菩提の慧火現前するなり

    #1
    わたしが望むのは、例えば次のような御書の一節です。
    『信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし』
    (信じる心が完全で正しければ、万人を平等に救済する仏の智慧の水を受けて乾くことがない)
    わたしにとっては、涙が出てきそうな励ましです。「一人になっても仏だけは裏切らない」という確信こそ、信仰のエッセンス、智慧の泉と名づけられるもの。
    苦悩の治療法は、八正道と六波羅蜜に示されています。
    「自分自身をつねに磨く」(カント)という人格完成への行動規範は、仏教創始の時代からすでに準備されているのです。なんという偉大な智慧でしょうか。
    『煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり』
    大聖人の命のなかには、美しくて、偉大な智慧の言葉が、火のように燃え盛っていたのですね。


    #2
    B・ウィルソン博士との対談「社会と宗教」から引用します。
    ガンジー主義への評価ということで意見を交わしています。

    博士は、ガンジーは、厳格な自己抑制の徳の故に、偉大であると論じられております。
    何かといえば権利を主張し、譲ることをしらない現代人には、耳の痛い話ですね。

    『そうした自制心強き指導者に感服し、褒めそやす人々が、必ずしも彼らと同じ高潔な倫理的勇気や、卓越した振る舞いを示せるとは、もちろんかぎりません。いわゆる"聖者"は、人々にとって真似のできる手本となるよりも、むしろ、当初、本人が標榜した価値基準とあらゆる点で対立する行動のスローガンに、その名前が利用されることのほうが多いのです。
    私にとってガンジーが重要なのは、彼の政治的・道徳的抗議の技術面での模範としてよりも、むしろ、ある種の、最高度に洗練された自己抑制の模範としてです。自己の感情の束縛を断ち切るためには、質の高い自己抑制と同時に、高度な自己批判や自己反省を必要とします。
    それはまた、人々に、人間関係の行為においても不可欠であり、あらゆる社会的発展のためにも不可欠なものとして、秩序と礼儀と他人への尊敬が必要であることを、認識するよう求めます。
    自分にとって最も深い関心事を、じっと冷静に見つめることができるということ、また、自分の力の限りの努力さえも評価されずに終わってしまうかもしれない立場に、わが身を晒せるような寛容、忍耐、内的資質を身につけること――これらは、きわめて高度に洗練されていることを示すものです。
    感情を交えずに、安定感のある、粘り強い、しかも、一歩も譲らない態度で取り組んでいくということは、倫理的振る舞いの頂点を極めたものといえましょう。人間の最も奥深い感情が掻き乱されるときにどう振る舞うかが、私たちがどこまで洗練されているかの尺度なのです』


    現代の複雑な社会では、それぞれが異なった宗教的信条を持っています。勇ましく宗教を否定する者でも否定の神を信奉しているのです。また、同一宗教の信仰者であっても、ひとりひとり真剣さが相違します。生命も、人生も、幸福へのアプローチも、あたり前のことですが自己責任です。最も主体的な衝動に左右される信仰も言うまでもないことです。
    聡明でなければ、洗練されていなければ、どうしてリーダーになれましょうか。
    自己批判、自己反省という誠実さと、透徹した知性と信仰が求められているのです。


    #3
    自己抑制、あるいは制御とは信仰から得られる功徳なのではないでしょうか。祈りもまた、自分で自分を治癒するセルフメディケーションの延長線上にあります。誰もが悩みを抱え、もがきながら、自己を見つめて内面の変革を遂げようと努力している。心の闇を照らすのは、法という光があってのことです。
    最近わたしは、命ほど傷つきやすいものはないのだと理解しました。
    その反面、命ほど変化に耐えられる強靱なものはないと気づきました。
    だから何か問題があっても、なんとかなるものよ~、というどうでもよい、お手軽な結論に至ります。楽観的に考えるのがわたしの強み。人生修正主義というのかしら。負けても雄々しく再起すればよいのだと考えるようになりました。


