牧口先生の反戦 2

    牧口先生の反戦活動は、多くの問題を含んでいます。
    戦前戦中の大善生活座談会では、戦勝、国威発揚の発言が叫ばれています。
    創価では、このような事実を積極的に公表しませんが、すでによく知られた事実です。創価は平和団体であるとアピールするのであれば、歴史的事実を十分に会員に説明する責任を負うものと思います。

    以前、わたしは座談会でこのような歴史的事実から、創価教育学会は反戦を訴える団体ではなかったと結論しましたが、慌てたように顔色を変えた壮年の担当幹部からは、白い目で見られるだけでした。不勉強な人間にはカンフル剤が必要と考えただけ!
    青年部を応援する前に、他人に立派な指導をする前に、自分の信仰を証明してくださいと思う。反論して、わたしに注意の一つもしてみなさいと思う。法の絶対性と、創価に欠けていると思われる使徒的使命の歴史的考察を把握してくださいと思う。少なくとも幹部と言われる人には必須でしょうに。青年部を応援するというのなら、明確に答えるべきです。ただ和気藹々と仲良くする前に、自らの信仰がいかに強固であるかを、その人格とともに証明すべきです。わたしたちは、明日をも知れぬ命なのですから。今、つつがなく正義を叫んでいても、明日は堕地獄かもしれません。口汚く罵る退転者になるかもしれません。なにも保証はありません。わたしは曖昧な姿勢を許したくない。
    創価ではよく「魂の独立」と言います。魂とは何だろう。大聖人から譲り受けた正しい信仰の継承ということでしょうか。わたしは同時に思想の自由、権威を否定した精神の独自性を意味するものと考えています。座談会では、意地悪くこのことについても質問しました。数が至上の功利主義、低級な功徳論を得意気に主張したことに腹がたったのです。まるで餌をちらつかせた見え透いた仏法論です。仏法は勝負だと言う。そういう切り文のみを用いて話しするのは、経済的裕福さに価値を置き、利益が功徳と考える、魂の独立とは全く関係がない低俗さだと思います。


    戦争当時、良心的兵役拒否、反戦で獄中につながれた人は数多くいましたが、これらの人々と一緒に、反戦の括りで論ずることは不可能と思います。牧口先生のご心中は、大変複雑だったと推察します。日々刻々急を告げる戦況と並行して、日々刻々、先生の思想も進化したと思います。特に獄中にあって、平和への思いが強く意識されるようになったのではないか。

    松岡幹夫氏は、東洋学術研究のなかで反論(牧口常三郎の戦争観とその実践的展開)を試みていますが、いかにも苦しいというのが偽わざる感想です。視点としては新鮮であり、妥当であっても、「牧口先生が弾圧されたのは、宗教的理由からであり、反戦運動からではない」という学術的常識的見解を覆すまでには至っていないと感じました。
    しかし、松岡論文は大変示唆に富むものです。牧口先生は、獄中で亡くなられるまで教育者でいらっしゃいました。当たり前と言えば当たり前ですが、わたしが言う意味は、かつて小学校に奉仕したように、会員を、しいては万人を、教育的に導く慈悲深き教師であったということです。これは、仏教全体、別して言えば法華経の精神に適うものです。理想に生きながらも、一夜にして体制が変化するような極端な変革を望まず、漸進的、現実的な方法を模索する生き方です。一歩間違えば、体制側に利用されやすいという危険はありますが、「人生地理学」で説かれた人道的競争という社会進化論へのアプローチは、遠い未来を展望したものであることも考え併せると、牧口先生は、どこにでもいる、家族のことを、誰よりも心配し、思いやるような優しいおじいさんだったのではないでしょうか。急進的改革を望まない一市民の感覚を持った穏やかなおじいさん。争いは好まなかったけれど、非情な時代だったからこそ、主張を曲げることができなかった。どこまでも諭すように、教育的に会員に接しようとしていました。そのような慈愛を、威厳に満ちた顔写真を見ながら、わたしは思ったのです。創価の創立者として、これ以上の人はおりません。仏智と必然的歴史を証明するかのように、創価が誕生したのです。壊滅的な暴力を受けても、その内面には妙法で説く蘇生力、レジリエンス、悪に対する反抗心が秘められておりました。

