太陽の仏法 1

    6月30日の聖教に、李克強首相の返礼の書が贈られたことが紹介されていました。来日の際に贈られた池田先生の漢詩が優れているのかどうか、わたしにはさっぱりわかりませんが、普通、中国の慣例から言えば、詩に対しては詩で応えるという教養に尊敬を集めるのではないでしょうか。特別達筆とは思えない書と、オーソドックスと言えば良いのか、ベタな文章を見ると、李首相は何を言いたいのか、一国の首相ともなれば、なんでもありがたがるとでも考えているのだろうか。
    毛沢東は晩年、大躍進政策や文化大革命で、多くの国民を犠牲にし死に追いやりましたが、それでも尊敬を集めているのは詩人だからです。また古典に通じ、中国伝統の教養人でもあったからです。
    それとも別の見方もできます。権力志向が強い習近平体制のなかで、生き残る術を心得ており、書の凡庸さが示すようにかえって平凡な処世術と性格が、これから訪れるかもしれない亡国の危機に力を発揮するかもしれない。仮定の問題だから好き勝手なことが言えますが、国が滅ぶときは乱世の英雄が現れるときでもあります。使命は基本的に自覚するものですが、ときには天から降ってくるように必然的に与えられるときもあります。克強とは波乱を予想させるお名前ですね。
    中国の社会問題は多岐にわたり、いずれも緊急性があります。その根本をたどれば共産党の独裁体制に行きつく。政治家と官僚の汚職と腐敗、賄賂、環境破壊、都市部と農村部の経済格差、人権抑圧、少数民族に対する弾圧、宗教と信仰の否定など、あげればきりがない。社会問題を網羅している中国の矛盾した体制は、民主主義国家へ転換しないかぎり改革は不可能ですが、共産党が権力を手放すはずもない。共産党の選択肢は限られています。権力を維持するために力で反抗勢力を抑圧し弾圧するという道より残っていませんが、わずかに「中国化」という範囲内で、社会主義と国家に貢献するためなら許される。自由という価値の蹂躙は多くの悲劇を作りました。災難と隣り合わせの不安定な政権に近づき、繰り返し賞賛を望む仏教指導者。創価は危険地帯に足を踏み入れている。
    「風格は永久に不滅」と人類の師のように尊敬を集めているのですから、中国で行った多くの講演で、ひとつでも民主主義について講義してもらいたかったと思いますが、表彰というボーナスがなくなる恐れもあるので、そんな勇気もないのかもしれません。お世辞は、相手を一時的に心地よくさせる点で偽りの化城であることから方便に似ていますが、仏法ではありません。