    #4
    組織は容器のようなものです。人間が作ったこのような器には完璧なものはありません。穴があいていたり歪んでいたりするものです。それを是正していく役目は、それを感じた人がやっていくべきであり、他から強制できるものではありません。
    会員の皆さまは純粋で、ある意味、信仰の模範的実践者です。わたしが大局を見ましょうと言ったのは、細部にこだわったところで何も得るところがなければ、解決策にもならないと考えるからです。個人の問題はそれぞれの個人の境涯範囲内での選択肢があるでしょう。
    信仰はまったく個人的行為から逸脱することはありませんが、組織は集団であるために手段の細部に至るまで目を配らなければなりません。組織運営は本来、運営者とその支持者の慈悲心の賜物でなければならない。


    #5
    根気がなにより大切です。その根気は一生持続しなければならないかもしれません。
    自分勝手で自己中心的な他者を引き受けることは、菩薩の経典と言われる法華経の一貫したテーマです。そこで説かれる菩薩は、他者に対し自己犠牲も厭わない献身的奉仕者です。
    他者、しいては世界と自分の関係ほど重要なものはありませんが、同時に他者は、倫理も、冷静なコミュニケーションも通じない頑強な不信者でもあるのです。
    そもそも釈尊という仏自体が、わたしたち信仰者が出会う最初の他者ではないでしょうか。またブッダ自身、菩提樹の下で悟りを得たとき、その法を説くべきかどうか躊躇しました。他者とは、自分を危機に陥れる、容易ならざる存在であることに気づいていたからです。歴史を振り返ってみれば、このような他者が世界を混乱に導いてきました。
    菩提樹下のシーンは、「仏とは人間なのだ」ということがよくわかるエピソードですが、その後の歴史のなかで神秘化されたブッダに作り変えられ、おかげで法もまた変質いたしました。「悟りとは迷うことだ」ということも逆説的に言えます。

    他者を受け入れることは簡単ではありません。しかし仏を受け入れることはその普遍性も受け入れることであり、会員の皆さまが意識しようとしまいと、日常のなかで実践されていることです。つまり、他者の仏性に執拗に語りかける行為は、信仰者であるが故です。またこれは、仏法を学ぶうえでも最も基本的な知識であり認識でしょう。「無上宝聚・不求自得」とも「以信代慧」とも言います。「宝聚」とは普遍的智慧のことです。コミュニケーション、対話、議論、そのような人間関係のなかに慈愛や敬意があること。

    人間は人間の間にしか生きられません。悩み多き人間が、悩み多き人間を抱擁していく。慈悲とは遠い地平線にあるものではありません。哀切を克服しようとするアクティブな意思のなかで育まれる感情ではないでしょうか。同苦と言われる感情移入は技術でもなければ、悲しみや慰みに溺れることでもありません。強い自己があって可能なのです。

    創価が創価であるという独自性と思想は、会員という人間と人間の間にあります。信仰のエッセンスも目的も会員のなかで発酵し熟成されて深まっていくのではないでしょうか。法華経を味に例えて醍醐味というではありませんか。深い味ほど複雑な味がするものです。人間も同じと思います。苦労や悲しみの体験がスパイスですね。未熟なわたしが言うことではありませんが......


    #6
    何事にも意味があります。意味のないことなどありません。人間の間には、そのような貴重で、かけがえない意味するものがゴロゴロ存在していても、手に取り注意深く観察し、その因果を考える人がどれだけいるというのでしょうか。思想とはその意味を知ることであり、人間と人間、自分と他者の関係を学ぶことなのです。崩壊している関係を再び組み立てなおすことなのです。
    人間主義は、冷静にまわりを見渡し熱く行動をおこすことでもありますが、決して人間をバカにし見下すことではありません。
    会員を愛し、会員を抱きしめて、会員のために行動をおこし、共に春爛漫の幸せを願う、豊かな情感を持った信仰者に成長していきたい。わたしが願うのは、人間として当たり前の、他者のなかに自分の夢を実現していく勇敢なる人格です。先生もそのようにお考えになり、そのような人生を歩まれたのではないでしょうか。


