半狂人格と説明責任

    詩人は革命を好み、革命に捧げることを詩人の生きざまと心得ていますが、わたしにはそこまでの覚悟はありませんので、本当の詩人にはなれません。また才能もありません。
    批判は詩人の特権です。なにしろ、生来の直観が鋭くて、悪を見抜く能力を持ち合わせているからです。
    わたしは高校生のとき、御本尊さまの前で不可思議な体験をしました。それ以来わたしは自分の使命を強く自覚しています。
    わたしは少なくとも、仏教徒であり、菩薩になる資格があり、他者に共感する感性が人一倍旺盛であることを、いつも心の奥に秘めていて、わたし自身、その激しさに手を焼いています。制御できないほど昂り、わたし自身を支配するからです。でも、慈悲とは言いかえれば、共感力ではないでしょうか。同苦同悲の感情は理性に優り、人を活性化させ、励まし慰めるための行為ですが、同時に、自分自身に力を与える情感です。その発露としての言葉は、自他ともに思い慈しむがゆえに、仏の言葉です。そうであれば、仏は詩人というべきでしょうか?

    ネットというテキストの世界とはいえ、文字には投稿者の品性が宿り、人格までもが込められます。あなたの悪口も批判も、あなたにとっては他者尊重の精神のあらわれなのでしょうか。悪口も論理的でなければなりませんが、感情のおもむくままの悪口であれば、動物の叫びと同じです。優れた悪口というものもあり、それは人の心に強い印象を残します。その悪口は陽光に照らされた慈悲心の陰りかもしれません。
    他者非尊重は自己非尊重であり、あなた否定はわたし否定です。でも、アンビバレンスな感情こそ、人間である証明。悲しみのなかに喜びがあり、喜びのなかに悲しみがあり、愛のなかに憎しみがあり、否定の怒りのなかに肯定の慈悲があり、自己の内面で矛盾なく調和しています。肯定的な進化、変革を信じた楽観主義は、自己実現のためのメソッドでもあると思います。「変革を信じた楽観主義」とは、創価が好む標語のようなものですが、つまりは純粋な内面を育成する賢明な信仰ということです。
    妙法は、自己の制御と解放という「自己の信仰」に収斂しますが、新しいヒューマニズムとして、この「自己の信仰」に立脚したのが、先生の人間主義です。エゴイズムの牢獄から自由になり、自他共生の理想の実現のために、戦う寛容主義者でありたいと思いますが、わたしからすれば、リーダーの説明責任を放棄し、会員を欺いている先生に、不信を感じているのです。あからさまな自語相違です。「自語相違の宗教者」は、最低の宗教者という烙印を押されても仕方ありません。リーダーが疎かにできない説明責任こそ、信頼の要であり、団結の中心的要素です。
    最近の選挙でも、森友・加計学園の首相の説明責任が問題になりました。国会での議会は、結局、あらゆる問題の国民への説明責任を果たす場といっても言い過ぎではないでしょう。

    我が国の政治家の一貫性の無さは目を覆うばかりですが、それはまた、国民の、政治を監視する努力の不足も意味しているように思います。あなたは政治を監視していますか?
    「困難に遭遇してもそれを解決していく才能」とは、常々、先生の指導のなかにみられるフレーズです。会員であれば日々心掛けている指針ともいうべき指導の一つでもあります。人生は予期しない出来事の連続。同じように国家の在りようも厳しい選択と決断の苦しみからは逃れられず、直面する政治家の資質と人間性も危機にさらされる運命ですが、常に困難を乗り越える才知の堅固さとモチベーションが、歴史を動かす要因であると言っても過言ではありません。公明党のかつてのトップだった竹入や矢野は、この危機を恐れ、退いた臆病者でしょう。
    戦略は100年、200年先を見据えた深謀と遠慮から生まれるものです。それはリーダーのあるべき姿の第一要件と考えます。
    問題の始まりと終結のプロセスを見通す英知は、言い換えるならば、問題意識の深度と比例します。いろいろな素因の分解と総合的な判断は、創造力の如何によるものと考えます。
    いつもの公明支援の結果分析は、一般会員の全く予想もできない精緻さで行われているものと考えますが、今までの定型的な技術から脱して数値を定量的に知るだけではなく、十分に会員の心を推量したものでなければなりません。あたりまえのことですね。数値に表れない努力や悩みや喜びのなかにこそ、次の段階へ進むヒントが隠されているのであって、票の数に落胆したり、おろそかにも冷静さを欠いた論理的思考から逸脱すべきではありません。心無い幹部の怖さは、自分の力が劣るがために出た結果と認識せず、同時に責任の所在を明確にしないことです。表層的な問題の捉え方は、何も生み出さないばかりか大きな誤りの原因となり、善良な会員に希望を与えないことを知るべきです。
    組織にはいつも反省がありません。したがって、いつも変わりばえしない支援に疑問を感じない鈍感さが創価を追い詰めていても、会員には認識はありません。公明党の体質は創価の体質の写し絵なのです。

