尊厳への道

    沖縄県知事選挙開票結果(9月30日)
     玉城デニー 394,768(得票率55%)
     佐喜眞 淳 315,621(得票率44%)

    接戦と思われましたが意外と差がつきました。沖縄の有権者の民意を尊重しなければならないでしょう。負けた佐喜眞氏も44%の得票率があり、支持した方々への配慮も必要です。勝っても負けても同じ国土に住んでいるのですから、互いを思いやる気持ちも忘れてはならないでしょう。まず隣人と仲良くしなければ解決できる問題も解決できません。政府には、憲法改正を含めた防衛問題の議論を早急に進めていただきたいというのが国民の意志です。

    以前は、公明党は改革のエンジンというふれこみで、ハト派とタカ派の中間で真のコンサバティブであるかのような印象を与えていましたが、あれも単なるキャッチに過ぎなかったのでしょうか。人気取りとまでいかなくても、ただの思いつきのような時流に乗ったアピールの軽薄さは、支持者の姿と酷似しているようです。
    「民主主義の精髄には宗教的要素がある」として、保身第一の聖職者を非難したホイットマンは、さらに続けてこう言った。「多くの教会や宗派など、また私の知っている気味悪い亡霊たちが、宗教を侵害している」(「民主主義の展望」講談社)
    また、池田先生は教条主義の宗門を想定して、ホイットマンの言葉を紹介しています。
    「自覚した魂が、さまざまな教会から完全に離脱した時こそ、真に〈宗教〉と立ち向かうことができる」(「創立者の語らい」Ⅳ)
    かつて宗門問題で苦しんだことを忘れ、創価教条主義が亡霊のように闊歩している。沖縄創価を分裂状態にするような支援活動は、民主主義の厳粛な公平性を侵害しています。信仰とは自由であること。善良な会員をアゴで指図する姿は、魔性の醜さを表わしています。
    「オール沖縄」完全決着と扇動したビラが(10月21日に投票が行われる那覇市長選挙)配布されました。少しは反省したのか分かりませんが、1日の夕方、訂正する文書が配布され、沖縄の地元のみで対応する旨の徹底があり、F報告は行わないというお知らせがありました。思い通りに動かない会員がいることを学んだのでしょう。創価サポーターの佐藤優氏に言わせれば、そんな輩は提婆達多のような反逆分子だそうです。もしかしたら、わたしもその分子の一人なのかしら。
    宗教の奴隷になってはならない。受動的な姿勢、多数派に同調する依存の傾向性、そのような怠慢の命を克服する運動こそ、信仰活動のパートナーシップであり、創造的な人間主義ではないでしょうか。政治に動員することによって社会貢献している、あるいは社会改革しているという錯覚は、巧妙に計算され尽くし、反発する前に、どこかの誰かの野心に操られて説得されているのですよ。

