主師親の三徳は誰のものか?

    7年前、怖いもの知らずの女子部の部長だったとき、あるブログにコメントしました。
    芯の通った議論を展開していた婦人部員がホストの、名前も結構、浸透していたブログですが、池田会長勇退の原因にふれた記事を読んで興味を惹かれたからです。
    勇退当時の一般的解説を参考にすれば、創価と宗門は深刻な問題を抱えており、在家と僧のこじれた関係は、いつ爆発してもおかしくないという切羽詰まった状態でもありました。
    池田会長勇退問題の複雑さには、信仰の純粋さと無関係の政治的権力闘争の側面があることに留意しなければならない。いくら正義を強調しても、権力を持つ者が正義を定義し支配することは、歴史の随所に見られる現象です。現在の創価を運営している主要な幹部は、その勝ち組です。また勝ち組に追随する日和見主義者です。問題意識がない傍観者も、結果的に追随者同様、アンモラルな信仰者としての評価を甘受しなければならないでしょう。不本意ならば抵抗するだけです。
    わたしが知りたいのは、創価の決まりきった公式見解ではなく、一般の真面目な会員の疑問と、その疑問にどのように対処したかという信仰者としての当然の行為、一つのソリューションです。ただ祈っていれば、信仰者として十全の円満さを備えているなどと考える人が、未だいることに不審を覚え、創価内部の宗教教育の未熟さを感じております。自分で考え、自分で判断し、自分の責任の範囲内で行動する。信仰とは、ある意味、自分の生き方を問うことなのです。組織は無謬ではないという当たり前の前提が、貢献度の強さが信仰の深さに比例している錯覚に陥るのかもしれません。疑問を持つことが問いの成熟に必要なことなのに、疑うことは信じることと真逆の行為のように考えてしまうのかもしれません。
    わたしは、初心者が抱く当然の疑問として、勇退問題に関連する一つの不可解な創価内部の問題について、ベテラン信仰者に質問を試みました。

    ❖❖❖

    「市丸の雑記帳」
    今は更新されておりませんが、ネットに残っているということは、ご健在なのでしょうか。
    ご高齢で、自分の意見を主張する堅固な意志を堅持されていたことから、強い信心に立たれていたことがうかがいしれます。
    草創期の典型的な模範会員像が目に浮かびます。わたしの祖父母も、そのような風貌を感じさせる信仰者でした。

    2013.05.27のコメント
    会長勇退の経緯を後継の人に伝えていかなければならない、という主旨はとてもよくわかります。時間が経過すれば当時の真意が伝わるとは限りませんし、また歴史は必ず風化するものです。

    わたしも両親や先輩の方々にお話を伺う機会がありましたが、市丸さまのような説明をうけたことはございません。皆さん、よく知らないという印象です。その渦中にあり体験した人々のなかで、すでに風化が始まっているのだと思います。

    わたしはこのような話題に限らず、学会に対し多くの疑問と物足りなさを感じながらも、第一線で戦っています(確かに人生も学活も「戦い」かもしれませんが、わたしはこの勇ましい言葉があまり好きではありません)

    市丸さまにお尋ねしたいことがありコメントしました。
    宗門とこのような問題が起きる直前のことかと思いますが、大白蓮華に教学試験の模範解答が掲載され、「主師親の三徳」について、現在の主師親の三徳具備は池田先生であるという解答がありました。このような誇大解釈は明らかに間違いです。
    わたしが疑問に思うのは、出版される前に多くの編集者、本部幹部、あるいは池田先生の事前のチェックをうけたであろうと推測しますが、このようなとんでもない解答がなぜまかり通ったか、ということです。明らかに冷静さを欠いていますし、師を尊敬するという意味をはきちがえ、無謬でなければならないとする信仰者が陥りやすい過ちが顕著であると思います。

    公平さ、謙虚さ、理性的判断が求められる一つの宗教組織の、このような自分の姿を見失う集団ヒステリー症状というべきものは、度を越した過剰な攻撃性を持ちやすく、宗門と問題を抱えていればこそ、なお慎重さが必要だったと考えますが、学会にも冷静な人物はいなかったということかもしれません。

