My Audio Beginning ①

    一年ほど前、突然に、耳鳴りに襲われました。
    セミの鳴くような「ミーン、ミーン」という連続音が数時間続いたあと治まりました。はじめあまり気にせず、体調の問題ぐらいに考えておりましたが、一週間後に片側から両方の耳鳴りになり、次第に繰り返すようになりました。日中はさほど気になりませんが、まわりが静かになったとき、寝ているときとか、とても気になります。
    病院でいろいろ検査をしてもらいましたが、結局原因はわかりませんということでしたが、わたしには思い当たる節がありました。現在若年層を中心に問題になっている「ヘッドホン難聴」です。耳鳴りはしますが、他の音が聞こえづらいという自覚はなく、検査によれば高音の4000hzあたりの周波数の聴力が落ちているということです。
    原因不明の突発性難聴、つまり治療法もよくわからないというナゾだらけの診断ですが、たぶんストレスが問題。でもストレスがない人なんているんだろうか。信仰だって広い意味でストレスの一つではないか。
    ストレスという抑圧の反対は癒やし、リラックス。
    とにかく、現在は耳鳴りは治まったのですが、一番の原因は運動不足と感じました。つまり筋肉の癒やしが不足していたんですね。もちろん耳への癒やしが前提です。特に肩から首筋をマッサージすること。筋肉の緊張を和らげることと血行を促すこと、微妙な影響があるんですね。

    わたしがコレクトした音楽は、PCにつないだハードディスクに全部入っています。CDをケースから出すのが面倒くさいときもあるので、ハードディスクにコピーしているわけですが、ダウンロードしたアーティストをふくめてロックを中心としたプレイリストは、わたしの財産です。聴きたいときに聴ける手軽さから、PCやウォークマンにイヤホンというのが基本です。スマホの音源も悪くないのですがバッテリーの問題もあります。
    とにかくイヤホンやヘッドホーンで聴くリスクを、もう一度再認識しました。いくら音楽が好きだからといっても耳の酷使になるのですから気をつけましょうね。だからといって、聴かないわけにもいかないし、音楽がない生活に耐えられそうもないので、ここは一大決心というのも大げさだけど、マイオーディオというのも大げさだけど、コンポを組み立てることにしました。イヤホンで聴くより耳への負担が少ないと思えるからです。
    イヤホンやヘッドホーンは何種類か持っていますが、リファレンスにしているのがビクター製の木製削り出しという逸品です。ハイクオリテイな再生音ですが、耳障りな音は一切出さないという優れもの。高価ですがワンランク上の豊穣な音です。安価なものでもソニー製は比較的安定しているようです。メーカーによっても音の傾向性があるようですので、自分の好みで選択すればよいことですね。

    予算を決め、つまりお金をかけずに、それなりの自分の音を出す。お金持ちのオーディオ趣味ではないのですから、決められた制約のなかで満足する音とはどのような環境なのだろうか。わたしが所有している機器はアンプだけです。しかも中古品です。
    何年か前に、ブックオフに本を見に行ったついでに隣りにあるハードオフにも行ったのですが、その店頭の片隅にホコリを被ったように置かれていたのが、コンパクトなONKYOのアンプでした。あまりにも安価だったので正常に稼働するのか不安だったのでレジで聞いたら、「保証できません、付箋が貼ってあるでしょう」という返事でした。付箋が貼ってあっても、確認しているんじゃないかという期待で聞いてみただけなのに、愛想のない返事ですよね、もしもガラクタだったらどうしようと思いながら、結局衝動買いしてしまいました。結論から言えば、これはとても良い贈り物でした。わたしのインスピレーションが勝ったのですね。デジタルアンプの基本が無駄なくしっかりしていたからです。
    その後ネットで調べてみたら、2003年頃の発売の製品です。パソコンからUSB接続しスピーカーへつなぐ普通のアンプですが、入出力端子が豊富なのです。

    MAー500U(リモコン付属)
    光出力端子 1
    光入力端子 3
    アナログ出力 1
    アナログ入力 2
    サブウーハー出力 1

    スペック
    定格出力 15W+15W
    周波数特性 20~20kHz
    スピーカーインピーダンス 4~16Ωを推奨
    質量 3.3kg

    たぶんこのアンプは、パソコンで再生する音があまり良くなかった時代のもので、少しでも良い音で聴きたいと考える人のために設計されたと推測しますが、重厚で複雑な回路を持つマニアックなアンプが支持を失いつつある年代から、軽量で安価でもそれなりの満足する再生が可能なアンプへ移り変わる過渡期のものでないかと思います。それはデジタルが生活に浸透し始める時代の到来ということであり、音楽を聴く人の姿勢が変化しつつある環境を反映したものでしょう。軽くサイズも小さいこのアンプはデジタル技術の進歩を象徴しています。たぶん、発売当時は新品で2万円前後と思われます。それを3500円で手に入れたのだから幸運というしかありません。
    実際使用したときにわかったのですが、このアンプの優秀さはDAC(デジタル/アナログコンバーター)にあったのです。ICのことは詳しく理解していませんが、たぶん独自設計でしょう。
    わたしの計画ではスピーカーをどうするかという難題が残るだけですが、これもあっさり解決しました。
    友人夫婦が新車を購入。それまで車のリアスピーカーとして使用していたブックシェルフスピーカーが、エッジの破損で修理するのが面倒だからということで、破棄するつもりのものを譲ってもらったのです。ブックシェルフをリアスーピーカーに使うという発想がなかったので、そんな使い方もあるんだと感心しましたが、よく考えてみればインピーダンスが6Ωなので決して無理なことではないと思いました。DENONの定番の2ウェイバスレフで、ウーハーは18cm・高音はハードドームです。ただ、ウレタンエッジがボロボロ。検索したら数千円でラバー製のエッジがあったので購入。加工しながら寸法をできるだけ合わせ、丁寧に注意深く接着しました。使用した接着剤は木工用の普通の白い接着剤ですが、1:1で水を薄め、細い筆で数回重ね塗りしました。乾くと透明になります。
    さらにエンクロージャーが傷だらけだったので、100円ショップでビニール系の壁紙を購入。裏紙にのり付きだったので、いとも簡単に修復できました。1メートル離れたら修理したのかどうかさえ見分けがつかない。蘇るという言葉はこういうときに使うんですね。

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    フランジのメッキが部分的に剥がれており、またサランネットもところどころ小さな穴があいていたり、完璧ではないけれど、これ以上の修復は素人にはむりというものです。

    SCーR11 スペック
    最大入力 130W
    インピーダンス 6Ω
    センシティビティ(能率) 91dB
    周波数特性 45Hz~40kHz

    スーパーバス・マウントシステムと謳ってあるので調べてみたら、このスピーカーは1990年前後の発売で、相当古い。「振動するのは振動板だけ」というポリシーでウーハーのマグネットを覆うカバー背面にボルトが溶接されていて、エンクロージャーの背面にしっかり固定されている。上級機で培った技術を応用した廉価版・普及モデルということらしい。
    この年代のスピーカーは、どのメーカーもバラエティーに富んだ発想で個性的な銘機が次々作られたらしいのですが、実物をみたことはありません。本格的なスピーカーはほとんどが3ウェイ、または同軸といった特殊な構造を持つもの。以前一度だけ、秋葉原でタンノイの大型スピーカーを聴いたことがありますが、その素晴らしさはずっと記憶に残っております。ライヴより音が良いというのがオーディオの究極の醍醐味でしょう。

    ウーハーはカーボンファイバーを混入したコーン振動板、トゥイーターはセラミックスをコーテングしたアルミのドーム型、金属の網で保護。防磁設計。ユニットを六角レンチで締め直しましたが、意外と緩んでいませんでした。
    このタイプの上に20cmウーハー搭載の同じような機種もあったらしい。このようなブックシェルフにモニター系の音を求めるのは無理でしょう。低域が50Hzあたりから著しく減衰しているので、どうするかという問題ですが、あとは個人の感性とセンスにかかっていることは言うまでもありません。ただ能率が高いので、非力なアンプでもどうにかなるかなというのが救いです。

    わたしの考えでは、CDプレイヤーは特に必要ありません。今まで使っているブルーレイプレイヤーで十分です。パイオニアブランドのブルーレイは反応がイマイチですが、昔活躍したオーディオメーカーの音に対するこだわりが感じられます。また、プレイヤーフロントにUSBメモリーを直接挿入できるのです。パソコンで編集したものをUSBに保存し、テレビ画面を見ながら選曲し再生できるという手軽さ。デジタルだから可能なシンプルな再生方法です。このブルーレイも以前購入した中古品ですが、特に不具合はありません。

    わたしのオーディオコンポの一番の問題は、電源です。近くの壁コンセントは4個あり、数としては何とかなるのですが、問題はアース端子がないということです。現在の新築住宅は一括して配電盤からアースを取っているということですが、わたしが住む古い住宅はアース端子がないのです。数年前にリフォームしたとき電気工事もするべきだったと家族と話したのですが、どうしようもないですね。森泉のようにDIYでやろうというのだから、ここからは想像以上に面倒なことになりました。なお、電気工事は免許が必要です。自分でやる場合は自己責任で。100Vでも感電したら大変なことになります。

    As Long As Hope Remains by Aaron Velen


    ❖❖❖


    アンナの日記から
    7月7日発売のニューズウィークは香港特集でした。「香港の挽歌」と題された若者が踏みつけられた表紙を見たとき、深い悲しみが広がったのはわたしだけだろうか。ニューズウィークのHPには、以前は"香港"という注目キーワードが掲げられていたのですが、今はなくなりました。"香港"で記事検索すると100以上ヒットしますが、その題名だけを見ただけでも香港問題の難しさがわかります。7月7日号では、国家安全維持法の施行後に起こると予想される問題をまとめています。

    "香港で次に起きる「6つの悪夢」"
    1、ジャーナリストの逮捕
    2、反体制的なメディアへの圧力
    3、法の遡及的適用
    4、デジタル空間の表現への抑圧
    5、芸術・学術的表現の規制
    6、宗教団体の弾圧

    これらのことはすでに現実のものとなっています。現在の日本では、学問の自由が侵害されているということで学術会議の任命問題が国会でも取り上げられておりますが、香港の学問の自由への弾圧は日本の比ではありません。国家的暴力のまえで芸術や学問がどれほどの力があるというのでしょう。それに比べて日本では二乗という知識人の遊び場程度の議論でしかありません(公権力から自由な民営化にすればいいだけです)
    次に起こる宗教への弾圧は、創価の会員として無関心ではいられません。
    記事から引用します。
    『中国本土で抑圧の対象になる宗教団体も、香港では比較的自由に活動してきた。デモ参加者を含め、多くの市民はプロテスタントかカトリック教徒だ。数は少ないが、中国で禁止されている法輪功の信者もいる。
    だが今後は、以下に挙げる全てのケースが国家安全維持法違反と見なされる恐れがある。
    警察や催涙ガスから逃れたデモ参加者をかくまった教会。天安門事件を記念するミサや集会を開いたカトリック教会。本土から香港を訪れた中国人に共産党やその青年組織からの脱退を呼び掛け、中国政府の人権侵害を訴えた法輪功の活動家──。宗教関係者は新法によって信仰が規制され、本土で行われているような拘束や拷問の対象になるのではないかと恐れている』

    SGIだけ特別だと言うなら、その明確な理由を、聖教に書いてほしい。人権への恒久的な法でもある仏法の信奉者が、また苦難こそ真実の証明であると説く者が、無言のままでいられるのでしょうか。現実を素通りして理念ばかり語るのは、グローバルな時代にはもう古い手法に過ぎません。B・ウィルソン博士の「共産主義は、人々を社会に参加させる技巧に欠ける」という言葉をいつも考えてしまいます。
    中国の宗教問題について、過去のブログ記事をリンクしておきます。
    中国宗教白書 1
    中国宗教白書 2
    中国宗教白書 3


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    哲女のメモ 6

    #1 音楽天使が泣いている

    心の扉の中へすべり込みさえすれば
    もっと祈りにふさわしい場所が
    見つかるかもしれないのに
    君はつぶやく 世界が始まって以来一度だって
    これまで見てきた人々の栄光が
    長続きした例はない、と
    : Don't Look Back in Anger

    わたしの時間がいつも余計なもので埋められている。
    仕事や何やらで、音楽を聴けないっていうことほど、とても辛いことはない。
    もうそれだけで気持ちが鬱積して、明るさも失せてしまう。
    時々、メトロポリスの喧騒が恋しくなるばかりではなく、むきだしの感情や焦燥さえ愛しくなる。感性がゆるみ、何も感じない。未来が信じられない。

    音楽天使がうつむいて涙を流している。
    そんなイメージが脳裏に浮かんでは消えて、自分の像と重なる。
    オアシスを聴きながら、わたしのオアシスはどこにあるの?と思う。

