活の法門と変革のダイアローグ

    聖教には、「大」を付けて強調する文字が頻繁に出てきます。
    「大勝利」「大前進」『大法戦」「大折伏」「大慈悲」「大運動」「大躍進」「大仏法」 wallhaven-581095oo
    このような文字は、もちろん教義を表したものではなく、運動体としての学会の正統性、勇猛さ、団結などを強調しているのですが、このような言葉を何度も繰り返されると、強調が強調とならなくなり、新鮮味も刺激もなくなります。聖教という格好の情報伝達、あるいは研鑚発表の場と手段を持っていながら、ボキャブラリーの貧困さは、編集者があまり頭がよくないからでしょうか。
    キリスト教研究には万巻の書が用意されており、その巨大な信仰の情熱に圧倒されます。結局は、キリスト教的愛の偉大さを説く精緻な「信仰論」に対抗して、創価の「信仰論」を書き上げる人間は、海外SGI、いつも大人びていて慎重なイギリス人や、自分たちが一番優秀とひそかに自負している議論好きなフランス人、なんでも体系的にまとめることが人生と考えているドイツ人の仏教哲学者になるかもしれませんね。
    仏法用語に「大」を使用するのは慎重でなければならないと思うのです。例えば慈悲に「大」や「小」があるのだろうか、という疑問が起きてきます。慈悲の概念で十分言い尽くされていると考えるのですが、「大慈悲」と「慈悲」の違いは何なのだろうか。「上行菩薩」と言えば過不足なく明確に伝わるのに「上行大菩薩」と言うようなものです。仏の慈悲と人間の慈悲には違いがあるというのだろうか。微妙な神格化が、こういう用語の使い方にも表れています。
    創価には創価風、創価的文字の使い方があり、ひとえに先生の文章やスピーチの影響ですね。弟子が師に似るのは仕方がありませんが、高度な法は、必ずしも、高度な人間を作るわけではないのです。本物らしく見えても偽物というのが世間には多くありますもん。コピーのような主張、コピーのような行動、偽物のコピー人間にだけはなりたくないですね。

    わたしたちが住む娑婆は、物事が相対し、並列し、差別を受ける世界です。悪は罰せられ憎まれ、善は称賛されます。人間倫理は慈悲に依っているとはいえ、善悪は厳しく峻別されてこそ社会秩序が保たれます。仏教は慈悲を根本にした思想体系。慈悲が行為として現れたとき、自己を制御する法が深い喜びとなって実感できるでしょう。
    善悪一体と説くのは法華経のみです。仏は悪を罰しない。慈悲をもってあわれむ。善と悪が、矛盾なく混じりあう心の泉。過去の峰から、伏流水のように湧き続ける自律の法が、善悪を越えた行為的努力を促し、自他を蘇生させる。すべてを受け入れる法華経は、母性の法です。
    『自己を制し、他人を益し、慈しみにみちた心が法であり、それはこの世及び死後における果報の種子である』(中論:龍樹)

    「以信代慧」は、釈尊とその後の聖者の実践的慈悲から導きだされた美しい言葉です。わたしの下手な毛筆で書いた紙を仏壇の脇に張ってあります。名画を見るようなまなざしで、いつもまぶしく眺めている者は、竜女の意志を受け継ぐ無数のなかの一人・悩める子どもに変容したわたし。残念ですが、母のように、須臾として、他国を教化する神通力はございません。


    ♡池田先生ほど、肯定と否定の、称賛と批判の両極端の評価にさらされてきた指導者はいない。わたしはいつも、なぜなのだろうと考えます。
    学会ならびに池田先生に対する批判は、大きく二つに分けられます。
    1.先生のリーダーシップや政治参加のあり方に対する批判。また折伏の排他性の指摘、師弟不二に対する間違った解釈など、学会の思想性を検討せず、教団の社会的あり方を問うもの。
    2.宗門からの批判。貫主絶対の思想にともなう「唯授一人の血脈」観を問うもの。平成3年の宗門からの『破門通告書』には、「本宗の命脈である唯授一人の血脈の尊厳を、甚しく冒涜している」とあります。法主から法主へ、大御本尊の法体や本仏の法魂が継承されてきたとする、血脈の権威を高調して貫主の絶対化という信者を見下す立場からの批判。
    この血脈に対する正統化をベースにして、学会に対するすべての批判が、派生的に存在するといっても過言ではありません。日蓮大聖人から日興上人に伝えられた仏法正義とは、一体何だったのでしょう。批判することで正義が保たれていると考えるなら、なんて貧相な哲学でしょうか。良医の慈悲を忘れている。失本心故とはこのことです。
    日蓮大聖人や日興上人の行動を模範とするのであれば、僧は広布のリーダーになるべきです。命懸けで御遺命を果たすべきです。そのような覚悟に立った人を僧というのではないでしょうか。姿形は僧であっても妻帯し、未練がましく世間の楽しみに執着し、品格も劣り、欲望の虜になって正しい信仰指導もできない。どの宗教においても致命的な汚点を残す階級主義、選民意識が作った特権階級の高慢な姿は、聖なるもの・人間の尊形としての理想には遥かに及ばない。清廉と質素が僧のベストメントのはずなのに、いかがわしく嫌らしい悪徳の姿に包まれている。「世界に悲惨がなくなりますように」と真珠のように無垢に輝く、創価の母の祈りにもかないません。