    武力の行使は、決して宗教と無縁ではありません。平和運動に大きな主眼をおいている創価の対外的な活動は、反戦平和と題目のように自然と口から出てきますが、その反戦平和の具体的なイメージや戦略的な配置の姿が思い浮かべられません。
    日蓮の激しかった布教過程のなかでは、防御のための刀剣の準備があったものと思います。現在に敷衍して言えば、抑止力ということになるでしょう。抑止力というかぎり、ある程度の兵力と武器の準備が必要です。
    『涅槃経に云く・天台云く・章安云く・妙楽云く法華経守護の為の弓箭兵杖は仏法の定れる法なり、例せば国王守護の為に刀杖を集むるが如し』(「行敏訴状御会通」)
    教団と護法のための武器の保持を認め、安全保障のための準備を容認していますが、これには当時の日蓮が置かれた立場も考慮しなければならないでしょう。
    『彼(良観)の邪義を隠さんが為に諸国の守護・地頭・雑人等を相語らいて言く日蓮並びに弟子等は阿弥陀仏を火に入れ水に流す汝等が大怨敵なりと云云、頚を切れ所領を追い出せ等と勧進するが故に日蓮の身に疵を被り弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり』(「同上」)
    このような死者数を数えた迫害を受ければ、自己防衛を真剣に考えなければなりません。抑止力とは無用な争いをできるだけ避けることなのです。仏教教団と兵力とは、意外と密接な関係があり、戦国時代にいたるまで僧兵が活躍しましたが、これも広い意味での自己防衛の形です。
    日本の防衛の中心である自衛隊は、憲法違反であるというのが定説です。自衛隊の存在を可能にしているのは、あくまでも政治的判断に委ねられているわけですので、いざというときの不安定さは常につきまといます。平和が武力によって担保されている時代は、不幸な時代と言わなければなりませんが、科学技術の進歩は、核という最終兵器を神のまえに捧げ、新たな信仰を作りあげました。世界はデンジャラスなシステムとして完成し、滅亡に怯えています。
    もしも、戦争になり、他国が核ミサイルで先制攻撃するとしたら、沖縄にまず照準をあわせるでしょう。なにしろ、島のあちこちに基地があるのですから、躊躇することはありません。返還前は、核も持ち込まれることもあったでしょう。防衛の要所として、沖縄への関心度は高まるばかりですが、そのぶんそこに住む人々にとっては、安全が犠牲になるということです。最近、横田基地周辺で、オスプレイ配備の危険性のニュースが注目されました。沖縄では毎日起きているトラブルです。本土では過去に、そのような基地問題を放置しておくことができずに、政治的に強制移転し、沖縄に押しつけました。沖縄の県民は、日本の国籍を持ち、公平にその恩恵を享受している国民なのでしょうか。
    1996年の第5回環太平洋シンポジウムメッセージのなかで、
    『いうまでもなく、科学技術の発展、なかんずく情報通信や交通網の拡充は、国家や共同体間の壁を急速に取り払いつつあります。
    しかしながら、その一方で、いわゆる「文明の衝突」の危機が増幅していることも、残念ながら事実であります。
    ますます相互依存を深める「地球隣人社会」を、いかにして、「摩擦」ではなく「触発」へ、「対立」ではなく「調和」へ、「破壊」ではなく「建設」の方向へ導きゆくか。
    ここに「生命の尊厳」を基調とした、新たな「地球市民」の倫理が要請される所以があります』

    対立と分断、それを生む創価と公明党の政治決戦なるものは、真に中道思想を反映しているのでしょうか。勝つことばかり強調し、まるでファイターのように傷つき、戦う相手のノックダウンを奪うまで、執念深く諦めることはない。池田思想の人間主義とは、理想から逸脱すると恐ろしく偏狭です。理念は生かされることなく対立を煽り、現場においては冷たい空論に過ぎない。「破壊」ではなく「建設」へと、そのような言葉は沖縄の人々にはどのように響くのだろうか。人間関係と信仰の理想を破壊している。対立し分断する原因を作っている創価の支援活動を、わたしは憂い嘆く者です。
    理想へのチャレンジは、思想の実現の過程で、注意深く慎重に行動しなければならないと思います。同じメッセージで「漸進性」を主張しているように、仏教の精神である調和の重要性を、地域社会に適合し、地域性を十分に生かしたうえで、対立に対抗する精神としてもう一度考えていただきたい。問題があっても、すぐには変わらないもどかしさはありますが、民主主義とは手間がかかる制度であり、緩やかにしか改革は進みません。漸進性こそ真の保守のものですが、その根底には懐疑主義的な人間観があります。だからこそ理性的不完全さを前提にし、信念を曲げないという宗教性が必要なのです。良識は経験知ですが、個別の意見に耳を傾けること。
    地域の複雑な事情を無視し、本部方針をおしつけるやり方からは、対立と分断が生まれるのは当たり前。苦しみに寄り添うことがない人間の本性が表れたと、わたしは理解しております。また宗教的動機からの政治という現実改革は、純粋に不純を混ぜ合わせるようなもの。不純を濾過する力がない者が指揮すると、悲惨な結果に終わる。会員も不幸になります。

