男性原理と女性原理 2

    女性が、土俵に立ち入ることができない理由の一つに、女性は穢れているとされていることです。この「穢れ」とはいったい何なのでしょうか。死穢(死の穢れ)、産穢(出産の穢れ)、血穢(経血の穢れ)。このような穢れは病原菌のように伝染し、周囲を汚染すると考えられていました。女性特有の出血をともなう出産や月経が、やがて拡大解釈され、女性そのものが穢れているとされ、このような概念は仏教思想と合致し、女人禁制という女性排除へと発展したようです。男の勝手な言い分、都合の良い理由付けであることはあきらかです。
    日蓮は、出産についても言及しています。
    『法浄世界とは我等が母の胎内なり』(御義口伝)
    母の胎内は生命の出生するところ。生命というこれ以上の優れた宝はないのですから、宝浄世界と日蓮は讃えられました。女性への尊敬が感じられる言葉ですが、同時に法華経の男女平等思想を受け継ぎ、身分制度で成り立っている封建社会で、普遍的ルールと平等思想の遂行者の姿勢を貫いています。法華経の行者の実践と視座は、経典弘通だけでなく、人間関係や生活の細部にまでおよびます。菩薩は、人間的な悩みを決して疎かにしませんでした。
    現在まで残っている女人禁制という伝統は、偏見という差別のジェンダーバイアスに絡め取られ、呪われています。男性世界を侵す女性の力に畏怖を感じているのかもしれません。

    「釈尊と日蓮の女性観」では、さらに、本因妙・本果妙に展開して次のように述べています。
    『日蓮は、その著「百六箇抄」におきまして、
    「男は本・女は迹・知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可きなり」
    という言葉を残しております。……(中略)……
    この「百六箇抄」の「男は本・女は迹」という一節と同趣旨の表現として、本因妙は男性原理であるが、本果妙は女性原理である、という言い方ができると思います。本因妙とは、平たく言えば、常にスタートに立って「さあ、これからだ」と、未来へ向かっていく姿勢のことです。それに対して、本果妙は、過去の因行と現在の果徳に甘んじて、未来への指向性が弱いと言えます。
    この本因妙の姿勢が男性原理であり、成仏につながるものでありますが、本果妙の姿勢は女性原理であって、成仏からはほど遠いものです。そういう観点から「男は本・女は迹」と言われているのであります。このように考えますと、身体的性別という意味での「変成男子」はヒンドゥー社会を意識した妥協的産物としての便宜的な表現でありましたが、男性原理と女性原理の観点からとらえ直すと、「変成男子」も新たな意味を持ってくると思います。すなわち、「変成男子」の意味するところは、本果妙から本因妙への転換によって成仏が可能となるということになります。
    生命の傾向性において、本因妙(男性原理)に立てば成仏につながり、本果妙(女性原理)に陥れば成仏から遠ざかる。この論じ方は、もはや男性、女性という身体的差異というよりも、生命論的次元での男女論に飛躍しています。これは、外見としての表面的な差異にとらわれていません』

    本果妙的考えは性別に関係なく、常に生活のなかで賛美されています。功徳の価値を見積もり、感情的な宗教批判に推移して敬虔さが失われることです。果徳に甘んじる癖がつくと、組織に活力がなくなり堕落します。現状肯定はやがて現状不満に発展していきます。女性が愚痴を言うのはそのためです。自然に口から言葉が出る瞬間を女性は経験していますが、特に愚痴は出やすい特質があります。女性に怨嫉が多いのもそのためです。

    日常性のなかでの果報(果徳)について、さらに深い展開があります。本因妙・本果妙というメカニズムの違いを明確にします。
    『日蓮は、「御義口伝」において「法華経」観世音菩薩普門品第二十五の「求男」「求女」という言葉に即して述べています。
    それは、
    「第四 二求両願の事
    御義口伝に云く二求とは求男求女なり、求女とは世間の果報・求男とは出世の果報・仍って現世安穏は求女の徳なり後生善処は求男の徳なり」
    という一節です。(中略)
    だから「二求」とは、もともとの経典では、生まれてくる赤ちゃんについて、「男であればよいな」とか、「女の子がいいな」といった「親の求める二つの願望」のことでありました。この点、「法華経」という著しく普遍性を追求した経典にしてから、やはり民間信仰のようなものを取り入れざるを得なかったのか、と思うと興味深いものがあります』
    『日蓮が「御義口伝」において、この「求男」「求女」という言葉を使う場合は、「男性的在り方を求めること」「女性的在り方を求めること」という意味に読み換えています。その両者を求める主体は、男の子、あるいは女の子を産む「父」であり、「母」でありますが、これもまた男性原理、女性原理としての「父母」であることを忘れてはなりません。「父母」といっても、二人の人がいるのではなく、一人の人格における男性原理、女性原理として位置付けられています。
    (中略)
    これによって、「求男」は男性的価値観(男性原理)を求めることであり、「求女」は女性的価値観(女性原理)をもとめることという意味に言い換えられ、また、その「父母」として、その両者を追求する主体としての男性原理、女性原理という関係に位置付けされています』

    中国仏教で用いられた「体」と「用」が「本体」と「その働き」「属性」に相当するとして、男性原理、女性原理の体と用が「父母」と「求男・求女」として示されているとしながら、「求男」は「福徳智慧の男」であり、「求女」は「端正有相の女」「衆人に愛敬せらるる」と、御義口伝には解説されていることを述べてから、次のように男女の特質に沿った説明を加えます。日蓮の深い人間観は、眼を見張るものがあります。本因妙は男性的なもの、本果妙は女性的なもの。本因本果とは「父母」であり、「二求」のこと。
    『こうしたことを踏まえて、「求女とは世間の果報」「求男とは出世の果報」とされるのであります。すなわち、女性的価値観(求女=女性原理)は、「世間」、すなわち日常性の中での果報を求めるところにあるということです。
    これに対して、「求男とは出世の果報」となります。この場合の「出世」とは、会社で出世するというような意味ではなく、「出世間」(世間を出離すること)の略で、日常性を超えたところのことであります。そこにおいて果報を求めるのが、男性的価値観(求男=男性原理)であるというのです』


