自分の道を見つけること

    東洋の智慧を語る『現今、西洋においても、「知」のパラダイムの転換がおきつつありますね。たとえば、「機械的世界観」から「生命的世界観」へ、「要素還元主義」から「全包括主義」へ、「不連続な自然観」から「連続的自然観」へなど、いずれも、東洋の総体概念に親しい方向性をもっております。
    そして、社会、経済、科学、技術等の多くの分野で、エコロジー、ゆらぎ、自己組織化、ホロン、ホメオスタシス、シンビオシス(共生)など、万物の「共生」を志向するキーワードが用いられ始めました。
    新しい「世界の秩序」も現象がはらむ統一性と多様性を同時に理解できる総合思考モデルを根本に構想していかなければなりません。
    私たちは、一見、矛盾する要求に応じていかなければならないのです。すなわち、一つの地球文化を築く一方で、多様なる地域文化を発展させていく必要があるのです。
    情報と資本のグローバル化が急速に進行する現在の世界では、西欧的な価値にもとづく単一性が強まり、同時に、そうした流れに乗り切れない国々や地域が疎外され、差異が分裂を引きおこしております。
    しかし、どの文化も、異文化と出会うなかで、新しい創造を行ってきました。とくに近代においては、「欧化か、土着か」「進歩か、伝統か」といったジレンマに真摯に対峙することが、文化創造の主たる原動力となってきたのです。
    その意味では、「文明の衝突」という事態は、あらためて驚くようなことではありません。とくに東洋は、そうした衝突を乗りこえる豊穣な「智慧」を培ってきたのです』


    『東洋の智慧を語る』(2002)
    季 羨林(北京大学教授)
    蒋 忠新(中国社会科学院教授)
    池田大作


    先生の論文や対談集の重要性について、会員がまず知らなければならないわけですが、十分に内容を熟読し、その素晴らしさを理解している人がどれだけいるのか疑問がないわけではありません。会合等で幹部から解説していただいたことは一度もありませんし、平和団体としての学会の在り方について、そろそろ発想のコンバートが必要なときにきているのではないかと考える次第です。当然と言えば当然ですが、先生のみがはるか先に進み、会員はついて行くだけで精一杯という気がしないでもありません。中心幹部でも読んでいる人は少ないということでしょうか。きっと活動が忙しすぎるのでしょう。
    先生はいつでも、事象として、世界を取り巻く諸問題の根本的な原因を明らかにし、正しい仏教実践者の行動と洞察から導かれた人間の生命傾向に言及しながら、ベースになる視点と問題の輪郭をクリアに提示してくれます。こんなことを言うのは、傲慢な言い方だと誤解をされそうですが、先生の知性が多くの困難を乗り越えて、鍛えられた机上の理論でないことの証明だと考えます。
    宗教は元々閉鎖的な側面を、その内部、教義に持ち合わせており、そのこと自体、何ら不思議ではありません。そもそも哲学は、日常から離れた形而上的思唯に支えられており、人間の行動を律する規範を定義するためとはいえ、雑多な問題で頭を悩ます生活のなかでは、身近な腹を満たす経済問題と違い、日常的意識の範疇からは遠い。
    宗教は、誰にでも可能な実践方法の探求と提示、倫理面での正当性、さらに大乗仏教にみられるような他者共存の寛容性が、その核心ともいえます。より良く生きるための指針です。御書にもある通り日々月々新たに確信を深めていくことは、宗教の真髄です。「革新」と「確信」が同音なのは、不思議ですね。

    創価の巨大宗教教団としての世論での評価は著しく偏ったものです。政治をはじめ文化的な面においても、影響力を無視できない存在であるにもかかわらず、全く否定的な、そして攻撃的な論調が目立つことに、正当な知識人は違和感を持つと考えます。そして会員がまるでロボットのように、教団に奉仕しているかのような捉え方、百人や千人ではない膨大な会員を擁している教団内部で、会員が意志を持たない操り人形のように、生活を犠牲にしているのではないかといった風評、また先生に対するスキャンダルをでっち上げて、その人格を裁判官になったかのように断定する不見識な所業、どれをとっても一般会員の信仰履歴のなかでは納得に程遠いものです。メディアにおいてもしかりです。
    信仰は自由な精神の発露であり、強制されたり束縛されたりするものでないということが分からない偏狭な考え方。会員は自由な信仰について、人一倍敏感であり、また個人的な問題に対し、多くの解決の方途を提供してきた確信があり、それは教義上からも導かれる正しい結果でもありましょう。
    いくら立派な宗教といえども、結果が伴わない信仰は、宗教の資格が欠落しているのであり、混乱を招くことはあっても、宗教的使命の実現は困難です。でもそのように考えるのは信仰者の独りよがりかもしれません。いろいろな考え方があり、無信仰であっても、信仰者は寛容でなければなりません。
    宗教的使命ということで言えば、きょうの聖教(16日)一面に、12日の来日以来やっと、ICAN事務局長の交流行事を報道、創価青年部が参加したことを伝えました。一般ニュースとしては取り上げていましたが、消極的報道に終始することに違和感がありました。創価は、国内的に核兵器禁止条約の調印に反対している政党を強く支持していることから、総体的に控えめな報道です。平和団体としての創価の勢力スケールがわかります。純真なピースオーガナイズではないという後ろめたさが垣間見れます。行事の内容はわかりませんが、一般紙を読むかぎり、北朝鮮の核ミサイルや中国のルールを無視した軍事的脅威に触れないのは残念です。もちろん聖教やSGIが問題提起するはずはありません。
    青年部の皆さんは、このような矛盾を、そのまま放置することがないように、宗教的信念を再認識、再確認していただきたいと思います。一貫性を保持することの大切さ、矛盾を放置しない重要性、行動を起こす必要性を、師弟を通して学んだのではないでしょうか。誠実であることが、信仰者としてのなによりの矜持です。現在のように、プライドを失った幹部は社会悪に等しく、将来、創価の精神運動衰退の元凶になる可能性が大きい。拡大も縮小も急に訪れるものではなく、その引き金となる問題の端緒は、いつも目の前にあります。信仰動機の弱体化・無力化は、いくら師弟不二を強調しても止めることはできないでしょう。形骸化が時間とともに進行するように、心の問題としての白法隠没の危機は、現代にこそあるのです。

