太陽の仏法 2

    7月10日の朝、御本尊に悲しみと哀悼の祈りを捧げました。
    犠牲者や被災者のなかに、真面目に信仰に励む会員もおられたことでしょう。
    その人のために祈ります。その人の家族や親族、友人のために祈ります。

    西日本を中心にした7月豪雨は、近年にない未曾有の災害になりました。
    近畿、中国、四国、九州の広範な地域に特別警報が発せられ、重大災害警告の危険な状況のなかで、8日、福岡で本部幹部会が開かれたことが、10日の聖教に報道されておりました。勤行を終えてから、聖教を見て、その鈍感さにビックリしましたが、これはいつものことと思い直しました。
    「妙とは蘇生の義」と冒頭に掲げていますが、グロテスクなジョークでしょうか。「先駆のスクラム」って、泥にまみれた無残な街で、どうやって走るのだろうか。そういう街は対象にしていないのでしょうか。師弟ともに非常識ですね。

    自然災害と死について
    会員は、その純真な信仰のおかげで善き生を全うすることを約束された人々ですが、その会員の死を考えると、死の瞬間の悲しみと苦しみ、断末魔を思うと、妙法は本当に宿命転換の力がある法なのかと疑ってしまいます。そもそも宿命がいかなるものなのか、その実体はほとんど理解不能です。科学的に言えば遺伝子ということになるかもしれませんが、そこに災害遭遇の運命遺伝子も含まれているのか、考えれば考えるほどわからなくなります。
    遺伝子の進化は固定的でなく、とても柔軟性に富んでおり、創造的です。善も悪もはっきりとした概念で遺伝子を構成するわけではないように思う。十界互具はとても科学的。日蓮が自ら正法誹謗の罪を認めたのは優れているし、革新的なことだと考えられます。しかし其罪畢已という終局の設定は、進化の歴史を考慮すると科学的ではないように思う。心の戝とはまさに遺伝子のこと。宿業論は遺伝子の科学的研究と証明との間で矛盾してはならない。
    宿業は人間の身体全体に付加されている生命情報の設計図のようなもの。人間の身体から離れたどこかにあるわけではない。肉眼で確認は難しいけれど、心を込め強い意思で反復する祈りは、生命浄化の確実な方法であることは間違いないでしょう。蘇生は祈りであるとも言えますが、その祈りの対象を正しく認識することが先決です。会員の皆さまは、何を目指し、どこへいこうとしているのか、自分が何を拝んでいるのか、知っているというのでしょうか?
    突然変異や再編成、修正しながらつなぎあわせ、新しいピースを生み、切り刻んで結合し、変化し再生産していくダイナミックさ。遺伝子は、全生物の過去の記憶と情報のDNAという物質の集合体。この組み合わせ無限大の進化の歴史を、宿命と名づけることを発明したのが、そもそもの宗教のはじまりなのかもしれません。
    また対立しやすい自己と環境の関係を、依正不二と画期的理論で説きながら、いつまでも悪性の依報を克服できないでいるのも人間です。浄土といっても、穢土といっても、自分の胸のなかにあるのですから、災害がもたらす不幸を必ず克服できる妙法ですが、未だに自然災害も戦争といった社会的災いも解決できていません。完成した人格として経典に説かれるほど、人間はいつの時代でも完璧ではなく、善と悪の区別もつかない。
    死から逃げた人がいましたが、どこに逃げても自分の影のようにつきまといますので、死からは逃げられません。一歩を踏み出すごとに、いつも善悪の判断を迫られる人間が、善悪がない世界に逃亡できないのと同じです。わたしは信仰を通して、いつも死の意味を考えるようになりました。冷静に自分の内面を見つめると、死は未知のものであり恐怖があります。そして他者の理不尽な死に出会ったとき、それが自然がもたらした予測不可能な災害が原因であっても、法の無力さを感じて失望してしまいます。完璧な仏、完璧な法であっても、苦しみの死を回避できず、苦の宿命も転換できない。妙法の救済とはなんなのでしょう。仏の慈悲とはどのようなものなのでしょう。多くの犠牲者は善き死を望んでも実現できません。仏界の地獄界は情け容赦がない。妙とは蘇生の義というのなら、死者を蘇生させてください。最近の予測不能な自然災害は、その悲惨さとともに人間の命の無常さが、わたしを打ちのめすほど強く迫ってきます。いくら涙を流して悲しんでも足りません。死者のことを深く考えずにいられません。
    妙法的生き方であるより善き生を、仏は信仰者に求めます。信仰者は、より善き死を仏に求めます。しかし仏はいずれも、ただ模範を示すだけでその答えを与えてくれません。自分で問い自分で解答する、自分の胸に存在する仏に問い続ける行為……それが妙法と日蓮は説くのですから、絶えず自分を疑い、自分を信じて、生きるしかありませんね。悲しみに負けないように強くなるしかありません。

