哲女のメモ 6

    #1 音楽天使が泣いている

    心の扉の中へすべり込みさえすれば
    もっと祈りにふさわしい場所が
    見つかるかもしれないのに
    君はつぶやく 世界が始まって以来一度だって
    これまで見てきた人々の栄光が
    長続きした例はない、と
    : Don't Look Back in Anger

    わたしの時間がいつも余計なもので埋められている。
    仕事や何やらで、音楽を聴けないっていうことほど、とても辛いことはない。
    もうそれだけで気持ちが鬱積して、明るさも失せてしまう。
    時々、メトロポリスの喧騒が恋しくなるばかりではなく、むきだしの感情や焦燥さえ愛しくなる。感性がゆるみ、何も感じない。未来が信じられない。

    音楽天使がうつむいて涙を流している。
    そんなイメージが脳裏に浮かんでは消えて、自分の像と重なる。
    オアシスを聴きながら、わたしのオアシスはどこにあるの?と思う。

    オアシスも15年のキャリアを積みながら、分裂し、別れた。
    ラストアルバム、08年の<Dig Out Your Soul>を聴きながらオアシスの軌跡を振り返ると、この下品で口汚くののしり合う品性から、どうして宝石のような曲が紡ぎだされるのか不思議な気持ちになります。
    しかし、デビュー当時の瑞々しい感性は次第に失われ、新しい挑戦に限界を感じさせるようになったことを、評論家やリスナーは気づいていたのだろうか? 
    サウンドの端々から、悩み苦しむ姿を感じていたのだろうか? 
    創造の神は、簡単に祝福してはくれないし、とても気まぐれなことを知っていたのでしょうか?
    音楽の深化は内面の深化に直結する。変わらないものを持つことも大切だけれど、表現の幅を広げていくことも大事なこと。テクニックというより人間的な深さが音楽を普遍たらしめる。心に残る美しい一曲に出合いたい、名曲に癒されたい、という思いは、特に彼らを聴くといつも感じていたことなのです。
    ギャラガー兄弟の美意識と音楽感性は、国民的ヒーロー・ビートルズという普遍的音源によって育まれたものだろう。オアシスを聴くたびにビートルズのことを考えてしまうのは仕方がない。音楽的アプローチはとてもオーソドックスです。アルバムのファーストソング “Bag It Up” などはもろにビートルズ・エッセンスが感じられる。彼らのイマジネーションは、ビートルズの微笑みと呪縛から成り立っているように思えます。
    ファースト・アルバムがわたしは余程好きです。彼らは1作目で頂点に達したかのようです。それにしてもリアムのソングライターとしての才能を改めて確認しました。曲によっては、ジョン・レノンそっくりの歌い方。素晴らしい。声質が同じなのかな。

    野心的で新奇さを装うロックのあり方に、時々懐疑的な思いを抱くときがあります。今はあらゆる形式、様式が飽和状態にあるように考えます。しかし表現は極限の美と原理を追求するために、飽くことなく挑戦する宿命を持っている。この混乱からはまた、優れた音楽や思想が現れるかもしれませんが、重い装飾を脱ぎ捨てたところで、芯になる純粋な音楽が現れるとは限りません。単純に原点回帰と言われても無理というものです。
    大切なことは、自己と世界の関係を洞察した深い見識のなかで、自由な精神を創造することに他なりません。感動する心が最も大切なのです。
    現在のロックシーンは、過度に饒舌でありながら、空虚な音に満ちており、わたしを含めてリスナーは飢餓を味わっています。いつも腹を空かして彷徨っています。そんな不幸な深いキリのなかにあっても天使は微笑む。優れた天才に音楽の信仰をもたらし、調和を授けようとします。音楽天使(Music Angel)は慈悲深くもあり、でも他人のように素っ気ない素振りを見せて、アーティストに涙を流させるときもあるのです。

    <オアシス>とはときには皮肉めいた名前です。彼らが本当に、心の砂漠のなかのオアシスになろうとするのであれば、繊細な感受性と直感、魂の柔軟さと孤独に耐える力強さを持って、欺瞞と乱雑さに覆われた現実を、天使の羽根で吹き払わなければならなかった。彼らは自分のその使命を自覚していたようには思えない。ののしり合うヒマに、もっと自分を見つめて、音楽の豊穣な湧水に手を入れて欲しかった。

    7枚目のオリジナル(Dig Out Your Soul:2008)には期待もあっただけに、聴いた瞬間、その凡庸さに失望しました。残念至極。ロッキング・オンでは08年のベスト・アルバムに選ばれましたが、その選考基準には大変懐疑的にならざるをえませんでした。もちろんアベレージは高くても、彼らはあきらかに滞っているということを評論家が指摘しなかったのは、本当に音楽を聴いていたのか疑わしい。
    ビートルズをリスペクトするのであれば、現在のロックシーンを変革する困難な道を歩んでもらいたいと、期待しましたが、大いなる間違いでした。真のロックは鳴り響いていない。普通のロック生活人に満足している。何を選択するのも自由ですが、セレブってそんなに心地良いものなのでしょうか?
    音楽は社会の接点なしでは成立しえません。変化せざるをえない音楽に時代的な真実性を持たせるためには、失われない自分自身と変化を受容する能動的な姿勢が大切です。変化し、上書きし、リセットする。バンドの発展はこの方程式につきる。

    クラシック・ロックの貴重なポテンシャルとポップ・エッセンス、記念すべき94年にファーストをリリースしてから15回もの季節を重ねて第一線に君臨し続けたエネルギーとテンション、ロックへの渇望をエモーショナルかつ斬新に表現したオリジナリティー。どれをとってもグレートな珠玉のパフォーマンスです。だからこそ言いたい。ただ一直線にロックの核心へ切り込んでほしかったと。でなければビートルズは超えることができないと考えたからです。

    ロックの初期衝動は、本質的であるからこそ、簡潔で美しく刺激的です。直観的に矛盾した世界を把握する。そしてたとえ自分が血を流しても一矢を報いるのです。

    その大切なスタンスとロック・スピリットを忘れていると、わたしには思えてならなかったのです。彼らのプロデュースをしたい。報酬もいらない。

     “Don't Look Back in Anger” では冒頭の詞を受けて次のように歌う。

    君が辿り着きたい場所へならどこでもお供するよ
    誰も踏み込んだことのない魔境であろうと
    夜であろうと昼であろうと
    でも頼むからロックンロール・バンドなんかに
    君の人生をゆだねたりはしないでくれ
    自分にさえ責任が持てない奴らに


    示唆に富む歌詞ですね。
    ロック野郎が世界を変えることに、いつの時代でも保守的な世代は抵抗する。
    ロック野郎は蔑まされるのです。

    音楽天使は誰の肩にも乗っている。
    わたしの天使は、寂しい顔で涙をためているけれど
    きっとまた優しい風が吹いてくれるさ。
    今は羽根を休めているだけ。


    #2 伝説のギタリスト

    ロックの天使にキスをされ、恋をしてしまったわたし。
    おもに60年代から現在まで聴かなければならないアルバムが山ほどあって、アーティスト名やタイトルだけは知っていても、未聴というアルバムもたくさんあったりして、これから10年位は掛かるのではないかと考えたりしてるのです。気が遠くなりそうです。

    この超有名なアルバムを取り上げるのは、諸先輩の皆さまからすれば今更何だと意見されそうで恐いのですが、スティーヴィー・レイ・ヴォーン(SRV)、伝説のギタリストのデビュー・アルバムを始めて聴きました。以前から気に掛かっていたのですが、なかなか聴くチャンスが巡ってこなかったのです。

    1dec2020-st.gifStevie Ray Vaughan <1954~1990>
    古い時代のハリウッド・スターのようなブロマイド。
    モテそうなナイス・ガイ。迷いのないすっきりした知性、澱みない感性、優しい目と意志の強さが眉と鼻筋にうかがえます。男らしい豪快さもあわせ持ってるようです。

    <Texas Flood>1983
    1. Love Struck Baby
    2. Pride and Joy
    3. Texas Flood
    4. Tell Me
    5. Testify
    6. Rude Mood
    7. Mary Had a Little Lamb
    8. Dirty Pool
    9. I'm Cryin'
    10. Lenny
    11. SRV Speaks
    12. Tin Pan Alley (AKA Roughest Place in Town)
    13. Testify [Live]
    14. Mary Had a Little Lamb [Live]
    15. Wham! [Live]

    彼のサウンドは文句なくカッコいい。たった3日間のレコーディングで、すべてを終えたという。ヘビーゲージを張った、ストラトキャスターからしぼりだすアグレッシブな力強いトーン、情感に満ちたサスティン、肉体の一部と化した愛器からはチョーキングやビブラート、繊細でいながら荒々しく、情熱的なドライブ感とサウンドの厚みは、ブルース・ロックの美しさを体現しています。ブルースをベースにしたインプロビゼーションは、創造力を実現するスキル。才能と絶え間ない挑戦からもたらされたこのアルバムは、昼も夜もギターとともに過ごした、ギターを弾くために生まれてきた天才の結晶です。

    1曲目から虜となりました。エレクトリックの何と豊かな響きでしょう。ただ電気回路を通しただけなのに、一音一音が際立ちストラトに魂が宿っている。SRVと輝かしくアピールしているギターのキズの一つ一つまでもが渾然一体となって、主人の思うがままに音を出している。ギターは彼の分身。寝ている間も夢のなかで弾いていたのだ。そうでなければこれほどまでインスピレーションに満ちたプレイを展開することはできなかっただろう。
    ベースのTommy Shannon、ドラムスのChris Layton とのあうんの呼吸は3ピース・アンサンブルとして最高のものです。場数を踏んで得られた同志のような結束でしょう。またライブで鍛えられたスティーヴィーのヴォーカルも抑制が効き、派手さはないけれど鐘と祈りのアンジェラス<Angelus>のようにブルースにフィットしたもの。この完璧さはロバート・ジョンソンと同じように悪魔に魂を売り渡したことのサジェスチョン(暗示)なのだろうか? そんな非現実的な疑いさえよぎるのです。
    とにかくすべてが素晴らしい!

    塗装が剥げ落ち、汗がしみ込んだ彼のギターは、ブルースと格闘した人生そのもの。
    35才という若さで旅立ったテキサス・カウボーイは、ギターとともに伝説となった。

    ギターゴッドが勢ぞろい!
    ブルースの名曲<Sweet Home Chicago>
    Eric Clapton, Stevie Ray Vaughan, Buddy Guy, Jimmie Vaughan, Robert Cray
    プレイヤーもオーディエンスもミックス状態。
    哲学者の風貌で全体を見ているクラプトンの姿が印象的。



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    哲女のメモ 5

    #1
    以前から、手に入れたいと思っていた本がありました。
    有名な『ブッダチャリタ(仏陀の生涯)』(馬鳴著)ですが、講談社版の「原始仏典」シリーズの10巻目、発行は30年ぐらい前で、絶版になっているのです。現在、中公文庫で大乗仏典シリーズの一冊として発売になっており買いましたが、翻訳が読みづらく、訳に忠実であろうとするのか、文学的香りも感じられない。それに現存するサンスクリット文を底本にした訳出なので、二十八章あるうちの十四章までしかなく、全体があきらかでないのです。講談社版を図書館で読んでから欲しいと思っていましたが、偶然古本屋で見つけ、さんざん迷った挙句買いました。わたしにすれば、大変高価な本になってしまいました。お金に関しては、節約委員会公認のケチです。つまり信仰と同じくらい執着も深い。
    30年前の定価で2200円ですので、そもそも高価な本であることは変わりはないのですが、古本屋での値札は9500円。はじめ0が一つ多いのではないかと思い、
    「この本、0が一つ多いのではないでしょうか」とご主人にたずねたら、
    「いいえ!」と、怒ったように、素っ気ない返事。
    取っつきにくいのがこの業界の常識。あんたに本の価値がわかるか、と言いたげな軽蔑があるのよ。
    大体、商売人というより、本の考古学者的雰囲気。マニアックな世界だし、シャイネス可らしさの篠川栞子も登場したけど、おもしろそうなミステリーなんて本のなかだけだし。
    どうせ売れないくせに、と思いながら、30分も立ち読みしてから、わたしとしてはおもいきり気前よく、大好きな福沢諭吉に別れを告げ、本のうえにきちんと重ねて、カウンターに持っていく。
    「買ったら、成仏できますでしょうか。ご主人さま」と皮肉半分、ニコニコしながら言ったら、
    「本で成仏はできません」と、もっともなご返事をいただきました。
    「最近、多いんですよ。哲の女らしきご来店が。でもこんな高価な本は買わない」
    わたしって、もしかしたら哲の女?
    哲の美を認めてるっていうこと?
    さきばしりの考えすぎは健康によくないわ。
    「ご商売繁盛でよろしいですね」
    「本の価値は読む人間が決めるものだ。これはおもしろいし、市場に出てる数は少ないし損はない」
    「読まれたのですか?」
    「目次だけね」
    「目次からおもしろいなんて、たいした本だわ」
    ご主人は大笑いしました。
    「まけてよ。ご主人さま!」
    結局、500円オフしてくれました。外交力の問題よ。オブリガード


    と苦悩
    誰もすることを欲し、されることを望む。
    失意のときでも、悲しみのときでも、絶望のときでも、どんなに辛い瞬間のときにも、支えとなり、欠点だらけのわたしの全人格を受け入れしてくれる人を、わたしもすべてを捧げてしたい。
    青年シッダールタは、成就することない愛に悩んだがゆえに、愛することの根源を知りたいと考えたに相違ない。深い地底から掘り出された宝石のように透明な知性と、濁りがない聡明さ、遠い景色のなかで葉が落ちる音さえ聞き分ける繊細さと、また人間として無二の優れた資質と獅子のような勇気を持っていても、愛の呪縛と苦しみからは逃れられなかったと、わたしは思う。
    彼が出家したのは、個人的動機が多くを占めているように思えてならない。愛を捨てて、自分を苛み続けた苦行の果てに覚者となり、普遍的愛に目覚めた。

    インドの北辺境、ヒマラヤの高峰を背に位置するシャカ族の小国は、気候風土に恵まれ、雪解け水を利用した稲作を中心とした平和な農業国として栄えていた。ただ王家では後継者となる王子誕生に、未だ恵まれないのが憂いの種であった。
    シッダールタは、シャカ族の都・カピラヴァストゥ(カピラ城)のシュッドーダナ王(浄飯王)と、隣国コーリヤ族から嫁ぎ、妃となったマーヤー夫人との間に、長子として生れた。
    伝説によれば、ある夜、マーヤー夫人が寢殿で眠りに入ると不思議な夢を見たという。天から六牙の白象が降りてきてマーヤー夫人の寝床のまわりを三回右に巡ると右脇から胎内に入ったという。
    翌朝目覚めた王妃から、夢の話を聞かされた王は、国中の賢者バラモンたちを呼び寄せ、儀礼を施し夢解きをさせると、
    「王妃は受胎されました。きっと男子で王となられる方でしょう」と告げ、
    「王子は在家の生活をおくるなら転輪聖王となり、もし出家するなら悟りをひらきブッダとなるであろう」と予言した。
    王妃の懐妊に、国中の人々が無限の光明と喜びに満ちたと伝説は伝える。ブッダの霊夢托胎は、伝説にもとづいて具象化され数々の名品が生れるその後の仏教美術のテーマとなった。
    懐妊したマーヤー夫人は、月満ちて出産が近くなると故郷コーリヤ族のデーヴァダハへ里帰りしたいという思いにかられ、シュッドーダナ王の承諾を得て旅立つことになった。旅の安全を願い入念な準備をととのえ、王妃は輿に乗り、侍女や大勢の従者を随行した。
    道の途中にルンビニー園というサーラ樹に覆われた森があった。マーヤー夫人が訪れたとき、枝の端々まで満開の花が咲き、蜜蜂が群れ、様々な鳥が美しい声でさえずり、まるで帝釈天の遊園のようであったと伝えられている。
    この美しいルンビニー園に魅せられたマーヤー夫人は輿を降り、森のなかに進み、赤色や黄色の花びらが蹴鞠のように咲きほこる無憂樹(アショーカ樹)に近寄り、垂れ下がる枝を手にした。
    そのとき、陣痛がおこり、マーヤー夫人の右脇腹から男子が出生した。
    争いを続ける人類に、絶えることない聖水と消えることない光を灯し、アジアと全世界に希望を与えるブッダの生誕は、紀元前四六三年のことです。(中村元博士説)

    当時のシャカ族の社会においても、バラモン教の影響が色濃く存在し、四姓制度の「浄、不浄」の観念が強く働き、女性の生理、懐胎、出産などは不浄とされていた。出産を間近にひかえての旅は危険な行為であり、それを敢えて行ったということは、王宮での出産によってもたらされるけがれを避けるためにも、出産の場を故郷に求めたと考えられる。

