哲女のメモ 4

    #1
    kumagawa.jpg今年に入ってから、なんとなく憂鬱な日々が続いています。心配事があるってことかしら。新型コロナもそうですが、最近の豪雨災害も心に重くのしかかります。自分が被害者でもないのに、心のなかがどしゃぶり。悲しくて絶望的。
    前向きに考えられないのがわたしの欠点。でもそういうわたしも自分の一部だから、今さら気にすることもないのだけれど、何か重いものを引きずっているようで、いつもの明るさは何処へやら。考えることも考えられない。一日一日があっという間に過ぎていくようで、貴重な時間を無駄使いしている気分です。時はうつろ、季節もうつろ、わたしもうつろ。自分で自分を慰めても解決するわけでもない。唱題すると涙が出てくる。ご本尊さまって卑怯だよね。何も解決してくれないんだもん。わたしの宿業?  言いたいことは分かっているわ。

    でも、宿業をどのように解釈するかが問題よ。目に見えないものは信じて確信するしかない。きっと宿業はあるのだろう。そしてそのカラクリを懇切に解いた仏教は強靱な第一原則たりうるのであり、議論の余地はない。理性を知る者は理性の限界も知る。したがって宿業は信じるしかないのだ、とアンナは自信たっぷり自分に言い聞かせたのだった。
    宗教が滅べば理性も滅ぶ。信仰を失えば確信も失う。ガソリンなしでどうして車が走るだろうか。信仰なしでどうして人生を走ることができるだろうか。
    実行は難しいけれど真理は単純です。これはあらゆる芸術作品と共通している。特に推理小説はどんなに複雑なストーリーでも核心のプロットは単純なのです。必ず犯人の正体がバレて、犯人も正直に告白するからね。探偵ももったいぶって解説するのを得意とする。はっきり言って舞台に登場する役者さんて饒舌ですよね。みんな自分を主張しているわけです。
    だからって軽率な思いつきではないけれど、その上でわたしも宣言しよう。わたしは敬虔な仏教徒であるということ、日蓮イズムというストーリーを追う探偵であること。

    創価は間違なくブッダからの正統を汲む開かれた伝統なのです。もしも否定することが正しいとすれば、ブッダからの流れも否定しなければならない。こんなことを書けばたちまちアンチの方々から反論を浴びそうです。「子供の楽園」のような議論はおことわり。
    人間解放は近代の社会科学を論ずる前提とされてきましたが、普遍化した苦難からの解放は未解決であり、さらに増大する気配です。何が求められているかと言えば、異なる思想、異なる人間の連帯であって、争うことではないのです。でもそうは言っても、カリスマ的改革者におおいに疑問を抱いている人々が、自らの行動規範に絶えず感情を持ちこんで盲目的に嫌悪する抵抗姿勢を、わたしは憐れむほかありません。彼らはペシミズムという雲の下で自ら進んで雨に打たれている人種であり、創価によって日本が乗っとられ、やがて善良な国民が抹殺される陰謀が着々と計画されているといった議論になるとにわかに目を輝かせ、更なる悲劇を演出しようと試みる。根拠のない悲劇は喜劇であり、雲が必ず雨を降らせるとは限らないのに、禁欲的潔癖さが小児的愚昧さを象徴していることすら気づいていない。そういう悲劇は喜劇というよりないであろう。一体、文化とか文明とか歴史とか伝統といった自分自身を形作るものを、ほんとうに理解しているのか疑わしい。重要であり危機であると訴えながら、空疎で内容が伴わない希望とか信頼とかの言葉を連発するのであるから、裏返して言えば彼らがしがみつく正義は、コマーシャリズムに踊らされた大量生産の通俗的精神を生みの親とする消費型正義なのです。日蓮もかつて味わったように、正統はまた異端であるという正義こそ、辛辣な烙印に耐えられる強靭さを備えている。軟弱な正義は、社会を混乱に導くだけです。
    しかし、創価のなかでも勝利を強調するあまり、その精神を忘れているのではないか、という危惧を抱くのはわたしだけだろうか。例えば政治に対する姿勢では、無条件に無批判に支援し、その背景を考えない傾向が顕著であるからです。公明党に対しての先生のご指導も、創価と公明党は一体であるというのもあれば、党の独立を促すものもあり、結局会員はその間を右往左往しているとの見方もできるのではないでしょうか?
    信仰者は政治権力を捨てよ、とわたしは言いたいのです。
    宗教には元々、「闘争」の側面が多分にあることは誰もが承知しています。自己との闘争が信仰なのであり、ひいては醜悪な社会に、必死の覚悟で闘争を挑むのが宗教なのです。このとき寛容や多様性といったものは地平の彼方で浮き沈みしている。未だに争いは無くならないし、血を流すことにも慣れっこになってしまった。文明が進化し生活水準が豊かになっても、一方で人道的な責任は放棄し、多くの人間は傍観者という最悪の大衆になりさがる。国家公認殺人者はより高度な技術を発明し、技術的進歩が世界貢献と平和への道であるかのように錯覚する。倫理とは見た目はスマートなガバメントの都合よい大衆迎合の論理でしかない。近代の心ある思想家が指摘したのは、大衆の愚かさだった。
    大衆は人間の集まりという意味です。一人や二人ではない組織、民衆のあらゆる階層階級を網羅した大組織、社会に一定の影響をおよぼし、動向を左右しかねない組織は、大衆の一部であり、大衆論理が適用される組織です。創価にはどれくらい会員がいるのか、はっきり分かりかねますが、公明党が大衆政党というくらいですから、創価も大衆宗教なのでしょう。
    創価の会員は現実主義者です。過去がどうあれ、今現在の姿勢を問うのであり、こういう考え自体間違いとは言えないけれど、現在は過去の積み重ねの上にあることもよく思案しなければならない。わたしたちの学びはすべて過去からのものであり、歴史からのものである。したがって、真実の歴史こそ、真に規範となるべき歴史です。

    民主主義とは機会の平等を約束するものですが、日本のような曖昧な寛容美徳が礼賛されるシステムでは、寛容は差別容認を意味するものと同義です。多神教文化は社会的な情報と内面的な情緒を共有することであり、不合理なことであってもそれを指摘する人間を排除するシステムです。無定見にフランス革命を礼賛する人間が多いのも日本システムの特徴です。自由・平等・博愛は、アンチテーゼとして秩序・格差・敵対を生み出したのであり、この反対概念を行ったり来り、どちらかに揺れるのがその後の歴史であったこと、民主主義は合理主義という裏パッチで支えられて、まるで不正を断罪する剣のように信仰されてきました。その主人公が大衆です。歴史経過には必ず反動があるのであり、合理主義に懐疑的に異議をつきつけて孤独を味わった勇気ある人々もまた生れて、結局ニヒリズムの深い闇をブラックホールのように発見するに至るのであるけれど、この真実の過程に無頓着な知識人が日本には溢れています。正統は正気であるということ。伝統は正しい歴史観に立った智慧でもあり、正しい目と心を持った人間だけが獲得することができるバランス感覚の真髄です。

    池田先生は、第35回SGI提言(2010年1月26日)で、ニヒリズムに言及しています。
    『今回私がスポットを当ててみたいのは、現代文明が行き着いた一つの位相、現代人が否応なく直面せざるをえないデクリネーション(衰勢)の時運――大まかに言ってペシミズム(悲観主義)さらにはニヒリズム(虚無主義)と総称される時代精神の有り様に関してなのであります。
    ニヒリズムというと、いわゆる “神の死” を契機にしたヨーロッパ的思潮に思われがちですが、東洋にも、ニヒリズムの系譜は数多くあります。しかし、そこまで話を広げる必要はなく、ここでは、グローバリズムの矛盾が露わになった荒涼たる風景の中、瘴気のように立ちのぼっている文明の病理の謂なのであります。
    日本においても、そのような傾向は、顕著に見られるのではないでしょうか』

    経済問題と科学技術に特記し論じていますが、科学技術と経済発展は近代資本主義を論じる上で不可避な領域です。

    『フランスの気鋭の論客エマニュエル・トッド氏は、金融主導のグローバリズムを評して、「社会のあらゆる足枷から『個人を解放する』ことを望みながら、貨幣とその蓄蔵を崇める中に安全を求めようと怯えて震えている小人をつくるのに成功したにすぎない」(「経済幻想」平野泰朗訳、藤原書店)と喝破しています。この「小人」の顔を表から見れば「マモニズム」(拝金主義)で、裏から見れば「ニヒリズム」であって、逆もまた真であります。(中略)
    グローバリズムの正の側面は当然のことながら、貧困や「格差社会」をはじめ負の側面を論じる場合でも、ほとんどがこの価値基準に依っている。そこからは、先行き不安な、ギスギスした、寒々としたうつろな響きしか伝わってこない。
    格差の拡大等は疑いようのない事実ですし、それを引き金とする犯罪や自殺に追い込まれるような事態は、決して放置されてはならない。このことは、第一義的には政治の責任として、これまでも繰り返し訴えてきたところであります。正義や公平性という人間社会を成り立たせているエートス(道徳的気風)を担保するためにも、法的、制度的なセーフティーネット(安全網)の整備を怠ってはならない。
    そのことを強調した上で、私が懸念するのは、そうした外的・物質的条件の整備は、事態への対症療法にはなっても、根本療法にはなりえないのではないかということであります。「対症療法」を下支えし、それをより確かなものにするためにも、精神面からの裏打ち、つまり価値観の転換が必要なのではないか』


    欲望の無限拡大に警鐘を鳴らしていますが、近代における大衆の定義は、この経済的欲望と利己主義、自分の意志を押しつける精神的未熟さ、他者への配慮を欠いた支配層としての大衆であり、豊かな社会を標榜しながら生の実感に乏しい大衆を言うのです。オルテガは、自己懐疑という人間の特権を忘れた大衆を嫌悪し、「現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆるところで押し通そうとするところにある」(大衆の反逆)としている。大衆を負の意味で定義しているのであり、トッドの「小人」と同類の「文明の再野蛮化」に加担する人々です。優れた価値を求めて生きるのが人間なら、本質的な生命の満足を省みない大衆に悲愴なペシミズムとニヒリズム、「生の不安」の病理を見るのは当然の帰結かもしれない。したがって、危機のなかの殉教者・英雄は精神的本源の位置からすべてを作り直さなければならないのであり、それがどれほど不可能に近いか。世界を冷静に観察している人格者は孤独のなかで高貴さを堅持しているのです。

    『近代文明、とりわけ近代資本主義というシステムは、例えばマックス・ウェーバーが分析したように、プロテスタンティズムの倫理というブレーキとハンドルが作動することによって、辛うじて欲望が制御され、安定した人間生活を保障してきた。換言すれば、何のための勤勉か、何のための努力か、蓄財か、といった価値観からの問いかけが日常的になされていた。それによって、人間精神、人間生活のバランスが保たれてきました。ハンドルやブレーキが機能不全に陥ったらどうなるか――ウェーバーの言う「心情のない享楽人」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」大塚久雄訳、岩波書店)の横行であり、昨今指弾されている「強欲資本主義」などは、その末期症状といってよい。欲望や知能の独り歩きであり、そういえば、今回の金融危機を招いた信用バブルの背景には、投機性を至上視したデリバティブ(金融派生商品)市場の拡大などがあり、その開発には最先端の金融工学が駆使されていたという。金融市場のカジノ化に熱中した人たちの脳裏に、果たして「何のため」という問いが浮かんだでしょうか』

    際限ない欲望にとりつかれ、経済を崩壊の危機にさらした知識人も愚かなる大衆の一部ということでしょうか。健全な常識とか、ヒューマニズムとか、協調とか、卓越した知性とか、多数との共存とかは幻なのでしょうか。豊かさとか繁栄とかは、人間が人間らしく生き、死ぬための一過程、手段なのではないでしょうか。

    先生は、創価とは価値創造の謂いであるとしながら、仏教にその解決のヒントを求めます。

    『それは、ニヒリズム、価値空位時代に楔を打ち込み、近代文明の暴走に対して、ハンドルやブレーキの機能を回復させる人類史的挑戦であるというのが、私どもの深く期するところであります。
    (中略)
    学問に王道がないように、「善」の道にも王道はない。現実に身を置き、あえて苦難に挑戦しながら、不断の精神闘争の溶鉱炉の中で、徹底して己を鍛え上げていくしかない。そこに「善」を成就させゆく直道が開けゆく。マルセルの言うように、「状況の特殊性と法の普遍性との間には常に必ず緊張が存在している」「この緊張そのものこそ、価値の原動力」(「マルセル著作集6」小島威彦ほか訳、春秋社)だからであります。「不断の精神闘争の溶鉱炉」と「緊張そのもの」とは同義語といってよい。そこに、仏典の「浅きは易く深きは難し」「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」(御書310ページ)との金言が不磨の実践規範としての輝きを放ってくるのです。
    (中略)
    オルテガ・イ・ガセットは、そうした「不断の精神闘争の溶鉱炉」の有り様を「歴史的生」として次のように活写しております。
    「わたしは歴史の絶対的な予定説を信じない。わたしは逆に、あらゆる生、したがって歴史的生は、純粋な刹那によって構成されているものであり、その一瞬一瞬はそれに先行する一瞬に対して相対的に未確定であるために、現実はその一瞬において逡巡し、一カ所で足踏みし(piétine sur place)、多くの可能性の中のどれに決めるべきかに迷うものであると信じている。この哲学的逡巡こそが、あらゆる生的なものに、あのまごう方なき不安と戦慄を与えているのである」(「大衆の反逆」神吉敬三訳、筑摩書房)
    この「哲学的逡巡」とは、優柔不断とは似て非なるもので、固定観念を排し、「まごう方なき不安と戦慄」の緊張感の中から「善」を探り当てる力の源泉を意味します。
    釈尊の初転法輪の際の“梵天勧請”の説話が想起されます。――成道の後、その悟りの甚深、微妙で知り難いため、釈尊が説法を開始するのを躊躇、逡巡していると、梵天が現れ、苦しみ悩む人々のために、説法を勧め、請うた。それによって初転法輪が成った、と。オルテガのいう「哲学的逡巡」は、釈尊の躊躇、逡巡とどこかで響き合っているはずです』


    さらに、自己内対決、自己内対話を経て、他者の復活、他者との対峙・対話の要請の重要性に目を向けます。
    『周知のようにオルテガは、「他者」との共存が、「野蛮」と決別する「文明」の絶対要件としていました。そして、この「他者性の尊重」「他者性の習慣化」ということは、かの凍てついた旧ソ連の政治文化に言論や対話の力を劇的に復活させたゴルバチョフ元大統領との対談集(「二十世紀の精神の教訓」、「池田大作全集第105巻」所収)で、親しく語り合ったところであります。
    先に「個々の人格にかかわらざるをえない善悪の価値感情を拒絶」するのがニヒリズムとしましたが、その意味からも「他者」「他者性」の復活は、価値感情欠乏症の時代を切り開き、「善の価値」「善の言葉」を復権させゆく直道であると、私は信じております。
    「月月・日日につよ(強)り給へ」とは、そのニヒリズムの超克、価値創造の労作業への無上にして無比の促しなのであります』


    苦からの超克を諦める浄土思想に見られる現世否定、救済を他者に依存した悪性の思想は、ニヒリズムの根源とも言えそうですが、東洋だけの精神の負の遺産ではない。西洋にも原罪という魂の廃墟があるのです。そのニヒリズムを、ニーチェは超人の生まれ変わりで超えようとしたのであり、文明の死を予言し永続的な進歩などあり得ないとしたシュペングラ―の運命論、「西洋の没落」では、無目的に人生を歩み、仏教が説くところの生物の基本である四苦というベーシックな概念すら理解していない日本人に向けたメッセージでもあると、わたしは考えます。また、21世紀に入っても避けきれない戦争はますます激しくなり、規模の大きさ、被害の甚大さ、国家エゴイズムの肥大、という脅威が脅威を生み続ける悪循環は、欲望を制御できない修羅の悪夢であり、その裏には価値感情の希薄と欠乏が指摘されるのです。
    人間はそもそも孤独です。一人で生まれ一人で死んでいく。他者のなかに自分を居場所を発見しても、些細な行き違いで破綻の危機に陥ります。不信はやがて絶えない葛藤を経験しながら、ニヒリズムという泥沼に落ち込みます。近代の西欧の知識人の系譜は、ニヒリズムの指摘と克服にありました。人間の「間」のつながりは、多数派、つまり権利要求としての大衆の欲望実現装置として機能しているように感じられるのです。政治的イデオロギーが皆無に近い日本にあっては、無党派という市民の要求に応えなければ政権の維持は不可能です。そしてどれだけ利己的な欲求に時間と経費を費やしているか。大衆は孤独であるがゆえに、ニヒリズムという衣のなかで深い悲哀を感じていると、わたしは推測するのです。人間信頼という宗教は、今後ますます、魂の汚れを回復するような朝露のような清純さで、命の疲れを癒し蘇生させる根源として必要とされ、啓蒙されていくことでしょう。

    ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

    「ニヒリズム」(社会学小辞典:有斐閣)
    判断や行為の基準としての積極的な価値をいっさい否定する思想。これは、一方で、無為の消極的・退行的態度をひき起こすが、他方、既成の道徳や制度にこの思想が向けられるかぎり、伝統破壊の積極的エネルギーとなることもある。この意味で、近代・現代西欧では、ニーチェ、ショーペンハウアー、実存哲学などを通じ、ニヒリズムが鋭い批判意識を担ってきたが、反面、社会的・政治的には、無力感・絶望感からの遁走としての能動的ニヒリズムがファシズム・イデオロギーの基盤を提供することにもなった。


    #2
    ジェンダー理論は大聖人の深い叡智に完結している。それをどう解釈し、発展させなければならないか、創価の知識人としての力量が問われています。創価が戦後、急速に拡大したのは新しい解釈を提示したからであって、理想とされる人物像も先生自身が体現し人々の眼前に現れたからです。時代に付与する解釈の斬新さが閉塞する社会の現実を切り開くのです。知識人と言われるスペシャリストがその役割を担っている。コスモポリタンと言う前に、言語が持つ本来の力を復活させる.........言い方を変えれば、浅薄な意義づけに終止している市民社会の指導原理を主体者である人間に取り戻すべく価値転換をはからなければならない。価値あるものへの願望が歴史を動かしてきたのです。それは本質的にして普遍的な善への衝動でしょう。オルテガは「大衆の反逆」のなかで次のように述べている。