    社会正義、弱者救済、環境、平和というようなグローバルで普遍的価値は、人間の幸福につながる重要な要素です。元々、仏教に限らず、多くの宗教が公共性を重んじ、歴史上でも民衆の支持があればこそ、発展流布してきたものと思います。戦後の近代化のなかで、宗教が世俗化し、無制限な欲望をコントロールする必要に迫られたと思うのですが、神聖な信仰規範としての宗教の役割について試みがなされ強調されてきました。個人と社会の関わりあいのなかで、宗教が果たすべき役割は、先生のご指導を引用するまでもなく、人権や平和、自由や平等、倫理道徳といった基本的な仕組みの公的領域に寄与するものと考えます。

    人格は多くの矛盾を孕んでいても統一性を保持しています。矛盾のまま統一がダイナミックであればあるほど、その人格は人を引きつけ、魅力的に光を放つ。人間の教育組織ともいえる創価のなかでの最良の教師は、厳しさと優しさを併わせ持ち、同苦し、道を示して、寛大に成長を願う人々でしょう。現在の執行部でないことは明白です。
    会員はいつも師の無謬性に悩まされてきましたが、これは師だけの責任ではありません。冷静さを忘れてしまう会員が、妙法の無謬性の延長線上に間違いだらけの「人」をまつりあげるからです。日興上人以来の「御書根本」も、血脈尊重も、法に依るものです。その法に、実体と形を与えたのが大御本尊です。法のみあり、実体がなければ、それは理に過ぎません。実体とは、大聖人そのものの御命のことです。創価では総別の二義を全く疎かにしていますが、『又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず』との御文を深く思慮すべきです。


    Unstoppable
    E.S Posthumus






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    半狂人格と説明責任
    「半狂人格と説明責任」 2年前の文章に加筆補正しました。

    平成3年(1991年)11月18日の先生の御指導を掲載します。
    創価史を調べますと、平成3年は特に激動の年。11月7日に、宗門からの解散勧告があり、もう破門は時間の問題という緊急のときを迎えておりました。
    11月 7日 解散勧告
    11月28日 破門通告

    11月18日の創立記念日にSGI代表勤行会があり、先生がスピーチされています。重要と思われる部分を引用します。
    『創立以来61年。これまで、私ども創価学会は、どこまでも「御本尊根本」で前進してきた。ただ「広宣流布」のために、戦ってきた。この軌道は、今も、また永遠に、寸分たりとも変わることはない。

