菩提の慧火現前するなり

    #1
    わたしが望むのは、例えば次のような御書の一節です。
    『信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし』
    (信じる心が完全で正しければ、万人を平等に救済する仏の智慧の水を受けて乾くことがない)
    わたしにとっては、涙が出てきそうな励ましです。「一人になっても仏だけは裏切らない」という確信こそ、信仰のエッセンス、智慧の泉と名づけられるもの。
    苦悩の治療法は、八正道と六波羅蜜に示されています。
    「自分自身をつねに磨く」(カント)という人格完成への行動規範は、仏教創始の時代からすでに準備されているのです。なんという偉大な智慧でしょうか。
    『煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり』
    大聖人の命のなかには、美しくて、偉大な智慧の言葉が、火のように燃え盛っていたのですね。


    #2
    B・ウィルソン博士との対談「社会と宗教」から引用します。
    ガンジー主義への評価ということで意見を交わしています。

    博士は、ガンジーは、厳格な自己抑制の徳の故に、偉大であると論じられております。
    何かといえば権利を主張し、譲ることをしらない現代人には、耳の痛い話ですね。

    『そうした自制心強き指導者に感服し、褒めそやす人々が、必ずしも彼らと同じ高潔な倫理的勇気や、卓越した振る舞いを示せるとは、もちろんかぎりません。いわゆる"聖者"は、人々にとって真似のできる手本となるよりも、むしろ、当初、本人が標榜した価値基準とあらゆる点で対立する行動のスローガンに、その名前が利用されることのほうが多いのです。
    私にとってガンジーが重要なのは、彼の政治的・道徳的抗議の技術面での模範としてよりも、むしろ、ある種の、最高度に洗練された自己抑制の模範としてです。自己の感情の束縛を断ち切るためには、質の高い自己抑制と同時に、高度な自己批判や自己反省を必要とします。
    それはまた、人々に、人間関係の行為においても不可欠であり、あらゆる社会的発展のためにも不可欠なものとして、秩序と礼儀と他人への尊敬が必要であることを、認識するよう求めます。
    自分にとって最も深い関心事を、じっと冷静に見つめることができるということ、また、自分の力の限りの努力さえも評価されずに終わってしまうかもしれない立場に、わが身を晒せるような寛容、忍耐、内的資質を身につけること――これらは、きわめて高度に洗練されていることを示すものです。
    感情を交えずに、安定感のある、粘り強い、しかも、一歩も譲らない態度で取り組んでいくということは、倫理的振る舞いの頂点を極めたものといえましょう。人間の最も奥深い感情が掻き乱されるときにどう振る舞うかが、私たちがどこまで洗練されているかの尺度なのです』


    現代の複雑な社会では、それぞれが異なった宗教的信条を持っています。勇ましく宗教を否定する者でも否定の神を信奉しているのです。また、同一宗教の信仰者であっても、ひとりひとり真剣さが相違します。生命も、人生も、幸福へのアプローチも、あたり前のことですが自己責任です。最も主体的な衝動に左右される信仰も言うまでもないことです。
    聡明でなければ、洗練されていなければ、どうしてリーダーになれましょうか。
    自己批判、自己反省という誠実さと、透徹した知性と信仰が求められているのです。


    #3
    自己抑制、あるいは制御とは信仰から得られる功徳なのではないでしょうか。祈りもまた、自分で自分を治癒するセルフメディケーションの延長線上にあります。誰もが悩みを抱え、もがきながら、自己を見つめて内面の変革を遂げようと努力している。心の闇を照らすのは、法という光があってのことです。
    最近わたしは、命ほど傷つきやすいものはないのだと理解しました。
    その反面、命ほど変化に耐えられる強靱なものはないと気づきました。
    だから何か問題があっても、なんとかなるものよ~、というどうでもよい、お手軽な結論に至ります。楽観的に考えるのがわたしの強み。人生修正主義というのかしら。負けても雄々しく再起すればよいのだと考えるようになりました。


    #4
    組織は容器のようなものです。人間が作ったこのような器には完璧なものはありません。穴があいていたり歪んでいたりするものです。それを是正していく役目は、それを感じた人がやっていくべきであり、他から強制できるものではありません。
    会員の皆さまは純粋で、ある意味、信仰の模範的実践者です。わたしが大局を見ましょうと言ったのは、細部にこだわったところで何も得るところがなければ、解決策にもならないと考えるからです。個人の問題はそれぞれの個人の境涯範囲内での選択肢があるでしょう。
    信仰はまったく個人的行為から逸脱することはありませんが、組織は集団であるために手段の細部に至るまで目を配らなければなりません。組織運営は本来、運営者とその支持者の慈悲心の賜物でなければならない。


    #5
    根気がなにより大切です。その根気は一生持続しなければならないかもしれません。
    自分勝手で自己中心的な他者を引き受けることは、菩薩の経典と言われる法華経の一貫したテーマです。そこで説かれる菩薩は、他者に対し自己犠牲も厭わない献身的奉仕者です。
    他者、しいては世界と自分の関係ほど重要なものはありませんが、同時に他者は、倫理も、冷静なコミュニケーションも通じない頑強な不信者でもあるのです。
    そもそも釈尊という仏自体が、わたしたち信仰者が出会う最初の他者ではないでしょうか。またブッダ自身、菩提樹の下で悟りを得たとき、その法を説くべきかどうか躊躇しました。他者とは、自分を危機に陥れる、容易ならざる存在であることに気づいていたからです。歴史を振り返ってみれば、このような他者が世界を混乱に導いてきました。
    菩提樹下のシーンは、「仏とは人間なのだ」ということがよくわかるエピソードですが、その後の歴史のなかで神秘化されたブッダに作り変えられ、おかげで法もまた変質いたしました。「悟りとは迷うことだ」ということも逆説的に言えます。

    他者を受け入れることは簡単ではありません。しかし仏を受け入れることはその普遍性も受け入れることであり、会員の皆さまが意識しようとしまいと、日常のなかで実践されていることです。つまり、他者の仏性に執拗に語りかける行為は、信仰者であるが故です。またこれは、仏法を学ぶうえでも最も基本的な知識であり認識でしょう。「無上宝聚・不求自得」とも「以信代慧」とも言います。「宝聚」とは普遍的智慧のことです。コミュニケーション、対話、議論、そのような人間関係のなかに慈愛や敬意があること。