    無教会主義の反戦
    無教会主義者では、南原繁、矢内原忠雄といった知識人が著名ですが、戦中戦後の学術・思想界をリードしました。また、反戦活動も、日本の良心として評価され、かろうじて宗教界のステータスを保ったと言っても良いでしょう。内村鑑三が果たした役割は大きいと思います。
    仏教は優れた教えですが、傑出した指導者が不在なため、非戦を高唱しながら、物陰に隠れるような見苦しい人間ばかりで、脅されると信念も教義も放棄するという不誠実さ。揺るぎがないなどと自慢しながら、常に揺れているのが僧侶の姿です。そもそも信仰の初歩的段階で無垢な信者の善意とお金を天秤にかけるような不届き者。言い過ぎかしら?
    やはり、内村の弟子で、山形県に基督教独立学園高等学校(ウィキペディア)を作った鈴木弼美は、軍人でありながら治安維持法で逮捕されました。純粋な反戦活動は知られていませんが、戦争が次第に悲惨さを増していくにつれ、良心的な兵役拒否にいたったと考えております。無教会主義と言ってもそれぞれ独立的な志向が強く、絶対的反戦、あるいは苦しみながら戦時へと参加していった反戦主義者もおり、個人の意志の範囲内で判断していったのではないかと思います。無教会主義はその意味で、キリスト教を基礎としながら、広範な思想を内包していたと考えております。特に、リベラルな思想と結びつくとき、政治的勢力として一定の役割を担う。
    わたしはどうしても牧口先生と対比してしまうのですが、仏教における寛容性の問題は、悪の改心を信じて容認するという善性を重んじる心の大きさを感じますが、その一方で取り返しがつかない事態になりかねないという緊急性に劣るところがあるのではないかと思います。銃を構える人がいたら、強く制止しなければ犠牲者がでて、善良な人々に危害が及ぶという、やり直しがきかない事態になることが想像できます。仏教的アプローチは時間と手間がかかり、漸進的改革も世代的な継承を続けながら、その志を継続していかなければなりません。もう2000年以上も非戦への意義づけを繰り返してきたのですが、戦争は激しくなるばかりです。
    創価は主要な理論展開のフレームを三代で基礎づけましたが、これで完成したわけではありません。現実の難問題は、何一つ解決していないと認識してもよいでしょう。縁起の思想で、他者への関与を基本とする仏教は、釈尊の時代から平和や人類的課題に挑戦してきましたが、科学技術の進歩により、応酬とレスポンスを越えそうな問題解決のプロセスは、複雑になるばかりです。人間という生物は、もともと争うことに喜びを見出しているのかもしれません。
    会員皆さまは、人間主義を万能の思想のように勘違いしておりますが、強情な宗教原理主義者を改心させるほどの力がはたしてあるのか。それ以前に、日蓮の独一法門も改宗不可能な原理主義の様相を帯びております。対立を軸とする思想の小競り合いはあとをたちませんが、必ず暴力的な争いに発展し、根深い確執と悪意が生まれることです。政治的にも絶対平和主義へシフトすべきです。
    公明党の政治的思想の独立を願わずにいられませんが、リーダーには必ず必要な先見性に劣るように思います。与党であることをあまりにも優先するために、自民党に折好いタイミングで取り込まれ、かえって国民を苦しめるという現実は、もう黙認できないほどのせっぱつまった状態です。先生と執行部の政治好きは、会員に取り返しのつかない後悔をもたらすかもしれません。
    中国、近畿地方を中心に、大水害が発生しました。多くの犠牲者や被災者にお悔やみ申し上げ、一日も早い復興をお祈りいたします。国土保全は政治の原点と言っても過言ではありません。その主だった政策を管轄する国交省の大臣が公明党出身であること。現在の石井大臣は太田大臣から引き継ぎましたが、2012年から公明党が独占しており、国土計画、社会資本の整備や調整等に具体的なビジョンを持っているのか。また膨大な予算とともに利権も集中しやすいことから、公平で清潔な政治家の人柄が求められますが、災害が多発する昨今、その手腕の卓越性に注目が集まります。国民政党とは言い難い、創価に偏重する公明党の意思決定を持ちこまないようにしていただきたいと思います。

    「新・人間革命」の終章
    「新・人間革命」の連載も終わりに近づき、宗門と創価の間の熾烈な争いを総括しております。同じ御本尊を信じていても、なぜ罵りあい、虚しい不毛な対立があるのか。中立的立場に立ってジャッジしても意味はありませんが、僧の世界の異常さは、在家には理解不可能な気がします。僧への尊敬は失われておりますので、日蓮の魂からほど遠い宗門が、腐敗し滅びても、もう創価に関係はありません。信者から絶縁された聖職者とはどういう存在なのか。宗派が違っても、これほど値打ちがなく、社会にとって無価値な存在はないでしょう。
    むしろ新しい家を建てるときは更地にすることを考えると、宗門も滅びて一から出直せば少しは救いがあるかもしれません。したがって法主を頂点とするヒエラルキーを解体し、民主的な組織を再生しなければ生き残れないでしょう。未来には大御本尊を残し、大石寺ももぬけの殻になる可能性もなきにしもあらず。広布を忘れると使命も見失い、つまるところ住所も寂れ、次第に荒地獄になります。
    破門通告というギャグに等しいバカバカしいことを、まともなことと考える僧の幼稚さは、日蓮の宗教改革と広布という遺言をないがしろにしてきた結果です。一部の聖職者が、特権的に支配する教団は、大乗仏法ではありません。大御本尊を守っているように見せながら、実はその真理に背反し、御本仏に屈辱の言葉を投げつけているのと同じです。自己流で自分に都合よく自己弁護する僧ほど醜い姿はありません。日蓮の法に殉じる純粋な自己犠牲、あるいは弱者という末法の悩める凡夫のための憐れみと同情を持つことが、御本仏が期待する僧の姿です。御書からうかがえる同苦する人間的な姿が、僧が理想とする姿にほかなりません。