    『われわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかわからないのである。つまり、あらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人になれず、自分自身の豊かさのなかで自己を見失っているのだ。われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術を持ちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間に漂っているのである』

    自己が自分の主とはブッダの言葉。ギリシャ哲学も、疑いのなかから、疑えない自己を発見した。無知という深い海中で自己像という宝物を発見したのです。大海と同じ海水が心の海にも満たされています。無限に広く無限に深い心の海で、自分そっくりの自己像を発見する方法と場所をブッダは示しました。実現能力とは殻を脱ぎ捨て、新たな自己像を描く能力のことです。
    現在ほど覚醒し鮮明に言葉を操り、意義を見出す作業が必要なときはない。その役割は誰が担うのだろうか。

    なぜ自分が立つ土台を安全なものにしないのだろうか。自分が拠り所とする賢明なる大衆に懐疑を抱かないのだろうか。現実的な男女の性差を問題にしながら、リアリティーに欠けると感じるのは、自らのアイデンティティーでもある所属組織に対し主体的視点を欠いているからだと考えるのです。固有の自覚した自己の集まりが創価ではないか。目覚めた集団が創価ではないか。人間の尊厳と高貴さに最大の敬意をはらうのが妙法の使徒ではないか。精神的沼地から自他の悟りという実践的知識の深い花を咲かせるのが、創立者が訴えるそれぞれの使命なのではないか。
    なぜ、副会長クラスに女性がいないのか。末端でも支部長や地区部長に女性が登用されないのか。青年部長に一人でも女性がいるのでしょうか。また宗教法人として役員のなかに女性がいるのかどうか。人事は組織の要であり一般から認識される顔です。足下の問題を見つめないで、どうして創価のメッセンジャーたりうるのでしょうか。創価が男女平等・同権を主張するなら、それは人事に反映されるはず。さらに結婚を機に本部職員の退職を余儀なくされるのは、どう考えて時代錯誤です。経済力がある男性と結婚しなさいという暗黙の了解があるのですが、もちろんそんなことは表だって言いません。それを疑問なく受け入れる女性たちも愚かなる大衆ということでしょうか。ジェンダーは権利を貫き、義務をはたし、現実においてそれを達成することです。男性原理だけではもう何も解決しないのです。


    #3
    訪問は一人でする。それが基本です。1対1の対話が対等の立場であり、自分を磨くためにも、また相手の考えを聞くにも最良ですが、創価では2~3人のグループを作って訪問するのを常とします。集団で行動すれば、渡る世間も恐くない。責任も分散される。でも正しくない。
    また、アポイントをとり訪問するのが常識。訪問相手が困ろうと嫌がろうと、良いことなのだから許されると考えるとしたら、妙法で戒める増上慢の謗りを免れないでしょう。昔と今は違うのですが、そのような社会常識に対しての認識が甘いことをよく反省しなければ、いずれ創価は迷惑集団として社会から阻害され排除される。そしてその原因を作ったのは自分に他ならないのですが、反対や非難に会うと、魔や難だと騒ぎ立てる愚かしさ。わたしはそんな愚かな一員にはなりたくないし、どうか仲間にも誘わないでください。
    会員の、また菩薩の聡明さとは、手段の選択にかかっていることをよく思慮しなければならないでしょう。目的は正しくてもその手段を行ずるときは細心の注意が必要なのです。相手を気遣う心と節度ある礼儀こそ、誤解を招かない円滑な人間関係を築くための基本です。

    罰などとよく会員は自虐的に口走るけれど、これは仏法破壊の極悪人に支払われる代価です。宿業のバランスシート(トインビー博士)で言えば、自己否定の根源的負債から現われるプロパティーです。また複雑な蓋然性の影響が大きいことから、多くの信者を大御本尊さまから遠ざけた日顕という悪人が罰を受けないで人一倍長生きしたのはこのためです。しかし、正法による行為(人生)の再構築がなければ、生命に刻まれた因果の傷は消え去ることはありません。
    妙法との出会いという稀にみる幸運を、幸運と感じられないところに不幸があるのかもしれません。
    創価では絶対的幸福とよく言いますが、これは絶対的幸運の意味なのではないか。
    もちろん、絶対的なものがあると仮定してのことよね。


    #4
    Set Fire To The Rain Adele

    前の恋が終って傷ついてた時
    あなたが声をかけてきた
    打ちひしがれて落ち込んでたのに
    あなたのキスで救われた
    強い人間に見えるけど
    好きな人には逆らえなくて
    抱きしめられると
    もう何も言えなくなった

    だけどいつしか私の知らないもう一人のあなたがあらわれた
    口にするのはでたらめばかりのウソつきで
    いつも私を追い詰めて、傷つけそして苦しめた

    でも私は涙の雨に火をつけて、その苦しみを燃やして消した
    その顔にふれた時、雨のように涙があふれたけど
    その涙はみんな燃やした

    あなたを想う涙だったから一緒にベッドにいる時は
    ずっとそうしていたかった 眼を閉じて
    あなたをそばに感じながらずっとこのままと祈ってた
    一緒にいるだけ、それだけでいい
    だって私の知らないもう一人のあなたは
    口を開けばでたらめばかりのウソつきで
    いつも私を追い詰めて、傷つけそして苦しめたから

    だから私は涙の雨に火をつけて、その苦しみを燃やして消した
    その顔にふれた時、雨のように涙があふれたけど
    その涙はみんな燃やした
    あなたに向けた涙だったから
    涙の雨に火をつけて
    その炎で2人の思い出も燃やしてしまった

    恋が終ったら何かを失うもの
    だってそれは過去のこと
    もう終ったことだから

    朝、ドアの前で目覚めることもある
    あの時の気持ちが今でもまだ残ってるから
    もうすっかり過去のことなのに
    今でも気づくとあなたの姿を探してる
    あの時、涙の雨に火をつけて、その苦しみを燃やして消した
    その顔にふれた時、雨のように涙があふれたけど
    その時の涙はみんな燃やした
    あなたのための涙だったから
    涙の雨に火をつけて
    その炎で思い出も燃やしてしまった

    恋が終ったら何かを失うもの
    だってそれは過去のこと
    もう終ったことだから
    だから苦しみは燃やして
    消してしまおう
    跡形もなく


    「雨に火をつける」という発想はなかなか浮かばない。アデルは詩人。音楽的才能はとてもうらやましいぐらい。美しい声は、きっとボリュームある体から出てくるんですね。でも、男運は悪いみたいだし.........わたしが心配することでもないけど。
    梅雨の季節、涙の雨に火をつけて、苦しみを燃やし尽くしたい。






    哲女のメモ 3

    #1
    最近の自然災害を総罰と主張したブログがありましたが、社会背景や科学進歩を無視した、日蓮系宗教特有のものと思いました。自分の宗教を強く意識し独善的に中心におきながら、社会現象を関連付けて納得させようとする強引さは、宗教の本質からもっともかけ離れた通俗的精神であると考えます。たとえば、現在では、台風発生のメカニズムを理解することは一般にも可能ですが、時代を遡るほど、社会的影響を及ぼす強風に、悪を退治する神風や、社会の不正義を糾弾する龍の仕業などと表現し納得させました。人間の理解を越えたものに、願望を反映した解釈が当然の行為として行われたのです。そうしなければ社会不安が広がり、社会自体が危機に陥る危険性もありました。

    法華経においても社会背景を無視した解釈は成り立たないと考えます。正しい理解は法華経の成立年代の確定から始めなければなりませんが、今となっては無理があるでしょう。そもそも原始仏典が伝える以上のこと、ブッダ本人の詳細すら伝説のなかにあり、はっきりしないのですから、経典の成立年代や過程を知ることは至難なことです。
    法華経の一貫した思想・万人に仏性を認める普遍性は、ブッダの聡明なる覚りから得られた思想でしょう。しかし、滅後の布教は困難を極めたと推測します。この高度な理論は難信難解であり、ほとんど民衆に受け入れられることはなかったのではないかと思います。社会に受け入れられなければ、仏法は廃れ弘通することはありません。ブッダの思想を伝える正しい法であっても、正統な人によって正しく伝えられなければ廃棄されるのです。仏教発祥国であるインドでは次第に廃れていきました。
    法華経の成立過程において、多くの信仰者の強い使命感があったことは想像にかたくありません。末法に伝えるための命を惜しまない覚悟は菩薩のものですが、その過酷な弘教現場での工夫は知力を尽くしたものでした。嘱累品以下の六品はその苦渋の選択です。人気アイドルなみの知名度があった観音菩薩を、法華経のテーマに関係なく一つのショーウインドー、ディスプレーとして取り入れました。デパートに行ったら最初にショーウインドーを覗くあの心理です。アジアの広範な地域に流布している観音信仰は、日本でも宗派に関係なく取り入れられています。

    わたしの祖母は創価に入会する前、曹洞宗のお寺に石で作られた観音菩薩を熱心に信仰しておりました。そのお寺には、地蔵菩薩も何体も飾っており、時季になると念仏を唱えるお年寄りの集まりみたいなものもあったということです。曹洞宗に念仏とは奇妙ですね。どんな仏でも功徳があるということらしいのですが、宗派に関係なく広く信仰された代表が、観音菩薩でしょう。このような認知度が高かった観音信仰を一つの仲立ち役にして、法華経に導こうとした意図が感じられますが、おかげで法華経も無事に中国、日本へと伝わりました。迹化の仏・菩薩が多くの人の信仰対象になり、芸術の対象にもなりましたが、地涌の菩薩、不軽菩薩の仏像や絵画がないのは、つまりは一般に信仰されなかったからです。法華経の高度な内容はなかなか理解されなかったということは、法華経の性格をよく表しているでしょう。法はあっても、その内容をわかりやすく説く聖人が必要だったのです。
    安楽行品は前記の六品と同じ意図が感じられますが、一般大衆を対象にするというよりも、バラモンや社会的地位の上層にある人々への見苦しい諂いのように感じます。見方によっては、それだけ法華経弘教に対する批判や反対が大きかったということかもしれません。
    安楽行品の不平等思想を克服するためには、日蓮の誕生まで待たなければなりませんでした。カースト(階級制度)外の最下層の人々にも平等に仏性が保証され、むしろそのような人々こそ社会変革の主体者であることを訴えました。自らの生涯をかけて苦難と戦った日蓮は、法華経という法の普遍性を現実に証明した菩薩の姿に他なりません。「旃陀羅が子」という象徴的言葉は、人権宣言に等しいと思います。安楽行品という難題があればこそ、日蓮の御生涯は波乱に満ちた人生になりました。誰も克服できなかった矛盾を生命実相という根源から解決することができたのです。しかも振る舞いと哲学の研鑽を通して体系づけられた理論は、非難と迫害という過酷なプロセスが必要不可欠でした。

    日蓮が人権意識すらない時代に、「自分はいったい何者なのか」という哲学上の根本命題に行き当たったのも、安楽行品への懐疑から始まったのではないかと考えることもできます。
    「御義口伝」での「安楽行品」の所説の項目は、少なく、短い。しかし、法華経を根本としながら法華経の矛盾を克服し、法に従う立場から法に新たな解釈を示し、主体的に運用活用していく立場へと転じていったのが、日蓮の御本仏としての自覚なのではないでしょうか。この主体性こそ、中道主義であり、人間主義ではないでしょうか。それぞれの人生の主体者であれと、日蓮は説いているのです。そうしなければ不平等思想を乗り越えることはできないと訴えているように思います。

    法華経弘通に関係した人々は、崇高な法と危害を加えられる苦しみ、虐げられる悲しみを、同時に味わいました。安楽行品を含めて、法華経は信仰者の財産です。一貫した思想に貫かれた部分と、そこから逸脱する部分と、すべてが財産です。わたしには、法華経弘通を使命としながら懸命に戦った信仰者の姿が思い浮かびます。
    翻訳者である鳩摩羅什は、とても優れた天才です。翻訳しながらきっと、矛盾にも気づいていたことでしょう。それでもその矛盾に対して積極的に挑もうとしなかったのは、それなりの理由があったのだろうと推測します。社会情勢や環境も関係があると思いますが、末法に出現が予言されていた地涌の菩薩を信じていたのだと考えます。単なる学術・学問的な追求以上に、法華経は人間の生き方そのものの原則と可能性が説かれている聖典であり、混乱する現代に最も必要なプロブレムソリューションだと思う。主要な思想哲学をカバーした良心的で我慢強い本質的議論が待ち望まれます。
    生命への尊厳が失われている不平等思想は、常に国家間や人間自身の争いの元凶となりました。またあらゆる差別問題の原因として、マグマのように生命の底流を形作るものと認識も可能でしょう。釈尊が指摘した心に突き刺さった一本の矢です。差異へのこだわりは法華経を貫く一つのテーマですが、これほどの難題は、そもそも法華経製作者がはじめから意図していたことかもしれません。仏智は計り知れません。

    いろいろご意見はあると思います。二千年前も今も、人間はそんなに変化していないように思います。人間の好戦的な資質傾向、獣的な攻撃心は、きっと生存本能に関係しているのでないでしょうか。その意味で、法華経に説かれた「九界即仏界」は重要な内容を含んでいると思います。また日蓮の振る舞いを、ヒューマニズムの観点から深く理解する必要があるでしょう。その行動は慈愛に溢れていたことを、一人ひとりの信仰者が自らのこととして、切実に、敬虔に想像しなければならないでしょう。


    #2
    修羅と餓鬼が乗り移ったような彼らは、自分の歴史を作り始めたばかりで、そのうえ唯物論者であることから、千年、二千年の伝統と歴史であろうと、同じ発音でも大違いの唯仏論者に敬意をはらうはずはなかった。その後、文化大革命によって貴重な仏典が失われるその不吉な前兆であることを気づく者はいなかった。こうして人類史に刻まれる不幸は始まったのです。そしてその悲惨な歴史の中心にチベットを必死に守ろうとするわずか15才の少年が立ち向かおうとしていたのです。彼は観音菩薩の生まれ変りと信じられていましたが、再誕説はどの宗教にも見られる、人間の願望を表す教義です。
    妙法では、地湧の菩薩の再誕が一般化しています。誇大妄想の人間は精神の肥大化を招き、菩薩のなかの菩薩と拡大解釈し、ブッタや宗祖に比肩するなどと病的な飛躍を躊躇しません。人間って特別視されることを望むものなんですね。特殊性を単純化する手法は、煩雑さを好まない大衆に受け入れやすくなりますが、およそ宗教の普遍的な部分は、難解であることを覚悟しなければなりません。観音菩薩も地湧の菩薩も法を体現しており、理想像として人々に訴えるからでしょうか。法華経にそう説かれているからです。観音もまた同じでしょうか。そういうわたしも、地湧の菩薩を最も身近な信仰者の理想として信じている一人です。世界を救済する人物は菩薩よりおりません。
    他者に対しても、自分のことでも、苦しまない菩薩はおりません。菩薩は弱肉強食の動物ではなく、本来は他者思いの人間だからです。


    #3
    先生は中国の多くの大学から名誉称号をいただいていますが、国家的あるいは行政の承認と意図があることは自明のこと。先生は求めてくる者を拒否しません。来る者は拒まずです。少しでも可能性があるなら、人道を説き倫理を説かれるのですが、弾圧に自ら手を汚しているに等しい中国の知識人に、その真意が正しく伝わるのか、また創価のなかでも、師弟を連呼する者が先生の苦衷のご心境を理解しているのか、わたしははなはだ懐疑的です。先生が人権侵害に悩まないはずがないではありませんか。名誉ほど、盲目的に追随する者を惑わすものはありませんし、執着の対象になるものもありません。
    大聖人は極貧のなかで生涯を貫かれました。現世安穏・後生善処が法華経の功徳なら、また妙法の実証には経済的豊かさも含まれているのに、どうして大聖人は食も衣服も最低の必需品にも困窮する大変なご一生をおくられたのでしょうか。如説修行抄では、精神の富める者こそ人間王者であることを説き、身をもってその功徳を示されました。
    創価の幹部も清貧であっていただきたいと思う。私利私欲がないからこそ尊敬される。お金が集まるところには必ず問題が起き、その清貧とはかけはなれた使い道と、問題を隠蔽しようとして新たな問題が起きるのです。

    コスモポリタンであることを先生は訴えますが、どこかの国家に属しないコスモポリタンなど有りえないし、真の国際人も国家の繁栄を願ってこそ、その根拠となる行動動機を得ることができるのではないでしょうか。
    明確な国家観を持たない日本人は国家の消滅さえ願う。今こそ保守思想の、保守たる所以を明示しなければならない。今まで何度、ヒューマニズムという着飾った言葉で、多数派の専制による民主主義の堕落を許してきたことでしょう。

    女子部のとき、部討議で忘れられない思い出があります。こちらから要請したわけでもないのに、区幹部がおしかけてきました。わたしのような部長は心もとないと思われたのかもしれません。立正安国論を通し指導されましたが、国家観を持たない人間が聖教ダイジェストのような中身を得意気にお話しても、感銘を与える話にはほど遠い。政治イデオロギーとしての妙法、宗教と思想の混乱が国家存亡の危機を招きよせていることを子細に検討しているのに、また国家諌暁の現代的意義を問うことなしに信仰者の政治参加もありえないのに、さらに人道的立場から批判すべき多くの問題を抱えているにもかかわらず、ただ選挙目当ての友好活動の強調など、政治改革への厳しい展望を持たない女子部幹部はただ単に組織の流れに沿う一歯車。公明党の政策の是非を検討しないで自分の考えも持たない愚かしい姿です。
    討議の前提となる政治課題さえ知らない。先生が創立者であるというだけで、支援動機として十分なのでしょうか。それならば、なぜ党を罵る反逆者が出てくるのでしょうか。これは反逆者個人の問題では済まされないと思う。理想を誓った党自体の団結に齟齬をきたしている問題だと思います。理念が剥落したために、凡庸なヒューマニズムをとりあえず掲げるという始末です。