    ◇◇◇

    人権教育ウェブサイト
    が開設されました(9・21の聖教報道)
    また、「核兵器なき世界への連帯」展がモンゴル・ウランバートルと渋谷で開催されました。
    「7色に輝く女性展」は創価女性会館で開催され、先月で終了しました。ほとんど、先生のスピーチに登場する女性です。セクシャル・ハラスメントについての意識が低い創価内での問題は、そもそも創価の第一婦人として尊敬を集めている香峯子奥さまの古風な言動に起因していると思います。
    全国婦人部長のうえに位置しリスペクトを受けていると思われていながら、役職はなく、役職に付随している明確なインフルエンスもありません。また会合等のご指導やご意見が紹介されることはほとんどありません。夫にささやく力はあるのでしょうが、社会に開かれた視点を持ち、女性の立場から宗教へのアプローチや問題意識があるのでしょうか、尊敬に適う発言があるのも当然と思います。
    奥さまの本名は「カネ」と言いますが、香峯子と改名したのも、戸籍上の公式のものなのか分かりませんが、先生も改名しており、体面を飾る性格は、夫婦で似るものなのですね。その良妻賢母の美徳は、慎ましやかで従順で、自分から何かを提案し制度やしきたりや習慣を変えることはありません。
    現状肯定の行き着く先に、やがてレリジャス・ハラスメントへと発展し過大な負担と献身を強いられること。およそ人材の欠乏は、組織の人間関係や教義への共感性の欠落から生まれますが、リーダーの力不足が影響し、何でも宿命だと指導する宿命ハラスメントや、問題解決の唯一の方法は題目しかないという題目ハラスメントの定型的解答は新鮮さが失われています。つまり凡庸な仏法理解の手垢にまみれた表現を聞かなければならないときは、失望と悲観と落胆とため息があるだけ。

    このようなビデオ制作には、それ相当の資金を投入していると思われますが、財務の真心が活かされていることを祈るばかりです。人権という言葉も意味も学習することがない国や地域があることに、ただ驚きますが、もっと悲惨な境遇にある子どもや女性たちが、きっといるのでしょう。
    尊厳への道は、終わりがない果てしない物語です。奉仕し、従事している人々の忍耐強さには、深い敬意を覚えます。世界は不幸せに満ちています。

    A Path to Dignity: The Power of Human Rights Education
    (画面上の字幕のアイコンをクリックすると日本語訳が見れます)



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    「いくさやならんどー」 1

    『内戦の中、ある母に――
    「おまえはどの党を支持しているんだ?」
    「知りません」
    「おまえは共和党か、王党か? どっちについているんだ?」
    「わたしは子どもたちについています」』

    (ヴィクトル・ユゴー作「九十三年」から)

    「君が世界を変えていく」(池田大作・朝日出版社)にまとめられたエッセーは、聖教に掲載されたものです。ユゴーの貧しい者への慈しみを紹介した一節は、革命とヒューマニズムという小説の主題を感じさせます。ユゴー自身、過酷な環境におかれても、不屈の魂で自らの人生を総括しました。
    「もう殺戮はたくさんだ!」と題されたエッセーのなかで、悲惨なエルサルバドルの内戦を語りながら、次のような戸田先生の言葉を引用しております。

    『私は「感傷的な話」をしているのではない。母と子を救えと叫ぶのは、感傷ではない。「国際政治の現実を知らない、きれいごと」でもない。反対に、これほど現実的な話はないと信じている。この現実を救うために、あらゆる知恵をしぼるのが、真の政治だと信じている。
    創価学会の戸田第二代会長は、私の師匠である。師の会長就任は、五十年前の一九五一年。朝鮮戦争(韓国動乱)のさなかであった。就任に先立つ臨時総会で、先生は言われた。
    「朝鮮戦争の勝敗、政策、思想を、今ここで私は論ずるものではありませんが、この戦争によって、夫を失い、妻を亡くし、子を求め、親をさがす民衆が、どれほど多くなっているか、それを嘆くものであります」と。
    「昨日までの財産を失って、路頭に迷い、悲しみ苦しんで死んでいった人もいるでありましょう。なんのために死ななければならないのかと憤りつつ、死んでいった若者もいるにちがいありません。私はなにも悪いことはしなかったと叫んで殺されていく老婆もいるでありましょう。また、親とか兄弟とかが、この世にいることを不思議がる子どもの群れも、あるいはできているかもしれません……」
    「彼らのほとんどは、共産思想とはなにか、国連軍がなぜやってきたのか、何も知らないにちがいない。お前はどっちの味方だと聞かれて、びっくりしながら、ごはんが味方で、家のあるほうへつきますと、平気な顔で答える情景もあるにちがいないと思うのであります……」と。
    恩師の心は、常に、最も弱き立場の人の上にあった。
    この一点から発想しなければ、大地から足が、ふわふわと離れた机上の議論だと思っておられた。
    そういう、民衆を忘れた議論は、冷たい観念の刃で、民衆を切り捨て、切り裂いていくことを見抜いておられた』
    (「もう殺戮はたくさんだ!」)