    「新・人間革命」も第2版が出版になり、都合の悪い部分は書き換えられるようです。先生が直接書き直し作業をしているわけではないでしょうから、将来、さらに第3版が出て改変されるころには、誰が書いたか分からないような不統一性が顕著になるでしょう。現在、実際に書き直し作業に関わっている職員は、会員を欺いている可能性がそれなりにありますが、そんなことを考えたら職員をやってられませんよね。ペテン的性格も師弟で相続しているようです。
    はじめからフィクションと思えばよいのかもしれません。フィクションも時間が経つと真実性を帯びたように会員の信仰にインプットされます。虚構が信仰心を啓発するときがくるかもしれない。創価が拠り所とする歴史と教義の客観性に問題ありと指摘されれば、創価もアイデンティティーを失うことになるでしょう。歴史を甘く見下すと、却って歴史から反逆されます。

    宗門から破門された平成3年前後の、池田先生のスピーチをまとめておくのも、問題意識がある人にはそれなりの意味があるでしょう。「大御本尊」とそれに関係した事項をキーワードに、スピーチを引用しますが、すべて先生御自身に還ってくる内容です。「普遍的」あるいは「永遠」といった仏法的に重要な語句が、死語にならないように、会員の皆さまは賢明な判断をしなければならないでしょう。「永遠」はどこまでいっても「永遠」です。だから「永遠」と定義づけるのではないですか。
    たとえ宗門から破門されようと、創価が離脱の拍手をしようと、言葉の意味は変わらない。「生命が永遠」であるなら、時代の変化にかかわらず、「生命は永遠」なのです。千年前も千年後も「永遠」です。「永遠」は証明できないからこそ信じる対象に収まっているのですよ。
    三代会長が何度もご指導されたように、大御本尊は永遠に変わりません。大御本尊のおかげで、創価は、本来の大乗仏法の姿を実現し、在家の広布の組織として発展しました。会員の皆さまも、不可解で謎に満ちた人生を、アグレッシヴに挑戦できたのではないでしょうか。その究極的な良心を否定し、なぜ捨ててしまうのでしょうか?




    平成3年10月16日
    第13回関西総会太陽の仏法は全人類に「平等」
    『日蓮大聖人の仏法は、「太陽の仏法」であられる。
    太陽は全世界を照らす。その光は、一部の人々、一部の地域だけのものではない。まして、一部の悪人たちだけを照らす太陽などあるはずがない。
    太陽には、「差別」がない。「太陽の仏法」もまた、どこまでも「平等」である。
    この仏法を信仰しているように見せかけながら、自分勝手な「差別」を持ちこむのは、「太陽の仏法」を殺す魔の働きであると断ぜざるをえない。
    いわんや悪人と陰で手を組み、正法破壊の陰湿な策謀をめぐらせるのは、「太陽の仏法」の信仰者とはいえないと私どもは思う』

    善も悪も区別せず、万人性の象徴として「太陽の仏法」とご指導されていますが、差別を持ち込んでいるのは、宗門であり、あるいは創価自身なのではないでしょうか。太陽の仏法というほど、創価の太陽は全世界を平等に照らしているわけではない。