    アメリカイズムという理想国家を押しつけようとした憲法。戦後、平和と軍隊という最も重要なテーマに口を閉ざしてきた国民の無責任さは、わたしたちの世代で解消したい。自衛隊がなければ国を守れない現状を厳しく認識すべきです。その自衛隊に武器を取るなと命令するのが憲法と政治家、それに国民。こんなバカバカしい憲法はありません。
    わたしは、日和見主義の公明党の政策に支援根拠を失いつつあります。個人もそうですが、中小企業にとって増税がどれほど負担になるか、わかっているのでしょうか。社会保障一体改革といってもどれも簡単にいかない難しい問題ばかり。また民意に従うなら議員定数の大幅な削減を実現すること。中選挙区制に戻すことを含めた選挙制度改革。原発再稼働は安全基準をクリアしたら可能なのでしょうか。どのように決着をつけるつもりでいるのでしょうか。福祉重視の政党なら、生活インフラとしての電力についても、発想の根本的転換が必要なのではないでしょうか。
    また震災ガレキ処理も自治体住民の反対で受け入れがスムーズに進んでいませんが、こういうときこそチーム3000の出番なのではないでしょうか。各自治体の公明議員が連携し市民の意見を積極的に取り上げて、自治体の個々の都合を乗り越えた住民密着の前向きな提案作りを推進できるのではないでしょうか。どうか各地で公明議員に訴えていただきたいと思います。

    具体的に政治の何を変えたいのか、国のあるべき未来を思い描けない、勉強不足のリーダーは創価のリーダーの名を汚すだけ。
    政治と宗教が表裏のように不可分のものとしてあった時代に、宗教者の言動はつまり政治改革者の言動でもありました。大聖人への弾圧は、他宗の讒言があったとしても政治的なものです。政治改革なくして安国はありえないとするイデオロギーは、すべての法を包括する妙法の一側面であったとしても喝破できない重大問題が含まれていました。宗教の使命である民衆救済は、政治を含めた社会の変革なくしてありえないことを立正安国論では説いているのです。当然、為政者に寄生虫のように張りついて生血を吸っている宗教者は、心のなかは空洞、権威と名誉、名聞名利しかありません。仏教精神からかけ離れた俗物的栄誉よりありません。現在の中国の知識人と同じ姿です。国家批判は体制批判ということであり、国家に飼い慣らされた人間に正しい主張ができるはずがない。

    信仰に純粋であろうとする気持ちは皆同じです。ご本尊さまと信仰者の関係は一体不二です。労苦を厭わず献身し、他者の喜びを自分の喜びとして人生の在りようを覚悟した人々の集まりであったからこそ創価は発展したのですから、先生が教えてくれたその尊い創価精神の実現をともどもに果たしていきたいと思います。
    改革は漸進的なものです。しかし、わたしのように組織で一人浮いている人間を、道理と哲学によって諭すわけではなく、ただけむたがれている存在は悲しいというよりありません。でも、社会の縮図である創価は、不変の部分と、時代に即した変化を受け入れなければならない部分もあることを考えていただきたいと思うのです。

    まず、マイ聖教はやめていただきたいこと。選挙支援のあり方、方法論としての有益性、無益性を考えていただきたいこと。競争心を煽りかねない成果追随主義、信仰には相応しくない成果主義で、何がワルいと開きなおる人がいて困惑しますが、組織の目標設定が必然的にノルマ化する過程を改善していただきたいこと、拡大はノルマではないのです。信仰は自発的なもの、組織の上意下達に関連して、会員の自由裁量の範囲を拡大していただきたいこと。未入会の方々を含めた中立的で自由な仏教研究会を永続的に地域に設置していただきたいこと、などです。
    現状肯定がさまざまな問題を生むのです。悪しきドグマに絡められる病理は、少なくとも現状追認の改革意欲の減少からもたらされるのです。
    科学的統計的な現状認識が問題を想起させる資料になるかもしれません。しかし、統監ひとつとっても一般会員が知り得ない項目があります。創価の執行部はきっと、危機感いっぱいだと推測します。したがって、一般会員が黙って打ち出しをこなしてくれさえすれば、当分問題は顕在化することはないと踏んでいるでしょう。消極的な組織運営というところですが、こういうときに限って、創価のためという大義名分のもと、信仰者の行動を天秤にかけて信仰の価値基準をあやふやにするような問題が噴出するのです。
    強力なリーダー不在ということもあります。演説と指導はイキイキとした面白さと教訓にあふれていなければなりませんが、本幹での原田会長の原稿を読むような話しっぷりにあまり感動することはありませんし、会館を出ればすぐ忘れてしまうほど印象がうすい。

    戦後アメリカン・フリーダムとして導入された個人民主主義は、わたしたちの体質同然に染みついています。その弊害を指摘することは簡単ではありませんが、社会を動かすのが良くも悪くも世論であるのと同様に、創価を変えるのも多数の会員の意見でしょう。その意味でも、積極的に主体的に、信仰活動が豊かな人間関係を作り出すことができるように、知的ならびに倫理的なアプローチと多様な人材獲得に、実践的経験を積み重ねていきたいと決意しています。組織はどこまでも人です。その原則を忘れないことを願うばかりです。


    #4
    わたしは、性格的に大雑把なところがあります。もちろん自分でもよく自覚しています。
    実際的な数値や事例をあげて検証する理科的能力に劣っています。言ってみれば、一般的にいわれる女性脳が不得意とする論理的分析を苦手とし、感情論に陥りかねない表現になってしまいます。
    でも自分で言うのも気が引けるのですが、直観的感覚に優れているように思えるのです。また細部より全体、それなりにコーディネートされて雰囲気がでていればOKというこだわりのなさ。ですから、家事その他、家庭的なことはできるだけ手を抜かないようにしています。料理教室にも根気よく通っていますし...
    どうでもいいことですね。

    わたしなりに論理を尽くしお話しても、まず支援ありきという姿勢には変化がありません。そんな頑固な壁の前で、いつも挫けそうになってしまいます。
    はっきり申し上げれば、組織疲労というものがあれば、現在創価はその過程に落ち込みつつあると感じられますが、いずれ誰の目にもあきらかになるような形で、問題は顕在化すると考えています。まず人材が不足します。
    粘り強い改革意識を継続しなければならないと、自ら戒めています。
    公明議員さんは他党の議員さんに比較すれば、どの方も献身的に行動し、支援に値する方ばかりと思います。それと政策の善し悪しは別問題です。


    #5
    以前、ゲーテの言葉を引用し、記事を書いたことがあるのですが、意味がわからなくて、自分なりに勝手に解釈しました。
    『古典的なものは健康であり、ロマン的なものは病的である』
    その意味するところは、(エッカーマン「ゲーテとの対話」)のなかにありました。

    『古典的なものを私は健全なものと呼び、ロマン的なものを病的と呼ぶ。この意味でニーベルンゲン(中世ドイツの叙事詩)はホメロスと同様、古典的である。なぜなら、両者とも健全で、力があるから。新しいものの大部分は、新しいからロマン的なのではなく、弱々しく病的で、実際むしばまれているから、ロマン的なのだ。古いものは古いから古典的なのではなく、強く生き生きとして、快活で、健康だから、古典的なのである。そういう性質に従って、古典的なものとロマン的なものとを区別すれば、事は容易に明らかになるだろう』
    ルネサンスは古典への復興運動ですが、内容はロマン的な復興運動でした。ゲーテは古典を健康と比喩していますが、病んだ体が健康を取り戻していく過程と考えれば、ルネサンスは新古典主義とも言うべきものです。
    人間はそもそも病むものです。また社会も病みながら不幸を生産します。精神が健康的だった時代は、空想のなかにしか存在しないように思います。時代はいつも病んでいたのです。これからも病み続けるでしょう。そして夢をみればみるほどロマン的になり、不健康な精神が謳歌する。現代も間違いなく病んでいます。

    最近は音楽の神に誓った言葉を忘れつつあります。天使のキラキラスティックも見えません。音楽が示唆を与えてくれないのです。それでも相変わらず、ロック娘のプライドは持ち続けています。
    ずっと前に買ったCDで、マリア・カラスのアリア集のなかに、グノーの「ファウスト」からの「トゥーレの王~宝石の歌」が入っていました。ワルツ風のアリアは、今のわたしにぴったりかもしれません。恋って美しい。悲しい恋も楽しい恋も。

    衝動買いしたオートマティック・ラヴレターの初CD。日本語タイトルは「堕天使の告白」。ちょっと過激なフレーズ。まだマイナーな存在ですけど、ストレートな感情表現でキャッチーな雰囲気はあります。次作に期待。
    ブルース系では、お馴染みのデレク・トラックス・バンドのライヴ盤と、シンガーの奥さんと共演した新アルバムの2枚。
    そのなかの一曲にこんな詩がありました。

    『もう私のチャンスは過ぎ去ってしまったの?
    それとも人に与えることができるようになるの?
    自分を縛るこの鎖を捨て去って
    新しい生き方を見つけだせるの?
    簡単なはずはない
    友達がいればそれで十分
    そしてあなたが傍にいてくれたら
    私はきっとやり直せるはず
    決して手放したりしない
    決してあきらめたりしない』


    グッドな歌詞よね。

    ゲーテの言葉を引用すると、
    『多数というものよりしゃくにさわるものはない。なぜなら、多数を構成しているものは、少数の有力な先進者のほかには、大勢順応のならず者と、同化される弱者と、自分の欲することさえ全然わからないでくっついて来る大衆とであるから』(格言と反省)

    わたしより辛辣ですね。すっきりしました。


    #6
    日本は物質的に豊かな国でありながら、先進諸国のなかでもきわめて幸福実感が乏しい国です。統計的な調査には国民性があらわれ、一概に断定できませんが、無縁社会、自殺者数などがクローズアップされると、決して住みよい社会でないことは誰もが感じるところです。政治の混迷は、さらに日本の未来を暗くするでしょう。そのような状況を作っているのは公明をふくめた政治家です。

    逆境に耐え克服していくことが創価精神の一つのテーマですが、わざわざ作らなくてもよい逆境を作り、挑戦して行こうと考えるのもおかしなことですし、またその逆境を克服していくことが幸福につながると主張するのも矛盾した論理です。
    政治が国民のためにならないのなら反対するのは当然で、公明党がどのような政策を掲げようと、とにかく支援ありきとは目的喪失の危険な兆候と見なしても間違いありません。組織の中心者は、単に扇動者と揶揄されてもおかしくない。逆境にいること自体に意義を見出だしているような詭弁がまかり通っては、人間主義の名が廃れます。
    幹部のなかには、苦しまぎれに、困難だから支援も功徳があると強調する人もいますが、わざわざ困難を作るなと言いたい。
    行動は目的地があって始めて行動たる意味があるのであり、目的を持たない行動などありえません。

    わたしたちは、妙法という新しいルールにしたがって、新しい信仰や道徳、言語を得ました。そのルールが究極のものであれば、未来永劫、そのルールの流布に務めなければならない宿命にあります。
    同苦と利他はイコールで結ばれるアクティブな行動です。わたしたちはその核心となる慈悲の精神を新しいルールで知ることができました
    しかし、いつでも、その実践集団に従うことが、信仰者のとるべき態度ではないと考えます。幹部のなかには自分の意見を検討もしないで、上にいる人間がそう言うのだから間違いがないだろうと、他人に依存して疑問に思わないご立派な方もおられますが、村社会で染みついた判断習慣が形を変えて支配しているのであり、先生が最も嫌う主体性の喪失にも気づきません。
    信仰に柔順であることの大切さは先生がご指導されていることですが、すべてに適用されるわけではありません。他人に判断を任せる人間を軽蔑します。創価も信仰があるだけの烏合の衆です。愚かなる大衆の一員です。
    自分の本心を決して言わない人が、創価のなかにもいる。疑問を感じていても争うことなく平穏に、波風が立たないように、集団規律を重視しているのでしょう。一見大人のような態度に見えますが、はっきり言えば、ただ覚悟がないだけ。信仰は戦い。自分を主張せずして、正義とは言えません。
    壮年部はいつも婦人部の影に隠れて、今大事なときなのに声をあげようとしない。いくじない、小心者のあつまりです。何か言ったら脅し半分で忠告を受ける。創価はヤクザ集団ではないのです。戦中時代、思想統制をうけたとき、どれだけ勇気ある人物が立ちあがったことでしょうか。

    わたしは、宗教組織は完璧でなければならないと言っているのではありません。不完全な人間が集合して組織するわけですので、完璧であろうはずがありません。しかし、先生がそうしたように、改革努力は怠ってならないと考えるのです。
    師弟一体と言うとき、すでにわたしたちは師の思いに違背しています。師は創価を何より大切にしてきたからこそ、改革努力を惜しまなかった。幸福集団を実現するために、人々を啓発し教育し、そのような夢のような理想を追い求めてきた民衆指導者はかつていなかったでしょう。組織は幸福という花が咲き乱れてこそ意味があり、そのためには絶えず土壌改良を心しなければならないと思います。先生はその土壌改良を推進してきた開拓者なのだと思います。
    問題は上も下もなく会員同士で共有すること。そのためには、必要な情報は開示し問題点を提示しなければなりません。創価の歴史認識に誤謬や隠蔽といった悪質な企てを加えることなく、学術的にも耐えられる一定の検証過程を、辛い思いをしてもやらなければなりません。

    SGIは人類の希望です。その堅固な仏教思想と人間主義という慈悲の普遍思想は、先生のたゆまない知的格闘と実践から生みだされたと、わたしは承知しています。
    わたしたちがすべきでないこと、それは責任回避です。人格向上のかずかずのトライアルのなかで、組織運営だけでなく、組織創設に比すべき新たな挑戦――それが責任感の証ではないでしょうか。問題克服は共同でやり遂げてこそ発展につながります。妙法で言う団結とは、会員の連帯に他なりません。
    自分に甘く、判断を拒否するような人間は、使い物にならないガラクタに等しい。また感動する心があれば信仰の質も向上するのであり、いくら堅固な論争を経た結論であっても、生活の場で生かされない思想や判断など、タンスの奥にしまわれた陶器のように、まったく実生活に寄与するものではない。彼らは自己懐疑、つまり自分の判断が正しいかどうか、の作業を放棄した自堕落な種族であって、社会に害を与える似非信仰者です。妙法を保ち続けていても、大聖人がおっしゃったように、地獄への足どりを停めない人々です。
    言い過ぎでしょうか?
    わたしはまた、軽善の罪を犯してしまったかしら。

    妥協するな、孤高を歩め!
    「一人立て」とはそういう意味ではないでしょうか。
    釈尊も大聖人も、そういうご生涯だったのではないでしょうか。


    #7
    法華経は実際に釈尊が説いた経典なのかという、以前からの問題があります。「法華経の智慧」だったかどうか忘れましたが、先生も話題にしていたと思いますが、そのときの先生は、誰が説こうと内容の素晴らしさに変わりはないという答えだったように思います。わたしもそう思います。大乗仏教は原点回帰運動でもありましたが、平等思想、悟りの達成と意味、信仰と行為のあり方など原始仏教の思想と共通するところが多い。つまり誰が説いたかではなく、何が説かれているかということが大切と思います。
    日本で大乗非仏説をとなえた人として有名なのは、江戸時代の富永仲基ですが、このような独創的見解はその後の仏教界では無視されました。今となってみればその研究は正しかったと言えるのですが、この説を認めれば仏教界に大変な影響があることはあきらかですから無視され続けたのです。

    大聖人は独自の法華経解釈を行いました。例えば、「自我偈」の「自我得仏来」から「速成就仏身」の最初と最後の文字をとり、「自身」を説いたものと言われましたが、「自我得仏来」は「我れ仏を得て自り来」(われ仏を得てよりこのかた)と読みくだすのです。漢文では「自」は「~より」と読み「自分自身」という意味の「自」ではありません。もちろん大聖人は十分承知のうえであらたな解釈を試みたのでしょうし、それが法華経の精神と合致していたことは言うまでもありません。つまり大雑把に敷衍していえば、文底の解釈とは大聖人の独自の解釈をいうのであり、人間そのもの、生命そのものに焦点を当てた解釈と言えます。
    また「我実成仏已来」の「成」について、「成とは開く義なり」とあります。「成る」ではなく「開く」と解釈しています。現在の自己を否定し別の自己に成るという自己否定ではなく、自己はそのままに自己の可能性を開きあらわすという自己肯定の意味です。仏に成るのではなく、仏の命を開きあらわすのです。そのことを知る人を覚者というのであり、ブッダが「目覚めた人」と説いた人格と同義と考えます。

    仏教にかぎらず宗教の歴史は、解釈と深化の歴史です。
    後五百歳と説き、仏滅後2000年を経過したのち、始めてその深化が完成すると予言した叡智は、三世を見通す究極の仏智という他ありません。すでにその時点で、仏教というカテゴリーを超えているのです。解釈と深化という視点から後五百歳の時代区分を見れば、とても興味深い世界歴史観が確立されるのではないでしょうか。そして、その最先端に先生の人間主義も位置付けられると思います。
    「在在諸仏土常与師倶生」という契約の言葉(「我等無始より已来師弟の契約有りけるか」御書p1342)から直観するのは、人間主義思想の実践者は現在も未来も精神の勝利を目指す仏弟子だということです。師弟の因縁はとても堅固です。
    わたしは先生の人間主義こそ、歴史の重い試練と検証、研究に耐える思想と確信しております。伝統の仏教思想の樹木の枝に美しく華開いた蕾と比喩してもよいでしょう。そして人類の希望となる新思想です。でも、SGIとしてのグローバルな広がりのなかで、まず最初に主張すべきは善悪のけじめです。自由を侵害する独裁主義思想は断固として否定しなければなりません。

    信仰が自由であるように、活動も自由です。非活であっても功徳は十分過ぎるほどあるでしょうし、その喜びのなかで使命を感じ、自分なりに考え方と生き方を変えていければ、人生も有意義なものになるのではないでしょうか。法の流布へのいろいろな貢献のしかたがあって当然と考えます。
    組織を守るということは、そのなかで自己実現をはかろうと努力している会員を守るということです。そのためには会員の気持ちを素直に受けとめる必要があるでしょう。無理をしていないか、怨嫉をしていないか、何か疑問に思っていないか。言葉を選び適切に直言する度胸と勇気が多くの共感を得る行動と思います。思慮深い慎重な判断と行動をお願いします。