    ルンビニー園での出産を無事終えたマーヤー夫人は、誕生間もない王子をいたわりながら、シャカ族の都・ピラヴァストゥへむかい帰路についた。王子誕生の知らせを受けて待ちわびるシュッドーダナ王や都人は、シャカ族の後継者の帰城に歓喜と感動の渦につつまれた。嫡子誕生に喜びあふれる王は、バラモンたちを招き、法典に従い命名式が行われた。王子は「目的を達成する者」という意味のシッダールタ(悉達多)と命名された。

    喜びもつかの間、悲劇が訪れた。王子の生後わずか七日にして母・マーヤーが亡くなってしまったのです。
    希望に満ちあふれていた父王も幼い王子の行く末に心を痛め、乳母を選び養育にあたらせる一方、亡き妃マーヤーの妹マハープラジャーパティーを後妻に迎えいれた。そして後に誕生した異母弟・ナンダとともに、シッダールタは養母・マハープラジャーパティーによって愛情を注がれ大切に育てられたと、伝承されている。

    シッダールタの出家動機について、多くの文献はよく知られた四門出遊の伝承を伝えている。「ブッダチャリタ」の「死者」を見る場面では、

    『そのようにして王子が進んでいったとき、かの神たちは一人の死者を創り出した。道を運ばれていくその死者を御者と王子は見たが、他の者は見なかった。
    そこで王子は御者に言った。「四人の人に運ばれ、悲しげな人々に付き添われていて、飾られてはいるが嘆かれているあの者はだれなのか」
    そのとき、御者の心は本性が清浄なるかのシュッダーディヴァーサ神たちによってとらえられていたため、事実を知る彼は言うべきではなかったことも主人に述べてしまった。
    「この者は、だれかはわかりませんが、知性、感覚、息、さらにもろもろの性質が無くなり、眠っており、意識なく、草木となってしまったのです。愛する人々により努力して育てられ、守られてきましたが、今捨てられるのです」
    この御者の言葉を聞くと、王子はすこしたじろいで言った。「これはこの男にのみ起こることなのか。すべての生きものの終わりはこのようなものか」
    御者は王子に答えた。「これはすべての生きものの最後のありさまです。卑しいものであれ、中位のものであれ、偉大なものであれ、この世においてすべてのものの消滅は定まっております」
    王子は堅固な心の持ち主ではあったが、死のことを聞くとたちまち心沈んでしまった。彼は馬車の欄干の先に肩でもたれかかり、震え声で語った。
    「これが生きものに定まった帰結なのに、人は恐れず平気でいる。このように死への道にありながら安閑としているのだから、人の心はかたくななものだと思う。
    だから、御者よ、われわれの馬車をもどせ。園遊の時でも場所でもないから。消滅を知った以上、心ある者がどうして今この破滅の時に平気でおられよう」
    王子は御者にこのように言ったが、御者は馬車をもどさないばかりか、王の命令に従ってパドマシャンダという名の森に進んだ。そこでは特別の趣向が用意してあったのだった。
    そこで、王子は、若い樹が花をつけ、コ―キラ鳥が喜びに酔って飛びかい、館があり、池は蓮の花で麗しく、あたかもインドラ神の森ナンダナのように美しい森を見た。
    そして、王子はむりやりに美しい女たちの群がる森の中に連れていかれた。ちょうど誓戒を受けたばかりの隠者が、禁欲生活への障害となることを恐れながらも、美しい天女に満ちたアラカ―国の主クーベラの宮殿に連れていかれたように』


    優れた詩人であったと伝えられている馬鳴は、修辞家らしく文学的才能を遺憾なく発揮して、十分な言語的装飾を施しながら、ブッダの生涯を華麗に描きます。史実を伝えるというよりも、神格化されたブッダの姿が、尊敬と信仰の対象であったことが理解できます。馬鳴はブッダの生涯に関わる伝承や思想に深い造詣を持ち、文学作品といっても、経典に伝えられるブッダ像からは逸脱していない。

    個人差はありますが、普通の人間は苦しみや痛みに鈍感なのではないでしょうか。わたしたちは自分に直接関係がない社会のあらゆる不合理、他者の苦しみは感じないようにできてるらしい。だからこそ生きられるのかもしれません。わずかなショックでも振れる敏感な感度の持ち主が、正常な人間とは思えませんが、苦しみの度合いが深くても、克服し解決する強靭な精神を保つことができれば、覚者への道は近いと言えそうです。苦しみが地層のように複雑に重なりあいながら地上を覆っている現代に、ブッダが生まれ会わせれば、苦の感じ方も違っていたかもしれない。人間にとって現世は有限であるけれど、普遍的苦は、普遍的であるがゆえに、永遠に消滅しない。不可知論は釈尊が一番嫌悪し、無記をもって答えとしました。過去世や未来世など証明できないことは、信じるしかない。

    ブッダの四門出遊は後世の創作ですが、このように他者のなかに自分の苦しみを見い出すことは、ブッダなら可能だったと思わせる十分な説得力があります。
    『自らが老い、病になり、やがて死ぬことを深く認識する故に、老いた人、病者、死者を嫌悪しないのです。苦しみをともにし、喜びをともにし、ともにあることを歓ぶのです。ブッダはそのことを、若き、健康な、生のただ中に見たのです』(『ブッダは歩むブッダは語る』友岡雅弥著・第三文明社)
    ブッダの宗教的天分は繊細な精神のひだのなかで熟成され、真理を掴んだ。「ブッダチャリタ」はそのことを文学的香り豊かに、一つの物語として、高級な大衆向けに編集したものと思います。神格化と大衆化は同時に進行するんですね。永遠の指導者に対する創価のコマーシャリズムに溢れたアドバタイズメントは、宗教団体の変質をよく表しておりますが、企業のセールスプロモーションのようにも見えたり、キャンペーンのように見えたりするのも、以前には想像すらできないことだったでしょう。会員教育よりも組織の利潤に重点が置かれているからでしょう。
    『ブッダは歩むブッダは語る』は少し読みづらい本ですが、貴重な本であることは読めばわかるでしょう。引用されている思想家・哲学者など、賢者の言葉がとても深い内容を示唆していると感じられ、きっと渉猟していたのだろうと本好きのわたしにはわかりました。
    この本を、友岡氏が第三文明社から出版したことが本当に良かったのだろうかと考えてしまいます。わたしが買った古本は、定価の倍ぐらいの値段が付けられておりましたが、出版されて20年も経っているのに、需要もそれなりにあるということでしょうか。その後、第三文明社からこの本をしのぐ出版がどのくらいあったのだろうかと勝手に危惧する次第です。求道者の姿勢を個性的に示した友岡氏は、カリスマ指導者の巨大なドグマの影響をまともに受けていたのかもしれない。また創価流の世俗的な宗教営業に、惰性に陥った信仰の幻影を見ていたのかもしれない。聖教を見ればよくわかるでしょう。会員が忘れないように定期的に、脚色された過去の歴史がまるで目の前でイベントを開催するかのように、毎年同じことを繰り返していることを、懸命な会員なら見抜いているはず。意図的に習慣づけられた活動こそ害毒です。創価は多くの有為な人材を犠牲にしている。
    「馬鳴菩薩伝」(https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/JT2046.pdf)


    #2
    実生活での仕事や学業などにおける評価は大切ですが、信仰上における評価はさほど気にかける必要ないと考えるようになりました。信仰でなくても最良の結果を望むのが行動の帰結というものですが、成果という言葉に言い表わされる結果など、組織の都合以外ありません。マイ聖教に多くの会員が疑問を持ち始めているのに、十分な根拠を示さないままです。啓蒙のおしつけは偽善の影絵のような厚かましさ。美しいけれど、光に照らされれば儚く消える、サプレッション(抑圧)の詐術です。
    指導性は簡単に言えば哲学です。それは自由選択を前提にしたものでなければならないと思います。わたしがこういう指摘をすると、今まで自由だったし、これからも自由だというオウム返しのような答が返ってきます。創価に限らず、組織に加入すれば、誰でもそれなりの自分の居場所と自由な発言権を得たいと考えます。その権利の前提となるのは、活動家であるかどうかということです。マイ聖教は活動家と認知される名札のようなものですが、そのように活動家の定義を誘導してきたのが、今までの指導であったこと、悪しき習慣の正体は単に部数減への恐怖以外にないこと、それにともなう宗教団体としての経営的経済的理由があるからと思います。自由は、自由を誇称しながら無言のうちに、心や気持ちを束縛し負担をかけることではありません。
    大事なのは個々の意思であり、信仰への情熱であり、確信であり、不完全人間が不完全評価をしても意味がありません。創価の中心者である年長者は必然的に生活知恵があり、経験から複雑な正邪や善悪の区別を知っていますが、一方で、保守的になるがゆえに、賢明でない打算的な評価法も選択します。地位ある者は特にそうです。面倒なことは避けたいと考えるし、波風を立てなくても組織は十分機能していると思うのです。
    創価のなかにも幸せでない人はたくさんいます。その原因となる苦の実体と、自分を縛る旧価値観からの解放、善悪の弁別、問題解決への心的アプローチの論理的、具体的説明をすることなく、ただ一様に宿業論でかたづけてしまう愚かな指導が見受けられます。それは自分の言葉で語らない聖教コピーの凡庸な幹部の指導力と、社会一般に経済的困窮が深まるなかで、世俗的な価値判断の影響をうけて信仰上の確信が薄らいでいるからだと思います。信仰に必要なのは新しい自分を発見することであり、オリジナルな想像力を発揮することです。
    宗教の絶対性への帰順は、会員の熱心さと純真さに支えられた活動が、組織への当然の献身と考えることから始まります。それが実は自由を奪う犠牲というものだと知れば、理性をマヒさせる宗教性は、ただ従うこととする悪の側面がおのずと見えてきます。布教も会員の経済的支援も、善意と正義が合体した強固な釈尊以来の伝統的使命に支えられていることに、つつしみ深い感謝が忘れられている。
    厳格な修行を求めた原理主義者・提婆達多は、師の化導の本心を知らず敵対しましたが、戒律もまた方便であることに気づかないまま、手段の目的化というスパイラルに陥りました。同じように宗教団体においては、成果という言葉はこの手段の目的化と同義語でしょう。またサンガ内の階級化が仏道を曇らせる原因になることも、釈尊はよく知り抜いていました。階級化とはつまり教義の独占化であることを、宗門問題ではからずも経験しました。以前、創価でも主師親の三徳具備の池田先生という指導がありましたが、師弟関係を腐らす無盲目な礼賛は神格化と同じということ、法に依らず、人に依る行き過ぎた解釈が、教義の独占化ということです。宗教であれ政治であれ、唯一者の独裁は競争と破壊という精神の退廃をすすめるだけ。「価値判断能力の衰弱」(ニーチェ)は過剰な賛美のうえにベールを被って鎮座する。時代趨勢に対しての鈍感さ、ある程度の信者を獲得すると保守的なサンガ維持に転じることなど、昔も今も変わらないのです。

    人間の無謬性などありえません。正しい法を生活規定にしていても、誰でも間違いを犯すのです。正しい容器(善)を所持しながら、濁った水(悪)をそそいで疑問に感じないのです。大聖人ですら、長く激しい闘争のあとで、「其罪畢已」と自らの宿業を認められました。消し難い正法誹謗の罪を背負った者が、どうして無謬であるなどと言えるでしょうか。
    釈尊が洞察した通り、人間だけでなく、組織も渇愛の欲望で苦しむなんて、妙法においても戒律が必要なのではないでしょうか。妙法が最高智であれば、自己規律も最高規律でなければならない。さらに末法が貪欲と五濁の悪世なら、利己的現世利益主義と少欲知足は正反対の姿勢ではないでしょうか。宗門に対し少欲知足でないと批判するなら、学会僧(職員)も組織もまた、少欲知足でなければならない。
    「法師とは五種法師なり功徳とは六根清浄の果報なり」<御義口伝>
    見えない心を見抜き、心の声を聞き、正しい判断ができる功徳は、誰もが望む信仰のエッセンスです。会員の心を知らないということは、一体、どこから変化し、どこから堕落したのでしょうか。
    仏教の民衆化は、二千年前も今も、在家信者の願いです。その在家が帰依した大乗思想は、方便の無限拡大を招きながら複雑な理論へと発展し、発祥地において滅びるという歴史に出会いました。平易な祈りと生活知恵を求めた民衆のための教育的救済法でありながら、結果として民衆遊離というジレンマに陥った歴史の教訓は、同じ過失をおかす危険を絶えず内包していることを教えています。
    釈尊が説いた仏教思想は、「苦を滅す」というシンプルなものだったのではないでしょうか。その目的である自己救済は、釈尊の時代も現代も変わりなく難しい。  


    #3
    思慮に富みながら偽善的な、論理の撞着にも目もくれずに、言いたいことを遠慮なく言えるのがネットの熱狂世界です。したがって適度な冷静という自己コントロール力も必要と考えております。
    そんなネットでも、根気よさと情熱があれば適時な話題とテーマを提供することができます。種々の混乱が錯綜している時代に、問題意識の共有はとても大切なことと認識していますが、同志というのは問題への関心と洞察を補うあう相手と思います。キーワードはソフトパワーと対話です。このような言葉のチョイスは適切ですし、仏教の理念にも適うもの。
    主張しながら譲り合う謙譲の人々が、正常な信仰者のイスに座ることができますように。
    悪の支配を防ぐために、信仰と理性の勝利のために、改革が苦難にあふれていても、恐れるものではありません。

    組織悪は、組織が必ず持つ属性と思いますが、一方で組織がなければ広布も進展しません。有能な管理者が必要ですし、その指導者は創造力豊かな人格者でもなければなりません。世界を再構築する原理を知った者の宿命ですね。先生は多くの模範を残されてきました。そのなかでも対話者としての姿勢に学ぶことが最大のものかと思います。慈悲の心が蘇るような啓発と示唆に富む貴重な対話の財産を、心して学ばなければならないでしょう。
    先を見通す力は賢人のみに与えられた徳性。智慧の守護者でもあり、未来を予言した釈尊は、末法の人間主義者にもあわれみと称賛を惜しまないでしょう。変革は受け継がれてこそ成し遂げられるもの。困難な現代にあって、聖者の思いが叶えられますように祈りを捧げるだけです。そして尽くすだけです。

    確信が他者を動かすことは、わたしたちはよく経験しています。また信仰への確信が得られるかどうかが、信仰者の立場から言えば、きわめて重要であることも知っています。そのために日々苦労しているといってもよいかもしれません。確信への道程は個人的差異があり、それぞれ理性的、経験的、直観的なものとして得られます。しかし大小の強さの違いがあり、揺るぎない確信は簡単に得られるものではありません。
    わたしたちは成功より失敗から多くを学びます。慈悲深きご本尊さまは、試行錯誤するための失敗を必ず与えてくれます。それは試練とか困難とか受難とかを通した失意と言われるものです。立ち直れないほどに打ちのめされることです。このときの自己の弱さの自覚が、確信のつぼみとなります。確信は弱さを経た花なのです。自己存在をありのままに肯定した土壌から恵まれる花なのです。
    失敗を経験しなかった人は信用できません。また失敗を他者のせいにする人も信用できません。懸命な人ほど失敗を経験するのは、道理が道理を証明するようなものです。目的を持ち、自己解釈に楽観主義の知的な教養を身につけた信仰者は、内省的なまなざしで自己を励まし限界状態を越える。
    わたしたちの信仰への真の確信は、成功や功徳の成就からではなく、失敗や迷いを通した反省や克服のなかから得られるものです。辛い経験に負けないという精神の持続性が、確信を不動のものにする聡明なる信仰者の唯一の基礎的資質です。それが菩薩の本質へ直結している回路だと思います。

    わたしたちはいつも誰かに励まされ、また誰かを励まそうと努めています。心からの励ましの言葉が、自分と他者の境界を取り除くことを多く人は知らない。意識しない。失敗や迷いの渦中にあっても、身を投げ出すような励ましは、自らの心も励まし、他者とともに自らの運命を切り開く原動力にもなるのです。だから失敗を恐れてはならない。困難をともなった迷いを避けてはならないことを、志が高い女性の皆さまに深い情感をこめて訴えます。
    困難は、ただの困難でしかない。困難を苦しみと捉えるのは、根源的煩悩である三毒の一つ・癡(ち)に翻弄される姿です。癡は渇愛とも無知・無明とも言われ、釈尊出家の中心動機をなすものと思われます。


    #4
    不信と疑いで孤立化し分断される世界のなかで、人間関係も水のように薄められる殺伐とした時代に、テクノロジーと非人間的な功利性を信奉した管理者さえも管理される社会で、希望を失わず生きていこうとする健気さは、まるで苦行者を連想させる姿です。仏教の基本である因果応報が自己責任倫理であっても、今、人間が人間の心を信じる信頼関係ほど危うくもろいものはありません。釈尊の対機説法は方便であったかもしれませんが、適切な言葉を選び励ますことでもありました。不信の世界にこそ励ましの言葉は必要であり、またそれは人間関係を効果的に蘇生させる確信の言葉と言えるのではないでしょうか。
    か弱き自分が、自らに課した運命に決して負けないためにも、自他ともに輝く確信の励ましが、わたしには必要不可欠なのです。