    市丸さまのお考えをお聞きしたいと切に望んでおります。
    正しい歴史認識、また歴史からの学びこそ、信仰を保つうえで必要欠くべからざることと考えるからです。

    わたしは一度も大御本尊さまにお目通りしたことはございません。青年部のほとんどが同じでしょう。信者が自由に究極の信仰対象に会うことができないという現実は、稀有な信仰冒涜と考えております。そのような状況を作った者は、恐ろしい魔であると断じますが、互いに正義を主張しながら、もっと大きな正義を犠牲にしたのではないかと恐れるのです。これによる罰は(わたしは罰という言葉も嫌いです)、つまり望まない必然的な結果は、すでに双方に出ているかもしれませんし、これから未来に罪障消滅が必要になるやもしれません。

    言い忘れましたが、女子部の部長をやっております。学会関係のあらゆる面で苦慮し、苦闘しております。ミドル、中心幹部とはうまくいっておりません。問題意識の低さにうんざりです。

    子どもは必ず親から生まれるように、そして子どもは遺伝子次元では親のコピーであるように、わたしたちの宗教的日常は、源泉である大御本尊さまを拠り所としています。元が価値あるものであるからこそ、そこから生まれたわたしが大切にする御本尊さまも価値あるものですし、人生の規範となる源泉なのだと確信しております。

    大聖人と本尊、また九界の衆生の命に差別はなく、血脈も正しい信仰者の命のなかに流れることは疑いがないことです。自明のことを議論するつもりはありませんが、大聖人の生き方が信じる者のお手本となるように、妙法の因行果徳の法則も御本尊さまを機縁として顕現するのでしょう。大御本尊さまも、個々の御本尊さまも、内包する法が同じものであれば、何も疑うことはなく、ためらうこともないのです。大御本尊さまは山の頂きであり、その頂きからすべての道は下っている。先生も「法性の大地」とご指導されております。卑近な譬えですが、発電所の電気と各家庭の電気には何も違いはないということです。
    法はつまり信仰のあり方を説いたものであり、また信仰は頂きをめざすものであり、無上の道も正しいコンパスがあればこそです。そのコンパスを血脈と言うことを、真面目な会員であれば十分に知っていることです。

    しかし、誰でも懐かしくふるさとを思いだすように、遠く離れていればときには母親に会いたいと思うように、大御本尊さまを慕うのは、信仰者として自然の心情です。

    たぶんわたしの言い方は矛盾を免れません。理性と感情はときには相対立するものです。

    正義は論理的裏づけがあってこそ主張できると思います。破門が正義でないことは明白ですが、仏教史は言ってみれば、仏弟子、仏道修行者の正統をめぐる争いの歴史でもあったのではないでしょうか。法は厳格に堅持しなければならないと考える一方で、時代に即応した柔軟性があってしかるべきと考える信者と出家者の対立は、今に始まったことではありません。僧は格式張った権威の虜となり、法という絶対規範を振りかざして主従の関係を築こうとします。宗教的権威なるものは実は空虚な空箱同様のものであることを、わたしたちははからずも経験しました。

    創価ルネサンスは悠久の歴史から見れば始まったばかりですが、仏教本来の人間尊厳に焦点を当てた原点回帰運動と理解できます。また多岐にわたる教理の、一つの真理の解釈史という側面もあります。出家者が「人間主義」という言葉や定義が仏教史にないからといって否定するのは愚かというしかありません。
    正義には世俗的なものと普遍的なものがあるでしょう。お金で売買するような卑猥のものと、等価物を持たない高等なものがあるでしょう。万人に受け入れやすい方が正しいとはかぎりませんし、たった一人の正義が正しい場合も十分にありえることです。

    信徒の大御本尊さまへの面会拒否が、大聖人の御心に叶わないことはあらためて言うまでもありません。慈悲深い大聖人がそんな仕打ちをするはずもなければ、求道者を遠ざけようと望むはずもありません。その原因を作った者は、日顕宗の悪侶たちだけだったのでしょうか?
    一部の慢心の創価の幹部だけだったのでしょうか?
    慢心と言えば、「主師親の三徳」をねじ曲げて間違いを正当化しようと試み、大聖人と妙法を安易な考えで傷つけようとした人たちも含まれるのではないでしょうか?