    オアシスも15年のキャリアを積みながら、分裂し、別れた。
    ラストアルバム、08年の<Dig Out Your Soul>を聴きながらオアシスの軌跡を振り返ると、この下品で口汚くののしり合う品性から、どうして宝石のような曲が紡ぎだされるのか不思議な気持ちになります。
    しかし、デビュー当時の瑞々しい感性は次第に失われ、新しい挑戦に限界を感じさせるようになったことを、評論家やリスナーは気づいていたのだろうか? 
    サウンドの端々から、悩み苦しむ姿を感じていたのだろうか? 
    創造の神は、簡単に祝福してはくれないし、とても気まぐれなことを知っていたのでしょうか?
    音楽の深化は内面の深化に直結する。変わらないものを持つことも大切だけれど、表現の幅を広げていくことも大事なこと。テクニックというより人間的な深さが音楽を普遍たらしめる。心に残る美しい一曲に出合いたい、名曲に癒されたい、という思いは、特に彼らを聴くといつも感じていたことなのです。
    ギャラガー兄弟の美意識と音楽感性は、国民的ヒーロー・ビートルズという普遍的音源によって育まれたものだろう。オアシスを聴くたびにビートルズのことを考えてしまうのは仕方がない。音楽的アプローチはとてもオーソドックスです。アルバムのファーストソング “Bag It Up” などはもろにビートルズ・エッセンスが感じられる。彼らのイマジネーションは、ビートルズの微笑みと呪縛から成り立っているように思えます。
    ファースト・アルバムがわたしは余程好きです。彼らは1作目で頂点に達したかのようです。それにしてもリアムのソングライターとしての才能を改めて確認しました。曲によっては、ジョン・レノンそっくりの歌い方。素晴らしい。声質が同じなのかな。

    野心的で新奇さを装うロックのあり方に、時々懐疑的な思いを抱くときがあります。今はあらゆる形式、様式が飽和状態にあるように考えます。しかし表現は極限の美と原理を追求するために、飽くことなく挑戦する宿命を持っている。この混乱からはまた、優れた音楽や思想が現れるかもしれませんが、重い装飾を脱ぎ捨てたところで、芯になる純粋な音楽が現れるとは限りません。単純に原点回帰と言われても無理というものです。
    大切なことは、自己と世界の関係を洞察した深い見識のなかで、自由な精神を創造することに他なりません。感動する心が最も大切なのです。
    現在のロックシーンは、過度に饒舌でありながら、空虚な音に満ちており、わたしを含めてリスナーは飢餓を味わっています。いつも腹を空かして彷徨っています。そんな不幸な深いキリのなかにあっても天使は微笑む。優れた天才に音楽の信仰をもたらし、調和を授けようとします。音楽天使(Music Angel)は慈悲深くもあり、でも他人のように素っ気ない素振りを見せて、アーティストに涙を流させるときもあるのです。

    <オアシス>とはときには皮肉めいた名前です。彼らが本当に、心の砂漠のなかのオアシスになろうとするのであれば、繊細な感受性と直感、魂の柔軟さと孤独に耐える力強さを持って、欺瞞と乱雑さに覆われた現実を、天使の羽根で吹き払わなければならなかった。彼らは自分のその使命を自覚していたようには思えない。ののしり合うヒマに、もっと自分を見つめて、音楽の豊穣な湧水に手を入れて欲しかった。

    7枚目のオリジナル(Dig Out Your Soul:2008)には期待もあっただけに、聴いた瞬間、その凡庸さに失望しました。残念至極。ロッキング・オンでは08年のベスト・アルバムに選ばれましたが、その選考基準には大変懐疑的にならざるをえませんでした。もちろんアベレージは高くても、彼らはあきらかに滞っているということを評論家が指摘しなかったのは、本当に音楽を聴いていたのか疑わしい。
    ビートルズをリスペクトするのであれば、現在のロックシーンを変革する困難な道を歩んでもらいたいと、期待しましたが、大いなる間違いでした。真のロックは鳴り響いていない。普通のロック生活人に満足している。何を選択するのも自由ですが、セレブってそんなに心地良いものなのでしょうか?
    音楽は社会の接点なしでは成立しえません。変化せざるをえない音楽に時代的な真実性を持たせるためには、失われない自分自身と変化を受容する能動的な姿勢が大切です。変化し、上書きし、リセットする。バンドの発展はこの方程式につきる。

    クラシック・ロックの貴重なポテンシャルとポップ・エッセンス、記念すべき94年にファーストをリリースしてから15回もの季節を重ねて第一線に君臨し続けたエネルギーとテンション、ロックへの渇望をエモーショナルかつ斬新に表現したオリジナリティー。どれをとってもグレートな珠玉のパフォーマンスです。だからこそ言いたい。ただ一直線にロックの核心へ切り込んでほしかったと。でなければビートルズは超えることができないと考えたからです。

    ロックの初期衝動は、本質的であるからこそ、簡潔で美しく刺激的です。直観的に矛盾した世界を把握する。そしてたとえ自分が血を流しても一矢を報いるのです。

    その大切なスタンスとロック・スピリットを忘れていると、わたしには思えてならなかったのです。彼らのプロデュースをしたい。報酬もいらない。

     “Don't Look Back in Anger” では冒頭の詞を受けて次のように歌う。

    君が辿り着きたい場所へならどこでもお供するよ
    誰も踏み込んだことのない魔境であろうと
    夜であろうと昼であろうと
    でも頼むからロックンロール・バンドなんかに
    君の人生をゆだねたりはしないでくれ
    自分にさえ責任が持てない奴らに


    示唆に富む歌詞ですね。
    ロック野郎が世界を変えることに、いつの時代でも保守的な世代は抵抗する。
    ロック野郎は蔑まされるのです。

    音楽天使は誰の肩にも乗っている。
    わたしの天使は、寂しい顔で涙をためているけれど
    きっとまた優しい風が吹いてくれるさ。
    今は羽根を休めているだけ。


    #2 伝説のギタリスト

    ロックの天使にキスをされ、恋をしてしまったわたし。
    おもに60年代から現在まで聴かなければならないアルバムが山ほどあって、アーティスト名やタイトルだけは知っていても、未聴というアルバムもたくさんあったりして、これから10年位は掛かるのではないかと考えたりしてるのです。気が遠くなりそうです。

    この超有名なアルバムを取り上げるのは、諸先輩の皆さまからすれば今更何だと意見されそうで恐いのですが、スティーヴィー・レイ・ヴォーン(SRV)、伝説のギタリストのデビュー・アルバムを始めて聴きました。以前から気に掛かっていたのですが、なかなか聴くチャンスが巡ってこなかったのです。

    1dec2020-st.gifStevie Ray Vaughan <1954~1990>
    古い時代のハリウッド・スターのようなブロマイド。
    モテそうなナイス・ガイ。迷いのないすっきりした知性、澱みない感性、優しい目と意志の強さが眉と鼻筋にうかがえます。男らしい豪快さもあわせ持ってるようです。

    <Texas Flood>1983
    1. Love Struck Baby
    2. Pride and Joy
    3. Texas Flood
    4. Tell Me
    5. Testify
    6. Rude Mood
    7. Mary Had a Little Lamb
    8. Dirty Pool
    9. I'm Cryin'
    10. Lenny
    11. SRV Speaks
    12. Tin Pan Alley (AKA Roughest Place in Town)
    13. Testify [Live]
    14. Mary Had a Little Lamb [Live]
    15. Wham! [Live]

    彼のサウンドは文句なくカッコいい。たった3日間のレコーディングで、すべてを終えたという。ヘビーゲージを張った、ストラトキャスターからしぼりだすアグレッシブな力強いトーン、情感に満ちたサスティン、肉体の一部と化した愛器からはチョーキングやビブラート、繊細でいながら荒々しく、情熱的なドライブ感とサウンドの厚みは、ブルース・ロックの美しさを体現しています。ブルースをベースにしたインプロビゼーションは、創造力を実現するスキル。才能と絶え間ない挑戦からもたらされたこのアルバムは、昼も夜もギターとともに過ごした、ギターを弾くために生まれてきた天才の結晶です。

    1曲目から虜となりました。エレクトリックの何と豊かな響きでしょう。ただ電気回路を通しただけなのに、一音一音が際立ちストラトに魂が宿っている。SRVと輝かしくアピールしているギターのキズの一つ一つまでもが渾然一体となって、主人の思うがままに音を出している。ギターは彼の分身。寝ている間も夢のなかで弾いていたのだ。そうでなければこれほどまでインスピレーションに満ちたプレイを展開することはできなかっただろう。
    ベースのTommy Shannon、ドラムスのChris Layton とのあうんの呼吸は3ピース・アンサンブルとして最高のものです。場数を踏んで得られた同志のような結束でしょう。またライブで鍛えられたスティーヴィーのヴォーカルも抑制が効き、派手さはないけれど鐘と祈りのアンジェラス<Angelus>のようにブルースにフィットしたもの。この完璧さはロバート・ジョンソンと同じように悪魔に魂を売り渡したことのサジェスチョン(暗示)なのだろうか? そんな非現実的な疑いさえよぎるのです。
    とにかくすべてが素晴らしい!

    塗装が剥げ落ち、汗がしみ込んだ彼のギターは、ブルースと格闘した人生そのもの。
    35才という若さで旅立ったテキサス・カウボーイは、ギターとともに伝説となった。

    ギターゴッドが勢ぞろい!
    ブルースの名曲<Sweet Home Chicago>
    Eric Clapton, Stevie Ray Vaughan, Buddy Guy, Jimmie Vaughan, Robert Cray
    プレイヤーもオーディエンスもミックス状態。
    哲学者の風貌で全体を見ているクラプトンの姿が印象的。



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    哲女のメモ 5

    #1
    以前から、手に入れたいと思っていた本がありました。
    有名な『ブッダチャリタ(仏陀の生涯)』(馬鳴著)ですが、講談社版の「原始仏典」シリーズの10巻目、発行は30年ぐらい前で、絶版になっているのです。現在、中公文庫で大乗仏典シリーズの一冊として発売になっており買いましたが、翻訳が読みづらく、訳に忠実であろうとするのか、文学的香りも感じられない。それに現存するサンスクリット文を底本にした訳出なので、二十八章あるうちの十四章までしかなく、全体があきらかでないのです。講談社版を図書館で読んでから欲しいと思っていましたが、偶然古本屋で見つけ、さんざん迷った挙句買いました。わたしにすれば、大変高価な本になってしまいました。お金に関しては、節約委員会公認のケチです。つまり信仰と同じくらい執着も深い。
    30年前の定価で2200円ですので、そもそも高価な本であることは変わりはないのですが、古本屋での値札は9500円。はじめ0が一つ多いのではないかと思い、
    「この本、0が一つ多いのではないでしょうか」とご主人にたずねたら、
    「いいえ!」と、怒ったように、素っ気ない返事。
    取っつきにくいのがこの業界の常識。あんたに本の価値がわかるか、と言いたげな軽蔑があるのよ。
    大体、商売人というより、本の考古学者的雰囲気。マニアックな世界だし、シャイネス可らしさの篠川栞子も登場したけど、おもしろそうなミステリーなんて本のなかだけだし。
    どうせ売れないくせに、と思いながら、30分も立ち読みしてから、わたしとしてはおもいきり気前よく、大好きな福沢諭吉に別れを告げ、本のうえにきちんと重ねて、カウンターに持っていく。
    「買ったら、成仏できますでしょうか。ご主人さま」と皮肉半分、ニコニコしながら言ったら、
    「本で成仏はできません」と、もっともなご返事をいただきました。
    「最近、多いんですよ。哲の女らしきご来店が。でもこんな高価な本は買わない」
    わたしって、もしかしたら哲の女?
    哲の美を認めてるっていうこと?
    さきばしりの考えすぎは健康によくないわ。
    「ご商売繁盛でよろしいですね」
    「本の価値は読む人間が決めるものだ。これはおもしろいし、市場に出てる数は少ないし損はない」
    「読まれたのですか?」
    「目次だけね」
    「目次からおもしろいなんて、たいした本だわ」
    ご主人は大笑いしました。
    「まけてよ。ご主人さま!」
    結局、500円オフしてくれました。外交力の問題よ。オブリガード


    と苦悩
    誰もすることを欲し、されることを望む。
    失意のときでも、悲しみのときでも、絶望のときでも、どんなに辛い瞬間のときにも、支えとなり、欠点だらけのわたしの全人格を受け入れしてくれる人を、わたしもすべてを捧げてしたい。
    青年シッダールタは、成就することない愛に悩んだがゆえに、愛することの根源を知りたいと考えたに相違ない。深い地底から掘り出された宝石のように透明な知性と、濁りがない聡明さ、遠い景色のなかで葉が落ちる音さえ聞き分ける繊細さと、また人間として無二の優れた資質と獅子のような勇気を持っていても、愛の呪縛と苦しみからは逃れられなかったと、わたしは思う。
    彼が出家したのは、個人的動機が多くを占めているように思えてならない。愛を捨てて、自分を苛み続けた苦行の果てに覚者となり、普遍的愛に目覚めた。

