哲女のメモ 2

    #1
    会員の皆さまは、疑うことを知らない純真さです。
    師の命と同等のものである創価の組織と同化している会員は、宗教の一般的使命である奉仕精神を体現しています。他者のために尽くすことを最良の徳性と考え、信じているのです。
    不疑と疑の相克ともいえる現代にあって、善を願い、断念することない辛抱強い意志の継続は、貴重な精神運動として正当に評価されるべきです。
    ただ、わたしは、教義とともに信仰への確信を左右する情緒的純粋さにおいて「永遠の少年・少女」のような、成人らしからぬ未成熟さを、その行動と判断パターンに見てしまうのです。創価にも問題があるのです。それを知ろうとしない子どものような無邪気さは、大人に守られた子どもの幸福感と同じようなものです。
    師弟不二は、師という精神の母胎で安心することではありません。師の思想から飛び出し、世間の荒波を越えることです。信仰の自立と自我の確立は同じ意味です(話題になった海の文化と山の文化の相違は、個の主体性と独自性、場の平衡状態を維持しようとする倫理の違いであることを、よく考えてみる必要があるのではないでしょうか)


    #2
    家庭を、地域を明るく照らす太陽という比喩は、女性に等しく捧げられた普遍的讃辞です。誰も菩薩になる資格があり、そのことを一番よく知っているのも女性です。励ましのなかに抱きかかえるような愛情の強さを感じ、慈しみのなかに不正を憎む正義を実践している女性は、輝かしき創価の希望です。
    恐れるものなどなにもありません。潔く清らかな美は、心のなかの品性ですね。

    かつて支配者であった王族や独裁者にかわり、民主主義という神権を獲得した大衆は、常に明快で、わかりやすい論理で、とるべき行動を説明し、妥当な判断を、強いリーダーのなかに求めています。
    このリーダーは思想家ではなく行動家で、強い確信を持っています。大衆が欲しがるのは、自分の行動を保障してくれる確信の一言であり、単純すぎる断定なのです。「悪は世界を滅ぼす。したがって戦う準備をしなければならない」という単純な断定ほどわかりやすく、受け入れられる正義はありません。
    「悪」を「イラク」に置き換えてみれば、その当時の強い確信を語った小泉首相の指導者像が浮かんできます。郵政解散のときも同じ手法が用いられました。二者択一のわかりやすい議論を誘導し、国民の支持を得て、大勝利しました。同じ確信の一言が大衆を動かすというスタンスです。3・11からしばらくの後、田中角栄待望論がでました。なにも決められない首相や政府に対し、強引さがあったとしても自信を持って行動する人物像を救世主のように思い描いたのでしょう。先行き不透明の混乱の時代、哲学もなきに等しい不毛の時代、指をさし示し、方向をさだめ、確信の行動哲学を持つ人間が必然的にリーダーになるのです。

    イラク問題のとき、国民はその判断をリーダーにほとんど一任しました。大きな渦に巻きこまれた反対勢力もつまりは同じです。中途半端な反対よりできないという根性の座りが揺れているのです。聖戦に挑む聖戦なら、なにを躊躇することがあろうと確信者は国民を鼓舞します。聖戦など幻想と、一言で大衆の目を覚まさせる真のリーダーは奇跡のように稀です。SGI提言に強い制止の言葉がなかったのが残念です。平和主義と言っても、昭和初期のころと同じで、戦争抑止になんら力を発揮できなかった仏教界の姿に重なります。グローバル時代のこんにち、他国のことであっても、漠然とした概念や理想、道理にとどまる正義をいくら説いたところで通用しません。日蓮は立正安国に命をかけたのです。なぜ、不正や不正義を強く諭そうとしないで、世界の犠牲の上に自らの提言と論理を築こうとするのでしょうか。自己満足に過ぎません。

    わたしから言わせれば、政治はファッショナブルなものであり、正しく民意が反映されるとは限りませんし、また正しい結果が伴うとも言えません。民主主義の負の側面を強調すれば、わかりやすいキャッチフレーズになびきやすい大衆が、多数決原理の行使で社会の方向を決定しても決して満足しない、ということです。その延長として、現在、大衆の過剰な権利の主張が、国を滅ぼしかねない財政悪化を招いていると言ってもよいのではないでしょうか。今や自己責任という言葉ほど死語に近い言葉はありません。

    では公明党はどうでしょう。党には理念的指導者がいません。それまで創立者がその役目をはたしてきました。社会からの非難でもある政教分離を厳格に適用しようとするジレンマが、党の勢いを減速させました。この予期しない党勢の減少は、政教分離に敏感に反応し、次第に疎遠となっていく創立者と党の精神的乖離が最大の原因なのです。また、矢野某のような人間が生れる原因の一つにもなりました。
    批判が目的の低級な政教一致論でも、党勢伸張に比例して無視できない数がおこり、創価と党は神経質な警戒を余議なくされました。この批判のための批判に同調したのは、おもしろ半分に話題をとりあげる一部のメディアと、自由と平等の質を問うことなく腐った金看板を掲げる政治家と知識人です。オルテガが弾劾した「大衆」迎合であることはあきらかです。

    選挙になれば裁判官と同等の権限を持つ国民からは、公明党が創価のほうを向いているのか、国民のほうを向いているのか、判断できない迷いがあると思われます。わたしが公明党の独立を提案するのはそのためです。公明自身もまた真の精神的指導者が党外にいるために、強い確信を持てないでいるのです。そしてこのような体質は、犠牲をいとわない外交問題に顕著にあらわれます。

    現在の中国のあからさまな東シナ海への進出が、近未来の日中間の大問題になることは目に見えています。互恵関係など、大ウソを本当らしく見せる、ただのあいさつ言葉です。誰も信じていません。日本人の戦略なき幼稚なお人よしは、もう罪悪です。
    中国の価値判断は、支配するかされるか、征服するかされるかです。さらに他を顧みない貪欲さは品性の最低部類でしょう。国家主義とは覇権主義のこと、内部覇権が行われるから同時に外部覇権も行われる、つまり権力闘争からはずされた者は粛清が待っている。知識人はおののきながら、学問ではなく、国家に忠誠を誓う。勇気なき知識人ほど、社会に害毒を流し、民衆を裏切る存在はありません。
    国民利益の代理遂行者である日本のリーダーは、財政ばかり気にかかり、恐怖がすぐそばで待ち構えていることに目をふさいでいる。
    公明党に欠けているものは、国民をリードする、リーダーとしての確信の行動と理解しています。実質的活動部隊である公明支持者と会員が、いくら頑張っても、解決できない問題でもあるのです。党自身の、党の存在自体の根本的問題なのです。創価の執行部も気づいているはずです。
    「大衆のために」という言葉がどれほどポピュリズムと結びつきやすいか、「大衆の側に立つ」とした姿勢が、沖縄基地問題を肯定し、それ以前には秘密保護法や集団的自衛権の問題への安易な妥協に至ったこと、自民党という多数派と高支持率の政権に同調した権威主義は、仏法的に言えば、権力と結託して国民を苦しめる『僭聖増上慢』と思えるほどです。もちろん会員は盲目に等しく考えることをしないので、自分に都合が悪いことは気づくことはありません。池田先生はなぜ、このような会員を模範的会員として啓蒙し続けたのか、後世に厳しく断罪されることでしょう。人間主義の体現者というなら、なおのこと、人間主義という視点から自らの過失と誤謬を正直に告白しなければならないと考えるのですが、精気を欠き、老いた現在、省みるアビリティーが残っているのか、無残な面影しかありません。

    政治家は常に言い訳を考えているものです。
    「精一杯の努力をしたのです。しかし結果は期待したようなものでなく残念です」
    ニュアンスは違っても、民主主義になってからの政治家の常套句の一つといってもよいでしょう。
    お気づきになるかと思っていたのですが、「政策実現のため与党にとどまる」という言い分は、創価の「会員のため」という言い分と同じ構造を持った大義名分であり、支持者を十分納得させるフレーズでもあります。困難だけれど、それを乗り越え、社会のため、民衆のため、弱者のために、政策実現、政治的安定を勝ち取るとする訴えは、学会活動を社会への貢献とする固い信条の会員には、最もなじみやすく、シックリくる訴えです。会員が日夜励んでいる行動基準と同じだからです。
    だからと言って、会員の皆さまの行動を批判しているわけでないことをご理解していただきたいと思います。

    会員にも理解度には個人差があり、自らが為す行為の意味を深く考えない人が批判の対象になるものでもありません。それも個性であり、尊重されなければならないことですが、少なくとも、他を指導する立場にある人は、教団が社会的影響力を保持している以上、社会的問題にも精通していなければなりません。人間に関心を持つことは、その相互の関係性にも関心を持つことであり、しいては社会の正、不正に対し意見をのべ、糾弾することです。正しき者には賛同とさらなる励ましを、悪とは徹して戦うことを、信仰とはそのような生き方であることを、結局、先生はくりかえしご指導されているのではないでしょうか。

    信じることは疑いを克服した信であり、ある信仰者にとっては哲学や思想を突き抜けた純粋さの意味でもありましょう。信は固有のものであり、個人の深い部分に関わるメンタルな行為です。定量的に量れないことはもちろんですが、学会活動に参加しないから、信がないなどと考えること自体、妙法の諸法実相の法理を裏切るものです。活動家が陥りやすい、自己満足と偏見の、浅いとらえ方であると思います。
    わたしたちの肉体を二つに割れば、そこから現れるものは、「信じること」と、「疑うこと」という二個の内蔵です。この漠然とした概念は、無明と深い関連性を持っています。信は疑うことから始まり、「疑い」をかき分け、選り分け、最後に残ったものがダイヤモンドであるように、疑いの大地のなかで、疑えない一粒の信を求めることなのです。難信難解はそういう意味ですが、これは過去の仏弟子がたどった道でもあり、完全な否定から肯定を導き出す釈尊の説法も、懐疑と迷いの二本の鎖から解放されることでした。このことについては、長くなりますので、後日の研鑽課題としたいと思います。

    あらゆる急進主義に疑いを持ったのは、ガンディーですが、平和は漸進的に進むとしたのもマハトマです。ヒンドゥー教徒であっても、インド伝統の非暴力は仏教の系譜に連ねるものです。仏教はなくなっても、民族を形作る精神として生きているということです。遺伝子のように受け継がれているのでしょう。
    ブッダはアーリア人と思われます。血統へのこだわりは強く、近親間での結婚は普通であったということですが、ブッダをとりまく女性関係も、わたしの興味の対象です。出家動機に深く関係していると考えられるからです。これも、後日の課題。

    困難な使命を感じたとき、人材が澎湃と湧きあがってきます。逆に言えば、人間成長は、困難にむかうから成し遂げられる。なまぬるい生活も信仰も、政治も、さよ~ならです。
    幸せになりたかったら、覚悟してついてきなさい、とわたしは部員さんに言うのです。
    創価は別名、弱気も怠惰も駆逐する<幸福製造案内所>みたいなものでしょ?


    #3
    宗教は哲学と行動の均衡のうえに、必要な行為として社会に受容されるものです。展開される社会があって宗教行動があるのですから、精神的価値として、社会の諸機能と調和していかなければなりません。健全な宗教組織であれば、信者を導く一つの聖的な理想が、個人が考える理想を越えて生活規範にならなければ信仰している意味もなく、社会の諸機能としての市民の責任をはたすことができないと思われます。
    日本人に流れている宗教文化は、宗派を越えた底流に、集団意識にとりつかれやすいという、ナショナリズム的要素があるように感じられます。個々の明晰な信仰を求める創価も例外ではありません。信仰「闘争」は一つの表現ですが、宗教的価値観をセンセーショナルにあつかい、また誇張して表現する精神性は、個人の意思も埋没しかねない危険を持つものと思います。個人の尊厳を説いたものが宗教なら、個人の自由を無力化してしまう扇動的指導は、非日常のルールに恭順を迫る精神的暴力と考えます。創価にもこれに似た指導があふれていることを、わたしは宗教の野蛮化と言いたいのです。中道と言いながら、どうして両極端を歩むのでしょうか。
    進歩でなければ敗者、日々向上の努力を怠れば、革命家ではないとする激しいスローガンにはついていけません。創価に一人もいないそんな人物を説いたところで納得も得られません。真理は正しくても、実行する人間の行為は間違いだらけです。自分の生命傾向を見つめる洞察の重要性を理解されているのでしょうか。ご本尊さまは自分を映す鏡というではありませんか。

    ビビッドな生の組織化、正義の組織化が運命共同体の使命なら、他者の思想に不寛容であることはもっとも恥じなければなりません。多くの思想、多くの生活に共感を寄せることが調和の喜びなのではないでしょうか。慈しみにあふれ、情け深く、正も悪も受け入れる自我は、菩薩を模範にした自己管理による心の開発なのではと考えるのです。
    同じご本尊さまを受持していても、その行動は一様でなく、画一的でもありません。世界や歴史が簡単な定理で解明されないように、多種多様な動機で出発した信仰者には、多種多様な結果があってしかるべきであり、正義や過大な自己礼賛に統一された組織の理想を、会員におしつけるべきではありません。
    組織に対しての批判意欲の減退は創価に見られる特徴だと思いますが、それは教義に忠節を誓っているというよりは、凡庸な権威の絶対主義へ近寄り、安易な師弟関係に堕して、人生という不確定性へのひたむき、理知的な挑戦が忘れられているからと推測します。
    師依存の信仰から力強い自立の信仰へ飛躍することを、自分で考え責任を持ち、一人になっても意志を曲げずに行動することを、師は求めているのです。挫けない探求心と精神の質を高める思想、明瞭な言葉を持ったほんものの人間を期待しているのです。
    挑戦する人生を、師はいつも見守っているとおっしゃられますが、不特定多数の会員は総体的にしか把握できません。優れた人間でも、他者の心を知ることはいつも不可能に近い難しさです。人間なのですから当然のことです。師弟関係から救済される人もいれば、師弟に関係なく、人生を肯定的に独立的な心的堅固さを持ちながら挑戦する人もまた多くいるのです。仏法哲学は幅広い人格に対応していることを知るべきです。慈悲は求める者のためにあるのです。組織はいつも過大に宣伝され、誇大に装飾されることを会員はよく知らなければならない。教義とは関係ない思惑が、組織を動かすルールになることもよく注意しなければならない。弟子は良かれと思って師の考えとは違う方法に固執するのです。

    一口に内部アンチと定義され蔑まれるわたしのような異端は、つねに批判にさらされますが、批判されるから間違っているとは限りません。始まりはいつも少数派であり異端なのです。また信仰の自由は自覚され意識され学ばれる自由だからこそ、確固とした精神性を獲得できるのです。左脳で分析し否定し、右脳で共感とともに肯定する。それがわたしたちが実践している祈りです。

    まず身近な人々に自分の思いを訴えて、対話のなかで論議の中立性を確保しながら、理を以って諭し、行動で証明すべきではないでしょうか。結果も大切ですが、因果倶時ならプロセスもまた凡夫にとっては大切と思います。手段が目的より尊いことはありえず、手段が正しい動機より勝ることもありませんが、未来の結果よりも現在のプロセスが大切であり、それは正しい動機に支えられているからです。何も考えない人より、思慮深い行動家がその現在を最大に活用しているアクティビストではないでしょうか。
    自分の人間的大きさの範囲しか、境涯の深さも、問題解決も達成できないのではないでしょうか。道理を学ばなければ、真理にたどりつけないのと同じように、人間を理解できなければ、集団もつまりはわからないのではないかと思っています。


    #4
    あなたのまわりには、あなたの話しを辛抱強く聞いてくれる人がいないのですか?
    親身になって相談にのってくれる幹部がいないのですか?

