827万の誇大広告コピー

    KY気味の老人特有の鈍感な共感性と独りよがりを駆使しているつもりなのか、メディアを生きてきたプライドが邪魔をするのか、あるいはまだ必要とされていると勘違いしているのか、早く引退すればいいのに欲が出たのか、引退前に一儲けを企んで、評論家・田原総一朗の最近出版された本が売れているらしい。購読対象は会員以外にありそうもないので、聖教にストレートに広告が掲載される。宗教を騙る悪徳商法そのものです。
    報道を仕切る影響力を、まだ持っていると考えるのも自由ですが、 Mr. Masaru Sato と同じように、池田先生に心酔するまえに、我が身の在り様に思いをはせつつ、世界の悲しみに涙を流したほうがずっと賢人に見えます。
    聖教に『創価学会』の広告が大きく掲載されて、読者の反響とコメントを読んで購読意欲が刺激された方も多いでしょう。わたしは人一倍本好きですが、ひねくれているので手に取ることはありません。創価のエージェントが公明党なのか、公明党のエージェントが創価なのか、よくわからなくなりましたが、著者が創価のエージェントであることは明白です。
    この広告コピーに827万世帯という創価の会員世帯が書かれておりました。昨年の11月ごろのことですが、聖教に堂々と数字が掲載されるということは本部も認めているのでしょう。でもはたしてこの数字を信じている人がいるのだろうかと、ふっと思った次第です。
    正確な数字なのかどうか、検証はできません。またよほどの幹部でなければ実態を知ることは不可能でしょう。あるいは、正確に近い統監上の数字かもしれません。その手掛かりになり、ひとつの物指しになるのが国政選挙の得票数です。
    創価では選挙になれば、最初にまずやるのが内部固めです。会員に総当たりし支持を訴えます。しかしすでに700万票を切っている状態なのに、このなかに、多少の外部票があるとすれば、内部票は恐ろしく少なくなります。子供の単独世帯はありえないので、少なくとも827万人の大人がいることを公式に認めているのも同然ですが、真実ではないでしょう。
    会員数について、以前会合で話題にしたことがありましたが、ほとんど関心がなかったことに驚きました。かえって「そんな小さなことを気にするのはどうかしている」などと牽制するように諭されたのです。ブロックや地区の減少はどうでもよいことなのかもしれないし、会員数など関心外のことなのでしょう。エゴイスティックな真意の会員像が垣間見れます。

    下記のグラフは、日本全体の世帯数と一世帯の平均人数を表したものです。
    1212181721.gif(Source:YAHOO!ニュース)
    良い意味でも悪い意味でも、創価は社会の縮図と言われますが、それは会員の構成が社会の各層に及んでいるからでしょう。主に中間層といわれる市民層は政治や経済の動向に大きな影響を与えますが、公明支持者の多くがこの階層に集中しております。
    827万という数字を掲載するからには、その数字の根拠を示し、疑問に答えていただきたい考えますが、おそらく組織の大きな急変がないかぎりあり得ないことでしょう。なぜ、正確な会員数をひた隠しにするのか不思議です。常に拡大しているとほらを吹いている手前、停滞している、衰退している、激減しているなどとは言えないのでしょう。あるいは幽霊会員や高齢で亡くなる会員が多いのかもしれません。高齢化は組織の老年化、マンネリ化と同じとわかったように言えばお元気な高齢者から不服や反論があるかもしれませんが、遅かれ早かれ、やがて来る老いとその先にある終活問題に、創価は次第に深く関わらなければならない。宗教団体としての社会的責任が問われることになるでしょう。尊厳ある死は、宗教の本源的な問題を有しておりますが、永遠の指導者は、自分の老いの姿を秘匿し続けております。何を感じていらっしゃるのか、どんな希望と悲哀を想うのか、会員には想像もつきません。宗教勝負師は、一度しかない正念場を迎えて勝利の模範を示していただけるのでしょうか。

    このグラフからは多くのことが推測できます。顕著なのは、世帯数が増加しているのに世帯当たりの人数は減少していることです。東京などの都市部は、この傾向が著しく表れます。単独世帯が多く、孤立化の傾向は都市部だけに見られる傾向ではありません。人間関係が希薄になっていること。関わり合いを避け、コミュニケーションも築くことができずに断絶し、他者を思いやる尊敬も欠乏する。人間愛を渇望しながら、その愛情が信じられない。同時に孤立化は経済的な貧困を進行させ、コミュニケーション不足はヒステリックな社会不信を生む。

    827万世帯に、グラフに見られる統計上の一世帯あたりの人数をかけると、創価のほぼ正確な会員数?は算出されます。グラフは見にくいですが、総世帯数と世帯当たりの平均人数がわかります。簡単な計算をすると、
    ……………………………………………………………
    827(万)×2.47=2042.69(万人)
    日本の人口が1億2709万人なので、
    2042÷12709≒0.16×100=16%
    ……………………………………………………………
    人口比で16%の会員数とは甚だしいサバを読んだものです。10年前もほとんど変わらないアナウンスメントは、意図的な操作をしていること疑いありません。10年後も、変わらない数値が公表されることでしょう。
    宗教年鑑の宗門からの破門前と破門後の数字を比較するとおもしろい。
    平成7年の宗教年鑑では 『日蓮正宗:576万人』、破門後の平成12年では『33.8万人』その差、542万人が創価信徒数と考えることができます。定期的な統監をやり実態を把握していながら、正確な数字を公表できない永遠の指導者をはじめ執行部の体質は、仏法者の正常さから大きく逸脱しており、異常です。
    2042万人から選挙権がない未来部を除外すると、ほぼ内部有権者数(NU)が出てきます。現在の未来部員は大変少なく、地区においては男女青年部ですら、めったに見かけることはありません。少子化が大きな影響を与えておりますが、その一方で、親世代から子世代に信仰の継承がスムーズに行なわれていないということ。幼年や未来部のとき入会した人達は大きな問題を抱えています。明快な信仰への動機がなく、意欲と闘志を維持できない困難さがあります。特に女子部の崩壊は、未来の創価の姿を暗示しています。
    食べられないくらい大盛り数値を、平気な顔で聖教に盛る厚かましさは、古典的な騙しのテクニックとも言えますが、それは会長だけでなく、取り巻く幹部、その精神的指導者である池田先生の長年の宗教活動が、自らの心理も自らに操作され、「正常性バイアス」という型にがんじがらめにはめ込まれているからでしょうか。
    仮に会員を2000万人と想定すれば、このグラフからは、会員数が増加すればするほど、社会の混乱が拡大していくようにも捉えられますが、そこまでは考え過ぎなのでしょうか。逆に、社会の混乱が信仰人数を増やすと言えるかもしれませんが、そのような時代や社会は、決して幸福ではなく病んでいる可能性もあります。
    国政選挙の得票数から推測して、542万人が妥当なところです。はじめからだます目的でなければ、2000万人などと吹聴する軽薄な宗教者はいないでしょう。信仰とは良心の代名詞であることを深く考えるべきです。血脈とは大聖人の意志を受け継ぎ、ありもしない数を誇るのではなく、御本仏のような誠実な言動を継承するということです。
    得票数という数を一つのターゲットにしながら、会員が創価全体に関心が薄いのは、現場仕事をこなすだけで精一杯という側面もあります。報告一つとっても、その煩雑さと細かさはヒエラルキーの頂点に立つ人間の不安な気持ちを表しているでしょう。すべてを会員の善意に依存しているため、教義と善意の啓蒙を一体化する指導方針が、恒常的に検討され続けていることは言うまでもありません。
    ついでに余計なことですが、財務について一言申し上げれば、財務人数150~200万人と仮定すれば、一人平均1万円の財務で150~200億円、2万円平均で300~400億円となります。一人平均額が1万円以下ということはありえないので、2万円前後と考えるのが妥当でしょう。おそらく聖教を含めた出版事業では、それ以上の営業利益があると考えるので、収支は一流大企業並みということになります。金銀に人間の欲望は集まるので、この潤沢さは何ものにも代えがたい功徳となりますが、運営者のマネジメントの立場になって考えれば、会員の善意の総決算の数字であることをよく理解したうえで、さらなる負担をどのように求めていけばよいのか、最も肝心なところだろうと池田先生から指南されたことでしょう。過去に確か、経営者を集めた会合で、日本を支配するような大言壮語を発したこともありましたよね。マイ聖教のような牽強付会のトリックを駆使して納得させる手法は、宗教指導者が考えることではありませんし、会員の無垢さがときには罪になることを自戒も含めて自省すべきと考えますが、風冴ゆ荒野に向かって叫ぶようなイメージとともに、何を言っても無力感を感じてしまいます。

    雑誌「ダイヤモンド」を読んでいたら、『日本の生産性は先進国(G7)で最下位』という記事がありました。これほど世にブラック企業やパワハラが溢れているなか、「生産性最下位」と聞けば、論理的に物事を考える人ならば、このような結論になるでしょう。

    『「これだけ労働者が血へどを吐きながら働いているのに生産性が低いということは、問題は労働者にあるのではなく、社会システムが狂っているからではないのか」
    だが、現実には、この狂った社会システムを維持するために、「外国人労働者」を大量に入れようなんて国策を推し進めていることからもわかるように、大半の日本人はシステムを「盲信」して、以下のような方向へ流れていく。
    「これだけ労働者が血へどを吐きながら働いているのに生産性が低いということは、問題は労働者にあるのではなく、生産性の定義や調査が間違っているのではないか」
    要は、常に「自分たちは間違っていない」というところからスタートするので、「耳の痛い話」は「デマ」や「日本には当てはまらない」と素直に受け取れないのだ』


    このような引用話と似た話が創価にはあります。正しいことをしていると繰り返し自分に言い聞かせて誓願し、政治(選挙)活動に過剰に入れ込んで殺気立つ。精緻なプランであっても、無駄が多い支援活動を展開し、自己啓発ともいえない、自己改革ともいえない、知らず知らずのうちに自分にノルマを設定し、F数だけを追う強制労働のような圧力と義務を感じている。その基本は、「正常性バイアス」であることを自覚したほうがよいでしょう。池田先生が作った公明党のための選挙運動という理由づけだけで、十分な動機となる正常性バイアスは、都合の悪い情報をシャットアウトしながら、自分だけは大丈夫と思い込み、判断の異常性の視点からも正常ではありません。国民目線に立ち、国民にだけ負担を押し付けない「身を切る改革」と立派なことを言っていたのに、消費税増税の前に議員定数を必ず減らすとした公約はどうなったのでしょうか。国民をバカにしている。
    12月27日の聖教の寸鉄に「C作戦から28年。学会は世界宗教に発展。日顕宗は信徒激減。正邪は厳然」とありました。激減しているのは創価も同じ。不都合なことを隠し、他に目をそらす巧妙な詐欺的要素にあふれている組織も、その結末が必ずあることを銘記しなければならないでしょう。

    「Web第三文明」に、『なぜ、これほどまでに強いのか?』 と題した書評が掲載されております。正当な学会論であるという宣伝と、自己弁護、自画自賛の評論ですが、取り上げられている過去の書物のなかに『信仰はどのように継承されるか』(猪瀬優理「北海道大学出版会」2011年)があるのには、少しだけ感心しました。読むために我慢を強いられる、このような学術出版に等しい書物を読む会員はおりませんが、札幌市周辺という限定はあるものの、創価の現状を客観的に知ることができる数少ない本とも言えます。
    信仰継承をテーマにして、これだけの調査はこれからも難しいかもしれない。自己を客観視できるメリットもありますので、信仰者にとっても有益な内容です。
    まとめることはほぼ困難ですが、抜き書きしながらできるだけ概略的にまとめてみようと思います。(「終章」p215~引用)

