心の英雄

    完璧な人生がないのと同じように、全く完璧でない人生も、そうざらにあるものでないと考えるのですが、途中、悩み苦しみへこたれても、だいたいのところ、収まるところに収まるのが人生というものです。くだらない人生なんて、今まで一つもなかったし、それぞれ意味を持ち、唯一のものとして主人公に委ねられているのだから。

    これといって他人に披露できる才能もないので、せめて自分の考えていることをまとめ、文章にするという作業を続けているのですが、近頃は書いて伝える難しさを痛感しています。生活上の平衡感覚は、経験と知性の鍛練から生まれるものと思いますが、文章表現もバランス感覚が大切で、納得してもらわなくても、理解してもらう程度まで表現するのは、一方に偏らず、できるだけ平易な表現が重要かと考えています。
    一年は長いようで短く、振り返ってみれば、何も成長していないように思われて、何かを成就することの至難さを考えずにいられません。果たしてこんな頼りなさで、新しく時代を開き、リーダーになることができるのかと考えると、心もとない気分に見舞われます。

    芯になる哲学は一つでも、多様な展開と深い洞察をみせる池田思想は、よほど脳を明晰にしておかないと理解は難しいように思われますし、また他の人に分かりやすく説明するためには、どうすればいいのかと、悩むのがわたしのセルフ・ミッションと言えばいいのでしょうか。理解したうえで、自分の言葉で語ることが大切です。今は情報過多のせいなのか、自分を失い、自分で考え、自分の言葉で語る人が少なくなりました。妙法の信仰者であっても創造力をなくし、他者を思いやる本物の言葉を語れなくなったのです。
    新鮮な話題を求めている会員に、聖教の記事を引用するのは良いとして、ただの紹介と解説だけに終わるのはどうかと思います。感動を語ることは簡単ではありませんが、かっこよく話をまとめようなどと考えるのは問題外です。ノーコンテンツ・ノーコンフィデンスな話は、ムダの最たるもので会合に集った意味がありません。青年の息吹きが感じられない信仰者の姿勢は、善のなかの悪、使い古された年老いた正義です。
    先生のご真意は深いと考えますが、教学上の理解をベースに、対談集や講演、論文等を精読し、目的観に立った人間の生き方を求めて行動を起こしていくことは、青年の使命です。個々の信仰向上と英知の結集、連帯が望まれます。青春を懸けて、幸せと苦難の道を選びたい。


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    できるだけの善を行なうこと
    何にもまして自由を愛すること
    そして、たとえ王座のためであろうと
    決して真理を裏切らないこと
    Ludwig van Beethoven
    (1770~1827)

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    『思想あるいは力によって勝った人々を、私は英雄とは呼ばない。心によって偉大であった人々だけを、私は英雄と呼ぶのである。彼らの中の最も偉大な一人、今ここに私がその生涯を語る人が言ったように、《私は善良さ以外には優越さの証拠を認めない》。性格が偉大でないところには、偉人はない。偉大な芸術家も、偉大な行動家もない。そこにあるものは、卑しい大衆のための空虚な偶像だけである。時はそんな偶像はひとまとめにして壊してしまう。成功はわれわれにとっていっこうに重大なことではない。問題は偉大であることであって、偉大らしく見えることではない。
    ここに私が物語ろうと試みる人たちの生涯は、ほとんど常に長い受難の生活だった。悲劇的な運命が彼らの魂を、肉体的ならびに精神的苦痛や、悲惨や、病気などの鉄床(かなとこ)の上で鍛えたにせよ、あるいは、彼らの兄弟たちを苦しめている言いようもない苦痛や屈辱を見て、彼らの生活が荒らされ、彼らの心が引き裂かれたにせよ、彼らは試煉を日々のパンとしてたべたのである。そして彼らが精力によって偉大であったとすれば、それはまた彼らが不幸によって偉大だったからである。不幸な人々よ、あまり嘆くことはない。人類の最良の人々は彼らとともにいるのだ。彼らの勇気をわれわれの糧としようではないか。<中略> 人生は苦痛の中においてこそ最も偉大であり、実り豊かであり・・・また最も幸福であるということである。
    この英雄的な軍隊の先頭に、私はまず強くて純粋なベートーヴェンを置くことにする。彼自身、自分の苦しみの中にあって願ったことは、自分の実例が他の不幸な人々の支えになることであり、また《不幸な人間は、自分と同じように不幸な人間が、自然のあらゆる障害にもめげず、人間という名に値する一個の人間になるために全力をつくしたことを知って、自分を慰めねばならぬ》ことであった。幾年もの超人的な闘いと努力とののちに、ついに自分の苦悩にうちかち、自分の義務を果たした時・・・この義務は、彼が言ったように、不幸な人類に勇気を吹きこむことであった・・・この勝利者プロメテ(プロメテウス:ギリシャ神:人類に文字を始め数々の知恵を与えた。ここではベートーヴェンのこと)は、神に加護を祈っている一人の友人に、《おお、人間よ、自分自身で自分を救いたまえ!》と答えた。
    彼のこの誇らかな言葉から、われわれは霊感を汲みとろう。彼の実例によって、人生と人間とに対する人間の信仰をよみがえらせよう!』

