中国宗教白書 3

    中国における、池田先生の講演の主要な論旨をなす中心に、人間主義思想があることは、今更説明する必要もない自明の事柄です。この漠然とした人間主義の根拠は、仏教の伝統を受け継ぐ法華経至上主義にあることは、会員ならよく知っています。アルティメットな賛嘆は、どの宗教にも見られる平均的な表白ですが、無信仰であることを誇るコミュニズム社会にあって、どうして宗教者の言動が受け入れられるでしょうか。階級的差別がなく個人所有もない建前社会(不道徳社会とも言います)において、個人的動機から始まる信仰が、なぜ認容され、社会科学の問題提起になるのか、そしてその結果として、連続して名誉称号を受けるのか、よく考えてみれば不可解なことです。
    宗教の尊厳に象徴される内的動機、内的革新性は、しいては、社会の変革をうながします。緩やかな漸進性が特色ということは、社会主義のような急進主義を否定するものであり、第一に他者に対する抑圧的品性は、仏教者にとって我慢ならないものです。
    講演では、およそ一般論の展開と、無害な仏教教義の普遍性を強調しながら、社会矛盾に拡大している個別の人権問題を巧妙に避けています。中華思想と社会主義で、強引に世界のルールを書き換えようとしている無法者国家に、妙法の正義も譲り渡している。人間主義者は理念とスローガンを語るだけなのでしょうか。名誉の代償は高価ですね。

    中華民族という概念は、今では国父と言われる煽動家・孫文の説とも言われていますが、漢民族を中心とした多民族国家をまるで一民族であるかのように表記するのは無理があるというものです。中国は世界の中心、最も優れた民族と本当に考えているのでしょうか?
    他を顧みず、自分に都合がよいように主張し行動するのが漢民族の特徴でしょう。

    07年に日本に帰化した石平氏は、色々な事例や事件を引用しながら、次のように結論しています。
    中国人にとって、「神の定めたルール」に気を使う西洋人や良心や美徳を大切にする日本人の行動などは、単なるバカに映っている。
    「そんなものに従って行動していても一文にもならないのに、なぜこだわるのか」
    中国人は、ただただ嘲笑っているだけなのである。
    これは個人レベルの話ではなく、彼らの作り上げた政治も同じである。今の中国共産党政権は、自分たちの「利得」である「権力」を維持していくために、利用できるものはすべて利用している。そして邪魔なものはすべて排除するという原則を徹底している。
    実際、軍隊や秘密警察、宣伝機関をはじめ、共産主義や愛国主義、市場経済さえも中国共産党の権力維持の道具にすぎない。そして、権力維持に邪魔な言論の自由、人権活動、民主化運動などはことごとく抑圧されている。
    国際社会における中国の国家としての行動原理も同じである。中国は国益のために、今まで日本をはじめとした「他国の善意」を利用して莫大な利益を手に入れてきた。しかし、その反面、自分たちの利益に反すると判断すると、国際社会のルールを簡単に破り、他国の善意も平気で裏切ってきたのである。そして、国力が増大すると、ますます横柄になり、国際社会の迷惑や他国の利益を無視して、なりふり構わず自国の国益を最大化するために邁進し続けている。
    結局、個人レベルにしても国家レベルにしても、中国人のやることはまったく同じなのである。
    このような中国人や中国国家に対して、日本の美意識や倫理観、国際社会の共通認識から批判していても、何の意味もないことがわかる。そもそも道徳を不要と考える中国人に「道徳心の欠如」を説いても、仕方がないのだ。むしろ、このような中国人や中国国家を理解した上で、どう付き合っていくべきかが肝心なのである。
    筆者の持論としては、中国人と付き合っていく最善の方策は、できるだけ彼らと付き合わないことである。付き合えば、いずれ損をするのがオチである。たとえそうならなくとも、中国人と付き合っているだけで、多くの日本人は神経をすり減らしてストレスを感じているはずだ。もし中国人や中国企業、中国国家と付き合わなくても何とかやっていけるのであれば、彼らと付き合わないにこしたことはない。
    だが、経済のグローバル化が進んでいる今、中国人とまったく付き合わないのは不可能だ。となれば、やはり一定の距離を置き、あまり深入りしないほうがいいだろう。そして、中国人と付き合う際は、日本人も善意や良心といったものを捨て、中国人に対抗するしかない。「毒を以て毒を制する」という中国の言葉があるように、彼らの「毒」である行動原理で接するのが一番得策ではないだろうか。
    これは、日本の対中外交でも言えることだ。中国と渡り合うには、恫喝も懐柔も含めたあらゆる外交戦略を駆使していくしかなく、「日中友好」などという甘い言葉に騙されず、ときには毅然とした態度で、彼らの圧力をはねのけていくしかないのである。そうすることで、初めて安定した日中関係が築き上げられるだろう』
    (「中国人の正体」宝島社)