    ☆~☆~☆

    『創価学会は、混乱期にあった戦後日本の中で、これに翻弄される人びとを吸収して成長した宗教集団の代表例である。ここまでの成長を可能にしたのは、組織の柔軟性と「体制順応主義」と「成果主義」という基本姿勢である。この基本姿勢によって提案される創価学会の「幸福」のビジョンは、一九六○年代前後の高度経済成長期の成功イメージと合致している。また、創価学会の信念体系は個々の世俗的な日常生活に関する準拠枠組みには立ち入らないため、信者たちの自由な行動を許容すると同時に、日本における社会変動に対応することが容易であった』

    『創価学会の機関紙誌を資料として、世代間信仰継承のモデルを示した。
    戸田時代には、子どもの信心の明確なモデルは十分に作られていなかった。また、その信仰のあり方は、御本尊に祈れば功徳があるというダイレクトな現世利益主義であり、御本尊を信じなければ罰が当たるというダイレクトな厳罰主義であった』

    『池田時代は教団が安定期に入り、子どもと大人の峻別が必要になったため、教団は未来部組織の設置、創価学園の設立などを通して、子供たちを「教育する対象」として規定した。これは日本社会全体の近代化の歩みとも重なる過程である』

    『創価学会における信仰モデルでは、信仰継承の媒介として親子ともに「池田先生」を人物モデルとして用いている。ダイレクトな現世利益主義・厳罰主義は影を潜め、仕事や学業などでは祈るだけではなく自分で努力をして成果をあげるという自力志向を求めるモデルが形成される。成果を出すことは、「池田先生の御構想」を実現することにつながり、その期待に応えるものが真に信仰を継承した姿である』

    『信仰継承のあり方には男女で違いがみられること、また、肯定的な効果をより多く受け取っている人が活発な信仰活動をしている傾向が見出された。信仰継承に影響を与える担い手としては、親と教団が重要な位置を占めることも確認された。また、信仰継承の要因について、男性と女性では異なる特徴がみられた』

    『第一世代の信者には経済的・社会的苦労をしてきた人が多く、創価学会の信仰と組織が苦労を乗り越える支えになっていた。第二世代の信者も子どもとしてともに苦労を経験しているため、「信仰によって乗り越えた」という「肯定的な感情」を継続して持ち続ける場合が多い。しかし、第三世代の信者は、第一世代の生々しい苦労を目にしていないことが多いため、信仰の必要性を実感できず、一度組織から離脱する人や活動に不熱心な人も多いようである。また、教化や折伏についての考え方も、第一世代は強制的姿勢を持ちやすいが、第二世代、第三世代では強制度が低くなる印象がある。これは、世代の影響だけでなく、創価学会を取り巻く社会における親子関係の変化にもよるものかもしれない』

    『男性は仕事や学業での発心が多く、女性は家族的な問題で発心することが多いことが見られた。女性の場合は男性に比べて、職業的な達成よりも結婚や出産、育児を通して信仰を深めることが期待されている。女性の信仰上の人生モデルにおいて、未婚女性は過渡期の状態とみなされており、本格的な折伏活動などへの期待が薄い。それに対して、婦人部に所属する既婚女性は、創価学会活動の基盤を支える活動者、および、次世代再生産の担い手となる母としての役割が期待されている。つまり、「男は賃金労働、女は家事、育児」という日本社会を根強く貫く性別役割分業の影響が大きい。この点では、女性というジェンダーを引き受けた人は家族的役割を期待され、家族が創価学会員である場合には、家族関係を良好に保つために、創価学会への信仰を保持せざるを得ない側面が出てくる。この点が肯定的イメージをより強く意識する傾向と関連している可能性もあるかもしれない』


    『二世信者の増加は必ずしも教団の活力を低下させないと結論づけたが、子どもの育成を担当する部署では活力が低下している状況も推察された。活動的信者の中に二世信者が増加することは、組織の活力の低下にはつながらない。しかし、本来なら「信仰継承」を期待される名簿上の二世信者が信仰活動をしていない場合、名簿上の会員数に比して「活動家が少ない」という印象を活動的会員の間に作り出す可能性がある。この場合、活動者は名簿上に名前だけ載っている信仰心を持たない未活動家会員への家庭訪問を時間的・体力的・精神的な負担と感じることで次第に信仰活動に消極的になる、という悪循環が生じる可能性もありうる』

    『宗教集団は、局所的に家族的状況や家族間の変化に対して正当性を付与する新しい価値観の基準を提供する共同体として働く機能を持っている。新しい基準は、従来の、あるいは現行の価値規範と大きな隔たりがないほうが多くの人に受け入れられやすい。この点で体制順応的な特徴を持つ創価学会が「選択」しやすい宗教であった可能性がある』

    『家族の個人化が進んでいるといわれる現代社会において、新宗教への家族での入信は、「家」制度に代わる形での家族の形態・結束・共同体を維持する機能を果たしている可能性もある。地域や親族などの共同体的つながりが各所で途切れつつある状況において、親子を中心とする家族は個人化が進んでいるからこそ、最も重要な社会的紐帯となっており、それゆえに家族関係が緊張に満ちたものともなりやすい』

    『(調査票調査では)活動的信者の九九%以上が公明党支持者であった。現在では少し状況が変化している可能性もあるが、少なくとも二〇〇二年前後では、活動的信者であることは、公明党支持者であることとほぼ同じ意味であった。活動的信者にとっては、教団一丸となって国政、地方政治に影響力を及ぼすために選挙活動に励むことは、間接的な布教活動となっている。国政にも及ぶ影響力を仲間とともに生み出しているという実感は、創価学会全体を一つの大きな共同体と認識させる要因の一つともなっているだろう』

    『選挙活動は、その成功として当選という明確な成果が求められる、成果主義を標榜する教団と親和性が高い活動である。成果主義志向は創価学会に限ったものではなく、日本社会全体を取り巻くイデオロギーの一つであるため、この点も多くの人々に創価学会を受け入れやすくさせる要因の一つであろうと推測される』

    『創価学会においても、組織・制度化が進展するとともに、教団からのサービス提供を所与のものとして受け止める二世信者が増加していく。子どもの試験期間には会合を開かないでほしいと要望する保護者の存在は、その象徴である。教団はますますサービスの提供者となり、サービスの受け手である信者からのクレームを受けるリスクが高まっていく。このようなクレームについては、創価学会職員として給与を受けている人はまだ職務として受け止めることができても、無給で地域の幹部として活動している人にとっては、無償で行っている行動についてクレームを受けることは理不尽さを感じる場面も増えるのではないかと推測される。このようなクレームは、おそらく雇用状況の悪化により、増加する危険がある。地域の格差も大きいだろう』

    『本書では順調な世代間信仰継承を教団組織維持の要として論じたが、現役信者の地域における活動状況をみると、次世代育成の重要性が認識されていても、その達成に困難が予見される状況があることを示した』

    『(エホバの証人と対照した論文を示し)その意味では、エホバの証人の二世信者が脱会する際に被る問題は、創価学会の二世信者が脱会する際に被る問題と共通する面も少なくないと考えられる。もちろん、教団の教理や対外的な対応の違いなどから問題が生じる程度や質に違いが生じる可能性はあるが、宗教集団にとって「脱会」が好ましくない事態である限り、「問題」が生じないわけがない』

    『一度正式なエホバの証人となってから脱会する場合は「背教者」となり、エホバに忠実であれば与えられるはずの永遠の命を失った穢れた存在となってしまう。このことから、家族にエホバの証人を持つ二世信者が脱会する際には、家族の縁を切る覚悟をしなければならない。これは非常に重い決断となる』

    『創価学会は、基本的には体制順応的な価値観を持っており、経済的成功や職業的成功など一般社会における活躍は非常に肯定的に受け止められる。そのため、一般社会との乖離はエホバの証人ほど著しくない。この点では、エホバの証人が脱会する場合に被る問題と創価学会員が脱会する際に被る問題の質と量は異なるものになろう』

    『創価学会において子どもの「成長」が「信心を継承しているかどうか」「池田名誉会長を尊敬しているかどうか」で測られる側面がある。家族の絆の一要素として「信仰」が位置づけられることは悪いことではないが、仮に二世信者となるべき子どもがその信仰を受け入れられなかった場合には、その子どもが苦しい思いをせざるをえないであろうことは容易に推測できる』

    『一般に脱会に際して問題が生じやすい教団の特徴として、メンバーシップを厳密に考える傾向が強い教団、閉鎖性が高い教団、唯一無二・絶対の真理を持つことを強調する教団、リーダー層の権限が強い組織構造を持っている教団、教団外の一般社会との価値観に乖離が大きい教団、信者を過度の教団活動に引き込む組織体制を持っている教団、が挙げられる。創価学会の組織の特徴には、以上のうちのいくつかと重なる面がある。親が子の幸せを願って自分の持つ信仰を継承してほしいと期待することは親心ではあるが、子どもが自分自身の信念に従って親の信仰とは異なる考えや生き方をしていく自由は保障されるべきであろう。本書の事例では多様な信仰継承のありようが示されていた。したがって、脱会についても一面的なものではないだろう。いずれにせよ、創価学会の二世信者にとって「信仰継承しない」という決断が実質的にどのような意味を持つのか、実証的に検証する必要があるだろう』


    熱心な信仰という印象が強い、エホバの証人(www.jw.org)の名誉のために付け加えておきますが、世界的組織でありながら専従の職員がいないということ。すべて無償のボランティア活動で補われているために、既存の宗教組織の聖職者にとって、大変都合が悪い宗教であった可能性が高い。アメリカでは異端として扱われ、伝統的な倫理や信仰形態を破壊する信仰として「カルト」と呼ばれ忌避されました。宗教的な純粋さを求めるあまり、社会的な成功に関心が薄いようにも感じられますが、信仰の継続に困難さが生じたとき、経済的な日常生活の維持が難しくなる問題を抱えているように思います。でも、信者にしてみれば、そのようなことも承知のうえなのでしょう。
    わたし自身、エホバの証人の訪問を何度か経験しておりますが、全員が女性、落ち着きがあり服装等にも清潔さが感じられます。信仰は違っても、その一途さの報酬として、幸せになってくださいというのが、わたしの偽らない気持ちです。
    訴訟が多いというカルト的要素があるものの、政権中枢に影響力があるからだろうか、政教一致をはじめいわゆる創価学会問題についての話題が、以前と比較しても少ないように思いますが、最近、タカ派の保守的な雑誌に批判的記事が載ることがあるようです。憲法改正問題に消極的な公明党の姿勢が関係していると見ていますが、もともとの加憲論も後退しているのでしょうか。自衛隊を国軍として明記していただきたいというのが、多くの国民の本音でしょう。安保法制で集団的自衛権を限定で認めてから、次の課題は憲法改正よりありませんが、平和が担保されたなどと錯覚している恐ろしくお人好しの人間主義や軟弱な平和主義が、社会を戦争への危機に陥れようとしている。なお一般人も対象になる共謀罪の悪質性は再度議論する必要があるでしょう。牧口先生・戸田先生の獄中での辛苦を思い、宗教は危険というテロリスト同然の烙印を押される可能性が絶対にないと誰が保障するのでしょうか。

    一応会員ではあるけれど、積極的に活動に参加しない三世や四世会員が多いように思う。信仰に対して親のような強い思い入れがない。自分が創価学会員であるという自覚はあっても、どこかの会員サイトに会員登録している気分なのかもしれない。したがって、このような会員は勤行や唱題はほとんど必要性を認めません。信仰継承について、ファミリーシップな絆や伝統的な家制度を反映した厳格さは次第に薄れております。原則論で言えば、信仰者のための組織ですので、客観的な信仰調査を参考にしなければならないでしょう。
    この本には、信仰継承の具体的な例が掲載されております。読んでみると、身近にいる会員の姿に似ており、信仰継承のパターンが、創価の活動方針から大きく影響を受けていることがわかります。同じような心情になり、同じような感情を持ち、避けることができない人間関係のなかで、信仰への十分な動機を与えられる、あるいは信仰への幻滅を感じてしまう。スムーズに信仰継承する人とそのような肯定的な承認に至らない人の相違を、深く考える機会になるかもしれない。わたしたち会員は、自分の意志で、自分の行動で、自分の人生を築いていると思い込んでおりますが、つまり桜梅桃李という個性が強調されますが、信仰継承の過程が近似しており、何か大きな力に支配され左右されているような、漠然とした不安がわきおこる感覚になります。この本の書き方が類型的な表現なのかもしれないし、実際の信仰を経験していない研究者の評価、認識と分析だからかもしれません。でも、客観性という視点からとても価値があります。