    このような性の傾向性は、生命の根本的特徴とも言えますが、決して別々にあるのではなく、一人の人間のなかに同居し、使命感、意志やモチベーションなどの内的動機になっていることです。信仰においても性差による傾向性がありますが、功徳や生活改善の欲求は女性が強く望むようです。
    婦人部の活動は、役職が上であればあるほど統一的一体感を重視し、団結というよりは、息を合わせるという姉妹的親しさのなかで緊密感を増していきます。婦人部が打ち合わせにかける時間の長さは壮年部にはきっと理解できないでしょう。通常の活動ですらそうなのですから、選挙や特別のイベントがあると大変です。このような準備がないと、つまり全員が背負う前提がないと、婦人部の活動は崩壊します。女性はリアリストであり結果に感情的に偏重します。非力な自分を常に感じており、その穴埋めを集団に参加することで埋めようとします。問題を一人で背負うことはありません。集団責任のような価値の同調は、上意下達の一方的な情報誘導のなかで承認欲求のすえに起こります。婦人部は権威的情報操作にとても貧弱な対応力より持っていません。池田先生や本部という権威は婦人部活動家の急所であり、その権威の範囲から、独自性を持ち逸脱することはありません。
    男性原理の特徴は出世間ですが、それは指摘されているように日常性を越えたところにあります。現在の果報を求めるより、未来の果報が保証されることに喜びを見出します。世俗的規範から離れ、執着を乗り越え、主体性の確立を求めますが、普遍性という評価基準を何より大切にします。妙法と名付けられるように、法の永続性と普遍性を強調するのは、男性原理の一部とも言えます。新たな解釈を含めて、一直線に本質へより迫ろうとするスタンスは、男性的で創造的。また闘争心が旺盛です。釈尊や天台、伝教や日蓮が男性なのは、生命のなかの性の傾向性に大いに関係があるでしょう。もちろん、女性が劣っているというわけではありません。男性のなかの男性原理が現状を肯定することなく、三世を貫く法を求め抜く強さがあるということ。また批難に耐える出世間の理想を堅持し、決して諦めないこと。

    『このように、男性原理と女性原理の特質を押さえたうえで、「法華経」薬草喩品第五の
    「現世安穏・後生善処」(現世は安穏にして、後に善処に生ぜん)
    の文を、これにからめて展開されています。
    この八文字を、「現世安穏」と「後生善処」の前後二つに分け、まず、その前半について「現世安穏は求女の徳なり」とされます。「現世安穏」だから、今現在と、身の回りのことに重点があるということです。その反面、未来への展望と広い視野に立つことが、この段階では欠けています。この「現世安穏」を求めることが女性的在り方を求めることであり、それが「求女」でもあり、女性原理でもあります。
    それに対して、後半部分については、「後生善処は求男の徳なり」とされます。現在という目の前のことよりも、むしろ「後生」、すなわち未来の理想に目が向いているということでありましょう。この「後生善処」を求めることが、男性的在り方を求めることであり、それが「求男」であり、男性原理となります。
    こうした両者の在り方が、本因妙、本果妙という姿勢となってくるのであります。すなわち、「現世安穏」として現在の結果に満足する本果妙と、「後生善処」として現在の因から未来を志向する本因妙としてであります。こうした違いを踏まえて、あえて男性原理と女性原理を本迹に分ければ、「百六箇抄」の「男は本・女は迹」となるというわけです』


    論旨の経過をまとめると
    男性原理 本因妙 求男 出世の果報 後生善処
    女性原理 本果妙 求女 世間の果報 現世安穏

    仏法は真理が連環していることが理解できます。一つのことに疑問を持つと、次々と疑問の連鎖が起きるということ。日蓮も、問いと答えの論文を多く著していますが、教育的指導と探究心、確信的で強い断定は、男性原理に由来するものかもしれません。

    なお本迹について、『根本と枝葉末節を明確にする「本迹」』ということで、わかりやすい説明がありますので引用しておきます。
    『男女の本迹を論じた「百六箇抄」には、
    「立つ浪・吹く風に・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」
    という言葉もあります。
    「吹く風」があるから「立つ浪」があるのであって、決してその逆ではありません。本末転倒した物事のとらえ方をいましめるために、「本迹」を論ずる必要性を強調されています。価値判断として、「迹」を無用のものとして切り捨て、「本」のみを選び取るべきであると言っているのではありません。本論の視点から言えば、男性原理、女性原理の両者がそろってはじめて完結することを前提としています。
    「百六箇抄」は、このようにあらゆることを本迹という観点から位置づけ、本末転倒した物事の捉え方を正し、何を根本とすべきかを明らかにし、その上で「本」と「迹」の両者の在り方を正そうとしていると言ってもよいと思います。この「本」と「迹」は、「本末転倒」の「本」と「末」の関係と似ています。
    「本」とは「本地」の略で「本来のあり方」ということです。「迹」とは「跡」と同義で、「あと」を意味します。両者は、「足」に対する「足跡」の関係になります。…太陽に手の平をかざせば、地面にその影ができます。この場合、手の平が「本」であり、地面に映った影が「迹」となります。<影があるから手の平がある>のではないことは、だれにだって分かることです。
    (中略)
    このように、先の「百六箇抄」の一節は、「本末」を明確にして、何が根本で、何が枝葉末節であるのかを見定めることの大切さを言っています。
    …自然科学や、社会科学における因果関係、あるいは「只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり」と形容される心のさまざまな働きにおいては、しばしば本末転倒した認識がなされているように見受けられます。こうした認識の誤りに付け込んで、さまざまな迷信、インチキ宗教がはびこりやすいから、「本迹」を立て分けて弁ずることが重要になってくるわけです。
    こうした議論は、天台大師が「法華玄義」巻七上に、
    「不識天月・但観池月」(天月を識らずして、但池の月を観る)
    という言葉を残しているように、「天月」と「池月」という例でも盛んに議論されています。それほどに私たちの認識が本末転倒したものになりやすいということでしょう』


    このような考え方は、妙法の根幹的な考え方の一つですが、この本迹は創価の御本尊問題にも当てはまります。当然のこと、大御本尊は本、その他の御本尊は迹です。迹の御本尊にも真実は内在していますが、それは本の大御本尊を投影し、その力用があらわれた時のみです。大御本尊が宗門の偏屈な石頭の坊主の息がかかるところにあることに、わたしは腹が立って仕方ありません。まるで、腐った泥のなかに咲いている白蓮華です。
    信濃町の大聖堂に安置されている創価学会の常住御本尊は、第2代戸田会長が発願し、当時の日蓮正宗日昇法主によって書写、授与された紙幅の本尊を、板に彫刻したものです。
    日昇上人は自分勝手に、その構造を決め、御本尊をしたためられたのでしょうか?
    日寛上人を含む歴代上人がしてきたように、必ず手本があったのです。つまり、御書にあるように、日蓮の魂魄を留めて生命を移すようにしたためられたことは自明です。御本尊には由緒が大切です。どのような深い信心の者によってしたためられたかどうかです。いい加減な信仰者が、どのように立派に書道の腕を発揮したところで価値はありません。
    人間には誰しも、生物学的な唯一の父母から、必ず両親の遺伝子を受け継ぎます。法と信仰の血脈とは、この遺伝子に象徴される親の生得の尊厳を受け継ぐことなのです。創価の本部常住の御本尊は、一閻浮提総与の大御本尊の遺伝子を受け継いでいます。戸田先生は、そのような御本尊を望んで、広布のために願主となられたのです。したがって、何度も繰り返し、頑固に、大御本尊から離れてはいけないとご指導されているのではないですか。会員を第一に思う替えがたい慈悲があるからです。この御本尊の普遍性は、池田先生もかつてご指導されていたように、永遠に変化するものではありません。環境や時代に関係なく法則は普遍的なのです。そのことを信じられるかどうかが、妙法の信仰なのです。
    しかし、池の月はただの影なのに天月だと言い張り、創価の在家僧は否定しました。迹を本と偽り、根本の問題を避け本質から目をそらしている。創価も、多くの会員も、今まで何を信じてきたのか、とても疑問に思います。創価流の教条主義に犯されている。五老僧の追随者に成り果て、正しい法の分別に迷っている。戸田先生が、75万世帯の広宣流布の願業を達成されたのも、会員の大御本尊への篤い信仰があればこそです。今はその恩を忘れている。
    広布のための御本尊と、まるで悲鳴のように叫び散らしますが、広布のための御本尊といったら大御本尊よりないでしょう。真実が失われる末法の時代相を鮮やかに写して、本末転倒に気づかないとは、戸田先生も嘆き悲しむことでしょうね。
    都合の悪いことは忠実な弟子にやらせ、池田先生自らは、知らん振りを決め込んでいる。また会員を欺き続けている。創価の師弟は、一貫性が失われ、教義の整合性を、自ら捨てている。名誉や勲章で着飾り、永遠の指導者などと祭り上げられて、羞恥心とか、人間が感じる普通の情感や理性がないのでしょうか。釈尊も日蓮も、悟った者がどれだけ質素で謙虚であったか。余計なもので飾らないシンプルさのなかに、人間の偉大さが表れます。

