主師親の三徳は誰のものか?

    7年前、怖いもの知らずの女子部の部長だったとき、あるブログにコメントしました。
    芯の通った議論を展開していた婦人部員がホストの、名前も結構、浸透していたブログですが、池田会長勇退の原因にふれた記事を読んで興味を惹かれたからです。
    勇退当時の一般的解説を参考にすれば、創価と宗門は深刻な問題を抱えており、在家と僧のこじれた関係は、いつ爆発してもおかしくないという切羽詰まった状態でもありました。
    池田会長勇退問題の複雑さには、信仰の純粋さと無関係の政治的権力闘争の側面があることに留意しなければならない。いくら正義を強調しても、権力を持つ者が正義を定義し支配することは、歴史の随所に見られる現象です。現在の創価を運営している主要な幹部は、その勝ち組です。また勝ち組に追随する日和見主義者です。問題意識がない傍観者も、結果的に追随者同様、アンモラルな信仰者としての評価を甘受しなければならないでしょう。不本意ならば抵抗するだけです。
    わたしが知りたいのは、創価の決まりきった公式見解ではなく、一般の真面目な会員の疑問と、その疑問にどのように対処したかという信仰者としての当然の行為、一つのソリューションです。ただ祈っていれば、信仰者として十全の円満さを備えているなどと考える人が、未だいることに不審を覚え、創価内部の宗教教育の未熟さを感じております。自分で考え、自分で判断し、自分の責任の範囲内で行動する。信仰とは、ある意味、自分の生き方を問うことなのです。組織は無謬ではないという当たり前の前提が、貢献度の強さが信仰の深さに比例している錯覚に陥るのかもしれません。疑問を持つことが問いの成熟に必要なことなのに、疑うことは信じることと真逆の行為のように考えてしまうのかもしれません。
    わたしは、初心者が抱く当然の疑問として、勇退問題に関連する一つの不可解な創価内部の問題について、ベテラン信仰者に質問を試みました。

    ❖❖❖

    「市丸の雑記帳」
    今は更新されておりませんが、ネットに残っているということは、ご健在なのでしょうか。
    ご高齢で、自分の意見を主張する堅固な意志を堅持されていたことから、強い信心に立たれていたことがうかがいしれます。
    草創期の典型的な模範会員像が目に浮かびます。わたしの祖父母も、そのような風貌を感じさせる信仰者でした。

    2013.05.27のコメント
    会長勇退の経緯を後継の人に伝えていかなければならない、という主旨はとてもよくわかります。時間が経過すれば当時の真意が伝わるとは限りませんし、また歴史は必ず風化するものです。

    わたしも両親や先輩の方々にお話を伺う機会がありましたが、市丸さまのような説明をうけたことはございません。皆さん、よく知らないという印象です。その渦中にあり体験した人々のなかで、すでに風化が始まっているのだと思います。

    わたしはこのような話題に限らず、学会に対し多くの疑問と物足りなさを感じながらも、第一線で戦っています(確かに人生も学活も「戦い」かもしれませんが、わたしはこの勇ましい言葉があまり好きではありません)

    市丸さまにお尋ねしたいことがありコメントしました。
    宗門とこのような問題が起きる直前のことかと思いますが、大白蓮華に教学試験の模範解答が掲載され、「主師親の三徳」について、現在の主師親の三徳具備は池田先生であるという解答がありました。このような誇大解釈は明らかに間違いです。
    わたしが疑問に思うのは、出版される前に多くの編集者、本部幹部、あるいは池田先生の事前のチェックをうけたであろうと推測しますが、このようなとんでもない解答がなぜまかり通ったか、ということです。明らかに冷静さを欠いていますし、師を尊敬するという意味をはきちがえ、無謬でなければならないとする信仰者が陥りやすい過ちが顕著であると思います。

    公平さ、謙虚さ、理性的判断が求められる一つの宗教組織の、このような自分の姿を見失う集団ヒステリー症状というべきものは、度を越した過剰な攻撃性を持ちやすく、宗門と問題を抱えていればこそ、なお慎重さが必要だったと考えますが、学会にも冷静な人物はいなかったということかもしれません。

    市丸さまのお考えをお聞きしたいと切に望んでおります。
    正しい歴史認識、また歴史からの学びこそ、信仰を保つうえで必要欠くべからざることと考えるからです。

    わたしは一度も大御本尊さまにお目通りしたことはございません。青年部のほとんどが同じでしょう。信者が自由に究極の信仰対象に会うことができないという現実は、稀有な信仰冒涜と考えております。そのような状況を作った者は、恐ろしい魔であると断じますが、互いに正義を主張しながら、もっと大きな正義を犠牲にしたのではないかと恐れるのです。これによる罰は(わたしは罰という言葉も嫌いです)、つまり望まない必然的な結果は、すでに双方に出ているかもしれませんし、これから未来に罪障消滅が必要になるやもしれません。

    言い忘れましたが、女子部の部長をやっております。学会関係のあらゆる面で苦慮し、苦闘しております。ミドル、中心幹部とはうまくいっておりません。問題意識の低さにうんざりです。

    子どもは必ず親から生まれるように、そして子どもは遺伝子次元では親のコピーであるように、わたしたちの宗教的日常は、源泉である大御本尊さまを拠り所としています。元が価値あるものであるからこそ、そこから生まれたわたしが大切にする御本尊さまも価値あるものですし、人生の規範となる源泉なのだと確信しております。

    大聖人と本尊、また九界の衆生の命に差別はなく、血脈も正しい信仰者の命のなかに流れることは疑いがないことです。自明のことを議論するつもりはありませんが、大聖人の生き方が信じる者のお手本となるように、妙法の因行果徳の法則も御本尊さまを機縁として顕現するのでしょう。大御本尊さまも、個々の御本尊さまも、内包する法が同じものであれば、何も疑うことはなく、ためらうこともないのです。大御本尊さまは山の頂きであり、その頂きからすべての道は下っている。先生も「法性の大地」とご指導されております。卑近な譬えですが、発電所の電気と各家庭の電気には何も違いはないということです。
    法はつまり信仰のあり方を説いたものであり、また信仰は頂きをめざすものであり、無上の道も正しいコンパスがあればこそです。そのコンパスを血脈と言うことを、真面目な会員であれば十分に知っていることです。

