SGI提言…核問題について 1

    毎月11日になると、新聞に東日本大震災関連のニュースが載ります。まだ2500人を越える行方不明者がいることを気遣う人がどれだけいるのか分かりませんが、そのなかには、一言で語れない経緯を持つ多くの会員も含まれていることでしょう。聖教にも「みらいへの記」と題して掲載されますが、悲しいエピソードを記事にすることは、ほとんどありません。血の通わない冷たい宿命論で片づける信心指導に、どれだけの会員が失望したことでしょう。
    2月11日の読売には、長男を津波で失った御夫婦の姿が、記事とともに写真が何枚か掲載されておりました。地震から半年後、遺体が発見された女川湾の防波堤から、海に向かって花束を投げ入れる母の横顔には、懸命に涙をこらえる悲嘆と後悔の色をうかがうことができます。このような人々にどのような言葉をかけたらよいのでしょうか。安易に考えてさらに悲しみを深くする愚かしい行為を繰り返してはならない。心に開いた空洞は簡単には埋まらない。一生の間続いていく。どのように寄り添い、どんな言葉をかければよいのでしょうか。躊躇しながら励ましの、それでもつらい言葉をかけずにはいられない。深い悲哀と慟哭よりありません。失意は簡単に癒されるものではありません。
    悲しみの深さを理解することが同苦の姿勢ですが、厳しい命の試練であることに変わりはありません。同苦が菩薩の代名詞なら、わたしには限界を越えた精神的苦痛をともなう難事です。信仰はそのような困難を越えられるのでしょうか。越えられない困難はないなどと悟ったように仏法者は言いますが、越えられない困難があるからこそ、人間はいつまでも争い、冷血動物のように殺し合い、多くの涙を流しながら、それでもなお平和な世界も築くことができないのではないでしょうか。菩薩の慈悲の実現は、経典が説くように本当に可能なのでしょうか。
    このような解決不可能と思える悲しみや苦しみに応えることが宗教の役割と考えても、あまりにも果てしがなく、あまりにも止めどがなく、無力なエンドレスの世界に非力な自分を対比させて、ただ無為に悲観しているだけなのです。無力感に押しつぶされそうになります。

    1月26日に発表されたSGI提言は、全体的に人間の善性を信じた楽観に貫かれていると思います。楽観主義は創価のシンボル、紋章みたいなものですから、ワッペンでも作ったらどうでしょうか。楽観主義であろうが悲観主義であろうが、難問への挑戦は、一人一人の信仰者の英知にかかっていることは言うまでもありません。仏の智慧で合理的に社会を設計できると考えても、その成就は不可能に近いと言えば、きっと非難されること間違いありません。創価の発展が革命的進歩をもたらすと信じるのが、首までぬるま湯につかった活動家の常識です。
    提言の冒頭はICANの話題です。条約不支持の政党の創立者であり、しかも以前として政党の理念や政策決議に大きな影響を与えている存在でありながら、核禁止条約承認の決定的役割を放棄している。そのような矛盾に目をふさいでいるのは創立者だけではなく、その支持者である会員も同様の矛盾を抱えて平気なのですから、気の弱いわたしなどはついていけないのは当然のこと。鏡に向かい歪んでいれば気持ち悪いと感じるのは正常な感覚の持ち主。自己の実像と自己のイメージが歪んでいれば、誰もがその異変に気づくはずなのに、創価という特異なコミュニティーの会員は自己確認の方法を知らない。自己確認の仕方を学ぶのが信仰のはずなのに、鏡に写る自分の姿を見ることができない。鏡がそもそも歪んだ鏡なのでしょうか。

    本部を訪ねたベアトリス・フィン事務局長といっしょに聖教に写っていた川崎哲氏(ICAN国際運営委員)は、岩波ブックレット「核兵器を禁止する」のなかで、核不拡散条約(NPT)からの経過をたどりつつ、核兵器の現状を詳細に記しております。
    わたしが最も関心をおぼえるのは、福島の原発事故と核テロの無限の恐怖の連鎖です。
    2月15日の聖教にも、日本の原子力政策について問題提起の適任者ともいえる、元原子力委員会委員長代理を務めた鈴木達治郎氏(長崎大学核兵器廃絶研究センター長)のインタビューが掲載されております。このような記事は聖教啓蒙にまったくインパクトがなく、しかも会員は通常、真面目な、お固い記事は読まないことになっているので、ほとんど紙面を埋めるだけのムダ記事です。SGI提言のあとに、このような記事を載せて関連付けようとしているのでしょう。少なくとも関心を持つ聖教記者がいるということですね。
    そのムダ記事によれば、原子力政策が核兵器廃絶という課題の大きな障害になっていることが、絶望的に理解できます。日本が唯一の被爆国などというなにかにつけて持ち出されるフレーズは、感情もこもらないただの冠詞に過ぎないということがよく分かるでしょう。短い記事のなかでコンパクトに紹介していますが、問題はどこにあるのか?
    『原子力政策が核兵器廃絶という課題の実現を阻害していると私が述べる時の原子力政策とは、日本が原子力政策の中心に据える核燃料サイクルを指しています』

    核燃料サイクルと核拡散リスクはどのように関係していくのだろうか?
    『核燃料サイクルとは、使用済み核燃料を再処理し、ウラン、プルトニウムを回収し再利用するもので、高速増殖炉サイクルの実用化が前提となります。しかし、高速増殖原型炉「もんじゅ」の廃炉により、高速増殖炉の実用化が遠のいた日本で、このまま核燃料サイクルを推進し続けると、行き場を失ったプルトニウムを抱え込み、潜在的に核兵器の材料を増やすことにつながります。
    さらに核燃料サイクルには、濃縮、再処理技術が使われますが、これは核兵器を製造する技術とつながるものです』


    資源に乏しい日本にとって、核燃料サイクルは大きな期待があったのですが、今や経済的にも合理性を欠き、破綻同然。核燃料サイクルと核抑止力はどう関係するのか?
    『増え続けるプルトニウム。経済的にも合理性を欠いた核燃料サイクル。そうした矛盾を抱えた原子力政策ですが、そこには、核燃料サイクルを継続することで、潜在的な核抑止力を保持したいという側面もあったのではないでしょうか。核武装は求めるべきではないが、核兵器製造の技術的ポテンシャルは保持する――そうした潜在的な核抑止力への依存が、核燃料サイクル政策の推進と密接に絡んでいたとも考えられます』

    核抑止力、核の傘への依存という問題点。
    『核抑止力によつて国家の安全が100パーセント守られるという保障はありません。核抑止力の帰結は、むしろ核軍拡、核拡散にあり、最悪の場合は核戦争をもたらすことになります。従って、核抑止からの脱却が必要です。その点からも、プルトニウムという「負債」を増やし、核抑止力や核拡散につながる核燃料サイクルは見直すことが日本の原子力政策にとって重要なことだと考えます』

    現在の核燃料サイクルを止めることができるのか?
    『現在の高レベル廃棄物処分法には使用済み核燃料が含まれないため、法改正も必要です。また、処分といっても、処分場ができるまでは時間がかかりますので、安全な保管場所を確保しなければなりません。
    最終処分場に関しては昨年、経済産業省が地層処分(安定した地中深い場所での保管)に適した「科学的特性マップ」を公表しました。(中略)
    さらに、再処理を進めてきた結果、現在、国内外に保有することになった47トンのプルトニウムの処分が必要になります。これについてはウラン燃料と混合したMOX燃料として使用する、他の放射性廃棄物等と混合・安定化させて地層処分するといった選択肢が考えられます。(中略)プルトニウムという「負債」は現在も重くのしかかっています』


    大学教授から行政のエリートに転身した鈴木氏は最近、「核兵器と原発」という本(講談社現代新書)を研究者らしい専門的知識を駆使して出版しました。その本の紹介インタビューという前触れ記事のようなものですが、短い記事の結論として次のように語っています。
    『私自身、福島原発事故の前後で、原発が抱えるリスクの見方が大きく変化しました。福島県を中心に広範囲の地域が汚染され、現在も避難を余儀なくされる多くの人々がおられます。「原発のリスク」は一言でいえば、核兵器のリスクにも通じる「非人道的側面」を備えているということです』