    『創価学会』や、その他の類似の本は、アバウトな言い方ですが、正確性を欠いていると思います。そこで悩む一会員の思いすら、汲んでいないと考えるからです。これは『アンチ創価学会本』にも言えることです。十分な調査もしないで、少ない事実から感情的に断定してしまう癖があるからです。信仰は正しくても、組織は純粋さから傾斜の度合いを強め、理想から遠のき始めている、そのことを敏感に感じ悩んでいる人間がいることを知らない。少数意見が無視される組織は、唯一正しいと強く確信する独断性に溢れている。原則を歪めて、時代に合うとか合わないとか、そんな安易な基準が支配する。本幹で、信教の自由よりも、公明党への支援を、既定事実のように語ることにその姿勢が表れています。政党支持の自由が、創価の原則だったのではないでしょうか。こんなことを言えば、政党支持は強制ではなく自由ですと必ず言い張るに決まっていますが、それなら名ばかりの協議や検討で、専制と独断の創価全体の公明党支持承認や表明は行うべきではありません。政策を問わない支持など信仰でも師弟不二でもありません。見苦しいほどの保身と権力追随が公明党の本質です。結局、永遠の指導者の体質が反映されているのでしょう。組織も人も権力欲への執着は、まるで仏教の根本の迷いを体現しているようですが、人法一箇をないがしろにする当然の帰結です。

    致命的エラーになるかもしれない組織的な欠陥を、宗教ソフトと創価コンテンツの運営者は知ろうとしない。リスクマネジメントが特に意識され、会員が気づかないように、システムアーキテクチャが改変されているだろう。SOKAオペレーティングシステムも不変でなく、常にバージョンアップし上書きされている。わたしのようなアイロニカルなバグが気に障るのでしょう。いつかは修正されるかもしれない。宗教に論理的エラーと解釈ミスは付き物ですが、ほとんどが作為的で意図的、アーティフィシャルな不自然さです。単純明快さが失われ、注意書きと禁止ルールのインデックスが増えるばかりです。

    Audiomachine - Leap of Faith



    ☆~☆~☆

    『Diversity』に取り上げていただきありがとうございます。
    絶えず意見を進化させ、リファインし、更新していくことはとても根気がいることですね。凡人と卓越した人々の違いは、その持続力なのかもしれません。
    希望をシェアできる人に巡り会いたい、そんな思いがいつも心の片隅にあります。


    (追)2019.5.20
    創価のホームページに827万世帯と明言されていることを知りませんでした。ちょっとしたウソを書いても平気と考えているのかもしれませんが、その感覚がすでに謗法です。飲み水に泥を投げ入れるようなもの。しかも衛生への感覚がマヒしている。謗法も時間が経つとその罪悪感が次第に薄れていきますが、これも宗教上の混沌、不確実性、あるいは没個性、均質性の問題と捉えるべきなのでしょうか。熱が伝わるように、水が高所から低所に流れるように、新たなエントロピーの現象と考えるべきなのでしょうか。
    現在の幹部の皆さんには厳格な謗法意識などありません。以前の靖国神社事件はどうなったのでしょうか。先生が本幹でご指導された正義も、メタ正義ではなくディテールにこだわる部分正義=偏見に落ちぶれてしまいました。スピーチしていてもわかりづらく顔も歪んでいます。正義の根拠をとっくに失って自信をなくした表情に見えてくるのは不思議です。
    世界には絶対正義など皆無なのに、善悪二元論で扇動し、無反省な自己と同調するだけの他者を作り続けている。宗教の恐ろしい側面を次第に浮き彫りにしている創価の害毒は、皮肉にも、『信仰者は聡明であれ』とする祈りの本質を歪めている。聡明な祈りが世界に必要な祈りの姿です。
    従来の宗教概念を大きく変更し、日蓮大聖人が説くところを勝手に変造し、「依法不依人」を「依人不依法」に変えてしまいましたね。法とは三大秘法の大御本尊のことなのですよ。最近、創価教義の薄っぺらさが、近眼のわたしにも見えてきましたyo......
    だまし続けるためにもエネルギーが必要です。


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    創価の未来を暗示

    dialogue.jpg池田国際対話センター(http://www.ikedacenter.org)がジョージ・メイソン大学と共同で25周年の記念出版を行ったことが、1月19日の聖教に報道されておりました。タイトルは『対話を通じた平和構築――教育・人間変革・紛争解決』。センターの創立者である池田先生が序文を寄せ、『他者を無意識に分別し、優劣をつけようとする、自らの「心の壁」を超克し、人々を「彼らと我ら」「敵と味方」などの対立の図式に落とし込む "二元論" の危険を、鋭く見抜かなくてはならないと強調』、『全ての人に無限の可能性と尊厳性が具わると信じる人間観こそ、差異を超えて平和と共生の道を開くと訴えている』
    著名な大学の教授や専門家が、対話が持つ力を様々な視点から検討しているだろうこの本は、論文を寄稿しているその時点で、多様で誠実な対話が成立している。時流に左右されない平和への行動と "人間的側面" への洞察、複雑な状況を整理し、関係回復と和解を促す対話への信頼を訴えている。日本語訳を出版していただきたいというのが切なる願いです。

    ブログ『Diversity』が復活しました。対話を強調されておりましたが、主に地区や支部といった小単位のなかで、ポジティブで持続的なトライアルは、成果や効果はあったのでしょうか。実験的な英知で挑戦する意欲こそ、現在の創価に失われたものです。その曙光を少し眩しく見ていたのですが、そのような試みをこころよく思わない組織信仰者の苛斂(かれん)管理を乗り越えることができたのでしょうか。わたしが想像する圧政への反逆者という古びたパターンも画一的で類型的ですね。リニューアルしたい気分もわかりますが、組織は簡単に新装開店とはいきません。創価はリノベーションの歴史でもありましたが、安定期に入り秩序が優先され、あるいは衰退期に入って内的動機が停滞しました。熟しやがてクサルという原理は、宗教においても世界共通のようです。また秩序を重視するあまり上意下達の徹底があり、信仰が求める自由に、制限が加えられたと考えるのわたしだけでしょうか。
    『Diversity』でも取り上げて、今でも覚えている記事があります。ブライアン・ウィルソン博士の論文を引用した、極めて真面目な創価評論です。池田先生とウィルソン博士の対談集が出版されたのは1985年のことです。トインビー対談から10年の歳月が経過しておりますが、ある意味、健康を維持するための健康診断と同じように、専門家に宗教の健康診断を求めた対談とも言えます。権威ある宗教社会学者の評価は、おそらく宗教界に衝撃を与えたものと考えますが、ウィルソン博士のその後の論文も良心的な研究者の賛辞に満ちたものということができるでしょう。これは聖教にも掲載されたということですが、わたしには記憶がありません。もっともそのころは聖教も読んでおりませんでしたが。同様の内容と思われる講演論文が東洋哲学研究所のアーカイブで閲覧できます。
    『現代西洋における創価学会運動』(1998年)と題された講演は、けっして過去のものではなく、現在を見通した透徹した英知に支えられております。
    講演では、キリスト教の禁欲倫理を概観しながら、プロテスタンティズムの合理性と申し合わせたように合致したことを述べております。このことは西洋社会の基本的な理解ですが、日本人の特質に近似しているとも言えるでしょう。例えば、質素や倹約といった美徳、自己抑制が顕著であり、うらおもてがなく品行が正しく清潔であることなどの模範的人格像は、禁欲倫理の一つの表れですが、宗教的伝統が反映していることは言うまでもありません。
    自己抑制とは厳しい自律的精神の表出とも捉えられますが、社会から制限された禁欲倫理とも言えますので、見方によっては来世を懇願した他力依存とも言えるでしょう。
    宗教が必然的に変質していくプロセスは本質的なものですが、特に経済的豊かさ、科学技術の発展によって、その変化は否応なく訪れました。このことについて講演では、次のように章を締めくくっております。
    『このようにして、新しいタイプの宗教、つまり新しい経済的インパルスに倫理的に一致し、他方で、精神的宗教的レベルでヒューマニスティックな方向性を保った宗教的精神を好む、社会的雰囲気が生まれていったのです』

    人間にとって大切なのは常にバランスです。愛も過剰になれば破滅し、慈悲も過剰になれば相手を束縛するものに変化していくでしょう。信仰は抑制と過剰のバランスをとるものですが、ウィルソン博士が指摘する創価学会運動は、現世的喜びを保証し、自己解放と自己抑制の調和のバランスを保っていることです。
    『創価学会は、それら(禁欲的宗教伝統)とは異なった道徳的伝統を代表しており、抑制と報酬の間の新しいバランスを示していました。――つまり個人の行動と満足の間の関係に対する異なった論理を提供していたのです』

    そして、創価の魅力の源泉を詳細に分析しています。
    1.通常の人々による在家運動であったこと
    2.実際主義、実用主義的理念を強く持っていること
    3.救済という概念に多様な形式と解釈を示したこと
    4.現世を肯定する志向性を持っていること
    5.様々な道徳的規制の代わりに、一般的な個人的責任倫理を強調したこと
    6.在家組織であるために古い教会制度や寺院制度から解放されていること
    7.戒めるためではなく、自信を与えるために指導と助言がある
      (注:座談会を相互カウンセリングと表現している)
    8.創価は外向的宗教であり、芸術的表現を持ち、文化的社会的活動を支援している
    9.行動的な性格を持ち、他の人々に対して積極的な関心が強く、信仰を促そうとする
    10.創価の理念全体が人生を肯定的に捉え、幸福を正当と見なす。罪を教え、悲劇や苦難に遭遇すると懺悔することを説くキリスト教と相違して、罪の概念がない。

    仏法には、罪の概念がないと言っても、罰の概念があります。創価では特に強調され、不利益や運、宿命論、あるいは否定的に人格攻撃に使われ、多くの信者は常に正しいかどうかという正常性バイアスに絡み取られる。カルト宗教の特徴を短く要約すると、自分たちの運動を絶対的な客観性で正しいと確信しているところで、とても感情的です。言葉では普遍性を主張しながら、実体がないという矛盾に気づくことがありません。
    社会悪を生んでいるかもしれない一政党の政策にも検討することなく無条件に賛同し、選挙運動も宗教活動の一環であるという正常性バイアスからはみ出すことはありません。厳密に言うと、宗教心のたまものである冷静な自己評価も正しくできるかどうかあやしい。自己評価があやしいといえば、何が基準になるのだと反問されそうですが、自己評価を評価するという多重のチェックが人生というものではないでしょうか。ウィルソン博士が言うところを要約すると、正常性バイアスから共感性バイアスに転換することを願っているように思う。
    イギリスSGIを研究したウィルソン博士は、メンバーの特質をまとめております。
    - メンバーは、仏教徒でない人々から、挑戦的な意見が出されることを歓迎する。
    - そのような対話の機会は、信仰の自己確証の機会であると捉えている。
    - 仏教の教えをもったいぶって話す人に対しあからさまに嫌悪の情を表現することがある。
    - また見解の相違に対しては未決定のまま、それ以上追求されることもない。
    - 人為的な満場一致を作り出そうとしない。
    真実を追求し、公平にジャッジするウィルソン博士が書き残してくれたことを感謝したい。
    イギリスSGIは寛容でも、日本では受け入れられることはないでしょう。
    フランクでオープンなスタンスは、対話の場にあって最も必要な振る舞いではないしょうか。偏見や既成観念、排他性こそ、心に深く突き刺さった矢です。