    しかし、誰でも懐かしくふるさとを思いだすように、遠く離れていればときには母親に会いたいと思うように、大御本尊さまを慕うのは、信仰者として自然の心情です。

    たぶんわたしの言い方は矛盾を免れません。理性と感情はときには相対立するものです。

    正義は論理的裏づけがあってこそ主張できると思います。破門が正義でないことは明白ですが、仏教史は言ってみれば、仏弟子、仏道修行者の正統をめぐる争いの歴史でもあったのではないでしょうか。法は厳格に堅持しなければならないと考える一方で、時代に即応した柔軟性があってしかるべきと考える信者と出家者の対立は、今に始まったことではありません。僧は格式張った権威の虜となり、法という絶対規範を振りかざして主従の関係を築こうとします。宗教的権威なるものは実は空虚な空箱同様のものであることを、わたしたちははからずも経験しました。

    創価ルネサンスは悠久の歴史から見れば始まったばかりですが、仏教本来の人間尊厳に焦点を当てた原点回帰運動と理解できます。また多岐にわたる教理の、一つの真理の解釈史という側面もあります。出家者が「人間主義」という言葉や定義が仏教史にないからといって否定するのは愚かというしかありません。
    正義には世俗的なものと普遍的なものがあるでしょう。お金で売買するような卑猥のものと、等価物を持たない高等なものがあるでしょう。万人に受け入れやすい方が正しいとはかぎりませんし、たった一人の正義が正しい場合も十分にありえることです。

    信徒の大御本尊さまへの面会拒否が、大聖人の御心に叶わないことはあらためて言うまでもありません。慈悲深い大聖人がそんな仕打ちをするはずもなければ、求道者を遠ざけようと望むはずもありません。その原因を作った者は、日顕宗の悪侶たちだけだったのでしょうか?
    一部の慢心の創価の幹部だけだったのでしょうか?
    慢心と言えば、「主師親の三徳」をねじ曲げて間違いを正当化しようと試み、大聖人と妙法を安易な考えで傷つけようとした人たちも含まれるのではないでしょうか?

    わたしが知りたいのは、創価の正しい歴史です。都合の悪いことは隠して、歴史を修正するような創価であってほしくないということです。優れた問いから優れた答えが導かれるように、創価の未来は正しい歴史認識から導かれると考えるからです。

    市丸さまへの答になっているのか、自信がありません。
    長いコメントになり、申し訳ございません☆彡


    2013.05.30のコメント
    市丸さまを悩ませてしまったようですね。心苦しく思います。
    分かりずらい文章でしたが、主意は伝わるものと思います。

    わたしは創価を代表する意見など求めていません。市丸さまの個人的ご意見をお聞きしたかっただけです。残念です。教学試験の模範解答の件は、今まで何人かの方にお聞きしましたが、納得する答をいただけませんでした。

    わたしは純粋な人はどこにいるのだろうと、常々考え、疑問に思っています。わたしが対話した幹部の方、職員の方、いずれも純粋さの定義をお持ちでありませんでした。女子部の中心幹部はほとんどが創大卒の方ですが、信仰にふさわしくない野心のようなものが垣間見れ、役職イコール信仰の純粋さと考えたとき、その資質に欠ける方ばかりでした。

    信仰の純粋さは求道ということでもあり、また真実を恐れなく観る勇気の人でもあると思います。見たくないものも見なければならないときもあるでしょう。真直ぐ歩むためには精神的タフさが必要です。
    女子部の実態はとても悲惨なものです。創価の未来を少しでも考えるなら、将来婦人部になり創価を担うであろう女子部のなかに希望を見出していかなければならないでしょう。
    妙法がパーフェクトな完璧さを備え、創価が信仰の優越性を列挙しても、宗教に強い警戒心を抱いているわたしと同年代の人たちは、その優越性に疑問を投げかけてきます。過去の歴史において、その優越性ゆえに、反目や偽善、扇動が行われてきた事実があると考えているからです。
    目的は正しい。しかし手段の選択、プロセスの完璧さはどうだったのでしょうか。拡大とともに勢いにまかせて理性や慎み深さ、謙虚さを失ったのではないでしょうか。
    苦労を重ねて人生の勝利者になったご年配の方に言う言葉ではないかもしれません。

    でもいつか、慈愛に溢れた真に尊敬すべき女性リーダーにお会いするときがきっとくるだろうと、わたしはいつも期待し、待望んでいます。

    ありがとうございました☆彡

    ❖❖❖

    簡単に言うと、現場で対話してくださいという意見でしたが、師弟への過大な期待と賛美があり、人生をかけた傾倒がある人に適切なアドバイスを求めること自体、無理なことだったようです。

    「池田大作本仏論」は、ネット界隈で盛んに議論されていることなので、ここで詳細をあつかう気持ちはありません。その決定打となるものは、「大白蓮華41年2月号」の「主師親の三徳」についての「講師筆記試験答案」です。
    確かめたわけではありませんが、問題の大白蓮華は、聖教新聞社も創価大学の図書館でも非公開でしょう。不都合な過去は隠し通すというのが、創価のポリシーです。宗門と協議された『「教学上の基本問題に」について』から引用(昭和53年6月30日・聖教新聞)。

    『現在でいえば、社会それ自体。しかし民衆の犠牲のうえで成り立っている主徳を失った社会もあり、その民衆は不幸です。
    真に人々を根底から幸福にするには、妙法を根底とした社会以外にない。全日本を、そして、世界を守る池田先生のみ、現在において主徳をそなえていらっしゃる。

    師徳――眷属を指導する力
    師とは、知識を教えるのみでなく、智慧を開かせてあげる者でなければならない。現代の教育は、知識に終始した師徳なき姿である。
    以信代慧の妙法によらねば、真実の師徳はありえない。私たちの師匠池田先生のみ師徳具備でいらっしゃる。

    親徳――眷属を慈愛する力
    親の愛は、相対的であり、子の発展をさまたげる場合がある。
    身命を惜まず、われわれ学会員のしあわせを願ってくださる池田先生こそ、親徳具備でいらっしゃる』