    原子力政策は核兵器をふくむ安全保障問題と深く関係していること。福島原発事故からなにを学んだのか、むしろ原子力政策は大きく転換すべきとの当然の結論が、なにも変わっていない現実。日本が核兵器禁止条約に参加しない理由は、条約が核抑止力を否定しているからです。さらに目の前の喫緊の問題として、北朝鮮の核兵器・核ミサイルの開発にどのように対処していけばよいのか。大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発成功に対して国連安保理は危機感を深め、その挑発行動に国際社会が圧力を強めて深刻な緊張が続く。その軍事的脅威を前に核抑止力が有効なのか、疑問に思わない人はいないでしょう。
    「核兵器と原発」のなかで、著者はとても重要な提言を紹介しています。
    『2017年8月、核兵器の廃絶を願う科学者が集まって始めたパグウォッシュ会議の第62回世界大会で注目された議論の一つが、北朝鮮の核問題を含む「北東アジアの安全保障問題」であった。少人数(20~30人程度)に分かれて議論を行う作業部会でも、危機感を持ちながらも冷静な分析と提言が作られた』

    その提言は次のような重要な内容を盛り込んでいます。
    『より長期的な北東アジアの平和と安全保障の確立に向けた「枠組み」の議論を始めるべきだ。北朝鮮と米国の「平和協定」締結を最終目的に、北東アジア非核兵器地帯の可能性、常設の北東アジア安全保障会議の設置など、北朝鮮を含めた地域全体の安全保障問題について、検討を始めるべきだ。
    具体的には日米韓だけでなく、ロシア、中国、さらに東南アジア(ASEAN)、EU、など、幅広い関係国・地域を巻き込んで行くのが望ましい』

    難しい課題ですが、北東アジアという広範な地域を対象にした安全保障問題として、非核地帯を実現し、核抑止という従来の考え方から脱しようとする試みなのです。その信頼醸成を図るために政府間だけでなく民間や非政府機関を活用していくことも提案しています。

    核兵器の非人道性めぐる議論も国連を中心に行われております。
    2010年、核不拡散条約(NPT)再検討会議において、「核兵器の非人道性」を国際人道法との関係で明確に位置付けたうえで、核兵器を法的に禁止する枠組みが必要であるとの最終文書が採択されました。
    2012年、NPT再検討会議第1回準備委員会において、「核兵器の人道的結末」について共同声明が出され、16ヶ国が署名。日本は核抑止力政策を肯定する立場から不参加。
    2012年、国連総会第1委員会における共同声明では35ヶ国にまで増える。
    2013年3月、有志国による「核兵器がもたらす影響に関する専門家会議」を開催。
    同月オスロ(ノルウェー政府主催)、2014年2月にはナジャリット(メキシコ政府主催)、同年12月にウィーン(オーストリア政府主催)と、3回の会議が開催されました。
    非人道性に関する共同声明の署名国は回を追うごとに増え、
    2013年5月のNPT再検討会議第2回準備委員会では80ヶ国、
    10月の国連総会第1委員会では125ヶ国、
    2014年10月には155ヶ国まで増加しました。
    2015年10月29日、国連総会第1委員会で、多国間核軍縮交渉を前進させる決議が135ヶ国の賛成で採択。
    反対は12ヶ国(核保有国のアメリカ・ロシア・フランス・イギリス・中国等)、日本・韓国・NATO(北大西洋条約機構)諸国・インド・パキスタンは棄権。
    これにより、核兵器禁止のための法的措置に関する「公開作業部会」の設置が決定され、2016年に3回開催されました。8月には、その成果として、2017年に核兵器を法的に禁止する措置のための交渉会議を開催することを決定。
    非人道性のアプローチに対して、核保有国や日本など「核の傘」の下にある同盟国は、現実の安全保障問題を考慮すれば現時点で核兵器禁止に賛成できないとの論旨を展開した。いわゆる「国家安全保障の観点」からの議論。
    一方この間、非核保有国は一貫して、核兵器の使用は非人道的結末をもたらす。国家安全保障ではなく、人間の安全保障の観点から核兵器を禁止すべきだと主張した。世界の過半数の国が、「人間の安全保障」を重視する考え方にシフトするようになったことが、核兵器禁止条約交渉への流れを作ったということができるでしょう。
    2017年7月7日、長年核兵器廃絶を目指してきた人々にとって、忘れることができない歴史的な一日となりました。国連において、核兵器を全面的に禁止する「核兵器禁止条約」が採択されました。核兵器の非人道性を理念に掲げ、この条約の採択に大きく貢献した「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」に、2017年12月、ノーベル平和賞の授賞が決定。
    2017年3月、カナダ在住の被爆者、サーロー節子さんが演説しました。交渉に参加しない日本政府に対して強烈なコメントで非難しています。
    『自分の国に裏切られ、見捨てられ続けているという思いを強くした……被爆者はこの条約が世界を変えることができると確信している』(3月28日)
    そして、条約が採択された後、再び感動的な演説を行いました。
    『私はこの日を70年待ち続けていました……世界各国の指導者たちに懇願します。もしあなたがこの惑星を愛しているのなら、この条約に署名してください……核兵器はこれまでずっと道徳に反するものでした。そして今では、法律にも反するものになったのです』(7月7日)
    唯一の被爆国として核廃絶を目指してリーダーシップをとると公言している日本政府。一方で、核の傘に依存する日本は、条約交渉にも参加せず、今後も署名しないと断言する。平和利用に限定すると表明しながら、47トン(長崎型原爆約8000発分)ものプルトニウムをため込み、核燃料サイクルを堅持する日本政府。
    フクシマの悲惨な原発事故からなにも学ぼうとしないのは、政府や政党、議員や官僚だけではありません。それを支持する国民、あるいは傍観する市民も、変化を強力に推進し、原子力政策の転換の意思表明をしないがぎり同じなのです。

    「核兵器と原発」のなかで、核兵器禁止条約の意義として3点にわたり要約しています。
    『「人道的アプローチ」を全面的に採用したという点がまず挙げられます。国家の安全保障の観点からではなく、「国際人道法との合致」と「人間の安全保障」という観点から作られたこの条約は、クラスター爆弾や対人地雷禁止条約の前例に見られるように、人道的観点から兵器を禁止する、という論理構造でできている。
    第2に、「市民社会との連携」である。従来、核兵器に関する国際条約や制度は、ほとんどが核兵器を所有する国の主導のもと、これ以上核兵器を拡散させないことを大きな目的として作られてきた。ところが、核兵器を確実に削減し、廃絶まで導くこの「核兵器禁止条約」は、核保有国ではなく、非核保有国がその牽引力となった。その際、被爆者・被爆地からの長年のわたるメッセージ、それを受けた市民団体や核軍縮専門家が、非核保有国政府と協力して、この条約を作り上げてきた。
    第3に、この条約のもっとも重要な点でもあるのだが、「核兵器に悪の烙印を押した」ことである。禁止項目のなかに「核兵器の使用の威嚇」(第1条)を挙げ、核保有国や「核の傘」依存国が国家安全保障政策の柱と位置付ける「核抑止」を明確に禁止しているのだ。これは核保有国、「核の傘」国にとっては、受け入れがたい条件となるだろう。このため、核保有国や「核の傘」国が当面、この条約に参加する可能性はきわめて低い。
    しかし、「悪の烙印」を押された核兵器に、安全保障の柱として依存することは、条約に示された国際的規範に反する行為として、国際社会からの批判や圧力がますます強くなることを覚悟しなければならない。とくに、被爆国日本への圧力や注目度が増すことは間違いない』


    核燃料サイクル(原子力政策)と核抑止への依存(安全保障)の問題は密接に関連しており、核兵器のない世界を望みながら、さらに核依存しなければならない矛盾を正視しなければならない。核兵器禁止条約の採択は人間の英知の結実。その重要性を認識しなければならないと思いますが、日本政府の原子力政策・核兵器廃絶への取り込みはむしろ後退していると考えたほうが正解でしょう。 
    毎年、日本が国連総会に提出している「核兵器廃絶決議」は、2017年には、核兵器禁止条約に言及しないで提出され、さらに「あらゆる核兵器使用がもたらす非人道的結末」という表現から「あらゆる」が抜け消える衝撃的できごとがありました。その結果、採決では賛成国が前年の167ヶ国から144ヶ国に減少。日本の外交への信頼が崩れ始めています。

