哲女のメモ

    #1
    魂の奥深いところで信仰の隷属を拒否し、ヒロイズムとは無縁のところで、自らの人生を見つめ責任を持つこと。
    平凡であることは非凡であることよりも非凡なエネルギーを必要とします。
    宗教的探究とは、実生活のなかで、苦悩や悲しみに意味を持たせること。
    不条理なことや差別的制限があったとしても、また小さな世界のなかで社会の盲目的偏見にさらされても、「わたしは生きた。わたしは生きたいように生きた」という自由ほど尊い人生はありません。
    学会役職など人生にどれほど重要な意味があるのでしょうか。人生の危機を乗り越えるのは、ただ強い自分を作り上げるより方法はありません。そのための補助となるのが学会役職です。
    服従ではなく抵抗、放棄ではなく受容、熱狂ではなく冷静、怠惰ではなく勤勉、無信仰ではなく諦めない信仰など、意識しようとしまいと価値基準と人格性向が人生を決定するのではないでしょうか。どんな人生も、かけがえがない教訓と美しい記憶を残してくれる。


    #2
    大学受験のとき、不安な気持ちが増すなかで、自然とお題目を唱える時間が長くなりました。そんなあるとき、わたしはご本尊さまの前で、特殊な宗教体験をしました。以前、父に薦められて読んだパールバックの「母の肖像」に出てくる少女時代の物語、神の存在のしるしを求め、森のなかで決死の覚悟でうずくまる少女に、自分の影をみました。そして啓示を受けたのです。
    この信仰は、決して欺かない強い絶対性を有する真理であること、超越的な何ものかがわたしの人生を情熱的に導くこと、わたしが創価大学に進学することは、もう定まった運命のようなものであること、など、わたし自身の諸属性がすいこまれるように引き寄せられ、次の瞬間、知的エッセンスをのみこむような恍惚感とともに浮遊する感覚におそわれたのです。
    このような体験を正確に語ることは不可能のように思います。また、ただの夢想のようなものと言われれば、そうかもしれません。でもわたしは確かに、それが啓示と言うのであれば、真理の光がわたしを照らしたことを感じたのです。
    神経過敏になっていたことは事実です。不安は心を鈍感にもすれば針に刺されるように敏感にもします。不安をまぎらわすために、脳のなかで麻薬のような働きがあるものが分泌され、過剰に脳機能を支配していたのかもしれません。

    わたしは、わたしができる精一杯の範囲で、清く生きようと決心しました。悩みや苦しみがわたしを惑わしても、悩みを精一杯に悩もうと思いました。自分を誤魔化すことなく正直に生きようと思いました。


    #3
    言葉が蔦のようにからまり、ときどき花言葉も咲き薫る秘密の花園に足を踏み入れましたね。でも、気難しい女主人は、本当はとても優しい方と聞いておりますので、ご心配されることもないかと思います。
    美しいものよ、幸あれと、恋情をこめた寂しげな声が、風のなかから響いてきます。
    誰人も想いを遂げるのは稀なこと。
    過去の絵草子をめくるように、儚き夢とロマンの幻を胸に抱いて、いつか一人仰ぎ見た、星降る夜の静寂のなかで、涙を浮べて祈った小さきわたし。
    記憶もうすれて、もう思い出すこともないあのときの想いは、花開くように遂げられたのだろうか
    失礼しました。少し詩的に迫ってみました。

    地区の皆さまにはもっと肩の力を抜いて活動したらどう? とか言われますが、いい加減なことは黙って見過ごすことができないわたしの性分は、良くも悪くも創価のなかで培われたものです。

    悪と妥協しながら、一方で悪を攻めろと号令をかける矛盾、わたしは創価の都合のよい論理を指摘しているのです。正義を主張するなら、社会に向けたメッセージとして社会性も当然考慮してのことと考えますが、関心がないのか、会員の方々は話題にすらしません。どうでもよいことなのですね。個人に関わる信仰の範囲で、日常起る雑多な問題の解決、勢力拡大のためのアドバタイジングとしての体験、つまり功徳の実現がなにより優先されるからだと思います。功徳にとらわれる姿は中道とは言いません。功徳は発心のきっかけにしか過ぎないのです。文証理証現証という証明課題も信を深めるためです。

