「いくさやならんどー」 2

    わたしには、沖縄出身の友人も知人もおりません。また観光で沖縄を旅行し、自分の目で実際に美しい海や島を見たこともありません。9月16日の聖教に、粟国島で中学校教員をしている女性の体験が掲載されておりましたが、その記事に紹介されていた優しそうな婦人部員の背景に映る青い海を、わたしはしばらく見つめておりました。白い波と白い砂と透き通るような海の青さのなかで、笑顔の主人公はとても幸せそうに感じられました。
    グローバル・ウオッチの題名は、「ウチナーの心で育む 世界の"モデル地域"」
    何のモデル地域なのだろうと、読んでみると、「沖縄は世界で最初の広宣流布のモデル地域」という池田先生の言葉が紹介されておりました。「島チャビ(離島苦)」と言われる島特有の不便さのなかで、彼女はひたむきに頑張っているようです。このような純粋な一途さは、信仰者の特徴をよく表しているようです。
    「広宣流布のモデル地域」という言葉は本当なのだろうか。そのモデル地域で、なぜいつまでも解決できずに、基地問題があり、悩まし続けているのだろうか。

    毎日新聞社から出ている『大道を歩む~私の人生記録』シリーズ4巻は、Amazon で中古本が1円という安さです。誰も買う人がいないだろうと予想して投げ売りしているものでしょう。ゴミとして処分してもお金が掛かるし、まさか0円というわけにもいかず本屋さんを悩ます最悪の本。きっと、会員の本棚には、こんな本がどっと横たわっているのではないでしょうか。
    第3巻には、1992年の中東の旅が綴られており、エジプト・ムバラク大統領と親しく会見した様子が語られておりますので、おそらく、再版されることはないと思います。もともと売れそうもないのですから、無理ですね。
    この誰も読まないエッセーの第2巻のなかに、「世界のウチナーンチュ」と題して、沖縄のことが詳しく書かれておりました。1988年、沖縄訪問に際してのエッセーです。

    『太平洋戦争で唯一の地上戦の戦場となり、“鉄の暴風”が山河の形まで変えた地である。
    過酷な琉球支配の歴史も見逃せない。
    最も苦しんだところが最も幸せにならなければならない――。そのために、どんな努力でも払うのが、仏法指導者の役目と信じる。
    私は、いつもそんな思いで訪れるのだが、沖縄には悲惨や悲嘆を吹き払う明るさが、人にも自然にもあり、心が洗われる。

     沖縄には、文化的な懐の深さがある。
     すべてを包み込む、母の温かさがある。

    15世紀以来、琉球国・中山王は中国皇帝によって任命される形だった。これを冊封(さくほう/さつぽう)といい、首里王府が中国・明の使節である冊封使 (さくほうし/さつぽうし)を迎えて行なわれた。
    そのころの重要なキーワードは"迎恩(げいおん)"であるという。大事な使節を迎える際に、この言葉が使われた。"迎える恩"というところに、沖縄の心があるように思う。
    そして、武力を以てせず、歌舞音曲(かぶおんぎょく)という文化の力を以て、海を越えやって来た数百人にのぼる冊封使をもてなしたのである。
    復元された首里城の正殿に向かって左、北殿はかつて冊封使の接待に使われた建物である。
    王府の役人の床の間には、刀ならぬサンシンという沖縄独特の三味線が飾られていた。
    いわば、"文化立国"なのである。
    "迎恩"は、その後、広く庶民の間に、人々を迎える際の礼節として受け止められていった。こうした心豊かな伝統が沖縄文化を育み、沖縄精神の一つとなって今日まで受け継がれてきた。
    さすが"守礼の邦(くに)"である。沖縄を訪ねた人が感じる、なんともいえない温かさの所以が、ここにあろうか。
    沖縄の人々の心根の良さ、優しさは折り紙付きである。
    沖縄の人がよく口にする「チムグルサン」という言葉がある。
    チム=肝・心が、グルサン=苦しいという意味である。可哀想などといった一方的な、また高みから見た言葉ではない。
    憐憫の情ではなく、同じ目線に立ち、苦しみを共有する「同苦の心」である。思いやりにあふれた社会が、沖縄なのである』

    『ウチナーというのは「沖縄」のことで、ウチナーンチュとは「沖縄の人」。日本を「ヤマト」といい、ヤマトンチュといえば「日本の人」。
    もっともこの区別も、差別するためではなく、ウチナーンチュが広く人々のために働こうといった、自分たちを奮い立たせるニュアンスである。
    それは、牧口(常三郎・創価学会初代会長)先生が、日本の偏狭な精神風土として弾劾してやまなかった閉鎖的な島国根性ではない。沖縄は島国ではなく、まさしく海洋の国として、心を大きく外へと開いた地なのであろう。
    そんなウチナーンチュが海外の地に移住した時に見せる、環境への適応力、困難に対する強靭さや、助け合いの精神などは、沖縄社会のありようと無縁ではないようである。
    世界の各地で活躍する、沖縄から移住した人々、つまり"世界のウチナーンチュ"は、いろいろな文化の多様性を享受しながら、一方で沖縄文化の良さを失っ ていない。
    文化の差異がもたらす豊かさを知り、だからこそ自分たちの沖縄の文化を大事にして生きるのである。
    各地で歌い続けられ踊り継がれた島唄、そしてカチャーシーの踊り――。
    カチャーシーは、ブラジルのサンバのように、またたく間に、人と人を結ぶ。
    人生の四季折々に歌われ、国境・民族を超えて喜びの輪を広げている。
    南米をはじめ各地で、ウチナーンチュは同胞のみならず、その国の誰に対しても、困っているならば、ウチナーグチ(沖縄の言葉)で、サンシンをつまびきながら島唄を歌って励ました。手を取って立ち上がり、ともに歌った。
    言葉は通じなくても、真心が通じた。それは自国の文化の押しつけではなく、自国の文化による人類への貢献といえよう。
    自分の持っている文化的伝統を捨てることなく、しかも他者のためにつかう――。この「自他共の幸福」を願う特性が、ウチナーンチュには備わっている。
    それが出自を忘れることなく、しかも世界各地に溶け込むことを可能にしたと見たい。

    先の大戦では、実に県民の4分の1が犠牲になった。戦後の瓦礫の中から沖縄の陶磁器のかけらや、焼け焦げた紅型(びんがた:沖縄で発達した模様染め)の切れ端を拾い集め、バラックの粗末な小屋に展示した。連日、押すな押すなの盛況だった。
    人々は生き抜くために、自身の依って立つ文化的アイデンティティー(自己同一性)を必死に求めた。それは同時に、世界への貢献の心を求めたのであった。

    沖縄の料理といえば、有名なチャンプルーがある。
    いろんな身近な素材を一緒に炒める。ベースが素麺であったり、豆腐であったり、ゴーヤというニガウリであったりする。
    しかも家庭の、母の味だ。いろんな素材を混ぜ合わせ、それぞれの味を生かしながら一つの料理にする。
    沖縄の文化のチャンプルーには、ヤマトもあり、中国もある。韓・朝鮮半島もある。アメリカもラテンアメリカも、ヨーロッパもある。
    それらがウチナーと渾然一体のハーモニーを奏でる。
    "チャンプルーの心"の根底には、他者を持て成してやまない、他者の喜びを我が喜びとし、他者の苦しみに同苦するウチナーの心があろう。それは 若夏(うりずん)の太陽のようにまぶしい』


    そして、南米で活躍する会員の姿を紹介し、海外移住の逞しい沖縄人の先駆者でもある、"県移民の父"と尊敬される当山久三氏の功績を描いて、世界に通用する沖縄の文化的国際性を強調する。

