ポジティブに自己超克 1

    世界を一度リセットし、神のみが行なえるような奇跡ができたら、悪を一掃したユートピアを作りたい。夢想好きな女子が考えることは、実現不可能なことばかり。
    毎朝、正直に映しだしてくれる鏡のなかの自画像に向かってつぶやく。
    「あなたは一体何をやりたいのかしら?」
    自分に問いかけられても答えられない。
    それに、いざというとき決まって連絡とれない彼は、何を考えているのか分からないし、真面目だけれど、時々、わけわかんないおバカさんになったりするから目が離せないのよね。忙しいみたいだし… まあ~いいことだけど…
    おおまかに言って、意思疎通をはかることや、生きるって大変なんだと、しみじみ思うこの頃。励ましは自他ともに通じ、自らの言葉は自らを励ましてくれる。だからなにより、自分を大切にし自分をいたわることが、仏教の「自己は自分の主」というマキシムに当てはまることにもなるのではないでしょうか。


    ♡イエスが死後復活したかどうかなんて、わたしは信者でないからわからないけれど、確実に言えることは、イエスの教えが、弟子たちの心のなかに復活したということです。それは貧しい人こそ救われ、辛い運命にある人こそ神の愛の対象であること、幸福に最も遠い人が、最も神の側に近づけるということです。こういう根本的な価値転換は、仏教においても説かれます。病気で苦しむ人ほど健康になることができるし、貧乏な人ほど経済的裕福さを享受できる。「煩悩即菩提」という場合の「即」は、最低の状態から最高の状態へと転換する宗教的理論ですが、別な言い方をすれば、宿命転換とも蘇生とも説かれるものです。宗教にほぼ共通して見られる思考方法、実践方法でしょう。蘇生はニュアンスは異なりますが、復活の意味と解してもそんなに違いはないでしょう。キリスト教における「復活」は、まさに価値転換の意味だったのですね。わたしの忙殺された時間は、「即」久遠に通じ、「生死即涅槃」という意味にもなるから、妙とは不思議の一法です。

    再び狐狸庵先生の「キリストの誕生」から引用しよう。
    『原始キリスト教団のみじかい歴史をふりかえるたびに、私(遠藤周作)にはいつも色々な疑問が起きてくる。
    疑問の第一は、おのが釈放と引きかえに師イエスを見はなし、その処刑までの二日間、息をひそめ、かくれていた弱い弟子たちがなぜ、それ以後、信仰に生き続けられたかという問題である。もともと彼等は決して最初から強い信念や信仰の人間ではなかった。彼等の大半はガリラヤ湖(注:新訳聖書の舞台、イスラエル北部のガリラヤ地方の湖)の漁師や人々に軽蔑される職業についていた。彼等は私たちと同じように拷問にたいする恐怖、処刑の恐れのため変節するような弱い人間たちだったのである。
    彼等は我々である。我々と同じように弱く、卑怯な人間である。我々と同じだから彼等は生涯のうちで最も大事な人を見棄てたのだ。見棄てただけでなく、裏切りもしたのである。その弱虫たちがなぜ、その後半生では強い信念の人、強い信仰の持主に変ったのか。カヤパ(注:ユダヤ教の大祭司、イエスを死に追いやった)の官邸でイエスを知らぬと否認したあのペトロはやがて、師と同じようにローマで十字架刑を受ける。しかしその時、彼は自分の信仰を貫き通す強い人に変っていたのだ。ペトロだけでなく、他の弟子たちも、記録こそないが、語り伝えられた伝承に従うならば、そのほとんどが殉教している』