    このような行き過ぎた解釈は、誰が悪いとか、誰がどうのような発言をしたかとか、社会学的な視点での背景議論で解決するものではありません。本質的な部分で議論されなければならないと考えております。それは、わたしが言葉足らずの表現と文章下手のなかで、いつも指摘している「一般化」の問題です。最近の創価は、会則変更から大御本尊不受持へ転向したときから、この傾向が顕著です。大聖人が厳格に定めた「総別」の定義が失われております。信仰の根本である御本尊に差別がなくなり、どの御本尊も認定さえすれば同じという「一般化」が行われているのです。「一般化」は「相対化」と同じです。山は崩し、谷は埋めて、平滑にするという「絶対化」の否定です。
    「御義口伝」は「別して」の解釈を中心に据えて、法華経の解釈を見直したものです。これは末法における妙法の総合指南書です。ここで説かれる本仏の資格・本質的なアビリティーの一つに、「主師親の三徳」があります。開目抄は人本尊開眼の書と言われますが、そこで説かれる「主師親の三徳」は、救済資格を明瞭にした末法本仏の御姿です。つまり、「主師親の三徳」は仏のことであり、その内面と行動が人本尊にふさわしい徳を備えているという一つの基準です。わかりやすく言えば、想像しにくい仏の実像を、現実に即して、具体的に描き、定義した内容が「主師親の三徳」です。つまり、「主師親の三徳」は民衆救済を成し遂げる仏の姿であり、日蓮大聖人自身のことであり、大御本尊のことでもあります。
    わたしの説明は不十分であることはよく自覚しておりますが、わたしが言いたいのは、大聖人御自身が、末法の本仏の異名として説かれた「主師親の三徳」も、創価教学においては、御本尊同様に「一般化」が図られることです。上記の講師試験の模範解答を読んで、当時の会員が誰もおかしいと思わなかったことが不思議です。

    創価新報 5・20号では、1996年のコロンビア大学での講演『「世界市民」教育への一考察』が掲載されておりました。大き目のフォントサイズで紙面の中央に「世界市民の要件」としてまとめてあります。
    『一、生命の相関性を深く認識しゆく「智慧の人」
     一、差異を恐れず、尊重できる「勇気の人」
     一、苦しんでいる人々に同苦し、連帯しゆく「慈悲の人」』

    仏教の知恵から導き出されたこれらの重要な特質は、思索と行動の両面で積み重ねられた決意と動機のなかからあふれでたものと理解しています。妙法の真髄を、社会にわかりやすく展開することに不慣れな宗門には、教学の応用問題は苦手です。宗門が、長い歴史のなかで、広布を担えなかった最大の理由です。人間的能力や情熱は地位に付随しているわけではないのです。地位を相続さえすれば、まるでコンポーネント一式を引き継ぐように開祖上人の信力行力も相続すると考えるのは、既存仏教の最悪の因習とも言うべき悪弊です。地位などただの仕事の分業に過ぎません。だから七百年もの間、富士宮のローカル教団にとどまっていたのです。
    原理原則の応用が、現実に横たわる難問の解決にヒントを与え、他者との差異の容認や寛容を促進します。釈尊時代の維摩詰は在家信者でしたが、その知性は抜きん出ておりました。一つのことを新たな視点から検討し応用し活用して、原理の重要さをさらに深く理解していたのです。雑多な現実問題への対応の仕方こそ、法華経の真髄があり、その解決法を説く人こそ民衆のリーダーにふさわしいとも言える。
    『戸田城聖全集』のなかに質問会の様子を編集したものがあります。その内容を見れば、現実生活での切実な疑問や悩みが網羅されております。難信難解の妙法の原理をわかりやすく生活に適応させ、会員の考え方の修復を図っていく姿は、縦横無尽の戸田先生のリーダーとしての面目躍如というところです。
    日蓮正宗という既存仏教に依存していたとはいえ、戦争で壊滅状態になった創価は、在家集団として新興宗教同然といってもよいでしょう。戦後の混乱期に乱立した新宗教の最も強い動機、「現世利益」に群がる多くの人々の悩みは、それだけ深かったからでしょう。
    戸田先生のカリスマ性は鬼気迫るものがあります。カリスマ性の特徴には怯まない熱心さという直情的な一途さがありますが、戸田先生は獄中の悟達といった神秘的性格も相まって、教祖としての役割を十分に果たしていたことでしょう。
    釈尊を一人の救世主と見た場合、そこには民衆一人一人への尊敬と慈しみに曇りない姿が見られます。躊躇することなく汚れた手を取り、破れた衣服に被われた震える身体を抱きしめ、励ましたであろう釈尊の眼差しは慈愛に満ちていたであろう。人々を差別することなく愛し続けることの偉大さを、法を説くだけでなく行動で表現した釈尊のまわりには、今すぐ救いを求める苦悩の人々、病に冒されて絶望し、あるいは人生のあらゆる問題に翻弄され迷い続ける人々がいたのです。
    そのような情景を彷彿とさせる戸田先生の質問会も、妙法を源流とする求道者共通のかぎりない慈愛があふれております。妙法という原理を社会全般、生活の全過程で生き生きと適応させていくその柔軟性は、妙法の性格を特徴的にあらわしているでしょう。その適応性の幅広さ、解釈の多様性が、法華経が二千年にわたり流布してきた理由です。

    話が逸れてしまいましたが、上記のコロンビア大学での講演と「主師親の三徳」を結びつけて、池田先生を宣揚する論文があります。そんなまわりの声に目をつぶり強く指摘もせず、あるいは注意も戒めも与えず、先生はどんな気持ちで称賛と媚びを感じられていたのでしょうか。勢いがあったそのころの先生の心には、称賛されて当然と考えていたのかもしれない。求道者に忍び寄る魔とは、称賛からくる自己陶酔という姿もあるのです。

    ◆主師親の三徳の現代的意義  (創価大学)学生部長 山岡政紀
    『生命の平等性と永遠性を、身をもって衆生に示す行為を真に実践している者は誰か、それは日蓮以外にないと、余計な謙遜などをいっさい排して大聖人は高らかに宣言する。その現証として、法華経が予言する通りの三類の強敵の迫害に遭い、乗り越えた自身の人生を述べている。

    法華経の真理に迷った当時の諸宗は、正邪が入り混じり、雑乱を極めていた。その中で邪義を邪義として破折し、真実を訴え抜いたことにより、大聖人は法華経が示す通りの難を受けた。権力者にたびたび襲われ、居住地を追い出され、鎌倉の竜ノ口では斬首刑寸前にまで至り、そして佐渡に流罪となり、文永九年(1272年)のそのとき、極寒の冬を越しながら、不自由な環境のなかで開目抄を執筆していたのである。

    その開目抄後半に、本抄の結論・肝要とも言うべき「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」の文言に引き続いて述べられる、「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。」(全集232頁。現代語訳私は日本の柱となる。私は日本の眼目となる。私は日本の大船となると誓った願いは断じて破るまい。)である。末法の衆生を「柱」として庇護し、「眼目」として教導し、「大船」として慈愛し、育むことは、立宗のときの誓いであった。そしてその誓いを今日まで貫いてきたがゆえに、経文通りの難を受けきってきたのだとの、大確信に基づく断言である。これをもって、自身こそは末法の衆生にとって主であり、師であり、親であり、三徳具備の末法の本仏であることを高らかに宣言している。すなわち、本抄の末尾に当たる箇所に、「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」(全集237頁。現代語訳日蓮は日本国のあらゆる人にとって、主であり、師であり、父母である。)と。