    人間は人間の間にしか生きられません。悩み多き人間が、悩み多き人間を抱擁していく。慈悲とは遠い地平線にあるものではありません。哀切を克服しようとするアクティブな意思のなかで育まれる感情ではないでしょうか。同苦と言われる感情移入は技術でもなければ、悲しみや慰みに溺れることでもありません。強い自己があって可能なのです。

    創価が創価であるという独自性と思想は、会員という人間と人間の間にあります。信仰のエッセンスも目的も会員のなかで発酵し熟成されて深まっていくのではないでしょうか。法華経を味に例えて醍醐味というではありませんか。深い味ほど複雑な味がするものです。人間も同じと思います。苦労や悲しみの体験がスパイスですね。未熟なわたしが言うことではありませんが......


    #6
    何事にも意味があります。意味のないことなどありません。人間の間には、そのような貴重で、かけがえない意味するものがゴロゴロ存在していても、手に取り注意深く観察し、その因果を考える人がどれだけいるというのでしょうか。思想とはその意味を知ることであり、人間と人間、自分と他者の関係を学ぶことなのです。崩壊している関係を再び組み立てなおすことなのです。
    人間主義は、冷静にまわりを見渡し熱く行動をおこすことでもありますが、決して人間をバカにし見下すことではありません。
    会員を愛し、会員を抱きしめて、会員のために行動をおこし、共に春爛漫の幸せを願う、豊かな情感を持った信仰者に成長していきたい。わたしが願うのは、人間として当たり前の、他者のなかに自分の夢を実現していく勇敢なる人格です。先生もそのようにお考えになり、そのような人生を歩まれたのではないでしょうか。


    #7
    多数の定義があることを承知しながら概説的に言えば、ヒューマニズムは絶対的実在としての神の存在に対立した人間中心の考え方であると思います。崇高な人間の善性と可能性を信じた思想は、現代社会の通底をなす部分と考えますが、その反面、多くの矛盾があらわになりその克服に限界を感じているのが思想界の現状であると思います。
    肯定的な人間性の反対は、エゴイズムに代表される獣性ですが、このことについてトインビー対談では次のようにあります。

    『池田:欲望の克服は、たしかに困難なことです。しかし、人間はあえてこの困難な努力をしなければ、その内面にある"獣性"によって支配されてしまうでしょう。
    私は、それらの高等宗教が"大我"の正体を明らかにできなかった点に、実践方法のむずかしさを生み出した原因があると考えます。つまり、自我を克服するといっても、では何によって克服するのか、克服される自我が欲望や感情などであることはわかるにしても、克服する主体たる自我とは一体何か、そしてその自我と"大我"とはどう違うのか―――ということです。
    仏法では、克服の主体である自我は"大我"と同じであり、したがって、悟ってみれば、自我はたんに"大我"の断片ではなく、それはそのまま"大我"それ自体であると説いているのです。ただし、これはもちろん"仏界"という究極の悟りであり、それは内心の自覚であって、行動のうえでは"大我"の部分であることには変わりありません。したがって、自我の生き方は、博士のおっしゃるように、常に自己を宇宙に捧げようとすることでなければなりません。
    私は真実の宗教の役割とは、人間に欲望超克の力と勇気を与え、その"人間性"を開発することにあると思います。そして、この宗教は、人間をしてその内奥にある"生命"という実在を覚知させ、さらにそれを宇宙生命へと融合させていく力をもっていなければならないと思います。

    トインビー:実際には、"小我"も"大我"も同じです。そのゆえに、私は"汝はそれなり"が真理だと信ずるのです。しかし、この"汝はそれなり"というのは、たんなる知的な命題にしかすぎません。したがって、それは倫理的行動によって、まぎれもない真実であることが証明されるまでは、たんに真実であることの可能性を含んでいるにすぎないのです。しかも、この行動は"小我"によって実践されなければなりません。
    "小我"は、その貪欲性のゆえに"大我"から疎外されています。この貪欲性は、"小我"が、自らの目的のために宇宙を利用しようとする欲望です。貪欲の反対が慈悲です。この慈悲を実践することによって、"小我"は、現実において"大我"になることができるのです』


    小我、大我についてはいろいろ異論があるところですが、インド宗教の相互に影響しあった伝統的教義と解釈しておきます。この概念は一般的に西洋哲学にも見られるものです。普遍的自我としての大我、個人的自我としての小我、その融合と対立は神と人間、宗教的直観と理性などの問題の主要な部分と理解にかかわります。

    時空を超越し、また現実のなかで風に舞うように翻弄される自我という厄介なものは、誰にも実在するのであり、自意識あるいは潜在的意識の核になるものです。人間は良心や貪欲、善と悪の葛藤などを通じた根本的な倫理道徳の実行者ですが、悪性の力、魔性の欲望への誘惑に惑わされ、まるで簡単に生命の火を吹き消すように侵略されるもの。そのような負のエネルギーに支配されて煩悩に苦しんでいる姿を、他人に求めるまでもなく、切実な経験として、また自覚しながら、日々自己のなかに、わたしたちは見ています。自らをコントロールすること(ご本尊さまに向かい祈りを捧げる時間は、冷静でありながら活動的な本来の自分自身を取り戻す行為だということ。困難に負けない自我の発揚ということです)―――信仰のありがたさは、実は高度な精神的エネルギーの向上と高揚ということであり、わたしたちが実践している妙法への強い求道は、獣性克服の最良の方法なのです。

