荒野を目の前に

    ある人は、荒野を目の前にすると、とても自分では踏破できないと尻込みする。しかし、ある人は、未知への挑戦にファイトを燃やす。チャンスは誰人にも平等に与えられているものと考えますが、道端の石ころのように、いくつもころがっているわけではないと思います。

    人間には、無限の可能性があるということを信じていきたい。同じことをやるにしても、考え方一つで結果も変ってくる。始めは努力のわりには得るものが少ないかもしれませんが、継続してやりきっていけば、あとで十分過ぎるほどに望むものが与えられる。結局、助けてくれる人はなく、自分のことは自分で責任を取らなければならない。
    会社のなかの一社員であっても、会社発展がすなわち、自分のお給料や自分の人生に直接響いてくるわけですので、人任せにはできません。世間はそんなに甘くはないし、頑張ったけれどダメでしたと言っても、誰も同情してくれません。もっと頑張ればよかったのにと言われるだけです。信仰も同じではないでしょうか。どこまで頑張れるかは全く個人の意思に左右されるものだと思います。

    諦めはすべてを無に帰す悪です。ガッツな意気込みが苦難の門を開く。自分で考え行動して、最良の自分の方法を見つけだしていく。要するに、依存するなということ。主体的に行動する自分自身ほど頼もしいものはありません。自我の再生こそ信仰の醍醐味です。

    …と、立派なことを書きながら、わたしったら、泣きたい気分でいっぱいです。がけっぷちに立ってる気分。今まで何度も経験してきたのに、最近、失望し、どうしてなのだろうか、立ち直れない自分がいます。記事エントリーへの気持ちも高揚しません。
    組織に失望するのは、わたしの信心が弱いからなのでしょうか。理解してくれなければ理解してくれなくてもよいと割り切り、強い自分であろうと、いつも自分に言い聞かせてきたのに。戦闘的アドレナリンの分泌がありません。わたしは、守りが弱いんですね。


    これからは活動家の定義を変えていかなければなりません。
    活動家というのは組織の定義です。それは組織拡大とともに理想とされてきた人物像ですが、現在の活動家と言われる人たちがどれほど無自覚、不勉強な人々か、わたしははっきり申し上げます。そんな活動家にならない方が賢明です。上辺だけの評価など、評価する人間の軽率さを表しているだけです。

    12、3年前の「御書の世界」で、先生は、円満なる人間生命の力の開花という人間主義の立場から、「四箇の格言」を、四つの類型としてとらえ直し、新たな意義を見出しています。
    興味ある人は本を読んで確認するとして、この「御書の世界」発表当時、宗門から批判が続出しました。破門しておいて批判という、まるで子供の理屈ですが、そういうことが社会に通用すると考える幼稚さは、大聖人や教義に問題があるわけではありません。宗門の主が幼い所化時代から受けた教育のせいです。

    人間主義が多くの誤解を与えるのは、先生が仏教全般、法華経や妙法に新しい視点と解釈を与え、また現代語で、今まで経験したことがない新しい定義を語るからだと思います。
    法華経や御書が現代語訳にとどまらず、他言語に翻訳され、世界に受け入れられているのに、その思想について、現代的意義を付与することには抵抗するという矛盾。普遍性を有するということは、現代性を有するということです。現在に通用しないものが、どうして普遍性を有するといえましょう。法華経のなかで、提婆達多は未来記別を与えられましたが、その未来とはいつの時代でも現在のことです。竜女も鬼子母神も舎利佛も、現在生きる人々を代表しているのです。古くさい伝統は、法華経の物語性にとらわれて、そのような解釈を許さない。