    ☆★☆なお、来年は統一地方選と参議院選挙がありますが、その準備がすでに始まっています。わたしの数少ないエージェントの情報によれば、岡山や広島の攻略を、今回の豪雨にたじろぐことなく、むしろ災害をチャンスととらえ、語り口を工夫して対話を進めるよう、上のほうからアドバイスがあったということです。なんでもF獲得の材料にする非情さを持ち合わせていないと、選挙には勝てないと考えるところに、信仰者とは思えない世俗的で低級な常識が垣間見れます。他人の不幸も、Fにコネクトできる手段と考えるその浅ましさに、軽蔑の目が向けられていることにも気づかないのでしょうか。助け合い、慰めや励まし、友情、労わりあいといった人間的感情も、創価と公明党の利益に還元する情熱は、言い換えれば、功徳ほしさのエゴのたまものです★☆★


    ◇◇◇


    平成3年10月27日
    全国青年部幹部会/「自由なる精神」の人間復興運動
    『最後に、ハーバード大学で行った私の講演(1991年9月26日、テーマ「ソフト・パワーの時代と哲学――新たな日米関係を築くために」)に出席された同大学の教授の声を、聖教新聞のロサンゼルス特派員が伝えてきてくれたので、紹介しておきます。
    アメリカ宗教学会の第一人者、ハービー・コックス教授は、次のように語っておられる。
    「今から百五十年前、エマーソンは、このハーバード大学で有名な講演を行っている。それは、伝統と権威を重んずる学問に対する警鐘を趣旨としたものであった。
    真の学問、知識とは、人間一人一人の内面から、そして実生活の体験から、ほとばしるものでなくてはならない。権威によってあたえられたり、また権威によって支配されるべきものではない。
    池田SGI会長の講演は"内なる精神"の意義を現代に蘇生させようとされたものであり、エマーソンの講演の真義をほうふつさせるものであった」と。
    エマーソンは、ご存じのように、ハーバード大学出身の、十九世紀アメリカを代表する詩人、思想家である。
    またコックス教授は、仏教をはじめ高等宗教の本来のあり方に言及されている。
    「精神について、"伝統性"と個人の"内面性"を対比すれば、一般に、宗教の指導者は権威をもって教えをたれ、その権威に民衆を隷属させようとする傾向がある。しかし釈尊をはじめ高等宗教の始祖たちは、決して精神性の押しつけなどしてこなかったはずである。釈尊は"みずからの体験をとおして学べ、体験を深く内面化させよ"と弟子たちに説いたのではなかったか。そこには、精神の権威の行使など毛頭なかったはずである」と。
    「その後の宗教の権威者たちが、精神の権威をもって民衆を支配しようとするのは、まさに【ハード・パワー】の行使であり、始祖の精神とまったく逆行するものといえよう」と』



    平成3年11月4日
    第二東京記念文化音楽祭・総会/民衆の声に応えるのが真の宗教
    『今回の宗門の問題について、幾人かの著名な学者の声を紹介したい。さすがに見識ある方々は、ことの本質を冷静に公平にとらえておられる。皆さまにも参考になる話であると思うので、本日は、それらの要点を紹介させていただく。
    ある教授は、社会学者の立場から、こう述べておられる。
    「宗門と学会の諸問題が、両者の対立という形で報道されているようだが、これは正しい見方とはいえない。世界的な民主化の潮流が押し寄せる九十年代にあって、むしろ、避けては通れない"関門"ととらえるべきであろう。いわば、九十年代という歴史的転換点において、宗教の本来あるべき姿が問われているのである。
    そこでは、教団運営の民主化、国際化時代での布教のあり方、ボーダーレス(=国境なき)時代での宗教の普遍性等々がクローズアップされる。これは健全なことである。
    学会は、日蓮(大聖人)の古典的価値体系を、現代に普遍化するという重要な歴史的役割を果たしてきた。一方、宗門は、伝統的価値にしがみつくことによって、何とか存続してきた。その差は歴然である」
    「ソ連、東欧をはじめとする劇的な変化の底流には、民主化への、大衆の飽くなき欲求があった。結果として、その精神的パワーが、ベルリンの壁の崩壊へ、ソ連のクーデターに対する民衆の勝利へという流れを形成していった。つまり、そうした力が、地球的規模での『情報化』と相まって、社会主義圏にも『自由化』の芽をはぐくみ、急速に『民主化』の流れをつくったといえる」
    「ここで見落としてはならないのは、一連の民主化への流れが、じつは『聖』と『俗』との関係性の根本的な見直しという哲学的課題を背負っているということである」』