    デカルトが「方法序説」の冒頭で明らかにした理性への信頼は、精神の自由を獲得する革命的原理の最初の宣言でもありました。仏には世雄という異名があります。古い思想を壊し、革新的思想を社会に流布する英雄の登場を待ちわびる時代は、不幸な時代に相違ありません。牧口先生の苦闘を知れば、よく理解できます。神の啓示への服従を否定できなかった「方法序説」に、懼れずに付け加えると、妙法信仰者にとって、理性は妙法への祈りという行動によって、真価を発揮するのですね。牧口先生の平和への祈りは、その後の創価の発展につながり、絶対的反戦を含む多彩なアプローチとして展開されつつあります。なにより現実を再構築する勇気が必要ですが、政治的スタンスに顕著に表れているように、保守的であって、革新的ではありません。
    また思想(魂)の独立と権威の否定はセットです。創価には絶対的権威など存在しないし、もしも安易に絶対性を強調するのであれば、思想の独立性を否定するものと考えます。はっきり言えば、組織においては「絶対」の言葉の使用ほど慎重にならなければならないのです。また組織において「絶対」はないことも銘記すべきです。わたしたちが求めている魂の独立と解放があるとすれば、個人的生活の場での一人一人の祈りと努力による結果です。
    牧口先生は絶対的非戦論者だったのか、なかったのか。またほとんどの会員が、軍部の圧力を恐れて退転した事実をよく検証しなければならないでしょう。これは創価のためというより、自分自身のためにです。松岡氏ははからずも、牧口、戸田先生だけが、なぜ宿命に屈しなかったのかを、「絶対的法に殉ずる使徒的意識」と述べています。

    思想は自分自身のより大きな可能性に気づかせてくれます。妙法の真の力用は、他者との関係性のなかにあります。この発想はごく単純であるがゆえに堅固であり、人間は人間のなかでしか生きられないとする、わたしたちが日常で感じている当たり前の感覚からくるものです。
    「人生は無常である」という問題提起自体が、すでにイデオロギーです。さらに自己と他者の関係性を説くこと自体、イデオロギーです。人間は政治的動物なのです。今までどれほど力関係に左右されて、正義を失ってきたことだろう。賢明さと言われるものは、ごく少数の人間の徳でしかありません。仏教徒だからというだけで、どうして賢明だと言うことができるでしょうか。
    その他大勢の幹部など気にするな。
    独立自由を愛して暗闇を一人歩め。
    犀の角のように。
    生きるって大変だよね、思い通りにならないし☆Che!


    ♡わたしがまだ2才のころ、父と母、姉とわたしの4人組のチームは、鳥海山に登山しました。わたしは父の背中に縛りつけられるように固定され、ほっぺたを赤くしていました。2才にしては平均より大きかったと聞いていたから、父も大変だっただろうなと思われ、また家族がそれぞれ勝手なポーズをとるスナップ写真を見ると、思わず笑みがこぼれます。
    八合目付近に残る雪渓と噴火湖、手を入れれば切れそうなぐらい冷たかった水は、家族の話を聞いてうらやましく感じました。わたしには、全く記憶がないんですもの。当たり前のことですけど。