    信と解は信仰者の両足のようなもの、信解があるから立つことができる。信が深まれば解も深まり、解が深まれば信もダイナミックに躍動する。成仏の成就は信解の協調によるものです。しかし、大御本尊への信仰と受持を否定した創価では、信解の調和の後退を引き起こし、人格完成の成就の道をふさぐ。

    Impossible
    Two Steps From Hell
    (feat. Merethe Soltvedt)





    ◇◇◇

    P.S.
    植木氏の「法華経・現代語訳」を読むと、いろいろなことに気づく。詳細は実際に読んでいただくとして、最後の解説に次のようにあります。
    『原始仏典を読む限り、仏教の目指したことは、次の三つにまとめられる。
    ①一貫して平等主義を貫いた。
    ②徹底して迷信・占い・呪術・ドグマを否定した。
    ③真の自己に目覚めることを最重視した。』

    このような仏教への基本的な理解は、大変重要です。植木氏は、仏教の歴史を簡潔にたどりながら、男性・出家者中心主義、権威主義的傾向、歴劫修行、釈尊の神格化、などを説明しながら、優れた思想でもあった仏教の形骸化が免れなかった史実を語ります。
    法華経をはじめ大乗の主張は、釈尊の原点に還れをスローガンとするルネサンス運動であったことを、平等思想と一仏乗を説く法華経信奉者の人間像を通して描きます。畏れることなく、権威主義や非難と暴力に立ち向かった菩薩が、実際に存在したのです。権威主義といえば宗門の僧侶の姿が思い浮かびますが、最近は、創価もこの部類に入りそうです。聖職者と詐欺師は紙一重。いくら偉大な妙法でも、その動機と根拠がいかがわしければ、搾取し隷属させることはできても成仏は叶わない。

    「終わりに」という最終章で次のようにまとめております。
    『教団運営だけでなく、思想の理解の仕方において形骸化を免れない。例えば、大乗仏教は、あらゆるものを実体視して執着することを戒めた「空」の思想を説いたが、後に「空」ということ自体もまた実体視され、執着するようになってしまった。「空亦復空」(空もまた空)を言わなければならなかったゆえんである。それでも、さらに「空亦復空」自体も実体視され、「『空亦復空』亦復空」(「空亦復空」もまた空)を説かねばならなくなり、その無限連鎖が繰り返されるのではないかと心配したくなるほどである。
    権威主義を排し、一仏乗という卓越した平等思想を唱えた「法華経」も、形骸化され、権威の象徴に祀り上げられることもあるかもしれない。それは、ほかならぬ「法華経」自身が「正しい教え(正法)に似[て非な]る教え」(sad=dharma-pratirupaka,像法)という言葉を用いて懸念していたことである。歴史の教訓として、常に原点(原典)に還ることが重要である』


    永遠の指導者という権威の象徴から、牧口、戸田先生の原点に還ることです。正しい教えに似て非なる教えとは大変示唆に富む言葉です。形骸化という、真実を求めようとしない姿勢は、像法時代という過去にあるのではありません。常に、現在の求道者の心理のひだに在り、膜が張られるように感性と理性を麻痺させ、錆びついていく命の衰えを表しています。それでいて自らを顧みず、わたしは正しいと主張するところに、不幸への連鎖は始まると言ってもよいでしょう。創価の御本尊は、日蓮のアイデンティティーを喪失しています。可能すら不可能にする、実現性への疑問が次第に強くなっていくでしょう。会員の減少が、その事実を何より物語っています。自然増や自然減といった認識を越えています。公にできないほど著しく減少している現実に、目を閉ざしている。人を引き付ける宗教性や、哲学的要素の具現性が、創価では薄らいでしまったということでしょうか。

    『現代語訳』の方便品を読んでいたら、気になるところがありました。それは、有名な十如是の一節です。サンスクリット(梵語)の原典と鳩摩羅什の漢訳と現代語訳を対照させ、綿密な分析と注釈を付けて、著者が言明しているように、曖昧さを残さない翻訳に挑戦しています。真面目な会員なら、毎日読誦している方便品の最も重要な箇所でもある十如是は、丸暗記していると思いますが、サンスクリットからの現代語訳は、次のようなものです。
    『それらのものごとは(諸法)は、何であるのか、また、それらのものごとは、どのようにあるのか、また、それらのものごとは、どのようなものであるのか、また、それらのものごとは、どのような特徴を持つのか、また、それらのものごとは、どのような固有の性質(自性)を持つのか――[すなわち、]それらのものごとは、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのかということを。それらのものごと(諸法)に対して、如来だけが[上記の五つの点において]明瞭であり、明らかに見ておられるのである』

    この部分の注釈に
    『この五項目に相当する箇所を鳩摩羅什は、「如是」(是くの如き)を冠した十項目、すなわち相(外面に現れた姿)、性(内面的な性質)、体(本質・本体)、力(内在的な能力)、作(顕在化した作用)、因(内在的な直接原因)、縁(補助的な間接原因)、果(因と縁の和合による内在的結果)、報(内在的果が具体化した顕在的結果)、本末究竟等(本と末、すなわち相から報までのすべてが融合していること)――の十如是として訳している』

    鳩摩羅什によって、五項目が十項目に拡大解釈されましたが、漠然とした法理が、きっちりとした言葉によって定義され表現されました。
    「ほんとうの法華経」(ちくま新書)でも、対談者である橋爪大三郎氏(社会学者)が質問しています(「第二章」 p113)
    『橋爪 さもなければ鳩摩羅什が勝手に創作して、五つだったものを十にしたことになる。
    植木 その可能性が高いと思います。
    橋爪 植木先生は、なぜ鳩摩羅什がそこを拡充したとお考えになるんですか。(中略)
    植木 サンスクリット原典で「諸々の法は、何であるのか、どのようにあるのか、どのようなものであるのか、どのような特徴を持つのか、どのような固有の性質(自性)を持つのか」という疑問節(間接疑問文)で表現したことを、鳩摩羅什は「諸法の実相」(あらゆるものごとの真実の在り方)と漢訳したと思います。その際、「諸法」を「諸々の教え」だけでなく、さらに一般化して「あらゆるものごと」にまで拡大して、その存在の在り方、因果の連鎖の在り方として、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等という十如是になったのかな――と推測するしかないですね。(中略)
    橋爪 これはもう、鳩摩羅什の創作ですね。
    植木 そうですね。鳩摩羅什は、先ほど言ったように会座の参列者数の1200を、12000にして数字の桁数を繰り上げたり、同様の文章が繰り返される時、そのうちの一ヵ所に、わかりやすくするためだと思いますが、ひとこと書き加えたりするようなこともしております』