    ある中国哲学の著名な学者が語られたとして引用している。
    『葬式が大切というなら、「生まれること」も大切である。なぜ「生きること」について、宗門はかかわろうとしないのか』
    『これからの仏教は、本来のあり方、その本質を問い直さねばならない。たとえば"僧のあり方"。僧を僧として尊敬できるのは、信徒を越える「行い」をしていることによる』
    『信徒の信心の模範となるべきなのが僧であって、そういう僧であれば、敬意は"自然に"出てくる』
    『僧のほうから「私を敬いなさい」では、まったくだめである』
    『日本の寺院は、江戸時代、一種の"役所"として、お上の権力をバックに信徒に君臨していた。みずからの宗教的な努力によって権威を保っていたのではない。日蓮正宗は、学会が出てきた以前の"村の檀那寺"という意識のままである。それが今回の問題の本質であると私は思う。昔の"村の役人"根性である』
    『学会の組織は、信仰で結ばれた組織であり、"精神の絆"をもった「近代的組織」である。それを宗門のほうは、地縁、血縁による非近代的共同体のようにしか思っていない。とんでもない錯覚である。昔からの意識を変革できない、正宗僧侶の"悲劇"である。
    「近代」とは何か、「民主主義」とは何かという、教義以前のことが分からない人が、「近代的組織」の上に君臨しようとするのだから"悲劇"になる』


    一人で君臨できるわけはなく、組織が君臨を認めるのであるから、偉いと思うその心は、十分に僭聖増上慢の素質があります。僧は法を独占し、僧でなければ正しく解釈できないという理由をつけて、僧の優位性を強調し特殊化します。反対に、在家は必ず特殊な法を分かりやすいように一般化します。「聖」と「俗」の哲学的課題は特殊化と一般化の問題です。現在まで培われてきた哲学の、伝統と歴史のなかで定着した言葉で、宗教的な特殊な真理を表現しなおすことが大事ですが、誰にも受け入れられる分かりやすさで語ることは、菩薩の使命といっても言い過ぎではないでしょう。創価が、その役目を果たしてきたことは、今更言うまでもないことです。
    信じる行為は、年齢や性別、社会的環境に関係なく人間性を証明する平等な特性です。僧であろうと在家であろうと、人間であるかぎり信じる強さと深さは同じです。僧は差別を作ってはならないし、本尊を身勝手に独占してはならない。宗門の閉鎖性と硬直化は破滅的です。


    宗教と権威主義について
    B・ウィルソン教授との対談「社会と宗教」のなかで、宗教と権威主義について、先生が問題提起されています。
    会員の方々はあまり認識されておりませんが、教義の真実性を不動のものと信じているがゆえに、超越的権威が潜在的に包含されるという問題を解決しなければなりません。これは宗教史から学ぶ教訓なのですが、あらゆる宗教の根本的問題として、民主的組織運営を誓っていても避けることができない問題です。

    先生は次のように言われております。
    『宗教はその教義に関して権威を主張することから、その組織のあり方も、権威主義に陥りやすい傾向をもっています。そして、そのため、多くの宗教において、個人の救済を目的としながら、実際は、権威主義的組織の中に個人は埋没し、圧殺される場合が数多くあったように思われます。この宗教組織のもつ権威主義的傾向というものを解決する方法としては、どのようなことが考えられるのか、それについてお聞きしたいと思います』
    と、教授の意見を求め、また次のように言われています。

    『権威主義を生み出し、支えているのは、大多数の人々の中にある秩序正しさへの欲求や、服従への欲求等であるといえます。そうした人々にとっては、権威は好ましいものであって、否定される必要はないでしょう。しかし、権威を保持した人間は、たんに、そのような支持者に対してばかりでなく、権威を嫌う人に対しても、権威への服従を求め、その力を行使しようとします。そこに非人間的な圧迫がしばしば生じます。
    そればかりでなく、自己の権威を守るために、自由な論議や、創造的な思想や行動に対しても、これを抑圧しようとします。その結果は、その教義の硬直化を招き、自由な、自発的な信仰心が生み出す、宗教の活力ある生命を奪い去ってしまうことになります。
    その意味から、私は「人々が権威を求め、それに服従することに喜びを感じているなら、そのことを非難したり、改めようとしたりする必要はないではないか」という考え方は、誤りであると思います。権威主義的傾向に陥りやすい宗教団体にあっては、それに陥らないよう、絶え間ない自戒と、人々の意識の啓発、また組織機構の改善が行われるべきであり、それが、生きた宗教としての躍動力を保っていく鍵であると、私は考えるのです。
    その点で、私自身、組織を率いてきた経験からも、いま教授が挙げられた、責任を分散し、人々に参画と相互作用を促すこと、それによって、個人の経験や個性的能力を、全会員のために役立たせるようにすることは、きわめて、大事であると思っています。
    また、それ以外に、会員のもつ力を有効に組織化していく道はないというのが、経験上の結論でもあります』


    先生が「結論」と述べられていることに注目しなければならないでしょう。
    詳しくは実際に本にあたってください。
    これに対するウィルソン教授のコメントは、大変示唆に富むものです。

