沈黙する神

    以前ビデオで見た「キングダム・オブ・ヘブン:Kingdom Of Heaven」〈2005年公開〉は十分に楽しめたのですが、ストーリー的にものたりないところがあったので、最近、未公開シーン50分を含む3時間14分の究極バージョン、ディレクターズカットの廉価版のブルーレイを買いました。主人公を演じたオーランド・ブルームがSGIメンバーであるという親近感も動機ですが、中世の歴史物が大好きなわたしは、十字軍と聞いただけでレスポンデントし、目がキラキラと輝きます。リドリー・スコット監督の傑作の一つに数えられる作品だと思います。豊かな色彩、手抜きなしのフル・スペクタクルな映像美とともに、印象に残ったシーンが色々ありました。

    主人公・バリアンの妻が葬られるオープニングシーン。寒々とした雪混じりの風が吹く荒野で、子どもを亡くし、悲しみのために自殺した主人公の妻を、首を切らなければ天国へは行けないと呟く神父。そして大きな斧を持った墓掘り人。キリスト教と土俗的風習が混じり合い、変貌したと思われる教義。時間が経てば何事も変化して元の形が失われる。宗祖の本心も例外ではありません。
    歴史の荒々しさと猥雑さを垣間見るようなメッシーナ港の活気。交易で栄えた、見果てぬ夢の入口の街。ギリシア・ローマ時代の理性信仰は完全に失われ、一神教が支配する時代の方が、より世俗的とは驚き。僧兵は日本だけではなかったのですね。道行く人に「異教徒を殺すのは罪ではない。天国への道だ」と説く狂信者。でも、わたしたちはこの狂信者を笑うことはできない。今まで、傍観者のように見知らぬ顔をして、その片棒を担いできたのだから。
    サラセン剣士との砂漠での決闘も絵に描いたように美しい。戦闘に多く登場するアラブ馬まで美しい。ハンセン病のために顔を隠し、仮面を被ったエルサレム王の悲劇的な威厳そして死。戦闘シーンでの統制がとれたサラセン軍の気品と力強さ。アラブを統一するサラディンの指導者としてのカリスマ性と賢明さ。短い言葉にこめられた深い意味について考えさせられ、その一方で、世界の中心ともいうべき大地の、争奪の歴史の重さにため息をついた。12世紀からイスラム教徒が住み続けていたエルサレムに、20世紀になり、ユダヤ人国家が建設された。歴史から学ぶ教訓は、信仰と密接に結ばれた民族間闘争の明快な解答が不可能な複雑さです。聖地でありながら、最も多くの血が流されてきました。
    イスラムとは自己放棄という意味だそうですが、小我を放棄し大我に奉仕することに通じるものです。自己中心的な欲望をコントロールし、利他的欲望に転換すること。「我」というテーマのパラダイムチェンジですね。「神」は天上にいるのではなく、心のなかにいるという心理的転換と同じです。

    主人公がゴルゴダの丘を訪ねるシーンは特に興味を持って見ました。実際、その地で撮影したものではないだろうと思っても、12世紀のゴルゴダは、キリストが処刑された風景を残していたかもしれない。聖遺物への信仰は、どの宗教でも同じように、強い衝動となって心を動かします。法という絶対妙があっても、聖なるものに触れたいとする心は、純朴な信仰の素直な心情でもありましょう。直に接したいという欲望は、誰も否定できないほど強いものです。
    本山信仰は、創価でも共通しています。信濃町参詣ですね。歴史が浅いので薄っぺらな印象はぬぐえません。

    主人公・バリアンが、父である人から誓わされた言葉。
    1.恐れず、敵に立ち向かえ
    2.勇気を示せ
    3.死を恐れず、真実を語れ
    4.弱者を守り、正義に生きよ
    生きる者の普遍的な真理が語られています。


    ♡法華経はバランス感覚が優れた経ですが、基調としては急進的な変革を嫌う経だと思います。しかし、どの宗教にも見られる帰命性の証明として、殉教精神の強調があります。非難と迫害の時代にこそ、その信仰と自覚の深さが顕著に試されるでしょう。他者尊重が宗教の使命であれば、個としての愛は隣人やコミュニティーにおよびます。それはときには、自己犠牲をともない、法と一体になることを念願します。キリスト的愛の概念は、慈悲と非常に似かよっています。
    ユダヤの憎まれっ子・シャイロック(ヴェニスの商人)は、気まぐれで、借金の代わりに肉1ポンドを要求したのが命取りになりました。キリスト教的言い方を許していただければ、貸し方(神)は、いつも代償を求めているのであり、借り方(人間)は肉を切る試練にさらされている。無償の愛とよく言いますが、見返りを求めないがゆえに、そう言われるのでしょう。でも、本当に無償という至高の愛はあるのだろうか?
    至高であるがゆえに人知を越えていて、その意味するところがわたしには理解できない。