    人生を生誕から死までのひとつのストーリーに見立てるとき、学ぶことに目覚め、学ぶことから転換をはかろうとする生き方は、大きな意味があると思います。自己欺瞞や現実逃避の誘惑が多いなかで、学ぶことは自らの生き方を知的転換するもの。「パンを願い求めるならば石を与えられることはない」(マタイ伝)とキリスト教でも説いています。
    しかし、本人からすれば建設的姿勢、前向きな試行錯誤であっても、回りから見れば、ネガティブな転向と誤解される場合が往々にあり、今まで温和な人間関係を築いてきたにもかかわらず、否定的に破壊的に意思疎通がはかれないという事態に陥ります。なぜでしょう? 以前の村社会の道徳が復活し支配するためです。異端というレッテルをはり、排除する村落共同体の仲間意識は、自由な行動基準より既存の様式・儀式を尊ぶものです。
    絶対平等性を重んじる仏教では、仏の前では誰人も一様に尊貴な存在でありながら、この崇高な理論を実行する段階で平等性を失います。いうなれば、仏の教説を実行する組織は、間違いなくタテ社会であるからです。仏の前では、役職や身分、財力など何の役にも立たないことを、わたしたちはよく知っているのではありませんか。
    拙い頭を絞って、組織改革を唱えても、タテ社会の上に位置する人間は決して受け入れようとしません。彼らの関心は組織を平穏に保つことであり、それが組織に所属する大部分の会員の意見だと信じているからです。
    村の掟は創価のなかでもしぶとく生きています。変化しながら保守であれ、改革しながら妙法の正義を守れと、先生はずっとご指導されてきたのではないでしょうか。批判しながらありのままに享受し、妙法が説く教義と倫理基準に照らし合わせる行為が必要なのではないでしょうか。盲目と無批判の帰属主義からの脱却こそ、真に人間解放につながるものだと思います。師や組織への帰属という他力信仰こそ戒めなければならない。根本尊敬の宝塔は、自分の命のなかにあるのですから。

    わたしが言うところの保守とは、政治的立場の保守ではなく、思想的保守のことです。人間が守り育むべき普遍的価値への回帰運動を保守と名づけるのです。その意味でピューリタニズムも、信仰における自由と秩序、神と人間の関係のなかで復活した保守的回帰と言えます。創価の人間主義も同様です。堅固な哲学体系を裏づけとして、人間主義は秩序ある自由を保証しているのであり、観念ではない経験から得られた自由を保証するということです。
    功徳体験に生命活動の自在さを、会員は喜びとともに知っています。宗教体験はベルグソンの生命の躍動という本質的なものと直結しています…(人生は価値的なものへの願望と挑戦であるというようなことは、年若いわたしが生意気に言うことではないかもしれません。多くの人々が人生改革に挑み、勝利しまた敗退してきたのですから。わたしの人生は退屈なほど保守です。表面的には悲しいぐらい変化が分かりません。でも十分満足しています)…つまり改革とは保守に回帰するための改革なのです。ファナティックな勢いを嫌う理性的な漸進主義は、急進主義よりも当然のことながら忍耐を必要とし、明確な歴史判断という知性が必要です。
    でも「反省のない伝統と習慣」に沿った浅はかな判断は、嫌われるべきです。物事は単純ではなく、複雑極まりないと認識することが仏法者の姿勢でしょう。

    村社会では、個人の意見や意向が埋没し、個人においても強く主張することを控えて、和を維持しようと努めます。創価村社会のシステムをつなぐものは、日本的な和の精神です。
    師は村の長で弟子は村民。師は父で弟子は子ども。タテ社会の家父長制度が反映しています。父は家を守るために粉骨砕身しているのに、子どもはいつまでも自立できずに甘えている。
    わたしを越えろと、先生はご指導されていましたね。大事なことは、都合よく忘れる自称弟子たち。越えられるはずがないと考えるのは、ご本尊さまの力を信じていないからでしょうか。先生は特別の才能を持ち、特別の修行をされた存在と考えているからでしょうか。

    また過去にキリスト教では、信仰の純潔さを守るために、修道院で共同労働が行われていたことを思い起こすべきです。創価の閉鎖性が批判されるのは、創価内部の空間が特別のものと、知らず知らずに会員が意識しているからだと思います。創価でも、世間から隔絶している共同労働が行われていると見ることも可能です。聖教の多部数購読、選挙支援などがその例です。宗教ルネサンスとは、社会に積極的に受け入れられる開放性、平易性の実現という一般人からの共感を得るものでなければなりません。会員が堅固に抱いている、先生に対する師弟不二という絶対思想は、最初に拒絶されるでしょう。
    したがって、師は神格化されることを望んではいません。弟子が師の言葉を神聖視することも避けなければならない。運動が成熟し、一方で改革を志向するエネルギーが先鋭化した折衷主義とも言える人間主義は、自らが自らの生命の尊貴さを証明しながら、他者のために良く考え行動する方法論を教えているものと思います。
    共同体が大切なのではなく、共同体からはみ出ても、自分の意見を貫くことが大切なのです。共同体が成仏の成就を保証してくれるわけではありません。どんな素晴らしい団体に所属していても、自分の心に財を積むものでなければ、どんな意味があるというのでしょうか。人間主義は自立主義なのです。そして今こそ、創価は大きく変わるときを迎えていると確信します。

