完成の未完成

    The 12 million members of Soka Gakkai International (SGI) around the world embrace Nichiren Buddhism, a dynamic philosophy grounded in the realities of daily life. This Buddhist practice leads to empowerment and inner transformation or "human revolution" which enables individuals to take responsibility for their lives and contribute to building a world where people of diverse cultures and faiths can live in peace.
    Nichiren, a 13th century Buddhist reformer, based his teachings on the Lotus Sutra and its core message of the dignity of all life. According to this sutra, all people possess and can manifest the Buddha nature–an unlimited, inherent life state of freedom which enables them to create value out of any situation.
    The core philosophy of the SGI can be summed up by the concept of "Human revolution." This is the idea that the self-motivated inner change of a single individual positively affects the larger web of life and results in the rejuvenation of human society. The SGI movement has its roots in the life-affirming philosophy of Nichiren, a Buddhist monk who lived in 13th-century Japan.
    Nichiren felt passionately that Buddhism should enable people living in the real world and facing real problems to become empowered and change their lives for the better. Nichiren Buddhism stresses the profound connection between one’s own happiness and the happiness of others. The greatest personal satisfaction and fulfillment in life is realized by working for the happiness of others. Nichiren’s teachings assert that each individual, regardless of gender, ethnicity, capacity or social standing, has the power to overcome life’s inevitable challenges, to develop a life of great value and creativity and to positively influence their community, society and the world.
    Nichiren’s philosophy originates in the teaching of Shakyamuni, the historical founder of Buddhism who lived in India some 2,500 years ago. Nichiren discovered that the Lotus Sutra contains the heart of Buddhist teachings and the truth to which Shakyamuni was awakened. This sutra reveals that a universal principle, the Buddha nature, is inherent in all life. It affirms that all people are capable of manifesting the state of enlightenment.



