとダブルスタンダードの態度で正義を主張する。「自分たちは受け入れることはないが、他の無知な人々は無批判に受け入れている」という主張は、「自分たちは受け入れるが、他の無知な人々は無批判に受け入れない」と言い換えることもできます。つまりウェーバーが言う「内なる美徳と外なる悪徳」です。また善があれば悪があり、善が強くなれば悪も強くなる。鏡に映したように内と外では美徳も悪徳も逆転します。内も外も差別なく認める寛容こそ、仏教が説く偉大な精神です。
    もともと一闡提の醜い根性の持主ですから、信じないことに価値を見いだすことと、世俗的な毀誉褒貶に敏感なんですね。そして外面を飾ることに執着して、およそ純情な仏教徒とは縁遠い、肉を求め彷徨う飢えたオオカミなのです。不満のエネルギーで身を焦がすオオカミなのです。自分が自分に飢えているのに、他者のせいにしている。自分の不幸を他者のせいにしている。己心の外に法があると考える無責任論者です。ニーチェが嫌った、欺瞞に満ちた弱者という善人と同類。ニーチェが狂気に陥るほど批判したのは、フランス革命から始まった民主主義という鎧に護られた愚かなる大衆です。時代を翻弄し無意味にする神のような大衆です。創価の会員の皆さまが、その大衆像とダブるのは、わたしもアンチ特有の僻見バイアスに引っ掛かっているせいでしょうか。

    「教養俗物」の「喧騒と毒ある蠅どものうなりがはじまる」と揶揄される者たち。寛容を求めるしぐさは小児が母に甘える様子に似ている。多様性を主張する姿は、凡庸な権利の奴隷でしかない。正義だって…そんなもの薄紙のようにはがれる道徳と同じ。やがて悪夢に悩まされ、一人孤独に不信の沼地にはまり沈んでいく。
    悲哀の亡霊にとりつかれた可哀相な自称自由人たちよ。不幸は自分が自分の崇高なるものを引きずり下ろす行為から、必然的に運ばれてくるのだ(…と、ニーチェリアン風に呪いをかけてみる。「自己愛を超え出た愛の過剰」かな?)((+_+))
    100年前も現在も変わらないのですね。精神レベルを変えたいと考えるなら、自己救済というダイナミックな苦難に立ち向かう決意が必要なのです。

    でも、わたしが問題にしたいのは、話題にすらされないごく少数の大まじめな人たちです。
    大まじめに改革を提言し努力を続けながら、失望し、それでも組織にとどまり、悩んでいる方です。今までそういう方も確かにいたのです。そして、今もいるのです。

    女子部のとき、わたしは、ラインから外されました。素直であることが女子部の代名詞なら、わたしは全く正反対の印象を与えていたからです。でも悲しくありません。このような記事を書きながら、気持ちを整理し、また反対の旗を振リ続けようと思うからです。
    改革の主体者は、少数精鋭であるだろう目覚めた人々です☆彡


    『みずから自分を励ませ、みずから自分を反省せよ。修行僧よ、自己を護り、正しい念(おも)いをたもてば、汝は安楽に住するであろう』
    『わざに巧みな人が花を摘むように、学びにつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう』
    :真理のことば


    Forever More - Two Steps From Hell





    *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚


    アンナの日記から(哲女のメモ)
    法華経は聖と俗に差別を見出さない。優劣を競わない。『真は即ち是れ俗なり。俗は即ち是れ真なり』:法華玄義。自由である個人。自由に裏づけられた世法即妙法。個人の私的な信仰が公共性を有し、個人の利益が公共の利益に連動する。信仰は社会的目的を同時に包含し、実現に向けて献身的行為をうながす。近代的理性の行きづまりは、活用の妙法によって革命的なパラダイム転換を迫られる。否定と肯定の両面から、あらゆる思想を再検討し、中道の立場から調和的に生かす。
    近代文明の行動原理である理性は、根源の生命の全体性を明らかにすることにチャレンジし敗れた。人間主義は近代も現代も包括する。智慧と慈悲の哲学こそ、人間の際限ない欲望を駆逐するものである。賢明な生活者は聖なる功利性を求める。諸法実相を現世利益と言い換えては間違いだろうか。
    J・ベンサム『もしも彼らが神が文字どおりの意味で慈悲心に富んでいるというのであれば、彼らは宗教の命令が功利性の命令以上でも以下でもないこと、両者のあいだには一点の相違もなく、一点の過不足もないことを認めることであろう』
    生活革命こそ、妙法の利益。
    自由自在の主体性に支えられた菩薩の化身は、人格に多様な側面をもたらす。菩薩はあらゆる姿で現世で使命を成就する。先生は、内発性、ソフトパワー、漸進主義を繰り返し訴えている。自己の価値観を早急に他者に押しつける危険を指摘し続けてきた。自由な内発性は、自己変革の原点。漸進主義は、哲学思想の市民性を得るための基準。
    排他主義、包括主義、多元主義、自在主義。スッタニパータのなかで『一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない』と語ったと伝えている。自由自在なブッダは、あらゆる学説や見解から自由。英知を結集して批判すべきものは、仏教の真理ではなく、そこから導かれたと錯覚し誤っている言動を対象にすべきなのです。理性的に懐疑を持つこと。矛盾がないか検討すること。創価思想の論理的整合性を批判する前に、その体系に十分精通する必要があると考えるのは当たり前の見解。
    政治と宗教・・・当分パスしようっと。