    会員の皆さまはこのような話題には冷淡で醒めています。賢明なのかどうか、わたしにはわかりません。悪も正義も飽食気味なのではないでしょうか。

    敵愾心の助長はスピリチュアルな優位性を知らず知らずのうちに育てます。心理的に微妙な問題ですが、組織中心者は十分承知のうえで悪を名指しし、防衛に努めます。攻めはつまり防御のことですが、悪と対決することは、内部団結におおいに貢献します。そのうえに思想的裏づけがあれば、誰も近づく者はいません。信仰の堅固さは悪を認識することから生れるのです。
    しかし、悪の最初の姿を、わたしたちは自分の心のなかに見なければならないと思います。欺瞞に満ちた自己の懐疑なくして、自己実現はありません。他者の悪は自己の悪と同質です。同じ人間であるかぎり、他者が所有するものは自己もまた所有している。
    大聖人は「開目抄」で、自分は一体何者なのか、詳細に自己への疑問を投げかけています。そして疑えない末法の仏の命を自己のなかに発見しました。それは諸天の加護(依存)も断ち切った主体的自己を確立することでした。自己と他者の差別も、善悪の差別も超えた仏性の存在を確定したのです(『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』との御文は、強靭な自我の宣言です。当時、大聖人は佐渡にあり、そのご生涯のなかで最も過酷な時期にありましたが、その置かれた環境が重要です。人間はどんな苦しみも乗り越えられるという、力強い勝利宣言は最も危険な国土で行なわれたのです。言い方を変えれば、乗り越えられない苦しみなどないという、わたしたちに命の底から勇気を起こさせる励ましなのです。なんて素晴らしい言葉でしょうか)
    菩薩は、他者との関係を最も重視します。他者とは他者共存のなかに希望を見出す人々であり、ひいてはその関係性を脅かす社会の矛盾に立ち向かう人々です。
    このような人々は、信仰を持たなくても傑出した人物として多く存在し、歴史にも登場しました。行動哲学に、社会への期待と建設的志向があると思われますが、保守であれ革新であれ、安定をめざすことには変わりありません。無用な人間はいないのに関係を破壊しようとした、原罪を背負ったラスコーリニコフ(ドストエフスキー・「罪と罰」)という悪の象徴は、安定的関係を望まない人物としても理解されるのではないでしょうか。人間関係は他者のかけがえない価値である生命への尊重精神がなければ成立しないということです。同時に、自分への尊重も相手に要請し、その関係性のなかに委ねようとする意思の表れとも言えます。

    わたしたちは菩薩なのでしょうか?
    不完全な菩薩であったとしても、わたしは十分な喜びを感じますが、矛盾を矛盾と捉えない菩薩を、わたしは菩薩と呼びたくありません。