    中国社会科学院での講演
    六四天安門事件(1989年6月4日)は、文化大革命の反動ともとらえられます。
    日本史でも、長く続いた江戸時代の鎖国政策から一転して開国し、西洋文明をとりいれたように、またファシスト政権から戦後民主主義へと昭和の混乱期を経験したように、体制が変わる瞬間は、前時代の反動として成し遂げられ、その多くは武力が関係しています。

    鄧小平ら保守派グループと対立していた胡耀邦は失脚。後を受け継いだ民主化に理解を示していた穏健派・趙紫陽も李鵬らと対立するなか、5月15日にペレストロイカ路線を歩むゴルバチョフが訪中。5月17日、最高権力者・鄧小平の判断で厳戒令が敷かれる。
    天安門事件では、文化大革命による行き過ぎた文化破壊の反省から一党独裁への懐疑が生れ、若者が中心となり民主化への運動が高まりました。
    民主化運動に理解を示していた胡耀邦前総書記の死去に伴い、天安門広場に続々と若者が集まり始めたのが発端です。人民解放軍による無差別な発砲による死亡者は数千人とも言われますが、詳細は不明。共産党独裁の建国以来最大の危機であったことは、徹底した弾圧を行ったことでもわかります。
    鄧は、周恩来と同じように日中関係を重視し協調路線であったように思えます。自身の危機を何度か救ってくれた周との間には、同志的信頼感が濃厚に存在していたものと思われますが、特に文革期の周を補佐して経済の立て直しをはかった困難な時期に、無私の宰相の姿から、その天命とするところを間近に学んだことが大きかったのではないでしょうか。鄧は、多文化を柔軟に取り入れる中国的気風を最も感じさせる人物ですが、3回の失脚を経験し、自身の政治的地位を不安定にするようなクーデターには、特に敏感だったと考えられます。
    鄧の後継者・江沢民は、92年に主席に就任するころから、強力な愛国主義教育を掲げて反日運動を徹底しました。これには矛盾する自虐的歴史認識があり、鄧小平の歴史観とは相違し、共産党が抱える諸問題と国内問題から目を逸らすための巧妙な政治的策略と言えます。現在のあからさまな覇権主義も、その根源を訪ねれば、愛国主義が生んだ過剰な自己肥大でしょう。偏狭なナショナリズムが長続きした例はありません。必ず反動的に世界から拒否され、混乱に陥るでしょう。しかし、民主化や国家に対する批判的意見は認められない体制にあって、基本的に現在の習近平政権にも愛国教育は引き継がれています。反日教育は天安門事件で健在化した民主化運動を封じ込めるために、共産党指導部のきわめて差し迫った検討と結論があったと思います。

    このような状勢のなかでの池田先生の中国社会科学院での講演(92年10月)は、中国共産党からの信頼であり、漢民族からの信頼でありましたが、一歩間違えば講演自体、不可能だったかもしれません。豊かな歴史と奥深い文明、アジアの源流と形容してもよい思想哲学、あるいは人間像の風格と深淵さに着目し、その現代的展開の影響の大きさと役割を論じようとしたのではないでしょうか。でも、今となってはその成果があったかどうか、大変疑わしい。結果として変化へのヒントになりえなかったように思えます。
    講演は釈尊の対機的説法に通じるものです。問題提起による自己の覚醒、善性とその反対にある悪性との格闘への勇気、そして、自己への限りない信頼のうえに立った苦しみからの解放。誰もが平等に仏性を秘めているという菩薩観、しいては人間主義への信頼でしょうか。
    10月の講演に先立つこと8ヵ月前、先生は「不戦世界を目指して」とのテーマで、ガンジー記念館記念講演を行っています。時間はさかのぼりますが、わたしには社会科学院で行った講演の続きのように感じられます。
    「ガンジー主義と現代」と副題がありますように、ガンジーの非暴力について論じられたものですが、このなかでは、わたしたちが受け継ぐべきガンジー主義を
    「楽観主義」
    「実践」
    「民衆」
    「総体性」
    というキーワードで要約しています。
    「実践」というなかで、わたしが考えていることを的確に表現した一文がありましたので引用します。