    『宗教運動にあっては、権威主義的な傾向を取り除くことは、他の場合よりも困難です。批判的精神を培うことは、たとえば純粋に知的な状況の中では、明らかに奨励されうるものですが、しかし、それは宗教運動においては、調和を妨げかねません。宗教運動では、一心同体であること、同一の目的に献身することがそれ自体、貴重なこととされているのです。
    宗教において、権威主義を防止するためには、たぶん運動内の各レベルの指導者が、自分に直属する輩下の人々に参画を求め、即応的な相互作用を促すべきことに、気付かなければならないでしょう。責任の分散は、それ自体、権威主義的な傾向の助長を阻む、一つの方法です。命令された仕事の中でだけでなく、より積極的な率先行動が要求される場面においても、各個人が果たすべき独自の貢献の道があるという考え方は、活動の分化を促進しますが、これは、すでにそれだけで、権威主義の特徴的パターン――統一的な支配と人々の紋切り型の反応――が形成されるのを防ぐものです』


    25年以上前の対談ですが、問題の重要性はますますクローズアップされていくことでしょう。
    わたしは、遠い将来のことを心配しているわけではありません。先生が高齢であることを思うと、直近の未来に両者が指摘した権威主義への対処が必要になってくるということです。きっと原理主義者がはびこるでしょう。釈尊滅後もそうでした。大聖人滅後も、天台宗という母胎に帰ろうとした原理主義者たちがいました。法を体現し、実践面で信仰者の手本となる、一人の稀有な指導者がいなくなると、権威をかさにきた原理主義が横行し、それに対抗する勢力もまた生まれるということです。
    このような対立を防ぐために、ウィルソン教授が指摘しているように、各個人の独自の貢献をまず認めなければなりません。現在の選挙支援活動にも見られるように、「紋切り型の反応」に価値を置かないこと、信仰活動は多様であることを認めること、貢献の仕方は個人の考え方、裁量の範囲で適切に判断し、対応しなければならないこと、それが権威主義への対抗措置であることに気づかなければならないのです。創価ルネサンスと喜びながら再出発しましたが、まだその始まりを駈け出したにすぎないのです。
    過去をさかのぼり、歴史のなかから良き手本を探すことも必要でしょう。しかしそれだけではいきづまり、現在進行の人間の行動から、信仰者の正しいあり方を示す指導者が不可欠。人間革命集団と定義される創価にあって、一人一人の英知と実戦力が試されるのです。
    先生が数十年前からたいへん危惧されている問題を、無垢で素直な会員の皆さまは、どのようにお考えなのか。わたしは師弟不二ってなんだろうと思うのです。不二という強い人間関係でありながら、弟子は何も考えていないのです。楽観主義を勘違いされているのではないでしょうか。

    創価系ブログはいっぱいありますが、読んでみると「紋切り型の反応」記事が多いことに気づきます。それでも必要性が認められるからなのでしょうが、自分の言葉で語らない悲しさが、わたしには憐れに映ります。つまり信仰は創造的行為。信仰の奴隷は、自力信仰を目指しながら、他力になっている自己なのですよ。
    当然のことですが、信仰は自己責任であること。自由意思から選択した行動は、すべての責任を自分が負わなければならないことはあらためて言うまでもありません。したがって、一様な型を作り、流し込むことではありません。行為の責任を負いながら、自分の力で、悩める自己を救済していくという自力性、言い方を変えれば、自己変革は、自立した自己完成でなければならないということです。

    創価に対して、よく批判的に、あるいは過大に問題を指摘する人がいます。わたしもその一人と見られているかもしれません。信仰は強制でできるものではありませんから、わたしの批判的行為は純粋さにより近づこうとする、わたしなりの努力であることをご理解ください。先生が言われる自戒なのです。わたしは創価を否定しているわけではありませんし、ただ、一般会員の方々のような反応はしないというだけです。
    「権威をかさにきた原理主義」……会則変更に見られる幹部の独断が、まさにピッタリあてはまります。何かと言えば先生を引っ張りだして、先生という権威を振りまわすのです。「先生」という原理主義です。


    宗教のシミとコミニュケーション
    宗教の虚偽と戦う人間は、いつも権威から破門される。
    創価は虚偽で満たされようとしているけれど、それは尊敬に浮かぶシミのようなもの。純粋さが失われていく一つの過程です。宗教は全部、同じ過程をたどり腐敗する。
    なんども訴えますが、はじめから宗教に権威などないのですから、権能などという言葉で誤魔化す宗教は、真の民衆仏法ではありません。もちろん、法主の権威をふりかざす宗門も、伝統の埃が積もりに積もり、その礎の色までわからなくなりました。どんなにやわらかい言葉で繕おうと、権威にはいつも嘘が混じっているのです。わたしは権能という言葉を見た瞬間、その虚偽を見抜いた。低レベルの権教であればあるほど権威を主張するものです。模倣品を高価そうに飾るのと同じ。
    創価も低レベルの人間に相応しい宗教に宗旨を替えました。
    宗教は一人一人の人間のためにあることを、しっかり考えるのも信仰者の責務です。その人間を大事にしない組織は、やがて滅亡する。正しい法であっても、民衆に受け入れられなくなれば滅亡する。宗教の五綱を、深く知る必要がありますね。五綱のなかで注意していただきたいのは、【国】です。グローバル・レリジョン、地域限定から開放された世界宗教の【国】は全世界です。かの地が謗法の地だからという理由が、世界を志向する妙法にいかに相応しくないか分かります。民族や習慣、言語や国家に限定された地域宗教の偏狭な言い分とは、もう縁を切ったと思ったのですが、創価の石頭は外見ばかり気にして、内実は世界宗教という意味も理解できない。だから、根拠もなく権威を強調する。口では実教を唱えながら、心は権教の迷妄。

