絶対的権力は絶対に腐敗する

    3月20日は、衝撃的な地下鉄サリン事件が起きた日。裁判が終結し、最近、死刑因が全国の死刑執行設備のある拘置所に移送されました。
    事件が起きた1995年(平成7年)の前年6月には松本サリン事件。さらにその前年11~12月、池田大作サリン襲撃事件(暗殺未遂事件)がありました。この前代未聞の凶悪な事件を起こしたテロ組織はオウム真理教。教祖は麻原彰晃。グル、尊師、神聖法皇など、人間軽蔑の不遜な名前で呼ばれていた狂人。心が異常に荒廃した病的宗教家。
    地下鉄サリン事件が起きるまで、松本事件で犯人扱いされていた河野義行氏に対する報道被害は常軌を逸したものでした。この冤罪未遂に発展したメディアの対応は、その後、大手新聞社から地方の新聞社まで、各テレビ局、週刊誌にいたるまで謝罪に追い込まれます。
    ウィキぺディアには、冤罪報道の実例の詳細が掲載されています。そのなかで「毒ガス事件発生源の怪奇家系図」と題した記事で河野家の家系図を掲載した「週刊新潮」だけ、謝罪がないということです。メディアの傲慢にはあきれます。
    池田大作サリン襲撃未遂事件は裁判では立件されていません。数回にわたり計画実行されましたが、サリン散布器具の不具合などで未遂に終わりました。実行犯の一人・新実智光(死刑確定)は、逆に自分がサリンを吸って一時重体に陥った。数名の牙城会員が、視力減退や倦怠感などのサリン特有の症状を訴えましたが、後遺症は確認されなかったので、学会本部は警察への通報はしなかったという。このような判断が適切だったのか問われますが、その後も襲撃が計画され、サリンは大量に製造準備され、そのサリンは松本事件に使われたということです。もしも実行されていれば、多数の会員が犠牲になることが予想されますので、正しい判断をしたとはいえない。善悪以前に、宗教が宗教を攻撃するという擬似的宗教戦争を公にしたくなかったのかもしれない。生命尊厳を主張しながら、万全の対策を怠り会員の生命を疎かにしている。セキュリティーに対するリスクは、常にあることを自覚すべきです。
    この事件を機に、創価では池田先生の警備を強化。永遠の指導者も自分だけ安全なら、会員はどうでもよいのでしょう。命が狙われる野蛮な時代を生きていくことは大変ですが、仏法的には敵対者の出現は、特にめずらしいものではありません。理解不能な言いがかりを正当化する邪教の論理は、過激な集団に見られる特徴です。
    もっと大掛かりな狂気に近い過激な時代は戦前にありました。その精神的支柱となったのは、国家神道と日蓮主義です。つまり、神と仏です。悪しく敬えば国が滅ぶ、その証明にしては多大な犠牲を払ったものです。日蓮主義は国家救済思想、革命主義の概念が強い。牧口先生は、天照大神を祖先とし現人神であられる天皇の法華経への帰依を奉り、最強の国体と、世界統一実現の夢を描いていました。太平洋戦争は五濁悪世を解決し世界統一する聖戦だったのです。実験証明座談会では、戦意高揚の講演、体験指導を繰り返していたものと思います。全体主義的傾向は日蓮主義の最も悪しき側面です。世界と人間の理想、菩薩の救済を強くインプットされ、団結と行動を起こすことを強迫的に迫られるからです。
    地湧の菩薩には、ユダヤ教に似た選民思想が感じられますが、これは宗教全般にある自分優位の教義に由来しています。また偶然に信仰したわけではないと説き、宿命的な出会いを演出します。世界は自分中心に回っているという特別な意識は、誰にでもあるものです。仏法でも「九識心王真如の都」と説きますからね。「真如の都」は仏の生命ですが、「都」とは心王の住処、真理の中心のこと。万人と自分の中心は同じという意味。自分の内面を世界全般に反映させる思想は、特に信仰者に当てはまることは言うまでもありません。つまり理と事では大きな格差と分別があり、日蓮主義は常に強圧的に事を求めるのです。
    創価のなかでも、革命という言葉が頻繁に使用されますが、人間主義で希釈され無害に色づけされています。進歩主義者が好む革命や革新と人間主義者が好む革命の違いを明確にしなければなりません。もちろん平和な時代なのですから、社会転覆を計画するような危険思想の趣意のなかで使用されているわけではありません。会員の皆さま、関係のない一般の方々に誤解されないように気をつけましょうね。


    地下鉄サリン事件は23年前、風化し忘れられていくことが心配ですが、今から7年前の3月、経験したことがない大地震と大津波だけでなく最悪の原発事故が東北を襲いました。現在もその被害の全貌を正確につかむことは難しい。
    特に原発事故の後始末には、これからどれだけの時間と国家予算が必要なのか、まったく不明です。いろいろ報道されていますが、多方面、広範な現場で同時進行で突発しましたので、複雑すぎて整理も困難です。このような危機的状況は、戦争以外、日本史のなかには存在しないように思います。また科学的、技術的にも高度な内容は、素人に理解は難しく、また放射能の専門的知識もありません。

    メルトダウン(炉心溶融)したときの民主党・菅政権の無能な危機管理は、日本の崩壊を一時的にしろ覚悟させるほどの切羽詰まった状況でした。
    『菅直人総理大臣は、最悪の場合に何が起きるか具体的なイメージをつかむため、3月22日、近藤駿介原子力委員長に「最悪シナリオ」の作成を要請した。3日後の25日、「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」と題する資料が細野首相補佐官に提出され菅総理に報告された。この資料は閲覧後回収されて存在自体が秘密に伏されたが、2012年2月初めに、内閣府の情報開示で公開された。この資料で示されたシナリオでは、1号機で再び水素爆発が発生した場合、放射線量上昇により作業員が全面撤退を余儀なくされ、他の号機への注水も止まり、4号機の使用済み燃料プールの燃料損傷が発生、使用済み燃料プールでコアコンクリート相互作用(溶融燃料コンクリート相互作用、MFCI)が発生する。この場合、4号機の使用済み燃料プールからの放射性物質の放出量が最も多く、避難規模を大きく左右する事になる。その結果、チェルノブイリ事故で適用された基準をあてはめると、170km圏で強制移住、東京を含む250km圏で避難を求めることが必要になることが示されている』(ウィキペディア・福島第一原子力発電所事故)

    ドキュメント「メルトダウン」(大鹿靖明著・講談社文庫)では、事故発生からその緊迫した様子をほぼタイムラインで描いています。最悪の事態を想定して、シミュレーションが行われましたが、それは予想をはるかに超えるものでした。上記とほぼ同じ個所を引用すると、
    メルトダウン『原発が相次いで爆発していたころ、菅は、しばらく後に内閣官房参与に起用する数人の学者に対して「最悪どういうことが起きるのか」とシミュレーションを依頼している。
    保安員の寺坂院長やエネ庁の安井部長、原子力安全委員会の班目委員長は菅に対して「メルトダウン」という用語を使わずに「炉心損傷」という言葉を使って、事態を軽微に見せるような説明ばかりしてきたが、菅はそんな言い回しに不信感を抱いていた。秘かに知り合いの学者たちに問い合わせ、菅は「彼らから早い段階でメルトダウンが進んでいる、と聞いていた」という。
    そのときと同じように、保安院のような政府機関とは別ルートで最悪の事態のシミュレーションを知り合いの学者たちに行わせたのだった。依頼して2、3日でその予測結果が菅のもとにもたらされている。東日本全体の大気中への放射能汚染の拡散予想を示すものだった。
    しばらくたってからだが、細野豪志(㊟首相補佐官)も原子力委員会から同様のシミュレーションを3月25日、持ち込んできた。パワーポイントでつくられたその「3000万人避難計画」は、表紙に「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描 近藤駿介」とあった。近藤とは、原子力委員会委員長の東大名誉教授のことである。そこには、もし新たな水素爆発など最悪の事態に陥った場合、原発から半径170キロは強制移住、250キロ圏も避難とあった。170キロ圏では新潟県や北関東を含み、250キロ圏だと東京や横浜も含まれる。この広大なエリアで数十年にわたって人が住めなくなる。
    菅はそれを見て、「日本が崩壊する」と思った。
    「いったい、天皇陛下はどこに移せばいいのか、国会は、各省庁は……そんなことを考えた。はたして政府機能は維持できるのか。内閣はどうするんだ。戒厳令がないのにそんな避難はできるのか。それに選挙は今後どうすればいい、GDPはどこまで落ち込み、失業率はどのくらいになるのか。国家として統治できるのか。国家の自滅だ。そんなことをずっと考えていたんだ。3000万人が避難を強いられるようになったら、避難途中で病人やお年寄りが数十万人単位で亡くなるかもしれないとも思っていた。いずれ枝野長官と話し合おう、そう考えていた」
    このときの心境を菅はそう表現した』

