大御本尊の冒涜

    会則変更が聖教に掲載されたとき、懐疑的なわたしは、婦人部から「時代遅れね」と言われました。御本尊の意義の変更に、不審を抱いていることを揶揄されたのです。
    悲しいかな、この婦人部はなにもわかっていないのです。大切なことがいつも抜けている。面倒なことは他人任せで、肝心なところは無知。知らないことが信じることだと勘違いしている。そんなことより、聖教啓蒙や選挙支援が大事なのでしょう。手段の目的化、過程が根本より大切という倒錯した思考に、自身の信仰の目的が失われていることがわからない。人間関係に、女性特有の鋭い観察眼をお持ちの婦人部幹部なのですから、軽率な言動は誤解を招くことを、そろそろ学んだらどうなのでしょう。「創価の評判は、あなたの言動で決まるんですよ」そんな教訓を垂れたところで、なんの役にも立ちません。凝り固まっていて柔軟性がありません。凝り固まることがそもそも悪なのに、自分は善だから凝り固まっていても大丈夫という偏屈さは、世間的にノーマルなものではありません。
    今どき、高等宗教が優位を争うこと自体が時代遅れ。歴史は宗教間の争いの歴史だったことを、今更指摘するまでもありません。グローバルな布教が当たり前になった現在、人種や生活習慣に深く根差している宗教の相対的優位を争うことが、どれほどの障害を発生させるか、顕著に現れるテロリズムの問題を知らないはずがない。今必要とされる宗教の徳目は、寛容であり、融和です。そして、多様性への理解です。
    法華経の「三車火宅の譬え」から何を学んだのでしょうか。羊や鹿や牛はキリスト教であり、イスラム教であり、共産主義であり、仏教であり、また大石寺であり、創価なのです。大白牛車に乗った人は争いません。誰かを貶めるようなことはしません。ムリヤリ正義を主張しません。正義のための正義を主張した途端、大白牛車から転げ落ちてしまうのです。不寛容な正義ほど手に負えない厄介なものはありません。今も盛んに、不寛容な正義がテロの嵐を引き起こしているではありませんか。テロで命を奪われた人々は、あなたの子どもであり、恋人や夫でもあるのですよ。その苦しみは、わたしやあなたの苦しみなのですよ。絶望を垣間見る思いです。

    創価と宗門も、言論テロの応酬で、互いの人格を傷つけあう。
    命に容赦なく、見えないナイフを何度も突き立てる。何度も切り裂く。
    正義の名を借りたその争いは、先生と法主の代理戦争。代理戦争も時代の必然なのかもしれません。権力と権威が集中しているからです。
    永遠の指導者と、仏法僧という三位一体の永遠の僧。
    永遠の象徴に優るものはありません。
    その代理戦争の根底に流れる感情は、ただの憎悪。
    テロリズムの根源も、同じ憎悪。
    正義という名の憎悪。憎悪という名の正義。
    あなたはその醜さに気づかないのですか?
    先生も法主も魔です。菩薩の衣を着た魔です。仏意仏勅の唯一の団体と言いながら、その根拠となる大御本尊を否定する魔です。
    青年部は物心ついたときからずっと、宗門憎しのヘイトスピーチを聞かされ続けてきたのです。今では、「日顕宗批判」という創価教学の一分野です。なんという憎悪に満ちたヘイト教義でしょう。
    敵意に満ちた言動は、慈悲とは正反対の憎悪に基づく表現であり、扇動してきた張本人は、先生と日顕法主です。先鋭化しやすい体質は、折伏の戦闘的大義と無縁ではないでしょう。根こそぎたたく、まるで掃討作戦です。憎しみがそれほどまでに心を支配しているのに、なぜ、平常でいられるのでしょうか。
    『謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし』
    この一節を十分に味わい、熟慮しなければなりません。
    謗法を犯しているのは誰なのか?
    大御本尊を否定する者が謗法者でないと、誰が断言できるでしょうか。
    誰もが仏性を持つと言いながら、その仏性を罵る者の正体は、大聖人が戒められた「己心外の法」を求める者なのではないでしょうか。
    御本尊に迷い、創価全体が、元品の無明の大きな手に捕われています。