    いろいろな考え方があって健全ですが、否定的意見には否定的に対応するのが、普通の人間が選ぶ対応だと思います。宗教組織にとって共感共有の感情は欠くことができません。創価は、教義とその目的の純粋性から、会員に感動を与え、日々の生活から宗教活動にいたるまで、善になるための努力をしてまいりました。また、信仰の喜びを社会に還元し、社会に有為な人材になるための自覚をつねに保持しながら、中傷も恐れずに対話を続けてまいりました。会員はコミュニケーション能力に優れていると考えますが、昨今のストレス社会を反映しているのか、会員同士でも不寛容の場面がときどき見られるようになりました。

    特に、会則変更という大切な教義上の問題について、先生の過去の指導を判断基準として引用しても、会員には全く通用しないという恐ろしい現象が起きているのです。正しいことを理路整然と訴えても、それもまた一つの見解、個人的意見として軽視される傾向があることに、わたしはビックリし深く失望しました。わたしは何度も、わたしが正しいと思うことを会合でお話しました。その結果はどうだったでしょう?
    都合が悪いものは見ない聞かない、会員に知らせないという創価の体質であることも承知しております。もともと宗教とはそのようなものですが、C作戦のように大御本尊をカットして、権能という言葉で当然の権利を行使するだけだと主張しながら、つまりは権威を強調するあたりは、腐れた宗門にそっくりと言わなければなりません。宗教にははじめから権能や権威といったものは存在しないのです。人を縛るのが権威。信仰は自由を実現するための意志表示であることをよく考えてみるべきです。法主が会長に変わっただけです。その会長も先生からご指導されて大御本尊をカットしたのでしょう。うそつきもいいところ。

    教義の根幹を変更しても十分な説明もない創価の姿勢は、はなはだ傲慢といってもかまわないでしょう。創価のコミュニケーション能力の衰えも、先生の老衰と関係があるでしょう。
    競争や対立を前提としたコミュニケーションではなく、助けあう人間関係の必要性を考えると、脳の神経回路は協調するための潜在能力を秘めているのではないでしょうか。
    最近の社会情勢、事件の数々を考えると、排他的エゴイズムの虚無が、蔓延しているように思えるのですが、殺伐とした人間関係からは、平和や幸福といった人間本来の普遍的な価値の享受は程遠いように感じられます。遺伝子に具わる共感性は、自分らしい個性を輝かせ、人間関係の希薄化に対し、心が通う信頼を築くベースになることを示唆しているようですね。
    創造的言語は、コミュニケーションで培われてきた人間関係を円滑にする知恵、あるいは礼儀、秩序としての社会での道徳、心根を美しく表現する言葉というものかもしれません。聞くに堪えない汚い言葉が溢れている現在、人間としての徳目のなかに相手を思いやる行為・思いやる言葉を大切にしていくことが必要と心掛けていますが、言うは易し行いは難しですね。

    人間と人間を隔てている壁を取り払う言葉は、歴史のなかで人間とともに磨かれてきた美しい財産です。やわらかな音感、響きとともに、優しいネットワークを築くキーワード、(励ましと調和)を大切にしていきたい。
    妙法の正しい言葉こそ、自他を律する創造的言語ですが、創価も会員も失本心故。本来の意義を失った御本尊をいくら拝んでも、過去世に約束された本当の自分自身を取り戻すことはできません。
    「大聖人直結」「魂の独立」などと、恥かしくなくよく言えますね。同じ言葉でも、裏付けがない、中身がない風船のように、ただふくらんだだけの言葉です。


    Cavalleria Rusticana - Mascagni
    RAYMOND LEFEVRE




    ◇ P.S. ◇

    平成3年11月18日
    「創立の日」記念SGI代表勤行会/世界広布の正道は「御本尊根本」「御書根本」

    『創立以来61年。これまで、私ども創価学会は、どこまでも「御本尊根本」で前進してきた。ただ「広宣流布」のために、戦ってきた。この軌道は、今も、また永遠に、寸分たりとも変わることはない。

