ポジティブに自己超克 2

    民主社会では、自由が尊重される反面、コミュニティー(共同体)が育ちにくい、あるいは、セクト化しやすいという欠陥があるのではないでしょうか。学会にはかつて、民衆仏法という形容がふさわしい勢いがあったように思う。しかし、気づかないうちに社会のなかで憎悪を浴び、誤解さえ容認し、自己のカラに閉じ籠り、閉鎖的なセクトへ変貌しつつあるのでないかという危惧が感じられるのです。このような状態を放置しておくことは、決して良い結果をもたらしません。理解されない、理解は難しい、それが当たり前という教義は、学会80年の歴史で、もう解消されなければならないものだと考えます。社会との接点で、摩擦や軋轢は当然と考え指導する、またそれが宿命の一端であるような解説は、もう終りにしてください。
    村落共同体が、外部の人間をよそ者扱いをして、危険な存在と認識した古い意識がまだ残っていて、宗教集団と社会の境界で、敏感に反応する相克があることを遺憾に思うのです。意図的な悪意と戦うことは容易ではありませんが、よく考えてみれば、強い敵愾心を持つ脱会者や批判者は、強い愛情の裏返しではないかと思うときもあります。彼らを何とかの強敵、あるいは障りや魔などと敵視することを、今一度考えてみなければならないのではと思います。わたしは、提婆の野望を克服するために、自らの命のなかの提婆に祈りを捧げます。皮肉なことに、善があるかぎり悪があるのです。
    時代を見抜く英知は常に、リターン・クエスチョンの成果のなかにあり、設問の精緻さ、厳格さが仏教的英知と呼ばれるものです。社会も人間の意識も変化し、その変化の渦中に真理を発見するのが賢人・英知の人です。

    『とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし』<法華初心成仏抄>
    このような強い言葉は特殊例と考えます。さらに毎日のように聖教に掲載される「勝利」へのこだわりの芯になる一節かもしれません。相手に対し、決して折れないこと、引かない強さを獲得することは、信仰のひとつの証明かもしれません。しかし、これからは一般常識あるいは対人関係の範囲内で、反感を持たれない良識ある行動で、共感が寄せられるように配慮しなければならないと思う。信仰者であればなおのことです。目的と方法に正しい見解を持つこと、創価が社会のなかで信頼され、生き延びる道です。
    現実には、このような強い言葉と行動をとる会員はいないと思います。悩み苦しむのも、不幸を選択するのも基本的に自由と考えているからです。極端な言い方をすれば、幸福より自由を選ぶという人もいるということです。こんな言い方をすれば、アンナは無慈悲な冷たい人間だと思われるでしょうか。それは信仰者の姿勢ではないと非難するのも自由ですが、わたしたちは今まで、多くの不幸を、見て見ぬ振りをしてきたことも事実なのです。不正と分かっていても、自分には関係がないと避けてきたではありませんか。

    師弟不二は根本の教義において、師の無謬性という前提に成立していると思います。少なくとも気持ちの上で、そのような願望があることは否定できません。これは、無疑曰信と説く信仰論と同じく、疑うことを疑いなく拒否した信頼性に依っているのです。そして人間の理想像も同時に投影されているのです。これは善悪とは別の問題です。人間の微妙な感情の問題です。
    わたしは師を信じる、ゆえにわたしがある。
    師はわたしを信じる、ゆえにわたしがある。
    池田先生と会員は相互に信じることで結ばれる。帰属心の現われなどと、まことしやかに論ずる人は、封建的主従関係をイメージしているのでしょう。わたしは師を尊敬し、師はわたしの心のなかで、門番のように仁王立ちして、わたしを守ってくれる。わたしは師に尽くし、師はわたしに諸法の宝珠を授ける。それでもなお、一方通行的な帰属心の主張を譲らないのなら、宗教性に深く縁した平等な関係と定義しておきましょう。
    『法とは諸法なり師とは諸法が直ちに師と成るなり森羅三千の諸法が直ちに師となり弟子となるべきなり・法師品十六箇の大事』
    師弟は、わたしにとっては、わたしのアイデンティティーに関わる存在論の問題です。
    師弟の間で契約があるとすれば、師は決してその契約を破棄することはしない。それぞれの事情を理由に、いつも一方的に破棄するのは弟子の側です。残念なことに、師が語る「師弟は厳粛である」との不変の真理への違背であることに気づかない。師の衰えに対し、慈悲を持って接することも、弟子の責任なのかもしれない。

