アンナの日記 ②

    2010.5.28 の「桂冠詩人」と題する記事です。
    わずか9年前の記事ですが、創価の信仰の原点が変容し、質的な歪みが生じつつあることを誤魔化すことはできません。現在は、宗教団体としての経済的安泰と政治に著しく偏っております。宗教組織の経営基盤を動揺しない安定したものにするという考え方自体に違和感があると思う。内的要素は崩れ、まるで信仰の衰えと変形のバリエーションを経験しているようですが、老化とともに迫ってきた生命力の衰微に関係があるのかもしれません。
    会員は一つのパーツ、奉仕するコンテンツのような存在なのかもしれませんが、いくら謳歌を極めても、仏教の原則に立ち返れば、不変なものはなく、生まれるものは必ず滅びる。
    信仰という内発的喜びから、創価という道徳的ともいえる秩序を律しなければならないのに、ユングの「個人の徳性における前進」が置き去りにされ、個人のうえに組織が重しのように押しかぶされている。こんなことを真面目に考える婦人部がいないことが、本当に残念でならない。だからいつまでも、男女不平等というダブルスタンダードに矛盾を感じないのですね。現実は何も変わらない師弟不二論の限界が見えてきます。


    ❖❖❖


    彼女は歓びの幻

    ワーズワース

    私の眼に初めて映ったとき
    彼女は歓びの幻であった
    瞬間を彩るために送られた
    愛らしき幻のよう
    彼女の眼は黄昏に輝く美しき星のごとく
    またその黒髪も黄昏のそれかとまごう
    されどそのほかの身につくすべては
    五月とうららかな暁よりもたらされるもの
    つけまとい、人を驚かし、待ち伏せする

    躍る姿、陽気な像
    更に近づいて見ると
    幻のようで、まことの女
    家庭の動作は軽くのびやか
    足取りは乙女のみに与えられた自由さ
    過ぎし日の楽しき想い出と
    美しき未来の希望との入り交じれる顔
    人の情の日々の糧として
    あまりに輝やかしくも、また、善すぎもせざるもの
    また、一時の悲しみ、単純なるたくらみ
    賞讃、非難、愛、接吻、涙と微笑にもふさわしきもの

    いま私は静かな眼で
    彼女のからだの鼓動をながめると
    物思わしげな呼吸して
    生より死への旅路を辿るもの
    変らぬ理性、慎み深い意欲
    忍耐、深慮、力、熟練を備え
    警告し、慰藉し、支配すべく
    気高くも神により作られし完き女
    されどなお一つの霊で
    天使の光明にも似て輝かしい


    ワーズワース(William Wordsworth)は19世紀を代表するイギリスの詩人です。自然を愛し、自然のための、自然を歌った詩人。神秘的な自然の彼方に、魂のヴィジョンを見い出し、共感することへの陶酔と歓びを表現した。人間も自然の一部として歌われ、上記の詩では、懸命に言葉を探す姿を彷彿とさせながらも、驚きと慈しみに溢れています。夫人を歌ったものと言われています。
    ワーズワースは、1843年、桂冠詩人の称号を受けました。
    このような一流の詩人に触れると、語彙の豊富さ、イメージ力、批評力、普遍的思想が顕著に表れていることに、心地よい言葉の美しさを感じます。詩とは言葉の実験場であることを改めて感じますが、いつかわたしもこのような詩を書きたいと切に思いますが、才能のない者がいくら望んでも無理なことですね。

    池田先生は1981年、サンフランシスコでの第5回世界詩人会議で桂冠詩人の称号を授与されました。多くの詩業に対して顕彰されたものと考えます。ギリシャに淵源を持つ桂冠詩人の称号は、現在は、世界詩人会議あるいは世界アカデミーがその授与の権限を継承しているようです。世間でも話題にのぼることが少なからずありますが、どのような称号を授与されようと、また流行のように一時的にもてはやされようと、詩そのものの価値には何ら影響を与えることはありません。優れた詩は、歴史という淘汰を耐え抜き、生き残っていくと考えます。それは文学に限らず、音楽、絵画、その他芸術作品にも言えることで、厳しい歴史経過という批評には誰も太刀打ちできないのです。

    創価の民衆運動は現在、多岐にわたり、活動の最先端では多くの会員が苦労と喜びを甘受しています。運動体としてこれからも継続した発展を維持していくために、正しい情報発信と、世代を縦断した永続的な取組みが必要とされます。人間主義を標榜する民衆仏法には無冠がふさわしく、もしも勲章という栄誉を望むならば、歴史淘汰の厳しい判断から得られる正当な評価こそ、仏法者が望む勲章でなければならないと考えます。名誉教授をはじめ多くの顕彰を受けられた池田先生のご真意については、我々会員も熟慮しなければなりません。人間は一つの肩書きや名誉で判断する傾向があります。池田先生が常に言われているように、名誉や地位、物質的財産に価値を認める生き方ほど虚しいものはありません。これから世界宗教として、創価思想が定着していくためには、予想できないほどの困難があるものと思われますが、創価の民衆運動に理解を示し、支援する人々の協力が必要不可欠です。先生が受けられた多くの顕彰は、そのときに力強いパスポートになるものと考えます。創価が目指すアドバンスメントの重要なファクトあるいはアイテムとして、これらの顕彰は生きてくるでしょう。