    このトインビー対談では、このあと、"愛と慈悲の実践"というテーマで語られていますが、このなかで、慈善(チャリティー)についてその心理的側面を指摘しています。そして、愛の概念に意味を与えるのが慈悲であり、その慈悲の本体は "抜苦与楽" であること、その前提となる同苦は優れた知性の発達によって可能であること、他者の痛みへの同調は高度な(人間的な)知能の働きによる創造力であることなど。
    この対談で述べられていることは、その過程の心理的成熟をあらわすプロトタイプかもしれませんが、このような考察は、真面目な創価の会員なら毎日のように挫折しながら再決意し、失意を味わいながら奮起し、祈りの一念に人生を懸けて、真剣に考えていることではないでしょうか。
    人間主義といっても、わたしたちが他者を思い想像しながら、同時に自らの人生の充実のために努力している行為そのものが、そうなのだと思います。
    また、慈善と偽善は紙一重です。慈善活動を金銭や物品の施しというのであれば、精神的な献身行為も広い意味で慈善活動となるのではないでしょうか。わたしたちの学会活動も慈善活動と言えなくもありません。宗教団体の布教や啓蒙は社会に対しての責任行為です。一人よがりの独善になってはいけないと常に戒めなければならないと考えます。


    #8
    信仰とは個人的動機のなかで始まるものです。他者の働きかけがあったとしても、それはキッカケに過ぎず、最後は個人の自由な判断に委ねられます。つまり、信仰から得られる利益は主観的観察と体験で、その有益性が認められるのだと考えますが、組織の一員になると、自由な判断が不自由さのなかでの限定された自由さに形を変えます。このことに何の不足も不自然さも感じないのですが、これは利己的欲求が社会的欲求に変化するためと思われます。わたしたちは個人の都合を越えて社会的使命を果たそうと努力します。
    信仰教育は組織の一員であることを絶えず自覚させるシステムです。わたしたちは指導者から見れば無知な子ども同然なのですから仕方ありません。
    座談会は自己啓発の場であり自己教育の場です。勝利や戦いなどと耳にタコができるぐらい教育されると、まるで戦場のような雰囲気に置かれます。聖教ブロパガンダが徹底しています。座談会は成果発表の場でないのは当然ですし、日々悩みを抱えて必死になってご本尊さまの前に座っている会員に哲学的裏づけと確信を与える場なのではないでしょうか。

    先生の目が届かなくなったせいか、惰性の低レベルの幹部が多くなりました。日々更新が信仰なら、時代を先取りし、リーダー像も更新していかなければなりません。


    #9
    フロイトの「幻想の未来」(光文社)のなかで、翻訳者の解説文に次のようにありました。
    『フロイトは強迫神経症の患者のさまざまな儀礼と、キリスト教のミサにおける細かな決まりには共通性があることに注目する。どちらにも「中止したときの道徳的不安、他のすべての行為からの完全な隔離、そして細かなことを行う小心さ」がみられるのである。そして意味がないとみえることも、「その細部にいたるまで意味にみちており、人格の重要な関心に奉仕」していると考えるのである。
    この強迫神経症の患者たちがこうした儀礼を反復する背景にあるのは罪悪感である。そして患者はその罪悪感を意識することができないのである。しかしある欲望が知覚されると、患者はその欲望に疚(やま)しさを感じ、そのために懲罰を期待し、「いつまで待ち構えている期待不安」に襲われ、その不安を打ち消すために儀礼が反復されるのである。「欲望の絶え間ない圧迫に拮抗するために、つねに新たな心的な努力が要求される。儀式と強迫行為は、一部は欲望の防衛のために、一部は予期される不幸にたいする防衛に向かうものとして成立する」のである。(中略)
    人間の「良心」はこうした神罰にたいする「期待不安」から生まれるのだとすると、宗教的な人間の信心深さは、強迫神経症の患者の儀礼における細心さと共通した性格をもつことになる。「神経症は個人的な宗教性であり、宗教は普遍的な強迫神経症」であると結論できるとフロイトは考えるのである』


    フロイトが対象とする宗教は伝統的なキリスト教ですが、「期待不安」と「不幸の防衛」という心理はよく理解できます。わたしたちにもよく似た心象があるからです。
    理性的宗教批判は必要です。特に人間の行動は教義から逸脱しながら気づかないことがあるからです。深く考える会員を、先生は期待されているのではないでしょうか。そして行為の正当性を自己反省できる人間を育てるために、先生の多くの対話があったのではないでしょうか。

    King Drum - Brand X Music

       Choice of Anna
         Tracklist :
         00:00 King Drum - Brand X Music
         03:16 Unstoppable - E.S. Posthumus


    mrran-0125.jpg

    Against the Wind

    faf-01.jpg19世紀末、アイルランドの農家の主が地主へのデモに巻き込まれ死亡する。敵を討つべく単身屋敷に乗り込む無鉄砲な息子だが、そこで美しい娘と出会い、いつしか二人は自らの土地を手にいれるためすべてを捨て遠い国へ旅立つ。開拓時代のアメリカを舞台に、移民してきた二人の愛と夢を美しい映像と共に詩的豊かに描き、忘れられたアメリカン・ドリームを彷彿させるサクセス・ロマン。

    監督 ロン・ハワード
    出演 トム・クルーズ、ニコール・キッドマン
    音楽 ジョン・ウィリアムズ
    主題歌 “Book of Days”: enya

    世間知らずの勝気なお嬢様が、一途に逞しく自分の人生を切り開いていく。ニコール・キッドマン演ずるシャノンの姿にわたしの姿を重ね合わせて、くよくよしたって始まらない、何とかなるさと励まされる。 痛快に生きよう、ぶち当たって考えればいいさ。それが若者の特権ではないかしらとドリーミンな妄想をいだいて、安定志向と戦わない傍観者的ひ弱な精神などくそくらえ(汚い言葉でお許しを!)などと意気込む。

    サクセス・ストーリーがそう簡単に手に入るわけではないことはよく承知しています。でも諦めないで夢を追いかけたほうが、ずっ~とおもしろいに違いない。お金なんて何とかなるさ。ボロを着てても一向にかまわない。女だってガッツなスピリットが1番大切なのだ。自分の人生は自分でつかむ。誰かを頼りにしたってなんになろう。

    でもそんな強がりを言いながら、世間に無知なわたしは自分のことを理解してくれる恋人が傍にいてくれたら、100%信頼してくれる人がいてくれたら、どんなに心強いことだろうと思うのです。苦労も厭わないのにと考えるのです。踊り子だってやるわよ。

    女の幸せは男次第か?  男の幸せは女次第か?  いずれにしろ良き伴侶に出会うことが人生の方向を半ば決定づけると、パンク娘を自認するわたしでさえ知っているのです。
    わたしのダーリンはわたしに相応しい人なのだろうか?  感情に溺れてはなりませんね。