    伝統と新興は、いつもなんらかの争いを起します。ほとんど教義上のことですが、なかには化儀や形式上のことだったりします。
    冷静になって自問自答すれば、
    どうして、宗門と創価はおだやかな和解ができなかったのでしょうか?
    反逆者がいたからですか?
    反逆者の正体がわかっても、なぜ和解できなかったのですか?
    反逆者とは仏法の本質から見れば、どういう存在なのですか?
    宗教ヒステリーに負けて理性を失い、本質論がいつも抜け落ちています。
    提婆達多のような悪人が、なぜ仏の記別を受けるのですか?
    法華経に従えば、今ごろ反逆者は、成仏の予約を受けていることでしょう。
    反逆者も悪僧も、すべて自分の影です。
    自分の命の一部です。池田先生の命の一部です。
    提婆の命を克服する信心、わたしたちはそれを目指しているのではないでしょうか?
    殺の心を殺す、争いの心を争わない。そのことを釈尊も大聖人も教えているのではないでしょうか?
    寛容の徳目は慈悲の一側面ですが、それを形に現せば、仏の姿になることを知らないのですか?
    反逆者に罵声をあびせ、罵り、憎むことを、知らず知らずに強要したのは、それなりの意図があったのではないですか?
    先生が、名声、名誉を傷つけられることを恐れたためではないですか?
    もしかしたら、創価は自讃と自己愛の独りよがりの教団なのではないですか?
    宗教と自己愛の組合せほど、最悪の欺瞞に彩られたドグマチック(dogmatic)な善はないでしょう。歴史上にはその例が、不幸の数と同等に存在します。寛容をページ毎に説いても、そのページを読む人間は、どれほど立派に見えても、さほど寛容ではないのです。
    『法に依って人に依らざれ』
    そうすれば争いもなくなるのです。
    この御文は、妙法の革新性をよく表していますが、その真意を理解し、忠実に実行するのは至難なことです。
    人間はほとんど、人に依ることを無意識に当然と考えているからです。社会の主な秩序が、人に依ることで成り立っているからです。
    創価も宗門も人に依っているのです。だから対立が生まれ、さらに譲歩不可能な対立に発展する。対立のための対立に追い込み、後ずさりできないように仕組まれているのです。これが巧妙な魔の働きなのです。魔が、善の姿で自らをカムフラージュしている。経典のなかだけのおとぎ話と考えたら大間違いです。

    あまりにも近すぎて、わたしたちは気づきませんが、大善の隣りに大悪があるのですよ。悪の根源は、密接に善の住処と関連しているのに、また反逆者の命は、自分の命の一部でもあるのに、表層だけを見て、その本質を考えようとしない。
    仏教のなかでは悪の存在はとても重要です。善と対立するだけでなく、ときには善の導き手になるからです。仏教では神の存在をとっくに解決していますが、善悪という倫理規範は、神の存在以上に厄介で、その洞察は信仰の究極にリンクしています。「仏教がキリスト教より百倍も現実的」と、優れていることを認めたニーチェの言葉は、まさにこのことを語っています。キリスト教が、神の存在をいつまでも解決できずにいるのに、仏教では、人間自身が神の存在権を手にしているからです。
    神が善を代表しているとすれば、悪の代表は第六天の魔王です。無明の闇から生まれた魔王の特徴は、寄生主によって、その強さも大きさも変化することです。まるでウイルスのようですが、ウイルスも耐性を作るように、魔王もまた巧妙にカムフラージュして、耐性の姿を強大に変化させるのです。恐いですね。魔王を侮ってはならないのですよ。信心強情になれば、それに釣り合いをとるように、魔王もまた、強情に闇を黒く塗り変えるわけです。
    先生と言われて尊敬されている人と、大聖人と同等の人本尊と言われて有頂天になっている法主。その心は醜悪で、魔王の姿です。
    創価と宗門の間には、二人の分断の魔王が横たわっていることに、気づかないのですか?
    その魔王は、師弟不二と毎日呪文のように唱えながら、信者を金縛りにして、「わたしについて来れば幸せになれる」と言って騙し続けているのです。
    憎悪のなかで苦しみ悶えるように、憎しみの魔王が、あなたの心を占領していることに気づかないのですか?
    魔王だって、いつも祈っているんですよ、「仏よ、わたしに悪という善を実現させてください」と。善も悪も立場によって逆転し、善が悪になり悪が善になるんですね。絶対善は等価物を持たない大御本尊よりありません。
    善悪を越えた普遍的法だからです。