    改革を信条として自分に正直であろうとする者は、抑圧されたと勘違いし、やがて反逆に至る。一般的見解に従えば、抑圧は、権力者の専権事項のあらわれですからね。しかし、上に立つ人間もまた責任上、個人的欲求を押し殺していることに思いを寄せると(改革案を検討したいけれど、組織のために聞いてはならないという押し殺した欲求)、「包括は脱個性化を導く」という社会学的命題も含まれていることに気づきます。宗教ブルジョワも構造的に疎外されているというマルクスの資本論のようです。組織の公式見解を没個性的になぞっている人間は、ステロタイプ的にしか集団イメージを想像できないでしょう。
    創価では、勧善懲悪の物語が多く語られます。虐げられている者が正義とする救済の論理は、すでにロシアで滅びました。しかし目的を共有し、ともに進もうとする宗教組織は、社会主義的運動形態なのでないでしょうか。また絶対精神を認めた最良の個人主義的アナキズム集団かもしれません。平等と自由、集団と個人という問題は永遠の課題です。

    今まで反逆の汚名を冠せられ批判される人間は数多くいましたが、そのほとんどは、個人的な利害のなかで純粋な信仰を失った者たちです。どんなに自己正当化をはかろうと、命に刻まれた宿業は取り消すことができない。このような愚者は、もっともらしい賢者の顔をした似非賢者ですが、特徴的なのは、創価学会は宗教ではないと考えていることです。宗教は必要と賢そうに主張しながら、一方で創価は必要ないとダブルスタンダードの態度で正義を主張する。「自分たちは受け入れることはないが、他の無知な人々は無批判に受け入れている」という主張は、「自分たちは受け入れるが、他の無知な人々は無批判に受け入れない」と言い換えることもできます。つまりウェーバーが言う「内なる美徳と外なる悪徳」です。また善があれば悪があり、善が強くなれば悪も強くなる。鏡に映したように内と外では美徳も悪徳も逆転します。内も外も差別なく認める寛容こそ、仏教が説く偉大な精神です。
    もともと一闡提の醜い根性の持主ですから、信じないことに価値を見いだすことと、世俗的な毀誉褒貶に敏感なんですね。そして外面を飾ることに執着して、およそ純情な仏教徒とは縁遠い、肉を求め彷徨う飢えたオオカミなのです。不満のエネルギーで身を焦がすオオカミなのです。自分が自分に飢えているのに、他者のせいにしている。自分の不幸を他者のせいにしている。己心の外に法があると考える無責任論者です。ニーチェが嫌った、欺瞞に満ちた弱者という善人と同類。ニーチェが狂気に陥るほど批判したのは、フランス革命から始まった民主主義という鎧に護られた愚かなる大衆です。時代を翻弄し無意味にする神のような大衆です。創価の会員の皆さまが、その大衆像とダブるのは、わたしもアンチ特有の僻見バイアスに引っ掛かっているせいでしょうか。

    「教養俗物」の「喧騒と毒ある蠅どものうなりがはじまる」と揶揄される者たち。寛容を求めるしぐさは小児が母に甘える様子に似ている。多様性を主張する姿は、凡庸な権利の奴隷でしかない。正義だって…そんなもの薄紙のようにはがれる道徳と同じ。やがて悪夢に悩まされ、一人孤独に不信の沼地にはまり沈んでいく。
    悲哀の亡霊にとりつかれた可哀相な自称自由人たちよ。不幸は自分が自分の崇高なるものを引きずり下ろす行為から、必然的に運ばれてくるのだ(…と、ニーチェリアン風に呪いをかけてみる。「自己愛を超え出た愛の過剰」かな?)((+_+))
    100年前も現在も変わらないのですね。精神レベルを変えたいと考えるなら、自己救済というダイナミックな苦難に立ち向かう決意が必要なのです。