    「御本尊根本」について、少々、述べておきたい。日蓮大聖人の仏法の根幹は、「三大秘法」であり、その根本中の根本は「本門の本尊」である。
    日蓮大聖人が、弘安二年(1279年)十月十二日に御建立になられた、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊こそ、「本門の本尊」であられることは、いうまでもない。
    そのことを、日淳上人は、「日蓮大聖人様の御一代の教えは申すまでもなく三秘五綱(三大秘法と教・機・時・国・教法流布の先後の五綱)という三大秘法の教判ということにつきるのでございます」と述べられ、次のように明確に示されている。(昭和31年5月3日、創価学会第14回総会。以下の引用は「日淳上人全集」から)
    「日蓮大聖人様の教判によって三大秘法を立て、その三大秘法に於ては上行菩薩として釈尊より南無妙法蓮華経を御付嘱あらせられ、その南無妙法蓮華経の日蓮大聖人の御身にそなえ給うところが事の三大事でございます」
    「それを衆生御化導の上に建立遊ばされたのが本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目となってくるのであります。しかも又これが一閻浮提のために御化導遊ばされる上から本門戒壇の大御本尊に終窮究竟の御化導を置かせられたのでございます」
    御本尊は、三大秘法の御当体たる「一大秘法」であられる。その御本尊を離れたほかに、「秘密の法」などありえないのである。
    <中略>
    また、日興上人から日目上人への譲り状である「日興跡条条事」には、こう記されている。
    「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を授与す」(富要八巻)
    ――(日蓮大聖人より)日興が身をあてて給わったところの弘安二年の大御本尊は、日目にこれを相伝する――と。
    大聖人より、日興上人ただお一人へ相伝されたのが、弘安二年十月十二日にお認めの本門戒壇の大御本尊であられる。大聖人の「出世の本懐」であり、化導(仏法を教え、仏道に導くこと)の究極であり、広宣流布の根本となる御本尊であられる。
    そして、その御本尊はそのまま、日目上人に相伝され、七百年間、護持されてきた。
    相伝書の一つである「百六箇抄」(血脈抄)には種脱相対、すなわち、大聖人の文底下種仏法が釈尊・天台の文上脱益仏法よりも勝っていることが明かされている。
    また「産湯相承事」では、大聖人の本地(本来の境地)は自受用報身如来であられ、垂迹の上行菩薩の再誕として出現されたこと、日蓮と名乗られた意義、弟子に日号を与える理由などが明かされている。
    「本因妙抄」(法華本門宗血脈相承事)では、大聖人の法門と、釈尊・天台の法門との勝劣を明かし、寿量文底の秘法である、事の一念三千の南無妙法蓮華経こそが、末法の衆生を即身成仏させる大法であることが示されている。
    このように、日興上人に付嘱された法門は、すべてが人法一箇の大御本尊を指し示されたものであり、その裏付けとなる法理と拝される。

    こうした相伝書は、かつては秘伝の書として伝えられてきたが、日亨上人は、これらを含む富士門流の主要な文献を「富士宗学全集」として集大成された。
    さらに、その全集の中から重要な文献を選んで発刊された「富士宗学要集」の第一巻に、「相伝部」として、大聖人から日興上人に伝えられた相伝書八編(「本因妙抄」「百六箇抄」「産湯相承事」「御本尊七箇相承」「本尊三度相伝」「寿量品文底大事」「上行所伝三大秘法口決」「三時弘教次第」)を収められ、公刊されている。
    そして昭和27年(1952年)4月に、戸田先生が願主となり、日亨上人が御みずから編纂の労をとってくださって発刊された「日蓮大聖人御書全集」にも、主な相伝書が収められている。このように現在では、重要な相伝書も、その内容は公開され、オープンになっているのである。
    また、大聖人独自の御法門である文底下種法門も、日寛上人が、「六巻抄」や御書の文段等で、体系化され、明確にしてくださっている。
    「六巻抄」は、昔は相伝書に準ずる秘伝書のように扱われ、許された一部の人しか読まれなかったようだが、今ではだれもが学ぶことができる。
    戸田先生は、戦後、学会再建にあたって、「教学は日寛上人の時代に還れ」と叫ばれ、「六巻抄」や「文段」を全員に学ばせて、教学力を深化させた。いわば、秘伝や奥義とされがちであった大聖人の仏法の真髄が、学会の教学研鑽によって、民衆へ、世界へと開放されたのであった。
    そうした機運を、だれよりも願われたのが、「御書全集」の編纂とともに、多くの門外不出の相伝書をも公開された日亨上人であられた。また、昔は相伝であり、奥義だった深い法門が、だれ人にも知られ、広まること自体、何よりも、広宣流布の時の到来を物語っているといえよう。