    ウィルソン博士は、同じ年に行われた東哲セミナーにおいて、『新宗教・その直面する問題』と題して講演し、結論として次のように語っています。
    『第一に、すべての成功した新宗教運動は、制度化が進むという可能性に直面している。自発的な熱狂から始まったものは、日常化した服従へと落ち着いてしまう傾向がある。運動が成長するに従い、きわめて標準化された制度が必要となり、官僚的な傾向が発展するであろう。その運動を運営するために、ある意味で職業的な階級の成長を避けることは難しく、それゆえ、問題となるのは、この階級と一般的な平信徒との感覚や期待のズレであろう』
    そして気になることを記しておりますが、このようなことはいつも正常性バイアスが働いて無視されます。組織全体が冷静さを喪失し、狷介な宗門から独立したことを強調しながら、やがて求心性も魅力も失われることです。宗門は、日蓮仏法の真髄が寛容性のそのスケールの大きさにあることを、頑なな固陋のために見失っている。
    『もしもこうした運営者が、地位を守ることを正当化するために何らかのタイプの聖職者的な地位を主張するならば、聖職者と平信徒との間の古典的な緊張と分離は決裂にいたるであろう』
    宗門とともに、創価の運命も予言しているようで興味深く読みました。でも結果はすぐに表れず、カリスマ的指導者に新鮮さが失われたとき、次第に危機は姿を表わすでしょう。
    また信仰の中心的価値ではなく、世俗的なことでも異論を主張する会員を敵視するのは、理由がないわけではありません。信仰上の緊張は破滅にいたることを、本能的に認識しているからです。特に政治的な主張の対立は、短期勝負の熱風にさらされてクールさを失います。現世利益を素性とする宗教ではありがちなことです。

    『第二に、財産や不動産の獲得によって、非常に多くの場合、布教することよりも組織を維持することに関心をはらうような法的手続き上また運営上の専門家を必要とするようになる。目的の転移と社会学者が呼ぶように、専従職員たちは組織上の価値や利益に最優先の関心を払う傾向があり、しばしば、信仰上の主要な価値や宗教的な専心が損なわれることもある』
    すでに創価の教義は変更され、大御本尊という信仰上の主要な価値は失われております。
    池田先生が「永遠に変わらない」と保証した言葉は、皮肉にも、永遠に変わり続けるという意味なのですね。言葉の暴力にも等しい。品質保証を謳う契約書にサインしたのに、いつの間にか品質が劣化しているメーカー商品のようです。普通の法的理解であれば、損害賠償責任の対象ですが、宗教は心的問題を扱うために立証は難しい。「嫌ならやめろ!」、というのが慈悲を商売にする聖職者の都合が良い決まり文句です。

    『第三に、信仰上の中心的な教義と結びついてはいるが、直接教義から導き出されたものではないような、いくつかの副次的な問題関心をその運動が含んでいる場合にも、同様な問題が発生するであろう。そのような副次的な関心がますます重要になると、信仰それ自体よりも、この副次的な活動計画により専心する者たちをその運動へ惹きつけるであろう。(中略)我々は、ある運動が主要な目的が副次的な目的によって撹乱される場合(極端な例では、運動自体が壊滅するおそれもある)、そして運動のエネルギーや資源が主要なものから、もっと特殊で、二次的なものへ転換されるような場合、それを目標の逸脱の一形態であると呼ぶことができるであろう』
    きょうの聖教一面(21日)には、「不屈の関西魂で常勝新時代を」とアピールして、大阪、京都の代表幹部会の模様が報道されておりましたが、本部幹部会での会長のあからさまな選挙指導を受けてのことであることは明白です。そして、相も変わらず、大量の選挙違反者を出した"1957年の大阪事件"へと通じていく、前年の選挙活動が美談風に語られています。傲慢さが不適切に増大していく過程を検証することはありません。そのプロセスは、宗教にとって致命的とも言える問題を含んでおりますが、反省はありませんし、検証もありません。現在、選挙違反に近い事前運動をあたりまえのように実行している多くの会員は、ほとんど個人の責任範囲と自覚しているのか、疑問があります。組織はいざとなったら関与しないと、無責任な主張を展開すること間違いありませんが、その無責任さは1957年に池田先生によって作られたことを、冷静に思い出さなければならないでしょう。
    4面の座談会でも「立正安国が日蓮仏法の根幹」「人間の尊厳を守り、平和と幸福を実現」と慣例のフレーズが列を作ったように並びますが、選挙支援をこのようなレトリックで表現しても恥ずかしいと思わない感覚は、創価特有のものかもしれません。公明党支援が「人間主義運動の副次的目的」に代替されていることについて、主要な信仰目的が撹乱されているモデルであると考えます。創価の特徴である熱狂が、忠誠と自己主張に姿を変えて、積極的に社会に変革を起こそうとしている。その方向はけっして善い方向とは限りません。

    『第四に、第二(そして後続の)世代の社会化に関連した不可避的な一連の問題がある。第一世代である親たちは、それまでの信仰とそれに関連するものを放棄するために、必死に戦って新しい信仰を獲得した。親の世代が勝ち得たものは、彼らの子どもたちにとっては、親から受け渡された正統的な信仰を受け入れるかどうかという問題に変わっている。最初の改宗者たちは、ある意味で、革新者であり、開拓者であり、恐らくは反抗者でさえあるのに対し、後続世代は自分たちの信仰のためにそれほどの苦労は必要なく、結果として、信仰を当たり前のものとみなし、年長者たちと同じような深い感謝の念もなしに、軽々しく扱うであろう。こうしたプロセスを我々はコミットメントの低下と呼ぶことができる』
    第一世代の至上のものである信仰が、後続世代によって責任ある関与を否定される。争点やトラブルがあっても、いつまでも自分を美化し続ける創価の問題意識の低下は、ある意味、コミットメントの低下と捉えることも可能。上から降ってくるヒエラルキーの指令を、黙って受け取る会員の正直さは信仰から培われたものですが、後続世代から見れば不道徳きわまりないのです。
    自分の軟弱な意志を養成していく……それが信仰のはずなのに従属し依存している。団結することよりも、個々が独立し、まず犀の角のように独り歩むことが大事なのに、その源泉である自立心と反抗心も喪失している。

    『第五に、時代を経ることによって、その運動が本来もっていた存在理由が十分に理解されなくなるであろう。それをめぐって争い、あるいはそれについて反抗し、そこから新宗教が発展してきたところの、新宗教と古い信仰との違いがあまり主張されなくなるであろう。新しい世代は、違いをもたらした根拠をあまりよく理解しなくなるであろうし、さらにはそれらを「時代遅れのもの」とみなすようになる。したがって、最初の小さな事から、続いてより重要な問題について、より古い確立された信仰存在理由を同じくしてしまう傾向を持つであろう』
    女子部のとき、大御本尊問題についてこだわるわたしに、婦人部幹部から「時代遅れね」と小馬鹿にしたように言われたことを忘れない。わたしを揶揄したのではなく大御本尊を卑下したのであり、御本尊に唾をかけても平気なこの婦人部は池田先生の忠実な弟子。
    ウィルソン博士の言葉は、創価の未来を暗示している。宗門が衰退する理由がよくわかりますし、その反面、700年以上も保持し継承してきたこと自体が奇跡に近い。古きものこそ宝ですが、それを正しく活かし、新しく時代を創造する人間がいない。聖僧や法主などの肩書が、何の役に立つというのでしょうか。永遠の指導者?……著しく欺瞞に満ちている。
    かつて「永遠に変わらない」と矜持を示した言葉と、どのように相違する「永遠」なのでしょうか。普遍性を有する真理であるからこそ、「永遠に変わらない」とご指導されたのではないのですか。自らの過去の言葉に復讐されている。都合が良いように、自己責任を自己放棄している。名誉と傲慢に侵食されている。毒気深入・失本心故とは、このようなことをいうのでしょう。御本仏は、「旃陀羅が子」と無名の被差別民として、自らを誇り高く呼称しましたが、その他に、それを凌ぐどのような肩書がありますでしょうか。永遠でない人が永遠の冠辞を付けて修飾し体面を保とうとする。本因妙の仏法ではないですね。
    最下層差別民であることを宣言し、あらゆる差別や不平等からの解放を示し、社会改革の原動力になることを御本仏は生涯をかけて証明しました。宗門の頂点に位置する法主が、御本仏の法体を継承していると主張するのであれば、被差別民としての自覚も引き受けなければならないし、差別と偏見に対する根本的解決法の実践、ジェンダーへの理解と社会に向けての意見表明と影響を推し量る聡明な英知も相続しなければならないでしょう。他宗教に対する寛容こそ世界平和実現への希望を示すものですが、そのような可能性への展望と教義解釈の柔軟性を、頑迷が取り柄の宗門に期待するのは無理というものです。
    宗門と創価の確執と反目は、このような差別への対応と、弘教への異論にあることを認識しておりますが、それは広く言えば在家と聖職者の対立という宗教に内在する歴史的な問題にも行き着くでしょう。宗義を保ち伝える行為には、年数を重ねるほどに権威と結びつきやすく、在家と聖職者の対立は、権威と権威否定の対立とも言えます。
    わたしから言わせれば、究極的に法主から法主に伝えられるとする宗門の得体の知れない血脈は権威の強調に他なりません。血脈の実体が不明瞭で、抽象的で、観念的です。説明至難であるがゆえに、特別な人から人に伝えられると説きながらリアリズムに徹しているつもりなのでしょう。即身成仏のメソッドを人事まで敷衍した慣例主義という趣です。慣例とは伝統とも言い換えることも可能。また血脈は解決不能な問題を産み続け、闘諍と諸悪の根源です。御本尊受持に必要なものは、以信代慧と説かれる智慧に裏付けられた信のみです。
    血脈を肯定するなにものかが肩書に備わっていると考えるのは、頭を丸めた坊主だけですが、創価もそれに近くなってきたのではないでしょうか。「自分は永遠」などと恥ずかしげもなく言うところに問題の本質があります。
    創価は、「魂の独立」を勝ち取ったと不安な気持ちを打ち消すように、常に自己確認作業を欠かしませんが、権威否定がやがて権威そのものに逆転するパラドックスのプロセスを歩みつつあります。御本尊認定権などという御本尊を見下した権威を主張しても、おかしいと考えない人間の頭の悪さを想像してしまいますが、それを無条件に受け容れる会員の無思料や理性も、仏教思想の理想からほど遠いものです。
    世俗化は進み、聖域を捨てて、効率的な事務作業によって創価は存続し続けるだろう。現実問題への積極的な関わりと変革を説く創価のような仏教は、たぶん多くの西欧の人々に受け入れられる素地を持つ。100年の間でその中心となる本尊を捨てた創価は、100年後、今度は人本尊も捨ててしまうかもしれないし、本尊が信仰の中心でなくなる可能性は否定できない。それを信仰というのかどうか、わたしにはわからない。どうせ100年後は生きていそうにないし、生まれ変わったとしても前世や前前世や前前前世も知ることができそうにないし、宗教でさえ虚偽という方便に満ちていることを深く考えずにいられない。
    秘妙方便とは、なんと絶妙な仏語なのだろうか。宗教の重要な本質的な部分さえ方便であり、その真理のうえに立つ創価の楼閣も、幻のように儚い砂上の夢のようです。

    Chopin - Nocturne No 20


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    自己を制し、他人を益し

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    創価勝利の年、あけましておめでとうございます。
    滔々と流れる時間に区切りはありません。気持ちのうえでは、革新こそ総てとテーマと目標をセットアップし、自分自身の怠惰な精神克服に挑戦していきたい思います。