    父親のLPコレクションを漁っていたら、1枚のアルバムが目に留まりました。
    奔馬の如く/ボブ・シーガー&ザ・シルバー・バレット・バンド。



    野生のきらめきと美しさで駆ける駿馬。たて髪が風に揺れ、飛沫を上げて走り抜ける姿が水面に映り、生き生きとした一瞬をとらえている。ポエティカルな想像力を刺激するアルバム・ジャケットに惹かれたのです。

    <遥かなる大地へ>のラスト・シーンのランドレースを思い出します。

    ボブ・シーガー11枚目のアルバム。80年のリリース。68年にデヴューし、すでに確固としたキャリアを積んでいます。アルバムは美しいジャケとともに彼のディスコグラフィーのなかで一つのピークを示すものです。

    アメリカン・ロックンロールの王道をいく風格と男くさい哀愁がブレンドされ、わたしの瞳はホの字になるわ。ワイルドでシンプル、落ち着いていて静かな佇まい。でも内面は熱く、深い味わいを感じさせます。カントリーティストのロックンロールが大好き!

    このアルバムにはゲストとしてグレン・フライ、ドン・ヘンリー、ティモシー・シュミットなどのイーグルスの面々、ドクター・ジョンなどが参加しています。この顔ぶれを見ただけで彼の音楽性と立つ位置がわかるというものです。

    79年リリースのイーグルス<ロング・ラン>から
    最初のスマッシュ・ヒットとなった<ハートエイク・トゥナイト/Heartache Tonight>はドン・ヘンリー、グレン・フライ、J.D.サウザーとの共作です。



    Bob Seger & the Silver Bullet Band<Against the Wind>
    タイトル・ナンバー。名曲です。

    Seems like yesterday
    まるで昨日のように思えるけど
    But it was long ago
    もう遠い昔のこと
    Janie was lovely, she was the queen of my nights
    ジェニー、素敵だったよ 彼女は夜の女王だった
    There in the darkness with the radio playing low
    暗闇のなかに低く流れるラジオの音
    And the secrets that we shared
    二人で分かち合った秘密
    The mountains that we moved
    いくつもの山を越え
    Caught like a wildfire out of control
    止まることのない山火事のように
    Till there was nothing left to burn and nothing left to prove
    すべてを燃えつくし すべてを確かめ合った
    And I remember what she said to me
    そしてお前は俺に誓ったね
    How she swore that it never would end
    二人の愛には終わりはないと
    I remember how she held me oh so tight
    そうして強く抱きしめてくれた
    Wish I didn't know now what I didn't know then
    あの頃知らなかったことを 今も知らないままでいたかった
    Against the wind
    風に向かって
    We were running against the wind
    風に向かって 俺たちは走った
    We were young and strong, we were running
    若くて強かった二人
    Against the wind
    風に向かって 走っていた
    ❖make a free translation : Anna


    音楽は峰をくだってきた清らかな風です
    何も思わず無心にその風に身をまかせると
    心が洗われたように清々しくなるのです
    確かな大地に立ったように答が得られるのです

    音楽は迷えるわたしの道標なのです
    時には流れに逆らう川魚のように
    冷たい風に向かい羽ばたく小鳥のように

    努力しても虚しくなるときもあるけど
    信じていたいだけ
    どこまでも可能性を
    いつまでもあきらめないで

    希望の一曲は何にもまして
    心のなかで
    反響するように
    共鳴するように響きわたり

    わたしに祝福のメッセージを与えてくれる
    わたしは勇気のメッセージを受けとるわ

    ロックの光に導かれて
    森に分け入って迷っても

    わたしはきっと見つける
    わたしが望んだときめきを

    人生ってスリルな毎日ね
    新しいことをやろうと思えば
    苦労もあるけど何もやらないよりマシよ

    満たされず  心の飢餓にあえいで  逡巡し
    悩んで  喚いて  言葉を失っても

    あなたが教えてくれた
    新しい始まりの場所へ

    あなたは心の広い人だってことはよくわかっていたわ
    だから
    風に向かって立ち
    風に向かって進んで
    太陽のように輝くロック・スピリットに出会うまで
    わたしは旅を続ける


    ルーツをたどれば、ロックンロールはアメリカを中心とした音楽文化。世界中の音楽が相対化されていくワールド・ミュージックの時代に、ロックンロールはポップ・ミュージックの一形態に過ぎないのかもしれないが、閉じた世界ではなく、異種交配を重ね、ミックスを経ながら進化してきました。価値観を書き換える音楽こそ、ロックンロールを形容するにふさわしい捉え方でしょう。リズムは深く民族の伝統音楽に根付いている。
    多様性としての折衷はルーツを遡りながら、複雑な混血主義を反映し、バラエティーに富む感情表現として拡大と変容を続けていくと考えるのです。ロックの躍動は、文化衝突のエネルギーを増大しつつ、ワールド・ミュージックの融合に向かって、そのスピードを加速し、未来になだれ込んでいくに違いありません。新しい音楽の、サウンド、バンドの形態、テクノロジー、ヴィジョン、すべてが深化のなかで、アートの主権を獲得していくことを念願します。ロックを補完していくものはロックよりありません。
    わたしを補完するものはわたしよりなく、あなたを補完し元気づけるものは、あなたの強い心よりありません。

    2010年11月25日の「アンナの日記」から)


    mrran-0125.jpg

    Identity Crisis

    高速道路を150kmのスピードで走り抜ける。
    ほとんど追い越し車線を風のように飛ぶ疾走感は、適度な緊張感をともなってパンクな気分になる。
    サスペンションと足回りが安心感を与え、シートに心地良い振動が伝わってきて、ハンドルを握った手が汗ばむ。過去を振り切り未来を追いかけるレーサーのように、流れるような風景も目に入らず、次々と変わる前方のパノラマに視点を合わす。
    走れ! 飛ばせ! 追いつけ! 限界を越えろ!
    わたしは “The Music” を聴きながら更にアクセルを踏みこんだ。シュールでサイケなグルーヴが陶酔を誘う。
    SAに立ち寄って胸の動悸を静める。
    「どうしてあんなにスピードを出すの? 恐くないの?」
    「恐怖なんて何でもない。音楽のせいよ」