    嘆くことで気が晴れるなら、いくらでも嘆いてください。でも同情はしません。
    わたしから言わせれば、運命を組み伏せ、逆らうほど痛快な人生はないのに、そのおもしろさを嘆きで消しているようなものです。ご愁傷さま。

    答えは嘆きのうえにはありません。
    嘆きのカスのなかにもありません。残り火とは違います。
    嘆きは魂の抜け殻なのです。火が消えた灰なのです。
    嘆きや愚痴は、自分の人生に、自分でケチをつけるようなもの。
    ケチをつけた自分も、つけられた自分もみじめになるだけ。
    否定的な思考パターンは、まわりへの敵意と責められるような不安を助長するだけです。

    嘆きを繰り返す自我は、苦痛を与えるだけで、喜びも元気も蘇らせてくれません。自我は完璧な自我になろうと努力しています。これはあらゆる人間に共通した意識なのです。
    マイナス思考はネガティブ感情の無限回路を開き、泥沼に引き込もうとします。
    油断禁物です。
    これを防ぐには、毎日、何回も何十回も決意表明しなければなりません。自分に言い聞かせるように、弱い自分を励ますように、変化は必ず訪れることを信じて、健気に戦いを挑む自分自身に深く感謝しながら、決意を繰り返すのです。
    因が果を生むように、決意が変化を生むのです。
    (「小説・人間革命」では、どの場面でも主人公が何度も決意します。「人間革命」は、先生の決意披瀝小説なのです。決意が人々を変え動かし、創価を作ってきたのです)

    わたしは強い、わたしほど幸運な人間はいないと、自分にちょっぴり語りかければいいのです。どんな危機のときにも、自分の最大の味方になってくれるもう一人の自分が、大急ぎで目を覚ますでしょう。「目を覚ます」という表現が大変ピッタリです。自分が知らないだけです。
    胸中にいる仏の分身が、人体を構成する60兆の細胞一つ一つが、ダイナミックに再生する瞬間を体験できるでしょう。
    そのための最大の伴侶になってくれるのが、あなたのご本尊さまです。

    祈りはまず、ありのままの自分をかくすことなく、自分が自分を肯定することから始まるのです。そして信仰の継続は、自分に希望の言葉を語りかけることを継続することなのです。自分は変われる、自分は最良の人生を歩んでいけるという確信を、絶え間なく自分に告げることなのです。
    信仰にも祈りにも「方法」があることを知ってください。

    嘆きのスパイラルから、強き独白の循環に転換してください。
    ご本尊さまは、力強い生命浄化を約束してくれるでしょう。
    嘆くヒマがあったら、ご本尊さまをにらみつけて、胸奧に心があると信じて、自分を吐き出すように、ご本尊さまの命を揺さぶる題目をあげて挑戦してください。
    変わらないものは一つもありません。
    セルフマインド・コントロールが自己変革の常道であり、唯一の道なのです。
    心が変革の源なのです。スタートなのです。
    能率的能力が試される仕事も同じです。
    あきらめない活力を持つ者が困難の峰を踏破できるのです。
    総合的人間力が基礎です。信仰がその力を開発します。
    慈愛に満ちた世界を創造できる心は、本来誰にも備わっています。
    ただ隠れて現れないだけ。
    変化に柔軟に対応し、確実に、現実的、具体的行動を選択することができる自分自身も、すべて心のなかにあるのです。
    その心は、早く指令がこないかと、あなたの言葉を待っているのです。
    不安と猜疑から、自信と確信のドラマへ転回し、その報酬をしっかり手にしてください。

    霊気が漂い、読むだけで沈痛になるコメントは削除しました。嘆きほど愚かな表出はありません。毒のように、自分だけでなく家庭や社会までキズつけます。天に向って唾を吐きかける行為と同じです。
    わたしがあなたのそばにいたら、力になることができるでしょうか。
    解決方法は必ずあるのに、もどかしさを感じてしまいます。
    あなたのそばに、力になってくれる誰かがきっといるはずです。
    あなたの幸せを、深くご祈念します。


    #5
    最近、知識に飢えているわたしは、血をしたたらせたオオカミのように彷徨っています。わたしをとらえる目の覚めるような表現に出会わないことが大きな原因のように感じています。
    ある人は、指導のコピーに自分の考えを上乗せして、深化も実践もないのにご立派な指導を並べる。それも一つの生き方ですが、つまりは自分の人生も、自分では縫うことがない服を着て鏡を見ながら微笑んでいるようなもの。与えられた信仰のパッケージを中身も確認しないで、ラベルで価値判断して疑問を感じない。純真と言えばいいのか、純真バカと言えばいいのかわかりません。
    何人の人に普遍的思想を植えたのか、そもそも自分の人生を変えたのか、先生のご指導通りに心の革命家になったのか。何十年も信仰してきて生命変革過程を実感できたのか。自分で自分の始末もつけられない怠惰な信仰者が多過ぎるのです。

    独立心こそ大いなるものです。一人歩むスピリットこそ修行者の信念です。その他大勢の群衆は、みんな後からついてくる。「わたしの人生のほうが不幸で悲しくてひどかったのよ」なんて、他愛もない自慢話を交わしながら。悲哀と愚痴の道には、悲しく腐った枯れ葉が降り積もりばかり。わがままな信仰者は依存から抜け出そうとしない。菩薩行は根気が一番ですが、凡夫的菩薩には限界もあるというものです。不幸になって目を覚ますことを推奨します。不幸も時には良薬になるのですよ。

    組織悪は単純ではなく、一見、正装の紳士淑女に見えます。でもよく観察すると、細かい部分に汚れやシミややぶれが見えるのです。見えない人には見えません。

    最近、わたしはとても信じられない体験をしました。
    深夜、学活の帰り、いつものように決まった道を歩いていると、近くにあるお寺の方角から、自分のほうに向かって、ゴルフ球の大きさの白い丸いものがゆっくりと移動してくるシーンに出会ったのです。
    はっきりとした明るさでなく、よく見なければ見逃してしまうほどの明るさなのですが、飛び上がれば手が届きそうな高さで、わたしの頭上を越えて民家の屋根に消えていきました。何だったんだろうと、後で考えてみましたが、あれが世に言う、火の玉(ひとだま)かしらと思い当りました。もしも火の玉なら、手に取ってよく見たいと思いました。
    わたしは、スピリチュアルな体験を感じやすいのかもしれません。見えないものが見えるのです。信じられませんよね、こんな話し。

    旗を掲げ、勇敢に、自分に正直に、戦いを挑んでいきたいと思います。
    不動の星は古来から航海者を導き、明るく闇を照らす星です。きっとブッダも見たでしょう。大聖人は祈りを捧げたことでしょう。広大な宇宙のなかで、人間なんてチッポケな存在。その一生も光が進む一瞬間です。悲しみや楽しみはさらに刹那。そんななかで人間の邂逅は不思議な出会いです。
    正しい哲学を継承することは光をつかむような難しさ。でも人間主義は、星の輝きに負けないぐらい、人々の方角星になるでしょう。
    懸命に努力される会員の皆さまのために、わたしも負けないで、嵐のなかに飛び込んでいきたいと決意しています。


    #6
    人の一生にも四季があるように思います。
    春は美しいばかりでなく、死からの復活も意味します。滅びて再生する物語は、世界中に認められる復活譚です。死が耐えられない不安と神秘の彼方に、人間の知能を越えた不可解なものとして在るかぎり、死に有意義な意味を付加し、生の総決算あるいは善行や悪行を清算する、来世への再生願望が反映しているように思います。
    もともと、輪廻思想は釈尊以前からあったインドの伝統的思想ですが、農耕社会に一般的に認められるテーマのようです。枯れたと思われた植物が、春になればまた固い種から再生するのですから、再生と再死を自然から学び、同じ生類として人間に適用するのも無理ないことです。輪廻という基本倫理は、社会の安定に十分な役割をはたしました。ブッダもその発展形を思想に取り込んだと思われますが、因果応報の自己責任倫理が現世における善行をもたらしたのです。ニーチェの永劫回帰は、このような輪廻転生から発展し、積極的な運命の取り込みの発想を考えると仏教の願兼於業に似ています。

    白い花と濃い緑色の葉が鮮やかな沈丁花が好きです。
    花は小粒でも、香りは春の香りですね。
    可憐なカタクリの群生を見たことがあります。
    どうしてそんなに思い悩んでいるの、とわたしは言いたくなるのですが、うつむきかげんに咲く明るい紫の花は可愛らしくて、とても清純な思いを抱かせてくれます。
    小学生のとき、道路の側なのにほとんど誰も踏み入らない近くの山に、父と一緒に行ったとき、その群生に出会いました。木漏れ日のなかで、ひそやかに知られることなく咲き誇っていました。足がくるぶしあたりまで沈み込んでしまうほど、枯葉が積もったやわらかい地面。一面の花の野のあまりの美しさに涙が出そうになりました。すぐ近くにこんな深い神秘な場所があるなんて、信じられませんでした。人知れず咲き散る花は、自分を主張しないのだと言いたいほど、つつましい印象を与えます。

    若いという勢いだけで、何も与えるものを持たないわたしは、頭でっかちの苦労知らずの愚か者です。高慢になりがちな知識かぶれで、自分の正しさの主張ばかりで謙虚な気持ちを失いがちになる人格傾向があることも分かっています。
    人生は多少の苦労はあっても美しいはずだと思いたいのですが、少女時代をとっくに過ぎたわたしが、そんな願望は儚い夢のようなものであることもよく分かっています。
    でも、それでも言いたいのです。
    一生懸命生きることが、そもそもとっても美しいことなのだと。
    誰に理解してもらわなくても、苦しみや悲しみを背負い、背負いきれないほど背負い、普通のあたりまえの生活さえ叶えられない人の道であっても、誰にも知られない野の花に飾られた美しい道なのです。どんな障害があっても、生き続けること自体が美しいドラマであり、感動する主題に満ちているのだと考えるようになりました。

    最近、ブッダに関する本を集中的に読んでいます。
    と、言ってもほとんど入門編なのですが、読みながら感じたことは、出家以前のブッダはその内面に強い不安をかかえていたのではないかということです。
    今では、神格化された聖人としての姿より伝わっていません。どこか人間離れした姿と、経験と知的格闘から得られた思想は、弟子や後世の仏教者において整理されました。
    ブッダの不安は、生老病死というような形で、分かりやすく、また現実的に納得できる真理に集約されました。その不安は時代や社会構造に関係なく、人間に共通した普遍的真理と思います。また不安の障害は、社会の病理であり、不安を感じない人は皆無と思います。

    わたしがいつも感謝しているのは、父や母が苦労しながら真面目に働き、経済的に大変ななかで、仲の良い家族を支えてきてくれたことです。特別なことは何もありませんでしたが、普通の家庭で普通にそれぞれの役割を果たしてきたように思います。
    ただ信仰だけは毎日の行動から、その大切さを教えてくれました。特別病気をすることもなく、好きなことを好きなようにできた、それは両親の愛情があればこそと、今はしみじみと思います。
    そんな幸せな家庭のなかで育ってきたわたしからすれば、貴女の体験は辛過ぎます。
    半生をお書きいただきありがとうございました。
    でも、わたしは何を言えばいいのか、言葉が出てきません。理解したように言葉を吐くことにためらいを感じるのです。同苦するって、本当に難しいことです。
    とても苦労されたのですね。苦労は涙なくして語れないことは、わたしにも分かります。
    そしてわたしも感情が横溢し、とめどなく涙が流れます。


    #7
    ロシアの児童文学者・リハーノフ氏と先生の対談から引用。
    98年に発刊された『子どもの世界』です。
    この対談のなかで、演劇的家庭論というサブテーマで対話を進めています。