    このように見ると、主師親の三徳というのは、決して神秘的なものでも超自然なものでもない。生命の尊厳の法はどこまでも深遠で尊いが、それを衆生に示していく仏の振る舞いは生身の人間的要素に裏付けられたものなのである。すなわち、衆生を庇護する主の徳を支えるのは「勇気」であり、衆生を教導する師の徳を支えるのは「智慧」であり、衆生を育む親の徳を支えるのは「慈悲」である。これはそのまま、現代において求められる指導者像そのものでもある。この「勇気」と「智慧」と「慈悲」をすべて具えた指導者こそ、我らが創立者・池田大作先生、その人である。

    先に、日蓮仏法とは「人間革命の法」であると述べた。池田先生はこの「人間革命」について、“智慧”と“慈悲”と“勇気”の「大我」を開きゆくこと、と述べている(池田(1995))。つまり、平和のため、民衆のために生きる、真のリーダーたる徳を自身に備え持つことこそが、「人間革命」なのだと主張しているのである。

    さらに、池田先生がかつてコロンビア大学ティーチヤーズ・カレッジで行った講演では、21世紀の人類が目指すべき「地球市民」の条件を3点に要約している(池田(1996))。

    一、生命の相関性、すなわち縁起の法を深く認識する「智慧の人」
    一、人種や民族や文化の“差異”を恐れたり、拒否したりするのではなく、相互に尊重し合う寛容の心を持ち、成長の糧(かて)としゆく「勇気の人」
    一、身近に限らず、遠いところで苦しんでいる人々にも同苦し、連帯しゆく「慈悲の人」

    これも、主師親の三徳の現代的展開と言えよう。第一に、他者との相互関係性を理解するには、局所的な利害を超克して、全体観に立ち得る透徹した「智慧」が求められる。これは師の徳による。第二に、民族間の文化的差異につきまとう恐怖や嫌悪感を捨てて、相互尊重の精神に立つには「勇気」が求められる。他者に対する優越感であれ、劣等感であれ、それを超克して絶対的平等の位置に立つには、強い意思と勇気が必要なのである。これは主の徳による。第三に、眼前にいる者のみならず、時空を超えて他者を思いやるには、「慈悲」が求められる。これは親の徳による』


    宗門からの破門後の17年後の論文ですが、創価内部では「教学上の基本問題」で改めるわけではなく、「池田先生の主師親の三徳具備の大導師」という認識は保持されていたものと思います。尊敬するという感情が、仏と同等の絶対的なグレイドに飛躍しても、疑問に思わない鈍感な感覚は、会員の間に共有されていたものと思います。冷静さを失ってしまう熱狂にも共通する情緒ですが、独善的なドグマをふりかざす遠因にもなりました。法華経の「生命の平等性と永遠性」よりもドグマが凌ぎ、「大聖人直結」「魂の独立」などのプロバガンダを素直に受け入れてしまう。

    「開目抄」講義でも、主師親の三徳は一般化が図られており、「凡夫」の意味の世俗化が際限なく進行しております。
    『主の徳は、「民衆を守る」責任感です。
    師の徳は、「民衆を導く」智慧です。
    親の徳は、「民衆を育む」慈悲です。
    (中略)
    わが同志は、誰が見ていようがいまいが、自分の智慧と力を尽くして人々を励まし、社会を守り支える「柱」となるのです。
    希望の道を照らし、正義の道を示す「眼目」となるのです。
    人々を温かく包容し、伸び伸びと育む「大船」となるのです』

    「わが同志」という主語は、主師親の三徳を兼ね備えた仏だと言っても無理はないでしょう。しかし、このように語らなければならない事情があったのかもしれないと、最近いろいろと再考する次第です。わたしも世事に配慮する円味が出てきたのかもしれません。

    「主師親の三徳」についての既存の仏教観は極めて権威主義的なものです。「主師親」は民衆の指導的立場の象徴であり、既存の仏教は「主師親」を備えた仏の立場から民衆を見下すというイメージを長く引きずっていました。いくら慈悲を強調しても、救済する側とされる側に断絶があったのです。この権威主義が脈々と底辺で受け継がれているのが宗門です。
    妙法の革新性は、法を説く対象である民衆への仏の働き掛けから、逆に、民衆から見る仏の姿というパラダイム転換が図られております。大聖人が御自身を「凡夫」と名乗り、「旃陀羅が子」と出自を誇ったのも、すべて仏教観の転換が図られているからです。大聖人の偉大さは、どのような行動の動機であっても、迷うことなく民衆側に立つ人間主義の思想に貫かれているのです。仏という悟った人間から世界を見るのではなく、民衆という最も弱く頼りなく力がない底辺層から見る世界観なのです。だからこそ、そこには権威主義の欠片もありません。「主師親の三徳」を具体的に兼ね備えているのは「凡夫」です。この「凡夫」は、人法一箇の「凡夫」ですが、「凡夫」にも総別があり、その行動にも事と理の区別があることに十分注意する必要があります。

    池田先生は稀有な指導者です。しかし、だからといって主師親の三徳を備えていると過大に評価し、それ自体がやがて一つの権威主義と定着する誤った試みを、どうして見逃すことができるでしょうか。ほとんど池田教へと変容した創価には必要なアイテムだったのでしょう。「人間革命」「御書講義」、古いスピーチではなく新しく修正されたスピーチ、提言や講演など、永遠の指導者を装飾するディテールは、緻密に、意図的に、創作する必要があったのでしょうか。将来に禍根を残す結果となりました。
    人間には本来、全員に仏の生命が公平に備わっており、その生命と境涯を獲得する可能性とチャンスが平等にあることを否定することは愚かです。「主師親の三徳」は仏の境涯に具体的に備わる特質であり、人格であり、信仰を通して誰もが獲得できるものと理解しておりますが、正しい御本尊と正しい信仰に由来していることは疑いがありません。
    日蓮仏法の偉大さを証明するその他の重要語句の一般化も免れません。「発迹顕本」はその本質的部分がすっかり抜け落ちて、迷える凡夫に適当に当てはめる一般化が行われております。典型的な例でしょう。