    神の沈黙の解釈をめぐり、弟子たちにその答えを委ねたのは、宗派を問わず信仰における普遍的な核心部分です。イエスは死という究極の姿で、自由と信仰が一体のものであることを弟子たちに悟らせました。信仰は根源的な自由意思から発露するものと理解すべきなのではないでしょうか。真の自由の実現は信仰のみ可能であり、信仰の功徳と言えば、束縛のない自分自身の生命状態、境涯の実現を言うのだと思います。
    (仏教は、主体的自律、能動性の見地から、人間の全体性の復権をはかるものであり、中道はこの主体性の理想と自由を説くものです)
    最後の晩餐で金の袋を握った姿を描かれたユダは、師を裏切り、苦しみと後悔に苛まれながら自殺しました。葛藤と信仰への訣別は個人の自由であるけれど、自己の弱さから棄てると決めた信仰の悪口を、自己防衛と正当化のために費やすほど虚しいものはありません。
    イエスは生れ故郷の人々から罵られました。なぜなのだろうか。聖者は、決して近しい人々からは正しい評価を受けることがありません。罪深きユダヤの民は、そのとき以来、呪われたように、いつまでも争いの神を信じてやまない。今は、イエスの悲しみがアラブの民の悲しみに変っただけではないでしょうか。
    「沈黙」のなかで、主人公の師が背教したことが物語の大きなプロットです。拷問に耐えかねてと言えば簡単ですが、ここでも神のしるしに対して、深い疑問を発し、悩む信仰者の姿があります。これにはモデルがあって、師、クリストヴァン・フェレイラは実在し、日本名に名前を変え、日本におけるキリシタンの棄教に力を発揮しました。また主人公・ロドリゴは、決死的な日本潜入を行なったジュセッぺ・キアラと言われていますが、もちろん作者の創作が加えられています。ロドリゴも棄教します。日本におけるキリスト教は、武士階級にも広まりましたが、高潔さと死を恐れない信念の強さを持つ武士道と関係があるのかもしれません。

    ともかく背信者が口汚く罵るのは、古今東西を問わず、これまた普遍的真理です。学会に対する中傷は、個人的動機がきっかけになることが多いと思いますが、いつしか群れを作り、団結し、アピールし、公共的正義心を発揮して、社会的運動と化す。アンチも組織化するのは、個人より集団の方が主張しやすいということでしょう。でもこれは、停滞者あるいは後退者が、前進者に向って石を投げつけているのに似ています。その差はますます離れていくばかり。
    信は目で見ることができませんので、いくら合理的科学的根拠を求めて解決を図ろうとしてもダメなのです。それに憎しみが支配する感情に左右されて、ダメなものはダメよ。
    また、組織は社会改革に必須の形態にもかかわらず、宗教が組織力を駆使して社会参加することに異議をとなえる。おかしなことですね。組織となれば、必然的にリーダーが存在するのであり、会員はその関係を師弟不二という。御義口伝の成立には、大聖人と日興上人の一体不二の姿があり、その実践のなかに、わたしたちは広布に捧げる師弟共戦の理想を見るのですが、あくまでもどこまでも理想であって、現在の創価は、師弟の再考を迫られています。師が矛盾に鈍感になったことが原因です。

    宗教社会学の権威、ブライアン・ウィルソン博士と池田先生の対談「社会と宗教」(聖教文庫)にそって、学ぶことが多い博士の宗教的知見を見てみましょう。

    『ピューリタニズムの後期発展段階において、ユニテリアン派が三位一体(父と子と聖霊)の神秘的教義を拒否し、十八世紀末のヨーロッパにおける合理主義的な時代精神と合致する"合理的な宗教"を求めたことがありました。
    ところが、彼らは、自分たちの宗教を、ある程度まで合理化することには成功しましたが、結局は、信者に対してことさら信仰心を起こさせるものを、ほとんど残さなかったという結果に終わっています。彼らは、最終的には、強い倫理的関心をもった高潔な人道主義者となることで、満足しなければならなかったのです。
    プロテスタンティズムの歴史全体を見ると、神秘的な信仰から離れて合理的に向かう過程では、人々は、自らの経験を完全に合理化しようとし、ついには信仰を失うにいたるまで、満足して留まるということがないことが分かります』


    さらに、科学的探究を含めて合理性の追求は、目標の体系から矛盾する要素を取り除く過程、さらに従来より効率のよい方法への置換過程をいうのであり、合理性の規範が適用されるのは物事をいかになすべきかという点であって、何をなすべきかという点ではない、と述べた後、次のように指摘しています。

    『宗教は、人間に対して、常に(真理として述べられた)命題を提供し、(われわれが儀礼と呼ぶ)行動を要求します。人々の生活は、そうした命題や行動の光に照らされて営まれるのです。こうした教義や要求は、その具体的内容がいかなるものであれ、心の平和、精神の均衡、安心感、人間関係の調和、人生や仕事への積極的態度等々を求める、人間の要求に応えるものなのです』
    『それとは(宗教の社会的機能の衰退)対照的に、宗教の心理的機能の多くは存続しています。宗教は、いまもなお、多くの人々にとって力の源泉であり、献身度を強めています。あなたのおっしゃっる通り、病人はたしかに回復し、死別の悲しみは慰められます。その他、さまざまな不幸を克服する力を宗教から得たという人もいます。そのような体験を、偶然の一致だとか偶発的な出来事だとかの説明で、簡単に片づけることはできません。得られた利益の原因について、信奉者たちが自分をあざむいているという場合も、ときにはあるでしょう。しかし、宗教的献身が力強い結果をもたらす有効な源泉であることを、私は疑いません』