    母は今よりずっとスマートだったし、美しく輝いて見えるのはどうしてかしら。きっと若さのせいかもしれませんね。姉は小さいときから、飛び跳ねるように元気が良かった。だから、わたしはいつも振り回されていたけれど、わたしと違って、食は細いし、好き嫌いも激しいし、運動量のわりにはカロリー摂らないから、あんまり大きくなれなかったのね。平均身長っていうところだから、不満はないと思うんだけど。でも、姉の度胸には敵わないとしても、心臓の大きさは、わたしの方が大きいと思う。大きさと強さは関係ないかもしれないけど、大きいと持久力はあるでしょう。姉は、鮭とイクラが大好物。鮭さえあれば、あとは何もいらないっていう鮭っ子みたいな人。
    恐いもの知らずの姉の厳しい鑑定結果を申し上げますと、広布一筋のチョ~強信。感情の起伏激しく、感激屋。うれしくっても悲しくってもすぐ涙を流すから、涙には慣れっこになりました。正義心も鉄のように固い。トレンディ―・セレクションとセレブリティーに憧れていながら、自分だけの倹約委員会を作り、節約に励み、預金のすべてを広布基金と財務にする猛女。創価とお友だちでいるのは大変なことよ。こういうタイプ、ハガネの女というカテゴリーに入れておきますね。おかげさまで、結婚するとき、貯えは0、0、0。
    「どうしてきれいさっぱり、0なんだろう?」と、頓珍漢なことを言っていたけれど、みんなお友だちにあげたでしょう? そういうところは、大らかでこだわりがないというか、きっと貧乏という意味なんて知らない人生になるんじゃないかしら。なんとかなるもんですね。わたしには真似できませんけど。真似しようとも思いませんけど。

    故郷の三面川(みおもてがわ)河口には、義経伝説が残されています。兄に追われて、平泉に逃れた道筋に、ゆかりの神社があるのです。伝説の多くは、人々の願望が反映されています。歴史は川の流れのように悠久に続き、その時代に生きた人々の悲喜交々の感情も、霞のなかにかすんで見えるだけですが、今思いを馳せて涙するのも、現在をより良く生きる人間のために、与えられた特権ではないでしょうか。歴史を作り動かすのは人間自身なのであり、歴史は歴史家のためにあるのではなく、学ぶためにあるのですから。

    豊かな水量を誇る三面川のほとりに立てば、その源流の清浄さに触れてみたいという感情が、自然と湧き上がってきます。河口の水も源流の水も、水に変わりはありません。
    同じように、鏡を合わせたように、大御本尊さまの命を写し取った個々のご本尊さまにご祈念していても、源流である大御本尊さまに思いを寄せるのは、普通の感情ではないでしょうか。わたしは今まで、ご本尊さまから流れる無尽の水脈を、一度も疑ったことはありません。その水脈の途中に、人為的な堰や障害がいくつもあることに、不信を抱いているのです。

    人間は、厳格な教義だけで生きられるものではありません。厳格さだけを求めたら、人間性も失いかねません。また正しいというだけで、すべてに耐えられるものでもありません。矛盾しているようですが、そもそも割り切れないぐらい複雑な心の襞を持っている人間は、正義を求めながら、悪を容認し、愛を求めながら、憎しみに心震わせる、避けがたい宿業があることに気づいています。
    母のように優しい顔をした第六天の魔王は、何のために存在するのでしょう? 存在には必ず理由と動機があり、さらに無価値なものはありません。
    究極の悪は、正義と善を証明するためと解説しても、何らおかしくありません。正義と悪は、うりふたつなのです。コインのように表と裏の違いだけなのです。悪は克服しなければならない。しかし、悪が永遠に消滅することを意味しているわけではないのです。

    この地球上で、利己的、排他的、暴力的生物といったら、人間以外におりません。その最悪の生物が地球を支配しているという甚だしい生物自身の思い上りは、やがて、森や海や山といった偉大な自然の力によって、裁かれるでしょう。人間を主に、自然との関係性を鋭く追求した「人生地理学」は、未来のための書です。20代で、このような書に取り組まれ、完成された哲人教育者を、天才と言わずして、どのように顕彰したらよいのでしょう。
    身近な郷土から世界への関係性を謳い、世界からの恩恵を郷土のなかに見る。郷土とは世界のことであり、世界は郷土の繁栄なくしてありえません。個が全体を表し、全体は個に収斂する。牧口先生は、妙法に出会う前から、仏教的求道者であられました。一身のなかに、宇宙の法則が遍満すると説く妙法と、「人生地理学」で説かれる真理への洞察過程は、酷似しています。具体例の提示は、この書を読む対象が学者ではなく、現場教育者を想定したからだと思います。発表当時、アカデミズムな学会から無視されたことでもわかります。凡知は凡人の称賛を受け、英知は理解されずに葬られようとします。
    先生が、普遍的命題に思い当たったのは、きっと学問的啓示をうけたからに相違ありません。そこに見られる経験と理論と実証は、はからずも仏法が説く三証〈文理現〉の巧みな援用と言ってもよいのではないでしょうか。