    平成3年10月17日
    関西最高協議会・三烈士の精神は学会の中に
    『きょうは十月十七日。弘安二年(1279年)十月十五日に「熱原の三烈士」が殉教し、その報が大聖人にもたらされたのが十七日である。大聖人の出世の本懐であられる「一閻浮提総与の大御本尊」を建立される機縁となった、この法難について、少々、語っておきたい。
    熱原法難は、無名の民衆が、強大な権威・権力による弾圧に対して、身命を惜しまずに戦った、誉れの"先駆の歴史"である。また、今、法難の経過をふり返った時、そこから数々の教訓を汲み取ることができる。
    なお、熱原法難の史実を初めて詳らかにされたのは、日亨上人である。上人の「熱原法難史」、私が願主となって発刊された「富士日興上人詳伝」など、そのご研究の成果を基本としてお話ししたい』
    『僧侶は、本来、民衆を救うために、正法に導き、成仏への道を教え、信仰を励ますなど、信徒の幸福に尽くすのがその使命のはずである。僧侶の権威をかざして信徒を抑圧し、従属を強いて、信徒に奉仕させるというのは、本末転倒である。そのような者は、もはや仏弟子ではなく、僧侶ともいえないであろう。
    (中略)
    いつの時代であれ、仏教の「平等」の精神に反して、僧侶が権威をふりかざし、信徒に従順と尊敬を強要するようになった時に、教団は腐敗し、僧侶は堕落している。信徒の側は、僧侶の権威にひれ伏した時に、本来の信仰心は失われ、僧に仕え、依存するのみの形式的な信仰となり、真の功徳はなくなる。
    御本仏日蓮大聖人、すなわち大御本尊に信伏随従し、仕えることは正しいが、その根本から外れて、僧侶に仕えることは、仏法の本義に背く誤りであることを知らなければならない』
    『表面の姿だけを見れば、三烈士は処刑され、敗北したように見えるかもしれない。しかし彼らは、"信仰者としての誉れ"を、"人間としての勝利"を勝ち取ったのである。そして、民衆の間に、確固たる信心が、深く根ざしたことを身をもって実証した。
    この法難を契機に、大聖人は、出世の本懐であられる「一閻浮提総与の大御本尊」を建立される。ここに、三烈士の名は永久に残され、永遠に輝き続けているのである。
    (中略)
    熱原の三烈士が示した不惜身命の精神、いかなる権威、権力にも屈しない正義の行動は、初代・二代会長以来、創価学会の中に、厳然と生き続けている。脈動している』

    出世の本懐であられる「一閻浮提総与の大御本尊」を建立とご指導されていますが、現在の創価は、三大秘法を出世の本懐と変更しました。三大秘法は一大秘法に収まりますが、その一大秘法は否定しています。つまり、根源を否定し、派生した真理を根源と変更しました。植物に例えるなら、根を拒んで、そこから生じる茎や葉だけを植物だと言い張っている。根がなければ茎も葉も育たないというのに、宗教の普遍妥当性は常識外にあるというのでしょうか。
    さらに機縁となった熱原法難を、結果的に、機縁ではなかったと無理やり繋がりを否定し、三烈士が果たした殉教まで否定している。先生はスピーチでこのあと、熱原法難を詳細にたどりますが、今となっては御本仏の思いまで否定している。熱原の三烈士の殉教は、日蓮にとっても宗門にとっても、最大の歴史的出来事ですが、能動的に、自律的に、他随ではなく随自意の大御本尊を認めることになった機縁(動機)を否定している。最も旺盛な生命状態、御本仏が出世の本懐をあらわされたそのときこそ、仏の境涯であられたことを否定している。
    創価の大御本尊否定は多くの問題を孕んでいることを、会員の皆さまは信仰の根本として熟慮しなければならないでしょう。創価のオフィシャルな見解は、将来再変更される可能性は大いにありますが、そのときまだ先生はお元気でいらっしゃるのでしょうか。永遠の生命を実行し、100歳でも、200歳でも生き続けて、大御本尊を否定した創価の行く末を見届けてください。