    わたしは、宗門との暴力的諍いを、再考、再評価していただきたいと考えます。
    大聖人のご遺命は広宣流布であり、折伏の闘士こそ最も偉大な、称賛されるべき信仰者です。
    それに比べて僧は何をした?
    僧は弘教をしない。会員を蔑んで金を巻き上げるだけ。
    少欲知足の高潔な僧とは、とても思えない。
    創価の誠実な会員の涙の出るような苦悩を、わたしは心深く感じ、共有したいと考えています。
    自分勝手な悪僧に、どれだけ苦しめられたか。
    それでも、その悪僧たちを許し、互いに許し、ともどもに広布のために、力を合わせていける日を夢見るのです。

    『凡そ仏法と云ふは、善悪の人をゑらばず、皆仏になすを以て最第一に定むべし。是程の理をば何なる人なりとも知るべきなり』(星名五郎太郎殿御返事)

    『法華経は草木を仏となし給ふ。いわうや心あらん人をや。法華経はの焼種二乗を仏となし給ふ。いわうや生種の人をや。法華経は一闡提を仏となし給ふ。いわうや信ずるものをや』(上野殿御返事)

    『設い八万聖教を読み大地微塵の塔婆を立て大小乗の戒行を尽し十方世界の衆生を一子の如くに為すとも法華経謗法の罪はきゆべからず。我等過去・現在・未来の三世の間に仏に成らずして六道の苦を受くるは、偏に法華経誹謗の罪なるべし』
    (善無畏抄)

    『若善比丘見壊法者置不呵嘖の置の字ををそれずんば今は吉し後を御らんぜよ無間地獄疑無し、故に南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有りて悪人を将護して治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば此の人は実に菩薩に非ず、外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」云云』(南部六郎殿御書)

    もしかしたら妙法を行じていると思い込んでいながら、実は法華経誹謗の罪を犯しているかもしれない。
    大聖人の、命をしぼりだすような叫びが聞こえないのですか?


    魅力的でエレガントな大宇宙統一理論も「法」ですが、信仰の対象にはなりません。相対性理論も万有引力の法則も信仰とは関係ありません。「法」は、それ自体では信仰の対象にはならないのです。実体がないからです。
    例えて言えば、わたしは、アンナという可愛いらしい名前ですが、わたしという本体が、実際に存在していればこそ、アンナという名前も有効です。わたしという本体が存在しないのに、アンナという名前だけがあっても、それは幽霊? ネットの幽霊? 怨霊? ゴースト? 妖怪? 言っときますが、わたしは亡霊ではありませんyooo。実在しますからne。

