創価の未来を暗示

    dialogue.jpg池田国際対話センター(http://www.ikedacenter.org)がジョージ・メイソン大学と共同で25周年の記念出版を行ったことが、1月19日の聖教に報道されておりました。タイトルは『対話を通じた平和構築――教育・人間変革・紛争解決』。センターの創立者である池田先生が序文を寄せ、『他者を無意識に分別し、優劣をつけようとする、自らの「心の壁」を超克し、人々を「彼らと我ら」「敵と味方」などの対立の図式に落とし込む "二元論" の危険を、鋭く見抜かなくてはならないと強調』、『全ての人に無限の可能性と尊厳性が具わると信じる人間観こそ、差異を超えて平和と共生の道を開くと訴えている』
    著名な大学の教授や専門家が、対話が持つ力を様々な視点から検討しているだろうこの本は、論文を寄稿しているその時点で、多様で誠実な対話が成立している。時流に左右されない平和への行動と "人間的側面" への洞察、複雑な状況を整理し、関係回復と和解を促す対話への信頼を訴えている。日本語訳を出版していただきたいというのが切なる願いです。

    ブログ『Diversity』が復活しました。対話を強調されておりましたが、主に地区や支部といった小単位のなかで、ポジティブで持続的なトライアルは、成果や効果はあったのでしょうか。実験的な英知で挑戦する意欲こそ、現在の創価に失われたものです。その曙光を少し眩しく見ていたのですが、そのような試みをこころよく思わない組織信仰者の苛斂(かれん)管理を乗り越えることができたのでしょうか。わたしが想像する圧政への反逆者という古びたパターンも画一的で類型的ですね。リニューアルしたい気分もわかりますが、組織は簡単に新装開店とはいきません。創価はリノベーションの歴史でもありましたが、安定期に入り秩序が優先され、あるいは衰退期に入って内的動機が停滞しました。熟しやがてクサルという原理は、宗教においても世界共通のようです。また秩序を重視するあまり上意下達の徹底があり、信仰が求める自由に、制限が加えられたと考えるのわたしだけでしょうか。
    『Diversity』でも取り上げて、今でも覚えている記事があります。ブライアン・ウィルソン博士の論文を引用した、極めて真面目な創価評論です。池田先生とウィルソン博士の対談集が出版されたのは1985年のことです。トインビー対談から10年の歳月が経過しておりますが、ある意味、健康を維持するための健康診断と同じように、専門家に宗教の健康診断を求めた対談とも言えます。権威ある宗教社会学者の評価は、おそらく宗教界に衝撃を与えたものと考えますが、ウィルソン博士のその後の論文も良心的な研究者の賛辞に満ちたものということができるでしょう。これは聖教にも掲載されたということですが、わたしには記憶がありません。もっともそのころは聖教も読んでおりませんでしたが。同様の内容と思われる講演論文が東洋哲学研究所のアーカイブで閲覧できます。
    『現代西洋における創価学会運動』(1998年)と題された講演は、けっして過去のものではなく、現在を見通した透徹した英知に支えられております。
    講演では、キリスト教の禁欲倫理を概観しながら、プロテスタンティズムの合理性と申し合わせたように合致したことを述べております。このことは西洋社会の基本的な理解ですが、日本人の特質に近似しているとも言えるでしょう。例えば、質素や倹約といった美徳、自己抑制が顕著であり、うらおもてがなく品行が正しく清潔であることなどの模範的人格像は、禁欲倫理の一つの表れですが、宗教的伝統が反映していることは言うまでもありません。
    自己抑制とは厳しい自律的精神の表出とも捉えられますが、社会から制限された禁欲倫理とも言えますので、見方によっては来世を懇願した他力依存とも言えるでしょう。
    宗教が必然的に変質していくプロセスは本質的なものですが、特に経済的豊かさ、科学技術の発展によって、その変化は否応なく訪れました。このことについて講演では、次のように章を締めくくっております。
    『このようにして、新しいタイプの宗教、つまり新しい経済的インパルスに倫理的に一致し、他方で、精神的宗教的レベルでヒューマニスティックな方向性を保った宗教的精神を好む、社会的雰囲気が生まれていったのです』