    インドの北辺境、ヒマラヤの高峰を背に位置するシャカ族の小国は、気候風土に恵まれ、雪解け水を利用した稲作を中心とした平和な農業国として栄えていた。ただ王家では後継者となる王子誕生に、未だ恵まれないのが憂いの種であった。
    シッダールタは、シャカ族の都・カピラヴァストゥ(カピラ城)のシュッドーダナ王(浄飯王)と、隣国コーリヤ族から嫁ぎ、妃となったマーヤー夫人との間に、長子として生れた。
    伝説によれば、ある夜、マーヤー夫人が寢殿で眠りに入ると不思議な夢を見たという。天から六牙の白象が降りてきてマーヤー夫人の寝床のまわりを三回右に巡ると右脇から胎内に入ったという。
    翌朝目覚めた王妃から、夢の話を聞かされた王は、国中の賢者バラモンたちを呼び寄せ、儀礼を施し夢解きをさせると、
    「王妃は受胎されました。きっと男子で王となられる方でしょう」と告げ、
    「王子は在家の生活をおくるなら転輪聖王となり、もし出家するなら悟りをひらきブッダとなるであろう」と予言した。
    王妃の懐妊に、国中の人々が無限の光明と喜びに満ちたと伝説は伝える。ブッダの霊夢托胎は、伝説にもとづいて具象化され数々の名品が生れるその後の仏教美術のテーマとなった。
    懐妊したマーヤー夫人は、月満ちて出産が近くなると故郷コーリヤ族のデーヴァダハへ里帰りしたいという思いにかられ、シュッドーダナ王の承諾を得て旅立つことになった。旅の安全を願い入念な準備をととのえ、王妃は輿に乗り、侍女や大勢の従者を随行した。
    道の途中にルンビニー園というサーラ樹に覆われた森があった。マーヤー夫人が訪れたとき、枝の端々まで満開の花が咲き、蜜蜂が群れ、様々な鳥が美しい声でさえずり、まるで帝釈天の遊園のようであったと伝えられている。
    この美しいルンビニー園に魅せられたマーヤー夫人は輿を降り、森のなかに進み、赤色や黄色の花びらが蹴鞠のように咲きほこる無憂樹(アショーカ樹)に近寄り、垂れ下がる枝を手にした。
    そのとき、陣痛がおこり、マーヤー夫人の右脇腹から男子が出生した。
    争いを続ける人類に、絶えることない聖水と消えることない光を灯し、アジアと全世界に希望を与えるブッダの生誕は、紀元前四六三年のことです。(中村元博士説)

    当時のシャカ族の社会においても、バラモン教の影響が色濃く存在し、四姓制度の「浄、不浄」の観念が強く働き、女性の生理、懐胎、出産などは不浄とされていた。出産を間近にひかえての旅は危険な行為であり、それを敢えて行ったということは、王宮での出産によってもたらされるけがれを避けるためにも、出産の場を故郷に求めたと考えられる。

    ルンビニー園での出産を無事終えたマーヤー夫人は、誕生間もない王子をいたわりながら、シャカ族の都・ピラヴァストゥへむかい帰路についた。王子誕生の知らせを受けて待ちわびるシュッドーダナ王や都人は、シャカ族の後継者の帰城に歓喜と感動の渦につつまれた。嫡子誕生に喜びあふれる王は、バラモンたちを招き、法典に従い命名式が行われた。王子は「目的を達成する者」という意味のシッダールタ(悉達多)と命名された。

    喜びもつかの間、悲劇が訪れた。王子の生後わずか七日にして母・マーヤーが亡くなってしまったのです。
    希望に満ちあふれていた父王も幼い王子の行く末に心を痛め、乳母を選び養育にあたらせる一方、亡き妃マーヤーの妹マハープラジャーパティーを後妻に迎えいれた。そして後に誕生した異母弟・ナンダとともに、シッダールタは養母・マハープラジャーパティーによって愛情を注がれ大切に育てられたと、伝承されている。

    シッダールタの出家動機について、多くの文献はよく知られた四門出遊の伝承を伝えている。「ブッダチャリタ」の「死者」を見る場面では、

    『そのようにして王子が進んでいったとき、かの神たちは一人の死者を創り出した。道を運ばれていくその死者を御者と王子は見たが、他の者は見なかった。
    そこで王子は御者に言った。「四人の人に運ばれ、悲しげな人々に付き添われていて、飾られてはいるが嘆かれているあの者はだれなのか」
    そのとき、御者の心は本性が清浄なるかのシュッダーディヴァーサ神たちによってとらえられていたため、事実を知る彼は言うべきではなかったことも主人に述べてしまった。
    「この者は、だれかはわかりませんが、知性、感覚、息、さらにもろもろの性質が無くなり、眠っており、意識なく、草木となってしまったのです。愛する人々により努力して育てられ、守られてきましたが、今捨てられるのです」
    この御者の言葉を聞くと、王子はすこしたじろいで言った。「これはこの男にのみ起こることなのか。すべての生きものの終わりはこのようなものか」
    御者は王子に答えた。「これはすべての生きものの最後のありさまです。卑しいものであれ、中位のものであれ、偉大なものであれ、この世においてすべてのものの消滅は定まっております」
    王子は堅固な心の持ち主ではあったが、死のことを聞くとたちまち心沈んでしまった。彼は馬車の欄干の先に肩でもたれかかり、震え声で語った。
    「これが生きものに定まった帰結なのに、人は恐れず平気でいる。このように死への道にありながら安閑としているのだから、人の心はかたくななものだと思う。
    だから、御者よ、われわれの馬車をもどせ。園遊の時でも場所でもないから。消滅を知った以上、心ある者がどうして今この破滅の時に平気でおられよう」
    王子は御者にこのように言ったが、御者は馬車をもどさないばかりか、王の命令に従ってパドマシャンダという名の森に進んだ。そこでは特別の趣向が用意してあったのだった。
    そこで、王子は、若い樹が花をつけ、コ―キラ鳥が喜びに酔って飛びかい、館があり、池は蓮の花で麗しく、あたかもインドラ神の森ナンダナのように美しい森を見た。
    そして、王子はむりやりに美しい女たちの群がる森の中に連れていかれた。ちょうど誓戒を受けたばかりの隠者が、禁欲生活への障害となることを恐れながらも、美しい天女に満ちたアラカ―国の主クーベラの宮殿に連れていかれたように』


    優れた詩人であったと伝えられている馬鳴は、修辞家らしく文学的才能を遺憾なく発揮して、十分な言語的装飾を施しながら、ブッダの生涯を華麗に描きます。史実を伝えるというよりも、神格化されたブッダの姿が、尊敬と信仰の対象であったことが理解できます。馬鳴はブッダの生涯に関わる伝承や思想に深い造詣を持ち、文学作品といっても、経典に伝えられるブッダ像からは逸脱していない。

    個人差はありますが、普通の人間は苦しみや痛みに鈍感なのではないでしょうか。わたしたちは自分に直接関係がない社会のあらゆる不合理、他者の苦しみは感じないようにできてるらしい。だからこそ生きられるのかもしれません。わずかなショックでも振れる敏感な感度の持ち主が、正常な人間とは思えませんが、苦しみの度合いが深くても、克服し解決する強靭な精神を保つことができれば、覚者への道は近いと言えそうです。苦しみが地層のように複雑に重なりあいながら地上を覆っている現代に、ブッダが生まれ会わせれば、苦の感じ方も違っていたかもしれない。人間にとって現世は有限であるけれど、普遍的苦は、普遍的であるがゆえに、永遠に消滅しない。不可知論は釈尊が一番嫌悪し、無記をもって答えとしました。過去世や未来世など証明できないことは、信じるしかない。

    ブッダの四門出遊は後世の創作ですが、このように他者のなかに自分の苦しみを見い出すことは、ブッダなら可能だったと思わせる十分な説得力があります。
    『自らが老い、病になり、やがて死ぬことを深く認識する故に、老いた人、病者、死者を嫌悪しないのです。苦しみをともにし、喜びをともにし、ともにあることを歓ぶのです。ブッダはそのことを、若き、健康な、生のただ中に見たのです』(『ブッダは歩むブッダは語る』友岡雅弥著・第三文明社)
    ブッダの宗教的天分は繊細な精神のひだのなかで熟成され、真理を掴んだ。「ブッダチャリタ」はそのことを文学的香り豊かに、一つの物語として、高級な大衆向けに編集したものと思います。神格化と大衆化は同時に進行するんですね。永遠の指導者に対する創価のコマーシャリズムに溢れたアドバタイズメントは、宗教団体の変質をよく表しておりますが、企業のセールスプロモーションのようにも見えたり、キャンペーンのように見えたりするのも、以前には想像すらできないことだったでしょう。会員教育よりも組織の利潤に重点が置かれているからでしょう。
    『ブッダは歩むブッダは語る』は少し読みづらい本ですが、貴重な本であることは読めばわかるでしょう。引用されている思想家・哲学者など、賢者の言葉がとても深い内容を示唆していると感じられ、きっと渉猟していたのだろうと本好きのわたしにはわかりました。
    この本を、友岡氏が第三文明社から出版したことが本当に良かったのだろうかと考えてしまいます。わたしが買った古本は、定価の倍ぐらいの値段が付けられておりましたが、出版されて20年も経っているのに、需要もそれなりにあるということでしょうか。その後、第三文明社からこの本をしのぐ出版がどのくらいあったのだろうかと勝手に危惧する次第です。求道者の姿勢を個性的に示した友岡氏は、カリスマ指導者の巨大なドグマの影響をまともに受けていたのかもしれない。また創価流の世俗的な宗教営業に、惰性に陥った信仰の幻影を見ていたのかもしれない。聖教を見ればよくわかるでしょう。会員が忘れないように定期的に、脚色された過去の歴史がまるで目の前でイベントを開催するかのように、毎年同じことを繰り返していることを、懸命な会員なら見抜いているはず。意図的に習慣づけられた活動こそ害毒です。創価は多くの有為な人材を犠牲にしている。
    「馬鳴菩薩伝」(https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/JT2046.pdf)


    #2
    実生活での仕事や学業などにおける評価は大切ですが、信仰上における評価はさほど気にかける必要ないと考えるようになりました。信仰でなくても最良の結果を望むのが行動の帰結というものですが、成果という言葉に言い表わされる結果など、組織の都合以外ありません。マイ聖教に多くの会員が疑問を持ち始めているのに、十分な根拠を示さないままです。啓蒙のおしつけは偽善の影絵のような厚かましさ。美しいけれど、光に照らされれば儚く消える、サプレッション(抑圧)の詐術です。
    指導性は簡単に言えば哲学です。それは自由選択を前提にしたものでなければならないと思います。わたしがこういう指摘をすると、今まで自由だったし、これからも自由だというオウム返しのような答が返ってきます。創価に限らず、組織に加入すれば、誰でもそれなりの自分の居場所と自由な発言権を得たいと考えます。その権利の前提となるのは、活動家であるかどうかということです。マイ聖教は活動家と認知される名札のようなものですが、そのように活動家の定義を誘導してきたのが、今までの指導であったこと、悪しき習慣の正体は単に部数減への恐怖以外にないこと、それにともなう宗教団体としての経営的経済的理由があるからと思います。自由は、自由を誇称しながら無言のうちに、心や気持ちを束縛し負担をかけることではありません。
    大事なのは個々の意思であり、信仰への情熱であり、確信であり、不完全人間が不完全評価をしても意味がありません。創価の中心者である年長者は必然的に生活知恵があり、経験から複雑な正邪や善悪の区別を知っていますが、一方で、保守的になるがゆえに、賢明でない打算的な評価法も選択します。地位ある者は特にそうです。面倒なことは避けたいと考えるし、波風を立てなくても組織は十分機能していると思うのです。
    創価のなかにも幸せでない人はたくさんいます。その原因となる苦の実体と、自分を縛る旧価値観からの解放、善悪の弁別、問題解決への心的アプローチの論理的、具体的説明をすることなく、ただ一様に宿業論でかたづけてしまう愚かな指導が見受けられます。それは自分の言葉で語らない聖教コピーの凡庸な幹部の指導力と、社会一般に経済的困窮が深まるなかで、世俗的な価値判断の影響をうけて信仰上の確信が薄らいでいるからだと思います。信仰に必要なのは新しい自分を発見することであり、オリジナルな想像力を発揮することです。
    宗教の絶対性への帰順は、会員の熱心さと純真さに支えられた活動が、組織への当然の献身と考えることから始まります。それが実は自由を奪う犠牲というものだと知れば、理性をマヒさせる宗教性は、ただ従うこととする悪の側面がおのずと見えてきます。布教も会員の経済的支援も、善意と正義が合体した強固な釈尊以来の伝統的使命に支えられていることに、つつしみ深い感謝が忘れられている。
    厳格な修行を求めた原理主義者・提婆達多は、師の化導の本心を知らず敵対しましたが、戒律もまた方便であることに気づかないまま、手段の目的化というスパイラルに陥りました。同じように宗教団体においては、成果という言葉はこの手段の目的化と同義語でしょう。またサンガ内の階級化が仏道を曇らせる原因になることも、釈尊はよく知り抜いていました。階級化とはつまり教義の独占化であることを、宗門問題ではからずも経験しました。以前、創価でも主師親の三徳具備の池田先生という指導がありましたが、師弟関係を腐らす無盲目な礼賛は神格化と同じということ、法に依らず、人に依る行き過ぎた解釈が、教義の独占化ということです。宗教であれ政治であれ、唯一者の独裁は競争と破壊という精神の退廃をすすめるだけ。「価値判断能力の衰弱」(ニーチェ)は過剰な賛美のうえにベールを被って鎮座する。時代趨勢に対しての鈍感さ、ある程度の信者を獲得すると保守的なサンガ維持に転じることなど、昔も今も変わらないのです。