    創価勝利は民衆運動です。その根底は強情な弘教の精神によって成り立っています。大聖人以来、迫害や非難をまともに受けながら、怯むことなく、パイオニアの誇りとたくましさで道を切り開いてきました。形あるものは崩れ、古きものは忘れ去られる時代の変遷のなかで、五十展転の法水は、源から流れ出た清浄さで、命の山脈から山脈を越えてきました。
    現代ほど難しい時代はないでしょう。普遍的なものが失われようとしていても、それについての十分な哲学的、批判的思考が欠如している。そもそも組織的都合が優先されて、宗教的信頼と確信、革命用語を多用しても、心は形骸化しているという有様。より良く生きるために苦難を強いられる時代は不幸です。同時に不幸の背景をたどるならば、現代人が抱える深い迷いと虚無、真理を共有することが不可能なほど、硬直し低俗化した思想の氾濫があります。基準もルールも自制もない無惨な排他性は、暴力的な闘争心を引き起こし、デリケートな心の肌を傷つける。人間が中心にいない人間社会とは、奇妙な星の奇妙な出来事なのでしょうか。

    『新しきヒューマニズム、人間存在の精神的価値は、人間自身のなかに求められるべきです。人間こそが、すべての尺度であり、あらゆる主義主張の真偽を見極めるうえでの、評価基準とならねばなりません』M・ゴルバチョフ(「二十一世紀の精神の教訓」聖教ワイド文庫)

    池田思想の核心ともいうべき「すべてを活かす哲学=妙法」の総体性、大乗的人間像は、近代的理性を超え、強靭な自由、自在な境涯を約束するものです。幸福とは価値創造。無限の可能性を信じることは、信仰だけが内包する奇跡と言ってもよいでしょう。そのために先生は、自己と他者をともに活かす対話を実践されてきました。

    『幾多の古今東西の偉人の箴言を通して、同志を激励してきた。日蓮仏法は「活の法門」であり、この妙法を根底とする時、すべてが無駄なく活かされていく・・・歴史上の、あらゆる偉人の英知も、人間を励まし、幸福にしゆく智慧の一分として自在に現代に活かし、実生活の上に活かし、価値創造していくことができる』(随筆「人間世紀の光」聖教・06年)

    実生活の上での自由な生活者としての意見は、仏法の本義に適うものです。中道の真理を理解しなければなりません。青年部の使命は大きい。
    過酷な時代背景のなかで、青年は悲哀と無理解に負けない柔軟な思考ができます。
    新しい発想ができる。
    苦しみに耐えることができる。
    自分を制御できる力を持つ。
    再試行する時間的余裕が十分にある。
    組織に埋没しない行動力がある。
    青年部の皆さん! 英知を結集することです。中央を待っていてはいけません。指示を待っていては、いくら祈っても信仰ではありません。

    自分の考えがない友人に言いたい。
    個人的な問題ではなく創価の特徴的人格を代表しているように思えるからです。
    あなたの意思は一体いかなるものなのでしょう。あなたは葦のように風になびき、空に飛んだ花の種のように、どこへ行きたいのか、どこで花開きたいのか見当もつかない。幸せになるのは戦いです。自分のことばかりではなく、他者に与えてこそ、人間の尊厳を感じることが可能なことを知ってほしい。人間は何がなくても、人生を支える哲学があれば生きられるのです。慈悲が、人間という生き物を、価値ある人間たらしめる唯一のものであることを知るべきです。それは、信仰に関係なく、人間であることの基本なのです。
    今、一番見過ごすことができないのは、自分の価値観を持つことにためらいがある生命の傾向性です。社会や組織の価値観で動き、自分を見失っている。自立と自律の精神が欠落しています。画一的な教育制度の結果でしょう。自己こそ最高に尊貴である、という思想は、個人尊重という表題だけは勇ましい戦後教育とは、似て非なるものです。
    問題意識が低い多くの会員がいくら集まっても、100周年の道程で必然的に生ずる課題に対し、適切な解決方法を選択できるのだろうかという危惧があります。
    ブッディズム・リカヴァリーという人間主義の行動は、新鮮な問題提起から生まれるものです。それは、池田思想研究がこれからますます盛んに行われるであろう世界的趨勢と同じくしています。まさに仏智という三世を見通す深い歴史への理解と人間精神の同調を表わすものと言えるでしょう。個々の祈りは、一人の人間の命の変革とともに、歴史を動かす力に寄与するもの。あなたの悩みは人類の悩みです。あなたの不幸は世界の不幸なのです。


    創価には創価風、創価的文字の使い方があり、ひとえに先生の文章、スピーチの影響です。弟子が師に似るのは仕方がありませんが、高度な法は、必ずしも、高度な人間を作るわけではないのですね。
    わたしたちが住む娑婆は、物事が相対し、並列し、差別を受ける世界です。悪は罰せられ憎まれ、善は称賛されます。人間倫理は、慈悲に依っているとはいえ、善悪は厳しく峻別されてこそ社会秩序が保たれます。仏教は慈悲を根本にした思想体系。慈悲が行為として現れたとき、自己を制御する法が深い喜びとなって実感できるでしょう。
    善悪一体と説くのは、法華経のみです。仏は悪を罰しない。慈悲をもってあわれむ。善と悪が、矛盾なく混じりあう心の泉。過去の峰から、伏流水のように湧き続ける自律の法が、善悪を越えた行為的努力を促し、自他を蘇生させるのです。すべてを受け入れる法華経は、母性の法です。
    『自己を制し、他人を益し、慈しみにみちた心が法であり、それはこの世及び死後における果報の種子である』(「中論」:龍樹)

    「以信代慧」は、釈尊とその後の聖者の実践的慈悲から導きだされた美しい言葉です。その光輝く言葉を、いつもまぶしく眺めている者は、竜女の意志を受け継ぐ無数のなかの一人・悩める子どもに変容したわたし。残念ですが、母のように、須臾として、他国を教化する神通力はございません。

    世界に慈しみがあふれ、幸福の花々が咲き乱れる一年でありますように。
    正義が実現し、不義や背信で善なる人々を奈落の底に引きずり込まないように。

    Sia - The Greatest 和訳



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    学会健児と戦陣訓

    台風21号被害、北海道地震へのお見舞いを申し上げます。
    ブログ記事を書くたびに、災害見舞を言わなければならない状況は、とても悲劇的であり、危機的だと思います。こういうときこそ冷静さが必要ですね。自然災害は予測できないところで起きますが、政治的に社会不安を解決できる要素があるなら、それに向けて努力すべきです。国民の我慢強さにも限界があります。
    おおよそ1年後に、公明党がもっとも熱心な消費税も増税される予定ですが、延期していただきたいというのが率直な感想です。庶民レベルの、年収400万以下(「年収ガイド」)の多くの国民が、さらに生活への不安を抱いていることに、政治家は思いもよらないのでしょう。公明党は国民を苦しめる悪党に変わり果て、いつから庶民レベルから高級志向になったのでしょうか。

    また不気味に続く災害を、相変わらず安倍首相のせいだとする会員の記事があり、狂信もここに極まれりというところかしら。創価の邪宗ぶりと自分だけ唯一正しいとする偏狭な考えは、創価が歩んできた歴史がそもそもウソにまみれているという証拠。会員の醜さは創価の未来を暗示しております。もうこういう人間は相手にしないこと、無駄に人生を消費しないように戒めなければなりません。

    スピリチュアルなアンテナを持っているわたしは、このごろの天候や気象のせいなのかわかりませんが、ときどき、虚しい気持ちがわきあがってきて、本を読む気もおきない。半年に一回とか、不意に学習意欲を喪失。わたしは勤勉さをずっと継続してきたと思ってきたのに、どういうわけか、虚脱感があるみたいだ。苦しいなかで勤行唱題して思うことは、創価に信仰の純粋さはないということ、教団経営があまりにも政治的な思惑とともに運営されていること。権威について十分な検討がなく、当然会員同士の議論は皆無だということ。
    ウイルソン教授が言っていたこと。
    『人生は決定すべきことで満ちており、したがって、人間は経験的事実に基づく知識以上のものを必要とします。人間は解釈を要求しますが、解釈には、情緒的な対応と価値観が必然的にともないます。宗教の教えの深さが発見されるのは、まさにこれらのレベルにおいてなのです。そして、宗教が、他の知識体系よりも幅広い範囲の体験に関与するのは、まさにこのためです』
    創価も世俗的な志向に満ちており、論理的に堅固に、宗教にふさわしい清浄明瞭さであっていただきたいと考えますが、高い理想と進路を高唱しながら、個人の可能性を最大限に実現できるアドバイスを心掛けているのか、いつも疑問に思います。宗教は空想でなく、日常という現実の再生行為です。精神を呼び覚ますものであり、わたしが異論を唱えるのは正統の単なる異型に過ぎないのに、むりやり形式的に型にはめようとする。宗教によく用いられる普遍的という定義は、再解釈への議論と変化への機会を、普遍的に保障するものという意味であってもらいたい。創価は、言論の自由を保障すると何度も言ってきたのではありませんか。批判や異論を許さない言論の自由はあるのでしょうか。
    理想は完全であっても、実践は矛盾と失敗が常につきまとい不満足な形にしか収束できないけれど、その欠陥を補佐してくれる組織は、寛容と慈悲に満ちていなければならないでしょう。

    8月24日の聖教に、いわゆる「靖国神社提灯奉納事件」の告訴をした旨の記事がありました。すでに厳密な意味での謗法を容認している創価にあって「謗法厳誡」と恥ずかしくもなく言うところに、苦笑を誘うようなおかしさがあります。日本全国の市町村には、伝統的な祭礼が独自の形態で存在しますが、それらはほとんど神社を中心にした信仰に由来しています。創価では、これらの祭礼に寄付し、参加する姿勢を、地域友好の必要な行動として積極的に承認してきました。同じ町内や隣人に、聖教啓蒙や選挙支援をお願いしなければならない活動上の理由から、町内のイベントや行事に対し、消極的なスタンスは禁物です。
    靖国神社への寄付行為も決して告訴するほどのことではありませんが、世法に無知な在家僧は、社会のなかでの信仰のあり方を苦慮している会員の気持ちを察しできずに、ヒステリックに、また形式的に反応します。会員の信仰問題や細部の感情などは二の次です。在家には在家特有の悩みがあるのですが、厳格さを主張し寛容をなくした聖職者は、社会の接点での教義の柔軟な解釈の必要性を認識することはありません。円滑な人間関係や振る舞いは信仰者の目的でもありますので、随方毘尼を主観的に曲解し、仏法本義さえ失わなければ容認するとしてきた創価の問題意識も、あいかわらず低級のまま。大御本尊まで否定しながら、中途半端な教義解釈に止まっているのです。
    牧口先生も、国のために亡くなられた方々に感謝するのは当然ということで、靖国に参拝しました。A級戦犯合祀問題もあり、戦時中と現在では事情が異なりますが、牧口先生の信条を適用すれば、靖国だけでなくあらゆる神社に拡大解釈できる可能性もあります。お賽銭なしの初詣なんて提案したら宗門も大騒ぎになるでしょうね。謗法意識がうすれ、その分、御本尊への信もうすれたということでしょうか。世界宗教を考えるうえで、謗法の定義も見直さなければならないと考えますが、ほとんど世俗化し習慣化した信仰形態にそれほど神経質になる必要があるとは思えません。
    ただこの「靖国神社提灯奉納事件」では、寄付をした本人が個人名ですれば個人的信仰問題の範囲のなかに収まっていたと思いますが、どうして創価の名前を使用したのか理解できません。祭礼に、個人がわざわざ創価の名義を持ちだして寄付しますか?
    謗法など無頓着な会員は、御本尊にも無頓着な会員と思われますが、創価は会員を告訴までして問題を大きくし、この顛末をどう始末つけるつもりなのでしょうか。それなりに健全な判断力と常識ある会員は注目していると思いますが、創価がその期待に応えることはないでしょう。愚かしい会員と愚かしい職員が織りなす滑稽な事件は、創価の上も下も全体の劣化を表わしているようです。