    『「実践」とは、善なるものの内発的な促しによって意志し、成すべきことを成し、かつ自ら成就したことの過不足を謙虚に愛情をもって検討する能力とはいえないでしょうか。
    積極果敢な行動の人である彼(ガンジー)は、同時に現実への畏敬と謙虚な姿勢を忘れない。自らを唯一の正統と思い込む居丈高な心からは、最も遠かったはずであります』


    平和への志向という観点から考えれば、大同思想もガンジーの非暴力も、まったく同じものと結論しても無理はないでしょう。大同思想を、毛沢東が自分好みに取捨し分解したのが気に入らないのですけど。孔子のユートピアも共産化されて、毛沢東というセクシュアルな魔人も本物の孔子にはなれませんでした。しかし、「自らを唯一の正統と思い込む居丈高な心」、創価を皮肉る創価って、どういう風刺でしょうか。謙虚に愛情?
    そして、ガンジーがロマン・ロランと対談したおりに語った言葉は、共産主義への警鐘です。平和は漸進的に進むとの固い信念に支えられていたガンジーからすれば、あらゆる急進的イデオロギーは否定の対象に他なりません。

    『ロシアで起こっていることは謎です。私はこれまでロシアについてはほとんど語りませんでしたが、ロシアの経験が究極的に成功するとは思えません。あれは非暴力主義に対する挑戦のように思われます。それは成功しそうに見えますが、その背後に力(暴力)があります。社会をその狭い通路のうちに保つのに、その力がどのくらいのあいだ有効なのか私には分かりません。インド人がロシアの影響をうけた場合には、極端な不寛容へとみちびかれることになります』<ロマン・ロラン全集>

    31年のロランとの対談は、60年後のロシアの未来を予言しています。人類的社会実験などときれいごとを言っても、マルクス・レーニン主義が必要とした犠牲はあまりにも大きかったということです。また中国も一貫して「極端な不寛容」の政策を維持してきたことは、あらゆる場面で弾圧と統制を謀り、暴力と犠牲の歴史でありました。そのなかで、最も悲惨な犠牲を強いられたのは、政治的には弱者であった少数民族です。同化、解放と言いながら実質は、排他的民族主義の身勝手な理論による人間性否定の暴力です。この醜い素性の延長上に、現在の宗教弾圧があります。不寛容とは自由を制限し憎悪することですが、宗教の寛容性はその制限からの解放運動です。
    社会科学院での講演に先立つインドでの講演を、中国知識人は知っていたと思いますが、彼らにとって耳の痛い講演だったはずです。
    しかし、先生がそのような決意と深意で臨まれた講演にどれほどの人が反応したか、自分のことと感じたかは疑わしい。当時の胡縄院長は共産党幹部であり、保身の鑑に比するコミュニストです。声聞の傾向性は、逆説的な言い方をすれば、他の優れた声を聞くことに抵抗を覚える命。釈尊が二乗を厳しく指弾したのは、まさにそのような不純な耳を指摘することだったとも言えます。

    社会科学院での講演で先生は、「名」と「実」の整合性を求める孔子の言葉を紹介し、仏法へと敷衍しています。20年近く前の批林批孔運動で、反革命の象徴、復古主義者であると批判された孔子を持ち出し、仏教と対照する新鮮さがありますが、和諧社会という民族色が色濃い社会主義のキャッチフレーズも、つまりは儒教の中国化ですから、伝統への敬意は依然として希薄です。真の和諧社会を目指すなら、なぜ宗教弾圧するのか疑問です。
    『ここで私は、孔子の言葉に、天台智顗が「法華玄義」で述べている「劫初に万物名無し聖人理を観じて準則して名を作る」との言葉を対置してみたいと思います。
    儒教と仏教との違い、そして孔子の場合は「正名」による秩序への模索であり、智顗にあっては「作名」による秩序の創出であるというニュアンスの相違こそあれ、「名」というものを重視し、万象が織り成す秩序の”画竜点睛”としている点では共通しております。
    これは、極めて中国的現象であります。同じ大乗仏教でも、インドを代表する龍樹は、「中論」に見られるように、「名」によって構成される「分別」と「差別」の現象世界を突き抜けた、「無分別」「無差別」の世界への志向性が強い。いうなれば「世間」を出づる「出世間」への傾斜であります。ところが智顗にあっては、そうした「出世間」の「解脱」の境地を踏まえつつも、そこから更に「世間」へと還ってくる。つまり「出・出世間」というベクトル(力の方向性)の転換がなされているのであります。ともに仏法者らしく、世界宗教としての普遍性を求めつつも、龍樹と違って智顗は、その普遍性を具体的な現象世界に即して展開していったということであります。私はそこに、東アジアの精神性の反映が、はっきりとうかがえると思います』