    ロマン・ロラン「ベートーヴェンの生涯」新庄嘉章:訳(角川文庫) 

    ロマン派音楽は、形式よりも個人の感情や創作意図を重視して、自由な個性や内面を尊重した音楽と言えますが、詩や小説にインスピレーションを受けて、言葉によってメッセージを伝えようとする傾向が強い。
    第9交響曲は「苦悩から歓喜へ」というテーマの第4楽章のシラーの詩に託されていると考えますが、重厚で悲劇的なニ短調から始まる曲想は、強い人間意思と神への敬虔な祈りを経て、歓喜に至る。フランス革命という市民意識の目覚めと教会権力からの独立は、貴族の庇護から音楽を解放しました。古典派とロマン派の狭間に生まれたこの偉大な作曲家は、人類愛という理想主義思想を、強い共感と類稀れな純粋さを持って構想したのでした。

    第9の初演は1824年5月7日、ベートーヴェン自身の指揮で帝室宮廷劇場において行なわれました。聴覚を失っていた作曲者を補佐するため、イグナーツ・ウルラウフという指揮者が隣りに立ち演奏されたという。現在の水準と比較すれば、演奏レベルもさほどでもなかったと言われておりますが、作品の素晴らしさはそれらの欠陥を忘れさせ、崇高な感動に輝きました。アルト独唱を務めたカルリーネ・ウンガーは、その模様を書き遺しています。
    『演奏が終わった瞬間、すべての人々の目には涙が光っていました。ベートーヴェンはその拍手にとり囲まれていたにもかかわらず、おそらく何も聴こえなかったのでしょう、聴衆に背を向けたまま、まだ指揮棒を振り続けていました。たまりかねて私がベートーヴェンを熱狂する聴衆のほうに向けると、聴衆はこの大作曲家が実はひとつの音すら聴くことができなかったことに気づいたのです。やがて会場は同情と賞賛の嵐につつまれ、中には大声で泣き出す者も現れました。そしてその歓喜の声は、永遠に消え去ることがないように思われました』

    ブラームス派とワーグナー派が対立するのは、ベートーヴェンの死後30年後のことです。しかし、どちらの派閥に属する音楽家も、ベートーヴェンを敬愛しました。
    自信が鎧を被ったような大言で他を辱め、壮語で有頂天に昇ったワーグナーも、この天才の前では、何も言わず静かに、こうべを垂れた。災いの元になる大きな口をふさいだ。眉間にシワを寄せ目をギョロつかせた天才の肖像画を、官能的なまなざしで飽くことなく見つめ、可憐なイゾルデに、燃える愛を告白するトリスタンのように、素直に胸をときめかした。
    ブラームスは20年の歳月をかけて交響曲第1番を完成させ、伝統的、古典的な交響曲の形式に則り、緻密な構成のなかに内省的な激しさを加えて、青春の息吹きと勝利への闘いを描いた。そのメッセージの普遍性は、絶対的ともいえるベートーヴェンというイグザンプルがあったからと考えます。