    なお、3年前のこと、同じ問題を「発迹顕本の一般化と血脈の問題点」でも扱っておりますので、ご一読ください。

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    Really Slow Motion - Miraculum 奇跡

       Choice of Anna
         Tracklist :
         00:00 Cassiopea
         03:18 Aqua Dreams
         07:41 Edge of Eternity


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    万人にすべてを説く

    日常のなかで、喜びを見出すことは簡単なようで難しいものです。わたしの場合、後悔にさいなまれる日が圧倒的に多いし(over?)、情けないと泣きたくなる日も多いから、自分にカツを入れて毎日決意の連続です。今まで安定と保守こそ敵だ、と勇ましい言葉を吐いてきた手前、簡単にあきらめるわけにはいかないのですね。そうそう敵がまた増えました。変身した創価も宗門も敵だ! わたしに何枚もアンチのレッテルを貼りつけて、憎々しげな眼差しでにらみつけてくるからです。不軽の悲しみも少しは理解できるというものですね。逆に、ありがとうと言わなければならないでしょうか。

    創価は大御本尊を受持の対象にしないと宣言しました。教義上の厳格さにこだわるのなら、決して起きない問題だったように思うのですが、教義なんて時代とともに変化すると、まるで賢者のような顔で息巻くものだから、なにも考えない無知な会員、活動はするけれど学ばない会員は、そんなものかと思ってしまうのですね。
    宗門も宗門で、時代錯誤も甚だしく、在家蔑視の伝統的気性に囚われ、自らの可能性を束縛しているようです。出家の原点に立ち返らなければ、日蓮の真の志を、いつまでも理解できないでしょう。
    大御本尊不受持に関して、創価でも先生のご指導は一言も紹介されていませんが、わたしのような平会員では、先生がなにを考えていらっしゃるのか、皆目見当がつきません。このような重要事項に、はっきりしない指導者も珍しいことです。
    御本尊は人法一箇、日蓮大聖人の御命が妙法そのものです。信仰者は法を擬人化しやすいものですが、日蓮は信仰主体者である人間を代表しています。上行菩薩は地湧の菩薩の上首ですが、単にリーダーというだけでなく、妙法のシンボルであり、全菩薩の人格も代表しているのです。その一体の姿を大御本尊として表現されています。つまり、大御本尊は日蓮大聖人そのままの御姿なのです。信仰者全員が仏性を覚知できるのも、大御本尊の慈悲の反映です。御本仏自体であるという大御本尊は、たとえどの地にあろうと大聖人そのものです。わたしやあなたが、どの地にあろうと、わたしやあなた自身であるという事実となんら変わりありません。仏性は特別であるけれど特別ではないのです。同じように御本尊も特別であるけれど特別ではありません。主体的信仰者であれば、わたしやあなたと同じアイデンティティーを持つことを確信してください。どの地にあるかというようなことには、まったく関係がなく、だからこそ、普遍的真理と断言できるのです。
    5月19日の聖教に、「創価学会常住御本尊記念日」という記事がありました。5月12日に請願し、19日に書写されたと記事にはありますが、戸田先生が誰に請願し、誰が書写されたのか、主語が抜け落ちています。また護法の功徳力によって75万世帯の弘教を成就されたのではないですか。日蓮が「報恩抄」まで著されて強調した御本尊への恩の大切さをすっかり忘れている。根本尊敬の御本尊を物扱いする、あってはならない過失が創価にはあります。尊敬心は絶対的尊敬心であって、自分の都合により、また置かれた状況等によって変化するものではないのです。普遍的ということを、戸田先生をはじめ池田先生も繰り返しご指導されてきたのではありませんか。なぜ、根本的信仰対象を卑しめるのですか。御本尊はファッションではないのですよ。

    ウィルソン教授との対談「社会と宗教」を残してくれたことを、とても感謝ですが、創価内ではあまり重要視されていないようです。
    池田先生は次のような質問をします。
    『宗教の教義は、厳格であるとともに、普遍性をもっているということが必要であり、これは、世界宗教であるための、また時代の変遷を超えて長命であるための、必要な条件ともいえます。厳格なものでなければならないということは、時代によって、また社会によって容易に変えられるようでは、宗教の持つ尊厳性が失われてしまうからです。
    しかし、この厳しさが、ときには衝突を引き起こしたり、柔軟さを欠く結果となって、人々に受け入れられなくなってくることも事実です。教授は、宗教の教義は厳格かつ不変であるべきであって、時代とともに様相を変えていくなどということは、宗教の堕落だとお考えになりますか』

    (第一部 人間と宗教「普遍性と特殊性」)

    人格神と法の関係を論じたあと、宗教の中心をなす普遍性に話題を移しています。ウィルソン教授の答えは大変有益かつ必然的なものですが、法華経がなぜ万人向けかということのヒントもまた、答えのなかに含まれています。教授の知識はとても広く深い。御本尊に迷っている今こそ、じっくり読むべきですが、わたしは、婦人部のあいだで面倒な哲学の軽視傾向があることを悲しむものです。妙法から哲学をとったら何が残るというのでしょう。人間主義から不要なものとして思想を削除したら、何が残るというのでしょうか。宗教は祈りをともなう哲学であり、実践のための思想です。

    ウィルソン教授の対話は常に明快でくもりがありません。学究者でありながら信仰者の気持ちもよく理解しているようです。
    『純粋な形の仏教の教義は、その発生の当初から、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の教義よりも、普遍性がありました。それは、ユダヤ教などの三宗教の場合は、仏教よりもはるかに文化的・歴史的に特殊な状況の中に、その起源をもっているからです。仏陀の思想が抽象的・形而上的な性格のものだったこと、神についての神人同形的な概念がそこになかったことは、仏教の教義が普遍的な性格をもつのに寄与しました』

    すでに多くが論じられていることですが、こういう基本的事項はよく承知しておかなければならないでしょう。しかし、キリスト教・イスラム教はすでに世界宗教ですが、流布過程において多くの困難があったことに思いを寄せなければなりません。
    以前ビデオで、ブルース・ウィルス主演のアメリカ海軍特殊部隊(シールズ)の戦闘を描いた「ティアーズ・オブ・ザ・サン(Tears of the Sun)」を見ました。絶望的な戦地で、献身的に難民に尽くすキリスト教宣教師の姿がありましたが、このような命がけの布教で、世界宗教に発展したものと思います。映画では戦闘に巻き込まれ冷酷に虐殺されますが、キリスト教のその純粋な自己犠牲は、特に聖職者に求められました。どちらかというと、内面に閉じこもりがちになり、功利的判断を優先する仏教徒には考えられない崇高な姿です。暴力の前で無力でありながら、無抵抗の命をかけた使命ほど尊いものはありません。絶対的平和主義とは、命を害する力の脅威である攻撃性の全否定なのです。世界を威圧的に動かそうとする力への信仰が、どれほどの不幸を作り続けてきたのでしょうか。十分過ぎるほどに経験してきたのではありませんか。