    大胆不敵な名前を冠したザ・ミュージック。
    <彼らにできたんだもの、わたしにも何かができるわ>

    やりたいことをやり、認められ、成功する。
    これほど幸せなことはこの世にありません。
    天職が勝手に自分を見つけ出してくれて、導くように音楽の殿堂に連れて行ってくれる。
    ザ・ミュージックという名前は、怖いもの知らずの10代の若者が考えた無邪気で幼稚な、それでも彼らには十分意味ある名前だった。

    themusic.jpgThe Music / STRENGTH IN NUMBERS>Jun.2008
    1. Strength in Numbers
    2. Spike
    3. Drugs
    4. Idle
    5. Left Side
               6. Fire
               7. Get Through It
               8. Vision
               9. Last One
               10. No Weapon Sharper Than Will
               11. Cold Blooded
               12. Inconceivable Odds





    「ただ走り抜けたって何も残らないわ」
    「青春って素晴らしいけど、何をやりたいのかよく考えて進まないとね」
    「難しい言葉で言えばアイデンティティーを実現すること。誰でも青春にある者はアイデンティティー・クライシスを抱え込んでいるわ。特に男子はね」
    「ザ・ミュージックの音を聴けば分かる。彼らも越えようとしたのね。必死で。でも重たいわ、彼らの音!」
    「それはきっと悩みの深さなのね。彼らは好きなようにやったって言ってるけど、彼ら自身も意識していない深い層の無意識レベルのこと」

    ライヴに行けば分かるでしょ?
    ロックってダンス・ミュージックだってこと。
    グルーヴ感が高揚を促して、制約から解き放された自分の魂が見える瞬間のこと。
    ギター・サウンドは魔力。ダンス・ミュージックと絡んで大衆性を獲得する。
    ダンス・ミュージック=大衆性、ギター・サウンド=普遍性という単純な線引きはできませんが、彼らの新しさは青春の疾走感をアレンジした無作為のようなサウンド。
    青春の奔放さに溢れていること。同時に重さも引きずっていること。
    彼らはその後自分たちが立つポジションを確認するために、内面的な迷いを乗り越えるために、4年間というインターバルが必要だったのでしょう。

    3rdアルバムは彼らがやっと方向性を見出して、ノロノロと再び走り出したことを示しているのでしょうか?
    それは車がなめらかなエンジン音を取り戻したということなのでしょうか?
    でもわたしの敏感なアンテナは、まだ厳しい山道で立往生している姿が見える。雲に隠れた遠くの山並みを眺めながらため息をついてる姿が見える。まだ何かはわからないけれど、手が届きそうで届かない何ものかが、行く手を阻んでいるのが見える。

    ★アイデンティティー・クライシス 【identity crisis】 大辞泉
    自己喪失。若者に多くみられる自己同一性の喪失。「自分は何なのか」「自分にはこの社会で生きていく能力があるのか」という疑問にぶつかり、心理的な危機状況に陥ること。

    彼らのサウンドはロックの王道を行く筋肉と骨格、ヴィジョンとセンスを備えているとわたしには感じられます。使い捨てティッシュのような音楽が溢れている現在、それは価値観を喪失し、移ろいやすい現代人に訴えかける魂の響きが込められているようにも感じられるのです。でもまだ十分にその魅力を発揮しているとは言えません。
    でも、でも、でも、もうすぐ見えるよ!諦めないで進めば、晴れ渡った視界のなかで多くの峰々が光り輝き、先人たちも同じように道を越えてきたのだということがわかるよ!
    あなたたちは悩んだ分だけ成長し、偉大な跡を受け継ぐ十分な資格を得るわ。そのときはきっと見えるでしょう。帰るべき精神の故郷に本物のロックの宮殿がそびえ建っているのが!

    デビュー・シングル(Take The Long Road And Walk It)で困難な道を歩むことを、すでに歌っているというのは奇妙というよりありません。それにまだ10代だというのになんと大人びているのでしょう。ストレートでありながら音のスケールが半端じゃありません。UKロックシーンに新しいエネルギーが蘇ったと誰もが思ったはずです。
    <何かを伝えたい>そんな直情的なグルーヴがこのバンドからは感じられます。ファッション化したロックに真っ向から挑む真面目さが感じられるのです。

    1曲を作ることは大変なことに相違ない。
    アーティストはアグレッシブな格闘のなかに自己の存在意義をかけて挑戦しているのです。青春はまばゆいばかりに輝き続けるとは限らない。誰もが悩み苦しんでいる。生きることは目的を見つけ出すこと。彼らは頂上を目指し危険な登攀を試みている。わたしはクライシスを克服し、誰もが待ち望んだロックの正しき道を歩んでくれると確信する。拳を握りしめたくなるようなエキサイティングなサウンドがアルバムからほとばしり現れるのを・・・・・わたしは待っています。


    この記事は2010年7月21日にブログに書いたものです。
    今聴いても決して古さを感じないサウンドですが、結局、グループは4枚のアルバムで解散しました。問題提起のまま解決できずに、やがて感性をサビつかせる。ありがちなルート選択に少しがっかりですが、よく考えてみれば誰もが似たような人生を歩んでも疑問に感じない鈍感さが見られます。もちろん自分もそのクライシスを抱えていて、もがきあがいていることを自覚しています。
    多かれ少なかれ、程度差はあっても危機を抱えているのが人生です。青春の無謀さ、一途さは、これを乗り越える積極的果敢さとでも言えるのかもしれませんが、苦痛や限界に立ち向かう勇気は熟練や経験とは無関係のような気がします。


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    The End of The World

    美しい窓には、rose-001.jpg
    美しい朝の光がさしこむように、
    美しい心には、美しい愛の光がさしこむ。
    そして幸せの光がおとずれる。

    わたしはあなたのなかに、美しい心を見る。
    姿勢を正して歩く姿は、瞳が輝き、活き活きとしています。
    波のように障害をのりこえていく柔軟な思考。
    諦めないということは賢明さのあらわれ。
    大きな包容力と優しさに包まれて、安心感と安らぎを得る。
    わたしがあなたのためにできることは、深い愛情と眼差しでこたえること。