    ベートーヴェンも影響を受け、人間の可能性を信じ理想主義的側面を過分に持つ、カント哲学の美しさは、理性宗教として大乗的人間像と重なる部分があるように考えます。
    ベートーヴェンの胸の内には、一神教としてのキリスト教とは異なる内なる神と信仰が、育まれていたのではないか。天才の中心を貫いていた自由精神の対象は、宗教的寛容の光彩に彩られた偏見のない多様な神々だったのではないか。天才がインド思想にまで近づいたのは、十分に理由があったのではないかと考えるのです。
    仏は、わたし達に理性的な祈りを求めています。それは宗教批判の原理に顕著です。それはまた肯定的な生命の喚起を促すものであり、しかも最も深い寛容のニュアンスを含む道徳的行為でもありましょう。人としての振る舞いが信仰というのであれば、不朽の音楽の前で魂の歓喜を掴んだベートーヴェンの創造力は、悲劇が終わることを祈り、人間としてできる最大限の情熱を傾けて、神に代わって真理を提示する闘いを実行したと言えます。教会に行くことだけが信仰ではない。神におとなしく帰依するだけが信仰ではない。どこまでも内面の問題なのだと、宗教的霊感を与えてくれる<第9>は、熱く訴えているように、わたしには感じられるのです。
    神聖なる場所があるとしたら、それは誰の心のなかにも平等にあり、善を行なうことを自分に課したドイツ生まれの自由人が証明したように、自分に打ち勝つ力が存在する場所のように思われます。温かく優しく抱擁する愛情が溢れた場所。衰えも病も迷いも死に絶えた場所。夢が叶えられる素敵な場所。内なる平和と外なる平和が実現できる場所。詩心が響き合う場所。
    『すべての作品は共に深い詩情にひたされ、その一つ一つが、あるいは叙事的、あるいは叙情的、あるいは劇的な一個の詩、精密かつ緊密に作られている点では、言語によって書かれたもっとも美しい詩に匹敵し、しかもそれ以上に深く意識下の世界にまで入り込む一個の詩になっている』:ロマン・ロラン

    何かを実現するためのモティーフは無数にあるけれど、でもしかし、足踏みしているだけの弱き心の情けないわたし。学ぶことも行ないも、指揮台に立ってオーケストラを奏でるようにはいかないもどかしさと憂鬱感。失礼しました、わたしの愚痴ですね。

    音楽に対し、さまざまなアプローチの仕方はあるでしょう。どれが正しくどれが間違っているなどとは言えません。固有の表現は、表現者の個性であり形式といってもよいでしょう。
    ロマンティックな人生は、感情が豊かであり、深い内面で苦しみに耐えながら熟成されるもの。ベートーヴェンが到達した高みは、彼の精神が堅固でありながら柔軟であることを示しているように感じられます。
    崇高さと祈りは表裏一体のもの。その崇高なものが存在しなくなった現代に、ベートーヴェンがたどった魅力的な遍歴のなかに、人間であることの奇跡と喜びをアダージョのうねりのように感じていきたい。

    おお! 人生は実に美しい!
    だがぼくの人生には、どんな場合でも、苦い毒がまぜられている


    年末になれば、ベートーヴェンの「第9交響曲」の演奏会が頻繁に開催されます。日本だけの習慣のようです。年末よりも新年のほうがふさわしいように思えるのですが、海外においては、演奏時間が長いため(約70分)に、部分的に演奏される機会もあるようです。海外での生活経験のないわたしにはよく分かりません。


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    おお友よ、このような音ではない!
    我々はもっと心地よい
    もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか
    Beethoven