    全世界の人々が信じて平等に成仏できるからこそ、「一閻浮提総与」の大御本尊であられる。また、この大御本尊を世界へと弘めてこそ、一閻浮提広宣流布である。
    ゆえに、大御本尊を離れて、僧侶だけが知っている、何か特別な根本の法門があるというのではない。どこまでも大御本尊こそ、大聖人の「出世の本懐」であられる。そして、私どもが日々拝している各会館、家庭の御本尊は、大御本尊とまったく同じ仏力・法力を具えておられる。
    大聖人は、こう仰せである。
    「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり、成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり」
    ――今、日蓮大聖人、およびその門下の元意は、即身成仏と開覚することを「如来の秘密神通の力」というのである。成仏すること以外に、神通も秘密もないのである――。
    一切の衆生を成仏させる大御本尊のお力こそ、神通であり、秘密なのである。それ以上の「秘密の法」などないのである、と大聖人は明確に仰せである』


    この後、先生は、御書根本についても御指導されています。
    ともすれば、会員のなかに動揺が走ることが懸念されるとき、創価の原点を確認された指導と拝されます。

    御本尊根本を『この軌道は、今も、また永遠に、寸分たりとも変わることはない』と指導され、その御本尊とは一閻浮提総与の大御本尊であることを言及されております。しかし、ここで言うところの『永遠』は、このスピーチが行われた91年から23年間の短い期間のことを、『永遠』と表現している矛盾を、恥ずかしくもなく露呈しています。『永遠』と言えば、宇宙の始まりから終わりまでをいうのではないでしょうか。少なくとも、地球が誕生し、消滅するまでの時間的スパンを言うのではないかしら。そんな幼児でも理解できることが、23年後、堂々と変えられるのですから、これは明らかな詐欺と断じます。会員を欺いています。また、先生は嘘つきになりますが、仏教史上で嘘つきが指導者を名乗るとは聞いたことがありません。真実の言葉を説く人を仏ということは何度もお聞きしましたが、仮にも師と呼ばれ尊敬を集めている正統を名乗る仏教指導者が、本当は嘘つきだったとは、釈尊、大聖人の系譜に連なる人とは思えません。
    『永遠』は重要な言葉。真理と信仰の核心を形成する言葉。その言葉をメモ紙のように簡単に捨てる人が、多くの善良な人々の師であるはずがありません。それとも、上記のスピーチは、方便とでも言い訳するのでしょうか。あまりにも世俗に汚れています。真理は宝珠、決して、世俗の手垢に汚れることはありません。『永遠』をC作戦のようにカットして、当然の論理的帰結として、永遠の大御本尊もカットした・・・それなりの子ども騙しの筋道も考えているわけですね。
    宗教と詐欺的行為は、切っても切れない関係にありますが、世界に存在する宗教のほとんどは、詐欺的教義で成り立っていると断定しても言い過ぎではありません。厳格な宗教批判の原理で正邪を区別してきた創価も、ついに詐欺集団に成り果て、『永遠』の法を『永遠』に葬り去ってしまいました。

    毎日、多くの原稿を執筆されている先生が、会則変更を知らないはずがありません。そして少なからず会員の一部に、執行部に対しての不信があり、将来に向けて、悔恨と災いの種をまくことになったことを、心配し憂えないはずはないと考えるのが常識です。創価は危機にあるのですから、リーダーが説明責任を果たさないなんて問題外です。先生は全部知っていて、会則変更を容認していると考えます。容認する弟子が、今求められている姿なのです。
    上記の指導は、すでに過去のものです。自語相違も甚だしく、万人の幸福を願う仏法者の真摯な姿勢とは言えません。ダブルスタンダードの典型です。整合性がとれません。大聖人と妙法を愚弄するものです。
    それにしても、会員の無能振り、鈍感さは驚嘆に値します。根幹の教義が変更されても何も疑問に思わないなんて、戸田先生が知られたら、どれほど悲しまれることでしょう。