    わたしが知りたいのは、創価の正しい歴史です。都合の悪いことは隠して、歴史を修正するような創価であってほしくないということです。優れた問いから優れた答えが導かれるように、創価の未来は正しい歴史認識から導かれると考えるからです。

    市丸さまへの答になっているのか、自信がありません。
    長いコメントになり、申し訳ございません☆彡


    2013.05.30のコメント
    市丸さまを悩ませてしまったようですね。心苦しく思います。
    分かりずらい文章でしたが、主意は伝わるものと思います。

    わたしは創価を代表する意見など求めていません。市丸さまの個人的ご意見をお聞きしたかっただけです。残念です。教学試験の模範解答の件は、今まで何人かの方にお聞きしましたが、納得する答をいただけませんでした。

    わたしは純粋な人はどこにいるのだろうと、常々考え、疑問に思っています。わたしが対話した幹部の方、職員の方、いずれも純粋さの定義をお持ちでありませんでした。女子部の中心幹部はほとんどが創大卒の方ですが、信仰にふさわしくない野心のようなものが垣間見れ、役職イコール信仰の純粋さと考えたとき、その資質に欠ける方ばかりでした。

    信仰の純粋さは求道ということでもあり、また真実を恐れなく観る勇気の人でもあると思います。見たくないものも見なければならないときもあるでしょう。真直ぐ歩むためには精神的タフさが必要です。
    女子部の実態はとても悲惨なものです。創価の未来を少しでも考えるなら、将来婦人部になり創価を担うであろう女子部のなかに希望を見出していかなければならないでしょう。
    妙法がパーフェクトな完璧さを備え、創価が信仰の優越性を列挙しても、宗教に強い警戒心を抱いているわたしと同年代の人たちは、その優越性に疑問を投げかけてきます。過去の歴史において、その優越性ゆえに、反目や偽善、扇動が行われてきた事実があると考えているからです。
    目的は正しい。しかし手段の選択、プロセスの完璧さはどうだったのでしょうか。拡大とともに勢いにまかせて理性や慎み深さ、謙虚さを失ったのではないでしょうか。
    苦労を重ねて人生の勝利者になったご年配の方に言う言葉ではないかもしれません。

    でもいつか、慈愛に溢れた真に尊敬すべき女性リーダーにお会いするときがきっとくるだろうと、わたしはいつも期待し、待望んでいます。

    ありがとうございました☆彡

    ❖❖❖

    簡単に言うと、現場で対話してくださいという意見でしたが、師弟への過大な期待と賛美があり、人生をかけた傾倒がある人に適切なアドバイスを求めること自体、無理なことだったようです。

    「池田大作本仏論」は、ネット界隈で盛んに議論されていることなので、ここで詳細をあつかう気持ちはありません。その決定打となるものは、「大白蓮華41年2月号」の「主師親の三徳」についての「講師筆記試験答案」です。
    確かめたわけではありませんが、問題の大白蓮華は、聖教新聞社も創価大学の図書館でも非公開でしょう。不都合な過去は隠し通すというのが、創価のポリシーです。宗門と協議された『「教学上の基本問題に」について』から引用(昭和53年6月30日・聖教新聞)。

    『現在でいえば、社会それ自体。しかし民衆の犠牲のうえで成り立っている主徳を失った社会もあり、その民衆は不幸です。
    真に人々を根底から幸福にするには、妙法を根底とした社会以外にない。全日本を、そして、世界を守る池田先生のみ、現在において主徳をそなえていらっしゃる。

    師徳――眷属を指導する力
    師とは、知識を教えるのみでなく、智慧を開かせてあげる者でなければならない。現代の教育は、知識に終始した師徳なき姿である。
    以信代慧の妙法によらねば、真実の師徳はありえない。私たちの師匠池田先生のみ師徳具備でいらっしゃる。

    親徳――眷属を慈愛する力
    親の愛は、相対的であり、子の発展をさまたげる場合がある。
    身命を惜まず、われわれ学会員のしあわせを願ってくださる池田先生こそ、親徳具備でいらっしゃる』


    このような行き過ぎた解釈は、誰が悪いとか、誰がどうのような発言をしたかとか、社会学的な視点での背景議論で解決するものではありません。本質的な部分で議論されなければならないと考えております。それは、わたしが言葉足らずの表現と文章下手のなかで、いつも指摘している「一般化」の問題です。最近の創価は、会則変更から大御本尊不受持へ転向したときから、この傾向が顕著です。大聖人が厳格に定めた「総別」の定義が失われております。信仰の根本である御本尊に差別がなくなり、どの御本尊も認定さえすれば同じという「一般化」が行われているのです。「一般化」は「相対化」と同じです。山は崩し、谷は埋めて、平滑にするという「絶対化」の否定です。
    「御義口伝」は「別して」の解釈を中心に据えて、法華経の解釈を見直したものです。これは末法における妙法の総合指南書です。ここで説かれる本仏の資格・本質的なアビリティーの一つに、「主師親の三徳」があります。開目抄は人本尊開眼の書と言われますが、そこで説かれる「主師親の三徳」は、救済資格を明瞭にした末法本仏の御姿です。つまり、「主師親の三徳」は仏のことであり、その内面と行動が人本尊にふさわしい徳を備えているという一つの基準です。わかりやすく言えば、想像しにくい仏の実像を、現実に即して、具体的に描き、定義した内容が「主師親の三徳」です。つまり、「主師親の三徳」は民衆救済を成し遂げる仏の姿であり、日蓮大聖人自身のことであり、大御本尊のことでもあります。
    わたしの説明は不十分であることはよく自覚しておりますが、わたしが言いたいのは、大聖人御自身が、末法の本仏の異名として説かれた「主師親の三徳」も、創価教学においては、御本尊同様に「一般化」が図られることです。上記の講師試験の模範解答を読んで、当時の会員が誰もおかしいと思わなかったことが不思議です。