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    小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラ小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラの<第9>を女子部のとき買いました。02年9月5・7・9日、長野県松本文化会館でのライヴ録音です。<第9>としては3枚目のアルバムです。
    サイトウ・キネン・オーケストラは、海外でも良く知られています。国際的な評価の高まりは、小澤の世界制覇の歩みと共にしています。02年ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを指揮し、さらにボストンを離れてウィーン国立歌劇場音楽監督に就任。衰えない情熱に支えられて、名実ともに名指揮者の風格と円熟の足跡を重ねてきました。小澤とサイトウ・キネンの約10年にわたるベートーヴェン・シリーズの完成と結論が、この<第9>なのです。
    個人的な感想を言わせてもらえば、弦の美しさとスピード感はとても魅力的であり、余裕さえ感じる密度の濃さと精神的な力強さは、一つのスタンダードとしての気品があります。決して重厚にならず、軽快なアンサンブルの方向性は、クラシックに触れるチャンスをより楽しいものにしてくれるでしょう。東京オペラシンガーズのコーラスは極めてすがすがしく響き、この演奏を成功に導いた大きな要因になったと考えます。

    Leonard Bernsteinカラヤンと人気を二分したスター・コンダクター、レナード・バーンスタイン。わたしが最初に買い求めたこのCDは、79年のウィーンでのライヴ録音。61才という円熟期の名演と言われていますが、王道を行く安定感、エネルギッシュな情感、いかにもアメリカ的な明快さとスぺクタクルというところでしょうか。バーンスタインの知性と激しさが両立、第4楽章は、至高の美しさで、ダイナミックな高揚感に心を奪われます。張りつめた緊張感が素晴らしい。<よろこびに勇み、勝利の大道を歩む英雄のように>怒涛のフィナーレは圧倒的です。

    ロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ08年に、イギリスの音楽誌「グラモフォン」にオーケストラ・ランキングが掲載されましたが、見事1位にランクされたのは、アムステルダムに本拠を置く「ロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ」です。クラシック関連の雑誌のオーケストラ・ランキングでは、常に上位にランクインしています。
    コンセルトヘボウと言えばハイティンク。61年から88年まで首席指揮者を務め、コンセルトヘボウへの貢献ははかり知れません。映画「Copying Beethoven(敬愛なるベートーヴェン)」で<第9>演奏シーンを聴いたとき、即座に分かりました。映画製作者もこの素晴らしい<第9>を愛しているのだと。そして同じ眼差しでベートーヴェンを見つめ、聴いていると共感したのです。
    わたしはビデオで見たこの映画が大変お気に入りになって、アンナというハンネは、この映画のヒロイン・写譜師アンナ・ホルツから、ちゃっかりいただいたものです。
    葛藤と苦しみのなかで内省を繰り返すことから、偉大なものが生まれる。<第9>のテーマは重く、しかし、とても重要なメッセージが込められているものと考えます。また第4楽章のように祝典的な派手さもあるのですが、わたしはこのハイティンクとコンセルトヘボウのコンビが一番しっくりと心に響きます。なんとも言えない高揚感に満たされます。中庸をいく知性と感性は、そう簡単にお目にかかれるものではありません。流麗な音の重なりと清澄な響きは、ハイティンクの緻密な構成力と解釈の妥当性によるものでしょう。日本での評価は低過ぎるように感じますが、普遍的な美しさとはこのような演奏をいうのだと確信します。

    「哲学するということは、どういうことなのだろうか?」
    学生時代、創価教育学を学ぶにあたり、最初に疑問に思った基本的な命題は、実は最も根本的な問題であることに、その後気づきました。
    わたしが哲学することの面白さと充実感を感じたのは、創価教育学へ足を踏み入れたことから始まります。教員免許は取りましたが、教職への道は進まなかったわたしは、大学で学んだ諸々のことを、毎日の忙しさのなかで、しばらくの間すっかり忘れていました。父から、創価教育学についてたずねられ、十分に答えることができなかった錆び付いた自分の脳ミソに気づくと同時に、学ぶことをおろそかにしていた迂闊さにショックを受けました。

    創大生であれば誰でも知っている、創価教育学の3つのテーゼは次のようなものです。
    『経験より出発せよ。価値を目標とせよ。経済を原理とせよ』
    「創価教育学体系」での3つの基本テーゼの詳細は省略させていただきますが、この教育学に対する普遍的とも言える問題提起とアサーションは、複雑難解な解答への旅路も、ありがたいことに準備しておりました。