    『池田:話を元にもどしますが、私は、社会が現在直面している危機的状況を打開する一つの方法として、演劇的家庭論というアイデアに着想してみたいのです。
    リハーノフ:それはどういうアイデアなのですか?
    池田:俳優が、ドラマの中でそれぞれの役割を演じていくように、家庭という劇場で、父親役や母親役、一定の年齢に達したならば子役などの役柄を演じていくという発想です。
    現状を固定的にとらえるのではありません。名優が自らの役柄を見事に演じきっている時の余裕や落ち着き、自己統御などの徳目を、家庭という劇場の俳優たちが備えているとするならば、家庭の雰囲気も、よほど変わっていくにちがいありません。
    仏法では「願兼於業」ということを説きます。自分がどんな悪業を負って生まれても、宿業を転換して法を弘めるために、自ら願ってそのような姿で、今世に生を享けたのだという法理です。
    であるならば、「願兼於業」を自覚する人には、自らの境遇に対する不満も恨みも慨嘆もありません。その人は、勇気をもって現状を肯定したうえで、未来へ力強い一歩を踏み出していくでありましょう。ゆえに、私どもの宗祖は、筆舌に尽くしがたい大難を受けられた時、「もとより存知の旨なり」と悠然としてそれに対処していかれたのです。
    また、私の恩師も、軍国主義下の二年間の投獄生活の苦労を問われた時、「願ってもない、えらい目に遭いました」と、いかにも恩師らしく豪放磊落に語っておられました。
    まさに名優の面影が彷彿としております。人生観の根幹にかかわることですから簡単にはいきませんが、こうした余裕や落ち着き、自己統御、あるいはある種のユーモアのセンスのようなものをもとうと、お互いが努力をすることです。
    親であれ、子どもであれ、いずれも一個の人格であり、人間として平等の存在です。家族という同じ舞台の上で劇を演じている一人ひとりは、共々に家庭創造のドラマを支えているという意味においても平等なのです。
    役者が協力しあわなければ、どんな舞台も失敗に終わります。おのおのが、その役回りを賢明に演じ、責任を果たさなければ、成功は望めない。
    また、劇にハプニングはつきものです。その場合でも、皆で団結して乗り越えていく。家庭も、これと同じではないでしょうか。
    <中略>
    ある意味で、「家庭は劇場」であり、「家族は、その劇場の俳優」と言える。大事なことは、各人がそれぞれに"よりよい演技を"と心がけていく時に、家庭はもっと豊かで、もっとはつらつとしたものになるのではないでしょうか』


    ここでリハーノフ氏は、家族の一員として、意図しないで、その役割を果たせなかった自分の体験を通し、劇のなかの役者のように演じきれない場合もあることを、反論気味に述べます。経験から得られたものであるからこそ、強い確信にもなれば、反省の根拠にもなったりします。リハーノフ氏は家庭劇について別の視点を与え、強い絆に支えられていても、外的要因で家庭が変貌することもありうること、また家族を巻き込む困難に対し、演劇的要素を持ち込むのはふさわしくないと心情を吐露します。
    理論や建て前だけでなく、個人的な本音を引き出す対話術は先生の真骨頂です。それはお互いの信頼感に依っているからでしょう。反論は対話を豊かにし、双方向の意思の疎通を可能にして実りあるものにします。

    『リハーノフ:ある部分ではあなたは正しいと思いますが、ある部分では、私はあなたに論争を挑みたいと思います。
    池田:いいですね。どうぞ、どうぞ。七年前に、当時のゴルバチョフ・ソ連大統領とクレムリンでお会いした際、私は冒頭に「ケンカしましょう」と。大いに議論しましょう、ということを、ユーモアを込めて申し上げました。
    建設的な議論からは、必ず"何か"が生まれます。ソクラテスの対話がいみじくも"産婆術"と呼ばれていたように。
    リハーノフ:家庭生活を劇を演ずるかのようにとらえることは、私にはとうていできません。むしろそれは、永遠の波瀾万丈なのではないでしょうか。
    夫も、妻も、そして子どもも、社会にあって常に複雑な個々の状況に立たされています。大人たちは職場や知人たちの間で、子どもたちは学校で――それぞれが家庭の外で遭遇するドラマは、やがて家族全員が関知するところとなります。
    家族の絆が深く、強い土台の上に築かれている場合には、妻や、夫や、子ども、誰か一人が家庭の外でぶつかった問題を乗り越えるために、家族が支えとなることもあります。しかし、そのような外的な問題や環境が、家庭を変貌させ脇へ押しやり、壊してしまう場合も少なくありません。
    私の家庭のドラマをお話ししましょう。私は、三十九才の時、病気をしました。なかなかはっきりした診断が出ずに、しばらく入院をしたままでした。ついに診断が下り、手術が必要とのことでした。
    私は手術を受けました。担当の医師は有名な外科医で、私の手術の執刀する前日に科学アカデミーの会員に選ばれたところでした。そういうわけで、私は彼の「アカデミー患者」第一号になったのですが。
    手術は成功し、退院し、一年が過ぎ、三年、一五年が経ちました。私は病気になる前よりもっと仕事をし、主な著作を書き上げ、作家として認められるようになり、そして児童基金を設立しました。
    そんなある日、ある会合で、あの時の外科医にばったり出会いました。今は老碩学になっていました。別れ際にクロークのところで、彼は私にこう尋ねました。
    「あれから何年経ったかね?」
    私が答えると、彼は言いました。
    「君の病気、何だったか知ってる?」
    私がちょっと当惑しながら、当時知らされていた病名を言うと、
    「いや、それは違うよ。あれは、ガンだったんだよ」と、彼は声高に笑いました。
    私は、何かで頭を強く叩かれたようでした。気が動転した私は、あいさつを済ませ、外に出ると一目散に家に向かいました。
    家に着くなり、私は、妻のリリヤを呼び、外科医と会ったことを話し、今度は彼女に尋ねてみました。
    「君は知っていたのかい?」
    「もちろん」
    なぜ私に知らせなかったのかは、問うまでもないことでした。
    池田:ガンの告知の問題は、非常にデリケートな問題で、わが国でも議論が繰り返されております。私も、ケース・バイ・ケースで対処すべきであって、是非の間に明確な一線を引くことはできないと思います。それはともかく、奥様の苦悩は察するにあまりあります。
    リハーノフ:言うまでもなく、腫瘍は再発の恐ろしさで知られています。私はある一定の周期で、再発の可能性にさらされていたわけです。一年後、三年後、そして五年後、と。
    その時、もし私が愛する妻の立場にあったらどうだっただろうか、と考えました。彼女はどれほど苦しみを秘めて耐えてきたことか、ずっと緊張の連続だったにちがいないことを知ったのです。
    彼女は言いました。選択をしなければならなかった、と。私の健康のために周りに囲いをめぐらせ、仕事から遠ざけたほうがよいのか、それとも、以前と同様に、私がやりたいことを全部やらせておくべきなのか。彼女の選択は後者でした。
    そこで、もし誰かが、彼女は家庭という場で上手に役を演じただけと教えてくれたとしたら、私はおそらく愕然とし、同時に笑ってしまうでしょう。いかに昔、彼女がテレビのアナウンサーと演出の仕事をしていたといってもです。
    いいえ、あれは演技ではありません。苦難への挑戦です。それも、最も近しい人間に打ち明けられず、苦しさを分かち合うわけにはいかない。家族と医者との秘密である以上、ほかの誰にも助けを求めることもできない。そうした中での絶え間ない葛藤との闘いだったことでしょう。
    ですから、妻は、何年も経ったのちとはいえ、私に真実を暴露してしまった、かの碩学の外科医に一番腹を立てていました。もしも私が、真実をもっと早い時期に知らされたとしたら、私がどう受けとめるか、誰も保証できない。くじけてしまうかもしれないことを、妻は了解していたのだと思います・・・。
    したがって、敬愛する池田さん。どうか悪く思わないでください。でも、夫と妻が演技をできるのは、とても限られた場面だけなのではないでしょうか。
    たとえば、二人の意見が合わない、でも些細なことでケンカをするのは賢明ではないと判断して、お互いが角を立てずに折り合いをつけるといった場合には、当てはまると思います。
    でも、家族が困難に本気で立ち向かわなければならない状況に立たされた時、同苦と愛情と支えを必要とする時まで演技が持ち込まれたとしたら、悲しいことではないでしょうか。
    わが家では、先ほど述べた真実が明るみに出て以来、何事につけ、私は妻の勇気と力と慈しみの心に崇拝の念を抱き続けています』


    危篤な病のなかで演技ができる人は稀でしょう。病はそんなにお人好しではない。またできたとしても、それは単に仮面を被り、自分やまわりにウソをついているようにしか思えない。気持ちの問題は別にしても、病を通した家庭再生を望むこと自体が難しい。確かに心にもない演技をして、一時的に誤魔化すことができても、家族といえど真の心の交流にはならないでしょう。先生は"演技"について定義を試みて、それは人間性の輝きであるとリハーノフ氏に告げます。

    『池田:心にしみ入るお話ですね、リハーノフさん。
    私の申し上げた「演劇」、あるいは「演技」という言葉の含意を申し上げますと、それは人間性の発露から生じる行為――といった意味なのです。ですから、奥様のなされたことは、誠にすばらしく、感動的であり、豊かな人間性に満ちた行為です。
    「演技」というと、どこか嘘っぽく本心を偽ることを、心ならずもやらなければならない擬制(実質はちがうのにそうみせかけること)といったニュアンスで受け取られがちな点は、日本でもロシアでも同じでしょう。しかし、私の言う「演技」は、人間の本然からの営為なのです。
    ですから、表面上のこしらえごとを言ったのではありません。人間が本能に支配されることなく、自己をコントロールしゆく人間性、人間であることの証を体得していくための必須の行為であり、いわば人間性の勲章とでも言うべきものなのです。
    私が、真の意味での「演技」が漂わせている「余裕や落ち着き、自己統御などの徳目」を指摘したゆえんであります。
    たとえば、私どもの宗祖の生涯は、迫害に継ぐ迫害の連続でしたが、五十歳の時、生涯最大の難である斬首刑に処せられようとします。
    その時、不思議な出来事があって、結局、刑は取りやめになったのですが、その直後、宗祖は、何と捕吏たちに酒をふるまっておられるのです。驚嘆すべき境涯の高さであり、「余裕や落ち着き、自己統御」のお手本のような振る舞いというしかありません。
    私が、進退きわまった苦境に立たされた時の恩師の悠揚迫らざる態度に見て取ったものも、それに通ずるような人格の力であり、輝きでした。
    すなわち、真の意味での「演技」とは、そうした卓越した人格の力のおのずからなる流露です。孔子が「徳弧ならず、必ず隣あり」と言っているように、それは、巧まずして人々を魅了してやまない振る舞いへと結実してくるものです。
    宗祖のような宗教的巨人の振る舞いを、万人に要求することは無理かもしれません。しかし、通底するものは同じなはずです。
    リハーノフさん。あなたの夫婦愛のエピソードからうかがえる、奥様の内なる闘いこそ、まさに人格の力であり、人間性の輝きです。奥様の苦渋の選択、その後の忍耐強い支えの背景に、「余裕や落ち着き、自己統御などの徳目」があったのです。人間性の奥深くから発する「迫真の演技」「真実の演技」と申し上げたいのです。
    そうした意味から、私は、家庭生活に限らず人生そのものがドラマであり、人間は、本質的に劇的性格をもっている、と信じているのです』


    先生も指摘しているように、人生の演技性と願兼於業は深い関係があると思います。
    願兼於業の不確定なシナリオは、不確定であるがゆえに予想のつかない波乱に満ちており、また神にも仏にも支配されたものではありません。どのようなハプニングが起きるか全く分からないという意外性とドキドキ感にあふれています。それがそっくりそのまま、人生のドラマ性に重なるのですから、演技者がすなわち迷い、闘う人間なのであり、また観客という社会の人々に希望とスリルを与え、感動の虜にする名優に他なりません。
    名優は物語のテーマと自分の立場をよく心得ています。病というドラマ、貧しさというドラマ、老いを人生の総仕上げとするクライマックス、死の荘厳さという場面。

    生を真剣に生きた者だけが演じることができる各場面は、シナリオ以上の醍醐味があるのです。豊かな恵みがもたらされる自己統御の冷静さとたくましさは、名優と同じ人生の達人として、また最良のコミュニケーションを体現した菩薩のセリフは、それを聞く者の胸に熱く訴え、感動を与えることができるでしょう。さらに求道者として真実を求めぬいた不屈の精神のドラマ。他者を愛した個性的で自由な生の実践。今までも絶望から帰還した勇者が幾多もいたことでしょう。信仰と熱情によってどれだけの人々が、不幸のくびきから脱したことでしょうか。自分の生き方は自分の手のひらに握られているのです。捨てるも拾うも自分次第なのです。
    人生が、すべてが願兼於業の自分が書いたシナリオであることに思いがおよべば、演じきった素晴らしさと充実感ははかりしれません。命に刻まれている宿業も、遺伝子が書き換えられる同じ原理で、このような充実感のなかで転換されるのではないでしょうか。心の財は妙法という法理です。不幸をかけがえのない心の財産として所持できるのは、信仰者が得た功徳であり、特権です。
    さらに方便が妙法に照らされたとき、秘妙方便に発展し、方便自体が真実であるというドラマチックな転換が図られます。受動的な人生から能動的な人生にコンバートしていくとき、境涯に変化があることは当然です。妙法はそのためのエンジンであり、ドライバーは信仰者であることに思い至れば、どこに行くことも自由であるという境涯を獲得できる大きな福運と功徳に包まれることでしょう。

    先生の、あるいは創価の理念と目的が記された「人間革命」の冒頭の言葉、
    『一人の人間における偉大なる人間革命はやがて一国の宿命転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする』

    この言葉は、こんなふうにも言い換えることができるのではないでしょうか。
    『全人類の不幸は、一国の不幸でもあり、一人の人間の不幸に転換され凝縮される』

    一念三千の法理に説かれるように、社会を無視した人間の幸福はありません。同時に、個人の不幸は社会に反映し、個人の不幸の解決も、社会に影響を及ぼして、国や世界に対しより良き選択の材料となり証明となるのではないでしょうか。

    不幸は幸福の反対の形をしています。そのプロセスも下り坂と上り坂のように、方向も困難さも違うと思います。そして幸福に上限がないように、不幸にも限界がありません。
    「不幸の連鎖を断ち切るために、妙法の闘士は目覚めなければならない」
    不幸や不安を克服するために、そのような使命を自覚した人が、菩薩といえる尊い人格者になる因を持つことが可能なのではないでしょうか。

    年齢や性別、地位には関係ないと思います。強い人間ばかりが幅をきかす世のなかであれば、弱者はどうすればよいのでしょうか。弱者から強者への変革を成し遂げるのが、仏教の目的としたら、不幸や不安や、自分の存在に関わる重大な問題解決に、たとえ人生の大半を費やしたとしても、その経験を経た人が、本当の弱者の味方と言える資格を有しているのではないでしょうか。
    菩薩はその弱者を救済するために、内的な問題、外的な問題をことごとく背負い、背負いながら挑戦し、自分の生のあり方と自己統御の方法を苦難のなかで発見し、妙法の真髄に至る確信を得るのではないかと、わたしは考えるのです。

    宿命のボードに埋め込まれた挫折と心傷のストーリーから、使命というスポットライトがあたる躍動のステージへ、自分が演出し自分が主役の人生劇を、力強く演じてください。
    若年のわたしが言うべきことではないかもしれません。
    本当の自己実現という妙法の功徳は、これから花開いて、きっと人生を飾ってくれるのではないでしょうか。ぜひ、そのような百花繚乱の花吹雪が舞う幸福な人生になりますことを、ほとんど何も知らない人様の人生に対して、失礼と思いながら、祈りを捧げたいと思うのです。花がほころぶように、苦しみもほころび、喜びに満ち足りた美しい人生を実現してください。

    。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*

    香港に栄光あれ!