    人間にとって大切なのは常にバランスです。愛も過剰になれば破滅し、慈悲も過剰になれば相手を束縛するものに変化していくでしょう。信仰は抑制と過剰のバランスをとるものですが、ウィルソン博士が指摘する創価学会運動は、現世的喜びを保証し、自己解放と自己抑制の調和のバランスを保っていることです。
    『創価学会は、それら(禁欲的宗教伝統)とは異なった道徳的伝統を代表しており、抑制と報酬の間の新しいバランスを示していました。――つまり個人の行動と満足の間の関係に対する異なった論理を提供していたのです』

    そして、創価の魅力の源泉を詳細に分析しています。
    1.通常の人々による在家運動であったこと
    2.実際主義、実用主義的理念を強く持っていること
    3.救済という概念に多様な形式と解釈を示したこと
    4.現世を肯定する志向性を持っていること
    5.様々な道徳的規制の代わりに、一般的な個人的責任倫理を強調したこと
    6.在家組織であるために古い教会制度や寺院制度から解放されていること
    7.戒めるためではなく、自信を与えるために指導と助言がある
      (注:座談会を相互カウンセリングと表現している)
    8.創価は外向的宗教であり、芸術的表現を持ち、文化的社会的活動を支援している
    9.行動的な性格を持ち、他の人々に対して積極的な関心が強く、信仰を促そうとする
    10.創価の理念全体が人生を肯定的に捉え、幸福を正当と見なす。罪を教え、悲劇や苦難に遭遇すると懺悔することを説くキリスト教と相違して、罪の概念がない。

    仏法には、罪の概念がないと言っても、罰の概念があります。創価では特に強調され、不利益や運、宿命論、あるいは否定的に人格攻撃に使われ、多くの信者は常に正しいかどうかという正常性バイアスに絡み取られる。カルト宗教の特徴を短く要約すると、自分たちの運動を絶対的な客観性で正しいと確信しているところで、とても感情的です。言葉では普遍性を主張しながら、実体がないという矛盾に気づくことがありません。
    社会悪を生んでいるかもしれない一政党の政策にも検討することなく無条件に賛同し、選挙運動も宗教活動の一環であるという正常性バイアスからはみ出すことはありません。厳密に言うと、宗教心のたまものである冷静な自己評価も正しくできるかどうかあやしい。自己評価があやしいといえば、何が基準になるのだと反問されそうですが、自己評価を評価するという多重のチェックが人生というものではないでしょうか。ウィルソン博士が言うところを要約すると、正常性バイアスから共感性バイアスに転換することを願っているように思う。
    イギリスSGIを研究したウィルソン博士は、メンバーの特質をまとめております。
    - メンバーは、仏教徒でない人々から、挑戦的な意見が出されることを歓迎する。
    - そのような対話の機会は、信仰の自己確証の機会であると捉えている。
    - 仏教の教えをもったいぶって話す人に対しあからさまに嫌悪の情を表現することがある。
    - また見解の相違に対しては未決定のまま、それ以上追求されることもない。
    - 人為的な満場一致を作り出そうとしない。
    真実を追求し、公平にジャッジするウィルソン博士が書き残してくれたことを感謝したい。
    イギリスSGIは寛容でも、日本では受け入れられることはないでしょう。
    フランクでオープンなスタンスは、対話の場にあって最も必要な振る舞いではないしょうか。偏見や既成観念、排他性こそ、心に深く突き刺さった矢です。

    ウィルソン博士は、同じ年に行われた東哲セミナーにおいて、『新宗教・その直面する問題』と題して講演し、結論として次のように語っています。
    『第一に、すべての成功した新宗教運動は、制度化が進むという可能性に直面している。自発的な熱狂から始まったものは、日常化した服従へと落ち着いてしまう傾向がある。運動が成長するに従い、きわめて標準化された制度が必要となり、官僚的な傾向が発展するであろう。その運動を運営するために、ある意味で職業的な階級の成長を避けることは難しく、それゆえ、問題となるのは、この階級と一般的な平信徒との感覚や期待のズレであろう』
    そして気になることを記しておりますが、このようなことはいつも正常性バイアスが働いて無視されます。組織全体が冷静さを喪失し、狷介な宗門から独立したことを強調しながら、やがて求心性も魅力も失われることです。宗門は、日蓮仏法の真髄が寛容性のそのスケールの大きさにあることを、頑なな固陋のために見失っている。
    『もしもこうした運営者が、地位を守ることを正当化するために何らかのタイプの聖職者的な地位を主張するならば、聖職者と平信徒との間の古典的な緊張と分離は決裂にいたるであろう』
    宗門とともに、創価の運命も予言しているようで興味深く読みました。でも結果はすぐに表れず、カリスマ的指導者に新鮮さが失われたとき、次第に危機は姿を表わすでしょう。
    また信仰の中心的価値ではなく、世俗的なことでも異論を主張する会員を敵視するのは、理由がないわけではありません。信仰上の緊張は破滅にいたることを、本能的に認識しているからです。特に政治的な主張の対立は、短期勝負の熱風にさらされてクールさを失います。現世利益を素性とする宗教ではありがちなことです。