    観念的、理性中心のカント哲学と、経験的、功利主義的な牧口創価思想とは相容れないものです。とはいっても、カント派哲学から多大な影響を受けたのは事実。再解釈し変質させ、教育現場から学んだ実際的な経験から深く洞察した見識を加味し、教育指導体系を構築しました。創価教育学に通底する幸福主義は、アリストテレスの幸福論との共通性も指摘されていますが、リアルに人生と教育と卓越した人間の行動を追い求めた牧口先生の最良に有用なパラダイムは、強固でありながら、本質的な人生哲学ということもできるでしょう。
    カント先生は、「純粋理性批判」のなかで、哲学は歴史的な認識の学びでない場合には、学習することができないと言い、理性に関して言えば、哲学的に思索することを学べるだけであるとご教示されております。また、書物に書かれてあることは、伝統に依拠した確固とした土台に乗り、信仰もまた教義と解釈の歴史を積み重ねており、このような長い歴史と伝統、そこから導きだされた真理は疑いがないように思えて、不動の重しのように動かない。しかし、ただありがたく尊重することだけで終わったら、考えるという人間の仕事は失われてしまうと言いました。感化されやすいわたしには、なるほどと思えてきます。同時に、現代に最も必要な見識なのではと思えてきます。

    自律した思考の原則として重要な3つのポイントを提示しております。
    1.自分自身で考える(先入観を持たない)
    2.他者の思考を柔軟に受けとめる(自分を他者の立場に置いてみる)
    3.思考の一貫性と整合性を点検する(自分の思考が他者を無視していないか、また他者の思考を吟味もせずにそのまま受容していないか、を点検する)
    カント先生はまた、何より重要なことは、公衆を啓蒙すること、自らの力で考えさせることだとおっしゃいました。古い体制を革命によって転覆できても、人びとの思考方法が古いままであれば、革命で新しくできた体制も同じものになってしまうということです。「自分で考える」ことを強制するのは自己矛盾です。大衆に自由を与えること、受動的ではなく能動的に、他律ではなく自律に思考することを学ばせることだと、偉大なるカント先生は呼びかけたのです。仏法で説く民衆覚醒運動、また依存ではなく開目抄で説かれたたくましく切り開いていく自存の精神ということですね。信仰への深い自覚と、自我への信頼こそ、幸福への原点です。

    『もの思う人間は苦悩を感じる。これはものを思わぬ人は知らない悩みであり、あるいはこの苦悩から道徳的な堕落が発生するかもしれない。この苦悩は、世界のすべてを支配している神の摂理に満足できないために生まれるからだ。それに諸悪が襲いかかり、人類を悩ませていて、いかなる改善も期待できない(ようにみえる)からだ。しかしわれわれがこの摂理に満足することは、きわめて大切なのである。この摂理がたとえ人間のために地上で辛苦の多い道程を定めていたとしてもである。それはこうした艱難のうちでもつねに勇気を失わないでいるためであり、またこれらの悪を運命の責任に転嫁しないためでもある。これらのすべての悪の責任は人間だけにあり、人間がその唯一の原因なのである。われわれはみずからを改善すべく努め、諸悪に対抗するための工夫を怠ってはならないのである』
    「人類の歴史の憶測的な起源」1786年・カント(Immanuel Kant)