    #4
    法華経は聖と俗に差別を見出さない。優劣を競わない。『真は即ち是れ俗なり。俗は即ち是れ真なり』:法華玄義。自由である個人。自由に裏づけられた世法即妙法。個人の私的な信仰が公共性を有し、個人の利益が公共の利益に連動する。信仰は社会的目的を同時に包含し、実現に向けて献身的行為をうながす。近代的理性の行きづまりは、活用の妙法によって革命的なパラダイム転換を迫られる。否定と肯定の両面から、あらゆる思想を再検討し、中道の立場から調和的に生かす。近代文明の行動原理である理性は、根源の生命の全体性を明らかにすることにチャレンジし敗れた。人間主義は近代も現代も包括する。智慧と慈悲の哲学こそ、人間の際限ない欲望を駆逐するものである。賢明な生活者は聖なる功利性を求める。諸法実相は現世利益と言い換えても間違いだろうか。J・ベンサム『もしも彼らが神が文字どおりの意味で慈悲心に富んでいるというのであれば、彼らは宗教の命令が功利性の命令以上でも以下でもないこと、両者のあいだには一点の相違もなく、一点の過不足もないことを認めることであろう』生活革命こそ、妙法の利益。
    自由自在の主体性に支えられた菩薩の化身は、人格に多様な側面をもたらす。菩薩はあらゆる姿で現世で使命を成就する。先生は、内発性、ソフトパワー、漸進主義を繰り返し訴えている。自己の価値観を早急に他者に押しつける危険を指摘し続けてきた。自由な内発性は自己変革の原点。漸進主義は哲学思想の市民性を得るための基準。
    排他主義、包括主義、多元主義、自在主義。スッタニパータのなかで『一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない』と語ったと伝えている。自由自在なブッダは、あらゆる学説や見解から自由。英知を結集して批判すべきものは、仏教の真理ではなく、そこから導かれたと錯覚し誤っている言動を対象にすべきなのです。理性的に懐疑を持つこと。矛盾がないか検討すること。創価思想の論理的整合性を批判する前に、その体系に十分精通する必要があると考えるのは当たり前の見解。
    政治と宗教・・・当分パスしようっと。「大衆とともに」…もうすっかり大衆は離れている。永らく与党の甘い汁をすすったせいか、鈍感さを増したようです。


    #5
    ある人は、荒野を目の前にすると、とても自分では踏破できないと尻込みする。しかし、ある人は、未知への挑戦にファイトを燃やす。チャンスは誰人にも平等に与えられているものと考えますが、道端の石ころのように、いくつもころがっているわけではないと思います。

    人間には、無限の可能性があるということを信じていきたい。同じことをやるにしても、考え方一つで結果も変ってくる。始めは努力のわりには得るものが少ないかもしれませんが、継続してやりきっていけば、あとで十分過ぎるほどに望むものが与えられる。結局、助けてくれる人はなく、自分のことは自分で責任を取らなければならない。
    会社のなかの一社員であっても、会社発展がすなわち自分のお給料や自分の人生に直接響いてくるわけですので、人任せにはできません。世間はそんなに甘くはないし、頑張ったけれどダメでしたと言っても、誰も同情してくれません。もっと頑張ればよかったのにと言われるだけです。信仰も同じではないでしょうか。どこまで頑張れるかは全く個人の意思に左右されるものだと思います。
    諦めはすべてを無に帰す悪です。ガッツな意気込みが苦難の門を開く。自分で考え行動して、最良の自分の方法を見つけだしていく。要するに、依存するなということ。主体的に行動する自分自身ほど頼もしいものはありません。自我の再生こそ信仰の醍醐味です。

    ......と、立派なことを書きながら、わたしったら、泣きたい気分でいっぱいです。がけっぷちに立ってる気分。今まで何度も経験してきたのに、最近、失望し、どうしてなのだろうか、立ち直れない自分がいます。記事エントリーへの気持ちも高揚しません。組織に失望するのは、わたしの信心が弱いからなのでしょうか。理解してくれなければ理解してくれなくてもよいと割り切り、強い自分であろうといつも自分に言い聞かせてきたのに。

    これからは活動家の定義を変えていかなければなりません。
    活動家というのは、組織の定義です。それは組織拡大とともに理想とされてきた人物像ですが、現在の活動家と言われる人たちがどれほど無自覚、不勉強な人々か、わたしははっきり申し上げます。そんな活動家にならない方が賢明です。上辺だけの評価など、評価する人間の軽率さを表しているだけです。


    #6
    「四箇の格言」という言葉がでてきましたので、思い当たったことを書きます。
    17年前の「御書の世界」で、先生は、円満なる人間生命の力の開花という人間主義の立場から、「四箇の格言」を四つの類型としてとらえ直し、新たな意義を見出しています。詳しくは本を読んで確認してください。この「御書の世界」発表当時、宗門から批判が続出しました。