    ウィキペディアとほとんど同じ内容をさらに詳しく記述していますが、首相の驚くべき心境を知ることができます。
    菅首相は理系の大学を卒業していて、原発についてある程度の知識は持っていました。だからこそ、事態がただならぬものであることを恐れていたのです。菅に進言した専門家は、パニックに陥っている菅を、これ以上刺激したくなかったのか、官僚特有の忖度を発揮して、メルトダウンという恐ろしい言葉を使いませんでした。
    また、学者が真面目にシミュレーションしているのですから、現実的でないなどと誰が言えるでしょう。メルトダウンの恐怖を、緊急時を想定し少しだけ誇張して評価すれば、専門家は安全を最大に見積もって、300キロや500キロの数字をためらいなく出すでありましょう。つまり東日本はほぼ壊滅という悪夢もあり得たほどの重大事故だったのです。国際原子力機関(IAEA)は国際原子力事象評価尺度(INES)で最高のレベル7と評価。専門家ではないので、このような被害を正しく表現できませんが、原発政策の転換、根本的に見直し縮小していくことは当然です。わたしが注目したのは事故直後の様子、福島と東京で繰り広げられた東電を中心にした政府の愚かな対応です。またそれを伝えた一部メディアの血も涙も感じられない粗悪で不誠実な報道の姿です。

    『マスメディアは民主主義とともに発達してきたというその出自からして、民衆の利益のために既成の権威・権力に破壊を仕掛けるのを本務としている。その傾向はマスメディアが第一権力となってもなおやむことがない。つまりマスメディアの破壊主義とは、自己の保有する第一権力以外のすべての権力に破壊をよびかけることをさす。第一の権威・権力が権威・権力の破壊のなかに「平和主義と民主主義」そして「進歩主義と人間主義」の実現を夢みるとき、この世にどんな事態がもたらされるか、わざわざ言及するまでもない。打倒すべき権利を捏造してそれを実際に打倒してみせる、という大衆リンチめいた民主主義の悲喜劇を演じつづける、それがマスメディアの仕事となる。
    知識人はすでにこうした大衆演劇のなかで不可欠の役柄を宛てがわれている。権威を嘲弄するための言説と権力を解体させるための処方を紡ぐのが知識人の役割である。知性は、まずカール・ヤスパースいうところの「粉飾の言葉』に堕落している。つまり、マスメディアの権威・権力をひそかに弁護するための言葉になり果てた。次にそれはヤスパースのいう「反逆の言葉」に転落している。つまりマスメディアのもの以外のあらゆる権威・権力に反逆するための言葉になりおおせた』
    (「知性の構造」西部邁:ハルキ文庫)

    このような引用を読んで思い当たる人もいるでしょう。慰安婦問題での朝日新聞の捏造。福島原発メルトダウンでの吉田調書の朝日の誤報。昨今、フェイクニュースが話題になりますが、そもそも、最初の出所は、大手メディアの捏造や不確定で非中立的な報道スタンスにありました。また反省なき悪意、検証なき傲慢さにありました。これらの報道姿勢は、戦前軍部に追随し国民をだまし続けた勇気なき無責任、自由と平和への不信仰という病的な報道姿勢と同根なのです。つまり、朝日はずっとヒューマニズムや正義という隠れ蓑で正体を隠しながら、変わらない体質を 維持し続けているのです。
    かつて創価もあることないこと精査もなしに書き立てられたこと忘れてはならないでしょう。根拠のない政教一致論争は決して収拾したわけではありません。批判のための批判という言論の自由を盾にした暴力です。わたしは、わざわざ創価のために言っているのではありません。民主主義の原則を深く考えなければ、民主主義のなかから生まれる最悪のポピュリズムに侵される危険を見逃してしまいます。『反逆の言葉』によって市民社会は崩壊する。西部氏が言う『信念なき疑念』のもとで『秩序なき自由』を振りかざし、『総合なき分析』がまかり通り、正確な歴史分析に至らなかった間違いとその意図を指摘しているのです。


    NHK ニュース
    朝日新聞社の木村伊量社長と編集担当の杉浦信之取締役らは、11日(2014年9月11日)夜7時半から記者会見しました。
    朝日新聞社は、ことし5月20日の朝刊で、福島第一原発の吉田昌郎元所長が政府の事故調査・検証委員会の聴き取りに答えた証言記録、いわゆる「吉田調書」を入手したとして掲載した記事の中で、福島第一原発の2号機が危機的な状況に陥っていた3月15日の朝、「第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた」と報じていました。
    これについて、木村社長は、記者会見の中で「『吉田調書』の評価を誤り、多くの所員がその場から逃げ出したような印象を与える間違った記事だと判断した」などと述べ、「取材が不十分で所長の発言への評価が誤っていたことが判明した」として、記事を取り消しました。
    また木村社長は、「読者および東京電力の皆様に深くおわび申し上げます」と謝罪したうえで、みずからの進退について「経営トップとしての私の責任も逃れられない」として「抜本改革のおおよその道筋をつけたうえで、速やかに決断したい」と述べました。
    杉浦取締役については、編集担当取締役の職を解くとしています。
    さらに木村社長は、いわゆる「従軍慰安婦」の問題を巡る自社の報道のうち、「慰安婦を強制連行した」とする男性の証言に基づく記事を先月、取り消したことについて、「誤った記事を掲載したこと、そして、その訂正が遅きに失したことについて、読者の皆様におわび申しあげます」と謝罪しました。
    そのうえで、過去の記事の作成や訂正に至る経緯、それに日韓関係をはじめ国際社会に与えた影響などについて、第三者委員会を設置して検証することを明らかにしました。
    また、この問題を巡って、ジャーナリストの池上彰氏が、朝日新聞に連載しているコラムで検証が不十分だと批判する内容を執筆したところ、朝日新聞側が当初、掲載できないと伝えたことについて、木村社長は「途中のやり取りが流れ、言論の自由の封殺であるという思いもよらぬ批判をいただいた。結果的に読者の皆様の信頼を損なう結果になったことについては社長として責任を痛感している」と述べました。

    吉田所長は東電の社員であり、当事者ですが、絶体絶命の過酷な現場から一歩も退くことなく指揮しました。仕事とはいえ、それがリーダーの努めです。努めとは義務ではなく信念のことです。彼に従ったその他の多くの社員も、見えない恐怖と闘いながら、責任を果たそうと奮闘したのではないでしょうか。責任を放棄し逃げるという臆病な日本人なら批判もされますが、士気盛んに戦った姿を、意図的に辱める感覚は、正義の味方を任ずるリベラルの特徴です。


