蓮子(れんし)の泥に堕するは

    阿含経「箭喩経」には、有名な毒矢の譬えがあります。

    マールンクヤプッタという弟子が釈尊に対して、「世界は未来永劫に存在するのでしょうか」「世界には果てがあるのでしょうか」「如来は死後も存在するのでしょうか」などの十問の疑問をなげかけます。
    これらの問いに答えてくれないならば、自分は還俗しますといいます。これに対して、釈尊は次のように答えます。
    『あなたの疑問に対する答えを求めるのであれば、あなたはその答えを得る前に命が尽きてしまうでしょう。たとえば、ある人が毒矢で射られたので、みんなが心配して急いで医者を呼んできて、医者がまず矢を抜こうとしたら、その男が叫んだ。
    「この矢はどういう人が射たのか、どんな氏名の人か、どんな身分の人か、背の高い人か低い人か、町の人か村の人か、これらのことがわかるまではこの矢を抜いてはならない。私はまずそれを知りたい」
    と言うならば、その男の命はなくなってしまうでしょう。あなたの問いはそれと同じなのです。もし世界は永遠に存在するとかしないとか答えることができる人がいたとしても、その人にも生老病死の苦しみがあり、さまざまな憂いや悩みがあるのです。あなたの問いは、人間の本当の苦しみや悩みとは関係のないことです。
    わたしは説くべきことのみを説きます』


    この十の問いを「十難」と言います。
    1.世界は永遠(時間的に)である
    2.世界は永遠でない
    3.世界は有限(空間的に)である
    4.世界は無限である
    5.霊魂と身体は同一である
    6.霊魂と身体は別である
    7.如来は死後に存在する
    8.如来は死後に存在しない
    9.如来は死後に存在しかつ存在しない
    10.如来は死後に存在するのではなく、存在しないのでもない

    『マールンクヤプッタよ、わたしによって語られたことは何であるか:
    マールンクヤプッタよ、「これが苦である」というのが、わたしによって語られたことである。
    「これが苦の集起するところである」というのが、わたしによって語られたことである。
    「これが苦の滅である」というのが、わたしによって語られたことである。
    「これが苦の滅へ向かう道である」というのが、わたしによって語られたことである』

    http://manikana.la.coocan.jp/canon/malunkya.html


    『アングッタラ・ニカーヤ』Ⅲ.67(PTS Text,Vol.1,pp.197-8)
    三の集まり 大なる章 67
    http://manikana.la.coocan.jp/canon/mahavagga.html
    1.比丘たちよ。つぎのような三つが、討論に関することがらである。三つとは何か。
    比丘たちよ。過去の時については、「過去の時に、このようであった」と語らねばならない。あるいは、比丘たちよ、未来の時については、「未来の時に、このようであろう」と語らねばならない。あるいは、今現在に関しては、「今現在このようである」と語らねばならない。

    2.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。比丘たちよ。もしある人が質問されて、断定的に解答すべき問いに、断定的に解答せず、分けて答えるべき問いに、分けて解答せず、反問して答えるべき問いに、反問して解答せず、捨て置くべき問いを捨て置かないならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしくないのである。
    またもし、比丘たちよ、もしある人が質問されて、断定的に解答すべき問いに、断定的に解答し、分けて答えるべき問いに、分けて解答し、反問して答えるべき問いに、反問して解答し、捨て置くべき問いを捨て置くならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしいのである。

    3.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。比丘たちよ。もしある人が質問されて、よりどころとよりどころでないものをはっきりと立てず、仮定とするものをはっきりと立てず、了解した論議をはっきりと立てず、方法をはっきり立てないならば、このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。
    比丘たちよ。もしある人が質問されて、よりどころとよりどころでないものをはっきりと立て、仮定とするものをはっきりと立て、了解した論議をはっきりと立て、方法をはっきり立てるならば、このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人である。

    4.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。比丘たちよ。もしある人が質問されて、矛盾して答え、他の方に話題をそらし、不機嫌になって敵意を示し不信をあらわにするならば、このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。
    比丘たちよ。もしある人が質問されて、矛盾して答えることなく、他の方に話題をそらすこともせず、不機嫌になったり敵意を示したり不信をあらわにすることもないならば、このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人である。