    人間主義が多くの誤解を与えるのは、先生が仏教全般、法華経や妙法に新しい視点と解釈を与え、また現代語で新しく定義を語るからだと思います。
    法華経や御書が現代語訳にとどまらず、他言語に翻訳され世界に受け入れられているのに、その思想について現代的意義を付与することには抵抗するという矛盾。普遍性を有するということは、現代性を有するということです。法華経のなかで、提婆達多は未来記別を与えられましたが、その未来とは現在のことです。古くさい伝統は、法華経の物語性にとらわれて、そのような解釈を許さない。

    人生を生誕から死までのひとつのストーリーに見立てるとき、学ぶことに目覚め、学ぶことから転換をはかろうとする生き方は、大きな意味があると思います。自己欺瞞や現実逃避の誘惑が多いなかで、学ぶことは自らの生き方を知的転換するもの。「パンを願い求めるならば石を与えられることはない」(マタイ伝)とキリスト教でも説いています。
    しかし、本人からすれば建設的姿勢、前向きな試行錯誤であっても、回りから見れば、ネガティブな転向と誤解される場合が往々にあり、今まで温和な人間関係を築いてきたにもかかわらず、否定的に破壊的に意思疎通がはかれないという事態に陥ります。なぜでしょう? 以前の村社会の道徳が復活し支配するのです。異端というレッテルをはり、排除する村落共同体の仲間意識は、自由な行動基準より既存の様式・儀式を尊ぶものです。
    絶対平等性を重んじる仏教では、仏の前では誰人も一様に尊貴な存在でありながら、この崇高な理論を実行する段階で平等性を失います。いうなれば、仏の教説を実行する組織は、間違いなくタテ社会であるからです。
    拙い頭を絞って、組織改革を唱えても、タテ社会の上に位置する人間は決して受け入れようとしません。彼らの関心は組織を平穏に保つことであり、それが組織に所属する大部分の会員の意見だと信じているからです。村の掟は創価のなかでもしぶとく生きているのです。変化しながら保守であれ、改革しながら妙法の正義を守れと、先生はずっとご指導されてきたのではないでしょうか。批判しながらありのままに享受し、妙法が説く教義と倫理基準に照らし合わせる行為が必要なのではないでしょうか。盲目と無批判の帰属主義からの脱却こそ、真に人間解放につながるものだと思います。師や組織への帰属という他力信仰こそ戒めなければならない。根本尊敬の宝塔は自分の命のなかにあるのですから。

    わたしが言うところの保守とは、政治的立場の保守ではなく、思想的保守のことです。人間が守り育むべき普遍的価値への回帰運動を保守と名づけるのです。その意味でピューリタニズムも、信仰における自由と秩序、神と人間の関係のなかで復活した保守的回帰と言えます。創価の人間主義も同様です。堅固な哲学体系を裏づけとして、人間主義は秩序ある自由を保証しているのであり、観念ではない経験から得られた自由を保証するということです。功徳体験に生命活動の自在さを、会員は喜びとともに知っています。宗教体験はベルグソンの生命的躍動という本質的なものと直結しています…<人生は価値的なものへの願望と挑戦であるというようなことは、年若いわたしが生意気に言うことではないかもしれません。多くの人々が人生改革に挑み、勝利しまた敗退してきたのですから。わたしの人生は退屈なほど保守です。表面的には悲しいぐらい変化が分かりません。でも十分満足しています>…つまり改革とは保守に回帰するための改革なのです。ファナティックな勢いを嫌う理性的な漸進主義は、急進主義よりも当然のことながら忍耐を必要とし、明確な歴史判断という知性が必要です。でも「反省のない伝統と習慣」に沿った浅はかな判断は嫌われるべきです。物事は単純ではなく、複雑極まりないと認識することが仏法者の姿勢でしょう。