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    哲女のメモ

    #1
    魂の奥深いところで信仰の隷属を拒否し、ヒロイズムとは無縁のところで、自らの人生を見つめ責任を持つこと。
    平凡であることは非凡であることよりも非凡なエネルギーを必要とします。
    宗教的探究とは、実生活のなかで、苦悩や悲しみに意味を持たせること。
    不条理なことや差別的制限があったとしても、また小さな世界のなかで社会の盲目的偏見にさらされても、「わたしは生きた。わたしは生きたいように生きた」という自由ほど尊い人生はありません。
    学会役職など人生にどれほど重要な意味があるのでしょうか。人生の危機を乗り越えるのは、ただ強い自分を作り上げるより方法はありません。そのための補助となるのが学会役職です。
    服従ではなく抵抗、放棄ではなく受容、熱狂ではなく冷静、怠惰ではなく勤勉、無信仰ではなく諦めない信仰など、意識しようとしまいと価値基準と人格性向が人生を決定するのではないでしょうか。どんな人生も、かけがえがない教訓と美しい記憶を残してくれる。


    #2
    大学受験のとき、不安な気持ちが増すなかで、自然とお題目を唱える時間が長くなりました。そんなあるとき、わたしはご本尊さまの前で、特殊な宗教体験をしました。以前、父に薦められて読んだパールバックの「母の肖像」に出てくる少女時代の物語、神の存在のしるしを求め、森のなかで決死の覚悟でうずくまる少女に、自分の影をみました。そして啓示を受けたのです。
    この信仰は、決して欺かない強い絶対性を有する真理であること、超越的な何ものかがわたしの人生を情熱的に導くこと、わたしが創価大学に進学することは、もう定まった運命のようなものであること、など、わたし自身の諸属性がすいこまれるように引き寄せられ、次の瞬間、知的エッセンスをのみこむような恍惚感とともに浮遊する感覚におそわれたのです。
    このような体験を正確に語ることは不可能のように思います。また、ただの夢想のようなものと言われれば、そうかもしれません。でもわたしは確かに、それが啓示と言うのであれば、真理の光がわたしを照らしたことを感じたのです。
    神経過敏になっていたことは事実です。不安は心を鈍感にもすれば針に刺されるように敏感にもします。不安をまぎらわすために、脳のなかで麻薬のような働きがあるものが分泌され、過剰に脳機能を支配していたのかもしれません。

    わたしは、わたしができる精一杯の範囲で、清く生きようと決心しました。悩みや苦しみがわたしを惑わしても、悩みを精一杯に悩もうと思いました。自分を誤魔化すことなく正直に生きようと思いました。


    #3
    言葉が蔦のようにからまり、ときどき花言葉も咲き薫る秘密の花園に足を踏み入れましたね。でも、気難しい女主人は、本当はとても優しい方と聞いておりますので、ご心配されることもないかと思います。
    美しいものよ、幸あれと、恋情をこめた寂しげな声が、風のなかから響いてきます。
    誰人も想いを遂げるのは稀なこと。
    過去の絵草子をめくるように、儚き夢とロマンの幻を胸に抱いて、いつか一人仰ぎ見た、星降る夜の静寂のなかで、涙を浮べて祈った小さきわたし。
    記憶もうすれて、もう思い出すこともないあのときの想いは、花開くように遂げられたのだろうか
    失礼しました。少し詩的に迫ってみました。

    地区の皆さまにはもっと肩の力を抜いて活動したらどう? とか言われますが、いい加減なことは黙って見過ごすことができないわたしの性分は、良くも悪くも創価のなかで培われたものです。

    悪と妥協しながら、一方で悪を攻めろと号令をかける矛盾、わたしは創価の都合のよい論理を指摘しているのです。正義を主張するなら、社会に向けたメッセージとして社会性も当然考慮してのことと考えますが、関心がないのか、会員の方々は話題にすらしません。どうでもよいことなのですね。個人に関わる信仰の範囲で、日常起る雑多な問題の解決、勢力拡大のためのアドバタイジングとしての体験、つまり功徳の実現がなにより優先されるからだと思います。功徳にとらわれる姿は中道とは言いません。功徳は発心のきっかけにしか過ぎないのです。文証理証現証という証明課題も信を深めるためです。

    会員の皆さまはこのような話題には冷淡で醒めています。賢明なのかどうか、わたしにはわかりません。悪も正義も飽食気味なのではないでしょうか。

    敵愾心の助長はスピリチュアルな優位性を知らず知らずのうちに育てます。心理的に微妙な問題ですが、組織中心者は十分承知のうえで悪を名指しし、防衛に努めます。攻めはつまり防御のことですが、悪と対決することは、内部団結におおいに貢献します。そのうえに思想的裏づけがあれば、誰も近づく者はいません。信仰の堅固さは悪を認識することから生れるのです。
    しかし、悪の最初の姿を、わたしたちは自分の心のなかに見なければならないと思います。欺瞞に満ちた自己の懐疑なくして、自己実現はありません。他者の悪は自己の悪と同質です。同じ人間であるかぎり、他者が所有するものは自己もまた所有している。
    大聖人は「開目抄」で、自分は一体何者なのか、詳細に自己への疑問を投げかけています。そして疑えない末法の仏の命を自己のなかに発見しました。それは諸天の加護(依存)も断ち切った主体的自己を確立することでした。自己と他者の差別も、善悪の差別も超えた仏性の存在を確定したのです(『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』との御文は、強靭な自我の宣言です。当時、大聖人は佐渡にあり、そのご生涯のなかで最も過酷な時期にありましたが、その置かれた環境が重要です。人間はどんな苦しみも乗り越えられるという、力強い勝利宣言は最も危険な国土で行なわれたのです。言い方を変えれば、乗り越えられない苦しみなどないという、わたしたちに命の底から勇気を起こさせる励ましなのです。なんて素晴らしい言葉でしょうか)
    菩薩は、他者との関係を最も重視します。他者とは他者共存のなかに希望を見出す人々であり、ひいてはその関係性を脅かす社会の矛盾に立ち向かう人々です。
    このような人々は、信仰を持たなくても傑出した人物として多く存在し、歴史にも登場しました。行動哲学に、社会への期待と建設的志向があると思われますが、保守であれ革新であれ、安定をめざすことには変わりありません。無用な人間はいないのに関係を破壊しようとした、原罪を背負ったラスコーリニコフ(ドストエフスキー・「罪と罰」)という悪の象徴は、安定的関係を望まない人物としても理解されるのではないでしょうか。人間関係は他者のかけがえない価値である生命への尊重精神がなければ成立しないということです。同時に、自分への尊重も相手に要請し、その関係性のなかに委ねようとする意思の表れとも言えます。

    わたしたちは菩薩なのでしょうか?
    不完全な菩薩であったとしても、わたしは十分な喜びを感じますが、矛盾を矛盾と捉えない菩薩を、わたしは菩薩と呼びたくありません。


    #4
    法華経は聖と俗に差別を見出さない。優劣を競わない。『真は即ち是れ俗なり。俗は即ち是れ真なり』:法華玄義。自由である個人。自由に裏づけられた世法即妙法。個人の私的な信仰が公共性を有し、個人の利益が公共の利益に連動する。信仰は社会的目的を同時に包含し、実現に向けて献身的行為をうながす。近代的理性の行きづまりは、活用の妙法によって革命的なパラダイム転換を迫られる。否定と肯定の両面から、あらゆる思想を再検討し、中道の立場から調和的に生かす。近代文明の行動原理である理性は、根源の生命の全体性を明らかにすることにチャレンジし敗れた。人間主義は近代も現代も包括する。智慧と慈悲の哲学こそ、人間の際限ない欲望を駆逐するものである。賢明な生活者は聖なる功利性を求める。諸法実相は現世利益と言い換えても間違いだろうか。J・ベンサム『もしも彼らが神が文字どおりの意味で慈悲心に富んでいるというのであれば、彼らは宗教の命令が功利性の命令以上でも以下でもないこと、両者のあいだには一点の相違もなく、一点の過不足もないことを認めることであろう』生活革命こそ、妙法の利益。
    自由自在の主体性に支えられた菩薩の化身は、人格に多様な側面をもたらす。菩薩はあらゆる姿で現世で使命を成就する。先生は、内発性、ソフトパワー、漸進主義を繰り返し訴えている。自己の価値観を早急に他者に押しつける危険を指摘し続けてきた。自由な内発性は自己変革の原点。漸進主義は哲学思想の市民性を得るための基準。
    排他主義、包括主義、多元主義、自在主義。スッタニパータのなかで『一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない』と語ったと伝えている。自由自在なブッダは、あらゆる学説や見解から自由。英知を結集して批判すべきものは、仏教の真理ではなく、そこから導かれたと錯覚し誤っている言動を対象にすべきなのです。理性的に懐疑を持つこと。矛盾がないか検討すること。創価思想の論理的整合性を批判する前に、その体系に十分精通する必要があると考えるのは当たり前の見解。
    政治と宗教・・・当分パスしようっと。「大衆とともに」…もうすっかり大衆は離れている。永らく与党の甘い汁をすすったせいか、鈍感さを増したようです。


    #5
    ある人は、荒野を目の前にすると、とても自分では踏破できないと尻込みする。しかし、ある人は、未知への挑戦にファイトを燃やす。チャンスは誰人にも平等に与えられているものと考えますが、道端の石ころのように、いくつもころがっているわけではないと思います。

    人間には、無限の可能性があるということを信じていきたい。同じことをやるにしても、考え方一つで結果も変ってくる。始めは努力のわりには得るものが少ないかもしれませんが、継続してやりきっていけば、あとで十分過ぎるほどに望むものが与えられる。結局、助けてくれる人はなく、自分のことは自分で責任を取らなければならない。
    会社のなかの一社員であっても、会社発展がすなわち自分のお給料や自分の人生に直接響いてくるわけですので、人任せにはできません。世間はそんなに甘くはないし、頑張ったけれどダメでしたと言っても、誰も同情してくれません。もっと頑張ればよかったのにと言われるだけです。信仰も同じではないでしょうか。どこまで頑張れるかは全く個人の意思に左右されるものだと思います。
    諦めはすべてを無に帰す悪です。ガッツな意気込みが苦難の門を開く。自分で考え行動して、最良の自分の方法を見つけだしていく。要するに、依存するなということ。主体的に行動する自分自身ほど頼もしいものはありません。自我の再生こそ信仰の醍醐味です。

    ......と、立派なことを書きながら、わたしったら、泣きたい気分でいっぱいです。がけっぷちに立ってる気分。今まで何度も経験してきたのに、最近、失望し、どうしてなのだろうか、立ち直れない自分がいます。記事エントリーへの気持ちも高揚しません。組織に失望するのは、わたしの信心が弱いからなのでしょうか。理解してくれなければ理解してくれなくてもよいと割り切り、強い自分であろうといつも自分に言い聞かせてきたのに。

    これからは活動家の定義を変えていかなければなりません。
    活動家というのは、組織の定義です。それは組織拡大とともに理想とされてきた人物像ですが、現在の活動家と言われる人たちがどれほど無自覚、不勉強な人々か、わたしははっきり申し上げます。そんな活動家にならない方が賢明です。上辺だけの評価など、評価する人間の軽率さを表しているだけです。


    #6
    「四箇の格言」という言葉がでてきましたので、思い当たったことを書きます。
    17年前の「御書の世界」で、先生は、円満なる人間生命の力の開花という人間主義の立場から、「四箇の格言」を四つの類型としてとらえ直し、新たな意義を見出しています。詳しくは本を読んで確認してください。この「御書の世界」発表当時、宗門から批判が続出しました。

    人間主義が多くの誤解を与えるのは、先生が仏教全般、法華経や妙法に新しい視点と解釈を与え、また現代語で新しく定義を語るからだと思います。
    法華経や御書が現代語訳にとどまらず、他言語に翻訳され世界に受け入れられているのに、その思想について現代的意義を付与することには抵抗するという矛盾。普遍性を有するということは、現代性を有するということです。法華経のなかで、提婆達多は未来記別を与えられましたが、その未来とは現在のことです。古くさい伝統は、法華経の物語性にとらわれて、そのような解釈を許さない。