    「小説・人間革命」の連載が終了しましたが、特に感慨はありません。基本的にフィクションであり、また先生の決意小説であり、菩薩像の一つの姿であり、励ましの小説でもあります。また、良い意味でも悪い意味でも、宗教教団の歴史の捏造という、決してやってはならないことをやりながら、真実をアピールするやり方は、会員のみに受け入れられる書き方でしょう。9月の本幹で「真実」と「事実」は違うと語っておられました。アーカイブからランダムに選ぶわけではないでしょうから、この放送はきっと、事実と違うという言い訳の理由付けが目的なのでしょう。池田先生のご指示があったのでしょうか。事実を意識的に歪めている時点で真実は失われると思う。「小説・人間革命」を象徴的に言い表しているようです。それに比べれば、上記のエッセーは、中、高校生から幅広い青年層を対象にしたものと思いますが、良質の出版であることは疑いありません。
    ものの見方について、次のような優れた表現もありました。
    『だれもが自分に問うてみる必要がある。
    自分は、与えられたイメージを「うのみ」にしているのではないか?
    不確実な情報を吟味もしないで、そのまま受け入れているのではないか?
    しらずしらずのうちに、偏見に染まっているのではないか?
    そもそも自分は、どれだけ事実を知っているのか?
    自分で確認したか?
    現場に行ったか?
    本人に会ったか?
    その言い分を聞いてみたか?
    悪意の「うわさ」に踊らされているのではないか?
    こんな「自分との対話」が大事ではないだろうか。
    「自分は、自分で気づかない偏見を、いっぱい持っているにちがいない」と自覚している人のほうが、「自分には偏見など少しもない」と思いこんでいる人よりも、異文化との対話もスムーズに進むだろう。
    自分を見つめず、自分と対話しなくなった人は、独善的になる。一方通行の道路のようになる。話を聞かない。対話もできない。
    平和のための「対話」。その出発点は、謙虚な、「自分との対話」なのである』


    偏見や先入観を持たないこと。仏教の優れた「内面を観ずる」方法は、行動を公平に評価するために有効ですが、実際に活用するトレーニングを行わなければならないと思います。信仰は最良の自己再生の心理過程をたどりますが、言いかえれば内面への深いアプローチが信仰ということ。「自己との対話」は真摯でなければできません。少なくとも、言い訳して自分さえ欺き、他に目をそらさせようとする信仰者は、妙法の正直捨方便の姿ではありません。偏見や先入観は方便に含まれるでしょう。
    仏教の平和思想のバックグラウンドに、「一切衆生悉有仏性」という言葉があります。生命の尊厳を説く仏性論と、仏国土論の理想社会の実現は、創価の平和思想の根本です。現実への果敢なアプローチは、やや疲労気味に意識が混迷していますが、それは中心をなす御本尊や三大秘法の教義に普遍性が感じられなくなったからでしょうか。柱がなくなれば家も傾きます。
    日蓮の「立正安国」は正法に帰依することを前提にしているのか、していないのか、議論の余地がありますが、現在の平和運動の基本は、悲惨の二字をなくすと宣言した、戸田先生の理念にあることは言うまでもないことです。「小説・人間革命」が沖縄で執筆開始されたことはよく知られておりますが、たぶん、池田先生は沖縄の風土にそうしなければならない理由を感じられたからでしょう。
    沖縄は、第二次世界大戦の唯一の地上戦が行われた舞台です。その国土の宿業ともいえる貧困や戦火の繰り返しは、地政学上の要所としての重要性もあり、悲惨な歴史から逃れることができない必然的な悲しみがありました。大海にある島は、紛争や戦争の舞台になりやすいことは、少し考えればわかります。戦略上の拠点を築きやすいこともありますが、島であるがゆえに征服されやすいという欠点もあります。東シナ海と太平洋を分ける線上に位置し、尖閣諸島問題をはじめ多くの領土問題を抱えていることは周知の事実です。このような複雑さは地理的な利点が国家利益に直結するからです。
    沖縄はその複雑さのなかで、いつも揺れ動いてきました。そしてそのたびに争いが起き、島民に犠牲が強いられたのです。平和を願うなら、まず沖縄からと考えるのも、その歴史を知れば、沖縄の民の人の良さとおおらかさに日本人の原風景を見ると同時に、平和を強く望むのも当然のことなのです。