    でも、わたしが問題にしたいのは、話題にすらされないごく少数の大まじめな人たちです。
    大まじめに改革を提言し努力を続けながら、失望し、それでも組織にとどまり、悩んでいる方です。今までそういう方も確かにいたのです。そして、今もいるのです。

    女子部のとき、わたしは、ラインから外されました。素直であることが女子部の代名詞なら、わたしは全く正反対の印象を与えていたからです。でも悲しくありません。このような記事を書きながら、気持ちを整理し、また反対の旗を振リ続けようと思うからです。
    改革の主体者は、少数精鋭であるだろう目覚めた人々です☆彡


    『みずから自分を励ませ、みずから自分を反省せよ。修行僧よ、自己を護り、正しい念(おも)いをたもてば、汝は安楽に住するであろう』
    『わざに巧みな人が花を摘むように、学びにつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう』
    :真理のことば


    Forever More - Two Steps From Hell





    *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚


    アンナの日記から(哲女のメモ)
    法華経は聖と俗に差別を見出さない。優劣を競わない。『真は即ち是れ俗なり。俗は即ち是れ真なり』:法華玄義。自由である個人。自由に裏づけられた世法即妙法。個人の私的な信仰が公共性を有し、個人の利益が公共の利益に連動する。信仰は社会的目的を同時に包含し、実現に向けて献身的行為をうながす。近代的理性の行きづまりは、活用の妙法によって革命的なパラダイム転換を迫られる。否定と肯定の両面から、あらゆる思想を再検討し、中道の立場から調和的に生かす。
    近代文明の行動原理である理性は、根源の生命の全体性を明らかにすることにチャレンジし敗れた。人間主義は近代も現代も包括する。智慧と慈悲の哲学こそ、人間の際限ない欲望を駆逐するものである。賢明な生活者は聖なる功利性を求める。諸法実相を現世利益と言い換えては間違いだろうか。
    J・ベンサム『もしも彼らが神が文字どおりの意味で慈悲心に富んでいるというのであれば、彼らは宗教の命令が功利性の命令以上でも以下でもないこと、両者のあいだには一点の相違もなく、一点の過不足もないことを認めることであろう』
    生活革命こそ、妙法の利益。
    自由自在の主体性に支えられた菩薩の化身は、人格に多様な側面をもたらす。菩薩はあらゆる姿で現世で使命を成就する。先生は、内発性、ソフトパワー、漸進主義を繰り返し訴えている。自己の価値観を早急に他者に押しつける危険を指摘し続けてきた。自由な内発性は、自己変革の原点。漸進主義は、哲学思想の市民性を得るための基準。
    排他主義、包括主義、多元主義、自在主義。スッタニパータのなかで『一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない』と語ったと伝えている。自由自在なブッダは、あらゆる学説や見解から自由。英知を結集して批判すべきものは、仏教の真理ではなく、そこから導かれたと錯覚し誤っている言動を対象にすべきなのです。理性的に懐疑を持つこと。矛盾がないか検討すること。創価思想の論理的整合性を批判する前に、その体系に十分精通する必要があると考えるのは当たり前の見解。
    政治と宗教・・・当分パスしようっと。


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    ♡Comment

    蓮香 | URL | 2017.12.10 22:00
    こんばんは。

    連日の投稿で、ずいぶんと筆が走ってるなモチベーションが上がってるのかなと思ったらメンタル的にはむしろ反比例のようですね。
    アンナさんに限らず、創価の変質にきづき何らかの形で声をあげた人はアイデンティティの揺らぎから頭の中はカオス状態で孤独や不安定感があることは否めないと思います。私は時として、どうせすべては方便なんだし、先生あっての創価なんだから、亡くなったあとは様々な問題が顕在化されてしまうだろう、それまでは三猿状態の組織とは本気で関わることは止めておこうという思いに陥ります。
    そうは言いながらも組織を混乱させずに意識を変えさせることは出来ないかとも思っている自分がいます。
    今の組織の問題点をあげて批判するだけでなく、どうしたらよい方向に改革していけるかという提言をしていけたらと考えるようになっています。提言なんて大げさですが改革案ですね。アンナさんはどんな改革案をお持ちでしょうか。私の勝手な改革案は後日にコメントさせていただきますね。咳が取れず体調がイマイチなので。
    アンナ | URL | 2017.12.11 11:42 | Edit
    蓮香さま、コメントありがとうございます。