    村社会では、個人の意見や意向が埋没し、個人においても強く主張することを控えて、和を維持しようと努めます。創価村社会のシステムをつなぐものは、日本的な和の精神です。師は村の長で弟子は村民。師は父で弟子は子ども。タテ社会の家父長制度が反映しています。父は家を守るために粉骨砕身しているのに、子どもはいつまでも自立できずに甘えている。わたしを越えろと、先生はご指導されていましたね。大事なことは都合よく忘れる自称弟子たち。越えられるはずがないと考えるのは、ご本尊さまの力を信じていないからでしょうか。先生は特別の才能を持ち、特別の修行をされた存在と考えているからでしょうか。

    また過去にキリスト教では信仰の純潔さを守るために、修道院で共同労働が行われていたことを思い起こすべきです。創価の閉鎖性が批判されるのは、創価内部の空間が特別のものと、知らず知らずに会員が意識しているからだと思います。創価でも、世間から隔絶している共同労働が行われていると見ることも可能です。聖教の多部数購読、選挙支援などがその例です。宗教ルネサンスとは、社会に積極的に受け入れられる開放性、平易性の実現という一般人からの共感を得るものでなければなりません。会員が堅固に抱いている先生に対する師弟不二という絶対思想は最初に拒絶されるでしょう。
    したがって、師は神格化されることを望んではいません。弟子が師の言葉を神聖視することも避けなければならない。運動が成熟し、一方で改革を志向するエネルギーが先鋭化した折衷主義とも言える人間主義は、自らが自らの生命の尊貴さを証明しながら、他者のために良く考え行動する方法論を教えているものと思います。
    共同体が大切なのではなく、共同体からはみ出ても、自分の意見を貫くことが大切なのです。共同体が成仏の成就を保証してくれるわけではありません。どんな素晴らしい団体に所属していても、自分の心に財を積むものでなければ、どんな意味があるというのでしょう。人間主義は自立主義なのです。そして今こそ、創価は大きく変わるときを迎えていると確信します。

    改革を信条として自分に正直であろうとする者は、抑圧されたと勘違いし、やがて反逆に至る。一般的見解に従えば、抑圧は、権力者の専権事項のあらわれですからね。しかし、上に立つ人間もまた責任上、個人的欲求を押し殺していることに思いを寄せると(改革案を検討したいけれど、組織のために聞いてはならないという押し殺した欲求)、「包括は脱個性化を導く」という社会学的命題も含まれていることに気づきます。<宗教>ブルジョワも構造的に疎外されているというマルクスの資本論のようです。組織の公式見解を没個性的になぞっている人間は、ステロタイプ的にしか集団イメージを想像できないでしょう。創価では勧善懲悪の物語が多く語られます。虐げられている者が正義とする救済の論理は、すでにロシアで滅びました。しかし、目的を共有し、ともに進もうとする宗教組織って社会主義的運動形態なのでないでしょうか。また絶対精神を認めた最良の個人主義的アナキズム集団かもしれません。平等と自由、集団と個人という問題は永遠の課題です。