    ContentServer_thumb.jpg我々がレオナルドに学び、継承していくべき第一の点は、「自己を統御する意志」ということではないでしょうか。レオナルドは独立不羈の自由人であり、宗教や倫理の規範から自由であるのみならず、祖国、家庭、友人、知人といった人間社会のしがらみにも束縛されぬ、孤高の世界市民でありました。ご存じのとおり、彼は庶子であり、独身を貫いたその生涯から、家族の痕跡を見いだすことは稀で、祖国フィレンツェ共和国への愛着もまた、はなはだ希薄でありました。祖国での修業時代を終えると、躊躇なくミラノへ赴き、君主イル・モーロのもとで十数年を過ごす。君主の没落後は、短期間、チェーザレ・ボルジアと組んだあと、フィレンツェ、ローマ、ミラノと居を移しながら我が道を歩み続け、晩年はフランス王の招きに応じ、かの地で生涯を終えています。
    彼は、決して冷淡な人間ではなく、徳性に欠けるわけでもなかったが、その一生は、ともかく己の欲するところに、ひたすら忠実な"超俗"の風格に貫かれております。いかなる挙措や出処進退にあたっても、レオナルドは、祖国愛や敵味方、善悪、美醜、利害などの世俗的規範には、ほとんど関心を示さず、それらを超出した境地を志向し続けている。名誉や金銭をもっての誘いなど、どこ吹く風とし、さりとて権力の意向にあえて逆らおうともせず、己が関心事のみを追い続けるその歩みは、二君に仕えずといった世俗的倫理とはおよそ無関係でありました。
    "謎の微笑"を浮かべる優美な女性像「モナ・リザ」の作者は、同時に、鬼神もひしぐ猛々しい戦士たちがせめぎ合う「アンギアリの戦い」の作者でもありました。流水の模様に目を凝らし、植物の生態を見つめ、鳥の飛翔を分析するレオナルドは、同時に死刑囚の顔を食い入るように凝視し、解剖のメスを振るうレオナルドでもあったのであります。ともかく、世間の常識や規則では、推し量ることのできぬ巨大なスケールの持ち主でありました。そして、世俗的規範を超出しゆくその自在さは、まさに自由人にして世界市民の精髄をのぞかせており、イタリア・ルネサンスならではの伸びやかで活気に満ちた時代精神を、独自の風格に体現しております。その超出を可能ならしめたものこそ、類まれな「自己を統御する意志」であったのではないかと、私は思うのであります。「自分自身を支配する力より大きな支配力も小さな支配力ももちえない」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』杉浦明平訳、岩波文庫)と述べているように、彼にとっては、どう自己を統御するかが万事に先立つ第一義的課題であり、その力が十全に働いていさえすれば、いかなる現実にも自在な対応が可能であり、現実次元の向背、善悪、美醜などは、二義的、三義的な価値しかもたない。彼は、かつての主君イル・モーロを滅ぼしたフランス王の招きにも平然と応じていますが、傍目には、それが志操一貫に欠けるように見えても、この巨人に関しては、無節操とは似て非なる、寛大な度量の大きさを物語っているようであります。
    こうしたレオナルドの"超俗"のかたちは、仏法で説く「出世間」の意義に親近しております。「世間」とは差別(違い)を意味する。「出世間」とは、すなわち利害や愛憎、美醜や善悪などの差別を超出して、それらへの執着から離れる意義であります。仏教の最高峰といわれる法華経では「令離諸著(諸の執着から離れさせる)」等と記されております。とはいっても、仏典の極理に、「離の字をば明とよむなり」とあるように、単に煩悩への執着を離れるのではなく、超出したより高い次元から諸の煩悩を明らかに見て、使いこなしていく、強い主体の確立こそが、「出世間」の真義であります。ニーチェのような"善悪の彼岸"の住人が、「レオナルドは東洋を知っている」と喝破しているのも、こうした"超俗"のかたちへの親近と無関係ではないと思われます。その親近は、仏教にあっても、レオナルドにあっても、"超俗"及び「出世間」の心が、しばしば鏡に譬えられている点からも察することができます。この「自己を統御する意志」ということで、ロシアの文学者メレシコーフスキーのレオナルド伝に、私の忘れ得ぬ一幕があります。
    この評伝は、作者の想像力による創作部分も多いようでありますが、主君イル・モーロ軍がフランス軍に滅ぼされる戦闘の様子を、レオナルドが愛弟子とともに丘の上から眺めているこの部分は、いかにもレオナルドらしい面目を躍如とさせており、迫真力もって迫ってまいります。「彼らはもう一度、砲火を交じえている遠い煙の塊を眺めた。今その煙は無限の平野の末に、おそろしく小さいものに見えた」(『レオナルド・ダ・ヴィンチ――神々の復活』米川正夫訳、河出書房新社)「祖国、外交、名誉、戦争、国の興亡、国民の叛乱――人間にとって偉大に、物々しく思われるこういったこともすべて、永遠のはればれしい大自然のなかにおける、あの一団の煙に等しいではないか?夕日の光に溶けていく煙の一小塊と、何ら択ぶところはないではないか?」(同前)と 。まさに、統御された心の鏡に映し出された、みすぼらしくも矮小な戦争の実像であります。「宇宙的ヒューマニズム」の巧まざる顕現であります。
    私どもは仏法を基調にして、国連支援をはじめ、様々な平和・文化運動を推進しております。それは、端的に、「人間革命を第一義に社会の変革へ」と標榜しておりますが、レオナルドにおける「自己を統御する意志」は、私どもの「人間革命」と深く通じていると私は信じております。制度や環境など、人間の"外面"にのみ、目を向け続け、あげくの果ては民族紛争の噴出する惨憺たる結末を迎えている、世紀末の人類にとって、自己の"内面"をどう統御するかというところから出発するレオナルド的命題は、ますます重みを増してくるであろうと、私は確信しております。
    第二に、レオナルドにおける「 間断なき飛翔」ということを申し上げておきたい。