    5.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。
    比丘たちよ。もしある人が質問されて、ののしったり、威圧したり、あざけり笑ったり、口ごもったのをあげつらったりするならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。
    比丘たちよ。もしある人が質問されて、ののしったりすることなく、威圧したりもせず、あざけり笑ったりせず、口ごもったのをあげつらったりすることがないならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人である。

    6.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。
    比丘たちよ、傾聴に値しない人は、喩えて言えない人である。傾聴してよい人は、喩えて言える人である。喩えて言える人であるならば、ただひとつの法をみずから知り、ただひとつの法をあまねく知り、ただひとつの法を捨て去り、ただひとつの法を直観する。ただひとつの法をみずから知り、ただひとつの法をあまねく知り、ただひとつの法を捨て去り、ただひとつの法を直観する人であるならば、正しい解脱に触れるのである。
    「喩え」については、相当の漢訳「説処経」では因縁を意味する「因」と訳出しているが、それは取らず。
    比丘たちよ、このために、討論がある。このために、熟考がある、このために喩えがある。このために、耳あるものを保つのである。こうであれば、執着を離れ心の解脱がある』
    「MANIKANA=HOMEPAGE」石飛道子:訳)


    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


    形而上学的アポリアの、論に論を重ねる無駄な論争に対し、釈尊は警告を説き戒めています。これらの難問は、初期仏典のいたるところに見られ、繰り返し釈尊も直面したものと思います。釈尊の問いに対する姿勢は、常に真摯で、現実を直視し、衒(てら)うことなく、争うことなく、強く固く揺るがない。鋭く厳しい問いに対しても、偽り誤魔化すことなく、質問者と一体となって考え、臨機応変に導き、答えに至る。問いを直ちに肯定し、否定し、整理し、分析し、反問し、設問意図や内容を確認しつつ再考させ、ときには、答えることをしない。沈黙もまた答えなのです。また巧みに譬喩を用いて、ダイナミックにあるいは慎重に真理に導く。智慧ある者が用いる最上の方法で対話し、苦しみの本源に気づかせて、新たな自己の可能性に目覚めさせる。
    不毛な十難に対する答えは拒否し、四諦をもって答えとしました。釈尊において、苦から出発した解脱への道は、この四諦によって、ことごとく完備しています。しかし実践は甚だ難しいでしょう。自己存在は、自己否定と肯定のはざまにあるからです。凡夫に海のように深い智慧を求めるのは不可能です。また金剛石のように固い意思を求めることも不可能だからです。

    池田先生は、理想主義者でありながら、徹底した現実主義者でもあります。どこまでも現実に即し、現実から離れず、現実の問題から目を逸さず、現実のなかで理想実現に努力を惜しみません。日常生活に付属する混乱と平安のなかで、欲望の制御と超克の果てに、主体的な内面把握というプロセスを経て、大いなる自由を獲得しようと努める姿です。
    そういう姿に、わたしは「目覚めた者」の聡明な生き方を見ます。粘り強く対話する生命の大らかさと忍耐強さに、
    『実に自己こそが自分の主。自己こそが自分の依りどころ』
    と謳う行為の主体者としての完成を見ます。業と責任を負い、法に帰依しながら法を普遍的位置まで昇華した規範を見ます。動揺も偏向もない中道の歩みは、実践への深い決意を促して、師弟へのロイヤリティーを、わたしたちに求めているのです。

    「創価ルネサンス」は組織の弛まない改革と同時に、人間変革のスローガンであり、永遠の信念であり、再生へのシナリオです。スタートでありながらラストまで行き着くことがない、会員に課せられた現実的テーゼです。
    わたしは、誓願の菩薩になることができますでしょうか?
    自分のことなのだから、このような問い自体、無意味ですね。
    それに誰も答えてくれそうにありませんもの。