    信ずることは難しい。意識しようとしまいと、自由意思が基本の個人主義を、衣のように着ている現代人は、その行動の道徳律に、自身の良心と責任を課して、宗教的習慣を嫌う傾向にあると思います。統一された集団に嫌悪を感じ、それが誤解と無知からのものであっても、自己の判断の独善性に気づこうとしません。正義という厄介な代物をひっばりだして、得意気になっている姿ほど滑稽なものはありません。主義主張と同じ数だけ正義の数もあり、言ってみれば無数にあって、根拠のない正義を主張する人間を、簡単に信じないほうが災いを避ける方法でもありましょう。また社会のすみずみまで合理性がゆきわたっているわけではなく、ましてや、人生全般や生命活動の欲求の表れともいえる信仰が、計算し、答えを出すような合理性の上に成立していると考えるのもおかしなことです。計画通りに結果が得られないのが人生というものですから。
    合理的方法とは、理に適った宗教的アプローチを言うのであり、実践者からすれば、信行学の3点セット、客観的にみれば教行証の三つ揃いと言えばよいのでしょうか。仏説を理解するのも、実践し証明するのも軽薄な姿勢では適いません。この場合の軽薄とは、経典をひっくり返し裏から見るような、己心の三毒強情な不信心を言う。素直であることが信仰者が誇りとすべきものです。信仰における合理性は、普遍妥当性の数式を用いた証明問題を、現実に適用することです。わたしもあなたも仏ですという証明問題なのです。それを理解できない人は、宗教は心の問題だともっもらしいことを言いながら過小評価し、合理性の何ものも解っていないのですから、大変やっかいなことこの上ない。信じていると言いながら信じる意味が解らない。また信じていないと言いながら、自己を律する最善の道徳を求めようとしない。もう、放っておくしかないですね。
    合理的思考が神のようでもあり、何でもキチンと棚に収めたくなるドイツ人らしい真面目さと精密気質、秀でた額の内側で考え続けたプロイセンのカントは、理性宗教の結論を、妙法が説く一念三千の仏に、その実像を見ることも不可能ではなかったでしょう。純粋実践理性の意志力を、わたしたちは毎日飽くほど眺め、試みているのですから。悩める自己を、悩める自己が救うという、どこまでも自己責任の宗教ほど、合理的宗教はないと考えます。
    祈りは自発的な行為であるばかりでなく、信仰の飛躍を願う儀式です。祈りは対象と同化しようとする試み。同時に対象から智慧の開示のヒントを得ること。この往と復の回路のセットアップが祈りです。整理してみると、対象に自他ともの幸福を祈り、対象から行動のエネルギーをいただく。祈りは善の宿業を積み重ねる指鳴らし(合図)みたいなものです。生命の預金口座(トインビー博士の比喩)にパチンと振り込まれるわけですね。プラスもマイナスもですから、これほど厳しい自己責任はないでしょう。
    ウィルソン博士と同じように、わたしも疑いません。宗教によって、わずかな人生という時間が、永遠に価値あるものに転化することを疑いません。

    マックス・ウェーバーは、「世界の魔術からの解放」をプロテスタンティズムにみました。
    『教会や秘蹟による救いの可能性を完全に否定したところにカルヴィニズムとカトリックとの相違がある。リター主義はここまでは徹底していなかった。かくて世界の魔術からの解放という偉大な宗教史的過程、古代ユダヤの預言者とともに始まり、ギリシアの科学的思考と結合して、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信で冒涜的なものとして退けるあの過程がここに完結を見たのだ』(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」大塚久雄訳・岩波文庫)