    『第二に、財産や不動産の獲得によって、非常に多くの場合、布教することよりも組織を維持することに関心をはらうような法的手続き上また運営上の専門家を必要とするようになる。目的の転移と社会学者が呼ぶように、専従職員たちは組織上の価値や利益に最優先の関心を払う傾向があり、しばしば、信仰上の主要な価値や宗教的な専心が損なわれることもある』
    すでに創価の教義は変更され、大御本尊という信仰上の主要な価値は失われております。
    池田先生が「永遠に変わらない」と保証した言葉は、皮肉にも、永遠に変わり続けるという意味なのですね。言葉の暴力にも等しい。品質保証を謳う契約書にサインしたのに、いつの間にか品質が劣化しているメーカー商品のようです。普通の法的理解であれば、損害賠償責任の対象ですが、宗教は心的問題を扱うために立証は難しい。「嫌ならやめろ!」、というのが慈悲を商売にする聖職者の都合が良い決まり文句です。

    『第三に、信仰上の中心的な教義と結びついてはいるが、直接教義から導き出されたものではないような、いくつかの副次的な問題関心をその運動が含んでいる場合にも、同様な問題が発生するであろう。そのような副次的な関心がますます重要になると、信仰それ自体よりも、この副次的な活動計画により専心する者たちをその運動へ惹きつけるであろう。(中略)我々は、ある運動が主要な目的が副次的な目的によって撹乱される場合(極端な例では、運動自体が壊滅するおそれもある)、そして運動のエネルギーや資源が主要なものから、もっと特殊で、二次的なものへ転換されるような場合、それを目標の逸脱の一形態であると呼ぶことができるであろう』
    きょうの聖教一面(21日)には、「不屈の関西魂で常勝新時代を」とアピールして、大阪、京都の代表幹部会の模様が報道されておりましたが、本部幹部会での会長のあからさまな選挙指導を受けてのことであることは明白です。そして、相も変わらず、大量の選挙違反者を出した"1957年の大阪事件"へと通じていく、前年の選挙活動が美談風に語られています。傲慢さが不適切に増大していく過程を検証することはありません。そのプロセスは、宗教にとって致命的とも言える問題を含んでおりますが、反省はありませんし、検証もありません。現在、選挙違反に近い事前運動をあたりまえのように実行している多くの会員は、ほとんど個人の責任範囲と自覚しているのか、疑問があります。組織はいざとなったら関与しないと、無責任な主張を展開すること間違いありませんが、その無責任さは1957年に池田先生によって作られたことを、冷静に思い出さなければならないでしょう。
    4面の座談会でも「立正安国が日蓮仏法の根幹」「人間の尊厳を守り、平和と幸福を実現」と慣例のフレーズが列を作ったように並びますが、選挙支援をこのようなレトリックで表現しても恥ずかしいと思わない感覚は、創価特有のものかもしれません。公明党支援が「人間主義運動の副次的目的」に代替されていることについて、主要な信仰目的が撹乱されているモデルであると考えます。創価の特徴である熱狂が、忠誠と自己主張に姿を変えて、積極的に社会に変革を起こそうとしている。その方向はけっして善い方向とは限りません。