    遠藤周作は、神の「沈黙」に根源的な問いを発し、極限状態での背教の苦悶を描いた名作「沈黙」を上梓したのち、「イエスの生涯」「キリストの誕生」を書きました。わたしはキリストに関する書物のなかで、これほど感動した書物はありません。
    「キリストの誕生」の冒頭にテーマが明確に述べられています。
    『イエスは同時代のすべての人間の誤解にとりかこまれて生きねばならなかった。みじかい生涯の間、民衆も敵対者も、弟子たちさえも彼をまったく理解していなかった。<中略>
    だが聖書のふかい問題は逆にそこから始まる。無力だったこのイエスがなぜその死後、神の子とみなされたのか。彼が十字架にかけられた時、見棄てて逃亡したあの弟子たちがその後なぜ、命をかけてイエスの教えを広めようとしたのか。イエスはなぜ無力なるイエスから栄光あるキリストに変ったのか。弱虫だった弟子は何故、強い信念の持主になったのか。
    聖書が我々に突きつける深い問題は、ここにある。もし最初からイエスがこの地上で人々に理解され、愛され、力ある存在だったなら、このような謎と課題と疑問は我々に起きなかったであろう。イエスがその生涯で人々の眼に無力な人間に見えたからこそ、この課題は重要な意味を持ってくるのだ』


    沈黙最近、マーティン・スコセッシ監督で映画化されました。重いテーマの作品であることから、大ヒットすることなどないと思われますが、アメリカ映画の良心を、つくづく感じました。主演のアンドリュー・ガーフィールドは、「ハクソー・リッジ」が公開されて、すでにビデオで見れますが、決して武器を取らないヒューマンな衛生兵が主人公です。彼が戦場で命がけで兵士を助ける姿は、ただの反戦というだけではなく、神の救済のサポートの勇気と本質を見る思いです。傷ついても救っていくという菩薩の境涯と同じです。
    以前、マーティン・スコセッシ監督のダライ・ラマ14世の少年時代を描いた「クンドウン」を見て、深く感動しました。歴史上の出来事に関心があり、時間をかけて調査し映画化しているようです。「人間革命」の映画も見ましたが、自画自賛の創価コマーシャル程度の低級さとは、格段に内容が違うようです。

    遠藤周作は狐狸庵先生などと呼ばれてユーモラスな一面もありましたが、そのインターナルはとても奥が深いように感じます。
    彼は、この小説を書く間、キリストとその弟子たちの心と信仰に分け入って、深い宗教体験を味わったに相違ありません。その一方で、神との葛藤と対立、客観的な観察者としての自分自身が弟子たちと一体となり、苦しみも味わったと思います。神のしるし(愛)は決して現れることがない。救済は神がその力で行なうのではないという、法を規範とし拠所とする仏法者にしてみれば当たり前のことが、神が人の形をした人神であるがゆえに、迷うのだと思う。神のしるしについて印象的だった本がありますが、この記述とは関係ないので題名だけとどめておきます。パール・バックの「母」です。
    また、神は無欲であるがゆえに強欲である、神は無力であるがゆえに受難に会い、地上の救世主たりえたというアンチテーゼも成り立つ。イエスが十字架に架けられたとき、希望を託していた民衆も彼を見棄てた。身近にいた弟子たちさえも、師の非力さを目の当りにして動揺し見棄てた。キリスト教にとって、「復活」はとても意味あることだと考えます。
    人間は神が作ったものであり、(ある尊大な人間に言わせると)神は人間が作ったものであり、神と人間の接点でのバランスシートは対等であるべきだと考えたりする。わたしにはよく分からない。イエスは十字架の上で殉教したのだから、信徒に対しても殉教することを求め、強信な信徒は柔順に従う。「沈黙」では、殉教を恐れない人々も描かれていますが、理不尽さと冷遇、過酷さと甚だしい残酷さのときにこそ、その信仰が試されます。
    『たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか』<マタイ伝>
    御書にも同じような御文があるような気がするのですが、命より価値あるものはないわけだから、神が命を代償に求めて、信仰を貫くことを至上とするのは、何も矛盾はないのかもしれない。でも結局、神に結果を委ね、生きることへの思考を放棄することなのではないか?
    至高とは自分を捧げること。それを愛と言うのだとミステリアスに推理する。
    「人間に自己犠牲をなさしめる衝動は、愛です」:トインビー