    産経2014.8.18
    ヒーローが一転「逃げ出す作業員」「恥ずべき物語」に朝日報道、各国で引用

    外国の有力メディアは、「吉田調書」に関する朝日新聞の記事を引用し、相次いで報道した。韓国のセウォル号事故と同一視する報道もあり、「有事に逃げ出した作業員」という印象が植え付けられている。
    米紙ニューヨーク・タイムズ(いずれも電子版)は5月20日、「パニックになった作業員が福島第1原発から逃げ出した」と報じた。「朝日新聞によると」という形で、記事では第1原発所員の第2原発への退避を「命令違反」だと報じている。
    英紙ガーディアンは5月21日付で「『フクシマ・フィフティーズ(福島の50人)』と呼ばれたわずかな“戦闘員”が原発に残り、ヒーローとして称えられた。しかし、朝日新聞が明らかにしたように650人が別の原発に逃げたのだ」と記した。
    オーストラリアの有力紙オーストラリアンも「福島のヒーローは、実は怖くて逃げた」と見出しにした上で、「事故に対して自らを犠牲にし果敢に闘った『フクシマ・フィフティーズ』として有名になったが、全く異なる恥ずべき物語が明らかになった」と報じた。
    韓国紙・国民日報は「現場責任者の命令を破って脱出したという主張が提起されて、日本版の“セウォル号事件”として注目されている」と報道。韓国で4月に起きた旅客船沈没事故で、船長が真っ先に逃げたことと同一視している。



    3月21日、福島第一原発現場で放水活動を行った東京消防庁ハイパーレスキュー隊員らが、東京渋谷区の消防学校で活動報告会を行いました。石原都知事が男泣きに泣いた訓示の言葉に、誰もが同感し感謝しました。一方で、そんな姿を、馬鹿にし嘲笑する人間性が腐れた市民もまたいることが、悲しい日本の現実です。
    朝日の誤報の影響は甚だしく、東電の吉田所長はじめ現場所員の命がけの格闘を、正確に報道する姿勢がありません。記者であるまえに、人間としての誠実さが欠けているように思う。


    連日、森友問題について、テレビも新聞も週刊誌も、メディアは興奮してとりあげています。朝のワイドショーでも報道していると、わたしはすぐチャンネルを切り替えますし、リモコンのOFFボタンを押してしまいます。政治の停滞はとても残念ですが、「絶対的権力は絶対に腐敗する」という定義に従えば、政権だけでなく、メディア権力も腐敗するということかしら。絶対的権力でなければ、さらに腐るのも早い。つまり、腐らない世界はないということ。これは政治の世界にかぎりませんね。
    「絶対的真理を追い求めている宗教も、絶対的に腐敗する」アンナの名言!
    政府は末期的症状です。長期政権には必ず利権がはびこり、人事権への過度の忖度が働きます。内閣を支える与党も、行政、立法能力に陰りが見え始めたということ。山口代表のクールすぎる表情も、他人行儀な関心度なのかもしれません。最後には、与党離脱という切り札がありますからね。中道とはよく言ったものです。右と左の中間を彷徨い、損得と報酬に目ざとい日和見政党よ、永遠の指導者に永遠に忖度する政党よ、万歳!
    冷静に事態を観察すると、財務省の官僚が籠池の巧みな詐欺師ぶりに翻弄されたという構図でしょうか。そこに疑うことを知らない天使のような安倍夫人の登場で、事態が一気に複雑化した模様。政治の世界では冷静でいることがバカみたいに思え、理性がマヒするような錯覚にとらわれます。複雑に糸がからまったイメージが浮かびますが、それを操っているのが夫人? なにも考えない夫人の方が、ずっと賢いのかもしれません。
    好きか嫌いか問われたら、嫌いなタイプの女性です。崖っぷちに立たされて、困っている夫のことを少しは考えたらどうなのでしょうか。余計なお世話ですね。


    Blossoming Heart
    Danny Rayel





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    SGI提言…人権問題について

    今まで何度も提言してきた人権問題。特に、難民の子どもたちの状況ですが、原則的な提言に終始しています。また高齢者に対する人権問題も、91年の「高齢化世界会議」の議論の成果、「高齢者のための国連原則」の、独立、参加、ケア、自己実現、尊厳の5項目を紹介し、高齢者の生きがいについて語っています。高齢化は世界的問題として、これからますます注目されますが、介護されながら尊厳を感じる生き方を、福祉社会として実現することの難しさがあります。難民の子どもたちの教育機会の提供と同様に、経済的裏づけが必要です。ほとんど半分は経済的な計画性に行き着くものと思いますが、提言での言及はありません。
    先生、少し預金を下ろしたら、子どもたちが喜びますよ。SGIもできることをしなければなりませんが、経済的な支援もその一つではないでしょうか。チャリティー精神は、仏法の喜捨に通じますよ。
    経済協力開発機構(OECD)の調査によると、日本はひとり親世帯の半数以上が貧困状態にあり、加盟34ヶ国で最悪レベルにあります。しかし就業率は8割を越えて世界トップレベルの労働環境。つまりワーキングプアであることが大きな問題なのです。少子化が加速する日本では、子供の貧困の解消は社会全体の課題です。13年に施行された子ども貧困対策法のさらなる充実が期待されます。

    女性のエンパワーメントの推進について
    『女性のエンパワーメントは"可能であれば考慮する"といったオプション的なものであってはならず、課題に直面する人々が切実に必要としているものに他なりません』
    SGIも「万人の尊厳」を掲げる仏法の思想を反映し、活動を続けてきたことを、さりげなくプロパガンダしたのち、男女平等のためのノンフォーマル教育のカリキュラム、あるいは積極的なシラバス作りなどへの参画をアピールしています。
    『昨年3月の「女性の地位委員会」では、ジェンダー平等と宗教に関する世界的なプラットフォームが立ち上げられました。
    その目的は、それぞれの信仰に基づく言説を展開する中で、女性の人権や貢献に対する社会の認識を改善する流れをつくり出し、地域をはじめ、国や国際レベルのジェンダー平等に関する政策や法律の整備などの規範づくりに影響を与えていくことにあります』


    「世界経済フォーラム」は、男女格差の度合いを示す「ジェンダーギャップ指数」の報告書(2017年版)を発表しました。日本は世界144ヶ国中114位となり、過去最低だった前年の111位からさらに後退しました。
    世界のことはいざ知らず、日本人女性は、自らの日常でジェンダーギャップを感じているのでしょうか。日本社会のなかで、常識的と思われる男女格差に理不尽な差別を感じたことはありませんか?
    問題は深刻で、女性自身がそのギャップを切実なものとして意識していないという、格差以前の格差不感症みたいなところがあるのではないでしょうか。また女性のための権利優先ルール作りも男性に依存するという問題意識の低さ。控え目で堅実な生活スタイルと品行、家庭的な暖かさを求め、子育て上手な聡明な賢婦人という美徳、一歩退いた道徳的なつつましやかさ。女性に求められる理想はとても古臭いものですが、創価のなかでも、SGIで全世界に提言するほどの平等を実現しているとはとても思えません。このような男女格差の問題提起でも、核兵器禁止条約と同じように、整合性がまったくとれていません。
    創価自身のこのような問題意識の低さは、婦人部の模範として常に輝いている香峯子奥さまの立ち振舞にあるのではないのかと、最近わたしは考えるようになりました。奥さま自身の言葉で、実際のところ、何かを提案し、具体的に変化した創価内のルールが見当たりません。その姿勢は女性として創価を代表していながら、とても古典的で、男女格差の解消についての有効なスピーチ、あるいは聖教記事は記憶にありません。わたしが単に知らないだけなのかもしれませんが、もしも知っている方がいらっしゃるなら紹介して下さい。