    8月24日は先生の入信記念日ですが、毎年のことなので新鮮さがありません。聖教を読む側だけでなく、編集する側もマンネリ化に襲われています。もうポスト池田が進んでいるのかもしれません。組織に必要なのは偶像化にふさわしいシンボルですが、永遠の指導者というイメージほど妥当な偶像はないでしょうね。わたしが関心があるのは戸田先生との出会いシーンですが、おそらく脚色されたものでしょう。「小説・人間革命」はフィクション部分が多いと思いますが、美化され、真実らしく作られているところに、創価の罪深さがあります。なにごとも視点を変えれば、邪も正になり、天地が逆さまになり、ウソも真実になります。
    しかし、アレンジされ作られたものでも、戸田先生と出会いをはたした座談会での山本伸一の質問はとても重要です。当時の一般的な青年の関心事を反映していると思います。創価の諸運動のなかでも平和運動は突出していますが、反戦平和への最初の出会いが、この質問にあるといってもよいかもしれません。結局、どのような問題意識を持つかということです。
    「正しい人生について」
    「本当の愛国者とは」
    「天皇について」
    国家が混乱するときにあって、哲学や思想の混沌と枯渇は過渡期とはいえ青年に失望を与えるものです。真の指導者に出会う幸運は滅多にないことですが、妙法は運命的ストーリーに満ちていることは言うまでもありません。入信は昭和22年のことですので、ちょうど二年前の8月は、日本国民全体が初の原子爆弾や終戦の体験をしていました。国土は焼け野原になり、多くの青年や男子が兵士として戦い亡くなりました。そのようななかで、上記のような質問に的確に答えられる人物に出会うことはほとんど稀なことと言わなければなりません。
    わたしも含めて現在の会員は、当時のことを思い描くことは困難ですが、その後の創価では、戦闘的な折伏が行われていたことが伝えられています。「折伏大行進」などという言葉に表現されるように、急激な会員増加は社会のいたるところで敵対や摩擦、確執を生みました。当時の会員が精神的な飢餓状態にあったこと、経済的な不遇にあったことは会員だけの問題ではなく、国民全体が精神的にも物質的にも貧しかったのではないでしょうか。
    軍事国家の強制から解放されたのに、創価の組織形態は軍隊式を応用したことは、とても奇異に感じます。「折伏大行進」は統制された性格を持ち、軍隊式行進と言えば言い過ぎでしょうか。目的は正しくても手段の選択に妙法的寛容心が感じられませんが、現世利益を求めるあまり、折伏を強行した貧しさは、それだけ生活も窮迫した苦しみがあり、火急の願いがあったのでしょう。この当時の一人一人の思いを正確に知ることは困難です。

    軍隊式は学会歌にも反映されています。歩調を合わせるように2拍子の学会歌は、手拍子も取りやすく、気持ちも前向きになる規則的なリズムです。
    特に草創から愛されてきた学会歌に「威風堂々の歌」があります。創価のホームページに紹介されている通り、京都の一会員が作ったものですが、その曲は軍歌を借用したと思われます。指揮を取るときの先生の独特の舞いは、昭和40年ごろから始まったと思われますが、適当にダンスしていることは言うまでもありません。その体操のような舞いもコミカルに見えるから面白い。それにビデオでは、自分を威風堂々と「先生」と呼ぶなんて、なんという配慮に欠ける遠慮のなさでしょう。
    威風堂々の歌」は、軍歌「愛馬とともに」によく似ています。(ニコニコ動画で再生できますが、音質は最悪です)現在のように著作権など思いもよらない時代でしたので、京都の一会員が、勢いに任せて借用したものと思います。その旨を注意書きしておけばよかったのではないかと考えますが、そのような用心深さや心配りがあるくらいなら、折伏も進まなかったのかもしれません。あるいは軍歌であることに後ろめたさがあったのかもしれません。手段の強引さは、ほとんど共産思想と同じです。中国と仲が良いのはそのせいかもしれませんね。
    現在、日中国交正常化提言50周年記念の一連の聖教キャンペーンのなかに、中国の非人道と宗教弾圧に関する言及は一言もありません。法華経の精神は虐げられる者、弱者への配慮だと考えますが、政治的思惑から菩薩の心を抹殺している。真の日中友好の力に成り得るのか疑問です。このような盲目的とも言える賛辞で飾る意図は、過去に畏まっていただいた多くの名誉に由来するのでしょうか。唯物国家が信奉する物量作戦に、まんまと引っかかっていると見えるのはわたしだけ?
    以前SGI提言(「第28回」2003年)で、善の沈黙は悪を助長するとして言語人(ホモ・ロクエンス)の面目にかけて、言論のつぶてを放ち続けると述べていましたが、忘れてしまったのでしょう。また「人間の安全保障」に触れ、その委員会の討議をまとめて、次のように訴えております。
    ①日常の不安を中心に置くこと
    ②最も弱いものを中心に置くこと
    ③多様性を大切にすること
    ④相互性を大切にすること
    自身の年来の主張とも重なるとして強く賛同していますが、すべてに違背している中国の人種政策を、人権侵害の脅威として、なぜ注意を喚起しないのでしょうか。誉めるだけの単なるオブザーバーに徹して黙認する意味は何なのでしょうか。
    それにその聖教キャンペーンでは、竹入元委員長の名前はきれいにデレ―トされておりますが、外交文書のなかでも、その功績が認められているのに、歴史の隠蔽とはまさにこのようなことをいうのでしょう。池田先生の嫉妬は激しいものと感じますが、称賛の影に憎悪やいやらしい妬みがあるのは、人間なら当然のこと。人格者であっても怒り狂うときもあるのが人間の本性というものです。仏だって、餓鬼や畜生の命が充満し支配されるときがあるのですから。




    ついでに学会歌を検索していたら、いろいろとヒットしましたが、今まであまりにも無知だったことを後悔しました。「同志の歌」は与謝野鉄幹作の「人を恋うる歌」と同じと思いましたが、さらにその原歌は「旧制第三高等学校寮歌」。このような使い回しは頻繁にあったのでしょうか。


     


    学会健児とは創価兵士のことです。折伏とは戦闘的行為であり、悲壮感を漂わせて決意するその姿は兵士に似ています。戸田先生が生死の境を生きてきたからといって、妙法流布もそのようにしなければならないというのであれば、そのための訓示をしなければならないのですが、まさか軍歌が使用されるとは、仏法が求める精神的気品も威厳もあったものでありません。それにも増して、祖国を亡ぼしたうえ師の命を奪った元凶であるミリタリズムの象徴「戦陣訓」とは、戸田先生の仏法理解も限界があったのでしょうか。


     


    歌詞は巧妙に原歌を援用しており、戦陣訓という非人間的な戦争体験をさらに強いているようです。どこに人間主義や法華経主義の生命尊重の思想が反映されているのか、はなはだ疑わしい。
    都合よく変えた歌詞を比較してみると、いかにその場しのぎであるかよくわかります。
    1957年(昭和32年)「大坂事件」で池田先生が逮捕されたとき、連日、拘置所の周辺では室長の無事を祈る姿があり、夜にはこの「日本男子の歌」を歌ったとの報道があったそうです。軍歌に等しい歌を熱狂的に歌う姿はときには狂気じみて、社会に恐怖を与えるくらい激しい。
    戦時中も国家主義という熱狂に支配されましたが、師弟不二も同じ熱狂の産物なのでしょうか。悠々たる沈着さこそ必要です。
    戦陣訓とは、ウィキペディアで概略が説明されています。軍人・兵士の行動規範であり、国家のために死も厭わないという忠誠を誓わせた東條英機陸軍大臣の訓令。内容は「軍人勅諭」をさらに解説したもの。その戦陣訓を徹底するために親しみやすい軍歌を作り啓蒙したと思われます。創価も、命懸けで何かを成し遂げるという好戦的な強制力を、化他行のなかに漂わせ、菩薩の闘争心を開放し会員増加をはかりました。選択肢がない手段を強行すること、ほとんど軍隊の行動力学と同じです。
    今月の本幹でも歌われましたが、創価の愛唱歌の一つに「大楠公」があります。哀調に満ちたこの歌も軍国教育のなかで尊皇と忠義の精神として強調されました。信仰と儒教的道徳心、現在で言えば、モラハラやパワハラが、なぜ美徳として重ねあわされようとするのか理解できません。
    学徒出陣のノンフィクションを図書館から借りて読んでいたら、次のような文章がありました。(「学徒兵の青春」学徒出陣五〇年目の答案:奥村芳太郎編、角川書店)
    『兵隊たちは、天皇陛下のために死ぬことを承知して入営するが、入隊する前の思想的基盤になっているのは「教育勅語」である。そのなかに「一旦緩急アレバ義勇公二奉ジ……」とあり、戦争の場合は、天皇のために自己を犠牲にして戦えと教えている。
    「軍人勅諭」は明治一五年(一八八二)の発布で、「教育勅語」より八年ほど早い。「教育勅語」が「軍人勅諭」の影響を受けていたことは、その内容から考えても容易に納得できる。この二つが学校と軍隊に浸透して、自発的に戦う国民をつくりあげたことになる。この二つを無視して戦前、戦中の日本人を語れない。昭和一八年(一九四三)になると、現場軍隊の天皇直属意識がさらに高揚され、服従を第二の天性として盲従するように要求されたのである。
    日本国軍は神格化された天皇を頂点として一大ピラミッドが形作られている。国法を超えるものといえば天皇の大権しかなく、「建軍の本義」は天皇を大元帥として直接に服従することである。統帥権の所在はしばしば「天皇陛下の命により……」という常套句によって強調され、上意下達を支えるのは厳正というより峻烈な軍紀である。軍学校出身の職業軍人たちは、いささかの疑いもなくこの言葉を使用した。
    学徒兵は従順な一般兵隊と天皇親率にこり固まった士官学校、兵学校出の将校や、野蛮な下士官の間にあって、どちらに対しても距離を置いて見るという習性を持っていた。だから、わずかな軍隊生活のなかで、その大きな組織を、表からも裏からも見ることができた。
    軍隊生活に順応する第一歩は、「軍人勅諭」を真っ正直に受け入れることである。一般の兵隊たちは、「上官の命を承ること実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」を守り、理不尽な上官の命令も天皇陛下の命令として服従する。自分で考えて行動し、自分に責任を持つ発想は許されないから、道徳的責任を負うこともないのである。無批判を習性とする部下は、上官にとっては便利な存在で、人格や人権があっては困るのである。それ故に良質な指揮官が望まれるのである。だが、戦闘中も安閑として後方で、将棋の駒のように、命令を乱発して、軍隊を動かしておれば済むと考えていた高級職業軍人たちは、学徒兵を含めた市民兵たちをどう見ていたのであろうか』

    『撤退の際は「病兵は銃殺せよ」という私に対する上官からの命令を察知して「天皇陛下万歳」と遺書を残して自決した兵士がいました。その遺書には家族のことについて何一つ書いてありませんでした。彼は死ぬ最後の最後まで、本音をいわず建前だけの人生を送ったのです。私はこうした兵士たちに接するたびに「なぜ、なぜ、天皇のために死ななければならないのだ」と心の中で叫んでいました。
    ルソン島のジャングルのなかで、食糧もなく援軍もなく、「天皇のため、国家のために戦え」と部下たちを叱咤していた最高司令官たちはいち早く内地に逃避し、残された司令官や参謀たちは、安全な奥地に食糧を確保し、自分のベッドまで運ばせ隠れていました。前線に送られた私たちは、毎日、熱帯病と飢えで多くの戦友を失い、友軍同士がわずかな食糧を巡って、撃ちあい殺しあい、明日はわが身と予感しながら、何のために戦っているのか、という疑問にとりつかれていました。
    守るつもりの、そのために戦おうとする家族たちは遠い内地にあり、ジャングルのなかにいる私たちにはなすべき方法がありません。それでも、そのために戦わなければならない「国家」とは何か。国家の前には一人の生命など問題にならないということを、私は戦争体験を通じて知ることができました』


    体験した者の言葉は重い。わたしは天皇制への嫌悪はありませんが、自衛権を認めない現在の憲法への改正の必要性を強く感じております。
    「戦争ほど悲惨なものはない」そんなことを言う前に、その戦争で使われた常套句や戦争歌を、なぜまた使用するのか。弘教する自らの姿を、戦う兵士の姿へ同化させている。
    わたしはもう学会歌を歌うことはないと思うので、無知だったことを恥じてはっきり言いますが、「威風堂々の歌」にひそむ戦争犯罪者を思わせる戦意高揚の欺瞞性を、わたしの身体のなかから永久に除外する。会員はあまりにも不感症過ぎます。

    あゝ紅の血は燃ゆる


    「紅の歌」があるのですから、歌詞を書き変えて「創価版・あゝ紅の血は燃ゆる」があってもおかしくありませんが、「戦陣訓の歌」と同じように、この歌によってどれほどの学徒兵が死地に赴いたか、気楽な会員は思いもよらないのではないでしょうか。
    そのことを少しでも考え、過去を悔いたなら、軍歌血筋の学会歌を歌うことはできません。
    著しく会員登録も減っているのに、創価は平和団体などと大きな顔して恥ずかしくないですか?


