桜梅桃李と師弟

    創価では選挙が始まると、あらゆる会合、予定が変更になります。選挙戦が最優先になる体制に誰も異議を訴えません。法戦というキーワードで、選挙との関係を調査してくれる人がいてくれればよいのですが、データをもとに客観的考察をくわえれば、とてもおもしろい結果が得られると思います。いかに権力に取り込まれていったか、法戦という言葉で美化された会員の集団行動の実像が明らかになると思います。
    信仰で蓄えられたエネルギーを利用することをはじめに気づいたのは、きっと池田先生です。一時、総体革命という言葉が頻繁に見られましたが、政界進出にともなう政治権力への野望も、そのなかに含まれていたと思います。
    ともかく、法戦の意味、その実体はたいへん不明瞭なものです。広い解釈で、なんでも法戦になるという漠然とした意味しかありません。朝起きたときから夜寝るまで法戦です。一瞬一瞬が法戦です。戦うことが好きなんですね。だからでしょうか、平和主義の核禁止条約に反対しても後悔しません。もちろん戦うことだけを強調する仏教はありませんので、これは創価流F取り合戦の人海戦法というところかしら。
    婦人部長は大将になって、阿修羅のように指揮しています。女阿修羅を戦いの女神に必殺認定しましょう。法戦には集団行動の怖さがあります。同時に、オルテガの「大衆の反逆」という恐ろしさも潜んでいます。
    (阿修羅によって)本来の信仰活動がキャンセルされるという本末転倒に、仏法者は最も警戒が必要です。「末」によって「本」が見失われるからです。手段が目的を駆逐するのと同じですね。
    疑問を持ちながら、苦痛に感じながら、活動に参加している人は多いと思いますが、自分の意思を明確に表明できないのは、それを言うと会員として、また信仰者としてバッテンを押されるからです。役職があればなおのことです。誠実であろうとすればするほど、責任感との狭間で揺れ動くことになります。誰もがアンビバレントな感情と思考のなかで苦悩します。

    わたしたちはいつも負の動機を背負っております。これをわたしたちは「魔」と呼びます。強信であれば、それに比例して「魔」も強情になります。自分のなかに生息する「魔」は、自分に悟られないように巧妙に擬装します。ときには正義や善の衣を着ているときもあります。生き生きとした「生」から遠ざけるマイナスの動機は、仏道から言えばすべて「魔」なのです。
    「魔が入って信仰の邪魔をする」などの言い方をして、妙に納得してしまいますが、宗教につきものの神秘的スピリチュアルな側面を、元々受け入れやすい体質があるからでしょう。元を正せば、「魔」は脳のなかの物質、「正」に対してネガティブな働きをする物質のことではないかしら。科学者でないのでよくわかりませんが。

    「頑張ろう」と思っても、「そんなに頑張らなくていいんじゃないの」というような感情が必ず、わき出てきます。なにかをやろうとしても、苦労して自分がやらなくても、誰かがやってくれると考えてしまいます。
    わたしの毎日は、そのような感情の葛藤のなかにあります。アクティブであろうとすると、否定的な感情が一方でもたげてきます。何も考えず、疑問も持たず、言われたことを素直にやれば、どれほど楽なことでしょうか。
    でも素直さが信仰と考えるのは間違いです。信仰は疑うことから始まるのです。おかしな言い方ですが、無疑曰信は、疑うことを疑わないことから生じる結果なのです。逡巡と決意、失意と再起の繰り返しのなかから、自然と生まれる確信なのです。
    自分の生き方に疑問を持たない人はいませんが、深く考える人は稀です。いつも既定の事実と既定の行動理論を支えに、自分を肯定する習慣が身にしみついています。まず、何が正しいのか、その根本から問い直す作業が必要です。