    人生を生誕から死までのひとつのストーリーに見立てるとき、学ぶことに目覚め、学ぶことから転換をはかろうとする生き方は、大きな意味があると思います。自己欺瞞や現実逃避の誘惑が多いなかで、学ぶことは自らの生き方を知的転換するもの。「パンを願い求めるならば石を与えられることはない」(マタイ伝)とキリスト教でも説いています。
    しかし、本人からすれば建設的姿勢、前向きな試行錯誤であっても、回りから見れば、ネガティブな転向と誤解される場合が往々にあり、今まで温和な人間関係を築いてきたにもかかわらず、否定的に破壊的に意思疎通がはかれないという事態に陥ります。なぜでしょう? 以前の村社会の道徳が復活し支配するのです。異端というレッテルをはり、排除する村落共同体の仲間意識は、自由な行動基準より既存の様式・儀式を尊ぶものです。
    絶対平等性を重んじる仏教では、仏の前では誰人も一様に尊貴な存在でありながら、この崇高な理論を実行する段階で平等性を失います。いうなれば、仏の教説を実行する組織は、間違いなくタテ社会であるからです。
    拙い頭を絞って、組織改革を唱えても、タテ社会の上に位置する人間は決して受け入れようとしません。彼らの関心は組織を平穏に保つことであり、それが組織に所属する大部分の会員の意見だと信じているからです。村の掟は創価のなかでもしぶとく生きているのです。変化しながら保守であれ、改革しながら妙法の正義を守れと、先生はずっとご指導されてきたのではないでしょうか。批判しながらありのままに享受し、妙法が説く教義と倫理基準に照らし合わせる行為が必要なのではないでしょうか。盲目と無批判の帰属主義からの脱却こそ、真に人間解放につながるものだと思います。師や組織への帰属という他力信仰こそ戒めなければならない。根本尊敬の宝塔は自分の命のなかにあるのですから。

    わたしが言うところの保守とは、政治的立場の保守ではなく、思想的保守のことです。人間が守り育むべき普遍的価値への回帰運動を保守と名づけるのです。その意味でピューリタニズムも、信仰における自由と秩序、神と人間の関係のなかで復活した保守的回帰と言えます。創価の人間主義も同様です。堅固な哲学体系を裏づけとして、人間主義は秩序ある自由を保証しているのであり、観念ではない経験から得られた自由を保証するということです。功徳体験に生命活動の自在さを、会員は喜びとともに知っています。宗教体験はベルグソンの生命的躍動という本質的なものと直結しています…<人生は価値的なものへの願望と挑戦であるというようなことは、年若いわたしが生意気に言うことではないかもしれません。多くの人々が人生改革に挑み、勝利しまた敗退してきたのですから。わたしの人生は退屈なほど保守です。表面的には悲しいぐらい変化が分かりません。でも十分満足しています>…つまり改革とは保守に回帰するための改革なのです。ファナティックな勢いを嫌う理性的な漸進主義は、急進主義よりも当然のことながら忍耐を必要とし、明確な歴史判断という知性が必要です。でも「反省のない伝統と習慣」に沿った浅はかな判断は嫌われるべきです。物事は単純ではなく、複雑極まりないと認識することが仏法者の姿勢でしょう。

    村社会では、個人の意見や意向が埋没し、個人においても強く主張することを控えて、和を維持しようと努めます。創価村社会のシステムをつなぐものは、日本的な和の精神です。師は村の長で弟子は村民。師は父で弟子は子ども。タテ社会の家父長制度が反映しています。父は家を守るために粉骨砕身しているのに、子どもはいつまでも自立できずに甘えている。わたしを越えろと、先生はご指導されていましたね。大事なことは都合よく忘れる自称弟子たち。越えられるはずがないと考えるのは、ご本尊さまの力を信じていないからでしょうか。先生は特別の才能を持ち、特別の修行をされた存在と考えているからでしょうか。

    また過去にキリスト教では信仰の純潔さを守るために、修道院で共同労働が行われていたことを思い起こすべきです。創価の閉鎖性が批判されるのは、創価内部の空間が特別のものと、知らず知らずに会員が意識しているからだと思います。創価でも、世間から隔絶している共同労働が行われていると見ることも可能です。聖教の多部数購読、選挙支援などがその例です。宗教ルネサンスとは、社会に積極的に受け入れられる開放性、平易性の実現という一般人からの共感を得るものでなければなりません。会員が堅固に抱いている先生に対する師弟不二という絶対思想は最初に拒絶されるでしょう。
    したがって、師は神格化されることを望んではいません。弟子が師の言葉を神聖視することも避けなければならない。運動が成熟し、一方で改革を志向するエネルギーが先鋭化した折衷主義とも言える人間主義は、自らが自らの生命の尊貴さを証明しながら、他者のために良く考え行動する方法論を教えているものと思います。
    共同体が大切なのではなく、共同体からはみ出ても、自分の意見を貫くことが大切なのです。共同体が成仏の成就を保証してくれるわけではありません。どんな素晴らしい団体に所属していても、自分の心に財を積むものでなければ、どんな意味があるというのでしょう。人間主義は自立主義なのです。そして今こそ、創価は大きく変わるときを迎えていると確信します。

    改革を信条として自分に正直であろうとする者は、抑圧されたと勘違いし、やがて反逆に至る。一般的見解に従えば、抑圧は、権力者の専権事項のあらわれですからね。しかし、上に立つ人間もまた責任上、個人的欲求を押し殺していることに思いを寄せると(改革案を検討したいけれど、組織のために聞いてはならないという押し殺した欲求)、「包括は脱個性化を導く」という社会学的命題も含まれていることに気づきます。<宗教>ブルジョワも構造的に疎外されているというマルクスの資本論のようです。組織の公式見解を没個性的になぞっている人間は、ステロタイプ的にしか集団イメージを想像できないでしょう。創価では勧善懲悪の物語が多く語られます。虐げられている者が正義とする救済の論理は、すでにロシアで滅びました。しかし、目的を共有し、ともに進もうとする宗教組織って社会主義的運動形態なのでないでしょうか。また絶対精神を認めた最良の個人主義的アナキズム集団かもしれません。平等と自由、集団と個人という問題は永遠の課題です。

    今まで反逆の汚名を冠せられ批判される人間は数多くいましたが、そのほとんどは、個人的な利害のなかで純粋な信仰を失った者たちです。どんなに自己正当化をはかろうと、命に刻まれた宿業は取り消すことができない。このような愚者はもっともらしい賢者の顔をした似非賢者ですが、特徴的なのは、創価学会は宗教ではないと考えていることです。宗教は必要と賢そうに主張しながら、一方で創価は必要ないとダブルスタンダードの態度で正義を主張する。「自分たちは受け入れることはないが、他の無知な人々は無批判に受け入れている」という主張は、「自分たちは受け入れるが、他の無知な人々は無批判に受け入れない」と言い換えることもできます。つまりウェーバーが言う「内なる美徳と外なる悪徳」です。また善があれば悪があり、善が強くなれば悪も強くなる。鏡に映したように内と外では美徳も悪徳も逆転します。内も外も差別なく認める寛容こそ、仏教が説く偉大な精神です。
    もともと一闡提の醜い根性の持主ですから、信じないことに価値を見いだすことと、世俗的な毀誉褒貶に敏感なんですね。そして外面を飾ることに執着して、およそ純情な仏教徒とは縁遠い、肉を求め彷徨う飢えたオオカミなのです。不満のエネルギーで身を焦がすオオカミなのです。自分に飢えているのに、他者のせいにしている。自分の不幸を他者のせいにしている。己心の外に法ありと考える無責任論者です。ニーチェが嫌った、欺瞞に満ちた弱者という善人と同類。ニーチェが狂気に陥るほど批判したのは、フランス革命から始まった民主主義という鎧に護られた愚かなる大衆です。時代を翻弄し無意味にする神のような大衆です。
    「教養俗物」の「喧騒と毒ある蠅どものうなりがはじまる」と揶揄される者たち。寛容を求めるしぐさは小児が母に甘える様子に似ている。多様性を主張する姿は凡庸な権利の奴隷でしかない。正義だって...そんなもの薄紙のようにはがれる道徳と同じ。やがて悪夢に悩まされ、一人孤独に不信の沼地にはまり沈んでいく。悲哀の亡霊にとりつかれた可哀相な自称自由人たちよ、不幸は自分が自分の崇高なるものを引きずり下ろす行為から必然的に運ばれてくるのだ(...と、ニーチェリアン風に呪いをかけてみる。「自己愛を超え出た愛の過剰」かな?)((+_+))
    100年前も現在も変わらないのですね。精神レベルを変えたいと考えるなら、自己救済というダイナミックな苦難に立ち向かう決意が必要なのです。

    でも、わたしが問題にしたいのは、話題にすらされないごく少数の大まじめな人たちです。大まじめに改革を提言し努力を続けながら、失望し、それでも組織にとどまり、悩んでいる方です。今までそういう方も確かにいたのです。


    #7
    いくら正しいことでもスローガンになると硬直化します。
    聖教には毎日、スローガンが溢れています。部や地区においても、一年のスタートやイベントの始めにスローガンを掲げます。スローガンを考えている間は、未来展望がいきいきとイメージされますが、わたしの体験から言うと、一旦決ってしまうとほとんど意識されることはなくなります。つまり忘れ去られるのです。
    あってもなくても、重大な影響を及ぼさないスローガンのような範囲内であれば問題ないのですが、わたしたちの行為を規制するような心的スローガンは、深刻な影響を与えると思います。
    聖教でもよく見られる価値基準ですが、二者択一的思考です。簡単に言えば、善か悪か、創価の味方かどうか、活動家か否か、といった定型的な判断基準です。もちろん前者を肯定すれば後者を否定することになります。
    強信で活動家というのが、組織の理想ですが、信仰はないけれどなぜか活動家という人もいます。活動家ではないけれど強信の人もいます。言ってみれば、グレーな中間レベルにあって、強い行動動機を持たない層に、二者択一を迫る活動を、わたしたちはいつも行っているように感じられるのです。折伏も同じです。幸福か不幸かの選択を迫るわけです。創価に入会してから、二者択一の階段を昇るのが、学会が教える信仰ではないでしょうか。
    わたしのような緊急の悩みを持たない三世会員は、信仰継続の強い根拠を哲学に求めます。求道者なら当然のことです。大聖人が説くように、祈りは智慧を包括し、智慧の多くは、学びを通した言語の成熟と行動に現れます。文証と理証が学びなら、現証は行動とも言えます。行動は現証を補完し、現証は学びを促進します。

    信仰理由にもそれぞれ個別の違いがあり、一口に幸せを求めているといっても、個別の幸福観があると思います。成仏と説明されても実生活においては、その神聖さは実感できません。功徳があったかどうかというような主観的な判断、人格的な充実を確信できても、それは成仏とは言いません。信仰以外でもそういうことはあるからです。
    個々の幸福観に妙法的裏づけを与えるのが、池田先生が強調される個別指導です。本来、信仰とは個人的な行為である以上、個々の悩みや信仰の理解に応じて、種々に説くのがリーダーのあり方なのだと思います。しかしこれは大変難しいことに相違ありません。指導などと言わず、自らが自らの生き方に気づくことができるようなカウンセリングと言えばよいのではないかと考えています。結論を出すのは悩む本人であり、その結論を出すまでの過程を見守り共感を寄せるのが、本当の信仰指導の意義と思います。不足しているのは祈りではなく、仏法で言えば無明という無知の本体を認識することではないでしょうか。

    信仰カウンセリングは深い智慧がなければできません。どこを歩いているのか分からないわたしたち凡夫にとって、哲学は智慧そのものです。そして幸せへの道を照らす灯です。火はよく智慧に譬えられますね。火は自分を照らすだけでなく、まわりも照らし鮮明にします。
    漢訳仏典では、サンスクリット語で「智慧」と訳される言葉に、否定の接頭辞をつけて「無明」と訳されます。
    総勘文抄に
    「総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し」とあります。
    信仰も哲学することも、自分を知ることに他なりません。

    これからは女性が主役です。先生がいつもご指導されています。主体と客体、上下関係、善と悪などを厳格に区別する男性的思考の限界を知り、先生は、包みこみ受け入れる女性の特質を十分に熟知されていると思います。
    深いプロブレムとアンサーを求め、切磋琢磨していけたら、うれしく思います。


    #8
    『運命が人を早くから最上席に予定しているかどうかは、まずわれわれ自身の意志と全くかかわりがない。また、幸いにも、これはさほど大切な問題ではない。そういう人は偉大な例外であり、人類の道徳的天才である。しかし、第二流の席には、われわれは誰もみな招待されており、また、ひとたびその道が示されたならば、われわれはおのずからその道を行くべく強く激励される。ひとがこの人生において出会う最大の悲惨事は、道が示されたにもかかわらず、いつまでも第三流の席にとどまって、彼らの存在が結局、自分にとっても他人にとっても真実の価値を持たずに終る場合である』(幸福論:ヒルティ)

    ネットでのディスカッションやトークには、よほどのことでない限り動揺しないと思います。アンチの方々には始めから理解していただこうとは考えていないので、あなた方はあなた方で十分煩悩を楽しんでくださいと言いたいですね。ネットで改心など無理なことです。

    池田先生は、トインビー対談で次のように言われています。
    『そうした女性本来の、生命の尊厳を守り、育み、大事にしていくという特質は、それ自体、人類にとり、人間社会にとってきわめて普遍的な重要性をもっているといえます。女性が狭い個人的愛から、そうした、世界へ開かれた普遍的な愛に根ざして進んでいけば、私は、それが、地道ながらもきわめて大きな、反戦平和への潮流になっていくに違いないと思います。そして、女性がこの本来的な自らの使命に生きるところに、真実の女性解放があると信ずるのです』