    折伏はどうあるべきなのだろうか、という課題は、学会が大きくなり社会への影響が拡大するにしたがって、そのあり方を巡り試行錯誤されてきたと考えます。それは永遠の課題のようにわたしには思われます。しかし、慈悲を根本とする精神においては変わらないものと考えますが、会員のなかで、一時代前の折伏闘争が学会の折伏のやり方だと考える人がいたら、時代錯誤も甚しいと言わざるをえません。
    でも、万人を救う誓願を立てるのが、大乗の菩薩です。折伏を第一使命とすることは、当然のことです。草創の先達・多くの祖父母は折伏の強者ですが、何事にも動じない精神の堅固さと、自由自在の境涯は、冥益と言われる折伏の功徳の賜と思います。
    戦後、戸田先生によって学会が再建されたときから、折伏闘争が始まったと言ってもよいでしょう。池田先生が会長に就任されてから、その勢いはさらに増し、学会が宗教界の一大勢力になったことは、戦後史の重要なエポックとして、もっと研究検証されなければならない事項だと思います。
    しかしその反面、社会との接点で多くの軋轢やトラブルを生みました。他宗を攻撃する、一見すると排他主義的信仰は、使命感に立った他者への働きかけであったとしても激しいものでした。池田先生は若き日を述懐し述べています。
    『一般会員の強引さや、情熱にまかせて壮士気取りの青年たちの言動に、ひそかに強い反撥を抱いた』
    感情的な布教活動を行い、本来の折伏精神とはかけ離れた、いき過ぎた戦闘的態度が批判を浴びました。もうそのような、相手の意向を無視した折伏は通用しません。これからは寛容の精神こそ、最も心得なければならない信仰者の徳目です。

    開目抄に、
    『無智悪人の国土に充満の時は摂受を前きとす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者の多き時は折伏を前きとす』とあります。
    現実では、厳格に摂受と折伏をたて分けて意識しているわけではありません。摂受も折伏も法華経の一部なら、どちらも否定すべきでなく、どちらも活かしていくのが妙法です。対話的、教育的、非応戦的な布教方法は摂受です。
    いつも感じることは、信仰世界だからといって聖なるものが行動規範になっていないということと、世俗的な人間関係に左右されて、信仰という観点からの洞察や反省が疎かになっていること。また組織の無謬性を疑いもなく信じてはいませんが、自分で考え判断し、行動していく自主的自律的信仰者が少ないということ。むしろ、一見すると、現在の一時的な安定期とも考えられそうな組織の停滞において、尚のこと危機感を持たざるをえません。でも、個々の会員においては、純真な信仰を維持しているのであり、問題意識が低くても、ご本尊対個人の基本的な信仰姿勢においては、非難されるべき問題は含まれていないと理解しています。
    でも、大御本尊不受持の問題はなんとかしなければなりません。創価信仰の根源的な根拠を失う事態になりかねません。このことについて先生は一言も明言されておりません。根本であるご本尊にまったく興味を失ったかのようです。惑わし、偽り、欺くという魔のキャラクターから言えば、先生はその一番の過ちを犯しているかもしれません。
    リーダーの不明瞭な姿勢は、無責任の批判も免れませんが、将来に悔恨を残す深刻な状況にもなりかねません。教義上の矛盾は、組織の内部分裂に発展します。鉄桶の団結も教義と道理に支えられています。先生が一番よくご存知のことです。
    大雑把に、祈りが宗教と定義すれば、それは万人が理解し実践できる法に支えられていなければなりません。「即」とは直観の論理であると思います。仏に帰依し、祈りの行為のなかに含まれる内的変化と確信を表すものと思いますが、わたしにはまだ、それを説明し納得していただけるような知識も経験もありません。

    『蓮子(れんし)の泥に堕するは、諸悪に同じて更に病行を修するを誓う』(法華玄義・レグルス文庫)とあるように、泥沼のような社会に飛び込み、現実から離れず、苦しみを共有しつつ祈り行動する。活用の仏教は、自由自在な智慧に基づく主体者になることを促しています。
    しかし、創価青年部の最前線の現状は、やり甲斐があるというようなレベルを越えていると感じています。実際の部員数のわりに、真面目に組織活動している部員さんが圧倒的に少ないからです。それなのに、結果の持続と成果の催促。何かが大きく間違っていると思います。こんなこと、わたしのグチですね。でも、異端に見られているわたしのブログだからいいの。