    寛容は他者共存のキーワード。妙法信仰の肝要であり、菩薩の最重要の徳目に上げることが、これからの世界に最も必要なこと。
    『二十一世紀に入ってからの世界は、キリスト教とイスラム教という二大一神教同士がにらみ合い、互いに相手に負けまいとして声を張り上げ、しかもそれでも足りずに腕力を競い合うという、やっかいな状況になりつつある。このような時代には、一神教徒でないと肩身が狭いような思いになったとしても無理はない。しかしほんとうに、それには確かな根拠があるのだろうか。
    もちろん、自分たちの信ずる神以外の神は認めないからこそ一神教徒である人々にすれば、古代ローマの三十万どころか八百万という日本の多神教は宗教ではないと言うだろう。
    だがこの考え方はあくまでも、宗教は一神教しかないと思う人の考え方である。
    しかも、一神教と多神教のちがいは、一人と多数という神の数にあるのではない。最も本質的なちがいは、一神教には他の神々を受け容れる余地はないが、多神教にはあるというところにある。要するに、他者の信ずる神を認めないのが一神教で、認めるのは多神教なのだから。
    そして、ここが最も重要な点なのだが、信仰という行為が多くの善男善女にとって大切なことである以上、他者の信ずる神の存在を許容するという考え方は、他者の存在も許容するという考えと表裏関係にあるということである。
    これを、多神教時代のローマ人は、「寛容」(クレメンティア)と呼んでいた』

    ***塩野七生「日本人へ」文春新書


    ♡♡♡♡♡♡♡♡クールでゴージャスなテイストに憧れているわたしは、人生も行動も考え方も人づきあいも、クールでいながらハートフルなプレゼンスでありたいと切に願っているのですが、現実はプログラムをダウンロードするように簡単にはいきません。人間だから何事も、プラン通りにいかないのが世の常というものですね。

    わたしたちは自然と言葉を覚えます。幼児における言葉を覚える過程を追体験したいと思っても無理な話です。それと同じように大方の人は自覚する年令に達するとまわりに音楽があることを知るのです。音楽がある生活が当然と思って何も違和感を感じないのです。音楽はたぶん人間の本能の特別な場所で生きるための潤滑剤として作用しているに違いない。
    音楽から受けた感情変化を言葉で表現することはとても難しい。ときには意味のない感嘆詞のみの表現になりかねません。だからというわけではないのですが、音楽を聴いて、考えて、音楽から修得した語彙を、わたしは命のように大切にしたいと考えるのです。ハッピーで美しい人生を神様が与えてくれて、その上に音楽までもが、ドレスのようにゴージャスにわたしを飾ってくれるのであれば、季節の変わり目にあるいはアバンチュールな出来事の後に、悲しみの涙を流した後でも、恋人のように音楽に添い従い愛していきたいと思うのです。音楽の聴き方にマニュアルはありませんが、音楽から得るものはどれだけ人生を豊かにしてくれるか、わたしは疑ったことはないのです。
    音楽はわたしの言葉< Music is my language>わたしの命の言葉。

    高揚とした気分と、厳かな深い癒しの音に、至福のときを、過ごしてくださいませ。汚れることを恐れず、果敢に挑戦する女性に贈ります。天から純白の雪が舞い降りてくるような、歌姫の崇高な願いを聴いてください。
    願いごとが叶おうと叶うまいと、明日も生きていかなけばなりません。
    でも目を閉じてわが身を振り返れば、精一杯にやってきた自分自身を褒めてあげましょう。
    そしてまた、元気を出して明るく一歩を踏み出しましょうね。
    長い長い道のりが、まだこれからも続くのですから。


    So I Could Find My Way
    Enya





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