    ◇◇◇

    東洋哲学研究所から『「女性の世紀」を創るために』という本が発売されています。
    一般啓蒙書、入門編という位置づけなのでしょうが、仏教の重要思想への掘り下げがきわめて浅く、手を抜いているとしか思えません。このような示唆を与えない論文は、一般見解の内容であり、オリジナリティーも乏しく、読者に何を与えようとしているのか疑問です。
    ジェンダー理論は大聖人の深い叡智に完結しています。それをどう解釈し、発展させなければならないか、創価の知識人としての力量が問われています。創価が戦後、急速に拡大したのは、新しい解釈を提示したからであって、理想とされる人物像も、先頭に立つリーダーが体現し、人々の眼前に現れたからです。時代に付与する解釈の斬新さが閉塞する社会の現実を切り開いていくのだと思います。知識人と言われるスペシャリストが、その役割を担っています。コスモポリタンと言う前に、言語が持つ本来の力を復活させる……言い方を変えれば、浅薄な意義づけに終止している市民社会の指導原理を、主体者である人間に取り戻すべく価値転換をはからなければならない。価値あるものへの願望が歴史を動かしてきたのです。それは本質的にして普遍的な善への衝動でしょう。
    オルテガは「大衆の反逆」のなかで次のように述べています。

    『われわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかわからないのである。つまり、あらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人になれず、自分自身の豊かさのなかで自己を見失っているのだ。われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術を持ちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間に漂っているのである』

    自己が自分の主とはブッダの言葉。ギリシャ哲学も、疑いのなかから、疑えない自己を発見した。無知という深い海中で自己像という宝物を発見したのです。大海と同じ海水が心の海にも満たされています。無限に広く無限に深い心の海で、自分そっくりの自己像を発見する方法と場所をブッダは示しました。実現能力とは殻を脱ぎ捨て新たな自己像を描く能力のことです。
    現在ほど、覚醒し鮮明に言葉を操り、意義を見出す作業が必要なときはありません。その役割は誰が担うのだろうか。

    なぜ自分が立つ土台を、安全なものにしないのだろうか。自分が拠り所とする賢明と自称する大衆に懐疑を抱かないのだろうか。現実的な男女の性差を問題にしながら、リアリティーに欠けると感じるのは、自らのアイデンティティーでもある所属組織に対し主体的視点を欠いているからだと考えるのです。固有の自覚した自己の集まりが創価ではないでしょうか。目覚めた集団が創価ではないでしょうか。人間の尊厳と高貴さに最大の敬意をはらうのが妙法の使徒。精神的沼地から自他の悟りという実践的知識の深い花を咲かせるのが、創立者が訴えるそれぞれの使命なのではないでしょうか。
    なぜ副会長クラスに女性がいないのでしょう。末端でも支部長や地区部長に女性が登用されないのか。青年部長に一人でも女性がいるのでしょうか。また宗教法人として役員のなかに女性がいるのかどうか。人事は組織の要であり、一般から最初に認識されるフロントです。足もとの問題を見つめないで、どうして創価の先駆的メッセンジャーたりうるのでしょうか。創価が男女平等・同権を主張するなら、それは制度、機構、人事に反映されるはず。先進的世界組織というのであれば、総務や理事の半数は女性にまかすべきなのです。気分や精神、理念の時代は過ぎました。基礎となるフレームワークを考え実現しなければならないのです。先生はなにも実現しようとしません。また現在の執行部も見解がありません。時代遅れであることは誰が考えても明らかです。宗門から独立した宗教的リベラリズムは、もう錆びついたのですか?
    さらに結婚を機に本部職員の退職を余儀なくされるのは、どう考えて時代錯誤です。経済力がある男性と結婚しなさいという暗黙の了解があるのですが、もちろんそんなことは表だって言いません。それを疑問なく受け入れる女性たちも愚かなる大衆ということでしょうか。ジェンダーは権利を貫き、義務をはたし、現実においてそれを達成することです。男性原理だけではもう何も解決しないのです。


    ライナス・ポーリング博士をはじめとするノーベル賞受賞者とともに「反核運動」に献身し、アメリカでの人権活動家としての先駆的役割を担ったパール・バック。その苦悩と、障害者であった娘への深い愛情、母として絶望の淵に立たされ葛藤を繰り返しながら、再び立ち上がった貴重な魂の記録、「母よ嘆くなかれ」。
    絶望と悲しみが深く洞察されています。わたしは、震災に遭われた方々も同じではないかと思いました。この本のなかで、「悲しみ」について、自身の体験から述べた箇所がありました。
    『耐え忍ぶのは、ただのはじまりではありません。悲しみを受けいれなければならないし、悲しみを十分に受けいれると、そこから自然に新しい道が開けることを知ってほしいのです。というのは悲しみには錬金術に似たところがあるからなのです。つまり、悲しみが知恵に変えられることさえあるのです。悲しみが喜びをもたらすことはありませんが、その知恵は幸福をもたらすことができるのです』
    『とにもかくにも、悲しみとの融和の道程がはじまったのです。その第一段階は、あるがままをそのままに受けいれることでした。そのことは意識のうえでは一日で起こったようにも思えます。「このことは決して変わらない、決してわたしから離れるものではない、まただれもわたしを助けてくれることはできない以上、わたしはこのことを受けいれるほかないぞ」と、はっきり、自分にいい聞かせた瞬間があったのです。でも、じっさいは、いっきにそこへたどりついたわけではないのです。わたしは何度も何度も泥沼にすべり落ちたのです。自然にすくすくと育ってゆく近所の子どもたちが、わたしの娘には決して話せないことを話したり、娘には決してできないことをしているのを見るだけで、わたしは打ちのめされたようになったものでした。
    でも、わたしはその絶望のどん底から這い出ることを学びました。そして這い出て来たのです。そして「これがわたしの人生なのだ。わたしはそれを生きぬかなくてはならないのだ」と悟ったのです』
    (法政大学出版局)
    辛い宿業の積極的な甘受です。願兼於業へといたる心理的葛藤のことです。迷いから決意が生じる瞬間のことです。大切なのは結果を心配することではなく、迷うこと決意すること。法の範疇において、自分流の解釈をカントは「思惟」と名づけた。デカルトは「良識」、ヘーゲルは「思弁」と表現した。
    東北の方々、被災者のためのメッセージのようです。どん底から這い出ることを学び、あきらめないで生き抜く……菩薩の苦悩の本質を体現していますが、それが簡単に得られたものでないことは、彼女の苦闘を知ればわかるでしょう。被災者へのホスピタリティーは、一人一人を見捨てないことです。

    同じように組織の充実と伸張は結局、どこまで一人一人に焦点をあてることができるか、ということではないでしょうか。先生が、多くの会員の人生の転換点で、朽ちない忘れがたき金の思い出を築かれてきたこと、それが人間蘇生のよりどころとなり、希望となってきました。
    現在、人間関係の希薄さが創価のなかにも忍び寄っていると思います。聡明な会員は、癒しがたい劣悪さに覆われた社会をまえにして、ヒューマニティーな指標の喪失を感じていることでしょう。簡単には論じられませんが、種々の深刻な社会問題と健全な市民生活の崩壊、欲望の解放という大衆意識がリアリスティックに迫ってきます。創価内において、宗教的聖性を失った生き方、経済的生活水準の下落、文化と価値の多様化など、一様にいかない複雑さが顕在化してきているのではないかと思います。つまり、それらは日常生活にすみやかに反映することを防ぐことはできず、苦楽を共有できない信仰活動へと堕落するのです。精神浄化という聖的なものが駆逐されるのです。苦楽をともにするという団結心がうわべだけ、掛け声だけの飾りものに変化するのです。
    適時適所で、地区や各部で議論が必要であり、世界と現実に対する新解釈を提示し、まとめなければならない。
    わたしは、これらの問題点を指摘し続けてきましたが、婦人部幹部はヒステリックに反応し、ジェンダーギャップを含め、まるで女の敵は女だと言わんばかり。また何を勘違いしているのか、敵は内部にありと犯罪者のように見下し、盲信者のように原理主義に立ち返る姿は勇ましいかぎりです。本質を凝視しないで近いものしか見ない女性の特質が表れています。