    #8
    人間主義を理解するキーワードは、「非暴力」と「調和」だと思います。
    広宣流布を破壊する仏敵には決して妥協してはならないと、先生は機会あるごとにご指導されております。日蓮の排他主義がときどき問題になりますが、法華経では悪人への厳しい指弾とともに成仏の可能性を随所で説いています。安楽行品ではじょじょに誘引する摂受が説かれ、常不軽菩薩品では妥協しない折伏が説かれ、方便品で生命の尊厳性を説いたにもかかわらず、陀羅尼品では法華経無理解者に対して排他的な言説が見られます。提婆達多には未来成仏を約束し、不軽菩薩に迫害を加えた男女にも更生の可能性を示しました。大聖人は「願わくは我を損する国主等をば、最初にこれを導かん」(顕仏未来記)と言われています。法の流布を懐疑的に攻撃してくる敵対者を最初に救済すると断言されています。
    大聖人は戦う寛容主義者でした。大聖人が戦ったのは、法華経誹謗の非寛容な思想に対してです。念仏の他力主義は人間の主体性を失わせ、真言の神秘主義は人間とかけ離れた超人的仏が中心であり、禅宗は日常性を軽視する傾向があり、律宗の戒律主義は他律主義であり、法華経から見れば、それぞれが人間性の可能性を否定する思想でした。このような思想は形を変えて現在でも生きているのであり、それが根源的な悪であることは、わたしたちが十分学んだところです。生命の自在さを本源的に否定する反人間主義といってもよい思想への戦いは、創価のリーダーに継承されています。
    人間主義は自由自在にすべてを生かす智慧であり、変化と多様性を硬直的にとらえる思想ではありません。現実に即し、自他ともに幸福を実現していく実践的方法です。
    自分を捨てて他人に献身するのではなく、また自分の幸福を優先する独善やエゴイズムでもなく、他者共存と生命の全体性を信じる中道思想。人間の主体性の理想を説く中道こそ人間主義の要です。先生のすべてを生かす哲学と実践は、実は社会のあらゆる分野において、パラダイム転換を迫っているのです。
    先生が多くの称賛とともに無理解の非難にさらされるのは、すべてを生かす全体性という思想の巨大さを理解できないためと思われます。悪も善も、否定も肯定も、差別も平等も、排他でもなく包括主義でもなく、妙も不妙も調和していく、それが法華経の真髄であり、人間主義の真の姿です。

    組織批判をして、それを最後まで貫き、組織を新しく作りあげた人は皆無です。でも無駄ではありません。法華経においてどのような意見でも無駄ということないのです。


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    For Hong Kong
    Eternal Eclipse - "Forgotten Odes"


       Tracklist :
        00:00 The Game Is Afoot - Neal Acree
        02:33 Dirt and Fire - Piotr Musial
        04:43 Revolution - Piotr Musial
        07:10 Dawn of Faith - Thomas-Adam Habuda
        10:22 Born from Ashes - Axl Rosenberg

    。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*




    哲女のメモ 2

    #1
    会員の皆さまは、疑うことを知らない純真さです。
    師の命と同等のものである創価の組織と同化している会員は、宗教の一般的使命である奉仕精神を体現しています。他者のために尽くすことを最良の徳性と考え、信じているのです。
    不疑と疑の相克ともいえる現代にあって、善を願い、断念することない辛抱強い意志の継続は、貴重な精神運動として正当に評価されるべきです。
    ただ、わたしは、教義とともに信仰への確信を左右する情緒的純粋さにおいて「永遠の少年・少女」のような、成人らしからぬ未成熟さを、その行動と判断パターンに見てしまうのです。創価にも問題があるのです。それを知ろうとしない子どものような無邪気さは、大人に守られた子どもの幸福感と同じようなものです。
    師弟不二は、師という精神の母胎で安心することではありません。師の思想から飛び出し、世間の荒波を越えることです。信仰の自立と自我の確立は同じ意味です(話題になった海の文化と山の文化の相違は、個の主体性と独自性、場の平衡状態を維持しようとする倫理の違いであることを、よく考えてみる必要があるのではないでしょうか)


    #2
    家庭を、地域を明るく照らす太陽という比喩は、女性に等しく捧げられた普遍的讃辞です。誰も菩薩になる資格があり、そのことを一番よく知っているのも女性です。励ましのなかに抱きかかえるような愛情の強さを感じ、慈しみのなかに不正を憎む正義を実践している女性は、輝かしき創価の希望です。
    恐れるものなどなにもありません。潔く清らかな美は、心のなかの品性ですね。

    かつて支配者であった王族や独裁者にかわり、民主主義という神権を獲得した大衆は、常に明快で、わかりやすい論理で、とるべき行動を説明し、妥当な判断を、強いリーダーのなかに求めています。
    このリーダーは思想家ではなく行動家で、強い確信を持っています。大衆が欲しがるのは、自分の行動を保障してくれる確信の一言であり、単純すぎる断定なのです。「悪は世界を滅ぼす。したがって戦う準備をしなければならない」という単純な断定ほどわかりやすく、受け入れられる正義はありません。
    「悪」を「イラク」に置き換えてみれば、その当時の強い確信を語った小泉首相の指導者像が浮かんできます。郵政解散のときも同じ手法が用いられました。二者択一のわかりやすい議論を誘導し、国民の支持を得て、大勝利しました。同じ確信の一言が大衆を動かすというスタンスです。3・11からしばらくの後、田中角栄待望論がでました。なにも決められない首相や政府に対し、強引さがあったとしても自信を持って行動する人物像を救世主のように思い描いたのでしょう。先行き不透明の混乱の時代、哲学もなきに等しい不毛の時代、指をさし示し、方向をさだめ、確信の行動哲学を持つ人間が必然的にリーダーになるのです。

    イラク問題のとき、国民はその判断をリーダーにほとんど一任しました。大きな渦に巻きこまれた反対勢力もつまりは同じです。中途半端な反対よりできないという根性の座りが揺れているのです。聖戦に挑む聖戦なら、なにを躊躇することがあろうと確信者は国民を鼓舞します。聖戦など幻想と、一言で大衆の目を覚まさせる真のリーダーは奇跡のように稀です。SGI提言に強い制止の言葉がなかったのが残念です。平和主義と言っても、昭和初期のころと同じで、戦争抑止になんら力を発揮できなかった仏教界の姿に重なります。グローバル時代のこんにち、他国のことであっても、漠然とした概念や理想、道理にとどまる正義をいくら説いたところで通用しません。日蓮は立正安国に命をかけたのです。なぜ、不正や不正義を強く諭そうとしないで、世界の犠牲の上に自らの提言と論理を築こうとするのでしょうか。自己満足に過ぎません。

    わたしから言わせれば、政治はファッショナブルなものであり、正しく民意が反映されるとは限りませんし、また正しい結果が伴うとも言えません。民主主義の負の側面を強調すれば、わかりやすいキャッチフレーズになびきやすい大衆が、多数決原理の行使で社会の方向を決定しても決して満足しない、ということです。その延長として、現在、大衆の過剰な権利の主張が、国を滅ぼしかねない財政悪化を招いていると言ってもよいのではないでしょうか。今や自己責任という言葉ほど死語に近い言葉はありません。

    では公明党はどうでしょう。党には理念的指導者がいません。それまで創立者がその役目をはたしてきました。社会からの非難でもある政教分離を厳格に適用しようとするジレンマが、党の勢いを減速させました。この予期しない党勢の減少は、政教分離に敏感に反応し、次第に疎遠となっていく創立者と党の精神的乖離が最大の原因なのです。また、矢野某のような人間が生れる原因の一つにもなりました。
    批判が目的の低級な政教一致論でも、党勢伸張に比例して無視できない数がおこり、創価と党は神経質な警戒を余議なくされました。この批判のための批判に同調したのは、おもしろ半分に話題をとりあげる一部のメディアと、自由と平等の質を問うことなく腐った金看板を掲げる政治家と知識人です。オルテガが弾劾した「大衆」迎合であることはあきらかです。

    選挙になれば裁判官と同等の権限を持つ国民からは、公明党が創価のほうを向いているのか、国民のほうを向いているのか、判断できない迷いがあると思われます。わたしが公明党の独立を提案するのはそのためです。公明自身もまた真の精神的指導者が党外にいるために、強い確信を持てないでいるのです。そしてこのような体質は、犠牲をいとわない外交問題に顕著にあらわれます。

    現在の中国のあからさまな東シナ海への進出が、近未来の日中間の大問題になることは目に見えています。互恵関係など、大ウソを本当らしく見せる、ただのあいさつ言葉です。誰も信じていません。日本人の戦略なき幼稚なお人よしは、もう罪悪です。
    中国の価値判断は、支配するかされるか、征服するかされるかです。さらに他を顧みない貪欲さは品性の最低部類でしょう。国家主義とは覇権主義のこと、内部覇権が行われるから同時に外部覇権も行われる、つまり権力闘争からはずされた者は粛清が待っている。知識人はおののきながら、学問ではなく、国家に忠誠を誓う。勇気なき知識人ほど、社会に害毒を流し、民衆を裏切る存在はありません。
    国民利益の代理遂行者である日本のリーダーは、財政ばかり気にかかり、恐怖がすぐそばで待ち構えていることに目をふさいでいる。
    公明党に欠けているものは、国民をリードする、リーダーとしての確信の行動と理解しています。実質的活動部隊である公明支持者と会員が、いくら頑張っても、解決できない問題でもあるのです。党自身の、党の存在自体の根本的問題なのです。創価の執行部も気づいているはずです。
    「大衆のために」という言葉がどれほどポピュリズムと結びつきやすいか、「大衆の側に立つ」とした姿勢が、沖縄基地問題を肯定し、それ以前には秘密保護法や集団的自衛権の問題への安易な妥協に至ったこと、自民党という多数派と高支持率の政権に同調した権威主義は、仏法的に言えば、権力と結託して国民を苦しめる『僭聖増上慢』と思えるほどです。もちろん会員は盲目に等しく考えることをしないので、自分に都合が悪いことは気づくことはありません。池田先生はなぜ、このような会員を模範的会員として啓蒙し続けたのか、後世に厳しく断罪されることでしょう。人間主義の体現者というなら、なおのこと、人間主義という視点から自らの過失と誤謬を正直に告白しなければならないと考えるのですが、精気を欠き、老いた現在、省みるアビリティーが残っているのか、無残な面影しかありません。

    政治家は常に言い訳を考えているものです。
    「精一杯の努力をしたのです。しかし結果は期待したようなものでなく残念です」
    ニュアンスは違っても、民主主義になってからの政治家の常套句の一つといってもよいでしょう。
    お気づきになるかと思っていたのですが、「政策実現のため与党にとどまる」という言い分は、創価の「会員のため」という言い分と同じ構造を持った大義名分であり、支持者を十分納得させるフレーズでもあります。困難だけれど、それを乗り越え、社会のため、民衆のため、弱者のために、政策実現、政治的安定を勝ち取るとする訴えは、学会活動を社会への貢献とする固い信条の会員には、最もなじみやすく、シックリくる訴えです。会員が日夜励んでいる行動基準と同じだからです。
    だからと言って、会員の皆さまの行動を批判しているわけでないことをご理解していただきたいと思います。

    会員にも理解度には個人差があり、自らが為す行為の意味を深く考えない人が批判の対象になるものでもありません。それも個性であり、尊重されなければならないことですが、少なくとも、他を指導する立場にある人は、教団が社会的影響力を保持している以上、社会的問題にも精通していなければなりません。人間に関心を持つことは、その相互の関係性にも関心を持つことであり、しいては社会の正、不正に対し意見をのべ、糾弾することです。正しき者には賛同とさらなる励ましを、悪とは徹して戦うことを、信仰とはそのような生き方であることを、結局、先生はくりかえしご指導されているのではないでしょうか。

    信じることは疑いを克服した信であり、ある信仰者にとっては哲学や思想を突き抜けた純粋さの意味でもありましょう。信は固有のものであり、個人の深い部分に関わるメンタルな行為です。定量的に量れないことはもちろんですが、学会活動に参加しないから、信がないなどと考えること自体、妙法の諸法実相の法理を裏切るものです。活動家が陥りやすい、自己満足と偏見の、浅いとらえ方であると思います。
    わたしたちの肉体を二つに割れば、そこから現れるものは、「信じること」と、「疑うこと」という二個の内蔵です。この漠然とした概念は、無明と深い関連性を持っています。信は疑うことから始まり、「疑い」をかき分け、選り分け、最後に残ったものがダイヤモンドであるように、疑いの大地のなかで、疑えない一粒の信を求めることなのです。難信難解はそういう意味ですが、これは過去の仏弟子がたどった道でもあり、完全な否定から肯定を導き出す釈尊の説法も、懐疑と迷いの二本の鎖から解放されることでした。このことについては、長くなりますので、後日の研鑽課題としたいと思います。

    あらゆる急進主義に疑いを持ったのは、ガンディーですが、平和は漸進的に進むとしたのもマハトマです。ヒンドゥー教徒であっても、インド伝統の非暴力は仏教の系譜に連ねるものです。仏教はなくなっても、民族を形作る精神として生きているということです。遺伝子のように受け継がれているのでしょう。
    ブッダはアーリア人と思われます。血統へのこだわりは強く、近親間での結婚は普通であったということですが、ブッダをとりまく女性関係も、わたしの興味の対象です。出家動機に深く関係していると考えられるからです。これも、後日の課題。

    困難な使命を感じたとき、人材が澎湃と湧きあがってきます。逆に言えば、人間成長は、困難にむかうから成し遂げられる。なまぬるい生活も信仰も、政治も、さよ~ならです。
    幸せになりたかったら、覚悟してついてきなさい、とわたしは部員さんに言うのです。
    創価は別名、弱気も怠惰も駆逐する<幸福製造案内所>みたいなものでしょ?


    #3
    宗教は哲学と行動の均衡のうえに、必要な行為として社会に受容されるものです。展開される社会があって宗教行動があるのですから、精神的価値として、社会の諸機能と調和していかなければなりません。健全な宗教組織であれば、信者を導く一つの聖的な理想が、個人が考える理想を越えて生活規範にならなければ信仰している意味もなく、社会の諸機能としての市民の責任をはたすことができないと思われます。
    日本人に流れている宗教文化は、宗派を越えた底流に、集団意識にとりつかれやすいという、ナショナリズム的要素があるように感じられます。個々の明晰な信仰を求める創価も例外ではありません。信仰「闘争」は一つの表現ですが、宗教的価値観をセンセーショナルにあつかい、また誇張して表現する精神性は、個人の意思も埋没しかねない危険を持つものと思います。個人の尊厳を説いたものが宗教なら、個人の自由を無力化してしまう扇動的指導は、非日常のルールに恭順を迫る精神的暴力と考えます。創価にもこれに似た指導があふれていることを、わたしは宗教の野蛮化と言いたいのです。中道と言いながら、どうして両極端を歩むのでしょうか。
    進歩でなければ敗者、日々向上の努力を怠れば、革命家ではないとする激しいスローガンにはついていけません。創価に一人もいないそんな人物を説いたところで納得も得られません。真理は正しくても、実行する人間の行為は間違いだらけです。自分の生命傾向を見つめる洞察の重要性を理解されているのでしょうか。ご本尊さまは自分を映す鏡というではありませんか。

    ビビッドな生の組織化、正義の組織化が運命共同体の使命なら、他者の思想に不寛容であることはもっとも恥じなければなりません。多くの思想、多くの生活に共感を寄せることが調和の喜びなのではないでしょうか。慈しみにあふれ、情け深く、正も悪も受け入れる自我は、菩薩を模範にした自己管理による心の開発なのではと考えるのです。
    同じご本尊さまを受持していても、その行動は一様でなく、画一的でもありません。世界や歴史が簡単な定理で解明されないように、多種多様な動機で出発した信仰者には、多種多様な結果があってしかるべきであり、正義や過大な自己礼賛に統一された組織の理想を、会員におしつけるべきではありません。
    組織に対しての批判意欲の減退は創価に見られる特徴だと思いますが、それは教義に忠節を誓っているというよりは、凡庸な権威の絶対主義へ近寄り、安易な師弟関係に堕して、人生という不確定性へのひたむき、理知的な挑戦が忘れられているからと推測します。
    師依存の信仰から力強い自立の信仰へ飛躍することを、自分で考え責任を持ち、一人になっても意志を曲げずに行動することを、師は求めているのです。挫けない探求心と精神の質を高める思想、明瞭な言葉を持ったほんものの人間を期待しているのです。
    挑戦する人生を、師はいつも見守っているとおっしゃられますが、不特定多数の会員は総体的にしか把握できません。優れた人間でも、他者の心を知ることはいつも不可能に近い難しさです。人間なのですから当然のことです。師弟関係から救済される人もいれば、師弟に関係なく、人生を肯定的に独立的な心的堅固さを持ちながら挑戦する人もまた多くいるのです。仏法哲学は幅広い人格に対応していることを知るべきです。慈悲は求める者のためにあるのです。組織はいつも過大に宣伝され、誇大に装飾されることを会員はよく知らなければならない。教義とは関係ない思惑が、組織を動かすルールになることもよく注意しなければならない。弟子は良かれと思って師の考えとは違う方法に固執するのです。

    一口に内部アンチと定義され蔑まれるわたしのような異端は、つねに批判にさらされますが、批判されるから間違っているとは限りません。始まりはいつも少数派であり異端なのです。また信仰の自由は自覚され意識され学ばれる自由だからこそ、確固とした精神性を獲得できるのです。左脳で分析し否定し、右脳で共感とともに肯定する。それがわたしたちが実践している祈りです。

    まず身近な人々に自分の思いを訴えて、対話のなかで論議の中立性を確保しながら、理を以って諭し、行動で証明すべきではないでしょうか。結果も大切ですが、因果倶時ならプロセスもまた凡夫にとっては大切と思います。手段が目的より尊いことはありえず、手段が正しい動機より勝ることもありませんが、未来の結果よりも現在のプロセスが大切であり、それは正しい動機に支えられているからです。何も考えない人より、思慮深い行動家がその現在を最大に活用しているアクティビストではないでしょうか。
    自分の人間的大きさの範囲しか、境涯の深さも、問題解決も達成できないのではないでしょうか。道理を学ばなければ、真理にたどりつけないのと同じように、人間を理解できなければ、集団もつまりはわからないのではないかと思っています。


    #4
    あなたのまわりには、あなたの話しを辛抱強く聞いてくれる人がいないのですか?
    親身になって相談にのってくれる幹部がいないのですか?