    『第四に、第二(そして後続の)世代の社会化に関連した不可避的な一連の問題がある。第一世代である親たちは、それまでの信仰とそれに関連するものを放棄するために、必死に戦って新しい信仰を獲得した。親の世代が勝ち得たものは、彼らの子どもたちにとっては、親から受け渡された正統的な信仰を受け入れるかどうかという問題に変わっている。最初の改宗者たちは、ある意味で、革新者であり、開拓者であり、恐らくは反抗者でさえあるのに対し、後続世代は自分たちの信仰のためにそれほどの苦労は必要なく、結果として、信仰を当たり前のものとみなし、年長者たちと同じような深い感謝の念もなしに、軽々しく扱うであろう。こうしたプロセスを我々はコミットメントの低下と呼ぶことができる』
    第一世代の至上のものである信仰が、後続世代によって責任ある関与を否定される。争点やトラブルがあっても、いつまでも自分を美化し続ける創価の問題意識の低下は、ある意味、コミットメントの低下と捉えることも可能。上から降ってくるヒエラルキーの指令を、黙って受け取る会員の正直さは信仰から培われたものですが、後続世代から見れば不道徳きわまりないのです。
    自分の軟弱な意志を養成していく……それが信仰のはずなのに従属し依存している。団結することよりも、個々が独立し、まず犀の角のように独り歩むことが大事なのに、その源泉である自立心と反抗心も喪失している。

    『第五に、時代を経ることによって、その運動が本来もっていた存在理由が十分に理解されなくなるであろう。それをめぐって争い、あるいはそれについて反抗し、そこから新宗教が発展してきたところの、新宗教と古い信仰との違いがあまり主張されなくなるであろう。新しい世代は、違いをもたらした根拠をあまりよく理解しなくなるであろうし、さらにはそれらを「時代遅れのもの」とみなすようになる。したがって、最初の小さな事から、続いてより重要な問題について、より古い確立された信仰存在理由を同じくしてしまう傾向を持つであろう』
    女子部のとき、大御本尊問題についてこだわるわたしに、婦人部幹部から「時代遅れね」と小馬鹿にしたように言われたことを忘れない。わたしを揶揄したのではなく大御本尊を卑下したのであり、御本尊に唾をかけても平気なこの婦人部は池田先生の忠実な弟子。
    ウィルソン博士の言葉は、創価の未来を暗示している。宗門が衰退する理由がよくわかりますし、その反面、700年以上も保持し継承してきたこと自体が奇跡に近い。古きものこそ宝ですが、それを正しく活かし、新しく時代を創造する人間がいない。聖僧や法主などの肩書が、何の役に立つというのでしょうか。永遠の指導者?……著しく欺瞞に満ちている。
    かつて「永遠に変わらない」と矜持を示した言葉と、どのように相違する「永遠」なのでしょうか。普遍性を有する真理であるからこそ、「永遠に変わらない」とご指導されたのではないのですか。自らの過去の言葉に復讐されている。都合が良いように、自己責任を自己放棄している。名誉と傲慢に侵食されている。毒気深入・失本心故とは、このようなことをいうのでしょう。御本仏は、「旃陀羅が子」と無名の被差別民として、自らを誇り高く呼称しましたが、その他に、それを凌ぐどのような肩書がありますでしょうか。永遠でない人が永遠の冠辞を付けて修飾し体面を保とうとする。本因妙の仏法ではないですね。
    最下層差別民であることを宣言し、あらゆる差別や不平等からの解放を示し、社会改革の原動力になることを御本仏は生涯をかけて証明しました。宗門の頂点に位置する法主が、御本仏の法体を継承していると主張するのであれば、被差別民としての自覚も引き受けなければならないし、差別と偏見に対する根本的解決法の実践、ジェンダーへの理解と社会に向けての意見表明と影響を推し量る聡明な英知も相続しなければならないでしょう。他宗教に対する寛容こそ世界平和実現への希望を示すものですが、そのような可能性への展望と教義解釈の柔軟性を、頑迷が取り柄の宗門に期待するのは無理というものです。
    宗門と創価の確執と反目は、このような差別への対応と、弘教への異論にあることを認識しておりますが、それは広く言えば在家と聖職者の対立という宗教に内在する歴史的な問題にも行き着くでしょう。宗義を保ち伝える行為には、年数を重ねるほどに権威と結びつきやすく、在家と聖職者の対立は、権威と権威否定の対立とも言えます。
    わたしから言わせれば、究極的に法主から法主に伝えられるとする宗門の得体の知れない血脈は権威の強調に他なりません。血脈の実体が不明瞭で、抽象的で、観念的です。説明至難であるがゆえに、特別な人から人に伝えられると説きながらリアリズムに徹しているつもりなのでしょう。即身成仏のメソッドを人事まで敷衍した慣例主義という趣です。慣例とは伝統とも言い換えることも可能。また血脈は解決不能な問題を産み続け、闘諍と諸悪の根源です。御本尊受持に必要なものは、以信代慧と説かれる智慧に裏付けられた信のみです。
    血脈を肯定するなにものかが肩書に備わっていると考えるのは、頭を丸めた坊主だけですが、創価もそれに近くなってきたのではないでしょうか。「自分は永遠」などと恥ずかしげもなく言うところに問題の本質があります。
    創価は、「魂の独立」を勝ち取ったと不安な気持ちを打ち消すように、常に自己確認作業を欠かしませんが、権威否定がやがて権威そのものに逆転するパラドックスのプロセスを歩みつつあります。御本尊認定権などという御本尊を見下した権威を主張しても、おかしいと考えない人間の頭の悪さを想像してしまいますが、それを無条件に受け容れる会員の無思料や理性も、仏教思想の理想からほど遠いものです。
    世俗化は進み、聖域を捨てて、効率的な事務作業によって創価は存続し続けるだろう。現実問題への積極的な関わりと変革を説く創価のような仏教は、たぶん多くの西欧の人々に受け入れられる素地を持つ。100年の間でその中心となる本尊を捨てた創価は、100年後、今度は人本尊も捨ててしまうかもしれないし、本尊が信仰の中心でなくなる可能性は否定できない。それを信仰というのかどうか、わたしにはわからない。どうせ100年後は生きていそうにないし、生まれ変わったとしても前世や前前世や前前前世も知ることができそうにないし、宗教でさえ虚偽という方便に満ちていることを深く考えずにいられない。
    秘妙方便とは、なんと絶妙な仏語なのだろうか。宗教の重要な本質的な部分さえ方便であり、その真理のうえに立つ創価の楼閣も、幻のように儚い砂上の夢のようです。