    創価新報 5・20号では、1996年のコロンビア大学での講演『「世界市民」教育への一考察』が掲載されておりました。大き目のフォントサイズで紙面の中央に「世界市民の要件」としてまとめてあります。
    『一、生命の相関性を深く認識しゆく「智慧の人」
     一、差異を恐れず、尊重できる「勇気の人」
     一、苦しんでいる人々に同苦し、連帯しゆく「慈悲の人」』

    仏教の知恵から導き出されたこれらの重要な特質は、思索と行動の両面で積み重ねられた決意と動機のなかからあふれでたものと理解しています。妙法の真髄を、社会にわかりやすく展開することに不慣れな宗門には、教学の応用問題は苦手です。宗門が、長い歴史のなかで、広布を担えなかった最大の理由です。人間的能力や情熱は地位に付随しているわけではないのです。地位を相続さえすれば、まるでコンポーネント一式を引き継ぐように開祖上人の信力行力も相続すると考えるのは、既存仏教の最悪の因習とも言うべき悪弊です。地位などただの仕事の分業に過ぎません。だから七百年もの間、富士宮のローカル教団にとどまっていたのです。
    原理原則の応用が、現実に横たわる難問の解決にヒントを与え、他者との差異の容認や寛容を促進します。釈尊時代の維摩詰は在家信者でしたが、その知性は抜きん出ておりました。一つのことを新たな視点から検討し応用し活用して、原理の重要さをさらに深く理解していたのです。雑多な現実問題への対応の仕方こそ、法華経の真髄があり、その解決法を説く人こそ民衆のリーダーにふさわしいとも言える。
    『戸田城聖全集』のなかに質問会の様子を編集したものがあります。その内容を見れば、現実生活での切実な疑問や悩みが網羅されております。難信難解の妙法の原理をわかりやすく生活に適応させ、会員の考え方の修復を図っていく姿は、縦横無尽の戸田先生のリーダーとしての面目躍如というところです。
    日蓮正宗という既存仏教に依存していたとはいえ、戦争で壊滅状態になった創価は、在家集団として新興宗教同然といってもよいでしょう。戦後の混乱期に乱立した新宗教の最も強い動機、「現世利益」に群がる多くの人々の悩みは、それだけ深かったからでしょう。
    戸田先生のカリスマ性は鬼気迫るものがあります。カリスマ性の特徴には怯まない熱心さという直情的な一途さがありますが、戸田先生は獄中の悟達といった神秘的性格も相まって、教祖としての役割を十分に果たしていたことでしょう。
    釈尊を一人の救世主と見た場合、そこには民衆一人一人への尊敬と慈しみに曇りない姿が見られます。躊躇することなく汚れた手を取り、破れた衣服に被われた震える身体を抱きしめ、励ましたであろう釈尊の眼差しは慈愛に満ちていたであろう。人々を差別することなく愛し続けることの偉大さを、法を説くだけでなく行動で表現した釈尊のまわりには、今すぐ救いを求める苦悩の人々、病に冒されて絶望し、あるいは人生のあらゆる問題に翻弄され迷い続ける人々がいたのです。
    そのような情景を彷彿とさせる戸田先生の質問会も、妙法を源流とする求道者共通のかぎりない慈愛があふれております。妙法という原理を社会全般、生活の全過程で生き生きと適応させていくその柔軟性は、妙法の性格を特徴的にあらわしているでしょう。その適応性の幅広さ、解釈の多様性が、法華経が二千年にわたり流布してきた理由です。