    『沖縄の先人たちは、サバニという小さな舟で海に勇敢に漕ぎ出して、黒潮に乗って、ジャワ、スマトラまで、縦横に駆け、いち早く交易圏をつくり出してきた人々である。
    15世紀末の大航海時代に進出したポルトガルやスペインによって、この大交易時代は終わるが、ウチナーンチュにとって、海はゆく手を阻む"壁"ではなく、未知の世界を開いてくれる"道"であり続けた。
    ニライ・カナイ――。幸せは海の向こうからやってくるとする思考も、外を恐れない心を育んだのであろう。
    歴史的に見て、沖縄の海外移住は"県移民の父"といわれる当山久三(とうやま・きゅうぞう)にさかのぼる。
    明治政府は、沖縄において江戸時代の旧慣を温存した。
    琉球王府と薩摩藩の支配にあえぐ人々の暮らしは、形こそ変われ、そのまま残った。世界に類例を見ない悪法とされた"人頭税"もそのまま残った。
    地租改正がなされたのは、本土に遅れること36年。衆議院議員選挙も長く行なわれなかった。
    沖縄の人々は、意見を言う機会さえ奪われ続けたのである。
    不況の波は 容赦なく襲い、米はもちろん、食べるイモさえなく、人々は、慎重に調理しなければ命にかかわるソテツで飢えをしのいだ。世に言う"ソテツ地獄"である。
    当山は、自由民権運動に挫折した後、沖縄の窮状を救う現実的な方途として、移住に情熱を燃やし、今から百年前の1899年に、自身の出身地である金武 (きん)村をはじめとする26人を、最初の移住団としてハワイへ向かわせている。
    自らも4年後には、第2回の移住者を率いてハワイへ渡航。現状を視察している。
    彼はその心意気を、こう詠んでいる。
     「いざ行かん 我らの家は 五大州(=5大陸)
      誠(まこと)一つの 金武世界石(きんせかいいし)」
    なんと気宇壮大な歌であろうか。
    事実、沖縄からの移住者は、五大州を家として誠一つで働きに働いた。
    今日の世界での活躍の礎石は、百年前につくられたのである。
    第2回の移住で、金武村からハワイへ渡航した人を祖父に持つ沖縄の友によると、サトウキビを刈り取り肩に掛けて運ぶ重労働で、祖父の右耳は真下へ完全に折れ曲がっていたという。それほど懸命に働いた。
    沖縄には、古来"ユイマール"という助け合いの形態がある。ユイ=結び、マール=回る、である。つまりサトウキビの収穫時や田植え時などの農繁期に、地縁・血縁でグループをつくり、順番に農家を回って共同作業をした。
    こうした労働交換の伝統が、世界各地へ移住した後も、県人会を通して受け継がれていった。海外の灼熱の大地に鍬をふるいながら助け合い、苦しみを共有す ることで乗り越えていったのである。
    もちろん単なる形式ではなく、助け合いの精神の大切さを、沖縄の人々は体で知っていた。
    台風がよく来た。自然の猛威の前に、ひとたまりもなく畑はやられる。嵐が去ると、牙を剥いていた海は やがて凪となり、静かな豊饒(かりゆし)の海が眼前に広がり、海の幸をもたらしてくれる。
    じっと耐え、助け合っていけば、いつか乗り越えていける――。この楽観主義に立たなければ、明日を迎えられなかった。決して絶望しない強さ。それが沖縄の人にはあった。
    今や移住百年で、ウチナーンチュはブラジルで日系人の約1割を占める8万人――。ペルーでは日系人の半数をはるかに超える4万5千人。アルゼンチンでは約3万の日系人の7割が、沖縄出身である。

    移住先で過酷な試練をはねのけたウチナーンチュの"一人立つ強さ"は、絶望的とも見える困難を乗り越え、各地で勤勉と努力の実証の華を咲かせていった。 ウチナーンチュには、何よりも"人間としての強さ"がある。
    特別な後ろ盾や地位がなくとも、一人ひとりが、原体験から平和の尊さを妥協なく叫び続ける。
    戦前、沖縄の小学校では沖縄の方言を使うことを禁じられ、もし使うのを見つけられると、罰として首に「方言札」を掛けられた。
    自らを蔑視させられた忌まわしい過去――。この経験から、人権の擁護には己を賭して立ち上がる。誰を頼るのでもない。いわれなき差別を本然的に許さない……。
    この地で仏法流布が着実なのは、一人ひとりの自立の基盤をより強め、一人立つ心を涵養する仏法の精神が、強き"ウチナーの心"と響き合うからであろうか。
    一時的な流行や権威・権力の介入を嫌い、草の根の動きを見定め、良いものは良いと認める、沖縄人の平等で鋭い眼力からであろう。
    もちろん、その陰に、我が沖縄の同志たちの尊き献身があることは言うまでもない。
    ――5年ぶりの沖縄訪問で、私は語りに語った。
    法華経には、三変土田の原理が説かれる。
    国土の宿命は、人によって転換される。
    まさしく立正安国論に仰せのごとく「国は法に依つて 昌(さか)え法は人に依つて貴し」である。
    また、「一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候」である。
    郷土の発展は、そこに住む一人ひとりの向上と活躍による。社会と国土の繁栄の根本道である妙法で自身を磨き、日本一、世界一の理想郷を築いてほしい ――と。

    海外貿易が盛んなりし頃、首里城正殿(せいでん)に掛けられた巨鐘(きょしょう)には「万国の津梁(しんりょう)となし、異産(いさん)至宝 十方刹(せつ)に充満せり」と刻まれている。
    国際交流がもたらした至宝は、文化の差異を認め合い、多様性の中に豊かさを見い出して"世界市民"として生きる"沖縄の心"に他ならない。
    沖縄こそ万国の津梁・懸け橋となり、世界へ優れた文化・英和意識を"発信"しゆく大いなる使命を持っている。
    ウチナーンチュが、いよいよ真価を発揮する舞台こそ、21世紀である』


    池田先生の沖縄の知識は相当のものですが、内部アンチと悪口や陰口を言われているわたしが言えば、アンチの方々から、代作なんだからなどと批判されてしまうのでしょうか。「小説・人間革命」には、自己プロバガンダの部分が多いと感じますが、師弟不二を強調するわりには、弟子の心配りや思いやりに不満を感じていらっしゃるのかもしれません。ともかく、エッセーは優れております。