    1月26日、SGI提言が発表されました。核問題は創価のライフワーク、平和・人道団体としての信頼性と認証を求める仏法的アプローチです。宗教団体は信仰で獲得した英知を磨き、平和勢力の貴重なインフルエンスとなる資格を有するでしょう。なにより自己制御の方法を普遍的な法に依っていることを自覚しなければならない。信仰とは紛れもない深い自覚であり、仏典が説く非暴力への信頼を実現する処方箋です。仏は病を治す良医です。
    師をときには批判するわたしは、まったく弟子の資格を有していませんが、逆に創価のオフィシャルな見解にとらわれずに自由に意見を言うことができます。読む側も創意が必要な提言を、わたしなりに検討してみることも無駄ではありません。すでに老朽化している柱でも権威という金具がしっかり止められています。実は、会員の一人一人が、社会と創価の綻びと瑕疵を修繕し、改善するカーペンターなのです。破壊から建設への転換を強く促しているのが妙法ではないでしょうか。
    『私は、40年前、国連の第1回軍縮特別総会に寄せて、核廃絶と核軍縮のための10項目提案を行い、第2回の軍縮特別総会が開催された1982年にも提言をしました』
    それから毎年SGI提言を行ってきたことにふれつつ
    『なぜ私が、これほどまでに核問題の解決に力点を置いてきたのか』
    このような言い方をするのは、今回の提言が包括的な集約を示すものだからでしょうか。年齢的なことを考慮すれば、人生の終幕と提言のエピローグを考えずにはいられないでしょう。
    核廃絶と核軍縮のための10項目の提案は、次に掲げる内容です。もう顧みられることはありませんが、創価の原点を確認する貴重な論文です。「池田大作全集」第1巻の最初の文書として掲載されていますので、創価にとっていかに重要かが想像できます。
    古代ギリシャの故事「プロクラテスのベッド」を引用し、核抑止についてまとめています。
    『国連軍縮会議の開催される今日ほど、こうした転倒(技術面での発展が、絶えず交渉の歩調を上回っている)を陰から使嗾(しそう)している核抑止力信仰という魔物に、スポットを当てることの必要とされる時代はないでありましょう。言うまでもなく抑止力とは、相手による報復の恐ろしさを考えて、自らの戦争への衝動を抑えるという、いわば恐怖心の産物であります。この恐怖の均衡こそ、際限なき軍拡競争の悪循環を生み、いまだに使嗾し続ける人間の魔性であります。恐怖という、本来的に計測不可能な人間心理は、それが核兵器という有形な形をとって立ち現われたとき、ゆうに全人類を抹消し、地球を破壊しかねない怪物へと肥大化してしまったのであります』
    さらに核軍縮が一向に進展しない4つの要因を挙げています。このような指摘は核問題の基本的理解として重要です。
    1.国家間、特に核大国間の根強い相互不信感。核拡散防止条約の矛盾。
    2.核大国のエゴイズム。核抑止という悪。エゴイズムは悪であり、悪を悪で制御しようとすれば、必然的に悪循環に陥る。
    3.核に対する不感症。核アレルギーこそ正常。核の脅威に対する無関心は平和への最大の敵。日本の核アレルギー心理は、広島・長崎の深い体験から発しているということ。被爆国という核廃絶の原点を忘れてはならない。
    4.原子力産業の巨大化。発電炉、再処理施設、濃縮工場つきのプラント輸出。原子力施設の先進国からの売り込みが核拡散につながる。

    これらの諸因を確認しつつ、歴史創出の主役はあくまでも人間との視点から、軍縮総会に提案した10項目。
    (1)現在、核兵器を所有する国、所有しない国を問わず、全世界の各国の最高責任者が一堂に会して、首脳会議を早急に開催すべき
    (2)国連がイニシアチブをとって、核エネルギーの安全な管理が可能となる道を模索
    核の管理を国連の監視下におき、その安全な管理を委ねるよう働きかける
    (3)国連のイニシアチブで、核保有国と非保有国を問わず、すべての国に核兵器不使用の宣言を義務づける協定の制定
    (4)非核平和ゾーンの設置と、その領域の拡大
    (5)国連に核大国の計画的な核削減計画の提出
    (6)中性子爆弾や巡航ミサイル等の新型兵器開発を停止させ、さらに禁止する国際協定を国連のイニシアチブのもとに成立させる
    (7)軍縮特別総会が開かれる1978年から毎年、国連に対して各国が兵器、兵力及び軍事施設等の軍備状況を報告する義務を負わせる(「国連軍縮機関」を設置し、専門の委員によって常時パトロールする)
    (8)全面的かつ完全軍縮に向けての研究、討議、広報、出版等を、国連の呼びかけによって民間レベルでの協力
    国連大学に「軍縮研究情報センター」の設置
    (9)戦争の残虐性、核兵器の恐ろしさを啓蒙するため、国連に「平和のための資料館」の開設
    国連の長期的プログラムのもと「反戦・反核展」開催し、国際世論を盛り上げる
    (10)前記の提案を実効あらしめるため、軍縮のための経済的側面の裏付け(軍備増強の膨大な軍事費を今後は平和と繁栄ために振り向ける)
    国連内に「軍縮のための経済転換計画委員会」を組織化する方向で検討

    以上のような提案ですが、とても稚拙な提案もあり、提言が掲載された昭和53年(1978年)当時の時代状況も反映していて興味がつきませんが、国連に自国の軍備規模や内容の申告を義務化するという発想は、信じられないほど楽観的です。国家機密をあからさまにするぐらいなら、始めから軍備に投資しないでしょうし、そもそも国民の賛同は得られないでしょう。
    創価でも宗教団体の資産や財務内容、会員規模をまったく公表しませんが、他に対しては平気に財布の中身の公開を提案しても恥ずかしいとは考えないのですね。楽観主義は無責任なご都合主義のことをいうのでしょうか。
    論文の最後に、国連のもっとも困難な改革、安保理の構成についてふれています。
    論文のプロローグに当時のワルトハイム事務総長と会談したことを紹介しています。
    「世界平和へのガンは何ですか」
    「それは、不信感です」
    総長は、間髪をいれずに一言のもとに答えられたという。
    交渉の最前線に在る人の、こういうエピソードからは、国家も人間も不信の塊でできていることを実感できますが、国連の構造的な問題が国際的な交渉事を疲弊させ破綻させていることは常識です。そのことを強く指摘しないで、核問題の難しい議論が進展するのでしょうか。
    「国連のガン」は安保理の常任理事国であり、常任理事国が核大国であることを考えると、核廃絶の障害になっているのは、紛れもなく超大国のエゴイズムの支配なのです。一人ひとりの人権に差別がないように、国家は等しく対等であり平等であるという理念のもとでなければ、真の交渉も平和も、核兵器の廃絶もできないでしょう。第二次世界大戦の戦勝国の傲慢な意識が、平和実現を阻害していることを、反省し改革すべきなのです。

    今回のSGI提言でも、マンデラ大統領、ローザ・パークス、ハンフリー博士、キング牧師、ハーディング博士、ハンナ・アーレント、コスイギン首相、ゴルバチョフ書記長などの言葉やエピソードが散りばめられておりますが、以前のように有り難みがないのは、何かにつけて同じようなテキストやフレーズを引用するからでしょうか。あるいは対談相手と同じくらい対談者も立派だという自尊と見栄があるように感じます。却って独創性が失われていると見られても仕方ないでしょう。
    著名人を利用するのも頻度を考えなければならないでしょう。いつもご馳走を盛られると食傷になりそうですし、提言の組み立てかたも相変わらずという思いがします。
    そして、言うべきことは言ったし、そろそろ理想論と理念づくし、自慢話は終焉なのかなと、自由奔放の遠慮ないわたしの妄想は未来予想するわけです。

    宗教は倫理的、道徳的教訓に満ちていますので、生命尊厳を掲げる人道団体としての性格を有していますが、核問題についても人権上の問題として提起しています。不軽菩薩の行動を紹介しながら、人権の守護者としての標準モデル、規範としてのスタンダードな法の実践者の姿を強調します。平和実現には、法と実践者が一体となる理想的調和が必要であることは、妙法が説くもっとも核心的部分ですが、最近の創価は法の卓越性を優先し、人を見下しているようです。会員への御本尊配布の背景に根拠喪失の疑いがあると考えるわたしは、創価の偽善を追求していく姿勢を堅持したい。
    この記事も長くなり、読む人の迷惑そうな顔色も思い浮かんできますので、そろそろ一旦終了しますが、提言の人権に関する3項目にわたる主張をまとめておきます。また提言の後半、核兵器や人権、SDGs(持続可能な開発目標)のテーマについては次回に譲ります。SDGsについては、昨年の提言で詳細に論じていますので、知りたい方はもう一度読み返したらどうでしょうか。テーマは数年は継続していきますので、1年ぐらい読み飛ばしても大丈夫。