    話が逸れてしまいましたが、上記のコロンビア大学での講演と「主師親の三徳」を結びつけて、池田先生を宣揚する論文があります。そんなまわりの声に目をつぶり強く指摘もせず、あるいは注意も戒めも与えず、先生はどんな気持ちで称賛と媚びを感じられていたのでしょうか。勢いがあったそのころの先生の心には、称賛されて当然と考えていたのかもしれない。求道者に忍び寄る魔とは、称賛からくる自己陶酔という姿もあるのです。

    ◆主師親の三徳の現代的意義  (創価大学)学生部長 山岡政紀
    『生命の平等性と永遠性を、身をもって衆生に示す行為を真に実践している者は誰か、それは日蓮以外にないと、余計な謙遜などをいっさい排して大聖人は高らかに宣言する。その現証として、法華経が予言する通りの三類の強敵の迫害に遭い、乗り越えた自身の人生を述べている。

    法華経の真理に迷った当時の諸宗は、正邪が入り混じり、雑乱を極めていた。その中で邪義を邪義として破折し、真実を訴え抜いたことにより、大聖人は法華経が示す通りの難を受けた。権力者にたびたび襲われ、居住地を追い出され、鎌倉の竜ノ口では斬首刑寸前にまで至り、そして佐渡に流罪となり、文永九年(1272年)のそのとき、極寒の冬を越しながら、不自由な環境のなかで開目抄を執筆していたのである。

    その開目抄後半に、本抄の結論・肝要とも言うべき「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」の文言に引き続いて述べられる、「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。」(全集232頁。現代語訳私は日本の柱となる。私は日本の眼目となる。私は日本の大船となると誓った願いは断じて破るまい。)である。末法の衆生を「柱」として庇護し、「眼目」として教導し、「大船」として慈愛し、育むことは、立宗のときの誓いであった。そしてその誓いを今日まで貫いてきたがゆえに、経文通りの難を受けきってきたのだとの、大確信に基づく断言である。これをもって、自身こそは末法の衆生にとって主であり、師であり、親であり、三徳具備の末法の本仏であることを高らかに宣言している。すなわち、本抄の末尾に当たる箇所に、「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」(全集237頁。現代語訳日蓮は日本国のあらゆる人にとって、主であり、師であり、父母である。)と。

    このように見ると、主師親の三徳というのは、決して神秘的なものでも超自然なものでもない。生命の尊厳の法はどこまでも深遠で尊いが、それを衆生に示していく仏の振る舞いは生身の人間的要素に裏付けられたものなのである。すなわち、衆生を庇護する主の徳を支えるのは「勇気」であり、衆生を教導する師の徳を支えるのは「智慧」であり、衆生を育む親の徳を支えるのは「慈悲」である。これはそのまま、現代において求められる指導者像そのものでもある。この「勇気」と「智慧」と「慈悲」をすべて具えた指導者こそ、我らが創立者・池田大作先生、その人である。

    先に、日蓮仏法とは「人間革命の法」であると述べた。池田先生はこの「人間革命」について、“智慧”と“慈悲”と“勇気”の「大我」を開きゆくこと、と述べている(池田(1995))。つまり、平和のため、民衆のために生きる、真のリーダーたる徳を自身に備え持つことこそが、「人間革命」なのだと主張しているのである。

    さらに、池田先生がかつてコロンビア大学ティーチヤーズ・カレッジで行った講演では、21世紀の人類が目指すべき「地球市民」の条件を3点に要約している(池田(1996))。

    一、生命の相関性、すなわち縁起の法を深く認識する「智慧の人」
    一、人種や民族や文化の“差異”を恐れたり、拒否したりするのではなく、相互に尊重し合う寛容の心を持ち、成長の糧(かて)としゆく「勇気の人」
    一、身近に限らず、遠いところで苦しんでいる人々にも同苦し、連帯しゆく「慈悲の人」

    これも、主師親の三徳の現代的展開と言えよう。第一に、他者との相互関係性を理解するには、局所的な利害を超克して、全体観に立ち得る透徹した「智慧」が求められる。これは師の徳による。第二に、民族間の文化的差異につきまとう恐怖や嫌悪感を捨てて、相互尊重の精神に立つには「勇気」が求められる。他者に対する優越感であれ、劣等感であれ、それを超克して絶対的平等の位置に立つには、強い意思と勇気が必要なのである。これは主の徳による。第三に、眼前にいる者のみならず、時空を超えて他者を思いやるには、「慈悲」が求められる。これは親の徳による』