    今まで反逆の汚名を冠せられ批判される人間は数多くいましたが、そのほとんどは、個人的な利害のなかで純粋な信仰を失った者たちです。どんなに自己正当化をはかろうと、命に刻まれた宿業は取り消すことができない。このような愚者はもっともらしい賢者の顔をした似非賢者ですが、特徴的なのは、創価学会は宗教ではないと考えていることです。宗教は必要と賢そうに主張しながら、一方で創価は必要ないとダブルスタンダードの態度で正義を主張する。「自分たちは受け入れることはないが、他の無知な人々は無批判に受け入れている」という主張は、「自分たちは受け入れるが、他の無知な人々は無批判に受け入れない」と言い換えることもできます。つまりウェーバーが言う「内なる美徳と外なる悪徳」です。また善があれば悪があり、善が強くなれば悪も強くなる。鏡に映したように内と外では美徳も悪徳も逆転します。内も外も差別なく認める寛容こそ、仏教が説く偉大な精神です。
    もともと一闡提の醜い根性の持主ですから、信じないことに価値を見いだすことと、世俗的な毀誉褒貶に敏感なんですね。そして外面を飾ることに執着して、およそ純情な仏教徒とは縁遠い、肉を求め彷徨う飢えたオオカミなのです。不満のエネルギーで身を焦がすオオカミなのです。自分に飢えているのに、他者のせいにしている。自分の不幸を他者のせいにしている。己心の外に法ありと考える無責任論者です。ニーチェが嫌った、欺瞞に満ちた弱者という善人と同類。ニーチェが狂気に陥るほど批判したのは、フランス革命から始まった民主主義という鎧に護られた愚かなる大衆です。時代を翻弄し無意味にする神のような大衆です。
    「教養俗物」の「喧騒と毒ある蠅どものうなりがはじまる」と揶揄される者たち。寛容を求めるしぐさは小児が母に甘える様子に似ている。多様性を主張する姿は凡庸な権利の奴隷でしかない。正義だって...そんなもの薄紙のようにはがれる道徳と同じ。やがて悪夢に悩まされ、一人孤独に不信の沼地にはまり沈んでいく。悲哀の亡霊にとりつかれた可哀相な自称自由人たちよ、不幸は自分が自分の崇高なるものを引きずり下ろす行為から必然的に運ばれてくるのだ(...と、ニーチェリアン風に呪いをかけてみる。「自己愛を超え出た愛の過剰」かな?)((+_+))
    100年前も現在も変わらないのですね。精神レベルを変えたいと考えるなら、自己救済というダイナミックな苦難に立ち向かう決意が必要なのです。

    でも、わたしが問題にしたいのは、話題にすらされないごく少数の大まじめな人たちです。大まじめに改革を提言し努力を続けながら、失望し、それでも組織にとどまり、悩んでいる方です。今までそういう方も確かにいたのです。


    #7
    いくら正しいことでもスローガンになると硬直化します。
    聖教には毎日、スローガンが溢れています。部や地区においても、一年のスタートやイベントの始めにスローガンを掲げます。スローガンを考えている間は、未来展望がいきいきとイメージされますが、わたしの体験から言うと、一旦決ってしまうとほとんど意識されることはなくなります。つまり忘れ去られるのです。
    あってもなくても、重大な影響を及ぼさないスローガンのような範囲内であれば問題ないのですが、わたしたちの行為を規制するような心的スローガンは、深刻な影響を与えると思います。
    聖教でもよく見られる価値基準ですが、二者択一的思考です。簡単に言えば、善か悪か、創価の味方かどうか、活動家か否か、といった定型的な判断基準です。もちろん前者を肯定すれば後者を否定することになります。
    強信で活動家というのが、組織の理想ですが、信仰はないけれどなぜか活動家という人もいます。活動家ではないけれど強信の人もいます。言ってみれば、グレーな中間レベルにあって、強い行動動機を持たない層に、二者択一を迫る活動を、わたしたちはいつも行っているように感じられるのです。折伏も同じです。幸福か不幸かの選択を迫るわけです。創価に入会してから、二者択一の階段を昇るのが、学会が教える信仰ではないでしょうか。
    わたしのような緊急の悩みを持たない三世会員は、信仰継続の強い根拠を哲学に求めます。求道者なら当然のことです。大聖人が説くように、祈りは智慧を包括し、智慧の多くは、学びを通した言語の成熟と行動に現れます。文証と理証が学びなら、現証は行動とも言えます。行動は現証を補完し、現証は学びを促進します。

    信仰理由にもそれぞれ個別の違いがあり、一口に幸せを求めているといっても、個別の幸福観があると思います。成仏と説明されても実生活においては、その神聖さは実感できません。功徳があったかどうかというような主観的な判断、人格的な充実を確信できても、それは成仏とは言いません。信仰以外でもそういうことはあるからです。
    個々の幸福観に妙法的裏づけを与えるのが、池田先生が強調される個別指導です。本来、信仰とは個人的な行為である以上、個々の悩みや信仰の理解に応じて、種々に説くのがリーダーのあり方なのだと思います。しかしこれは大変難しいことに相違ありません。指導などと言わず、自らが自らの生き方に気づくことができるようなカウンセリングと言えばよいのではないかと考えています。結論を出すのは悩む本人であり、その結論を出すまでの過程を見守り共感を寄せるのが、本当の信仰指導の意義と思います。不足しているのは祈りではなく、仏法で言えば無明という無知の本体を認識することではないでしょうか。