    第1の論点は、人権の礎が「同じ苦しみを味わわせない」という誓いにあると主張。
    国連の移民・難民問題を担当する特別代表、ルイーズ・アルブール氏の言葉を紹介。
    『他のあらゆる人と同様、移民もその地位に関係なく、基本的人権の尊重と保護を受ける必要があるということは、はっきりさせておかねばなりません』
    そして国連の初代人権部長ジョン・ハンフリー博士の生い立ちなどを世界人権宣言とともに紹介。次にマンデラ大統領を不軽菩薩に重ねてその偉大さを強調しています。
    会員の皆さまはきれいサッパリ忘れていると思いますが、一昨年の提言でも、難民問題について詳しく論じていました。読み進むうちに、マネーリッチな創価長者が、難民のために多額の寄付でもするのかしらと期待したのですが、ただ単に言ってみただけの提言だったので、わたしはがっかりしたのを覚えております。
    『わたしはこれまで、国連の新目標に「誰も置き去りにしない」との骨格を据えることを訴えるとともに、項目の一つに「すべての難民と国際移住者の尊厳と基本的人権を守ること」を盛り込むよう提唱してきました。
    かつてない規模で難民が増加する中、その状況と真正面から向き合わずして、21世紀の人類の未来は開けないと考えたからです』

    人類の壮大な目標を提唱し救世主に立候補しようとしています。ただ孫に語りかけたガンジーの言葉に救われます。このガンジーの信条は、SGIの社会的活動の精神と深く響きあうものだそうです。また釈尊の同苦の心に通じるものだそうです。
    この提言では、カール・ヤスパースの言葉を引用しておりますが、よほど実存哲学が好きなようですね。仏法哲学は実存哲学を網羅していると考えることもできますが、よく分からないというのが、わたしの本心です。ヤスパースが批判したのは大衆社会の凡庸な言説でしたが、どういうわけか、最高の哲学を学んでいるはずの妙法の信徒が、平均性や多数性といった平凡なヒューマニズムばかり求めて、ヤスパースが指摘した「生の不安」を解明することを怠っているようです。釈尊は「生の不安」から十界を説き、仏界という特別な境涯、それでいて万人を対象とした生命境涯を説いたのであって、根源的な生の目的を問い続けた結果でありました。ヤスパースは精神病理学から出発したことを忘れてはならないでしょう。大衆は病んでいるのです。また多数派を形成している宗教組織もレジリエンスを失い、停滞していることを自覚すべきです。人々の心に届かなくなった凡庸な言葉が原因です。創価も朽ち始めているのです。
    ヤスパースとのつながりなのか分かりませんが、ハンナ・アーレントもよく引用して旬なようです。ハンナの名言『悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る』 
    まぁ~無思考の方々にはお似合いのマキシムですこと。

    第2の論点は、人権教育の重要性について。
    国境線と国境を越えるインフラの構築についての見解が新鮮です。地理への認識が牧口先生の「人生地理学」の「人道的競争」と被さり、機能的な地理の姿に言及しています。関係性が深まれば、差異を越えて排他主義を克服できる可能性が高まることはよく理解できます。
    『昨年の国連人権理事会でも、排他主義に関する二つの決議が採択されました。
    宗教などの違いに基づく不寛容と戦うことを求めた決議と、外国人嫌悪の行為などを防止するために人種差別撤廃条約の追加議定書の草案づくりを開始する決議です』


    この主張の最後を次の文章で結んでいます。
    『人権教育に関する国連宣言が呼びかける「多元的で誰も排除されない社会」は、その"人間性の光"を豊かに受け合うつながりを幾重にも織りなす中で、力強く支えられていくのではないでしょうか』
    ノーベル平和賞授賞の中国の劉暁波氏が亡くなったのは昨年のことですが、中国政府の厳しく惨たらしい弾圧があったことを知らないわけではないでしょうに、中国の人権教育についての提言は全くなされていません。中国ほど世界人権宣言を軽視している国はないと思いますが、名誉や勲章のほうが大事ということなのでしょうか。共産主義とは多元性を認めない社会のことであり、例外なく誰をも排除する社会のことです。また独裁が必ず存在し、それは人間とはかぎりません。党であったり、主義という思想だったりです。多元性を最大に認めるのが宗教でありながら、創価も主張の違いを認めない創価コミュニズムを作ろうとしているのでしょうか。わたしはいつも、排他的な幹部から目の敵にされているのですけど。

    第3の論点は、人権文化の紐帯は、喜びの共有にあるということ。
    聖教でも報道された、昨年11月にバチカン市国で行われた、核兵器のない世界への展望を巡る国際会議に参加したことにふれつつ(遠い他人は仲良くできても、近くの身内は中傷罵倒の言いたい放題という典型例ですが…)
    『核兵器禁止条約の交渉会議で多くの国々が核兵器の非人道性を踏まえて示したような「健全なリアリズム」の重要性を強調しましたが、私も深く同意するものです』
    理想論者が思い出したようにリアリズムを語り始めました。しかも健全でなければなりませんが、創価の選挙運動での号令も健全な活動なのでしょうか。平昌オリンピックでは北朝鮮の美女応援団が話題になりましたが、わたしの目には自分で自由にならない可哀想な集団に写りました。オリンピックとは人種も言葉も関係なく、スポーツを通して純粋に技と成績を競うものです。なぜそこに独裁者の思惑が入り込むのでしょうか。そして、それを許すのでしょうか。
    公平性を重視しなければならない政治に、創価の利益主義を持ち込もうとしている。何十年も前、あれほど公明党の独立を訴え、大衆政党への脱皮を促しながら、今では忘れたような顔をして会員を欺き続けている。政治の質を問うのではなく、会員を動員して多数者として政治を左右しようとしている。健全な精神には程遠く、人間を操ろうとする仏法者とは思えない醜い意図が垣間見れます。すべて先生が仕組んだものと理解しています。政治という玩具は複雑で挑戦的、アナログなほうがあきないようですね。
    健全なリアリズムとは自由意志による正しい現実認識です。
    会館で選挙の打ち合わせをするな!
    宗教活動と混同するな!
    【宗教と政治(選挙)のボーダーラインを不明確にして、むしろ意図的に重ね合わせている。得票数を勢力拡大の一つの指標にしているのは、かつての折伏が社会的に監視を受け、無理すると批判も免れない恐れもあることから、折伏のエネルギーを選挙運動、聖教啓蒙に積極的に転化させようとしたのではないでしょうか。中枢にある聖職者は会員の忠誠心を利用していると考えることもできます。最近は少し方針を変えたのか、折伏弘教という本来の宗教目的に立ち返り力を入れているけれど、一度失った勢いは取り戻せそうにない。池田先生を教祖化し伝説を作り、求心力を復活させようと焦っていますが、もう時代の波を越えるのは難しいのかもしれない。永遠の指導者の「永遠」という形容は、永遠に続かないことを学ぶのが、歴史からのメッセージ。経典からの警句です。また、自らを「永遠」と名乗る人間は、ほとんど勘違いしています。希有で高貴な思想の持ち主は自らを決して永遠などととは言いません。そういうふうに規定したとき、高慢な腐臭が漂い始めるからです】
    キング博士の講演を引用していますが、その言葉を聞けば正しい現実認識が、現実変革の転換点になることを表わしています。健全なリアリズムは眼前の暗闇を認め、美しい星空を見上げることなのです。民主主義のあり方、政治の選択を歪めていると思われる創価公明の選挙支援を、わたしは二度とすることはありません。それが、わたしにとっての健全なリアリズム☆彡


    Enchantress - Two Steps From Hell




    ◇◇◇


    羽生王子さまの美しい姿に胸が高鳴り、感動し、ドドッと涙が溢れてしまいました。
    どうしてあんなに礼儀正しく、力強いのでしょうか。
    日本の誇りです。プリンスにふさわしい。
    小平奈緒選手、金メダル! おめでとうございます。
    韓国、イ・サンファ選手との友情も美しい。まるで恋人同士のようになかよし。
    ガンジーの言葉を引用した、小平選手の座右の銘を知りました。
    スピードスケート500m、ライブで放送中に小平選手が涙を浮かべながら語りました。