    #7
    多数の定義があることを承知しながら概説的に言えば、ヒューマニズムは絶対的実在としての神の存在に対立した人間中心の考え方であると思います。崇高な人間の善性と可能性を信じた思想は、現代社会の通底をなす部分と考えますが、その反面、多くの矛盾があらわになりその克服に限界を感じているのが思想界の現状であると思います。
    肯定的な人間性の反対は、エゴイズムに代表される獣性ですが、このことについてトインビー対談では次のようにあります。

    『池田:欲望の克服は、たしかに困難なことです。しかし、人間はあえてこの困難な努力をしなければ、その内面にある"獣性"によって支配されてしまうでしょう。
    私は、それらの高等宗教が"大我"の正体を明らかにできなかった点に、実践方法のむずかしさを生み出した原因があると考えます。つまり、自我を克服するといっても、では何によって克服するのか、克服される自我が欲望や感情などであることはわかるにしても、克服する主体たる自我とは一体何か、そしてその自我と"大我"とはどう違うのか―――ということです。
    仏法では、克服の主体である自我は"大我"と同じであり、したがって、悟ってみれば、自我はたんに"大我"の断片ではなく、それはそのまま"大我"それ自体であると説いているのです。ただし、これはもちろん"仏界"という究極の悟りであり、それは内心の自覚であって、行動のうえでは"大我"の部分であることには変わりありません。したがって、自我の生き方は、博士のおっしゃるように、常に自己を宇宙に捧げようとすることでなければなりません。
    私は真実の宗教の役割とは、人間に欲望超克の力と勇気を与え、その"人間性"を開発することにあると思います。そして、この宗教は、人間をしてその内奥にある"生命"という実在を覚知させ、さらにそれを宇宙生命へと融合させていく力をもっていなければならないと思います。

    トインビー:実際には、"小我"も"大我"も同じです。そのゆえに、私は"汝はそれなり"が真理だと信ずるのです。しかし、この"汝はそれなり"というのは、たんなる知的な命題にしかすぎません。したがって、それは倫理的行動によって、まぎれもない真実であることが証明されるまでは、たんに真実であることの可能性を含んでいるにすぎないのです。しかも、この行動は"小我"によって実践されなければなりません。
    "小我"は、その貪欲性のゆえに"大我"から疎外されています。この貪欲性は、"小我"が、自らの目的のために宇宙を利用しようとする欲望です。貪欲の反対が慈悲です。この慈悲を実践することによって、"小我"は、現実において"大我"になることができるのです』


    小我、大我についてはいろいろ異論があるところですが、インド宗教の相互に影響しあった伝統的教義と解釈しておきます。この概念は一般的に西洋哲学にも見られるものです。普遍的自我としての大我、個人的自我としての小我、その融合と対立は神と人間、宗教的直観と理性などの問題の主要な部分と理解にかかわります。

    時空を超越し、また現実のなかで風に舞うように翻弄される自我という厄介なものは、誰にも実在するのであり、自意識あるいは潜在的意識の核になるものです。人間は良心や貪欲、善と悪の葛藤などを通じた根本的な倫理道徳の実行者ですが、悪性の力、魔性の欲望への誘惑に惑わされ、まるで簡単に生命の火を吹き消すように侵略されるもの。そのような負のエネルギーに支配されて煩悩に苦しんでいる姿を、他人に求めるまでもなく、切実な経験として、また自覚しながら、日々自己のなかに、わたしたちは見ています。自らをコントロールすること(ご本尊さまに向かい祈りを捧げる時間は、冷静でありながら活動的な本来の自分自身を取り戻す行為だということ。困難に負けない自我の発揚ということです)―――信仰のありがたさは、実は高度な精神的エネルギーの向上と高揚ということであり、わたしたちが実践している妙法への強い求道は、獣性克服の最良の方法なのです。