    楽しいことばかりではないわ。
    つらいことがあって、
    ふたりをつなぐ鎖を断ち切る何者かがいたとしても、
    わたしは信じている、あなたの帰りを。
    遠くからでも見ることができる、屋根の上に大きな旗を掲げて、
    あなたが帰るべき家があることを。

    愛とは聖なるもの。
    精神の高揚をうながすもの。
    楚々として力強く、
    二度と得ることができないふたりの魂の共鳴。愚かであってはならない。
    目先のことだけにとらわれる、浅はかな人間には、幸せの階段をのぼることができない。
    指の間から乾いた砂が零れ落ちるように、幸せをつかむことができない。
    川に浮かんだ木の葉のように、哀れな人生は願い下げよ。
    わたしは何も恐れていないわ。
    たとえ順風が吹かなくても、
    舵をきって船長の役割をはたし、自分の人生行路をのりきっていくだけ。
    荒波を越えていくだけ。

    清らかな泉のように
    強い鋼のように
    なめらかな陶器のように
    透明な水晶のように
    美しい魂を持った自分を発見したい。


    ❖❖❖


    なぜ太陽はまだ輝いているの
    なぜ波は浜辺に打ち寄せるの
    知らないのね
    これが世界の終わりだってことを
    あなたがもう愛してくれないから
    世界の終わりだってことを

    なぜ鳥たちはまだ歌っているの
    なぜ星は空で輝いているの
    知らないのね
    これが世界の終わりだってことを
    あなたの愛を失ったとき
    世界は終わったということを

    朝、目が覚めて思う
    なぜすべて前と同じなの
    わからない わからない
    どうやっていつものように
    暮らしが続いていくのか

    なぜ私の胸はまだドキドキしたままなの
    なぜ私のこの目は泣いているの
    知らないのね
    これが世界の終わりだってことを
    あなたが別れを告げたとき
    これで世界が終わったことを





    感傷的な詩句、メロディーが胸をうち、涙が溢れそうになる。
    わたしは失恋らしい失恋をしたことがないので、というより、恋愛経験自体が少ないから、青春の淡い恋に憬れたりする心理も影響しているのかもしれない。
    俗に言う世紀の恋って大変そう。でも、小さい恋にも小さい恋の大変さがあって、純な想いを貫くみたいな健気さは、それなりにエネルギーが必要なことだと思う。でも結局、次第に打算的になり、汚れていくのよね。
    先のことを考えると不安な気持ちもないわけでもない。清楚で美しい心であらねばならないとの考えが、いつもわたしのなかにあります。その理想とする先に、以前は奥様がおられたのは女子部であれば当然のことだったかもしれない。どのような人なのか、知らないからこそ想像力を働かせ、古風でひかえめな生き方にあこがれるのかもしれない。


    イマジネーションを刺激されて作った詞


    The End of The World
     この世の果てまで Ⅱ

    世界が終わったとしても
    私はまた悲しい心で旅立つわ
    波うち際に立って
    花輪を投げて
    別れを告げるわ
    悲しい私に別れを告げるわ

    世界が終わったとしても
    私はまた思い出といっしょに旅立つわ
    あなたのことは忘れない
    ときめいたことも
    夢見たことも
    傷ついた私に別れを告げるわ

    世界が終わったとしても
    私はいつもの笑顔で旅立つわ
    緑の野に立って
    空の雲に
    旅立ちを告げるわ
    新しい私と旅立ちを告げるわ


    ❖❖❖

    あなたに出会ったときのこと
    小春日和の新鮮な風が
    背を押すように吹いて
    どういうわけか
    なつかしさを感じました

    はじめての出会いなのに
    忘れられない面影が
    ろうそくの火のように
    心に灯ったようでした

    その思いは陽炎のように
    はかなく消えるものではなく
    記憶のなかの閉ざされていた一頁を
    開いた出会いだったのかも知れません

    わたしは思ったのです

    幾世代もの古びた書架から蘇って
    再び書き加える二人の物語なのではないかと
    わたしたちは何度も出会い
    別れをくりかえし
    光が朝を呼び寄せるように
    魂が魂を呼び寄せて
    目では見ることはできない
    過去からの約束だったのではないかと

    時代が変わっても
    男女の思いは同じ
    愛し愛されるこだまのような響きは
    誰が用意したものでもなく
    二人が求め望んだ
    切なる願いであったのだと
    過去世からの偽りのない誓いなのだと

    だからわたしは思うのです

    これから二人が
    山を越え谷を越えて行かねばならないとしたら
    試練があるとしたら
    かたく手をつなぎ
    ともに涙するいたわりと
    ともに喜ぶ思いやりがあれば
    勇者のようにまた
    戦いの記念碑を作ることができると


    ❖❖❖

    野に咲く花のように
    清楚な美しさが目を引く
    過酷な四季の天候にも耐える
    雑草のような強さ
    あなたの残像が
    麗しい風景のなかで微笑んで
    わたしを見つめています

    あなたに出会ったときから変わりました
    いろいろと考えることも多くなりました
    うわついた気持ちではなく
    愛することや
    生きることの意味を
    しっかりと考えることができました

    美しい愛のフィギュア
    理想を求める努力と知性がその形を決める
    愛の深まりのプロトコル
    人によってそのプロセスは百人百様

    愛は万人に与えられた宝
    蘇生の水
    嵐の海の灯台
    不幸の星に向かって射る狩人の矢

    わたしは白い綿毛のように純になって
    ひたすらに愛することが
    旅のキップを手にすることだと気がつきました

    わたしは今いる地平から
    大鷲のように自由に
    愛の大空に飛翔するのだと
    束縛のない心の自由に
    満たされています

    愛がすべてを変えたのです


    If You Love Me (Really Love Me) - Brenda Lee




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    香港クーデター

    過去のことなど、よほどのことがないかぎりすぐ忘れてしまう現代人の特徴的性分と傾向性は、アップデートを拒絶した脳のメモリー領域の飽和状態を示しているのではないかと考えたりもします。一年前のこともすっかり忘れているので、問題の分別も経過の見透しもありません。もちろん、自己批判を兼ねた自己評価です。