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    深いプロブレムとアンサーを求めて

    いくら正しいことでも、スローガンになると硬直化します。
    聖教には毎日、スローガンが溢れています。部や地区においても、一年のスタートやイベントの始めにスローガンを掲げます。スローガンを考えている間は、未来展望がいきいきとイメージされますが、わたしの体験から言うと、一旦決ってしまうとほとんど意識されることはなくなります。つまり忘れ去られるのです。
    あってもなくても、重大な影響を及ぼさないスローガンのような範囲内であれば問題ないのですが、わたしたちの行為を規制するような心的スローガンは深刻な影響を与えると思います。
    聖教でもよく見られる価値基準ですが、二者択一的思考です。簡単に言えば、善か悪か、創価の味方かどうか、活動家か否か、といった定型的な判断基準です。もちろん前者を肯定すれば後者を否定することになります。
    強信で活動家というのが、組織の理想ですが、信仰はないけれどなぜか活動家という人もいます。活動家ではないけれど強信の人もいます。言ってみれば、グレーな中間レベルにあって、強い行動動機を持たない層に、二者択一を迫る活動を、いつも行っているように感じられるのです。折伏も同じです。幸福か不幸かの選択を迫るわけです。創価に入会してから、二者択一の階段を昇るのが、学会が教える信仰ではないでしょうか。
    わたしのような緊急の悩みを持たない3世会員は、信仰継続の強い根拠を哲学に求めます。求道者なら当然のことです。大聖人が説くように、祈りは智慧を包括し、智慧の多くは、学びを通した言語の成熟と行動に現れます。文証と理証が学びなら、現証は行動とも言えます。行動は現証を補完し、現証は学びを促進します。

    信仰理由にもそれぞれ個別の違いがあり、一口に幸せを求めているといっても、個別の幸福観があると思います。成仏と説明されても実生活においては、その神聖さは実感できません。功徳があったかどうかというような主観的な判断、人格的な充実を確信できても、それは成仏とは言いません。信仰以外でもそういうことはあるからです。
    個々の幸福観に妙法的裏づけを与えるのが、池田先生が強調される個別指導です。本来、信仰とは個人的な行為である以上、個々の悩みや信仰の理解に応じて、種々に説くのがリーダーのあり方なのだと思います。しかしこれは大変難しいことに相違ありません。指導などと言わず、自らが自らの生き方に気づくことができるようなカウンセリングと言えばよいのではないかと考えています。結論を出すのは悩む本人であり、その結論を出すまでの過程を見守り共感を寄せるのが、本当の信仰指導の意義と思います。不足しているのは祈りではなく、仏法で言えば無明という無知の本体を認識することではないでしょうか。

    信仰カウンセリングは深い智慧がなければできません。どこを歩いているのか分からないわたしたち凡夫にとって、哲学は智慧そのものです。そして幸せへの道を照らす火です。火はよく智慧に譬えられますね。火は自分を照らすだけでなく、まわりも照らし鮮明にします。
    漢訳仏典では、サンスクリット語で「智慧」と訳される言葉に、否定の接頭辞をつけて「無明」と訳されます。智慧と無明は、まるで表と裏。輪のようにつながり無限ループしている。智慧は光、無明は闇。ライトサイドとダークサイドのスター・ウォーズの世界観に似ている。智慧と無明に神秘的意味を加えて、目に見える形に単純化したものが、ジェダイのフォース。ジョージ・ルーカスは、仏教的な知識があったのでしょう。
    総勘文抄に
    『総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し』とあります。
    信仰も哲学することも、自分を知ることに他なりません。智慧とは自分を知ること。

    これからは女性が主役です。先生がいつもご指導されています。主体と客体、上下関係、善と悪などを厳格に区別する男性的思考の限界を知り、先生は、包みこみ受け入れる女性の特質を十分に熟知されていると思います。

    深いプロブレムとアンサーを求め、切磋琢磨していけたら、うれしく思います。

    『運命が人を早くから最上席に予定しているかどうかは、まずわれわれ自身の意志と全くかかわりがない。また、幸いにも、これはさほど大切な問題ではない。そういう人は偉大な例外であり、人類の道徳的天才である。しかし、第二流の席には、われわれは誰もみな招待されており、また、ひとたびその道が示されたならば、われわれはおのずからその道を行くべく強く激励される。ひとがこの人生において出会う最大の悲惨事は、道が示されたにもかかわらず、いつまでも第三流の席にとどまって、彼らの存在が結局、自分にとっても他人にとっても真実の価値を持たずに終る場合である』(「幸福論」:ヒルティ)

    わたしは、クリスマスソングが好きですが、これって謗法ですか?

    Christmas Medley
    Two Steps From Hell





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