    『もし仏教の教義が十分柔軟性に富んでいて、対象となる心的態度が黙想的・神秘的なものであれ、合理主義的なものであれ、また、現実主義的であれ、それらをすべて受容できるというのであれば、この三つの異なる態度のいずれに対しても、仏教自体は、常に不変であるということなのでしょうか。
    それとも、仏教も、種々に異なった文化や気質に合わせるために、教義を変えないまでも、強調点を変えるといった内的な変化を、ある程度経ているのでしょうか。
    仏教も、その歴史と布教の長い過程において、かなりの内的な多様化を経てきたことは明白です。
    そうした順応は、仏教がすべてを受けいれる受容力を示すものと受け取ることもできましょう。しかし、反面、普遍的に有効な倫理という概念を脅かす状況への妥協であったと見ることも、同じくらい可能なことでしょう。普遍的な効力をもつ思想や教えを有効に説くためには、宗教は、内的な統一性・一貫性を示さなければならないのでしょうか。(中略)
    (仏教は)土着の宗教的伝統と寛大に妥協を行う中で、その中心的な関心事をさまざまな形で放棄し、その結果"万人にすべてを説く"ようになったといえるでしょう』


    日蓮があらわした曼荼羅には、仏教の歴史が凝縮していると考えてもよいでしょう。いわば、万人性の象徴ですが、問題がないわけではありません。流布してきた国々や地域の、土着の宗教や民間信仰と融合を繰り返してきたのが仏教史ですが、大乗仏教が日本に伝わったとき、天照大神や八幡神も仏教の守護神として取り入れられました。神仏習合、本地垂迹など仏教と神道の習合は、万人性を獲得するための折衷案でもありましたが、これには仏教の中道思想がうってつけだったのかもしれません。天照大神や八幡神は皇祖神でもありますので、創価の初代会長が獄中死したことも考え合わせると、天皇制への複雑な思いもあります。
    万人性をあらわすもう一つの事例は、あらゆる国々や地域の神々や習俗だけでなく、多くの経典とともに、三世十方の諸仏と言われる数えられないほどの仏や菩薩を創作してきたことです。原点である人間的な釈尊は、その過程において神格化をまぬがれませんでした。見方を変えれば、もともと普遍的性格を内蔵していた倫理的教理が、時代や地域の特殊性に左右されない普遍的宗教という世界性のクォリティーを獲得したということもできます。
    もしも、インドから中東地域に拡大していれば、キリスト教も現在と違った形の宗教である可能性も否定できませんが、仏教においても多くの聖人や伝道者が過酷な迫害を受けたことを考えると、流布過程はどういうわけか類似する性質があるようです。穏やかな対話も暴力によって強引に否定される傾向性は、流布する宗教の真理形態やスタイルには関係がないのかもしれません。

    カトリックと創価で、以前、有意義な対話が行われ、その成果が出版されています(「カトリックと創価学会」:信仰・制度・社会的実践/南山宗教文化研究所編・第三文明社)。日本有数の南山宗教文化研究所と東洋哲学研究所の間で、努めて冷静なシンポジュームが開かれ、自由なデスカッションがありました。問題は多岐にわたりますので一口に総括できませんが、宗門問題も大きく取り上げられております。95年のことであり、創価はすでに宗門から破門を言いわたされ、晴れて自由の身になった喜びがあります。冒頭のオリエンテーションでも認めておりますが、宗門という鎖から開放されたことが、対話の一つのきっかけになりました。自分の意見に執着する宗門の閉鎖性は、純粋培養された聖職主義によるものですが、古色蒼然の暗然たる陰鬱さは、これが日蓮の系統の宗教とは思えない凋落ぶりです。信者拒否は人間性拒否につながり、倫理的にもその報いを当然受けます。因果の理法は厳しいですね。
    記念すべき討論のなかで、世界宗教の条件と課題として、「寛容と宗教的真理」のバランスについて考えさせられる個所がありました。これは創価だけでなく、その先駆者として、キリスト教が絶えず直面してきた問題です。言い換えるならば、世界宗教として必要な万人性とは仏の寛容性の問題でもあるのです。キリスト教の仏教的解釈、仏教のキリスト教的解釈という、今まであるようでなかった諸宗教間の親和的友好と対話を、わたしは強く望むものです。
    この論考を提出しているのは、J・ヴァン・ブラスト博士(南山大学名誉教授・カトリック司祭)。創価や宗門問題について知識も豊富であり、議論の焦点にズレが生じることはありません。
    『創価学会とSGIは比較的新しい運動でありながら、古い伝統をもつ日蓮宗、そして仏教全般の中で発展してきた運動である。(中略)
    今まで日蓮宗は世界宗教に発展してこなかったかもしれないが、仏教そのものは昔から世界宗教として認められてきた。SGI―日蓮宗―仏教という三角形のさまざまな側面の間の関係は、どのように考えられるだろうか。あるいは、もっと直接的に問うとすれば、皆さまはSGIの世界宗教への発展を日蓮宗や仏教の枠内で考えるか、それともそれから独立して考えるかということである。後者の場合は、キリスト教が「母胎」であったユダヤ教から分離して世界宗教になったことと類似したパターンになるのである。
    仏教内部での発展をめざす場合には、次のようなことが考えられるだろう。仏教が世界宗教であることは間違いないが、長い間世界宗教としてあまり機能してこなかったことも事実である。なぜかというと、必要とされる教義と組織の統一を失ってきたからである。その代わり、いろいろな国別の仏教、宗派別の仏教になった。それは、ある部分は、さまざまな民族にかなり徹底的に土着化したということによるのである。そうした点から見ると、SGIの革命は仏教の再統一を主要な目的の一つとすべきように思われる。すべての仏教者を法華経のもとに集わせることが、日蓮聖人の夢ではなかっただろうか。オリジナルな普遍的な理念へ回帰することによって、仏教を縛っているさまざまな民族宗教から、仏教を解き放つことができるのではないだろうか。
    他方、もしSGIが現在の仏教の状況はあまりにも複雑で改革し難いものと考えて、始めから再出発した方が簡単であると判断したら、よく理解できることだろう。しかし、この場合には次の二点が重要になってくると思う。一つは、これは多くの既成の世界宗教の他にもう一つの宗教が発展することを意味する。もちろんそれでよいだろうが、それは、すでに存在する宗教間の緊張を悪化させない限りにおいてである。世界平和が達成されるために、このグローバルな地球の村では、宗教間のある統一と相互協力が最大の重要性をもつことはたしかだろう』