    ジェンダーギャップを認めつつ、女性権利拡大や民主運動の先駆を、わたしは創価に期待しています。現在の創価は残念ながら、男性原理で動いていると思います。言わば二重基準があって、理想と現実に溝があるように思えるのですが、組織内にいる男性も女性も溝があることすら気づいていない。婦人部が創価の主力であるにもかかわらず、昔からの性の役割といった倫理観があると思います。控え目に清楚に家庭を守るといった価値基準は、疑いなく社会に受容されている美徳のように理解されています。創価も例外ではないでしょう。
    組織のあり方って、理念を具体的に、形式、手段として目に見える形で作り上げることなのではないでしょうか。少なくとも制度、機構面での改革が必要であり、真の平和団体として認知されるための最低の改革と考えています。このことについては、多々意見があり、記事にしたいと目論んでいます。

    組織のなかで一人浮いているのが、わたしの最大の悩みです。わたしは決して固定的観念、拒絶的姿勢で、自分の意見に固執しているわけではないのですが、なぜかわたしが意見を言うと議論になってしまい、最後にはいちいちそんな難しいことを考えなくてもいいんじゃないの、とか言われてしまいます。まるで学活にブレーキをかけているように言われるのは心外というほかありません。
    妙法は、知識としても経験的にも難信難解であると分かっていながら、安易に平易さを求めようとする。また妙法は、人間の自由を最大に保障するものであり、そこから派生した行動論や組織論、具体的な生活設計や政治哲学も自由で積極的なものであるはずです。わたしたちは、忙しい日々の生活に追われながらも同時に強い意志を持つ求道者です。いつも根本に回帰し、懐疑的にあるいは肯定的に自己評価しなければならないのではないでしょうか。
    なぜ問題意識が低いんだろう、納得できないことを納得しているように行動して、なぜ疑問を感じないのだろうか、とわたしにすれば不思議でならないのです。どうすればいいのだろうか? どう説明したら分かっていただけるのだろうか?
    わたしも「愚痴の竜女」ですね。


    #9
    『この動揺する時代に
    自分までぐらつくのは
    ただわざわいを増すばかり。
    おのれの志を守ってゆずらぬ者だけが
    世の中をつくりあげて行くのだ』

    ☆ゲーテ・ヘルマンとドロテア

    青年の力はまだ微弱ですが、時は待ってくれません。
    「どんなことがことがあろうと、なすべきことをなせ」
    このような不屈の鉄則が、勝利への聖典と思います。


    #10
    最近は「亊と理」も曖昧なようです。理への偏重は、信仰者の生活のなかでの体験の不足として表れます。功徳も活動体験で誤魔化され組織に奉仕するものへと変わっていく。奇跡のように強烈でドラマチックな逆転劇のようだった過去の信仰体験はもうありません。
    人間は偉くなると自分自身がご本仏になるべきだと考え始めるようです。「主師親の三徳」を具備し、解決できないものは何もないという人格の肥大も起きていく。創価学会仏しかり、永遠の指導者として雛壇に飾られるべきと考えても、思想は必ず古びていく。人間の深い迷いは、釈尊が説いたように、果てしがありません。

    宗門は、さらに七百年後も、みすぼらしい富士宮のローカル宗教団体としてあり、大聖人の期待を十分に裏切り続けるでしょう。正しいから簡単には弘まらないなどと言い訳の伝統は正しく保持し、セレモニー化した教義が腐敗臭を発していても、きれいに隠すラッピング技術だけは進化し、これからいつの時代でも冠婚葬祭は僧侶の飯の種という浅ましさです。
    聖職なのだから供養を受けて当然と考える習慣を捨て去り、まず僧侶自身が自立し自活し、畑を耕し、田に稲を植え、山に木を植栽し、育てた材木でお堂を建てるぐらいの修行者としての展望を持つなら、信者から尊敬を受けるかもしれない。大聖人が身延にあったとき、自ら食糧等の調達にあたったこともあるのではないだろうかと、わたしは推測するのですが、貧しさは求道者の特権ともいうべきエクセレントな出来事です。


    #11
    『知性によって秩序づけられていない衝動や願望は、偶発的な環境の統制下にある。即時的な気まぐれやむら気によって命令された行動を見つけるためにのみ他者の統制から逃れても、得るものよりも失われたものの方がはるかに大きいのである。つまり、衝動のまにまに左右されて、その行動に知的判断が入ってこないのである。このようなやり方で行動を統制されている人は、せいぜいのところ、ただ自由の幻想をもっているにすぎなく、実際のところ、そのような人は、自分ではどうすることもできない勢力に支配され導かれていることになるのである』ジョン・デューイ(「経験と教育」講談社学術文庫)

    さしでがましいことですが、教訓としてお伝えしたいことは、学ぶこととは、質問をすることではなく、自分で苦労し調べ、書を漁り、自分が納得する見解や意見を持つことに他なりません。安易に他に解決策を求めようとする姿勢は、求道者の姿勢として最低のものと考えます。また悪口は自分を汚すだけです。
    今までの人生で積み上げてきた善行を無に帰すことがありませんように、慎重に選択し、低級な姿勢に安直に流されることがありませんようにアドバイス申し上げます。


    Phil Rey Gibbons - Heavenly (feat. Felicia Farerre)



    菩提の慧火現前するなり

    #1
    わたしが望むのは、例えば次のような御書の一節です。
    『信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし』
    (信じる心が完全で正しければ、万人を平等に救済する仏の智慧の水を受けて乾くことがない)
    わたしにとっては、涙が出てきそうな励ましです。「一人になっても仏だけは裏切らない」という確信こそ、信仰のエッセンス、智慧の泉と名づけられるもの。
    苦悩の治療法は、八正道と六波羅蜜に示されています。
    「自分自身をつねに磨く」(カント)という人格完成への行動規範は、仏教創始の時代からすでに準備されているのです。なんという偉大な智慧でしょうか。
    『煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり』
    大聖人の命のなかには、美しくて、偉大な智慧の言葉が、火のように燃え盛っていたのですね。


    #2
    B・ウィルソン博士との対談「社会と宗教」から引用します。
    ガンジー主義への評価ということで意見を交わしています。

    博士は、ガンジーは、厳格な自己抑制の徳の故に、偉大であると論じられております。
    何かといえば権利を主張し、譲ることをしらない現代人には、耳の痛い話ですね。

    『そうした自制心強き指導者に感服し、褒めそやす人々が、必ずしも彼らと同じ高潔な倫理的勇気や、卓越した振る舞いを示せるとは、もちろんかぎりません。いわゆる"聖者"は、人々にとって真似のできる手本となるよりも、むしろ、当初、本人が標榜した価値基準とあらゆる点で対立する行動のスローガンに、その名前が利用されることのほうが多いのです。
    私にとってガンジーが重要なのは、彼の政治的・道徳的抗議の技術面での模範としてよりも、むしろ、ある種の、最高度に洗練された自己抑制の模範としてです。自己の感情の束縛を断ち切るためには、質の高い自己抑制と同時に、高度な自己批判や自己反省を必要とします。
    それはまた、人々に、人間関係の行為においても不可欠であり、あらゆる社会的発展のためにも不可欠なものとして、秩序と礼儀と他人への尊敬が必要であることを、認識するよう求めます。
    自分にとって最も深い関心事を、じっと冷静に見つめることができるということ、また、自分の力の限りの努力さえも評価されずに終わってしまうかもしれない立場に、わが身を晒せるような寛容、忍耐、内的資質を身につけること――これらは、きわめて高度に洗練されていることを示すものです。
    感情を交えずに、安定感のある、粘り強い、しかも、一歩も譲らない態度で取り組んでいくということは、倫理的振る舞いの頂点を極めたものといえましょう。人間の最も奥深い感情が掻き乱されるときにどう振る舞うかが、私たちがどこまで洗練されているかの尺度なのです』


    現代の複雑な社会では、それぞれが異なった宗教的信条を持っています。勇ましく宗教を否定する者でも否定の神を信奉しているのです。また、同一宗教の信仰者であっても、ひとりひとり真剣さが相違します。生命も、人生も、幸福へのアプローチも、あたり前のことですが自己責任です。最も主体的な衝動に左右される信仰も言うまでもないことです。
    聡明でなければ、洗練されていなければ、どうしてリーダーになれましょうか。
    自己批判、自己反省という誠実さと、透徹した知性と信仰が求められているのです。


    #3
    自己抑制、あるいは制御とは信仰から得られる功徳なのではないでしょうか。祈りもまた、自分で自分を治癒するセルフメディケーションの延長線上にあります。誰もが悩みを抱え、もがきながら、自己を見つめて内面の変革を遂げようと努力している。心の闇を照らすのは、法という光があってのことです。
    最近わたしは、命ほど傷つきやすいものはないのだと理解しました。
    その反面、命ほど変化に耐えられる強靱なものはないと気づきました。
    だから何か問題があっても、なんとかなるものよ~、というどうでもよい、お手軽な結論に至ります。楽観的に考えるのがわたしの強み。人生修正主義というのかしら。負けても雄々しく再起すればよいのだと考えるようになりました。


    #4
    組織は容器のようなものです。人間が作ったこのような器には完璧なものはありません。穴があいていたり歪んでいたりするものです。それを是正していく役目は、それを感じた人がやっていくべきであり、他から強制できるものではありません。
    会員の皆さまは純粋で、ある意味、信仰の模範的実践者です。わたしが大局を見ましょうと言ったのは、細部にこだわったところで何も得るところがなければ、解決策にもならないと考えるからです。個人の問題はそれぞれの個人の境涯範囲内での選択肢があるでしょう。
    信仰はまったく個人的行為から逸脱することはありませんが、組織は集団であるために手段の細部に至るまで目を配らなければなりません。組織運営は本来、運営者とその支持者の慈悲心の賜物でなければならない。


    #5
    根気がなにより大切です。その根気は一生持続しなければならないかもしれません。
    自分勝手で自己中心的な他者を引き受けることは、菩薩の経典と言われる法華経の一貫したテーマです。そこで説かれる菩薩は、他者に対し自己犠牲も厭わない献身的奉仕者です。
    他者、しいては世界と自分の関係ほど重要なものはありませんが、同時に他者は、倫理も、冷静なコミュニケーションも通じない頑強な不信者でもあるのです。
    そもそも釈尊という仏自体が、わたしたち信仰者が出会う最初の他者ではないでしょうか。またブッダ自身、菩提樹の下で悟りを得たとき、その法を説くべきかどうか躊躇しました。他者とは、自分を危機に陥れる、容易ならざる存在であることに気づいていたからです。歴史を振り返ってみれば、このような他者が世界を混乱に導いてきました。
    菩提樹下のシーンは、「仏とは人間なのだ」ということがよくわかるエピソードですが、その後の歴史のなかで神秘化されたブッダに作り変えられ、おかげで法もまた変質いたしました。「悟りとは迷うことだ」ということも逆説的に言えます。

    他者を受け入れることは簡単ではありません。しかし仏を受け入れることはその普遍性も受け入れることであり、会員の皆さまが意識しようとしまいと、日常のなかで実践されていることです。つまり、他者の仏性に執拗に語りかける行為は、信仰者であるが故です。またこれは、仏法を学ぶうえでも最も基本的な知識であり認識でしょう。「無上宝聚・不求自得」とも「以信代慧」とも言います。「宝聚」とは普遍的智慧のことです。コミュニケーション、対話、議論、そのような人間関係のなかに慈愛や敬意があること。

    人間は人間の間にしか生きられません。悩み多き人間が、悩み多き人間を抱擁していく。慈悲とは遠い地平線にあるものではありません。哀切を克服しようとするアクティブな意思のなかで育まれる感情ではないでしょうか。同苦と言われる感情移入は技術でもなければ、悲しみや慰みに溺れることでもありません。強い自己があって可能なのです。

    創価が創価であるという独自性と思想は、会員という人間と人間の間にあります。信仰のエッセンスも目的も会員のなかで発酵し熟成されて深まっていくのではないでしょうか。法華経を味に例えて醍醐味というではありませんか。深い味ほど複雑な味がするものです。人間も同じと思います。苦労や悲しみの体験がスパイスですね。未熟なわたしが言うことではありませんが......