    『信仰は疑うべきものでなく、いつも揺れ続ける自分自身こそ疑うべきものです。
    確信は、悲哀がつまった人生に別れを告げる魔法のような知性のことです。
    わたしは変われる、そう思うこと、それが信仰です』(アンナの日記から)


    "You Changed My Mind" by Fearless Motivation
       Title 1: Small Minds
       Title 2: You Can Change


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    哲女のメモ 4

    #1
    kumagawa.jpg今年に入ってから、なんとなく憂鬱な日々が続いています。心配事があるってことかしら。新型コロナもそうですが、最近の豪雨災害も心に重くのしかかります。自分が被害者でもないのに、心のなかがどしゃぶり。悲しくて絶望的。
    前向きに考えられないのがわたしの欠点。でもそういうわたしも自分の一部だから、今さら気にすることもないのだけれど、何か重いものを引きずっているようで、いつもの明るさは何処へやら。考えることも考えられない。一日一日があっという間に過ぎていくようで、貴重な時間を無駄使いしている気分です。時はうつろ、季節もうつろ、わたしもうつろ。自分で自分を慰めても解決するわけでもない。唱題すると涙が出てくる。ご本尊さまって卑怯だよね。何も解決してくれないんだもん。わたしの宿業?  言いたいことは分かっているわ。

    でも、宿業をどのように解釈するかが問題よ。目に見えないものは信じて確信するしかない。きっと宿業はあるのだろう。そしてそのカラクリを懇切に解いた仏教は強靱な第一原則たりうるのであり、議論の余地はない。理性を知る者は理性の限界も知る。したがって宿業は信じるしかないのだ、とアンナは自信たっぷり自分に言い聞かせたのだった。
    宗教が滅べば理性も滅ぶ。信仰を失えば確信も失う。ガソリンなしでどうして車が走るだろうか。信仰なしでどうして人生を走ることができるだろうか。
    実行は難しいけれど真理は単純です。これはあらゆる芸術作品と共通している。特に推理小説はどんなに複雑なストーリーでも核心のプロットは単純なのです。必ず犯人の正体がバレて、犯人も正直に告白するからね。探偵ももったいぶって解説するのを得意とする。はっきり言って舞台に登場する役者さんて饒舌ですよね。みんな自分を主張しているわけです。
    だからって軽率な思いつきではないけれど、その上でわたしも宣言しよう。わたしは敬虔な仏教徒であるということ、日蓮イズムというストーリーを追う探偵であること。

    創価は間違なくブッダからの正統を汲む開かれた伝統なのです。もしも否定することが正しいとすれば、ブッダからの流れも否定しなければならない。こんなことを書けばたちまちアンチの方々から反論を浴びそうです。「子供の楽園」のような議論はおことわり。
    人間解放は近代の社会科学を論ずる前提とされてきましたが、普遍化した苦難からの解放は未解決であり、さらに増大する気配です。何が求められているかと言えば、異なる思想、異なる人間の連帯であって、争うことではないのです。でもそうは言っても、カリスマ的改革者におおいに疑問を抱いている人々が、自らの行動規範に絶えず感情を持ちこんで盲目的に嫌悪する抵抗姿勢を、わたしは憐れむほかありません。彼らはペシミズムという雲の下で自ら進んで雨に打たれている人種であり、創価によって日本が乗っとられ、やがて善良な国民が抹殺される陰謀が着々と計画されているといった議論になるとにわかに目を輝かせ、更なる悲劇を演出しようと試みる。根拠のない悲劇は喜劇であり、雲が必ず雨を降らせるとは限らないのに、禁欲的潔癖さが小児的愚昧さを象徴していることすら気づいていない。そういう悲劇は喜劇というよりないであろう。一体、文化とか文明とか歴史とか伝統といった自分自身を形作るものを、ほんとうに理解しているのか疑わしい。重要であり危機であると訴えながら、空疎で内容が伴わない希望とか信頼とかの言葉を連発するのであるから、裏返して言えば彼らがしがみつく正義は、コマーシャリズムに踊らされた大量生産の通俗的精神を生みの親とする消費型正義なのです。日蓮もかつて味わったように、正統はまた異端であるという正義こそ、辛辣な烙印に耐えられる強靭さを備えている。軟弱な正義は、社会を混乱に導くだけです。
    しかし、創価のなかでも勝利を強調するあまり、その精神を忘れているのではないか、という危惧を抱くのはわたしだけだろうか。例えば政治に対する姿勢では、無条件に無批判に支援し、その背景を考えない傾向が顕著であるからです。公明党に対しての先生のご指導も、創価と公明党は一体であるというのもあれば、党の独立を促すものもあり、結局会員はその間を右往左往しているとの見方もできるのではないでしょうか?
    信仰者は政治権力を捨てよ、とわたしは言いたいのです。
    宗教には元々、「闘争」の側面が多分にあることは誰もが承知しています。自己との闘争が信仰なのであり、ひいては醜悪な社会に、必死の覚悟で闘争を挑むのが宗教なのです。このとき寛容や多様性といったものは地平の彼方で浮き沈みしている。未だに争いは無くならないし、血を流すことにも慣れっこになってしまった。文明が進化し生活水準が豊かになっても、一方で人道的な責任は放棄し、多くの人間は傍観者という最悪の大衆になりさがる。国家公認殺人者はより高度な技術を発明し、技術的進歩が世界貢献と平和への道であるかのように錯覚する。倫理とは見た目はスマートなガバメントの都合よい大衆迎合の論理でしかない。近代の心ある思想家が指摘したのは、大衆の愚かさだった。
    大衆は人間の集まりという意味です。一人や二人ではない組織、民衆のあらゆる階層階級を網羅した大組織、社会に一定の影響をおよぼし、動向を左右しかねない組織は、大衆の一部であり、大衆論理が適用される組織です。創価にはどれくらい会員がいるのか、はっきり分かりかねますが、公明党が大衆政党というくらいですから、創価も大衆宗教なのでしょう。
    創価の会員は現実主義者です。過去がどうあれ、今現在の姿勢を問うのであり、こういう考え自体間違いとは言えないけれど、現在は過去の積み重ねの上にあることもよく思案しなければならない。わたしたちの学びはすべて過去からのものであり、歴史からのものである。したがって、真実の歴史こそ、真に規範となるべき歴史です。

    民主主義とは機会の平等を約束するものですが、日本のような曖昧な寛容美徳が礼賛されるシステムでは、寛容は差別容認を意味するものと同義です。多神教文化は社会的な情報と内面的な情緒を共有することであり、不合理なことであってもそれを指摘する人間を排除するシステムです。無定見にフランス革命を礼賛する人間が多いのも日本システムの特徴です。自由・平等・博愛は、アンチテーゼとして秩序・格差・敵対を生み出したのであり、この反対概念を行ったり来り、どちらかに揺れるのがその後の歴史であったこと、民主主義は合理主義という裏パッチで支えられて、まるで不正を断罪する剣のように信仰されてきました。その主人公が大衆です。歴史経過には必ず反動があるのであり、合理主義に懐疑的に異議をつきつけて孤独を味わった勇気ある人々もまた生れて、結局ニヒリズムの深い闇をブラックホールのように発見するに至るのであるけれど、この真実の過程に無頓着な知識人が日本には溢れています。正統は正気であるということ。伝統は正しい歴史観に立った智慧でもあり、正しい目と心を持った人間だけが獲得することができるバランス感覚の真髄です。

    池田先生は、第35回SGI提言(2010年1月26日)で、ニヒリズムに言及しています。
    『今回私がスポットを当ててみたいのは、現代文明が行き着いた一つの位相、現代人が否応なく直面せざるをえないデクリネーション(衰勢)の時運――大まかに言ってペシミズム(悲観主義)さらにはニヒリズム(虚無主義)と総称される時代精神の有り様に関してなのであります。
    ニヒリズムというと、いわゆる “神の死” を契機にしたヨーロッパ的思潮に思われがちですが、東洋にも、ニヒリズムの系譜は数多くあります。しかし、そこまで話を広げる必要はなく、ここでは、グローバリズムの矛盾が露わになった荒涼たる風景の中、瘴気のように立ちのぼっている文明の病理の謂なのであります。
    日本においても、そのような傾向は、顕著に見られるのではないでしょうか』

    経済問題と科学技術に特記し論じていますが、科学技術と経済発展は近代資本主義を論じる上で不可避な領域です。

    『フランスの気鋭の論客エマニュエル・トッド氏は、金融主導のグローバリズムを評して、「社会のあらゆる足枷から『個人を解放する』ことを望みながら、貨幣とその蓄蔵を崇める中に安全を求めようと怯えて震えている小人をつくるのに成功したにすぎない」(「経済幻想」平野泰朗訳、藤原書店)と喝破しています。この「小人」の顔を表から見れば「マモニズム」(拝金主義)で、裏から見れば「ニヒリズム」であって、逆もまた真であります。(中略)
    グローバリズムの正の側面は当然のことながら、貧困や「格差社会」をはじめ負の側面を論じる場合でも、ほとんどがこの価値基準に依っている。そこからは、先行き不安な、ギスギスした、寒々としたうつろな響きしか伝わってこない。
    格差の拡大等は疑いようのない事実ですし、それを引き金とする犯罪や自殺に追い込まれるような事態は、決して放置されてはならない。このことは、第一義的には政治の責任として、これまでも繰り返し訴えてきたところであります。正義や公平性という人間社会を成り立たせているエートス(道徳的気風)を担保するためにも、法的、制度的なセーフティーネット(安全網)の整備を怠ってはならない。
    そのことを強調した上で、私が懸念するのは、そうした外的・物質的条件の整備は、事態への対症療法にはなっても、根本療法にはなりえないのではないかということであります。「対症療法」を下支えし、それをより確かなものにするためにも、精神面からの裏打ち、つまり価値観の転換が必要なのではないか』


    欲望の無限拡大に警鐘を鳴らしていますが、近代における大衆の定義は、この経済的欲望と利己主義、自分の意志を押しつける精神的未熟さ、他者への配慮を欠いた支配層としての大衆であり、豊かな社会を標榜しながら生の実感に乏しい大衆を言うのです。オルテガは、自己懐疑という人間の特権を忘れた大衆を嫌悪し、「現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆるところで押し通そうとするところにある」(大衆の反逆)としている。大衆を負の意味で定義しているのであり、トッドの「小人」と同類の「文明の再野蛮化」に加担する人々です。優れた価値を求めて生きるのが人間なら、本質的な生命の満足を省みない大衆に悲愴なペシミズムとニヒリズム、「生の不安」の病理を見るのは当然の帰結かもしれない。したがって、危機のなかの殉教者・英雄は精神的本源の位置からすべてを作り直さなければならないのであり、それがどれほど不可能に近いか。世界を冷静に観察している人格者は孤独のなかで高貴さを堅持しているのです。

    『近代文明、とりわけ近代資本主義というシステムは、例えばマックス・ウェーバーが分析したように、プロテスタンティズムの倫理というブレーキとハンドルが作動することによって、辛うじて欲望が制御され、安定した人間生活を保障してきた。換言すれば、何のための勤勉か、何のための努力か、蓄財か、といった価値観からの問いかけが日常的になされていた。それによって、人間精神、人間生活のバランスが保たれてきました。ハンドルやブレーキが機能不全に陥ったらどうなるか――ウェーバーの言う「心情のない享楽人」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」大塚久雄訳、岩波書店)の横行であり、昨今指弾されている「強欲資本主義」などは、その末期症状といってよい。欲望や知能の独り歩きであり、そういえば、今回の金融危機を招いた信用バブルの背景には、投機性を至上視したデリバティブ(金融派生商品)市場の拡大などがあり、その開発には最先端の金融工学が駆使されていたという。金融市場のカジノ化に熱中した人たちの脳裏に、果たして「何のため」という問いが浮かんだでしょうか』

    際限ない欲望にとりつかれ、経済を崩壊の危機にさらした知識人も愚かなる大衆の一部ということでしょうか。健全な常識とか、ヒューマニズムとか、協調とか、卓越した知性とか、多数との共存とかは幻なのでしょうか。豊かさとか繁栄とかは、人間が人間らしく生き、死ぬための一過程、手段なのではないでしょうか。

    先生は、創価とは価値創造の謂いであるとしながら、仏教にその解決のヒントを求めます。

    『それは、ニヒリズム、価値空位時代に楔を打ち込み、近代文明の暴走に対して、ハンドルやブレーキの機能を回復させる人類史的挑戦であるというのが、私どもの深く期するところであります。
    (中略)
    学問に王道がないように、「善」の道にも王道はない。現実に身を置き、あえて苦難に挑戦しながら、不断の精神闘争の溶鉱炉の中で、徹底して己を鍛え上げていくしかない。そこに「善」を成就させゆく直道が開けゆく。マルセルの言うように、「状況の特殊性と法の普遍性との間には常に必ず緊張が存在している」「この緊張そのものこそ、価値の原動力」(「マルセル著作集6」小島威彦ほか訳、春秋社)だからであります。「不断の精神闘争の溶鉱炉」と「緊張そのもの」とは同義語といってよい。そこに、仏典の「浅きは易く深きは難し」「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」(御書310ページ)との金言が不磨の実践規範としての輝きを放ってくるのです。
    (中略)
    オルテガ・イ・ガセットは、そうした「不断の精神闘争の溶鉱炉」の有り様を「歴史的生」として次のように活写しております。
    「わたしは歴史の絶対的な予定説を信じない。わたしは逆に、あらゆる生、したがって歴史的生は、純粋な刹那によって構成されているものであり、その一瞬一瞬はそれに先行する一瞬に対して相対的に未確定であるために、現実はその一瞬において逡巡し、一カ所で足踏みし(piétine sur place)、多くの可能性の中のどれに決めるべきかに迷うものであると信じている。この哲学的逡巡こそが、あらゆる生的なものに、あのまごう方なき不安と戦慄を与えているのである」(「大衆の反逆」神吉敬三訳、筑摩書房)
    この「哲学的逡巡」とは、優柔不断とは似て非なるもので、固定観念を排し、「まごう方なき不安と戦慄」の緊張感の中から「善」を探り当てる力の源泉を意味します。
    釈尊の初転法輪の際の“梵天勧請”の説話が想起されます。――成道の後、その悟りの甚深、微妙で知り難いため、釈尊が説法を開始するのを躊躇、逡巡していると、梵天が現れ、苦しみ悩む人々のために、説法を勧め、請うた。それによって初転法輪が成った、と。オルテガのいう「哲学的逡巡」は、釈尊の躊躇、逡巡とどこかで響き合っているはずです』


    さらに、自己内対決、自己内対話を経て、他者の復活、他者との対峙・対話の要請の重要性に目を向けます。
    『周知のようにオルテガは、「他者」との共存が、「野蛮」と決別する「文明」の絶対要件としていました。そして、この「他者性の尊重」「他者性の習慣化」ということは、かの凍てついた旧ソ連の政治文化に言論や対話の力を劇的に復活させたゴルバチョフ元大統領との対談集(「二十世紀の精神の教訓」、「池田大作全集第105巻」所収)で、親しく語り合ったところであります。
    先に「個々の人格にかかわらざるをえない善悪の価値感情を拒絶」するのがニヒリズムとしましたが、その意味からも「他者」「他者性」の復活は、価値感情欠乏症の時代を切り開き、「善の価値」「善の言葉」を復権させゆく直道であると、私は信じております。
    「月月・日日につよ(強)り給へ」とは、そのニヒリズムの超克、価値創造の労作業への無上にして無比の促しなのであります』


    苦からの超克を諦める浄土思想に見られる現世否定、救済を他者に依存した悪性の思想は、ニヒリズムの根源とも言えそうですが、東洋だけの精神の負の遺産ではない。西洋にも原罪という魂の廃墟があるのです。そのニヒリズムを、ニーチェは超人の生まれ変わりで超えようとしたのであり、文明の死を予言し永続的な進歩などあり得ないとしたシュペングラ―の運命論、「西洋の没落」では、無目的に人生を歩み、仏教が説くところの生物の基本である四苦というベーシックな概念すら理解していない日本人に向けたメッセージでもあると、わたしは考えます。また、21世紀に入っても避けきれない戦争はますます激しくなり、規模の大きさ、被害の甚大さ、国家エゴイズムの肥大、という脅威が脅威を生み続ける悪循環は、欲望を制御できない修羅の悪夢であり、その裏には価値感情の希薄と欠乏が指摘されるのです。
    人間はそもそも孤独です。一人で生まれ一人で死んでいく。他者のなかに自分を居場所を発見しても、些細な行き違いで破綻の危機に陥ります。不信はやがて絶えない葛藤を経験しながら、ニヒリズムという泥沼に落ち込みます。近代の西欧の知識人の系譜は、ニヒリズムの指摘と克服にありました。人間の「間」のつながりは、多数派、つまり権利要求としての大衆の欲望実現装置として機能しているように感じられるのです。政治的イデオロギーが皆無に近い日本にあっては、無党派という市民の要求に応えなければ政権の維持は不可能です。そしてどれだけ利己的な欲求に時間と経費を費やしているか。大衆は孤独であるがゆえに、ニヒリズムという衣のなかで深い悲哀を感じていると、わたしは推測するのです。人間信頼という宗教は、今後ますます、魂の汚れを回復するような朝露のような清純さで、命の疲れを癒し蘇生させる根源として必要とされ、啓蒙されていくことでしょう。

    ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

    「ニヒリズム」(社会学小辞典:有斐閣)
    判断や行為の基準としての積極的な価値をいっさい否定する思想。これは、一方で、無為の消極的・退行的態度をひき起こすが、他方、既成の道徳や制度にこの思想が向けられるかぎり、伝統破壊の積極的エネルギーとなることもある。この意味で、近代・現代西欧では、ニーチェ、ショーペンハウアー、実存哲学などを通じ、ニヒリズムが鋭い批判意識を担ってきたが、反面、社会的・政治的には、無力感・絶望感からの遁走としての能動的ニヒリズムがファシズム・イデオロギーの基盤を提供することにもなった。


    #2
    ジェンダー理論は大聖人の深い叡智に完結している。それをどう解釈し、発展させなければならないか、創価の知識人としての力量が問われています。創価が戦後、急速に拡大したのは新しい解釈を提示したからであって、理想とされる人物像も先生自身が体現し人々の眼前に現れたからです。時代に付与する解釈の斬新さが閉塞する社会の現実を切り開くのです。知識人と言われるスペシャリストがその役割を担っている。コスモポリタンと言う前に、言語が持つ本来の力を復活させる.........言い方を変えれば、浅薄な意義づけに終止している市民社会の指導原理を主体者である人間に取り戻すべく価値転換をはからなければならない。価値あるものへの願望が歴史を動かしてきたのです。それは本質的にして普遍的な善への衝動でしょう。オルテガは「大衆の反逆」のなかで次のように述べている。

    『われわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかわからないのである。つまり、あらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人になれず、自分自身の豊かさのなかで自己を見失っているのだ。われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術を持ちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間に漂っているのである』

    自己が自分の主とはブッダの言葉。ギリシャ哲学も、疑いのなかから、疑えない自己を発見した。無知という深い海中で自己像という宝物を発見したのです。大海と同じ海水が心の海にも満たされています。無限に広く無限に深い心の海で、自分そっくりの自己像を発見する方法と場所をブッダは示しました。実現能力とは殻を脱ぎ捨て、新たな自己像を描く能力のことです。
    現在ほど覚醒し鮮明に言葉を操り、意義を見出す作業が必要なときはない。その役割は誰が担うのだろうか。

    なぜ自分が立つ土台を安全なものにしないのだろうか。自分が拠り所とする賢明なる大衆に懐疑を抱かないのだろうか。現実的な男女の性差を問題にしながら、リアリティーに欠けると感じるのは、自らのアイデンティティーでもある所属組織に対し主体的視点を欠いているからだと考えるのです。固有の自覚した自己の集まりが創価ではないか。目覚めた集団が創価ではないか。人間の尊厳と高貴さに最大の敬意をはらうのが妙法の使徒ではないか。精神的沼地から自他の悟りという実践的知識の深い花を咲かせるのが、創立者が訴えるそれぞれの使命なのではないか。
    なぜ、副会長クラスに女性がいないのか。末端でも支部長や地区部長に女性が登用されないのか。青年部長に一人でも女性がいるのでしょうか。また宗教法人として役員のなかに女性がいるのかどうか。人事は組織の要であり一般から認識される顔です。足下の問題を見つめないで、どうして創価のメッセンジャーたりうるのでしょうか。創価が男女平等・同権を主張するなら、それは人事に反映されるはず。さらに結婚を機に本部職員の退職を余儀なくされるのは、どう考えて時代錯誤です。経済力がある男性と結婚しなさいという暗黙の了解があるのですが、もちろんそんなことは表だって言いません。それを疑問なく受け入れる女性たちも愚かなる大衆ということでしょうか。ジェンダーは権利を貫き、義務をはたし、現実においてそれを達成することです。男性原理だけではもう何も解決しないのです。


    #3
    訪問は一人でする。それが基本です。1対1の対話が対等の立場であり、自分を磨くためにも、また相手の考えを聞くにも最良ですが、創価では2~3人のグループを作って訪問するのを常とします。集団で行動すれば、渡る世間も恐くない。責任も分散される。でも正しくない。
    また、アポイントをとり訪問するのが常識。訪問相手が困ろうと嫌がろうと、良いことなのだから許されると考えるとしたら、妙法で戒める増上慢の謗りを免れないでしょう。昔と今は違うのですが、そのような社会常識に対しての認識が甘いことをよく反省しなければ、いずれ創価は迷惑集団として社会から阻害され排除される。そしてその原因を作ったのは自分に他ならないのですが、反対や非難に会うと、魔や難だと騒ぎ立てる愚かしさ。わたしはそんな愚かな一員にはなりたくないし、どうか仲間にも誘わないでください。
    会員の、また菩薩の聡明さとは、手段の選択にかかっていることをよく思慮しなければならないでしょう。目的は正しくてもその手段を行ずるときは細心の注意が必要なのです。相手を気遣う心と節度ある礼儀こそ、誤解を招かない円滑な人間関係を築くための基本です。

    罰などとよく会員は自虐的に口走るけれど、これは仏法破壊の極悪人に支払われる代価です。宿業のバランスシート(トインビー博士)で言えば、自己否定の根源的負債から現われるプロパティーです。また複雑な蓋然性の影響が大きいことから、多くの信者を大御本尊さまから遠ざけた日顕という悪人が罰を受けないで人一倍長生きしたのはこのためです。しかし、正法による行為(人生)の再構築がなければ、生命に刻まれた因果の傷は消え去ることはありません。
    妙法との出会いという稀にみる幸運を、幸運と感じられないところに不幸があるのかもしれません。
    創価では絶対的幸福とよく言いますが、これは絶対的幸運の意味なのではないか。
    もちろん、絶対的なものがあると仮定してのことよね。


    #4
    Set Fire To The Rain Adele

    前の恋が終って傷ついてた時
    あなたが声をかけてきた
    打ちひしがれて落ち込んでたのに
    あなたのキスで救われた
    強い人間に見えるけど
    好きな人には逆らえなくて
    抱きしめられると
    もう何も言えなくなった

    だけどいつしか私の知らないもう一人のあなたがあらわれた
    口にするのはでたらめばかりのウソつきで
    いつも私を追い詰めて、傷つけそして苦しめた

    でも私は涙の雨に火をつけて、その苦しみを燃やして消した
    その顔にふれた時、雨のように涙があふれたけど
    その涙はみんな燃やした

    あなたを想う涙だったから一緒にベッドにいる時は
    ずっとそうしていたかった 眼を閉じて
    あなたをそばに感じながらずっとこのままと祈ってた
    一緒にいるだけ、それだけでいい
    だって私の知らないもう一人のあなたは
    口を開けばでたらめばかりのウソつきで
    いつも私を追い詰めて、傷つけそして苦しめたから

    だから私は涙の雨に火をつけて、その苦しみを燃やして消した
    その顔にふれた時、雨のように涙があふれたけど
    その涙はみんな燃やした
    あなたに向けた涙だったから
    涙の雨に火をつけて
    その炎で2人の思い出も燃やしてしまった

    恋が終ったら何かを失うもの
    だってそれは過去のこと
    もう終ったことだから

    朝、ドアの前で目覚めることもある
    あの時の気持ちが今でもまだ残ってるから
    もうすっかり過去のことなのに
    今でも気づくとあなたの姿を探してる
    あの時、涙の雨に火をつけて、その苦しみを燃やして消した
    その顔にふれた時、雨のように涙があふれたけど
    その時の涙はみんな燃やした
    あなたのための涙だったから
    涙の雨に火をつけて
    その炎で思い出も燃やしてしまった

    恋が終ったら何かを失うもの
    だってそれは過去のこと
    もう終ったことだから
    だから苦しみは燃やして
    消してしまおう
    跡形もなく


    「雨に火をつける」という発想はなかなか浮かばない。アデルは詩人。音楽的才能はとてもうらやましいぐらい。美しい声は、きっとボリュームある体から出てくるんですね。でも、男運は悪いみたいだし.........わたしが心配することでもないけど。
    梅雨の季節、涙の雨に火をつけて、苦しみを燃やし尽くしたい。






    哲女のメモ 3

    #1
    最近の自然災害を総罰と主張したブログがありましたが、社会背景や科学進歩を無視した、日蓮系宗教特有のものと思いました。自分の宗教を強く意識し独善的に中心におきながら、社会現象を関連付けて納得させようとする強引さは、宗教の本質からもっともかけ離れた通俗的精神であると考えます。たとえば、現在では、台風発生のメカニズムを理解することは一般にも可能ですが、時代を遡るほど、社会的影響を及ぼす強風に、悪を退治する神風や、社会の不正義を糾弾する龍の仕業などと表現し納得させました。人間の理解を越えたものに、願望を反映した解釈が当然の行為として行われたのです。そうしなければ社会不安が広がり、社会自体が危機に陥る危険性もありました。

    法華経においても社会背景を無視した解釈は成り立たないと考えます。正しい理解は法華経の成立年代の確定から始めなければなりませんが、今となっては無理があるでしょう。そもそも原始仏典が伝える以上のこと、ブッダ本人の詳細すら伝説のなかにあり、はっきりしないのですから、経典の成立年代や過程を知ることは至難なことです。
    法華経の一貫した思想・万人に仏性を認める普遍性は、ブッダの聡明なる覚りから得られた思想でしょう。しかし、滅後の布教は困難を極めたと推測します。この高度な理論は難信難解であり、ほとんど民衆に受け入れられることはなかったのではないかと思います。社会に受け入れられなければ、仏法は廃れ弘通することはありません。ブッダの思想を伝える正しい法であっても、正統な人によって正しく伝えられなければ廃棄されるのです。仏教発祥国であるインドでは次第に廃れていきました。
    法華経の成立過程において、多くの信仰者の強い使命感があったことは想像にかたくありません。末法に伝えるための命を惜しまない覚悟は菩薩のものですが、その過酷な弘教現場での工夫は知力を尽くしたものでした。嘱累品以下の六品はその苦渋の選択です。人気アイドルなみの知名度があった観音菩薩を、法華経のテーマに関係なく一つのショーウインドー、ディスプレーとして取り入れました。デパートに行ったら最初にショーウインドーを覗くあの心理です。アジアの広範な地域に流布している観音信仰は、日本でも宗派に関係なく取り入れられています。

    わたしの祖母は創価に入会する前、曹洞宗のお寺に石で作られた観音菩薩を熱心に信仰しておりました。そのお寺には、地蔵菩薩も何体も飾っており、時季になると念仏を唱えるお年寄りの集まりみたいなものもあったということです。曹洞宗に念仏とは奇妙ですね。どんな仏でも功徳があるということらしいのですが、宗派に関係なく広く信仰された代表が、観音菩薩でしょう。このような認知度が高かった観音信仰を一つの仲立ち役にして、法華経に導こうとした意図が感じられますが、おかげで法華経も無事に中国、日本へと伝わりました。迹化の仏・菩薩が多くの人の信仰対象になり、芸術の対象にもなりましたが、地涌の菩薩、不軽菩薩の仏像や絵画がないのは、つまりは一般に信仰されなかったからです。法華経の高度な内容はなかなか理解されなかったということは、法華経の性格をよく表しているでしょう。法はあっても、その内容をわかりやすく説く聖人が必要だったのです。
    安楽行品は前記の六品と同じ意図が感じられますが、一般大衆を対象にするというよりも、バラモンや社会的地位の上層にある人々への見苦しい諂いのように感じます。見方によっては、それだけ法華経弘教に対する批判や反対が大きかったということかもしれません。
    安楽行品の不平等思想を克服するためには、日蓮の誕生まで待たなければなりませんでした。カースト(階級制度)外の最下層の人々にも平等に仏性が保証され、むしろそのような人々こそ社会変革の主体者であることを訴えました。自らの生涯をかけて苦難と戦った日蓮は、法華経という法の普遍性を現実に証明した菩薩の姿に他なりません。「旃陀羅が子」という象徴的言葉は、人権宣言に等しいと思います。安楽行品という難題があればこそ、日蓮の御生涯は波乱に満ちた人生になりました。誰も克服できなかった矛盾を生命実相という根源から解決することができたのです。しかも振る舞いと哲学の研鑽を通して体系づけられた理論は、非難と迫害という過酷なプロセスが必要不可欠でした。

    日蓮が人権意識すらない時代に、「自分はいったい何者なのか」という哲学上の根本命題に行き当たったのも、安楽行品への懐疑から始まったのではないかと考えることもできます。
    「御義口伝」での「安楽行品」の所説の項目は、少なく、短い。しかし、法華経を根本としながら法華経の矛盾を克服し、法に従う立場から法に新たな解釈を示し、主体的に運用活用していく立場へと転じていったのが、日蓮の御本仏としての自覚なのではないでしょうか。この主体性こそ、中道主義であり、人間主義ではないでしょうか。それぞれの人生の主体者であれと、日蓮は説いているのです。そうしなければ不平等思想を乗り越えることはできないと訴えているように思います。

    法華経弘通に関係した人々は、崇高な法と危害を加えられる苦しみ、虐げられる悲しみを、同時に味わいました。安楽行品を含めて、法華経は信仰者の財産です。一貫した思想に貫かれた部分と、そこから逸脱する部分と、すべてが財産です。わたしには、法華経弘通を使命としながら懸命に戦った信仰者の姿が思い浮かびます。
    翻訳者である鳩摩羅什は、とても優れた天才です。翻訳しながらきっと、矛盾にも気づいていたことでしょう。それでもその矛盾に対して積極的に挑もうとしなかったのは、それなりの理由があったのだろうと推測します。社会情勢や環境も関係があると思いますが、末法に出現が予言されていた地涌の菩薩を信じていたのだと考えます。単なる学術・学問的な追求以上に、法華経は人間の生き方そのものの原則と可能性が説かれている聖典であり、混乱する現代に最も必要なプロブレムソリューションだと思う。主要な思想哲学をカバーした良心的で我慢強い本質的議論が待ち望まれます。
    生命への尊厳が失われている不平等思想は、常に国家間や人間自身の争いの元凶となりました。またあらゆる差別問題の原因として、マグマのように生命の底流を形作るものと認識も可能でしょう。釈尊が指摘した心に突き刺さった一本の矢です。差異へのこだわりは法華経を貫く一つのテーマですが、これほどの難題は、そもそも法華経製作者がはじめから意図していたことかもしれません。仏智は計り知れません。

    いろいろご意見はあると思います。二千年前も今も、人間はそんなに変化していないように思います。人間の好戦的な資質傾向、獣的な攻撃心は、きっと生存本能に関係しているのでないでしょうか。その意味で、法華経に説かれた「九界即仏界」は重要な内容を含んでいると思います。また日蓮の振る舞いを、ヒューマニズムの観点から深く理解する必要があるでしょう。その行動は慈愛に溢れていたことを、一人ひとりの信仰者が自らのこととして、切実に、敬虔に想像しなければならないでしょう。


    #2
    修羅と餓鬼が乗り移ったような彼らは、自分の歴史を作り始めたばかりで、そのうえ唯物論者であることから、千年、二千年の伝統と歴史であろうと、同じ発音でも大違いの唯仏論者に敬意をはらうはずはなかった。その後、文化大革命によって貴重な仏典が失われるその不吉な前兆であることを気づく者はいなかった。こうして人類史に刻まれる不幸は始まったのです。そしてその悲惨な歴史の中心にチベットを必死に守ろうとするわずか15才の少年が立ち向かおうとしていたのです。彼は観音菩薩の生まれ変りと信じられていましたが、再誕説はどの宗教にも見られる、人間の願望を表す教義です。
    妙法では、地湧の菩薩の再誕が一般化しています。誇大妄想の人間は精神の肥大化を招き、菩薩のなかの菩薩と拡大解釈し、ブッタや宗祖に比肩するなどと病的な飛躍を躊躇しません。人間って特別視されることを望むものなんですね。特殊性を単純化する手法は、煩雑さを好まない大衆に受け入れやすくなりますが、およそ宗教の普遍的な部分は、難解であることを覚悟しなければなりません。観音菩薩も地湧の菩薩も法を体現しており、理想像として人々に訴えるからでしょうか。法華経にそう説かれているからです。観音もまた同じでしょうか。そういうわたしも、地湧の菩薩を最も身近な信仰者の理想として信じている一人です。世界を救済する人物は菩薩よりおりません。
    他者に対しても、自分のことでも、苦しまない菩薩はおりません。菩薩は弱肉強食の動物ではなく、本来は他者思いの人間だからです。