    創価では、反戦平和の具体的活動を粘り強く推進してきましたが、その多くは池田先生の平和提言や著名な平和活動家などとの対話から、その範囲を広げてきたものです。核兵器廃絶への国連をはじめ国際的なロビー活動は民間組織として顕著ですが、一朝一夕に信頼が高まったものではありません。
    その反戦平和の中心となって活動している主体は青年部ですが、現在では小じんまりとした縮小傾向にあり、その原因として、なにより人材不足が響いています。婦人部は、創価の草創から弘教の主力を努めてきました。平和運動も草の根の地道な活動を土台にしながら、活動の幅を広げてきました。女性の視点から平和運動を論じ行動する必要性は、女性の社会参加の観点からも大切なことですが、創価婦人部は着実にその困難な足跡を積み上げてきました。わたしが各年代の婦人部に接してきた感覚では、20~30年前に最前線に立っていた婦人部が、ずっと問題意識があったように思う。現在の婦人部の主力はまるで、意志不在の選挙要員に成り下がっているように思えて、どうしてそのようなレベル低下を招いたのか、信仰そのものに問題があるように思えて仕方ありません。
    そのなかで特筆すべき活動に、反戦出版を通して、戦争体験を歴史の証言としてまとめたことです。第三文明社からの出版は、絶版になっているようですので、非常に残念です。貴重な証言集は二度と編むことができない無二のものと認識しておりますが、多くの市民に読まれ、その価値を認められてこそ、創価の平和運動も社会の底辺に定着するものと思います。
    創価も教義上の問題を抱えておりますが、明快さが不足したその曖昧さは致命的な欠陥になる可能性があります。世界宗教と広言し、その賛同者を求めていく創価の平和運動は、他宗教の共存と共有、仏教がキリスト教やイスラム教と共存できるのかという難しい問題があります。そのためには対話が欠かせませんが、対話力に秀でたリーダーがいるのだろうか、悲観的な情勢だけが頭をよぎります。

    「小説・人間革命」の終了で、一つの区切りがつきました。現代の御書とか、教科書というわりには、会員の原動力になっていない気もしますが、学習意欲にも末法的な減衰感に似たものがあるのかもしれません。感じ方はいろいろなのですから、読んで生命力が弱くなる悪循環もないとはいえません。唱題して疲れる場合もあるし、深く集中しなければ血液も浄化されません。わたしの場合はスピリチュアルな感度が磨かれません。題目の数を自慢する人がおりますが、自慢しただけ、生命は負の方向に傾いていくでしょう。自己顕示欲と「慢」という意味をよく知らなければなりません。
    現代の御書などという形容を聞くと愚かさより感じませんが、先生の側近からそのような発言があることに、信仰では冷静さは実現しにくいものという感慨を抱いてしまいます。自己啓発は、客観的な自己診断が必要です。過剰な形容は間違いの元。
    「人間革命・13巻」に返還前の沖縄が描かれております。
    『沖縄の問題は、山本伸一が最も胸を痛めてきたことの一つであった。
    彼は、佐藤・ジョンソン会談の三ヵ月前にあたる、六七年(昭和42年)八月の第十回学生部総会で、沖縄問題について、次のように言及していった。
    「日本の一部である沖縄が、戦後二十二年間もアメリカの統治下に置かれてきたことは、沖縄の百万島民はもちろんのこと、日本人全体にとっても、忍びえないことでありました。
    したがって、名実ともに、沖縄のすべてを日本に復帰させることは、現地住民の悲願であるだけでなく、日本国民全体の願いであります。
    現在、沖縄は、米軍の施政下にあり、現地の人びとは、日本人として平等の人権が尊重されず、普遍的な国民福祉の享有が、できない現状であります。のみならず、沖縄に軍事基地が置かれている事実は、日本の運命、世界の平和にとって、大きな脅威であり、核兵器の持ち込みは、日米間の友好関係を促進するうえに、大きな障害となっております。
    私は、この沖縄の現状を改善していくために、次のように主張したいのであります」
    そして、「施政権の即時全面返還」「核基地の撤去」「通常基地の段階的全面撤去」を訴えたのである。また、産業振興対策を強力に推し進めていくために、「沖縄経済総合開発調査会」「沖縄総合開発銀行」の設立等も提案していった。
    彼の提案は、これまで沖縄に何度も足を運び、その現状を見て、さまざまな人びとと対話を重ねるなかで、練り上げてきたものであった。
    核も、基地もない、平和で豊かな沖縄になつてこそ本土復帰である――それが、沖縄の人びとの思いであり、また、伸一の信念であった。
    「本土復帰」という住民の悲願の実現を盾に、核兵器や基地を沖縄に背負わせるとするならば、かつて沖縄を本土決戦の"捨て石"にしたことと同様の裏切りを、政府は重ねることになる』