    さらに、継承的発展と論を進めて
    『ちなみに、大乗仏教の真髄では、智顗の「法華玄義」の文を釈して、こう述べております。
    「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」<当体義抄>
    前半部分は「法華玄義」を受けて「作名」の次第を述べており、それに続く「妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し」が智顗の「一念三千論」を踏まえた存在論の要約であることは、先生方に申し上げるまでもありません。
    また「修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」とは、人間いかに生くべきかの機軸となる修行論、価値論であります。社会的実践を強く促している点で、エートスというにはいささか実践性を欠いた天台仏法の弱点を補完しているといってよいかもしれません。その意味からも、存在論と価値論とを併せ具えた宗教的世界観の、雄勁にして断固たる表白を成しているのであります』


    事理を明確にしても、中国知識人には、鎌倉時代の宗教家に抵抗があるでしょう。日本から何かを学ぶなど言語道断。社会主義イデオロギーが個の実践と成果、仏法的に言えば、個人における因行と果徳の二法を極端に嫌い、可視できない宿業論を認めたくないからです。弁証法的唯物論こそ邪悪の思想です。
    「中国的現象」である出・出世間は、くだけた言い方をすれば人の道、つまり倫理ということ。孔孟思想から発展させ、普遍的仁愛を説いた墨子の伝統こそ、現代に最も必要とされる倫理ではないのでしょうか。中国が生んだ偉大な人類遺産のエッセンスは、今では古物商の店先に値札をつけて売られている。古いものであれば何でもプラクティカルに換金するのが漢民族の正体です。鄧小平は改革開放で、良い意味でも悪い意味でも中国人の欲望も開放しました。
    「名」を付けることによって秩序が生まれ、「名」を「作る」ことによって諸法の根元が明らかになる。また「作る」ことは仏因であり、下種とは「名」を「作る」ことだったのですね。
    あらゆるものの意味を求める人間は「名」をつけることによって意味を確定し、混沌から秩序を構築する。「解脱」などという言葉はとても非合理です。経典で説きながら現実的に解脱した人間を見かけることが難しいからです。キリスト教の「救済」と意味が重なる。なぜ祈れば幸せになるのか、その根拠は簡単に説明ができない。出・出世間は非合理と合理的世界を行き来して、なぜ幸せになるのか、なぜ苦難に遭わなければならないのかを、論理的に説明してくれるかもしれない。また出・出世間は、宗教の目的である超越性と、内面からの変革性と言いかえることができるでしょう。


    中国化…「悪霊」が地上に舞い降りたとき
    改革開放という中国式ペレストロイカが、経済のみの限定改革であったのは、マルキシズムの中国化ということだろうか。共産主義が、伝統的なキリスト教のユニバーサリズムを源泉とすると述べたのはトインビー博士です。中国化は13億以上の人民を飢えから救うユニバーサリズムの適用なのかもしれません。中華思想はなんでも自分たちのために、中国化というイデオロギーの上書きを忘れないのです。
    鄧小平は結果として最も信頼する胡耀邦、趙紫陽という部下を失うことになる。天安門事件のとき、そのまま民主化を進めていれば、中国はソビエトと同じように崩壊していたでしょう。鄧が恐れたのは何よりも、国家の混乱と、内戦で再び国家が失われることだったように思えます。矛盾はあっても、安定した国家維持が民衆の願うところであり、それが周恩来が鄧に託したことだったのではないでしょうか。
    マルキシズムそのものを体現していたと思われるレーニンは、私利私欲のない人だったと言われています。しかし崇高な目的達成のために、倫理上の大きな過ちを犯し、暴力行使の手段の正当化を行ないました。「悪霊」が地上に舞い降りたとき、権力悪という紅い天使が人権をことごとく奪いました。共産主義には元々、手段に対する理念性が希薄であり、生存すら脅やかしかねない欠陥が顕著に内包されていると思います。革命思想の根底には、人間の善性を信じる力と自己超克の宗教が必要ですが、どのような宗教であれ、弾圧しようと身構えているコミュニストには、今でもきっと悪霊が取り付いているのです。そして寄生虫のように、国民一人一人の運命にも喰らいついているのです。