    日蓮大聖人御在世当時、殉教者と言えば、熱原の三烈士をすぐ思い浮かべます。信徒になって日も浅く、また当時の貧しい農民は文盲と考えるのが妥当であれば、深い教学も身につけていなかったと思う。もちろん大聖人からお手紙をいただいてはいない。彼らの気持ちを、現代のわたしたちが理解しようとするのは困難なことです。少なくとも、自らの行動の正しさを信じて覚悟したのであり、教団のために命を捨てたのではないことはあきらかです。
    大聖人はどのような思いで事件の経過を聞かれたことでしょう。法が正しくても、また令法久住のためとはいえ、信仰のために犠牲がでることの苦渋と、普遍的な法の流布の困難さを感じられたに相違ありません。だからこそ、ご本尊さまを身命を懸けてあらわされた。不屈の信仰は決して安易に実現できることではないと思う。たとえ自分が傷つけられても、人間の善性(仏性)を信じぬくことができるかという難しさを、自分の頼りなく揺れ動く心を省みて深く考えずにはいられません。
    善性を信じた不軽菩薩は、経典のなかの物語です。現実にそのような人物が知られていない以上、信じぬく困難さを想像する以外にありません。キリスト教の布教でも避けて通れなかった問題です。信仰を肯定すれば殺されるという極限の選択です。人間は宗教が相違すれば理解しがたく、根本から人間否定さえしてしまいます。献身的であればあるほど、越えがたい深い溝があるかのように、善性は信仰者を裏切り続けます。争いは決してなくならないのです。
    現実に、信じ抜く強靭な強さを持った不軽のような人物が存在するのか、わたしは疑問に思うこともしばしばです。不軽が殺されなかったのは、単に運が良かったということかもしれません。そういう苛酷さを、経典では描いておりません。

    日本にもゴルゴダの丘があります。キリスト教信者ならよく知っていることです。安土桃山時代、禁教令が関白より出されたとき、それまで身を潜めるように信仰していたキリシタンは、権力者が予想もつかない行動に出ました。彼らはまるで誇り高く宣言するかのように、積極的に自ら名乗り出たからです。その数があまりにも多かったために、名前を筆記することさえできず、結局ほとんどを捕縛することなく終りましたが、司祭、信者の中心者26人が長崎ではりつけになりました。彼らがバチカンから、聖人に列せられたのは250年以上も経ってからのことです。当時は「殉教のすすめ」なる本が読まれ、信徒にも説かれていました。殉教すれば天国にいける、神のもとにいけるとする説教の構成は、阿弥陀経にそっくり。
    一般信徒に対しては比較的自由が許されていたようですが、秀吉に決断させた大きな理由は、ポルトガル人による日本人の人身売買の疑いがあったことと、体制転覆の先兵としてのキリスト教の役割が、当時難破したスペイン船長の取り調べのなかから分かり、危機感を持ったためとも言われています。秀吉は、キリスト教は悪魔、すべての善を破壊するものだと怒った。禁教令は、家康、秀忠、家光にも基本的に受け継がれ、多くのキリシタンが死罪になりましたが、背教したキリシタンも多くいました。拷問は過酷であり、その残酷さは、人間の獣性をいくら強調しても足りないくらいです。「沈黙」のなかでもその一部が描かれています。
    宗教が人々に精神の自由を与えるものとすれば、政治と宗教が明確に区別されない時代、国土にあっては、今まで経験したことがない未知の法と戒律に縛られた西洋的宗教は、為政者にとって障壁となり、憎悪と残虐さが増幅されるようです。多神教文化のなかで寛容な宗教観を持っていた日本人には、異教徒の一神教は受け入れがたいものでしたが、政治的不安定さにつながる要因であることも見逃すことはできなかったでしょう。交易からの利益と信仰の自由度が天秤にかけられ、独裁、封建制という時代的制限を割り引いても、双方に根本的な文化的隔たりがあったことがうなずけます。争いの最先端が、宗教がらみというのは悲しいことですが、思想哲学あるいは宗教といった精神文化の拡散浸透は、常にこういうものかもしれません。