    「御本尊根本」について、少々、述べておきたい。日蓮大聖人の仏法の根幹は、「三大秘法」であり、その根本中の根本は「本門の本尊」である。
    日蓮大聖人が、弘安二年(1279年)十月十二日に御建立になられた、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊こそ、「本門の本尊」であられることは、いうまでもない。
    そのことを、日淳上人は、「日蓮大聖人様の御一代の教えは申すまでもなく三秘五綱(三大秘法と教・機・時・国・教法流布の先後の五綱)という三大秘法の教判ということにつきるのでございます」と述べられ、次のように明確に示されている。(昭和31年5月3日、創価学会第14回総会。以下の引用は「日淳上人全集」から)
    「日蓮大聖人様の教判によって三大秘法を立て、その三大秘法に於ては上行菩薩として釈尊より南無妙法蓮華経を御付嘱あらせられ、その南無妙法蓮華経の日蓮大聖人の御身にそなえ給うところが事の三大事でございます」
    「それを衆生御化導の上に建立遊ばされたのが本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目となってくるのであります。しかも又これが一閻浮提のために御化導遊ばされる上から本門戒壇の大御本尊に終窮究竟の御化導を置かせられたのでございます」
    御本尊は、三大秘法の御当体たる「一大秘法」であられる。その御本尊を離れたほかに、「秘密の法」などありえないのである。
    <中略>
    また、日興上人から日目上人への譲り状である「日興跡条条事」には、こう記されている。
    「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を授与す」(富要八巻)
    ――(日蓮大聖人より)日興が身をあてて給わったところの弘安二年の大御本尊は、日目にこれを相伝する――と。
    大聖人より、日興上人ただお一人へ相伝されたのが、弘安二年十月十二日にお認めの本門戒壇の大御本尊であられる。大聖人の「出世の本懐」であり、化導(仏法を教え、仏道に導くこと)の究極であり、広宣流布の根本となる御本尊であられる。
    そして、その御本尊はそのまま、日目上人に相伝され、七百年間、護持されてきた。
    相伝書の一つである「百六箇抄」(血脈抄)には種脱相対、すなわち、大聖人の文底下種仏法が釈尊・天台の文上脱益仏法よりも勝っていることが明かされている。
    また「産湯相承事」では、大聖人の本地(本来の境地)は自受用報身如来であられ、垂迹の上行菩薩の再誕として出現されたこと、日蓮と名乗られた意義、弟子に日号を与える理由などが明かされている。
    「本因妙抄」(法華本門宗血脈相承事)では、大聖人の法門と、釈尊・天台の法門との勝劣を明かし、寿量文底の秘法である、事の一念三千の南無妙法蓮華経こそが、末法の衆生を即身成仏させる大法であることが示されている。
    このように、日興上人に付嘱された法門は、すべてが人法一箇の大御本尊を指し示されたものであり、その裏付けとなる法理と拝される。

    こうした相伝書は、かつては秘伝の書として伝えられてきたが、日亨上人は、これらを含む富士門流の主要な文献を「富士宗学全集」として集大成された。
    さらに、その全集の中から重要な文献を選んで発刊された「富士宗学要集」の第一巻に、「相伝部」として、大聖人から日興上人に伝えられた相伝書八編(「本因妙抄」「百六箇抄」「産湯相承事」「御本尊七箇相承」「本尊三度相伝」「寿量品文底大事」「上行所伝三大秘法口決」「三時弘教次第」)を収められ、公刊されている。
    そして昭和27年(1952年)4月に、戸田先生が願主となり、日亨上人が御みずから編纂の労をとってくださって発刊された「日蓮大聖人御書全集」にも、主な相伝書が収められている。このように現在では、重要な相伝書も、その内容は公開され、オープンになっているのである。
    また、大聖人独自の御法門である文底下種法門も、日寛上人が、「六巻抄」や御書の文段等で、体系化され、明確にしてくださっている。
    「六巻抄」は、昔は相伝書に準ずる秘伝書のように扱われ、許された一部の人しか読まれなかったようだが、今ではだれもが学ぶことができる。
    戸田先生は、戦後、学会再建にあたって、「教学は日寛上人の時代に還れ」と叫ばれ、「六巻抄」や「文段」を全員に学ばせて、教学力を深化させた。いわば、秘伝や奥義とされがちであった大聖人の仏法の真髄が、学会の教学研鑽によって、民衆へ、世界へと開放されたのであった。
    そうした機運を、だれよりも願われたのが、「御書全集」の編纂とともに、多くの門外不出の相伝書をも公開された日亨上人であられた。また、昔は相伝であり、奥義だった深い法門が、だれ人にも知られ、広まること自体、何よりも、広宣流布の時の到来を物語っているといえよう。