    改革案といっても簡単にいきません。わたしは地区や支部といった最前線より知りません。改革案の前に、何が問題なのか、整理する必要があります。これは一人では正確性を欠く結果になりそうですので、できるだけ多数の方と協議しなければなりません。
    問題は教義と組織に大きく分けられると思います。そのどちらも難しく、よほどの討論がなければまとまりません。また優秀で全体を俯瞰できるまとめ役も、当然必要です。さらにこの際、男女の差をなくし、男性優位から男女同列同格の意見集約も必要ですが、問題意識を持った女性は、そう多くないと考えます。

    わたしが発信している内容は、はたして共感できる内容なのか、わたし自身には判断ができません。言うならば、女性脳特有の、ただ品物を羅列する、陳列して満足という、整理整頓ができていないという冷静な分析が失われている可能性があります。それがわたしの限界ですが、やはり優れたビジョンやチャレンジ・コンセプトの影には、優れた仕掛け人がいるということではないでしょうか。

    蓮香さまが土台になるような案を考えてくれるということでしょうか?
    蓮香 | URL | 2017.12.11 23:44
    こんばんは。
    アンナさんが言われるように確かに問題点を精査していくことが先にやるべきこのなのでしょう、ですが、それでは遅いと思っています。というよりも、すでに遅かりしだと思っています。それでも、10年後20年後の創価の将来を考えたならば、今手掛けていかなければ本当に創価の衰退は甚だしくなります。
    まず、大御本尊を外したことについての説明を謗法の地にあるからなどという子供だましのまやかしではなく、今現在分かっていることを発表しなくてはならないでしょうね。創価の会則改正が出される何年も前に金原明彦氏は大御本尊について研究し書籍化されていましたが、何故か2015年夏に除名。創価には秘密や謎が多すぎです。
    組織上の問題点は人材不足であると考えています。少子高齢化がくるなんてことは数十年前から分かっていたのに人を育ててこなかったということでしょう。
    統監カード上では人がいるのに会合には全く出てこない。親たちは時がくればと思い込んで本気で悩んでいない。信仰するしないは自由ですけどね。
    これらのことは、会長並びに最高幹部が常に最前線の地区やブロックに入ってこなっかったという結果です。たまに座談会に参加したくらいでは組織が抱えている悩みや問題点なんて見えるはずないんです。
    協議会などに参加して一地区員としても活動していったなら問題点を早くキャッチして手を打つこともできたはずです。これは、その気になれば今からでも可能なことですけど。それから、昔のように質問会を定期的にひらいて、空気を読むとか忖度なんて必要なく口を開いてもらう場をもつことです。
    このほかにも、統監のこと、大誓堂での勤行会の開催のこと、財務、聖教新聞、民音や富士美のこと等等、これでも多岐にわたって考えているんですよ。会長や理事長人事のこともね。それこそ、創価改革案を公募してもいいんじゃないかとさえ思ってるくらいです。こんなことを婦人部の幹部に話したら「学会の将来を心配してくださってありがとう、でも大丈夫、こういうことは上が考えてくれてますから」だそうでございました。では、つづきはまた…
    元会員 | URL | 2017.12.15 14:32
    犀の角の如くただ独り歩めということでしょう。
    アンナ | URL | 2017.12.15 17:06 | Edit
    元会員さま、コメントありがとうございます。

    そういう考えも、とても参考になりますね。
    法華経のなかで単己の菩薩が説かれますが、眷属を引き連れた菩薩より、数が多かったとも言われております。これら地涌の菩薩は導師の徳を一様に備えていたということです。上行菩薩はじめ四菩薩は、常楽我浄の徳を表していると言われますが、徳があって社会に有益な貢献が可能ということではないでしょうか。導師の徳は、自在な人生をおくる原動力になるものと考えます。久遠とは、自在な力を獲得することです。
    単己なのに菩薩というのは、極めて特殊とも言えないような気がします。
    ですから、独り歩むことも悪くありません。
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