    一年前の11月15日のロイターニュースは、アメリカの強い決意を示す内容だった。
    『ペンス米副大統領は15日、シンガポールでの東南アジア諸国連合(ASEAN)の各国首脳との会談冒頭で、インド太平洋地域において「帝国や侵略」は存在しないとの考えを示した。
    ペンス氏は、インド太平洋地域で大国と同様に小規模の国も繁栄し、主権を確保し、それぞれの価値に自信を持ち、共に成長することができると強調。中国に言及はしなかったものの「インド太平洋地域で帝国や侵略が存在する余地はないという認識でわれわれは一致している」と述べた。
    米国はこのビジョンを推進するため、インフラ部門への民間投資後押しや自由かつ公平で相互的な貿易の促進などを行っていると説明した。
    また、「北朝鮮に対する圧力」や「航行や飛行の自由を支持するための取り組み」、デジタル世界における東南アジア諸国の国境、領土、領海の安全保障を確保するための米国の決意を強調した。
    ペンス氏は10月初旬に行った講演で、対中強硬姿勢を鮮明にし、トランプ政権を弱体化させるような中国の「悪意のある」動きや南シナ海における無謀な軍事行動を強く批判した』


    アメリカのこの地域へのインフラ支援は、600億ドルの用意があることを表明。借金漬けにしながら乗っ取りを企てるような中国の支援のあり方を批判した。
    ペンス氏は一月前の10月に、トランプ政権の基本的な外交姿勢ともいうべき内容の演説を行っていますが、この重要な演説が大統領ではなく、冷静なペンス氏であることに救いがあるように思えます。平和への調停役にこそ、アメリカらしい自信をうかがい知ることができます。自国第一主義は、超大国には相応しくありません。誤解を生む派手なパフォーマンスのトランプ大統領ばかり目立ちますが、中国の覇権主義こそ、ナショナリズムにつながる自国第一主義というべきでしょう。人間をコントロールし、管理し牛耳り、君臨し従属させる非人間主義が、中国社会主義・共産党独裁の隠された正体です。

    「中国の人間主義」について、正確な洞察もなく手放しに賛嘆している池田先生の香港中文大学の講演があります。返還前の92年のことですが、返還後を期待してのことは言うまでもありません。理想主義者の言葉が、今では虚しく響いてきます。
    創価のHP(https://www.sokanet.jp/download/koen/03.pdf)にも掲載されているので誰でも読むことができますが、香港の混乱が第二の天安門事件に発展している現在においては、講演できない内容でもあります。

    一国二制度について、朝日新聞デジタルでは次のように説明されております。
    香港返還と一国二制度(2017年07月02日 朝刊)
    英国はアヘン戦争(1840〜42年)で清に勝って以降、段階的に香港を統治下に置き、1898年に香港全域を植民地とした。1980年代に本格化した返還交渉を経て英中両国は84年に共同声明に調印し、97年に返還することで合意した。香港では返還から50年間は、資本主義など中国本土とは異なる経済・政治制度を維持することが約束され、外交と国防をのぞく「高度な自治」が認められた。香港の「憲没にあたる香港基本法には、中国本土では制約される言論・報道・出版の自由、集会やデモの自由、信仰の自由などが明記されている』

    50年の半分も経っておりませんが、制度維持の約束は破られています。中国らしい虚偽と謀略テクニックですが、やがて信仰の自由も制限されることは疑いがありません。中国本土では宗教は弾圧対象です。
    聖教に、7月には遼寧省大連市・大連海事大学に「池田大作研究センター」、10月には河北省保定市・河北大学に「池田大作研究所」が設立されたことが報道されました。
    中国の池田研究は、体制への従順と忠誠を証明するひとつの公式な認可のようなものです。政権に逆らいませんという宣言のようなもの。人権を標榜し目的とする団体が非人権の思想に参意を示してもおかしいと考えない矛盾があります。人間なら二律背反の分裂状態に陥りますが、我慢強い仏法者は平常です。本音と建前が違うということでは、創価と共産ファシズムは相似なのかもしれません。表と裏が違えば二重人格です。思想がまったく相違するのに、行動はアナロジー。おもしろい研究課題ですね。

    92年の、香港中文大学での講演『中国的人間主義の伝統』では、最高客員教授の栄誉を授賞。現在の大学は混乱のただ中にありますが、最高の栄誉を受けた人は何も語ろうとしません。民主主義を見捨てております。法華経の精神である、「他者への貢献と尽力」を、「影響力の純粋な行使と活用」を良心的に試みることすらしないのはどうしてでしょう。
    法華経は行動哲学です。観念ではありません。他者の苦悩を共有することなのではないでしょうか。香港には多くの会員がいることでしょう。どうしてその混乱を見て見ぬ振りができるのでしょうか。一つしかない最高の栄誉を授賞しているのに、混乱時の行動は冷淡そのものとは、マキシマムとミニマムの折れ線グラフを見ているようです。
    口を開けば絵に書いた総論ばかりで、切実な個別の問題には関与しないという非リアリスト。生老病死は総論で語れるほどの大雑把な概念的問題ではなく、個々で相違するバリエーション豊かな人生問題なのですから、宗教家は夢想家ではなく実際家でなくてはならない。
    『湾岸戦争の勃発で明け、ソ連邦の消滅で幕を閉じた昨年は、世界史が、文字どおり、地殻変動ともいうべき大揺れを演じた1年でありました。よく"筋書きのないドラマ"といわれますが、ここ数年の国際情勢の動きは、どんな練達な歴史家の眼をもってしても、読みきれなかったにちがいありません。
    とりわけ、69年間にわたって続いてきたソ連邦のあっけない消滅は、ファシズムとコミュニズム(共産主義)という2つのイデオロギーが暴走した20世紀の幕引きを、何か象徴しているように思えてなりません。激動する時流は、私どもに改めて厳しく問いかけております。一体、イデオロギーのための人間なのか、人間のためのイデオロギーなのか――と』