    十如是は天台の一念三千法門、日蓮の十界曼荼羅の基礎です。学術的には、一般的認識である鳩摩羅什の創作について、わたしは不勉強で知りませんでした。
    以前、仏教は再解釈の歴史であると書きましたが、このような英知の結実の連続なのですね。仏教という大きなカテゴリーは、とても寛容です。釈尊が説かなかったことも、仏弟子たちの論証と思惟を取り入れ、消化する真理の深さを実感しますが、創価が創作した創価学会仏には感心しません。選挙運動する仏や菩薩は想像できません。根本を変えて漂泊する放浪者のような信仰者に、果たして未来はあるのでしょうか。

       
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    男性原理と女性原理 1

    相撲協会のアホらしい事件が、また起きました。土俵の上で急病のために倒れても、女であれば救命もできないという認識らしい。相撲協会の驚くべき女性蔑視。国技といっても、歴史のなかで培われてきたスポーツではないでしょうか。まるで男と女は別の生物のように扱われている。土俵が穢れるらしい。人間より土俵の伝統が大切という考え方が、暴力問題と同じ病根のように思われる。多分、貴ノ花親方が感じていただろう問題意識と同じ。協会は重病と考えたほうがよい。その体質と伝統という慣例主義につける薬ありません。
    神事は儀式と形式の一フォルム。女神の神話の由縁は、男性本位の自己正当化に他ならない。女神が女性を差別するストーリーにどんな説得力があるというのでしょう。伝統に敬意を表すのは必要なことですが、その理由が女性は穢れているという偏見には同意できません。女性が穢れているなら、男性も穢れている。
    貴乃花親方は、不甲斐ない弟子のために重い責任をとりました。断腸の思いだったでしょう。でも改革精神がほんものならば、十年や二十年の雌伏のときがあっても、きっとやり遂げるだろう。名横綱の静かな勝負を見守りたいと思う。
    異端と言われるマイノリティーは、常に批判にさらされて、社会的不適合者というレッテルさえ貼られる。あるいはスキルや運動論、意見の相違の次元なのに、人格の正常性まで飛躍し、人間性を否定される。感情的議論にはため息が出るほど疲れます。
    その後、春日野巡業部長のウソの会見が発覚しましたが、はっきり言って、珍しいほど愚鈍だと思う。厳しい勝負の世界を経験してきたとは思えない無責任ぶりですね。恥ずかしくないのでしょうか。協会幹部という指導者ではありません。

    テレビで一般市民にインタビューしていましたが、そのなかで伝統は守るべきだ、女人禁制は当然、土俵にあがるべきではないという中年女性の言葉には唖然。一般的に女性のジェンダー意識は大変低く、女性が女性の権利を狭め、辱めている。正当な権利主張を放棄しています。

    レスリング協会のパワハラ問題も、第三者委員会によって調査報告され、栄本部長のパワハラが認定されました。一連の問題経過のなかで強烈な印象を残したのは、谷岡郁子副会長(至学館大学学長)の記者会見でしょう。
    伊調選手に対して「そもそも伊調馨さんは選手なんですか?」と発言。オリンピック4連覇の偉業を成し遂げた選手へのリスペクトがまったく感じられませんでした。しかも協会の副会長という立場にありながら、選手の一番身近な存在でありながら、レスリングへの深い紐帯も感じられなかったのはどうしてでしょう。失礼な言い方ですが、口の端が歪み、筋肉が痙攣している醜い顔の表情が印象に残っています。それなりの年齢を重ねて人生経験も豊富でいらっしゃるのでしょうが、なんといっても攻撃的で威圧的なオーラに包まれていたこと。女性的な品位がなかったこと。それが顔の表情に表れていたのでしょうか。競争心が強く、悲しいほどに男性化しています。なんらかの傷を負う覚悟がなければ近づきたくない人間のタイプですね。

    レスリング協会も相撲協会も、根底に乱暴な体練の歴史があるのかもしれません。レスリング道、相撲道と表現されるように、悟りを求めるような厳しさとともに精神論への過剰な傾斜があるように思います。スポーツは限界の挑戦ですが、期待通りにいかないと感情的になり冷静さを失うのでしょうか。実績と比例して謙虚さが必要です。
    どちらも女性に関連した事件なのが残念ですが、社会の底辺にはジェンダーギャップを抱え、惨めな思いをしている女性が多くいることを認めてほしい。そしてサポートやアシストの手を差しのべてほしい。倫理的に理想像を説き、男女不平等の解決への模範となる宗教への期待を、あきらめずに継続していきたいと思う。


    ☆☆☆


    創価は、佐藤優氏を多用し大好きですが、仏法の専門家でもない者に、仏法を語らせる記事を濫用している。読者は好んで読んでいるのですから、わたしがとやかく言うこともありませんが、創価では哲学的深さが失われたために、キリスト教の庇(ひさし)を借りようとしているのでしょう。潮に連載された「池田・トインビー対談を読み解く」は、期待はずれの感があったので、なぜ創価で歓迎されるのか不思議に思いました。会員はトインビー対談など読まないということでしょうか。
    最近、Eテレの番組で話題になっている、優れた法華経学者でもある植木雅俊氏を、意識的に忌避するのはどうしてだろうか。今こそ必要な学術的叡智を披瀝する教養を持ち、以前からずっと注目していましたが、創価では大学教授といった地位の有無で判断しているように感じていました。あるいは、先生の嫉妬があるのではないかと勘ぐったりしました。創価の排他性、閉鎖性を垣間見る思いです。悲しいことに、会員は自分独自の評価を放棄しています。信仰の功徳であり、桜梅桃李の本質である自律性がありません。
    偏狭なアカデミズムを嫌っていたのは師である中村元博士であり、敷衍してわたしから言わせれば、営利目的の偏狭な宗教界には近づかないほうが、研究者として純粋でいられるようにも思います。植木氏は、しかも創価の会員でもあるらしい。