    集団はタテマエを尊び帰属心をあおり、個人はホンネを隠して従う。集団に過度に依存する体質は日本人の伝統的な気質ですが、当然ながら、集団意識が優先され、他者の内面に対して不感症になる傾向があるものと思います。信仰と緊密に関係していた過去の生活形態が変化し、教義研鑽過程、会合の意義など宗教組織も変わらざるをえない現況があると思います。現在は維持できても、10年後は今のままでは維持できないでしょう。だからこそ前向きな検討と変化への勇気が必要なのですが、その前に、判断のもとになる真実の歴史の隠蔽体質があることは大変残念です。
    会員一人一人が創価のあり方の決定権を持っているのであり、その行使のためにも、賢明にならなければなりませんね。
    人間革命の連動性は先生がよく論じているところです。組織改革も一人から始まると思いますが、誰も実行しないのです。実行する十分強い根拠と自覚を持たないからと思いますが、やがて止められない流れになることでしょう。そうならなければ、いくら信仰は正しくても創価に未来はありません。

    『人が何らかの意味で瀆神の言葉を口にすることができるためには、その人が瀆(けが)している対象である神を深く信じていなければならない』(トーマス・エリオット)
    逆説的な言い方ですね。知らなければ批判できないように、信じていなければ、信じる対象も瀆すほどの意味がないということ。
    『神は死んだ』とニーチェは言いました。神のように崇められる者を否定したのですね。
    それは「終末の人間」と定義された、伝統を破壊し、民主主義という宗教を信奉する大衆のことです。それとも、冒涜し、瀆しているのはわたしでしょうか。

    『指導者は、多くの場合、思想家ではなくて実行家であり、あまり明晰な頭脳を具えていないし、またそれを具えることもできないだろう。なぜなら、明晰な頭脳は概して人を懐疑と非行動に導くからである。指導者は、とくに狂気とすれすれのところにいる興奮した人々や反狂人のなかから輩出する。なぜなら彼らの擁護する思想家やその追求する目的がどんなに不条理であろうとも、その確信の前ではどんな議論の鋭鋒もくじけてしまう。軽蔑も迫害もかえって指導者を奮起させるだけである。……強烈な信仰が彼らの言葉に大きな暗示力を与える。大衆は常に強固な意志を具えた人間の言葉を傾聴するものである。群衆のなかの個人は、まったく意志を失って、それを具えているもののほうへ本能的に向かうのである。(「群集心理」ギュスターヴ・ル・ボン:1895年)
    指導者は「断言」を「反復」し、そうすることによって自己の確信を群衆のなかに「感染」させようとする。それに成功しているかぎりにおいて指導者は、「威厳」を保ちうる。そして群衆の上に聳えるのが威厳であるからには、「議論の的にされるような威厳はもはや威厳とはいえない。……群衆から称賛されるには(指導者は)常に群衆をそばに近づけてはならない」のである』
    (「思想の英雄たち」西部邁・ハルキ文庫)
    ここで言うところの「群衆」は、オルテガの「大衆」とほとんど同じ意味とわたしは理解しています。大戦前の独裁者の姿を彷彿とさせ、喜々として従った群衆の時代を喝破していますが、日本で話題になることはありません。あるいは群衆蔑視の裏づけ資料として引用されるだけですが、このような大衆への視点を置く知識人はこの日本では見かけることはありません。
    池田先生は、旺盛な表現意欲を印象づけるようなスタイルを維持していますが、実際のところ、会員を近づけようとしません。閉じこもり、音声としての人間の言葉を聞くことがなくなり、印刷された文章のみの存在です。会員のなかには、多量の原稿を本当にご自身が執筆されているのか、不信に感じている人もいます。そんなことは初めから承知のうえなのでしょう。それよりもカリスマ性という威厳を維持することが大事なのかもしれませんが、虚像のような作為を感じてしまいます。SGI提言をするほどのリアリストに似つかわしくないですね。
    絶対的宗教とその教義、絶対的哲学とその思想がこの世にあると仮定しても、絶対的人間は毛沢東ぐらいしか見当たりません。天安門という霊廟に葬られ見世物になり、聖遺物への信仰を国家の中心に据えられ、国家泰平のための祈願対象になっています。これを宗教と言わずして宗教は存在しません。永遠という絶対的玉座に奉られ、平凡な一般人が近づけない境地にいらっしゃる永遠の指導者は、古今東西等しく大袈裟に葬られることがほとんど定説になっております。現実の価値判断は相対的判断で成り立っていますが、どういうわけか宗教だけこの範疇に入りません。絶対的現実が存在すると主張する矛盾を盲目の信仰者は理解できません。盲目と言いましたが、学んでいることは開目と言います。
    凡夫僧、凡夫仏は「平凡な非凡」ですが、池田先生もかつて「完成の未完成」とスピーチしました。「一切の先入観を排して現実の動きを凝視し続ける」「現実の固定化、実体化に陥りがちな言語の虚構性」(レオナルドの眼と人類の議会)などと語り、「流動する現実の普遍性」を強調しました。人間は現実から離れて存在しえないのです。現実は、時間の流れを止めることができないように決して固定化することはありません。一つの時間、一つの時代を切り取って永遠化し、固定的に定義する思想など、学ぶに値しないものと思います。またその姿は虚構です。創価は永遠という絶対性を、ご祈念文にまで取り入れておりますが、釈尊の最後の言葉『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』(「ブッダ最後の旅」中村元訳・岩波書店)という現実認識の振る舞いからはほど遠いものです。現在が瞬間に過去になるように、滅びゆくもの栄えるものの諸現象は固定的ではありません。仏法的概念では時は悠久です。その一つの瞬間を切り取って、永遠という究極の冠言葉をつけられる人間を認めてはならないのです。


    アンナの日記から引用。
    『わたしは、より良い人生について、誰かの講義を受けようとは思いませんし、倫理家や道徳家にレクチャーを受けるつもりもありません。わたしは、自分の内面から必然的に湧きでてきた「自由」の概念や「勇気」について、十分自覚しているし、自分の理性と切り離せない当然のものとして所有しています。
    わたしの精神の領域は、完璧な法に守られて、価値ある行動を生む源泉になっています。わたしは躊躇しないし、迷わない。人々に尽くし、人々とともに分かち合う喜びが充満することを熱望しています。少なくとも精神世界が投影される行動基準のなかでは自由であること、それがわたしの喜びです。
    真の善を求めているかぎり、あきらめることなどありえない。それが、わたしの信仰です。それはまた、自由と自律の意志が仏からの贈り物であると認めているから。
    慰めだけの宗教なら、慈悲の宗教とはいえません。慈悲は自由を実現する行動のこと。
    同時に心のなかを果てしなく歩む巡礼者の自己探求の行為です。

    「思い通りにならなくても何とかなるものよ」
    創価へのわたしの苦い思いも選択も、何もかも知っている母からの電話。
    優しいはげましの声』


    社会的抑圧と信仰の官僚主義に反対して。
    独断と未熟と権威の幻想と派閥主義と、自己への幻滅心理を嫌悪して。
    今は、独断と未熟の官僚主義が横行し、過剰な忖度が政治の混乱を巻き起こしています。
    忖度しない人間はいない。ビジネスで仕事がスムーズにいくのは忖度があるからです。
    上司への、部下への、同僚への心遣いがあればこそ、愛せる職場に成熟していくのではないでしょうか。あなたをいつも想っているというメッセージは、家族のなかでも、信仰集団の信頼できるフレンドシップにも必要です☆彡