    平成3年10月21日
    第14回SGI総会/第47回本部幹部会・「民衆主体の宗教」が興隆
    『(敦煌の興亡の歴史にふれながら)しかし、繁栄は永遠に続くことはなかった。人々は万代の繁栄を願い、望んだであろう。だが、歴史の審判は厳しかった。敦煌に花開いた仏教も、八世紀ごろ(唐の時代)、滅亡の兆しが始まる。もちろん、そこには、さまざまな要因が重なっていることも事実である。(中略)
    たとえば、①航海技術の発達により、交易ルートとして、南海路(海のシルクロード)の重要性が高まり、相対的に陸路(オアシス・ロード)の必要性が低下した(経済的繁栄のかげり)②民族意識の高まりにより、諸民族融合の象徴であったシルクロードが分断された(社会の変化)③イスラム教徒の侵入があった(外敵の侵略)などが考えられる。
    それはそれとして、敦煌の仏教滅亡の最大の要因は何であったか――。前述の教授(北海道教育大学教授)は、仏教内部の「腐敗」と「堕落」であったと指摘しておられる。
    "内部から崩れた"と。内側が腐敗してしまった。堕落してしまった。万有流転といおうか、"興亡"の歴史の方程式は、昔も、そして今も同じである。
    当時の僧侶も、民衆を抑圧し、蔑視した。限りなく搾取した。僧は"悪の代名詞"にさえ堕してしまっていた。
    彼らは、貪欲に、名利の追求に狂奔した。頭の中は"仏道"ではなく、"金儲け"のことばかりになってしまった。「法の正邪」に対する厳しさは薄れ、都合のいいように書き換えられた偽の経典が流行した。その経典にかこつけて、民衆をおどかし、だまして、金品を巻き上げた。「法」の純粋性を守り、後世に伝えゆく使命など、いつしか完全に放棄してしまった。それが、僧侶の嘆かわしい実態であった。許されざる「仏法利用」「信仰利用」である。
    さらに、寺院への隷属を強いるため、「寺戸(じこ)」と呼ばれる特殊な制度をも作る。「寺戸」は寺の周囲に住まわされ、移転の自由も、地域住民との結婚の自由もない。寺のために一生、強制労働に従事させられたといわれる。
    しかも、年をとり、使いものにならなくなる(働けなくなる)と、他のオアシスに追い払われた。役に立つうちは利用しつくし、用がすめば、とたんに切り捨てる――この無慈悲、残酷、非道。これが聖職者のすることであろうか。
    「歴史」は、ありありと、"現在"の本質を映し、私どもが進むべき"未来"を照らしてくれている』

    偽の経典は、過去のことではありません。偽の創価の歴史、偽の人間革命。「小説・人間革命」は、現代の御書と、かつてF副会長が発言して宗門との間で問題になりましたが、現在の会員は改めることもなく、現代の御書と発言して平気です。はっきり言えば、F副会長と同じレベルの問題意識で、反省などさらさらない。同様の発言をしながら、F会長は散々に批判されたうえに除名され、現在の会員は誉められるというのはどうしてなのだろう。もう宗門とは関係なくなったので、何を言ってもかまわないという節操のなさ。つまりモラルが欠如している信仰者とは創価の会員のことです。
    「現在では、主師親の三徳を具備しているのは池田先生」という発言もありましたが、現在も会員はそう思っているのですから、あのF副会長の言うことは、会員の気持ちを適切に代弁していたということですね。こうなるとなにが正しくて、なにが時期に合った発言なのか、分からなくなってきます。信仰心が理性を失い、過剰な表現に行き着いてしまうと、ドグマの蜘蛛の巣に捕われた昆虫同然に身動きできなくなる危険性があります。過剰な表現と信仰心の深さは関係ありませんが、知性のない人ほど過剰になるようです。騒々しく怒鳴るのは、恫喝し威圧する力自慢と同じで、宗教の健全さや清廉さとは無縁です。狂信者には十分警戒する必要があるでしょう。
    寺戸(じこ)制度は寺請制度と同じですね。日本ではやがて檀家制度に発展しましたが、移転手続きには寺請証文が必要でした。寺を中心に自由が拘束されていたと考えることもできます。釈尊や大乗の精神がまったく失われ、自由を制限する道具に使われたこと。権力に迎合し、権力者を背景にして、自ら代理権力者のような地位を築き、底辺にある農民を支配し苦しめたこと。そこには餓鬼道のような僧の姿がありますが、その堕落の根底の精神を引き継いでいるのが、太平洋戦争時の怖気づいた宗門の姿に顕著に見ることができるでしょう。「立正安国」なんて、夢の夢の絵空事の物語です。


    Dreammaker
    Thomas Bergersen






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