    『仏法と申すは道理なり』(四条金吾殿御返事)
    おそらく日蓮の思考形跡をたどることになる末法の仏弟子たちは、(最初の命題)仏法は道理であるという当たり前のことを、もう一度確認しなければならないでしょう。現在の創価では、論理的に道理を尽くすことが忘れられている。
    池田先生は一度も、大御本尊を否定されていないのに、会員は師の言葉を無視している。そのことに何も罪悪感がないのか、不受持の妥当性を根拠もなしに主張してはばからない。
    騙す、偽るという魔性の人格は、先生に宿っているのではないだろうかと、わたしは、何度も繰り返し疑問に思い再考しました。信仰の根本に無関心の愚者にだけはなりたくないとの願望があるからです。わたしの信仰は、たとえ他者への働きかけを行ったとしても、わたしだけのものであり、わたしの人生の顛末を物語るものです。他者への依存ではなく、どこまでも自己責任で、というスタンスを持ち続けたいのです。
    仏教学者・中村元博士の元での研鑽を経て、植木氏の転機となった著作、「男性原理と女性原理・仏教は性差別の宗教か?」(中外日報社・1996年)は、自身の博士論文を基調に、「中外日報」に連載、また仏教の女性観について「第三文明」に掲載されたものをまとめたものです。その最後の章で、「三惑を乗り越える智慧」と題して、次のように書かれています。
    『天台は、この貪愛・無明をさらに詳しく論じ、見思・塵沙・無明の三惑として論じました。
    第一の「見思惑」は、見惑(道理や理屈における迷い)と、思惑(感情、感覚、本能的な迷い)の二つからなります。このそれぞれは、既に論じてきた男性原理と女性原理のマイナス面に当たります。
    二乗は、この二つを乗り越えて阿羅漢果にいたるとするのでありますが、次の「塵沙惑」で、それはもろくも崩れてしまいます。塵沙惑、文字通り塵と沙(砂)ほどに無数にある現実ということです。具体的に言えば、人間関係に代表されます。その人間関係は、だましたり、利用したり、足を引きずろうとしたりすることが多い世界であって、かかわるのも嫌になるものであります。だからこそ特に二乗(声聞、縁覚)は、人間関係を否定し、切り捨てて自分自身の内面世界に理想像を研ぎすますという生き方に陥ってしまいがちです。ところが、人間関係をいくら否定しようとしても、人間として生きているからには、人間関係を否定できるものではありません。その厳しい現実に立ち返ったとき、結局、見思惑という男性原理、女性原理の差別面、マイナス面にとらわれてしまうのであります。
    これを打ち破ることができるのが、菩薩の生き方でありました。だから、先に触れた「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」の一節で、「弘めん者」という条件が付けられていたわけです。自行化他の実践という、他者との大乗菩薩的かかわりが前提となっているのであります』


    化他行のするほうもされるほうも性別に関係ありません。化他行に差別があると弘教ができません。広布もありません。また十界論は生命次元の差別ですが、性別の差別ではありません。当然のことですが十界論は、性別以前の人間共通の真理。性にこだわる不平等は、特に男性の心に突き刺さった毒矢です。社会が男性原理で機能してきたからですが、体制に迎合する女性の媚もありました。媚は、現状維持のための女性に付属する属性なのかもしれません。すべての出発点となる絶対基準は、仏法で説く深い叡智よりありえないと思う。
    上記の書は推敲に問題がありますが、著者の初期作品として平易な仏教平等論の金字塔です。
    その後上梓された「釈尊と日蓮の女性観」(論創社・2005年)は、ほとんど同じ内容に加筆されて、深い洞察が冴え、ジェンダーバイアスの悪夢から解放されるための必読書。日蓮の女性観の合理的思考を、明晰に、クリアに文章にしています。
    そのなかで、「月水御書」に見る女性観と題した段落が鮮明な印象です。
    『この手紙は、大学三郎夫人が「月水(月経)の時は経を読まないでいるべきなのでしょうか」と質問してきたことに対して答えられたものです。当時、「月水」を忌み嫌うというような発想があったのでありましょう。
    その手紙の中で日蓮は、
    (中略)現代語訳しますと、
    「日蓮は、ほぼすべての聖教に目を通しました。しかし、月日を明確に決めて、酒や肉、[葱などの]五種類の辛味のある野菜、そして淫事などの不浄を禁じているように、月水を忌み嫌っている経や論は、これまで見たことがありません。釈尊在世の時に多くの女盛りの女性が出家して尼になって仏法を修行しましたけれども、月水の時だからといって嫌われるようなことはありませんでした。このことから考えましても、月水というものは外からやってくる不浄(穢れ)ではありません。女性の体にもともと具わった単なる周期的現象であり、生命の種を継承する原理に基づいたものであり、またその時に体調が崩れるのも長病のようなものにすぎません。それは、ちょうど屎尿が人体から排泄されますけれども、それによって体内が浄らかになるのと同じことで、何の特別の意味もありません。この程度のことではないでしょうか」
    となります。
    ここには、迷信じみた発想はかけらもありません。合理的思考が貫かれています。死や人間の排泄物などとともに、血を不浄なもの、穢れたものとしてしていたヒンドゥー社会の観念と全く対照的です』


    また、 提婆達多品で説かれる竜女の「変成男子」について、ヒンドゥー社会に配慮した妥協的表現として詳細に解説しています。万人成仏、万人平等の大乗仏教運動は、インド社会において対立的で異状な抵抗があったと推測されます。性の相違の差別よりも、もっと根本的なカーストがありました。この階級差別は世襲であり…世襲も差別…頑丈な社会構造の基礎をなすものであり、支配者の強固な論理で組み立てられています。古代インドに侵入したアーリア人の征服から始まったといわれています。
    植木氏は、中村元博士の見解を引用しています。
    『婦人蔑視の観念に真正面から反対していることもあるが、ある場合には一応それに妥協して実質的に婦人にも同様に救いが授けられるということを明らかにしている場合がある。そのために成立したのが「男子に生まれかわる」(転成男子)という思想である』
    『この思想はすでに原始仏教時代からあらわれている』
    とも指摘している。

    ジェンダーギャップの根源は有史以来の人間が作り上げた文化とともにあるのです。差別意識は、生命に具わるそもそもの傾向性なのかもしれません。不軽菩薩が実践した尊厳に対する修業は、とても画期的な生命浄化運動、社会改革運動であったことがうかがえますが、不軽のように不屈の魂で実践した人々がいたものと思います。
    法華経を理解し説くことの難しさを改めて思います。ジェンダーにもとづく偏見や不平等は、ヒューマンギャップの変性とも言えます。生命尊厳に準拠した思想の展開は、現時点で人間主義運動が的確に時代の要請を受けているでしょう。しかし、残念ですが、創価には決定的に、指導者の不在という欠陥があることを指摘しなければならない。永遠の指導者に続く独創的なアビリティーを持つ才能は見当たらない。50年経てば、創価は壊滅的な弱小教団に縮小し、信濃町の創価村も荒れ果てた廃村になっているかもしれません。


    Illusions - Thomas Bergersen




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    Lose Yourself

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    嘆いたってなんになろう
    不平等を訴えても解決するというのか?
    考えるべきことも考えず
    やるべきことも行動に移さず
    陽気に振舞っても後に残るのは虚しさだけ
    変えていかなければならないのだ
    自分をとりまく周りのものを
    右から左に左から右に
    自分の意志で
    与えられた環境なんか何の役にも立たない
    自分で始めから作り直すのだ
    もしも反対にあったら説き伏せろ!
    熱意が汗のようにほとばしり
    瞳を輝やかせて
    強靭な鉄拳を見舞ってやれ
    圧倒するのだ
    重戦車のように圧倒するのだ
    できるだろう
    できるだろう
    君ならできるだろう
    右から左へと歴史を動かし
    左から右へと信念を突き動かし
    変えるのだ
    不可能と思えたことを可能にするのだ
    それが君に与えられた
    タフな君に与えられた
    使命だ
    役割だ
    スリリングに疾走する世界の革命だ!