    #3
    先生は中国の多くの大学から名誉称号をいただいていますが、国家的あるいは行政の承認と意図があることは自明のこと。先生は求めてくる者を拒否しません。来る者は拒まずです。少しでも可能性があるなら、人道を説き倫理を説かれるのですが、弾圧に自ら手を汚しているに等しい中国の知識人に、その真意が正しく伝わるのか、また創価のなかでも、師弟を連呼する者が先生の苦衷のご心境を理解しているのか、わたしははなはだ懐疑的です。先生が人権侵害に悩まないはずがないではありませんか。名誉ほど、盲目的に追随する者を惑わすものはありませんし、執着の対象になるものもありません。
    大聖人は極貧のなかで生涯を貫かれました。現世安穏・後生善処が法華経の功徳なら、また妙法の実証には経済的豊かさも含まれているのに、どうして大聖人は食も衣服も最低の必需品にも困窮する大変なご一生をおくられたのでしょうか。如説修行抄では、精神の富める者こそ人間王者であることを説き、身をもってその功徳を示されました。
    創価の幹部も清貧であっていただきたいと思う。私利私欲がないからこそ尊敬される。お金が集まるところには必ず問題が起き、その清貧とはかけはなれた使い道と、問題を隠蔽しようとして新たな問題が起きるのです。

    コスモポリタンであることを先生は訴えますが、どこかの国家に属しないコスモポリタンなど有りえないし、真の国際人も国家の繁栄を願ってこそ、その根拠となる行動動機を得ることができるのではないでしょうか。
    明確な国家観を持たない日本人は国家の消滅さえ願う。今こそ保守思想の、保守たる所以を明示しなければならない。今まで何度、ヒューマニズムという着飾った言葉で、多数派の専制による民主主義の堕落を許してきたことでしょう。

    女子部のとき、部討議で忘れられない思い出があります。こちらから要請したわけでもないのに、区幹部がおしかけてきました。わたしのような部長は心もとないと思われたのかもしれません。立正安国論を通し指導されましたが、国家観を持たない人間が聖教ダイジェストのような中身を得意気にお話しても、感銘を与える話にはほど遠い。政治イデオロギーとしての妙法、宗教と思想の混乱が国家存亡の危機を招きよせていることを子細に検討しているのに、また国家諌暁の現代的意義を問うことなしに信仰者の政治参加もありえないのに、さらに人道的立場から批判すべき多くの問題を抱えているにもかかわらず、ただ選挙目当ての友好活動の強調など、政治改革への厳しい展望を持たない女子部幹部はただ単に組織の流れに沿う一歯車。公明党の政策の是非を検討しないで自分の考えも持たない愚かしい姿です。
    討議の前提となる政治課題さえ知らない。先生が創立者であるというだけで、支援動機として十分なのでしょうか。それならば、なぜ党を罵る反逆者が出てくるのでしょうか。これは反逆者個人の問題では済まされないと思う。理想を誓った党自体の団結に齟齬をきたしている問題だと思います。理念が剥落したために、凡庸なヒューマニズムをとりあえず掲げるという始末です。

    アメリカイズムという理想国家を押しつけようとした憲法。戦後、平和と軍隊という最も重要なテーマに口を閉ざしてきた国民の無責任さは、わたしたちの世代で解消したい。自衛隊がなければ国を守れない現状を厳しく認識すべきです。その自衛隊に武器を取るなと命令するのが憲法と政治家、それに国民。こんなバカバカしい憲法はありません。
    わたしは、日和見主義の公明党の政策に支援根拠を失いつつあります。個人もそうですが、中小企業にとって増税がどれほど負担になるか、わかっているのでしょうか。社会保障一体改革といってもどれも簡単にいかない難しい問題ばかり。また民意に従うなら議員定数の大幅な削減を実現すること。中選挙区制に戻すことを含めた選挙制度改革。原発再稼働は安全基準をクリアしたら可能なのでしょうか。どのように決着をつけるつもりでいるのでしょうか。福祉重視の政党なら、生活インフラとしての電力についても、発想の根本的転換が必要なのではないでしょうか。
    また震災ガレキ処理も自治体住民の反対で受け入れがスムーズに進んでいませんが、こういうときこそチーム3000の出番なのではないでしょうか。各自治体の公明議員が連携し市民の意見を積極的に取り上げて、自治体の個々の都合を乗り越えた住民密着の前向きな提案作りを推進できるのではないでしょうか。どうか各地で公明議員に訴えていただきたいと思います。

    具体的に政治の何を変えたいのか、国のあるべき未来を思い描けない、勉強不足のリーダーは創価のリーダーの名を汚すだけ。
    政治と宗教が表裏のように不可分のものとしてあった時代に、宗教者の言動はつまり政治改革者の言動でもありました。大聖人への弾圧は、他宗の讒言があったとしても政治的なものです。政治改革なくして安国はありえないとするイデオロギーは、すべての法を包括する妙法の一側面であったとしても喝破できない重大問題が含まれていました。宗教の使命である民衆救済は、政治を含めた社会の変革なくしてありえないことを立正安国論では説いているのです。当然、為政者に寄生虫のように張りついて生血を吸っている宗教者は、心のなかは空洞、権威と名誉、名聞名利しかありません。仏教精神からかけ離れた俗物的栄誉よりありません。現在の中国の知識人と同じ姿です。国家批判は体制批判ということであり、国家に飼い慣らされた人間に正しい主張ができるはずがない。

    信仰に純粋であろうとする気持ちは皆同じです。ご本尊さまと信仰者の関係は一体不二です。労苦を厭わず献身し、他者の喜びを自分の喜びとして人生の在りようを覚悟した人々の集まりであったからこそ創価は発展したのですから、先生が教えてくれたその尊い創価精神の実現をともどもに果たしていきたいと思います。
    改革は漸進的なものです。しかし、わたしのように組織で一人浮いている人間を、道理と哲学によって諭すわけではなく、ただけむたがれている存在は悲しいというよりありません。でも、社会の縮図である創価は、不変の部分と、時代に即した変化を受け入れなければならない部分もあることを考えていただきたいと思うのです。

    まず、マイ聖教はやめていただきたいこと。選挙支援のあり方、方法論としての有益性、無益性を考えていただきたいこと。競争心を煽りかねない成果追随主義、信仰には相応しくない成果主義で、何がワルいと開きなおる人がいて困惑しますが、組織の目標設定が必然的にノルマ化する過程を改善していただきたいこと、拡大はノルマではないのです。信仰は自発的なもの、組織の上意下達に関連して、会員の自由裁量の範囲を拡大していただきたいこと。未入会の方々を含めた中立的で自由な仏教研究会を永続的に地域に設置していただきたいこと、などです。
    現状肯定がさまざまな問題を生むのです。悪しきドグマに絡められる病理は、少なくとも現状追認の改革意欲の減少からもたらされるのです。
    科学的統計的な現状認識が問題を想起させる資料になるかもしれません。しかし、統監ひとつとっても一般会員が知り得ない項目があります。創価の執行部はきっと、危機感いっぱいだと推測します。したがって、一般会員が黙って打ち出しをこなしてくれさえすれば、当分問題は顕在化することはないと踏んでいるでしょう。消極的な組織運営というところですが、こういうときに限って、創価のためという大義名分のもと、信仰者の行動を天秤にかけて信仰の価値基準をあやふやにするような問題が噴出するのです。
    強力なリーダー不在ということもあります。演説と指導はイキイキとした面白さと教訓にあふれていなければなりませんが、本幹での原田会長の原稿を読むような話しっぷりにあまり感動することはありませんし、会館を出ればすぐ忘れてしまうほど印象がうすい。

    戦後アメリカン・フリーダムとして導入された個人民主主義は、わたしたちの体質同然に染みついています。その弊害を指摘することは簡単ではありませんが、社会を動かすのが良くも悪くも世論であるのと同様に、創価を変えるのも多数の会員の意見でしょう。その意味でも、積極的に主体的に、信仰活動が豊かな人間関係を作り出すことができるように、知的ならびに倫理的なアプローチと多様な人材獲得に、実践的経験を積み重ねていきたいと決意しています。組織はどこまでも人です。その原則を忘れないことを願うばかりです。


    #4
    わたしは、性格的に大雑把なところがあります。もちろん自分でもよく自覚しています。
    実際的な数値や事例をあげて検証する理科的能力に劣っています。言ってみれば、一般的にいわれる女性脳が不得意とする論理的分析を苦手とし、感情論に陥りかねない表現になってしまいます。
    でも自分で言うのも気が引けるのですが、直観的感覚に優れているように思えるのです。また細部より全体、それなりにコーディネートされて雰囲気がでていればOKというこだわりのなさ。ですから、家事その他、家庭的なことはできるだけ手を抜かないようにしています。料理教室にも根気よく通っていますし...
    どうでもいいことですね。

    わたしなりに論理を尽くしお話しても、まず支援ありきという姿勢には変化がありません。そんな頑固な壁の前で、いつも挫けそうになってしまいます。
    はっきり申し上げれば、組織疲労というものがあれば、現在創価はその過程に落ち込みつつあると感じられますが、いずれ誰の目にもあきらかになるような形で、問題は顕在化すると考えています。まず人材が不足します。
    粘り強い改革意識を継続しなければならないと、自ら戒めています。
    公明議員さんは他党の議員さんに比較すれば、どの方も献身的に行動し、支援に値する方ばかりと思います。それと政策の善し悪しは別問題です。


    #5
    以前、ゲーテの言葉を引用し、記事を書いたことがあるのですが、意味がわからなくて、自分なりに勝手に解釈しました。
    『古典的なものは健康であり、ロマン的なものは病的である』
    その意味するところは、(エッカーマン「ゲーテとの対話」)のなかにありました。

    『古典的なものを私は健全なものと呼び、ロマン的なものを病的と呼ぶ。この意味でニーベルンゲン(中世ドイツの叙事詩)はホメロスと同様、古典的である。なぜなら、両者とも健全で、力があるから。新しいものの大部分は、新しいからロマン的なのではなく、弱々しく病的で、実際むしばまれているから、ロマン的なのだ。古いものは古いから古典的なのではなく、強く生き生きとして、快活で、健康だから、古典的なのである。そういう性質に従って、古典的なものとロマン的なものとを区別すれば、事は容易に明らかになるだろう』
    ルネサンスは古典への復興運動ですが、内容はロマン的な復興運動でした。ゲーテは古典を健康と比喩していますが、病んだ体が健康を取り戻していく過程と考えれば、ルネサンスは新古典主義とも言うべきものです。
    人間はそもそも病むものです。また社会も病みながら不幸を生産します。精神が健康的だった時代は、空想のなかにしか存在しないように思います。時代はいつも病んでいたのです。これからも病み続けるでしょう。そして夢をみればみるほどロマン的になり、不健康な精神が謳歌する。現代も間違いなく病んでいます。

    最近は音楽の神に誓った言葉を忘れつつあります。天使のキラキラスティックも見えません。音楽が示唆を与えてくれないのです。それでも相変わらず、ロック娘のプライドは持ち続けています。
    ずっと前に買ったCDで、マリア・カラスのアリア集のなかに、グノーの「ファウスト」からの「トゥーレの王~宝石の歌」が入っていました。ワルツ風のアリアは、今のわたしにぴったりかもしれません。恋って美しい。悲しい恋も楽しい恋も。

    衝動買いしたオートマティック・ラヴレターの初CD。日本語タイトルは「堕天使の告白」。ちょっと過激なフレーズ。まだマイナーな存在ですけど、ストレートな感情表現でキャッチーな雰囲気はあります。次作に期待。
    ブルース系では、お馴染みのデレク・トラックス・バンドのライヴ盤と、シンガーの奥さんと共演した新アルバムの2枚。
    そのなかの一曲にこんな詩がありました。

    『もう私のチャンスは過ぎ去ってしまったの?
    それとも人に与えることができるようになるの?
    自分を縛るこの鎖を捨て去って
    新しい生き方を見つけだせるの?
    簡単なはずはない
    友達がいればそれで十分
    そしてあなたが傍にいてくれたら
    私はきっとやり直せるはず
    決して手放したりしない
    決してあきらめたりしない』


    グッドな歌詞よね。

    ゲーテの言葉を引用すると、
    『多数というものよりしゃくにさわるものはない。なぜなら、多数を構成しているものは、少数の有力な先進者のほかには、大勢順応のならず者と、同化される弱者と、自分の欲することさえ全然わからないでくっついて来る大衆とであるから』(格言と反省)

    わたしより辛辣ですね。すっきりしました。


    #6
    日本は物質的に豊かな国でありながら、先進諸国のなかでもきわめて幸福実感が乏しい国です。統計的な調査には国民性があらわれ、一概に断定できませんが、無縁社会、自殺者数などがクローズアップされると、決して住みよい社会でないことは誰もが感じるところです。政治の混迷は、さらに日本の未来を暗くするでしょう。そのような状況を作っているのは公明をふくめた政治家です。

    逆境に耐え克服していくことが創価精神の一つのテーマですが、わざわざ作らなくてもよい逆境を作り、挑戦して行こうと考えるのもおかしなことですし、またその逆境を克服していくことが幸福につながると主張するのも矛盾した論理です。
    政治が国民のためにならないのなら反対するのは当然で、公明党がどのような政策を掲げようと、とにかく支援ありきとは目的喪失の危険な兆候と見なしても間違いありません。組織の中心者は、単に扇動者と揶揄されてもおかしくない。逆境にいること自体に意義を見出だしているような詭弁がまかり通っては、人間主義の名が廃れます。
    幹部のなかには、苦しまぎれに、困難だから支援も功徳があると強調する人もいますが、わざわざ困難を作るなと言いたい。
    行動は目的地があって始めて行動たる意味があるのであり、目的を持たない行動などありえません。

    わたしたちは、妙法という新しいルールにしたがって、新しい信仰や道徳、言語を得ました。そのルールが究極のものであれば、未来永劫、そのルールの流布に務めなければならない宿命にあります。
    同苦と利他はイコールで結ばれるアクティブな行動です。わたしたちはその核心となる慈悲の精神を新しいルールで知ることができました
    しかし、いつでも、その実践集団に従うことが、信仰者のとるべき態度ではないと考えます。幹部のなかには自分の意見を検討もしないで、上にいる人間がそう言うのだから間違いがないだろうと、他人に依存して疑問に思わないご立派な方もおられますが、村社会で染みついた判断習慣が形を変えて支配しているのであり、先生が最も嫌う主体性の喪失にも気づきません。
    信仰に柔順であることの大切さは先生がご指導されていることですが、すべてに適用されるわけではありません。他人に判断を任せる人間を軽蔑します。創価も信仰があるだけの烏合の衆です。愚かなる大衆の一員です。
    自分の本心を決して言わない人が、創価のなかにもいる。疑問を感じていても争うことなく平穏に、波風が立たないように、集団規律を重視しているのでしょう。一見大人のような態度に見えますが、はっきり言えば、ただ覚悟がないだけ。信仰は戦い。自分を主張せずして、正義とは言えません。
    壮年部はいつも婦人部の影に隠れて、今大事なときなのに声をあげようとしない。いくじない、小心者のあつまりです。何か言ったら脅し半分で忠告を受ける。創価はヤクザ集団ではないのです。戦中時代、思想統制をうけたとき、どれだけ勇気ある人物が立ちあがったことでしょうか。

    わたしは、宗教組織は完璧でなければならないと言っているのではありません。不完全な人間が集合して組織するわけですので、完璧であろうはずがありません。しかし、先生がそうしたように、改革努力は怠ってならないと考えるのです。
    師弟一体と言うとき、すでにわたしたちは師の思いに違背しています。師は創価を何より大切にしてきたからこそ、改革努力を惜しまなかった。幸福集団を実現するために、人々を啓発し教育し、そのような夢のような理想を追い求めてきた民衆指導者はかつていなかったでしょう。組織は幸福という花が咲き乱れてこそ意味があり、そのためには絶えず土壌改良を心しなければならないと思います。先生はその土壌改良を推進してきた開拓者なのだと思います。
    問題は上も下もなく会員同士で共有すること。そのためには、必要な情報は開示し問題点を提示しなければなりません。創価の歴史認識に誤謬や隠蔽といった悪質な企てを加えることなく、学術的にも耐えられる一定の検証過程を、辛い思いをしてもやらなければなりません。