    しかし、信仰への無疑の確信に立つことができないで、文句ばかり多いわたしには、これらの批判に的確に答えることができません。というより、読書欲と信仰者としての使命感に立った限りない求道心は持っていても、今まで体験し、学んできた知識の系統だった整理ができない自分がいたりします。そういうところがわたしの限界かなと、チョット悔しい思いもあります。手当たり次第に読みたい本を読むというのが、わたしの読書の方針なのですが、ジャンルを問わないで音楽を聴くというのにどこか似ています。さめやすくて熱くなりやすい性格は、火の信心になりやすいように思いますが、悪く言えば短気、良く言えば何にでも興味を持って感受性を磨き、生活のバラエティー化に務めるという心掛け。やっぱり人生は楽しく、美しくありたいと思います。美活アップ、恋力もアップ。祈りも熱くなろう!

    「中論」(中村元:訳)読みました。龍樹の弁証法的思惟には難解でついていけません。ただ極めて優れた弁論術と思考回路を持つ天才であることだけは理解できました。
    「中論」は論争の書です。「自ら主張は存在せず、したがって理論的欠陥がない」<中村元>との言葉がありますが、世俗の損得が行動基準の態勢を占め、その上ツギハギだらけの知識では到底理解が難しいように思えてきます。さらに「中論」では、主張命題も理由命題も実例命題も用いてはならない、と主張しています。弁証法的論理の進行でありながら、一方で弁証法の否定は「中論」の性格を表すものといってもよいでしょう。
    日寛上人が言われた、すべてを活かす「活の法門」は、中道思想に依っています。先生が説く「人間主義」も、牧口先生が言われた「人道的競争」も、中道思想が根本にあると思います。同時に、変転する現実を動的にとらえようとする思考方法は、弁証法そのものと考えます。さらに先生の対話と行動のなかに、新しい弁証法の確立を見るのは、わたしだけでしょうか?
    たとえ仏教者としての立場から程遠い他者の主義主張にしても、深く尊重し、最大に生かそうと努める。多様な人々が喜んで参加できる場を作り続けてきたのが先生です。そこに見られる仏教のエッセンスを体現した言動は、イデオロギーや宗教で、和解を望みながら分断されてきた人間同士をつなぐ智慧そのものなのではないかと思います。さらに、リベラルな宗教者間で粘り強く対話が進められている、排他主義、包括主義、ジョン・ヒック等が提唱する多元主義についての考察も必要です。西洋的思想の流れのなかで、西洋哲学の言葉と文献を引用し仏教の根源的真理を証明するのは、困難なことに相違ありません。
    「人生地理学」で示されたヴィジョン・軍事的競争→政治的競争→経済的競争→人道的競争の完結を強く望み、先生の弟子として、日蓮仏法に帰依する有難さを実感し、行動に移していかなければなりません。
    ICANのノーベル賞授賞にあたり、国内政治的には、核兵器禁止条約を承認しない政党を、強く支援していることに深い矛盾を覚えます。政治的には反対、宗教的には中道、人道的には賛成などと、一人の人間の行動を細かく分けられるものでしょうか。分けられたら多重人格です。聖教で広く喧伝しても、一貫した主張とは言い難い。平和団体としての世界的認知を渇求し、会員から集めた豊富な資金を惜しみなく投入している。名誉を求める姿は一貫しているようですが、年老いた宗教家の見果てぬ夢に終わりそうです。