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    『90年代、正確には1992年以降、日本は名目金利は0%であっても、民間企業は市場で資金を借りない、簡単に言えば、市中に資金の借り手がいないという状況を経験しました。企業は、簡単に言えば、投資をして利益を増やすより、借金の返済、債務を最小化して企業の財務内容を良くする事を優先したため、投資はまったく増えませんでした。金利がゼロでも企業は金を借りて設備投資をしないという状況が出現したわけです。銀行には巨大な返済資金がたまりました。そのため、政府が債務の形で資金を調達し、大規模な財政出動をすること以外、景気回復の処方箋はありませんでした。
    その間日本では土地を含めて、資産価格が80~85%暴落をしたのですが、政府の財政出動のおかげで日本のGDP約5兆ドル(500兆円)がそのまま維持されたのが日本の歴史です。日本はその教訓を活かして、今回の危機に対応するにあたって、財政の持続可能性というものに配慮しつつ、これまでに総額約1200億ドルの財政出動を行っております。さらに、新たに約1500億ドルの財政出動をいま実施に移そうといたしております。この新しい対策だけでGDP比約3%になります。一方、欧州も、経済回復プランを発動しておられます。今後とも日欧は、意思疎通を蜜にして適切なマクロ経済政策の運営をしていく必要があろうと思います』

    (麻生首相の欧州における政策スピーチ)
    「グローバルな課題を克服する日欧のパートナーシップ」平成21年(2009年)5月5日


    麻生首相は、08年9月のリーマン・ブラザース破綻で始まった金融危機を、「100年に1度の暴風雨」と位置づけ、国民生活を守るために、全力で危機に立ち向かうと力強く宣言しました。アメリカに対しても「サブプライム問題に端を発した金融危機では、証券化商品のあらゆる段階に不適切な行動が見られた」と批判。そのうえで各国が、それぞれ監督する現在の仕組みでは、十分なリスク管理ができないと主張し、国際的な危機封じ込め作戦で、リーダーシップを発揮する自信を示した。金融危機とともに総理になり、1年後に、国民の信頼を失うまで頑固に自説に固執し続けたが、一向に回復の道すら見えない状況に、理想と現実のあまりのギャップに、ギブアップして自滅した。

    日本のバブルは、91年の崩壊から「失われた10年」を経て、99年になってやっと不良債権の整理回収機構ができて、最終的に処理されるまで、4年あまりを必要とした。つまり15年の長きにわたって、日本は苦境にあえいだのです。麻生首相が自信を示しても、その後も、本格的な経済回復がなかったのは、グローバル化のなかでの日本の未来設計を誤ったとしか言いようがありません。国家のリーダーには50年後、100年後とは言いませんが、せめて、1年後、2年後の設計図は描いていただきたいというのが、国民の切実な願いです。
    現在も働き方改革が問題になっていますが、非正規雇用の深刻な生活実態、残業増加と密接にリンクしている過労死問題、残業に制限を求めない働き方改革、職能給としての性格を高めて企業の経済的負担を減らそうとする考え方を進めている。実質賃金は96~7年を境に下がり続けています。選挙のたびに強調する福祉政策は、その場しのぎと言ってもよいでしょう。
    不安定な派遣労働者の増加を意図した当時の日経連が、1995年に発表・提言した『新時代の「日本的経営」』という文書があります。ここでの労働力の3グループ化は有名です。その後の労働環境を大きく変える事態となりましたが、経済界と強く結びつく労働行政は、現在の殺伐とした社会の根本原因になっています。

     ①長期蓄積能力活用型グループ【従来の終身雇用(常用雇用)】
     ②高度専門能力活用型グループ
     ③雇用柔軟型グループ

    この分類は政治的なサポートを受けて、雇用の劣化を促し、社会そのものの劣化を招きました。雇用の劣化は経済的貧困層を増大させ格差拡大をさらに推し進めました。

    グループ雇用形態対 象賃 金
    長期蓄積能力活用型
    グループ
    期間の定めのない
    雇用契約
    管理職、総合職、
    技術部門の基幹職
    月給制か、年棒制、
    職能給、昇給制度
    高度専門能力活用型
    グループ
    有期雇用契約専門部門(企画、営業、
    研究開発など)
    年棒制、業績給、
    昇給なし
    雇用柔軟型
    グループ
    有期雇用契約一般職、技能部門、
    販売部門
    時間給制、職務給、
    昇給なし


    雇用の多様化のなかで「雇用のポートフォリオ」という考え方を打ち出しました。雇用柔軟型とは、自由なライフスタイルをイメージさせるフリーターのことですが、非正規雇用として労働市場で買い叩かれました。パーツとして代替可能な存在は、社会の支配者層にとって、とても都合のよい雇用契約の若者の増加を招きました。企業の経営環境から言えば、いつでも整理できる非正規雇用を増やし、不況時のリスク回避ということ。抜本的改革が必要と叫ばれて加速された小泉政権の規制緩和の影響は、労働界までおよぶと同時に、社会基盤を破壊し、若者にとって生きづらさに発展。底辺の貧困層を拡大しました。
    公明党は、2000年頃から本格的に始まった自民党との連立で、政策推進の一翼を担うことになりましたが、決して福祉政党と強く主張するほど弱者を考えているわけではありません。会員は、政治を監視すると口癖のようにアピールしますが、政策を十分に精査するほど熱心ではありません。やがて高齢化の波が絶え間なく本格的に押し寄せるころに、少子化が社会構造を変えるころに、なぜこんな生きづらい世の中なのか、信仰とは無関係に創価の底辺に広がっていくことでしょう。
    師弟不二の継承不良が原因ではなく、経済的環境の悪化による会員の貧困が創価を崩壊させる。財務、無理な聖教啓蒙と贈呈、多部数購読、いずれも忠誠心と見返りを期待させる功徳心に訴えて、お金の算段をさせる創価の狡智な手段です。やがて自分勝手に問題を起こして他人のせいにしながら、自業自得を難と捉え、宿命転換する信心指導が流行することでしょう。
    そのころになればお土産本尊も登場するかもしれません。創価では本尊は大して重要ではなさそうですし、なんでも同じだと指導しているのですから、血脈断絶の本尊もそれなりに有効なのでしょう。質的有益性ではなく宗教法人内にのみ有効なプライベート本尊というところかしら。宗教の根本思想、普遍性・永遠性に問題があります。

    フリーターやニートの増加などの雇用問題は、技能形成期に高度な技能を蓄積できないことによって、若年者本人がキャリア形成を図ることができないばかりでなく、企業にとっても技能継承などの面で問題を抱えることになります。さらには、将来の国家経済を支える人材の確保が困難になり、経済社会の活力や国際競争力を維持できなくなる恐れもあります。国際競争が激化するなかで、高付加価値化による競争力強化を図るためにも、企業の将来を担う人材の確保・育成を図ることが重要であり、そのことは、日本経済・社会の安定的な発展のためにも必要となっています。