    神の偉大さとともに、その懐深く付属する呪術や迷信は、理性的に排除されなければならない。キリスト教神概念はつまり、非合理的存在を肯定するものです。
    宗教においては、神秘性と呪術性は密接に関係していますが、その反面、盲信を強いる根拠となり、信仰者の人間性の維持を阻害します。仏教はその教義において合理的な思考と検討を重視し、歴史的に整理され洗練されていく間に、論理的体系を強固に築いてきました。しかし、知性や経験の限界を知り、思議できない宗教性に謙虚に従う判断も必要とされることもあるのです。これは神秘性を排除した直観的スタイルという精神的飛躍の問題です。「以信得入」ということですが、思考を拒否した信をいうわけではありません。自らの内面に法を直観するということです。 むしろ、思考を重ねなければ、「以信得入」はありません。
    「以信得入」は「難解難入」と対をなす言葉です。ここにも「即」と同じ、行為と価値の転換がはかられます。
    宇宙構造や複雑な心的構成要因の解明は、科学的分野の努力と献身にかかっていることは誰もが承知していますが、一念三千、宿業論、人間の五感を基本とした認識論の深い仏教的叡智と、実践による心の成熟プロセス、また善と悪のとらえ方に究極の哲学をみるのは決して無理なことではないでしょう。
    真の正義は仏説にあり、その柔軟な解釈を可能にした池田先生の人間主義は、今まで果てしなく経験してきた人間の堕落と、正義の名のもとに犠牲を必要とした争いと欲望の断絶を叶えるものと信じてやみません。救済という言葉を使うなら、それは他から与えられるものではなく、宝塔に象徴される万人を照らし導かれる生命尊厳の光が指し示す方向です。
    『魔法は未解明の科学』(アーサー・C・クラーク)といったら、魔法使いのおばちゃんだって存在しそうだし、将来、科学的解明がなされるかもなんて、変なことを考えるわたし。

    ただ学会もこれから心しなければならないのは、かつて共同体意識が強かった時代の、宗教が果たした融和の魅力を引きずってはならないということです。伝統的習慣や規律、しきたりといった美徳は、暖かい人間関係を維持するために、共同体を形作る環境に寄与してきました。宗教も社会秩序の基礎をなし道徳的な行動を律する役目を担ってきたことは否定できません。生活空間が広がり、一方で個の孤立という危機が孕んでいる現代において、密な人間関係に支えられていた過去の共同体意識を、疑問もなしにそのまま重ね敷衍できるはずもありません。
    信頼に支えられた共同体意識は、学会においての信仰者間の連帯意識と酷似しています。救済集団としての学会は、なにより団結することに意義を見い出しています。共に進み、共に苦しむ菩薩の心情に触れようとしている姿は、毎日の自己との格闘の姿であり、皆共至宝処です(御義口伝)。生活規律、また種々の悩みの克服法は、宗教上の教理の一部でしょう。悩みと喜びの共有は、共同体の基本的在り方です。信仰組織においても同じです。しかし、村文化と言われる偏狭な共同体意識は、創価ルネサンスと正反対のものであること、信仰者の姿勢とはかけ離れたものであることを、よくよく考えなければなりません。普遍的とは見知らぬ他者に尊厳を認めることなのです。異論にも寛容になることなのです。


    People Help The People
    Birdy






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    ♡Comment

    ポラリス | URL | 2017.12.05 22:12
    ハイサイ、対合衆のポラリスです。今回の折伏をきっかけに創価学会員のポラリスを止め、池田先生の弟子として、悩み、苦しむ人々を励ましゆく、抜苦与楽の人生を貫いて行く決意を固めました。具体的には、二度と地区には行きません、本幹は先生の指導を求めて行きます。
    組織に対しての諦めはアンナさんと共通ですが、アンナさんは先生を非難されますが、私は、たとえ先生か゛間違った事をしたとしても私の師匠には変わりありません。
    学生部時代、原島、山友が週刊誌で先生のある事、ない事を記事にしていました。私はそれを読んで「先生も人間だから、そういう事もあるだろうと」思った事がありましたが、今から思うと、「自分自身がそうだから、先生もそだろうと」自分の境涯で先生の境涯を図った事に気が付きました。ある先生の指導を読んだとき、良くは分からなかったけど、衝撃が走り、この方は少なくとも私よりもはるか彼方の境涯の方だという事が命で感じました。それ以来、組織ではなく師弟を貫いてきました。
    今、壮年部勇士で法華経の智慧を学んでいますが、何かアドバイスがありますか、宜しくお願いします。
    アンナ | URL | 2017.12.06 22:44 | Edit
    コメントありがとうございます。