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    太陽の仏法 4

    人間って、ときには悪的要素が必要なのではないかと考えたりしますが、善良でばかりいることはあまり面白い人生ではないのじゃないかと、法律うんぬんとかの問題ではなくて、ワルのポテンシャルがときには現状打破のエネルギーになるかもしれないと、このうえなく純情なわたしは、時々考えるときもあるんですよ。もちろん悪を容認しているわけではありません。世のなか複雑すぎて、擦り切れるように気持ちも萎えていきます。持続性に課題ありですね。毎日は容赦なく続いていくわけですから、自己エンジンのメンテナンスも欠かさずに、向上への意欲をフォローアップしていきたい。
    決まったエクササイズはしていませんが、柔軟体操とベッドでヨガ的集中姿勢の堅持で、気持ちを整理するのがデイリー・ルーティン。つまり、心身ともにリフレッシュして、次の戦いに備えようとの善き心掛け。ハッピーラインはまだまだ遠い!

    異常な暑さが続き、日本列島全体が大きなフライパンのうえで熱せられているようです。死者も増えているこの殺人的暑さは、総罰のせいで、魔神が神社で暴れている結果なのでしょうか。この異常気象は世界的で、各地で被害をもたらしているようです。地球が灼熱地獄と化していますが、気象庁も警告を発するぐらいなら、創価に頼んで、神仏の加護を祈ってください。
    また、総罰を主張することで、オカルトまがいの超自然の力を畏怖するイメージが思い起こされます。このようなスピリチュアルで霊的な神秘性は、理性的な論理を大切にする宗教が、もっとも嫌悪する現象です。創価の一部の人間の主張は、宗教の非科学性を強調しており残念でなりません。いつまでたっても宗教の害毒から抜け切れず、組織の醜い低俗性に反映されます。
    会員の師である池田先生は、ずっと科学的であり、理性的ですが、弟子は不勉強のうえオカルト好きに加え、非人間的な断定を下して平気。仮面を被っているような冷酷さです。その冷酷さに追い打ちをかけるように、台風まで上陸してきました。もしかしたら、大御本尊に唾をかけた創価が、不吉な魔になっているのではないでしょうね。

    産業革命以来、科学技術の発達と経済のグローバル化は、人類にその恩恵をもたらしました。その反面、温暖化という人類に壊滅的な結果が想定される気候変動の脅威も増加しました。
    第43回(2018年1月26日)SGI提言で
    『SDGsでは、貧困や飢餓や教育をはじめ17分野にわたる目標が掲げられていますが、この中で近年、国際協力の枠組みづくりが進んできたのは、気候変動の分野です。
    昨年11月、地球温暖化を防止するためのパリ協定に、唯一の未参加国だったシリアが批准しました。脱退の意向を示しているアメリカの今後の動向が課題として残るものの、世界のすべての国が温室効果ガスの削減に共同して取り組む体制が整ったのです。近年、異常気象が各地で相次いでいますが、その脅威と無縁であり続けることができる場所は、地球上のどこにもありません。
    干ばつと洪水による被害や海面上昇の影響などで住み慣れた場所を追われる「気候変動難民」の数も増加しています。温暖化に歯止めがかからなければ、最悪の場合、2050年までに10億人が移住を強いられるとの予測もあります。  
    パリ協定は、そうした深刻な脅威から多くの人々の生活と尊厳を守る命綱となるだけでなく、将来の世代のために持続可能な社会を築く土台となるものです。  
    発効から4年以内(2020年11月まで)は、どの国も脱退できない仕組みとなっており、アメリカがこのままパリ協定の枠組みにとどまって、各国と共に目標の達成に向けて行動することが強く望まれます』

    解決に向けて努力する、世界の科学技術者や政治家や人道的活動家などをあざ笑うかのような、魔神のせいだの、日天のせいだと考える会員が未だにいることが驚きです。師は各国の誠実な協調と問題意識の共有を訴えていますが、弟子は諸天が怒っているせいだと、まるで狂信者のようです。末法の因習深い終末思想は命深く染みついています。
    いったい創価の宗教教育はいかなるものなのでしょうか。
    賢明な会員を育てるために役立っているのでしょうか。
    魔神のせいにして何かが解決するのでしょうか。


    ◇◇◇


    太陽の仏法」という比喩は、池田先生がスピーチや文章によく用いる表現です。万人に平等に恩恵を贈る優れた妙法を顕し、日蓮の御名前にも通じてイメージしやすい言葉です。悩める人に希望を与え、信じることの崇高さで、社会全体の変革をも可能にする妙法は、公平でフェアな中道思想です。人間は平等であることで、本来具わっている生きる強さを発揮できるようです。ポジティヴな自分自身を発見し、また自分以外の不安や苦痛に対して、同苦する思いやりや慈悲心を、積極的に涵養する人間的大きさにも通じます。あらゆるものが「太陽」という万人が認める喜びに凝縮することでしょう。太陽の光は、万物を育むと同時に、自分の胸のなかにも輝いている命のきらめきです。また太陽は御本尊そのものであり、信仰の根本です。


    平成3年12月15日
    川崎文化音楽祭/広宣の舞台で戦う人は皆美しい
    『血脈の本義について、少々述べておきたい。
    日有上人は、「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動せざれば其ノ筋目違ふべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず、(中略)高祖已来の信心を違へざる時は我レ等が色心妙法蓮花経の色心なり、此ノ信心が違ふ時は我レ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず、一人一日中八億四千の念あり、念々中の所作皆是レ三途の業因と」(「化儀抄」富要一巻)
    (信といい、血脈といい、法水ということは、同じことなのである。信心が動かなければ、その筋目は違うことはないのである。筋目が違わなければ、血脈・法水は違わない(正しい)のである。(中略)大聖人以来の信心を違えない時は、われらの色心は妙法蓮華経の色心である。この信心が違う時は、われらの色心は凡夫の色心なのであり、凡夫であるゆえに、即身成仏の血脈ではないのである。一人が一日に八億四千の念々を起こす。その念々の所作が皆、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の原因となるのである)とお示しになっている。
    つまり、「信心」と「血脈」と「法水」とは"同じこと"であると――。むずかしいことは何もない。信心が動揺することなく、「正しい信心」を貫くところに、血脈が誤りなく流れるのである。
    大聖人以来の信心を少しも違えずに実践する時に、われわれの色心は、仏の血脈が流れる妙法の当体となって、その身そのままで成仏できる、と。反対に、大聖人の仰せに背き、信心が狂った場合には、すべての行為が三悪道に堕する悪業になるのである』
    『さらに、この御文について、日亨上人の註解を参照しておきたい。
    「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・撹乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし」(「有師化儀抄註解」富要一巻)
    要するに「正しき信心」をつらぬきゆく時、御本仏日蓮大聖人から信徒の生命へと法水が流れ通う。それを信心の「血脈相承」というのである、と。(中略)
    ご指南は明快である。大聖人、日興上人以来の信心・実践を少しも踏みあやまたない時に、われら凡夫の色心が妙法の当体となるのである。
    反対に、仏意に背いて邪信、迷信となった場合には、血脈の流れる通路がふさがってしまうため、血脈を継ぐ「資格」が「消滅」して、堕地獄の道をたどることになる。破仏法の人間は、だれであれ、事実のうえで、即身成仏の血脈を受ける資格を喪失しているのである。
    仏法の根本は、どこまでも「信」である。地位でも、権威でもない。「信心」の二字にこそ、御本仏からの血脈は通い、生き生きと脈打つのである。
    もしも信心を失い、信心が狂った場合には、立場が高いほど、むしろ厳しく「法」によって裁かれることは間違いない。「信心の血脈が切れる」などと脅しているほうが、じつは血脈が切れているのである。絶対にだまされてはならない。
    創価学会の「信心」は何ひとつ変わっていない。動いていない。変わったのは宗門のほうである。大聖人以来の成仏の血脈は、私どもに脈々と流れていることをいよいよ確信し、悪僧たちを見おろしながら、朗らかに、堂々と、前進してまいりたい』


    日亨上人は別の文章で、「薄信」「臆病」の信心で法難を招かないような門下は、「非日蓮的」であり、大聖人の御本意から遠い卑怯者であり、門下でもない、と厳しく断言されている。正本堂、大客殿をはじめ信徒の真心をことごとく裏切った宗門は、日蓮の正統を名のっていても、大聖人の門下ではありません。
    上記の長い引用は、血脈について、あるいは法水について、当然と考えていることを当然のように、スピーチされたものです。信仰であるかぎり、僧であれ在家であれ、信に重きを置き、信が中心にあるのは、誰が考えても当たり前のこと。その信の流れに堰を作り、石をならべて障害を作り、素直で直情的、ありのままの信を遮断するように、人為的にせき止めているのは、僧がもったいぶった儀式中心の形式主義者であるからです。いかにも苦労しているポーズを装い、何も言わない御本尊すら騙そうとしている。
    日蓮が信徒に寄せるかぎりない優しさと、激しい革命精神を持った僧は、宗門のシステムのなかでは育たないでしょう。師が秀れていれば弟子も秀れているとはかぎらない。師が凡庸であれば弟子は凡庸であること、ほとんど不可避です。絶えざる向上の源泉として御本尊と信仰を保つこと、少しでも日蓮の御心境を考え、そこから学ぼうするなら、教義に対しいい加減な姿勢では、正しい信仰者とは言えないでしょう。
    池田先生は、「創価の信心は何ひとつ変わっていない」とスピーチされています。大御本尊に対し、御本仏に対し、動揺することなく、変化することなく、信仰に対する態度は、今までどおりにこれからも、変わらないと言っているのですよ。このようなメッセージを、過去のものとする会員の便利な言い訳は、教義について、ほとんど何も考えていない証拠でもありますが、池田先生も自分の言動に責任を持たないいい加減さの証拠でもあります。真面目な会員を偽っている。
    「動いていない、変わったのは宗門のほうである」池田先生のご指導を無にする弟子が、動揺したあとで、師弟不二を主張するのですから、もはや何をか言わんやです。自分の矛盾する過去の言動を恥ずかしく思わない厚かましさに、創価の根本的な問題があります。はたして血脈が流れているのか、大いに疑問ですが、大御本尊への信受を否定したところから、創価の迷走は始まりました。道理に適わない信仰は、瞬く間に不幸とともに邪宗に転落します。そのように三代の永遠の指導者が、永遠に変わらないと確信を込めながら、ご指導されてきたのではありませんか。
    血脈について、これ以上のことは言うべきことを知りません。血脈とは、正しい御本尊への強情な信仰ということなのです。それ以外に血脈はありませんが、御本尊とは、一閻浮提総与の大御本尊より他にありません。