    『明日死ぬかのように生きよ
    永遠に生きるかのように学べ』


    彼女はその言葉を実際に実践し、苦しい練習に耐えてメダルをとったんですね。すばらしい!
    智慧即福運の実証例ですが、仏法実践者と同じようなストイックな響きがあることに感銘を受け、簡単には成し得ない他者の共感力を呼び覚ます高度な働きかけは、スポーツを通した最も輝かしい収穫かもしれません。求道者という言葉もセレクトしていましたね。肉体を鍛えることは内面を鍛えることという色心不二の真理が顕著に表れ、それは一人の人間にとどまることなく、波動のように伝わっていくという、人生の幸福を実現する原理に気づかせてくれるようです。信仰者がたどる成熟へのプロセスと同じです。あらためて信仰は修行であるという事実を思い出させてくれます。
    学ぶことは楽しいだけでなく、苦しいときもあるでしょう。文字を目で追い、理解し思考することは必ず楽しいとは限らない。学ぶことの、あのなんとも言えない高揚感は経験した者しか分からないでしょう。高揚感は知力が解き放され向上する喜びなのですね。大脳のやわらかな襞に知が刻まれる気分になり、そのイメージまで浮かぶのは、きっと冷静に制御する能動的な自己観察のプロセスとインフルエンスがあるからでしょうか。自慢しているわけではありません。知的活動は誰でも同じような経過をたどるものと思います。

    創価の会員のなかには学ばない人が多いという、先入観かもしれない小賢しい感触を、わたしは持っているのですが、もちろん学ぶ学ばないは、個人の自由であって、何ら批判されるようなことではありません。苦しみのなかでのたうちまわろうと、貧しさのなかで泣き叫ぶような悲しみがあろうと、基本的に自己責任であって個人の自由は保証されております。喜びよりも悲しみ、楽しみよりは苦しみを望む人もいないとはいえません。苦しいけれど自由であることを選択する人は多いでしょうから、自己への信頼と成功への成就を欲求するハングリーな精神は、なにものにも代えがたい人生の基礎をなす心性でしょう。
    学ぶことは他者への共感のスケールを拡大する手段です。確かな定義は難しいのですが、人間力とはこのことです。そしてその人間力のベースとなる知性あるいは知恵の多くは、学ぶことから得られるものと思います。わたしは学ぶことを疎かにする人々に近づきたいとは思いません。大袈裟に言えば不幸の亡霊に近づくようなもの。亡霊だから目には見えませんが、諸天(善神)や諸悪(魔)のように心の目には見えるのです。心を鎮めて熟慮すれば心眼を養えるなどと、スピリチュアルなお伽噺の類ではありません。信心の眼は鍛えるもの。成仏への過程とは、現実的には六根清浄のこと。それをスポーツを通して実現する優れた人もいることに驚きます。純粋であることがなによりの条件です。 


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    保守主義について

    ews (1)-1(2018.1.21)評論家・西部邁さん死去 多摩川で自殺か
     保守派の論客として知られる評論家の西部邁(すすむ)さん(78)が21日、死去した。
     警視庁田園調布署によると、同日午前6時40分ごろ、東京都大田区田園調布の多摩川河川敷から「川に飛び込んだ人がいる」と110番があった。飛び込んだのは西部さんで、署員らが現場に駆け付け病院に搬送されたが、死亡が確認された。
     同署によると、目立った外傷はなく、付近で遺書のような文書が見つかった。自殺を図り、溺死したとみられる。
     西部さんは21日未明から行方不明になっていた。同居する家族が探していたところ、多摩川で流されている西部さんを発見し、通報したという。

     西部さんは北海道出身。東大経済学部に在学中、全学連中央執行委員として安保闘争に参加し、学生運動の指揮を執った。大学院では経済学を専攻し、横浜国立大や東大などで教鞭(きょうべん)をとる傍ら大衆社会論を軸とした評論活動を開始。「経済倫理学序説」で吉野作造賞、「生まじめな戯れ」でサントリー学芸賞を受賞した。
     東大教授時代の昭和63年、助教授の推薦をめぐって教授会で否決されたことに抗議して辞任。以降、テレビの討論番組などに定期的に出演し、晩年は自ら発刊した雑誌を舞台に言論活動を展開した。
     正論執筆メンバーで、平成4年には戦後日本でタブー視された改憲論を正面から取り上げるなどの精力的な評論活動により、第8回正論大賞を受賞した。

    ews (1)-1(2018.2.1)西部邁さん 欺瞞と偽善に挑み続けた生涯
     アメリカ従属という現状に安住し、屹立(きつりつ)しようとしない戦後の日本と日本人の在りよう、そして近代と近代人に、誰よりも深い懐疑と悲しみを抱き、根源的な批判を続けてきた真の知識人だった。

     戦後まもなく、アメリカに押しつけられた甘い理想をたっぷりと含む民主主義の言葉に、欺瞞(ぎまん)と偽善を感じ取った鋭敏な少年は、東京大学に入学すると教養学部自治会委員長、全学連中央執行委員となって60年安保闘争を指導した。それは欺瞞と偽善を撃つための闘いであった。しかし後年、革命は伝統との相対によって、自由は秩序との相対によって初めてその意味が明らかになるはずなのに、自分たち過激派は、伝統と秩序の何たるかを知ることなく、革命と自由を求めていたことに気付く。
     横浜国大助教授を経て東大助教授になった西部さんは、30代後半にアメリカとイギリスに留学する。イギリスでは、フォックストンという小村に居を定める。ここで、18世紀のエドマンド・バークから20世紀のマイケル・オークショットに至る保守思想家たちに触れ、政治も個人も綱渡りのように緊張感をもち「平衡感覚」を頼りに歩む以外になく、「平衡感覚」は歴史と伝統に学ぶ以外にないことを学んだ。

    《一個の保守主義者として、それまでの乱脈に流れてきた自分の人生と学問における経験を、その一片も無駄にすることなく、互いに関連づける境地を得たように思った》と回想している。かくして保守主義者となった西部さんは、少年時代に感じ、なおも日本を覆う欺瞞と偽善に敢然と闘いを挑んでゆく。今度はゲバ棒ではなく、伝統に学びながら構築された深く鋭い言論によって。
     西部さんに「保身」という言葉はなかった。どんな状況であろうと、自身が信ずる「義」のために逃げることなく闘いを挑んだ。60年安保闘争しかり、助教授人事をめぐって東大教養学部にけんかを売り、東大教授を辞職することとなった駒場騒動しかり。こう記している。《そんなことをやって自分が傷つかぬはずはないとわかっていたが、関係者が傷つけられているのを見過ごしにするほうの傷がもっと大きいと私は判断した》。2003年にアメリカがイラクを攻撃したときには、保守系知識人の多くが賛成・黙認するなかで、「こういう侵略を許すわけにはいかない」と声を上げた。
     理と義と侠(きょう)を兼ね備えた西部さんは、相当なロマンチストでもあった。西部さんは長らく多摩湖に近い東京都東大和市に暮らしていた。その理由は「湖の見える場所で暮らしたい」という奥様の願いをかなえるためだったという。数年前に奥様を亡くした西部さんはまもなく世田谷区へ移った。

    西部さんが自殺したという一報を後輩記者から知らされた私は、思わず「拳銃か?」と尋ねてしまった。というのも、58歳の時に「自死が必要になったとき」に備えて、友人から拳銃を入手しようと考えていた、と13年前に刊行した自伝的長編評論「友情」に書いていたからだ。では“その時”とはいつのことなのか。
     《自分という存在は、言語のあまたある可能性のうちのほんの一つを、わずか八十年ほど過去から未来へと運ぶ単なるヴィークルつまり運搬具にすぎないと思ったとき、死は私にとって大きな問題ではなくなった》と悟った西部さんにとって、言葉の能力が衰えたと感じられたときが、“その時”なのだ。そしてこう記す。
     《安楽死とか尊厳死とかいったような形容は私の最も嫌うところだ。それらは人間礼賛の成れの果ての表現にすぎない。あえていえば、単純死としての自殺、それが理想の死に方だとすべきではないのか》

     近代を懐疑し、知行合一を生きた西部さんは、理想の死を死んだのだ。(桑原聡)