    同じ年の12月3日の「墨田の日」記念幹部会でのスピーチでは、牧口先生の言葉を引用し、日顕宗を揶揄していますが、その引用が、現在の創価にピッタリ当てはまります。皮肉なことです。
    『さらに牧口先生は、同じ論文で、”半狂人格”――半分狂っているような人格についても論じておられる。(「牧口常三郎全集」第五巻)
    「何を以て半狂人格というか。一方で肯定した事を他方では否定して平気でいるものは、人格に統一を失うものとして、相手方を驚かせるもので、取り引き関係などをなすものにとっては迷惑千万と言わねばならぬ」
    つまり、半狂人格の人間は、社会では絶対に通用しないし、信用もされないと。最近、こういう人が多いようだ。
    さらに、こう続けられる。
    「統一を条件とする常人に対して、人格分裂の異常人となし、狂人の一種として警戒をしなければなるまい。愚人がその愚を知らないと同様に、悪人がその悪をさとらぬところに常人と違う所がある」
    「平常普通の生活においては、少しも狂った所がないどころか、却って気がきき過ぎて買いかぶられるくらいであるが、(中略)ことに名利に関し、利害問題になると、意外の狂暴性を発揮して、恥も外聞も顧みない所に異常性が見える」と』


    恥も外聞もなく、自己否定の道を歩んでいるのが、現在の創価であり、師弟でしょう。牧口先生は、『異常性が見える』と言われております。全くその通りです。
    以前の記事にも書きましたが、お金が集まるところには、宗教人には相応しくない虚偽と権威を強調する人間が、必ず現れることを指摘しました。創価だけ例外などとは夢にも思ってはならないですね。余剰金があるところに魔ははびこるのです。

    破門された直後の11月30日に開催された「創価ルネサンス大勝利記念幹部会」では、キリスト教徒の言葉を紹介しながら、世界宗教の条件を考察しています。この条件が、現在の創価が、はたして満たしているのか、会員一人一人が真剣に考えなければならないでしょう。
    『①民主的な”開かれた教団運営”
     ②「信仰の基本」には厳格、「言論の自由」を保障
     ③「信徒参画」「信徒尊敬」の平和主義
     ④「儀式」中心ではなく、「信仰」中心
     ⑤血統主義ではなく、オープンな人材主義
     ⑥教義の「普遍性」と、布教面の「時代即応性」』


    「信徒参画」はB・ウィルソン博士との対談(「社会と宗教」)で硬直化しない組織運営についての話題のなかで出てきました。ステレオタイプの人格造形は、自由と独自性を尊ぶ宗教とは相容れないものです。また「紋切り型反応」が宗教を形骸化させてしまうのですが、反応という前に、会員は反応するだけの思考をしていないと言ったほうが正しいかもしれません。信行学と言われるように、信仰とは信じ行じて学び考えることでもあるのですが、会員の正直さには悲しみさえ感じます。「信じる」こととは考え行動することなのです。
    また「普遍性」と「時代即応性」は、化法と化儀の関係です。上記のスピーチで何度も強調している大御本尊についての普遍性を、「受持の対象にしない」と定義した冒涜性は、宗教の掛け替えがない財産を捨てる行為です。妙法にとって「受持」が信仰のすべてなのです。信仰上の基本は受持なのです。キリスト教ですら十字架と聖書を受持し、信仰の基本とします。受持がなければ信仰とは言いません。受持即成仏です。その受持を、大御本尊から見れば限定してしまう「権能」なんて、増上慢以外、なにものでもありません。そのような重大なことを、先生は指示をされて、会員には自らの言葉で説明しない。都合が悪くて、忠実な弟子に、代わりに説明させたのでしょう。永遠の指導者は、もっとも大事な説明責任をはたさなくても、無責任指導者とは言われないのですね。だから、わたしが代わって言ってあげます、永遠の無責任指導者は、宗教者に相応しくない大仰な華美に彩られた最後を迎えることでしょう、でも生きているときから、命は腐っています。すでに、大聖人から見放されています。
    さらに宗教の場合、教義上の異議・異論も言論の自由の範疇であることをよく考えてみなければなりませんが、現在の創価には、そこまでの余裕はないものと思います。破和合僧という企みがないかぎり、どのような意見も自由な討論の対象なのです。それが「言論の自由」を保障するということなのです。
    ローマ法王と親しく対話できても、隣りにいる内道の仏教とは、仲良くできないとはどういうことなのでしょう。遠くの他人とは仲良くできても、近くの兄弟とは喧嘩ばかり。妙法は不寛容な阿修羅教でしょうか。「言論の自由」は、対話討論の自由ということです。信仰者にとって内道も外道も、隔たりを作っては対話は進みません。
    血統主義にも問題があります。オープンな人材主義は、多様な人材と意見を得るうえでも必要なことです。このような人材主義は厳格さのなかで維持されるべきですが、職員の子女が職員に採用されるという事例がよくあることなのです。血統主義を禁じていながら、血統に盲目的になり、池田家が三代にわたる職員とは皮肉なこと。幹部は特別という貴族感は、煮詰められ、純度を増して、やがて宗門のような弊害を生むことになるかもしれません。原島某も二世職員ですが、将来私物化した創価からモンスターが現れる可能性は十分にあります。