    大河ドラマの「西郷どん(SEGODON)」の前半のハイライトでは、愛加那との出会いや別れの他、風俗や文化、サトウキビ産業や薩摩藩との従属的関係に、大変興味が刺激されました。実際は、奄美大島を統治する琉球王につながる家系らしく、貧しい農家という印象ではないらしい。西郷隆盛が生きていれば、琉球も違う歴史をたどっていたかもしれない。
    人頭税は過酷な支配の象徴のような税制で、20世紀初頭まで残っていたと言われております。
    沖縄の一部に独立を主張する根強い勢力がおられますが、沖縄の歴史を知れば無理もないと思えてきます。強圧的な迫害を受けて、生きる場所を求めることで移民も盛んに行われたのでしょう。
    悲惨な歴史の頂点を極めたのは、第二次大戦のアメリカ軍上陸の戦場となった沖縄であったことを、わたしたちはよく理解する必要があるでしょう。科学的で合理的な技術で制御された、物量を投じて発展した大量生産の時代は、大量殺戮の時代でもあるのです。それ以上に、生命尊重の思想が風化し、その脈々としたエネルギーを失う時代でもあるのですね。
    戦後の沖縄において、政治が果たした役割はきわめて悲観的で部分的です。防衛という大義の影で、犠牲を強いられてきた沖縄県民の姿です。漸進的な変革を望む宗教指導者は、理念を語り、提案ばかりして会員を誘導し、結局は政治的権力で強行する無責任さです。
    公明支持者のなかで、基地問題への対応で、意見が割れ対立しているということをお聞きしました。そもそも宗教組織であって、政治組織ではないのですから、意見が割れても不思議ではありません。むしろ、いろんな意見があって健全です。信仰組織にまで対立が持ち込まれることに、創価は不寛容な組織に変容しつつあることが窺うことができるでしょう。政党など、どこを支持してもよいと思いますが、過去に、戸田、池田先生がそうご指導されてきたのではないでしょうか。
    「核も基地もない平和で豊かな沖縄」
    そう書いたのは「人間革命」ですが、沖縄の人々の願望を適切に表しているでしょう。池田先生は、御本尊についても会員を欺きましたが、基地問題についても、沖縄の人々にも顔向けできないような都合のよいことを言い続けてきたのではないでしょうか。公明党を使って、さらなる苦痛を与えようとしています。悲しいことですが、創価を滅ぼす因を作っているように思われる。今では会員の前から姿を消して大文豪気どりでいるのに、ノーベルメダルは贈られましたが、ノーベル賞はとれなくて残念でしたね。
    「新・人間革命」について、2001年の12巻終了時点で、次のように思いを語っております。
    『大デュマの大著で知られる「モンテ・クリスト伯」は、もとは新聞の連載小説で、たまたま一日でも休むと、パリ市民はもちろん、フランス全土が陰鬱な気分に陥ったという。作家冥利に尽きるというものである。
    「戦争と平和」のトルストイは、大作の完成に五年をかけた。
    「レ・ミゼラブル」のユゴーは、初稿を執筆後、十二年の中断があったが、再び執筆を開始して、二年で出版している。これら大作家は、八十歳を超えても、なお生き生きとしてペンを執った。ゲーテしかりである』
    (大道を歩む・第三巻:平和への叙事詩「新・人間革命」)
    文字通り、大作家と大作品をならべて、おだやかに対照しているところが、誇大妄想的な自己顕示があるでしょう。こういった文章は「人間革命」のなかでも随所にみられますが、不自然さがないばかりか、繰り返されると説得力があります。
    別の個所では、真実を書き綴りゆくとして、次のように語っております。
    『「新・人間革命」には、いかなる名誉も求めず、いかなる報酬も望まず、ただただ仏法広宣に、力強く気高く生き抜いた地涌の群像が描かれていく。後世の人々が、この民衆の軌跡のなかから、未来の指標を引き出していかれんことを願いつつ、私は筆を執り始めた』
    『第二次世界大戦の悲劇に塗炭の苦しみを味わいながら、冷戦が激化し、いっこうに戦火が止むことがない世界には、人間の業火が燃えさかっていた。出口を見いだせない人類の苦悶を真っ正面から見つめ、一つの回答を示そうとしたのが、この主題であった』

    会員の皆さまは、名誉も報酬も求めていませんが、リーダーはどうなのでしょうか。階級が上がるたびに欲深くなるようです。中国共産党と同じです。昨今は終活が流行しているようですので、あの世に持っていかれない余計なものは整理したほうがよいかもしれませんね。死に勝る主題はありませんし、生の総括としての人間主義も正念場を迎えます。【生と死の永遠の激闘】壮大な構想と壮大な着想と壮大な物語に圧倒されます。

    ◇◇◇

    この記事の目的である『いくさやならんどー』のなかから、一人の体験を紹介します。どれほどの真実が表現されているのか、血の涙という言葉がありますが、苦しみの極限に衝撃を受け、その数奇な運命に絶望感だけがあふれます。
    「平和への願いをこめて」という全20巻シリーズのなかの一冊・『いくさやならんどー』は、婦人部の総力が結集された反戦出版です。84年の出版ですが、婦人部平和委員会が編纂した貴重な証言集であり、その後の反戦・反核展や国連軍縮キャンペーン、平和講演会へと発展していくアクティビティーの自信と信用となり、社会参加へのベースとなりました。

    okinawa-02.jpg『「母の遺言」:T・O(47歳)
    沖縄戦終焉の地・島尻で、私は両親を失いました。姉と私と弟は、不思議にもあの激戦の最中、バタバタ死んでいく人達の中から生きのびることが出来たのです。
    飛行機の爆音と共に「助けてくれ!」と叫んだ母の声。避難先の東風村(こちんだむら)の壕の前で無惨にも母は両足を付根からもぎ取られていました。母に泣きすがる私達。父も瀕死の母を前に、なす術もありませんでした。
    「父ちゃんがいるからなんにも心配はないよ、三人で力を合わせて生きて行きなさい。母ちゃんがこれからいうことをよく聞きなさい。意地チリヨー(勇気を持て)、誠(マクトウ)シヨー(誠実であれ)、人(チユ)ヌ手(テイ)ヤカインナヨー(他人に依頼心を持つな)」
    母はそういい終わると息を引き取りました。父も間もなく艦砲射撃で脇腹をえぐり取られ死去しました。
    終戦後、収容所から住みなれた地へ返された私達は、両親が残してくれた僅かばかりの畑を耕して野菜などを作りました。午前五時に起き、学校へ行く前に十二キロ離れた市場へ売りに行きます。毎日の生活は厳しく世間の冷たさもいやというほど味わいましたが、多くの方の親切に支えられたことは生涯忘れません。「意地チリヨー、誠シヨー、人ヌ手ヤカインナヨー」苦しかった日々に私達姉弟を勇気づけ励ましてくれたのは、母のあの言葉です』


    長大な小説を描く人よりも、意識も遠のくなかでの必死の言葉の真実と、愛情、慈悲深さに心が動かされます。現在の沖縄の諸々の問題を見透かしているかのように励ます姿は、子を思う親の心情というだけでなく、人間の生き方の指針を、命と引き換えに伝えているようです。沖縄にあふれる人情は、例えようのない苦しみから生まれるのでしょうか。
    ウチナーンチュには、その子どもたちも孫たちも、その悲しい歴史を刻んだ島も、かつて真紅に染まった海も、灼熱の砲弾の炎におおわれた空も視界も、唯一のものを失い続ける世界の中心で、どこよりも誰よりも、平和で争いがなく、今まで以上に幸せでありますように、それがわたしの願いです。

    Rebirth - Two Steps From Hell



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    「いくさやならんどー」 1

    『内戦の中、ある母に――
    「おまえはどの党を支持しているんだ?」
    「知りません」
    「おまえは共和党か、王党か? どっちについているんだ?」
    「わたしは子どもたちについています」』

    (ヴィクトル・ユゴー作「九十三年」から)

    「君が世界を変えていく」(池田大作・朝日出版社)にまとめられたエッセーは、聖教に掲載されたものです。ユゴーの貧しい者への慈しみを紹介した一節は、革命とヒューマニズムという小説の主題を感じさせます。ユゴー自身、過酷な環境におかれても、不屈の魂で自らの人生を総括しました。
    「もう殺戮はたくさんだ!」と題されたエッセーのなかで、悲惨なエルサルバドルの内戦を語りながら、次のような戸田先生の言葉を引用しております。