    親交があった柳田國男は、民俗学の祖とも敬称されていますが、柳田は過去を溯り、牧口先生は未来を志向しました。体制がまず弾圧するのは、未来志向の人間であることは、よく考えてみればわかることです。さらに、暴力的人間の目的は、郷土と郷土に生きる人間の絆を破壊することです。牧口先生の人道的競争は、未来予言でもありました。不思議にも中道的英知でもあることに、先生の思索の深さを偲ばずにはいられません。平和実現の本質は、郷土に平和を実現することです。したがってそこから、わたしたち創価のあるべき平和運動も見えてくるのではないでしょうか。

    波乱の人生であられた先生は、人間の最低の品性である暴力と戦われました。他を傷つける暴力は、自己の命をも傷つけ、無残にも回復できないダメージを与えます。どんな小さな暴力も認めてはならないし、法律や人間が作った規則や制約はごまかすことができても、生命の法の因果律は決して許しはしない。
    聖者はただ道を説くだけでなく、社会のなかで教育的に導く使命を担っています。わたしは、獄中におられた先生が自らの思想を深化させ、大聖人の懐に入り、国家への間違った奉仕から国家を超えた反戦へ、深く決意されたものと考えています。


    義経伝説が残る神社は、漁師の無事故と海への畏敬から祀られているのでしょう。この神社に行く細い道の入り口には、小さな公園があり、釣りに来た人たちの駐車スペースになっています。春になれば桜が咲き、川の水面に風にのって花びらが散る。やがてこの花びらは、荒々しい日本海へ流れ、儚い夢をみる間もなく、海底に消えていく。
    わたしは、桜花が好きです。日本人であることに誇りを持ちたいと思えば、桜のイメージが重なります。
    牧口先生をはじめ、明治人は、桜花のような気品を色濃く感じさせます。
    新渡戸稲造の「武士道」に、桜について書いた美しい一節がありました。

    『武士道は、その生みの親である武士階級からさまざまな経路をたどって流れだし、大衆の間で酵母として発酵し、日本人全体に道徳律の基準を提供したのだ。もともとはエリートである武士階級の栄光として登場したものであったが、やがて国民全体の憧れとなり、その精神となったのである。もちろん大衆はサムライの道徳的高みまでは到達できなかったが、武士道精神を表す「大和魂」という言葉は、ついにこの島国の民族精神(エートス)を象徴する言葉となったのだった』
    『私たちの愛する桜花は、その美しい装いの陰に、トゲや毒を隠し持ってはいない。自然のなすがままいつでもその生命を捨てる覚悟がある。その色はけっして派手さを誇らず、その淡い匂いは人を飽きさせない。草花の色彩や形は外観だけのもので固定的な性質である。だが、あたりに漂う芳香には揮発性があり、あたかも生命の息吹のように、はかなく天に昇る。それゆえにあらゆる宗教的な儀式において、乳香と没薬は重要な役割を演じるのである。香りはどこか霊的な働きがある。(中略)
    ならば、これほど美しく、かつはかなく、風の吹くままに舞い散り、ほんの一瞬、香を放ち、永久に消え去っていくこの花が「大和魂」の典型なのか。日本人の魂はこのようにもろく、滅びやすいものなのだろうか』
    <訳:岬龍一郎・PHP文庫>

    牧口先生の高潔な精神は、信仰者の備えるべき品性と思います。また、現在の日本人が失った最も尊い魅力なのではないでしょうか。潔き師に仕え、潔き生を全うする桜花のような品格こそ、師弟の美しさだと思います。
    自己犠牲の精神を、過去の遺物として否定するのは、まるで花枝を折るように簡単なことです。しかし、菩薩の救済行為は、自己への限りない信頼に立った自己犠牲なのではないでしょうか。不軽は多くの犠牲をはらい、救済の道を歩んだのではないでしょうか。牧口先生も妙法という宝珠のために、自己犠牲の潔さで命を全うしました。
    わたしは、歴史からの贈り物を粗末に扱うことに、ためらいをおぼえます。創価は自身の過去を、正しく認識する必要があります。
    美徳と言われ、品格と言われるものは、自律心を敬い、養う、自己完結の潔さだと思う。と、わけわかんないことを言う、わたし自身の品格のなさ。失礼しました。