    「逆襲される文明」日本人へⅣ・塩野七生(文春新書)からの引用 
    『一神教と多神教
    日本人の多くが抱いている、「宗教はイコール平和的」という思いこみは捨てたほうがよい。宗教とは、それが一神教であればなおのこと、戦闘的であり攻撃的であるのが本質である。平和的に変わるのは天下を取った後からで、それでも他の宗教勢力に迫られていると感ずるや、たちまち攻撃的にもどる。そして代表的な一神教は、キリスト教とイスラム教とユダヤ教。
    戦闘的で攻撃的なのが一神教の本質だが、それも彼らにすれば当然なのだ。一神教は、ただ一人の神しか認めていない。ゆえに他の神を信仰する人は真の教えに目覚めない哀れな人とされ、布教の対象になる。だがそれでもまだ目覚めない者は救いようのない『異教徒』(つまり敵)と見なされ、殺されようが奴隷に売られようが当然と思われていた。
    一神教には、異教徒以外にも異端がいる。「異端」とは、真の教えには目覚めていたのだがその後誤った方向にずれてしまった信徒を指す。異教徒が「家の外の異分子」ならば、異端は「家の内の異分子」。イスラム教の側から見れば、キリスト教徒の欧米人もキリスト教徒ではない日本人も、異教徒であることでは同じなのだ。イスラム世界の内でも、シーア派にとってのスンニ派は異端で、スンニ派から見ればシーア派のほうが異端になる』


    聡明な歴史家はこの文章の後に、
    『この一神教の対極にあるのが多神教である。古代のギリシャやローマの人々も多神教徒だったが、現代の多神教国は日本だと思う。(中略)
    ローマ人の「寛容」の精神とは、他者が最も大切にしている存在を認めることにあったからである。日本人だって、お稲荷さんを信じていない人でも境内に立つ狐の像を足蹴にしたりはしない。真の意味の寛容とは多神教のものであって、一神教のものではないのである』

    他宗の仏壇や神棚を謗法払いとの理由で破壊し、あるいは火をつけて燃やした。狐なんてさわるのもいかがわしく、足蹴にして掘った穴のなかにほうりこんだ。日蓮正宗と創価の過去は、実に排他的、しかも暴力的です。塩野先生が知らないだけ。
    ISISが彫像や美術品を、ためらいもなく破壊したけれど、創価の狂信者は神社の鳥居を見ただけで、寒々とした気分になり鳥肌が立つ。あそこには諸天善神ではなく魔が棲みついていると信じているからです。理性をなくすと、何からなにまで、善か悪かに分類したくなってきます。宗教的悪感情は、理性の隷属と常識の非常識化を求めるようです。

    『西洋史上の見事な果実であるルネサンスは、何よりもまず反省から始まった。一千年もの間神さまの教えのとおりに生きてきたが、あれでよかったのだろうか、という疑いを抱いたことから始まったのである。華麗な絵画彫刻や地球を一つにしてしまった大航海は、その反省の後で新しい生き方を求めた人々による成果である。一方、反省することを知らないと、不都合なことが起こるや責任を他者に転嫁するようになる。他者に責任を転嫁していては、自力での前進は望めない』

    自戒も反省もない、また他者への謙虚な姿勢も感じられない幹部会員には、何かを期待しても虚しくなるだけ。世界宗教への道程は考えうるかぎり困難です。
    妙法はどちらかといえば一神教に近いと思う。それは唯一実在の仏身が宇宙の法であることからもうかがえます。言うなれば一神教にたいして一仏教(一仏乗)、汎神論にたいして汎仏論という大乗仏教の前提からも言えるのではないでしょうか。
    この一仏教は、他の神々を教主として一切認めないことから、テロすら日常茶飯の頑迷な保守主義が集う原理主義者を、友好的、平和的に克服していくことは不可能と思えるのですが、気の抜けた楽観主義者は、楽観的過ぎて弘教の至難さを想像できないことでしょう。苦の集起するところで、軟弱な菩薩でも法を説くことが可能でしょうか?
    不軽の本当の試練はこれからですが、果たして今まで、一人でも本物の不軽が現れたのか疑問です。過去は現在以上に、非人間的な過酷な問題に晒されてきましたが、ほとんど武力という戦闘的力によって解決してきました。不軽のような理想は、願望を強く表現した経のなかだけの切ないストーリーなのかもしれません。


    Never Give Up On Your Dreams
    Two Steps From Hell





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