    対話の言葉のなかに仏性が宿り、対話こそ宗教の生命線ですが、宗門の破門という対話を拒否した姿に、濁り、腐り、判断能力を喪失した、仏性と正反対の人間の愚かしい行為を見る思いです。宗門は、世界宗教というグローバルな普遍性を創造できない組織です。御本尊の普遍性に問題があるわけでありません。宗教組織を運営管理する人間に問題があるのです。特に指導者としての法主は、信仰者として模範的人格者でなければならないということ。伝統のなかに新鮮な息吹が感じられる活性化した組織に、人間変革の喜びがあります。革新的な法は、革新的な人によって実現が可能なのであり、人法一体によるアプローチこそ平和実現の正道です。
    創価にも問題がありました。伝統の教義への敬意がしだいに失われていったこと。早急な世界宗教への発展に、教義の検討が追いつかなかったこと。
    原理からの応用に、あまりにも宗門の融通性がなかったこと。それまで弱小一宗派としてある意味、安泰、無風状態に安住していた僧侶の歴史観が、グローバルな世界展開に追いつけず、明確な方針を考えることができなかったこと。時代転換期に聡明で寛容な人材がいなかったこと。さらに僧侶の特権意識は在家疎外、民衆離反を招いたこと。特権意識はつまり階級意識を生じさせることであり、人間の差別化のはじまりです。また宗教組織では考えられない欲望が渦巻いていたこと。派閥や血族が伝統のように重んじられたこと。
    池田先生の長年にわたる著名人との対談が、はからずも宗門の欠陥を明らかにしました。世界宗教への発展は、教義あるいは儀式の改正ということですが、厳密に言うと、改正なのか改悪なのかわかりません。宗門という拘束がなくなり、教義の改変は今まで以上に慎重でなければなりません。そうしなければ、創価自身が作り上げた教義によって、自らの首を絞める未来を作ってしまう結果になるでしょう。すでに最悪の道を歩み始めていることを、会員は目を見開いて、その姿を認識しなければならないでしょう。
    賢人であっても、50年後、100年後の姿を描くことは難しい。僧俗和合の再認識は、広布の道程の通らなければならない峠なのでしょうか。

    先生は、指導者としての資格を放棄していると、わたしは考えております。
    老年に達すると賢くなるとは限りません。「信濃町」という山林に閉じこもり、身を隠し、息をしているのかしていないのかも確認できず、会員という民衆から遊離しています。届くのは誰が書いたかわからない紙切れ(聖教)だけ。誰に遠慮することなく散歩もできないなんて、なんという境涯なのでしょう。

    <唱法華題目抄>
    【問うていう。
    どのような姿や言葉が法華経を世間から嫌われるようにしている者というのか。世にも恐ろしいことである。
    答えていう。
    初めに、智慧者が言ったなどと語られたことこそ、法華経を世間から嫌われるようにする悪知識の言葉である。末法で法華経を滅ぼす者は、心には一代聖教を知ったと思っている。しかし心では権と実の二経さえ分別できていないのである。姿や行儀は整っており、人里離れた閑静な場所に身をかくしたり、世間の人に偉い智慧者と思われている。しかも法華経をよく知っていることを人に知られようとして、世間の出家した僧や在家の信者からは、三明六神通の阿羅漢のように貴ばれている。このような者が法華経を滅ぼす者である。


    『権と実の二経さえ分別できていない』とは、まさにその通り。
    『三明六神通の阿羅漢のように』世界中から表彰されて、名誉市民に顕彰されていますが、『永遠』を否定する者が、法華経の智慧を獲得しているとは思えません。老衰とともに、菩薩の感情と智慧が劣化しているのです。リーダーとしての統一性が失われているのです。


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