    このトインビー対談では、このあと、"愛と慈悲の実践"というテーマで語られていますが、このなかで、慈善(チャリティー)についてその心理的側面を指摘しています。そして、愛の概念に意味を与えるのが慈悲であり、その慈悲の本体は "抜苦与楽" であること、その前提となる同苦は優れた知性の発達によって可能であること、他者の痛みへの同調は高度な(人間的な)知能の働きによる創造力であることなど。
    この対談で述べられていることは、その過程の心理的成熟をあらわすプロトタイプかもしれませんが、このような考察は、真面目な創価の会員なら毎日のように挫折しながら再決意し、失意を味わいながら奮起し、祈りの一念に人生を懸けて、真剣に考えていることではないでしょうか。
    人間主義といっても、わたしたちが他者を思い想像しながら、同時に自らの人生の充実のために努力している行為そのものが、そうなのだと思います。
    また、慈善と偽善は紙一重です。慈善活動を金銭や物品の施しというのであれば、精神的な献身行為も広い意味で慈善活動となるのではないでしょうか。わたしたちの学会活動も慈善活動と言えなくもありません。宗教団体の布教や啓蒙は社会に対しての責任行為です。一人よがりの独善になってはいけないと常に戒めなければならないと考えます。


    #8
    信仰とは個人的動機のなかで始まるものです。他者の働きかけがあったとしても、それはキッカケに過ぎず、最後は個人の自由な判断に委ねられます。つまり、信仰から得られる利益は主観的観察と体験で、その有益性が認められるのだと考えますが、組織の一員になると、自由な判断が不自由さのなかでの限定された自由さに形を変えます。このことに何の不足も不自然さも感じないのですが、これは利己的欲求が社会的欲求に変化するためと思われます。わたしたちは個人の都合を越えて社会的使命を果たそうと努力します。
    信仰教育は組織の一員であることを絶えず自覚させるシステムです。わたしたちは指導者から見れば無知な子ども同然なのですから仕方ありません。
    座談会は自己啓発の場であり自己教育の場です。勝利や戦いなどと耳にタコができるぐらい教育されると、まるで戦場のような雰囲気に置かれます。聖教ブロパガンダが徹底しています。座談会は成果発表の場でないのは当然ですし、日々悩みを抱えて必死になってご本尊さまの前に座っている会員に哲学的裏づけと確信を与える場なのではないでしょうか。

    先生の目が届かなくなったせいか、惰性の低レベルの幹部が多くなりました。日々更新が信仰なら、時代を先取りし、リーダー像も更新していかなければなりません。


    #9
    フロイトの「幻想の未来」(光文社)のなかで、翻訳者の解説文に次のようにありました。
    『フロイトは強迫神経症の患者のさまざまな儀礼と、キリスト教のミサにおける細かな決まりには共通性があることに注目する。どちらにも「中止したときの道徳的不安、他のすべての行為からの完全な隔離、そして細かなことを行う小心さ」がみられるのである。そして意味がないとみえることも、「その細部にいたるまで意味にみちており、人格の重要な関心に奉仕」していると考えるのである。
    この強迫神経症の患者たちがこうした儀礼を反復する背景にあるのは罪悪感である。そして患者はその罪悪感を意識することができないのである。しかしある欲望が知覚されると、患者はその欲望に疚(やま)しさを感じ、そのために懲罰を期待し、「いつまで待ち構えている期待不安」に襲われ、その不安を打ち消すために儀礼が反復されるのである。「欲望の絶え間ない圧迫に拮抗するために、つねに新たな心的な努力が要求される。儀式と強迫行為は、一部は欲望の防衛のために、一部は予期される不幸にたいする防衛に向かうものとして成立する」のである。(中略)
    人間の「良心」はこうした神罰にたいする「期待不安」から生まれるのだとすると、宗教的な人間の信心深さは、強迫神経症の患者の儀礼における細心さと共通した性格をもつことになる。「神経症は個人的な宗教性であり、宗教は普遍的な強迫神経症」であると結論できるとフロイトは考えるのである』


    フロイトが対象とする宗教は伝統的なキリスト教ですが、「期待不安」と「不幸の防衛」という心理はよく理解できます。わたしたちにもよく似た心象があるからです。
    理性的宗教批判は必要です。特に人間の行動は教義から逸脱しながら気づかないことがあるからです。深く考える会員を、先生は期待されているのではないでしょうか。そして行為の正当性を自己反省できる人間を育てるために、先生の多くの対話があったのではないでしょうか。

    King Drum - Brand X Music

       Choice of Anna
         Tracklist :
         00:00 King Drum - Brand X Music
         03:16 Unstoppable - E.S. Posthumus


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