    人間が鳥のように大空を飛翔することは、あまりにも有名なレオナルドの夢でありましたが、彼の魂もまた、生涯を通して「間断なき飛翔」を繰り返しておりました。
    「若いうちに努力せよ」(以下、『レオナルド・ダ ・ヴ ィンチの手記』杉浦明平訳、岩波文庫)「鉄が使用せずして錆び、水がくさりまたは寒中に凍るように、才能も用いずしてはそこなわれる」「倦怠より死を」「ありとあらゆる仕事もわたしを疲らせようとはしない」等々の言葉は、この天才がまた希代の努力精励の人でもあったことを物語っております。「最後の晩餐」の制作中など、日の出から夜遅くまで、飲まず食べずで仕事に没頭しているかと思うと、三日も四日も絵に手をつけずに、行きつ戻りつ思索にふけり続けることもあったという。この、すさまじいばかりの集中力。にもかかわらず、こうした創作への執念とは裏腹に、レオナルドの創作で完成されたものは、周知のように、ごく少ない。絵画においても、極端な寡作のうえ、そのほとんどが、未完成のままであります。「万能の天才」らしく、そのほかにも彫刻、機械や、武器の製作、土木工事など、驚くべき多芸多才ぶりを発揮しておりますが、見果てぬ夢でしかなかった人力飛行に象徴されるように、おおむねアイデア倒れ、意図倒れに終わっているようであります。特徴的なことは、レオナルドは、それに何ら痛痒は感じないらしく、未完を苦にするのでもなく、未練をもつ様子もなく、恬淡として、他へと念頭を転じてしまうのであります。傍目には未完成に見えても、おそらく彼には、ある意味で完成しているのであり、いわば「未完成の完成」ともいうべき相乗作用であったにちがいない。そうでなければ、創作への執念と、おびただしい未完成との落差は、理解に苦しむといえましょう。しかし「未完成の完成」は、同時に「完成の未完成」であった。
    ルネサンスの時代精神は、「全体」「総合」「普遍」などと形容されますが、レオナルドにあっても、無限に広がり生成流動しゆく、宇宙生命ともいうべき全体性、普遍性の世界――かつてヤスパースが「一切がそれに奉仕せねばならぬ全体」と呼んだ包括的な世界が、まず予感されていたはずであります。創作活動とは、絵画や彫刻であれ、工作機器や建築、土木の類であれ、そうした全体性、普遍性の世界を、巨腕を駆使しながら個別性のなかに写し取ってくる創造の営みでありました。すなわち、不可視の世界の可視化であった。従って、いかに完成度を誇る傑作であっても、個別の世界の出来事であるかぎり、未完成であることを免れえない。人はそこに安住していてはならず、新たなる完成を目指して「間断なき飛翔」を運命づけられているのであります。
    ブッダが最後に残したのも、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」という言葉でありました。大乗仏教の精髄も、「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(「聖人御難事」御書1190頁)と、更にまた、「譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし」(「一生成仏抄」御書384頁)と、生命の本然的なあり方を示しております。「未完成の完成」から「完成の未完成」へ ――ゆえに両者の相乗作用とは、ダイナミックに生成流動しゆく生命の動き、現実の動きそのものといってよい。
    「経験の弟子レオナルド・ダ・ヴィンチ」(杉浦明平訳、前掲書)と宣言し、一 切の先入観を排して現実の動きを凝視し続ける彼は、従って、現実を固定化してしまいがちな言語の働きには、不信と敵意すら抱いていた。「絵画」を強調し、「言語」を難ずるレオナルドの特異な言語批判は、私に、大乗仏教・中興の論師である龍樹菩薩の洞察を想起させるのであります。
    彼もまた、仏教の根本を成す"縁起の法"すなわち"空"に関して、「滅することもなく、生ずることもなく、断滅もせず、恒常でもなく、単 一でもなく、複数でもなく、来ることもなく、去ることもない相互依存性(縁起)は、言語の虚構を超越し、至福なるものであるとブッダは説いた」と称えながら、現実の固定化、実体化に陥りがちな言語の虚構性を鋭くえぐり出しております。言語による固定化が、完成と未完成のダイナミックな相乗作用を失わせ、かりそめの「安定」を恒久的なものと錯覚させてしまうのであります。
    レオナルドも龍樹も、そうした「 安定」は 、易きにつこうとする怠惰な精神の格好の温床となるであろう、と警鐘を鳴らしているようであります。「性急は愚かさの母である」(下村寅太郎『 レオナルド・ダ ・ヴィンチ』 勁草書房)とのレオナルドのさりげない箴言も、こうした背景のもとで初めて、秀抜なる光彩を放ってくるのではないでしょうか。それはまた、言葉によって描き出されたユートピアの青写真を実体と錯覚し、そこへ向けて「性急」に走り続ける、急進主義の危険性をも照射しております。あらゆる政治的、社会的諸問題と同様、国連の活性化にあたっても、急進主義は禁物であります。それは国連への「過信」であり、「過信」は、ちょっとしたつまずきで、容易に「不信」に転じてしまう。その結果、"ゆあみの水と一緒に、子どもまで捨ててしまう"「愚かさ」を 犯すことは、必定でありましょう。レオナルド的歩みの必須なるゆえんであります。
    ***抜粋***

    池田大作<レオナルドの眼と人類の議会>
    ボローニャ大学での講演/1994年6月1日

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