    ポラリスさんのコメントの前に、変な投稿があり削除しました。ネットでのディスカッションやトークには、よほどのことでない限り動揺しませんが、アンチの方々には始めから理解していただこうとは考えていないので、あなた方はあなた方で十分煩悩を楽しんでくださいと言いたいですね。ネットで改心など無理なことです。

    法華経の智慧を学んでいるなんて、昨今特筆すべき貴重なお話です。先生の対談著作でもっとも有意義な本ですが、対談相手の一人はお亡くなりになり、一人は「遠藤文書」で幹部を首になり、もう一人も創価の現執行部に批判的なのではないかと考えると、創価の変質ぶりが想像できます。師弟関係も、立派な言葉を並べ立てるほど強いものでなく、崩れやすいということです。
    法華経の智慧の、なんといっても白眉は3,4巻ですが、空想好きなわたしとしてはやはり、提婆達多品のドラマチックな展開がなんとも言えません。竜女の即身成仏こそ、現代が求める原理でしょう。あたりまえのことですが、女性が成仏できなければ、男性も成仏できません。
    法華経全体の前半のクライマックスとも言える竜女の鮮やかな登場は、智積菩薩や舎利弗をあわてさせました。竜女が釈尊に捧げた宝珠に、わたしは理想のフェミニズムを見ています。竜女は八歳の子ども、さらに畜身であり女性。この三つは弱者を代表するものであり、差別を受ける当事者であり、現代においてもテーマとして十分耐えるものと考えます。

    池田先生は、トインビー対談で次のように言われています。
    『そうした女性本来の、生命の尊厳を守り、育み、大事にしていくという特質は、それ自体、人類にとり、人間社会にとってきわめて普遍的な重要性をもっているといえます。女性が狭い個人的愛から、そうした、世界へ開かれた普遍的な愛に根ざして進んでいけば、私は、それが、地道ながらもきわめて大きな、反戦平和への潮流になっていくに違いないと思います。そして、女性がこの本来的な自らの使命に生きるところに、真実の女性解放があると信ずるのです』

    ジェンダーギャップを認めつつ、女性権利拡大や民主運動の先駆を創価に期待していますが、現在の創価は残念ながら、男性原理で動いています。言わば二重基準があって、理想と現実に溝があるように思えるのですが、組織内にいる男性も女性も溝があることすら気づいていない。婦人部が創価の主力であるにもかかわらず、昔からの性の役割といった倫理観があると思います。控え目に清楚に家庭を守るといった価値基準は、疑いなく社会に受容されている美徳のように理解されています。創価も例外ではないでしょう。
    組織のあり方って、理念を具体的に、形式、手段として目に見える形で作り上げることなのではないでしょうか。少なくとも制度、機構面での改革が必要であり、真の平和団体として認知されるための最低の改革と考えています。このことについては、多々意見があり、今までチャンスがあれば訴えてきました。性の役割について、女子部では結構討論しましたが、婦人部では問題意識は低いようです。目の前の聖教啓蒙や選挙、財務や結集が、次から次と使命感を揺さぶって襲いかかってくるからです。

    組織のなかで一人浮いているのが、わたしの最大の悩みです。わたしは決して固定的観念、拒絶的姿勢で、自分の意見に固執しているわけではないのですが、なぜかわたしが意見を言うと議論になってしまい、最後にはいちいちそんな難しいことを考えなくてもいいんじゃないの、とか言われてしまいます。まるで学活にブレーキをかけているように言われるのは心外というほかありません。
    妙法は、知識としても経験的にも難信難解であると分かっていながら、安易に平易さを求めようとする。また妙法は、人間の自由を最大に保障するものであり、そこから派生した行動論や組織論、具体的な生活設計や政治哲学も、自由で積極的なものであるはずです。わたしたちは、忙しい日々の生活に追われながらも同時に、強い意志を持つ求道者です。いつも根本に回帰し、懐疑的にあるいは肯定的に自己評価しなければならないのではないでしょうか。
    なぜ問題意識が低いんだろう、納得できないことを納得しているように行動して、なぜ疑問を感じないのだろうか、とわたしにすれば不思議でならないのです。どうすればいいのだろうか? どう説明したら分かっていただけるのだろうか?
    わたしも「愚痴の竜女」ですね。
    それぞれが、自らの意志で、自己責任で信仰をしているのですから、自分が感じる問題点も、自らができる範囲で努力しなければなりませんね☆彡
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