    未来の世界宗教のあるべき姿を検討しています。とても重要なので詳述すると、
    『あるいは、この問題を異なった形で表現するならば、未来の世界宗教は今日の既成宗教とどのように相違すべきかということである。もちろん、これは非常に大きな問題だけれども、いくらか希望的に考えて、次の諸点を指摘することが出来ると思う。
    第一に、私は、今日の創価学会でよく強調されるところの、「未来の宗教は在家の宗教であるべきだ」という点を否定するものではない。(中略)
    第二に、宗教は従来、もっぱらといってもいいぐらい個人の救済(ほとんどは死後の)を目指すものと考えられてきた。未来においては、宗教の社会的責任がさらに中心的なものにならなければならないと思われる。キリスト教の中には、初めから「神の国」という形で社会的な側面が入っていたといえる。(中略)
    同じく仏教にも、少し似た考え方として「仏国土」の思想があったが、私が知る限りでは、それは来世のものとして考えられてきたのではないかと思う。仏教においては、宗教の社会的責任がもっとも強調されたのは、日蓮聖人の「立正安国論」の中であったかもしれない。
    未来の世界宗教が示すべき第三の特徴は、他の宗教を宗教的に認めることができることだと思う。「宗教的に」という言葉が意味するのは、本質的に市民的寛容といったもの以上のものである。すなわち、自らの宗教性から出る、自らの宗教教義に基づく他の宗教の評価ということである。これは難しい要求であり、私たちにある種の「改心」を要求し、私たちの個々の伝統の徹底的な再検討を要求するものである。キリスト教においては、こうした作業のうちの知的な部分は、現在「諸宗教の神学」として知られる学問において行われつつある。おそらくこうした作業は、日蓮仏教にとって、したがって創価学会にとって、キリスト教に比べてよりたやすいというわけではないだろう』


    その他の問題点を三つあげている。
    第一に、従来の世界宗教は非常に家父長的なもので、「男性ショービニスト(排外主義)」だったこと。将来の宗教においてはいっそうの男女平等の原理が求められること。
    第二に、科学技術の進歩はめざましいことから、科学に適応するための妥当性が必要であること。
    第三に、未来の宗教は人間主義的であること。しかし他方、人間中心的になってはいけない。
    さらに、寛容の問題について
    『現在、非常に異なるそれぞれの真理を代表する多くの宗教が、「宇宙船地球号」に同乗しているのである。こうした共存の性質によって、諸宗教が世界平和を脅かすか、あるいはそれに貢献するかということは決定されるであろう。したがって、次のような実存的な問いが中心的なものになると思う。自分自身の宗教を広布したいという熱望は、自らの「真理」のために他の諸宗教の「真理」を打ち負かしたいという願望を含むのかどうかと』
    『キリスト教の伝統的な考え方はむしろ日蓮仏教のそれに似ているのではないかと、わたしには見えるのである。間違っていたら教えいただきたいと思うが、それは大まかに次のようなものである。つまり、「私たちのもっている真理は絶対的である。他のどの真理も、人々を救ったり真の幸福に導いたりすることはできない。我々の真理に反する者をすべて廃するということが、人類の真の善に導くものとして必要である」というような考え方である。一見したところでは、これはまったく動かし難い立場に見えるので、それをどの方向で「再検討」できるのだろうか』


    キリスト教も最近まで、異教の他者を廃し、布教の対象にしてきましたが、対話の重要性を強調するように変化しました。宗教戦争や文化の破壊に見られる排他的態度は、イエスの愛に背くものとして反省され、他者をありのままに認める愛の再認識に至ったのです。そして、この鋭敏なキリスト教徒は、「日蓮聖人のメッセージを正しく理解してきたのだろうか」と、SGIと創価に迫っているのです。一神教と一仏教は東西のような開きがありますが、どちらもともに、人間を超えた普遍的実在への過程を説いたものです。その過程に至るために愛があり慈悲があるのではないでしょうか。わたしたち人間は、この崇高な行為の一部分でも実現できているのでしょうか。釈尊生誕から2500年。その仏教の歴史は、内も外も争いの歴史でした。釈尊が第一に説いた共存共栄を可能にする菩薩の心は、歴史の狭間にまだ埋もれたままなのではないでしょうか。
    宗教的真理と寛容の境目で、賢明な検討と実践を行わなければならないだろう。寛容とはつまり慈悲ということでしょう。今までいつも宗教的真理を優先し、他者の信仰を排除してきたこと、そのために常に争いが絶えなかったことを、寛容という徳目の真の力用とともに学ぶべきです。さまざまな宗教観と価値観を持つ人々が共生する社会に、自由な精神を実現すること、それが宗教の最終的使命と思います。絶対的仏が、なぜ正義の名のもとに排他的なのか、よく考えてみなければなりません。
    このような未来の宗教世界について、問題提起もなく、議論への持続的バイタリティーもなく、危機感もない現在の宗門が対応できないのは当然と言えば当然です。生命尊重の思想を体現した日蓮の、本当の心を理解できないほど硬直化し、醜悪なまでに俗世に浸り、信者の苦しみに同苦できないほど悲しいまでに形骸化している。俗に解脱とは、いくら凡僧でも取るべき道ではありません。