    ◇◇◇


    西部邁氏の死去を知ったのは、21日のTVニュース。信じられなくてフリーズしたように、しばらく画面を見つめていました。ショッキングだったことから、なぜ? という強い思いがこみ上げてきました。そして、「絶望」という言葉が頭をかすめました。あたりまえの冷静さを持つ人間なら、狂気に陥るか、生きることに絶望しなければ、自らの意志による自らの死という終局は選択しないだろう。西部氏は、自裁死と表現していました。自らを裁く勇気ほど、誠意に溢れた誠実さはないでしょう。
    文章の難解さから、正しく理解されない部分があったことは仕方がないのかもしれません。思想の難解さは、それを表現する言葉の難解さと平行しますが、西部氏の著作には警句に満ちた言葉や示唆に富む思考の足跡に、はっとする新鮮さがありました。仏教哲学を学んだ者なら、難解さの究極は言葉では表現できないレベルにあることを理解できるかもしれませんが、正確な現状分析、現実へのアプローチといった身近な問題にこそ、思想の生き生きとした特徴が表れます。西部氏の思想体系には、伝統と漸進的改革を目指す保守主義が中核にあると思う。
    4年前に夫人が亡くなり、生への渇望としての生きる目標を失ってしまったのでしょうか。
    『妻の死は重い。妻は僕にとって故郷、祖国である。妻が唯一の読者で観客』
    『妻の死は故郷の喪失、祖国の滅亡。言語能力の基盤が陥没すること』

    (「妻と僕 寓話と化す我らの死」飛鳥新社)
    死が身近なものとしてクローズアップされ、死に方の選択にも自ら説く思想の完成を求めたように思えます。思想に殉じたと言えば正確でしょうか。意志を貫くことは、思想の永続性を保証するものです。
    人間は、自分が大切に思う誰かのために生きているのでしょう。特に夫婦の絆は、他人が推し量れるものではありません。夫人は同志であり、きっと自らの言葉を語る最初の相手だったのでしょう。愛情の純粋さを失わないために、夫人の死を自らの思想のなかで自らの言葉で語りましたが、ある人にとってはそういう行為は、我慢がならないほど非人間的な姿として写るかもしれません。そういうふうに見られるのも思想家の宿命でしょうか。肯定する者がいれば、必ず否定する者が現れるのは健全な証拠ですが、西部氏は愛しているがゆえに、妻の死さえも、悲しみも、自らの唯一の言葉で語らずにはいられなかったのでしょう。
    創価にも勘違いが甚だしい本末転倒している会員がいますが、人間としての情愛を疎かにして、信仰活動さえしていれば幸せになれると考えるなど組織都合に毒された無批判の教条主義には、正直なところ、つきあいきれない虚しさを感じてしまいます。以前にも指摘させていただきましたが、深化への賢明な努力がない自己欺瞞の創価ナルシスト、正しい信仰に酔う自我肥大のナルシストにつける薬はありません。

    雑誌「AERA」のWEB上で、中島岳志氏との師弟対談を読むことができます。そのなかで、西部氏の優しさを象徴するエピソードが紹介されている。07年、安倍首相が病気で総理を辞めたときのこと。https://dot.asahi.com/aera/2018013100013.html?page=3
    『私が安倍内閣はいかにおかしかったかを雑誌に書いたら、先生にこう叱られました。「中島君が書いていることは全部正しい。けれどもドブに落ちた人間をたたくな。知識人なら励まそうという態度を取らないといけない」。その後、先生は安倍さんを励ます会を開き、保守の勉強会をしばらく続けていました。すごいのは、安倍さんが政権に返り咲くと今度は遠ざけていたことです。権力と距離を取る姿勢はさすがだと思いました』
    創価の幹部に聞かせたい言葉ですね。権力から遠いところにいることが、つまり冷静な判断の確保という意味において、はっきりとした視力と視野で全体を俯瞰するように、正しい批判と共感が可能だということ。選挙ばかり熱心で、政治的問題に無頓着でいる会員は、自分が一体何をしているのか、全く理解していないだけでなく、自分で自分の首を絞めていることに気づかない愚かさです。

    中島岳志氏は、宗教学者・島薗進氏との対談(『愛国と信仰の構造』集英社新書)で、次のように述べています。
    宗教とナショナリズムのつながりを検討しながら、「創価学会が果たすべき役割」として、創価の歴史を遡りつつ、過去と向き合うことを強調しています。
    島薗同じ日蓮宗とはいえ、国柱会と違って、創価学会は創価教育学会という教育者の集まりから始まり、小集団活動に基盤を持っていたために、政治的なユートピア主義には結びつかず、戦前は反体制的な特殊な日蓮系宗派の立場を守り通そうとしました。このため、初代会長の牧口常三郎は治安維持法違反で捕まり、獄中死しています。
    ところが、今の公明党はまったく体制派で、自民党と一体化しているようにすら見えます。どうしてこうなってしまったのか考えると、創価学会が、組織の発展を宗教そのものの成功と同一視する傾向を持っていることが、大きいのではないかと思います。
    それから、他宗教や他派を批判する排他性も強く内部の結束を重視する。党と教団が完全な一枚岩ではないとはいえ、そういった性格のもとで、選挙による党の成功と教団の勢力維持とが結びついてしまっているんですね。
    私自身は、現在の創価学会と公明党は、宗教のあり方をめぐる非常に重い問題に直面していると考えています。本来の理念である仏法に基づく平和主義・人間主義をそっちのけで組織維持のためにタカ派政策に乗っかっています。どの宗教でも同様の傾向はあるにせよ、信者の獲得、組織の拡大・維持を最大の目標にするという姿勢そのものを考え直すべき時に来ているのではないでしょうか。

    中島島薗先生がおっしゃったように、創価学会にはもう一度自分たちの過去と向き合ってほしいと私は考えています。
    設立後、十数年しか立っていない一九四三年に、初代会長の牧口常三郎が伊勢神宮の大麻(神札)を受け取らなかったことで治安維持法違反とされて、翌年に獄中死する。同じく理事の戸田城聖も捕まる。それが彼らの戦前の痛烈なまでの経験です。池田大作氏が書いた「人間革命」の始まりのほうはその話が中心になっている。つまり、権力から弾圧を受けた経験を背負っているから、信仰の自由というものが彼らにとっての非常に大きなテーゼになっている。
    思想的にパターナルな安倍首相に対して、信仰の自由など本来、リベラルの方向に立とうとする公明党というのは、その理念では反対向きのはずです。政策的にも、自己責任を強調するようになった自民党に対して、セーフティーネットを整えろという公明党は、方向性は逆です。
    しかし、公明党の目標が与党であり続けるということにすり替わってしまった今、理念や政策の違いを超えて自民党に追随してしまう。その結果何が起きるかというと、自分たちがまさに弾圧されたような、例えば秘密保護法のようなものを自分たちで推進してしまう。あるいは集団的自衛権の問題についても、自民党のほうに引っ張られてしまう。

    島薗私が創価学会の問題を重く見るのは、前章(政治と宗教ナショナリズムについて)で述べた「正法」とも関係しています。
    正法をもう少し平たい言葉で言えば、仏教の社会倫理理念であり、仏教の社会性の自覚ということになりますが、創価学会はこの正法の理念を自覚し、現代的に実践しようという姿勢を持つ宗教団体の一つです。社会参加・政治参加を謳っている宗教団体であればこそ、国家とは距離を保って活動してほしいわけです


    長い引用になりましたが、公明党あるいは創価へのスタンダードな評価と言ってもよいでしょう。特に共謀罪、秘密保護法や集団的自衛権の問題について、創価内でも多くの議論があってしかるべきでしたが、そのような気配すら見せなかったのは、ひとえに会員の問題意識の欠如によるものです。同時に、選挙の語り口のためだけの政治学習、都合の悪いことは決して表に出さず、福祉や健康問題という身近な政治課題に目を向けようとする婦人部向きの設定に終始していることです。
    消費税増税のときもそうでしたが、これから予想される憲法問題にしても、考えて結論を出すという当たり前のことをしない可能性があります。思考放棄とも言えるこの状態は、桜梅桃李と説く妙法とは似ても似つかない集団信仰の害毒によるものです。個人にあっては無害でも、集団になるとその弊害を表しますが、矛盾に目を閉ざし団結を誇る集団であれば尚更です。このような集団は、カリスマの意志により、いつでもどこでも無自覚に転がり社会を変えていく力となり、民主主義を危機に貶めます。選挙運動に功徳欲しさに群がる姿って、獲物を囲み追いつめる蟻のようなイメージが浮かびます。浅ましい自己の利益優先主義は、功徳偏重の過度な実証主義。言い換えれば権利を主張して憚らないオルテガの大衆の反逆そのものです。それが信仰だというのですから、バカバカしくって話になりません。
    治安維持法で初代、二代会長が検挙されましたが、そもそも治安維持法の制定は、自由主義が活発に叫ばれた大正デモクラシーと言われる国民が政治の主体であるとする民主化運動のさなかの、大正14年に誕生したものです。国家の強制や統制から自由であるべきという、個人の自己決定権を強調し、社会全般に及ぶ思想的運動のなかで、それとは正反対の自由の抑圧という法律が制定されても、国民のなかで疑問を持った者はわずかにしかおりませんでした。
    我慢強く、大人びた対応の強気の政治姿勢を貫き、安定した長期政権となった安倍首相に寄り添い、成果や実績、少し遺産を分けてもらえないかと立ち回っている姿が公明党でしょうか。大臣の椅子欲しさに、自己主張も遠慮がちになり、しいては国民を犠牲にしている党員や支持者は、過去の歴史を学習し、外交問題と併せて国家のクライシスに強い関心を持ってもらいたいと思います。過去から学ぶ姿勢こそ保守主義者の取るべき道です。
    自由であることに最も強い関心を持っているリベラリストである会員が、宗教・信仰の自由より興味がないということはありえず、勝つか負けるかというような勝負師みたいな信仰に慣れてしまって、中身や過程に関心が向かない、結果オーライの実証第一主義に毒されています。その根底には乞食信心のような卑しい利益主義があるのでしょう。草創期から急成長の発展期には、罰論による脅迫的折伏が社会現象になりました。私的利益論の反転が、プライベートな人格や宿命を逆手に取った罰論。ネガティヴ方向の価値創造です。