    社会科学院での講演を、会場にいた学者や研究者がどれだけ理解できたか疑問です。彼らは、チベットやウィグル自治区における人権蹂躙を十分承知しているのであり、先生が「出・出世間」という重要なテーマを提案し、イデオロギーに左右されない人間の良心に呼びかけても行動を起さなかったことを考えれば、体制に迎合した不健全な個人主義的二乗の卑しい根性がわかるというものです。釈尊が生きた昔から、二乗は徹底的に、その腐った命を糾弾され続けているのです。将来、中国共産党が滅びるとき、彼らは一斉に、わたしに責任はないと自己弁護を繰り返すのでしょう。今やるべきことに口を閉ざし未来にツケをまわす者を卑怯者という。
    知識人クラスとして社会から一定の尊敬を受け、民衆と国家の間にあって果たすべき役割は、共産主義の絶対化に奉仕することではなく、またその奴隷となり不正と腐敗が横行する党中央と特権階級への関心を他に逸らすことでもない。社会科学とは、人間のための普遍的価値と、正しい行動基準を追求する学問分野ではないでしょうか。国家に忠誠を誓うための学問なのでしょうか。
    どのような学問であれ、研究成果は自由な社会建設に役立たなければならない。差異を越えて、幸福と正義を擁護し、倫理と善なる理想を実現する教育的財産にならなければならない。
    先生への顕彰は、もちろん国家的意図があります。それは覇権を至上命令とする利己的支配の目的の一部であり、基本的人権を護る立憲主義、民主主義否定を招来するような危険思想が根底です。同時に平和主義者、人権擁護者の期待を裏切り講演を汚しているものだと思いますが、彼らの流儀に従えば名誉などいくらでも生産できます。紙と筆があればいいのですから。

    先生が望まれていたことは、名誉などではなく講演で示された中国古来の徳目である大同精神と共生のエートスの体現であるということ。しかし、その体現者はどこにもいません。
    民間外交だからこそ、キレイごとばかりではなく、主張すべきは主張し強いメッセージのなかに、安全保障と平和を担保する仏教徒としての姿勢が必要と思います。とるべき方法と覚悟はいくらでもあります。勇気とは積極的な覚悟のこと。
    仏教の伝統的な寛容精神、中道に支えられた理念が、第二次世界大戦を容認したことを反省し、絶対的平和主義への志向を再検討しなければならないでしょう。少なくとも、そのことを真剣に考える会員がどれだけいるのか、創価の未来はその姿勢で決まります。宗門の落ちぶれた姿を、二度とない宗教堕落のモデルと考え参考にすべきです。真理を貫くためには勇猛さが必要なのです。

    中国の信仰者はとても過酷な状況にあります。宗派の正邪や教義の高低を問うべき問題ではありません。わたしは、池田先生の指導力に疑問を持っております。思想家であれば、社会主義への肯定的な論説を繰り返すべきではありません。こんなことを書けば、単純な池田先生唯一主義者は血相を変えるでしょうか。勝ち負け基準に毒された頭の悪い会員の正義ぶった顔が思い浮かびます。わたしにとって悪夢同然です。
    5月16日の聖教に、「新時代の日中交流始まる」と題して、創価の貢献を強調しています。漸進的な仏教の性格が、ときには信仰者を苦しめることを検討しなければならないでしょう。背信国家に誠実行為は似合わない。永遠の指導者という礼賛も、巧妙に中国化されることでしょう。なんでも政治的プログラムに組み入れてしまいます。中国の覇権主義は、もしかしたら創価の勝負師性格とよく似ているのかもしれない。万人向けの法華経も、万事向けの法華経と言い換えることもできます。万事に勝利しないと法華経(正義)でないとの強迫観念にとらわれるのは、とても不幸なことです。