    嘆くことで気が晴れるなら、いくらでも嘆いてください。でも同情はしません。
    わたしから言わせれば、運命を組み伏せ、逆らうほど痛快な人生はないのに、そのおもしろさを嘆きで消しているようなものです。ご愁傷さま。

    答えは嘆きのうえにはありません。
    嘆きのカスのなかにもありません。残り火とは違います。
    嘆きは魂の抜け殻なのです。火が消えた灰なのです。
    嘆きや愚痴は、自分の人生に、自分でケチをつけるようなもの。
    ケチをつけた自分も、つけられた自分もみじめになるだけ。
    否定的な思考パターンは、まわりへの敵意と責められるような不安を助長するだけです。

    嘆きを繰り返す自我は、苦痛を与えるだけで、喜びも元気も蘇らせてくれません。自我は完璧な自我になろうと努力しています。これはあらゆる人間に共通した意識なのです。
    マイナス思考はネガティブ感情の無限回路を開き、泥沼に引き込もうとします。
    油断禁物です。
    これを防ぐには、毎日、何回も何十回も決意表明しなければなりません。自分に言い聞かせるように、弱い自分を励ますように、変化は必ず訪れることを信じて、健気に戦いを挑む自分自身に深く感謝しながら、決意を繰り返すのです。
    因が果を生むように、決意が変化を生むのです。
    (「小説・人間革命」では、どの場面でも主人公が何度も決意します。「人間革命」は、先生の決意披瀝小説なのです。決意が人々を変え動かし、創価を作ってきたのです)

    わたしは強い、わたしほど幸運な人間はいないと、自分にちょっぴり語りかければいいのです。どんな危機のときにも、自分の最大の味方になってくれるもう一人の自分が、大急ぎで目を覚ますでしょう。「目を覚ます」という表現が大変ピッタリです。自分が知らないだけです。
    胸中にいる仏の分身が、人体を構成する60兆の細胞一つ一つが、ダイナミックに再生する瞬間を体験できるでしょう。
    そのための最大の伴侶になってくれるのが、あなたのご本尊さまです。

    祈りはまず、ありのままの自分をかくすことなく、自分が自分を肯定することから始まるのです。そして信仰の継続は、自分に希望の言葉を語りかけることを継続することなのです。自分は変われる、自分は最良の人生を歩んでいけるという確信を、絶え間なく自分に告げることなのです。
    信仰にも祈りにも「方法」があることを知ってください。

    嘆きのスパイラルから、強き独白の循環に転換してください。
    ご本尊さまは、力強い生命浄化を約束してくれるでしょう。
    嘆くヒマがあったら、ご本尊さまをにらみつけて、胸奧に心があると信じて、自分を吐き出すように、ご本尊さまの命を揺さぶる題目をあげて挑戦してください。
    変わらないものは一つもありません。
    セルフマインド・コントロールが自己変革の常道であり、唯一の道なのです。
    心が変革の源なのです。スタートなのです。
    能率的能力が試される仕事も同じです。
    あきらめない活力を持つ者が困難の峰を踏破できるのです。
    総合的人間力が基礎です。信仰がその力を開発します。
    慈愛に満ちた世界を創造できる心は、本来誰にも備わっています。
    ただ隠れて現れないだけ。
    変化に柔軟に対応し、確実に、現実的、具体的行動を選択することができる自分自身も、すべて心のなかにあるのです。
    その心は、早く指令がこないかと、あなたの言葉を待っているのです。
    不安と猜疑から、自信と確信のドラマへ転回し、その報酬をしっかり手にしてください。

    霊気が漂い、読むだけで沈痛になるコメントは削除しました。嘆きほど愚かな表出はありません。毒のように、自分だけでなく家庭や社会までキズつけます。天に向って唾を吐きかける行為と同じです。
    わたしがあなたのそばにいたら、力になることができるでしょうか。
    解決方法は必ずあるのに、もどかしさを感じてしまいます。
    あなたのそばに、力になってくれる誰かがきっといるはずです。
    あなたの幸せを、深くご祈念します。


    #5
    最近、知識に飢えているわたしは、血をしたたらせたオオカミのように彷徨っています。わたしをとらえる目の覚めるような表現に出会わないことが大きな原因のように感じています。
    ある人は、指導のコピーに自分の考えを上乗せして、深化も実践もないのにご立派な指導を並べる。それも一つの生き方ですが、つまりは自分の人生も、自分では縫うことがない服を着て鏡を見ながら微笑んでいるようなもの。与えられた信仰のパッケージを中身も確認しないで、ラベルで価値判断して疑問を感じない。純真と言えばいいのか、純真バカと言えばいいのかわかりません。
    何人の人に普遍的思想を植えたのか、そもそも自分の人生を変えたのか、先生のご指導通りに心の革命家になったのか。何十年も信仰してきて生命変革過程を実感できたのか。自分で自分の始末もつけられない怠惰な信仰者が多過ぎるのです。

    独立心こそ大いなるものです。一人歩むスピリットこそ修行者の信念です。その他大勢の群衆は、みんな後からついてくる。「わたしの人生のほうが不幸で悲しくてひどかったのよ」なんて、他愛もない自慢話を交わしながら。悲哀と愚痴の道には、悲しく腐った枯れ葉が降り積もりばかり。わがままな信仰者は依存から抜け出そうとしない。菩薩行は根気が一番ですが、凡夫的菩薩には限界もあるというものです。不幸になって目を覚ますことを推奨します。不幸も時には良薬になるのですよ。

    組織悪は単純ではなく、一見、正装の紳士淑女に見えます。でもよく観察すると、細かい部分に汚れやシミややぶれが見えるのです。見えない人には見えません。

    最近、わたしはとても信じられない体験をしました。
    深夜、学活の帰り、いつものように決まった道を歩いていると、近くにあるお寺の方角から、自分のほうに向かって、ゴルフ球の大きさの白い丸いものがゆっくりと移動してくるシーンに出会ったのです。
    はっきりとした明るさでなく、よく見なければ見逃してしまうほどの明るさなのですが、飛び上がれば手が届きそうな高さで、わたしの頭上を越えて民家の屋根に消えていきました。何だったんだろうと、後で考えてみましたが、あれが世に言う、火の玉(ひとだま)かしらと思い当りました。もしも火の玉なら、手に取ってよく見たいと思いました。
    わたしは、スピリチュアルな体験を感じやすいのかもしれません。見えないものが見えるのです。信じられませんよね、こんな話し。

    旗を掲げ、勇敢に、自分に正直に、戦いを挑んでいきたいと思います。
    不動の星は古来から航海者を導き、明るく闇を照らす星です。きっとブッダも見たでしょう。大聖人は祈りを捧げたことでしょう。広大な宇宙のなかで、人間なんてチッポケな存在。その一生も光が進む一瞬間です。悲しみや楽しみはさらに刹那。そんななかで人間の邂逅は不思議な出会いです。
    正しい哲学を継承することは光をつかむような難しさ。でも人間主義は、星の輝きに負けないぐらい、人々の方角星になるでしょう。
    懸命に努力される会員の皆さまのために、わたしも負けないで、嵐のなかに飛び込んでいきたいと決意しています。


    #6
    人の一生にも四季があるように思います。
    春は美しいばかりでなく、死からの復活も意味します。滅びて再生する物語は、世界中に認められる復活譚です。死が耐えられない不安と神秘の彼方に、人間の知能を越えた不可解なものとして在るかぎり、死に有意義な意味を付加し、生の総決算あるいは善行や悪行を清算する、来世への再生願望が反映しているように思います。
    もともと、輪廻思想は釈尊以前からあったインドの伝統的思想ですが、農耕社会に一般的に認められるテーマのようです。枯れたと思われた植物が、春になればまた固い種から再生するのですから、再生と再死を自然から学び、同じ生類として人間に適用するのも無理ないことです。輪廻という基本倫理は、社会の安定に十分な役割をはたしました。ブッダもその発展形を思想に取り込んだと思われますが、因果応報の自己責任倫理が現世における善行をもたらしたのです。ニーチェの永劫回帰は、このような輪廻転生から発展し、積極的な運命の取り込みの発想を考えると仏教の願兼於業に似ています。

    白い花と濃い緑色の葉が鮮やかな沈丁花が好きです。
    花は小粒でも、香りは春の香りですね。
    可憐なカタクリの群生を見たことがあります。
    どうしてそんなに思い悩んでいるの、とわたしは言いたくなるのですが、うつむきかげんに咲く明るい紫の花は可愛らしくて、とても清純な思いを抱かせてくれます。
    小学生のとき、道路の側なのにほとんど誰も踏み入らない近くの山に、父と一緒に行ったとき、その群生に出会いました。木漏れ日のなかで、ひそやかに知られることなく咲き誇っていました。足がくるぶしあたりまで沈み込んでしまうほど、枯葉が積もったやわらかい地面。一面の花の野のあまりの美しさに涙が出そうになりました。すぐ近くにこんな深い神秘な場所があるなんて、信じられませんでした。人知れず咲き散る花は、自分を主張しないのだと言いたいほど、つつましい印象を与えます。

    若いという勢いだけで、何も与えるものを持たないわたしは、頭でっかちの苦労知らずの愚か者です。高慢になりがちな知識かぶれで、自分の正しさの主張ばかりで謙虚な気持ちを失いがちになる人格傾向があることも分かっています。
    人生は多少の苦労はあっても美しいはずだと思いたいのですが、少女時代をとっくに過ぎたわたしが、そんな願望は儚い夢のようなものであることもよく分かっています。
    でも、それでも言いたいのです。
    一生懸命生きることが、そもそもとっても美しいことなのだと。
    誰に理解してもらわなくても、苦しみや悲しみを背負い、背負いきれないほど背負い、普通のあたりまえの生活さえ叶えられない人の道であっても、誰にも知られない野の花に飾られた美しい道なのです。どんな障害があっても、生き続けること自体が美しいドラマであり、感動する主題に満ちているのだと考えるようになりました。

    最近、ブッダに関する本を集中的に読んでいます。
    と、言ってもほとんど入門編なのですが、読みながら感じたことは、出家以前のブッダはその内面に強い不安をかかえていたのではないかということです。
    今では、神格化された聖人としての姿より伝わっていません。どこか人間離れした姿と、経験と知的格闘から得られた思想は、弟子や後世の仏教者において整理されました。
    ブッダの不安は、生老病死というような形で、分かりやすく、また現実的に納得できる真理に集約されました。その不安は時代や社会構造に関係なく、人間に共通した普遍的真理と思います。また不安の障害は、社会の病理であり、不安を感じない人は皆無と思います。

    わたしがいつも感謝しているのは、父や母が苦労しながら真面目に働き、経済的に大変ななかで、仲の良い家族を支えてきてくれたことです。特別なことは何もありませんでしたが、普通の家庭で普通にそれぞれの役割を果たしてきたように思います。
    ただ信仰だけは毎日の行動から、その大切さを教えてくれました。特別病気をすることもなく、好きなことを好きなようにできた、それは両親の愛情があればこそと、今はしみじみと思います。
    そんな幸せな家庭のなかで育ってきたわたしからすれば、貴女の体験は辛過ぎます。
    半生をお書きいただきありがとうございました。
    でも、わたしは何を言えばいいのか、言葉が出てきません。理解したように言葉を吐くことにためらいを感じるのです。同苦するって、本当に難しいことです。
    とても苦労されたのですね。苦労は涙なくして語れないことは、わたしにも分かります。
    そしてわたしも感情が横溢し、とめどなく涙が流れます。


    #7
    ロシアの児童文学者・リハーノフ氏と先生の対談から引用。
    98年に発刊された『子どもの世界』です。
    この対談のなかで、演劇的家庭論というサブテーマで対話を進めています。

    『池田:話を元にもどしますが、私は、社会が現在直面している危機的状況を打開する一つの方法として、演劇的家庭論というアイデアに着想してみたいのです。
    リハーノフ:それはどういうアイデアなのですか?
    池田:俳優が、ドラマの中でそれぞれの役割を演じていくように、家庭という劇場で、父親役や母親役、一定の年齢に達したならば子役などの役柄を演じていくという発想です。
    現状を固定的にとらえるのではありません。名優が自らの役柄を見事に演じきっている時の余裕や落ち着き、自己統御などの徳目を、家庭という劇場の俳優たちが備えているとするならば、家庭の雰囲気も、よほど変わっていくにちがいありません。
    仏法では「願兼於業」ということを説きます。自分がどんな悪業を負って生まれても、宿業を転換して法を弘めるために、自ら願ってそのような姿で、今世に生を享けたのだという法理です。
    であるならば、「願兼於業」を自覚する人には、自らの境遇に対する不満も恨みも慨嘆もありません。その人は、勇気をもって現状を肯定したうえで、未来へ力強い一歩を踏み出していくでありましょう。ゆえに、私どもの宗祖は、筆舌に尽くしがたい大難を受けられた時、「もとより存知の旨なり」と悠然としてそれに対処していかれたのです。
    また、私の恩師も、軍国主義下の二年間の投獄生活の苦労を問われた時、「願ってもない、えらい目に遭いました」と、いかにも恩師らしく豪放磊落に語っておられました。
    まさに名優の面影が彷彿としております。人生観の根幹にかかわることですから簡単にはいきませんが、こうした余裕や落ち着き、自己統御、あるいはある種のユーモアのセンスのようなものをもとうと、お互いが努力をすることです。
    親であれ、子どもであれ、いずれも一個の人格であり、人間として平等の存在です。家族という同じ舞台の上で劇を演じている一人ひとりは、共々に家庭創造のドラマを支えているという意味においても平等なのです。
    役者が協力しあわなければ、どんな舞台も失敗に終わります。おのおのが、その役回りを賢明に演じ、責任を果たさなければ、成功は望めない。
    また、劇にハプニングはつきものです。その場合でも、皆で団結して乗り越えていく。家庭も、これと同じではないでしょうか。
    <中略>
    ある意味で、「家庭は劇場」であり、「家族は、その劇場の俳優」と言える。大事なことは、各人がそれぞれに"よりよい演技を"と心がけていく時に、家庭はもっと豊かで、もっとはつらつとしたものになるのではないでしょうか』


    ここでリハーノフ氏は、家族の一員として、意図しないで、その役割を果たせなかった自分の体験を通し、劇のなかの役者のように演じきれない場合もあることを、反論気味に述べます。経験から得られたものであるからこそ、強い確信にもなれば、反省の根拠にもなったりします。リハーノフ氏は家庭劇について別の視点を与え、強い絆に支えられていても、外的要因で家庭が変貌することもありうること、また家族を巻き込む困難に対し、演劇的要素を持ち込むのはふさわしくないと心情を吐露します。
    理論や建て前だけでなく、個人的な本音を引き出す対話術は先生の真骨頂です。それはお互いの信頼感に依っているからでしょう。反論は対話を豊かにし、双方向の意思の疎通を可能にして実りあるものにします。

    『リハーノフ:ある部分ではあなたは正しいと思いますが、ある部分では、私はあなたに論争を挑みたいと思います。
    池田:いいですね。どうぞ、どうぞ。七年前に、当時のゴルバチョフ・ソ連大統領とクレムリンでお会いした際、私は冒頭に「ケンカしましょう」と。大いに議論しましょう、ということを、ユーモアを込めて申し上げました。
    建設的な議論からは、必ず"何か"が生まれます。ソクラテスの対話がいみじくも"産婆術"と呼ばれていたように。
    リハーノフ:家庭生活を劇を演ずるかのようにとらえることは、私にはとうていできません。むしろそれは、永遠の波瀾万丈なのではないでしょうか。
    夫も、妻も、そして子どもも、社会にあって常に複雑な個々の状況に立たされています。大人たちは職場や知人たちの間で、子どもたちは学校で――それぞれが家庭の外で遭遇するドラマは、やがて家族全員が関知するところとなります。
    家族の絆が深く、強い土台の上に築かれている場合には、妻や、夫や、子ども、誰か一人が家庭の外でぶつかった問題を乗り越えるために、家族が支えとなることもあります。しかし、そのような外的な問題や環境が、家庭を変貌させ脇へ押しやり、壊してしまう場合も少なくありません。
    私の家庭のドラマをお話ししましょう。私は、三十九才の時、病気をしました。なかなかはっきりした診断が出ずに、しばらく入院をしたままでした。ついに診断が下り、手術が必要とのことでした。
    私は手術を受けました。担当の医師は有名な外科医で、私の手術の執刀する前日に科学アカデミーの会員に選ばれたところでした。そういうわけで、私は彼の「アカデミー患者」第一号になったのですが。
    手術は成功し、退院し、一年が過ぎ、三年、一五年が経ちました。私は病気になる前よりもっと仕事をし、主な著作を書き上げ、作家として認められるようになり、そして児童基金を設立しました。
    そんなある日、ある会合で、あの時の外科医にばったり出会いました。今は老碩学になっていました。別れ際にクロークのところで、彼は私にこう尋ねました。
    「あれから何年経ったかね?」
    私が答えると、彼は言いました。
    「君の病気、何だったか知ってる?」
    私がちょっと当惑しながら、当時知らされていた病名を言うと、
    「いや、それは違うよ。あれは、ガンだったんだよ」と、彼は声高に笑いました。
    私は、何かで頭を強く叩かれたようでした。気が動転した私は、あいさつを済ませ、外に出ると一目散に家に向かいました。
    家に着くなり、私は、妻のリリヤを呼び、外科医と会ったことを話し、今度は彼女に尋ねてみました。
    「君は知っていたのかい?」
    「もちろん」
    なぜ私に知らせなかったのかは、問うまでもないことでした。
    池田:ガンの告知の問題は、非常にデリケートな問題で、わが国でも議論が繰り返されております。私も、ケース・バイ・ケースで対処すべきであって、是非の間に明確な一線を引くことはできないと思います。それはともかく、奥様の苦悩は察するにあまりあります。
    リハーノフ:言うまでもなく、腫瘍は再発の恐ろしさで知られています。私はある一定の周期で、再発の可能性にさらされていたわけです。一年後、三年後、そして五年後、と。
    その時、もし私が愛する妻の立場にあったらどうだっただろうか、と考えました。彼女はどれほど苦しみを秘めて耐えてきたことか、ずっと緊張の連続だったにちがいないことを知ったのです。
    彼女は言いました。選択をしなければならなかった、と。私の健康のために周りに囲いをめぐらせ、仕事から遠ざけたほうがよいのか、それとも、以前と同様に、私がやりたいことを全部やらせておくべきなのか。彼女の選択は後者でした。
    そこで、もし誰かが、彼女は家庭という場で上手に役を演じただけと教えてくれたとしたら、私はおそらく愕然とし、同時に笑ってしまうでしょう。いかに昔、彼女がテレビのアナウンサーと演出の仕事をしていたといってもです。
    いいえ、あれは演技ではありません。苦難への挑戦です。それも、最も近しい人間に打ち明けられず、苦しさを分かち合うわけにはいかない。家族と医者との秘密である以上、ほかの誰にも助けを求めることもできない。そうした中での絶え間ない葛藤との闘いだったことでしょう。
    ですから、妻は、何年も経ったのちとはいえ、私に真実を暴露してしまった、かの碩学の外科医に一番腹を立てていました。もしも私が、真実をもっと早い時期に知らされたとしたら、私がどう受けとめるか、誰も保証できない。くじけてしまうかもしれないことを、妻は了解していたのだと思います・・・。
    したがって、敬愛する池田さん。どうか悪く思わないでください。でも、夫と妻が演技をできるのは、とても限られた場面だけなのではないでしょうか。
    たとえば、二人の意見が合わない、でも些細なことでケンカをするのは賢明ではないと判断して、お互いが角を立てずに折り合いをつけるといった場合には、当てはまると思います。
    でも、家族が困難に本気で立ち向かわなければならない状況に立たされた時、同苦と愛情と支えを必要とする時まで演技が持ち込まれたとしたら、悲しいことではないでしょうか。
    わが家では、先ほど述べた真実が明るみに出て以来、何事につけ、私は妻の勇気と力と慈しみの心に崇拝の念を抱き続けています』