    16年(平成28年)8月23日、24日の公明新聞に、
    『国民は「保守・中道政治」に何を望むか』というテーマでインタビュー記事が掲載されていました。7月に参議院選挙があり、5議席も増やして、自公政権が安定政権として国民の支持を得ているという自信がうかがえます。アメリカ追従主義がどうして保守中道なのか理解できませんが、戦後の歴史を総括する現代史観を、ぜひ政治家と公明メディアこそアピールしてほしい。
    このときのマニフェストは、ほとんど福祉ばかりで、いかに婦人部・女性向きの内容かわかります。憲法については何もなく、修正主義こそ保守中道であることを強く訴えてもらいたいと考えますが、創価本部の理解が得られることはないでしょう。
    でも、絶対平和の創価の伝統を、今は裏切っていますので、創価の中心幹部は自己保身しかないのかもしれません。偉大な指導者・池田先生も現実直視の勇気ある行動が、色褪せ古ぼけ、埃にまみれたように新鮮味がありません。老いを隠して理念を語り、創価の再生を願うだけなんて、寂しすぎる悲しみです。弟子のために、なぜ堂々と自らの生き様を披露しないのでしょうか。生老病死の苦しみの克服こそ、仏法者の使命というものです。釈尊でさえ、病み、老いの衰えのなかで死を迎えました。リーダーこそ、その死の迎え方を社会に広く公表しなければならないのですよ。それがリーダーの最後の公の務めなのです。生があれば死があるというのがヒューマニズムであり、生の完結を考えない人も思想も、たんなる個人的ヒューマニズムの領域から出ることはない。

    インタビューは公明新聞の3面の全部を埋めて比較的大きな記事ですが、このような記事を定期的に、あるいはシリーズ的に掲載していただきたいと思いますが、無理でしょうか。16年6月に読みやすい一般啓蒙書「保守主義とは何か」(中公新書)を出版した宇野重規東大教授に伺っております。
    「保守・中道政治」は国民に定着したのか、との質問には、まだ定着は難しいと答えた後、真の保守主義は不在であるとして、「公明党への期待」を語ります。
    『公明党は憲法の基本的精神である基本的人権の尊重、国民主権、平和主義という3大原則に忠実であり、軍事拡大よりは国民生活の充実を通じて平和を実現するという方向性を維持してきた。今の憲法を基本的に否定せず、改正する余地はあるとしても、憲法の精神を守りながらそれに必要な修正をどう加えていくかという立場だ。あえて言うと、公明党が真の保守主義を守っているのかもしれない(中略)』
    こういう評価にはやや納得できないものがありますが、はたして開かれた国民政党として国民のあらゆる階層から支持を得ているかという疑問。宗教政党は国民政党になりえないという懐疑が常にあり、わたしにはその疑念を払拭できないままです。国民政党でない保守主義なんてありえないでしょう。

    次に「保守すべき価値は何か」ということで議論を促しています。
    『今の与党は国際関係には周到に手を打っていると思うが、保守勢力はナショナリズム(愛国主義)に足下をすくわれることが多い。日本においても、いつ排外主義的な雰囲気が高まるか分からない中、今後、ヘイトスピーチのような活動が拡大する時に、一定の歯止めをかけるのも非常に重要なポイントだ。保守主義は、ナショナリズムや一国孤立主義とは区別してしかるべきであり、国際的なある種のバランスをどう維持するかを考えるのが保守の良識だ』
    戦後民主主義の伝統として地域に根づく住民活動、市民運動の継承の例を上げて、公明党の地域の声を政治の場に届ける意識は戦後精神を継承しているという。市民の声は民主主義の声ですが、選挙時の一票としての大衆の飽くなき欲望の声に応えることでもあります。賢明な政治意識が必要ですが、政治家は常に権力の虜になる危険と同居しています。かつての民主党政権を思い出すべきでしょう。リベラルな市民の声に応えたポピュリズムの狂乱は、日本の国家の屋台骨と伝統をことごとく破壊するところでした。中身がない人間が権力を握るとお化けのようにモンスター化する好例です。
    保守すべき価値は、結局、草の根の市民運動ということでしょうか。むしろそのようなものより見当たらない貧困さといえば良いのでしょうか。教育者らしい、公明党への優しいリップサービスというところでしょうか。公明党が真の保守だなんて誰も思っていない。憲法問題にも外交問題にも積極的発言を控えて、火中の栗を拾おうとしない狡賢さは、創価に驚くほど似ている。創価は人権団体と主張すればするほど、その一貫性の無さに疑いを抱かない会員の精神状態を、わたしは一貫して疑いたくなってきます。

    次の日は、中島岳志氏へのインタビューでした。
    保守政治の本来の姿に言及し、
    『政治学上の保守主義は何かというと、近代のフランス革命を中心とする欧州の啓蒙主義的な革命に対して、「ちょっとやり過ぎ」というところから生まれたもので、英国の政治思想家であるエドマンド・バークがフランス革命に反対したのが始まりだ。バークが何に反対して何を考えたかは保守を考える上で重要となる。彼はまず理性万能主義を疑った。理性に合致したことを徹底的に行っていけば良い社会をつくれるという進歩主義や設計主義は、人間観としておかしいと指摘した。
    その上で、不十分な人間が社会でやっていくためにはどうすればいいか。バークがよりどころとしたのが、長年築かれた良識・常識・伝統のような慣習だ。この中には庶民が長い時間をかけた暗黙知がある。人間の不完全性を認識しつつ、常識に従いながら世の中は変わっていくものである。それも一気にではなく、時代に応じて徐々に対話しながら変えていくという穏健的な漸進主義が保守の本来持つ重要な役割だ』

    保守主義の初歩的・常識的見解ですが、日本の知識人や政治家のなかにはこのような初歩すら理解していない人が多い。

    仏法と政治思潮は異なります。仏法の中道主義は、偏らない見識・行動を表し、一側面にとらわれることなく、真理を見通す全体融和の世界観を持つ人間の生き方です。政治での中道はどうでしょうか。
    『中道は基本的に足して二で割るという話ではなく、英国の作家・チェスタトンが「荒れ馬に乗りこなす技術」という言い方をしているが、世の中のさまざまな意見をどううまく調整してバランスを取っていくかが問われる。(中略)
    Aの人もBの人も言っているからと全ての意見を取り入れるのではなく、歴史に後押しされながら将来を見通して歩いていくバランス感覚。その背景には、人間の理性に対する行き過ぎた過信をいさめるという仏教的な考え方がある。「私は何でもできる」という人間観に対する懐疑的な態度、謙虚な態度が重要だ。公明党は本来そういうところに立っているのではないか』


    そして、「ビジョンを示しつつ具体策の微調整続ける現実主義で」と題して、次のように提言しています。
    『リアリズム(現実主義)を打ち立てるためには理念が必要となる。基本的にどういう方向に世界を持っていくべきなのかという大きなビジョンを持ち、そのビジョンから具体的な政策を一つ一つ進めていく手順を踏んでいくべきだ。
    ドイツの哲学者・カントの考えに「統制的理念」と「構成的理念」がある。統制的理念は人間の存在を超えたような絶対的理念だ。「絶対平和」は無理だが、この理念があるからこそ、少しでも実現に向かおうとする構成的理念は成立するとカントは考えた。(中略)
    リアリズムは構成的理念であり、これを大切にするには統制的理念が必要だ。これを取り違えると全体主義や共産主義になる。だから二つを見据えながら一つ一つ解決することが政治のあり方で、本来のリアリズムとは「永遠の微調整」を続けていくものだ。戦争のない世界、豊かな社会のため、一つ一つの政策を見極めながら対応していくしかない』
    『公明党は本来考えている中道的な方向性を貫くことが重要だ。自民党べったりではなく、もっと強く出ていってもいいのではないか』