    SAVIOR - Peter Roe




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    SGI提言…核問題について 2

    SGI提言の後半部分。
    三項目の地球的課題の解決のための提案のなかで、第1の提案は核兵器の問題についてです。
    南アフリカ共和国の例を紹介しながら、非核兵器地帯条約の先駆けとなった中南米のトラテロルコ条約は、人権の理念と分かちがたく結びついて誕生したこと。
    『南アフリカ共和国はデクラーク大統領が議会演説でアパルトヘイト(人種隔離)の廃止を約束した翌年(1990年)から、核兵器の解体に着手しました』
    第33回SGI提言、また英文エッセイ「明日をみつめて」(「北極の非核地帯化」の実現を)で南極条約についてふれておりますが、これは世界の非核兵器地帯の条約の一つです。

    ラテン・アメリカおよびカリブ地域における核兵器禁止条約(トラテロルコ条約)
      発 効:1969年
      加盟国:33ヶ国
    南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)
      発 効:1986年
      加盟国:13ヶ国
    東南アジア非核兵器地帯条約(バンコク条約)
      発 効:1997年
      加盟国:10ヶ国
    アフリカ非核兵器地帯条約(ペリンダバ条約)
      発 効:2009年
      加盟国:54ヶ国署名、40ヶ国批准
    中央アジア非核兵器地帯条約(セメイ条約)
      発 効:2009年
      加盟国:5ヶ国
    モンゴル非核兵器地位
      1998年 国連総会で一国の非核兵器地位を全会一致決議
    南極条約
      発 効:1961年
      加盟国:5核保有国をふくむ53ヶ国 

    非核兵器地帯条約に批准加盟している国は100ヶ国以上であり、長期的視点に立てばその流れを止めることはできないでしょう。
    現在、北朝鮮の核の脅威について、どういうわけか、北の独裁者の心変わりなのか、進展の可能性を示しております。今まで何度も裏切られ、裏切りの系譜を脈々と受け継いでいる国家ですので、簡単に信じることはできませんが、恒久的な核廃棄へのプロセスを確認できるほど対話が進められることを切に望みます。
    また9日の報道によれば、米朝の首脳会談が実現しそうです。驚くべきスピードで情勢が進んでいますが、もしも順調に非核化への道筋を決めることができればトランプ大統領にノーベル賞という話も出てくるかもしれません。劇的に世界を変える力を持つのは、やはり政治家ということなのでしょうか。
    池田先生が公明党を手放せない理由が分かるような気がしますが、信仰の目的は、人間内面の変革を重視し、無限の智慧の可能性に目覚めるものですので、世俗的な栄誉を望むのは宗教家らしくないとも言えますが、政治的影響力を保持したい欲求があるのでしょう。私的な宗教的動機を公的な政治的目標に置換して、権力と宗教の一体化を、無意識のうちに合理化しているのかもしれない。「政治と宗教」という著作もありましたね。政治への興味は強くあったようです。しかし、自分のための報奨を求めるのではなく、常に利他を重んじる心がなければ信仰ではありません。

    第38回・SGI提言(2013.1.26)では、戸田先生の「原水爆禁止宣言」に言及した後、北東アジア非核兵器地帯について論じています。この北東アジア非核兵器地帯のアイデアは、オリンピックを契機に対話の方向に進展した北朝鮮と韓国の非核へ向けた行動に表れています。国連という国際的な交渉の場で信頼を得ることができるのか、今後、北の独裁者の本当の知性が試されることでしょう。誠実でなければ瞬く間に最悪の関係に逆戻りする。
    『核兵器についても、広島や長崎の人々が自らの被爆体験を踏まえ、「どの国も核攻撃の対象にしてはならない」「どの国も核攻撃に踏み切らせてはならない」との二重の誓いをメッセージとして発信してきたように、核兵器による惨劇をなくす挑戦の最前線に日本が立つことを望みたい。
    具体的には、日本が「核兵器に依存しない安全保障」に舵を切る意思を明確にし、「地域の緊張緩和」と「核兵器の役割縮小」の流れを自ら先んじてつくり出していく。そして、北東アジアに「非核兵器地帯」を設置するための信頼醸成に努める中で、グローバルな核廃絶の実現に向けての環境づくりに貢献すべきであると思うのです』

    この北東アジア非核兵器地帯条約について、「核兵器と原発」から詳しく引用すれば、次のような重要な視点と提案を知ることができます。以前からその構想は認識されており、核兵器が悪の烙印を押されたことから、核兵器所持の罪悪感をさらに高めていきたいものですが、市民意識の向上と連携が大きな鍵をにぎることになるでしょう。SGIが国連の現場で行っている啓発のための展示や諸行事は地道な足どりですが、重要な意味を持っています。
    特に若者への啓発と啓蒙は運動の継続のためにも重要です。でも創価の青年部員の問題意識は高いのでしょうか? 宗門批判ばかりしてないで世界に目を向けたら、生き方も、信仰の取り組み方も、公明党支援や政治への意識も変わっていくことでしょう。
    『「核の傘」に依存する日本は、核兵器禁止条約の交渉に参加しないままに終わった。その理由に挙げられたのが、現在の北東アジアの緊張関係、特に北朝鮮の核の脅威である。(中略)
    このままでは、北朝鮮の核・ミサイル開発は止まりそうにない。北朝鮮の核開発は、基本的には米国の脅威に対抗しているので、米国の脅威がなくならない限り、核開発は止まらないだろう。したがって、北朝鮮問題を解決するには、核問題だけでなく、地域の安全保障全体を考えなければいけない』
    その一つの提案として「北東アジア非核兵器地帯設立への包括的アプローチ」です。
    その実現プロセスは
    『まず非核保有国として、日本と韓国、そして核を放棄した北朝鮮(必ずしも今すぐ核廃棄する必要はなく、核兵器解体のプロセスを検証するしくみを作る)の3ヶ国に対し、米国、ロシア、中国の3核保有国が「消極的安全保証」を約束する。
    また、米国は北朝鮮に対して、「朝鮮戦争の終結」と「軍事的脅威を与えない」約束をする。さらに、核問題以外の地域の安全保障問題を議論する「北東アジア安全保障協議会」のような機関を常設する。このほかに、エネルギーや宇宙技術へのアクセスも保証することで、参加への動機づけを増やす。これが「包括的アプローチ」と呼ばれるものである』

    実現への課題は多く、具体的成果を得ることは不可能な状況に悲観的になりますが、南半球をほとんどカバーする現在締結されている非核兵器地帯条約は、不可能な交渉から始まったことを忘れてはならないでしょう。
    もし北東アジア非核兵器地帯条約が成立すれば、アメリカの核の傘への依存は必要がなくなり、日本も日本独自の核廃絶に向けた外交を展開することもできるでしょう。

    また日本は、核兵器の脅威と同時に拉致被害の解決なくして、北朝鮮との和解は難しいと思います。人道的見地、人権の回復は平和問題と大きくリンクしています。拉致被害者への国民の同情は、とても切実なものですが、それは家族が理不尽に引き裂かれる苦しみを他人事と思えないからです。拉致当時、まだ中学生だった横田めぐみさんの可愛らしい写真などが報道され、幼い少女はどんな恐怖をおぼえたのか。わたしは泣き叫ぶイメージが浮かび、身震いするほど辛くなり、憤りが収まることはありません。そんな北朝鮮の非道を簡単に許すことができないというのが国民感情と思いますが、問題を解決し、少しでも拉致被害者を癒すことができるなら、核問題も解決の兆しが見えてくるかもしれません。このような悲惨な問題は過去にも多くありましたが、不幸は当事者にとって唯一ものであるということを忘れてはならないでしょう。苦しみは最終的に個人的なものであり、その解決と支援には同苦の精神が必要です。 