    Chopin - Nocturne No 20


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    自己を制し、他人を益し

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    創価勝利の年、あけましておめでとうございます。
    滔々と流れる時間に区切りはありません。気持ちのうえでは、革新こそ総てとテーマと目標をセットアップし、自分自身の怠惰な精神克服に挑戦していきたい思います。

    創価勝利は民衆運動です。その根底は強情な弘教の精神によって成り立っています。大聖人以来、迫害や非難をまともに受けながら、怯むことなく、パイオニアの誇りとたくましさで道を切り開いてきました。形あるものは崩れ、古きものは忘れ去られる時代の変遷のなかで、五十展転の法水は、源から流れ出た清浄さで、命の山脈から山脈を越えてきました。
    現代ほど難しい時代はないでしょう。普遍的なものが失われようとしていても、それについての十分な哲学的、批判的思考が欠如している。そもそも組織的都合が優先されて、宗教的信頼と確信、革命用語を多用しても、心は形骸化しているという有様。より良く生きるために苦難を強いられる時代は不幸です。同時に不幸の背景をたどるならば、現代人が抱える深い迷いと虚無、真理を共有することが不可能なほど、硬直し低俗化した思想の氾濫があります。基準もルールも自制もない無惨な排他性は、暴力的な闘争心を引き起こし、デリケートな心の肌を傷つける。人間が中心にいない人間社会とは、奇妙な星の奇妙な出来事なのでしょうか。

    『新しきヒューマニズム、人間存在の精神的価値は、人間自身のなかに求められるべきです。人間こそが、すべての尺度であり、あらゆる主義主張の真偽を見極めるうえでの、評価基準とならねばなりません』M・ゴルバチョフ(「二十一世紀の精神の教訓」聖教ワイド文庫)

    池田思想の核心ともいうべき「すべてを活かす哲学=妙法」の総体性、大乗的人間像は、近代的理性を超え、強靭な自由、自在な境涯を約束するものです。幸福とは価値創造。無限の可能性を信じることは、信仰だけが内包する奇跡と言ってもよいでしょう。そのために先生は、自己と他者をともに活かす対話を実践されてきました。