    『同じ一樹に陰を求め、同じ一河の流れを汲む』
    女に生まれ、女であることに喜びを見出し、運命を拓きゆく優しき賢者になるための心得と戒めています。一途さは男女の区別なく、人間としての最も高貴な徳性と、赤くなった木々の葉が散る、移りゆく季節のはざまで、ふっと感じた。
    何事も変転するなかで、変わらないものこそ尊い。


    Heroine's Journey - Dwayne Ford





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    「創価教育学会の回想」
    「創価教育学会の回想」 著者・福田久道
      ―私が接した牧口会長・戸田理事長の実像―
    (PDFでダウンロード)
    https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=
    &esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=
    0ahUKEwjA5OLP1tPXAhVGxbwKHWl8BrsQFggmMAA&url=
    http%3A%2F%2F1st.geocities.jp%2Fkjsy4a%2Fsibakawa%2Fsouka01
    .pdf&usg=AOvVaw0UL7STjASXNsiUXI8XFA16

    大石寺法主・日恭より「日蓮の再誕」と賞賛された牧口先生。誇大妄想の人間は、時代に関係なく存在するようです。現在でも、「主師親の三徳具備の池田先生」「永遠の指導者」などの誇大妄想の人物評価はあとを絶ちません。会員のすみずみまで、師弟不二の誇大妄想は続いているようです。ただの尊敬ではダメなのでしょうか。
    法主の日恭は、大石寺火災で焼死しました。法主の焼死の例はないかもしれませんが、いくら強信でも不可避の災害に遭う確率は、無信仰者と同じ。神札問題で謗法を犯したからだと、もっともらしい解説をする人間をみかけますが(こういう人ははじめから軽蔑する)、大切なことは、非常時の妙法流布の心構えに問題があったということではないでしょうか。立正安国の精神が忘れ去られていたということ。
    東日本大震災で多くの会員が亡くなりました。良き生と良き死を願っていた会員も、災害は避けがたく、またその災害によって今だにご遺体も発見できない会員もおられるのではないでしょうか。聖教では、このような悲しみを決して報道しませんが、願っても叶えられないという信仰の不明瞭さ、不明確さにも同時に口を閉ざします。師を崇め奉ることばかり考えないで、死者への同情とその人生を思いやるほうが、よほど人間的であり、宗教的です。
    どのような死であるのかということよりも、その死へ至るプロセスと日常が大切です。死は誰にも平等にあるわけですから、死そのものより、死に至る過程に妙法の功徳があることを強く思うべきです。焼死だけを取り上げて、死に方の評価をすべきではありません。
    また、死と成仏を関連づけた考え方が、創価のなかでも頻繁に見かけますが、従来の死についての既成概念から抜け出すことは簡単なことではないようです。一生成仏という妙法の画期的教義は、死後のものではありません。また妙法を貫く因果倶時という時間軸も、過去や未来より現在を重視していることは明らかです。
    死は、どのような死であっても荘厳です。そして不軽のように、死に対し慈愛を持つべきなのです。例え極悪人であっても、死を蔑むべきではありません。死を慈しみ、苦しみを取り除こうとする「悲」の心が慈悲なのです。法華経の真髄は、九界の衆生を差別なく平等に、成仏に導くことです。生において差別がなければ、死においても差別はありません。