    人間の無謬性などありえません。正しい法を生活規定にしていても、誰でも間違いを犯すのです。正しい容器(善)を所持しながら、濁った水(悪)をそそいで疑問に感じないのです。大聖人ですら、長く激しい闘争のあとで、「其罪畢已」と自らの宿業を認められました。消し難い正法誹謗の罪を背負った者が、どうして無謬であるなどと言えるでしょうか。
    釈尊が洞察した通り、人間だけでなく、組織も渇愛の欲望で苦しむなんて、妙法においても戒律が必要なのではないでしょうか。妙法が最高智であれば、自己規律も最高規律でなければならない。さらに末法が貪欲と五濁の悪世なら、利己的現世利益主義と少欲知足は正反対の姿勢ではないでしょうか。宗門に対し少欲知足でないと批判するなら、学会僧(職員)も組織もまた、少欲知足でなければならない。
    「法師とは五種法師なり功徳とは六根清浄の果報なり」<御義口伝>
    見えない心を見抜き、心の声を聞き、正しい判断ができる功徳は、誰もが望む信仰のエッセンスです。会員の心を知らないということは、一体、どこから変化し、どこから堕落したのでしょうか。
    仏教の民衆化は、二千年前も今も、在家信者の願いです。その在家が帰依した大乗思想は、方便の無限拡大を招きながら複雑な理論へと発展し、発祥地において滅びるという歴史に出会いました。平易な祈りと生活知恵を求めた民衆のための教育的救済法でありながら、結果として民衆遊離というジレンマに陥った歴史の教訓は、同じ過失をおかす危険を絶えず内包していることを教えています。
    釈尊が説いた仏教思想は、「苦を滅す」というシンプルなものだったのではないでしょうか。その目的である自己救済は、釈尊の時代も現代も変わりなく難しい。  


    #3
    思慮に富みながら偽善的な、論理の撞着にも目もくれずに、言いたいことを遠慮なく言えるのがネットの熱狂世界です。したがって適度な冷静という自己コントロール力も必要と考えております。
    そんなネットでも、根気よさと情熱があれば適時な話題とテーマを提供することができます。種々の混乱が錯綜している時代に、問題意識の共有はとても大切なことと認識していますが、同志というのは問題への関心と洞察を補うあう相手と思います。キーワードはソフトパワーと対話です。このような言葉のチョイスは適切ですし、仏教の理念にも適うもの。
    主張しながら譲り合う謙譲の人々が、正常な信仰者のイスに座ることができますように。
    悪の支配を防ぐために、信仰と理性の勝利のために、改革が苦難にあふれていても、恐れるものではありません。

    組織悪は、組織が必ず持つ属性と思いますが、一方で組織がなければ広布も進展しません。有能な管理者が必要ですし、その指導者は創造力豊かな人格者でもなければなりません。世界を再構築する原理を知った者の宿命ですね。先生は多くの模範を残されてきました。そのなかでも対話者としての姿勢に学ぶことが最大のものかと思います。慈悲の心が蘇るような啓発と示唆に富む貴重な対話の財産を、心して学ばなければならないでしょう。
    先を見通す力は賢人のみに与えられた徳性。智慧の守護者でもあり、未来を予言した釈尊は、末法の人間主義者にもあわれみと称賛を惜しまないでしょう。変革は受け継がれてこそ成し遂げられるもの。困難な現代にあって、聖者の思いが叶えられますように祈りを捧げるだけです。そして尽くすだけです。

    確信が他者を動かすことは、わたしたちはよく経験しています。また信仰への確信が得られるかどうかが、信仰者の立場から言えば、きわめて重要であることも知っています。そのために日々苦労しているといってもよいかもしれません。確信への道程は個人的差異があり、それぞれ理性的、経験的、直観的なものとして得られます。しかし大小の強さの違いがあり、揺るぎない確信は簡単に得られるものではありません。
    わたしたちは成功より失敗から多くを学びます。慈悲深きご本尊さまは、試行錯誤するための失敗を必ず与えてくれます。それは試練とか困難とか受難とかを通した失意と言われるものです。立ち直れないほどに打ちのめされることです。このときの自己の弱さの自覚が、確信のつぼみとなります。確信は弱さを経た花なのです。自己存在をありのままに肯定した土壌から恵まれる花なのです。
    失敗を経験しなかった人は信用できません。また失敗を他者のせいにする人も信用できません。懸命な人ほど失敗を経験するのは、道理が道理を証明するようなものです。目的を持ち、自己解釈に楽観主義の知的な教養を身につけた信仰者は、内省的なまなざしで自己を励まし限界状態を越える。
    わたしたちの信仰への真の確信は、成功や功徳の成就からではなく、失敗や迷いを通した反省や克服のなかから得られるものです。辛い経験に負けないという精神の持続性が、確信を不動のものにする聡明なる信仰者の唯一の基礎的資質です。それが菩薩の本質へ直結している回路だと思います。

    わたしたちはいつも誰かに励まされ、また誰かを励まそうと努めています。心からの励ましの言葉が、自分と他者の境界を取り除くことを多く人は知らない。意識しない。失敗や迷いの渦中にあっても、身を投げ出すような励ましは、自らの心も励まし、他者とともに自らの運命を切り開く原動力にもなるのです。だから失敗を恐れてはならない。困難をともなった迷いを避けてはならないことを、志が高い女性の皆さまに深い情感をこめて訴えます。
    困難は、ただの困難でしかない。困難を苦しみと捉えるのは、根源的煩悩である三毒の一つ・癡(ち)に翻弄される姿です。癡は渇愛とも無知・無明とも言われ、釈尊出家の中心動機をなすものと思われます。


    #4
    不信と疑いで孤立化し分断される世界のなかで、人間関係も水のように薄められる殺伐とした時代に、テクノロジーと非人間的な功利性を信奉した管理者さえも管理される社会で、希望を失わず生きていこうとする健気さは、まるで苦行者を連想させる姿です。仏教の基本である因果応報が自己責任倫理であっても、今、人間が人間の心を信じる信頼関係ほど危うくもろいものはありません。釈尊の対機説法は方便であったかもしれませんが、適切な言葉を選び励ますことでもありました。不信の世界にこそ励ましの言葉は必要であり、またそれは人間関係を効果的に蘇生させる確信の言葉と言えるのではないでしょうか。
    か弱き自分が、自らに課した運命に決して負けないためにも、自他ともに輝く確信の励ましが、わたしには必要不可欠なのです。

    『信仰は疑うべきものでなく、いつも揺れ続ける自分自身こそ疑うべきものです。
    確信は、悲哀がつまった人生に別れを告げる魔法のような知性のことです。
    わたしは変われる、そう思うこと、それが信仰です』(アンナの日記から)


    "You Changed My Mind" by Fearless Motivation
       Title 1: Small Minds
       Title 2: You Can Change


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    哲女のメモ 4

    #1
    kumagawa.jpg今年に入ってから、なんとなく憂鬱な日々が続いています。心配事があるってことかしら。新型コロナもそうですが、最近の豪雨災害も心に重くのしかかります。自分が被害者でもないのに、心のなかがどしゃぶり。悲しくて絶望的。
    前向きに考えられないのがわたしの欠点。でもそういうわたしも自分の一部だから、今さら気にすることもないのだけれど、何か重いものを引きずっているようで、いつもの明るさは何処へやら。考えることも考えられない。一日一日があっという間に過ぎていくようで、貴重な時間を無駄使いしている気分です。時はうつろ、季節もうつろ、わたしもうつろ。自分で自分を慰めても解決するわけでもない。唱題すると涙が出てくる。ご本尊さまって卑怯だよね。何も解決してくれないんだもん。わたしの宿業?  言いたいことは分かっているわ。

    でも、宿業をどのように解釈するかが問題よ。目に見えないものは信じて確信するしかない。きっと宿業はあるのだろう。そしてそのカラクリを懇切に解いた仏教は強靱な第一原則たりうるのであり、議論の余地はない。理性を知る者は理性の限界も知る。したがって宿業は信じるしかないのだ、とアンナは自信たっぷり自分に言い聞かせたのだった。
    宗教が滅べば理性も滅ぶ。信仰を失えば確信も失う。ガソリンなしでどうして車が走るだろうか。信仰なしでどうして人生を走ることができるだろうか。
    実行は難しいけれど真理は単純です。これはあらゆる芸術作品と共通している。特に推理小説はどんなに複雑なストーリーでも核心のプロットは単純なのです。必ず犯人の正体がバレて、犯人も正直に告白するからね。探偵ももったいぶって解説するのを得意とする。はっきり言って舞台に登場する役者さんて饒舌ですよね。みんな自分を主張しているわけです。
    だからって軽率な思いつきではないけれど、その上でわたしも宣言しよう。わたしは敬虔な仏教徒であるということ、日蓮イズムというストーリーを追う探偵であること。

    創価は間違なくブッダからの正統を汲む開かれた伝統なのです。もしも否定することが正しいとすれば、ブッダからの流れも否定しなければならない。こんなことを書けばたちまちアンチの方々から反論を浴びそうです。「子供の楽園」のような議論はおことわり。
    人間解放は近代の社会科学を論ずる前提とされてきましたが、普遍化した苦難からの解放は未解決であり、さらに増大する気配です。何が求められているかと言えば、異なる思想、異なる人間の連帯であって、争うことではないのです。でもそうは言っても、カリスマ的改革者におおいに疑問を抱いている人々が、自らの行動規範に絶えず感情を持ちこんで盲目的に嫌悪する抵抗姿勢を、わたしは憐れむほかありません。彼らはペシミズムという雲の下で自ら進んで雨に打たれている人種であり、創価によって日本が乗っとられ、やがて善良な国民が抹殺される陰謀が着々と計画されているといった議論になるとにわかに目を輝かせ、更なる悲劇を演出しようと試みる。根拠のない悲劇は喜劇であり、雲が必ず雨を降らせるとは限らないのに、禁欲的潔癖さが小児的愚昧さを象徴していることすら気づいていない。そういう悲劇は喜劇というよりないであろう。一体、文化とか文明とか歴史とか伝統といった自分自身を形作るものを、ほんとうに理解しているのか疑わしい。重要であり危機であると訴えながら、空疎で内容が伴わない希望とか信頼とかの言葉を連発するのであるから、裏返して言えば彼らがしがみつく正義は、コマーシャリズムに踊らされた大量生産の通俗的精神を生みの親とする消費型正義なのです。日蓮もかつて味わったように、正統はまた異端であるという正義こそ、辛辣な烙印に耐えられる強靭さを備えている。軟弱な正義は、社会を混乱に導くだけです。
    しかし、創価のなかでも勝利を強調するあまり、その精神を忘れているのではないか、という危惧を抱くのはわたしだけだろうか。例えば政治に対する姿勢では、無条件に無批判に支援し、その背景を考えない傾向が顕著であるからです。公明党に対しての先生のご指導も、創価と公明党は一体であるというのもあれば、党の独立を促すものもあり、結局会員はその間を右往左往しているとの見方もできるのではないでしょうか?
    信仰者は政治権力を捨てよ、とわたしは言いたいのです。
    宗教には元々、「闘争」の側面が多分にあることは誰もが承知しています。自己との闘争が信仰なのであり、ひいては醜悪な社会に、必死の覚悟で闘争を挑むのが宗教なのです。このとき寛容や多様性といったものは地平の彼方で浮き沈みしている。未だに争いは無くならないし、血を流すことにも慣れっこになってしまった。文明が進化し生活水準が豊かになっても、一方で人道的な責任は放棄し、多くの人間は傍観者という最悪の大衆になりさがる。国家公認殺人者はより高度な技術を発明し、技術的進歩が世界貢献と平和への道であるかのように錯覚する。倫理とは見た目はスマートなガバメントの都合よい大衆迎合の論理でしかない。近代の心ある思想家が指摘したのは、大衆の愚かさだった。
    大衆は人間の集まりという意味です。一人や二人ではない組織、民衆のあらゆる階層階級を網羅した大組織、社会に一定の影響をおよぼし、動向を左右しかねない組織は、大衆の一部であり、大衆論理が適用される組織です。創価にはどれくらい会員がいるのか、はっきり分かりかねますが、公明党が大衆政党というくらいですから、創価も大衆宗教なのでしょう。
    創価の会員は現実主義者です。過去がどうあれ、今現在の姿勢を問うのであり、こういう考え自体間違いとは言えないけれど、現在は過去の積み重ねの上にあることもよく思案しなければならない。わたしたちの学びはすべて過去からのものであり、歴史からのものである。したがって、真実の歴史こそ、真に規範となるべき歴史です。