    『私は「感傷的な話」をしているのではない。母と子を救えと叫ぶのは、感傷ではない。「国際政治の現実を知らない、きれいごと」でもない。反対に、これほど現実的な話はないと信じている。この現実を救うために、あらゆる知恵をしぼるのが、真の政治だと信じている。
    創価学会の戸田第二代会長は、私の師匠である。師の会長就任は、五十年前の一九五一年。朝鮮戦争(韓国動乱)のさなかであった。就任に先立つ臨時総会で、先生は言われた。
    「朝鮮戦争の勝敗、政策、思想を、今ここで私は論ずるものではありませんが、この戦争によって、夫を失い、妻を亡くし、子を求め、親をさがす民衆が、どれほど多くなっているか、それを嘆くものであります」と。
    「昨日までの財産を失って、路頭に迷い、悲しみ苦しんで死んでいった人もいるでありましょう。なんのために死ななければならないのかと憤りつつ、死んでいった若者もいるにちがいありません。私はなにも悪いことはしなかったと叫んで殺されていく老婆もいるでありましょう。また、親とか兄弟とかが、この世にいることを不思議がる子どもの群れも、あるいはできているかもしれません……」
    「彼らのほとんどは、共産思想とはなにか、国連軍がなぜやってきたのか、何も知らないにちがいない。お前はどっちの味方だと聞かれて、びっくりしながら、ごはんが味方で、家のあるほうへつきますと、平気な顔で答える情景もあるにちがいないと思うのであります……」と。
    恩師の心は、常に、最も弱き立場の人の上にあった。
    この一点から発想しなければ、大地から足が、ふわふわと離れた机上の議論だと思っておられた。
    そういう、民衆を忘れた議論は、冷たい観念の刃で、民衆を切り捨て、切り裂いていくことを見抜いておられた』
    (「もう殺戮はたくさんだ!」)

    「小説・人間革命」の連載が終了しましたが、特に感慨はありません。基本的にフィクションであり、また先生の決意小説であり、菩薩像の一つの姿であり、励ましの小説でもあります。また、良い意味でも悪い意味でも、宗教教団の歴史の捏造という、決してやってはならないことをやりながら、真実をアピールするやり方は、会員のみに受け入れられる書き方でしょう。9月の本幹で「真実」と「事実」は違うと語っておられました。アーカイブからランダムに選ぶわけではないでしょうから、この放送はきっと、事実と違うという言い訳の理由付けが目的なのでしょう。池田先生のご指示があったのでしょうか。事実を意識的に歪めている時点で真実は失われると思う。「小説・人間革命」を象徴的に言い表しているようです。それに比べれば、上記のエッセーは、中、高校生から幅広い青年層を対象にしたものと思いますが、良質の出版であることは疑いありません。
    ものの見方について、次のような優れた表現もありました。
    『だれもが自分に問うてみる必要がある。
    自分は、与えられたイメージを「うのみ」にしているのではないか?
    不確実な情報を吟味もしないで、そのまま受け入れているのではないか?
    しらずしらずのうちに、偏見に染まっているのではないか?
    そもそも自分は、どれだけ事実を知っているのか?
    自分で確認したか?
    現場に行ったか?
    本人に会ったか?
    その言い分を聞いてみたか?
    悪意の「うわさ」に踊らされているのではないか?
    こんな「自分との対話」が大事ではないだろうか。
    「自分は、自分で気づかない偏見を、いっぱい持っているにちがいない」と自覚している人のほうが、「自分には偏見など少しもない」と思いこんでいる人よりも、異文化との対話もスムーズに進むだろう。
    自分を見つめず、自分と対話しなくなった人は、独善的になる。一方通行の道路のようになる。話を聞かない。対話もできない。
    平和のための「対話」。その出発点は、謙虚な、「自分との対話」なのである』


    偏見や先入観を持たないこと。仏教の優れた「内面を観ずる」方法は、行動を公平に評価するために有効ですが、実際に活用するトレーニングを行わなければならないと思います。信仰は最良の自己再生の心理過程をたどりますが、言いかえれば内面への深いアプローチが信仰ということ。「自己との対話」は真摯でなければできません。少なくとも、言い訳して自分さえ欺き、他に目をそらさせようとする信仰者は、妙法の正直捨方便の姿ではありません。偏見や先入観は方便に含まれるでしょう。
    仏教の平和思想のバックグラウンドに、「一切衆生悉有仏性」という言葉があります。生命の尊厳を説く仏性論と、仏国土論の理想社会の実現は、創価の平和思想の根本です。現実への果敢なアプローチは、やや疲労気味に意識が混迷していますが、それは中心をなす御本尊や三大秘法の教義に普遍性が感じられなくなったからでしょうか。柱がなくなれば家も傾きます。
    日蓮の「立正安国」は正法に帰依することを前提にしているのか、していないのか、議論の余地がありますが、現在の平和運動の基本は、悲惨の二字をなくすと宣言した、戸田先生の理念にあることは言うまでもないことです。「小説・人間革命」が沖縄で執筆開始されたことはよく知られておりますが、たぶん、池田先生は沖縄の風土にそうしなければならない理由を感じられたからでしょう。
    沖縄は、第二次世界大戦の唯一の地上戦が行われた舞台です。その国土の宿業ともいえる貧困や戦火の繰り返しは、地政学上の要所としての重要性もあり、悲惨な歴史から逃れることができない必然的な悲しみがありました。大海にある島は、紛争や戦争の舞台になりやすいことは、少し考えればわかります。戦略上の拠点を築きやすいこともありますが、島であるがゆえに征服されやすいという欠点もあります。東シナ海と太平洋を分ける線上に位置し、尖閣諸島問題をはじめ多くの領土問題を抱えていることは周知の事実です。このような複雑さは地理的な利点が国家利益に直結するからです。
    沖縄はその複雑さのなかで、いつも揺れ動いてきました。そしてそのたびに争いが起き、島民に犠牲が強いられたのです。平和を願うなら、まず沖縄からと考えるのも、その歴史を知れば、沖縄の民の人の良さとおおらかさに日本人の原風景を見ると同時に、平和を強く望むのも当然のことなのです。

    創価では、反戦平和の具体的活動を粘り強く推進してきましたが、その多くは池田先生の平和提言や著名な平和活動家などとの対話から、その範囲を広げてきたものです。核兵器廃絶への国連をはじめ国際的なロビー活動は民間組織として顕著ですが、一朝一夕に信頼が高まったものではありません。
    その反戦平和の中心となって活動している主体は青年部ですが、現在では小じんまりとした縮小傾向にあり、その原因として、なにより人材不足が響いています。婦人部は、創価の草創から弘教の主力を努めてきました。平和運動も草の根の地道な活動を土台にしながら、活動の幅を広げてきました。女性の視点から平和運動を論じ行動する必要性は、女性の社会参加の観点からも大切なことですが、創価婦人部は着実にその困難な足跡を積み上げてきました。わたしが各年代の婦人部に接してきた感覚では、20~30年前に最前線に立っていた婦人部が、ずっと問題意識があったように思う。現在の婦人部の主力はまるで、意志不在の選挙要員に成り下がっているように思えて、どうしてそのようなレベル低下を招いたのか、信仰そのものに問題があるように思えて仕方ありません。
    そのなかで特筆すべき活動に、反戦出版を通して、戦争体験を歴史の証言としてまとめたことです。第三文明社からの出版は、絶版になっているようですので、非常に残念です。貴重な証言集は二度と編むことができない無二のものと認識しておりますが、多くの市民に読まれ、その価値を認められてこそ、創価の平和運動も社会の底辺に定着するものと思います。
    創価も教義上の問題を抱えておりますが、明快さが不足したその曖昧さは致命的な欠陥になる可能性があります。世界宗教と広言し、その賛同者を求めていく創価の平和運動は、他宗教の共存と共有、仏教がキリスト教やイスラム教と共存できるのかという難しい問題があります。そのためには対話が欠かせませんが、対話力に秀でたリーダーがいるのだろうか、悲観的な情勢だけが頭をよぎります。