    仏教史は、新たな解釈を試みた歴史の連続です。その意味からすると、大乗仏教は小乗に対するアンチテーゼとも言えますが、大乗のなかでも、権、実、種脱と命題の深化を繰り返してきました。創価のなかでも、価値論から生命論、そして人間主義へと中心思想の変遷があります。情報化とグローバルな時代を迎え、時代に即応した思想と哲学は、世界経済や政治という現実に直面する問題を切り離して深化はありえないと思いますが、より多面的な、より多様性を尊重する思想的背景がなければ、世界との対話は難しいと思います。
    はたしてそれに応える思想はあるのかと考えると、わたしは必然的に人間主義思想に求めざるをえません。このことは今まで何度も書いたとおりです。わたしたちは、池田思想の深化と実践という難題を課せられているのですが、そのためにはまず仏教史の理解と、そのなかの創価のあるべき姿を模索しなければならないと思います。

    わたしは大学時代、トインビー対談を何度も読み返しました。多くの示唆と考えるヒントを与えてくれるトインビー対談は、わたしの原点ですが、学ぶ意欲が旺盛な会員なら、すでに古典とも言える必読書ですね。
    また御書への精通は、会員であれば当然のことでしょう。なにごとも御書根本であることは、信仰者の生活に欠かせないことですが、最近は、座談会や会合等での御書解説や講義でも新鮮さが失われ、創価の出版物からの引用に終わるみじめなものが多いと感じられます。
    本当に思索しているのか、整然とした論理展開と情感溢れる大聖人の御心に感動しているのか疑問に思い、わたしは講義者の顔をマジマジと見つめて、その軽薄な心のなかを想像する癖がついてしまいました。言葉は真理を伝えるツールでもありますが、先生がよくおっしゃられるように、自分の体験から得られる確信の言葉こそ、最強のものです。そして苦労して学んだ知識は、人生に豊かさを約束してくれるでしょう。

    わたしも女子部時代、部員さんを前に御書講義をしました。自分で自分のことを言うのはわたしは好みませんが、わたしの御書講義は、大白や聖教の創価のオフィシャル講義から逸脱しています。自分が学び自分が経験し思索したことを、自分の言葉で語ると自然とそうなります。想像力の乏しい言葉ほど虚しいものはありません。祈りにも信仰活動にも個性が表れますが、御書講義にも個性が表れるんですね。

    宗教にかぎらず、学術や芸術の世界でも、師弟関係は存在します。師弟の絆は、師の人生も、弟子の人生も、左右するほど強い関係です。
    一般的に師は弟子より年上ですので、普通、師は弟子より早く亡くなります。また師は学びと経験を惜しみなく弟子に伝えます。また弟子は、いつも師の期待を裏切ります。それでも師はどこまでも寛容ですが、ときには弟子は反旗を翻すことも厭いません。世界は広く深い問題を絶えず抱えているために、師はその構想と理想を半ばに、必ず去ってしまいます。その構想は弟子に託されますが、弟子の必死の闘争にもかかわらず、実現できることは限られています。
    人類の師・釈尊は不戦の理想を弟子たちに託しました。しかし弟子たちがしたことは正統をめぐっての争いと、それによる差別化でありました。正統を主張すればするほど民衆は離れていったのです。このジレンマの繰り返しが仏教史です。民衆のためという目的を喪失しているのです。
    歴史はいつも、解決不可能な問題に頭を悩ませ、仏教もその解決手段になることを、ほとんど放棄してきました。積極的に関与するためには、強い決意が必要だからです。聖人と尊敬される人は数多くいますが、この聖人の決意の度合いが、聖人を聖人たらしめている根拠です。真理を得た者の決意は、その深い喜びとともにゆるぎなく不動です。
    決意が実行に移されるとき、世界は一時的に混乱に陥ります。根本から変える新しい価値観が台頭すると誰もが戸惑い、受け入れを拒み、その混乱を招いた者を罵ります。師はそのような過酷な戦いの人生を自ら選択し、弟子にも促しますが、臆病な弟子は決して受け入れることはありません。巧妙に体面を飾るだけです。それでも世間的に立派な人物として認められるのですから、世間の評価など当てになりません。