    聖教に連載されたのは2002年のことですので、16年前の「人間革命」ですが、山本伸一がいかに沖縄を考えているかというパフォーマンスに満ちております。「核も基地もない平和で豊かな沖縄」どこかで耳にしそうなフレーズが、どれだけ沖縄の人々を裏切ってきたのか。政治家と違い公約でありませんので好き勝手なことを言えるわけです。あたかも、沖縄の救世主のような振る舞いですが、どこまでも自分で自分を誉める自己評価のレベルを出ていません。
    裁判まで発展した普天間基地移設問題は、2016年12月、最高裁で判決があり県の上告を棄却しました。国の勝訴が確定はしたものの、この裁判を提訴した国交大臣が、皮肉にも公明党・石井啓一大臣です。そして、与党としての公明党を強力に支援しているのが創価なのです。その創価の理念の体現者が先生であり、「核も、基地もない」と適当なことをいって沖縄の人々を喜ばせ、新たな基地を造ることに賛成しているのが公明党の支持者なのです。
    民主党政権のとき、後先を考えず「最低でも県外」と無責任な発言をした鳩山元首相と、立場は異なりますが、責任を取らないことでは同じです。また、中国のたびたびの領海侵犯を危惧し、防衛上の必要悪として基地容認する本土の会員をよく見かけますが、沖縄の人々に言わせれば、本土都合の上から目線というところかしら。日米地位協定はもちろん日米安保条約そのものの見直しが必要です。池田先生も「人間革命」で提案しておりますが、「基地の段階的全面撤去」という具体的な進展はあったのでしょうか。そもそもその具体的な案を持っているのでしょうか。言うだけ言って後は政治の仕事だと、いつものように逃げるのでしょうか。沖縄の人々を悩ませている日米地位協定について、公明党の発言や提案は何かありましたか?
    創価と公明党、現在はほとんどダブルスタンダードで動いています。創立の理念は失われておりますが、どういうわけか、会員の公明支援の縛りは強くなっているように感じられます。その矛盾をなんとも思わない会員は、政策については何も考えていません。基地があることによって、今までの数々の悲劇に苦しむ沖縄の人々に寄り添い、平和な島にしていくという具体的な解決の進展もなく、却って政治的対立の真正面に立って争う公明党を、一体会員はどのように考えているのだろうか。沖縄の宿命転換は成就されるのでしょうか。
    大御本尊の不受持を決定し会則変更したときも、執行部は、池田先生の考えを忠実に実行したと思われます。一方で肯定し、他方で否定する。そのような行為は半狂人であると牧口先生が言われておりましたが、とどのつまり、その矛盾を放置するいい加減さは、魔の所為にあたるのではないでしょうか。あるいは、沖縄の解答不能な問題を都合よく活用し、会員の正義心を煽って選挙運動に動員し、政権内に勢力を拡大しようとする意図も、今となっては分別があるのかどうかさえもわからない先生を、巧妙に利用しているということなのでしょうか。それも、それらも妙法の正しいメソッドなのですか?

    わたしの非政治的頭脳で考えて提案すると、
    一つには米軍基地の整理統合、縮小。
    二つ目には防衛問題全体を議論し、憲法改正を含んだ自衛隊の整備、米軍撤廃を実現し、自衛隊に段階的に肩代わりさせる。
    自分の国は自分で守るという大前提に立ち、その上でアメリカとの安保条約を見直し、安全保障を考えていく。アメリカに全面的に頼り、またはその核の傘に入り、抑止力を拡大する現在の考え方は、遅かれ早かれ放棄しなければならないでしょう。

    知事選が13日に公示されました。「オール沖縄」が支持する候補は、ある意味、複雑な沖縄の歴史を背負った人かもしれませんが、自由党出身であり、金権政治の洗礼を受けた小沢一郎代表の影響が心配です。わたしの杞憂であればよいのですが、政治家の原点、清潔で質素なプライベートであっていただきたいと考えます。沖縄にこそ、そのような政治家が必要です。
    また、一部の革新系の勢力は、身体に染みついた反日イデオロギーは簡単に払拭できません。沖縄の独立中立の選択は、どこまでも理想論であり、現実的でありません。却って貪欲なナショナリズムの餌食になり、再び紛争に巻き込まれる事態になるでしょう。そのような脅威が決して幻想でないことは、沖縄のそもそもの不幸であり、宿命とも言えるものです。