    危篤な病のなかで演技ができる人は稀でしょう。病はそんなにお人好しではない。またできたとしても、それは単に仮面を被り、自分やまわりにウソをついているようにしか思えない。気持ちの問題は別にしても、病を通した家庭再生を望むこと自体が難しい。確かに心にもない演技をして、一時的に誤魔化すことができても、家族といえど真の心の交流にはならないでしょう。先生は"演技"について定義を試みて、それは人間性の輝きであるとリハーノフ氏に告げます。

    『池田:心にしみ入るお話ですね、リハーノフさん。
    私の申し上げた「演劇」、あるいは「演技」という言葉の含意を申し上げますと、それは人間性の発露から生じる行為――といった意味なのです。ですから、奥様のなされたことは、誠にすばらしく、感動的であり、豊かな人間性に満ちた行為です。
    「演技」というと、どこか嘘っぽく本心を偽ることを、心ならずもやらなければならない擬制(実質はちがうのにそうみせかけること)といったニュアンスで受け取られがちな点は、日本でもロシアでも同じでしょう。しかし、私の言う「演技」は、人間の本然からの営為なのです。
    ですから、表面上のこしらえごとを言ったのではありません。人間が本能に支配されることなく、自己をコントロールしゆく人間性、人間であることの証を体得していくための必須の行為であり、いわば人間性の勲章とでも言うべきものなのです。
    私が、真の意味での「演技」が漂わせている「余裕や落ち着き、自己統御などの徳目」を指摘したゆえんであります。
    たとえば、私どもの宗祖の生涯は、迫害に継ぐ迫害の連続でしたが、五十歳の時、生涯最大の難である斬首刑に処せられようとします。
    その時、不思議な出来事があって、結局、刑は取りやめになったのですが、その直後、宗祖は、何と捕吏たちに酒をふるまっておられるのです。驚嘆すべき境涯の高さであり、「余裕や落ち着き、自己統御」のお手本のような振る舞いというしかありません。
    私が、進退きわまった苦境に立たされた時の恩師の悠揚迫らざる態度に見て取ったものも、それに通ずるような人格の力であり、輝きでした。
    すなわち、真の意味での「演技」とは、そうした卓越した人格の力のおのずからなる流露です。孔子が「徳弧ならず、必ず隣あり」と言っているように、それは、巧まずして人々を魅了してやまない振る舞いへと結実してくるものです。
    宗祖のような宗教的巨人の振る舞いを、万人に要求することは無理かもしれません。しかし、通底するものは同じなはずです。
    リハーノフさん。あなたの夫婦愛のエピソードからうかがえる、奥様の内なる闘いこそ、まさに人格の力であり、人間性の輝きです。奥様の苦渋の選択、その後の忍耐強い支えの背景に、「余裕や落ち着き、自己統御などの徳目」があったのです。人間性の奥深くから発する「迫真の演技」「真実の演技」と申し上げたいのです。
    そうした意味から、私は、家庭生活に限らず人生そのものがドラマであり、人間は、本質的に劇的性格をもっている、と信じているのです』


    先生も指摘しているように、人生の演技性と願兼於業は深い関係があると思います。
    願兼於業の不確定なシナリオは、不確定であるがゆえに予想のつかない波乱に満ちており、また神にも仏にも支配されたものではありません。どのようなハプニングが起きるか全く分からないという意外性とドキドキ感にあふれています。それがそっくりそのまま、人生のドラマ性に重なるのですから、演技者がすなわち迷い、闘う人間なのであり、また観客という社会の人々に希望とスリルを与え、感動の虜にする名優に他なりません。
    名優は物語のテーマと自分の立場をよく心得ています。病というドラマ、貧しさというドラマ、老いを人生の総仕上げとするクライマックス、死の荘厳さという場面。

    生を真剣に生きた者だけが演じることができる各場面は、シナリオ以上の醍醐味があるのです。豊かな恵みがもたらされる自己統御の冷静さとたくましさは、名優と同じ人生の達人として、また最良のコミュニケーションを体現した菩薩のセリフは、それを聞く者の胸に熱く訴え、感動を与えることができるでしょう。さらに求道者として真実を求めぬいた不屈の精神のドラマ。他者を愛した個性的で自由な生の実践。今までも絶望から帰還した勇者が幾多もいたことでしょう。信仰と熱情によってどれだけの人々が、不幸のくびきから脱したことでしょうか。自分の生き方は自分の手のひらに握られているのです。捨てるも拾うも自分次第なのです。
    人生が、すべてが願兼於業の自分が書いたシナリオであることに思いがおよべば、演じきった素晴らしさと充実感ははかりしれません。命に刻まれている宿業も、遺伝子が書き換えられる同じ原理で、このような充実感のなかで転換されるのではないでしょうか。心の財は妙法という法理です。不幸をかけがえのない心の財産として所持できるのは、信仰者が得た功徳であり、特権です。
    さらに方便が妙法に照らされたとき、秘妙方便に発展し、方便自体が真実であるというドラマチックな転換が図られます。受動的な人生から能動的な人生にコンバートしていくとき、境涯に変化があることは当然です。妙法はそのためのエンジンであり、ドライバーは信仰者であることに思い至れば、どこに行くことも自由であるという境涯を獲得できる大きな福運と功徳に包まれることでしょう。

    先生の、あるいは創価の理念と目的が記された「人間革命」の冒頭の言葉、
    『一人の人間における偉大なる人間革命はやがて一国の宿命転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする』

    この言葉は、こんなふうにも言い換えることができるのではないでしょうか。
    『全人類の不幸は、一国の不幸でもあり、一人の人間の不幸に転換され凝縮される』

    一念三千の法理に説かれるように、社会を無視した人間の幸福はありません。同時に、個人の不幸は社会に反映し、個人の不幸の解決も、社会に影響を及ぼして、国や世界に対しより良き選択の材料となり証明となるのではないでしょうか。

    不幸は幸福の反対の形をしています。そのプロセスも下り坂と上り坂のように、方向も困難さも違うと思います。そして幸福に上限がないように、不幸にも限界がありません。
    「不幸の連鎖を断ち切るために、妙法の闘士は目覚めなければならない」
    不幸や不安を克服するために、そのような使命を自覚した人が、菩薩といえる尊い人格者になる因を持つことが可能なのではないでしょうか。

    年齢や性別、地位には関係ないと思います。強い人間ばかりが幅をきかす世のなかであれば、弱者はどうすればよいのでしょうか。弱者から強者への変革を成し遂げるのが、仏教の目的としたら、不幸や不安や、自分の存在に関わる重大な問題解決に、たとえ人生の大半を費やしたとしても、その経験を経た人が、本当の弱者の味方と言える資格を有しているのではないでしょうか。
    菩薩はその弱者を救済するために、内的な問題、外的な問題をことごとく背負い、背負いながら挑戦し、自分の生のあり方と自己統御の方法を苦難のなかで発見し、妙法の真髄に至る確信を得るのではないかと、わたしは考えるのです。

    宿命のボードに埋め込まれた挫折と心傷のストーリーから、使命というスポットライトがあたる躍動のステージへ、自分が演出し自分が主役の人生劇を、力強く演じてください。
    若年のわたしが言うべきことではないかもしれません。
    本当の自己実現という妙法の功徳は、これから花開いて、きっと人生を飾ってくれるのではないでしょうか。ぜひ、そのような百花繚乱の花吹雪が舞う幸福な人生になりますことを、ほとんど何も知らない人様の人生に対して、失礼と思いながら、祈りを捧げたいと思うのです。花がほころぶように、苦しみもほころび、喜びに満ち足りた美しい人生を実現してください。

    。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*

    香港に栄光あれ!


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    哲女のメモ

    #1
    魂の奥深いところで信仰の隷属を拒否し、ヒロイズムとは無縁のところで、自らの人生を見つめ責任を持つこと。
    平凡であることは非凡であることよりも非凡なエネルギーを必要とします。
    宗教的探究とは、実生活のなかで、苦悩や悲しみに意味を持たせること。
    不条理なことや差別的制限があったとしても、また小さな世界のなかで社会の盲目的偏見にさらされても、「わたしは生きた。わたしは生きたいように生きた」という自由ほど尊い人生はありません。
    学会役職など人生にどれほど重要な意味があるのでしょうか。人生の危機を乗り越えるのは、ただ強い自分を作り上げるより方法はありません。そのための補助となるのが学会役職です。
    服従ではなく抵抗、放棄ではなく受容、熱狂ではなく冷静、怠惰ではなく勤勉、無信仰ではなく諦めない信仰など、意識しようとしまいと価値基準と人格性向が人生を決定するのではないでしょうか。どんな人生も、かけがえがない教訓と美しい記憶を残してくれる。


    #2
    大学受験のとき、不安な気持ちが増すなかで、自然とお題目を唱える時間が長くなりました。そんなあるとき、わたしはご本尊さまの前で、特殊な宗教体験をしました。以前、父に薦められて読んだパールバックの「母の肖像」に出てくる少女時代の物語、神の存在のしるしを求め、森のなかで決死の覚悟でうずくまる少女に、自分の影をみました。そして啓示を受けたのです。
    この信仰は、決して欺かない強い絶対性を有する真理であること、超越的な何ものかがわたしの人生を情熱的に導くこと、わたしが創価大学に進学することは、もう定まった運命のようなものであること、など、わたし自身の諸属性がすいこまれるように引き寄せられ、次の瞬間、知的エッセンスをのみこむような恍惚感とともに浮遊する感覚におそわれたのです。
    このような体験を正確に語ることは不可能のように思います。また、ただの夢想のようなものと言われれば、そうかもしれません。でもわたしは確かに、それが啓示と言うのであれば、真理の光がわたしを照らしたことを感じたのです。
    神経過敏になっていたことは事実です。不安は心を鈍感にもすれば針に刺されるように敏感にもします。不安をまぎらわすために、脳のなかで麻薬のような働きがあるものが分泌され、過剰に脳機能を支配していたのかもしれません。

    わたしは、わたしができる精一杯の範囲で、清く生きようと決心しました。悩みや苦しみがわたしを惑わしても、悩みを精一杯に悩もうと思いました。自分を誤魔化すことなく正直に生きようと思いました。


    #3
    言葉が蔦のようにからまり、ときどき花言葉も咲き薫る秘密の花園に足を踏み入れましたね。でも、気難しい女主人は、本当はとても優しい方と聞いておりますので、ご心配されることもないかと思います。
    美しいものよ、幸あれと、恋情をこめた寂しげな声が、風のなかから響いてきます。
    誰人も想いを遂げるのは稀なこと。
    過去の絵草子をめくるように、儚き夢とロマンの幻を胸に抱いて、いつか一人仰ぎ見た、星降る夜の静寂のなかで、涙を浮べて祈った小さきわたし。
    記憶もうすれて、もう思い出すこともないあのときの想いは、花開くように遂げられたのだろうか
    失礼しました。少し詩的に迫ってみました。

    地区の皆さまにはもっと肩の力を抜いて活動したらどう? とか言われますが、いい加減なことは黙って見過ごすことができないわたしの性分は、良くも悪くも創価のなかで培われたものです。

    悪と妥協しながら、一方で悪を攻めろと号令をかける矛盾、わたしは創価の都合のよい論理を指摘しているのです。正義を主張するなら、社会に向けたメッセージとして社会性も当然考慮してのことと考えますが、関心がないのか、会員の方々は話題にすらしません。どうでもよいことなのですね。個人に関わる信仰の範囲で、日常起る雑多な問題の解決、勢力拡大のためのアドバタイジングとしての体験、つまり功徳の実現がなにより優先されるからだと思います。功徳にとらわれる姿は中道とは言いません。功徳は発心のきっかけにしか過ぎないのです。文証理証現証という証明課題も信を深めるためです。

    会員の皆さまはこのような話題には冷淡で醒めています。賢明なのかどうか、わたしにはわかりません。悪も正義も飽食気味なのではないでしょうか。

    敵愾心の助長はスピリチュアルな優位性を知らず知らずのうちに育てます。心理的に微妙な問題ですが、組織中心者は十分承知のうえで悪を名指しし、防衛に努めます。攻めはつまり防御のことですが、悪と対決することは、内部団結におおいに貢献します。そのうえに思想的裏づけがあれば、誰も近づく者はいません。信仰の堅固さは悪を認識することから生れるのです。
    しかし、悪の最初の姿を、わたしたちは自分の心のなかに見なければならないと思います。欺瞞に満ちた自己の懐疑なくして、自己実現はありません。他者の悪は自己の悪と同質です。同じ人間であるかぎり、他者が所有するものは自己もまた所有している。
    大聖人は「開目抄」で、自分は一体何者なのか、詳細に自己への疑問を投げかけています。そして疑えない末法の仏の命を自己のなかに発見しました。それは諸天の加護(依存)も断ち切った主体的自己を確立することでした。自己と他者の差別も、善悪の差別も超えた仏性の存在を確定したのです(『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』との御文は、強靭な自我の宣言です。当時、大聖人は佐渡にあり、そのご生涯のなかで最も過酷な時期にありましたが、その置かれた環境が重要です。人間はどんな苦しみも乗り越えられるという、力強い勝利宣言は最も危険な国土で行なわれたのです。言い方を変えれば、乗り越えられない苦しみなどないという、わたしたちに命の底から勇気を起こさせる励ましなのです。なんて素晴らしい言葉でしょうか)
    菩薩は、他者との関係を最も重視します。他者とは他者共存のなかに希望を見出す人々であり、ひいてはその関係性を脅かす社会の矛盾に立ち向かう人々です。
    このような人々は、信仰を持たなくても傑出した人物として多く存在し、歴史にも登場しました。行動哲学に、社会への期待と建設的志向があると思われますが、保守であれ革新であれ、安定をめざすことには変わりありません。無用な人間はいないのに関係を破壊しようとした、原罪を背負ったラスコーリニコフ(ドストエフスキー・「罪と罰」)という悪の象徴は、安定的関係を望まない人物としても理解されるのではないでしょうか。人間関係は他者のかけがえない価値である生命への尊重精神がなければ成立しないということです。同時に、自分への尊重も相手に要請し、その関係性のなかに委ねようとする意思の表れとも言えます。

    わたしたちは菩薩なのでしょうか?
    不完全な菩薩であったとしても、わたしは十分な喜びを感じますが、矛盾を矛盾と捉えない菩薩を、わたしは菩薩と呼びたくありません。


    #4
    法華経は聖と俗に差別を見出さない。優劣を競わない。『真は即ち是れ俗なり。俗は即ち是れ真なり』:法華玄義。自由である個人。自由に裏づけられた世法即妙法。個人の私的な信仰が公共性を有し、個人の利益が公共の利益に連動する。信仰は社会的目的を同時に包含し、実現に向けて献身的行為をうながす。近代的理性の行きづまりは、活用の妙法によって革命的なパラダイム転換を迫られる。否定と肯定の両面から、あらゆる思想を再検討し、中道の立場から調和的に生かす。近代文明の行動原理である理性は、根源の生命の全体性を明らかにすることにチャレンジし敗れた。人間主義は近代も現代も包括する。智慧と慈悲の哲学こそ、人間の際限ない欲望を駆逐するものである。賢明な生活者は聖なる功利性を求める。諸法実相は現世利益と言い換えても間違いだろうか。J・ベンサム『もしも彼らが神が文字どおりの意味で慈悲心に富んでいるというのであれば、彼らは宗教の命令が功利性の命令以上でも以下でもないこと、両者のあいだには一点の相違もなく、一点の過不足もないことを認めることであろう』生活革命こそ、妙法の利益。
    自由自在の主体性に支えられた菩薩の化身は、人格に多様な側面をもたらす。菩薩はあらゆる姿で現世で使命を成就する。先生は、内発性、ソフトパワー、漸進主義を繰り返し訴えている。自己の価値観を早急に他者に押しつける危険を指摘し続けてきた。自由な内発性は自己変革の原点。漸進主義は哲学思想の市民性を得るための基準。
    排他主義、包括主義、多元主義、自在主義。スッタニパータのなかで『一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない』と語ったと伝えている。自由自在なブッダは、あらゆる学説や見解から自由。英知を結集して批判すべきものは、仏教の真理ではなく、そこから導かれたと錯覚し誤っている言動を対象にすべきなのです。理性的に懐疑を持つこと。矛盾がないか検討すること。創価思想の論理的整合性を批判する前に、その体系に十分精通する必要があると考えるのは当たり前の見解。
    政治と宗教・・・当分パスしようっと。「大衆とともに」…もうすっかり大衆は離れている。永らく与党の甘い汁をすすったせいか、鈍感さを増したようです。


    #5
    ある人は、荒野を目の前にすると、とても自分では踏破できないと尻込みする。しかし、ある人は、未知への挑戦にファイトを燃やす。チャンスは誰人にも平等に与えられているものと考えますが、道端の石ころのように、いくつもころがっているわけではないと思います。

    人間には、無限の可能性があるということを信じていきたい。同じことをやるにしても、考え方一つで結果も変ってくる。始めは努力のわりには得るものが少ないかもしれませんが、継続してやりきっていけば、あとで十分過ぎるほどに望むものが与えられる。結局、助けてくれる人はなく、自分のことは自分で責任を取らなければならない。
    会社のなかの一社員であっても、会社発展がすなわち自分のお給料や自分の人生に直接響いてくるわけですので、人任せにはできません。世間はそんなに甘くはないし、頑張ったけれどダメでしたと言っても、誰も同情してくれません。もっと頑張ればよかったのにと言われるだけです。信仰も同じではないでしょうか。どこまで頑張れるかは全く個人の意思に左右されるものだと思います。
    諦めはすべてを無に帰す悪です。ガッツな意気込みが苦難の門を開く。自分で考え行動して、最良の自分の方法を見つけだしていく。要するに、依存するなということ。主体的に行動する自分自身ほど頼もしいものはありません。自我の再生こそ信仰の醍醐味です。