    学会の発展は、信仰のスムーズな継承にかかっているといってもよいでしょう。学会にも、少子化という社会現象と問題が反映されています。会員の人口構成を見れば、学会も重大な岐路に立たされていると言えば大袈裟かもしれませんが、創立100周年の予測される学会を取り巻く環境と組織内部の問題は、深刻と言わなければなりません。信仰の継承は簡単ではないし、例えばわたしが両親から受け継ぐことができたこと自体、極めて幸せなことだったかもしれないと、最近、特に考えるようになりました。学会に対する風評や批判を知らないわけではなかったのに、なぜ疑うこともなく素直に唱題し、その結果として、体験と内面的な充実、そしてそれに対する論理的説明に納得を感じることができたのか。わたしは、賢明な親の存在が最も大切だと思うと同時に、抽象的な教義談義に陥りやすい宗教哲学の生活上での実際の具体例と、歴史を俯瞰した立場からの視点で、生き生きと人間の生死が語られたことに大変興味を惹かれました。
    子どもを感動させるのは、ロマン溢れる詩心なのですね。詩のなかには、遊びもあり、学びもあり、宗教的エッセンスも含まれている。絵画や音楽の深い詩心と物語性に、誰でも胸を高鳴らせたこともあると思います。生きることは、大変ドラマティックなのだという驚きです。
    しかし、このような家庭教育の場で、過剰な熱心さから、教団の唯一性、指導者のカリスマ性などの、判断が容易ではない宗教原理を強調するのは良くないことです。
    子どもにとって、最初のカリスマ的強さや意志力を感じ、尊敬のまなざしで見るのは父親であり、無限の優しさを体現した存在として、憧れを抱くのは母親です。正常な親子関係に信仰の継承は流れるのであり、奇跡的なカリスマ性は、宗教に対する根本的な偏向と、合理的精神の欠如を植え付けかねません。宗教で説く社会常識とは人間としての振る舞いのことです。理性に適い、人間の豊かな情感を育て、理想と揶揄されようと、人間としての普遍的道徳と倫理を説くのが宗教教育の要諦です。
    家族は社会の核であり、創価という組織の核も家族です。信仰を元に、理想の家族像に近づける適切なアドバイザーであることが信頼を得る組織と考えるのです。
    現代人は、人生を自由に使う代償に、他の人々と物事を共有する喜びとチャンスを失いました。周りを見れば、孤独のなかで生活している人に、自分自身の影も見え隠れする。家族の崩壊は社会の崩壊であり、盤石な師弟のつながりが創価の組織の命綱であっても、家族の崩壊は組織の崩壊につながる。組織における家族像の理解は、価値が変遷する社会にあって重要な命題を孕んでいると、わたしには思えるのです。
    子どもの感受性は大人が想像するより鋭く繊細で、さらに親の心を見抜く力を持っています。
    純粋な子どもたちに、未来が託されることは喜ばしいことであるし、婦人部の一員であるわたしも、その一つの花を育てる使命を担っている。慈しみのなかに人間としての義務をはたし、愛のなかに理想の親になれるように、自らを啓発していきたいと思うのです。

    自己超克こそ、挫折を回避する唯一の方法です。
    『月々・日々につより給へ。すこしもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし』<聖人御難事>
    大聖人は750年も前に、日々超克の貴重な御文を書き残されています。わたしたちが進むべき方向を示しているではありませんか。苦難こそ、純粋な信仰を保つための合理的かつ必然的試練かもしれませんが、苦難とは可能性を信じた積極的努力とも言い換えることができます。 ポジティブな意識の養成は、信仰の一つの収穫とも言えます。
    『思うに、自己超克こそ宗教の真髄です。この伝統的な宗教的教戒である自己超克を説く宗教こそ、未来において人類の帰属心をかちとる宗教であろうと思います。なぜなら、自己超克という教戒こそ、人間としてこの世に生を享けていることの挑戦に対する、唯一の効果的な応戦になるもの、と信じるからです』
    「こそ」を重ね、トインビー博士は強調しています。
    自己超克が人間革命と同義であることは、会員の皆さまならよくおわかりですね。


    妙法という宝珠は、時代の変遷に耐えて未来に伝わり、人間幸福の揺るぎない確信に成長しなければなりません。信頼の輪は身近な人々から継承され、社会へと展開する。
    しかし信仰が正しく継承されることは簡単ではありません。
    キリスト教世界においても、今まで多く論じられてきました。それは時代背景もありますが、スムーズな信仰継承に問題があったからと考えます。創価におけるこの問題は緒についたばかりといっても過言ではありません。親が純真な信仰を貫いても、必ず子どもに継承されるとは限らないのです。組織にあっては大変大きな問題です。特に少子化が反映されている社会にあってはなおさらです。
    わたしは、広布の考え方を根本的に問い直す必要性を感じています。わかりきったことかもしれませんが、数だけが重要なのではないという価値転換です。

    『知性によって秩序づけられていない衝動や願望は、偶発的な環境の統制下にある。即時的な気まぐれやむら気によって命令された行動を見つけるためにのみ他者の統制から逃れても、得るものよりも失われたものの方がはるかに大きいのである。つまり、衝動のまにまに左右されて、その行動に知的判断が入ってこないのである。このようなやり方で行動を統制されている人は、せいぜいのところ、ただ自由の幻想をもっているにすぎなく、実際のところ、そのような人は、自分ではどうすることもできない勢力に支配され導かれていることになるのである』(ジョン・デューイ「経験と教育」講談社学術文庫)
    将来、創価がどのようなかたちになるにせよ、自ら考え、知的練磨を重ねないかぎり、社会の最悪な群衆になりかねません。