    フランスにおいて、SGIがセクト<カルト>宗教と認定されているということを、アンチ創価は勝ち誇ったように言いますが、社会的混乱、犯罪を未然に防止するための法律であることを、まず認識しなければならない。EUにおいて先進的な取り組みをしているフランスですが、キリスト教国家といってもよい社会において、多文化の容認、異文化への理解は当然慎重にならざるをえません。東洋哲学、宗教が市民レベルにおいては一般的でないこと、馴染みがないことなどを考慮すると、浸透の困難さをあらためて考えさせられます。
    世界宗教としてのキリスト教は、多くの国々に定着しているわけですが、現在のように発展するためには、数限りない問題を乗り越えてきました。それは少し考えれば分かることですが、異なる宗教、考え方、習慣が流布していく過程において、異教徒として排斥、迫害を受けたことは、世界史と言わなくても、日本歴史のなかでも明白です。フランスも過去にアジアにおいて、宣教師を守るという名目で軍隊を派遣し、強引に植民地化政策をとりました。異文化との摩擦は、占領された国から見れば、まさに危険なキリスト教であったと考えることもできます。ヨーロッパ諸国での仏教の認知は、実質今までは学術的方面より関心がなかったといってもよいと思います。日常生活に息づく宗教としての発展は、長い時間が必要になるものと考えます。



    先生が07年の『SGIの日』の記念提言のなかで述べられた、人間洞察を経ての深い示唆と問題提起に活路を見い出したい。

    フランスの気鋭の哲学者アンドレ・コント=スポンヴィル氏の『資本主義に徳はあるか』を引用し、次のように述べている。

    『スポンヴィル氏は、人間社会を四つないし五つの秩序に区別する。第1は「経済一技術-科学的秩序」で、その駆動力は「可能なものと不可能なもの」という対立軸である。第2は「法一政治的秩序」で、「合法と違法」という対立軸、第3は「道徳の秩序」で「善と悪、義務と禁止」という対立軸、第4は「愛の秩序」で、対立軸は「喜びと悲しみ」となると分析する。信仰を持つなら、その上に「聖なる秩序」が想定されようが、さしあたり自分には無縁である、と。
    もとよりそれらは「区別」であって「分離」ではなく、それぞれ互いに重なり合っており、我々は四つの秩序を同時に生きている。それらがどう関係し合い、秩序づけられるかが重要であって、そこを混同するところから社会秩序の乱れが生じてくる。
    たとえばマルクスは、明らかに第1と第3の秩序を混同し、経済を道徳化しようとした。その結果、「一九世紀における麗しのマルクス主義的ユートピアから、二〇世紀におけるだれもが知っている全体主義の恐ろしさへの移行」を招いてしまった。
    同じように、資本主義を道徳化しようとしても筋道いであって、資本の暴走を抑制するカは「外」(別の秩序)から加えられなければならない。資本主義そのものは、“対立軸"に駆り立てられ「可能」なものを求めて、どこまでも利潤を追い続けることを本領とする。貨幣価値の前では、雇用の確保や福利厚生などの生活価値は、二義的な意味しかもたない。
    のみならず、この「経済一技術一科学的秩序」に魅入られた核テクノロジストは、「可能」とあらぱ、悪魔的兵器の破壊力、殺傷力の強化に専心し、それがもたらすであろう惨状への想像力など持ち合わせていない。
    バイオ・テクノロジストは、「可能」とあらば、人間の条件を根底から突き崩すクローン人間など、生殖系列遺伝子操作にまで手を染めることに、何の逡巡も覚えないであろう。
    経済人、科学者がすべてそうだというのではない。四つの秩序を同時に生きているのだから、そんなことはありえないし、事実、経済界や科学界にも、良心的な人々は数多く存在します。しかし「可能一不可能」を対立軸にしていく限り、「人間」を置き去りにそこまでいってしまう必然性を内蔵しており、現にそれが杞憂ではない兆候が、いたるところに顔を覗かせている現実を、誰もが認めざるを得ないでしょう』