    ......と、立派なことを書きながら、わたしったら、泣きたい気分でいっぱいです。がけっぷちに立ってる気分。今まで何度も経験してきたのに、最近、失望し、どうしてなのだろうか、立ち直れない自分がいます。記事エントリーへの気持ちも高揚しません。組織に失望するのは、わたしの信心が弱いからなのでしょうか。理解してくれなければ理解してくれなくてもよいと割り切り、強い自分であろうといつも自分に言い聞かせてきたのに。

    これからは活動家の定義を変えていかなければなりません。
    活動家というのは、組織の定義です。それは組織拡大とともに理想とされてきた人物像ですが、現在の活動家と言われる人たちがどれほど無自覚、不勉強な人々か、わたしははっきり申し上げます。そんな活動家にならない方が賢明です。上辺だけの評価など、評価する人間の軽率さを表しているだけです。


    #6
    「四箇の格言」という言葉がでてきましたので、思い当たったことを書きます。
    17年前の「御書の世界」で、先生は、円満なる人間生命の力の開花という人間主義の立場から、「四箇の格言」を四つの類型としてとらえ直し、新たな意義を見出しています。詳しくは本を読んで確認してください。この「御書の世界」発表当時、宗門から批判が続出しました。

    人間主義が多くの誤解を与えるのは、先生が仏教全般、法華経や妙法に新しい視点と解釈を与え、また現代語で新しく定義を語るからだと思います。
    法華経や御書が現代語訳にとどまらず、他言語に翻訳され世界に受け入れられているのに、その思想について現代的意義を付与することには抵抗するという矛盾。普遍性を有するということは、現代性を有するということです。法華経のなかで、提婆達多は未来記別を与えられましたが、その未来とは現在のことです。古くさい伝統は、法華経の物語性にとらわれて、そのような解釈を許さない。

    人生を生誕から死までのひとつのストーリーに見立てるとき、学ぶことに目覚め、学ぶことから転換をはかろうとする生き方は、大きな意味があると思います。自己欺瞞や現実逃避の誘惑が多いなかで、学ぶことは自らの生き方を知的転換するもの。「パンを願い求めるならば石を与えられることはない」(マタイ伝)とキリスト教でも説いています。
    しかし、本人からすれば建設的姿勢、前向きな試行錯誤であっても、回りから見れば、ネガティブな転向と誤解される場合が往々にあり、今まで温和な人間関係を築いてきたにもかかわらず、否定的に破壊的に意思疎通がはかれないという事態に陥ります。なぜでしょう? 以前の村社会の道徳が復活し支配するのです。異端というレッテルをはり、排除する村落共同体の仲間意識は、自由な行動基準より既存の様式・儀式を尊ぶものです。
    絶対平等性を重んじる仏教では、仏の前では誰人も一様に尊貴な存在でありながら、この崇高な理論を実行する段階で平等性を失います。いうなれば、仏の教説を実行する組織は、間違いなくタテ社会であるからです。
    拙い頭を絞って、組織改革を唱えても、タテ社会の上に位置する人間は決して受け入れようとしません。彼らの関心は組織を平穏に保つことであり、それが組織に所属する大部分の会員の意見だと信じているからです。村の掟は創価のなかでもしぶとく生きているのです。変化しながら保守であれ、改革しながら妙法の正義を守れと、先生はずっとご指導されてきたのではないでしょうか。批判しながらありのままに享受し、妙法が説く教義と倫理基準に照らし合わせる行為が必要なのではないでしょうか。盲目と無批判の帰属主義からの脱却こそ、真に人間解放につながるものだと思います。師や組織への帰属という他力信仰こそ戒めなければならない。根本尊敬の宝塔は自分の命のなかにあるのですから。

    わたしが言うところの保守とは、政治的立場の保守ではなく、思想的保守のことです。人間が守り育むべき普遍的価値への回帰運動を保守と名づけるのです。その意味でピューリタニズムも、信仰における自由と秩序、神と人間の関係のなかで復活した保守的回帰と言えます。創価の人間主義も同様です。堅固な哲学体系を裏づけとして、人間主義は秩序ある自由を保証しているのであり、観念ではない経験から得られた自由を保証するということです。功徳体験に生命活動の自在さを、会員は喜びとともに知っています。宗教体験はベルグソンの生命的躍動という本質的なものと直結しています…<人生は価値的なものへの願望と挑戦であるというようなことは、年若いわたしが生意気に言うことではないかもしれません。多くの人々が人生改革に挑み、勝利しまた敗退してきたのですから。わたしの人生は退屈なほど保守です。表面的には悲しいぐらい変化が分かりません。でも十分満足しています>…つまり改革とは保守に回帰するための改革なのです。ファナティックな勢いを嫌う理性的な漸進主義は、急進主義よりも当然のことながら忍耐を必要とし、明確な歴史判断という知性が必要です。でも「反省のない伝統と習慣」に沿った浅はかな判断は嫌われるべきです。物事は単純ではなく、複雑極まりないと認識することが仏法者の姿勢でしょう。

    村社会では、個人の意見や意向が埋没し、個人においても強く主張することを控えて、和を維持しようと努めます。創価村社会のシステムをつなぐものは、日本的な和の精神です。師は村の長で弟子は村民。師は父で弟子は子ども。タテ社会の家父長制度が反映しています。父は家を守るために粉骨砕身しているのに、子どもはいつまでも自立できずに甘えている。わたしを越えろと、先生はご指導されていましたね。大事なことは都合よく忘れる自称弟子たち。越えられるはずがないと考えるのは、ご本尊さまの力を信じていないからでしょうか。先生は特別の才能を持ち、特別の修行をされた存在と考えているからでしょうか。

    また過去にキリスト教では信仰の純潔さを守るために、修道院で共同労働が行われていたことを思い起こすべきです。創価の閉鎖性が批判されるのは、創価内部の空間が特別のものと、知らず知らずに会員が意識しているからだと思います。創価でも、世間から隔絶している共同労働が行われていると見ることも可能です。聖教の多部数購読、選挙支援などがその例です。宗教ルネサンスとは、社会に積極的に受け入れられる開放性、平易性の実現という一般人からの共感を得るものでなければなりません。会員が堅固に抱いている先生に対する師弟不二という絶対思想は最初に拒絶されるでしょう。
    したがって、師は神格化されることを望んではいません。弟子が師の言葉を神聖視することも避けなければならない。運動が成熟し、一方で改革を志向するエネルギーが先鋭化した折衷主義とも言える人間主義は、自らが自らの生命の尊貴さを証明しながら、他者のために良く考え行動する方法論を教えているものと思います。
    共同体が大切なのではなく、共同体からはみ出ても、自分の意見を貫くことが大切なのです。共同体が成仏の成就を保証してくれるわけではありません。どんな素晴らしい団体に所属していても、自分の心に財を積むものでなければ、どんな意味があるというのでしょう。人間主義は自立主義なのです。そして今こそ、創価は大きく変わるときを迎えていると確信します。

    改革を信条として自分に正直であろうとする者は、抑圧されたと勘違いし、やがて反逆に至る。一般的見解に従えば、抑圧は、権力者の専権事項のあらわれですからね。しかし、上に立つ人間もまた責任上、個人的欲求を押し殺していることに思いを寄せると(改革案を検討したいけれど、組織のために聞いてはならないという押し殺した欲求)、「包括は脱個性化を導く」という社会学的命題も含まれていることに気づきます。<宗教>ブルジョワも構造的に疎外されているというマルクスの資本論のようです。組織の公式見解を没個性的になぞっている人間は、ステロタイプ的にしか集団イメージを想像できないでしょう。創価では勧善懲悪の物語が多く語られます。虐げられている者が正義とする救済の論理は、すでにロシアで滅びました。しかし、目的を共有し、ともに進もうとする宗教組織って社会主義的運動形態なのでないでしょうか。また絶対精神を認めた最良の個人主義的アナキズム集団かもしれません。平等と自由、集団と個人という問題は永遠の課題です。

    今まで反逆の汚名を冠せられ批判される人間は数多くいましたが、そのほとんどは、個人的な利害のなかで純粋な信仰を失った者たちです。どんなに自己正当化をはかろうと、命に刻まれた宿業は取り消すことができない。このような愚者はもっともらしい賢者の顔をした似非賢者ですが、特徴的なのは、創価学会は宗教ではないと考えていることです。宗教は必要と賢そうに主張しながら、一方で創価は必要ないとダブルスタンダードの態度で正義を主張する。「自分たちは受け入れることはないが、他の無知な人々は無批判に受け入れている」という主張は、「自分たちは受け入れるが、他の無知な人々は無批判に受け入れない」と言い換えることもできます。つまりウェーバーが言う「内なる美徳と外なる悪徳」です。また善があれば悪があり、善が強くなれば悪も強くなる。鏡に映したように内と外では美徳も悪徳も逆転します。内も外も差別なく認める寛容こそ、仏教が説く偉大な精神です。
    もともと一闡提の醜い根性の持主ですから、信じないことに価値を見いだすことと、世俗的な毀誉褒貶に敏感なんですね。そして外面を飾ることに執着して、およそ純情な仏教徒とは縁遠い、肉を求め彷徨う飢えたオオカミなのです。不満のエネルギーで身を焦がすオオカミなのです。自分に飢えているのに、他者のせいにしている。自分の不幸を他者のせいにしている。己心の外に法ありと考える無責任論者です。ニーチェが嫌った、欺瞞に満ちた弱者という善人と同類。ニーチェが狂気に陥るほど批判したのは、フランス革命から始まった民主主義という鎧に護られた愚かなる大衆です。時代を翻弄し無意味にする神のような大衆です。
    「教養俗物」の「喧騒と毒ある蠅どものうなりがはじまる」と揶揄される者たち。寛容を求めるしぐさは小児が母に甘える様子に似ている。多様性を主張する姿は凡庸な権利の奴隷でしかない。正義だって...そんなもの薄紙のようにはがれる道徳と同じ。やがて悪夢に悩まされ、一人孤独に不信の沼地にはまり沈んでいく。悲哀の亡霊にとりつかれた可哀相な自称自由人たちよ、不幸は自分が自分の崇高なるものを引きずり下ろす行為から必然的に運ばれてくるのだ(...と、ニーチェリアン風に呪いをかけてみる。「自己愛を超え出た愛の過剰」かな?)((+_+))
    100年前も現在も変わらないのですね。精神レベルを変えたいと考えるなら、自己救済というダイナミックな苦難に立ち向かう決意が必要なのです。

    でも、わたしが問題にしたいのは、話題にすらされないごく少数の大まじめな人たちです。大まじめに改革を提言し努力を続けながら、失望し、それでも組織にとどまり、悩んでいる方です。今までそういう方も確かにいたのです。


    #7
    いくら正しいことでもスローガンになると硬直化します。
    聖教には毎日、スローガンが溢れています。部や地区においても、一年のスタートやイベントの始めにスローガンを掲げます。スローガンを考えている間は、未来展望がいきいきとイメージされますが、わたしの体験から言うと、一旦決ってしまうとほとんど意識されることはなくなります。つまり忘れ去られるのです。
    あってもなくても、重大な影響を及ぼさないスローガンのような範囲内であれば問題ないのですが、わたしたちの行為を規制するような心的スローガンは、深刻な影響を与えると思います。
    聖教でもよく見られる価値基準ですが、二者択一的思考です。簡単に言えば、善か悪か、創価の味方かどうか、活動家か否か、といった定型的な判断基準です。もちろん前者を肯定すれば後者を否定することになります。
    強信で活動家というのが、組織の理想ですが、信仰はないけれどなぜか活動家という人もいます。活動家ではないけれど強信の人もいます。言ってみれば、グレーな中間レベルにあって、強い行動動機を持たない層に、二者択一を迫る活動を、わたしたちはいつも行っているように感じられるのです。折伏も同じです。幸福か不幸かの選択を迫るわけです。創価に入会してから、二者択一の階段を昇るのが、学会が教える信仰ではないでしょうか。
    わたしのような緊急の悩みを持たない三世会員は、信仰継続の強い根拠を哲学に求めます。求道者なら当然のことです。大聖人が説くように、祈りは智慧を包括し、智慧の多くは、学びを通した言語の成熟と行動に現れます。文証と理証が学びなら、現証は行動とも言えます。行動は現証を補完し、現証は学びを促進します。

    信仰理由にもそれぞれ個別の違いがあり、一口に幸せを求めているといっても、個別の幸福観があると思います。成仏と説明されても実生活においては、その神聖さは実感できません。功徳があったかどうかというような主観的な判断、人格的な充実を確信できても、それは成仏とは言いません。信仰以外でもそういうことはあるからです。
    個々の幸福観に妙法的裏づけを与えるのが、池田先生が強調される個別指導です。本来、信仰とは個人的な行為である以上、個々の悩みや信仰の理解に応じて、種々に説くのがリーダーのあり方なのだと思います。しかしこれは大変難しいことに相違ありません。指導などと言わず、自らが自らの生き方に気づくことができるようなカウンセリングと言えばよいのではないかと考えています。結論を出すのは悩む本人であり、その結論を出すまでの過程を見守り共感を寄せるのが、本当の信仰指導の意義と思います。不足しているのは祈りではなく、仏法で言えば無明という無知の本体を認識することではないでしょうか。

    信仰カウンセリングは深い智慧がなければできません。どこを歩いているのか分からないわたしたち凡夫にとって、哲学は智慧そのものです。そして幸せへの道を照らす灯です。火はよく智慧に譬えられますね。火は自分を照らすだけでなく、まわりも照らし鮮明にします。
    漢訳仏典では、サンスクリット語で「智慧」と訳される言葉に、否定の接頭辞をつけて「無明」と訳されます。
    総勘文抄に
    「総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し」とあります。
    信仰も哲学することも、自分を知ることに他なりません。

    これからは女性が主役です。先生がいつもご指導されています。主体と客体、上下関係、善と悪などを厳格に区別する男性的思考の限界を知り、先生は、包みこみ受け入れる女性の特質を十分に熟知されていると思います。
    深いプロブレムとアンサーを求め、切磋琢磨していけたら、うれしく思います。


    #8
    『運命が人を早くから最上席に予定しているかどうかは、まずわれわれ自身の意志と全くかかわりがない。また、幸いにも、これはさほど大切な問題ではない。そういう人は偉大な例外であり、人類の道徳的天才である。しかし、第二流の席には、われわれは誰もみな招待されており、また、ひとたびその道が示されたならば、われわれはおのずからその道を行くべく強く激励される。ひとがこの人生において出会う最大の悲惨事は、道が示されたにもかかわらず、いつまでも第三流の席にとどまって、彼らの存在が結局、自分にとっても他人にとっても真実の価値を持たずに終る場合である』(幸福論:ヒルティ)

    ネットでのディスカッションやトークには、よほどのことでない限り動揺しないと思います。アンチの方々には始めから理解していただこうとは考えていないので、あなた方はあなた方で十分煩悩を楽しんでくださいと言いたいですね。ネットで改心など無理なことです。

    池田先生は、トインビー対談で次のように言われています。
    『そうした女性本来の、生命の尊厳を守り、育み、大事にしていくという特質は、それ自体、人類にとり、人間社会にとってきわめて普遍的な重要性をもっているといえます。女性が狭い個人的愛から、そうした、世界へ開かれた普遍的な愛に根ざして進んでいけば、私は、それが、地道ながらもきわめて大きな、反戦平和への潮流になっていくに違いないと思います。そして、女性がこの本来的な自らの使命に生きるところに、真実の女性解放があると信ずるのです』

    ジェンダーギャップを認めつつ、女性権利拡大や民主運動の先駆を、わたしは創価に期待しています。現在の創価は残念ながら、男性原理で動いていると思います。言わば二重基準があって、理想と現実に溝があるように思えるのですが、組織内にいる男性も女性も溝があることすら気づいていない。婦人部が創価の主力であるにもかかわらず、昔からの性の役割といった倫理観があると思います。控え目に清楚に家庭を守るといった価値基準は、疑いなく社会に受容されている美徳のように理解されています。創価も例外ではないでしょう。
    組織のあり方って、理念を具体的に、形式、手段として目に見える形で作り上げることなのではないでしょうか。少なくとも制度、機構面での改革が必要であり、真の平和団体として認知されるための最低の改革と考えています。このことについては、多々意見があり、記事にしたいと目論んでいます。

    組織のなかで一人浮いているのが、わたしの最大の悩みです。わたしは決して固定的観念、拒絶的姿勢で、自分の意見に固執しているわけではないのですが、なぜかわたしが意見を言うと議論になってしまい、最後にはいちいちそんな難しいことを考えなくてもいいんじゃないの、とか言われてしまいます。まるで学活にブレーキをかけているように言われるのは心外というほかありません。
    妙法は、知識としても経験的にも難信難解であると分かっていながら、安易に平易さを求めようとする。また妙法は、人間の自由を最大に保障するものであり、そこから派生した行動論や組織論、具体的な生活設計や政治哲学も自由で積極的なものであるはずです。わたしたちは、忙しい日々の生活に追われながらも同時に強い意志を持つ求道者です。いつも根本に回帰し、懐疑的にあるいは肯定的に自己評価しなければならないのではないでしょうか。
    なぜ問題意識が低いんだろう、納得できないことを納得しているように行動して、なぜ疑問を感じないのだろうか、とわたしにすれば不思議でならないのです。どうすればいいのだろうか? どう説明したら分かっていただけるのだろうか?
    わたしも「愚痴の竜女」ですね。


    #9
    『この動揺する時代に
    自分までぐらつくのは
    ただわざわいを増すばかり。
    おのれの志を守ってゆずらぬ者だけが
    世の中をつくりあげて行くのだ』

    ☆ゲーテ・ヘルマンとドロテア

    青年の力はまだ微弱ですが、時は待ってくれません。
    「どんなことがことがあろうと、なすべきことをなせ」
    このような不屈の鉄則が、勝利への聖典と思います。