    でも今は、わたしは友人に恵まれています。そのなかには女子部時代の部員さんだった方もおられますが、集まっても信仰の難しい話はなし。生活のディテールに、程よい充足感とポジティブ・インセンティブがあり楽しく新鮮。
    わたしのまわりの女性は、みんなひたむき。そして知性的。美しく輝いている。サクセスストーリーとキャリアアップを求める姿は、とてもインテリジェント&ポジティブ。不満があっても、前向きに努力する上昇志向の彼女たちは、きっとその夢を叶えるでしょう。ぜひそうあって欲しい。聡明な女性こそ、創価の希望です。
    人生の浮き沈みに一喜一憂することなく、幸いと平和のコースを歩むことができますように。
    人生というゲームの美しい覇者となりますように。
    そして、いつまでも変わらない友情でありますように。
    遠い心の旅は、まだまだ先が長いのだから。


    Happy Xmas (War Is Over)
    Sarah McLachlan





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    ♡Comment

    蓮香 | URL | 2017.12.06 22:58
    タイトルに惹かれて1.2共にじっくりと読ませて頂きました。相変わらずの語彙力の豊富さと文章全体の構成力は秀でていると思いました。只、すべてを読み終えたときの正直な私の感想は「えっ?これで終わりなの?」というものでした。扱われた書籍からの引用や創価の問題点も一般論の域を出ていないように感じられました。そして、何よりもアンナさん自身にとっての自己の超克とは何なのかが具体的に何も語られていなかったことが残念でした。嘗て貴女は誰かに理解されたいと思われていないと言われたことがありましたが、偽りなく心からそう思われていたならブログという形で公の場で自分の思いを吐露するなんてことはしないはずです。そして、それでは自己の超克なんて言葉の遊戯でしかなくなります。
    気分を害されたなら削除してください。
    アンナ | URL | 2017.12.07 10:49 | Edit
    蓮香さま、コメントありがとうございます。
    また、記事を読んでいただきありがとうございます。
    言いにくいことも単刀直入にご指摘いただきありがとうございます。

    わたしなりに思考して、結論を書いているのですが、経験不足のせいか、理論偏重に傾き加減になることは承知しております。でもある程度仕方のないことと割りきって、それよりも、何も主張しないほうが余程卑怯な行為と考えていました。言葉の足りないところや十分な結論を感じられないところは、わたしが混乱しているせいです。

    人間的な深さは信仰によって培われると思いますが、これからも自分の弱点や思い至らないことへの反省を通しながら、一人前になるように努力をしていきたい。蓮香さまにも認めていただけるような発信者でありたいと思います。
    蓮香 | URL | 2017.12.07 21:55
    アンナさん、こんばんは。

    コメントに丁寧なお返事頂きありがとうございました。
    少々辛口のコメントを入れてしまったので不愉快にさせてしまっただろうと思っておりました。いつも勇ましい記事を書かれている貴女だからこそとてもセンシティブな一面があると勝手に思い込んでいながらもあのような書き込みをして傷つけてしまったかしらとちょっと後悔してました。自己超克という大きなテーマでしたのでどんな結論にもっていくのかと自分勝手に思い込んでいたんだとも思います。
    私はアンナさんのことはネットでの繋がりとはいえ、ずっと才気煥発な方と認めていますよ。文章だけで私の何が分かるんだと言われるかもしれませんが、「文は人なり」という言葉が示すように書き手の文章はインテリジェンスにとどまらず生き様まで透けて見せてしまうと思っています。
    話は変わりますが、「法華経の智慧」はオリジナル版は全六巻ですが、普及版?改訂版だったかしら上中下の三巻になっています。結構、改竄されているようです。因みに私が持っているのはオリジナル版ですが、現在、市場に出回っているのは改訂版のみです。ポラリスさんにお伝えください。宿坊というサイトにまなこさんというハンネの方が「法華経の智慧」を書き起こしていると。
    アンナ | URL | 2017.12.08 18:34 | Edit
    コメントありがとうございます。

    法華経の智慧を読んだのは大学生のときで、その他読むものがありすぎたため、それ以来、法華経の智慧は本棚の奥に大事にしまわれておりました。ポラリスさんに言われて気になって、本棚を捜索しましたら、四巻が行方不明で、その理由にまったく思い当たりませんので、たぶん誰かに貸したまま忘れてしまったのではないかと思います。
    今は普及版が普通なんですね。わかりませんでした。都合が悪いところを書き換えたのでしょう。歴史の書き換えに通じるものですね。歴史を正しく認識できない組織は、いつか本質を失います。教義の改竄もその一つかもしれません。

    蓮香さま、わたしをだいぶ買い被りしています。わたしはいつも悩んでいるような、ひ弱な人間です。自信もありません。ですから、このブログあまり真剣に読まないようにお願いします。飛ばし読みしていただきますように。
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