    ハンナ・アーレントの「他者を圧倒する自由意志」について、理解しにくい言い回しがありますが、そもそも、生命それ自体に具わる自由自在な境涯としての輝きと、思想としての自由の違いを考察しなければなりませんが、圧倒的自由意志という意味のなかに、人間の悪の側面、負の断片が具わるという人間不信が影を落としているような気がしないでもない。核は圧倒的軍備であり、その残酷な軍備拡張は国民の自由意志によって支えられていることは言うまでもありません。戦争をすれば人間の命が失われるだけでなく、国家経済の破綻の危機も受け入れなければなりません。非生産的な兵器の拡大は、経済を圧迫することはいちいち説明しなくても分かるでしょうから、安全保障という観点から、広域の非核兵器地帯の設定は、経済的にも有効ということになります。
    北朝鮮との対話の機運が高まるなかで、読売新聞の解説ページには『朝鮮半島情勢「最悪のシナリオ」は』と題して専門家の意見が載っておりました。
    『米国や日本は、北朝鮮に対し、「完全かつ検証可能で不可逆的な」非核化を求める方針を堅持している。経済制裁の国際包囲網を強め、非核化実現へ最大限の圧力を維持していく構えだ。韓国や中国などとの連携も引き続き重要だ。
    ただ、圧力には限界がある。このままいけば、近い将来、核ミサイルで周辺国を威嚇する北朝鮮とこの地域で同居する現実に、日本は直面せざるを得ない。
    日本はどうすべきか。岡本氏(岡本行夫氏)は、「米国と組み、圧倒的な報復能力を備えるしかない。北朝鮮に核ミサイルを使わせない能力が必要だ」と述べ、敵基地攻撃能力の保有も検討すべきだと指摘する』


    「圧倒的報復能力」とはまさに、戦争を前提とした選択の余地がない軍事力。「他者を圧倒する自由意志」の登場に、旧来の核の傘への依存神話の呪縛はなかなかとけないように思います。過去にあった北朝鮮の、ギャグコントのような騙しのテクニックに、子犬のように引っかかるトラウマを思い出すのでしょう。今度騙されたら、トランプはジョーカー札を切るに違いありません。でもそうなれば、ただ事ではすまないでしょう。
    世界の危機は常にあります。今月に入り大統領選をまえにして、ロシアのプーチン大統領もアメリカに対し敵意をむき出しにしました。
    欧州や韓国で進むミサイル防衛(MD)配備に対抗して、MDでの迎撃が困難な大陸間弾道ミサイル(ICBM)など、新型の戦略兵器開発に成功したことを強調しました。アメリカもすぐに反応し、国務省は記者会見で不快感を示しました。
    ロシア国民も独裁者に慣れているのか、プーチンの支持率は高いようです。しばらくプーチン時代は続くものと思われます。プーチンは謀略的体質を意識的に引きずり、政治的な敵対者を暗殺する闇のネットワークを握っている可能性があります。ロシアという凍てついた大地の権力者は、動物的狂暴さと腹黒さがなければおさまらないのかもしれない。北方領土返還もほとんど無理なように感じる。日本の政治家は四島一括返還にこだわりますが、何でもきれい好きな清潔さを信条とする国民性は、このような交渉事にも駆け引きの明瞭さを求めるようです。相手は恫喝や脅迫、威嚇を常套手段にして百戦錬磨の外交を得意としているのに、日本の政治家は自分の非力を自覚していない。
    このロシアと同じような新型ミサイル兵器について、防衛省の防衛研究所は中国の安全保障レポートを発表しており、多弾頭型のICBMの配備が始まれば、中国側の先制攻撃でアメリカのICBMを破壊できる体制が整うと分析しています。
    ロシアも中国も北朝鮮も、独裁者の支配国といってもよいでしょう。国家主席の任期撤廃を受けて習近平の神格化が始まろうとしています。共産主義者はなぜ神を否定しながら、自ら神化することに邁進するのか、わたしには理解不能です。米中露による三つどもえの新たな冷戦構造ができあがりつつあります。
    世界の混乱は激しくなることはあっても治まることはありません。創価の地道な戦いは、当然なこと先生の構想実現のために行動を起こすものです。SGIは核兵器禁止条約の早期発効と普遍化の促進を目指し、「核兵器廃絶への民衆行動の10年」キャンペーンの推進を表明していますが、早期発効と普遍化というテーマは広く認められているものです。
    多くの市民努力に立脚した永続的な運動として継続していかなければなりませんが、日本においては、青年部の取り組みが創価内の狭い範囲に限定されやすいことなど、課題が多くあります。傑出したリーダーの不足、人材欠乏の淋しい現状があり、世界宗教と自慢する根拠も失いつつあります。まず、年寄り会長から交代すべきでしょう。

    なぜ先生は自分の業績をアピールすることを、何度も繰り返すのでしょう。冷戦時代のソ連と中国の間に立って、国家的危機を回避した功績とパフォーマンスを強調したいのでしょうか。何度も聞きましたよね。もう少し謙譲であっていただきたいと思うのですが、勝ち負けばかり気にする創価では、慎み深さは必要ないのかもしれません。創価の記念日も、そのレジェンドぶりが神聖な物語のように繰り返されますが、飽きませんか? 人間の一生の華やかな面ばかり強調して、誰にもある負の結末をすっかり消し去っています。勝ち負けの基準では自然とそうなるのです。

    また日本政府に対して、核兵器禁止条約への参加の先頭に立つべきと提言しています。本年4月からNPT再検討会議の準備委員会が行われ、核軍縮に関するハイレベル会合が5月に開催されることをふまえて
    『その意味で、唯一の戦争被爆国である日本が、次回のNPT再検討会議に向けて核軍縮の機運を高める旗振り役になるとともに、ハイレベル会合を機に核依存国の先頭に立つ形で、核兵器禁止条約への参加を検討する意思表明を行うことを強く望むものです』
    公明党の議員さん、大事なところですので、無視しないでくださいね。創立者が懇願しているのですから本気を出すときではないでしょうか。公明党が与党になってから、貧富の格差が広がりました。特に、年金100年安心プランと消費税増税を主導しましたが、政治家の見通しの甘さによって、じわじわと社会保険を含む公的税負担が増加の傾向を示しています。支持者や党員の方々は、ほとんど何も考えないので無頓着ですが、それもやがて生活が困窮逼迫すれば、会員からの支持も失うことでしょう。衆院選で票を減らしたこと、必ず理由があるのですよ。憲法改正の前に、核兵器禁止条約参加のルートを確保してください。北朝鮮の対話路線も見えてきました。今が最大のチャンスですが、国会は森友問題で明け暮れていますね。政権の末期症状に引き込まれないことを祈ります。
    会員の皆さまは口を開けば師弟不二と興奮しながら絶叫しますが、残念なことにSGI提言は読んでいません。読んでいても考えません。幹部になればなるほど忙しくて読めませんので、先生がいくら訴えても、薄情な弟子は知らん振り。それとも、核禁止条約への強いアピールも適当なポーズなのかしら。整合性が問われていますもんね。師弟がいかに形ばかりのものか、そのいい加減さに、わたしはうんざりです。