    「南無妙法蓮華経」は、仏を説明した法であると同時に、仏の御名前です。大御本尊が存在し、その御名前を呼ぶことに価値があります。仏に語りかける行為、つまり名前を呼ぶ行為を祈りというのですね。まさに仏性を信じ、仏性に語りかける行為は、御本尊という明鏡があればこそなのです。
    「法」を特別視する偏向的思考は、先生の初期の論文から顕著です。戸田先生には見られなかった思考です。宗門にいろいろ問題があっても、決して大御本尊から離れてはならないと、一貫してご指導されたのが戸田先生です。
    池田先生が、最も精力的に対話運動を展開していた70年から90年代にかけて、いたるところで、普遍的な法を説明するために対話が費やされています。全部引用するのも面倒なので典型的な一つを引用します。
    ヨーゼフ・デルボラフ博士との対談「二十一世紀への人間と哲学」より、

    『本来 "仏陀" とは「真理を悟った人」を意味し、真理は時間・空間を超えた普遍的なものですから、時空のあらゆる広がりのなかに、それを悟った仏陀は無数に存在しうるのです。のみならず、いまは悟りを得ていない人々も、修行し、思索を深めることによって、仏陀になる可能性をもっています。
    「真理を悟った人」が仏陀であるということは、「真理」こそ、あらゆる仏陀を生ぜしめる根源であるということでもあります。ゆえに、仏教では、この「真理」すなわち "法" こそ、あらゆる仏陀の親であり、師であり、主君であると説くのです。
    そして、現実に生きている人々の幸・不幸を決定していくのは、人々がこの "法" に合致した行動をとるか、そこから外れ、背いた生き方をするかであるとされます』


    海外での最初の講演、UCLAでの「二十一世紀への提言」(74年)では、仏教未体験の人には理解しやすいと思われる「大我」「小我」の単語を用いており、内容はトインビー対談を踏襲したものです。「常住不変の法と大我」と題して、仏教ではない言葉を使って、仏教の真髄を謳っています。

    このような引用個所には何か違和感がありますが、宗門と争った問題でもあります。法の擬人化は、キリスト教に馴染んだ欧米人には、理解しやすいかもしれません。法を優先する姿勢は当然、僧の反感を買います。僧集団は、法主を頂点に、広宣流布よりも法水写瓶に命を賭けてきたのですから、融通が利きません。法水写瓶は人を介して行われるのです。外に向かった啓蒙より、内向き伝統保持の精神、儀式はあっても、社会に展開する真の化儀はありません。
    池田先生はなぜ晩年の老いと病の戦いのなかで、ほとんど新しい宗派を作るという、とんでもない行為にでたのだろうか。先生は名誉に対する思いがとても強いと思う。「この名誉は会員の皆さまとともにいただいたもの」という意味のことを、先生はよく言われますが、もちろんこれは表面的な言いわけ、会員に一応気を使うセレモニーのようなものです。無冠は素晴らしいと言いながら、自らは名誉を独り占めにする。配達員を最低賃金で雇用し、使命感だけで人を動かそうとする支配の定石は巧みです。使命感はとても安価なものでありながら、思いがけないハイリターンを生む投資商品でもあるのです。使命感さえあれば、すべての生活を捧げ、人生をリセットし、死さえ厭いません。
    あまりに法を強調すると、法勝人劣の邪義になります。南無妙法蓮華経は仏身であり、大御本尊は、その仏身を曼陀羅としてあらわされたものであり、すべて妙法はこの大御本尊に収斂します。大御本尊と法は一体であり、大御本尊を離れて正しい信仰もありません。先生が言われるところの「仏陀を生ぜしめる根源の真理」は大聖人の御内証のことであり、大御本尊から離れて、その具現もありません。宗門においても、人法一箇には、いろいろと歴史上の経緯がありますので、一概に肯定できませんが、こういう教義上のことよりも、さらに重要な、避けて通れない問題がありますので、新リーダーには真の宗教改革をめざし英知を結集していただきたいと考えます。
    池田先生も宗教改革をめざしましたが、その道半ばで放棄しました。挙句の果てに、大御本尊への冒涜とは、信仰者として恥ずかしくないのでしょうか。戸田先生に顔向けができるのでしょうか。 「魂の独立」「創価ルネサンス」といった華やかな言葉に惑わされてはならない。宗教改革とは、仏教界全体に波及することなのです。歴史の常識を変えることなのです。清廉な信仰者としての使命を自覚し、仏法の守護者として社会における正義の実現を願うならば、池田思想に安住し、止どまってはいられませんが、現執行部に、それらしい人が見あたらないのは、創価の命運も尽きたということ。池田先生の最大の失敗は、自らの名声名誉ばかり気がかりで、創造的で行動的な、どこまでも信頼できるたった一人の後継者を見い出せなかったということです。