    民主主義とは機会の平等を約束するものですが、日本のような曖昧な寛容美徳が礼賛されるシステムでは、寛容は差別容認を意味するものと同義です。多神教文化は社会的な情報と内面的な情緒を共有することであり、不合理なことであってもそれを指摘する人間を排除するシステムです。無定見にフランス革命を礼賛する人間が多いのも日本システムの特徴です。自由・平等・博愛は、アンチテーゼとして秩序・格差・敵対を生み出したのであり、この反対概念を行ったり来り、どちらかに揺れるのがその後の歴史であったこと、民主主義は合理主義という裏パッチで支えられて、まるで不正を断罪する剣のように信仰されてきました。その主人公が大衆です。歴史経過には必ず反動があるのであり、合理主義に懐疑的に異議をつきつけて孤独を味わった勇気ある人々もまた生れて、結局ニヒリズムの深い闇をブラックホールのように発見するに至るのであるけれど、この真実の過程に無頓着な知識人が日本には溢れています。正統は正気であるということ。伝統は正しい歴史観に立った智慧でもあり、正しい目と心を持った人間だけが獲得することができるバランス感覚の真髄です。

    池田先生は、第35回SGI提言(2010年1月26日)で、ニヒリズムに言及しています。
    『今回私がスポットを当ててみたいのは、現代文明が行き着いた一つの位相、現代人が否応なく直面せざるをえないデクリネーション(衰勢)の時運――大まかに言ってペシミズム(悲観主義)さらにはニヒリズム(虚無主義)と総称される時代精神の有り様に関してなのであります。
    ニヒリズムというと、いわゆる “神の死” を契機にしたヨーロッパ的思潮に思われがちですが、東洋にも、ニヒリズムの系譜は数多くあります。しかし、そこまで話を広げる必要はなく、ここでは、グローバリズムの矛盾が露わになった荒涼たる風景の中、瘴気のように立ちのぼっている文明の病理の謂なのであります。
    日本においても、そのような傾向は、顕著に見られるのではないでしょうか』

    経済問題と科学技術に特記し論じていますが、科学技術と経済発展は近代資本主義を論じる上で不可避な領域です。

    『フランスの気鋭の論客エマニュエル・トッド氏は、金融主導のグローバリズムを評して、「社会のあらゆる足枷から『個人を解放する』ことを望みながら、貨幣とその蓄蔵を崇める中に安全を求めようと怯えて震えている小人をつくるのに成功したにすぎない」(「経済幻想」平野泰朗訳、藤原書店)と喝破しています。この「小人」の顔を表から見れば「マモニズム」(拝金主義)で、裏から見れば「ニヒリズム」であって、逆もまた真であります。(中略)
    グローバリズムの正の側面は当然のことながら、貧困や「格差社会」をはじめ負の側面を論じる場合でも、ほとんどがこの価値基準に依っている。そこからは、先行き不安な、ギスギスした、寒々としたうつろな響きしか伝わってこない。
    格差の拡大等は疑いようのない事実ですし、それを引き金とする犯罪や自殺に追い込まれるような事態は、決して放置されてはならない。このことは、第一義的には政治の責任として、これまでも繰り返し訴えてきたところであります。正義や公平性という人間社会を成り立たせているエートス(道徳的気風)を担保するためにも、法的、制度的なセーフティーネット(安全網)の整備を怠ってはならない。
    そのことを強調した上で、私が懸念するのは、そうした外的・物質的条件の整備は、事態への対症療法にはなっても、根本療法にはなりえないのではないかということであります。「対症療法」を下支えし、それをより確かなものにするためにも、精神面からの裏打ち、つまり価値観の転換が必要なのではないか』


    欲望の無限拡大に警鐘を鳴らしていますが、近代における大衆の定義は、この経済的欲望と利己主義、自分の意志を押しつける精神的未熟さ、他者への配慮を欠いた支配層としての大衆であり、豊かな社会を標榜しながら生の実感に乏しい大衆を言うのです。オルテガは、自己懐疑という人間の特権を忘れた大衆を嫌悪し、「現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆるところで押し通そうとするところにある」(大衆の反逆)としている。大衆を負の意味で定義しているのであり、トッドの「小人」と同類の「文明の再野蛮化」に加担する人々です。優れた価値を求めて生きるのが人間なら、本質的な生命の満足を省みない大衆に悲愴なペシミズムとニヒリズム、「生の不安」の病理を見るのは当然の帰結かもしれない。したがって、危機のなかの殉教者・英雄は精神的本源の位置からすべてを作り直さなければならないのであり、それがどれほど不可能に近いか。世界を冷静に観察している人格者は孤独のなかで高貴さを堅持しているのです。

    『近代文明、とりわけ近代資本主義というシステムは、例えばマックス・ウェーバーが分析したように、プロテスタンティズムの倫理というブレーキとハンドルが作動することによって、辛うじて欲望が制御され、安定した人間生活を保障してきた。換言すれば、何のための勤勉か、何のための努力か、蓄財か、といった価値観からの問いかけが日常的になされていた。それによって、人間精神、人間生活のバランスが保たれてきました。ハンドルやブレーキが機能不全に陥ったらどうなるか――ウェーバーの言う「心情のない享楽人」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」大塚久雄訳、岩波書店)の横行であり、昨今指弾されている「強欲資本主義」などは、その末期症状といってよい。欲望や知能の独り歩きであり、そういえば、今回の金融危機を招いた信用バブルの背景には、投機性を至上視したデリバティブ(金融派生商品)市場の拡大などがあり、その開発には最先端の金融工学が駆使されていたという。金融市場のカジノ化に熱中した人たちの脳裏に、果たして「何のため」という問いが浮かんだでしょうか』

    際限ない欲望にとりつかれ、経済を崩壊の危機にさらした知識人も愚かなる大衆の一部ということでしょうか。健全な常識とか、ヒューマニズムとか、協調とか、卓越した知性とか、多数との共存とかは幻なのでしょうか。豊かさとか繁栄とかは、人間が人間らしく生き、死ぬための一過程、手段なのではないでしょうか。

    先生は、創価とは価値創造の謂いであるとしながら、仏教にその解決のヒントを求めます。

    『それは、ニヒリズム、価値空位時代に楔を打ち込み、近代文明の暴走に対して、ハンドルやブレーキの機能を回復させる人類史的挑戦であるというのが、私どもの深く期するところであります。
    (中略)
    学問に王道がないように、「善」の道にも王道はない。現実に身を置き、あえて苦難に挑戦しながら、不断の精神闘争の溶鉱炉の中で、徹底して己を鍛え上げていくしかない。そこに「善」を成就させゆく直道が開けゆく。マルセルの言うように、「状況の特殊性と法の普遍性との間には常に必ず緊張が存在している」「この緊張そのものこそ、価値の原動力」(「マルセル著作集6」小島威彦ほか訳、春秋社)だからであります。「不断の精神闘争の溶鉱炉」と「緊張そのもの」とは同義語といってよい。そこに、仏典の「浅きは易く深きは難し」「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」(御書310ページ)との金言が不磨の実践規範としての輝きを放ってくるのです。
    (中略)
    オルテガ・イ・ガセットは、そうした「不断の精神闘争の溶鉱炉」の有り様を「歴史的生」として次のように活写しております。
    「わたしは歴史の絶対的な予定説を信じない。わたしは逆に、あらゆる生、したがって歴史的生は、純粋な刹那によって構成されているものであり、その一瞬一瞬はそれに先行する一瞬に対して相対的に未確定であるために、現実はその一瞬において逡巡し、一カ所で足踏みし(piétine sur place)、多くの可能性の中のどれに決めるべきかに迷うものであると信じている。この哲学的逡巡こそが、あらゆる生的なものに、あのまごう方なき不安と戦慄を与えているのである」(「大衆の反逆」神吉敬三訳、筑摩書房)
    この「哲学的逡巡」とは、優柔不断とは似て非なるもので、固定観念を排し、「まごう方なき不安と戦慄」の緊張感の中から「善」を探り当てる力の源泉を意味します。
    釈尊の初転法輪の際の“梵天勧請”の説話が想起されます。――成道の後、その悟りの甚深、微妙で知り難いため、釈尊が説法を開始するのを躊躇、逡巡していると、梵天が現れ、苦しみ悩む人々のために、説法を勧め、請うた。それによって初転法輪が成った、と。オルテガのいう「哲学的逡巡」は、釈尊の躊躇、逡巡とどこかで響き合っているはずです』


    さらに、自己内対決、自己内対話を経て、他者の復活、他者との対峙・対話の要請の重要性に目を向けます。
    『周知のようにオルテガは、「他者」との共存が、「野蛮」と決別する「文明」の絶対要件としていました。そして、この「他者性の尊重」「他者性の習慣化」ということは、かの凍てついた旧ソ連の政治文化に言論や対話の力を劇的に復活させたゴルバチョフ元大統領との対談集(「二十世紀の精神の教訓」、「池田大作全集第105巻」所収)で、親しく語り合ったところであります。
    先に「個々の人格にかかわらざるをえない善悪の価値感情を拒絶」するのがニヒリズムとしましたが、その意味からも「他者」「他者性」の復活は、価値感情欠乏症の時代を切り開き、「善の価値」「善の言葉」を復権させゆく直道であると、私は信じております。
    「月月・日日につよ(強)り給へ」とは、そのニヒリズムの超克、価値創造の労作業への無上にして無比の促しなのであります』


    苦からの超克を諦める浄土思想に見られる現世否定、救済を他者に依存した悪性の思想は、ニヒリズムの根源とも言えそうですが、東洋だけの精神の負の遺産ではない。西洋にも原罪という魂の廃墟があるのです。そのニヒリズムを、ニーチェは超人の生まれ変わりで超えようとしたのであり、文明の死を予言し永続的な進歩などあり得ないとしたシュペングラ―の運命論、「西洋の没落」では、無目的に人生を歩み、仏教が説くところの生物の基本である四苦というベーシックな概念すら理解していない日本人に向けたメッセージでもあると、わたしは考えます。また、21世紀に入っても避けきれない戦争はますます激しくなり、規模の大きさ、被害の甚大さ、国家エゴイズムの肥大、という脅威が脅威を生み続ける悪循環は、欲望を制御できない修羅の悪夢であり、その裏には価値感情の希薄と欠乏が指摘されるのです。
    人間はそもそも孤独です。一人で生まれ一人で死んでいく。他者のなかに自分を居場所を発見しても、些細な行き違いで破綻の危機に陥ります。不信はやがて絶えない葛藤を経験しながら、ニヒリズムという泥沼に落ち込みます。近代の西欧の知識人の系譜は、ニヒリズムの指摘と克服にありました。人間の「間」のつながりは、多数派、つまり権利要求としての大衆の欲望実現装置として機能しているように感じられるのです。政治的イデオロギーが皆無に近い日本にあっては、無党派という市民の要求に応えなければ政権の維持は不可能です。そしてどれだけ利己的な欲求に時間と経費を費やしているか。大衆は孤独であるがゆえに、ニヒリズムという衣のなかで深い悲哀を感じていると、わたしは推測するのです。人間信頼という宗教は、今後ますます、魂の汚れを回復するような朝露のような清純さで、命の疲れを癒し蘇生させる根源として必要とされ、啓蒙されていくことでしょう。

    ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

    「ニヒリズム」(社会学小辞典:有斐閣)
    判断や行為の基準としての積極的な価値をいっさい否定する思想。これは、一方で、無為の消極的・退行的態度をひき起こすが、他方、既成の道徳や制度にこの思想が向けられるかぎり、伝統破壊の積極的エネルギーとなることもある。この意味で、近代・現代西欧では、ニーチェ、ショーペンハウアー、実存哲学などを通じ、ニヒリズムが鋭い批判意識を担ってきたが、反面、社会的・政治的には、無力感・絶望感からの遁走としての能動的ニヒリズムがファシズム・イデオロギーの基盤を提供することにもなった。


    #2
    ジェンダー理論は大聖人の深い叡智に完結している。それをどう解釈し、発展させなければならないか、創価の知識人としての力量が問われています。創価が戦後、急速に拡大したのは新しい解釈を提示したからであって、理想とされる人物像も先生自身が体現し人々の眼前に現れたからです。時代に付与する解釈の斬新さが閉塞する社会の現実を切り開くのです。知識人と言われるスペシャリストがその役割を担っている。コスモポリタンと言う前に、言語が持つ本来の力を復活させる.........言い方を変えれば、浅薄な意義づけに終止している市民社会の指導原理を主体者である人間に取り戻すべく価値転換をはからなければならない。価値あるものへの願望が歴史を動かしてきたのです。それは本質的にして普遍的な善への衝動でしょう。オルテガは「大衆の反逆」のなかで次のように述べている。

    『われわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかわからないのである。つまり、あらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人になれず、自分自身の豊かさのなかで自己を見失っているのだ。われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術を持ちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間に漂っているのである』