    上記のPDFの著者は、批判的な会員のようですが、当時の雰囲気を伝えてくれます。何から何まで異常な時代だったのです。そのなかで、冷静な理性的判断の難しさを考えずにいられませんが、指導者は自らの社会的影響力の強さを、慎重に考慮していただきたい思います。会員の、無知であることに安住している姿こそ、わたしの敵です。そして妙法の叡智の敵です。
    わたしは現在、白い目で見られながら、一応会員登録していますので、本幹だけは参加していますが、スクリーンの原田会長の不気味な人相を、数カ月前から正視できないでいるのです。ごまかしの人生を歩んできた人間の顔色の、どす黒さに悲しみを覚えますが、敵意と憎しみも、その如是相に感じるのはどうしてでしょう。


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    ♡Comment

    元会員 | URL | 2017.11.23 23:37
    組織が大きくなり過ぎた歪みが出ている。信心のあるべき姿は不変かもしれないが、組織論まで不変と考えるとおかしなことになる。仕事、家庭、これらに支障がでるほど組織の活動に忙しくなるのは異常だと思う。小乗じゃあるまいし。
    この記事に関係ないことを書いてしまい、申し訳ありません。

    反戦思想。戦時中に難しい問題であることは確かですね。ところでアンナさん、愛国心と平和主義の両立に悩んでいませんか? ブログ読んでると、そう感じました。
    ソシオロゴス | URL | 2017.11.24 01:34 | Edit
    いつも勉強になります。ありがとうございます。牧口先生のことは恥ずかしながら何も知らないことに気づかされました。

    アンナさんと同じく、
    ブログ村に登録されている 学会三世の憂うつ でも、牧口先生のことが語られていました。
    ツイッターで拡散されてるみたいです。

    アンナさんの感想をお伺いしたいです。
    アンナ | URL | 2017.11.25 18:11
    コメントありがとうございます。
    ご返事遅くなり申し訳ありません。

    元会員さま
    愛国と平和主義、難しい問題ですね。わたしは、愛国者であることが平和主義者であることに矛盾を感じておりません。物騒なことが頻繁にある現在の社会のなかで、武装した平和もひとつの選択肢です。現実的平和主義を選択しますが、そのための憲法改正も必要と考えております。
    以前、婦人部の会合で、スイスのような永世中立国になればいいのに、という発言があり、同調する人が多くいたことに驚きました。スイスは徴兵制があり、武装国家であり、経済的にも独立志向のため物価も高く、決して暮らしやすい国家とは言えません。そういう話を少し強調すると、中立国って大変なんですね、ということになりました。そして無理だという結論になりました。婦人部のことですから、話ししただけ、話題を提供しただけの感覚ですね。何も考えていません。まともに相手していると、バカになります。

    ソシオロゴスさま
    「学会三世の憂うつ」を少し読みました。とても難しいところがあり、わたしの理解力も不足しております。でもこのような方こそ、創価には必要です。創価では、証明問題を解くように現証に偏重するところがあります。理論と解釈を池田先生に負っているところが、おおいに問題なのです。「聖なるもの」を唯一先生に認めているせいかもしれません。先生がご存命のときはその恩恵を受けることができますが、お亡くなりになれば、きっと創価のあらゆる面で行き詰まりが感じられるという袋小路状態に襲われる可能性があります。宗教や哲学では、解釈がとても大事だと思います。あるいは認識の幅を広げる、認識の新たな視点を獲得するということかもしれません。広宣流布も大事ですが、行動以前の行動理論を深める作業が重要です。

    なお議論を深めていけたらと思うのですが、記事更新すら難しい時間的余裕の無さが問題です。十分なコメントができないことをお許し下さい。
    ポラリス | URL | 2017.11.26 23:22
    ご無沙汰しております。11.18創立記念日に本流しました。8月から毎週日曜日に会館で勤行指導、DVD、日蓮大聖人の御生涯、三代の師弟等、共に学びました。
    彼が御本尊を頂くときに、新聞啓蒙も折伏だと余分な事を申していました。
    何か、御本尊流布よりも新聞啓蒙の方が大事ですみたいな感じがしました。

    本幹の先生のメッセージも全然心に響いてきませんでした。伝える人に心性がないとダメですね、私もあの人の指導のときは寝ています。
    宜しくお願いします。
    アンナ | URL | 2017.11.27 12:16
    誰かと思ったら、ポラリスさん。
    ご無沙汰しております。
    以前は、大変お世話になりました。
    ありがとうございます。