    ベートーヴェンは、カント哲学研究会に参加し、自分で考えて行動することの普遍的な意味について重要な示唆を得ました。そして途中の過程を大幅に省略して言えば、善を実現し、人びとを幸福にするために、人類的愛の価値の尊さを理解しました。自己の苦しみから出発し、万人の幸福を願うヒューマニズムに至ったものと思います。ヒューマニズムとは救済の道ということです。
    ベートーヴェンの苦悩とは、最初、避けることができない身体的苦痛から始まりました。よく知られていることですが、28才という青年期から、難聴に苦しめられたのです。しかし、この頃から、それと引き換えるように、失望と正反対の爆発的な創造の嵐が、彼の内部で吹き荒れます。古典的形式を土台としながらも、革新的な手法で次々と傑作を生み出していきます。古い伝統を門の表札のように掲げた者たちは、ベートーヴェンの音楽を忌み嫌います。まるで祭壇を汚す異端者であるかのように、冷たく突き放し、無視し、紙屑のように楽譜を床に叩きつけたのです。新しい扉を開く芸術と理の調和は、野蛮な無知と無理解によって、いつも阻害されます。
    音楽に心身を捧げようとする者が…音楽で世界に貢献し善良なる心の表現手段として、その権利の行使を喜び勇んでいる者が…音楽が神から与えられた神聖なる天職として、自らの生きる力としている者が…聴覚を失うという悲運は、一体どういうものなのだろうか?
    視覚を失った者が、絵筆を取るようなものなのでしょうか。手足の筋肉を失った老人が、若者のように俊敏にダンスをするようなことなのでしょうか。声を失った者が、どうしてコミュニケーションをとればよいというのだろうか。声の響きに優しさと愛を込めて伝えようとしても、波動は体外から出ず、脳のなかで反響するだけという悲しみを、どのようにして伝えればよいのだろうか。甘い果実は、舌と味覚がある者だけが味わうことができる。音楽という果実に含まれる神秘的な豊かさも幸福感も、聴覚という舌があればこそというものです。
    ベートーヴェンは、音楽家にとって致命的ともいえる運命に直面し、絶望のなかで死を望みました。彼は遺書をしたため、ハイリゲンシュタットに住む弟たちに送りました。32才のときです。
    『私のそばにだれかがいて、彼には遠くの笛の音が聞こえるのに、私には何も聞こえず、彼には羊飼いの歌声が聞こえるのに、私には相変わらず何も聞こえない時には、私はなんという屈辱を感じたことだろう! こうしたことをたびたび経験したので、私はほとんど絶望した。もう少しで、自分で自分の生命を絶つところだった・・・私を引き止めたのは、芸術である。ただこれだけである。ああ! 自分に課せられたような気のする仕事を完成しないでこの世を去ることは、私には不可能に思えた。そこで私は、この惨めな・・・ほんとうに惨めな・・・生を引きのばし、ちょっとした変化で私を最善の状態から最悪の状態におとし入れるような敏感な肉体を引きずってきたのだ!・・・忍耐だ! と人は言う。私が今案内者として選ばねばならぬのはそれである。で私は忍耐した・・・堪えたいと思う決心が長く持続してくれればいいが。冷酷な運命の女神たちが、私の生命の糸を断ち切りたくなるその日まで。私の状態がよくなるにせよ、あるいは悪くなるにせよ、私に覚悟はできている・・・二十八歳にして早くも諦めきった人間にならねばならぬというのは、容易なことではない。それは芸術家にとっては、他の人々にとってよりもずっと辛いことだ』

    アンナ・ホルツのような聡明で忍耐強い女性がいたら、どんなにか幸せな瞬間があったことだろう。わたしたちは、アンナのような優秀な写譜師にはなれません。わたしの場合、そもそも、音楽自体を理解しているとは言えないからです。ただ聴いて、感覚的にその美しさを把握し、拙い言葉で感想を述べるだけ。素直に聴くこと、素直に見ること、素直に手を差し出し、あなたの手を握るだけ、あなたの心に触れるだけ。

    ヨーロッパ大陸を縦断するアルペン山脈の、ひときわ高い峰であるベートーヴェンの思想性は、音楽全体を覆う雲のようであり、音楽世界を照らす太陽のようであり、恒久的な過去の光であり、輝く未来でもあります。
    山の頂は天に近く、覚悟のない人びとを近づけようとはしません。
    また、ベートヴェンは、道徳的大地に立つ、大樹のような、屹立した人格の象徴です。
    大樹の限りない豊かな茂りは、心の歓喜を表し、一本一本の枝先には、未来の平和と繁栄、それぞれが信ずるものへの寛容が芽を吹こうとしています。