    不軽菩薩の行動精神は堅忍不抜という太い神経ですが、そこには他者への尊敬があることは今まで幾度も学んだ通りです。尊敬があるから耐え忍ぶことができるというのは、大変ドラマティックな設定ですね。尊敬と簡単に口にしますが、尊敬への信頼度が試されているわけです。不軽は、心の底から人間を信頼していたということが良くわかりますが、このような人物造型は、法華経を作った人が、不軽のような人だったということを表しています。不軽の本地は釈尊ですが、この釈尊は歴史上のブッダでないことは明白です。ブッダは仏教創始者という栄誉に浴するだけです。
    折伏精神は、単に破折といった側面を強調するだけでは不十分です。人間への尊敬と信頼が、その行為のなかに凝縮されています。同時にその尊敬も信頼も、自分に向けられた他者の思いであることも、自覚しなければなりません。折伏を行ずるとき、他者から自分が試されているのです。人間行為は、決して一方的な通行では終わらないということ。投げたボールは、必ず返ってくるということです。エゴイスティックな行為、組織的義務や成果のために投げたボールは、美しい軌跡では返ってこない。

    仏法の卓越性は、合理的な比較相対にあります。仏教はもともと、科学的批判精神が横溢しているからです。批判精神がない信仰者は、理性を欠いた盲信者と言わなければなりません。実証を重要視するのは道理的によく分かりますが、はっきり言えば、宗教上の実証体験は主観的要素が強く、つまり心の問題であるために、死ぬまで客観的な決裁がつかないということです。未来世で判定するというわけにもいきませんものね。
    信仰者は、人生の障害となる問題や深刻な悩みを解決したとき、喜びのために我を忘れて、理性を無視した結論を下します。この宗教は唯一無二、絶対に正しいと考えてしまうわけです。そしてこんな素晴らしい真理を、わかりやすく教えてくれる指導者は、完成された人格として偶像化されます。これはなにも創価に限ったことではありません。自分の努力が自分が望むような形で現われたという結果なのに、単純な理性的思考が、なぜか欠落してしまうのです。ついには法が擬人化され、法を説く指導者像が擬人化された法に重なります。指導者は神格化され、主師親の三徳を兼ね備えていると崇められるのです。無謬性という神に近い人格を与えられるのは、純粋な信仰を求める宗教にありがちなことです。法が純粋ならば人も純粋でなければならない。
    法主絶対論は形を変えた師弟論です。宗門でも、神に近い絶対性を保持しており、創価の師弟不二とは対等の勝負ですね。創価の師弟不二論も絶対に近いものですので、法主絶対論を批判できません。創価と宗門の無謬性対決は、大石寺教学に原因があります。
    なぜこのような師弟観が生まれるのか。たぶん、血脈と人法一箇論に起源があると思う。その弊害を克服しながら、将来予想される蹉跌と混乱を回避しながら、僧俗和合の青年を結集することも不可能ではありません☆彡


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    ♡Comment

    macska | URL | 2017.09.09 18:49
    アンナさんのブログ、今日発見しました。
    気付くのが遅れて申し訳ありません。
    今後の論客ぶりを期待しています。
    アンナ | URL | 2017.09.10 16:31
    ありがとうございます。

    リンクしていただいたのですね。
    どこまで更新を継続できるか、不安です。
    主張することは根気がいることですね。
    邪悪の海を必死で泳いでいる気分です v-229
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