    信仰カウンセリングは深い智慧がなければできません。どこを歩いているのか分からないわたしたち凡夫にとって、哲学は智慧そのものです。そして幸せへの道を照らす灯です。火はよく智慧に譬えられますね。火は自分を照らすだけでなく、まわりも照らし鮮明にします。
    漢訳仏典では、サンスクリット語で「智慧」と訳される言葉に、否定の接頭辞をつけて「無明」と訳されます。
    総勘文抄に
    「総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し」とあります。
    信仰も哲学することも、自分を知ることに他なりません。

    これからは女性が主役です。先生がいつもご指導されています。主体と客体、上下関係、善と悪などを厳格に区別する男性的思考の限界を知り、先生は、包みこみ受け入れる女性の特質を十分に熟知されていると思います。
    深いプロブレムとアンサーを求め、切磋琢磨していけたら、うれしく思います。


    #8
    『運命が人を早くから最上席に予定しているかどうかは、まずわれわれ自身の意志と全くかかわりがない。また、幸いにも、これはさほど大切な問題ではない。そういう人は偉大な例外であり、人類の道徳的天才である。しかし、第二流の席には、われわれは誰もみな招待されており、また、ひとたびその道が示されたならば、われわれはおのずからその道を行くべく強く激励される。ひとがこの人生において出会う最大の悲惨事は、道が示されたにもかかわらず、いつまでも第三流の席にとどまって、彼らの存在が結局、自分にとっても他人にとっても真実の価値を持たずに終る場合である』(幸福論:ヒルティ)

    ネットでのディスカッションやトークには、よほどのことでない限り動揺しないと思います。アンチの方々には始めから理解していただこうとは考えていないので、あなた方はあなた方で十分煩悩を楽しんでくださいと言いたいですね。ネットで改心など無理なことです。

    池田先生は、トインビー対談で次のように言われています。
    『そうした女性本来の、生命の尊厳を守り、育み、大事にしていくという特質は、それ自体、人類にとり、人間社会にとってきわめて普遍的な重要性をもっているといえます。女性が狭い個人的愛から、そうした、世界へ開かれた普遍的な愛に根ざして進んでいけば、私は、それが、地道ながらもきわめて大きな、反戦平和への潮流になっていくに違いないと思います。そして、女性がこの本来的な自らの使命に生きるところに、真実の女性解放があると信ずるのです』

    ジェンダーギャップを認めつつ、女性権利拡大や民主運動の先駆を、わたしは創価に期待しています。現在の創価は残念ながら、男性原理で動いていると思います。言わば二重基準があって、理想と現実に溝があるように思えるのですが、組織内にいる男性も女性も溝があることすら気づいていない。婦人部が創価の主力であるにもかかわらず、昔からの性の役割といった倫理観があると思います。控え目に清楚に家庭を守るといった価値基準は、疑いなく社会に受容されている美徳のように理解されています。創価も例外ではないでしょう。
    組織のあり方って、理念を具体的に、形式、手段として目に見える形で作り上げることなのではないでしょうか。少なくとも制度、機構面での改革が必要であり、真の平和団体として認知されるための最低の改革と考えています。このことについては、多々意見があり、記事にしたいと目論んでいます。