    全世界の人々が信じて平等に成仏できるからこそ、「一閻浮提総与」の大御本尊であられる。また、この大御本尊を世界へと弘めてこそ、一閻浮提広宣流布である。
    ゆえに、大御本尊を離れて、僧侶だけが知っている、何か特別な根本の法門があるというのではない。どこまでも大御本尊こそ、大聖人の「出世の本懐」であられる。そして、私どもが日々拝している各会館、家庭の御本尊は、大御本尊とまったく同じ仏力・法力を具えておられる。
    大聖人は、こう仰せである。
    「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり、成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり」
    ――今、日蓮大聖人、およびその門下の元意は、即身成仏と開覚することを「如来の秘密神通の力」というのである。成仏すること以外に、神通も秘密もないのである――。
    一切の衆生を成仏させる大御本尊のお力こそ、神通であり、秘密なのである。それ以上の「秘密の法」などないのである、と大聖人は明確に仰せである』


    この後、先生は、御書根本についても指導されております。
    ともすれば、会員のなかに動揺が走ることが懸念されるとき、創価の原点を確認された指導と拝されます。

    御本尊根本を「この軌道は、今も、また永遠に、寸分たりとも変わることはない」と指導され、その御本尊とは一閻浮提総与の大御本尊であることを言及されております。しかし、ここで言うところの「永遠」は、このスピーチが行われた91年から23年間の短い期間のことを「永遠」と表現している矛盾を、恥ずかしくもなく露呈しています。「永遠」と言えば、宇宙の始まりから終わりまでをいうのではないでしょうか。少なくとも、地球が誕生し、消滅するまでの時間的スパンを言うのではないかしら。そんな幼児でも理解できることが、23年後の今、堂々と変えられるのですから、これは明らかな宗教詐欺と断じます。また、先生は嘘つきになりますが、仏教史上で嘘つきが指導者を名乗るとは聞いたことがありません。真実の言葉を説く人を仏ということは何度もお聞きしましたが、仮にも師と呼ばれ尊敬を集めている正統を名乗る仏教指導者が、本当は嘘つきだったとは、釈尊、大聖人の系譜に連なる人とは思えません。「永遠」は重要な言葉。真理の核心を形成する言葉。その言葉をメモ紙のように簡単に捨てる人が、多くの善良な人々の師であるはずがありません。それとも、上記のスピーチは方便とでも言い訳するのでしょうか。あまりにも世俗に汚れている。真理は宝珠、決して、世俗の手垢に汚れることはありません。
    「永遠」をC作戦のようにカットして、当然の論理的帰結として、永遠の大御本尊もカットした――それなりの子ども騙しの筋道も考えているわけですね。
    宗教と詐欺的行為は、切っても切れない関係にありますが、世界に存在する宗教のほとんどは、詐欺的教義で成り立っていると断定しても言い過ぎではありません。厳格な宗教批判の原理で正邪を区別してきた創価も、ついに詐欺集団に成り果て、「永遠」の法を「永遠」に葬り去ってしまいました。
    会員はいつも師の無謬性に悩まされてきましたが、これは師だけの責任ではありません。冷静さを忘れてしまう会員が、妙法の無謬性の延長線上に間違いだらけの「人」をまつりあげるからです。依法不依人を思慮すべきです。日興上人以来の「御書根本」も、血脈尊重も、法に依るものです。その法に、実体と形を与えたのが大御本尊です。法のみあり、実体がなければ、それは理に過ぎません。実体とは、大聖人そのものの御命のことです。

    会則変更は、すべて先生の指示によるものと、わたしは考えております。
    毎日、多くの原稿を執筆されている先生が、会則変更を知らないはずがありません。そして少なからず会員の一部に、執行部に対しての不信があり、将来に向けて悔恨と災いの種をまくことになったことを心配し憂えないはずはないと考えるのが常識です。創価は危機にあるのですから、リーダーが説明責任を果たさないなんて問題外です。先生は全部知っていて、会則変更を容認していると考えます。容認する弟子が、今求められている姿なのです。
    上記の指導は、すでに過去のものです。自語相違も甚だしく、万人の幸福を願う仏法者の真摯な姿勢とは言えません。ダブルスタンダードの典型です。大聖人と妙法を愚弄するものです。
    それにしても、会員の無能振り、鈍感さは驚嘆に値します。根幹の教義が変更されても何も疑問に思わないなんて、戸田先生が知られたら、どれほど悲しまれることでしょう。


    平成3年12月3日
    「墨田の日」記念幹部会/学会原点の庶民のスクラムは晴れやか
    牧口先生の言葉を引用し、日顕宗を揶揄していますが、その引用が、現在の創価にピッタリ当てはまります。皮肉なことです。
    『さらに牧口先生は、同じ論文で、”半狂人格”――半分狂っているような人格についても論じておられる。(「牧口常三郎全集」第五巻)
    「何を以て半狂人格というか。一方で肯定した事を他方では否定して平気でいるものは、人格に統一を失うものとして、相手方を驚かせるもので、取り引き関係などをなすものにとっては迷惑千万と言わねばならぬ」
    つまり、半狂人格の人間は、社会では絶対に通用しないし、信用もされないと。最近、こういう人が多いようだ。
    さらに、こう続けられる。
    「統一を条件とする常人に対して、人格分裂の異常人となし、狂人の一種として警戒をしなければなるまい。愚人がその愚を知らないと同様に、悪人がその悪をさとらぬところに常人と違う所がある」
    「平常普通の生活においては、少しも狂った所がないどころか、却って気がきき過ぎて買いかぶられるくらいであるが、(中略)ことに名利に関し、利害問題になると、意外の狂暴性を発揮して、恥も外聞も顧みない所に異常性が見える」と』