    労働者派遣は、法制上「臨時的・一時的な労働力需給調整システムの一つ」として位置づけられており、期間を限定した働き方であることを念頭に置く必要があります。
    派遣期間をさらに延長するのであれば、テンポラリー雇用(一時的、臨時雇用契約)としての性格を失い、単なる勤労者の階層化につながることになります。法の趣旨を踏まえれば、派遣可能期間を超えて派遣労働者を使用する場合に、雇用契約の申し込みを義務化することは当然のことといえます。
    派遣労働者のコストが正社員よりも低く、雇用調整が容易であるために、正社員から派遣労働者への代替が進んでいますが、労働者派遣法の目的のひとつは、労働者派遣が長期雇用者の代替となり、長期雇用システムを侵食しないようにすることにあることを忘れてはなりません。派遣期間の拡大などの労働者派遣法の規制緩和は容認することはできないものです。

    トインビー博士は「二十一世紀への対話」で、既成権威への若者の失望を要約して述べています。そのなかで
    1.権力を握っている中年の世代が、世の諸問題を満足に処理できずにいるところ。
    2.技術の加速度的な進歩のために、事態の変化があまりにも急激であり、しかも、それが険悪な方向をたどっていること。そのため若者世代は、世代交代によって自分たちの時代がくる以前に、現在の中年層が取り返しのつかない破局を招いてしまう恐れがあること。
    3.若者たちが年長者に対して疎外感をいだいていること。体制者の活動なり生き方というものが魅力を欠き、威信を失ってしまっていること。
    豊かさのなかの貧困は、より高度化した情報社会が危機に瀕し、個人と国家、組織のあり方に根本的な疑問を投げ掛けています。繁栄と豊かさの定義が曖昧になってきた時代的背景を考慮すれば、問題の本質は、生命変革の宗教的信念と倫理観念の欠落にあると考えます。また指導者資質のレベル低下とその指導理念の欠如に深い原因があるように思えてなりません。


    労働環境は大変厳しいものになっている。政府が雇用環境・有効求人倍率の改善、失業率の減少をアピールしていますが、実体は格差の拡大に拍車をかけている。給与所得は生活安定には寄与していない。特に非正規雇用の生活の不安定さは、無縁社会の象徴のような悲しみをともなっている。弱者の容赦ない切り捨てを容認し推進している公明党も含む与党の政策に、深い憤りを覚える。わたしも公明党の支持者であった過去があるので、その責任上、この労働環境と若年層の生活実態について、もう少し調べてみようと思う。
    創価のなかにも会社経営や取締役を経験した人も多いと考えるのですが、その貴重なエクスペリエンスの蓄積を、積極的に発信していないように思う。意外と支配層は利己主義的傾向が強い。厳しいビジネス環境のなかで生きてくると自然とそうなるものかもしれません。
    創価も少子化の影響をもろに受けていますが、少ない青年部も決して雇用に恵まれている人たちばかりではないようです。むしろ経済的に貧困の恐怖に耐えて、信仰に強い思い入れを抱き、実証の体験をつかみたいと切実に、一途に考えて活動しているのですが、信仰先輩がその期待に応えているのか。むしろ年配者が魅力を欠き、模範者としての規範を維持できない生活上の苦しみがあるのかもしれません。青年部は聡明であればあるほど孤独な信仰をいつも強いられる。純粋であるがゆえに、矛盾と格闘しなければならない。青年はいつも反逆心が旺盛です。荒涼とした人間関係の風景が、創価内にも頻繁に見られるときがくるでしょう。
    創価は宗教団体というよりは、政治団体と言った方が正確なほど影響力を駆使してきました。権力志向が強い執行部の姿を、会員には隠しているように思います。
    会員の活動指針のモデルは、ビジネスコンサルタントがマーケットリサーチするように、プロセスを発掘し、詳細に点検し、新規顧客開拓や既存顧客との関係維持を強める戦略と同じ。
    効率的にコミュニケーション能力を高め、常に人的結集、金員的資源の結果を求める活動のマンネリ化は、いずれその動機のいかがわしさに疑問を持つとともに、経済的背景に不安を抱く会員が増加していくことを暗示しています。また活動家の欠員を必然的に促します。


    ☆☆☆


    uy86164.pngデトロイトはアメリカ・ミシガン州南東部にある都市。09年2月、デトロイトに本社を置く消費大国アメリカの象徴、GM(ゼネラルモーターズ)が破綻した。ニューヨーク証券取引所は、09年6月、同社株を売買停止し上場廃止。それまでアメリカ経済を支えてきた自動車産業は、コンパクトで燃費性能が格段に優れた日本車に市場を奪われ、根本的な会社更生を迫られました。デトロイトの人口構成は80%が黒人で占められています。貧しい黒人が職を求めて集まり定住した街は、失業率は全米一であり、治安の悪さもNO.1という危険都市。

    街は南北をエリー湖とヒューロン湖に挟まれており、東はカナダのウィンザー市に接する。碁盤の目のようにきれいに市街設計され、ダウンタウンから道路が四方に延びている。中心部には、ルネッサンスセンター、デトロイト川の畔に建つビル群は、街のシンボルだ。またデトロイトは、モータウン・レコードの発祥の地として知られる。モータウンとは「自動車の町」という意味であり、モーター・シティ・デトロイトの繁栄と活況を表す言葉でもありました。
    R&Bの洗練されたポピュラリティー、心地よいエレガントさとウォームなセンス、ソフトなメロディとハーモニー・テクニック、call and response の自然に体が動く楽しさ。その一方で計算されたクールな知性とリズム、アイドル性など、それは黒人の街といってもおかしくないデトロイトだからこそ生まれたサウンドとも言える。音楽をはじめ黒人文化の揺籃であったことを裏づけます。
    ダウンタウンから北方、<8マイルロード>は東西に走る真直ぐな幹線です。街では貧富の差が大きくなるにしたがって、ドーナツ現象が起きました。ダウンタウンから<8マイルロード>を境界線に、郊外に富裕層が、内側に貧しい黒人が住むようになったのです。人種は違ってもエミネムもまた貧困層の白人の一人でした。

    マネーゲームは、ウイルスのように伝染し、世界にパニックを招いた。
    自分を失った亡者が、資本主義の最先端思想と思われる新自由主義で、弱肉強食の市場原理を正当化した。何かが間違っている。でもその何かがよく分からない。
    エミネムは自伝的映画<8Mile>で<Lose Yourself>と歌った。楽曲は一度発表されると作り手を離れて成長する。それは元々、価値あるものが表現されていたかもしれないが、時には時代を映す鏡となり、時には時代を導く曲となり、また時を経るにしたがって、支持を拡大し、スタンダードになるのです。
    ヒップホップ・ミュージックが、ブラックからホワイトへと、リスナーを広げたバックグラウンドには、エミネムの役割が大きい。そしてこの曲は、彼の個人的体験から生まれた曲であるけれど、普遍的価値を賦与されて、時代の風潮を映しだしていると考えます。