    SGIは人類の希望です。その堅固な仏教思想と人間主義という慈悲の普遍思想は、先生のたゆまない知的格闘と実践から生みだされたと、わたしは承知しています。
    わたしたちがすべきでないこと、それは責任回避です。人格向上のかずかずのトライアルのなかで、組織運営だけでなく、組織創設に比すべき新たな挑戦――それが責任感の証ではないでしょうか。問題克服は共同でやり遂げてこそ発展につながります。妙法で言う団結とは、会員の連帯に他なりません。
    自分に甘く、判断を拒否するような人間は、使い物にならないガラクタに等しい。また感動する心があれば信仰の質も向上するのであり、いくら堅固な論争を経た結論であっても、生活の場で生かされない思想や判断など、タンスの奥にしまわれた陶器のように、まったく実生活に寄与するものではない。彼らは自己懐疑、つまり自分の判断が正しいかどうか、の作業を放棄した自堕落な種族であって、社会に害を与える似非信仰者です。妙法を保ち続けていても、大聖人がおっしゃったように、地獄への足どりを停めない人々です。
    言い過ぎでしょうか?
    わたしはまた、軽善の罪を犯してしまったかしら。

    妥協するな、孤高を歩め!
    「一人立て」とはそういう意味ではないでしょうか。
    釈尊も大聖人も、そういうご生涯だったのではないでしょうか。


    #7
    法華経は実際に釈尊が説いた経典なのかという、以前からの問題があります。「法華経の智慧」だったかどうか忘れましたが、先生も話題にしていたと思いますが、そのときの先生は、誰が説こうと内容の素晴らしさに変わりはないという答えだったように思います。わたしもそう思います。大乗仏教は原点回帰運動でもありましたが、平等思想、悟りの達成と意味、信仰と行為のあり方など原始仏教の思想と共通するところが多い。つまり誰が説いたかではなく、何が説かれているかということが大切と思います。
    日本で大乗非仏説をとなえた人として有名なのは、江戸時代の富永仲基ですが、このような独創的見解はその後の仏教界では無視されました。今となってみればその研究は正しかったと言えるのですが、この説を認めれば仏教界に大変な影響があることはあきらかですから無視され続けたのです。

    大聖人は独自の法華経解釈を行いました。例えば、「自我偈」の「自我得仏来」から「速成就仏身」の最初と最後の文字をとり、「自身」を説いたものと言われましたが、「自我得仏来」は「我れ仏を得て自り来」(われ仏を得てよりこのかた)と読みくだすのです。漢文では「自」は「~より」と読み「自分自身」という意味の「自」ではありません。もちろん大聖人は十分承知のうえであらたな解釈を試みたのでしょうし、それが法華経の精神と合致していたことは言うまでもありません。つまり大雑把に敷衍していえば、文底の解釈とは大聖人の独自の解釈をいうのであり、人間そのもの、生命そのものに焦点を当てた解釈と言えます。
    また「我実成仏已来」の「成」について、「成とは開く義なり」とあります。「成る」ではなく「開く」と解釈しています。現在の自己を否定し別の自己に成るという自己否定ではなく、自己はそのままに自己の可能性を開きあらわすという自己肯定の意味です。仏に成るのではなく、仏の命を開きあらわすのです。そのことを知る人を覚者というのであり、ブッダが「目覚めた人」と説いた人格と同義と考えます。

    仏教にかぎらず宗教の歴史は、解釈と深化の歴史です。
    後五百歳と説き、仏滅後2000年を経過したのち、始めてその深化が完成すると予言した叡智は、三世を見通す究極の仏智という他ありません。すでにその時点で、仏教というカテゴリーを超えているのです。解釈と深化という視点から後五百歳の時代区分を見れば、とても興味深い世界歴史観が確立されるのではないでしょうか。そして、その最先端に先生の人間主義も位置付けられると思います。
    「在在諸仏土常与師倶生」という契約の言葉(「我等無始より已来師弟の契約有りけるか」御書p1342)から直観するのは、人間主義思想の実践者は現在も未来も精神の勝利を目指す仏弟子だということです。師弟の因縁はとても堅固です。
    わたしは先生の人間主義こそ、歴史の重い試練と検証、研究に耐える思想と確信しております。伝統の仏教思想の樹木の枝に美しく華開いた蕾と比喩してもよいでしょう。そして人類の希望となる新思想です。でも、SGIとしてのグローバルな広がりのなかで、まず最初に主張すべきは善悪のけじめです。自由を侵害する独裁主義思想は断固として否定しなければなりません。

    信仰が自由であるように、活動も自由です。非活であっても功徳は十分過ぎるほどあるでしょうし、その喜びのなかで使命を感じ、自分なりに考え方と生き方を変えていければ、人生も有意義なものになるのではないでしょうか。法の流布へのいろいろな貢献のしかたがあって当然と考えます。
    組織を守るということは、そのなかで自己実現をはかろうと努力している会員を守るということです。そのためには会員の気持ちを素直に受けとめる必要があるでしょう。無理をしていないか、怨嫉をしていないか、何か疑問に思っていないか。言葉を選び適切に直言する度胸と勇気が多くの共感を得る行動と思います。思慮深い慎重な判断と行動をお願いします。


    #8
    人間主義を理解するキーワードは、「非暴力」と「調和」だと思います。
    広宣流布を破壊する仏敵には決して妥協してはならないと、先生は機会あるごとにご指導されております。日蓮の排他主義がときどき問題になりますが、法華経では悪人への厳しい指弾とともに成仏の可能性を随所で説いています。安楽行品ではじょじょに誘引する摂受が説かれ、常不軽菩薩品では妥協しない折伏が説かれ、方便品で生命の尊厳性を説いたにもかかわらず、陀羅尼品では法華経無理解者に対して排他的な言説が見られます。提婆達多には未来成仏を約束し、不軽菩薩に迫害を加えた男女にも更生の可能性を示しました。大聖人は「願わくは我を損する国主等をば、最初にこれを導かん」(顕仏未来記)と言われています。法の流布を懐疑的に攻撃してくる敵対者を最初に救済すると断言されています。
    大聖人は戦う寛容主義者でした。大聖人が戦ったのは、法華経誹謗の非寛容な思想に対してです。念仏の他力主義は人間の主体性を失わせ、真言の神秘主義は人間とかけ離れた超人的仏が中心であり、禅宗は日常性を軽視する傾向があり、律宗の戒律主義は他律主義であり、法華経から見れば、それぞれが人間性の可能性を否定する思想でした。このような思想は形を変えて現在でも生きているのであり、それが根源的な悪であることは、わたしたちが十分学んだところです。生命の自在さを本源的に否定する反人間主義といってもよい思想への戦いは、創価のリーダーに継承されています。
    人間主義は自由自在にすべてを生かす智慧であり、変化と多様性を硬直的にとらえる思想ではありません。現実に即し、自他ともに幸福を実現していく実践的方法です。
    自分を捨てて他人に献身するのではなく、また自分の幸福を優先する独善やエゴイズムでもなく、他者共存と生命の全体性を信じる中道思想。人間の主体性の理想を説く中道こそ人間主義の要です。先生のすべてを生かす哲学と実践は、実は社会のあらゆる分野において、パラダイム転換を迫っているのです。
    先生が多くの称賛とともに無理解の非難にさらされるのは、すべてを生かす全体性という思想の巨大さを理解できないためと思われます。悪も善も、否定も肯定も、差別も平等も、排他でもなく包括主義でもなく、妙も不妙も調和していく、それが法華経の真髄であり、人間主義の真の姿です。

    組織批判をして、それを最後まで貫き、組織を新しく作りあげた人は皆無です。でも無駄ではありません。法華経においてどのような意見でも無駄ということないのです。


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    For Hong Kong
    Eternal Eclipse - "Forgotten Odes"


       Tracklist :
        00:00 The Game Is Afoot - Neal Acree
        02:33 Dirt and Fire - Piotr Musial
        04:43 Revolution - Piotr Musial
        07:10 Dawn of Faith - Thomas-Adam Habuda
        10:22 Born from Ashes - Axl Rosenberg

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    哲女のメモ 2

    #1
    会員の皆さまは、疑うことを知らない純真さです。
    師の命と同等のものである創価の組織と同化している会員は、宗教の一般的使命である奉仕精神を体現しています。他者のために尽くすことを最良の徳性と考え、信じているのです。
    不疑と疑の相克ともいえる現代にあって、善を願い、断念することない辛抱強い意志の継続は、貴重な精神運動として正当に評価されるべきです。
    ただ、わたしは、教義とともに信仰への確信を左右する情緒的純粋さにおいて「永遠の少年・少女」のような、成人らしからぬ未成熟さを、その行動と判断パターンに見てしまうのです。創価にも問題があるのです。それを知ろうとしない子どものような無邪気さは、大人に守られた子どもの幸福感と同じようなものです。
    師弟不二は、師という精神の母胎で安心することではありません。師の思想から飛び出し、世間の荒波を越えることです。信仰の自立と自我の確立は同じ意味です(話題になった海の文化と山の文化の相違は、個の主体性と独自性、場の平衡状態を維持しようとする倫理の違いであることを、よく考えてみる必要があるのではないでしょうか)


    #2
    家庭を、地域を明るく照らす太陽という比喩は、女性に等しく捧げられた普遍的讃辞です。誰も菩薩になる資格があり、そのことを一番よく知っているのも女性です。励ましのなかに抱きかかえるような愛情の強さを感じ、慈しみのなかに不正を憎む正義を実践している女性は、輝かしき創価の希望です。
    恐れるものなどなにもありません。潔く清らかな美は、心のなかの品性ですね。

    かつて支配者であった王族や独裁者にかわり、民主主義という神権を獲得した大衆は、常に明快で、わかりやすい論理で、とるべき行動を説明し、妥当な判断を、強いリーダーのなかに求めています。
    このリーダーは思想家ではなく行動家で、強い確信を持っています。大衆が欲しがるのは、自分の行動を保障してくれる確信の一言であり、単純すぎる断定なのです。「悪は世界を滅ぼす。したがって戦う準備をしなければならない」という単純な断定ほどわかりやすく、受け入れられる正義はありません。
    「悪」を「イラク」に置き換えてみれば、その当時の強い確信を語った小泉首相の指導者像が浮かんできます。郵政解散のときも同じ手法が用いられました。二者択一のわかりやすい議論を誘導し、国民の支持を得て、大勝利しました。同じ確信の一言が大衆を動かすというスタンスです。3・11からしばらくの後、田中角栄待望論がでました。なにも決められない首相や政府に対し、強引さがあったとしても自信を持って行動する人物像を救世主のように思い描いたのでしょう。先行き不透明の混乱の時代、哲学もなきに等しい不毛の時代、指をさし示し、方向をさだめ、確信の行動哲学を持つ人間が必然的にリーダーになるのです。

    イラク問題のとき、国民はその判断をリーダーにほとんど一任しました。大きな渦に巻きこまれた反対勢力もつまりは同じです。中途半端な反対よりできないという根性の座りが揺れているのです。聖戦に挑む聖戦なら、なにを躊躇することがあろうと確信者は国民を鼓舞します。聖戦など幻想と、一言で大衆の目を覚まさせる真のリーダーは奇跡のように稀です。SGI提言に強い制止の言葉がなかったのが残念です。平和主義と言っても、昭和初期のころと同じで、戦争抑止になんら力を発揮できなかった仏教界の姿に重なります。グローバル時代のこんにち、他国のことであっても、漠然とした概念や理想、道理にとどまる正義をいくら説いたところで通用しません。日蓮は立正安国に命をかけたのです。なぜ、不正や不正義を強く諭そうとしないで、世界の犠牲の上に自らの提言と論理を築こうとするのでしょうか。自己満足に過ぎません。

    わたしから言わせれば、政治はファッショナブルなものであり、正しく民意が反映されるとは限りませんし、また正しい結果が伴うとも言えません。民主主義の負の側面を強調すれば、わかりやすいキャッチフレーズになびきやすい大衆が、多数決原理の行使で社会の方向を決定しても決して満足しない、ということです。その延長として、現在、大衆の過剰な権利の主張が、国を滅ぼしかねない財政悪化を招いていると言ってもよいのではないでしょうか。今や自己責任という言葉ほど死語に近い言葉はありません。

    では公明党はどうでしょう。党には理念的指導者がいません。それまで創立者がその役目をはたしてきました。社会からの非難でもある政教分離を厳格に適用しようとするジレンマが、党の勢いを減速させました。この予期しない党勢の減少は、政教分離に敏感に反応し、次第に疎遠となっていく創立者と党の精神的乖離が最大の原因なのです。また、矢野某のような人間が生れる原因の一つにもなりました。
    批判が目的の低級な政教一致論でも、党勢伸張に比例して無視できない数がおこり、創価と党は神経質な警戒を余議なくされました。この批判のための批判に同調したのは、おもしろ半分に話題をとりあげる一部のメディアと、自由と平等の質を問うことなく腐った金看板を掲げる政治家と知識人です。オルテガが弾劾した「大衆」迎合であることはあきらかです。

    選挙になれば裁判官と同等の権限を持つ国民からは、公明党が創価のほうを向いているのか、国民のほうを向いているのか、判断できない迷いがあると思われます。わたしが公明党の独立を提案するのはそのためです。公明自身もまた真の精神的指導者が党外にいるために、強い確信を持てないでいるのです。そしてこのような体質は、犠牲をいとわない外交問題に顕著にあらわれます。

    現在の中国のあからさまな東シナ海への進出が、近未来の日中間の大問題になることは目に見えています。互恵関係など、大ウソを本当らしく見せる、ただのあいさつ言葉です。誰も信じていません。日本人の戦略なき幼稚なお人よしは、もう罪悪です。
    中国の価値判断は、支配するかされるか、征服するかされるかです。さらに他を顧みない貪欲さは品性の最低部類でしょう。国家主義とは覇権主義のこと、内部覇権が行われるから同時に外部覇権も行われる、つまり権力闘争からはずされた者は粛清が待っている。知識人はおののきながら、学問ではなく、国家に忠誠を誓う。勇気なき知識人ほど、社会に害毒を流し、民衆を裏切る存在はありません。
    国民利益の代理遂行者である日本のリーダーは、財政ばかり気にかかり、恐怖がすぐそばで待ち構えていることに目をふさいでいる。
    公明党に欠けているものは、国民をリードする、リーダーとしての確信の行動と理解しています。実質的活動部隊である公明支持者と会員が、いくら頑張っても、解決できない問題でもあるのです。党自身の、党の存在自体の根本的問題なのです。創価の執行部も気づいているはずです。
    「大衆のために」という言葉がどれほどポピュリズムと結びつきやすいか、「大衆の側に立つ」とした姿勢が、沖縄基地問題を肯定し、それ以前には秘密保護法や集団的自衛権の問題への安易な妥協に至ったこと、自民党という多数派と高支持率の政権に同調した権威主義は、仏法的に言えば、権力と結託して国民を苦しめる『僭聖増上慢』と思えるほどです。もちろん会員は盲目に等しく考えることをしないので、自分に都合が悪いことは気づくことはありません。池田先生はなぜ、このような会員を模範的会員として啓蒙し続けたのか、後世に厳しく断罪されることでしょう。人間主義の体現者というなら、なおのこと、人間主義という視点から自らの過失と誤謬を正直に告白しなければならないと考えるのですが、精気を欠き、老いた現在、省みるアビリティーが残っているのか、無残な面影しかありません。

    政治家は常に言い訳を考えているものです。
    「精一杯の努力をしたのです。しかし結果は期待したようなものでなく残念です」
    ニュアンスは違っても、民主主義になってからの政治家の常套句の一つといってもよいでしょう。
    お気づきになるかと思っていたのですが、「政策実現のため与党にとどまる」という言い分は、創価の「会員のため」という言い分と同じ構造を持った大義名分であり、支持者を十分納得させるフレーズでもあります。困難だけれど、それを乗り越え、社会のため、民衆のため、弱者のために、政策実現、政治的安定を勝ち取るとする訴えは、学会活動を社会への貢献とする固い信条の会員には、最もなじみやすく、シックリくる訴えです。会員が日夜励んでいる行動基準と同じだからです。
    だからと言って、会員の皆さまの行動を批判しているわけでないことをご理解していただきたいと思います。

    会員にも理解度には個人差があり、自らが為す行為の意味を深く考えない人が批判の対象になるものでもありません。それも個性であり、尊重されなければならないことですが、少なくとも、他を指導する立場にある人は、教団が社会的影響力を保持している以上、社会的問題にも精通していなければなりません。人間に関心を持つことは、その相互の関係性にも関心を持つことであり、しいては社会の正、不正に対し意見をのべ、糾弾することです。正しき者には賛同とさらなる励ましを、悪とは徹して戦うことを、信仰とはそのような生き方であることを、結局、先生はくりかえしご指導されているのではないでしょうか。

    信じることは疑いを克服した信であり、ある信仰者にとっては哲学や思想を突き抜けた純粋さの意味でもありましょう。信は固有のものであり、個人の深い部分に関わるメンタルな行為です。定量的に量れないことはもちろんですが、学会活動に参加しないから、信がないなどと考えること自体、妙法の諸法実相の法理を裏切るものです。活動家が陥りやすい、自己満足と偏見の、浅いとらえ方であると思います。
    わたしたちの肉体を二つに割れば、そこから現れるものは、「信じること」と、「疑うこと」という二個の内蔵です。この漠然とした概念は、無明と深い関連性を持っています。信は疑うことから始まり、「疑い」をかき分け、選り分け、最後に残ったものがダイヤモンドであるように、疑いの大地のなかで、疑えない一粒の信を求めることなのです。難信難解はそういう意味ですが、これは過去の仏弟子がたどった道でもあり、完全な否定から肯定を導き出す釈尊の説法も、懐疑と迷いの二本の鎖から解放されることでした。このことについては、長くなりますので、後日の研鑽課題としたいと思います。

    あらゆる急進主義に疑いを持ったのは、ガンディーですが、平和は漸進的に進むとしたのもマハトマです。ヒンドゥー教徒であっても、インド伝統の非暴力は仏教の系譜に連ねるものです。仏教はなくなっても、民族を形作る精神として生きているということです。遺伝子のように受け継がれているのでしょう。
    ブッダはアーリア人と思われます。血統へのこだわりは強く、近親間での結婚は普通であったということですが、ブッダをとりまく女性関係も、わたしの興味の対象です。出家動機に深く関係していると考えられるからです。これも、後日の課題。

    困難な使命を感じたとき、人材が澎湃と湧きあがってきます。逆に言えば、人間成長は、困難にむかうから成し遂げられる。なまぬるい生活も信仰も、政治も、さよ~ならです。
    幸せになりたかったら、覚悟してついてきなさい、とわたしは部員さんに言うのです。
    創価は別名、弱気も怠惰も駆逐する<幸福製造案内所>みたいなものでしょ?