    このような保守思想のアナリストにインタビューした理由を考えると、公明党は保守の王道を目指しているのかもしれない。穏健な体質が保守に合っていると言えば、きっと反対意見が続出するだろう。穏健さの印象は、ある意味保守の印象に被る。
    西部邁氏は「思想の英雄たち」(ハルキ文庫)の、最初のエドマンド・バークの章で、
    『保守思想はエンシュージアズムつまり熱狂を嫌う。なぜならそうした心性はラディカリズム(つまり急進主義)に特有のものだからである』とあります。
    「熱狂」と言えば、創価の底流を流れる感情で、他人都合など眼中になく自己都合のみ、ほとんど反省もなしという強気の似非革命精神で彩られています。かつては折伏大行進などと怒涛の進撃が推奨されました。人権意識が乏しかった時代のことですから、後ほど社会的制裁を受けるにしても、熱狂的に誓願し、師弟の枠を仏法の枠と勘違いし、その熱狂さゆえに尊大さも増し、日蓮仏法を曲解し、宗教界の王者であるなどと豪語する。衰退の一途をたどっているのに、未だにその幻想から抜け出すことができない。
    沖縄・名護市長選挙では全国に向けて激が飛ばされました。市長選挙に全国支援を呼びかけるのは異例のことです。なぜ、選挙にこれほど熱狂するのか。これらの選挙闘争は、勝つことが師の至上命令だからです。勝つことにこれほど執着する宗教団体も珍しいことでしょう。忠実さは熱狂の形を変えた一つの形態です。はたして冷静さが伴っているのか、常識人なら疑問に感ずることでしょう。11月には知事選があります。基地を挟んで、自公と革新の熱狂的戦いが繰り広げられること必然の必至。基地容認に転じたと思われる品位に欠ける低俗な政策は、偉大な師の公認でしょうか。選挙には熱心でも政治には不熱心というアンバランスは保守のものではありません。結果に責任を持たないという点で、無責任な他者任せですが、自己は自分の主であるという自己完結の自己責任でもある信仰論は、どう論理立てて理解すればよいのでしょうか。菩薩の徳とパフォーマンスは、他者の幸福に責任を持つことなのではないでしょうか。一貫性の無さは創価の主張の特徴なのかもしれない。熱狂する精神的土壌は、真の宗教的精神を喪失させることでしょう。豊饒と思っていたものが実は貧困であり、美徳と考えていたことが悪徳だったりする。懺悔が傲慢な感謝だったりするかもしれないし、菩薩の相を表わすペルソナの下は、阿修羅のイマージュかもしれない。

    勲章を飾り、名誉の数を誇るのも熱狂の一部かもしれません。一人占めという飽くなき所有欲は貪りの熱狂です。ガンジーは急進主義を嫌いました。熱狂さの裏側にある進歩主義や設計主義のうそを見破り、共産主義に熱狂する知識人の軽薄さを笑いました。ガンジーが遺した私物は、使いこまれた時計や眼鏡、質素な食器など、生活に必要な最低限のものしかありません。本質的なことよりも数を誇る。つまり図体の大きさを自慢して、常に多数者の支配を完了させようとする。マッチョな力自慢は宗教ではありません。完成へと近づいていると思わせる宗教特有のドグマは、選挙運動や無理な聖教啓蒙、盲目的な財務の奉仕にあるのではなく、宗教の不在を確認する叡智にこそ、信仰の復興と再生があることを思慮すべきです。
    法華経は見方を変えれば、宗教と信仰を見失った者たちに、新たな宗教の復興を告げる物語です。とても複雑深淵で池の底をさらうようなわけにはいきませんが、現代では単純化されて、人間主義という格別な言葉で統一・説明されています。法華経は人間主義思想を根底にしていると言えば、任用試験に合格する初歩的会員の回答。創価においては学活や家庭訪問のコミュニケーションも人間主義の大切な発露であり、大袈裟な誓願も人間主義のステートメント。
    それほどまでに人間主義は多用されていますが、このような単純化・大衆化とも言える真理の退化こそ、永遠の指導者の使命だったのではないでしょうか。つまり妙法の平準化、世俗化は、伝統をなにより重んじる歴史ある宗門との訣別を勝ち取りました。単純化とはわかりやすさのこと。マス社会が最も好む大衆理論です。仏法流布と言っても、その底流には衆生の不信の機根が畑のように横たわっています。その畝から芽が出るように思想の再生と再生産があると信じて、移り変わる時代性への洞察ほど、リーダーの英知が試される機会はないでしょう。
    思想は世代を越えて、深化させていかなければならない。妙法は人間救済法の基礎を築く思想体系。あるいは菩薩の定義と行動ストラテジーを集約したもの。献身的な表現と言語で記述されています。その最初の根本命題を提示したのはもちろん釈尊。カントが気づいた「統制的理念」の持ち主です。

    『進歩主義とは、新しき変化は晩(おそ)かれ早かれ良き結果をもたらすと思い込む独断(ドグマ)のことである。――ドグマとは、その原義によれば「良きことのようにみえる」という意味だ――。なぜそんな見え方になるかというと、ほかでもない、人間・社会が変化の流れをつうじて完成へと近づいているというペルフェクティビリテ(完成可能性)の独断にはまったからである』
    (思想の英雄たち)
    池田先生の最も優れた洞察に溢れたボローニャ大学での講演は、レオナルド・ダ・ヴィンチの完成と未完成のダイナミックな相乗作用を通し「性急は愚かさの母である」という言葉を引用し、進歩主義を批判しております。24年前のことです。
    四半世紀を経過の現在、完成の未完成を目指し創価は正しい方向に歩んでいるのでしょうか?
    至高の完成に近づいていると錯覚しているのではないでしょうか?


    I'll see my Rainbow - Dwayne Ford






    P.S.
    きょう(10日)の午後、夫と一緒に本幹に行ってきました。夫の手を握っていればイジワル婦人部がいても安心です。こういう会合に出席する場合は、いつでも臨戦態勢。正しいことや信条を言い切るとき、切なく悩ましい思いをするときもあるのはどうしてだろう。
    信仰動機を強くチャージする会合でありたいと思う。本幹は、エンターテイメント化していて華やかです。未来部まで動員している。幼い者のまえでは、誰でも無垢な愛と無償の献身を感じて、素直になれるからです。そのことを知っていて巧妙に利用している。先生と奥様に対する感謝の言葉は、誰が教えるのでしょうか。全員が心からそう思っているのか疑問です。
    年少への刷り込みは、非可逆的な経験として、人生に影響を及ぼすことが科学的に証明されています。悲観的で不幸な信仰解釈のトラウマに陥る可能性が大きい。後継者が育たない一つの理由でもあるのですが、親世代の狂信はいつでも支配的、暴力的です。
    組織の健全さは、創造的人間の創造的運営から生まれる。会員拡大の報告を常に行いますが、創価の会員総数はいったいどれぐらいなのでしょうか?
    財務基盤や組織人数も分からないなんて、得体の知れない組織ですね。内外に対しての適切な分別ある情報公開、透明性によって、信頼に値する賢明な組織を望みたいと考えますが、無理なのでしょうか。時代遅れにならないようにしてください。ジェンダーバイアスではすでに、化石のような時代錯誤を決して矯正しようとしない不道徳さですから。

    関西婦人部長の声のかすれが気になりました。痛々しい印象を与えたように思いますが、本幹のためにきっと題目を上げ過ぎたのでしょう。全国婦人部をまえに、余裕の無さが垣間見れたように思います。
    H会長の相変わらずの抑揚とアクセントをつけた話し方は、演技指導をお受けになっているのでしょうか。少しでも立派に見せようとしているんでしょう。キモい粗悪老人www
    劇場型創価に変身しようとしていますね。もともと「小説・人間革命」も真実に嘘を混ぜ込んだフィクション。会員の皆さまは喜んでいらっしゃいますが、今はもう、カオスのように混沌として何が真実の歴史なのか、ほとんど分かりません。嘘でカモフラージュする詐欺師同然。ノンフィクションというテーマを扱う奇妙なフィクションの新ジャンルです。

      
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