    前知事・翁長氏は知事になる前は、沖縄の自民党の中心にあり、とても保守的な政治姿勢の持ち主だったと思います。わたしの個人的感想を言えば、知事選に出馬するとき、それまでの人生を180度転換させる決断があったのではないかと思います。真の保守は歴史から学び、歴史の修正をはかっていくところですが、これはときには、イデオロギーの堕落と批判を受けることがあります。主要な論点である基地問題を、今まで通り国政の言うがままに受け入れることができないという結論は、歴史修正主義の一つの教訓から導きだされたものと理解します。沖縄を思う心情に溢れていますが、本土の人々には理解されなかったという寂しさがありました。安倍首相には、敵と味方を峻別する独特の勘があります。この政治家の性格が悪く働く方向に、森友問題や加計問題があります。辺野古に新基地は造らせないという翁長知事の強硬な態度は、沖縄関係予算の減額という報復で応えました。
    人生には、他人の理解が得られなかったとしても、潔く方向転換する瞬間があるのではないでしょうか。変節したのではありません。理想のために、来た道とまるで風景が違う、これから行こうとする道を選択したのです。苦渋の選択と表現したければそれでもよいでしょう。沖縄のために勇気を持って踏み出そうとしたのだと、わたしは考えます。
    そんな翁長氏を、売国奴とか、左翼とか、中国のスパイなどと軽薄な批判を繰り返してきた自称愛国者のなかに、会員が入っていないことを願うばかりです。
    コンサバを自認しているわたしですが、真の保守政治家に出会うことは稀なことと考えております。日本の安全保障を理解したうえで、沖縄のあるべき姿を苦悩し模索した政治家は、時間が経過すればするほど歴史のなかで輝き続けることでしょう。

    沖縄の経済は、主要な産業が観光に偏っているために公的支援が欠かせません。離婚率の高さの原因に経済的問題があると考えるのですが、児童の貧困率も高く、子育て・教育インフラの整備、社会全体の活性化が早急のテーマです。
    選挙を左右するのは浮動票の動向であることは、どの地域でも変わりありません。その浮動票のなかに、多くの女性票があると思います。防衛問題や基地問題は、女性にこそ考えていただきたいというのが、率直なわたしの意見です。また、基地問題にバイアスがなく、固定観念もなく、イノセントでフェアネスな若者世代にこそ、ピュアな発言と意思表示を期待します。
    現実的に基地が存在し、今すぐ撤去できないなら、その他の生活に直結する諸問題に目を向け、そのサービスを堂々と政治家に要求していただきたい。政治は、あなたやあなたの隣人やあなたが所属するグループや会社のためにあるのですから。主義や思想も大事ですが、それ以上に、毎日の生活が安心であり、安全であることを、誰しも望むのではないでしょうか。

    Okinawa war 1945 4 沖縄戦カラー映像(注意:残虐な場面があります)


    沖縄戦のフィルムが多く公開されておりますが、わたしには正視に耐えません。
    アメリカ軍が上陸した沖縄本島西南部・嘉手納湾一帯は米軍艦船で海が見えなかったとも言われています。1600余隻の艦艇とともに、制空権、制海権も奪われ、日本軍にすれば絶望的な戦況だったということです。また攻めるアメリカ軍も、第二次大戦のなかで、最も激しく過酷な戦場だったとも言われ、精神的な異常に陥る兵士も多くいたということです。そしてなにより、無力な沖縄県民を巻き込んだ戦闘が繰り広げられたこと。
    沖縄返還後も、占領状態は実質的に続いていると認識してもよいでしょう。アメリカ軍基地の70%が沖縄に集中している現実は、快く肯定するような正常範囲であるはずがありません。
    沖縄の人々の悲しみは、とても深く、つらいものであることを、戦争を体験していないわたしたちのような世代は、機会があるごとに考えなければならないでしょう。さらに戦争被害者であると同時に、加害者でもあることを忘れてはならないでしょう。暴力否定の十分な認識と学習と行動が、創価の新たな世代に必要です。安易な政治支援をしている場合ではありません。


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