    「小説・人間革命」の終了で、一つの区切りがつきました。現代の御書とか、教科書というわりには、会員の原動力になっていない気もしますが、学習意欲にも末法的な減衰感に似たものがあるのかもしれません。感じ方はいろいろなのですから、読んで生命力が弱くなる悪循環もないとはいえません。唱題して疲れる場合もあるし、深く集中しなければ血液も浄化されません。わたしの場合はスピリチュアルな感度が磨かれません。題目の数を自慢する人がおりますが、自慢しただけ、生命は負の方向に傾いていくでしょう。自己顕示欲と「慢」という意味をよく知らなければなりません。
    現代の御書などという形容を聞くと愚かさより感じませんが、先生の側近からそのような発言があることに、信仰では冷静さは実現しにくいものという感慨を抱いてしまいます。自己啓発は、客観的な自己診断が必要です。過剰な形容は間違いの元。
    「人間革命・13巻」に返還前の沖縄が描かれております。
    『沖縄の問題は、山本伸一が最も胸を痛めてきたことの一つであった。
    彼は、佐藤・ジョンソン会談の三ヵ月前にあたる、六七年(昭和42年)八月の第十回学生部総会で、沖縄問題について、次のように言及していった。
    「日本の一部である沖縄が、戦後二十二年間もアメリカの統治下に置かれてきたことは、沖縄の百万島民はもちろんのこと、日本人全体にとっても、忍びえないことでありました。
    したがって、名実ともに、沖縄のすべてを日本に復帰させることは、現地住民の悲願であるだけでなく、日本国民全体の願いであります。
    現在、沖縄は、米軍の施政下にあり、現地の人びとは、日本人として平等の人権が尊重されず、普遍的な国民福祉の享有が、できない現状であります。のみならず、沖縄に軍事基地が置かれている事実は、日本の運命、世界の平和にとって、大きな脅威であり、核兵器の持ち込みは、日米間の友好関係を促進するうえに、大きな障害となっております。
    私は、この沖縄の現状を改善していくために、次のように主張したいのであります」
    そして、「施政権の即時全面返還」「核基地の撤去」「通常基地の段階的全面撤去」を訴えたのである。また、産業振興対策を強力に推し進めていくために、「沖縄経済総合開発調査会」「沖縄総合開発銀行」の設立等も提案していった。
    彼の提案は、これまで沖縄に何度も足を運び、その現状を見て、さまざまな人びとと対話を重ねるなかで、練り上げてきたものであった。
    核も、基地もない、平和で豊かな沖縄になつてこそ本土復帰である――それが、沖縄の人びとの思いであり、また、伸一の信念であった。
    「本土復帰」という住民の悲願の実現を盾に、核兵器や基地を沖縄に背負わせるとするならば、かつて沖縄を本土決戦の"捨て石"にしたことと同様の裏切りを、政府は重ねることになる』


    聖教に連載されたのは2002年のことですので、16年前の「人間革命」ですが、山本伸一がいかに沖縄を考えているかというパフォーマンスに満ちております。「核も基地もない平和で豊かな沖縄」どこかで耳にしそうなフレーズが、どれだけ沖縄の人々を裏切ってきたのか。政治家と違い公約でありませんので好き勝手なことを言えるわけです。あたかも、沖縄の救世主のような振る舞いですが、どこまでも自分で自分を誉める自己評価のレベルを出ていません。
    裁判まで発展した普天間基地移設問題は、2016年12月、最高裁で判決があり県の上告を棄却しました。国の勝訴が確定はしたものの、この裁判を提訴した国交大臣が、皮肉にも公明党・石井啓一大臣です。そして、与党としての公明党を強力に支援しているのが創価なのです。その創価の理念の体現者が先生であり、「核も、基地もない」と適当なことをいって沖縄の人々を喜ばせ、新たな基地を造ることに賛成しているのが公明党の支持者なのです。
    民主党政権のとき、後先を考えず「最低でも県外」と無責任な発言をした鳩山元首相と、立場は異なりますが、責任を取らないことでは同じです。また、中国のたびたびの領海侵犯を危惧し、防衛上の必要悪として基地容認する本土の会員をよく見かけますが、沖縄の人々に言わせれば、本土都合の上から目線というところかしら。日米地位協定はもちろん日米安保条約そのものの見直しが必要です。池田先生も「人間革命」で提案しておりますが、「基地の段階的全面撤去」という具体的な進展はあったのでしょうか。そもそもその具体的な案を持っているのでしょうか。言うだけ言って後は政治の仕事だと、いつものように逃げるのでしょうか。沖縄の人々を悩ませている日米地位協定について、公明党の発言や提案は何かありましたか?
    創価と公明党、現在はほとんどダブルスタンダードで動いています。創立の理念は失われておりますが、どういうわけか、会員の公明支援の縛りは強くなっているように感じられます。その矛盾をなんとも思わない会員は、政策については何も考えていません。基地があることによって、今までの数々の悲劇に苦しむ沖縄の人々に寄り添い、平和な島にしていくという具体的な解決の進展もなく、却って政治的対立の真正面に立って争う公明党を、一体会員はどのように考えているのだろうか。沖縄の宿命転換は成就されるのでしょうか。
    大御本尊の不受持を決定し会則変更したときも、執行部は、池田先生の考えを忠実に実行したと思われます。一方で肯定し、他方で否定する。そのような行為は半狂人であると牧口先生が言われておりましたが、とどのつまり、その矛盾を放置するいい加減さは、魔の所為にあたるのではないでしょうか。あるいは、沖縄の解答不能な問題を都合よく活用し、会員の正義心を煽って選挙運動に動員し、政権内に勢力を拡大しようとする意図も、今となっては分別があるのかどうかさえもわからない先生を、巧妙に利用しているということなのでしょうか。それも、それらも妙法の正しいメソッドなのですか?

    わたしの非政治的頭脳で考えて提案すると、
    一つには米軍基地の整理統合、縮小。
    二つ目には防衛問題全体を議論し、憲法改正を含んだ自衛隊の整備、米軍撤廃を実現し、自衛隊に段階的に肩代わりさせる。
    自分の国は自分で守るという大前提に立ち、その上でアメリカとの安保条約を見直し、安全保障を考えていく。アメリカに全面的に頼り、またはその核の傘に入り、抑止力を拡大する現在の考え方は、遅かれ早かれ放棄しなければならないでしょう。

    知事選が13日に公示されました。「オール沖縄」が支持する候補は、ある意味、複雑な沖縄の歴史を背負った人かもしれませんが、自由党出身であり、金権政治の洗礼を受けた小沢一郎代表の影響が心配です。わたしの杞憂であればよいのですが、政治家の原点、清潔で質素なプライベートであっていただきたいと考えます。沖縄にこそ、そのような政治家が必要です。
    また、一部の革新系の勢力は、身体に染みついた反日イデオロギーは簡単に払拭できません。沖縄の独立中立の選択は、どこまでも理想論であり、現実的でありません。却って貪欲なナショナリズムの餌食になり、再び紛争に巻き込まれる事態になるでしょう。そのような脅威が決して幻想でないことは、沖縄のそもそもの不幸であり、宿命とも言えるものです。