    Decimator (Extended)
    Two Steps From Hell





    宗門問題(小説・人間革命の結末)について
    宗門問題をあらためて考えると、日本仏教界全般に認められる歴史的な背景があるように考えます。江戸時代の寺請制度から始まった檀家制度は、信者の自律的、積極的な信仰心からの檀家ではなく、代々の世襲として受け継がれてきた家の宗教という伝統です。明治になり、廃仏毀釈により教団存続の危機を迎えましたが、宗教本来の独立と刷新のチャンスを逃し、保身と教団経営に腐心する体質を一層強化するだけでした。日蓮正宗にも改革者は現れず、世俗化し、妻帯し、布教への情熱を失い続けました。表面的には厳格な宗旨の護持を強調しますが、檀家の信仰心はまったく謗法にまみれていたのです。僧には信徒を教育する力も意識もありませんでした。法主を頂点とするヒエラルキーは、権威と権力の象徴となり、在家信徒はただ従属するという上下関係が頑なに維持されたのです。
    この保身と保守の俗化した宗門組織は、創価学会という改革意識が旺盛な在家組織が現れると、その宗教本来の布教精神に圧倒されます。保身と改革、保守と革新が対立するのは当然のこと。ゾンビのように死んでいる組織が、生き生きと活動し僧にプレッシャーをかける在家に、敵意と悪意に満ちた確執が生まれるのも自然の流れ。冷静さを欠いた聖職者ほど始末の悪い品性はありません。宗門問題は起こるべくして起きた歴史的問題でもあるのです。
    「新・人間革命」(「誓願」五十七・6月1日聖教)では、1991(平成3年)年の宗門の「お尋ね」文書に関連して、宗門の僧俗観の一端が紹介されています。
    『本質的に皆平等であるとし、対等意識をもって僧俗和合を進めるなどというのは、大きな慢心の表われであると同時に、和合僧団を破壊する五逆罪に相当するもの』
    それまでの形骸化した既存仏教に対し、日蓮がどのような革新的教義と行動で臨んだか、750年前の清新の息吹は影も形も失われている。僧俗和合の破壊の原因は、行動をともなわず知識とプライドばかり高い、宗門のその古びた感覚にあるのです。究極的な平等論を展開する法華経の精神は、日蓮時代から著しく退化し劣化している。
    末法は、在家中心に布教運動を前進させ、それぞれの信仰者の人生の節目において必要不可欠な葬儀法要といったセレモニーを、僧は補佐する役目があるのです。また信仰者の模範として人格的にも少欲知足でなければならず、強い護法への決意も必要です。僧が偉いわけでなく、また在家が偉いわけでもない。単なる役割分担に過ぎないのです。十界論も僧俗に区別があるわけではない。御本尊の前では、僧であれ在家であれ、成仏を願う一人の信仰者なのです。
    創価内でも同じです。会長もブロック長も白ゆり長も一つの役割として機能し、一人に焦点を当てるために、一人の成仏と人生改革が最も大切であり、基本であることを認識しなければならないでしょう。万人のための成仏の法は、一人のための成仏法に収斂します。会長の貢献度もB長の貢献度も、基本的に個別の一人に対する関係であり、その働きかけの平等と公平さのなかに妙法の正しさがあるのです。地位や身分、職業、経済的富や資産に左右されないのです。妙法に対する心の財は、信仰者の当然の心構えとして、今更強調する必要もないですね。
    妙法流布は在家が主体です。創価は拡大と献身に自信があるのでしょうか。宗教の根本を変更することに躊躇がありません。創価は信仰心が篤いと自己評価に等しいのですが、こういう信仰者を教育してきたのは宗門ではないのでしょうか。僧俗平等思想を実現してきた創価に、僧俗不平等を伝統にしてきた宗門が、我慢ならずに首を切ったということです。
    誤解を承知で極言すれば、僧のために在家があるのではなく、在家のために僧があるのです。仏教は一切衆生のために説かれたものであり、その流布の系譜に立って日蓮も三大秘法をあらわしました。一部の特権僧に血脈が付属し、同時に帰依の対象になるなど言語道断。神秘的血脈が受容されている法主絶対論(法主本仏論)は日蓮仏法ではありません。法主は正統の後継者であり、日蓮と本質的に同じであるとする僧宝論は、現在では賢くなった在家に対し通用しない。
    僧の位置づけは、布教の可能性を考えるうえでも、とても重要課題です。創価内ではほとんど、僧の必要性が感じられないからです。宗教に付随する儀式的なことは、在家にとって重要な事柄ではありません。儀式はあくまでも儀式であり、形式であり、宗教を荘厳するために必要悪のようなものです。プラグマティックな進化を遂げている世界にあって、実質の宗教本体に帰依する価値があるかどうかという根本的な問題こそ重要です。中身が明瞭でない聖職者という役割の、時代に相応した再解釈が必要と思う。聖職者や僧といわれる特別な権威を持った人たちは、絶対的真理への媒介者ではないのです。
    仏教の伝統的な三宝論は、どのようにして確立されたのでしょうか。その歴史的経過を十分に検証しなければなりませんが、わたしはこのようなことを僧自身によって研究チェックしていただきたいということ。日蓮は三宝論の弊害を克服するために、三大秘法をあらわし、御本尊を書き認められたのではないでしょうか。三宝は御本尊という曼荼羅に包括的に内包されていること、三宝という伝統を打ち破る革新性を妙法に求めたのではないでしょうか。三宝論の伝統を克服すること、それが妙法の革新性を際立たせることになると考えます。
    信徒の実践の基本は唱題です。他者教化という行としての折伏です。また、無知の国では摂受です。そのような個人の修行のなかに僧が立ち入る余地はありません。つまり御本尊と信仰者という、その間より仏法はないのです。御本尊は権威や権力で拝むものではありません。血脈などという厄介なものは、わたしに言わせれば、正統の権威づけの一部に過ぎません。御本尊と信仰者、そのシンプルさのなかにすべてが収まるのです。

    わたしは僧俗和合を願っております。そのためには宗門のなかで聡明なリーダーの出現が待ち望まれますが、簡単ではありません。また創価もドグマの嵐に襲われ、対立のもとになる寛容心の涵養を忘れたようです。唯一絶対正しいなどと誇大妄想に等しい異常な自我肥大は、エゴのかたまりであり、常に争いの元凶です。ある程度の規模に発展した宗教組織は、絶えず集団エゴイズムという危険にさらされているのです。創価には、自分で自分を客観的に評価できないナルシストがなんと多いことだろう。創価オタクを遠慮なく言い換えれば、自分の行為の意味も理解できず、フレキシビリティーに乏しい不毛な創価バカのこと。自律的に自己を再生することが重要な信仰コンテンツなのに、与えられたものだけで満足し疑問に思わないなんて、一体どんな目的で御本尊を見つめているのでしょう。菩薩にも盲信の罠が待ち構えていることを、心して備えておかなければなりませんよ。
    老齢の池田先生に、その指導性を求めるのは、もう無理なことなのでしょうか。老い衰えても、正常な判断が可能な状態にあるのでしょうか。問題を置き去りにする、一貫性がない無責任な師です。
    問題意識を怜悧に持ち、聡明なインテリジェントを結集しない限り、無秩序と混迷が渦巻く世界に、創価の旗を立ち上げることはできないでしょう☆彡


       
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