    平成3年12月23日
    荒川・立川文化音楽祭/広宣の聖火を偉大な庶民の都から
    寺院での御授戒の経緯について詳細を述べたあと
    『戸田先生は昭和二十九年(1954年)七月の本部幹部会で、その実態の一端を述べておられる。
    「地方に、一軒の正宗の寺があった。学会の地方折伏の趣旨を話したが、『勝手にやりなさい』となんら助けてくれない。しかたがないので、(聖教)新聞とチラシをもって、一軒一軒まわった」と。
    ほとんどの僧侶は、学会の折伏・弘教の活動に対して無理解であり、むしろ批判的でさえあった。その後、学会による折伏・弘教の進展とともに、全国の寺院でも御授戒が行われるようになっていった。
    同じ牧口門下生の柏原参議会副議長は「なかには、やり方をよく知らない僧侶もいて、学会の幹部が教えてあげたこともある」と述べている。
    また、"謗法払い"も、学会が厳格に実践し、定着させた。総本山内の謗法払いまで、学会の力でやったのである。
    「宗門がどんなに威張っても、全部、学会が教えてやったんじゃないか」と、牧口門下生は皆、語っていた。
    これが、正宗で「御授戒」が行われるようになった経緯である。信仰の"けじめ"の意義で御授戒の儀式は行われていたのである。本来、その形式自体が絶対に必要というものではなかった。
    大聖人の仏法の「受持即持戒」という本義からいうならば、御本尊を受持した時、または、最初に御本尊への信を起こした発心の時が、末法の戒を受けた時といえるのではないだろうか。
    さらにいえば、本来、戒とは"授けられる"ものというよりも、自身の決意で主体的に"持(たも)つ"ことに眼目がある。発心を持続することが、戒を持つことになるのである』

    宗門のだらしなさは、僧の傲慢に起因しています。信への傲慢さであり、行の傲慢さであり、学への傲慢さです。修行者としての必要な堅実さを放棄し、始めから終わりまでのトータル的な過程での傲慢さです。信徒の健気さをバカにし、あってはならない信仰の慣れから安易に結果を予想して、妙法の功徳を矮小化し卑下するものです。キャラクターに不釣り合いな権威や権力を手にすると、なにを勘違いするのか、尊大さだけが身に付くようです。僧は不必要であるけれど、出家としての純粋さを維持できるなら、求道者として尊敬を集めるなら、広布のリーダーとして認められるでしょう。
    まず、在家の供養を当てにしないで自給自足を心掛けるべきです。シンプルで、ストイックな生活にこそ、求道者の真実があります。信仰態度は生活態度に反映されます。出家者の真剣さに、在家は心打たれることでしょう。
    御授戒の由来を語っておりますが、化儀として定まったものがなかったのかもしれません。あったとしても一般的でなかったために、僧自身も知らなかったということでしょうか。
    宗門は勤行ひとつとっても、五座三座を主張しますが、時代にそぐわないことは明白です。そもそも勤行は儀式形式の最たるものです。個人的な意見ですが、勤行は個人の裁量に任すべきです。主要な勤めは唱題です。より簡易な修行方法にこそ妙法の醍醐味があり、大乗の精神があるでしょう。
    化儀は妙法の本質ですが、十分な理由のもとで変化することもあるでしょう。日有上人は、化儀抄で御指南されておりますが、偏狭に解釈すべきではありません。
    『貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか』
    差別なく同等であるとご指南されておりますが、「上下の節」「其の位」「礼儀」とも言われております。僧俗の組織上における互いの役割としての「上下」であり、その理解と尊敬は、御本尊崇敬への気持ちから発揮されます。一般的、社会的「上下」であり、宗門にのみ通用するような「上下」ではありません。人間としての礼節としての「上下」です。法は常識外にあるのではありません。法が尊貴であるがゆえに、その法の実行者への賛美と尊重であり、「人の振る舞い」の表れです。広布はそれぞれがその役割を果たすことが必要であり、労苦への菩薩としての礼節です。御本仏が願い望んだ理想の組織は、平等な理念と尊敬が溢れている組織です。
    「礼」は仏法の真髄にも通じています。他者の存在に礼を持って敬意を払うこと。異なる他者、文化を尊重することは、平和的共存の基本です。日蓮は、立正安国とともに、社会の安寧を求めました。その社会の基本原則は他者への懐疑ではなく、他者を尊重する行為への信頼です。
    妙法が世界宗教へと飛躍するためには不平等思想は禁忌のなかの禁忌です。そのような社会習慣と差別意識を克服するための妙法ですが、宗門の古臭さは、伝統を重んじるあまり、法の柔軟性を放棄、順応性もありません。宗門の僧が、イスラム圏やキリスト教地域で、弘教する姿を想像できません。日蓮は日本から世界へと流布する世界宗教を望んだのであり、各分野で活躍する在家の実行力が問われる時代であることを、宗門の石頭も知るべきです。僧の無力さは自覚なき無力さです。無惨としか言いようがありません。早い話、大御本尊と三大秘法が不変ならば、他は臨機応変に変化しても一向にかまいません。円教(法華経)の大いなる肯定主義は、妙法的ヒューマニズムということ。他者の理念と信条への尊厳と肯定こそ、世界平和へのキーワードです。

    大御本尊は「一閻浮提総与」であられる。全民衆の幸福のための御本尊であられる。その大御本尊が書写された、会館や皆さまのご家庭の御本尊も、御本尊としての御力に、何の違いもない。
    また、仮に御本尊を拝せない場合も、強盛な信心の唱題は、大御本尊に必ず通じていく。妙法は全宇宙に遍き大法なのである』

    妙法の信仰者としてこれ以上の何を付け加えることがありましょうか。このために受持したのであり、無二の信心を貫くことを誓ったのです。わたしはその信念を変えることはありません。創価の、池田先生の身勝手さに左右されることはありません。やがて、大御本尊への反逆者としての不名誉を勝ち得ることができるでしょう。


    平成3年12月26日
    沼津文化会館を初訪問/学会の「宗教革命」の正しさ確信
    『正本堂が完成する前、本門戒壇の大御本尊が御安置されていたのは奉安殿である。これは、学会によって建立寄進された最初の建造物であった。
    昭和三十年(1955年)十一月二十三日、奉安殿落慶の折、戸田先生は、挨拶のなかで、こう語られている。
    「学会は、日蓮大聖人の時代に還れ、大聖人の弟子檀那に還れというのが、私の主張であり、信念であります」(「戸田城聖全集」第四巻)と。
    学会は「日蓮大聖人の弟子」である――これが大御本尊の御前での、戸田先生の宣言である。
    奉安殿ができる以前、大御本尊の御開扉は御宝蔵で行われ、お目通りできる人数も限られていた。奉安殿への大御本尊のお出まし――それは、学会の前進とともに大聖人の仏法が、いよいよ広宣流布へと向かう一大転機であったといえよう。
    日昇上人は、奉安殿の落慶にさいして、次のようにお述べである。
    「今亦ここに戒旦本尊奉安殿を建立寄進し以て本宗究竟の帰趨たる本門戒旦本尊をして永久に安穏ならしむ其の功大なる」(戸田先生への賞状)と。
    すなわち日昇上人は、学会によって、本門戒壇の大御本尊が、永久に安穏となられゆくことを心から喜ばれた。そして、仏法上「その功は大きい」と、心からたたえられたのである。
    また、日淳上人(当時、重役)も、奉安殿を御覧になり、「戒壇の大御本尊が御宝蔵から宝輦(宝で飾られた輿)にお乗りになってお出ましになった」と喜ばれた。
    さらに、日達上人(当時、庶務部長)は、落慶式の閉会の辞の中で、奉安殿建設に協力した寄付者名簿(百数十冊に及ぶ)を指されながら、「これ(名簿)は(大御本尊御安置の)須彌台に向って正面の右側が庫になってをりますから、この中に秘蔵致し、この奉安殿と共に永久に保管されます」と、学会員一人一人の真心に応えて述べられた。
    私どもの真心の「真実」は消えない。広布の歴史に永遠である。その福徳も永遠にちがいない』

    貧しかった多くの会員の真心……自分の家より大御本尊のお住まいを……が、結局どうなったのか。永久に保管されると約束しても、僧の憎しみの対象になり、破壊されたのではないでしょうか。創価も一貫性に問題がありますが、宗門はそれ以上に本末究竟等していない。日蓮の継承者とはとても思えません。仏教という井戸のなかで生息してきた蛙の一種で、仏法即世法と説きながら世間知らずという奇怪な有様です。

    『大御本尊は「一閻浮提総与」の御本尊であられる。全世界の民衆のために与えられた御本尊であられる。
    ゆえに「全世界への道」を開きに開いていくことが、大御本尊を真に奉じゆく実践となる。現実に「道」が開かれてこそ、大御本尊と世界の民衆が結ばれる。日蓮大聖人の「一閻浮提総与」との御心を実現しゆくことになる。
    この「世界への道」を開いたのは創価学会である。
    「道を開く」と、ひと口に言っても、なみたいていの苦労ではない。歴史的に仏教と無縁の国もあれば、敵視している地域もある。文字通り、命がけで開いてきたのである』

    情けないほど臆病な僧が、敵視している国々に、これから弘教していくのでしょうか。700年の間、日本から出ることがなかった御本尊も、創価の名もなき人々の篤実な行動と使命によって、少しでも開かれてきましたが、宗門は、創価を破門してから27年、敵視している地域に、その一歩となる牙城を築くことができたのでしょうか。御本仏もなぜ、後世をこのような憐れな人々に託さなければならないのか、その御真意が計りしれません。
    上記のスピーチは、ブーメランのように、全部自分に返ってきます。信徒を大御本尊から引き離した宗門も、その罪から逃れることはできません。正しくても栄えることはありません。民衆仏法であることを忘れています。池田先生も、創価の皆さまも、日蓮大聖人の時代に還れと叫ばれた、戸田先生の御精神を思い出すべきです。大御本尊を離れて信仰の本道はないでしょう。


    Shostakovich Symphony No. 5 fragment

    ショスタコーヴィチ : 交響曲第5番「革命」第4楽章




    (Wikipedia)から引用 .......................................................................
    1936年、スターリンの意向を受けたソビエト共産党の機関紙「プラウダ」が、ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を「音楽のかわりに荒唐無稽」、バレエ音楽『明るい小川』を「バレエの嘘」と激しく批判する。当時のソ連の社会状況を考えれば、これは単なる芸術作品の批評にとどまることなく、最終的に作曲者のショスタコーヴィチ自身を「体制への反逆者」として貶めることへまでつながっていった。
    かつて「モーツァルトの再来」とたたえられたショスタコーヴィチも、この批判によってソ連における基盤は微妙なものとなった。これにより、当時精力的に作曲をしていた交響曲第4番も、作曲者自身の意志で初演を直前に取りやめざるをえない状況になった。またこの時期、スターリンの大粛清によってショスタコーヴィチの友人・親類たちが次々に逮捕・処刑されていった。このような厳しい状況に晒される中、ショスタコーヴィチにとっては次の作品での名誉回復が重要であったことは明らかだったと見られている。その作品の一つが、この交響曲第5番であるとされる。なお、近年の研究では、名誉回復のためというよりも、当時のソ連の不安な社会情勢がこの新しい交響曲を書こうという刺激を与えていたのではないかとの説もある。
    交響曲第5番は、第4番などに見られるような先進的で前衛的な複雑な音楽とは一線を画し、古典的な単純明瞭な構成が特徴となっている。この交響曲第5番は革命20周年という「記念すべき」年に初演され、これは熱烈な歓迎を受けた。
    ソ連作家同盟議長アレクセイ・トルストイによって「社会主義リアリズム」のもっとも高尚な理想を示す好例として絶賛され、やがて国内外で同様に評価されていったため、交響曲第5番の発表以後徐々に、ショスタコーヴィチは名誉を回復していくこととなる。
    ...................................................................................................


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