    自己が自分の主とはブッダの言葉。ギリシャ哲学も、疑いのなかから、疑えない自己を発見した。無知という深い海中で自己像という宝物を発見したのです。大海と同じ海水が心の海にも満たされています。無限に広く無限に深い心の海で、自分そっくりの自己像を発見する方法と場所をブッダは示しました。実現能力とは殻を脱ぎ捨て、新たな自己像を描く能力のことです。
    現在ほど覚醒し鮮明に言葉を操り、意義を見出す作業が必要なときはない。その役割は誰が担うのだろうか。

    なぜ自分が立つ土台を安全なものにしないのだろうか。自分が拠り所とする賢明なる大衆に懐疑を抱かないのだろうか。現実的な男女の性差を問題にしながら、リアリティーに欠けると感じるのは、自らのアイデンティティーでもある所属組織に対し主体的視点を欠いているからだと考えるのです。固有の自覚した自己の集まりが創価ではないか。目覚めた集団が創価ではないか。人間の尊厳と高貴さに最大の敬意をはらうのが妙法の使徒ではないか。精神的沼地から自他の悟りという実践的知識の深い花を咲かせるのが、創立者が訴えるそれぞれの使命なのではないか。
    なぜ、副会長クラスに女性がいないのか。末端でも支部長や地区部長に女性が登用されないのか。青年部長に一人でも女性がいるのでしょうか。また宗教法人として役員のなかに女性がいるのかどうか。人事は組織の要であり一般から認識される顔です。足下の問題を見つめないで、どうして創価のメッセンジャーたりうるのでしょうか。創価が男女平等・同権を主張するなら、それは人事に反映されるはず。さらに結婚を機に本部職員の退職を余儀なくされるのは、どう考えて時代錯誤です。経済力がある男性と結婚しなさいという暗黙の了解があるのですが、もちろんそんなことは表だって言いません。それを疑問なく受け入れる女性たちも愚かなる大衆ということでしょうか。ジェンダーは権利を貫き、義務をはたし、現実においてそれを達成することです。男性原理だけではもう何も解決しないのです。


    #3
    訪問は一人でする。それが基本です。1対1の対話が対等の立場であり、自分を磨くためにも、また相手の考えを聞くにも最良ですが、創価では2~3人のグループを作って訪問するのを常とします。集団で行動すれば、渡る世間も恐くない。責任も分散される。でも正しくない。
    また、アポイントをとり訪問するのが常識。訪問相手が困ろうと嫌がろうと、良いことなのだから許されると考えるとしたら、妙法で戒める増上慢の謗りを免れないでしょう。昔と今は違うのですが、そのような社会常識に対しての認識が甘いことをよく反省しなければ、いずれ創価は迷惑集団として社会から阻害され排除される。そしてその原因を作ったのは自分に他ならないのですが、反対や非難に会うと、魔や難だと騒ぎ立てる愚かしさ。わたしはそんな愚かな一員にはなりたくないし、どうか仲間にも誘わないでください。
    会員の、また菩薩の聡明さとは、手段の選択にかかっていることをよく思慮しなければならないでしょう。目的は正しくてもその手段を行ずるときは細心の注意が必要なのです。相手を気遣う心と節度ある礼儀こそ、誤解を招かない円滑な人間関係を築くための基本です。

    罰などとよく会員は自虐的に口走るけれど、これは仏法破壊の極悪人に支払われる代価です。宿業のバランスシート(トインビー博士)で言えば、自己否定の根源的負債から現われるプロパティーです。また複雑な蓋然性の影響が大きいことから、多くの信者を大御本尊さまから遠ざけた日顕という悪人が罰を受けないで人一倍長生きしたのはこのためです。しかし、正法による行為(人生)の再構築がなければ、生命に刻まれた因果の傷は消え去ることはありません。
    妙法との出会いという稀にみる幸運を、幸運と感じられないところに不幸があるのかもしれません。
    創価では絶対的幸福とよく言いますが、これは絶対的幸運の意味なのではないか。
    もちろん、絶対的なものがあると仮定してのことよね。


    #4
    Set Fire To The Rain Adele

    前の恋が終って傷ついてた時
    あなたが声をかけてきた
    打ちひしがれて落ち込んでたのに
    あなたのキスで救われた
    強い人間に見えるけど
    好きな人には逆らえなくて
    抱きしめられると
    もう何も言えなくなった

    だけどいつしか私の知らないもう一人のあなたがあらわれた
    口にするのはでたらめばかりのウソつきで
    いつも私を追い詰めて、傷つけそして苦しめた

    でも私は涙の雨に火をつけて、その苦しみを燃やして消した
    その顔にふれた時、雨のように涙があふれたけど
    その涙はみんな燃やした

    あなたを想う涙だったから一緒にベッドにいる時は
    ずっとそうしていたかった 眼を閉じて
    あなたをそばに感じながらずっとこのままと祈ってた
    一緒にいるだけ、それだけでいい
    だって私の知らないもう一人のあなたは
    口を開けばでたらめばかりのウソつきで
    いつも私を追い詰めて、傷つけそして苦しめたから

    だから私は涙の雨に火をつけて、その苦しみを燃やして消した
    その顔にふれた時、雨のように涙があふれたけど
    その涙はみんな燃やした
    あなたに向けた涙だったから
    涙の雨に火をつけて
    その炎で2人の思い出も燃やしてしまった

    恋が終ったら何かを失うもの
    だってそれは過去のこと
    もう終ったことだから

    朝、ドアの前で目覚めることもある
    あの時の気持ちが今でもまだ残ってるから
    もうすっかり過去のことなのに
    今でも気づくとあなたの姿を探してる
    あの時、涙の雨に火をつけて、その苦しみを燃やして消した
    その顔にふれた時、雨のように涙があふれたけど
    その時の涙はみんな燃やした
    あなたのための涙だったから
    涙の雨に火をつけて
    その炎で思い出も燃やしてしまった

    恋が終ったら何かを失うもの
    だってそれは過去のこと
    もう終ったことだから
    だから苦しみは燃やして
    消してしまおう
    跡形もなく


    「雨に火をつける」という発想はなかなか浮かばない。アデルは詩人。音楽的才能はとてもうらやましいぐらい。美しい声は、きっとボリュームある体から出てくるんですね。でも、男運は悪いみたいだし.........わたしが心配することでもないけど。
    梅雨の季節、涙の雨に火をつけて、苦しみを燃やし尽くしたい。






    哲女のメモ 3

    #1
    最近の自然災害を総罰と主張したブログがありましたが、社会背景や科学進歩を無視した、日蓮系宗教特有のものと思いました。自分の宗教を強く意識し独善的に中心におきながら、社会現象を関連付けて納得させようとする強引さは、宗教の本質からもっともかけ離れた通俗的精神であると考えます。たとえば、現在では、台風発生のメカニズムを理解することは一般にも可能ですが、時代を遡るほど、社会的影響を及ぼす強風に、悪を退治する神風や、社会の不正義を糾弾する龍の仕業などと表現し納得させました。人間の理解を越えたものに、願望を反映した解釈が当然の行為として行われたのです。そうしなければ社会不安が広がり、社会自体が危機に陥る危険性もありました。

    法華経においても社会背景を無視した解釈は成り立たないと考えます。正しい理解は法華経の成立年代の確定から始めなければなりませんが、今となっては無理があるでしょう。そもそも原始仏典が伝える以上のこと、ブッダ本人の詳細すら伝説のなかにあり、はっきりしないのですから、経典の成立年代や過程を知ることは至難なことです。
    法華経の一貫した思想・万人に仏性を認める普遍性は、ブッダの聡明なる覚りから得られた思想でしょう。しかし、滅後の布教は困難を極めたと推測します。この高度な理論は難信難解であり、ほとんど民衆に受け入れられることはなかったのではないかと思います。社会に受け入れられなければ、仏法は廃れ弘通することはありません。ブッダの思想を伝える正しい法であっても、正統な人によって正しく伝えられなければ廃棄されるのです。仏教発祥国であるインドでは次第に廃れていきました。
    法華経の成立過程において、多くの信仰者の強い使命感があったことは想像にかたくありません。末法に伝えるための命を惜しまない覚悟は菩薩のものですが、その過酷な弘教現場での工夫は知力を尽くしたものでした。嘱累品以下の六品はその苦渋の選択です。人気アイドルなみの知名度があった観音菩薩を、法華経のテーマに関係なく一つのショーウインドー、ディスプレーとして取り入れました。デパートに行ったら最初にショーウインドーを覗くあの心理です。アジアの広範な地域に流布している観音信仰は、日本でも宗派に関係なく取り入れられています。

    わたしの祖母は創価に入会する前、曹洞宗のお寺に石で作られた観音菩薩を熱心に信仰しておりました。そのお寺には、地蔵菩薩も何体も飾っており、時季になると念仏を唱えるお年寄りの集まりみたいなものもあったということです。曹洞宗に念仏とは奇妙ですね。どんな仏でも功徳があるということらしいのですが、宗派に関係なく広く信仰された代表が、観音菩薩でしょう。このような認知度が高かった観音信仰を一つの仲立ち役にして、法華経に導こうとした意図が感じられますが、おかげで法華経も無事に中国、日本へと伝わりました。迹化の仏・菩薩が多くの人の信仰対象になり、芸術の対象にもなりましたが、地涌の菩薩、不軽菩薩の仏像や絵画がないのは、つまりは一般に信仰されなかったからです。法華経の高度な内容はなかなか理解されなかったということは、法華経の性格をよく表しているでしょう。法はあっても、その内容をわかりやすく説く聖人が必要だったのです。
    安楽行品は前記の六品と同じ意図が感じられますが、一般大衆を対象にするというよりも、バラモンや社会的地位の上層にある人々への見苦しい諂いのように感じます。見方によっては、それだけ法華経弘教に対する批判や反対が大きかったということかもしれません。
    安楽行品の不平等思想を克服するためには、日蓮の誕生まで待たなければなりませんでした。カースト(階級制度)外の最下層の人々にも平等に仏性が保証され、むしろそのような人々こそ社会変革の主体者であることを訴えました。自らの生涯をかけて苦難と戦った日蓮は、法華経という法の普遍性を現実に証明した菩薩の姿に他なりません。「旃陀羅が子」という象徴的言葉は、人権宣言に等しいと思います。安楽行品という難題があればこそ、日蓮の御生涯は波乱に満ちた人生になりました。誰も克服できなかった矛盾を生命実相という根源から解決することができたのです。しかも振る舞いと哲学の研鑽を通して体系づけられた理論は、非難と迫害という過酷なプロセスが必要不可欠でした。

    日蓮が人権意識すらない時代に、「自分はいったい何者なのか」という哲学上の根本命題に行き当たったのも、安楽行品への懐疑から始まったのではないかと考えることもできます。
    「御義口伝」での「安楽行品」の所説の項目は、少なく、短い。しかし、法華経を根本としながら法華経の矛盾を克服し、法に従う立場から法に新たな解釈を示し、主体的に運用活用していく立場へと転じていったのが、日蓮の御本仏としての自覚なのではないでしょうか。この主体性こそ、中道主義であり、人間主義ではないでしょうか。それぞれの人生の主体者であれと、日蓮は説いているのです。そうしなければ不平等思想を乗り越えることはできないと訴えているように思います。

    法華経弘通に関係した人々は、崇高な法と危害を加えられる苦しみ、虐げられる悲しみを、同時に味わいました。安楽行品を含めて、法華経は信仰者の財産です。一貫した思想に貫かれた部分と、そこから逸脱する部分と、すべてが財産です。わたしには、法華経弘通を使命としながら懸命に戦った信仰者の姿が思い浮かびます。
    翻訳者である鳩摩羅什は、とても優れた天才です。翻訳しながらきっと、矛盾にも気づいていたことでしょう。それでもその矛盾に対して積極的に挑もうとしなかったのは、それなりの理由があったのだろうと推測します。社会情勢や環境も関係があると思いますが、末法に出現が予言されていた地涌の菩薩を信じていたのだと考えます。単なる学術・学問的な追求以上に、法華経は人間の生き方そのものの原則と可能性が説かれている聖典であり、混乱する現代に最も必要なプロブレムソリューションだと思う。主要な思想哲学をカバーした良心的で我慢強い本質的議論が待ち望まれます。
    生命への尊厳が失われている不平等思想は、常に国家間や人間自身の争いの元凶となりました。またあらゆる差別問題の原因として、マグマのように生命の底流を形作るものと認識も可能でしょう。釈尊が指摘した心に突き刺さった一本の矢です。差異へのこだわりは法華経を貫く一つのテーマですが、これほどの難題は、そもそも法華経製作者がはじめから意図していたことかもしれません。仏智は計り知れません。

    いろいろご意見はあると思います。二千年前も今も、人間はそんなに変化していないように思います。人間の好戦的な資質傾向、獣的な攻撃心は、きっと生存本能に関係しているのでないでしょうか。その意味で、法華経に説かれた「九界即仏界」は重要な内容を含んでいると思います。また日蓮の振る舞いを、ヒューマニズムの観点から深く理解する必要があるでしょう。その行動は慈愛に溢れていたことを、一人ひとりの信仰者が自らのこととして、切実に、敬虔に想像しなければならないでしょう。