    #3
    宗教は哲学と行動の均衡のうえに、必要な行為として社会に受容されるものです。展開される社会があって宗教行動があるのですから、精神的価値として、社会の諸機能と調和していかなければなりません。健全な宗教組織であれば、信者を導く一つの聖的な理想が、個人が考える理想を越えて生活規範にならなければ信仰している意味もなく、社会の諸機能としての市民の責任をはたすことができないと思われます。
    日本人に流れている宗教文化は、宗派を越えた底流に、集団意識にとりつかれやすいという、ナショナリズム的要素があるように感じられます。個々の明晰な信仰を求める創価も例外ではありません。信仰「闘争」は一つの表現ですが、宗教的価値観をセンセーショナルにあつかい、また誇張して表現する精神性は、個人の意思も埋没しかねない危険を持つものと思います。個人の尊厳を説いたものが宗教なら、個人の自由を無力化してしまう扇動的指導は、非日常のルールに恭順を迫る精神的暴力と考えます。創価にもこれに似た指導があふれていることを、わたしは宗教の野蛮化と言いたいのです。中道と言いながら、どうして両極端を歩むのでしょうか。
    進歩でなければ敗者、日々向上の努力を怠れば、革命家ではないとする激しいスローガンにはついていけません。創価に一人もいないそんな人物を説いたところで納得も得られません。真理は正しくても、実行する人間の行為は間違いだらけです。自分の生命傾向を見つめる洞察の重要性を理解されているのでしょうか。ご本尊さまは自分を映す鏡というではありませんか。

    ビビッドな生の組織化、正義の組織化が運命共同体の使命なら、他者の思想に不寛容であることはもっとも恥じなければなりません。多くの思想、多くの生活に共感を寄せることが調和の喜びなのではないでしょうか。慈しみにあふれ、情け深く、正も悪も受け入れる自我は、菩薩を模範にした自己管理による心の開発なのではと考えるのです。
    同じご本尊さまを受持していても、その行動は一様でなく、画一的でもありません。世界や歴史が簡単な定理で解明されないように、多種多様な動機で出発した信仰者には、多種多様な結果があってしかるべきであり、正義や過大な自己礼賛に統一された組織の理想を、会員におしつけるべきではありません。
    組織に対しての批判意欲の減退は創価に見られる特徴だと思いますが、それは教義に忠節を誓っているというよりは、凡庸な権威の絶対主義へ近寄り、安易な師弟関係に堕して、人生という不確定性へのひたむき、理知的な挑戦が忘れられているからと推測します。
    師依存の信仰から力強い自立の信仰へ飛躍することを、自分で考え責任を持ち、一人になっても意志を曲げずに行動することを、師は求めているのです。挫けない探求心と精神の質を高める思想、明瞭な言葉を持ったほんものの人間を期待しているのです。
    挑戦する人生を、師はいつも見守っているとおっしゃられますが、不特定多数の会員は総体的にしか把握できません。優れた人間でも、他者の心を知ることはいつも不可能に近い難しさです。人間なのですから当然のことです。師弟関係から救済される人もいれば、師弟に関係なく、人生を肯定的に独立的な心的堅固さを持ちながら挑戦する人もまた多くいるのです。仏法哲学は幅広い人格に対応していることを知るべきです。慈悲は求める者のためにあるのです。組織はいつも過大に宣伝され、誇大に装飾されることを会員はよく知らなければならない。教義とは関係ない思惑が、組織を動かすルールになることもよく注意しなければならない。弟子は良かれと思って師の考えとは違う方法に固執するのです。

    一口に内部アンチと定義され蔑まれるわたしのような異端は、つねに批判にさらされますが、批判されるから間違っているとは限りません。始まりはいつも少数派であり異端なのです。また信仰の自由は自覚され意識され学ばれる自由だからこそ、確固とした精神性を獲得できるのです。左脳で分析し否定し、右脳で共感とともに肯定する。それがわたしたちが実践している祈りです。

    まず身近な人々に自分の思いを訴えて、対話のなかで論議の中立性を確保しながら、理を以って諭し、行動で証明すべきではないでしょうか。結果も大切ですが、因果倶時ならプロセスもまた凡夫にとっては大切と思います。手段が目的より尊いことはありえず、手段が正しい動機より勝ることもありませんが、未来の結果よりも現在のプロセスが大切であり、それは正しい動機に支えられているからです。何も考えない人より、思慮深い行動家がその現在を最大に活用しているアクティビストではないでしょうか。
    自分の人間的大きさの範囲しか、境涯の深さも、問題解決も達成できないのではないでしょうか。道理を学ばなければ、真理にたどりつけないのと同じように、人間を理解できなければ、集団もつまりはわからないのではないかと思っています。


    #4
    あなたのまわりには、あなたの話しを辛抱強く聞いてくれる人がいないのですか?
    親身になって相談にのってくれる幹部がいないのですか?

    嘆くことで気が晴れるなら、いくらでも嘆いてください。でも同情はしません。
    わたしから言わせれば、運命を組み伏せ、逆らうほど痛快な人生はないのに、そのおもしろさを嘆きで消しているようなものです。ご愁傷さま。

    答えは嘆きのうえにはありません。
    嘆きのカスのなかにもありません。残り火とは違います。
    嘆きは魂の抜け殻なのです。火が消えた灰なのです。
    嘆きや愚痴は、自分の人生に、自分でケチをつけるようなもの。
    ケチをつけた自分も、つけられた自分もみじめになるだけ。
    否定的な思考パターンは、まわりへの敵意と責められるような不安を助長するだけです。

    嘆きを繰り返す自我は、苦痛を与えるだけで、喜びも元気も蘇らせてくれません。自我は完璧な自我になろうと努力しています。これはあらゆる人間に共通した意識なのです。
    マイナス思考はネガティブ感情の無限回路を開き、泥沼に引き込もうとします。
    油断禁物です。
    これを防ぐには、毎日、何回も何十回も決意表明しなければなりません。自分に言い聞かせるように、弱い自分を励ますように、変化は必ず訪れることを信じて、健気に戦いを挑む自分自身に深く感謝しながら、決意を繰り返すのです。
    因が果を生むように、決意が変化を生むのです。
    (「小説・人間革命」では、どの場面でも主人公が何度も決意します。「人間革命」は、先生の決意披瀝小説なのです。決意が人々を変え動かし、創価を作ってきたのです)

    わたしは強い、わたしほど幸運な人間はいないと、自分にちょっぴり語りかければいいのです。どんな危機のときにも、自分の最大の味方になってくれるもう一人の自分が、大急ぎで目を覚ますでしょう。「目を覚ます」という表現が大変ピッタリです。自分が知らないだけです。
    胸中にいる仏の分身が、人体を構成する60兆の細胞一つ一つが、ダイナミックに再生する瞬間を体験できるでしょう。
    そのための最大の伴侶になってくれるのが、あなたのご本尊さまです。

    祈りはまず、ありのままの自分をかくすことなく、自分が自分を肯定することから始まるのです。そして信仰の継続は、自分に希望の言葉を語りかけることを継続することなのです。自分は変われる、自分は最良の人生を歩んでいけるという確信を、絶え間なく自分に告げることなのです。
    信仰にも祈りにも「方法」があることを知ってください。

    嘆きのスパイラルから、強き独白の循環に転換してください。
    ご本尊さまは、力強い生命浄化を約束してくれるでしょう。
    嘆くヒマがあったら、ご本尊さまをにらみつけて、胸奧に心があると信じて、自分を吐き出すように、ご本尊さまの命を揺さぶる題目をあげて挑戦してください。
    変わらないものは一つもありません。
    セルフマインド・コントロールが自己変革の常道であり、唯一の道なのです。
    心が変革の源なのです。スタートなのです。
    能率的能力が試される仕事も同じです。
    あきらめない活力を持つ者が困難の峰を踏破できるのです。
    総合的人間力が基礎です。信仰がその力を開発します。
    慈愛に満ちた世界を創造できる心は、本来誰にも備わっています。
    ただ隠れて現れないだけ。
    変化に柔軟に対応し、確実に、現実的、具体的行動を選択することができる自分自身も、すべて心のなかにあるのです。
    その心は、早く指令がこないかと、あなたの言葉を待っているのです。
    不安と猜疑から、自信と確信のドラマへ転回し、その報酬をしっかり手にしてください。

    霊気が漂い、読むだけで沈痛になるコメントは削除しました。嘆きほど愚かな表出はありません。毒のように、自分だけでなく家庭や社会までキズつけます。天に向って唾を吐きかける行為と同じです。
    わたしがあなたのそばにいたら、力になることができるでしょうか。
    解決方法は必ずあるのに、もどかしさを感じてしまいます。
    あなたのそばに、力になってくれる誰かがきっといるはずです。
    あなたの幸せを、深くご祈念します。


    #5
    最近、知識に飢えているわたしは、血をしたたらせたオオカミのように彷徨っています。わたしをとらえる目の覚めるような表現に出会わないことが大きな原因のように感じています。
    ある人は、指導のコピーに自分の考えを上乗せして、深化も実践もないのにご立派な指導を並べる。それも一つの生き方ですが、つまりは自分の人生も、自分では縫うことがない服を着て鏡を見ながら微笑んでいるようなもの。与えられた信仰のパッケージを中身も確認しないで、ラベルで価値判断して疑問を感じない。純真と言えばいいのか、純真バカと言えばいいのかわかりません。
    何人の人に普遍的思想を植えたのか、そもそも自分の人生を変えたのか、先生のご指導通りに心の革命家になったのか。何十年も信仰してきて生命変革過程を実感できたのか。自分で自分の始末もつけられない怠惰な信仰者が多過ぎるのです。

    独立心こそ大いなるものです。一人歩むスピリットこそ修行者の信念です。その他大勢の群衆は、みんな後からついてくる。「わたしの人生のほうが不幸で悲しくてひどかったのよ」なんて、他愛もない自慢話を交わしながら。悲哀と愚痴の道には、悲しく腐った枯れ葉が降り積もりばかり。わがままな信仰者は依存から抜け出そうとしない。菩薩行は根気が一番ですが、凡夫的菩薩には限界もあるというものです。不幸になって目を覚ますことを推奨します。不幸も時には良薬になるのですよ。

    組織悪は単純ではなく、一見、正装の紳士淑女に見えます。でもよく観察すると、細かい部分に汚れやシミややぶれが見えるのです。見えない人には見えません。

    最近、わたしはとても信じられない体験をしました。
    深夜、学活の帰り、いつものように決まった道を歩いていると、近くにあるお寺の方角から、自分のほうに向かって、ゴルフ球の大きさの白い丸いものがゆっくりと移動してくるシーンに出会ったのです。
    はっきりとした明るさでなく、よく見なければ見逃してしまうほどの明るさなのですが、飛び上がれば手が届きそうな高さで、わたしの頭上を越えて民家の屋根に消えていきました。何だったんだろうと、後で考えてみましたが、あれが世に言う、火の玉(ひとだま)かしらと思い当りました。もしも火の玉なら、手に取ってよく見たいと思いました。
    わたしは、スピリチュアルな体験を感じやすいのかもしれません。見えないものが見えるのです。信じられませんよね、こんな話し。

    旗を掲げ、勇敢に、自分に正直に、戦いを挑んでいきたいと思います。
    不動の星は古来から航海者を導き、明るく闇を照らす星です。きっとブッダも見たでしょう。大聖人は祈りを捧げたことでしょう。広大な宇宙のなかで、人間なんてチッポケな存在。その一生も光が進む一瞬間です。悲しみや楽しみはさらに刹那。そんななかで人間の邂逅は不思議な出会いです。
    正しい哲学を継承することは光をつかむような難しさ。でも人間主義は、星の輝きに負けないぐらい、人々の方角星になるでしょう。
    懸命に努力される会員の皆さまのために、わたしも負けないで、嵐のなかに飛び込んでいきたいと決意しています。


    #6
    人の一生にも四季があるように思います。
    春は美しいばかりでなく、死からの復活も意味します。滅びて再生する物語は、世界中に認められる復活譚です。死が耐えられない不安と神秘の彼方に、人間の知能を越えた不可解なものとして在るかぎり、死に有意義な意味を付加し、生の総決算あるいは善行や悪行を清算する、来世への再生願望が反映しているように思います。
    もともと、輪廻思想は釈尊以前からあったインドの伝統的思想ですが、農耕社会に一般的に認められるテーマのようです。枯れたと思われた植物が、春になればまた固い種から再生するのですから、再生と再死を自然から学び、同じ生類として人間に適用するのも無理ないことです。輪廻という基本倫理は、社会の安定に十分な役割をはたしました。ブッダもその発展形を思想に取り込んだと思われますが、因果応報の自己責任倫理が現世における善行をもたらしたのです。ニーチェの永劫回帰は、このような輪廻転生から発展し、積極的な運命の取り込みの発想を考えると仏教の願兼於業に似ています。

    白い花と濃い緑色の葉が鮮やかな沈丁花が好きです。
    花は小粒でも、香りは春の香りですね。
    可憐なカタクリの群生を見たことがあります。
    どうしてそんなに思い悩んでいるの、とわたしは言いたくなるのですが、うつむきかげんに咲く明るい紫の花は可愛らしくて、とても清純な思いを抱かせてくれます。
    小学生のとき、道路の側なのにほとんど誰も踏み入らない近くの山に、父と一緒に行ったとき、その群生に出会いました。木漏れ日のなかで、ひそやかに知られることなく咲き誇っていました。足がくるぶしあたりまで沈み込んでしまうほど、枯葉が積もったやわらかい地面。一面の花の野のあまりの美しさに涙が出そうになりました。すぐ近くにこんな深い神秘な場所があるなんて、信じられませんでした。人知れず咲き散る花は、自分を主張しないのだと言いたいほど、つつましい印象を与えます。

    若いという勢いだけで、何も与えるものを持たないわたしは、頭でっかちの苦労知らずの愚か者です。高慢になりがちな知識かぶれで、自分の正しさの主張ばかりで謙虚な気持ちを失いがちになる人格傾向があることも分かっています。
    人生は多少の苦労はあっても美しいはずだと思いたいのですが、少女時代をとっくに過ぎたわたしが、そんな願望は儚い夢のようなものであることもよく分かっています。
    でも、それでも言いたいのです。
    一生懸命生きることが、そもそもとっても美しいことなのだと。
    誰に理解してもらわなくても、苦しみや悲しみを背負い、背負いきれないほど背負い、普通のあたりまえの生活さえ叶えられない人の道であっても、誰にも知られない野の花に飾られた美しい道なのです。どんな障害があっても、生き続けること自体が美しいドラマであり、感動する主題に満ちているのだと考えるようになりました。

    最近、ブッダに関する本を集中的に読んでいます。
    と、言ってもほとんど入門編なのですが、読みながら感じたことは、出家以前のブッダはその内面に強い不安をかかえていたのではないかということです。
    今では、神格化された聖人としての姿より伝わっていません。どこか人間離れした姿と、経験と知的格闘から得られた思想は、弟子や後世の仏教者において整理されました。
    ブッダの不安は、生老病死というような形で、分かりやすく、また現実的に納得できる真理に集約されました。その不安は時代や社会構造に関係なく、人間に共通した普遍的真理と思います。また不安の障害は、社会の病理であり、不安を感じない人は皆無と思います。