    息をすることは生きているということ。生存の権利を認めることが平和の基本。


    Breathe (Extended RMX)
    Two Steps From Hell & GRV Music





    ◇◇◇


    最近、聖教の体験記事に末期ガン患者の独白のような記事が掲載されておりました。そのなかで、仮にガンで逝ったら、負けなのか、という言葉がありました。死因のトップがガンの時代に、また病気で死ぬことがなぜ負けなのか。簡単に勝ち負けの基準を持ち出す癖がついているのです。この方は、わたしなどよりずっと信心の先輩でいらっしゃいますが、宿命転換について、長い信仰生活の間にどのように考えられたのか疑問に思います。トインビー博士はバランスシートと表現しましたが、その対照表は人体という生命のどこにあるのでしょうか。そして貸借を宿命というのなら、どのようにして生命に刻まれるのでしょうか。万人が納得する科学的検証が必要なのです。それが普遍妥当性ということです。
    考えないで漠然と生きるのも自由ですし、自暴自棄になるのも自由ですし、願兼於業と考えて自らを鼓舞するのも強制されるものではありません。いくら親しくても他者であるかぎり深く内面に立ち入ることはできません。それでも、会員であれば自らの慈悲心を強く掲揚しつつ、心からの励ましと行動で事態の変革に努力し、とても重要な責任を果たしてきたのではないでしょうか。末期ガンであっても誇れる自分がいます。他者を大切に考え行動してきた自分がいます。死は苦痛があっても苦しみではありません。
    目覚めてから寝るまで、勝ち負けの評価基準が頭をよぎるのが、会員に染みついた生活習慣。生きるということは結末よりもその過程が大切なのであり、結果に捉われるのは本果妙の生き方。信仰に生き抜いてきたその確信こそ誇れるものです。
    人間は永遠に生きることはできません。いつか必ず死の瞬間を迎えるからこそ、人間主義は貴く、気高く、価値があるのです。でもいつも勝ち負けのご指導をする池田先生も、今は闘病されていると思いますが、ときどき聖教に掲載される写真では生気が感じられません。ただの老いの姿とは思えませんが、会員の前に明快にすることを避けているようです。昔のことは微に入り細に入り語り尽くされておりますが、年をとると隠したい衝動にかられるようです。老いを嫌悪しているのでしょうか。かつてのご指導は全部自分に返ってきます。本末究竟等ということは、平たく言い換えれば一貫性ということです。

    第38回・SGI提言(2013.1.26)に紹介された釈尊の逸話を引用します。
    『他の人々の老いや病気を忌み嫌う心
    時代状況は異なりますが、仏法の成立にあたって、その出発点に横たわっていたのも、“さまざまな苦しみに直面する人々に、どう向き合えばよいのか”とのテーマでした。
    何不自由のない生活が約束された王族に生まれた釈尊が、若き日に出家を決意するまでの心境の変化は、四門出遊の伝承に凝縮した形で描かれています。しかし釈尊の本意は、生老病死を人生に伴う根本苦として、無常をはかなむことにはなかった。
    釈尊は後に当時の心境について、「愚かな凡夫は、自分が老いゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している――自分のことを看過して」との思いがよぎり、病や死に対しても人々が同じ受け止め方をしていることを感じざるを得なかったと回想しています(中村元『ゴータマ・ブッダI』、『中村元選集[決定版]第11巻』所収、春秋社)。
    あくまで釈尊の眼差しは、老いや病に直面した人々を――それがやがて自分にも訪れることを看過して――忌むべきものと差別してしまう“心の驕り”に向けられていたのです。
    であればこそ釈尊は、周囲から見放された高齢の人や、独りで病気に苦しんでいる人を見ると、放っておくことができなかった。
    それを物語る逸話が残っています。
     ――一人の修行僧が病を患い、伏せっていた。
    その姿を目にした釈尊が「汝はどうして苦しんでいるのか。汝はどうして一人で居るのか」と尋ねると、彼は答えた。「私は生まれつき怠けもので、[他人を]看病するに耐えられませんでした。それで今、病気にかかっても看病してくれる人がありません」
    それで釈尊は「善男子よ。私が今、汝を看よう」と述べ、汚れていた敷物を取り換えただけでなく、彼の体を自ら洗い、新しい衣にも着替えさせた。
    その上で釈尊は、「自ら勤め励みなさい」との言葉をかけ、修行僧は心も身も喜びにあふれた、と(玄奘『大唐西域記』水谷真成訳、『中国古典文学大系22』所収、平凡社)。
    思いもよらない献身的な介護もさることながら、釈尊が他の健康な弟子たちにかけるのと何ら変わらない言葉を自分にもかけてくれたことが、尽きかけようとしていた彼の生命に“尊厳の灯火”を再び燃え立たせたに違いないと、私には思えてなりません。
    その上で、この逸話を、他の経典における伝承と照らし合わせると、もう一つの釈尊の思いが浮かび上がってきます。
     ――釈尊は、修行僧の介護をした後、弟子たちを集めて、次々と尋ね聞いた。その結果、修行僧が重病に苦しんできたことも、どんな病気を患っていたかも、弟子たちが以前から承知していたことを知った。
    にもかかわらず、誰一人として手を差し伸べようとしなかったのはなぜか。
    弟子たちから返ってきた答えは、修行僧が病床で語っていた言葉の鏡写しともいうべき、「彼が他の修行僧のために何もしてこなかったので、自分たちも看護しなかった」との言葉だった(「律蔵大品」から趣意)。
    この答えは、現代的に表現すれば、「日頃の行いが悪いから」「本人の努力が足りないから」といった自己責任論に通じる論理といえましょう。それが、修行僧にとっては運命論を甘受する“あきらめ”となって心を萎えさせ、他の弟子たちにとっては傍観視を正当化する“驕り”となって心を曇らせていた。
    そこで釈尊が、弟子たちの心の曇りを晴らすべく、気づきを促すように説いたのが、「われに仕えようと思う者は、病者を看護せよ」(前掲『ゴータマ・ブッダI』)との言葉でした。
    つまり、仏道を行じるとはほかでもない。目の前で苦しんでいる人、困っている人たちに寄り添い、わが事のように心を震わせ、苦楽を共にしようとする生き方にこそある、と。
    ここで留意すべきは、そうした過程で尊厳の輝きを取り戻すのは、苦しみに直面してきた人だけでなく、その苦しみを共にしようとする人も同時に含まれているという点です。
    生命は尊厳であるといっても、ひとりでに輝くものではない。こうした関わり合いの中で、他者の生命は真に“かけがえのないもの”として立ち現れ、それをどこまでも守り支えたいと願う心が自分自身の生命をも荘厳するのです。
    また釈尊が、先の言葉で「われ(仏)」と「病者」を等値関係に置くことで諭そうとしたのは、病気の身であろうと、老いた身であろうと、人間の生命の尊さという点において全く変わりはなく、差別はないという点でした。
    その意味から言えば、他人が病気や老いに苦しむ姿を見て、人生における敗北であるかのようにみなすことは誤りであるばかりか、互いの尊厳を貶めることにつながってしまう。
    釈尊の思想の中で「法華経」を最重視した日蓮大聖人は、「法華経」において生命尊厳の象徴として登場する宝塔の姿を通し、「四面とは生老病死なり四相を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」(御書740ページ)と説きました。
    つまり、宝塔を形づくる四つの面は、生老病死に伴う苦しみを乗り越えていく姿(四つの相)をもって輝きを増すのであり、一見、マイナスでしかないように思われる老いや病、そして死さえも、人生を荘厳する糧に昇華できる、と。
    生命の尊厳といっても、現実のさまざまな苦悩を離れて本来の輝きを放つことはできず、苦悩を分かち合い、どこまでも心を尽くす中で、「自他共の幸福」への道を開く生き方を、仏法は促しているのです』


    仏教の精神、ホスピタリティーな信仰の原点を感じます。この区切りの表題に「自己責任論の驕りを打ち破った釈尊」とありますが、自己責任論を振りかざすと弱者をいじめる驕りになります。特に福祉などを扱う政治の世界では禁物ですが、自由な意志で開始する信仰は、他者への働き掛けやサポート、エンカレッジメントにいたるまで自己責任で行うものです。そのうえで、自己犠牲に等しい他者の苦痛を和らげる努力、不幸に対する同情心を持ちながら、普遍的な慈悲心を涵養していく誠実さに、信仰目的があるのではないでしょうか。苦即楽の妙法こそ尊厳の真髄です。


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