    現在の進んだ情報化時代にあっても、真意と善意を理解することは難しい。人間を心底信じる善意などありえないと考え、まず疑うことから始めようとするからです。
    日本発仏教が欧米に輸出されて、潮流が混じり合うような文明文化のクラッシュが起き、カルトなどとレッテルを張られて警戒心を助長させるのは、400年前の日本を考えると当然なのかもしれない。今は全く逆の立場で布教をはかろうとしている。信教の自由が認められた平和な時代であることに感謝しなければなりませんが、激流が固い岩石を削るように偏見も削り、思想は新たな川の流れを作り橋をかける。しかし、有効なカウンターオファーとして、社会のなかで違和感なく混じり合うためには、長い年月が必要と思います。
    ネガティヴアプローチは世界全般にみられる傾向です。政治不信、覇権主義、経済では信用不安、金融不安、人間関係では絶縁、無縁、孤独、殺人と虐待といった言葉に象徴されます。いちいちその事例を取り上げることもありませんね。メディアに毎日報道されています。
    背景には、価値観の多様性、人間不信による奉仕精神の喪失、他者の脅威となる暴力の容認、貪欲さが美徳と讃美されて、富の配分にヒューマニスティックな謙虚さが失われたこと、その結果として格差社会の拡大、リスクマネジメントを怠った商品データの改竄、低成長時代の利益率の低下傾向、不安社会における個人生活の喪失。
    ISISに見られるテロと暴力の日常化は、不寛容な宗教原理主義と民族主義の不幸な同調レスポンス。世界宗教といっても結局、民族宗教の枠から脱しきれない。倫理観念が衰退した不毛の未来を予見させ、ニヒリズムに支配された自己破綻と社会の破綻。それはまた、経験を越えた存在への畏敬喪失となって現れ、醜い現実主義者と堕しかねない。目の前には尊厳が失墜した暗闇が横たわる。
    『精神なき専門人、心情なき享楽人、この無に等しい者たちは、自分たちこそ人類がいまだかって到達したことのない段階に到達したのだと自惚れることになるだろう』
    ツァラトゥストラが語った世紀末の不幸な人々よ。あなたの瞳が漆黒なのは美しいからではないのです。きっと絶望を見ているからです。篤信者が集まる社会が神なき秩序なき社会とは、性悪ゾンビの復讐譚ムービーを見ているようです。歴史的現在はすべて、前時代という過去の復讐劇です。組織にも体制にも社会にもカルマが存在します。清算は、より良き未来を生みだすためにも必要であり、その現実直視の深さは、ただただ勇気があるかないかで決まる。過去から未来まで、歴史を縦断した一本の太い価値観・人間主義の発揚が急務です。
    問題が多い時代にあって、公平な歴史観と、変革への忍耐強い情熱に溢れたリーダーの出現が不可欠です。反理性的な感情をかきたて服従させるカリスマ性よりも、仏教的覚者と言い表される理知的なパーソナリティーが望まれます。高度な公共的精神と倫理的長所を備えた高潔な人物。少なくとも、精神の純粋さを失わず、普遍的愛に満ちた人。創価にはそのような次世代のリーダーが出現するのでしょうか。優れたリーダーは、教義の真実性と弛まない努力の反映です。法が優れていたとしても、勇気と深い使命感がなければリーダーは現れない。

    禁教令の目的は、キリシタンの布教禁止ですが、同時に寺請制度の始まりであり、戸籍管理を担い行政機構に組み入れられることによって、寺院の国家による統制が明治まで続きました。護国のための宗教として、体制に保護を求める宗派がほとんどのなかで、日蓮宗不受不施派は、権力からの布施をかたくなに拒絶しました。禁教令で弾圧された唯一の日蓮系宗派です。多くの僧侶が死罪流罪になりました。日蓮教義の激しい性格を現わしていますが、教義は本迹一致です。歴史から学習し理解できることは、多くの宗教が国家の厚い庇護のもとで堕落し、宗教本来の民衆救済の精神を忘れていったことです。
    権力に一度取り込まれた宗教は、真の宗教的使命を実現できない。こういう教訓は、固い信念のように教団に保持されなければならないでしょう。権力のなかに安住する創価には、譲歩も妥協もできない宗教的使命という価値観が揺らぎ始めている。

    『構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・あやぶむ事無かれ但偏に思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり』<弥三郎殿御返事>
    家族は一度捨てなければならない。絆は断ち切らなければならない。それはエゴイズムの克服という意味での俗から聖へ、自己と他者の尊厳性に、なんら相違がないことを気づくためのプロセスかもしれない。僧侶が妻帯しないことにも通じる。家族を捨てることができない者は、自分の命も捨てることができないでしょう。釈尊は家族を捨てました。大聖人も妻子を思い切れと言う。しかし、家族は自らのアイデンティティーなのではないでしょうか。屈辱に耐え忍び、戦うことに躊躇はしない。でも愛する者の否定には、とても耐えられそうにありません。軟弱なわたし!です。

    Silence (沈黙, Chinmoku) is a 1966 novel of historical fiction by Japanese author Shusaku Endo. It is the story of a Jesuit missionary sent to seventeenth century Japan, who endured persecution in the time of Kakure Kirishitan (“Hidden Christians”) that followed the defeat of the Shimabara Rebellion. The recipient of the 1966 Tanizaki Prize, it has been called “Endo’s supreme achievement” and “one of the twentieth century’s finest novels”. Written partly in the form of a letter by its central character, the theme of a silent God who accompanies a believer in adversity was greatly influenced by the Catholic Endo’s experience of religious discrimination in Japan, racism in France and debilitating tuberculosis.(Wikipedia)


    "Glorious"



    素晴らしいコーラス。一人一人の個性が埋もれることがない。
    そして調和している。豊かな響きと表情。とても美しく、心が洗われる。



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