    わたしがいつも感謝しているのは、父や母が苦労しながら真面目に働き、経済的に大変ななかで、仲の良い家族を支えてきてくれたことです。特別なことは何もありませんでしたが、普通の家庭で普通にそれぞれの役割を果たしてきたように思います。
    ただ信仰だけは毎日の行動から、その大切さを教えてくれました。特別病気をすることもなく、好きなことを好きなようにできた、それは両親の愛情があればこそと、今はしみじみと思います。
    そんな幸せな家庭のなかで育ってきたわたしからすれば、貴女の体験は辛過ぎます。
    半生をお書きいただきありがとうございました。
    でも、わたしは何を言えばいいのか、言葉が出てきません。理解したように言葉を吐くことにためらいを感じるのです。同苦するって、本当に難しいことです。
    とても苦労されたのですね。苦労は涙なくして語れないことは、わたしにも分かります。
    そしてわたしも感情が横溢し、とめどなく涙が流れます。


    #7
    ロシアの児童文学者・リハーノフ氏と先生の対談から引用。
    98年に発刊された『子どもの世界』です。
    この対談のなかで、演劇的家庭論というサブテーマで対話を進めています。

    『池田:話を元にもどしますが、私は、社会が現在直面している危機的状況を打開する一つの方法として、演劇的家庭論というアイデアに着想してみたいのです。
    リハーノフ:それはどういうアイデアなのですか?
    池田:俳優が、ドラマの中でそれぞれの役割を演じていくように、家庭という劇場で、父親役や母親役、一定の年齢に達したならば子役などの役柄を演じていくという発想です。
    現状を固定的にとらえるのではありません。名優が自らの役柄を見事に演じきっている時の余裕や落ち着き、自己統御などの徳目を、家庭という劇場の俳優たちが備えているとするならば、家庭の雰囲気も、よほど変わっていくにちがいありません。
    仏法では「願兼於業」ということを説きます。自分がどんな悪業を負って生まれても、宿業を転換して法を弘めるために、自ら願ってそのような姿で、今世に生を享けたのだという法理です。
    であるならば、「願兼於業」を自覚する人には、自らの境遇に対する不満も恨みも慨嘆もありません。その人は、勇気をもって現状を肯定したうえで、未来へ力強い一歩を踏み出していくでありましょう。ゆえに、私どもの宗祖は、筆舌に尽くしがたい大難を受けられた時、「もとより存知の旨なり」と悠然としてそれに対処していかれたのです。
    また、私の恩師も、軍国主義下の二年間の投獄生活の苦労を問われた時、「願ってもない、えらい目に遭いました」と、いかにも恩師らしく豪放磊落に語っておられました。
    まさに名優の面影が彷彿としております。人生観の根幹にかかわることですから簡単にはいきませんが、こうした余裕や落ち着き、自己統御、あるいはある種のユーモアのセンスのようなものをもとうと、お互いが努力をすることです。
    親であれ、子どもであれ、いずれも一個の人格であり、人間として平等の存在です。家族という同じ舞台の上で劇を演じている一人ひとりは、共々に家庭創造のドラマを支えているという意味においても平等なのです。
    役者が協力しあわなければ、どんな舞台も失敗に終わります。おのおのが、その役回りを賢明に演じ、責任を果たさなければ、成功は望めない。
    また、劇にハプニングはつきものです。その場合でも、皆で団結して乗り越えていく。家庭も、これと同じではないでしょうか。
    <中略>
    ある意味で、「家庭は劇場」であり、「家族は、その劇場の俳優」と言える。大事なことは、各人がそれぞれに"よりよい演技を"と心がけていく時に、家庭はもっと豊かで、もっとはつらつとしたものになるのではないでしょうか』


    ここでリハーノフ氏は、家族の一員として、意図しないで、その役割を果たせなかった自分の体験を通し、劇のなかの役者のように演じきれない場合もあることを、反論気味に述べます。経験から得られたものであるからこそ、強い確信にもなれば、反省の根拠にもなったりします。リハーノフ氏は家庭劇について別の視点を与え、強い絆に支えられていても、外的要因で家庭が変貌することもありうること、また家族を巻き込む困難に対し、演劇的要素を持ち込むのはふさわしくないと心情を吐露します。
    理論や建て前だけでなく、個人的な本音を引き出す対話術は先生の真骨頂です。それはお互いの信頼感に依っているからでしょう。反論は対話を豊かにし、双方向の意思の疎通を可能にして実りあるものにします。

    『リハーノフ:ある部分ではあなたは正しいと思いますが、ある部分では、私はあなたに論争を挑みたいと思います。
    池田:いいですね。どうぞ、どうぞ。七年前に、当時のゴルバチョフ・ソ連大統領とクレムリンでお会いした際、私は冒頭に「ケンカしましょう」と。大いに議論しましょう、ということを、ユーモアを込めて申し上げました。
    建設的な議論からは、必ず"何か"が生まれます。ソクラテスの対話がいみじくも"産婆術"と呼ばれていたように。
    リハーノフ:家庭生活を劇を演ずるかのようにとらえることは、私にはとうていできません。むしろそれは、永遠の波瀾万丈なのではないでしょうか。
    夫も、妻も、そして子どもも、社会にあって常に複雑な個々の状況に立たされています。大人たちは職場や知人たちの間で、子どもたちは学校で――それぞれが家庭の外で遭遇するドラマは、やがて家族全員が関知するところとなります。
    家族の絆が深く、強い土台の上に築かれている場合には、妻や、夫や、子ども、誰か一人が家庭の外でぶつかった問題を乗り越えるために、家族が支えとなることもあります。しかし、そのような外的な問題や環境が、家庭を変貌させ脇へ押しやり、壊してしまう場合も少なくありません。
    私の家庭のドラマをお話ししましょう。私は、三十九才の時、病気をしました。なかなかはっきりした診断が出ずに、しばらく入院をしたままでした。ついに診断が下り、手術が必要とのことでした。
    私は手術を受けました。担当の医師は有名な外科医で、私の手術の執刀する前日に科学アカデミーの会員に選ばれたところでした。そういうわけで、私は彼の「アカデミー患者」第一号になったのですが。
    手術は成功し、退院し、一年が過ぎ、三年、一五年が経ちました。私は病気になる前よりもっと仕事をし、主な著作を書き上げ、作家として認められるようになり、そして児童基金を設立しました。
    そんなある日、ある会合で、あの時の外科医にばったり出会いました。今は老碩学になっていました。別れ際にクロークのところで、彼は私にこう尋ねました。
    「あれから何年経ったかね?」
    私が答えると、彼は言いました。
    「君の病気、何だったか知ってる?」
    私がちょっと当惑しながら、当時知らされていた病名を言うと、
    「いや、それは違うよ。あれは、ガンだったんだよ」と、彼は声高に笑いました。
    私は、何かで頭を強く叩かれたようでした。気が動転した私は、あいさつを済ませ、外に出ると一目散に家に向かいました。
    家に着くなり、私は、妻のリリヤを呼び、外科医と会ったことを話し、今度は彼女に尋ねてみました。
    「君は知っていたのかい?」
    「もちろん」
    なぜ私に知らせなかったのかは、問うまでもないことでした。
    池田:ガンの告知の問題は、非常にデリケートな問題で、わが国でも議論が繰り返されております。私も、ケース・バイ・ケースで対処すべきであって、是非の間に明確な一線を引くことはできないと思います。それはともかく、奥様の苦悩は察するにあまりあります。
    リハーノフ:言うまでもなく、腫瘍は再発の恐ろしさで知られています。私はある一定の周期で、再発の可能性にさらされていたわけです。一年後、三年後、そして五年後、と。
    その時、もし私が愛する妻の立場にあったらどうだっただろうか、と考えました。彼女はどれほど苦しみを秘めて耐えてきたことか、ずっと緊張の連続だったにちがいないことを知ったのです。
    彼女は言いました。選択をしなければならなかった、と。私の健康のために周りに囲いをめぐらせ、仕事から遠ざけたほうがよいのか、それとも、以前と同様に、私がやりたいことを全部やらせておくべきなのか。彼女の選択は後者でした。
    そこで、もし誰かが、彼女は家庭という場で上手に役を演じただけと教えてくれたとしたら、私はおそらく愕然とし、同時に笑ってしまうでしょう。いかに昔、彼女がテレビのアナウンサーと演出の仕事をしていたといってもです。
    いいえ、あれは演技ではありません。苦難への挑戦です。それも、最も近しい人間に打ち明けられず、苦しさを分かち合うわけにはいかない。家族と医者との秘密である以上、ほかの誰にも助けを求めることもできない。そうした中での絶え間ない葛藤との闘いだったことでしょう。
    ですから、妻は、何年も経ったのちとはいえ、私に真実を暴露してしまった、かの碩学の外科医に一番腹を立てていました。もしも私が、真実をもっと早い時期に知らされたとしたら、私がどう受けとめるか、誰も保証できない。くじけてしまうかもしれないことを、妻は了解していたのだと思います・・・。
    したがって、敬愛する池田さん。どうか悪く思わないでください。でも、夫と妻が演技をできるのは、とても限られた場面だけなのではないでしょうか。
    たとえば、二人の意見が合わない、でも些細なことでケンカをするのは賢明ではないと判断して、お互いが角を立てずに折り合いをつけるといった場合には、当てはまると思います。
    でも、家族が困難に本気で立ち向かわなければならない状況に立たされた時、同苦と愛情と支えを必要とする時まで演技が持ち込まれたとしたら、悲しいことではないでしょうか。
    わが家では、先ほど述べた真実が明るみに出て以来、何事につけ、私は妻の勇気と力と慈しみの心に崇拝の念を抱き続けています』


    危篤な病のなかで演技ができる人は稀でしょう。病はそんなにお人好しではない。またできたとしても、それは単に仮面を被り、自分やまわりにウソをついているようにしか思えない。気持ちの問題は別にしても、病を通した家庭再生を望むこと自体が難しい。確かに心にもない演技をして、一時的に誤魔化すことができても、家族といえど真の心の交流にはならないでしょう。先生は"演技"について定義を試みて、それは人間性の輝きであるとリハーノフ氏に告げます。

    『池田:心にしみ入るお話ですね、リハーノフさん。
    私の申し上げた「演劇」、あるいは「演技」という言葉の含意を申し上げますと、それは人間性の発露から生じる行為――といった意味なのです。ですから、奥様のなされたことは、誠にすばらしく、感動的であり、豊かな人間性に満ちた行為です。
    「演技」というと、どこか嘘っぽく本心を偽ることを、心ならずもやらなければならない擬制(実質はちがうのにそうみせかけること)といったニュアンスで受け取られがちな点は、日本でもロシアでも同じでしょう。しかし、私の言う「演技」は、人間の本然からの営為なのです。
    ですから、表面上のこしらえごとを言ったのではありません。人間が本能に支配されることなく、自己をコントロールしゆく人間性、人間であることの証を体得していくための必須の行為であり、いわば人間性の勲章とでも言うべきものなのです。
    私が、真の意味での「演技」が漂わせている「余裕や落ち着き、自己統御などの徳目」を指摘したゆえんであります。
    たとえば、私どもの宗祖の生涯は、迫害に継ぐ迫害の連続でしたが、五十歳の時、生涯最大の難である斬首刑に処せられようとします。
    その時、不思議な出来事があって、結局、刑は取りやめになったのですが、その直後、宗祖は、何と捕吏たちに酒をふるまっておられるのです。驚嘆すべき境涯の高さであり、「余裕や落ち着き、自己統御」のお手本のような振る舞いというしかありません。
    私が、進退きわまった苦境に立たされた時の恩師の悠揚迫らざる態度に見て取ったものも、それに通ずるような人格の力であり、輝きでした。
    すなわち、真の意味での「演技」とは、そうした卓越した人格の力のおのずからなる流露です。孔子が「徳弧ならず、必ず隣あり」と言っているように、それは、巧まずして人々を魅了してやまない振る舞いへと結実してくるものです。
    宗祖のような宗教的巨人の振る舞いを、万人に要求することは無理かもしれません。しかし、通底するものは同じなはずです。
    リハーノフさん。あなたの夫婦愛のエピソードからうかがえる、奥様の内なる闘いこそ、まさに人格の力であり、人間性の輝きです。奥様の苦渋の選択、その後の忍耐強い支えの背景に、「余裕や落ち着き、自己統御などの徳目」があったのです。人間性の奥深くから発する「迫真の演技」「真実の演技」と申し上げたいのです。
    そうした意味から、私は、家庭生活に限らず人生そのものがドラマであり、人間は、本質的に劇的性格をもっている、と信じているのです』


    先生も指摘しているように、人生の演技性と願兼於業は深い関係があると思います。
    願兼於業の不確定なシナリオは、不確定であるがゆえに予想のつかない波乱に満ちており、また神にも仏にも支配されたものではありません。どのようなハプニングが起きるか全く分からないという意外性とドキドキ感にあふれています。それがそっくりそのまま、人生のドラマ性に重なるのですから、演技者がすなわち迷い、闘う人間なのであり、また観客という社会の人々に希望とスリルを与え、感動の虜にする名優に他なりません。
    名優は物語のテーマと自分の立場をよく心得ています。病というドラマ、貧しさというドラマ、老いを人生の総仕上げとするクライマックス、死の荘厳さという場面。

    生を真剣に生きた者だけが演じることができる各場面は、シナリオ以上の醍醐味があるのです。豊かな恵みがもたらされる自己統御の冷静さとたくましさは、名優と同じ人生の達人として、また最良のコミュニケーションを体現した菩薩のセリフは、それを聞く者の胸に熱く訴え、感動を与えることができるでしょう。さらに求道者として真実を求めぬいた不屈の精神のドラマ。他者を愛した個性的で自由な生の実践。今までも絶望から帰還した勇者が幾多もいたことでしょう。信仰と熱情によってどれだけの人々が、不幸のくびきから脱したことでしょうか。自分の生き方は自分の手のひらに握られているのです。捨てるも拾うも自分次第なのです。
    人生が、すべてが願兼於業の自分が書いたシナリオであることに思いがおよべば、演じきった素晴らしさと充実感ははかりしれません。命に刻まれている宿業も、遺伝子が書き換えられる同じ原理で、このような充実感のなかで転換されるのではないでしょうか。心の財は妙法という法理です。不幸をかけがえのない心の財産として所持できるのは、信仰者が得た功徳であり、特権です。
    さらに方便が妙法に照らされたとき、秘妙方便に発展し、方便自体が真実であるというドラマチックな転換が図られます。受動的な人生から能動的な人生にコンバートしていくとき、境涯に変化があることは当然です。妙法はそのためのエンジンであり、ドライバーは信仰者であることに思い至れば、どこに行くことも自由であるという境涯を獲得できる大きな福運と功徳に包まれることでしょう。

    先生の、あるいは創価の理念と目的が記された「人間革命」の冒頭の言葉、
    『一人の人間における偉大なる人間革命はやがて一国の宿命転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする』

    この言葉は、こんなふうにも言い換えることができるのではないでしょうか。
    『全人類の不幸は、一国の不幸でもあり、一人の人間の不幸に転換され凝縮される』

    一念三千の法理に説かれるように、社会を無視した人間の幸福はありません。同時に、個人の不幸は社会に反映し、個人の不幸の解決も、社会に影響を及ぼして、国や世界に対しより良き選択の材料となり証明となるのではないでしょうか。

    不幸は幸福の反対の形をしています。そのプロセスも下り坂と上り坂のように、方向も困難さも違うと思います。そして幸福に上限がないように、不幸にも限界がありません。
    「不幸の連鎖を断ち切るために、妙法の闘士は目覚めなければならない」
    不幸や不安を克服するために、そのような使命を自覚した人が、菩薩といえる尊い人格者になる因を持つことが可能なのではないでしょうか。

    年齢や性別、地位には関係ないと思います。強い人間ばかりが幅をきかす世のなかであれば、弱者はどうすればよいのでしょうか。弱者から強者への変革を成し遂げるのが、仏教の目的としたら、不幸や不安や、自分の存在に関わる重大な問題解決に、たとえ人生の大半を費やしたとしても、その経験を経た人が、本当の弱者の味方と言える資格を有しているのではないでしょうか。
    菩薩はその弱者を救済するために、内的な問題、外的な問題をことごとく背負い、背負いながら挑戦し、自分の生のあり方と自己統御の方法を苦難のなかで発見し、妙法の真髄に至る確信を得るのではないかと、わたしは考えるのです。

    宿命のボードに埋め込まれた挫折と心傷のストーリーから、使命というスポットライトがあたる躍動のステージへ、自分が演出し自分が主役の人生劇を、力強く演じてください。
    若年のわたしが言うべきことではないかもしれません。
    本当の自己実現という妙法の功徳は、これから花開いて、きっと人生を飾ってくれるのではないでしょうか。ぜひ、そのような百花繚乱の花吹雪が舞う幸福な人生になりますことを、ほとんど何も知らない人様の人生に対して、失礼と思いながら、祈りを捧げたいと思うのです。花がほころぶように、苦しみもほころび、喜びに満ち足りた美しい人生を実現してください。

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    香港に栄光あれ!


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