    #2
    修羅と餓鬼が乗り移ったような彼らは、自分の歴史を作り始めたばかりで、そのうえ唯物論者であることから、千年、二千年の伝統と歴史であろうと、同じ発音でも大違いの唯仏論者に敬意をはらうはずはなかった。その後、文化大革命によって貴重な仏典が失われるその不吉な前兆であることを気づく者はいなかった。こうして人類史に刻まれる不幸は始まったのです。そしてその悲惨な歴史の中心にチベットを必死に守ろうとするわずか15才の少年が立ち向かおうとしていたのです。彼は観音菩薩の生まれ変りと信じられていましたが、再誕説はどの宗教にも見られる、人間の願望を表す教義です。
    妙法では、地湧の菩薩の再誕が一般化しています。誇大妄想の人間は精神の肥大化を招き、菩薩のなかの菩薩と拡大解釈し、ブッタや宗祖に比肩するなどと病的な飛躍を躊躇しません。人間って特別視されることを望むものなんですね。特殊性を単純化する手法は、煩雑さを好まない大衆に受け入れやすくなりますが、およそ宗教の普遍的な部分は、難解であることを覚悟しなければなりません。観音菩薩も地湧の菩薩も法を体現しており、理想像として人々に訴えるからでしょうか。法華経にそう説かれているからです。観音もまた同じでしょうか。そういうわたしも、地湧の菩薩を最も身近な信仰者の理想として信じている一人です。世界を救済する人物は菩薩よりおりません。
    他者に対しても、自分のことでも、苦しまない菩薩はおりません。菩薩は弱肉強食の動物ではなく、本来は他者思いの人間だからです。


    #3
    先生は中国の多くの大学から名誉称号をいただいていますが、国家的あるいは行政の承認と意図があることは自明のこと。先生は求めてくる者を拒否しません。来る者は拒まずです。少しでも可能性があるなら、人道を説き倫理を説かれるのですが、弾圧に自ら手を汚しているに等しい中国の知識人に、その真意が正しく伝わるのか、また創価のなかでも、師弟を連呼する者が先生の苦衷のご心境を理解しているのか、わたしははなはだ懐疑的です。先生が人権侵害に悩まないはずがないではありませんか。名誉ほど、盲目的に追随する者を惑わすものはありませんし、執着の対象になるものもありません。
    大聖人は極貧のなかで生涯を貫かれました。現世安穏・後生善処が法華経の功徳なら、また妙法の実証には経済的豊かさも含まれているのに、どうして大聖人は食も衣服も最低の必需品にも困窮する大変なご一生をおくられたのでしょうか。如説修行抄では、精神の富める者こそ人間王者であることを説き、身をもってその功徳を示されました。
    創価の幹部も清貧であっていただきたいと思う。私利私欲がないからこそ尊敬される。お金が集まるところには必ず問題が起き、その清貧とはかけはなれた使い道と、問題を隠蔽しようとして新たな問題が起きるのです。

    コスモポリタンであることを先生は訴えますが、どこかの国家に属しないコスモポリタンなど有りえないし、真の国際人も国家の繁栄を願ってこそ、その根拠となる行動動機を得ることができるのではないでしょうか。
    明確な国家観を持たない日本人は国家の消滅さえ願う。今こそ保守思想の、保守たる所以を明示しなければならない。今まで何度、ヒューマニズムという着飾った言葉で、多数派の専制による民主主義の堕落を許してきたことでしょう。

    女子部のとき、部討議で忘れられない思い出があります。こちらから要請したわけでもないのに、区幹部がおしかけてきました。わたしのような部長は心もとないと思われたのかもしれません。立正安国論を通し指導されましたが、国家観を持たない人間が聖教ダイジェストのような中身を得意気にお話しても、感銘を与える話にはほど遠い。政治イデオロギーとしての妙法、宗教と思想の混乱が国家存亡の危機を招きよせていることを子細に検討しているのに、また国家諌暁の現代的意義を問うことなしに信仰者の政治参加もありえないのに、さらに人道的立場から批判すべき多くの問題を抱えているにもかかわらず、ただ選挙目当ての友好活動の強調など、政治改革への厳しい展望を持たない女子部幹部はただ単に組織の流れに沿う一歯車。公明党の政策の是非を検討しないで自分の考えも持たない愚かしい姿です。
    討議の前提となる政治課題さえ知らない。先生が創立者であるというだけで、支援動機として十分なのでしょうか。それならば、なぜ党を罵る反逆者が出てくるのでしょうか。これは反逆者個人の問題では済まされないと思う。理想を誓った党自体の団結に齟齬をきたしている問題だと思います。理念が剥落したために、凡庸なヒューマニズムをとりあえず掲げるという始末です。

    アメリカイズムという理想国家を押しつけようとした憲法。戦後、平和と軍隊という最も重要なテーマに口を閉ざしてきた国民の無責任さは、わたしたちの世代で解消したい。自衛隊がなければ国を守れない現状を厳しく認識すべきです。その自衛隊に武器を取るなと命令するのが憲法と政治家、それに国民。こんなバカバカしい憲法はありません。
    わたしは、日和見主義の公明党の政策に支援根拠を失いつつあります。個人もそうですが、中小企業にとって増税がどれほど負担になるか、わかっているのでしょうか。社会保障一体改革といってもどれも簡単にいかない難しい問題ばかり。また民意に従うなら議員定数の大幅な削減を実現すること。中選挙区制に戻すことを含めた選挙制度改革。原発再稼働は安全基準をクリアしたら可能なのでしょうか。どのように決着をつけるつもりでいるのでしょうか。福祉重視の政党なら、生活インフラとしての電力についても、発想の根本的転換が必要なのではないでしょうか。
    また震災ガレキ処理も自治体住民の反対で受け入れがスムーズに進んでいませんが、こういうときこそチーム3000の出番なのではないでしょうか。各自治体の公明議員が連携し市民の意見を積極的に取り上げて、自治体の個々の都合を乗り越えた住民密着の前向きな提案作りを推進できるのではないでしょうか。どうか各地で公明議員に訴えていただきたいと思います。

    具体的に政治の何を変えたいのか、国のあるべき未来を思い描けない、勉強不足のリーダーは創価のリーダーの名を汚すだけ。
    政治と宗教が表裏のように不可分のものとしてあった時代に、宗教者の言動はつまり政治改革者の言動でもありました。大聖人への弾圧は、他宗の讒言があったとしても政治的なものです。政治改革なくして安国はありえないとするイデオロギーは、すべての法を包括する妙法の一側面であったとしても喝破できない重大問題が含まれていました。宗教の使命である民衆救済は、政治を含めた社会の変革なくしてありえないことを立正安国論では説いているのです。当然、為政者に寄生虫のように張りついて生血を吸っている宗教者は、心のなかは空洞、権威と名誉、名聞名利しかありません。仏教精神からかけ離れた俗物的栄誉よりありません。現在の中国の知識人と同じ姿です。国家批判は体制批判ということであり、国家に飼い慣らされた人間に正しい主張ができるはずがない。

    信仰に純粋であろうとする気持ちは皆同じです。ご本尊さまと信仰者の関係は一体不二です。労苦を厭わず献身し、他者の喜びを自分の喜びとして人生の在りようを覚悟した人々の集まりであったからこそ創価は発展したのですから、先生が教えてくれたその尊い創価精神の実現をともどもに果たしていきたいと思います。
    改革は漸進的なものです。しかし、わたしのように組織で一人浮いている人間を、道理と哲学によって諭すわけではなく、ただけむたがれている存在は悲しいというよりありません。でも、社会の縮図である創価は、不変の部分と、時代に即した変化を受け入れなければならない部分もあることを考えていただきたいと思うのです。

    まず、マイ聖教はやめていただきたいこと。選挙支援のあり方、方法論としての有益性、無益性を考えていただきたいこと。競争心を煽りかねない成果追随主義、信仰には相応しくない成果主義で、何がワルいと開きなおる人がいて困惑しますが、組織の目標設定が必然的にノルマ化する過程を改善していただきたいこと、拡大はノルマではないのです。信仰は自発的なもの、組織の上意下達に関連して、会員の自由裁量の範囲を拡大していただきたいこと。未入会の方々を含めた中立的で自由な仏教研究会を永続的に地域に設置していただきたいこと、などです。
    現状肯定がさまざまな問題を生むのです。悪しきドグマに絡められる病理は、少なくとも現状追認の改革意欲の減少からもたらされるのです。
    科学的統計的な現状認識が問題を想起させる資料になるかもしれません。しかし、統監ひとつとっても一般会員が知り得ない項目があります。創価の執行部はきっと、危機感いっぱいだと推測します。したがって、一般会員が黙って打ち出しをこなしてくれさえすれば、当分問題は顕在化することはないと踏んでいるでしょう。消極的な組織運営というところですが、こういうときに限って、創価のためという大義名分のもと、信仰者の行動を天秤にかけて信仰の価値基準をあやふやにするような問題が噴出するのです。
    強力なリーダー不在ということもあります。演説と指導はイキイキとした面白さと教訓にあふれていなければなりませんが、本幹での原田会長の原稿を読むような話しっぷりにあまり感動することはありませんし、会館を出ればすぐ忘れてしまうほど印象がうすい。

    戦後アメリカン・フリーダムとして導入された個人民主主義は、わたしたちの体質同然に染みついています。その弊害を指摘することは簡単ではありませんが、社会を動かすのが良くも悪くも世論であるのと同様に、創価を変えるのも多数の会員の意見でしょう。その意味でも、積極的に主体的に、信仰活動が豊かな人間関係を作り出すことができるように、知的ならびに倫理的なアプローチと多様な人材獲得に、実践的経験を積み重ねていきたいと決意しています。組織はどこまでも人です。その原則を忘れないことを願うばかりです。


    #4
    わたしは、性格的に大雑把なところがあります。もちろん自分でもよく自覚しています。
    実際的な数値や事例をあげて検証する理科的能力に劣っています。言ってみれば、一般的にいわれる女性脳が不得意とする論理的分析を苦手とし、感情論に陥りかねない表現になってしまいます。
    でも自分で言うのも気が引けるのですが、直観的感覚に優れているように思えるのです。また細部より全体、それなりにコーディネートされて雰囲気がでていればOKというこだわりのなさ。ですから、家事その他、家庭的なことはできるだけ手を抜かないようにしています。料理教室にも根気よく通っていますし...
    どうでもいいことですね。

    わたしなりに論理を尽くしお話しても、まず支援ありきという姿勢には変化がありません。そんな頑固な壁の前で、いつも挫けそうになってしまいます。
    はっきり申し上げれば、組織疲労というものがあれば、現在創価はその過程に落ち込みつつあると感じられますが、いずれ誰の目にもあきらかになるような形で、問題は顕在化すると考えています。まず人材が不足します。
    粘り強い改革意識を継続しなければならないと、自ら戒めています。
    公明議員さんは他党の議員さんに比較すれば、どの方も献身的に行動し、支援に値する方ばかりと思います。それと政策の善し悪しは別問題です。


    #5
    以前、ゲーテの言葉を引用し、記事を書いたことがあるのですが、意味がわからなくて、自分なりに勝手に解釈しました。
    『古典的なものは健康であり、ロマン的なものは病的である』
    その意味するところは、(エッカーマン「ゲーテとの対話」)のなかにありました。

    『古典的なものを私は健全なものと呼び、ロマン的なものを病的と呼ぶ。この意味でニーベルンゲン(中世ドイツの叙事詩)はホメロスと同様、古典的である。なぜなら、両者とも健全で、力があるから。新しいものの大部分は、新しいからロマン的なのではなく、弱々しく病的で、実際むしばまれているから、ロマン的なのだ。古いものは古いから古典的なのではなく、強く生き生きとして、快活で、健康だから、古典的なのである。そういう性質に従って、古典的なものとロマン的なものとを区別すれば、事は容易に明らかになるだろう』
    ルネサンスは古典への復興運動ですが、内容はロマン的な復興運動でした。ゲーテは古典を健康と比喩していますが、病んだ体が健康を取り戻していく過程と考えれば、ルネサンスは新古典主義とも言うべきものです。
    人間はそもそも病むものです。また社会も病みながら不幸を生産します。精神が健康的だった時代は、空想のなかにしか存在しないように思います。時代はいつも病んでいたのです。これからも病み続けるでしょう。そして夢をみればみるほどロマン的になり、不健康な精神が謳歌する。現代も間違いなく病んでいます。

    最近は音楽の神に誓った言葉を忘れつつあります。天使のキラキラスティックも見えません。音楽が示唆を与えてくれないのです。それでも相変わらず、ロック娘のプライドは持ち続けています。
    ずっと前に買ったCDで、マリア・カラスのアリア集のなかに、グノーの「ファウスト」からの「トゥーレの王~宝石の歌」が入っていました。ワルツ風のアリアは、今のわたしにぴったりかもしれません。恋って美しい。悲しい恋も楽しい恋も。