    恥も外聞もなく、自己否定の道を歩んでいるのが、現在の創価であり、師弟でしょう。牧口先生は、「異常性が見える」と言われております。全くその通りです。
    以前の記事にも書きましたが、お金が集まるところには、宗教人には相応しくない虚偽と権威を強調する人間が、必ず現れることを指摘しました。創価だけ例外などとは、夢にも思ってはならないですね。余剰金があるところに魔ははびこるのです。リッチな宗教と奢侈の人間には、それに相応しい、貪欲さに際限がないラグジュアリー な魔性が蘇ってくるんですよ。

    先生は、指導者としての資格を放棄していると、わたしは考えております。
    破門された直後の11月30日に開催された「創価ルネサンス大勝利記念幹部会」では、キリスト教徒の言葉を紹介しながら、世界宗教の条件を考察しています。この条件が、現在の創価が、はたして満たしているのか、会員一人一人が真剣に考えなければならないでしょう。
    『①民主的な”開かれた教団運営”
     ②「信仰の基本」には厳格、「言論の自由」を保障
     ③「信徒参画」「信徒尊敬」の平和主義
     ④「儀式」中心ではなく、「信仰」中心
     ⑤血統主義ではなく、オープンな人材主義
     ⑥教義の「普遍性」と、布教面の「時代即応性」』


    「信徒参画」はB・ウィルソン博士との対談(「社会と宗教」)で硬直化しない組織運営についての話題のなかで出てきました。ステレオタイプの人格造形は、自由と独自性を尊ぶ宗教とは相容れないものです。また「紋切り型反応」が宗教を形骸化させてしまうのですが、反応という前に、会員は反応するだけの思考をしていないと言ったほうが正しいかもしれません。信行学と言われるように、信仰とは信じ行じて学び考えることでもあるのですが、会員の正直さには悲しみさえ感じます。また「普遍性」と「時代即応性」は、化法と化儀の関係です。上記のスピーチで何度も強調している大御本尊についての普遍性を、「受持の対象にしない」と定義した冒涜性は、宗教の掛け替えがない財産を捨てる行為です。妙法にとって「受持」が信仰のすべてなのです。信仰上の基本は受持なのです。受持がなければ信仰とは言いません。受持即成仏です。その受持を、大御本尊から見れば限定してしまう「権能」なんて、増上慢以外、なにものでもありません。そのような重大なことを、先生は指示をされて、会員には自らの言葉で説明しない。
    さらに宗教の場合、教義上の異議・異論も言論の自由の範疇であることをよく考えてみなければなりませんが、現在の創価には、そこまでの余裕はないものと思います。破和合僧という企みがないかぎり、どのような意見も自由な討論の対象なのです。それが「言論の自由」を保障するということなのです。信仰は、自由という精神がその土台であることを、信仰者であればあるほど深く思慮しなければならないでしょう。
    わたしは三世ですが、創価のなかの異端であることを、これからも自覚しながら、執拗に異議を唱えていきたいと考えております。



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    ♡Comment

    アンナ | URL | 2018.07.18 17:34 | Edit
    木偶の坊さま
    コメントありがとうございます。

    貴重な捉え方、忠言をありがとうございます。

    組織に活動参加を拒まれ、本幹だけ出席しておりますが、会員の方とは誰ともお話しできません。わたしも相当図々しいと思うのですが、孤立していながら苦とせず、創価全体を客観的に見渡すような癖がついたことです。時々、師弟のこととか、演出された行事や会合の劇場型とも言える宗教活動に違和感を感じております。草創期を過ぎると、会員の安定した献身を期待して、組織は演出されるものなのです。
    会員の皆さまは、宗教本来の特徴である生気ある精神活動を、自律的なもの、自発的なものと自覚されているのか、とても疑問に考えております。与えられたものだけを消化して献身していると錯覚している活動に妙法の宗教改革はありません。師弟という言葉に呪縛され、神聖化の象徴として誓願を繰り返すのは、法華経の物語を踏襲しているわけではなくて、すでに形骸化している制度を重んじた師弟なのだと考えております。
    本幹では必ずエンディングに先生の過去のご指導を再生します。一貫性を演出するための方法ですが、創価の会憲や会則と同じく、客観的な判断基準を提示しているつもりなのでしょう。過去を基準にする宗教は衰退します。

    ご意見がありましたら、遠慮なくお願いします。
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