    もしもわたしに貢献できることがあるとすれば、ベートーヴェンの思想、音楽、人生を懸けて訴えようとした愛の卓越性と、弛まない善意を信じた自由の在りようを、文字にして伝える写譜師になることだと思うのです。
    創価のアンナは、創価思想のビジョンと平和へのスタンスを、師の言葉を借りて、また学習し咀嚼し、新しい生命の音楽として、語り尽くすことだと考えております。理想とする仏の存在は、自由精神を実現した最も高貴な当体と考えるからです。


    ピアノソナタ第8番ハ短調作品13<悲愴>
    Klaviersonate Nr. 8 c-Moll "Grande Sonate pathétique"
    ウラディミール・ホロヴィッツ苦難に追いつめられ、乗り越えようとした自己の内面の表現は、ロマン的な斬新な技法を可能にしました。新しい言葉で新しい表現を試みるという画期的作品。ピアノソナタの傑作。男性的な意志の強さ、情熱的な説得力のなかに、美しく気高い女性的な美音の追求があります。前へ進むことに恐れを抱き、孤独に耐える切ない命の喘ぎが聞こえる。重荷に服従しない精神の戦い。炎のような啓示をうけるピアノの霊感。このなかには、その後の多くの楽曲の着想が見受けられます。溢れ出る奔流は、誰人も止めることができない。悲嘆のなかに優美さと才気がほとばしる。

    清き悲しみよ! うるわしき大胆さよ! (1798年、28才のときの作品)

    名ピアニスト・ウラディミール・ホロヴィッツは、研究熱心なことでも知られました。彼のレパートリーのなかでのベートヴェン解釈は、ロマン的色彩が濃いように思えます。スケールの大きさ、際立ったテクニックの粒立った音の濁りのなさは、流れるように優美で心地よく、個性的でありながら魅力的な美しさです。わたしの好きなピアニストの一人です。


    われらの衷(うち)なる道徳律と
    われらの上なる、星辰の輝く空! カント !!

    Beethoven♥



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    Copying Beethoven(敬愛なるベートーヴェン)06年公開



    今回改めて映画を見ました。演奏シーンに涙が溢れました。少しでもベートーヴェンの心の奥、内面に迫りたくて、わたしの非力、無能な想像力をフル動員しました。
    今年は、この記事更新が最後です。読んでいただきありがとうございました。
    皆さまにとって、慶びに満ちた一年でありますように、お祈りいたします☆彡


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    ♡Comment

    ポラリス | URL | 2017.12.31 22:00
    ハイサイ、ポラリスです。今回の本流にはいくつものドラマがありました。私は新聞啓蒙は否定しませんが、新聞は本人が読みたければ取ればいいのです。
    所詮、新聞は新聞です。法華経の智慧にもありましたが、一生成仏抄に「心性を感じなければ無量の苦行になる」とありました。今の数を追う活動はまさしく苦行、いくつくところ止観には雖学仏教・還同外見と同じになるとありました。心性を感じなければいくら題目を上げても、悩み苦しむ人の心には寄り添えません。心性を感じて題目を上げれば自己の仏性を開き相手の仏界を開く事ができると確信しました。折伏の過程で高熱を出し夏風邪と思いきや、なんと骨髄腫の疑いがあり、骨髄を取り精密検査の結果99%問題ありませんとの事、定期検査と1%の可能性はあるものの宿命転換を確信できました。
    悩み苦しんでいる人はいないのかと思った瞬間携帯が鳴ったのです。それが今回の本流です。心性を感じれば相手の仏界を開くことができるのです。3.16をめざして本流したいと思います。我々の目的は悩み苦しんでいる人々に心性を感じさせて仏界を開かせていく事だと思います。ベートーベン感動しました。信心そのものですね、来年も宜しくお願いします。対合衆のポラリスより
    アンナ | URL | 2018.01.01 16:14 | Edit
    明けましておめでとうございます。
    ポラリスさま、コメントありがとうございます。

    すごい体験ですね。妙法への確信をさらに深められたことでしょう。他者への働きかけは、同時に自分自身の命の浄化ということですね。

    「雖学仏教還同外見」
    末法の信仰者が陥りやすい罠ですね。用心しなければなりません。

    本年もよろしくお願いします。
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