    #6
    何事にも意味があります。意味のないことなどありません。人間の間には、そのような貴重で、かけがえない意味するものがゴロゴロ存在していても、手に取り注意深く観察し、その因果を考える人がどれだけいるというのでしょうか。思想とはその意味を知ることであり、人間と人間、自分と他者の関係を学ぶことなのです。崩壊している関係を再び組み立てなおすことなのです。
    人間主義は、冷静にまわりを見渡し熱く行動をおこすことでもありますが、決して人間をバカにし見下すことではありません。
    会員を愛し、会員を抱きしめて、会員のために行動をおこし、共に春爛漫の幸せを願う、豊かな情感を持った信仰者に成長していきたい。わたしが願うのは、人間として当たり前の、他者のなかに自分の夢を実現していく勇敢なる人格です。先生もそのようにお考えになり、そのような人生を歩まれたのではないでしょうか。


    #7
    多数の定義があることを承知しながら概説的に言えば、ヒューマニズムは絶対的実在としての神の存在に対立した人間中心の考え方であると思います。崇高な人間の善性と可能性を信じた思想は、現代社会の通底をなす部分と考えますが、その反面、多くの矛盾があらわになりその克服に限界を感じているのが思想界の現状であると思います。
    肯定的な人間性の反対は、エゴイズムに代表される獣性ですが、このことについてトインビー対談では次のようにあります。

    『池田:欲望の克服は、たしかに困難なことです。しかし、人間はあえてこの困難な努力をしなければ、その内面にある"獣性"によって支配されてしまうでしょう。
    私は、それらの高等宗教が"大我"の正体を明らかにできなかった点に、実践方法のむずかしさを生み出した原因があると考えます。つまり、自我を克服するといっても、では何によって克服するのか、克服される自我が欲望や感情などであることはわかるにしても、克服する主体たる自我とは一体何か、そしてその自我と"大我"とはどう違うのか―――ということです。
    仏法では、克服の主体である自我は"大我"と同じであり、したがって、悟ってみれば、自我はたんに"大我"の断片ではなく、それはそのまま"大我"それ自体であると説いているのです。ただし、これはもちろん"仏界"という究極の悟りであり、それは内心の自覚であって、行動のうえでは"大我"の部分であることには変わりありません。したがって、自我の生き方は、博士のおっしゃるように、常に自己を宇宙に捧げようとすることでなければなりません。
    私は真実の宗教の役割とは、人間に欲望超克の力と勇気を与え、その"人間性"を開発することにあると思います。そして、この宗教は、人間をしてその内奥にある"生命"という実在を覚知させ、さらにそれを宇宙生命へと融合させていく力をもっていなければならないと思います。

    トインビー:実際には、"小我"も"大我"も同じです。そのゆえに、私は"汝はそれなり"が真理だと信ずるのです。しかし、この"汝はそれなり"というのは、たんなる知的な命題にしかすぎません。したがって、それは倫理的行動によって、まぎれもない真実であることが証明されるまでは、たんに真実であることの可能性を含んでいるにすぎないのです。しかも、この行動は"小我"によって実践されなければなりません。
    "小我"は、その貪欲性のゆえに"大我"から疎外されています。この貪欲性は、"小我"が、自らの目的のために宇宙を利用しようとする欲望です。貪欲の反対が慈悲です。この慈悲を実践することによって、"小我"は、現実において"大我"になることができるのです』


    小我、大我についてはいろいろ異論があるところですが、インド宗教の相互に影響しあった伝統的教義と解釈しておきます。この概念は一般的に西洋哲学にも見られるものです。普遍的自我としての大我、個人的自我としての小我、その融合と対立は神と人間、宗教的直観と理性などの問題の主要な部分と理解にかかわります。

    時空を超越し、また現実のなかで風に舞うように翻弄される自我という厄介なものは、誰にも実在するのであり、自意識あるいは潜在的意識の核になるものです。人間は良心や貪欲、善と悪の葛藤などを通じた根本的な倫理道徳の実行者ですが、悪性の力、魔性の欲望への誘惑に惑わされ、まるで簡単に生命の火を吹き消すように侵略されるもの。そのような負のエネルギーに支配されて煩悩に苦しんでいる姿を、他人に求めるまでもなく、切実な経験として、また自覚しながら、日々自己のなかに、わたしたちは見ています。自らをコントロールすること(ご本尊さまに向かい祈りを捧げる時間は、冷静でありながら活動的な本来の自分自身を取り戻す行為だということ。困難に負けない自我の発揚ということです)―――信仰のありがたさは、実は高度な精神的エネルギーの向上と高揚ということであり、わたしたちが実践している妙法への強い求道は、獣性克服の最良の方法なのです。

    このトインビー対談では、このあと、"愛と慈悲の実践"というテーマで語られていますが、このなかで、慈善(チャリティー)についてその心理的側面を指摘しています。そして、愛の概念に意味を与えるのが慈悲であり、その慈悲の本体は "抜苦与楽" であること、その前提となる同苦は優れた知性の発達によって可能であること、他者の痛みへの同調は高度な(人間的な)知能の働きによる創造力であることなど。
    この対談で述べられていることは、その過程の心理的成熟をあらわすプロトタイプかもしれませんが、このような考察は、真面目な創価の会員なら毎日のように挫折しながら再決意し、失意を味わいながら奮起し、祈りの一念に人生を懸けて、真剣に考えていることではないでしょうか。
    人間主義といっても、わたしたちが他者を思い想像しながら、同時に自らの人生の充実のために努力している行為そのものが、そうなのだと思います。
    また、慈善と偽善は紙一重です。慈善活動を金銭や物品の施しというのであれば、精神的な献身行為も広い意味で慈善活動となるのではないでしょうか。わたしたちの学会活動も慈善活動と言えなくもありません。宗教団体の布教や啓蒙は社会に対しての責任行為です。一人よがりの独善になってはいけないと常に戒めなければならないと考えます。


    #8
    信仰とは個人的動機のなかで始まるものです。他者の働きかけがあったとしても、それはキッカケに過ぎず、最後は個人の自由な判断に委ねられます。つまり、信仰から得られる利益は主観的観察と体験で、その有益性が認められるのだと考えますが、組織の一員になると、自由な判断が不自由さのなかでの限定された自由さに形を変えます。このことに何の不足も不自然さも感じないのですが、これは利己的欲求が社会的欲求に変化するためと思われます。わたしたちは個人の都合を越えて社会的使命を果たそうと努力します。
    信仰教育は組織の一員であることを絶えず自覚させるシステムです。わたしたちは指導者から見れば無知な子ども同然なのですから仕方ありません。
    座談会は自己啓発の場であり自己教育の場です。勝利や戦いなどと耳にタコができるぐらい教育されると、まるで戦場のような雰囲気に置かれます。聖教ブロパガンダが徹底しています。座談会は成果発表の場でないのは当然ですし、日々悩みを抱えて必死になってご本尊さまの前に座っている会員に哲学的裏づけと確信を与える場なのではないでしょうか。

    先生の目が届かなくなったせいか、惰性の低レベルの幹部が多くなりました。日々更新が信仰なら、時代を先取りし、リーダー像も更新していかなければなりません。


    #9
    フロイトの「幻想の未来」(光文社)のなかで、翻訳者の解説文に次のようにありました。
    『フロイトは強迫神経症の患者のさまざまな儀礼と、キリスト教のミサにおける細かな決まりには共通性があることに注目する。どちらにも「中止したときの道徳的不安、他のすべての行為からの完全な隔離、そして細かなことを行う小心さ」がみられるのである。そして意味がないとみえることも、「その細部にいたるまで意味にみちており、人格の重要な関心に奉仕」していると考えるのである。
    この強迫神経症の患者たちがこうした儀礼を反復する背景にあるのは罪悪感である。そして患者はその罪悪感を意識することができないのである。しかしある欲望が知覚されると、患者はその欲望に疚(やま)しさを感じ、そのために懲罰を期待し、「いつまで待ち構えている期待不安」に襲われ、その不安を打ち消すために儀礼が反復されるのである。「欲望の絶え間ない圧迫に拮抗するために、つねに新たな心的な努力が要求される。儀式と強迫行為は、一部は欲望の防衛のために、一部は予期される不幸にたいする防衛に向かうものとして成立する」のである。(中略)
    人間の「良心」はこうした神罰にたいする「期待不安」から生まれるのだとすると、宗教的な人間の信心深さは、強迫神経症の患者の儀礼における細心さと共通した性格をもつことになる。「神経症は個人的な宗教性であり、宗教は普遍的な強迫神経症」であると結論できるとフロイトは考えるのである』


    フロイトが対象とする宗教は伝統的なキリスト教ですが、「期待不安」と「不幸の防衛」という心理はよく理解できます。わたしたちにもよく似た心象があるからです。
    理性的宗教批判は必要です。特に人間の行動は教義から逸脱しながら気づかないことがあるからです。深く考える会員を、先生は期待されているのではないでしょうか。そして行為の正当性を自己反省できる人間を育てるために、先生の多くの対話があったのではないでしょうか。

    King Drum - Brand X Music

       Choice of Anna
         Tracklist :
         00:00 King Drum - Brand X Music
         03:16 Unstoppable - E.S. Posthumus


    mrran-0125.jpg

    アンナの日記 ③

    2010.5.24 に書いた「不二の内界」と題する記事です。

    花の好きな娘がいた。
    バラを植え季節の花を育てて、花の香りのなかで暮らすことを夢見て、春に土を掘り返し、種を蒔いて愛しく育ててきたのです。
    去年の初夏のこと、麦藁帽子をかぶり、UVクリームの準備も怠りなく、花苗を植えていたら、見たことのない黒光りする長いものがスルスルと出て来ました。10㎝以上はある。
    幾何学的に規則正しく胴体がつながり無数の小さな足がせわしく動いている。
    まるで精緻に作られたロボット。
    「何だろう?」
    何にでも興味を示す娘は、考える間もなくハッと気がついた。
    「ム・カ・デ」
    娘はスコップを投げ出して、絶叫とともに腰を抜かしたのだ。

    初夏ともなればヒラヒラと美しい蝶が舞い、花の蜜を吸い、優雅な姿で娘の目を楽しませてくれる。それにしても脱皮する前の蛹はどうしてあんなに気持ち悪いのだろう?
    遺伝子のなかには進化の跡が刻まれているという。
    進化とはつまり、変身することではないのか? と科学に無知な娘は考えた。
    つまりつまり、生き物の変身願望が進化をうながしてきたのではないだろうか? と突飛なことを考えるのだ。まぁ~どうでもいいけど、あのムカデには二度と遭遇おことわり。

    グラム・ロックの先導者は、人間の奥深い変身願望を音楽のなかで実現したのではないだろうか。創造することとは、架空の別の自分になることではないのか?

    db-02.jpgデヴィッド・ボウイが、神託を受けたように作り上げたアルバム。
    彼の5thとなる傑作。
    セクシュアルな願望は、人間本能の根幹に関わっているように思えます。男女が一体になるという両性具備の姿は、グロテスクでありながら、生物の深遠な秘密を垣間見るようなエロティシズムを感じます。ロックにとって、エロティシズムほど重要な要素はないでしょう。パンクやメタルに顕著なように、その底に沈殿しているものは、紛れもなく巧妙に隠されたエロティシズムです。
    また深い音楽的カタルシスは、心という内面に火が熾るようなエロティシズムの熱いうずきが関係していると思います。
    アルバムのなかからじっと聴き手を見つめているボウイの中性的、ホモセクシュアルな外見に惑わされてはいけません。彼の真の才能は、エロティシズムを制御し昇華する知性にあります。彼は虚構や物語的コンセプトによって、変身願望をシアトリカルに演出しました。
    このアルバムは、美しき想像力の結晶であるばかりでなく、ロックが新たに踏み出したアバンギャルドな手法でもありました。したがって彼のグラマラスなパフォーマンスは、音楽を含めたアートであり続けると同時に、その後も多くのロッカーに大きな影響を与えることになります。全曲が佳曲です。ムダな曲はありません。素晴らしい!

    ジギーの夢は、ロックによる魂の救済ドラマとして、普遍の輝きをもって訴え続けるでしょう。鮮やかなアルバム・コンセプトと同じように、この未来に向けたメッセージは感性が編んだ、また透徹した知性のほとばしりの表れです。今こうして聴いても古さとは無縁の真のロックが鳴り響いています。確かにボウイは、このアルバム製作過程において神がかっていたと言えるでしょう。

    db-01.jpgボウイの端正な顔立ちに、ロックスターの自由な精神と知性がバランスした美しい姿を見ることができます。彼の進取の精神は、やがて様々なジャンルへの挑戦と現れて、先鋭かつエモーショナルな美しさで、独自のデヴィッド・ボウイ・スタイルとも言うべき実験を繰り返していきます。スーパースターでありながら決してそこにとどまろうとしない。現在の21世紀ロック・ジェネレーションは、彼の創造性と知性に学ぶべきです。試行錯誤を経ながら行動するアーティストのオリジナリティーに敬意を表すべきです。
    彼のオールキャリアを言及するのは難しく、それは紛れもなくブリティッシュ・ロックの奥深いエクセレントな側面をたどることにもなるのですが、これからも時代と年齢を加味したトランスフォーメーションを楽しみたいと思います。

    Soul Love



    ★2016年1月10日、18か月の闘病の末、肝癌により死去。69歳。
    独自の美学と大胆な音楽性に貫かれ、波乱と平和が同居した人生だったと思う。
    大の日本好きで知られました。日本文化に誇りを持ちたいと思う。



    旋律が浮かんで 頭のなかがいっぱいになり
    わたしは歌わずにいられない
    わたしが愛したもののために
    わたしを愛してくれたもののために
    旋律を 手でつかみながら 分け与えるように
    花束のようにいとおしく 美しく包んで 花輪を投げるように
    幸福という音楽を 未来の誰かのために
    音楽は調和の花束
    音楽は平和大使のように
    密やかに佇み愛の花のように優しい
    都市生活者の楽しみは
    何気に見落としていた道端のスミレに
    淡いピンクと白の繊細な色彩に
    春の芳香と暖光の輝きを見つけ出したとき
    小さな鉢に濃いピンクのプリムラの小花
    キンレンカと赤いチューリップの寄せ植えコンテナに
    たっぷり水をやり
    粗野で激しい世界のかたすみで
    魂の平安をもたらす聖人のなぐさめのように
    静かな息づかいで善の音楽を奏でる
    濃いグリーンの葉のうえで 光が遊び
    戸惑いとともに歓び 驚きとともに夢見るような
    思慮深い紫の矢車草が
    わたしに微笑みを贈ってくれた
    ときどき神は変身し
    ムカデになって娘を驚かす
    でもよく見てみなさい
    軽やかに動くムカデの足は
    リズム正しい律動の美しい骨格でできていることを
    その足は断固とした意志で土をつかみ
    憎悪も慈愛もなく
    ただ見事に進化の奇跡を表していることを
    不二の内界で生を謳歌し
    かわいらしい目で前方の
    外界の障害だけを見つめ続けている不思議な生き物であることを

    by Anna


    as386-1011.jpg

    アンナの日記 ②

    2010.5.28 の「桂冠詩人」と題する記事です。
    わずか9年前の記事ですが、創価の信仰の原点が変容し、質的な歪みが生じつつあることを誤魔化すことはできません。現在は、宗教団体としての経済的安泰と政治に著しく偏っております。宗教組織の経営基盤を動揺しない安定したものにするという考え方自体に違和感があると思う。内的要素は崩れ、まるで信仰の衰えと変形のバリエーションを経験しているようですが、老化とともに迫ってきた生命力の衰微に関係があるのかもしれません。
    会員は一つのパーツ、奉仕するコンテンツのような存在なのかもしれませんが、いくら謳歌を極めても、仏教の原則に立ち返れば、不変なものはなく、生まれるものは必ず滅びる。
    信仰という内発的喜びから、創価という道徳的ともいえる秩序を律しなければならないのに、ユングの「個人の徳性における前進」が置き去りにされ、個人のうえに組織が重しのように押しかぶされている。こんなことを真面目に考える婦人部がいないことが、本当に残念でならない。だからいつまでも、男女不平等というダブルスタンダードに矛盾を感じないのですね。現実は何も変わらない師弟不二論の限界が見えてきます。


