純粋さを最上のものとする宗教は、律法主義に走りやすく、規則を定めておかないと安心できないというジレンマに陥ります。戒律を重視した提婆達多は、視点をかえれば、戒律に忠実で修行に対して純粋だったのですね。律法からの解放が宗教の深化と発展と考えれば、行動を制約する規則が多ければ多いほど、宗教本来のおおらかさからは逆行するものです。おおらかさとは多様性のありかたを熟慮し、人間性に信頼をおくことです。
会憲をほとんど読まない会員が多いなかで、まじめにチェックするわたしみたいな面倒くさいアンチがいるわけで、大人しくしていてくれればいいのですが、人一倍議論好きで主張好きときているから厄介ですね。いずれ反対意見には寛容でない創価の一面がはっきりと現れるかもしれません。先生は信教の自由と言論の自由を保証すると何度もご指導されましたが、その自由さは100%ではなく、制限があるということなのでしょうか。特に、文句がある奴は許さんという権威主義が垣間見れます。このような閉鎖性がセクトのひとつの構成要件です。
グローバル・カルチャー(世界宗教)としての創価には、反対者にも開放的な価値観の転換と、宗教が持つ自己中心的な排他的独善性を強く警戒していただきたいと考えます。
アンチのわたしが言うことではないですね。でも、メタ(普遍的)な部分の変更は慎重であっていただきたいと考えるのは、信者として当たり前ですよね。また、上から指示の命令口調では問題は解決しません。具体的発想は思い浮かびませんが、道徳的責任をともなう制度の構築をめざしていただきたい。共感する幹部の姿勢がすべてですね。そのためには会員の思いには敏感でなければなりません。
先生だけでなく創価の神格化は着々と進みつつありますが、妙法と神格化は最も不釣り合いな組み合わせです。人や組織を広めるのではありません。法を広めるのです。わたしは、信仰の正しさは、すなわち人間の行為の正しさとイコールではないということに気づきました。残念なことですが、大聖人が人の振る舞いの大切さを説いたのは、法の実践者としての強い自覚をうながすためでもあったと思うのです。人即法とは、まさにそういう意味なのだと思います。
組織のなかで自分の居場所がないと感じ、また方向性の違いから、共感を得られないと考える会員は次第に増えていくものと思います。一口でいえば形骸化という、組織がたどる道を創価も歩むのです。規則が必要と考えるのは、形骸化の一つかもしれません。先生が一番危惧していることですが、問題は置き去り同然にされています。これにはいろいろな理由が考えられるでしょうが、煩雑になるので今ここでは言いません。
そのための組織改革の提案を要約すれば、
1)組織のなかでの緊張感や危機感に対する自覚をあらゆるレベルにおいて啓発し共有すること。
2)指導的立場にある人は、会員の悩みに敏感であること。
3)権威主義的傾向に陥りやすい宗教団体にあって、絶え間ない自戒と意識の啓発、組織機構の改善が行われなければならないこと。
4)個人の経験や能力を全会員のために活用すること。そして人々の参画と相互作用を促すこと。
5)権威を守るために、教義的にも人間関係のうえでも服従の強要をしないこと。非難の抑えこみをしないこと。改善の努力を否定しないこと。そういう人を抑圧しないこと。
信仰は深い自覚なのです。わたしはこれからも、種々の抱える問題に意識的に、自分なりにその回答を求めていきたいと考えています☆彡

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