    わたしもしばらくの間、ブログから遠ざかっておりましたが、何か自分を表現するものがないとストレスがたまり、またこのようなブログを始めた次第です。以前のことを考えますと、わたしにとってポラリスさんは、対告衆だったんだと理解できます。あなたを相手に失礼なことも言ってしまいましたが、冷静に考えてみれば、重要なことを整理しながら書けたような気がします。誰を相手にするかということは、とても大事なことなんですね。

    本流おめでとうございます。聖教啓蒙も弘教の一部ですよ。信仰がなければそんな面倒なことはできません。純粋な啓蒙心こそ、自らを向上させます。
    わたしも未入会の夫を結婚後に入会させることができました。残念ことですが、地区の応援はいただいておりません。
    暇があれば、仏教全般の勉強を夫といっしょにしております。とても新鮮ですが、池田先生の著作が以前のように参考にならなくなってきたことに、違和感を感じています。
    本幹もしだいに形式ばったものに変化していくでしょう。儀式と宗教は切っても切れない関係にありますが、創造的でなければ、すぐに中身の無い形式に退化していきます。今までは先生が運動の中心にいて創造的でした。でもその創造的軸がなくなれば、すべてが変化し、喜びがないものに変質していきます。本幹でのハイライトは体験です。その生き生きとした実践者の心と言葉、信仰を知りたくて、わたしは参加しているといっても過言ではありません。
    以前も言いましたが、改革は自分ができるところから始めたいですね。

    またコメント下さい。
    ポラリス | URL | 2017.11.27 20:50
    覚えていてくれて嬉しいです。また、厳しいご指導が帰ってくるのかと覚悟をしていました。新聞は利害がからむので、本人が読みたいと言えばとってもらおうと思います。
     
    私の信心の原点は杉並学生部です。最初のG長が非常に御書の捉え方が普遍的な方で、自由な発想をされていました。その影響を受け私もG長のとき宗教のドグマと組織の縦社会がいやになり、ラインを外れました。今から思えば、自分に正直でよかったと思います。それ以来信心は先生の指導を根本に貫いてきました。途中、役職を解任された事もありましたが、私には、先生と御本尊と真の同志がいれば組織はいりません。アンナさんは先生に完璧を求めているのでないでしょうか、所詮、信心は「一人立つ」「殉教の精神」があるかどうかです。日蓮大聖人、牧口先生、戸田先生、師匠池田先生の生き方そのものです。御意見をお待ちしています。
    アンナ | URL | 2017.11.28 13:36
    コメントありがとうございますv-431
    もうすぐ12月。年末も近いなんて、時間の早さにはため息ばかり。
    去年の今頃、わたしは何をしていたのか、振り返ってみると、あまり成長していないような気がします。同時に、心のなかに沈殿した不安や不満があり、アクティブに捉えられない自分がいたりするので、ペシミズムを克服する努力を継続してきたのか、と自分に問うことが恒例の必然的イベントです。創価はオプティミズムというより、根拠と準備がない楽天主義ということができます。問題意識の低さ、他に責任転嫁するいい加減さ、謙虚さと自戒がない傲慢さ。無責任な自我のどこに、魂の独立があるのでしょう。

    厳しい指導だなんて、暖かくも優しい人柄ですよ。自分で言うのもどうかしてますね。
    池田先生に完璧を求めているのは、わたしのようなアンチくさい人間ではなく、原田会長以下のごますり幹部ではないでしょうか。だから「永遠の指導者」と賛嘆し、神格化することに精を出すのではないでしょうか。完璧を求められるほうの人間も、完璧でないことがわかっていながら、完璧だと言われて困惑していると思います。普通の感覚でありませんので、永遠と言われて当然と考えているかもしれませんが、理性も感情も普通で正常であれば、自分は永遠の指導者であり、永遠に尊敬されるべき存在であるなどとは決して考えません。
    そういう考えの人間は何と言うかご存じですか? 増上慢と言うんです。
    完璧な法を流布している正義の組織であり、そのために迫害を受けている。こういう考えは独りよがりと言うんですね。
    法が完璧でも、人間は完璧ではありません。つまり、完璧性など求めても獲得することは難しいということです。