    宗門からの破門後の17年後の論文ですが、創価内部では「教学上の基本問題」で改めるわけではなく、「池田先生の主師親の三徳具備の大導師」という認識は保持されていたものと思います。尊敬するという感情が、仏と同等の絶対的なグレイドに飛躍しても、疑問に思わない鈍感な感覚は、会員の間に共有されていたものと思います。冷静さを失ってしまう熱狂にも共通する情緒ですが、独善的なドグマをふりかざす遠因にもなりました。法華経の「生命の平等性と永遠性」よりもドグマが凌ぎ、「大聖人直結」「魂の独立」などのプロバガンダを素直に受け入れてしまう。

    「開目抄」講義でも、主師親の三徳は一般化が図られており、「凡夫」の意味の世俗化が際限なく進行しております。
    『主の徳は、「民衆を守る」責任感です。
    師の徳は、「民衆を導く」智慧です。
    親の徳は、「民衆を育む」慈悲です。
    (中略)
    わが同志は、誰が見ていようがいまいが、自分の智慧と力を尽くして人々を励まし、社会を守り支える「柱」となるのです。
    希望の道を照らし、正義の道を示す「眼目」となるのです。
    人々を温かく包容し、伸び伸びと育む「大船」となるのです』

    「わが同志」という主語は、主師親の三徳を兼ね備えた仏だと言っても無理はないでしょう。しかし、このように語らなければならない事情があったのかもしれないと、最近いろいろと再考する次第です。わたしも世事に配慮する円味が出てきたのかもしれません。

    「主師親の三徳」についての既存の仏教観は極めて権威主義的なものです。「主師親」は民衆の指導的立場の象徴であり、既存の仏教は「主師親」を備えた仏の立場から民衆を見下すというイメージを長く引きずっていました。いくら慈悲を強調しても、救済する側とされる側に断絶があったのです。この権威主義が脈々と底辺で受け継がれているのが宗門です。
    妙法の革新性は、法を説く対象である民衆への仏の働き掛けから、逆に、民衆から見る仏の姿というパラダイム転換が図られております。大聖人が御自身を「凡夫」と名乗り、「旃陀羅が子」と出自を誇ったのも、すべて仏教観の転換が図られているからです。大聖人の偉大さは、どのような行動の動機であっても、迷うことなく民衆側に立つ人間主義の思想に貫かれているのです。仏という悟った人間から世界を見るのではなく、民衆という最も弱く頼りなく力がない底辺層から見る世界観なのです。だからこそ、そこには権威主義の欠片もありません。「主師親の三徳」を具体的に兼ね備えているのは「凡夫」です。この「凡夫」は、人法一箇の「凡夫」ですが、「凡夫」にも総別があり、その行動にも事と理の区別があることに十分注意する必要があります。

    池田先生は稀有な指導者です。しかし、だからといって主師親の三徳を備えていると過大に評価し、それ自体がやがて一つの権威主義と定着する誤った試みを、どうして見逃すことができるでしょうか。ほとんど池田教へと変容した創価には必要なアイテムだったのでしょう。「人間革命」「御書講義」、古いスピーチではなく新しく修正されたスピーチ、提言や講演など、永遠の指導者を装飾するディテールは、緻密に、意図的に、創作する必要があったのでしょうか。将来に禍根を残す結果となりました。
    人間には本来、全員に仏の生命が公平に備わっており、その生命と境涯を獲得する可能性とチャンスが平等にあることを否定することは愚かです。「主師親の三徳」は仏の境涯に具体的に備わる特質であり、人格であり、信仰を通して誰もが獲得できるものと理解しておりますが、正しい御本尊と正しい信仰に由来していることは疑いがありません。
    日蓮仏法の偉大さを証明するその他の重要語句の一般化も免れません。「発迹顕本」はその本質的部分がすっかり抜け落ちて、迷える凡夫に適当に当てはめる一般化が行われております。典型的な例でしょう。

    なお、3年前のこと、同じ問題を「発迹顕本の一般化と血脈の問題点」でも扱っておりますので、ご一読ください。

    ❖❖❖

    Really Slow Motion - Miraculum 奇跡

       Choice of Anna
         Tracklist :
         00:00 Cassiopea
         03:18 Aqua Dreams
         07:41 Edge of Eternity


    mrran-01171.jpg
    【 All Entries 】
    【 New Entry 】
    【 Comments 】
    <>+-
    RSS of the latest comments
    【 Archive 】
    【 Category 】
    【 BlogMURA 】