    『現代文明は、まさにこうした危機的状況に直面しているのであり、「経済一技術一科学的秩序」は、それを引き起こした張本人である「専門知識をそなえ技術を有した卑劣漢」の横行を、「内」から抑えていく力を持っていない。「外」から、主として第2の「法一政治的秩序」の側から規制していく以外にない。だが、第2の秩序も、法に触れさえしなければ……というずる賢い「合法的な卑劣漢」を制圧していく力を有せず、この場合も「外」から、主として第3の「道徳の秩序」の側から規制していくしかない。そして、この第3の秩序も、口舌のみの偽善者、独善家、つまり「道徳的な卑劣漢」の存在をどうしても許容してしまう体質がある。やはり、とはいっても道徳は「外」からの規制には本質的になじまないから、「それを補完し、いわばうえからあける役割をはたすもの」として、第4の「愛の秩序」が要請される。しかし、同じ徳目をうながすにしても「道徳の秩序」が、外発的な義務付けに傾きがちなのに対し、「愛の秩序」は、あくまで内発的な喜び、充足感であることが決定的に異なる。
    こうしたプロセスをたどってみると、たとえば、ガンジーの「宗教は政治と全く無関係であるという人は宗教の何たるかを知らない」(「抵抗するな・屈服するな JK・クリパラーニー編/古賀勝郎訳、朝日新聞社)との言も、深く首肯できます』

    『一人一人の人間の資質の向上なくして社会の変革もなければ、よりよい秩序もありえない。それは当たり前のように見えても、C・ユングが「個人の徳性における微々たる一歩の前進だけが、真に達成されうることのすべてであるのに、それを体現するかわりに、全体主義のデーモンを喚び出してしまう」(『現在と未来』松代洋一編訳、平凡社)と警告しているように、組織への依存、集団への埋没は、人類があまりにもしばしば陥ってきた落とし穴なのであります。
    そして、全体主義の系譜が示しているように、「人間」不在が高ずれば高ずるほど、人々はデーモンやサタンの「爪」の餌食になりやすい。科学技術が高度に発達した情報化社会、大衆化社会など、悪魔に魅入られた煽動家たちの暗躍する格好の場ではないでしょうか。
    「微々たる一歩」とは、決して微々たるものではない。ユングの言うように、それを欠けばいかなる変革の試みも砂上の楼閣と化すという意味で、あらゆる運動の原点であり、“画竜点晴"であります。それはまた、私どもの永遠の課題である「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」とも、深く回路を通じているのであります。
    かつて、日本哲学界の重鎮であった故・田中美知太郎氏は、“パーソナルな宗教への期待"として、パーソナルな宗教である高等宗教も、巨大化してくるにつけ、社会宗数的なものへと逆転する可能性を指摘しつつ、創価学会の運動をこう評価しておられました。
    「『人間革命』の著者池田大作氏が高等宗教としての仏教の立場でそのパーソナルな面を更に新しく前進させる試みをされていると聞いているが、その成功を祈りたい」(「聖教新聞」1977年5月1日付)と。
    パーソナル(個人的)な「一人の人間」に徹底してスポットを当て続けること―ここに、私どもの運動の原点があります。アルファ(出発点)でありオメガ(究極)であります。そこから、いささかたりとも軸足をずらさなかったからこそ、創価学会・SGIは、今日のような発展をすることができたのであります。また、今後いかなる時代がこようとも、この根本軌道から外れるようなことがあってはならない。それは「一人を手本として」(御書564ページ)と言明された宗祖日蓮大聖人の精神からも違背してしまうからであります』


    パーソナルな変革に焦点を当てた哲学は、恒久的な支持を得られるであろうし、人間のエゴを原因とする諸問題に対し、議論すべきテーマを与えてくれると信じています。先生が仏法に求める普遍的な人間主義の論及は、正しいからと言っても、それだけでは発展の原動力にはなりえない。いずれ遠くない時代に、創価思想の有効性を証明するチャンスが訪れることは間違いがないことですが、仏法が求める理想像としての実践者、菩薩と言われる弛まざる求道者にその使命はかかっていると考えます。
    ①単に会員を増やすための安易な試みや手段であれば、必ずそのしっぺ返しはあること、
    ②さらに、人間性復権の課題に真摯に取り組まないかぎり、グローバルな組織展開に支障をきたす日が来ること、
    ③「一人の人間を大切に、一人の人間の幸せを祈り、導く」という信仰者一人一人に課せられた同苦の原点を確認し、理論的な面からも実践の面からも、主体的に求め抜く人格を所有するパイオニアであることなど、
    仏法が社会に展開する日常活動のなかに、文明的課題に無関心ではいられない賢明な会員でありたいと願うのです。それぞれの分野や立場で信仰者としての在り方を、先生の指導を規範に考えなければなりません。

    わたしは今まで、どのような会合でも先生の記念提言について、幹部の解説を聞いたことがありません。そのことが大変残念でなりませんが、婦人部の純真な信仰が学会を支えていることを、先生のお言葉通りに行動していることを、いつも感じています。生活のなかでの避けられない戦いや悩みを必死に乗り越えながら、健気な信仰を貫く女性はやがて福運のなかで勝利していくでしょう。
    先はまだまだ長く、ため息が出てきそうですが、誰が見ていなくても聖なる御本尊は見ています。
    自然は美しく、人間もまた美しい。

    みたび歓迎の言葉を、春の寵児よ!
    わたしにとって、汝はまさに
    鳥ではなく、不可視の存在である
    その霊妙な声は神秘の精髄である


    ❖❖❖

    Blood Moon - End of Silence (feat. Alexa Ray)




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