    72年生まれのエミネムは、多感な少年時代をこの町で成長しました。決して恵まれた環境とはいえないなかで、彼の芯になる導管は純粋な水を絶えず汲み上げていたのではないかと考えます。荒れ果てた都市の大地には、虹色の地下水が流れているのかもしれません。

    口のワルさと軽いフットワークがMCの条件であり、次から次と溢れ出るディープなリリックは、不快な感情を想起させる。それは生理的な不快を感じるものですが、韻を踏んで歌われることによって、聴く者の心に葛藤と闘争心を呼び覚ます。若者は誰でもファイターであるけれど、現実に対する不満の表現を適切な言葉で語ることを知らない。というより過剰な言葉のなかで、自分を持て余している。自分のなかにある表現への欲求が、いくら考えても満たされることがありません。
    <8Mile>のエンディングでのシーン、ラップバトルで優勝したラビットは、残業のために会社に帰ろうとする。彼の後姿が印象的です。地に足をつけた生活が必要なのだと気づくのです。少年から大人へと変化していく姿を捉えていると思う。<8マイルロード>は、越えなければならない心のなかの境界線でもあるのです。
    彼の激しいリリックは、ほとんど彼の実体験が元になっています。下品で聴くに堪えない内容は、少年特有のものかもしれないけれど、もともとラップの激しさはこういうものだと理解すれば、特に驚くことはないのです。彼は、不満と自分が感じていることを語っているだけなのです。
    彼の分身、スリム・シェイディは醜悪なペルソナ。自分自身を客観的に見る方法を始めから身に着けていたとは、彼の才能が本物であることを物語っています。
    社会の敵は、想像するよりはるかに大きく狡猾です。シリアスにテーマの選択をしなければ次第に勢いを失う。アーティストはバカではつとまらない。他者へのリスペクトと励まし、寄せられる共感に対する謙虚さに、それは表れると考えます。

    ヒップホップ・カルチャーならびに淵源となるブラック・カルチャーは、貧困と嗜虐の歴史を塗り替える願いが込められていると感じます。黒人の音楽センスは、とても優れている。リズム・センスも遺伝子ゲノムに受け継がれているようにさえ感じます。プロデューサー・ドクター・ドレー<Dr.Dre>がスリム・シェイディに、新鮮な人格を見たのは、きっと、その遺伝子のせいでしょう。黒人のなかで育ち、黒人とフレンドシップを交わしたエミネムには、後天的に同じような細胞が作られたのかもしれません。<8Mile>で描かれた姿は、まさにその瞬間だったのではないかと考えるのです。

    あれから彼は成熟しました。才能のある者がいつまでも同じ場所にとどまるはずがありませんが、スキャンダルとトラブルが報道されるたびに、なぜ余計なところに、エネルギーを使わなければならないのか残念でならなかったのです。才能は誰にでも無尽蔵にあるわけではなく、ムダに消費すればすぐ枯渇することに気づいて欲しかった。
    あああああぁ~、こんなことは余計なお世話かしら。でも世界を変える力を持っているのに、とても惜しいと自分のことように考えてしまうのです。

    エミネムが育った過酷な環境は、わたしには想像もつかないけれど、彼が家族的親密さと愛情を求めたのはアメリカ的風土というべきものかもしれません。ハッピーでアットホームな生活スタイルは、アメリカ人が強く求める幸せ規準と考えるからです。
    音楽スピリットは目には見えないけれど、闇夜のなかの灯のように、悩める者には希望を、幸せに不安を抱いている人にはささやかな確信を、平等に与えられるものだとわたしは素直に信じています。たとえアーティストであれ、リスナーであれ同じだと思うのですが、エムは今、幸せなのだろうか? 嗚呼あ~、またまた余計な心配。でも、徒労に終っても、わたしはどこまでも優しくありたい。エムを見る目もまた優しいと、自分のことなのに遅ればせながら気づいたのです。
    人間稼業はいつトラブルに巻き込まれるか、分かったものではありません。それは安全運転をしていても、暴走車に衝突されるかもしれないのと同じように、自分に原因がなくても、僅かの行き違いで、気紛れの神を呼び覚ますこともあると考えるのですが、不動の信念とまではいかなくても、顔を背けず諦めないで前を見ていけば、解決の糸口もつかむことも可能なのではないでしょうか。少なくともそう信じたほうが肯定的でアグレッシブな人生の楽しみ方ができるのではないかと考えるのです。問題が起きるのは始めから分かっているのですから。順調に物事が運ぶなんて稀なことと、経験から知っているのですから。

    エムには、一ファンを越えた思い入れがあります。それは憧れる恋人を仰ぎ見る熱いハートマークです。わたしは、雑然としたまとまりのない概念を突き抜けた、力強いテーマの設定を期待しているのです。彼は、混乱から立ち上がる逞しい男だからと思うからです。
    そしてその混乱は、プライベートな痴話喧嘩の類ではなく、また不満や皮肉、非難や意味のない言葉ではなく、社会性を帯びたカルチャーとしての問題提起から、MCの神業を示して欲しいと考えるのです。迷える者へのコンパスを、その言葉の美しさで描いて欲しい。
    <Lose Yourself>と訴えたように。

    エムよ!
    ヨロイのような硬い自我を破り捨て、目を外に向けよ。
    美しく煌めき、そして汚れている青い星の世界に☆彡


    Lose Yourself
    Eminem





    Not Afraid




    P.S.
    最近また、名護市長選挙に続いて、沖縄市長選挙(4月22日投開票)の支援要請が西日本を中心に全国に飛び交っているようです。公明党が基地容認に政策転換したことについて、会員の皆さまは何も感じないのか、意見を聞くことがありません。中身より選挙という創価伝統の政治へのスタンスが守られているわけです。もともとリベラルを装った保守であり、動員数を誇りながら圧力をかける手法は、団体活動として珍しいものではありません。その根底に人間一人一人の独自性、独立性、アイデンティティーの深さを持つ仏教運動の思想的根拠の希薄さがあり、人間主義運動の成れの果てという気もしないでもありません。意識が高く、公平な判断力を持ったフル・アクティビティーな青年部が現れることを祈ります。
    信仰の一つの美徳に儒教的忠義がありますが、これはご本尊への忠義であって、会への奉仕のように無自覚に従うことではありません。自由であるよりは上意下達のような服従に、会員は喜びを感じているのかもしれません。信仰は自由を実現することと理解していましたが、そうではないようです。政党支持の自由を掲げたら、どれだけすっきりすることでしょう。元来、政治と宗教では基礎的行動概念が違います。政治は妥協することであり、宗教は妥協を嫌う教義でその骨格ができています。信仰と政治を絡めた脅迫的功徳論、強圧的師弟不二論をかざしての動員の不純さに、そろそろ気づくときです。師はいざとなれば怖じ気づくのか、かつては自分を守れなどと憐れもないことをくちばしりましたが、邪宗の僧等に等しく、偉くなると品性も卑しく落ちぶれるようです。年齢に関係なく忍辱の鎧を着て、一人立つ戦士を菩薩というのではないでしょうか。わたしったらエムより口が悪いですね。


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