    #10
    最近は「亊と理」も曖昧なようです。理への偏重は、信仰者の生活のなかでの体験の不足として表れます。功徳も活動体験で誤魔化され組織に奉仕するものへと変わっていく。奇跡のように強烈でドラマチックな逆転劇のようだった過去の信仰体験はもうありません。
    人間は偉くなると自分自身がご本仏になるべきだと考え始めるようです。「主師親の三徳」を具備し、解決できないものは何もないという人格の肥大も起きていく。創価学会仏しかり、永遠の指導者として雛壇に飾られるべきと考えても、思想は必ず古びていく。人間の深い迷いは、釈尊が説いたように、果てしがありません。

    宗門は、さらに七百年後も、みすぼらしい富士宮のローカル宗教団体としてあり、大聖人の期待を十分に裏切り続けるでしょう。正しいから簡単には弘まらないなどと言い訳の伝統は正しく保持し、セレモニー化した教義が腐敗臭を発していても、きれいに隠すラッピング技術だけは進化し、これからいつの時代でも冠婚葬祭は僧侶の飯の種という浅ましさです。
    聖職なのだから供養を受けて当然と考える習慣を捨て去り、まず僧侶自身が自立し自活し、畑を耕し、田に稲を植え、山に木を植栽し、育てた材木でお堂を建てるぐらいの修行者としての展望を持つなら、信者から尊敬を受けるかもしれない。大聖人が身延にあったとき、自ら食糧等の調達にあたったこともあるのではないだろうかと、わたしは推測するのですが、貧しさは求道者の特権ともいうべきエクセレントな出来事です。


    #11
    『知性によって秩序づけられていない衝動や願望は、偶発的な環境の統制下にある。即時的な気まぐれやむら気によって命令された行動を見つけるためにのみ他者の統制から逃れても、得るものよりも失われたものの方がはるかに大きいのである。つまり、衝動のまにまに左右されて、その行動に知的判断が入ってこないのである。このようなやり方で行動を統制されている人は、せいぜいのところ、ただ自由の幻想をもっているにすぎなく、実際のところ、そのような人は、自分ではどうすることもできない勢力に支配され導かれていることになるのである』ジョン・デューイ(「経験と教育」講談社学術文庫)

    さしでがましいことですが、教訓としてお伝えしたいことは、学ぶこととは、質問をすることではなく、自分で苦労し調べ、書を漁り、自分が納得する見解や意見を持つことに他なりません。安易に他に解決策を求めようとする姿勢は、求道者の姿勢として最低のものと考えます。また悪口は自分を汚すだけです。
    今までの人生で積み上げてきた善行を無に帰すことがありませんように、慎重に選択し、低級な姿勢に安直に流されることがありませんようにアドバイス申し上げます。


    Phil Rey Gibbons - Heavenly (feat. Felicia Farerre)



    菩提の慧火現前するなり

    #1
    わたしが望むのは、例えば次のような御書の一節です。
    『信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし』
    (信じる心が完全で正しければ、万人を平等に救済する仏の智慧の水を受けて乾くことがない)
    わたしにとっては、涙が出てきそうな励ましです。「一人になっても仏だけは裏切らない」という確信こそ、信仰のエッセンス、智慧の泉と名づけられるもの。
    苦悩の治療法は、八正道と六波羅蜜に示されています。
    「自分自身をつねに磨く」(カント)という人格完成への行動規範は、仏教創始の時代からすでに準備されているのです。なんという偉大な智慧でしょうか。
    『煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり』
    大聖人の命のなかには、美しくて、偉大な智慧の言葉が、火のように燃え盛っていたのですね。


    #2
    B・ウィルソン博士との対談「社会と宗教」から引用します。
    ガンジー主義への評価ということで意見を交わしています。

    博士は、ガンジーは、厳格な自己抑制の徳の故に、偉大であると論じられております。
    何かといえば権利を主張し、譲ることをしらない現代人には、耳の痛い話ですね。

    『そうした自制心強き指導者に感服し、褒めそやす人々が、必ずしも彼らと同じ高潔な倫理的勇気や、卓越した振る舞いを示せるとは、もちろんかぎりません。いわゆる"聖者"は、人々にとって真似のできる手本となるよりも、むしろ、当初、本人が標榜した価値基準とあらゆる点で対立する行動のスローガンに、その名前が利用されることのほうが多いのです。
    私にとってガンジーが重要なのは、彼の政治的・道徳的抗議の技術面での模範としてよりも、むしろ、ある種の、最高度に洗練された自己抑制の模範としてです。自己の感情の束縛を断ち切るためには、質の高い自己抑制と同時に、高度な自己批判や自己反省を必要とします。
    それはまた、人々に、人間関係の行為においても不可欠であり、あらゆる社会的発展のためにも不可欠なものとして、秩序と礼儀と他人への尊敬が必要であることを、認識するよう求めます。
    自分にとって最も深い関心事を、じっと冷静に見つめることができるということ、また、自分の力の限りの努力さえも評価されずに終わってしまうかもしれない立場に、わが身を晒せるような寛容、忍耐、内的資質を身につけること――これらは、きわめて高度に洗練されていることを示すものです。
    感情を交えずに、安定感のある、粘り強い、しかも、一歩も譲らない態度で取り組んでいくということは、倫理的振る舞いの頂点を極めたものといえましょう。人間の最も奥深い感情が掻き乱されるときにどう振る舞うかが、私たちがどこまで洗練されているかの尺度なのです』


    現代の複雑な社会では、それぞれが異なった宗教的信条を持っています。勇ましく宗教を否定する者でも否定の神を信奉しているのです。また、同一宗教の信仰者であっても、ひとりひとり真剣さが相違します。生命も、人生も、幸福へのアプローチも、あたり前のことですが自己責任です。最も主体的な衝動に左右される信仰も言うまでもないことです。
    聡明でなければ、洗練されていなければ、どうしてリーダーになれましょうか。
    自己批判、自己反省という誠実さと、透徹した知性と信仰が求められているのです。


    #3
    自己抑制、あるいは制御とは信仰から得られる功徳なのではないでしょうか。祈りもまた、自分で自分を治癒するセルフメディケーションの延長線上にあります。誰もが悩みを抱え、もがきながら、自己を見つめて内面の変革を遂げようと努力している。心の闇を照らすのは、法という光があってのことです。
    最近わたしは、命ほど傷つきやすいものはないのだと理解しました。
    その反面、命ほど変化に耐えられる強靱なものはないと気づきました。
    だから何か問題があっても、なんとかなるものよ~、というどうでもよい、お手軽な結論に至ります。楽観的に考えるのがわたしの強み。人生修正主義というのかしら。負けても雄々しく再起すればよいのだと考えるようになりました。


    #4
    組織は容器のようなものです。人間が作ったこのような器には完璧なものはありません。穴があいていたり歪んでいたりするものです。それを是正していく役目は、それを感じた人がやっていくべきであり、他から強制できるものではありません。
    会員の皆さまは純粋で、ある意味、信仰の模範的実践者です。わたしが大局を見ましょうと言ったのは、細部にこだわったところで何も得るところがなければ、解決策にもならないと考えるからです。個人の問題はそれぞれの個人の境涯範囲内での選択肢があるでしょう。
    信仰はまったく個人的行為から逸脱することはありませんが、組織は集団であるために手段の細部に至るまで目を配らなければなりません。組織運営は本来、運営者とその支持者の慈悲心の賜物でなければならない。


    #5
    根気がなにより大切です。その根気は一生持続しなければならないかもしれません。
    自分勝手で自己中心的な他者を引き受けることは、菩薩の経典と言われる法華経の一貫したテーマです。そこで説かれる菩薩は、他者に対し自己犠牲も厭わない献身的奉仕者です。
    他者、しいては世界と自分の関係ほど重要なものはありませんが、同時に他者は、倫理も、冷静なコミュニケーションも通じない頑強な不信者でもあるのです。
    そもそも釈尊という仏自体が、わたしたち信仰者が出会う最初の他者ではないでしょうか。またブッダ自身、菩提樹の下で悟りを得たとき、その法を説くべきかどうか躊躇しました。他者とは、自分を危機に陥れる、容易ならざる存在であることに気づいていたからです。歴史を振り返ってみれば、このような他者が世界を混乱に導いてきました。
    菩提樹下のシーンは、「仏とは人間なのだ」ということがよくわかるエピソードですが、その後の歴史のなかで神秘化されたブッダに作り変えられ、おかげで法もまた変質いたしました。「悟りとは迷うことだ」ということも逆説的に言えます。

    他者を受け入れることは簡単ではありません。しかし仏を受け入れることはその普遍性も受け入れることであり、会員の皆さまが意識しようとしまいと、日常のなかで実践されていることです。つまり、他者の仏性に執拗に語りかける行為は、信仰者であるが故です。またこれは、仏法を学ぶうえでも最も基本的な知識であり認識でしょう。「無上宝聚・不求自得」とも「以信代慧」とも言います。「宝聚」とは普遍的智慧のことです。コミュニケーション、対話、議論、そのような人間関係のなかに慈愛や敬意があること。

    人間は人間の間にしか生きられません。悩み多き人間が、悩み多き人間を抱擁していく。慈悲とは遠い地平線にあるものではありません。哀切を克服しようとするアクティブな意思のなかで育まれる感情ではないでしょうか。同苦と言われる感情移入は技術でもなければ、悲しみや慰みに溺れることでもありません。強い自己があって可能なのです。

    創価が創価であるという独自性と思想は、会員という人間と人間の間にあります。信仰のエッセンスも目的も会員のなかで発酵し熟成されて深まっていくのではないでしょうか。法華経を味に例えて醍醐味というではありませんか。深い味ほど複雑な味がするものです。人間も同じと思います。苦労や悲しみの体験がスパイスですね。未熟なわたしが言うことではありませんが......


    #6
    何事にも意味があります。意味のないことなどありません。人間の間には、そのような貴重で、かけがえない意味するものがゴロゴロ存在していても、手に取り注意深く観察し、その因果を考える人がどれだけいるというのでしょうか。思想とはその意味を知ることであり、人間と人間、自分と他者の関係を学ぶことなのです。崩壊している関係を再び組み立てなおすことなのです。
    人間主義は、冷静にまわりを見渡し熱く行動をおこすことでもありますが、決して人間をバカにし見下すことではありません。
    会員を愛し、会員を抱きしめて、会員のために行動をおこし、共に春爛漫の幸せを願う、豊かな情感を持った信仰者に成長していきたい。わたしが願うのは、人間として当たり前の、他者のなかに自分の夢を実現していく勇敢なる人格です。先生もそのようにお考えになり、そのような人生を歩まれたのではないでしょうか。


    #7
    多数の定義があることを承知しながら概説的に言えば、ヒューマニズムは絶対的実在としての神の存在に対立した人間中心の考え方であると思います。崇高な人間の善性と可能性を信じた思想は、現代社会の通底をなす部分と考えますが、その反面、多くの矛盾があらわになりその克服に限界を感じているのが思想界の現状であると思います。
    肯定的な人間性の反対は、エゴイズムに代表される獣性ですが、このことについてトインビー対談では次のようにあります。

    『池田:欲望の克服は、たしかに困難なことです。しかし、人間はあえてこの困難な努力をしなければ、その内面にある"獣性"によって支配されてしまうでしょう。
    私は、それらの高等宗教が"大我"の正体を明らかにできなかった点に、実践方法のむずかしさを生み出した原因があると考えます。つまり、自我を克服するといっても、では何によって克服するのか、克服される自我が欲望や感情などであることはわかるにしても、克服する主体たる自我とは一体何か、そしてその自我と"大我"とはどう違うのか―――ということです。
    仏法では、克服の主体である自我は"大我"と同じであり、したがって、悟ってみれば、自我はたんに"大我"の断片ではなく、それはそのまま"大我"それ自体であると説いているのです。ただし、これはもちろん"仏界"という究極の悟りであり、それは内心の自覚であって、行動のうえでは"大我"の部分であることには変わりありません。したがって、自我の生き方は、博士のおっしゃるように、常に自己を宇宙に捧げようとすることでなければなりません。
    私は真実の宗教の役割とは、人間に欲望超克の力と勇気を与え、その"人間性"を開発することにあると思います。そして、この宗教は、人間をしてその内奥にある"生命"という実在を覚知させ、さらにそれを宇宙生命へと融合させていく力をもっていなければならないと思います。

    トインビー:実際には、"小我"も"大我"も同じです。そのゆえに、私は"汝はそれなり"が真理だと信ずるのです。しかし、この"汝はそれなり"というのは、たんなる知的な命題にしかすぎません。したがって、それは倫理的行動によって、まぎれもない真実であることが証明されるまでは、たんに真実であることの可能性を含んでいるにすぎないのです。しかも、この行動は"小我"によって実践されなければなりません。
    "小我"は、その貪欲性のゆえに"大我"から疎外されています。この貪欲性は、"小我"が、自らの目的のために宇宙を利用しようとする欲望です。貪欲の反対が慈悲です。この慈悲を実践することによって、"小我"は、現実において"大我"になることができるのです』


    小我、大我についてはいろいろ異論があるところですが、インド宗教の相互に影響しあった伝統的教義と解釈しておきます。この概念は一般的に西洋哲学にも見られるものです。普遍的自我としての大我、個人的自我としての小我、その融合と対立は神と人間、宗教的直観と理性などの問題の主要な部分と理解にかかわります。

    時空を超越し、また現実のなかで風に舞うように翻弄される自我という厄介なものは、誰にも実在するのであり、自意識あるいは潜在的意識の核になるものです。人間は良心や貪欲、善と悪の葛藤などを通じた根本的な倫理道徳の実行者ですが、悪性の力、魔性の欲望への誘惑に惑わされ、まるで簡単に生命の火を吹き消すように侵略されるもの。そのような負のエネルギーに支配されて煩悩に苦しんでいる姿を、他人に求めるまでもなく、切実な経験として、また自覚しながら、日々自己のなかに、わたしたちは見ています。自らをコントロールすること(ご本尊さまに向かい祈りを捧げる時間は、冷静でありながら活動的な本来の自分自身を取り戻す行為だということ。困難に負けない自我の発揚ということです)―――信仰のありがたさは、実は高度な精神的エネルギーの向上と高揚ということであり、わたしたちが実践している妙法への強い求道は、獣性克服の最良の方法なのです。

    このトインビー対談では、このあと、"愛と慈悲の実践"というテーマで語られていますが、このなかで、慈善(チャリティー)についてその心理的側面を指摘しています。そして、愛の概念に意味を与えるのが慈悲であり、その慈悲の本体は "抜苦与楽" であること、その前提となる同苦は優れた知性の発達によって可能であること、他者の痛みへの同調は高度な(人間的な)知能の働きによる創造力であることなど。
    この対談で述べられていることは、その過程の心理的成熟をあらわすプロトタイプかもしれませんが、このような考察は、真面目な創価の会員なら毎日のように挫折しながら再決意し、失意を味わいながら奮起し、祈りの一念に人生を懸けて、真剣に考えていることではないでしょうか。
    人間主義といっても、わたしたちが他者を思い想像しながら、同時に自らの人生の充実のために努力している行為そのものが、そうなのだと思います。
    また、慈善と偽善は紙一重です。慈善活動を金銭や物品の施しというのであれば、精神的な献身行為も広い意味で慈善活動となるのではないでしょうか。わたしたちの学会活動も慈善活動と言えなくもありません。宗教団体の布教や啓蒙は社会に対しての責任行為です。一人よがりの独善になってはいけないと常に戒めなければならないと考えます。


    #8
    信仰とは個人的動機のなかで始まるものです。他者の働きかけがあったとしても、それはキッカケに過ぎず、最後は個人の自由な判断に委ねられます。つまり、信仰から得られる利益は主観的観察と体験で、その有益性が認められるのだと考えますが、組織の一員になると、自由な判断が不自由さのなかでの限定された自由さに形を変えます。このことに何の不足も不自然さも感じないのですが、これは利己的欲求が社会的欲求に変化するためと思われます。わたしたちは個人の都合を越えて社会的使命を果たそうと努力します。
    信仰教育は組織の一員であることを絶えず自覚させるシステムです。わたしたちは指導者から見れば無知な子ども同然なのですから仕方ありません。
    座談会は自己啓発の場であり自己教育の場です。勝利や戦いなどと耳にタコができるぐらい教育されると、まるで戦場のような雰囲気に置かれます。聖教ブロパガンダが徹底しています。座談会は成果発表の場でないのは当然ですし、日々悩みを抱えて必死になってご本尊さまの前に座っている会員に哲学的裏づけと確信を与える場なのではないでしょうか。

    先生の目が届かなくなったせいか、惰性の低レベルの幹部が多くなりました。日々更新が信仰なら、時代を先取りし、リーダー像も更新していかなければなりません。


    #9
    フロイトの「幻想の未来」(光文社)のなかで、翻訳者の解説文に次のようにありました。
    『フロイトは強迫神経症の患者のさまざまな儀礼と、キリスト教のミサにおける細かな決まりには共通性があることに注目する。どちらにも「中止したときの道徳的不安、他のすべての行為からの完全な隔離、そして細かなことを行う小心さ」がみられるのである。そして意味がないとみえることも、「その細部にいたるまで意味にみちており、人格の重要な関心に奉仕」していると考えるのである。
    この強迫神経症の患者たちがこうした儀礼を反復する背景にあるのは罪悪感である。そして患者はその罪悪感を意識することができないのである。しかしある欲望が知覚されると、患者はその欲望に疚(やま)しさを感じ、そのために懲罰を期待し、「いつまで待ち構えている期待不安」に襲われ、その不安を打ち消すために儀礼が反復されるのである。「欲望の絶え間ない圧迫に拮抗するために、つねに新たな心的な努力が要求される。儀式と強迫行為は、一部は欲望の防衛のために、一部は予期される不幸にたいする防衛に向かうものとして成立する」のである。(中略)
    人間の「良心」はこうした神罰にたいする「期待不安」から生まれるのだとすると、宗教的な人間の信心深さは、強迫神経症の患者の儀礼における細心さと共通した性格をもつことになる。「神経症は個人的な宗教性であり、宗教は普遍的な強迫神経症」であると結論できるとフロイトは考えるのである』


    フロイトが対象とする宗教は伝統的なキリスト教ですが、「期待不安」と「不幸の防衛」という心理はよく理解できます。わたしたちにもよく似た心象があるからです。
    理性的宗教批判は必要です。特に人間の行動は教義から逸脱しながら気づかないことがあるからです。深く考える会員を、先生は期待されているのではないでしょうか。そして行為の正当性を自己反省できる人間を育てるために、先生の多くの対話があったのではないでしょうか。

    King Drum - Brand X Music

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         00:00 King Drum - Brand X Music
         03:16 Unstoppable - E.S. Posthumus


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