    組織のなかで一人浮いているのが、わたしの最大の悩みです。わたしは決して固定的観念、拒絶的姿勢で、自分の意見に固執しているわけではないのですが、なぜかわたしが意見を言うと議論になってしまい、最後にはいちいちそんな難しいことを考えなくてもいいんじゃないの、とか言われてしまいます。まるで学活にブレーキをかけているように言われるのは心外というほかありません。
    妙法は、知識としても経験的にも難信難解であると分かっていながら、安易に平易さを求めようとする。また妙法は、人間の自由を最大に保障するものであり、そこから派生した行動論や組織論、具体的な生活設計や政治哲学も自由で積極的なものであるはずです。わたしたちは、忙しい日々の生活に追われながらも同時に強い意志を持つ求道者です。いつも根本に回帰し、懐疑的にあるいは肯定的に自己評価しなければならないのではないでしょうか。
    なぜ問題意識が低いんだろう、納得できないことを納得しているように行動して、なぜ疑問を感じないのだろうか、とわたしにすれば不思議でならないのです。どうすればいいのだろうか? どう説明したら分かっていただけるのだろうか?
    わたしも「愚痴の竜女」ですね。


    #9
    『この動揺する時代に
    自分までぐらつくのは
    ただわざわいを増すばかり。
    おのれの志を守ってゆずらぬ者だけが
    世の中をつくりあげて行くのだ』

    ☆ゲーテ・ヘルマンとドロテア

    青年の力はまだ微弱ですが、時は待ってくれません。
    「どんなことがことがあろうと、なすべきことをなせ」
    このような不屈の鉄則が、勝利への聖典と思います。


    #10
    最近は「亊と理」も曖昧なようです。理への偏重は、信仰者の生活のなかでの体験の不足として表れます。功徳も活動体験で誤魔化され組織に奉仕するものへと変わっていく。奇跡のように強烈でドラマチックな逆転劇のようだった過去の信仰体験はもうありません。
    人間は偉くなると自分自身がご本仏になるべきだと考え始めるようです。「主師親の三徳」を具備し、解決できないものは何もないという人格の肥大も起きていく。創価学会仏しかり、永遠の指導者として雛壇に飾られるべきと考えても、思想は必ず古びていく。人間の深い迷いは、釈尊が説いたように、果てしがありません。

    宗門は、さらに七百年後も、みすぼらしい富士宮のローカル宗教団体としてあり、大聖人の期待を十分に裏切り続けるでしょう。正しいから簡単には弘まらないなどと言い訳の伝統は正しく保持し、セレモニー化した教義が腐敗臭を発していても、きれいに隠すラッピング技術だけは進化し、これからいつの時代でも冠婚葬祭は僧侶の飯の種という浅ましさです。
    聖職なのだから供養を受けて当然と考える習慣を捨て去り、まず僧侶自身が自立し自活し、畑を耕し、田に稲を植え、山に木を植栽し、育てた材木でお堂を建てるぐらいの修行者としての展望を持つなら、信者から尊敬を受けるかもしれない。大聖人が身延にあったとき、自ら食糧等の調達にあたったこともあるのではないだろうかと、わたしは推測するのですが、貧しさは求道者の特権ともいうべきエクセレントな出来事です。


    #11
    『知性によって秩序づけられていない衝動や願望は、偶発的な環境の統制下にある。即時的な気まぐれやむら気によって命令された行動を見つけるためにのみ他者の統制から逃れても、得るものよりも失われたものの方がはるかに大きいのである。つまり、衝動のまにまに左右されて、その行動に知的判断が入ってこないのである。このようなやり方で行動を統制されている人は、せいぜいのところ、ただ自由の幻想をもっているにすぎなく、実際のところ、そのような人は、自分ではどうすることもできない勢力に支配され導かれていることになるのである』ジョン・デューイ(「経験と教育」講談社学術文庫)

    さしでがましいことですが、教訓としてお伝えしたいことは、学ぶこととは、質問をすることではなく、自分で苦労し調べ、書を漁り、自分が納得する見解や意見を持つことに他なりません。安易に他に解決策を求めようとする姿勢は、求道者の姿勢として最低のものと考えます。また悪口は自分を汚すだけです。
    今までの人生で積み上げてきた善行を無に帰すことがありませんように、慎重に選択し、低級な姿勢に安直に流されることがありませんようにアドバイス申し上げます。


    Phil Rey Gibbons - Heavenly (feat. Felicia Farerre)



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