    『幾多の古今東西の偉人の箴言を通して、同志を激励してきた。日蓮仏法は「活の法門」であり、この妙法を根底とする時、すべてが無駄なく活かされていく・・・歴史上の、あらゆる偉人の英知も、人間を励まし、幸福にしゆく智慧の一分として自在に現代に活かし、実生活の上に活かし、価値創造していくことができる』(随筆「人間世紀の光」聖教・06年)

    実生活の上での自由な生活者としての意見は、仏法の本義に適うものです。中道の真理を理解しなければなりません。青年部の使命は大きい。
    過酷な時代背景のなかで、青年は悲哀と無理解に負けない柔軟な思考ができます。
    新しい発想ができる。
    苦しみに耐えることができる。
    自分を制御できる力を持つ。
    再試行する時間的余裕が十分にある。
    組織に埋没しない行動力がある。
    青年部の皆さん! 英知を結集することです。中央を待っていてはいけません。指示を待っていては、いくら祈っても信仰ではありません。

    自分の考えがない友人に言いたい。
    個人的な問題ではなく創価の特徴的人格を代表しているように思えるからです。
    あなたの意思は一体いかなるものなのでしょう。あなたは葦のように風になびき、空に飛んだ花の種のように、どこへ行きたいのか、どこで花開きたいのか見当もつかない。幸せになるのは戦いです。自分のことばかりではなく、他者に与えてこそ、人間の尊厳を感じることが可能なことを知ってほしい。人間は何がなくても、人生を支える哲学があれば生きられるのです。慈悲が、人間という生き物を、価値ある人間たらしめる唯一のものであることを知るべきです。それは、信仰に関係なく、人間であることの基本なのです。
    今、一番見過ごすことができないのは、自分の価値観を持つことにためらいがある生命の傾向性です。社会や組織の価値観で動き、自分を見失っている。自立と自律の精神が欠落しています。画一的な教育制度の結果でしょう。自己こそ最高に尊貴である、という思想は、個人尊重という表題だけは勇ましい戦後教育とは、似て非なるものです。
    問題意識が低い多くの会員がいくら集まっても、100周年の道程で必然的に生ずる課題に対し、適切な解決方法を選択できるのだろうかという危惧があります。
    ブッディズム・リカヴァリーという人間主義の行動は、新鮮な問題提起から生まれるものです。それは、池田思想研究がこれからますます盛んに行われるであろう世界的趨勢と同じくしています。まさに仏智という三世を見通す深い歴史への理解と人間精神の同調を表わすものと言えるでしょう。個々の祈りは、一人の人間の命の変革とともに、歴史を動かす力に寄与するもの。あなたの悩みは人類の悩みです。あなたの不幸は世界の不幸なのです。


    創価には創価風、創価的文字の使い方があり、ひとえに先生の文章、スピーチの影響です。弟子が師に似るのは仕方がありませんが、高度な法は、必ずしも、高度な人間を作るわけではないのですね。
    わたしたちが住む娑婆は、物事が相対し、並列し、差別を受ける世界です。悪は罰せられ憎まれ、善は称賛されます。人間倫理は、慈悲に依っているとはいえ、善悪は厳しく峻別されてこそ社会秩序が保たれます。仏教は慈悲を根本にした思想体系。慈悲が行為として現れたとき、自己を制御する法が深い喜びとなって実感できるでしょう。
    善悪一体と説くのは、法華経のみです。仏は悪を罰しない。慈悲をもってあわれむ。善と悪が、矛盾なく混じりあう心の泉。過去の峰から、伏流水のように湧き続ける自律の法が、善悪を越えた行為的努力を促し、自他を蘇生させるのです。すべてを受け入れる法華経は、母性の法です。
    『自己を制し、他人を益し、慈しみにみちた心が法であり、それはこの世及び死後における果報の種子である』(「中論」:龍樹)

    「以信代慧」は、釈尊とその後の聖者の実践的慈悲から導きだされた美しい言葉です。その光輝く言葉を、いつもまぶしく眺めている者は、竜女の意志を受け継ぐ無数のなかの一人・悩める子どもに変容したわたし。残念ですが、母のように、須臾として、他国を教化する神通力はございません。

    世界に慈しみがあふれ、幸福の花々が咲き乱れる一年でありますように。
    正義が実現し、不義や背信で善なる人々を奈落の底に引きずり込まないように。

    Sia - The Greatest 和訳



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