    前知事・翁長氏は知事になる前は、沖縄の自民党の中心にあり、とても保守的な政治姿勢の持ち主だったと思います。わたしの個人的感想を言えば、知事選に出馬するとき、それまでの人生を180度転換させる決断があったのではないかと思います。真の保守は歴史から学び、歴史の修正をはかっていくところですが、これはときには、イデオロギーの堕落と批判を受けることがあります。主要な論点である基地問題を、今まで通り国政の言うがままに受け入れることができないという結論は、歴史修正主義の一つの教訓から導きだされたものと理解します。沖縄を思う心情に溢れていますが、本土の人々には理解されなかったという寂しさがありました。安倍首相には、敵と味方を峻別する独特の勘があります。この政治家の性格が悪く働く方向に、森友問題や加計問題があります。辺野古に新基地は造らせないという翁長知事の強硬な態度は、沖縄関係予算の減額という報復で応えました。
    人生には、他人の理解が得られなかったとしても、潔く方向転換する瞬間があるのではないでしょうか。変節したのではありません。理想のために、来た道とまるで風景が違う、これから行こうとする道を選択したのです。苦渋の選択と表現したければそれでもよいでしょう。沖縄のために勇気を持って踏み出そうとしたのだと、わたしは考えます。
    そんな翁長氏を、売国奴とか、左翼とか、中国のスパイなどと軽薄な批判を繰り返してきた自称愛国者のなかに、会員が入っていないことを願うばかりです。
    コンサバを自認しているわたしですが、真の保守政治家に出会うことは稀なことと考えております。日本の安全保障を理解したうえで、沖縄のあるべき姿を苦悩し模索した政治家は、時間が経過すればするほど歴史のなかで輝き続けることでしょう。

    沖縄の経済は、主要な産業が観光に偏っているために公的支援が欠かせません。離婚率の高さの原因に経済的問題があると考えるのですが、児童の貧困率も高く、子育て・教育インフラの整備、社会全体の活性化が早急のテーマです。
    選挙を左右するのは浮動票の動向であることは、どの地域でも変わりありません。その浮動票のなかに、多くの女性票があると思います。防衛問題や基地問題は、女性にこそ考えていただきたいというのが、率直なわたしの意見です。また、基地問題にバイアスがなく、固定観念もなく、イノセントでフェアネスな若者世代にこそ、ピュアな発言と意思表示を期待します。
    現実的に基地が存在し、今すぐ撤去できないなら、その他の生活に直結する諸問題に目を向け、そのサービスを堂々と政治家に要求していただきたい。政治は、あなたやあなたの隣人やあなたが所属するグループや会社のためにあるのですから。主義や思想も大事ですが、それ以上に、毎日の生活が安心であり、安全であることを、誰しも望むのではないでしょうか。

    Okinawa war 1945 4 沖縄戦カラー映像(注意:残虐な場面があります)


    沖縄戦のフィルムが多く公開されておりますが、わたしには正視に耐えません。
    アメリカ軍が上陸した沖縄本島西南部・嘉手納湾一帯は米軍艦船で海が見えなかったとも言われています。1600余隻の艦艇とともに、制空権、制海権も奪われ、日本軍にすれば絶望的な戦況だったということです。また攻めるアメリカ軍も、第二次大戦のなかで、最も激しく過酷な戦場だったとも言われ、精神的な異常に陥る兵士も多くいたということです。そしてなにより、無力な沖縄県民を巻き込んだ戦闘が繰り広げられたこと。
    沖縄返還後も、占領状態は実質的に続いていると認識してもよいでしょう。アメリカ軍基地の70%が沖縄に集中している現実は、快く肯定するような正常範囲であるはずがありません。
    沖縄の人々の悲しみは、とても深く、つらいものであることを、戦争を体験していないわたしたちのような世代は、機会があるごとに考えなければならないでしょう。さらに戦争被害者であると同時に、加害者でもあることを忘れてはならないでしょう。暴力否定の十分な認識と学習と行動が、創価の新たな世代に必要です。安易な政治支援をしている場合ではありません。


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    学会健児と戦陣訓

    台風21号被害、北海道地震へのお見舞いを申し上げます。
    ブログ記事を書くたびに、災害見舞を言わなければならない状況は、とても悲劇的であり、危機的だと思います。こういうときこそ冷静さが必要ですね。自然災害は予測できないところで起きますが、政治的に社会不安を解決できる要素があるなら、それに向けて努力すべきです。国民の我慢強さにも限界があります。
    おおよそ1年後に、公明党がもっとも熱心な消費税も増税される予定ですが、延期していただきたいというのが率直な感想です。庶民レベルの、年収400万以下(「年収ガイド」)の多くの国民が、さらに生活への不安を抱いていることに、政治家は思いもよらないのでしょう。公明党は国民を苦しめる悪党に変わり果て、いつから庶民レベルから高級志向になったのでしょうか。

    また不気味に続く災害を、相変わらず安倍首相のせいだとする会員の記事があり、狂信もここに極まれりというところかしら。創価の邪宗ぶりと自分だけ唯一正しいとする偏狭な考えは、創価が歩んできた歴史がそもそもウソにまみれているという証拠。会員の醜さは創価の未来を暗示しております。もうこういう人間は相手にしないこと、無駄に人生を消費しないように戒めなければなりません。

    スピリチュアルなアンテナを持っているわたしは、このごろの天候や気象のせいなのかわかりませんが、ときどき、虚しい気持ちがわきあがってきて、本を読む気もおきない。半年に一回とか、不意に学習意欲を喪失。わたしは勤勉さをずっと継続してきたと思ってきたのに、どういうわけか、虚脱感があるみたいだ。苦しいなかで勤行唱題して思うことは、創価に信仰の純粋さはないということ、教団経営があまりにも政治的な思惑とともに運営されていること。権威について十分な検討がなく、当然会員同士の議論は皆無だということ。
    ウイルソン教授が言っていたこと。
    『人生は決定すべきことで満ちており、したがって、人間は経験的事実に基づく知識以上のものを必要とします。人間は解釈を要求しますが、解釈には、情緒的な対応と価値観が必然的にともないます。宗教の教えの深さが発見されるのは、まさにこれらのレベルにおいてなのです。そして、宗教が、他の知識体系よりも幅広い範囲の体験に関与するのは、まさにこのためです』
    創価も世俗的な志向に満ちており、論理的に堅固に、宗教にふさわしい清浄明瞭さであっていただきたいと考えますが、高い理想と進路を高唱しながら、個人の可能性を最大限に実現できるアドバイスを心掛けているのか、いつも疑問に思います。宗教は空想でなく、日常という現実の再生行為です。精神を呼び覚ますものであり、わたしが異論を唱えるのは正統の単なる異型に過ぎないのに、むりやり形式的に型にはめようとする。宗教によく用いられる普遍的という定義は、再解釈への議論と変化への機会を、普遍的に保障するものという意味であってもらいたい。創価は、言論の自由を保障すると何度も言ってきたのではありませんか。批判や異論を許さない言論の自由はあるのでしょうか。
    理想は完全であっても、実践は矛盾と失敗が常につきまとい不満足な形にしか収束できないけれど、その欠陥を補佐してくれる組織は、寛容と慈悲に満ちていなければならないでしょう。