    最近、創価学会仏が強調されておりますが、人権を無視したり、歴史に目を閉ざし正しく認識しようとしない仏もいるんですね。わたしはそういう仏を望んでいるわけではありませんので、創価学会仏などという、世界のためにならない仏の一員にはなりたくありません。
    仏界即九界、あるいは九界即仏界と説かれますが、簡単にいえば、九界の苦しみの根源を克服した境涯が仏界だと思います。世界のあらゆる苦に無関心な仏はいません。記事にも書きましたが、非人権国家・中国の国家擁護をしている団体は、創価をおいて他にありません。北朝鮮ぐらいでしょう。無関心を装い、他に関心をそらすやり方は創価の常習的確信的方法です。醜いという他ありません。

    信じるということは、ポラリスさんも指摘しているように、自分に誠実に、正直な心を持つことです。心こそ大切なれです。自分を誤魔化して、不正直であるのに、どうして大聖人が望む正しい信仰を続けることができるでしょうか。釈尊が説いた地涌の菩薩でいられるでしょうか。
    創価は内部から腐っているのです。悪臭が漂わなければわからない会員の無知さには、愛想が尽きます。
    ポラリス | URL | 2017.11.30 22:34
    アンナさんの増上慢を聞いて、ある婦人部との会話で、私が「正木さんが理事長を辞任され、長谷川さんが理事長になったけど、これからは青年学会だと言われてたのに、おかしいなー」と言ったら、その婦人部が「あなたは増上慢と」言われてました。理事長が61歳から74歳になったわけだから普通に考えても老人学会でしょう。人材不足なんでしょうか、それよりもその婦人の、上で決まった事は全て正しいと言う自分で何も考えずに、組織に依存され、権威に弱い信仰を貫いてきたのでしょう。そういう方は人間革命もできないでしょうし境涯も変わらないと思います。私の周りの組織活動家の人、幹部達も皆同じような感じで、頭にあるのは、上からの打ち出しの新聞啓蒙の達成だけでしよう。折伏=新聞啓蒙になってからおかしくなりましたね、本流よりも新聞啓蒙が折伏になった訳です。新聞啓蒙は手段であり、目的は本尊流布が折伏だと思います。
    アンナ | URL | 2017.12.01 16:13 | Edit
    ポラリスさま、コメントありがとうございます。
    婦人部がどうして増上慢などと言ったのかわかりませんが、人事に口出すなということなんでしょう。長谷川のおっちゃんでは、最悪そして滑稽。

    コメントのなかで増上慢にふれましたが、他人を増上慢だと言う人間が、増上慢である可能性が高いことも、頭のすみにおいておかなければならないですね。増上慢は増上慢であることを自覚できない人間のことをいうのですから、ややこしいですね。
    でも、あきらかに見下したように蔑視する人間は、あるいは自分は立派な人格などと自慢する人間は、増上慢の素質が濃厚です。例えば、永遠のアイドルのように「永遠の指導者」などと自認し、ご祈念文にまで書いて拝ませるなんて、誰が考えても増上慢でしょう。こういう当たり前の感覚に鈍感なのが、会員がマインドコントロールされていると批判される原因です。普通の感覚が感じられないという信仰は、普通ではないのです。凡夫って、くだけた言い方をすれば、普通の生活をした普通の人間です。普通でないことを普通でないと感じない人間は異常です。異常であることが普通であるという感覚が、現在の創価の姿ではないでしょうか。ブログ村にもいっぱいいますよ。関わり合いたくないですね。だから、矛盾した行動をとっても矛盾と考えない異常性を垣間見せても平気なのでしょう。
    こういう集団とつきあうためには、よほど賢い菩薩の目と耳を持たなければ、こちらが不幸になります。ですから、しっかり唱題し、正邪をわきまえる賢明さを持たなければならないと思います。お互い用心しましょうねe-78
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