    ハーバード大学神学部・ハービー・コックス博士のインタビューのなかで、
    『創価学会が宗教権威から破門を受けた後も、衰退するどころか、仏教ヒューマニズムともいうべき豊かな精神性を堅持しながら成長し、繁栄を続けていることに、私は深く注目しております』
    『今、人々は教条的な教義から脱却し、宗教の、より普遍的な価値を求めております。これが「精神の時代」を特徴づける最大の気風といってよいでしょう。
    さらに、こうした気風の中で、次のような特筆すべき傾向も生まれています。
    ①聖職者が信徒の上に立つ、階級主義的なものでなく、平等主義に立脚した宗教への期待
    ②他の宗教との開かれた対話の模索
    ③女性の宗教指導者の台頭、などです。
    では、こうした時代への変革をうながした要因は何か―これは大変に興味深い質問といえます』


    SGIも将来、女性会長が出てもおかしくありません。学会内では婦人部&女子部の筋力が勝っているのですから、むしろそうあるべきと思う。学会にも、女性は控え目にといった古くからの道徳倫理があるのは事実。女は女らしく、男は男らしく、感性に訴えるような言葉で何となく納得している部分があります。ヒエラルキー秩序は男性的です。男性原理で創価も動いています。 そして行き詰まっています。
    『こうした時代への変革をうながした要因は何か』
    1.妙法の普遍性
    2.リーダーの菩薩性と献身
    3.対話運動の永続性と喜び
    4.社会変革と幸福の実感
    概略をまとめれば、上記のようになりますが、こんなレポートは会員であれば誰でも即答できるでしょう。そのように先生から学んだのですから。でも感動はありません。当たり前のことを言っているだけです。

    先日、会館である婦人部幹部とすれちがいました。わたしを非難し、会合への参加をひかえるよう高慢な指導をした方です。自分が何を言ったのか、分かっているのでしょうか。目線が合って火花が散りました。先生が何度も戒められて、教条的なドグマの犠牲者になってはいけないとご指導されているのに、自由に自分の意見を言うことと、信仰に対する姿勢の是非を問うことの違いを認識できていない。自由に意見を言うことが、都合が悪いことなのでしょうか?
    わたしは悪口を言っているのではありません。時代が変わりつつあるのに、それを認識できない愚かさを指摘しているだけです。学会は、教育的な信仰模範を示し、そして導き、どこまでも寛容に、人間成長の使命を負った仏法民主主義組織ではないでしょうか。信仰を基調にした個性の発露と多様性こそ、仏教ヒューマニズムの新思考です。
    わたしだって、泣かない自分にバージョンアップしたのですから、自分のなかの弱い自分に、お別れのキスをおくるわ。今まで大変お世話になりましたね、自分くん!


    Beautiful Battle - Dwayne Ford





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    ♡Comment

    アンナ | URL | 2017.12.20 16:41 | Edit
    カン太さま、コメントありがとうございます。
    とても勇気づけられます。

    いろんな意見があってこそ健全です。あるいは否定的な意見であっても、閉鎖的に封印すべきではありません。
    信仰はいろいろな意見を持つことなのです。
    アービトレーション(調停)能力こそ、幹部の絶対条件です。

    また率直なご意見を、コメントしてください。
    元会員 | URL | 2017.12.24 15:05
    創価は大を使いだがるとは私も思っていたことです。
    私はまず、大聖人という呼称も好きではないのです。大が付くほどの聖人など尋常ではありません。
    後世の門下が神格化しすぎだと思います。
    日本の知識人は日蓮嫌いが多いと聞きますが、こういうところの影響もあるのかという気はします。
    アンナ | URL | 2017.12.24 18:32 | Edit
    元会員さま、コメントありがとうございます。

    ずっと大聖人と言ってましたので、特に違和感はなかったのですが、言われてみればそうですね。普段、自分の名前や、他人の名前に「大」はつけませんよね。つけたら、バカか変人に思われそうです。
    「大」はつけませんが、「永遠の師匠」も同じようなものです。「大」が「永遠」に変わっただけです。大師匠と言えば不自然さが明らかです。
    大げさな呼称は、きっと中身がないからでしょうか。中身がない人ほど着飾るものです。名誉や勲章で、さらに役職の呼び方で。またまわりに人を侍らせて権威付けをしたり。

    人生に対してシンプルな考え方こそ、仏教から学ぶ生き方かもしれません。欲望もほどほどにということです。
    残念ですが、わたしはそこまで悟っていませんが。

    きょうはクリスマスイブ。朝からがんばってケーキを作りました。
    おすそ分けしたいな~。ワインで乾杯しよう。
    それでは、時間ですので、失礼します。
    ありがとうございました。
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