    8月24日の聖教に、いわゆる「靖国神社提灯奉納事件」の告訴をした旨の記事がありました。すでに厳密な意味での謗法を容認している創価にあって「謗法厳誡」と恥ずかしくもなく言うところに、苦笑を誘うようなおかしさがあります。日本全国の市町村には、伝統的な祭礼が独自の形態で存在しますが、それらはほとんど神社を中心にした信仰に由来しています。創価では、これらの祭礼に寄付し、参加する姿勢を、地域友好の必要な行動として積極的に承認してきました。同じ町内や隣人に、聖教啓蒙や選挙支援をお願いしなければならない活動上の理由から、町内のイベントや行事に対し、消極的なスタンスは禁物です。
    靖国神社への寄付行為も決して告訴するほどのことではありませんが、世法に無知な在家僧は、社会のなかでの信仰のあり方を苦慮している会員の気持ちを察しできずに、ヒステリックに、また形式的に反応します。会員の信仰問題や細部の感情などは二の次です。在家には在家特有の悩みがあるのですが、厳格さを主張し寛容をなくした聖職者は、社会の接点での教義の柔軟な解釈の必要性を認識することはありません。円滑な人間関係や振る舞いは信仰者の目的でもありますので、随方毘尼を主観的に曲解し、仏法本義さえ失わなければ容認するとしてきた創価の問題意識も、あいかわらず低級のまま。大御本尊まで否定しながら、中途半端な教義解釈に止まっているのです。
    牧口先生も、国のために亡くなられた方々に感謝するのは当然ということで、靖国に参拝しました。A級戦犯合祀問題もあり、戦時中と現在では事情が異なりますが、牧口先生の信条を適用すれば、靖国だけでなくあらゆる神社に拡大解釈できる可能性もあります。お賽銭なしの初詣なんて提案したら宗門も大騒ぎになるでしょうね。謗法意識がうすれ、その分、御本尊への信もうすれたということでしょうか。世界宗教を考えるうえで、謗法の定義も見直さなければならないと考えますが、ほとんど世俗化し習慣化した信仰形態にそれほど神経質になる必要があるとは思えません。
    ただこの「靖国神社提灯奉納事件」では、寄付をした本人が個人名ですれば個人的信仰問題の範囲のなかに収まっていたと思いますが、どうして創価の名前を使用したのか理解できません。祭礼に、個人がわざわざ創価の名義を持ちだして寄付しますか?
    謗法など無頓着な会員は、御本尊にも無頓着な会員と思われますが、創価は会員を告訴までして問題を大きくし、この顛末をどう始末つけるつもりなのでしょうか。それなりに健全な判断力と常識ある会員は注目していると思いますが、創価がその期待に応えることはないでしょう。愚かしい会員と愚かしい職員が織りなす滑稽な事件は、創価の上も下も全体の劣化を表わしているようです。

    8月24日は先生の入信記念日ですが、毎年のことなので新鮮さがありません。聖教を読む側だけでなく、編集する側もマンネリ化に襲われています。もうポスト池田が進んでいるのかもしれません。組織に必要なのは偶像化にふさわしいシンボルですが、永遠の指導者というイメージほど妥当な偶像はないでしょうね。わたしが関心があるのは戸田先生との出会いシーンですが、おそらく脚色されたものでしょう。「小説・人間革命」はフィクション部分が多いと思いますが、美化され、真実らしく作られているところに、創価の罪深さがあります。なにごとも視点を変えれば、邪も正になり、天地が逆さまになり、ウソも真実になります。
    しかし、アレンジされ作られたものでも、戸田先生と出会いをはたした座談会での山本伸一の質問はとても重要です。当時の一般的な青年の関心事を反映していると思います。創価の諸運動のなかでも平和運動は突出していますが、反戦平和への最初の出会いが、この質問にあるといってもよいかもしれません。結局、どのような問題意識を持つかということです。
    「正しい人生について」
    「本当の愛国者とは」
    「天皇について」
    国家が混乱するときにあって、哲学や思想の混沌と枯渇は過渡期とはいえ青年に失望を与えるものです。真の指導者に出会う幸運は滅多にないことですが、妙法は運命的ストーリーに満ちていることは言うまでもありません。入信は昭和22年のことですので、ちょうど二年前の8月は、日本国民全体が初の原子爆弾や終戦の体験をしていました。国土は焼け野原になり、多くの青年や男子が兵士として戦い亡くなりました。そのようななかで、上記のような質問に的確に答えられる人物に出会うことはほとんど稀なことと言わなければなりません。
    わたしも含めて現在の会員は、当時のことを思い描くことは困難ですが、その後の創価では、戦闘的な折伏が行われていたことが伝えられています。「折伏大行進」などという言葉に表現されるように、急激な会員増加は社会のいたるところで敵対や摩擦、確執を生みました。当時の会員が精神的な飢餓状態にあったこと、経済的な不遇にあったことは会員だけの問題ではなく、国民全体が精神的にも物質的にも貧しかったのではないでしょうか。
    軍事国家の強制から解放されたのに、創価の組織形態は軍隊式を応用したことは、とても奇異に感じます。「折伏大行進」は統制された性格を持ち、軍隊式行進と言えば言い過ぎでしょうか。目的は正しくても手段の選択に妙法的寛容心が感じられませんが、現世利益を求めるあまり、折伏を強行した貧しさは、それだけ生活も窮迫した苦しみがあり、火急の願いがあったのでしょう。この当時の一人一人の思いを正確に知ることは困難です。

    軍隊式は学会歌にも反映されています。歩調を合わせるように2拍子の学会歌は、手拍子も取りやすく、気持ちも前向きになる規則的なリズムです。
    特に草創から愛されてきた学会歌に「威風堂々の歌」があります。創価のホームページに紹介されている通り、京都の一会員が作ったものですが、その曲は軍歌を借用したと思われます。指揮を取るときの先生の独特の舞いは、昭和40年ごろから始まったと思われますが、適当にダンスしていることは言うまでもありません。その体操のような舞いもコミカルに見えるから面白い。それにビデオでは、自分を威風堂々と「先生」と呼ぶなんて、なんという配慮に欠ける遠慮のなさでしょう。
    威風堂々の歌」は、軍歌「愛馬とともに」によく似ています。(ニコニコ動画で再生できますが、音質は最悪です)現在のように著作権など思いもよらない時代でしたので、京都の一会員が、勢いに任せて借用したものと思います。その旨を注意書きしておけばよかったのではないかと考えますが、そのような用心深さや心配りがあるくらいなら、折伏も進まなかったのかもしれません。あるいは軍歌であることに後ろめたさがあったのかもしれません。手段の強引さは、ほとんど共産思想と同じです。中国と仲が良いのはそのせいかもしれませんね。
    現在、日中国交正常化提言50周年記念の一連の聖教キャンペーンのなかに、中国の非人道と宗教弾圧に関する言及は一言もありません。法華経の精神は虐げられる者、弱者への配慮だと考えますが、政治的思惑から菩薩の心を抹殺している。真の日中友好の力に成り得るのか疑問です。このような盲目的とも言える賛辞で飾る意図は、過去に畏まっていただいた多くの名誉に由来するのでしょうか。唯物国家が信奉する物量作戦に、まんまと引っかかっていると見えるのはわたしだけ?
    以前SGI提言(「第28回」2003年)で、善の沈黙は悪を助長するとして言語人(ホモ・ロクエンス)の面目にかけて、言論のつぶてを放ち続けると述べていましたが、忘れてしまったのでしょう。また「人間の安全保障」に触れ、その委員会の討議をまとめて、次のように訴えております。
    ①日常の不安を中心に置くこと
    ②最も弱いものを中心に置くこと
    ③多様性を大切にすること
    ④相互性を大切にすること
    自身の年来の主張とも重なるとして強く賛同していますが、すべてに違背している中国の人種政策を、人権侵害の脅威として、なぜ注意を喚起しないのでしょうか。誉めるだけの単なるオブザーバーに徹して黙認する意味は何なのでしょうか。
    それにその聖教キャンペーンでは、竹入元委員長の名前はきれいにデレ―トされておりますが、外交文書のなかでも、その功績が認められているのに、歴史の隠蔽とはまさにこのようなことをいうのでしょう。池田先生の嫉妬は激しいものと感じますが、称賛の影に憎悪やいやらしい妬みがあるのは、人間なら当然のこと。人格者であっても怒り狂うときもあるのが人間の本性というものです。仏だって、餓鬼や畜生の命が充満し支配されるときがあるのですから。




