憎悪の克服

    低級なブログは読む気さえ起きてきません。読むと心が汚れたように感じ、虚しい気持ちになるのはどうしてでしょう。得るものが何もないという疲れと徒労感に襲われます。

    2015年、第40回SGI提言「人道の世紀へ 誓いの連帯」から引用します。
    有名な「維摩経」の舎利弗と天女のエピソードです。「排除思想からの脱却」と題した難題ですが、言うことが全部自身に返ってくるというお粗末さ。他人から見れば、舎利弗の執着は、先生の執着に等しく見えます。また、自己へのこだわりを他者へのこだわりへと転換するための想像力が必要と指摘することはたやすいことですが、わたしが気になったのは、そのエピソードの前の文章です。

    『昨今、多くの国々で社会問題になっているヘイトスピーチ(差別扇動)は、ヘイトクライム(憎悪犯罪)のような直接的な暴力を伴わないものの、明確な憎悪に基づいて他者を意図的に傷つけるという点で、根は同じであり、どの集団に対するものであろうと、決して放置してはならない人権侵害です。
    そもそも、差別に基づく暴力や人権抑圧が、自分や家族に向けられることは、誰もが到底受け入れられないもののはずです。
    しかしそれが、異なる民族や集団に向けられた時、バイアス(偏向)がかかり、”彼らが悪いのだからやむを得ない”といった判断に傾く場合が少なくない。事態のエスカレートを問題の端緒で食い止めるには、何よりまず、集団心理に押し流されずに、他者と向き合う回路を開くことが欠かせません』


    自分のことは棚に上げて、と言えばいいのでしょうか、会員にバイアスをかけている本人が、事態のエスカレートを食い止めるために、他者と向き合っているのか、反抗的なわたしでなくても、誰でも疑問に思うでしょう。宗門を日顕宗と揶揄することは、ヘイトではないのでしょうか。大御本尊へのヘイトスピーチも、過去の指導との整合性もあって、堂々というわけにはいかず、弟子に言わせてほおかむりしています。卑怯な人間の常套手段です。

    憎悪は修羅の命です。そして、悪と戦っていると思わせる巧妙な偽装心に、自分自身さえ支配されています。集団心理に流され取り込まれた集団ヒステリーの典型例とも言えます。修羅の命の報復は、自他共の壊滅です。
    聖教で毎日、創価は正しいと主張せずにはいられない理由があります。ほとんどヘイトと変わりない悪の設定と善の主張が、辛うじて会員の注目を惹きつけ創価を生き延びさせています。会員をバカにするから、その報いを受けるのです。また御本尊の意義を変更すれば、信仰の意味も変わってくる。同苦の心など始めから持ち合わせていないのに、眉間にしわを寄せた同苦の顔色を作って嘲笑っているのです。
    憎悪はなにも生み出さない。わたしは憎悪することを憎悪する。不軽が自分自身に課した心得は、どのような誹謗中傷、迫害を受けようと憎悪は持たないという不文律でした。憎悪の克服こそ、永遠の過去に仏に誓った、たった一つの条件であり、暗黙のプロミスでもあるのです。
    賢明な会員のみなさま! 
    人間にとって、最も難しい徳を備えるための、不軽の修行だったのですよ☆彡

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