    四半世紀前はソ連崩壊でも、今は中国というファシズムとコミュニズムの暴風雨が荒れ狂っております。コミュニズムは信仰否定の狂気です。尊厳に対する拒絶への強い意志です。
    香港が今後どのようになっていくのか、ニューズウィーク日本版の記事には適切な問題提起がある。
    『中国の指導層が基本法を廃止し、香港の指導層を直接任命し、司法の独立性を弱めまたは排除し、市民の自由を制限し、政治的な反対運動を抑え込もうとしていることは確かなようだ。つまり中国政府は、1997年に香港が中国に返還されたときに鄧小平が50年間維持すると約束した「一国二制度」モデルを事実上放棄することを決めたのだ』
    『中国は2003年、香港の立法会に国家安全保障法案を可決させようとした。しかし50万人を超える住民がデモに参加し、法案を撤回に追い込んだ。2012年には香港の歴史教科書を変更して「愛国教育」を導入しようとする試みが親と学生の抵抗に遭い、政府は引き下がった。
    中国政府が香港を完全に支配しようとすれば、さらに多くの、そしてさらに大規模な暴力が展開されるだろう。街は混乱を極め、統治が不可能になる』
    「香港の完全支配を目指す中国を、破滅的な展開が待っている」CHINA’S RISKY ENDGAME IN HONG KONG

    中文大学での講演は「中庸」という極めて中国的な儒教倫理に、仏教的概念である「中道」と重ね合わせ、人間主義なるものの正統性を強調している。中国に媚びを売る商売上手な性格は、創価の本質と断言しても言い過ぎではありません。
    第二の天安門事件で世界中から総スカンを食らった中国に、真っ先にご機嫌取りを敢行したのは池田先生です。事件で弾圧され殺された側に同情するわけでなく、その人権虐待と強圧的な政治に対して世界から批難される側を擁護する姿勢は、とても仏法者とは思えませんが、何より人間主義を標榜する法華経の精神を冒涜し誹謗している。
    天安門事件の翌年、1990年の第7次訪問では北京大学で講演しましたが、古代ギリシャのプラトンの教育法と対比しながら、それを上回るものとして中国伝統の教育法を普遍的なものとして絶賛しています。わたしですら読んでいて赤面しますが、それを聞いていた北京大学関係者は頭をあげられなかったことでしょう。その後の共産主義の愛国教育はまともではない。国民の意識を偏らせ、蝕み、その後の世界への悪影響は計り知れない。なにしろ、億単位の人間がいっせいに同じ方向に手を上げ、その手で石を投げ、口汚く罵り、破壊活動に邁進するのですから。政府も批判されると決り文句のように「内政干渉だ」と非常事態宣言のように最後の切り札をちらつかせる。この先通行禁止だから誰も通るなという独裁特有のジコチュー満タンの戦車に乗り込んで、道路の真ん中を塞ぎ砲身の照準を合わせている。

    『現在の中国に必要なのは軍事力強化ではない。環境問題をはじめ、少数民族の人権抑圧の是正、膨大な数に上る極貧層の救済、急激に進んでいる高齢化への対応、失速する経済の立て直し。優先すべきなのは、こうした困難な国内問題の解決だ。
    国内経済は米中貿易戦争で急速に悪化している。それ以前から減速傾向は顕在化し、2018年の成長率は28年ぶりの低い伸びにとどまった。雇用環境の悪化は社会不安を増大させ、政権批判が次第に強まっていくだろう。
    対外関係に目を向ければ、現在、アジアで最大の軍事的な脅威は中国だ。南シナ海では岩礁を埋め立てて、人工島を造成し、軍事拠点化を進めている。ここでは周辺国との関係が険悪化している。
    東シナ海では沖縄県・尖閣諸島の領有権を主張し、公船による日本の領海侵入を繰り返している。覇権主義的な中国の動きを巡って、国際的なイメージは悪化の一途だ。
    ニューヨークで開かれている国連総会で先週、諸外国から次々に懸念が表明され、中国の代表団は火消しに追われたという。各国は香港の民主化要求に共感し、少数民族の抑圧に重大な懸念を抱いている。中国に対する国際世論は非常に厳しい。
    国内融和と国際協調。中国に必要とされているのは、この二つだ。問題の平和的な解決を図りつつ、民主主義国家への緩やかな移行を目指すのが最も望ましい道だろう』
    「河北新報」10・2

    国連では6月、スーダン軍が民主化を求めるデモ隊を強制排除し多数が死傷した3日の事件については、事務総長が「市民に対する治安部隊の過剰な武力行使を強く非難し、集会や表現の自由を含むあらゆる市民の権利を守るよう、軍暫定政権に要求している」と語りましたが、天安門事件について感想を求められて「特にコメントはない」と答えました。事務総長の仕事は紛争解決の総括。国連予算の分担率が世界2位の常任理事国には、苦言を言い出しにくい。しかしそのうえで交渉しなければならない喫緊の諸問題について、リーダーシップを発揮する歴史的な役割があるのです。事務総長もまたネゴシエイターの一人でしょうが、一流ではないように思える。無力な国連に期待するのは難民だけかもしれない。
    最近、重大ニュースが発表されました。新疆ウイグル地区の強制収容所に関する中国政府内部からのリーク、内部文書。ヒトラーよりひどいジェノサイドが明らかになるのはいつごろのことなのでしょうか。池田先生はウイグル地区からも名誉称号を多く受けておりますが、知識人や大学関係者が捕らえられ拷問を受け無実で牢獄に繋がれている現状に、目を塞ぎ知らないふりをしている。今年のSGI提言でアカデミック・インパクトにふれておりましたが、「平和・紛争解決」「異文化間の対話や相互理解」のSDGsの目標について、創価大学も参加していることを力説していたではありませんか。紛争と差別のまっただなかにある大学に理解を示し、支援することが真実を愛する言論人の取るべき行動です。腐れた人間主義者は、"提言"や"永遠の指導"でもう大きな口を叩かないでください。
    共産党支配という古い秩序に挑戦している香港の変革のエネルギーこそ、「人間中心の多国間主義」を実現する最も近いアプローチだと思う。差異による排除を許さない行動が、自他共の幸福に展開していくことを願わずにいられません。

    ❖❖❖

    Ancient Order
    Anne-Sophie Versnaeyen,
    Gabriel Saban & Philippe Briand




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