    ついでに学会歌を検索していたら、いろいろとヒットしましたが、今まであまりにも無知だったことを後悔しました。「同志の歌」は与謝野鉄幹作の「人を恋うる歌」と同じと思いましたが、さらにその原歌は「旧制第三高等学校寮歌」。このような使い回しは頻繁にあったのでしょうか。


     


    学会健児とは創価兵士のことです。折伏とは戦闘的行為であり、悲壮感を漂わせて決意するその姿は兵士に似ています。戸田先生が生死の境を生きてきたからといって、妙法流布もそのようにしなければならないというのであれば、そのための訓示をしなければならないのですが、まさか軍歌が使用されるとは、仏法が求める精神的気品も威厳もあったものでありません。それにも増して、祖国を亡ぼしたうえ師の命を奪った元凶であるミリタリズムの象徴「戦陣訓」とは、戸田先生の仏法理解も限界があったのでしょうか。


     


    歌詞は巧妙に原歌を援用しており、戦陣訓という非人間的な戦争体験をさらに強いているようです。どこに人間主義や法華経主義の生命尊重の思想が反映されているのか、はなはだ疑わしい。
    都合よく変えた歌詞を比較してみると、いかにその場しのぎであるかよくわかります。
    1957年(昭和32年)「大坂事件」で池田先生が逮捕されたとき、連日、拘置所の周辺では室長の無事を祈る姿があり、夜にはこの「日本男子の歌」を歌ったとの報道があったそうです。軍歌に等しい歌を熱狂的に歌う姿はときには狂気じみて、社会に恐怖を与えるくらい激しい。
    戦時中も国家主義という熱狂に支配されましたが、師弟不二も同じ熱狂の産物なのでしょうか。悠々たる沈着さこそ必要です。
    戦陣訓とは、ウィキペディアで概略が説明されています。軍人・兵士の行動規範であり、国家のために死も厭わないという忠誠を誓わせた東條英機陸軍大臣の訓令。内容は「軍人勅諭」をさらに解説したもの。その戦陣訓を徹底するために親しみやすい軍歌を作り啓蒙したと思われます。創価も、命懸けで何かを成し遂げるという好戦的な強制力を、化他行のなかに漂わせ、菩薩の闘争心を開放し会員増加をはかりました。選択肢がない手段を強行すること、ほとんど軍隊の行動力学と同じです。
    今月の本幹でも歌われましたが、創価の愛唱歌の一つに「大楠公」があります。哀調に満ちたこの歌も軍国教育のなかで尊皇と忠義の精神として強調されました。信仰と儒教的道徳心、現在で言えば、モラハラやパワハラが、なぜ美徳として重ねあわされようとするのか理解できません。
    学徒出陣のノンフィクションを図書館から借りて読んでいたら、次のような文章がありました。(「学徒兵の青春」学徒出陣五〇年目の答案:奥村芳太郎編、角川書店)
    『兵隊たちは、天皇陛下のために死ぬことを承知して入営するが、入隊する前の思想的基盤になっているのは「教育勅語」である。そのなかに「一旦緩急アレバ義勇公二奉ジ……」とあり、戦争の場合は、天皇のために自己を犠牲にして戦えと教えている。
    「軍人勅諭」は明治一五年(一八八二)の発布で、「教育勅語」より八年ほど早い。「教育勅語」が「軍人勅諭」の影響を受けていたことは、その内容から考えても容易に納得できる。この二つが学校と軍隊に浸透して、自発的に戦う国民をつくりあげたことになる。この二つを無視して戦前、戦中の日本人を語れない。昭和一八年(一九四三)になると、現場軍隊の天皇直属意識がさらに高揚され、服従を第二の天性として盲従するように要求されたのである。
    日本国軍は神格化された天皇を頂点として一大ピラミッドが形作られている。国法を超えるものといえば天皇の大権しかなく、「建軍の本義」は天皇を大元帥として直接に服従することである。統帥権の所在はしばしば「天皇陛下の命により……」という常套句によって強調され、上意下達を支えるのは厳正というより峻烈な軍紀である。軍学校出身の職業軍人たちは、いささかの疑いもなくこの言葉を使用した。
    学徒兵は従順な一般兵隊と天皇親率にこり固まった士官学校、兵学校出の将校や、野蛮な下士官の間にあって、どちらに対しても距離を置いて見るという習性を持っていた。だから、わずかな軍隊生活のなかで、その大きな組織を、表からも裏からも見ることができた。
    軍隊生活に順応する第一歩は、「軍人勅諭」を真っ正直に受け入れることである。一般の兵隊たちは、「上官の命を承ること実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」を守り、理不尽な上官の命令も天皇陛下の命令として服従する。自分で考えて行動し、自分に責任を持つ発想は許されないから、道徳的責任を負うこともないのである。無批判を習性とする部下は、上官にとっては便利な存在で、人格や人権があっては困るのである。それ故に良質な指揮官が望まれるのである。だが、戦闘中も安閑として後方で、将棋の駒のように、命令を乱発して、軍隊を動かしておれば済むと考えていた高級職業軍人たちは、学徒兵を含めた市民兵たちをどう見ていたのであろうか』

    『撤退の際は「病兵は銃殺せよ」という私に対する上官からの命令を察知して「天皇陛下万歳」と遺書を残して自決した兵士がいました。その遺書には家族のことについて何一つ書いてありませんでした。彼は死ぬ最後の最後まで、本音をいわず建前だけの人生を送ったのです。私はこうした兵士たちに接するたびに「なぜ、なぜ、天皇のために死ななければならないのだ」と心の中で叫んでいました。
    ルソン島のジャングルのなかで、食糧もなく援軍もなく、「天皇のため、国家のために戦え」と部下たちを叱咤していた最高司令官たちはいち早く内地に逃避し、残された司令官や参謀たちは、安全な奥地に食糧を確保し、自分のベッドまで運ばせ隠れていました。前線に送られた私たちは、毎日、熱帯病と飢えで多くの戦友を失い、友軍同士がわずかな食糧を巡って、撃ちあい殺しあい、明日はわが身と予感しながら、何のために戦っているのか、という疑問にとりつかれていました。
    守るつもりの、そのために戦おうとする家族たちは遠い内地にあり、ジャングルのなかにいる私たちにはなすべき方法がありません。それでも、そのために戦わなければならない「国家」とは何か。国家の前には一人の生命など問題にならないということを、私は戦争体験を通じて知ることができました』


    体験した者の言葉は重い。わたしは天皇制への嫌悪はありませんが、自衛権を認めない現在の憲法への改正の必要性を強く感じております。
    「戦争ほど悲惨なものはない」そんなことを言う前に、その戦争で使われた常套句や戦争歌を、なぜまた使用するのか。弘教する自らの姿を、戦う兵士の姿へ同化させている。
    わたしはもう学会歌を歌うことはないと思うので、無知だったことを恥じてはっきり言いますが、「威風堂々の歌」にひそむ戦争犯罪者を思わせる戦意高揚の欺瞞性を、わたしの身体のなかから永久に除外する。会員はあまりにも不感症過ぎます。

    あゝ紅の血は燃ゆる


    「紅の歌」があるのですから、歌詞を書き変えて「創価版・あゝ紅の血は燃ゆる」があってもおかしくありませんが、「戦陣訓の歌」と同じように、この歌によってどれほどの学徒兵が死地に赴いたか、気楽な会員は思いもよらないのではないでしょうか。
    そのことを少しでも考え、過去を悔いたなら、軍歌血筋の学会歌を歌うことはできません。
    著しく会員登録も減っているのに、創価は平和団体などと大きな顔して恥ずかしくないですか?


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