    衝動買いしたオートマティック・ラヴレターの初CD。日本語タイトルは「堕天使の告白」。ちょっと過激なフレーズ。まだマイナーな存在ですけど、ストレートな感情表現でキャッチーな雰囲気はあります。次作に期待。
    ブルース系では、お馴染みのデレク・トラックス・バンドのライヴ盤と、シンガーの奥さんと共演した新アルバムの2枚。
    そのなかの一曲にこんな詩がありました。

    『もう私のチャンスは過ぎ去ってしまったの?
    それとも人に与えることができるようになるの?
    自分を縛るこの鎖を捨て去って
    新しい生き方を見つけだせるの?
    簡単なはずはない
    友達がいればそれで十分
    そしてあなたが傍にいてくれたら
    私はきっとやり直せるはず
    決して手放したりしない
    決してあきらめたりしない』


    グッドな歌詞よね。

    ゲーテの言葉を引用すると、
    『多数というものよりしゃくにさわるものはない。なぜなら、多数を構成しているものは、少数の有力な先進者のほかには、大勢順応のならず者と、同化される弱者と、自分の欲することさえ全然わからないでくっついて来る大衆とであるから』(格言と反省)

    わたしより辛辣ですね。すっきりしました。


    #6
    日本は物質的に豊かな国でありながら、先進諸国のなかでもきわめて幸福実感が乏しい国です。統計的な調査には国民性があらわれ、一概に断定できませんが、無縁社会、自殺者数などがクローズアップされると、決して住みよい社会でないことは誰もが感じるところです。政治の混迷は、さらに日本の未来を暗くするでしょう。そのような状況を作っているのは公明をふくめた政治家です。

    逆境に耐え克服していくことが創価精神の一つのテーマですが、わざわざ作らなくてもよい逆境を作り、挑戦して行こうと考えるのもおかしなことですし、またその逆境を克服していくことが幸福につながると主張するのも矛盾した論理です。
    政治が国民のためにならないのなら反対するのは当然で、公明党がどのような政策を掲げようと、とにかく支援ありきとは目的喪失の危険な兆候と見なしても間違いありません。組織の中心者は、単に扇動者と揶揄されてもおかしくない。逆境にいること自体に意義を見出だしているような詭弁がまかり通っては、人間主義の名が廃れます。
    幹部のなかには、苦しまぎれに、困難だから支援も功徳があると強調する人もいますが、わざわざ困難を作るなと言いたい。
    行動は目的地があって始めて行動たる意味があるのであり、目的を持たない行動などありえません。

    わたしたちは、妙法という新しいルールにしたがって、新しい信仰や道徳、言語を得ました。そのルールが究極のものであれば、未来永劫、そのルールの流布に務めなければならない宿命にあります。
    同苦と利他はイコールで結ばれるアクティブな行動です。わたしたちはその核心となる慈悲の精神を新しいルールで知ることができました
    しかし、いつでも、その実践集団に従うことが、信仰者のとるべき態度ではないと考えます。幹部のなかには自分の意見を検討もしないで、上にいる人間がそう言うのだから間違いがないだろうと、他人に依存して疑問に思わないご立派な方もおられますが、村社会で染みついた判断習慣が形を変えて支配しているのであり、先生が最も嫌う主体性の喪失にも気づきません。
    信仰に柔順であることの大切さは先生がご指導されていることですが、すべてに適用されるわけではありません。他人に判断を任せる人間を軽蔑します。創価も信仰があるだけの烏合の衆です。愚かなる大衆の一員です。
    自分の本心を決して言わない人が、創価のなかにもいる。疑問を感じていても争うことなく平穏に、波風が立たないように、集団規律を重視しているのでしょう。一見大人のような態度に見えますが、はっきり言えば、ただ覚悟がないだけ。信仰は戦い。自分を主張せずして、正義とは言えません。
    壮年部はいつも婦人部の影に隠れて、今大事なときなのに声をあげようとしない。いくじない、小心者のあつまりです。何か言ったら脅し半分で忠告を受ける。創価はヤクザ集団ではないのです。戦中時代、思想統制をうけたとき、どれだけ勇気ある人物が立ちあがったことでしょうか。

    わたしは、宗教組織は完璧でなければならないと言っているのではありません。不完全な人間が集合して組織するわけですので、完璧であろうはずがありません。しかし、先生がそうしたように、改革努力は怠ってならないと考えるのです。
    師弟一体と言うとき、すでにわたしたちは師の思いに違背しています。師は創価を何より大切にしてきたからこそ、改革努力を惜しまなかった。幸福集団を実現するために、人々を啓発し教育し、そのような夢のような理想を追い求めてきた民衆指導者はかつていなかったでしょう。組織は幸福という花が咲き乱れてこそ意味があり、そのためには絶えず土壌改良を心しなければならないと思います。先生はその土壌改良を推進してきた開拓者なのだと思います。
    問題は上も下もなく会員同士で共有すること。そのためには、必要な情報は開示し問題点を提示しなければなりません。創価の歴史認識に誤謬や隠蔽といった悪質な企てを加えることなく、学術的にも耐えられる一定の検証過程を、辛い思いをしてもやらなければなりません。

    SGIは人類の希望です。その堅固な仏教思想と人間主義という慈悲の普遍思想は、先生のたゆまない知的格闘と実践から生みだされたと、わたしは承知しています。
    わたしたちがすべきでないこと、それは責任回避です。人格向上のかずかずのトライアルのなかで、組織運営だけでなく、組織創設に比すべき新たな挑戦――それが責任感の証ではないでしょうか。問題克服は共同でやり遂げてこそ発展につながります。妙法で言う団結とは、会員の連帯に他なりません。
    自分に甘く、判断を拒否するような人間は、使い物にならないガラクタに等しい。また感動する心があれば信仰の質も向上するのであり、いくら堅固な論争を経た結論であっても、生活の場で生かされない思想や判断など、タンスの奥にしまわれた陶器のように、まったく実生活に寄与するものではない。彼らは自己懐疑、つまり自分の判断が正しいかどうか、の作業を放棄した自堕落な種族であって、社会に害を与える似非信仰者です。妙法を保ち続けていても、大聖人がおっしゃったように、地獄への足どりを停めない人々です。
    言い過ぎでしょうか?
    わたしはまた、軽善の罪を犯してしまったかしら。

    妥協するな、孤高を歩め!
    「一人立て」とはそういう意味ではないでしょうか。
    釈尊も大聖人も、そういうご生涯だったのではないでしょうか。


    #7
    法華経は実際に釈尊が説いた経典なのかという、以前からの問題があります。「法華経の智慧」だったかどうか忘れましたが、先生も話題にしていたと思いますが、そのときの先生は、誰が説こうと内容の素晴らしさに変わりはないという答えだったように思います。わたしもそう思います。大乗仏教は原点回帰運動でもありましたが、平等思想、悟りの達成と意味、信仰と行為のあり方など原始仏教の思想と共通するところが多い。つまり誰が説いたかではなく、何が説かれているかということが大切と思います。
    日本で大乗非仏説をとなえた人として有名なのは、江戸時代の富永仲基ですが、このような独創的見解はその後の仏教界では無視されました。今となってみればその研究は正しかったと言えるのですが、この説を認めれば仏教界に大変な影響があることはあきらかですから無視され続けたのです。

    大聖人は独自の法華経解釈を行いました。例えば、「自我偈」の「自我得仏来」から「速成就仏身」の最初と最後の文字をとり、「自身」を説いたものと言われましたが、「自我得仏来」は「我れ仏を得て自り来」(われ仏を得てよりこのかた)と読みくだすのです。漢文では「自」は「~より」と読み「自分自身」という意味の「自」ではありません。もちろん大聖人は十分承知のうえであらたな解釈を試みたのでしょうし、それが法華経の精神と合致していたことは言うまでもありません。つまり大雑把に敷衍していえば、文底の解釈とは大聖人の独自の解釈をいうのであり、人間そのもの、生命そのものに焦点を当てた解釈と言えます。
    また「我実成仏已来」の「成」について、「成とは開く義なり」とあります。「成る」ではなく「開く」と解釈しています。現在の自己を否定し別の自己に成るという自己否定ではなく、自己はそのままに自己の可能性を開きあらわすという自己肯定の意味です。仏に成るのではなく、仏の命を開きあらわすのです。そのことを知る人を覚者というのであり、ブッダが「目覚めた人」と説いた人格と同義と考えます。

    仏教にかぎらず宗教の歴史は、解釈と深化の歴史です。
    後五百歳と説き、仏滅後2000年を経過したのち、始めてその深化が完成すると予言した叡智は、三世を見通す究極の仏智という他ありません。すでにその時点で、仏教というカテゴリーを超えているのです。解釈と深化という視点から後五百歳の時代区分を見れば、とても興味深い世界歴史観が確立されるのではないでしょうか。そして、その最先端に先生の人間主義も位置付けられると思います。
    「在在諸仏土常与師倶生」という契約の言葉(「我等無始より已来師弟の契約有りけるか」御書p1342)から直観するのは、人間主義思想の実践者は現在も未来も精神の勝利を目指す仏弟子だということです。師弟の因縁はとても堅固です。
    わたしは先生の人間主義こそ、歴史の重い試練と検証、研究に耐える思想と確信しております。伝統の仏教思想の樹木の枝に美しく華開いた蕾と比喩してもよいでしょう。そして人類の希望となる新思想です。でも、SGIとしてのグローバルな広がりのなかで、まず最初に主張すべきは善悪のけじめです。自由を侵害する独裁主義思想は断固として否定しなければなりません。

    信仰が自由であるように、活動も自由です。非活であっても功徳は十分過ぎるほどあるでしょうし、その喜びのなかで使命を感じ、自分なりに考え方と生き方を変えていければ、人生も有意義なものになるのではないでしょうか。法の流布へのいろいろな貢献のしかたがあって当然と考えます。
    組織を守るということは、そのなかで自己実現をはかろうと努力している会員を守るということです。そのためには会員の気持ちを素直に受けとめる必要があるでしょう。無理をしていないか、怨嫉をしていないか、何か疑問に思っていないか。言葉を選び適切に直言する度胸と勇気が多くの共感を得る行動と思います。思慮深い慎重な判断と行動をお願いします。


    #8
    人間主義を理解するキーワードは、「非暴力」と「調和」だと思います。
    広宣流布を破壊する仏敵には決して妥協してはならないと、先生は機会あるごとにご指導されております。日蓮の排他主義がときどき問題になりますが、法華経では悪人への厳しい指弾とともに成仏の可能性を随所で説いています。安楽行品ではじょじょに誘引する摂受が説かれ、常不軽菩薩品では妥協しない折伏が説かれ、方便品で生命の尊厳性を説いたにもかかわらず、陀羅尼品では法華経無理解者に対して排他的な言説が見られます。提婆達多には未来成仏を約束し、不軽菩薩に迫害を加えた男女にも更生の可能性を示しました。大聖人は「願わくは我を損する国主等をば、最初にこれを導かん」(顕仏未来記)と言われています。法の流布を懐疑的に攻撃してくる敵対者を最初に救済すると断言されています。
    大聖人は戦う寛容主義者でした。大聖人が戦ったのは、法華経誹謗の非寛容な思想に対してです。念仏の他力主義は人間の主体性を失わせ、真言の神秘主義は人間とかけ離れた超人的仏が中心であり、禅宗は日常性を軽視する傾向があり、律宗の戒律主義は他律主義であり、法華経から見れば、それぞれが人間性の可能性を否定する思想でした。このような思想は形を変えて現在でも生きているのであり、それが根源的な悪であることは、わたしたちが十分学んだところです。生命の自在さを本源的に否定する反人間主義といってもよい思想への戦いは、創価のリーダーに継承されています。
    人間主義は自由自在にすべてを生かす智慧であり、変化と多様性を硬直的にとらえる思想ではありません。現実に即し、自他ともに幸福を実現していく実践的方法です。
    自分を捨てて他人に献身するのではなく、また自分の幸福を優先する独善やエゴイズムでもなく、他者共存と生命の全体性を信じる中道思想。人間の主体性の理想を説く中道こそ人間主義の要です。先生のすべてを生かす哲学と実践は、実は社会のあらゆる分野において、パラダイム転換を迫っているのです。
    先生が多くの称賛とともに無理解の非難にさらされるのは、すべてを生かす全体性という思想の巨大さを理解できないためと思われます。悪も善も、否定も肯定も、差別も平等も、排他でもなく包括主義でもなく、妙も不妙も調和していく、それが法華経の真髄であり、人間主義の真の姿です。

    組織批判をして、それを最後まで貫き、組織を新しく作りあげた人は皆無です。でも無駄ではありません。法華経においてどのような意見でも無駄ということないのです。


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    For Hong Kong
    Eternal Eclipse - "Forgotten Odes"


       Tracklist :
        00:00 The Game Is Afoot - Neal Acree
        02:33 Dirt and Fire - Piotr Musial
        04:43 Revolution - Piotr Musial
        07:10 Dawn of Faith - Thomas-Adam Habuda
        10:22 Born from Ashes - Axl Rosenberg

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