    絶対的平和主義について
    仏教における平和主義は、正当防衛による武力・暴力も許さない絶対的平和主義です。しかし、軍人を含めたあらゆる階層に信者がいるSGIにおいて、その理想の理念の実現は極めて難しいものと考えます。ガンジーの非暴力を、先生は人類史上最大の政治的天才と称賛しましたが、大乗仏教では、仏法守護のためにのみ暴力使用の正当性を容認する。また大聖人はいくつかの御書で殉教精神の尊さを説いていますが、これは一歩間違えば、イスラム原理主義のように聖戦テロにまで拡大解釈されかねない危険性をはらんでいます。
    現代社会、一定のルールの遵守で安全が成り立っている民主国家においては、限定つきの暴力が法律で認められていますが、国際政治の場では通用しないでしょう。小さな暴力で保障される社会正義と、多数の犠牲が予想される独裁などの大きな暴力に、国家的武力で応戦することに違いがあるのだろうか?
    イラク戦争のとき、先生はSGI提言で戦争容認へ一定の条件を述べています。現在の国際情勢では不可能であるその条件、つまりはイラクに対する攻撃に強い警戒感を示した条件を満たすことなく、安易に国内、国際世論に同調した公明党がイラク戦争容認の態度を表明したとき、学会が非暴力を称賛していながら一言も発することなく黙認したことを、わたしは厳しく問いたいと思う。
    会員の皆さまも支援者として強力に、その政策の撤回に努力を怠っていたと指摘されれば反論の余地はありません。以前会合で、イラク戦争が話題になったとき、担当幹部が「人道支援だから問題ありません」と発言したのには驚きました。物資輸送が主体の自衛隊でしたが、他国による武力行使と一体化した行動と評価が定着しているのに、認識が甘い平和主義者は、日々の活動ごっこより関心がないのですね。

    テロの日常化は、人道的、倫理的動物である人間の宗教的行為の心的豊穣さを根こそぎ奪います。その先にあるのは、断絶し殺伐とした闇社会と、チベット国にも見られる生命そのものへの否定、虐待行為。わたしたちの回りに身近かに存在する恐ろしい世界を、見て見ぬふりをしてはならないでしょう。テロリズムへの挑戦は、自己の奥深い神聖なヒダに突き刺さった「殺」の矢を、慈悲の手で取り除くことです。不殺生戒は仏の第一宣言です。
    公明党にとって「平和」は特別の意味があると思います。厳しい現実的選択を迫られても、信念を曲げない勇気が欲しいと思う。トインビー博士が指摘する、「倫理的行動基準」「品行の水準」と力(ハード・パワー)のギャップを埋めていただきたかったのです。勝者であるはずのアメリカやイギリスが、多大な犠牲と代償を払い、得たものとは何だったのでしょう?
    他者への配慮を欠いた行為は結局、道義心の衰退と幸福感覚のリアリティーの欠如というクライシスに陥る。暴力は自制心の麻痺と、精神の歪みを拡大するだけです。政治の世界にあっても、他者への慈しみ、痛みへの共感が基本になるのではないでしょうか。公平な民主主義社会にも、正義に似た野蛮な病理が、心の奥深くに巣くっています。


    日々あらたに
    日々更新の新しい出発にはそれまでの清算と総括が必須であり、過去の検証は厳しいものでなければならないと思います。組織には現在、多くの手づまり感があり、それは選挙支援の際限なきF拡大による疲労と、指導性の低下に原因があると考えます。アンチのように敵視されているわたしが、いまさら言うことでもありませんが、幹部の指導に新鮮な喜びと驚きを感じなくなったのは残念なことです。マニュアル的、型にはまった優等生的理論の強調は、もう十分に会員も承知しているのに、毎回同じような話を繰り返す。先生のご指導の範疇を越えようとしない。聖教に紹介される語り口から逸脱することなく、自分の言葉で語らない。
    『宗教の本質的なものは、人間の生き方に関する思想的側面であるはず』と先生が指摘されたように、少なくとも幹部一人一人は、実践法と結果を語る者でなければならないのに、研鑚と体験が疎かになっている。つまり思想を語ろうとしない。思想を語らないことに何の疑問も感じていない。信仰を口にしながら恐ろしく宗教的でないのです。「本質的なもの」にチャレンジしていないのです。思想が人生のなかで熟成されていない。与えられたものだけで満足し、吟味もせずに、主体的な深みもありません。
    質も量もという伝統の手法が転換期を迎えていることと、もっとスッキリした組織の再構築が必要と考えます。さらに組織における透明性の確保は、グローバルな情報化時代を迎えて最も必要とされることです。
    何かと意見を言う人間を内部アンチと切り捨てるのは簡単です。しかし色々な意見があるから健全なのであり、そのような意見をまとめる力量と度量、弾力性がリーダーの基本素質です。これは聡明な活動家を育てるうえで絶対不可欠なこと。学会の不都合な部分は、会員に知らせないとする考え方は、信仰者として無責任であり、恥ずべき行為でしょう。