    でもいつか、偉大な師を越える弟子が出てくるでしょう。今までの歴史はそうやって発展してきたのですから、未来もまた変わりありません。仏教は生命変革の法なのですから、誰にもその可能性があり、誰にも改革の原動力になる資格があります。
    従藍而青という言葉がよく引用されますが、師弟は互いに、その生命の尊厳性を認めあった者をいうのだと思います。崇高な使命の継承は、この尊厳性のうえにあることに疑う余地はありません。また尊敬のなかにあることも疑いありません。太陽が万物を育むように、師は万人を対象に、その尊厳性を説きます。不軽の実践を見ればよくわかります。万人が対象であることが普遍的な真理の証です。
    この万人性を獲得した経緯もまた興味がつきませんが、多様性の究極と思われるこのような尊厳も、ときには欠点をさらします。悪人への尊厳を認め、容認してしまうことです。
    師が説く万人性は得難いものですが、そのなかでも特に求道者に心を寄せるのは、自然の道理です。迷える者を励ます深い情感は、他者共存の世界観に立脚しています。迷える者も自分自身の一部だからです。迷いは自分の生命の一部でもあるからです。

    わたしは開目抄が好きです。開目とは、大聖人ご自身の開目でもありました。悩みや迷いを克服した人間的な勝利宣言でありました。わたしはそのことを知ることができたとき、深い感動に襲われました。あらゆる思想の原点がこの書のなかにあります。釈尊が言いたかったことも、この書に凝縮されていることを知りました。
    でも、大聖人が喜悦はかりなしと言われたそのご心境に、少しでも近づいているのだろうか、とわたしはいつも憂慮してしまいます。

    その深い真理を、わたしに教えてくれたのは、池田先生です。わたしは結局、先生の手のひらで踊っている不肖の弟子にすぎないのです。わたしはあまりの自分の非力に愕然とすると同時に、なんのわだかまりもなく、なんの疑問もなく、弟子宣言をしている人を恨みました。でも師はどこまでも寛容であることを、わたしは知っています。しかし、師であっても、決して無謬でないことも受け入れなければなりません。完璧な人間はいないのですから、弟子もまた寛容でなければならないのです。
    わたしの師に対する不満は、同時に創価全体に対する不満でもあります。先生は創価の指導者であり管理者だからです。特に執行部に対する不満が強いのです。その一つ理由は、将来への展望がないからです。創造的なアプローチがないからです。師を越えられないとする原因はここにあります。

    妙法を学び体験を通して掴んだ確信は、その人の財産であり、かけがえがない宝物です。信仰対象は同じでも、桜梅桃李の喩えがあるように、信仰経験から得られる教訓や人生観は、同じものではありません。師弟の定義は、個人の固有の人生経験から得られた、貴重で、代理がきかない唯一のものです。個人の人格と密接に関係しているからこそ、人生の強い支えにもなるでしょう。
    信仰は、このように自分固有の確固な基盤を築くことに他なりません。いくら立派な他人の体験を聞いても、それが自分のなかで消化されないかぎり意味がありません。
    一人ひとりが大切にする、師弟への考え方と確信は、辛いときでもきっと希望の力になってくれるにちがいありません。
    学び実践することが師弟の道であり、やがて師をも越えるような幸福境涯で、生きる喜びの実現も不可能ではないでしょう。なにものにも負けない人生の勝者になることが、師が望むことであり、師の恩に報いることです。

    「わたしは師を越えた」などと言えば増上慢の謗りを免れません。またいつまでも師を越えられないとしたら、師にとってこんな情けない弟子はいないでしょう。また多くの諸悪と問題の解決は遠ざかるばかり。指導者の非力は、ある意味、罪悪です。
    師の心は、それぞれの弟子の心のなかにあり、その継承は、他から強制されることでもありませんし、ただただ自分自身の深い自覚のなかにしか存在しないのです☆彡


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