    ❖❖❖


    彼女は歓びの幻

    ワーズワース

    私の眼に初めて映ったとき
    彼女は歓びの幻であった
    瞬間を彩るために送られた
    愛らしき幻のよう
    彼女の眼は黄昏に輝く美しき星のごとく
    またその黒髪も黄昏のそれかとまごう
    されどそのほかの身につくすべては
    五月とうららかな暁よりもたらされるもの
    つけまとい、人を驚かし、待ち伏せする

    躍る姿、陽気な像
    更に近づいて見ると
    幻のようで、まことの女
    家庭の動作は軽くのびやか
    足取りは乙女のみに与えられた自由さ
    過ぎし日の楽しき想い出と
    美しき未来の希望との入り交じれる顔
    人の情の日々の糧として
    あまりに輝やかしくも、また、善すぎもせざるもの
    また、一時の悲しみ、単純なるたくらみ
    賞讃、非難、愛、接吻、涙と微笑にもふさわしきもの

    いま私は静かな眼で
    彼女のからだの鼓動をながめると
    物思わしげな呼吸して
    生より死への旅路を辿るもの
    変らぬ理性、慎み深い意欲
    忍耐、深慮、力、熟練を備え
    警告し、慰藉し、支配すべく
    気高くも神により作られし完き女
    されどなお一つの霊で
    天使の光明にも似て輝かしい


    ワーズワース(William Wordsworth)は19世紀を代表するイギリスの詩人です。自然を愛し、自然のための、自然を歌った詩人。神秘的な自然の彼方に、魂のヴィジョンを見い出し、共感することへの陶酔と歓びを表現した。人間も自然の一部として歌われ、上記の詩では、懸命に言葉を探す姿を彷彿とさせながらも、驚きと慈しみに溢れています。夫人を歌ったものと言われています。
    ワーズワースは、1843年、桂冠詩人の称号を受けました。
    このような一流の詩人に触れると、語彙の豊富さ、イメージ力、批評力、普遍的思想が顕著に表れていることに、心地よい言葉の美しさを感じます。詩とは言葉の実験場であることを改めて感じますが、いつかわたしもこのような詩を書きたいと切に思いますが、才能のない者がいくら望んでも無理なことですね。

    池田先生は1981年、サンフランシスコでの第5回世界詩人会議で桂冠詩人の称号を授与されました。多くの詩業に対して顕彰されたものと考えます。ギリシャに淵源を持つ桂冠詩人の称号は、現在は、世界詩人会議あるいは世界アカデミーがその授与の権限を継承しているようです。世間でも話題にのぼることが少なからずありますが、どのような称号を授与されようと、また流行のように一時的にもてはやされようと、詩そのものの価値には何ら影響を与えることはありません。優れた詩は、歴史という淘汰を耐え抜き、生き残っていくと考えます。それは文学に限らず、音楽、絵画、その他芸術作品にも言えることで、厳しい歴史経過という批評には誰も太刀打ちできないのです。

    創価の民衆運動は現在、多岐にわたり、活動の最先端では多くの会員が苦労と喜びを甘受しています。運動体としてこれからも継続した発展を維持していくために、正しい情報発信と、世代を縦断した永続的な取組みが必要とされます。人間主義を標榜する民衆仏法には無冠がふさわしく、もしも勲章という栄誉を望むならば、歴史淘汰の厳しい判断から得られる正当な評価こそ、仏法者が望む勲章でなければならないと考えます。名誉教授をはじめ多くの顕彰を受けられた池田先生のご真意については、我々会員も熟慮しなければなりません。人間は一つの肩書きや名誉で判断する傾向があります。池田先生が常に言われているように、名誉や地位、物質的財産に価値を認める生き方ほど虚しいものはありません。これから世界宗教として、創価思想が定着していくためには、予想できないほどの困難があるものと思われますが、創価の民衆運動に理解を示し、支援する人々の協力が必要不可欠です。先生が受けられた多くの顕彰は、そのときに力強いパスポートになるものと考えます。創価が目指すアドバンスメントの重要なファクトあるいはアイテムとして、これらの顕彰は生きてくるでしょう。

    フランスにおいて、SGIがセクト<カルト>宗教と認定されているということを、アンチ創価は勝ち誇ったように言いますが、社会的混乱、犯罪を未然に防止するための法律であることを、まず認識しなければならない。EUにおいて先進的な取り組みをしているフランスですが、キリスト教国家といってもよい社会において、多文化の容認、異文化への理解は当然慎重にならざるをえません。東洋哲学、宗教が市民レベルにおいては一般的でないこと、馴染みがないことなどを考慮すると、浸透の困難さをあらためて考えさせられます。
    世界宗教としてのキリスト教は、多くの国々に定着しているわけですが、現在のように発展するためには、数限りない問題を乗り越えてきました。それは少し考えれば分かることですが、異なる宗教、考え方、習慣が流布していく過程において、異教徒として排斥、迫害を受けたことは、世界史と言わなくても、日本歴史のなかでも明白です。フランスも過去にアジアにおいて、宣教師を守るという名目で軍隊を派遣し、強引に植民地化政策をとりました。異文化との摩擦は、占領された国から見れば、まさに危険なキリスト教であったと考えることもできます。ヨーロッパ諸国での仏教の認知は、実質今までは学術的方面より関心がなかったといってもよいと思います。日常生活に息づく宗教としての発展は、長い時間が必要になるものと考えます。



    先生が07年の『SGIの日』の記念提言のなかで述べられた、人間洞察を経ての深い示唆と問題提起に活路を見い出したい。

    フランスの気鋭の哲学者アンドレ・コント=スポンヴィル氏の『資本主義に徳はあるか』を引用し、次のように述べている。

    『スポンヴィル氏は、人間社会を四つないし五つの秩序に区別する。第1は「経済一技術-科学的秩序」で、その駆動力は「可能なものと不可能なもの」という対立軸である。第2は「法一政治的秩序」で、「合法と違法」という対立軸、第3は「道徳の秩序」で「善と悪、義務と禁止」という対立軸、第4は「愛の秩序」で、対立軸は「喜びと悲しみ」となると分析する。信仰を持つなら、その上に「聖なる秩序」が想定されようが、さしあたり自分には無縁である、と。
    もとよりそれらは「区別」であって「分離」ではなく、それぞれ互いに重なり合っており、我々は四つの秩序を同時に生きている。それらがどう関係し合い、秩序づけられるかが重要であって、そこを混同するところから社会秩序の乱れが生じてくる。
    たとえばマルクスは、明らかに第1と第3の秩序を混同し、経済を道徳化しようとした。その結果、「一九世紀における麗しのマルクス主義的ユートピアから、二〇世紀におけるだれもが知っている全体主義の恐ろしさへの移行」を招いてしまった。
    同じように、資本主義を道徳化しようとしても筋道いであって、資本の暴走を抑制するカは「外」(別の秩序)から加えられなければならない。資本主義そのものは、“対立軸"に駆り立てられ「可能」なものを求めて、どこまでも利潤を追い続けることを本領とする。貨幣価値の前では、雇用の確保や福利厚生などの生活価値は、二義的な意味しかもたない。
    のみならず、この「経済一技術一科学的秩序」に魅入られた核テクノロジストは、「可能」とあらぱ、悪魔的兵器の破壊力、殺傷力の強化に専心し、それがもたらすであろう惨状への想像力など持ち合わせていない。
    バイオ・テクノロジストは、「可能」とあらば、人間の条件を根底から突き崩すクローン人間など、生殖系列遺伝子操作にまで手を染めることに、何の逡巡も覚えないであろう。
    経済人、科学者がすべてそうだというのではない。四つの秩序を同時に生きているのだから、そんなことはありえないし、事実、経済界や科学界にも、良心的な人々は数多く存在します。しかし「可能一不可能」を対立軸にしていく限り、「人間」を置き去りにそこまでいってしまう必然性を内蔵しており、現にそれが杞憂ではない兆候が、いたるところに顔を覗かせている現実を、誰もが認めざるを得ないでしょう』

    『現代文明は、まさにこうした危機的状況に直面しているのであり、「経済一技術一科学的秩序」は、それを引き起こした張本人である「専門知識をそなえ技術を有した卑劣漢」の横行を、「内」から抑えていく力を持っていない。「外」から、主として第2の「法一政治的秩序」の側から規制していく以外にない。だが、第2の秩序も、法に触れさえしなければ……というずる賢い「合法的な卑劣漢」を制圧していく力を有せず、この場合も「外」から、主として第3の「道徳の秩序」の側から規制していくしかない。そして、この第3の秩序も、口舌のみの偽善者、独善家、つまり「道徳的な卑劣漢」の存在をどうしても許容してしまう体質がある。やはり、とはいっても道徳は「外」からの規制には本質的になじまないから、「それを補完し、いわばうえからあける役割をはたすもの」として、第4の「愛の秩序」が要請される。しかし、同じ徳目をうながすにしても「道徳の秩序」が、外発的な義務付けに傾きがちなのに対し、「愛の秩序」は、あくまで内発的な喜び、充足感であることが決定的に異なる。
    こうしたプロセスをたどってみると、たとえば、ガンジーの「宗教は政治と全く無関係であるという人は宗教の何たるかを知らない」(「抵抗するな・屈服するな JK・クリパラーニー編/古賀勝郎訳、朝日新聞社)との言も、深く首肯できます』

    『一人一人の人間の資質の向上なくして社会の変革もなければ、よりよい秩序もありえない。それは当たり前のように見えても、C・ユングが「個人の徳性における微々たる一歩の前進だけが、真に達成されうることのすべてであるのに、それを体現するかわりに、全体主義のデーモンを喚び出してしまう」(『現在と未来』松代洋一編訳、平凡社)と警告しているように、組織への依存、集団への埋没は、人類があまりにもしばしば陥ってきた落とし穴なのであります。
    そして、全体主義の系譜が示しているように、「人間」不在が高ずれば高ずるほど、人々はデーモンやサタンの「爪」の餌食になりやすい。科学技術が高度に発達した情報化社会、大衆化社会など、悪魔に魅入られた煽動家たちの暗躍する格好の場ではないでしょうか。
    「微々たる一歩」とは、決して微々たるものではない。ユングの言うように、それを欠けばいかなる変革の試みも砂上の楼閣と化すという意味で、あらゆる運動の原点であり、“画竜点晴"であります。それはまた、私どもの永遠の課題である「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」とも、深く回路を通じているのであります。
    かつて、日本哲学界の重鎮であった故・田中美知太郎氏は、“パーソナルな宗教への期待"として、パーソナルな宗教である高等宗教も、巨大化してくるにつけ、社会宗数的なものへと逆転する可能性を指摘しつつ、創価学会の運動をこう評価しておられました。
    「『人間革命』の著者池田大作氏が高等宗教としての仏教の立場でそのパーソナルな面を更に新しく前進させる試みをされていると聞いているが、その成功を祈りたい」(「聖教新聞」1977年5月1日付)と。
    パーソナル(個人的)な「一人の人間」に徹底してスポットを当て続けること―ここに、私どもの運動の原点があります。アルファ(出発点)でありオメガ(究極)であります。そこから、いささかたりとも軸足をずらさなかったからこそ、創価学会・SGIは、今日のような発展をすることができたのであります。また、今後いかなる時代がこようとも、この根本軌道から外れるようなことがあってはならない。それは「一人を手本として」(御書564ページ)と言明された宗祖日蓮大聖人の精神からも違背してしまうからであります』


    パーソナルな変革に焦点を当てた哲学は、恒久的な支持を得られるであろうし、人間のエゴを原因とする諸問題に対し、議論すべきテーマを与えてくれると信じています。先生が仏法に求める普遍的な人間主義の論及は、正しいからと言っても、それだけでは発展の原動力にはなりえない。いずれ遠くない時代に、創価思想の有効性を証明するチャンスが訪れることは間違いがないことですが、仏法が求める理想像としての実践者、菩薩と言われる弛まざる求道者にその使命はかかっていると考えます。
    ①単に会員を増やすための安易な試みや手段であれば、必ずそのしっぺ返しはあること、
    ②さらに、人間性復権の課題に真摯に取り組まないかぎり、グローバルな組織展開に支障をきたす日が来ること、
    ③「一人の人間を大切に、一人の人間の幸せを祈り、導く」という信仰者一人一人に課せられた同苦の原点を確認し、理論的な面からも実践の面からも、主体的に求め抜く人格を所有するパイオニアであることなど、
    仏法が社会に展開する日常活動のなかに、文明的課題に無関心ではいられない賢明な会員でありたいと願うのです。それぞれの分野や立場で信仰者としての在り方を、先生の指導を規範に考えなければなりません。

    わたしは今まで、どのような会合でも先生の記念提言について、幹部の解説を聞いたことがありません。そのことが大変残念でなりませんが、婦人部の純真な信仰が学会を支えていることを、先生のお言葉通りに行動していることを、いつも感じています。生活のなかでの避けられない戦いや悩みを必死に乗り越えながら、健気な信仰を貫く女性はやがて福運のなかで勝利していくでしょう。
    先はまだまだ長く、ため息が出てきそうですが、誰が見ていなくても聖なる御本尊は見ています。
    自然は美しく、人間もまた美しい。

    みたび歓迎の言葉を、春の寵児よ!
    わたしにとって、汝はまさに
    鳥ではなく、不可視の存在である
    その霊妙な声は神秘の精髄である


    ❖❖❖

    Blood Moon - End of Silence (feat. Alexa Ray)




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