    (アンナの日記から)
    現在の本部には、職員の二世三世が多くいます。父親が本部職員で子どもも職員、青年部幹部というパターンは、今に始まったことではありませんが、いずれ、その青年部幹部が創価の中心になることを考えると、世襲化という悪しき習慣が残っていくものと考えます。民衆仏法に最もふさわしくない貴族化が進みつつあることを懸念します。この世襲化を容認した池田先生は、信念に反する痛恨のミスを許容したとも言えますが、身内には寛容なのでしょうか。創価のルネサンス運動も、組織の私物化でエンディングを迎えます。

    かつてプロレタリアートの独裁制が生んだ集団的狂気は、政治や経済、宗教などの特定の支配層への反発が引き金になったものと思います。個人の尊厳は個人の軽蔑と同義であり、自由が弾圧されたことはいまさら言うまでもないことです。プロレタリア革命の崩壊の原因の一つに革命戦士の貴族化、すなわち特権階級を育て官僚化した支配層を生み出したことではないかと考えます。

    思想は違っても、同じことが創価でも起こりうると思います。つまり貴族化は、家柄や血族への信仰であり、また思想が個人ではなく、親から子に、信奉する人格模範が増幅して引き継がれ、家風とも言える家族の共有思想を決定すると考えられます。優秀な種は優秀な種を作り続けるという信仰は、最も原始的な欲求かもしれません。生存競争で優秀な種が生き残ってきたのは、生物の基本的法則と思います。官僚化に警鐘をならす先生のご指導は多くありますが、それは組織の崩壊を意味するからに他なりません。忌むべき人心腐敗は、一部の人間が自分に都合がよいように作り上げる制度や機構のなかで、管理形態を徹底するために起るのであり、空想的理想好きな会員は、それでも自分さえ分別をわきまえていれば、大丈夫などとモラルの限界を認識しないのです。
    貴族化したプロの革命ブルジョワは、そんな会員の弱点を百も承知しているのに。
    善良さは戦う善良さでなければならない。

    わたしたちは幹部に指導を受ける。では、幹部は誰の指導を受けるのだろう。最終的に最後の一人になる最高幹部は、過去の指導者の引用のみなら、必ずといってもよいほど形骸化の道を歩むものと考えます。それに輪をかけて矛盾の歯車を組み立てるのが、貴族化した側近であることは言うまでもないことです。保身は宗教に弊害をもたらすだけでなく、信者を不幸にします。たとえ、日蓮仏法の純真な実践者であっても、縄のようにつながり次第に大きくなっていく結び目(矛盾)は、ほどくことができないのです。

    妙法は万人が平等であることを説きますが、創価の指導の図式をたどっていくと、指導階級制が必然的に生れることがわかります。当然のことですが、上下関係で言えば指導する側が下位にあるわけはなく、言葉は優しく同意を求めるものでも、組織の方向性、なにかの立案、まとめられた文書が上から下へ流れます。わたしたちはすでにこの時点でやわらかな服従を求められているのです。
    貴族化の巧妙さは、大衆心理をよく理解し、決してボロを出さないことです。指導原理に忠実である必要はありません。ただ人心掌握術にたけていればよいのです。二世三世の会員が、親世代より巧みなのは一般的なことです。親の失敗を見て学んでいるからです。

    人間解放というシンボリックな言葉を使えば、宗教では解放され、組織や集団では真意を隠されコントロールされるということになります。
    創価は本当に大丈夫なのでしょうか?


    わたしたちの平和運動はどうあるべきなのだろうか?
    チベット人にとって、化身は特別の意味があります。ダライ・ラマは観音菩薩の生まれ変わりとして、今まで13回も生死を繰り返してきました。化身はすでに解脱が約束されているのに、苦しんでいる人間を救済するため、自ら望んで輪廻転生を繰り返す。そして利他行に励む。チベットの人々がダライ・ラマを尊敬するのは、ひとえに凡夫を導くその利他的なあり方に理由があるのです。
    生れ変わりを信じるかどうかというようなことは、まったく信仰上のことであり、信心の無い者には理解できないかもしれませんが、会員もまた似たような表現をします。地涌の菩薩とは、法華経に説かれる末法に出現する菩薩であり、わたしたちがその菩薩の生まれ変わりであると表現しても、何の差し障りがありましょうか?
    また日蓮大聖人は上行菩薩の再誕です。このようなことは、論理的な説明を超えており、宇宙空間と時間を貫く普遍的エネルギー、あるいは理性を超えた真理の当体として存在するのであり、宗教が信を土台としてその真理を獲得するものであることを示しています。
    凡夫である自己から出発して、信仰のなかで鍛えられ、世界を見渡すような真理を体現し、菩薩となり、菩薩からまた凡夫に還り、法を説く。出・出世間とも表現される、このようなプロセスの生命変革を、言葉は違っても、先生は絶えず投げ掛けていると思います。自己の信仰を厳しく見つめること、池田思想と言われるものは、結局、そういうところに収斂していくのではないか。自己から始まり自己で終わる。その積み重ねに信仰の醍醐味があるのではないか。ソフトパワーは内発啓蒙ということ。堅固な自己を築くと同時に、柔軟で寛容の内面充実。
    病み苦しむのは心、喜び楽しむのも心、地獄に縛られるのも心、解放され、苦しみを苦しみのまま自由に楽しむのも心。心の問題が仏教の出発点だと思います。そういう当たり前のことを知り実践することは、実は自分の弱い心と対峙し、見つめ、克服することなのだと思います。感情に支配されず、理性的、論理的な自己観察を通しての新しい自己の発見こそ宗教です。
    仏教が説く「縁起」の因果論、関係論は、今後もひときわ重要な示唆を与え、心的自由のプロセスに親密なイマジネーションと根拠を提供してくれるのではないでしょうか。
    混乱世界のなかで生き、変革と利他を実践する主体者として、自分自身を覚知する祈り。
    信じる対象に自身の生命相を映しだす祈りの深さは、誰にも測ることができません。ご本尊と自分の関係という繋りのなかでしか分からない。<信ずる者は救われる>という言葉を、宗教に違いはあっても、わたしは確かに受容するのです。そして信じることは、他者との関係性において基本的な法則というべきものであり、平和観も幸福観も、その関係のなかに熟成されると考えます。
    祈りは全く自由なパーソナルな行為であり、そこには形式もマニュアルも存在しない。
    人間革命思想は個人から個人へと受け継がれる連鎖運動であり、途方もない時間がかかる漸進運動であることを知らなければならないでしょう。

    わたしたちの平和運動はどうあるべきなのだろうか?
    平和への情熱と確固とした理論を持っていても、十分な行動として、社会に展開されているのだろうか?
    妙法の無比の論理で圧倒しても、各論においては、その実効性が問われているのではないでしょうか?
    チベット問題を考えるとき、仏教徒としての行動のあり方を疑問視されているのではないだろうかと、わたしは考えてしまいます。これは創価全体の問題であると同時に、個々の平和への意識と決意にかかっているのだと思います。中国国内で、苦しんでいる信仰者がいることに無関心であることが、真の仏教者の姿勢だとはとても思えません。日蓮が伝えたかったことは、信仰者を敵視する悪と妥協することではなく、たとえ信じるものが相違しても、苦しんでいる信仰者を誠意を持って擁護することだったのではないでしょうか。他信仰に無関心ということは、他者のトータルとしての生き方全体にも無関心ということです。釈尊も日蓮も、そんな菩薩を説いた覚えはないときっと言うでしょう。創価内だけに通ずる内的倫理基準は、もうさっぱりと捨ててしまいませんか?
    わたしは一人の女性として、また未来を憂いながら戸惑いと躊躇の鎖に縛られる一人の信仰者として、その使命と責任を重く受け止めています。そして、暗闇で光をつかむような思いで、生き生きとした希望の哲学が有り、さらに充実していくことを語り、行動の重要性を訴えていきたい。あきらめない女性こそ変革者だと確信します。


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